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解決済みの質問

アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。

 ( a ) 《第二の死》とは 《第一の死が死ななくなった状態》を言うとします。

 ( b ) 第一の死を死なせて復活するのをみづからこばみ 第二の死の状態にみづからすすんで突っ込むうごき これを《アッキ(悪鬼)》と呼びます。

 ( c ) アクマ(悪魔)とは アッキたちを従えて 人びとを第二の死の状態へ是が非でもいざなうその作用を言います。

 ☆ この質問は
 【Q:《第二の死》とは?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6530755.html
 を承けています。また次の質問ともつながります。
 【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6499521.html

 趣旨説明を再び掲げて 表題つまり上の( c )の命題について問い求めるという魂胆です。

 ○ 〔( a ・ b ・ c )についての説明〕 ~~~~
 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。 

 わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。
 これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

 このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的にして限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われに還るとき 死なしめられる。

 つまり この《第一の死》は 死ぬことが出来る。
 《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。

 あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? 
 それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が経験存在であるそのままに実際に区切られて来るからである。うつろいゆくわが身ながらも物ごころのつく前には広大な宇宙が広がっていたのが あやまちの瞬間にふと《とき》を見出しこの時間によってわが存在の歴史が区切られるということは 死によってその世界が限られることだからである。
 あやまちは 心を失くしわれ無しとなる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。

 われわれは 人生において 第一の死に時には突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。
 ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?

 かんたんである。われに還ることがなくなるときである。
 あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。
 われ有りの状態に復帰することがなくなるときである。
 心にさからうわれ無しの状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。
 そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
 
 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。

 
 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。のではないか?
 ほんとうにそうか?
 それだけで 第二の死が起こるものか?
 果たして 第二の死は あるのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さてここでの問いは
 ( b ):この第二の死を三度の飯よりも好きだというアッキなる心の負の作用 そして
 ( c ):この《第二の死》の舞踏を人びとをしてみづからの演出のもとに踊らしめるアクマという心(?)の負の作用――これらは あるか? あるとすれば いかにあるか? 

 であり しかも

 ( d ) アッキにしろアクマにしろ この《うごき》や《はたらき》を人間がみづからそっくりその身と心に修め得て ドクター・アクマとしてのごとく町を歩いているか? そう言えるか? それは果たして現実か?

 です。次は たたき台としての考えです:

 ( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。

 ( d-2 ) アクマは どうか? 

 ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか?

 こういう問いです。

 先に掲げた質問【Q:麦と毒麦・・・】でのやり取りとも 照らし合わせてくださるとありがたいです。

 ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか?

 みなさんの思惟の自由なつばさを広げてご見解を述べてください。

投稿日時 - 2011-02-18 11:27:17

QNo.6531809

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

仁科です

過日はジジイ扱いしてすみませんでした。

ジジイはくりやさんでエロジジイはチョトツ先生だと思います

思想家ひびのあきひこ氏が孕む公憤とブラジュロンヌさんが抱く幾つかの私憤がないまぜのごった煮状態で、冬の滝の底からマグマが噴き上がればもう春なんだろうと思います

あまがっぱおばさんに愛想を尽かされてからよたよたになった状態で夕飯。夕刊。洗濯物を干す。と律儀なブラジュロンヌさんのしぶとさに私は泣きました

介護中のおじさんなら情緒も疲れていると思います

私は日頃から心が麻痺し情緒が死に、自殺しても死んでもどうでもいいような気分に最近なり、数年から十年くらいそんな感じで
アマテラスもスサノオもどうでもいいのですが

おじさんには思想や仕事があり、私を含む投稿者たちになくブラジュロンヌさんにあるのは思想のオリジナリティで
ほんとに独創なのか分かりませんが
独創なら自負とこだわりがあるのは仕方なく、人がたまにその独創性を無自覚に嫉妬するかも知れず

このごろのブラジュロンヌさんの孤独は環状の瀑布のど真ん中に一人でぽつんと立っている孤独なんだろうと思い
見まわしても人々はぶ厚い水の壁の向こうに遠く
人と幻想を共有できなければ、現実観の相違で合意し、絶交となり、地味な棲み分けは仕方のない寂しい自然なことで静かで

否みくる他人なんかは心が麻痺するきっかけで

自然な生や死や自分の顔を忘れて臆病な第二の死を往くイメージは
モモっていう小説にえがかれてた灰色の銀行家たちにも似て

私は詩人の真似をしてまるで心から内発するものがあるふりをして
中には何ひとつ無くただ外から欲しいばかり
特に自分のすっからかんな言葉への反応

おじさんの文は学術オタク語みたく
すねたように難解になり翻訳が要り
対話を拒むかあるいはより対話を必要とする魂胆かもてなし下手なのに
りとます紙みたいに言葉で人を判別し

アマテラス的いばりんぼはブラジュロンヌさんの中にもいますでしょ

アマとスサに分ける見方は二分するところだけ私の対人不安に似
人をいちいち敵か味方かに分け、好かれるか否まれるかに恐々とする私

辛辣で気取り屋で責任感の強いおばさんをおじさんはついA/S思想の自動思考でとらえ、おばさんをアマテラス代表とみなし仲違いし婆悪魔よばわりしているのだと思いますが

おばさんの中にもスサノオ的な在野精神やドロップアウト組に情けをかける慈しみがあるかも知れないのに愛想は尽き

おじさんとおばさんの和解があるか知りませんが
おじさんもおばさんも若いことは早なく
どこか寂しい春
社会とおじさんの和解があるかわかりません


社会こわいです
社会不安や対人不安が症状として私にはずっとあり今後の自立の見通しもなく

定年退職した父が私を否み私はその否みに麻痺するほど悲しくやましく腹立たしいものの
たぶんそれらは仕方がないことだと思うことにし
否まれ続けると心が疲れこれ以上疲れないよう麻痺し仮死し
もし律儀に悲しんだら胸がへこみつぶれ割れ
否みと疲れの家には癒やしがなく日々すこしずつ疲れがつのり瓦解は待たれ

広いらしいせかいに生きているらしいのに生命観は枯れ世界観や人生観はやつれ、しなび、ちぢみゆき
私は信仰もなければ救いもなく
日記をつけて落ち着いたり、ケータイで動画を見て射精したり、毎食毎食やけ食いしたり、せっせと相談サイトで久しぶりに道化ぶったり
職業訓練に通いながら昼休みにはビルのてっぺんでひとりケータイひらいて相談サイト眺めながら母の手作り弁当を食べています

ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに
けんかに少し水をさして申し訳なく

おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました


ひとや虫や私は女より何より単なる春にうかうか気分をやわらがしめられえそうで
春にはわらわらとエロジジイたちが相談サイトにも群れ
女から怒りを買い寂しそうなブラジュロンヌさんから私は悪魔よばわりもされず。
おじさんの心を占められなくて。
ぐろてすくなものがこの眼窩から湧き出てはむなしく渇き。
私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。
それなのにおじさんは。あんなおばさんのことばかり見つめて。寂しいですね。

投稿日時 - 2011-02-19 05:25:39

お礼

 たとえばひとのを借りて来て

  (b^-゜)(*^-^)b♪(*^ ・^)ノ⌒☆

  ヾ( ´ー`)(*^_^*)三 (/ ^^)/

  :*:・( ̄∀ ̄)・:*: (|||_|||)

  ┐(´ー`)┌ (//▽//)… … …φ(.. )

 こう書けば ちょっとは情緒があって ニンゲンがかわいいと思われるだろうか?

 にしなさん ご回答をありがとうございます。
 そう言えば あの回答も取っておくとよかったかも知れなくて
 ただし あれは 情緒にうったえる部分がつよすぎるおもむきが濃いのであって。
 つなぎは つなぎであるようなのだけれど。


 そうですな。
 でも やわらがしめるちからになったところもあったかも知れず。
 ただしそれが よかったか むしろわるかったか これも分からないのであって。

 そうですな。
 じつは わたしの直感では――という意味は 勘違いや おそれ多い間違いをもおかしているかも知れないということですが―― みづからを死なしめる振る舞いに到るということを それがあっても かまわんという腹を決めたかたちで想定したのでした。
 主語をはぶきましたが あなたは知っているかどうか ほかにダイスの名の人間がいたでしょう? この人間に到っては 読み違いでした。自死を考えるとは思わなかった。あるいは考えた末に――第二の死を避けて―― 戻って来ると思っていました。そうではなく 自死は思いとどまったかも知れないけれど むしろ第二の死のほうへより近くすすんだという感じを受け取っています。
 このゾンビ倶楽部では エロぢぢいは もう幽霊のごとくであって かえってゾンビ界と現実界とを自由自在に行き来することができると思って よろこんでいるだろうし むしろそれを誇っているかも知れないと推し測ります。


 ですから あなたとわたしとの差は あなたがまだのぞみを持っているというところにあります。
 人間とその自然本性について のぞみを持つことは わたしとてつねに外しませんが その大前提の上で 特定の人間についてその人たちが この常なるのぞみを砕く結果になるということをすでに想定したというのが わたしです。
 
 ★ おんなを怒らせるとうまくいかないんだと思いました
 ☆ 百年の不作と 昔の人は言いました。一生ものだと思います。
 でもそのアッキの動きとしては かえって神からの試練になりえます。われをきたえてくれます。大いに美酒への道を彩ってくれもします。
 もんだいは アクマです。問題があるとしたら アクマです。

 ★ A/S思想の自動思考でとらえ
 ☆ スサノヲ庶民に さすがアクマはいないと思われますが つまりはいたとしてもアマアガリをして行くでしょうから なのですが ただしアマテラス公民であるからみなアッキであったりアクマの要素があると断定するのは早いと思います。
 つまり 普段はそういった判定をしないものです。たぶん アッキはけっこう日常茶飯事であるとも言えるので――これはさすが自分をも含めて―― アッキの動きだわいと判定したりするでしょうが さすがアクマは よほどおのれの腹の底にそのヒラメキを得た場合にしか考えることもないのではないでしょうか?
 それに 仮りに人間そのものがアクマであったとしても 同時代に・また一定の地域や場に 何人もいることはないと思われます。そのときには 貴重な存在になるはずです。神のごとく如何なるものの下にも立つまいと心に決めた場合であるようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 ブラジュロンヌさんの逆さ政治思想やびっくり歴史観がアマガッパさんなんかの協力により美学方面にも射程をのばす良い機会だったかも知れないのに
 けんかに少し水をさして申し訳なく
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ましゅさんも言っていたなぁ。そういう見方をするのは それこそアクマですよと言ったら おどろきですか? 十字架の道がおのれの前にない・見えなくなるとすれば それは アクマの方面だとわたしは思います。というよりも わたしたちはすでに身も心も張りつけになったところから歩み始めているのです。
 その張りつけによる第一の死が死なしめられたところから 起き上がらしめられました。と知らなければいけません。もし
 ★ 寂しいですね。
 ☆ というぼやきを吐くのならば。

 ただ 九十九匹ではなく そこから何らかの事情ではみ出てしまったというのであれば その一匹について最後の最後まで探し出さなければならない。声をかけつづけなければいけない。

 ★ 私の言葉が少しでもおじさんの心に作用すれば、このくたばった心も少しはおどるはずでしたのに。
 ☆ いづれにしても あのときはグルだと疑われてはダメ。

投稿日時 - 2011-02-19 10:29:59

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回答(40)

ANo.40

 こんばんは、ご返答遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。Hidocciでございます。

> ☆ ほんとうに ここまで疑うかという事態があります。世代の違いからだけとも思えないようですし。しかし――主題は違いますが 今回――どこかの知事は 天罰だとかんたんに言ってくれます。

 おそらく、自分と人様は異なる(別次元の存在である)と思っているのかもしれません。

> ★ 最低限の“律法”は必要だったのかもしれません。ですが、ファリサイ派の人たちのように、“律法のみ”となり、その律法の守る順位により、ひとの序列化も同時にされていくといった弊害もでてきたものと推察しております。
 ☆ そのようなまとめに落ち着くように思いました。

 どうもありがとうございました。もし愚生がお役に立つことができましたなら、望外の喜びとするところでございます。

> ☆ この今の事態についてもそして尖閣沖事件を初めとしてあたらしい政権についても 人びとはぼろくそに言うようになって来ました。これは お上意識の裏返しでなければよいと思うのですが。そして仮りに別の政権が出来たときにも 失態について同じように 不平不満でもよいとすれば 批判をしつづけるのならまだまし――そこまでともかく自由であろうとするのなら まだまし――とも思われますが。

 昔は、敗戦国であったが故の”政府不信”が根底にあったと思っていたのですが、田原氏の著作のもございましたように、戦前から既にそういう傾向が見られたそうでござます。批判することが許されない社会よりもマシかもしれませんが、もっと将来の日本像を見据えた批判・意見を見てみたいと思っています。愚生と致しましては、二大政党、民主党と自民党のがっぷりよつに組んだ緊張感溢れる論戦を期待していたのですが、そうともいかなかたような,,,,,,,,,,

> ☆ 恥ぢは それほど悪い感性としての慣わしではないと思えるのですが まだまだただの外形的な習慣だったのでしょうか。つまり消えてしまうのでしょうか?

 以下の幕末に訪れたシュリーマンの観察とは、幾分異なったように思っております。もし、恥とい気持ちがなくなってしまいますと、モラハラやクレーマーのような人達が増えてきつつあるのを見ますと、消えつつあるのかと思ったりもしております。

「その精勤ぶりに驚かされるのだ。彼ら[役人] に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである」p.146
シュリーマン著(石井和子訳)「シュリーマン旅行記 清国・日本」からでござます。

> ★(回答No.38) つまり、日本国憲法は形骸化しているとの判断から(すぐにこの条文は削除すべきかと)、憲法の持つ影響力は低いものと考えております。
 ☆ ODA という方法と同じ筋では考えられないのですか?

 ODAは元々は戦後補償・賠償の要素があったようでござます。ただ、一般的には、”無償供与”は少なかったと記憶してはいるのですが、もし、”無償供与”だとしましたならば、憲法のあり方を考え直すきっかけとなればと思ってございます。

> あぁ ダニエル書の上のメシア預言のくだりは ヘブル語ではなく アラム語を遣って書かれているとも知りました。そして《人の子のような者〔が天の雲に乗り・・・〕》というように《・・・のような者》と表現しているようです。覚え書き(資料)になりますが。(それ以上の知解はまだですが)。

 そうだったのですか。知りませんでした。映画「パッション」では、当時の言葉であったアラム語(+若干のラテン語)で制作されていたようでございます。見た人の感想を聞きますと、とても響きのいい言葉だったと話していたのを覚えております。

> そろそろこの主題は ひと区切りをつけて つづいてか・しばらくおいてか あらためて問い求めるかたちを採るのもよいかも知れません。どうですか?

 了解致しました。そして、どうもお疲れ様でした。また、neutral様のご回答にも心和むものがござました。

 末尾ながら、ご質問者様はじめ、今まで愚生の拙い文章をお読みいただいた方々には厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2011-03-17 23:46:02

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 留意点を復唱しておきます。
 ★ 愚生と致しましては、二大政党、民主党と自民党のがっぷりよつに組んだ緊張感溢れる論戦を期待していたのですが、そうともいかなかたような,,,,,,,,,,
 ☆ まことにそうだと思います。保守の思想も大いに重要であり必要です。イギリスの事例からで 自民党がその役割を果たせるか いまひとつとは思うのですが 《政治》は理論どおりにも行かないでしょうから 当分の間は自民党も活躍してもらわないとですよね。

 ★ もし、恥とい気持ちがなくなってしまいますと、モラハラやクレーマーのような人達が増えてきつつあるのを見ますと、消えつつあるのかと思ったりもしております。
 ☆ 恥ぢは 世間体とは違うと思っていたのですが。残るものもあるかとは思いますが。

 ★ ODAは元々は戦後補償・賠償の要素があったようでござます。ただ、一般的には、”無償供与”は少なかったと記憶してはいるのですが、もし、”無償供与”だとしましたならば、憲法のあり方を考え直すきっかけとなればと思ってございます。
 ☆ そうでしたか。当たり前のことと思っておりました。これは死角と言いますか 注意が届きませんでした。ありがとうございました。

 ★ ダニエル書の上のメシア預言のくだりは ヘブル語ではなく アラム語を遣って書かれている
 ☆ ただしアラム語は かじったこともありません。
 次のサイトで見ています。
 ○ Blue Letter Bible
http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Dan&c=7&v=1&x=55&y=7#conc/13

 ○ in the night : ley-leya' (Aramaic):li-laila ( Hebrew )
 ○ of days : yowm(sg.) / yomayya (pl.)(Aramaic) : yom (sg.) / yamim (pl.) ( Hebrew )( 母音の変化は 入力まちがいではありません)


 ☆☆ そろそろこの主題は ひと区切りをつけて つづいてか・しばらくおいてか あらためて問い求めるかたちを採るのもよいかも知れません。どうですか?
 ★ 了解致しました。そして、どうもお疲れ様でした。また、neutral様のご回答にも心和むものがござました。
 ☆ 悪魔の生成する過程については 探究を引き継いでまいります。
 きわめて中核の話でした。神学から経験思想への翻訳も 出来るものなら 問い求めたいと思っております。
 そうですね。ここらで一たん閉めましょうか。そうしましょう。にゅうとらるさんからも ごあいさつをいただいていますし。

 おつかれさまでした。ありがとうございました。
 みなさんも さらなる問い求めのときには どうぞそれぞれのかたちでご参加ください。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-18 00:23:26

ANo.39

ぶらじゅろーぬさん、おはようございます。
ご返信ありがとうございます。
ひどっちさん、
参考になるサイトをありがとうございます。

途中なのですが、現在個人的事情で
なかなか読みも書きも考えもできません。
申し訳ないのですがいったん降ります。

頂いたご返信文と、
ひどっちさんが紹介してくださったサイトは、
一度読みましたがもう一度ゆっくり読みます。
理解に時間がかかりそうです。

書きっぱなしになってしまい申し訳ありません。

投稿日時 - 2011-03-17 08:29:20

お礼

 了解しました。



 わたしは 人間の存在について社会に生きるからには互いに互いとのつながりがある――気持ちとしては正と負とに分かれるかかわりがある――と考えています。

 ○ 存在論として 社会的に独立した主観(自由意志)を見ますが その基礎に《関係の絶対性》をも同時に見ています。

 ○ ただし心における非思考の庭として――非思考であるにもかかわらず それをそっくりそのまま受け止めるという経験行為としてあると言い張るのですが―― この《関係の絶対性》を首ひとつ突き抜けているとも思っています。

 ○ 言いかえるならば 人はこの世の存在として互いに互いの関係を絶対的なかたちで持つ。この関係の絶対性におとなしくしたがうならば――ということは一般に相手の意向に沿いつつ その意向の中身をも吟味しつつそれにたとえ反対であっても まづはその意向の示すところに出来る範囲でしたがって行くならば―― この関係の絶対性から抜け出てのように或る程度において自由になれる。それは 相手もそのときには自由に成れているゆえか。それとも まったくこちらの言い分に耳を貸さず 鎖国政策を採ることになったゆえか。二つに一つというかたちだと思います。

 たぶんわたしたちは この自由――この程度の自由――を問い求めて生きているのだというふうに思います。自分も自由になる。相手も自由になる。これが 愛――自由における関係の絶対性――だと思います。

 ではまた。

投稿日時 - 2011-03-17 10:05:58

ANo.38

 続きからでございます。

 因みに、憲法でございますが、先日の地震の支援につきましては、公金を用いて国民を救済するというのは、正しい(当然の)選択かと判断されます。一方、例えば、スマトラ大地震のときにも、日本国が支援(約510億円)を致しました。ですが、これは、憲法違反(第89条)かと考えております。ここでの“公”とは”財政”の章から判断しますと、日本国内のことかと考えられます。ですが、スマトラ(インドネシア)はもちろん、独立国です。
 では、この憲法が正しいのか、それとも支援を送ることが正しいのかどちらかと問われますと、当然、支援援助が正しいと考えております。つまり、日本国憲法は形骸化しているとの判断から(すぐにこの条文は削除すべきかと)、憲法の持つ影響力は低いものと考えております。

憲法 財政
第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

  
> (アウグスティヌス:告白10・1)
王が 神の言葉すなわち不可視的にして 一度は死んだが復活してなお生きるキリストのことであることは 明白です。この実体は 人間の真実というように このように語るのがふさわしいということになります。

 全く、意見を等しく致します。

> 悪魔は 初めから真理の中にいなかったごとく 本心から――人間の真実の言葉として――嘘をつくのです。この嘘が 光の天使に擬装したもの だから容易に欺かれるもの だからこの悪魔に仕える人は あたかも空気のような身体をもって義に仕えていると見せかけるというほどに しんきろうの中にいる だからこれが虚偽であることは すべての人に承知されていることです。

 「本心から嘘をつくのです」、仰る通りかと存じます。もちろん、その中には、“真理”はございません。そして、タチが悪いことに、その中にまるで真理が秘められているかのように、そしてまた、義に仕えていると見せかけて、ひとの(心の)中に入ってきます。

> この空中の権能が あまりにも甘美な 嘆かわしくも甘美なこの世の饗応なるしんきろうをかたち作って 人びとを眠りに陥らせるのです。

 まさしく、的を得ているかと存じます。

> 《実体》ということばは避けたほうがよいと考えます。
 《神》を主役にして表現する形式は 上の《実体》の語と同じように 避けた方がとよいと考えます。従順というすがたが それをどのように表現したら 人びとに伝わるか。これも一考にあたいすると思います。それに イエスから友だちと呼ぼうと言ってもらったことを受け取ったすがたをも示したい。
 《聖霊が宿ればもうキリストは要らない》と書きましたが むろん聖霊はキリストと同じ神です。

 了解致しました。
 余談ではございますが、最近のご質問にて、<「人の子」とは? 新約聖書> というものがございましたが、回答に窮しました(愚生にはお答えできませんでした)。

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-15 23:51:54

お礼

 ここのお礼欄が空いてしまっていますので というとおかしいのですが。

 久しぶりに 仁科さんにベストアンサーを指し上げることにしました。
 流れを変えてくれました。
 ひどっちさんや にゅうとらるさんにはご了解いただきたく。

投稿日時 - 2011-03-18 00:28:52

ANo.37

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiでございます。

 昨日、投稿させていただきました回答の前半部分が、抜け落ちておりました。愚生の不注意により、ごちゃごちゃとなってしまい、深くお詫び申し上げます。

 つきましては、前半部分を載せさせていただいております。

> そう言えば イエスも どこかの時点で 弟子たちに対して もはや師匠と弟子の関係ではなく友だちと呼ぼうと言っていませんでしたか? 〔それに わたし(イエス)よりも大きな仕事をするようになるだろうとも確か言っていましたね。もっともその務めを成し遂げることが出来るのも キリストなる神の力だということのようですが〕。

 以下の箇所でございましょうか。

ヨハネ 15章14、15節
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

> もし人間はみな悪魔を父として生きているのだとすれば もうこの主張やザビーヌ発言は金輪際通らないだろうと思われます。いまでもあたかもアクマのようになって うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです。ミスター・猜疑心だとか ミズ・検察官ないしミズ・誹謗中傷人だとか。・・・

 「うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです」 残念ながら、現実はそうかと存じます。


イエスが第二のアダムだと見る見方をめぐっては やはり律法をどう扱うのか これを捉えておくという補助線です。簡潔に取り上げたいと思います。
> ( a ) 律法というのは イエスによるあたらしい契約を受け取るときまでの《養育係》であったと聞くが それならすでにモーセを登場させずに その前からのアブラハムの信仰 この信仰の一本道であゆんでいたらよかったではないか?

 最低限の“律法”は必要だったのかもしれません。ですが、ファリサイ派の人たちのように、“律法のみ”となり、その律法の守る順位により、ひとの序列化も同時にされていくといった弊害もでてきたものと推察しております。

> ( b ) 日本人にとって《律法》は 何に当たるか?

 “仏教”は葬式仏教と揶揄されるぐらいですので、影響力は小さいと考えております。また、“論語”は江戸時代の封建制度に合わせて取りいれられた経緯もございますため、ここからお上志向が顕著になった可能性も否定できません。従いまして、“お上”、そして、何かはえたいの知れない“空気”といったものかと推察しております。なお、“世間の目”は、元来日本人が持っておりました“恥と感じる”ということが薄れてきつつございます。従いまして、今日では影響力は失いつつあろうかと推察しております。

 続きを述べさせていただきます。

投稿日時 - 2011-03-15 23:41:01

お礼

 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。

 ◆(ヨハネ15:14-15) もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
 ☆ こう言われると はなはだ何もかも心もとないかぎりに思ってしまいます。

 でもたぶん そのつど必要なことは――その知識というよりも必要で妥当な判断は―― さづけてもらえるのではないかと思っています。(情報も大事ですけれど)。
 (この今の日本をおそった重大な事態にあたって 何を考えどうすればよいか これについては今一つ何も考えつかずにいて どうしたものかと思っております)。

 ★ 「うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです」 残念ながら、現実はそうかと存じます。
 ☆ ほんとうに ここまで疑うかという事態があります。世代の違いからだけとも思えないようですし。しかし――主題は違いますが 今回――どこかの知事は 天罰だとかんたんに言ってくれます。

 ★ 最低限の“律法”は必要だったのかもしれません。ですが、ファリサイ派の人たちのように、“律法のみ”となり、その律法の守る順位により、ひとの序列化も同時にされていくといった弊害もでてきたものと推察しております。
 ☆ そのようなまとめに落ち着くように思いました。

 ★ 従いまして、“お上”、そして、何かはえたいの知れない“空気”といったものかと推察しております。
 ☆ この今の事態についてもそして尖閣沖事件を初めとしてあたらしい政権についても 人びとはぼろくそに言うようになって来ました。これは お上意識の裏返しでなければよいと思うのですが。そして仮りに別の政権が出来たときにも 失態について同じように 不平不満でもよいとすれば 批判をしつづけるのならまだまし――そこまでともかく自由であろうとするのなら まだまし――とも思われますが。

 ★ なお、“世間の目”は、元来日本人が持っておりました“恥と感じる”ということが薄れてきつつございます。従いまして、今日では影響力は失いつつあろうかと推察しております。
 ☆ 恥ぢは それほど悪い感性としての慣わしではないと思えるのですが まだまだただの外形的な習慣だったのでしょうか。つまり消えてしまうのでしょうか?

 ★(回答No.38) つまり、日本国憲法は形骸化しているとの判断から(すぐにこの条文は削除すべきかと)、憲法の持つ影響力は低いものと考えております。
 ☆ ODA という方法と同じ筋では考えられないのですか?

 ○ 悪魔・空中の権能
 ☆ などについて賛同をいただきありがとうございました。


 ★(同上) 最近のご質問にて、<「人の子」とは? 新約聖書>
 ☆ わたくしも主題として考えたことがありませんでした。
 ダニエル書では《人の子》はそのままメシアとしても言っているようです。直接にはネブカドネザル王のバビロニアのその後としての歴史推移のようですが イエスの出現をほのめかしたようでもありますし あるいはさらに黙示録の最後の日のことにも触れているかに思われる表現のようです。知りませんでした。
 それにしても《 son of man 》と英訳されるこの表現も 変わっていますね。

 あぁ ダニエル書の上のメシア預言のくだりは ヘブル語ではなく アラム語を遣って書かれているとも知りました。そして《人の子のような者〔が天の雲に乗り・・・〕》というように《・・・のような者》と表現しているようです。覚え書き(資料)になりますが。(それ以上の知解はまだですが)。

 そろそろこの主題は ひと区切りをつけて つづいてか・しばらくおいてか あらためて問い求めるかたちを採るのもよいかも知れません。どうですか?
 

投稿日時 - 2011-03-16 05:45:40

ANo.36

 続きからでございます。


> アウグスティヌスは パウロに従って 律法も聖であり霊であると言っており 歴史上必要であったと見ているようです。
 アブラハムにおける内面の 非思考の庭 これの確立だけでは広く社会的な秩序もしくは個人どうしのきづなが あやふやなものに終わると考えられたのでしょうか?
 と言うのも すでにアダムからの負い目を人は誰でも背負っているわけですから アブラハムの信仰が社会的に埋もれてしまわないために必要であったのでしょうか?
 
 贖罪がなされた後も、必要なのかどうか という点でございますが、神のご意志である(あった)以上は、誠に単純ではございますが、神聖なものかと思っております(ですが、律法のみでは、ひとは救われないし、再生もしませんが)。例えば、ご例示いただきました“殺人”でございますが、これは自然法によるものかと思われます。自然法の実質的法源を遡っていきますと、最終的には、何かしらの絶対的存在がその前提あろうかと推察してございます。この自然法の成立とともに、法の整備化がなされていったものと思っております。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%B3%95 「法源としての神」をご参照くださいませ

> ひとことで言って 律法ないし法律は 言わば人が心の奥にある非思考の庭に生きるという現実のために養育係であったと見られるようだと思われます。人と人とのきづなが 目に見えないところにあるという目覚めへとみちびく道程であったかと思われます。どうでしょう?

 仰られますように、”養育係”もしくは、”成長への基礎となるもの” といったものかと推察してございます。

 アウグスティヌス特集をご紹介いただきまして、どうもありがとうございました。
 明日にでも、感想等をお聞きいただければと思ってございます。

 最後まで、お読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2011-03-14 23:47:48

補足

 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。
 聞いてください。


   まこと 御身よ あなたは真実を愛したまう。真実を行なう者こそは
  光のもとに来る。私はその真実をつくしたい。心の中では御前でこの告白
  により 多くの証人の前ではこの記録によって 私は真実をつくしたい。
  (アウグスティヌス:告白10・1)

 と言って 義を問い求め見出し なお飢え渇くといってのように問い求める人の列は たとい隠れていても 神には知られている。だから 経験的なものを超えて かれらは人間の言葉に到達する。その人びとのいま忍耐して待ち望む神の国は かしこの永遠の座に確(かた)く立っていると言われるとき それは その義が裁きに変わるまで 王がその椅子に坐るまでです。だから《国ひとは あなたの前で 王の敵の心で倒れむとす》るのです。王が 神の言葉すなわち不可視的にして 一度は死んだが復活してなお生きるキリストのことであることは 明白です。この実体は 人間の真実というように このように語るのがふさわしいということになります。

 だからわたしたちは 

   けれどもいまや 私のためいきは 私が自分自身に不満を感じている証
  拠ですから あなたこそは私にとって輝きであり満足であり 愛され熱望
  されるものであり そのため私はわが身を恥ぢ 自己を投げすて かわり
  にあなたをえらび ただあなたによってのみ あなたにも自分自身にも満
  足のゆく者になろうとしている。
   (告白10・2)

 と知るのです。この《ためいき》は もはや神の似像である我れを確立した以後と言ってのように 《阿片》とはならないでしょう。しかしこのような内的な主観形成(《日から日へ変えられる》)は 必要であり これを理性的に知解することがまづ 史観とその理論を形成しているとわたしたちは見るのでした。むろん これに付随するといってのように さまざまな分野での理論・科学は 職業として必要であり現実であります。したがって職業(つまりむろん 召命)とかいわゆる労働・仕事とかが ふたたびあらためて 問い直されることになるでしょう。その義が裁きに変わるまで 王がその椅子に着くまでと言ってのように。
 光の子らに 失望はなく つまづくこともないでしょう。神は その能力以上に試したまうことはなく つねに避け所となるかのように 糸口を与えてくださいます。しかし 《私の威厳が通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう》と語られた。

   もしわたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば
  その復活の姿にもあやかれるでしょう。
    (パウロ:ローマ書 6:5)
   
   わたしは キリストと一緒に十字架につけられています。生きているの
  は もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられ
  るのです。わたしが今この世に生きているのは わたしを愛し わたしの
  ために身をささげられた《神の子》に対する信仰によるものです。
   (パウロ:ガラテア書2:19-20)

 しかしながら 神は 悪魔が死の仲介者であるのに対して かれは生命の制作者であり仲介者です。かれは わたしたちが存在しないように存在させたまう方ではありません。
 悪魔は 初めから真理の中にいなかったごとく 本心から――人間の真実の言葉として――嘘をつくのです。この嘘が 光の天使に擬装したもの だから容易に欺かれるもの だからこの悪魔に仕える人は あたかも空気のような身体をもって義に仕えていると見せかけるというほどに しんきろうの中にいる だからこれが虚偽であることは すべての人に承知されていることです。
 悪魔は 初めから真理の中にいなかったというその《初めから》は 創造者である神に創られたその初めからという意味ではありません。神によってそれへと造られた人間(もしくは天使)の本性 これからの墜落というときの 何か悪いことを為したということによって この罪の制作者となったのではなく その本性からの墜落じたいが 神に背く罪すなわち人間の死となる。しかも 人間はその一たんの死が死ぬことができるのに対して 悪魔はこの一たんの死が死ぬことから無縁となるというほどに 初めの墜落という人間(もしくは天使)の死が死なない。つまりそのような第二の死をもって 人びとを自分の力の支配の下に捕獲して(毒を食らわば皿まで) 罪と死を制作するのです。この空中の権能が あまりにも甘美な 嘆かわしくも甘美なこの世の饗応なるしんきろうをかたち作って 人びとを眠りに陥らせるのです。

投稿日時 - 2011-03-15 05:04:25

お礼

 神によって派遣された神の言葉(すなわちキリスト・イエス)は その全能によって その権力によって この悪魔を征服することができたにもかかわらず わづかのあいだ天使よりもご自分を低くされて 義によって――そしてそれはご自分の肉の死をも欲せられるに至るまでというようにして―― 征服することをえらばれたのです。ご自分の肉の死を欲せられるほどに 義〔なる史観〕によって克服するということにまさって この悪魔を征服し そのもとに捕獲されていた人びとを放免するという手段は 人間にとって有益な癒やしはなかったと言われます。

 だから 神はわれわれを見棄てたまわなかったのです。だから いまもというほどに わたしにとって生きるとは このキリストを生きることなのです。このキリストを長子とする人間のともがらは 列をつくって すでに悪魔の捕捉から放免されていたと見出してのように この地上に神の国を見ます。神がこれを約束され またそう為したまうのでないなら 誰がこの悪魔の致命的な策略から免れ 永遠の生命に至ると言うのでしょう。もしすでにこの神の国が その御子の派遣によって 用意されているなら わたしたちは この道を歩み出すのに躊躇してはならない。しかも この神の国は われわれ人間の権能によってのように この地上を支配することになるでしょう。神がこれを為したまうからです。これ以上に明白な人間の歴史はないと思います。またそれは 人間の知恵・人間の理論ではなく 生きて動く史観としての人間の歴史です。そうでなければ 人間は あたかも空中を動く人形にしかすぎません。そうでしかないと思う人びとの存在に対して 笑う者はあの悪魔に与しているように思われます。しかし この悪魔のいわば残党の勝利の笑いの瞬間 そのつかのまの勝利は みごとに覆されて 復活して現在するキリストの来臨を強いることになります。義が裁きに変わるからです。これ以上に明白な神の国の歴史はないでしょう。こう語らないことによって われわれの内に生きて動くキリストの聖霊なる実体を いまだ・あるいはふたたび 十字架からこの地上に引きずり降ろしていることになることも明白です。

 この言葉が正しいことであり その正しいことをもしわたしが人びとに語るとすれば それは いったいどこからわたしが聞いたことなのでしょう。






 ☆ コテコテの冷や汗ものです。

 《実体》ということばは避けたほうがよいと考えます。そちら(つまり実体)のほうへ観念的に連れ去られて行ってしまいがちです。
 《神》を主役にして表現する形式は 上の《実体》の語と同じように 避けた方がとよいと考えます。従順というすがたが それをどのように表現したら 人びとに伝わるか。これも一考にあたいすると思います。それに イエスから友だちと呼ぼうと言ってもらったことを受け取ったすがたをも示したい。

 《聖霊が宿ればもうキリストは要らない》と書きましたが むろん聖霊はキリストと同じ神です。

投稿日時 - 2011-03-15 05:19:41

ANo.35

 続きでございます。

> ( ε ) ところでこの原罪とその世代ごとの受け継ぎが超えられたというのは 死が克服されその死の棘としての罪が揚棄されたことではないか? つまりは 悪魔に対するキリストの勝利ではないのか?
 悪魔は このイエスの死の淵にまではよう来なかった。来ることはなかった。

 おそらく、”来れなかった”と考えられます。上述致しました( α‐2)での愚見通り、付入る隙はなかったものと考えております。

 なお、「罪の購い」につきましては、愚生も苦手としているところでございます。この問題につきましては、後程、ご返答できればと思っております。

 nuetral様におかれましても、以下に参考となるサイトを掲げてございます。よろしければ、ご意見いただければ幸甚に存じます。


参考
http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/k9908.htm
http://www.ijournal.org/world/christ.htm  最後の方にございます「三、贖罪論の歴史的変遷」 をご参照ください


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-12 18:48:28

補足

 アウグスティヌス特集です。《天使》の位置づけについてです。

 ◆ (ヒラメキとそれのしるしとしての現象) ~~~~

 しかし・・・同じ物体的質料から成るのであるが 私たちの感覚に或る神的なことを告知するためにもたらされる他の種類の現象がある。それらは固有な意味で不思議な業(わざ) 徴(しる)しと言われる。
 しかし主なる神によって私たちに告知されるこのすべての現象においても神ご自身の名が知られるのではない。神ご自身の名が知られるとき それは或るときには御使い(* =天使;純粋アマテラス概念か?)において示され 或るときには御使いによって備えられ奉仕されるが御使いではない姿において示されるのである。
 また御使いではない姿において神ご自身の御名が知らされるときも その姿は或るときには すでに物体として存在していて このことを示すために或る変化が与えられて用いられ 或るときには この必要なことのために出現し そのことが成し遂げられるやいなや再び取り去られる。
  (三位一体論 3・10〔19〕)

 ◆(人間が告知者であるときもある) ~~~~~~

 人間が告知者であるときも あるときには《主は語られる》とか 《主はこう言われる》(エレミヤ書31:1-2)と前置きされるように 自分の人格から神の言葉を語る。また 或るときには このような前置きなくして 《私はあなたに会得を与え あなたの行くべき道にあなたを置くであろう》(詩編31:8)とあるように 神の御名そのものを受け取る。・・・

 しかしこれらのことは 人間をとおしてなされたゆえに 人間に知られている。だから 人間はこれらのことを敬虔なもののように崇めることは出来るが 不思議な現象のように驚異することは出来ない。したがって 天使たちによってなされる(告知される)ものは より困難なことであり より知られていないから 私たちにとってより不思議である。
 ・・・天使の行為と人間の行為の間には大きな相違がある。前者は驚異すべきことであると共に知解すべきことであるが 後者はただ知解すべきことである。しかしこの両者から知解されるのはおそらく一つのことであろう。そこから知解されることは ちょうど主の名が金やインクで書かれたように異なるのである。前者はより高価であり 後者は価値がより少ない。しかも両者において意味表示されるものは同一のことである。
 (三位一体論3・10〔19-20〕)

 ◆(むしろ現象ないし質料をとおして告知される) ~~~~~
 また 主あるいは聖霊があの物体的なかたちで示されたとしても 御使いたちは告知したものを意味表示するためあの雲や火を どのように作り また採用したのであろうかということを 人間の中で誰が知り得ようか。・・・御使いたちが この不思議なことをどのようになすのか いな むしろ神がこれらのことをその御使いたちをとおしてどのようになしたまうのか 神は悪しき天使をとおしてさえ なされることをどこまで欲したまうのか 許可によってであろうか 命令によってであろうか 強制によってであろうか かれのいと高き至権の隠れた御座からであろうか。このような事柄を 私は眼の尖端によって見分けることも 理性の確信によって明らかにすることも 精神の前進によって把握することも出来ないのである。・・・

 だから 私たちは天にあるものを探索しない。・・・

 それだから 神の実体 あるいはもっとよく言われるなら 神の本質は――そこに私たちの分限によってほんのわずかながらも御父と御子と聖霊を知解するのである―― 決して可変的ではないので また決してご自身において可視的ではありえない。
  
 したがって 神が時に適しいかれの計画によって示現されたとき 〔旧約の〕父祖たちに見えたすべてのことが被造物(* ないし質料)をとおして為されたことは明らかである。・・・
 (三位一体論3・10-11〔21-22〕)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ どうでしょう?

投稿日時 - 2011-03-14 11:03:40

お礼

 峠の茶屋にて憩うように昔のわたしをふり返ってみていましたが そのときには 今では考えられないほどコテコテの議論をしていたようです。
 悪魔という言葉を案外多く出していますし ときには黙示録にも触れていました。
 もともと アウグスティヌスが その口調としては――聖職者ゆえにも手伝って・またあるいはアフリカに住むとは言えローマ人として明晰な論理性と断定性など 神学のカチカチだと見える大上段に振りかぶる姿勢も見え――コテコテなのですが そしてわたしはこれを 現代人および日本人として表現し直そうと思っただけなのですが その影も響きも大きく受けています。と分かりました。
 でも それらを書いていたのはもう二十年ほど前までですから それからは表現じたいもさらに変わって来ていると思います。

 それで いまの主題は もはやすでにクリスチアニズムは いかなる《存在》論を持つや? という大きな尋究になりつつあります。

 この先どうすすめるのがよいか? この課題もあってこれは模索しつつあゆむということになるでしょうが ひとつ副次的な主題を思い浮かべました。
 イエスが第二のアダムだと見る見方をめぐっては やはり律法をどう扱うのか これを捉えておくという補助線です。簡潔に取り上げたいと思います。
 ( a ) 律法というのは イエスによるあたらしい契約を受け取るときまでの《養育係》であったと聞くが それならすでにモーセを登場させずに その前からのアブラハムの信仰 この信仰の一本道であゆんでいたらよかったではないか?

 ( b ) 日本人にとって《律法》は 何に当たるか?
  ・ブディズムの戒律か?
  ・論語の箴言か?
  ・お上か?
  ・世間の目か?
  ・〔《空気》は 二次的な小癪な倫理指標であろう。ただし お上を律法とするうえでは 補助の役割をしうるのではないか〕。
  ・あとは 憲法およびそのもとの法律であろう。


 ☆ アウグスティヌスは パウロに従って 律法も聖であり霊であると言っており 歴史上必要であったと見ているようです。
 アブラハムにおける内面の 非思考の庭 これの確立だけでは広く社会的な秩序もしくは個人どうしのきづなが あやふやなものに終わると考えられたのでしょうか?
 と言うのも すでにアダムからの負い目を人は誰でも背負っているわけですから アブラハムの信仰が社会的に埋もれてしまわないために必要であったのでしょうか?
 
 人はやわらがしめられた非思考の庭において生きるならば ひとをころすことはなく むさぼることもない。アダムの子孫であるという制約条件をのぞけば そう言える。しかも アダムの後裔であることは誰もまぬかれぬからには ひとつにその負い目の重さに耐えられるようにと戒律が与えられた。いわく 《ころすなかれ》。いわく 《むさぼるなかれ》。

 この哲学カテで《なぜ人をころしてはならないのか》という質問がしばしば出ます。この頃には 理屈ではないという回答も現われて来ています。かつては みなが勝手に生きては秩序が乱れるゆえ人殺しの禁止をうたう法律をもうけるのだという答案もありました。
 世間の目があるからだというのは さすがになかったと思いますが 主題が殺人というのでなければ そういう律法役としての《世間体》もまだ持たれているかも知れません。
 ひとことで言って 律法ないし法律は 言わば人が心の奥にある非思考の庭に生きるという現実のために養育係であったと見られるようだと思われます。人と人とのきづなが 目に見えないところにあるという目覚めへとみちびく道程であったかと思われます。どうでしょう?

 アブラハムもモーセも イエスの出現を待っていたかと考えられます。

 なぜなら 律法によって生きるということは律法によって――誰もその戒律のすべてを守ることは出来ないゆえ――死ぬ。これでは アダムからの負い目は やわらげられていますが 結果はあまり変わらない。その意味では たとえでしょうが この世は死の制作者である悪魔の君臨する涙の谷でしかないとなります。
 アブラハムの子孫をつくると約束したとおりに神は 〔その独り子とされる〕キリストをこの世に送りイエスという肉につくった。人びとが自分たちの父が ほんとうに悪魔かそれとも神かこれが分かるようになるためには このイエスという人間が人びとの意向を受けてのように死を死ぬというコトが必要であった。
 そうでなければ 人びとは目覚め得なかった。
 そうであったから 人びとはイエスを迫害しようとした。神の子だと じつはおそるおそる思っていた。
 そうでなければ 人びとはイエスをほうっておけばよかった。

 おそらくこれは物語なので 聖霊が非思考の庭に宿ればもうキリストも要らない。

投稿日時 - 2011-03-13 14:26:28

ANo.34

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> そちらも特別な被害はなかったようですね。よかったです。と同時に そうとも言えないほどの大きな地震でしたし まだ余震があるようでもあります。このたびは何だか警告が発せられたかのように 感じてしまいました。


 お気遣いいただきまして、どうもありがとうございます。ちょうどその時、気になった箇所があり、愚生が黙示録を読んでおりました(会社のPCでこっそりと)ときの大きな地震でしたので、小心者のHidocchと致しましては、それなりのリアル感がございました。

> ☆ そうですねぇ。ひとつ考えたことは 表現の問題だという見方です。人間の側にそのような気持ちや思いや意志があるのを 天使やあるいは神の側にその動きがあるように表現するという捉え方です。
 ちょうどいま読んでいるアウグスティヌスによる詩篇の講解では次のようなくだりが出て来ます。
 ▲(創世記22:12) <中略> (詩篇注解 43編)。
 
 

 非常にインパクトのあるご意見アイデアかと存じます。そもそも神のことなどは到底擬人化できないはずなのですが、それを敢えてひとにも理解しうるような形での表現として用いることは、愚生にも理解出来ます。


> エレミヤ書の《罪を忘れる》について:
 ☆ これは イエスの死によるアダムからの原罪(または そこからの派生するもろもろの罪)のあがないの問題とつながっているようです。
 原罪のつぐないを果たしたのだと見る見解を持ちます。


 モーゼとの契約のみならず、さらに遡っての失楽園での原罪の両方を指しておられるとのことで、 納得致しました。

> 「その再生をあかしする言わば手付け金として 聖霊を送ると言われた。霊による洗礼を受け 非思考の庭が心に現われる。つまり 復活が成るまでは 無根拠を根拠とする信仰によって人びとは歩むというかたちを与えた。」

 すばらしいですね。簡潔でありながらも、的を得ている文章かと存じます。

 以前の論点に移らせていただきます。

 ( α ) イエス・キリストの十字架上の死とは何を意味するか?

> ( α‐1) 神がいわゆる原罪を犯したというじんるいをそこからすくうためには いろんな方法があったであろうが この・罪無しでの磔刑という方便がいちばんふさわしかった。

 これは、残念ながら、愚生にはわかりません。

> ( α‐2) もしイエスがキリストとしてのみ・すなわち神の子であり神である存在としてのみ振る舞って たとえばその十字架から降りて来たとしたら どうか? 

 以下の福音書のように奇跡を行うことを拒否しております。ですが、 もし奇跡等を用いて降りたとしますと、悪魔の付け入る隙を与えてしまいかねません。また、モーゼのときのように、奇跡を以てご自分を助けたならば、律法の時代に逆戻りしてしまいます。従いまして、十字架から降りることは到底できない とそう考えております。

ルカ 4章9から12節
そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

> ( α‐3) もしキリストであるのに 人間イエスとしてのみ振る舞ったなら どうか? つまりキリストなる神として自分からこの盃を飲むという方便を用いるということでなかったなら どうか? 

 もし、人間として”のみ”振る舞ってしまいますと、神のことなど考えなくなってしまいます。その結果、「わたしが神だ」という輩達が出現してしまいます。


> ( β ) この磔による死でもしアダムらからの原罪があがなわれたとすれば 人間に根本的な誰もが避けられない《前科》は 消えた。か?

 「原罪があがなわれた」との前提に立ちますと、 もちろん、 消えたと解します。

> ( γ ) モーセに与えられた律法そして人がこれに拠って神の子らとして生きることという生き方は 揚棄された。人間の心や意志や努力によって 律法にかなう人生を送るという生き方は止揚された。

 これは、先のエレミヤ書の預言にもございますように、律法に従う”僕”から、愛に従う(生きる)”父・子”の関係への移行によって、モーゼのときの律法中心の時代から飛躍をとげていることは事実かと考えられます。

 続きを述べさせていただきます。

投稿日時 - 2011-03-12 18:46:23

補足

 すみません。にゅうとらるさんへのお応えをここに書かせてくださいませんか。お願いします。

 ●(回答No.33)~~~
 それから
 「わが子よ、賢くあって、わたしの心を歓ばせよ。
 わたしを嘲弄している者に
 わたしが返答するためである」
 (箴言27:11)
 この辺はどのように解釈しますか。
 ヨブが死んでから数百年後の言葉です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ 神は人間に要求しているのですか。《わたしが返答するため》というのが 実際に何らかの返答をおこなうのであれば わが子が賢くあることは ただ神にのみ分かるように賢くなることでよいのでしょうか? そうすれば 神は《嘲弄者に返答する》ことが出来る。
 あるいはそうではなく わが子は 賢くあって《神を嘲弄する者》に何らかの姿を見せよということでしょうか? そうすれば 《神が返答した》ことになるであろうと。
 いやぁ あるいはもっと別のことなのでしょうか?

 ● ~~~~~~~~~
 毒麦についてですが、
 神が何を「しないか」考えたんですが、
 1.毒麦が育つのをとどめない
 2.毒麦が育つのを手伝わない
 こうで、よいですか。
 ~~~~~~~~~
 ☆ たぶんですね 麦である人と毒麦役の人とのあいだで ときが満ちるまで何らかのいざこざが起きている。ときが満ちるなら 収穫のときになることだとも考えられますから――そのときには 毒麦は麦とははっきりと違う姿になるのだそうで―― おのづから区別もされるでしょうし いわゆる批判も成されるということではないでしょうか? その間たしかに何をしないかと言えば それら二点は 言わば中立でもあり そのようであると思えますね。つまり 毒麦役の人が あくまでおのづから成るように成らせるのだし 為すように為させるのだと。好きなようにさせつつ ときを俟っている。

 ★ ~~~~~~~
 ところで毒麦はもう消えたのですか。
 これから先、現れないのですか。
 よく分かりません。
 ~~~~~~~~~
 ☆ たぶんですが わたしがもっときたえて欲しいと思えば わたしは自分に毒麦役が与えられるでしょうね。――でも これまで つねに決して欲していないのに 周りにその役の人がいたようにも感じます。

 ★ ~~~~~~~~~
 どのように悪魔になるのかについては、
 やっぱりよく分かりませんが、ここでしょうか。
 「心はほかの何物にも勝って
 不実であり、≫必死になる≪。
 だれがこれを知りえようか。」
  (エレミア17:9)
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 《必死になる》の箇所ですが。《 desperately wicked (KJV)》。
 ▲ (エレミヤ書 17:9 新共同訳)  人の心は何にもまして、とらえ難く≫病んでいる≪。誰がそれを知りえようか。
 ▲ (口語訳) 心はよろずの物よりも偽るもので、≫はなはだしく悪に染まっている≪。だれがこれを、よく知ることができようか。
 ☆ わたしの手元にある辞書では
 ○ ’anash : ひと(人); to become quite ill
 ○ ⇒(ギリシャ語訳(= Septuagint ) ἄνθρωπός( anthroopos ):つまり 《ひと》である。

 ☆ テクストの問題があるのでしょうか? よく分かりません。
 いやぁ 悪魔の生成する過程も分かりませんが ちょっと思うところでは むしろきわめて人間的な最高の徳を目指していた人が 或る日突然 《必死になり・悪に染まり・病んでしまう》のかも分かりません。

 ひどっちさん すみませんでした。ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-13 00:09:42

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ほかにもお応えする欄があるのをよいことに いま夕食前に取り急ぎお礼を述べます。

 おおむね見解が一致して来たように思われて ありがたいことと思います。

 ★ これは、先のエレミヤ書の預言にもございますように、律法に従う”僕”から、愛に従う(生きる)”父・子”の関係への移行によって、モーゼのときの律法中心の時代から飛躍をとげていることは事実かと考えられます。
 ☆ なるほど。こういう観点をお持ちでしたか。(すでに受け取っていましたが)。つまりわたくしは 罪を忘れるという点だけを推し出していましたが それに加えて身内や家族の間柄になるといった観点ですね。
 そう言えば イエスも どこかの時点で 弟子たちに対して もはや師匠と弟子の関係ではなく友だちと呼ぼうと言っていませんでしたか? 〔それに わたし(イエス)よりも大きな仕事をするようになるだろうとも確か言っていましたね。もっともその務めを成し遂げることが出来るのも キリストなる神の力だということのようですが〕。


 そうしてふと思ったのですが 《人間イエスは 神の子であり神であるキリストである》と見る物語は どうも思うに かつて質疑応答のやり取りをした《ザビーヌ事件》を想い起こさせました。
 ザビーヌにとってその事件が 《蚊が差しただけ》であると見る見方に通じるようだと。

 アダムとエワが楽園を追われたあとの人間の世界には もうかれらが原罪を犯す前の人間の状態で生まれてくる者はいないと決めつけられていた。親の因果が子に報いの世界ですね それこそ。
 アブラハムあるいはダヰ゛デあるいはイザヤそのほかの預言者たちやヨブやにとっては 原罪は《蚊が差しただけ》と声を張り上げて言い募りたい。少なくともそののぞみを持った。その夢を失おうとは思わなかった。それが イエスの出現につながった。
 このイエスという男は のぞみや夢を持つなどというお上品な態度には終わらなかった。われがその夢であり夢の原動力であると言い張った。
 そのことが現実であると――少なくとも物語において非思考の庭において現実であると――ユダヤ人やローマ人やほかのすべての人びとが分かるためには ユダヤ人たちがイエスにその発言はウソだと白状させようとして磔の死刑をもって迫らなくてはならなかった。ところが この十字架刑は――つまり要するに イエスが死を死ぬという手段を採ることは―― 神のそして同時にキリストの(つまり 父と子との)はからひによるものであったと。
 人間イエスは 大泣きに泣いて盃を取り除いてくださいと願い 神の子であり神であるキリストは みづからのぞんでその死地に就いた。イエスも最期まで神に従順であった。

 途中でローマ兵が足を折ってイエスを楽に死なせてやろうとしたとき〔でしたか〕 すでにイエスは息を引き取っていた。
 このあと《復活》のうわさまで出て来たわけですが こうしてこの第二のアダムのあとの人間世界では 《そんなことは 蚊が差しただけだよ》と堂々と言えるようになったのだと思います。
 もし人間はみな悪魔を父として生きているのだとすれば もうこの主張やザビーヌ発言は金輪際通らないだろうと思われます。いまでもあたかもアクマのようになって うたがいのプロとして《活躍》する人たちが存命中であるのが ちらほら見られるようです。ミスター・猜疑心だとか ミズ・検察官ないしミズ・誹謗中傷人だとか。・・・



 にゅうとらるさんのご回答へも 各論は残していますし ひどっちさんへもこのあと各論を考えてまいります。

投稿日時 - 2011-03-12 20:32:46

ANo.33

ぶらじゅろーぬさん、おはようございます。
宙ぶらりんです。
ご返信ありがとうございます。

わたしには本当に分からないので
24番以降ずっと眺めておりました。

ちっともまとまりませんが、
気になったことをパツッパツッと書きます。

24番の回答に間違いがありました。
誤:「わたしの像に、わたしと似た様に・・・」
正:「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に・・・」
(創世記1:26)
ひどっちさんもどこかで書かれていましたが、
ここでも複数形でした。

わたしの認識がおかしいのかもしれませんが、
存在するようになった順番は、
1:神(初めも終わりもない)
2:独り子イエス
3:神の言霊からみ使いが誕生
4:神とイエスとみ使いで天と地を創造
5:神とイエスとみ使いでその他を創造
だと思っていました。
いえ、間違ってるかもしれません。

神の目的は
「子を生んで多くなり地に満ちてそれを従わせよ」
(創世記1:28)
「義なる者たちは地を所有しそこに
 永久に住むであろう」
(詩編37:29)
で、
「わたしの口から出て行くわたしの言葉も
 それと全く同じようになる。」
(イザヤ55:11)
なので(どんな場合でもご自分の目的を果たす)、

「わるくなったみ使い(中傷する者)」が
たしかに存在するような気がするのですよ。

ぶらじゅろーぬさんはときどき、
試練も「神が」与えているとおっしゃっていますが、
「神が」ではないのではないかい?
とわたしは思ってしまうのですよ。

この辺はどのように解釈していますか。
「全世界が邪悪な者の配下にある」
(ヨハネの第一の手紙5:19)

「磔による死でアダムらからの原罪があがなわれた」
という部分はわたしにもピンときません。

ヨブ記の中で、悪魔が、
神に「異議を唱える」ところがありますね。
ひとの「動機」についてです。
「動機」についてです。
たとえば
「人は魂のためなら、
 持っているすべてのものを与えます」とか。
(ヨブ記1:9~2:6あたり)
ヨブも(苦難の)原因は神にあるのだと考えますが
悪魔の主張が誤りだと証明する様子が
書かれています(ように思えます)。

それから
「わが子よ、賢くあって、わたしの心を歓ばせよ。
 わたしを嘲弄している者に
 わたしが返答するためである」
(箴言27:11)
この辺はどのように解釈しますか。
ヨブが死んでから数百年後の言葉です。

毒麦についてですが、
神が何を「しないか」考えたんですが、
1.毒麦が育つのをとどめない
2.毒麦が育つのを手伝わない
こうで、よいですか。
ところで毒麦はもう消えたのですか。
これから先、現れないのですか。
よく分かりません。

どのように悪魔になるのかについては、
やっぱりよく分かりませんが、ここでしょうか。
「心はほかの何物にも勝って
 不実であり、必死になる。
 だれがこれを知りえようか。」
(エレミア17:9)



ちっとも回答になっていませんが、
またしばらく消えます。
いつも書きっぱなしですみません。

投稿日時 - 2011-03-12 10:33:12

補足

 ★ ~~~~~~~
 正:「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に・・・」
 (創世記1:26)
 ひどっちさんもどこかで書かれていましたが、
 ここでも複数形でした。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ この複数形は (1) 尊敬の複数 (2) あとづけとして三位一体の三つの位格ゆえ だと言われています。
 この場合 主語は 神の複数形(エローヒーム)で 述語動詞は 三人称単数形というふうになっています。《わたしたちは つくろう / わたしたちの像に わたしたちの似た様に》の《わたしたち》は そのようです。

 次の節では 《自分の像に 神(エローヒーム)の像に》と書いています。《自分》は単数形です。
  ◆ (創世記1:27) 神(エローヒーム)はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ この内容を図式において示したのが ありますので参考にしてください。あるいは批判をしてください。

 ○ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ___________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ___________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは このままでは わたしは天使をどこにどう位置づければよいかは分かりません。
 なお三位一体ですので 《光の源(父)とかがやき(子)とそれらの明るさやあたたかさ(聖霊)》は 互いに位格を別にしつつも 互いに一体であり それらの間に時間的な差はありません。光のたとえでは 時空間のひろがりがあるように見えてしまいますが。

 ★ 神の目的は
 ☆ 分かりませんが 人間にとっては神を知ることでしょうね。真理を知れば きみは自由になると その損得勘定のようにでも イエスは言っていたかと思います。

 ★ 「わるくなったみ使い(中傷する者)」が / たしかに存在するような気がするのですよ。
 ★ 試練も・・・「神が」〔与える〕ではないのではないかい? / とわたしは思ってしまうのですよ。
 ☆ これは 感覚において直接的な相手なりその情況なりのことを言っているように思うのですが?

 ★ ~~~~~~~~~
 この辺はどのように解釈していますか。
 「全世界が邪悪な者の配下にある」
 (ヨハネの第一の手紙5:19)
 ~~~~~~~~~
 ☆ ですからこれが アダムからの罪の受け継ぎのもとにあるとしたら人類は あたかもアダムらをそそのかした悪魔を父として生まれて来ている。というように見える。というその風景を言っているのだと見ます。

 ★「磔による死でアダムらからの原罪があがなわれた」 / という部分はわたしにもピンときません。
 ☆ 善悪を知らなかった状態にあるアダムらが原罪を犯した。死の棘が刺さった。そして死へとみちびかれる。
 生命が人間となってこの世に来た。罪のない存在〔という想定〕。その自死ではない死。これで一人の人間の生涯が終わったのでその性格ないし人格ないし境地が決まった。アダムらの原罪を犯す前の人間という状態(存在)があると宣言された。
 もし原罪から人を自由にするのに 代償が必要なのなら イエスはそのみづからの死であがなった。
 悪魔のもとに人類はさらわれていたとするなら あたかも身代金をその死で払って救い出した。

 ★ ヨブ記:悪魔の主張が誤りだと証明する様子
 ☆ 損得勘定で神を畏れているのではない(もしくは 真理がもたらす自由のためという損得勘定のみ)というのでは?
 (ニ千字)。

投稿日時 - 2011-03-12 23:26:09

お礼

 にゅうとらるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。まづわたしは アクマ学は知りません。天使については 思想ないし観念と見て済ませて来ました。
 いくらか悪魔について触れられていた内容を記憶の限りで寄せ集めて 手さぐりでアクマ論を始めています。天使に到っては 初心者です。

 こういう話を思い出しました。すでにここでも回答として寄せたことのあるものです。イエスが歴史的にどういう系譜にあるのかの議論です。それによっていまのやり取りの始まりについて説明します。




 そもそもの初めにはアブラハムが来ます。《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声を聞いた。ぢゃあ どこへかとも定まらずに そうしようかと成りますね。《神がかり》と言われても仕方のないように。
 次に(モーセは飛ばしますが)この《神がかり》が昂じてと言いますか ダヰ゛デは こう表現した。

  《きょう わたしは おまえを生んだ》と神が言った。

 と。何らかのかたちでその内面に 《なぞの何ものか》がおのれの父であり 存在の根元だとでも受け取ったのでしょう。そして言うとすれば すでにアブラハムの初めから 無根拠を根拠とする生き方が始まっています。その系譜がつくられています。

 さらにイザヤが 神がかりに遭った。つまり《無根拠の何ものか(ヤハヱー。存在せしめる者。主の霊)が わたしに臨んだ》とまで表現した。
 あるいは われは《目覚めた》というようなことでしょうか。そのような自己表現も あるでしょうね。アブラハムは 《行けと言われたから 行った》という自己表現であり――そうとすれば―― ここから尾を引いているのだと思います。おのれの存在はこうだとまで言っているとも捉えられますから いわゆる存在論であるとも考えられます。

 イザヤは 社会的な弱者をそのまま自分のこととして受けとめたようで こう表現した。

   これは 《なぞの何ものか》がわたしに油を注いで 
   貧しい者に良き知らせを宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げるためである。
    (イザヤ書 61:1-3)


 さらに時は飛んで イエスが来ます。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のこと。

   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い
  てある箇所が目に留まった。

    《存在せしめる者の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。
     存在せしめる者がわたしを遣わしたのは 
     貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を
     告げ知らせるためである。》
    (=つまりイザヤ書 61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人
  びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 
     ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち
      に実現した。
  と話し始めた。
     (ルカ4:17-21)


 という《存在》をめぐる歴史物語なのではないでしょうか?
 わたしは この究極のお節介版としての存在関係論が――むろん 虚構としてですが―― 《存在》にかんする人類最大・最高の思想であると考えます。
 すなわち アダムとエワの歴史的なあやまちを もういっぺん元に戻した。つまり これらの神がかりの系譜では アダムとエワの・そのまちがいより前の存在を取り戻したかった。ニ千年かけて何世代をも受け継いで この物語をつづりつむぎ編んだ。編み切った。イエスの活動と磔の死とさらにそのあとの世界までもにわたって。人間が復活したとさえ悪びれずに言うまでに。

 わたくしは脳天気ですので 単純にこの話〔の伝えるなぞの何ものか〕のことを信じたのです。
 その非思考の庭を持ってこの世を渡ることになりましたし そうすることにしました。
 わたしは単純に自由を所望いたしますので 自由でない思想や自由にさからう思想に対して 真っ向から批判し対決に出ます。
 そうしているうちに どうも聖書関係の書物が《あくま》と呼んでいるハタラキがこの世にははたらいているようだと受け取るようになった。その経験のあと――その対決がそろそろ収束に向かうであろうと思った頃から―― アクマ学をまとめておこうという欲求を持ちました。
 それから このようなやり取りがつづいている。
 このようです。

 まづは事情説明です。

投稿日時 - 2011-03-12 13:37:51

ANo.32

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ☆ ルカのこのくだりは 考えさせられます。《悪霊が屈服する / サタンが落ちる》という事柄です。

 以下愚見を述べさせていただきます。

> ☆ しかるべき時には 神の国の外交官に対しては悪霊も服従し その元締めというべきサタンも 力を落とすものだと知られましょうか?

 「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」 このことにより、サタン(悪霊)をも服従させうる力をこの72人が得た と解釈してございます。
 ただ、興味深いのは、悪魔を屈服させる力を持つことよりも、「名が天に書き記されていること」ことの方を重要視していることでございます。

> つまりこのように弟子たちがイエスから力を与えられ 悪霊に向かい合う場合にそのサタンが《天から落ちた》という必要はないように思われるからです。

 仰るとおりかと存じます。理由は以下のとおりでございます。
・まず、「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」 つまり、これはイエスが直近の話のことを述べられているということ。
・ですが、堕天使とは、既に(少なくとも数百年前には)天使から堕していたこと。

> 《傲慢・嫉妬・自由意志》というように擬人化して捉えるなら 《人間の能力と努力を超えたハタラキ》という認識から逸れます。(または 人間のものとは別種のそれらだという定義になるように思われます)。

 確かに、これは難しい問題かと思われます。ただ、ヨブ記におきましては(福音書におけます主イエスに対してもそうなのですが)、サタンが、挑発してみせる等、“自由意志”を持っているかのように察せられるのですが……..

> ☆☆ イエスは天使にまさる / 人間は天使にまさる
 ☆ についてです。ヘブル書のみになりましたが。

 ご教示いただきまして、厚くお礼申し上げます。
 
> 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

 確かに、仰られるとおりかと存じます。ただ、若干の例外もあるようにも思えるのですが(以下をご参照くださいませ)。

ユダの手紙 6、7節 (共同訳)
一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。

> エレミヤ書については 次のように《神を父とする子どもたちという境遇》に注目していただいたかたちですが その次のように 《すでに神は人びとの罪を覚えていない》と言うまでになっていることにも注目していただきたいとは思うのですが。

 ご忠告どうもありがとうございます。
 そうでございますね。ただ、この「人びとの罪」の“罪”とは何を指すのかでございますが、おそらく、文脈から致しますと、シナイ契約後の様々な罪(偶像崇拝等です)と思われるのですが……原罪まで含まれるものなのでしょうか。

> ☆留意しますし おおむね妥当だとは思います。思いますが なにせ黙示録は全体としてわたしにははっきりしません。ですから腑に落ちたという感覚がありません。と率直にお伝えいたします。

 そもそも、「黙示録」は、“正典”に加えられるかどうかにつきまして、非常に議論されてきたかと記憶してございます。従いまして、解釈には注意が必要かとも推察されます。

 誠に、心苦しいのですが、「磔による死でアダムらからの原罪があがなわれた」という理論がございますが(ほぼ定説かと推察されます)、この部分が愚生には、今ひとつ理解できないところでございます。もしよろしければ、ご教授の程賜れば幸甚に存じます。

 話がかわるのですが、N市の方では、地震の程はいかがだったでしょうか?愚生が調べた限りですと、余り問題はなかったように聞いてございますが、何事もなければ、いいのですが....

 それでは、よろしくお願い申し上げます。

投稿日時 - 2011-03-11 23:04:05

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そちらも特別な被害はなかったようですね。よかったです。と同時に そうとも言えないほどの大きな地震でしたし まだ余震があるようでもあります。このたびは何だか警告が発せられたかのように 感じてしまいました。

 ★ ただ、興味深いのは、悪魔を屈服させる力を持つことよりも、「名が天に書き記されていること」ことの方を重要視していることでございます。
 ☆ ルカ10:18につきましては このことを肝に銘じつつ おおむね見解が合ったようですね。

 ★ 確かに、これは難しい問題かと思われます。ただ、ヨブ記におきましては(福音書におけます主イエスに対してもそうなのですが)、サタンが、挑発してみせる等、“自由意志”を持っているかのように察せられるのですが……..
 ☆ そうですねぇ。ひとつ考えたことは 表現の問題だという見方です。人間の側にそのような気持ちや思いや意志があるのを 天使やあるいは神の側にその動きがあるように表現するという捉え方です。
 ちょうどいま読んでいるアウグスティヌスによる詩篇の講解では次のようなくだりが出て来ます。
 ▲(創世記22:12) あなたが神を畏れることをわたしは今知った。
 ☆ これは神がアブラハムの信じる心を試したあと言っているわけですが これを文字どおりにとれば《以前には神は知っていなかったのか》と問わなければならなくなる。だからそうではなく アブラハムのほうがみづからの内面のことを知らなかったのだ。だからその試みのあと アブラハム自身が 自分は神を畏れる者であると知ったのだと。(詩篇注解 43編)。
 もしこの表現形式を当てはめるなら サタンがヨブやあるいはイエスを挑発したり試したりするというとき 人間としてのイエスやヨブが まだ――まだなお人間としては――完全ではなくきたえられるためであったと。あるいはもっと単純に周りの人びとが イエスやヨブについて ただしい人だがまだ疑われるところがあると思っていた。そのことを サタンの思わくといったかたちで表現しているのだと。
 ひとつの見方だと考えます。
 〔そもそも 《ねたむ神 / 怒る神》というのも 表現の問題だという見方を提出しています。つまりは 雪の降る夜はたのしいペチカというとき ペチカがたのしいのではなく ペチカの周りにいる人びとがである。ならば ねたむ神というとき 神がねたむのではほんとうにはなく 神のもとにいる人びとがであるのだと〕。

 エレミヤ書の《罪を忘れる》について:
 ★ そうでございますね。ただ、この「人びとの罪」の“罪”とは何を指すのかでございますが、おそらく、文脈から致しますと、シナイ契約後の様々な罪(偶像崇拝等です)と思われるのですが……原罪まで含まれるものなのでしょうか。
 ☆ これは イエスの死によるアダムからの原罪(または そこからの派生するもろもろの罪)のあがないの問題とつながっているようです。
 原罪のつぐないを果たしたのだと見る見解を持ちます。

 それは イエスには罪がなかったという捉え方にもとづくものです。そんなばかなことはないと見るユダヤ人たちを初めとしてすべての人びとの疑いにイエスはおつき合いをしたからです。無実の罪で死刑の裁きを受けるというかたちを採ったわけですが 無罪の人間を死なしめたというとき 原罪を犯さない人間がいたと人びとは知らなければならなかった。
 この筋に関するかぎり イエスは第二のアダムとなったのだと。第一のアダムからの世代を超えての原罪の言わば連綿と続く相続を断ち切った。その死であがなった。
 言いかえると それまで人びとは原罪をひきずって死の棘がささった状態であって 死ぬさだめにあり つねに死が終着駅であった。そのように言わば悪魔が地上には君臨していた。この原罪をひきずらない人間としてのイエスの十字架上の死によって このじんるいの死〔の状態〕が死んだ。イマヌエル(神われらとともにあり)なる存在が死を死ぬという手段をとおして それまでの・あたかも悪魔を父とするような人生を送るといういわば死の状態が 避けられないさだめだと見る必要がなくなった。
 イエスの十字架上の死にわれわれもあやかって 悪魔による監禁状態をまぬかれ得ると知った。
 また そのようにエデンの園〔よりもさらによい状態〕へと再生しうるというメッセージをもらった。
 《めぐみの上に めぐみを》。

 ただし確かに このいまただちに《復活》がかなうわけではないようです。したがってその再生をあかしする言わば手付け金として 聖霊を送ると言われた。霊による洗礼を受け 非思考の庭が心に現われる。つまり 復活が成るまでは 無根拠を根拠とする信仰によって人びとは歩むというかたちを与えた。

投稿日時 - 2011-03-12 00:08:20

ANo.31

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> 軌道修正とまでは行きませんし そうであってもなくてもよいという考えでいますが 別の角度から話を整理してみたいと考えました。

 了解致しました。今後とも、愚見お聞きいただければさいわいでございます。

> ( ζ ) ならば 悪魔はもう要らない。一世代ごとのアッキたちがいるのみ。というようにも考えられて来るが どうか?

 実を申しまして、”悪魔”たるものは(霊的存在の可能性もあるため)分からない。この実像を迫っていきましても、また仮に仮説が成立致しましても、検証が不可能。 これらの点から、少し別の観点から攻めてみられるのもよろしいかと存じます。

> かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる(神による)恩恵によって滅ぼしている。

 まさしく至言かと存じます。

 明日にでも、各論につきまして、また回答をお寄せしたいと思っております。

 それでは、よろしく願い申し上げます。

投稿日時 - 2011-03-11 00:22:57

お礼

 ありがとうございます。
 こちらも了解しました。

 またこちらも各論でお応えできるところにお応えしてまいりたいと思います。直前のご回答にです。

投稿日時 - 2011-03-11 03:34:49

ANo.30

 続きからでございます。

> ☆ 《命の木》としては捉えていなかったのですが もしそうであればやはり《復活》ということではないでしょうか? 

 以下に、黙示録に見られます”復活”の様子(2回の復活)を示してございます。最終的には、子羊に選ばれた(”命の書”に記載された)ものたちが、「命の木」を得られるものと解してございます。

”第一の復活”
黙示録20章 4から5節
わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
ヨハネによる福音書 6章 54節
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

”第二の復活での悪魔に関わったものたちの裁き”
黙示録 20章13節
海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

> じっさい聖書記者ヨハネが記すには 《恩恵の上に恩恵を〔あたえる〕》わけですから。初めの恩恵は 原罪のあがないでしょうし さらなる恩恵は 復活のすがたであると捉えます。

[原罪のあがない(贖罪論)について]
参考
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/dogma02.htm 
http://en.wikipedia.org/wiki/Atonement_(satisfaction_view)
Wikipedia 贖い

 愚生の理解では、カトリックの贖罪論は、主にアンセルムスによるものかと記憶してございます。この問題につきましては、上記Wikiを読み終えた後に、再度ご報告できればと思っております(未だ全て読めてございません。誠に申し訳ございません)。

> そう言えば パウロは こう言っていませんでしたか?わたしたちは 天使たちよりもえらいのだと。

 詳細は存じていないのですが、神から“愛”を一身に受けるという意味におきましては、天使よりもひとの方が上かと推察されます。

 (B)としましては 原罪のあがないのあと 何が起こるのか? このありさまをしっかりと捉えるなら 死の制作者である悪魔について――つまり罪は 死の棘としてあり それが根本的につぐなわれたのですから 死に対する勝利にさえみちびかれると思われ―― もっと明らかになるようにも思えて来ました。

 了解致しました。さらに進んで参りたいと そう思ってございます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-10 00:13:13

補足

 ☆☆ イエスは天使にまさる / 人間は天使にまさる
 ☆ についてです。ヘブル書のみになりましたが。

 ◆(ヘブル書1:5)~~~~
 いったい神は、かつて天使のだれに、

  「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」
   (詩篇2:7――《あなた》とはダヰ゛デのこと)

 と言われ、更にまた、

  「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」
   (サムエル記・下 7:14――《彼》とはダヰ゛デのこと)

 と言われたでしょうか。
 
 ★(同上1:7) ~~~~~~
 また、天使たちに関しては、

  「神は、その天使たちを風とし、
   ご自分に仕える者たちを燃える炎とする」
   (詩篇104・4)

 と言われ、
 ・・・
 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

◆(同上2:5-9)~~~~~~~
 神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
 ある個所で、次のようにはっきり証しされています。

   「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。
   また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
   あなたは彼を天使たちよりも、
   わずかの間、低い者とされたが、
   栄光と栄誉の冠を授け、
   すべてのものを、その足の下に従わせられました。」
    (詩篇 8・4-6)


 「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方(* イエスを示唆する)に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
 ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。

 ◆(同上2:16) ~~~~~~~
 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-03-11 11:52:15

お礼

 項目別に覚え書きです。

 エレミヤ書については 次のように《神を父とする子どもたちという境遇》に注目していただいたかたちですが その次のように 《すでに神は人びとの罪を覚えていない》と言うまでになっていることにも注目していただきたいとは思うのですが?

 ★★(回答No.29)この“新しい契約”では、以下の記述にも見られますように。“父”と“子”の関係という親密強固な関係となっていることが示唆されます。

 ◆(エレミア書 31:31-34) ~~~
   ・・・
   彼らはそれぞれ自分の同胞に、
   それぞれ自分の兄弟に、
   『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

   小さな者から大きな者に至るまで
   彼らはすべて、わたしを知るようになり、
   わたしは、彼らの不義を赦し、
   もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
  ~~~~~~~~~~~


 ★ 黙示録に見られます”復活”の様子(2回の復活)を示してございます。最終的には、子羊に選ばれた(”命の書”に記載された)ものたちが、「命の木」を得られるものと解してございます。
 ☆ 留意しますし おおむね妥当だとは思います。思いますが なにせ黙示録は全体としてわたしにははっきりしません。ですから腑に落ちたという感覚がありません。と率直にお伝えいたします。
 疑いがあるとしますと 次のふたつを挙げます。
 1. 《千年》というその数字にこだわるわけには行かないと考えます。仮りにそのように神の予知があって まったくそのままに歴史が進んだとした場合 それでもそのようなあらかじめの観念をいだいて人びとは生きるのではないと考えるからです。つまり 仮りにそうだったとしても それを知っていようといまいと 何の変わりもないと考えられます。
 つまり もしその数字を観念としていだいていた場合 その観念(あるいは思考)と信仰とどちらに基づいて生きるのかと問われなければならなくなります。

 2. 《終わりの日。またそのときに裁きが行なわれる》という同じくあらかじめの観念 これは もしそうだとすれば この《いま・ここなる〈わたし〉》にこそ当てはまる。つねにそうである。と考えます。それ以外に思考としては 用を成さないと考えるからです。
 物語として読んで 気休めになるとは思います。

 ☆☆ 《恩恵の上に恩恵を》
 ☆ について詳しく知りたいと思います。

 ◆(ヨハネによる福音書1:14-18) ~~~~~
 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、≫恵みの上に、更に恵みを受けた≪。

 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたからである。

 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ○ 第一のめぐみは 原罪をあがなったこと。みづからも死の制作者である悪魔に勝利し その悪魔のハタラキ全般に対して人びとが打ち克つ力をあたえた。
 ○ 第二のめぐみは 肉の身体から霊の身体に復活すること。肉は朽ちて行くが 霊において生きるということ。しかも どうも旧約の預言をも合わせて考えるに この地上で身体をもって再生すると読める節もある。《あたらしい天とあたらしい地》。

 ☆ わたしにいま考えられることは 寿命が二百歳になることです。これなら 二百年は人間が生きることにとって言わば永遠であるように感じられます。
 第二の恵みは 神直視とも言われます。すでに顔と顔を合わせて見るようになると。そのときには信仰は要らなくなる。信じているのではなく すでにこの目で見ている。ただし愛はそのまま残ると言っていますね。《真理をわが身にじゅうぶんに帯びる》というようなことでしょうか? 判断力のもんだいであるようにも考えられます。

 第二の恵みのほうも
 ◆ (コリントの信徒への第一の手紙 15:55) ~~~

  死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
  死よ、お前のとげ(=人びとの罪)はどこにあるのか。
  
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 悪魔のもんだいに大いにかかわっています。

投稿日時 - 2011-03-11 11:19:53

ANo.29

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

(A) 天使について。というよりは 堕天使=悪魔説について。なぜ《天使》の話になっているのか?
 ですが 問題は 堕天使からの悪魔の生成説にあります。
> 初めから霊的存在であれば 悪に落ち入り染まるというのも分かりにくいです。

 いわゆる“堕天使説”でございますが、以下のWikipediaのように、明確な聖書による記述が見当たらないのが、混乱を招いているものかと思われます(幾分、ユダの手紙は参考になるかもしれませんが)。

An explicit reference to a "fall" is found in Luke 10:18, often read as concerning the "fall" of Satan himself, although the New Testament never explicitly identifies Satan himself as an "angel"
http://en.wikipedia.org/wiki/Fallen_angel からでございます。
Luke 10:18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」)

ユダの手紙 6節 (共同訳)
一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。

 もし、天使が堕したと致しますと、天使にもまた“感情” and/or “自由意志”が存在していたと考えざるをえないと察せられます。
 その前提に立ちますと、以下のような種々の「仮説」が成立するものかと考えられます。

“傲慢”、“嫉妬”、“自由意志”によるもの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%95%E5%A4%A9%E4%BD%BF#cite_note-0 


(B) イエスは第二のアダムであるとする理論について。
> ヘブル書は パウロの書いたものではないと言われていますが いま引きます。つまりエレミヤ書31:31以下の文章についてです。つまり 第二のアダムの出現によってあたらしい契約が成るというくだりです。

 「彼らと結んだ契約のようなものではない。」の“契約”とは、モーゼとの契約(シナイ契約)のことかと推察されます。
 そこで、“新しい契約”でございますが、これは、以前の主従関係のような契約ではなく、さらに深い絆といった関係を示しているものと推察されます。この“新しい契約”では、以下の記述にも見られますように。“父”と“子”の関係という親密強固な関係となっていることが示唆されます。おそらく、ヘブル書で言わんとされていることは、エレミアの未来における契約成就の預言を引用し、そして第二の罪無き子として、イエスを定義付けしたものと思われます。

エレミア書 31章9、16から17説 (共同訳)
彼らは泣きながら帰って来る。わたしは彼らを慰めながら導き流れに沿って行かせる。彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。わたしはイスラエルの“父”となりエフライムはわたしの長子となる。   <中略>
主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。“息子たち”は敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。“息子たち”は自分の国に帰って来る。

 続きを述べさせていただきます。

投稿日時 - 2011-03-10 00:10:54

補足

 ★ ルカによる福音10:18
 ☆ についての資料を覚え書きします。《堕天使》の事項です。

 ▲ (wikipe.:Fallen angel) ~~~~~
  http://en.wikipedia.org/wiki/Fallen_angel

 ルカ10:18は 
 (1)サタンが天使だと はっきりは言っていない。
 (2)天からの墜落が サタンのことを言ったのかは定かではない。

 Luke 10:18, often read as concerning the "fall" of Satan himself, although the New Testament never explicitly identifies Satan himself as an "angel".

 (2-1)《稲妻のようにサタンが天から落ちる》のか《天からの稲妻のごとくサタンが落ちる》のかが 決められない。

 The translation "fall from heaven, like lightning" or "fall, like lightning from heaven" is disputed.
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ルカのこのくだりは 考えさせられます。《悪霊が屈服する / サタンが落ちる》という事柄です。

 ◆(ルカによる福音書10:17-20) ~~~~
 〔イエスがおとづれる町々へ前もって遣られたところの〕七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。

  「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

 イエスは言われた。

  「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。
  蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしは
  あなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つ
  ない。
   しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではなら
  ない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びな
  さい。」

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ しかるべき時には 神の国の外交官に対しては悪霊も服従し その元締めというべきサタンも 力を落とすものだと知られましょうか?
 つまりこのように弟子たちがイエスから力を与えられ 悪霊に向かい合う場合にそのサタンが《天から落ちた》という必要はないように思われるからです。天から落ちる(もしくは 善き天使であることを棄てた)のは それ以前においてサタンがサタンになったときのことを言うと思われるからです。そのあとサタンも イエスらの前に屈服すると言っているようだからです。
 けれども そのように神に背き刃向かうまでになったと言っても そのサタンも キリスト・イエスの前に力なき者であることは初めから分かっています。わづかにその力を発揮してもよいよと許されたときに出番があるだけなのだと初めから分かっています。ヨブ。

 そうしますと
 ★ もし、天使が堕したと致しますと、天使にもまた“感情” and/or “自由意志”が存在していたと考えざるをえないと察せられます。
 ☆ といった物語が編まれるというのは 確かに許されてサタンがサタンとしてのハタラキを行使することがあるということを人びとは言いたかった。
 それは 人間の能力と努力とでは容易に克服することが出来ないと見るので 《天使》という概念が想定される。しかも善き天使では話が合わないので 悪い天使である。ただし初めから悪いのではなく 善き天使であったものが みづからに逆らい神に逆らいついに神に刃向かうようにもなった堕天使だと捉えた。
 ★ ~~~~~~~~~~
 その前提に立ちますと、以下のような種々の「仮説」が成立するものかと考えられます。

  “傲慢”、“嫉妬”、“自由意志”によるもの
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように《天使》の想定から派生して来たものごとであるように考えられます。
 《傲慢・嫉妬・自由意志》というように擬人化して捉えるなら 《人間の能力と努力を超えたハタラキ》という認識から逸れます。(または 人間のものとは別種のそれらだという定義になるように思われます)。

 いづれにしましても キリスト・イエスに就くその外交官たちに対しては すでにサタンらのハタラキは原則として通用しないということになっている。
 ただしその《通用しない》ことが (1)まづただちに現われるわけではない。(2)ただちにではないどころか 長いあいだ実効性がとぼしい場合もあるだろう。(3)おそらくそれは 相手とのかかわりにおいて 相手の境地に《ときが満ちる》のを外交官のほうもいっしょに俟つのであろう。

投稿日時 - 2011-03-11 10:34:50

お礼

 そうですね。どうも質問者が司会進行役であるとすれば うまくこの役目をこなしていない。まづはこの自戒から入ります。

 ひどっちさん こんにちは。昨晩からはかなり時間が経ちました。応答のために時間をいただきました。ご回答をありがとうございます。

 軌道修正とまでは行きませんし そうであってもなくてもよいという考えでいますが 別の角度から話を整理してみたいと考えました。

 ( α ) イエス・キリストの十字架上の死とは何を意味するか?

   ( α‐1) 神がいわゆる原罪を犯したというじんるいをそこからすくうためには いろんな方法があったであろうが この・罪無しでの磔刑という方便がいちばんふさわしかった。

   ( α‐2) もしイエスがキリストとしてのみ・すなわち神の子であり神である存在としてのみ振る舞って たとえばその十字架から降りて来たとしたら どうか? そのように奇蹟のごとく救われて(つまり自分を救って)しまったなら それは神だからこそ出来るのだと人びとは思ってしまう。つまり自分たち人間はけっきょく 危機に遭っても逃げ道はないと考えてしまう。

   ( α‐3) もしキリストであるのに 人間イエスとしてのみ振る舞ったなら どうか? つまりキリストなる神として自分からこの盃を飲むという方便を用いるということでなかったなら どうか? そのときには すべては人間の心と意志と努力とによって人は生きるのだと思ってしまう。神としての光ではなく 人間のいわゆる理性や精神の光のみなのだと思い込んでしまう。

 ( β ) この磔による死でもしアダムらからの原罪があがなわれたとすれば 人間に根本的な誰もが避けられない《前科》は 消えた。か?

 ( γ ) モーセに与えられた律法そして人がこれに拠って神の子らとして生きることという生き方は 揚棄された。なぜなら 経験的相対的な歴史時間を超えたところで――つまり神の子なるキリストとしても振る舞ったと見るかたちで―― 死が起きたと人びとは捉えたなら。人間の心や意志や努力によって 律法にかなう人生を送るという生き方は止揚された。

 ( δ ) アブラハムの信仰という立ち場が あらためて言挙げされた。

 ( ε ) ところでこの原罪とその世代ごとの受け継ぎが超えられたというのは 死が克服されその死の棘としての罪が揚棄されたことではないか? つまりは 悪魔に対するキリストの勝利ではないのか?
 悪魔は このイエスの死の淵にまではよう来なかった。来ることはなかった。おそらくほんとうの死に接すると悪魔は 一たんそのそれまでの死の状態からよみがえって再生するのだが 再生した途端に ほんとうに死んでしまう。だから 死をおそれる。ドラキュラは 十字架をおそれる。

  ( ε‐1) したがって 第一のアダムらに代わって キリスト・イエスは第二のアダムとなって 原罪ののろいの世界からじんるいを《エクソダス(出エジプト)》させた。(しかもその導き手であったモーセのふるい契約に取って代わる《あたらしい契約》:エレミヤ書31:31以降)。

  ( ε‐2) ただし 世代ごとの・個人ごとの悪ないし罪は その個々の行為として行なわれつづけている。ちなみにアウグスティヌスの見るところでは 次のようだと言う。
   ▲ (ユリアヌス駁論 1・5〔16〕) ~~~

  かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられた
 わたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ち
 あふれる恩恵によって滅ぼしている。
  (金子晴勇訳=アウグスティヌス著作集) 
   ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ( ζ ) ならば 悪魔はもう要らない。一世代ごとのアッキたちがいるのみ。というようにも考えられて来るが どうか?

投稿日時 - 2011-03-10 15:43:42

ANo.28

 続きからでございます。

> 8.イエスの歴史的な出現によって アブラハムからのユダヤの神の信仰も ほかの民族における・もともと人間にそなわる自然本性が有効であるとする神学ないし信仰も すべての人に共通の 非思考の庭として 普通のことと受け取られるようになった。つまり原罪をことさら持ち出さなくてもよいようになった。この見方はどうか?
> 9.★(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。――☆ これは人間にとって《前科》であり 後ろめたいことであり われわれはそこにやましさを感じなければならないことなのか? 
> 18.そう見ないなら あいつは病んでいる。こいつもおかしい。と個々ばらばらにいつまでも互いに切り離された前科を突つき合っていることになる。

 ここでの“罪”とは、「神に対して信義を犯した」ということでございます。つまり、ひと同士で裁きあうことなど全く必要ございませんし、そもそもお門違いと思われます。また裁くこと自体、避けるべき行為であると解してございます。
 ですが、(神の)子羊を通してしか、“命の木”は得られないものと推察してございます。

> 12. つまり 自我も超自我もお望みなら無意識ないしリビドーも みんな自然本性の一環でありしかもおのおのの《わたし》である。《わたし》の感性であり理性としておもむくところである。 

 まったく、異論はございません。仰るとおりかと存じます。

> 14.むしろ原罪をどうでもよいと思っていた人びとのあいだにこそ このけっきょくは原罪に絡めて人間観を捉えるような精神分析の追求した内容が 人びとの心に食い込んで行っている。人びとはそのことにこだわろうとしている。
> 15.無意識が動けば 人はどうすることも出来ないのだという神話が出来てしまっている。

 非常に残念なことと思っております。後世の科学者等が、その無意味性を証明してくれることを切に願っております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-08 22:14:19

お礼

 ★ 非常に残念なことと思っております。後世の科学者等が、その無意味性を証明してくれることを切に願っております。
 ☆ あたかも《無意識》が けっきょくのところ《原罪》を背負うような人間存在のあり方として言い換えられたようなかたちではないかとも思えます。
 そうして むしろ良心的な考え方のもとに この衝動などとしての無意識に対するものとして抑圧的な超自我を立てることになるものというふうにです。
 これではかえって 袋小路に入っていくようだと考えます。一たんは分かったというさとりを得たようにも思うと思うのですが それは つねにリビドーと超自我とのつり合いのもとに得られるさとりであって つねに揺れ動いている。こう見られると思います。
 ★ 非常に残念なことと思っております。後世の科学者等が、その無意味性を証明してくれることを切に願っております。
 ☆ と重ねて引いてしるします。


 ★ ここでの“罪”とは、「神に対して信義を犯した」ということでございます。つまり、ひと同士で裁きあうことなど全く必要ございませんし、そもそもお門違いと思われます。また裁くこと自体、避けるべき行為であると解してございます。
 ☆ 直前のご回答でのやり取り そこでのエレミヤ書31:31以下の聖句 これについてご見解をたまわれればさいわいです。

投稿日時 - 2011-03-08 23:32:40

ANo.27

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> 天使は 被造物か? つまりこれもにゅうとらるさんが書いていたところですが あの《へび》が出て来るくだりでは それまでに・書いてあるとおりに《野の生き物》は創造されていますが 天使は触れられていません。どこから天使は現われるのか?

 以下の創世記の“我々”とございますが、(勝手に)天使も含められうると思っておりました。

創世記 3章22節から
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。…」

> またそもそも《天使》とは何か? 
 神の み使いであるなら それは人と神との媒介ということであり その媒介というものにわざわざ存在性を持たせた。そしてそれだけのことではないか?
> ☆ なぜ《霊的?》な存在であるのか? です。たとえばただ神の声と言ってはいけないのですか?

 別段、“神との媒介”等としてもよろしいかと思われます。ただ、以下の福音書には、その記述が見られております故、用いても別段差し支えはないものとも考えております。

ルカ 1章26から28節
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

> 1.神による否定命令(禁止)に背いたという所謂る原罪をおかしたとき そもそもの自然本性のおもむくところとしての善とそれにさからうマイナスの善(つまり悪)とを知った。
> 2.言いかえると この原罪をおかすというのは そうすることがなくてもエデンの園で生きていけたのに しかもそうする可能性もそなわっていた。つまりそれが自由意志であり この人間の意志によって神ないしおのれの心にさからった。

 自由意志はありましたし、また、その意志によって神ないしおのれの心にさからった と考えております。つまり、意見を等しくさせていただきます。

> 3.善としての《ウソでないこと》と善ではなくなる《ウソをつくこと》が生じた。
> 4.そこで人間は《色合いのついた紙》になった。つまりは自由意志は 自然本性そのままに善という心つもりを持ちそれをおこなうことも出来れば それにさからう内容をも意志として持ち得てこれを行ない得ると。

 残念ながら、愚生には“善”は分からずにおります。とりあえずは、次にすすめさせていただきたく存じます。

> 5.つまりはこの《色合いがついた》というのは 原罪としておかした悪が言わば前科として人類に世代を超えて受け継がれるのか? それとも 自由意志が悪をおこないうるという可能性を持つということ自体を言うのか?
> 6.わたしは後者を言うとしたほうがよいように思うのです。
> 7.しかも――なぜなら 特殊な歴史物語になりますが―― イエスの出現とその十字架上の死によって 原罪はあがなわれた。チャラになったなら 《前科》としての色つき状態は 消えたのではないでしょうか? 
> 10.けれども原罪はチャラになったのではないか? (エレミヤ書 31:31~)

 後者のみならず、愚生は前者も正しいと考えております(参考:ロマ書)。つまり、イエスの出現により(さらにはイエスを通して)、創世記では禁じられた“命の木”を手にすることが可能にる と解してございます(参考:コリント人1、マタイ伝、黙示録)。

ロマ書 5章12節
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

コリント1 15章22節
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

マタイ 7章19から21節
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

黙示録 22章1から2節
天使はまた、神と小羊(イエス)の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。

 以下、続きます。

投稿日時 - 2011-03-08 22:10:52

補足

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。もう少しかたくなを押しとおしたいと思います。

 (A) 天使について。というよりは 堕天使=悪魔説について。

 神との媒介に存在性を持たせて 天使としてもそれほど奇異なことではないとわたしも思います。
 ですが 問題は 堕天使からの悪魔の生成説にあります。
 特別ここがおかしいというわけでもなく さりとてなるほどこれで合点が行ったともなりがたい。ように思います。
 初めから霊的存在であれば 悪に落ち入り染まるというのも分かりにくいです。被造物であるなら 神がその天使を《われわれのひとり》と呼ぶのも 何となくしっくり来ません。

 けっきょくもし神のみ使いに 善い天使と悪い天使がいるのだとすれば たとえばこうすればよいとも考えられます。善い悪いを別として ともかく天使に 善いことを告げる役目も 悪いことを試練のごとくに人に与える役目も ともに担わせれば済むことのように思われるからです。
 言いかえると ことさら悪魔と呼ぶ謂われはないように思われます。人をきたえるために悪いことを内容とする試練をも神はあたえるのですから いちいち悪魔と呼ぶ細分化は要らないように思います。

 (B) イエスは第二のアダムであるとする理論について。

 ▲(ロマ書 5章12節) このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
 ☆ この第一のアダムに対して この罪をあがない死に対して勝利するイエスが 第二のアダムであるという説です。
 ヘブル書は パウロの書いたものではないと言われていますが いま引きます。つまりエレミヤ書31:31以下の文章についてです。つまり 第二のアダムの出現によってあたらしい契約が成るというくだりです。
 ▲(ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミア書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~
 >5.つまりはこの《色合いがついた》というのは 原罪としておかした悪が言わば前科として人類に世代を超えて受け継がれるのか? それとも 自由意志が悪をおこないうるという可能性を持つということ自体を言うのか?
 > 6.わたしは後者を言うとしたほうがよいように思うのです。

 後者のみならず、愚生は前者も正しいと考えております(参考:ロマ書)。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち《前者》の内容が一たん成って そののち第二のアダムのあとには 《後者》がさらに上書きされるかのように成り立ったと思うのですが?

 すなわち
 ▲ (コリント1 15章22節) つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
 ★ つまり、イエスの出現により(さらにはイエスを通して)、創世記では禁じられた“命の木”を手にすることが可能にる と解してございます(参考:コリント人1、マタイ伝、黙示録)。

 ☆ 《命の木》としては捉えていなかったのですが もしそうであればやはり《復活》ということではないでしょうか? 

投稿日時 - 2011-03-08 23:11:26

お礼

 パウロが言うように 自然の身体で生まれて来て 霊の身体に復活する。しかもこのいま此処なる現在の《わたし》としてです。むろんその現われは 時間差があるわけですが。
 じっさい聖書記者ヨハネが記すには 《恩恵の上に恩恵を〔あたえる〕》わけですから。初めの恩恵は 原罪のあがないでしょうし さらなる恩恵は 復活のすがたであると捉えます。

 そう言えば パウロは こう言っていませんでしたか? 

   わたしたちは 天使たちよりもえらいのだと。

 《えらい》というのは 卑俗ですが この際そうしときます。

 

 (B)としましては 原罪のあがないのあと 何が起こるのか? このありさまをしっかりと捉えるなら 死の制作者である悪魔について――つまり罪は 死の棘としてあり それが根本的につぐなわれたのですから 死に対する勝利にさえみちびかれると思われ―― もっと明らかになるようにも思えて来ました。

 (A)は そのとき なぜ《天使》の話になっているのか? だと思います。話として理解しますが 果たしてどういうふうに腑に落ちるのかは まだ分かりません。

投稿日時 - 2011-03-08 23:22:30

ANo.26

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

☆(No.24お礼欄) ~~~~~
 ( a ) 悪魔の生成の過程はいかにあるか?
 ( b ) またその霊としての悪魔に拠ってそのハタラキをわが身につけようとする人間のアクマ成りは どうであるか?
 ( c ) そこにおける決定的な要因は何か?
 ( d ) 悪霊という場合は 別の意味合いが添えられているか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

> ★ 偽メシア・偽預言者
 ☆ も加わりましたね。おおむね悪魔と同類としてよろしいようですが。現われ方などに違いが出るのでしょうか?
 そうしてもうひとつ 霊としての悪魔とあたかもその使者としてのへび(ないし そのアクマというハタラキを身につけた人間)の関係をめぐって 明らかにして捉えたい。

 以下の引用から、“アクマ=墜天使”説には、一定の説得力が認められるものと考えられます。またさらには、受胎告知をしたガブリエル等と同じような(霊的?)存在と推察されます。これに対し、“偽預言者”はれっきとした“ひと”としての存在と考えております。

エゼキエル書 28章13から16節 共同訳
お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶かんらん石、縞めのう、碧玉サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金でお前に着けられていた。それらはお前が創造された日に整えられた。わたしはお前を翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて火の石の間を歩いていた。お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見いだされるようになった。お前の取り引きが盛んになるとお前の中に不法が満ち罪を犯すようになった。そこで、わたしはお前を神の山から追い出し翼で覆うケルブであるお前を火の石の間から滅ぼした。

 なお、愚生は、”善悪”につきましては、つぎのように考えてございます。
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。…」(創世記 3章22節)

 つまり、それ以前は、ひとは”善悪”は知らなかった(「白紙」であった)。そして、そのとき初めて知ったと考えております。さらに申しますと、”善悪”に関する概念がそもそも存在しなかったものと考えております。ですが、結局は知るところとなり、その”善悪”の概念は以後の世代にも受け継がれていったものと推察しております(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。
 では、なぜ”善悪”を知る必要がないと神が考えたのかにつきましては、知る由もないのですが、おそらく、ひとに”善悪”の判断をさせまいとした、つまり、ひと(被創造物)同士で裁き合いをさせたくはなかった と解してございます(「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 からの類推でございます)。

 本題の( b )、( c)そして( d )に関しましては、全く触れておらず、誠に申し訳ございません。明日にでも、( g )( h )および( i )とともに、ご返答できればと思っております。

 最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-07 23:28:24

補足

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 聖書にもとづく神学として一般に共通の見解をおしえてくださったと思います。そしてこういったところにも わたくしの天の邪鬼は顔を出します。

 エゼキエル書にあったんですか。
 ★ 以下の引用から、“アクマ=墜天使”説には、一定の説得力が認められるものと考えられます。
 ☆ 解説を見ると ここは ツロ(レバノンでしょうか)の王という人物についてこの話は言い出されているのですね? ツロはエルサレムを従えていたということでしょうか。
 ▲(エゼキエル28:12) ~~~~
 「人の子(=エゼキエル)よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。

   主なる神はこう言われる、
   《あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。 ・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 28:13に出て来る《お前》は この《あなた》つまりツロの王のことだという枠組みがあるように思います。
 ただし引いてもらったくだりとしては 所謂る堕天使の話そのものですね。そして《エデンの園》なのですから。

 しかもなおまだしっくり来ないところがあります。
 ▲(同上28:15) お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったがついに不正がお前の中に見いだされるようになった。
 ☆ つまり《被造物》としてあるのですね?
 〔ちなみに にゅうとらるさんが《創造物》と書いておられたので 被造物か?とわたしは問うていますが いま辞書を見たら 創造物とも言うのですね?! 《神の創造物》とも。わたしには分かりにくいですが〕。
 天使は 被造物か? つまりこれもにゅうとらるさんが書いていたところですが あの《へび》が出て来るくだりでは それまでに・書いてあるとおりに《野の生き物》は創造されていますが 天使は触れられていません。どこから天使は現われるのか? 
 またそもそも《天使》とは何か? 
 神の み使いであるなら それは人と神との媒介ということであり その媒介というものにわざわざ存在性を持たせた。そしてそれだけのことではないか?
 と考えてしまうのです。

 この疑問は むろんアウグスティヌスにも逆らっていますし 異端っぽくさえあるとも思います。でもまだ腑に落ちません。
 堕天使となり それゆえ悪魔になった。この見方についてです。
 ★ またさらには、受胎告知をしたガブリエル等と同じような(霊的?)存在と推察されます。
 ☆ なぜ《霊的?》な存在であるのか? です。たとえばただ神の声と言ってはいけないのですか?

 ★ これに対し、“偽預言者”はれっきとした“ひと”としての存在と考えております。
 ☆ なるほどですね。これは はっきりしているというように受け取りました。アクマの役目を担うかのごとくであり ただし人間として登場するのだと。

 ★ ~~~~~~~~~~
 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。…」(創世記 3章22節)

 つまり、それ以前は、ひとは”善悪”は知らなかった(「白紙」であった)。そして、そのとき初めて知ったと考えております。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この善悪の中身についてはっきりさせたいと考えます。善と悪という概念をポーンと投げ入れるようにさづけたと仮りにしても その中身についてです。
 おのれの心にさからうこと――さからうなら 胸騒ぎを覚え顔を赤らめる――を 善に背くこととして悪と呼ぶ。こう受け取っていますが どうなのでしょう? つまり食べてはいけないと神から言われていたというところが おのれの心の面向くところであり それを善となづけるのだと。(つまりきわめて主観的な内容なのだと。ただし人には共通の感覚があり 主観が共同化されうるのだと)。

 ★ ですが、結局は知るところとなり、その”善悪”の概念は以後の世代にも受け継がれていったものと推察しております(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。
 ☆ ここが わたしのもっとも苦手とするところです。
 ○ ~~~~~~~~
 1. 神による否定命令(禁止)に背いたという所謂る原罪をおかしたとき そもそもの自然本性のおもむくところとしての善とそれにさからうマイナスの善(つまり悪)とを知った。
 2. 言いかえると この原罪をおかすというのは そうすることがなくてもエデンの園で生きていけたのに しかもそうする可能性もそなわっていた。つまりそれが自由意志であり この人間の意志によって神ないしおのれの心にさからった。
 3. 善としての《ウソでないこと》と善ではなくなる《ウソをつくこと》が生じた。

投稿日時 - 2011-03-08 07:05:00

お礼

 4. そこで人間は《色合いのついた紙》になった。つまりは自由意志は 自然本性そのままに善という心つもりを持ちそれをおこなうことも出来れば それにさからう内容をも意志として持ち得てこれを行ない得ると。
 5. つまりはこの《色合いがついた》というのは 原罪としておかした悪が言わば前科として人類に世代を超えて受け継がれるのか? それとも 自由意志が悪をおこないうるという可能性を持つということ自体を言うのか?
 6. わたしは後者を言うとしたほうがよいように思うのです。
 7. しかも――なぜなら 特殊な歴史物語になりますが―― イエスの出現とその十字架上の死によって 原罪はあがなわれた。チャラになったなら 《前科》としての色つき状態は 消えたのではないでしょうか? たぶん母斑として――ほくろや痣として――残っているかも知れませんが。
 8. イエスの歴史的な出現によって アブラハムからのユダヤの神の信仰も ほかの民族における・もともと人間にそなわる自然本性が有効であるとする神学ないし信仰(あるいはさらに別様に 無神論なる信仰)も すべての人に共通の 非思考の庭として 普通のことと受け取られるようになった。つまり原罪をことさら持ち出さなくてもよいようになった。この見方はどうか?
 9. ★(「色合いの付いた紙」に生来的になってしまった)。――☆ これは人間にとって《前科》であり 後ろめたいことであり われわれはそこにやましさを感じなければならないことなのか? ひと(他人)に対して その・初めはウソをついたことから始まると思われるおのれの前科を隠さなければならないのか? その前科があばかれることをおそれこれに防衛機制をみづから敷かねばならないものなのか? 
 10. けれども原罪はチャラになったのではないか? (エレミヤ書 31:31~)


 11. 自我・超自我・無意識(衝動)は それぞれの要素として人間に見出されるかも知れないが わざわざそのような仕組みとして人間存在を規定しそのような機制としての精神を大前提に置くこと これは要らないのではないか?
 12.  つまり 自我も超自我もお望みなら無意識ないしリビドーも みんな自然本性の一環でありしかもおのおのの《わたし》である。《わたし》の感性であり理性としておもむくところである。 
 13. 自由意志が おのれの肉の欲求に勝てないからと言って それは前科者がどこまでも・死ぬまでもふつうの人間に還ることができないことを意味するのだろうか? 自然本性は有効でなくなったのか?
 14. むしろ原罪をどうでもよいと思っていた(そもそも知らなかった)人びとのあいだにこそ このけっきょくは原罪に絡めて人間観を捉えるような精神分析の追求した内容が 人びとの心に食い込んで行っている。人びとはそのことにこだわろうとしている。
 15. 無意識が動けば 人はどうすることも出来ないのだという神話が出来てしまっている。衝動にかられることと 衝動にかられるということを知っていることとは 別である。後者は人間の《わたし》である。それは 無意識を包みこんでいる。そういう自然本性である。
 16. 《ウソをついた》のも 《わたし》である。わたしとしての自然本性は 無意識の欲動の起こるそのつど その動きに屈服しつつも その灰の中からよみがえる。だから 自我も超自我もこの自然本性としてのわたしの一部であって わたしに包まれてある。それは 日本晴れの快晴である。
 17. その晴れた空の中に色合いがつくのであって 地がすべて色つきだとは思われない。もし空がすべて色つきであったとしても それは人間みながそうである。それとしての共生となる。互いの前科を互いに覆い隠すほどに包み込み合っている。
 18. そう見ないなら あいつは病んでいる。こいつもおかしい。と個々ばらばらにいつまでも互いに切り離された前科を突つき合っていることになる。
 ★ では、なぜ”善悪”を知る必要がないと神が考えたのかにつきましては、知る由もないのですが、おそらく、ひとに”善悪”の判断をさせまいとした、つまり、ひと(被創造物)同士で裁き合いをさせたくはなかった と解してございます(「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 からの類推でございます)。

投稿日時 - 2011-03-08 07:49:23

ANo.25

 こんにちは、Hidocchiでございます。

 まずは第一幕が終了したところでございましょうか。以下、思うところを列記してございます。

(1)悪魔について

ヨハネ 8章 43から44節
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

ヤコブの手紙 3章 14から15節
しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。


 ヨハネ伝におけます”あなたたち”とは、文脈からファリサイ派の人々を指しています。一方、ヤコブの手紙では、「この世は悪魔の影響も受けている」といったところかもしれません。
 「悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」(この人殺しとは、単なる生物学上の死ということではないと推察されます)、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」、つまり、アプリオリに、”悪”にように読むことができます。さらに申しますと、悪魔になる要因をひとは持ち備えているともいえるのかもしれません。


(2)”偽預言者”についてです

ヨハネの黙示録 20章 10節
そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と”偽預言者”がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

マタイ 7章15節
「”偽預言者”を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。

マタイ 24章24節
偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである

ヨハネの手紙一  4章5節
偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。

 黙示録では、”偽預言者”と悪魔とは同類のものとしております。そこで、マタイ伝、ヨハネの手紙では、その”偽預言者”の特徴を示しているように察せられます。こちらは、ひとにもじゅぶんに可能なものかと思っておりますが、いかがなものでしょうか。

 最後まで、お読みいだいまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-06 14:28:07

補足

ひどっちさん ご回答をありがとうございます。

 課題はかんたんではないようです。
 まづ一般的に次のようだと確認します:

 ☆☆(No.24お礼欄) ~~~~~
 ( a ) 悪魔の生成の過程はいかにあるか?
 ( b ) またその霊としての悪魔に拠ってそのハタラキをわが身につけようとする人間のアクマ成りは どうであるか?
 ( c ) そこにおける決定的な要因は何か?

 ( d ) 悪霊という場合は 別の意味合いが添えられているか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 しかも今回
 ★ 偽メシア・偽預言者
 ☆ も加わりましたね。おおむね悪魔と同類としてよろしいようですが。現われ方などに違いが出るのでしょうか?
 そうしてもうひとつ 霊としての悪魔とあたかもその使者としてのへび(ないし そのアクマというハタラキを身につけた人間)の関係をめぐって 明らかにして捉えたい。

 ★ ・・・「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」、つまり、アプリオリに、”悪”のように読むことができます。さらに申しますと、悪魔になる要因をひとは持ち備えているともいえるのかもしれません。
 ☆ このとき:

 ( e ) 悪魔になる要因とは何か?
 ( f ) その要因をひとが持ち備えているとは どういう状態を言うのか?

 というふうにも問いたいです。それはちょうどはこぶるさんとのやり取りで わたしが次のように答えたところに絡んでいるように考えるからです。長く引用します:


 ☆☆(No.23お礼欄) ~~~~~~~
  ● ~~~~~~~~~~~~~~
   >この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。
  :
  のは、一旦抑圧を抱え込んでしまった無意識が、それをいずれ吐き出さざるを得ない、といういつ終わるともしれないミッションを抱え込んでしまった、と自覚するからなのでしょう。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ ここで違いがあるとしたなら それはわたしの場合 初めには何も想定していないということです。そしてその状態が――自然本性として―― 言うとすれば善だと見るわけです。

  ● ~~~~~~~~~~~~~~~~
  こうしてみると、
  あくまで私的な解釈ですが、嘘というのも、防衛機制の一種なのでしょう。
  防衛機制の親分格である、抑圧にも似ていると思います。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ というときの《防衛》すべき問題などを何も初めには持たないという点です。初めのふつうの善 ここからウソをつくという見方です。ですから《防衛機制》をつくるためではなく それをつくる必要もない。それなのに人間は 自分の心にさからって 最初のウソをつく。
 ですから もし抑圧やその逆の混沌的衝動的自由を心に想定するというのは この初めてのウソの以前に何らかの後ろめたさややましさを持っていると見ることだと捉えます。
 つまりは逆に言えば 人間は白紙の上にウソをついて色を塗るのであって 前々から色がついていたのではないということ。ということは むしろどうしようもない愚かさのもとにあるゆえに アクマはその成り行きの果てとしての死をさとった。それゆえ 人びとみんなにそのさとりを伝授したくてたまらない。というとんでもないハタラキが生まれてしまいます。
 もしこのアクマがいないと見る場合には もともと人間はアッキになる素質があったということになります。白紙で生まれて来るのではなく人間は 何がしかすでに色がついている。アッキの色合いを帯びている。したがって 《その色つきを人に暴かれることをきらいこれを守ろうとしてウソをつく》とあなたは見る。そういう防衛機制を持つことになるのだと。
 こういう人間観ないし存在論の違いがあります。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ( g ) 生まれたままの自然本性に《後ろめたさややましさ》あるいは《アクマになりうる要因》がそなわっているのか?
 ( h ) たぶんそうではなく ひとは自由意志をそなわっており この意志の自由な選択によって 心に逆らわない善をもそしてあるいは逆らうところのマイナスの善(つまり悪)をもえらぶことができる。その過程において《アクマになりうる要因》が発生する。ということではないか?
 ( i ) ちなみにですが その意味では(もしそうであるなら) ひとは自然本性としての心に 《超自我》も《混沌的衝動的な無意識》もそなえてはおらず むしろそれらふたつの間に位置づけるかたちでの《自我》 これすら 持ち合わせていない。つまりそれらは あくまで後天的な性格特徴として出来あがったものである。

投稿日時 - 2011-03-06 16:02:07

お礼

 すなわち精神分析は 入門即卒業であるとき その意図した心の安定が得られる。すなわち 精神分析は その分析の道具や内容にこだわることなく ただちに卒業するとき 精神分析の必要のない・元の自然本性に還ることができる。のではないか?

 ( j ) ▼(ヨハネ福音8:44) 悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
 ☆ このようであるとき わたしはアウグスティヌスが次のように言ったのを記憶としては聞いています。
 ○ 悪魔も多少とも真理に触れ得たのである。
 ☆ たとえば無常観ないし諸法無我説は 経験的相対的にものごとを見るという空観であり世界観であり真理の一部を成すものと思います。ところが これを相対主義としてその極致に持って行ったときには 何事もやってみるのはよいが やってみたあとどうせ人は死ぬのだという仮説にみちびく手はずになっているのではないかと思います。
 ▼(マタイ福音7:15) ”偽預言者”を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
 ☆ これにいくらか似ているとは思いました。ぴったりではないようですが。
 ★ ・・・その”偽預言者”の特徴を示しているように察せられます。こちらは、ひとにもじゅぶんに可能なものかと思っておりますが、いかがなものでしょうか。



 ただいまとしまして このようなところです。

投稿日時 - 2011-03-06 16:19:34

ANo.24

ぶらじゅろーぬさん、こんにちわ。
宙ぶらりん@休止中ですが
ずっと気になっていたことなので
ちょっとだけお邪魔します。
(空気ちっとも読んでません。)

相変わらず勉強不足でして、
「初めからの蛇(啓示12:9)」については
わたしにはちっとも分かりません。
どのように存在するようになったのか、
分からないままです。

創世記3:1の時点で、
なぜすでに存在してるんですか?
「完全な創造物」しか存在しない状況で、
み使いが「自ら」「わるく」なったのは何で?
・・・と不思議なんですが、
ぶらじゅろーぬさん、分かります?

「自由意志」を持っていたから、ということしか
わたしには分からないんですが、
どのように存在するようになったんでしょう。
正直で立派だった人が
唐突に泥棒になるみたいなもんですか。

たしか「悪魔」の原語は「中傷する者」、
「サタン」の原語は「反対者」、でしたか。
「悪魔」はなぜ俺様を崇拝させようと
考えるようになったのですか。
そもそもなぜ俺様を崇拝させることができる、
と思ったのですか。
わたしにはちっとも分からんのですが、
ぶらじゅろーぬさん、分かります?



話が飛ぶんですけどね、わたしは、
人間が悪魔になることは、な・い!
と思ってるんですがおかしいですかね。

「初めに光透波がおり、・・・。」(ヨハネ1:1)
「わたしの像に、わたしと似た様に霊止を造り、」
(創世記1:26)



また話が飛ぶんですけどね、
創造者が悪魔の支配を許しているくらいですから
呼気のようなわたしにできることといえば、
「悪魔」からなるべく離れている、
ように心がける、くらい、かなあ、
とも思うんですよ。
自由意志の使い方、の問題でしょうか。





「悪魔」が、
「俺様の失敗率は99.999999999%だ」と
自分で気付くには、






さらにたくさんの失敗と
さらにたくさんの時間、






が必要、ってことでしょうか。
まだ、とても長いですかねえ・・・。
いや他人事ぢゃないんですが、
覚悟しといた方がいいかなあ、
と思うだけ、ってことです。

しゃべりっ放しですが
またしばらく消えます。

投稿日時 - 2011-03-05 17:29:05

補足

 こんにちは。しばらく振りです。ご回答をありがとうございます。

 むつかしいですねええ。おまえ ここらあたりをもっとしっかりと読んでみたまえと言われているようで。

 今回は できるだけ神学用語や聖書からのくだりを持ち出さないように表現するよう心がけていました。考えが止まったとしても あまり参考にでもちらっと紐解くということもしないで来ました。もっとも黙示録は 見てもきちんとした読みが出来ていませんので 単なる部分的な参照になるだけですが。
 いやぁ
 ★ 光透波(ことば) / 霊止(ひと)
 ☆ という言い方が昔からあるようなのですね。初めて知りました。

 ★ 創造者が悪魔の支配を許しているくらいですから / 呼気のようなわたし
 ★ 人間が悪魔になることは、な・い!
 ☆ いちおう次のようにいま認識しているところと呼応していると言っていいでしょうか?
 ☆☆(No.10お礼欄) ~~~~~
  ○ 【麦と毒麦】 ~~~~~~~~~~~~

   神――・・・―→ 良い麦〔その種 を蒔く〕
   〃――悪 魔―→ 毒麦〔その種を 蒔く〕:これをゆるしている。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そしてつまり悪魔は やはり《霊》でしょうか。

 ★ 「初めからの蛇(啓示12:9)」
 ☆ あぁ ここに用語としてわんさか出ていますね。同格です。
 ▲ (黙示録12:9) ~~~~~~ 
 ὁ  δράκων  ὁ  μέγας ( the great dragon )
 ὁ  ὄφις  ὁ  ἀρχαῖος  ( that old serpent )
 ὁ  καλούμενος  Διάβολος  ( called the Devil )
 καὶ ( and )
 ὁ  Σατανᾶς  ὁ  πλανῶν  τὴν  οἰκουμένην  ὅλην
  ( Satan, which deceiveth the whole world )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ たしか「悪魔」の原語は「中傷する者」、
 「サタン」の原語は「反対者」、でしたか。
 ☆ 次のようにそのとおりに確認します。
 ▼ ( Online Etymology Dictionary ) ~~~   
 http://www.etymonline.com/index.php?search=devil&searchmode=none

 "Devil( diabolus ), Satan" (scriptural loan-translation of Heb. satan), :
  in general use "accuser, slanderer,"
  from diaballein "to slander, attack,"
  literally "throw across," from dia- "across, through" + ballein "to throw"
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 創世記3:1〔* 《造られた野の生き物のうちで へびが最も狡猾であった》〕の時点で、 / なぜすでに存在してるんですか?
 ☆ だとすれば 次の書き込みをそのように(存在するというように)直します。
 ☆☆(No.12お礼欄) ~~~
  ● 悪魔
  1. ● 創世記には出て来ない。
  2. そこでの《へび》はどうか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは 《黙示録 12:9》が《歳を経たへび( アルカイオス=初めからの・古い)=初めからの蛇》と言うからには この創世記のへびのことを言っているはずですから。

 ただし先ほど悪魔は霊だと考えましたが 創世記は《造られた野の生き物》としてこの蛇に関しては記しています。これは 霊としての悪魔とその言わば使者としてのへびという関係なのでしょうか?
 こういうことは 考えて来なかったです。
 もし被造物にもかわわるのだとしたら 確かに《自由意志》の問題であるようにも思われます。
 ★ ~~~~~~~~
 「完全な創造物〔* 被造物?〕」しか存在しない状況で、
 み使いが「自ら」「わるく」なったのは何で?
 ・・・
 「自由意志」を持っていたから、ということしか
 わたしには分からないんですが、
 ~~~~~~~~~~
 ☆ でも《み使い》であるなら 被造物ではない? ううーん。すみません。思考停止です。(あぁ でも意志はあるでしょうね)。

 ★ 正直で立派だった人が / 唐突に泥棒になるみたいなもんですか。
 ☆ これについては 同じような趣きで考えたことがあります

投稿日時 - 2011-03-05 21:29:26

お礼

 ○ ~~~~~~~~~~~
 それはそれは 努力の人がいました。指導者を目指しており しかも同時に 謙虚です。
 人間的になろうとし 実際になり ますます人間的になり もうこれ以上は人間的になれないというほどの人間になったとき周りを見渡すと だれも この謙虚と見識の深さに重きを置いていないと気づく。勝手にやっていることだというわけです。
 そして自分自身も この《徳》の高さは けっきょく相対的なものであって みながどんぐりの背比べであると覚ります。
 ここから ふつうの生活をいとなむふつうの人間に立ち戻れば よかったのですが(そして そうした人びとも いたでしょうが)そうではなく 既存の秩序は守らねばならぬと考え 既得権益については失いたくないという方向へ走りました。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というお話です。少しニュアンスが違うかとも思いますが。

 ★ ~~~~~~~~
 「悪魔」はなぜ俺様を崇拝させようと / 考えるようになったのですか。
 そもそもなぜ俺様を崇拝させることができる、 / と思ったのですか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そういう見方からの切り口ですか。わたしは相対主義の極致として すべてはどっちもどっちだという見方(つまり ドングリの背比べだということ)を伝授し普及させようとした。という踏み出しを見ていました。その結果 のっぺらぼうなる死のしかも甘美の国にその人びとをいざなって そこで確かに崇拝される王さまになっているかとも見られます。

 ★ ~~~~~~~~~
 「悪魔」が、
 「俺様の失敗率は99.999999999%だ」と
 自分で気付くには、






 さらにたくさんの失敗と
 さらにたくさんの時間、






 が必要、ってことでしょうか。
 まだ、とても長いですかねえ・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここらへんが 今回のご回答のミソでしょうか。イエスは自分が《すでに勝利している》と言っていますから どうなんでしょう? とも思ったりしました。が 今回は保留とします。

 今回のはこぶるさんとのやり取りで直前のNo.23へのわたしの応答は 書いてみたら意外とうまく答えているではないですか。かれの精神分析論に対するちょっとした批判をも盛り込むことが出来たのではないかと 我れながら 出来すぎだというようにすら思えて来ています。

 悪魔の生成の過程はいかにあるか?
 またその霊としての悪魔に拠ってそのハタラキをわが身につけようとする人間のアクマ成りは どうであるか?
 そこにおける決定的な要因は何か?

 悪霊という場合は 別の意味合いが添えられているか?

 などなど できましたら よろしくお願いいたします。
 

投稿日時 - 2011-03-05 21:52:21

ANo.23

#22です。

別に怒っているわけではありませんよ。
極めて冷静です。

> たぶん ですが このアクマの風潮がただよっていると たとえば核装備の道にすすむ・中国やロシアや韓国・北朝鮮と戦争をしてでも領土を守れと言う・菅政権はどうにでもなれという合唱を繰り広げる・ワ゛-チャルなヱブ上では何をしてもいいのだと勘違いする・人の言うことを聞かなくてもよいと思ってしまう・・・とおそれられます。どうでしょう?

いや、それはそうなんですが、そもそも、自分を悪魔だと考えている人間はいないわけで、その点に着目する必要があるのではないでしょうか。
ヒトラー、ポルポト、フセイン、関東軍、仮に悪鬼でも良いですが、最初から悪鬼になろうという心積りはなかったはずでしょう。
みな、祖国の、果ては人類のためという思惑が当初はあったわけです。
しかし、こうした人間の内面に、悪魔のハタラキが兆してしまった。
人間を悪鬼に変えるハタラキを悪魔と呼ぶのであれば、こういうことでしょう。
特に歴史を顧みるまでもなく悪鬼に不自由しない世界にはなっているわけですが、なぜアクマ的ハタラキが顔を出すのか、という点を詰めない限り、アクマの存在証明のみに拘っても何の解決にもつながらないと思うのですけどね。

> そこで このアクマは どこでどうやって生まれたか?――分かりません。わたしたちに出来ることは そしてそうしたほうがよいと思われることは そのハタラキからみんなが自由になること この一事です。つまり アクマの生成する現場のことが分からなくても 対処していかなくてはならないとは思います。

視点というか論点の決定的な食い違いがここにあるのでしょうね。
悪魔から自由になること、逃げることはできませんよ、おそらく。
自らも(むろん、誰もがという意味ですが)その分身を常に飼っているわけですから。
飼いならしバランスをとっていく以外にないはずです。
とりやすいようにする知恵が求められることになるでしょう。
とりあえず、今回のご質問にたいするお答えとしては、このあたりをもって潮時とさせていただきます。
以下は余談です。

>ここでさらに特徴となることは 《死》という要因でしょう。むろん存在や生きることが善だとすれば その欠損としての死は 負の善 つまり悪です。

このことについて、特にここで論議するつもりはありませんが、存在や生きることが善だとは思われません。
単に、存在であり、生きることそれだけであって、無ではない、というだけの現象にすぎないと思います。
つまり、死も同様に悪でも善でもない、と思います。

> 人は 物心がつく前には・そして初めてウソを一つつくその前までは 世界はどこまでも続き宇宙は限りなく広がっていた。その意識すらなく 遊泳していた。ところが ほんの何気なくついた一片のウソから この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。

面白い考え方ですよね。しかし、わかりやすいです。こうしてみると、
あくまで私的な解釈ですが、嘘というのも、防衛機制の一種なのでしょう。
防衛機制の親分格である、抑圧にも似ていると思います。
嘘をつくことによって、明らかにしてはいけない(できない)真実を無意識下に押さえ込もうとする働きです。
ただ、嘘は(その根源を辿れば)何らかの他者からの規制によって発生します。
嘘をつかないと自分の中の何かしらを守れなくなるのではないか、という強迫観念に駆られてしまうのでしょう。
むろん、思い過ごしとしての強迫観念の場合もあるでしょうし、実際に守れなくなる場合もある。
>この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。

のは、一旦抑圧を抱え込んでしまった無意識が、それをいずれ吐き出さざるを得ない、といういつ終わるともしれないミッションを抱え込んでしまった、と自覚するからなのでしょう。
  

投稿日時 - 2011-03-04 23:38:41

お礼

 そうですね。ここらで一幕を終えるところでしょうか。

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。アクマは たしかにアッキをつくるハタラキなのですが アッキが出来あがる前の段階では むしろ人間の善意やいわゆる愛に対して もしそうだとしたら激しい憎悪の火を燃やしてその愛や善意を消してしまおうとかかるのだと捉えます。
 活きた心や気持ちのみづみづしさ これを極端に嫌うのだと思います。
 そうして 均し棒でそのあふれ返る部分を均して顔をのっぺらぼうにしてしまう。そういう意味で 世界を死の状態に行き着かせる。

 そうして首尾よく出来上がったアッキたちは そうだとしたら 悪行をおこなうようになる。こう捉えます。
 アッキ製造の過程は アッキを直接に作り上げるのではないという特徴があります。
 のっぺらぼうの顔を見てしまった人間は 心が腐ってしまって――文字どおり腐ってしまって――そのあと ぢゃあもうどうでもいいや 悪でも罪でも何でもござれ もう怖いものはないのだうんぬんと言って アッキになって行くのだと見ます。

 ですからこののっぺらぼう宇宙を人に見させるそのハタラキを それはそういうアクマのハタラキなのだよと 互いに警戒するようになるとよいと考えます。枡からあふれ出る米なり豆なりを均し棒で――ちょっとブルドーザーを連想させますが――均していくハタラキのことです。
 いま《千日回峰行》の質問が上がっています。このような難行苦行について価値があるのだという論調は ぎゃくのかたちで均し棒を働かせているようにも感じます。善や愛といった価値のあることではなく そういう目に見えないものごとではなく 或る意味で即物的なものごととしての修行というコト これに目をやるように持って行こうとするのは 善や愛に対して均し棒を遣うことになります。即物的であるのにその中身があいまいなモノゴトへ目をやるようにさせる。これは アクマのハタラキであると見ます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~
  >この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。
 :
 のは、一旦抑圧を抱え込んでしまった無意識が、それをいずれ吐き出さざるを得ない、といういつ終わるともしれないミッションを抱え込んでしまった、と自覚するからなのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで違いがあるとしたなら それはわたしの場合 初めには何も想定していないということです。そしてその状態が――自然本性として―― 言うとすれば善だと見るわけです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 こうしてみると、
 あくまで私的な解釈ですが、嘘というのも、防衛機制の一種なのでしょう。
 防衛機制の親分格である、抑圧にも似ていると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ というときの《防衛》すべき問題などを何も初めには持たないという点です。初めのふつうの善 ここからウソをつくという見方です。ですから《防衛機制》をつくるためではなく それをつくる必要もない。それなのに人間は 自分の心にさからって 最初のウソをつく。
 ですから もし抑圧やその逆の混沌的衝動的自由を心に想定するというのは この初めてのウソの以前に何らかの後ろめたさややましさを持っていると見ることだと捉えます。
 つまりは逆に言えば 人間は白紙の上にウソをついて色を塗るのであって 前々から色がついていたのではないということ。ということは むしろどうしようもない愚かさのもとにあるゆえに アクマはその成り行きの果てとしての死をさとった。それゆえ 人びとみんなにそのさとりを伝授したくてたまらない。というとんでもないハタラキが生まれてしまいます。
 もしこのアクマがいないと見る場合には もともと人間はアッキになる素質があったということになります。白紙で生まれて来るのではなく人間は 何がしかすでに色がついている。アッキの色合いを帯びている。したがって 《その色つきを人に暴かれることをきらいこれを守ろうとしてウソをつく》とあなたは見る。そういう防衛機制を持つことになるのだと。
 こういう人間観ないし存在論の違いがあります。

 人間は白紙で生まれて来る。それなのに 畏れを知らないかのようにウソをつきイツワリを言う。それゆえ その果てとしての死が 思想の根幹に据えられ アクマはここに人をみちびく。
 もしそうでなければ 適当に(と言っても極悪も出ますが)悪人をアッキとして出すだけであるから 互いにその悪の取り扱いを自分の内外においてうまく均衡させて世の中を渡っていけばひとまづ安心であり 人間万歳! というところまで行けるかも知れない。死は善でも悪でもないと見る。
 こういう違いであるように思われます。

投稿日時 - 2011-03-05 00:54:36

ANo.22

#21です。

> アッキは もしそういうアクマのことを少しでも知ったら そんなことでよいのだろうかと心のどこかに思うことがある。そういうキャラクターであり アクマとは一線を画している。こう考えます。どうでしょう?

そうですね。
アクマをそのように定義すること自体に特に異論はないのです。
つまり、頭の先から爪先まで、一片の隙もなく全身悪で覆われている、というか全身、それ自体が100%の悪という組成である、そういうものですよね。
言ってみれば神の対極としてでしょうから、そういったものを想定してもよいでしょう。
絶対善の象徴として神、絶対悪の象徴としての悪魔、ということになるでしょうか。
しかし、私が言いたいのは、人間=神ではないように、人間=アクマでもないでしょう、ということです。
これではちょっと弱いかもしれませんね。
さらに言えば、
仮に神となる人間がいたとしても、最初から神であったわけではないはずで、それと同様に、最初から悪魔であったわけではない、ということです。
この例には異論がおありかもしれませんが、いずれにせよ、悪魔の成り立つ、そこには「過程」があったわけで、その過程が何の因もなく生じるはずはありません。
仮に意志だとしても、その意志が生じた因が必ずあります。
しかし、ブラジュさんは、そこには一切目を向けず、つまり、それは悪鬼に対して適用できる理屈であると強弁するばかりです。
「悪魔生成の過程」はない、あるいはその過程が生じた原因については無視しても構わない、というお立場でしょうか。
その因を無視して悪魔を定義しようとしても、果たして何が得られるのか、私には全くわかりません。
どうしようもない徹底的な徹頭徹尾の悪というハタラキを悪魔という言葉で象徴する。
これだけの話でよいと思うのですが、悪魔に関しては。
悪鬼こそを検証の対象としてなぜダメなのかよくわかりません。
(このように分類した功績?は認めていますが)

>社会環境や世の中というもの・あるいはこの人間としての自分というもの これらをさとりの一瞬には超えたのだと考えます。

たとえば、そういった過程があるわけですよね。
なぜ、
>一瞬にして超えた

のでしょうか?

たぶん、水掛け論になりそうなので、特に新しいご見解が示されない限り、私の出番はここまでとさせていただいたほうが、貴重なお時間の浪費を防ぐことにもつながるでしょう。
お邪魔しました。
どうぞ、温泉に入りなおしてください。
  

投稿日時 - 2011-03-04 14:49:54

補足

 おぎないです。

 ★ 悪鬼こそを検証の対象としてなぜダメなのかよくわかりません。 / (このように分類した功績?は認めていますが)
 ☆ たぶん〔の連続ですが〕 アッキだけなら どうせ死ぬのだから〔核兵器を持とう・おとなりの国とドンパチをやってもよかろう・相手が目に見えないヱブ上なら 何をやってもいいんだよ 遠慮しなさんな・・・〕と言ったやぶれかぶれは ひとまづ食い止められるのではないかと考えます。
 ですから アクマというハタラキの問題をも いま現実のこととして 哲学の主題として俎上に載せたほうがよいと考えられます。

投稿日時 - 2011-03-04 20:35:59

お礼

 はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まあ そんなにお怒りにならないでください。
 わたしにしても 急所は分からないのです。
 どんなことでも疑問を出し合うことは いいことだと考えます。

 ただしこのところ アクマ特殊論の一辺倒で その根拠を示し得ず 候補者の名前のみを喚呼しているという状態がつづいているということ。これを残念ながら みとめます。

 今回のご指摘について 分かっていること・あるいは違いとして捉えていること これらをしるします。

 ★ ~~~~~~~~~
 〔アクマは経験世界を〕なぜ、
  >一瞬にして超えた
  :
  のでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりません。そう解釈しなければ アッキとは違う何らかのハタラキが実際に受けとめられることがあるというわたしの経験を理解し得ないからです。そして ちょうどクリスチアニズムの系譜では このアクマ論があったので それとも照らし合わせている。こういった道半ばにあります。

 ★ 「悪魔生成の過程」はない、あるいはその過程が生じた原因については無視しても構わない、というお立場でしょうか。
 ☆ ですから 分からない。という現状です。その過程について いくらかの想像と推測をおよぼしている。この現状です。

 ★ その因を無視して悪魔を定義しようとしても、果たして何が得られるのか、私には全くわかりません。
 ☆ このおっしゃる方法が ふつうの経験科学なり哲学のものです。
 つまり現状は 経験事例と神学のアクマ論とを突き合わせて問い求めている。となります。たぶん ですが 《原因》は書いてないのではないでしょうか?
 天使のうちのひとりが 悪の道に堕ちた。その堕天使に始まるといった仮説はあるようですが。
 この仮説は いまのわたしには ただただ頭からそのままの内容をかぶることでしかないので ほうっておいてあります。

 ★ どうしようもない徹底的な徹頭徹尾の悪というハタラキを悪魔という言葉で象徴する。
 ☆ ここでさらに特徴となることは 《死》という要因でしょう。むろん存在や生きることが善だとすれば その欠損としての死は 負の善 つまり悪です。
 あるいは この物語を広げるなら:
 人は 物心がつく前には・そして初めてウソを一つつくその前までは 世界はどこまでも続き宇宙は限りなく広がっていた。その意識すらなく 遊泳していた。ところが ほんの何気なくついた一片のウソから この世界はきわめて狭く区切りをつけられるようになった。そう見えるようになった。この区切りというのは 煮詰めて言えば この生の終わりつまり死ということです。
 この死にかかわることはすべて 便利な言葉としてアクマを持ちそこに集めて処理しようと思ったかも知れません じんるいは。

 善を損なう思惟や行為 これを負の善として悪と言う。この悪を犯したとき 何ものかに対して(つまり自己に対してか隣人に対してか社会に対してかあるいは畏れをいだくべき何ものかに対してか)わたしはあやまちましたと述べて悔いるとき それを罪と言う。
 ですから この悪ないし罪は けっきょく死へとみちびくきっかけであり 死の棘と名づけられています。

 悪ないし罪を犯すことを好むようになるアッキたちがいるとき このようなアッキたちになるよう人びとをさそいみちびくハタラキ これはアクマであると定義します。人びとよ 死んだ状態になれという誘いの言葉を つねにささやくというハタラキだと見ます。むろんその実際の表現は もっと甘い中身として表わされるのでしょうが。

 ★ どうしようもない徹底的な徹頭徹尾の悪というハタラキ
 ☆ たぶん これは アッキの極致ではないかと考えます。アクマのハタラキは もうほうっておいても このアッキの動きをするようにみちびくそれだと思います。死を甘美なものとして あたかも蚕が繭の中につつまれたというように見させるその力であり実際のテクニックであろうかと考えます。

 そこで このアクマは どこでどうやって生まれたか?――分かりません。わたしたちに出来ることは そしてそうしたほうがよいと思われることは そのハタラキからみんなが自由になること この一事です。つまり アクマの生成する現場のことが分からなくても 対処していかなくてはならないとは思います。

 たぶん ですが このアクマの風潮がただよっていると たとえば核装備の道にすすむ・中国やロシアや韓国・北朝鮮と戦争をしてでも領土を守れと言う・菅政権はどうにでもなれという合唱を繰り広げる・ワ゛-チャルなヱブ上では何をしてもいいのだと勘違いする・人の言うことを聞かなくてもよいと思ってしまう・・・とおそれられます。どうでしょう?

投稿日時 - 2011-03-04 20:30:20

ANo.21

#19のお礼を拝見する前に20を投稿していました。
以下は#19のお礼に対する返答です。

> すでにやり取りを済ませているように 生まれ育った家庭や環境 そしてその人自身の感受性だとかの交通形式などなどいろんな要因がかかわっているとは考えます。とうぜんですね。しかも 決定因は それらに非ず みづからの意志だと断じます。

なぜ「それらに非ず」という結論が導かれているのでしょうか。
その根拠は?
あやふやにしか思えないので、「要因がかかわっている」とおっしゃるのはおそらく口先だけではないでしょうかね。
私はむしろ、決定的要因として「有る」と思います。
最終的なボタンを押すのはむろん自らの意志でしょう。
その意味での責任は大いに、というか、それこそ決定的にあります。
責任を取るのは当然の理屈です。
しかし、その理由が、そのような悪魔であるから、という理由だけであるなら、先の展望はどう見えてきますか?

>淡い論拠としては いかなる境遇にあろうとアクマのハタラキを身につけようと思えば その人はそうするのだ。こう推し測るからです。

彼(彼女は)なぜ、
「アクマのハタラキを身につけよう」
と思う(思った)のでしょうか?
そのような衝動に駆り立てた要因は何だったのでしょう。
どう思われますか?
彼(彼女)が、そういった資質を持っていたからだ、ということではないですよね。
  

投稿日時 - 2011-03-03 22:30:01

お礼

 つづいてです。

 ★ ~~~~~~~~~~~
  ☆☆ 生まれ育った家庭や環境 そしてその人自身の感受性だとかの交通形式などなどいろんな要因がかかわっているとは考えます。とうぜんですね。・・・
  ★ 「要因がかかわっている」とおっしゃるのはおそらく口先だけではないでしょうかね。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。《かかわっている》というのは 生まれや育ちあるいは家の周りの環境さらには学校など こういった要因を すべて自分の武器にするということになるでしょうか? その意志によるアクマ成りの瞬間をはさんで――その前にもとうぜんかかわっていたわけですが これを――そのあとには何もかもを無駄なく利用するようになるということだと見ます。

 ★ ~~~~~~~
  ☆☆ しかも 決定因は それら(環境要因)に非ず みづからの意志だと断じます。
  :
  なぜ「それらに非ず」という結論が導かれているのでしょうか。
  その根拠は?
 ~~~~~~~~~~
 ☆ おそらく いま上でも間接的に触れ得たとも思うのですが 社会環境や世の中というもの・あるいはこの人間としての自分というもの これらをさとりの一瞬には超えたのだと考えます。

 たとえば 人生八十年とします。子どものときかあるいは遅くとも二十歳前後のときでしょうか この八十年なら八十年を全部見とおしたのでしょうね。つぶさにということではなく これだけ生きてそして死ぬという見通しです。そのあと 人生において何をやるにしても その見通してしまった果ての果てにつなげて見てしまう。早い話が どうせ死ぬのだ。という見方になるのではないでしょうか?
 自分自身の思想として虚無主義であると言うよりは 自分自身の内なるものごとはどうでもよくて そうではなく 人生の《果て》ということ・あるいは老いぼれ果てた骸というもの これを何事にも覆いかぶせて見る。人にもそう見るようにさせる。いえ そう見ない者はゆるさない。というキャラクターが一瞬のうちに出来上がるのではないでしょうか。
 そうだとすれば 生まれ育った家や環境は それらが自分をつくる要因であるとは見ていない。自分は自分で自分をつくるのだ すでに出来上がったのだとさとった瞬間 それまでの環境要因の積み重ねをすべてその誕生した自分の行く末のために大いに活用する。何から何まで無駄なく用いる。その腕は天才肌なのだと思います。


 ★ 私はむしろ、決定的要因として「有る」と思います。
 ☆ ですからそれは アッキの場合ですね。そしてそれをアクマは超えていると見ざるを得ないと思うのですが。・・・
 ★ 最終的なボタンを押すのはむろん自らの意志でしょう。
 ☆ つまり環境要因を決定的なものとするみづからの意志決定 これを・ここまでを アッキも経験すると考えます。そしてそういう場合なら 一般にわれわれはかれらに寄り添って その過去の経歴について話を聞いてあげる。という政策はわたくしも有効だと考えます。アクマには お呼びでないと思います。

 人生の終わりを瞬間的にさとった。これが強烈な事件となったのでしょう。という意味は 周りにもし人生を有意義に送ろうという話をする者がいたり 青春を勉強と恋愛のうちに謳歌しようと言う者がいたり ましてや 人間の愛は永遠であると言う者がいたりしたら 絶対的に承知しないのだと推し測られます。アクマはです。すべてこれらのバラ色発言は 妄想であるとみんなに分からせたくて仕方がなくなるのでしょう。片っ端からけちをつけ そのバラ色を消してまわるという行動に出る。
 これは しかしながら きわめてアッキに近い姿として・つまりはアクマにしては極めて稚拙な姿として想い描いたものです。おそらくもっと辛辣に一刀両断のもとに それらの発言を斬って捨てるだろうと見るべきなのでしょう。
 そうしてアクマは 《みづからの存在じたいの 死の増殖》または 《死の増殖を人びとがその内面に思い描いたり実際に生じさせたりすること》 これらを主食として生きて行くのだと考えます。

 アッキは もしそういうアクマのことを少しでも知ったら そんなことでよいのだろうかと心のどこかに思うことがある。そういうキャラクターであり アクマとは一線を画している。こう考えます。どうでしょう?

投稿日時 - 2011-03-04 01:16:58

ANo.20

#19です。

>人をあざむくことしか生きる意味がないと思っているのでしょう。

だとすれば、これすら、これこそ、その人間のキャパシティの問題ではないでしょうか。
容量が不足している、といって責めるのでしょうか。
溢れさせて制御できなくなっている者に対してそう責めたとして、何がそこから生まれるんでしょうかね・・・。
まだ溢れない余地があるのだから、その範囲で大いに攪拌し、その濁ったキャパを拡張しようじゃないか、そのために喧嘩しようじゃないか、堂々と、というならわかるのです。
そのへんを見極めようというゆとり(行き過ぎると鼻持ちならない傲慢になってはしまいますが)は必要になってくるんじゃないでしょうか。

そのキャパに留まらざるを得なかった、その人間の不幸、というか、やるせなさといったようなものを(喧嘩の言葉の中に散らばせつつ、あるいは無言のうちに)一緒に嘆いてやり、せめては一般論的な解決方法を模索する方向で推し進めることによって、悪魔は安堵の寝息を立てることができるようになるのでしょう。
(人の構成要素のひとつであることは明らかですから、つまり、自分の一部でもあるわけで)殲滅するわけにはいきませんから、この方法しかないと思われます。
この意味でも、救う者は救われる者である、あるいは同義である、ということを言ってみたいですね。

謙虚なヒドッチさんあたりからすれば不遜な物言いに感じられるかもしれませんが、そのへんはよろしくおとりなしください。
単に表現の未熟さゆえでして、ブラジュさんに対しても他意は一切ございません。
         

投稿日時 - 2011-03-03 22:12:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ええっとですね。
 単純に別の見方を出すのですが アクマは 救済などは求めていませんよ。さとり切っています。自分の生き方が最高であり 自分は最高のキャパシティを持っていると自負しているはずです。

 その上で こちらがゆとりを持って それでもなお《すくい》の手を伸べるというのでしたら 分かるような気もしますが。
 ★ そのキャパに留まらざるを得なかった、その人間の不幸、というか、やるせなさといったようなものを(喧嘩の言葉の中に散らばせつつ、あるいは無言のうちに)一緒に嘆いてやり、せめては一般論的な解決方法を模索する方向で推し進めることによって、悪魔は安堵の寝息を立てることができるようになるのでしょう。
 ☆ この同情は アクマは一笑に付すと思います。残念ながら 根拠は わたくしの経験から言うのみですが。
 転んでもただでは起きないというキャラクターです。凹むということは そう見せかけたほうがよいだろうと判断したときでなければありません。徹底しています。弱いとか自分が負けるとか そういう言葉はあり得ません。
 【Q:ぱっくす・やぽにかは お気に召しますか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6554698.html
 そのNo.8は参考になりましょう。

 ★ (人の構成要素のひとつであることは明らかですから、つまり、自分の一部でもあるわけで)殲滅するわけにはいきませんから、この方法しかないと思われます。
 ☆ 殲滅しようとは考えていません。救おうとも考えていません。
 その《第二の死》へといざなうハタラキが 言わば不発に終わること そういう情況をつくりあげることが 当面の具体的な目標ではないでしょうか?
 ぎゃくに言えば 世界がそういう情況でしかなくなって来たら アクマは商売があがったりですから あぁおもしろくない もうこの稼業もやーめたということにならないとも限らない。そういうかたちで アクマ役の人間もすくわれるでしょう。

 何度でも言います。アクマは 特殊です。はこぶるさんは アッキ対策を述べておられる わたしにはこう思えるのです。
 まだなお根拠は弱いですから このように問い求めをつづけている。という状態です。

投稿日時 - 2011-03-04 00:34:23

ANo.19

#18です。
思い切り論点を絞ります。

>アクマは ふつうの人間にはその作用を身に帯びてはたらかせることは出来ないという結論にもなります。きわめて特殊だとわたしは受け取っています。

全く異論はありません。
その次の段階が問題なのだろ思われます。つまり、

なぜ特殊なのか、という理由を知ろうとはなさらないのでしょうか。
あるいは、特殊であることが、
>その人の意志あるいは心の問題になります。

とおっしゃる場合、特殊である理由として、個々の意志なり心の問題(それのみ、あるいは、殆んどの要素として、それ)に帰結せしめるのが妥当だとおっしゃっておられるのでしょうか。

つまり、極めて妥当な生育環境(とは何か、についてはさておきます。とりあえず完璧なる極めて妥当な生育環境を想定なさってください)において育った赤子ですら、自らの意志と心の命ずるところにより悪魔になる場合があるのだ。
こうおっしゃっておられますか?
まず、イエスノーからのご回答を期待いたします。
  

投稿日時 - 2011-03-03 20:32:32

お礼

 イエスです。まったく条件を何らつけずに そのとおりです。
 ★ ~~~~~~~~~
 極めて妥当な生育環境(とは何か、についてはさておきます。とりあえず完璧なる極めて妥当な生育環境を想定なさってください)において育った赤子ですら、自らの意志と心の命ずるところにより悪魔になる場合があるのだ。
 こうおっしゃっておられますか?
 ~~~~~~~~~~~~


 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。

 すでにやり取りを済ませているように 生まれ育った家庭や環境 そしてその人自身の感受性だとかの交通形式などなどいろんな要因がかかわっているとは考えます。とうぜんですね。しかも 決定因は それらに非ず みづからの意志だと断じます。
 淡い論拠としては いかなる境遇にあろうとアクマのハタラキを身につけようと思えば その人はそうするのだ。こう推し測るからです。つまりそうするのを妨げるものは 境遇の中にはいっさいないと見るからです。

 
 前回こう言いました。
 ☆☆ (No.18お礼欄) ~~~~~~~
  《自分の問題》は その決心がにぶったり破られたりすることを含めて《人をあざむくためにウソをつくことはしない》という誓いの問題がまづあり これを暗黙のうちにでもおこなった人間たちにとっては もうアクマの問題はないと言うべきだと考えます。
 それは ほかの人間でみづからアクマの力を身にまとおうとする場合を 言ってみればすでに弾劾しているからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 別の論拠を示します。 
 つまり 一たん《あざむきを含む偽りとしてのウソはつかない》と決めた人間は どこかで間違えてもし仮りにアクマの力を身につけようとした場合 まづ失敗すると思われるからです。無理だと思います。
 なぜならその人は いろんなことを顧みるからです。自分のこと・その過去の誓いのこと 周りの人たちのこと ウソとはどういうことなのかなどなどを心に返り見るからです。

 ぎゃくに言えば アクマ志願者は そんなことは一切ありません。おそらく相手に自分のいい姿を見せようとして たとえば自省する自分を示すことはあるでしょうが それはすべて《見てくれ》の問題です。すべてが 言わばかけ引きにおいてその発言も振る舞いも表わされて来るのだと見ます。自己表現の以前に すべての思惟は 相手をあざむくためにどういう自分の姿を見せようかということにかかっています。
 心の内面などないのではないでしょうか? それは 人が何を思い何を考え何をしようとしているのか これを推し測り 自分のしたいように話を持って行こうとして 発言の内容を決めるだろうからです。そういう内面があるのみです。
 その意味でアクマは いわゆる《政治的人間》とも言えそうです。四六時中 その場その場の相手に対して どういう仕掛けにおいてつき合おうかと考えているのだと思われます。

 このような特殊なアクマ志願者は おそらく志願したときにそのハタラキを身につけるのだと推し測られます。マンガで魔法の杖を振りかざすそのとおりのように 一瞬においてではないでしょうか。三度の飯よりも 人をあざむくことが好きなのでしょう。

投稿日時 - 2011-03-03 21:58:36

ANo.18

#17です。

> でもまづは そのハタラキの中身をしっかりと把握しなければならなかった

この「ハタラキ」という言葉を素直に解釈すれば、そう難しくはないと思うのですけどね。
ブラジュさんの今までの御見解を伺っていると、人間のように見える悪魔が、人間とは別個に存在している、という前提で論を進められているように見えたので、その前提自体が間違っているのではないか、としつこくお伝えしてきたつもりでした。
まあ、このへんは私の理解能力の問題だったのかもしれません。

「悪鬼などという生易しい悪ではない悪魔としての要素を身に纏ってしまう場合が人間にはある」
ということでよろしいんでしょうか。
あくまで「要素」であり「ハタラキ」ですよね。
そうすると、全くこの要素を持たない人間はいない、ということになりますから、この視点ではじめて自分の問題に引きつけて考えることができるようになると思うわけです。
>しっかりと把握

するためには必須の条件だろうと思いますし、その意味では、
>そりゃあ そんなアクマのハタラキからは自由でいたい という目的は初めからある

とおっしゃる点に、まだいささかの姿勢に対する疑念(つまり、私には全くその要素は無いという視点ではおそらく「>しっかりと把握」することはできないのではないか、という疑念です)が残りそうですが、それはそれとしましょう。
前回、「あげつらう」と述べたのは、「本質的論点を逸れる」というほどの意味です。

いずれにしても「悪魔(という要素)はどのように醸成され得るのか」ということを明らかにすることによって、一定の納得が訪れるのではないでしょうか。
その意味で、この方向性を外さないことが大事ではないかと考えます。
また、個別の事例に関しては、夫婦喧嘩は何とかも喰わないそうですし、また、すねてみたり、やっかみやら嫉妬やらが渦巻いている場合も多く、何よりも詳細不明ということもあり、私の出る幕ではないでしょうからコメントは差し控えます。
客観的見解が必ずしも解決の一助にならない場合が多いということになりそうです。

あえて、ひとことふたこと感想を述べるとすれば、適当に聞き流すということを厭う正義感が根底にあるのだろうという気がしますけどね。
その意味では揶揄の要素ゼロで申し上げますがご立派だと思います。
ただ、かのパスカルの言葉にもありますが、「力無き正義は弾劾される」ようです。
この場合の「力」とは、全く私的解釈ですが、柔軟性ではないかという気がします。
論理性という一面は重要ですが、一方、感情・感覚という面がむしろ人間の本質でもあるでしょう。
この側面に対する、なんというか、ある意味でのいい加減さ、あるいは赦し、といった要素が伴なわないと、豪剣なれども折れやすい、と見なされ、それがつまり、「力無き」という印象を与えてしまう可能性はあるような気がします。

どうも、今回は感想に終始してしまったようですが、このへんが私の限界かもしれませんね。
気が向きましたらまたいつかお邪魔します。
      

投稿日時 - 2011-03-03 15:32:01

お礼

 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。

 あたま一つ抜き出ているという特徴 これをよく噛みしめることが大事だと思います。むろんアクマというハタラキをわれわれ人間が捉える場合にです。
 ぎゃくに言えば なぜそうなのか? アクマは ふつうの人間にはその作用を身に帯びてはたらかせることは出来ないという結論にもなります。きわめて特殊だとわたしは受け取っています。

 アクマが人間存在そのものだという見方がしりぞけられたなら そのハタラキについてむしろ人間なら誰でも持ち得ると見るのも ひとつの見方です。
 そうおっしゃっているわけですが これについては おそらく潜在性(潜在能力)としてなら同調します。ですが これについては 別の潜在性もありうると考えています。
 それは 《おのれについてもほかの人についても 人をあざむくためにウソをつくことはで出来ない》という能力 これによって《わたしはアクマの要素をこのわが身には表わすことはない》と宣言する場合です。生涯のあいだにその宣言したことが どうころぶか それは分かったことではありません。その上で宣言しそうつとめるという生き方があると言えると考えます。

 そうしますと 微妙に対処策を含めたアクマ論は 違って来るとも見ます。
 ★ 「悪鬼などという生易しい悪ではない悪魔としての要素を身に纏ってしまう場合が人間にはある」
ということでよろしいんでしょうか。
 ☆ 《身にまとってしまう》のではなく 《みづからすすんで 好き好んで アクマのハタラキをわが身にまとおうとして纏う人間が 時として 現われるようだ》になります。
 その人の意志あるいは心の問題になります。

 ★ そうすると、全くこの要素を持たない人間はいない、ということになりますから、この視点ではじめて自分の問題に引きつけて考えることができるようになると思うわけです。
 ☆ 《自分の問題》は その決心がにぶったり破られたりすることを含めて《人をあざむくためにウソをつくことはしない》という誓いの問題がまづあり これを暗黙のうちにでもおこなった人間たちにとっては もうアクマの問題はないと言うべきだと考えます。それは ほかの人間でみづからアクマの力を身にまとおうとする場合を 言ってみればすでに弾劾しているからです。
 つまりは 人間はこのようにアクマのハタラキから自由であることを自然本性において持ち得ていると見ることにもなります。影響は受けるが それによって左右されることはないのだという本性(人間の自然力)です。
 ぎゃくに言えば アッキにまでは成り得るということだと思います。
 そうして 特殊に幾人かは アクマの作用をすすんで身につける。――こういう構図になるかと考えます。

 ですから 見方が微妙に違って来ます。
 ★ いずれにしても「悪魔(という要素)はどのように醸成され得るのか」ということを明らかにすることによって、一定の納得が訪れるのではないでしょうか。
 ☆ アッキになることへと誘うハタラキは醸成され得るのですが アクマになることへと環境が――決定的な原因として――醸成されることはない。こう見ます。自分からアクマの力を身につけるのだからです。特殊だと見ます。

 ★ 適当に聞き流すということを厭う正義感が根底にあるのだろうという気がしますけどね。
 ★ ただ、かのパスカルの言葉にもありますが、「力無き正義は弾劾される」ようです。 / この場合の「力」とは、全く私的解釈ですが、柔軟性ではないかという気がします。
 ★ 論理性という一面は重要ですが、一方、感情・感覚という面がむしろ人間の本質でもあるでしょう。 / この側面に対する、なんというか、ある意味でのいい加減さ、あるいは赦し、といった要素が伴なわないと、豪剣なれども折れやすい、と見なされ、それがつまり、「力無き」という印象を与えてしまう可能性はあるような気がします。
 ☆ ですから これらの方法は 飽くまでアッキ対策だという見方をわたしはしているわけです。アクマに対しては 効かない。もしくは効くか効かないかまったく分からない。そういう働き方をするのがアクマなのだと。特殊なのです。

 ★ ブラジュさんの今までの御見解を伺っていると、人間のように見える悪魔が、人間とは別個に存在している、という前提で論を進められているように見えたので、その前提自体が間違っているのではないか、としつこくお伝えしてきたつもりでした。
 ☆ そのように特殊ではないと分かれば 世界は違って来るものと思います。

 《間違ったとき間違いましたと言わない・言えない》のは そもそもの兆しとしてですが 特殊ですよ。金輪際言わない場合があります。人をあざむくことしか生きる意味がないと思っているのでしょう。

投稿日時 - 2011-03-03 18:40:39

ANo.17

#16です。

少し追加します。

>ただ相手が困惑しその状態をつづけていけばよい。そして自死という結果に到っても構わない。
 こういうハタラキをアクマと呼ぶと言いたいです。

これは、端的でわかりやすい、明解ではないでしょうか。
ほとんど異論はありません。
「こういう人間」ではなく、「こういうハタラキ」ですよね。

ですから、なぜ「こういう人間」がいるのだろうかではなく、なぜ「こういうハタラキ」が人間の内面で兆すのだろうか、ということを論点にするしかないと思うのですが。
そういったスタンス、つまり、彼に起こり得るなら我にも起こり得ると考えないと手元に引き寄せることができませんから、本質を逸れるような気がします。
その「ハタラキの質」をあげつらっても解決の道が見出せるとは思えません。    

投稿日時 - 2011-03-03 00:25:15

補足

 お礼欄のあと書いています。

 ☆☆(お礼欄のしめくくり) ~~~~
 それは――つまり彼我の差のない・この世の中における必然性の世界から頭一つ分だけ突き抜けたアクマというハタラキを想定したいというのは―― 悪を奨励するかそれとも死へといざなうかで分かれるのではないか。ここにあります。

 悪へと人をみちびく――つまり悪に手を染めさせる・その悪行を日常茶飯事とするようになる――こととは アクマは別だと見たい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ で
 ★★(回答No.16) 「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」
 ☆ そりゃあ そんなアクマのハタラキからは自由でいたい という目的は初めからあるでしょう。
 でもまづは そのハタラキの中身をしっかりと把握しなければならなかった。事例としても理論としてもしっかりと把握し そこで明らかにした認識をわれわれが共有し活用すること これになると思います。
 それ以上のことは 何も出来ないのではないですか?


 ですから アッキはいやと言うほどテレビの報道やらドラマで出て来ますが アクマは もしアッキとは別だとしたら ちょっとやそっとでは取り上げられないと思われます。
 小説や映画で たとえば悪女ものが わづかにアクマのハタラキといった主題に当たっているでしょうか。 少ないですよね。

 じつは 前回例として出した《男と女》の話は わたしの経験に呼応しています。それで今回も そういう理論と絡めて捉えようとしたわけですから。


 けれども この事例研究と理論認識と言っても 具体的な事例が少ないのであれば なかなか問い求めはすすみません。ということになるかも知れないですね。

 取り敢えず ここまでをお応えとしたいと思います。
 

投稿日時 - 2011-03-03 08:08:40

お礼

 ご回答をありがとうございます。

  こちらでお応えしてまいります。

 ですから 質問を挙げた心つもりは ひとえに《悪魔は人間存在そのものでありうるか? もしくは 人間はそのハタラキとしてのアクマを言わば部分的にあたかも担うことになっているのか?》を突き詰めたい。でした。
 ここのところ どうも存在がまるごと悪魔である人間は 考えられないのではないかという見方に落ち着きつつあります。

 ★ ~~~~~~~~~
 これは、端的でわかりやすい、明解ではないでしょうか。
 ほとんど異論はありません。
 「こういう人間」ではなく、「こういうハタラキ」ですよね。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ ここまですすめていただくなら 確かにこれからどうするかになります。すなわち:
 ★★(回答No.16) ~~~
 「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」と言い換えてもいいでしょう。
 それに対して、「そうしたとすれば、こうなるから云々」という帰納的アプローチのほうが速やかにことは運ぶのではないでしょうか。
 この問題に関しては。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ いえ ですからいままでは その正体を突き止めることが先だったわけです。極論としてでも一度《悪魔=人間存在》説を吟味しておきたかった。それだけの衝撃を受けていたと思っていただいてよいと思います。

 そのおさらいを 面倒でもしておきます。
 ○ いちどそういう声のかけ方をするのなら――それは《何々であるなら 寂しいことですね》というような言い回しを繰り返すかたちでしたが そういう話しかけ方をするのなら―― もう返答する気は失せた。どうぞお引き取りくださいと応えたわけです。
 ○ なるほどその応答の仕方は納得できると言って――あっけないことに―― 引き取ったかたちになった。
 ○ 少しあって なおほかの人とのやり取りが続いていたので それに加わるかたちでまたやって来た。同じことの繰り返しとなる。
 ○ そのあと別の質問へ移りました。そして 《あなたは論理表現があいまいであり それは――あなたがそうであるかどうかは言いませんが――〈自己乖離〉の障害があることを疑ってみてその吟味をとおして明らかにすべきだ》と前置きして回答を寄せて来た。
 ○ こちらは《のっけから人に対して論理が成っていないやら精神障害が疑われるやらと言うものではない。いったいどういう料簡をしているのか》となじって答えを書いたら 別の人間(すなわち家来であるアッキなのですが)が 昔からやり取りをしているのだから《のっけから》というわけがないではないかと言って来ました。
 ○ それはそれだけだとして構わないとしますが 今度は意外とそしてやっと紛糾がおさまったのでした。《初めからわたしはあなたの見解に反対をしていませんよ》という締めくくりでした。
 ○ あと味がわるいのですが 一件落着でした。

 ☆ 何となく《あいまい路線》を続けているとも見られるのですが おさらいはここまでとします。

 ★ その「ハタラキの質」をあげつらっても解決の道が見出せるとは思えません。  
 ☆ これははこぶるさんにしては 舌足らずではないでしょうか? 《あげつらう》部分もあるかも知れませんが まづは正体を捉えなくてはなりません。
 ★ ですから、なぜ「こういう人間」がいるのだろうかではなく、なぜ「こういうハタラキ」が人間の内面で兆すのだろうか、ということを論点にするしかないと思うのですが。
 ☆ これは ともかく《悪魔》という概念が想定されている系譜がありますので それに照らし合わせたいというところから出発しています。その概念と具体的な人間のあり方(思惟および行動)との照らし合わせです。
 それで 人間としては飽くまで《ハタラキ》という見方に落ち着くのがよい。こうなりつつあるわけです。

 ★ そういったスタンス、つまり、彼に起こり得るなら我にも起こり得ると考えないと手元に引き寄せることができませんから、本質を逸れるような気がします。
 ☆ これに――しかしながらなお―― 一歩先を見据えたいとは思います。高校生番長から暴力団のボスへという事例は 《彼我の差》はおっしゃるように あまりないですよね。その先もう一歩延びる事例 それを アクマのハタラキと見たい。そういう欲望がわたしにはありますね。
 それは――つまり彼我の差のない・この世の中における必然性の世界から頭一つ分だけ突き抜けたアクマというハタラキを想定したいというのは―― 悪を奨励するかそれとも死へといざなうかで分かれるのではないか。ここにあります。

 悪へと人をみちびく――つまり悪に手を染めさせる・その悪行を日常茶飯事とするようになる――こととは アクマは別だと見たい。

投稿日時 - 2011-03-03 07:51:50

ANo.16

#15です。

>No.2の回答などは ぼろくそに言って来ていますし その《回答を評価する》が 10ポイントにまでなっています。

いや、大笑いしましたよ。^^;
気づきませんでした。
わかりやすい回答で、且つ喧嘩腰、というのが野次馬根性を刺激するにはもってこいですから、その当たりの条件は備えていますね。
ブラジュさんの質問内容が難解すぎることが、あるいは拘りすぎる点でしょうか、それが一層拍車を掛けたような気もしますが、いかにも現実社会にありそうな、なかなか微笑ましい現象です。

さて、本題ですが、おっしゃっていることが一貫しておられることはわかります。
ただ、繰り返しになりますが、
>それを質問しているのだ、というお答えはまさかないと思いますが、であれば、どうだとおっしゃっているのでしょうか。

この点を伺わないと、埒が開かない、という局面にもう差し掛かっているのではないでしょうか。
悪魔の吊るし上げをして満足しようというのでなければ、です。
「どうすべきとおっしゃっているのでしょうか」と言い換えてもいいでしょう。
それに対して、「そうしたとすれば、こうなるから云々」という帰納的アプローチのほうが速やかにことは運ぶのではないでしょうか。
この問題に関しては。
そうしないと質問の呈をなさない、そんな気がします。
  

投稿日時 - 2011-03-02 23:54:00

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 No.17のお礼欄および補足欄のあと書きこみます。

 ハタラキとしてのアクマの事例として思い浮かぶのは 多くありません。

 ○ 遠藤周作:『悪霊』
   その女主人公ですが 題名からしてアクマが主題です。

 ○ アレクサンドル・デュマ・ペール:『三銃士』
   に出て来る《ミレディ》という女策士

 ○ ヒッチコックの映画で《悪女》を扱ったもの。
   たしか短いもので三十分ものだったような。
   テレビ放映で見た記憶があります。

 ☆ いやぁ 少ないですね。いづれも女であるとは いやはやですね。


 そうかんたんに取り上げあつかうというわけには行かないようでもあります。

投稿日時 - 2011-03-03 08:38:20

ANo.15

ブラジュさんの質問をご覧になっている方の中には、私と同様に、面白そうだが、難しそうで下手に回答などしたら恥をかいてしまう、回答などとんでもない、と思っておられる方は多いことでしょう。
私などは無謀にも回答というおこがましい形態で投稿するのですが、その気があるのであれば、もう少し庶民にもわかりやすい表現をお願いしたいと、あえて要望しておきます。

英気を養いつつの片手間で結構ですが、気楽に、しかし、本質を逸らさずに且つわかりやすく、という注文を素人からあえてつけさせていただきます。
それに答えていただくだけの力を、ブラジュさんはお持ちでしょう。
そこが弱点でもある(この点に関しては機会を改めてお話しできることもあると思います)わけですが、また、(必然的に)表裏一体の長所にもなっています。

なるべく論点を絞りたいと思いますので、今回は2点について伺います。
【可能な限り平易な言葉・平易な論理】でお願いいたします。

1.
> ( d-1 ) おそらく アッキは 人間の心ないし意志によってみづからのもの(ウゴキ)とし得ると思われます。破れかぶれに成り得ますから。

 ( d-2 ) アクマは どうか? 

 ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせるというハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか?

この点に関してですが、つまり、悪鬼は感覚的に悪さをする、ぐれた高校生番長みたいなものだが、悪魔は用意周到に人を麻薬漬けにする暴力団の元締めみたいなものだ、という感覚での表現でしょうか。
私としては、そうした悪魔としての暴力団の若かりし頃は、悪鬼としての高校生であったはずで、なぜそれを分けようと考えるのか、そのへんがよくわかりません。
後者のほうが手に負えないことはわかりますが、(異質の)別人であるという視点で対処したところで番長は日夜生まれ続けるわけですから、ブラジュさんが何を求めているのか実際のところよくわからない、ということです。
明らかに異質の別人としての存在である、という結論になった場合の、ブラジュさんの腹案はどうなっておられますか?
全くない、ということはないと思いますのでお聞かせください。
たぶん、そのほうが早いような気がするので。

2.
> ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか?

それを質問しているのだ、というお答えはまさかないと思いますが、であれば、どうだとおっしゃっているのでしょうか。
これを伺ったほうが、これも早いと思います。
  
  

投稿日時 - 2011-03-02 21:25:45

補足

 はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回は 《第二の死》 この概念を加えたところがあたらしい問い求めです。
 ところがこれが分かりにくいので 回答者の方々もそして どういうわけか質問者のわたくしも 難儀しております。あなたとやり取りしたときのほうが アクマとアッキの区分けやその概念の展開が 主観的には はっきりしていました。

 あっ その前に
 ★ ブラジュさんの質問をご覧になっている方の中には、私と同様に、面白そうだが、難しそうで下手に回答などしたら恥をかいてしまう、回答などとんでもない、と思っておられる方は多いことでしょう。
 ☆ この《面白そうだ》と言っていただいたことで よかったと思っています。今回は やはり第二の死といったことを出したからでしょうか No.2の回答などは ぼろくそに言って来ていますし その《回答を評価する》が 10ポイントにまでなっています。
 いづれにしましても この質問はかなり特殊で 《下手に回答など》はしづらいようにわたくしも思います。でも暗中模索でもよいと思っております。

 問いかけの(2)は 前回とそれほど違っておりません。あるいは ちょうどあなたも回答を寄せている別の質問もありますね。 
 【Q:偽善という客観性】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6555870.html
 そしてやはりちょうど このわたしの質問のほうで ひどっちさんが あなたの思想について次のように批評しているのと同じような内容で――とうぜんのことですが―― 答えておられる。つまり
 ▼ (回答No.10=ひどっちさん) ~~~
 はこぶる様のご意見と致しましては、以下の傾向にあるように見受けられました。
 ・性善説に基づいている。
 ・社会的要因が主な原因
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そして今回もおおむね同じような問いかけをされています。
 そうですね。ちがいは――これは ひどっちさんにもお応えしたところですが――:
 1. アクマは 独り立ちしている。また 相手に対するときには 一対一である。一本釣りである。つまりその点で 次のご指摘とは微妙に違います。
 ★ 悪魔は用意周到に人を麻薬漬けにする暴力団の元締めみたいなものだ、という感覚での表現でしょうか。
 
 2. それに付随して: オモテは ふつうの貌もしくは天使の顔をしている。ウラは 世の中の通説としての善悪のいろんな考え方に対処しうる能力を持ち得ながら その実は 顔無しである。のっぺらぼうである。

 3. いろんな意味においてアクマは すでにさとっている。さとり切っている。
 ● 【Q:偽善という客観性】の趣旨説明 ~~~~
 つい、うっかりというものではなく、相手を虐げているということを分かっているメタ認知があっても、悪徳を実行してしまうのはなぜでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これに合わせて捉えるなら アクマはまったくの確信犯であり そう成り切っている。と言えるし そう言える場合を質問者としては扱いたいと考えています。

 4. なぜ《悪に徹する》ことができるのか? 無常観としてのさとりでしょうし 相対主義の極致なのだと思います。(極致というのは いい意味で言うそうですが いちおう使っておきます)。アッキたちの群れから一段次元の高いところにいると思われる。

 5. そうしてこの事項は 模索中の模索ですが:もし悪魔は けっきょく人間存在ではなしに 人間とその経験世界を超えているとさえ見るならば それは何であるか分からないという意味で《霊》である。

 6. (5)のようであれば 人間はその霊である悪魔の作用を部分的に帯びてのごとくそれをはたらかせることがある。と見られます。


 ☆ いまは ひどっちさんとの話し合いの結果しばらくは 休みモードであり温泉気分でもよいと思ってしまっているので ほんとうに試行錯誤で模索中ですが ひとつ考え浮かびました。
 
 7. こういうハタラキをアクマと呼びたい:
  男が女に(あるいは女が男に) おつきあいをしたのち 求愛する。結婚を申し込む。ところが 申し込まれたほうは きわめてあいまいな返事を返してくる。イエスともノーとも言わない。またはイエスともノーとも取れるような物言いで答える。
 このつかず離れずが 永遠につづく。
 どういうことかと言えば そのアクマのハタラキをしている女は(あるいは男は) 自分がどうなっても構わないのです。ただただ相手がまごついてどうしようもない状態になり その状態をつづけていれば満足なのです。

投稿日時 - 2011-03-02 22:23:58

お礼

 アクマは相手が何が何だか分からなくなって 自暴自棄になろうと 自分に向かって暴力をふるうまでになろうと あるいは精神錯乱に落ち入ろうと 自死に追いこまれようと どうなっても構わない。ただ相手が困惑しその状態をつづけていけばよい。そして自死という結果に到っても構わない。
 こういうハタラキをアクマと呼ぶと言いたいです。
 
 あるいは 完全に自信を失いその結果 そのアクマ役の人に従属し服従するようになるかも知れません。家来とする。それは アッキの誕生となります。
 でもそうなったとしても アクマ役はアッキたちと組んでいるのではないのです。支配しているという実態が現われることもあるでしょうが それもけっきょくどうでもよいと思っているはずです。
 アクマは したいようにする。まったくの自由を《享受》しようということのみが 生きることであり それには周りの人間たちは 家来になるようにするか 消えるようにするかなのだと考えます。

 ですから 完全に《死んで》いるのだと思います。そういう意味で――そういう意味でのみですが―― さとり切っているのだと思います。

 けっこうスペースが余りましたが 取り敢えずはこんなところです。どうでしょう?

 * 《番長》は 悪いことをしよう・また家来たちに悪いことをさせようとしているのでしょう? それとは微妙に違って アクマは 相手が自分と同じように《死ぬ》ことを求めているのです。その点で 違うでしょう? 暴力団の元締めでさえ 微妙に違うでしょう?

投稿日時 - 2011-03-02 22:35:50

ANo.14

 おはようございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。


> ともかくここは時間をかけましょう。どうでしょうか?

 了解致しました。


> どうもわたしはいま休みモードに入っているようです。
 思い浮かぶ主題をいくつかすでに質問に――あの一件落着のあとただちに――挙げていますが どうもからだは休みモードにあるようです。
 いまごろ気づいてもいけなかったのですが ですからいまはゆっくりゆっくりの恰好ですすませていただきます。


 お疲れ様でございます。愚生も確かにあの件では、疲れてしまいました。

 寒さも残り少なくはなりましたが、くれぐれもご自愛くださいませ。

投稿日時 - 2011-03-02 09:20:09

補足

 きょうその後 つぎの聖句に出会いました。

 ▲ (Matthew 3:8) “・・・I tell you that out of these stones God can raise up children for Abraham.・・・”


 ☆ コムギから毒麦へ変わることとは別のようです。そして 毒麦からコムギへ戻ることを言うのか これも微妙に定かではありません。が 変わると言いますか 何かあたらしい人びとがあたらしい存在として湧いて出て来るかのごとくでしょうか?
 地湧の菩薩?


 いえ分かりません。ふと出会ったものですから。

投稿日時 - 2011-03-02 13:05:08

お礼

 ありがとうございます。

 そうですよね。
 何よりも あと味がわるい。一件落着なのにです。

 

 質問を挙げて かたちとしてもこの場につながっている状態にあることは たぶん重要でしょうしそのほうがよいと思われますので そうし続けますが いまは温泉気分でまいります。

 いづれ自由に再出発しましょう。


 この質問はまづこのまま開いておいて もし別の問い求め方が考えつきましたら そのあたらしい質問に切り替えたいと思います。では よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2011-03-02 09:56:06

ANo.13

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。


> ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。
 ☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。

 仰れますように、当時の感覚からも、こちらの方が正しいかと推察されます。


> あとは 悪魔と悪霊との違いについてになると思います。
 
 当方といたしましても、さらに考えてみたいと思っております。

> ☆ そう言えば 同じくイエスが《出て行け》と言ったあと悪霊が人から出て 豚の中に入ってその豚の群れが崖から落ちて行ってしまったとか ありましたか。


 続く8章32節では、そのように描かれております。
「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。」
 ただ、インフルエンザにように、感染(?)の形態をとる可能性はがあるのかもしれません(一時流行りました”豚”インフルエンザ等でございます)。

> いやぁ むつかしいですね。細かく見る必要がありましょうか? 
 悪魔が人をして悪鬼にならしめ その結果が悪霊がついている恰好になるということでしょうか?

 愚生の方でも、「悪魔と悪霊との違い」等含めまして、福音書、パウロの書簡等を通じて、ヒントとなる箇所を徹底的に探してみたいと考えております。


> ○ 超越的存在
 ☆ というときの内実ですが 《観念 あるいは 思想》というふうに捉えれば 経験的なこととしては分かりやすいのですが これはどうでしょう?


 ”観念的・思想的な何か”として説明しなければ、当ご質問内容をお読みの方々も納得されないかと思っております。つきましては、こちらの方向性で微力を尽くしていきたいと考えております。


> 何だか丸投げになっていますが わたくしも考えます。

 何卒、よろしくお願い申し上げます。

> これまでに考えたことは やはり例の《無常観》です。その負の色彩を帯びたものと言いましょうか 《人生や世の中の はかなさ》を強調する場合の観念ないしものの考え方です。

 仰られますように、価値相対主義(もしくは、さらに進んだ”虚無主義”でございます)があまりにも行き過ぎてしまった観がございます。そろそろ是正するべきときがやってきたのかもしれません。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-01 01:21:50

補足

 覚え書きのごとくにいささかの弁明です。

 どうもわたしはいま休みモードに入っているようです。
 思い浮かぶ主題をいくつかすでに質問に――あの一件落着のあとただちに――挙げていますが どうもからだは休みモードにあるようです。
 いまごろ気づいてもいけなかったのですが ですからいまはゆっくりゆっくりの恰好ですすませていただきます。

 でもそう言うのなら ひどっちさんのほうこそ いろいろ――特に情報を集めていただいたりの下準備の作業も――たいへんだったろうと思います。ので ともかくここは時間をかけましょう。どうでしょうか?

投稿日時 - 2011-03-01 09:14:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ”観念的・思想的な何か”として説明しなければ、当ご質問内容をお読みの方々も納得されないかと思っております。つきましては、こちらの方向性で微力を尽くしていきたいと考えております。

 ★ 〔《無常観》・・・〕仰られますように、価値相対主義(もしくは、さらに進んだ”虚無主義”でございます)があまりにも行き過ぎてしまった観がございます。そろそろ是正するべきときがやってきたのかもしれません。

 ☆ これらの二点について 同じ方向で捉えておられて意を強くいたしました。

 ★ 愚生の方でも、「悪魔と悪霊との違い」等含めまして、福音書、パウロの書簡等を通じて、ヒントとなる箇所を徹底的に探してみたいと考えております。
 ☆ さすが 科学者でいらっしゃると思いました。こちらは けっきょくいつかヒラメキが来ないかなといったふうでした。
 考えてみれば 悪魔について――あるいは天使についても―― どうもしっくり来ない感じを持ち続けていまいた。この際 その認識としても深められて行けばいいがと思います。つまり一般的に説明しうる表現ということになるかと思います。わたくしなりの観想などをとおしてさらにすすめたいと考えます。



 細かいところで二点です。
 ★ ただ、インフルエンザにように、感染(?)の形態をとる可能性はがあるのかもしれません(一時流行りました”豚”インフルエンザ等でございます)。
 ☆ なるほどですね。この解釈ですね。

 ★ ~~~~~~~~~~
  > ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。
 ☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。

 仰れますように、当時の感覚からも、こちらの方が正しいかと推察されます。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ そうして じつは心情としては 《善意のコムギから毒麦(アッキ)に変わってしまったり その逆が起こったりする》ほうが分かりやすいように思ったりします。自由意志のあり方としてです。つまりは その自由意志に対してはたらきかける・人間の自由意志を超えた意志によるめぐみのあり方としてになるとは思います。


 このようにすこし考えが錯綜して来ていますので じつは むしろ抑えて――おさえつつ――考えすすんでいるところです。すみません。
 こんな感じになっていますが ひとおりのアクマ学を捉えておくことができればよいがと考えます。


 * ひとつ思うことですが 悪魔といえば これもけっきょく《霊》といえば霊であるかに思われます。そのように読んで来たかと思われます。いづれにしましても それでどうなのかになるとは考えます。
 ○ 神―→悪魔―→毒麦の種を蒔く(そうすることについて ゆるくされている)。

 いまはせいぜい このあたりまでです。

投稿日時 - 2011-03-01 01:55:45

ANo.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ☆ よく分かった次第です。そう言えば ヨブに対してサタンがかれを打つことを神はゆるしていました。それも その打つことは試みであると条件づけているかたちでさえあったと思います。

 ご賛同いただきまして、どうもありがとうござました。確かに、以下に示しますように、神はエリファズに対して、お怒りになられています。

ヨブ記 42章7節
主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。

 この正しく語らなかったというのは、以下の言葉かと思われます。つまり、神にのみ下される判断を、勝手にエリファズがしてしまったものがその理由かと推察されます。

ヨブ記 22章1から5節
テマン人エリファズは答えた。人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び完全な道を歩むからといって神の利益になるだろうか。あなたが神を畏れ敬っているのに神があなたを責めあなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い限りもなく不正を行ったのではないか。

> そうしますと ひとつ別のなぞが出て来ます。
 ☆ この恩恵を受けている人間 これは アダムとエワの神へのさからい(原罪)のあとの人間について言っているのだと思われます。
 そうしてそのような良い麦たちのあいだに毒麦が蒔かれる。あるいは もしそうだとしたら ふつうの麦が毒麦に・つまり悪鬼になるとも考えられます。

 実際、 当時のパレスチナの農夫は、雨の多い時にはコムギがドクムギに変わると信じていたようです。

ドクムギ:牧草に混入すると家畜が中毒を起こすことがあるというので「毒麦」といわれるが、実際にはテムレンという有毒アルカロイドを算出する菌の寄生によるもの。菌に侵されなければ“ドク”という名はついていても有毒植物ではない。

ソース:http://dorosya.web.infoseek.co.jp/097/syokubutu.html
 一方、以下のような福音書の一節もございます。

ルカ 8章5から12節
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。 また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」 
<中略> 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。 道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。

 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。一方、蒔かれたときには、有毒ではなかったかもしれませんが、その後菌の感染により、ドクムギ化してしまった(コムギには感染しないようです)の2通りの考え方がございますが、当初のパレスチナのひとたちが考えていたように、また上記福音書に記述しておりますように「コムギがドクムギ(アッキ)に変わる」と考える方が妥当かもしれません。

> つまり悪鬼たちがいるということは分かるのですが 悪魔は けっきょくエワたちが罪を犯す前にいたわけですから それは人間ではない何らかの存在であるということなのでしょうか?

 創世記には、”悪魔”という言葉が出て来ないようなのです。そこで、その後の神学では、ルシファーの堕天使説等が生まれてきたものと考えております。
 一方、福音書では、

ルカ 4章5節
更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。

 こうなりますと、超越的存在になろうかと推察されます。一方、”悪霊”については多く散見されます。これは、感染する類のものかと推察されます。

ルカ 4章35節
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。

> ともに考えてくださるとありがたいです。

 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。

 とりとめのない、内容となってしまい、心苦しいのですが、最後まで、およみいただきましたこと、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2011-02-27 19:01:42

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まづ麦と毒麦とが 種が違うのかどうかが分からなかったものですからヰキぺを見てみました。種が違うもののようです。

 ▲ (ヰキぺ:麦) ~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6
 1.イネ科
 1-1. イチゴツナギ亜科
 1-1-1. Bromeae 連
 1-1-1-1. スズメノチャヒキ属 - イヌムギ - 雑草

 1-1-2. Poeae 連
 1-1-2-1. カラスムギ属 - エンバク、カラスムギ
 1-1-2-2. ドクムギ属 - ドクムギ、ホソムギ(ペレニアルライグラス)、
    ネズミムギ(イタリアンライグラス)、アマドクムギ、ノゲナシドクムギ、
     ボウムギ 他 - 牧草、雑草

 1-1-3. Triticeae 連
 1-1-3-1. エギロプス属 - タルホコムギ、クサビコムギ 他
 1-1-3-2. オオムギ属 - オオムギ
 1-1-3-3. コムギ属 - パンコムギ、デュラムコムギ、クラブコムギ、
   スペルトコムギ、エンマコムギ 他
 1-1-3-4. ライムギ属 - ライムギ

 1-2. キビ亜科
 1-2-1. Andropogoneae 連
 1-2-1-1. ジュズダマ属 - ハトムギ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そうしますと
 ★ 非常に解釈が難しいところなのですが、お示しになられましたように、善意のコムギが毒麦(アッキ)にかわってしまう。
 ☆ と見るのは 民間植物学による伝承にもとづくとしたほうがよいかも知れません。
 ★ 一方、蒔かれたときには、有毒ではなかったかもしれませんが、その後菌の感染により、ドクムギ化してしまった(コムギには感染しないようです)の2通りの考え方がございますが・・・
 ☆ この《感染》ということ自体は 科学的なことのようにも受け取られますね。これらの説を足して二で割るというのも情けないことかも知れませんが ううーん ただし善意が悪意に変わるのは 人の自由意志によるということですから ありうると言えるとは思うのですが?・・・

 あとは 一点をおそわって もう一点は課題になるかと思われます。

 ★ ~~~~~~~~~~~ 
 確かに、以下に示しますように、神はエリファズに対して、お怒りになられています。

   ヨブ記 42章7節 (* 省略とします)。

 この正しく語らなかったというのは、以下の言葉かと思われます。つまり、神にのみ下される判断を、勝手にエリファズがしてしまったものがその理由かと推察されます。(* 省略にしたがいます)。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかにこのエリファズは 神のようになってヨブをさばくように語っていますね。


 あとは 悪魔と悪霊との違いについてになると思います。
 ★ 悪魔
  1. ★ 創世記には出て来ない。
  2. そこでの《へび》はどうか?
  3. ★ その後の神学では、ルシファーの堕天使説等が生まれてきたものと考えております。
  4. ★ 《ルカ 4章5節》――こうなりますと、超越的存在になろうかと推察されます。

 ★ 悪霊
  5. ★ 〔聖書に〕多く散見されます。
  6. たとえば ★ 《ルカ 4章35節》――これは、感染する類のものかと推察されます。

 ☆ そう言えば 同じくイエスが《出て行け》と言ったあと悪霊が人から出て 豚の中に入ってその豚の群れが崖から落ちて行ってしまったとか ありましたか。


 いやぁ むつかしいですね。細かく見る必要がありましょうか? 
 悪魔が人をして悪鬼にならしめ その結果が悪霊がついている恰好になるということでしょうか?

 あと
 ○ 超越的存在
 ☆ というときの内実ですが 《観念 あるいは 思想》というふうに捉えれば 経験的なこととしては分かりやすいのですが これはどうでしょう?

 何だか丸投げになっていますが わたくしも考えます。
 これまでに考えたことは やはり例の《無常観》です。その負の色彩を帯びたものと言いましょうか 《人生や世の中の はかなさ》を強調する場合の観念ないしものの考え方です。
 【Q:麦と毒麦・・・】で考えたこととして この《はかなさ》という・しかも《さとり》が曲者なのではないかでした。この世のよきことやあるいは愛といった概念に対して もはや親の仇としてのごとく敵対するようなさとりです。負のさとりです。しかもこの観念が人の中にいだかれると ヱ゛クトルとして動き出すのではないかというものです。
 よろしくどうぞお願いします。

投稿日時 - 2011-02-27 22:00:14

ANo.11

 こんばんは、Hidocchiでございます。

> たいへんすみませんでした。お手数をおかけしました。

 いえいえ、こちらこそよろしくお願い申し上げます。

> ★( a ) つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。
 ☆ この結論が どのようにみちびかれているのかがはっきりと捉えられないでいます。


 前文は、「 そもそも、 毒麦が普通の麦かの判断をする能力がない(もしくは、善悪人を定義付けすることが不可能)」ということを述べております。


> 毒麦=悪鬼たち これは 人間です。麦も人間です。あっ そう言えば 
 
 ★ 人の子
 
 ☆ はイエスのことですよね? あるいはキリストとしてむしろ霊つまり去って行ったらそのあと弟子たちに送るであろうと言われたその聖霊のことだと捉えたほうが分かりやすいのかも知れません。けっきょく思想の構造は違うでしょうが 仏性にたとえればさらに分かりやすいかとも思われます。


 愚生が間違えておりました。ただ、”精霊(or ロゴス)”というよりも「”人”の子」の”人”に重点を置き、勝手に解釈した次第でございます。

 ★( b ) (一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。
 
 ★( c ) そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。
 
 ☆ これらの命題と 先の( a )の命題とのあいだをどう解釈したらよいか よく分かりませんでした。どうでしょう?


 愚生の間違いでございました。この場をお仮し、深くお詫び申し上げます。
 従いまして、超越的存在でもあり、ひととしての存在の両面を持ち合わせているというのが適切かと思われます。



> ひとつひらめきました。
 
 ▲ 刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
 
 ☆ この《世の終わり》と言えば もし《永遠の現在》という思想に立てば 《いま》のことです。

 さすがに、bragelonne様でございます。思弁的思考力は、愚生のはるか上を行ってございます。 

 《いま・此処なる〈わたし〉》がそれぞれ言わば麦か毒麦かの判定がくだされているのかとも思われます。すでにこのいまです。
 ただし その結果がいま現われているわけではない。少なくとも人間には分からない。分からないだけではなく その判定をする主体であるのでもない。
 そうしますと こうなりましょうか:
 
 1. ( c )を解釈して:
  ○ 人の子であるイエスが すでにキリストとして(あるいは その死後を見越して そのキリストが父なる神とともに人間たちに送る聖霊として) 悪魔が毒麦の種をまくことをそのしかるべき範囲でゆるしていた。

 
 2. ( a )を解釈して:
  ○ その毒麦は 悪鬼たちである。そしてその毒麦の種を蒔くことは 《その人間・即・悪魔である》というのではなくとも 具体的にいづれかの人間がおこなっている。という可能性があるのではないか?
 
 ☆ でしょうか?

 
 当初は、”2”の意見でございましたが、「 悪魔が毒麦の種をまくことをそのしかるべき範囲でゆるしていた。」とも言えるかと思われますし、また「エヴァをそそのかした「蛇」のように、自由にしていた。」 とも考えられますが、いかがなものでしょうか?

> ☆ それは 《良い麦》と言っても 罪のない人はいないというごとく 完全に良いという意味ではないゆえであると。

 ”完全に良い”とは断じかねますが、人達に恩恵(糧)をもたらす存在であることは事実かとも思われます(「パンのみに生きるに非ず」とはございますが、一定の恩恵・糧をもたらしているものかと考えております)。

 ○ 【麦と毒麦】 ~~~~~~~~~~

   

 神――・・・―→ 良い麦〔その種 を蒔く〕
   
 〃――悪 魔―→ 毒麦〔その種を 蒔く〕:これをゆるしている。

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~
 

 「これをゆるしている。」もしくは、「特別な監視はしていない。」、「自由に任せている」。
 さらに申しますと、”毒麦”と一緒に刈り取られてしまいかねない”(善意の)麦”に試練を与えている。つまり、本来は、”天使”が、(両者を区別し)刈り取るものなのですが、”人”によって、勝手に”(善意の)麦”をも刈り取られてしまう危険性もあるためでございます。



 全くもって、申し訳ございませんでした。愚生の誤りにつきましては、深くお詫び申し上げます。もし、ご意見等賜れば、幸甚でございます。

投稿日時 - 2011-02-26 21:49:26

補足

 訂正をふくみつつ おぎないです。

 すでに次のようにご見解をうかがっていました。
 ★ 〔悪魔について〕従いまして、超越的存在でもあり、ひととしての存在の両面を持ち合わせているというのが適切かと思われます。
 ☆ ですから もうほとんどお答えをいただいていたようなものでした。
 つまり問いとしては
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~
 つまり悪鬼たちがいるということは分かるのですが 悪魔は けっきょくエワたちが罪を犯す前にいたわけですから それは人間ではない何らかの存在であるということなのでしょうか?

 人間を善と悪とを知る木からその実を取って食べるようにとそそのかした蛇としての悪魔は 人間より以前にいた何かなのでしょうか?

 つまりは そのつてでは 人間が悪魔になることはないとも考えられるのかどうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ わたしなりの表現をしますと:

 ○ 悪魔は 人間に対するという面においては何らかの《超越的存在でもあり》 かつ《ひととしての存在》にはたらきかけ そのはたらきかけられた《ひととしての存在》をとおして作用するというかたちを取る。このような《両面を持ち合わせているというのが適切かと思われます》。

 ☆ このようで ひととおり納得できると思います。たぶんよろしいかと思いますが お答えのほうもよろしくお願いいたします。

 わづかに疑い虫になろうとすれば
 ○ 《超越的》とは何か?
 ☆ だろうとは思います。どうでしょう?

投稿日時 - 2011-02-27 06:47:18

お礼

 ★ さらに申しますと、”毒麦”と一緒に刈り取られてしまいかねない”(善意の)麦”に試練を与えている。
 ☆ ここでピンと来るものがありました。《試練を与えている》というところです。
 ★ ”(善意の)麦”に
 ☆ もである。というところが みそであるように思います。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 さっぱりすっきりいたしました。ありがとうございます。

 ★ 「これをゆるしている。」もしくは、「特別な監視はしていない。」、「自由に任せている」。
 ★ つまり、本来は、”天使”が、(両者を区別し)刈り取るものなのですが、”人”によって、勝手に”(善意の)麦”をも刈り取られてしまう危険性もあるためでございます。
 ★ また「エヴァをそそのかした「蛇」のように、自由にしていた。」 とも考えられますが、いかがなものでしょうか?

 ☆ よく分かった次第です。そう言えば ヨブに対してサタンがかれを打つことを神はゆるしていました。それも その打つことは試みであると条件づけているかたちでさえあったと思います。


 そうしますと ひとつ別のなぞが出て来ます。
 ★ ”完全に良い”とは断じかねますが、人達に恩恵(糧)をもたらす存在であることは事実かとも思われます(「パンのみに生きるに非ず」とはございますが、一定の恩恵・糧をもたらしているものかと考えております)。
 ☆ この恩恵を受けている人間 これは アダムとエワの神へのさからい(原罪)のあとの人間について言っているのだと思われます。
 そうしてそのような良い麦たちのあいだに毒麦が蒔かれる。あるいは もしそうだとしたら ふつうの麦が毒麦に・つまり悪鬼になるとも考えられます。
 つまり悪鬼たちがいるということは分かるのですが 悪魔は けっきょくエワたちが罪を犯す前にいたわけですから それは人間ではない何らかの存在であるということなのでしょうか?
 人間を善と悪とを知る木からその実を取って食べるようにとそそのかした蛇としての悪魔は 人間より以前にいた何かなのでしょうか?
 つまりは そのつてでは 人間が悪魔になることはないとも考えられるのかどうか?

 すみません。よろしかったら ともに考えてくださるとありがたいです。

 

投稿日時 - 2011-02-26 22:16:38

ANo.10

 こんばんは、Hidocchiでございます。

> ☆ ひどっちさんには 【Q:麦と毒麦 または・・・】でのはこぶるさんとのやり取りを――少し長いですが――是非読んでくださるようお願い致したいと思います。アクマ学としてです。

 この場にはこぶる様がおられないため、詳細を確認することができす、余り詳しい所までは言及できかねるのですが、微力を尽くしたい考えております。

 はこぶる様のご意見と致しましては、以下の傾向にあるように見受けられました。
・性善説に基づいている。
・社会的要因が主な原因

 このタイトルから致しますと、”毒麦のたとえ”からの引用と推察されるため、以下に参考となるところを述べさせていただきます。

マタイ伝13章37~39節 共同訳
イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

・良い種を蒔く者:人の子
・毒麦を蒔いた敵(者):悪魔

 との関係が見られます。つまり、 ”良い種を蒔く”のは、神でもなければ、天使でもなく、” 人の子”だという訳でございます(一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。
 そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。そしてさらに、”毒麦は悪い者の子ら”とございますが、おそらく、これが悪魔の家来たる”悪鬼”に該当するものと考えております。
 そして、この毒麦を引っこ抜く(刈り入れる)のは、人間の為すことではなく、神の使い(天使)となろうかと読むことが可能かと思われます。つまり、毒麦を引っこ抜くということは、人のすることではない(民主主義的手続きを踏んだ公開を前提とした”裁判”ではなく)。もしするのならば、それは”私刑”かと察せられます。

 つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。

 また何かございましたら、ご返信いただければ、幸いでございます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-02-25 19:00:22

お礼

 たいへんすみませんでした。お手数をおかけしました。
 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~
 ・・・
 ”毒麦は悪い者の子ら”とございますが、おそらく、これが悪魔の家来たる”悪鬼”に該当するものと考えております。
 そして、この毒麦を引っこ抜く(刈り入れる)のは、人間の為すことではなく、神の使い(天使)となろうかと読むことが可能かと思われます。つまり、毒麦を引っこ抜くということは、人のすることではない(民主主義的手続きを踏んだ公開を前提とした”裁判”ではなく)。もしするのならば、それは”私刑”かと察せられます。

 つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この一行をあけた前後の推論 これがよく分かりませんでした。
 悪魔の家来である悪鬼たちを――これが毒麦にたとえられるので―― 引っこ抜くことは その刈り入れのときに神の使い(天使)がおこなうことである。人のすることではない。そのあと
 ★( a ) つまり、悪魔を人間の存在として取り扱う必要があろうかと考えております。
 ☆ この結論が どのようにみちびかれているのかがはっきりと捉えられないでいます。

 毒麦=悪鬼たち これは 人間です。麦も人間です。あっ そう言えば 
 ★ 人の子
 ☆ はイエスのことですよね? あるいはキリストとしてむしろ霊つまり去って行ったらそのあと弟子たちに送るであろうと言われたその聖霊のことだと捉えたほうが分かりやすいのかも知れません。けっきょく思想の構造は違うでしょうが 仏性にたとえればさらに分かりやすいかとも思われます。

 そうしますと さらにいくらかこんがらがって来もします。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 つまり、 ”良い種を蒔く”のは、神でもなければ、天使でもなく、” 人の子”だという訳でございます(一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。
 そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは言いかえると 上に聖霊として挙げたはたらきは 人間イエスとともにあるといった捉え方になるかと思います。(イエスの出現の以前には もし同じように《良い種を蒔く》ことがおこなわれていたとしたら それはただ聖霊だけが蒔いたのだと考えられます。アブラハムやモーセのときに 果たして良い種を蒔くということが行なわれたかどうかは いまにわかには分かりませんが)。

 ★( b ) (一般的な解釈では、”悪魔”は超越的存在かと思われますが)。
 ★( c ) そう考えますと、超越的存在に限らず、”人の子”もまた、悪魔になりうるものと考えられます。
 ☆ これらの命題と 先の( a )の命題とのあいだをどう解釈したらよいか よく分かりませんでした。どうでしょう?


 ひとつひらめきました。
 ▲ 刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
 ☆ この《世の終わり》と言えば もし《永遠の現在》という思想に立てば 《いま》のことです。
 《いま・此処なる〈わたし〉》がそれぞれ言わば麦か毒麦かの判定がくだされているのかとも思われます。すでにこのいまです。
 ただし その結果がいま現われているわけではない。少なくとも人間には分からない。分からないだけではなく その判定をする主体であるのでもない。
 そうしますと こうなりましょうか:
 1. ( c )を解釈して:
  ○ 人の子であるイエスが すでにキリストとして(あるいは その死後を見越して そのキリストが父なる神とともに人間たちに送る聖霊として) 悪魔が毒麦の種をまくことをそのしかるべき範囲でゆるしていた。

 2. ( a )を解釈して:
  ○ その毒麦は 悪鬼たちである。そしてその毒麦の種を蒔くことは 《その人間・即・悪魔である》というのではなくとも 具体的にいづれかの人間がおこなっている。という可能性があるのではないか?
 ☆ でしょうか?

 ☆ それは 《良い麦》と言っても 罪のない人はいないというごとく 完全に良いという意味ではないゆえであると。

 ○ 【麦と毒麦】 ~~~~~~~~~~

   神――・・・―→ 良い麦〔その種 を蒔く〕
   〃――悪 魔―→ 毒麦〔その種を 蒔く〕:これをゆるしている。

 ~~~~~~~~~~~~~~~
   

 ☆ いえ分かりません。決定案ではありません。
 よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2011-02-25 22:12:46

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ☆ この《群れから離れ迷子になっただけかも知れない》というのは その《一方では アクマになってしまっているのではないかとわたしがうたがっているその存在》のことでした。主語をはぶいたためのアヤマチでした。

 こちらこそ、早合点してしまい、申し訳ございませんでした。

☆ ひどっちさんには 【Q:麦と毒麦 または・・・】でのはこぶるさんとのやり取りを――少し長いですが――是非読んでくださるようお願い致したいと思います。アクマ学としてです。

 了解致しました、現在読んでいるところでございます。

> 自己乖離(自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる)
 ☆ これは ひょっとすると 自分こそがそれで悩んでいる。たすけて欲しい。すくわれたい。――こう言っているのか? でした。
 一瞬 《群れから離れた一匹の子羊》だったかとも。そのあと閃いたことは これが手口だったかでした。アクマのです。

 現時点では、何とも申し上げられないのですが、一点気付いたことを述べさせていただきます。アマさんの文章を読んでいますと、technical termが非常に多いことが気になりました。一般的に、ドクターにもなれば、当該分野において知識を有する専門家もしくはそれに準ずるもの以外の一般の方達には、これらtermは避けるべきことは教わってきたと思うのですが、なぜそれをなさらないのか という疑問がございます。

(1)「本サービスは、会員間の質問と回答の形式による情報交換の機会及びその環境を提供することを目的とします。」
 の解釈について、

1. 設立の背景
当社は、「世界中の人と人を信頼と満足でつなぐこと」を理念として掲げ、平成11年7月に設立されました。あらゆる分野において誰もが気軽に質問でき、お互いに経験や知識を教えあうことにより、助け合うことができる場として「OKWave」というQ&Aサイトを設立しました。
http://www.ullet.com/edinet/S0006UGV.pdf  「有価証券報告書」p.5からでございます。

 つまり、「あらゆる分野において誰もが気軽に質問でき、お互いに経験や知識を教えあうことにより、助け合うことができる場として「OKWave」というQ&Aサイトを設立しました」とございます。つまり、一種の“互助の精神”にも通じるところがあろうかと存じます。従いまして、一方通行的なものではなく、また質問者と回答者の上下関係等もない ものと思われます。

(2)評論家の功罪
「音楽現代」のバックナンバーを調べていた最中、以下の文言を見つけました。これは、おそらく助川氏だけでなく、少しでも歴史を顧みることができた方達ならば、以下の帰結に賛同するものと察せられます。今となっては、どうしようもないことなのですが、批評でいちゃもんを付けられて、ドビュッシーが書き直してしまった曲よりも、その前のドビュッシー自身の原曲に興味を持つのは、愚生一人だけではないと思っております。
 因みに、「音楽現代」のバックナンバーを調べてみたのですが、案の定、前衛音楽は、衰退の傾向にあるようです。

助川「活字は権力だし凶器にもなる。昔、無調でないとだめだとか、前衛的でないとだめだ、というので、散々作曲家を罵倒した批評家がいた。あの人たちは日本の作曲を随分ゆがめましたよ。作曲家というのは創作の過程では本当に孤独なんで気が弱くなってるもんですよ。ドビッシイみたいな人でも批評でなんか言われて曲の一部を書き替えてしまったことがあるそうだから。」
http://www5c.biglobe.ne.jp/~onbukai/HP-tosyo/onse1999/zd-199902.htm からです。

 なお、マシュマロ様におきましては、根底にあるのは、時間とともに(科学の進歩と同様に)発展・進歩をとげていく。そして、今現在、“前衛美術”なるものも現実として存在している。「なぜ、過去にまで遡る必要性があるの?」 といった現実主義的なものがあろうかと推察しております。
 ただ、愚生の主張と致しましては、「“論理的・評論的解釈による美の認識方法”が、あまりにも横行してしまった。そこで、論理では説明しがたい、“一目ぼれ”してしまったかのような美しい作品に出会ったときの“感動”・“感性”を大切にしたい。そして、もう一度かような感動に触れてみようではないか?」といったものでございます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-02-23 20:23:54

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 やっほおお です。終結したようです。

 ★ 評論家
 ☆ ってそんなにえらいんですか。おどろきです。
 文学評論は それとして言わば独立した分野であると思っています。思想にもなり得ますし。あるいはまた 作家も自作についてみづからが評論家になって 推敲し模索し試行錯誤しているものと思います。その過程は とうといものであるように思います。
 音楽や絵画は 文学よりももっとインスピレーションのはたらく領域だと思いますから 評論は作品に届かない位置にあるように思います。あるいは作品はつねに評論を超えていると思います。たとえつたない作品であったとしても その創作の性格から言って 独立性がつよいように思います。

 ドゥビュッシでも評論の声に弱かったのですか。感受性がつよいからでしょうかねぇ。

 【Q:麦と毒麦 または・・・】――たいへんお手数をおかけしますが 重要だと判断しました。よろしく――批評も――お願いしたいと思います。

 ★ つまり、「あらゆる分野において誰もが気軽に質問でき、お互いに経験や知識を教えあうことにより、助け合うことができる場として「OKWave」というQ&Aサイトを設立しました」とございます。つまり、一種の“互助の精神”にも通じるところがあろうかと存じます。従いまして、一方通行的なものではなく、また質問者と回答者の上下関係等もない ものと思われます。
 ☆ そう言えば このような趣旨のことを一度聞いたような気もしますが。有価証券報告書ですか。役に立ちますね。
 ただしいぢわるく見れば 質問者に回答者がおしえ その回答者も質問者になったときには おしえを受ける。そのように立ち場を替えるときに 相互扶助になるのだよと言って来るかも知れません。
 でも 結着はついたと思います。

 ★ ・・・technical term が非常に多いことが気になりました。一般的に、ドクターにもなれば、当該分野において知識を有する専門家もしくはそれに準ずるもの以外の一般の方達には、これら term は避けるべきことは教わってきたと思うのですが、なぜそれをなさらないのか という疑問がございます。
 ☆ これは案外〔と言っていいのかどうかですが〕 大事ですよね。その専門的な術語や理論が どれだけ現実的であるかを測るものにもなると考えられますから。人文科学や社会科学では特に。
 《アマテラス‐スサノヲ》連関制というのも 学術用語だと思っているのですけれど。・・・

 ましゅさんは どうも何かに引っかかっているのか 吹っ切れているところと奥歯にものがはさかっているところとがあるように思います。
 ★ 現実主義的なものが
 ☆ ですか? そうかも知れません。つまり作品との実際におけるつながりを離れるということは考えられないのかも知れません。


 しばらくのあいだ 踊り場にいることになりましょうか。どうでしょうか。

投稿日時 - 2011-02-23 22:22:46

こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。


> 《大物フィクサー》の場合は 研究の余地があると思うのですが たとえばポルポトや独裁者たち これらの場合には すでにそのオモテの貌として《強権を用いる》というイメージがあるのかと思います。
 言いかえると アクマは そうではなく――しかもつねに一対一で相手になって その相手を何とか第二の死の状態へとみちびこうとしつつ―― ちょうど《天使をよそおう》ものと思われるのです。いわゆる一本釣りなのだと思うのです。
 そうして繰り返すなら その相手を みづからすすんでその《すべてを否定する精神》としての死の状態を愛するような存在(?)に仕上げる。


 納得致しました。愚生は、黒幕的存在、アッキを従え、アッキに指図して行動させる というものを想定してございました。

 「しかもつねに一対一で相手になって その相手を何とか第二の死の状態へとみちびこうとしつつ―― ちょうど《天使をよそおう》ものと思われるのです。」 かような存在は、実社会でも生息しているように見受けられます。《天使をよそおい》ながら、男どもを煽り立て、自分の都合のいいように仕向ける・戦わせるといった女性(社員)も実際おりました。男がバカだと言ってしまえば、それまでなのですが.....
 ”(自分の都合で)足を引っ張ることは頻繁にしてくれますが、手を引っ張ってくれることは決してしてくれない” 確かにいたかと記憶してございます。

> でももういちど見なおして出直したほうがよいのかも分かりません。と考えるようになりました。

 了解致しました。「日本語の論理表現」のご質問に、移らせていただこうかと思っておりましたが、これ以上揉めることはないようにも思われました故、少し様子見をさせていただければと 思っております。アレルことがあるようでしたら、すぐに参加させていただきたいと思っております(仮説につきましては、愚生にも責任がございますから)。


 最初のところがよく分かりません。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 
> と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。

 新たな「日本語が論理表現にふさわしくないわけがない」のご質問では、木造様が途中に入られ、論点を元に戻す作業がなされておられます(おそらく、お気遣いをなされたものかと)。従いまして、考えすぎのようにも、お見受けするのですが…..
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


> ☆(1) 九十九匹から離れてしまった一匹という可能性は少ないとおっしゃっていますか?

 はい、仰られる通りでございます。


.> (2) 木造さんの回答内容が 《論点を元に戻す作業》だというその意味がよく分からないのですが?

 猛突様、bragelonne様両お方を存じておられること。冷静になるべきときは、いたって冷静な発言をしてこられた経緯からの理由でございます。アレそうになったため、ご質問の本来の目的に沿った回答をお寄せになったものと考えております。


> (3) そうだとしても そのことと アクマの《実存》の可能性との関連も よく分かりません。

 この件とは、関係ございません。ただ、bragelone様は決して、一匹になってしまってはいない ということを申し上げたかった それだけでございます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-02-23 00:30:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 あぁ 論理表現においてわたし自身が失態を演じました。
 ☆☆ 他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。


 ☆ この《群れから離れ迷子になっただけかも知れない》というのは その《一方では アクマになってしまっているのではないかとわたしがうたがっているその存在》のことでした。主語をはぶいたためのアヤマチでした。

 言いかえると こうです。心つもりとして:
 ○ ~~~~~~~~~~
 ここまでみづからのマチガイを認めることをしないのは――つまりそれだけで終わらず なお食いついて来るというのは―― 人間としてのわたしから見れば アクマというハタラキによるのではないかと捉えられる。この判断があります。
 けれども その傍らには いわば神の席があって そこからは《いやいや 単なる迷い子であるに過ぎないかも知れない》という声が つねに聞こえて来る。つまり おまえは 判断をし間違えていないかというきよらかなおそれを持ち続けなさいと。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 木造さんは 正直な話 ご自分の主張が――口調としてなのですが―― つよすぎると感じています。それだけなのですが。

 ☆ ひどっちさんには 【Q:麦と毒麦 または・・・】でのはこぶるさんとのやり取りを――少し長いですが――是非読んでくださるようお願い致したいと思います。アクマ学としてです。

 いまの時点でつぎのようなお話を述べます。
 2月17日に【Q:ひとは やわらがしめられうるか?(つづき)】へ ちょとつくんが投稿して来ました(回答No.1)。【Q:審美眼】などの質疑応答を終えたあとです。わたしの反応は これは戦争の継続なり と読みました。
 これを受けて そのあと【Q:《第二の死》とは】をもうけ さらにこの《第二の死》が 概念として・話題として通じると見ましたので 本質問【Q:アクマとは《第二の死》へと・・・】を起ち上げました。むろん親分がやってくるだろうと見越したからです。
 読み間違いだったかと半分あきらめが漂ったときに 【Q:日本語が・・・】を問題にせねばならないとふと思いました。そうして やがてふたたびの戦闘開始となりました。お引き取りのままでは終わらなかった。
 その親分さんの二度目の投稿(No.10)を読んで さすがに むなしいと思いました。しかも少し経って今度はその思いをひるがえして 《しらみつぶし作戦》で応答しておくのもよいと考え 途中まで・先に補足欄にて返事を書きました。
 さすがむなしい! という再度の思いとともにふと思ったことは こうでした。
 ■ 自己乖離(自己の内でのことを外部で他者が受け取るもののように感じる)
 ☆ これは ひょっとすると 自分こそがそれで悩んでいる。たすけて欲しい。すくわれたい。――こう言っているのか? でした。
 一瞬 《群れから離れた一匹の子羊》だったかとも。
 そのあと閃いたことは これが手口だったかでした。アクマのです。

 分かりません。いっさい推し測っているだけですので 分かりません。
 しなくてもよいものをと判断すべきかも知れないところの戦闘の途中経過ではあります。
 どうなるか わたしがどうするか これも分かりません。いまの時点で このようです。



 ましゅさんは 別だと思って来ましたが そしてそう思っていますが このところ考え直さねばいけないのかといういぶかしみが起こり始めました。





 この主観が 公共のつとめでありますように。

投稿日時 - 2011-02-23 06:24:21

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。

 新たな「日本語が論理表現にふさわしくないわけがない」のご質問では、木造様が途中に入られ、論点を元に戻す作業がなされておられます(おそらく、お気遣いをなされたものかと)。従いまして、考えすぎのようにも、お見受けするのですが…..

> ☆ というように もちろん周到な見方をおこたらないわけです。
 どうでしょう? 後者つまり《周囲からの影響》は どこまで効いているのか? これには わたしは問い求めの余地があるように思っています。 

 残念ながら、歴史上少なくとも独裁者と言われたひとたちも(ポル・ポト等でございます)、当初は熱狂的な“理想主義者”に過ぎなかったと推察しております。しかし、自分の理想と、また一方では、周囲からの期待も重なり(連鎖反応が生じてしまい)、あのような大惨事を起こしてしまったものと考えております。
 意外と、冷酷無比な“アクマ”はあまり表だって出てこないためか、情報が入手しにくい状況にあろうかとも思われます。マキャヴェリもそうですし、韓非子もそうなのですが、その論調・主張とは異なり、最後はあっけなく死んでしまっていたものかと記憶しております。アッキとは異なり、正真正銘のアクマはそうそう表には出てこないものなの とも考えております。

> 《自己陶酔》も それほど長くもしくはそれほど強くは効いていないかも知れません。というのも アクマは 老獪であって ちょっとやそっと押しても引いてもびくともしない《神のごとき・負のだけれど精神》であると思われるからです。

 確かに、仰られる側面もろうかと存じます。

> ☆ ほんとにわたしたちは こうなるとアクマよりも歳を取って手練手管に通じていなくてはならなくなるようです。
 おっしゃるとおりですね。

 ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。

> ですから 
 ☆☆ ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか?
 ☆ というときの《超越的な力》というのは それほど神秘的なものではなく けっきょく社会の中の人間関係が錯綜して長い間の歴史的に出来た結果としての恨みつらみ その匂いにふと触れた瞬間に われはアクマになるぞと心に決めるということかも知れません。そういう力によるアクマの生成です。

 仰られますように、“恨みつらみ”がその根底となって、何らかのきっかけで、アクマ化してしまう可能性は存在するかと思われます。

> こうやって考えて来て ふと思いました。
 ○ 社会学のなかでアクマ学というべき議論をまとめておけば 人生や社会における壁や溝や山や谷について 意外とその事態の認識が出来て ひとは凹むことも少なくなるかも知れない。
 
 アッキの場合は、往々にして逮捕されこともあり、犯罪心理学等により、ある程度は説明可能な段階まできているものと推察しております。ですが、これらを操るアクマともなりますと、かなりの大物という印象があり(証拠はございませんが)、研究対象にはなりにくい とも考えてはおります。ですが、大物フィクサー(例えば、児玉 誉士夫や許永中です)からの調査研究により、アクマ学、もしくはそれに相当する研究分野が現れることは、将来の日本人には益するところがあろうかと考えられます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-02-21 22:18:48

お礼

 いやぁ またまた あるいはまだまだ アクマについては分からないものですね。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ アッキとは異なり、正真正銘のアクマはそうそう表には出てこないものなの とも考えております。
 ☆ という感じで 捉えがたい存在(?)である アクマは。
 【Q:麦と毒麦 またはメフィスト―フェレス】で 案外 それまで考えていたことを表わせたと思ったのですが あらためて《人間としてのアクマ》を捉えようとしたところ 何だか捉えたと思っていたものも全部どこかからすり抜けて行ってしまった感じにもなっています。

 《大物フィクサー》の場合は 研究の余地があると思うのですが たとえばポルポトや独裁者たち これらの場合には すでにそのオモテの貌として《強権を用いる》というイメージがあるのかと思います。
 言いかえると アクマは そうではなく――しかもつねに一対一で相手になって その相手を何とか第二の死の状態へとみちびこうとしつつ―― ちょうど《天使をよそおう》ものと思われるのです。いわゆる一本釣りなのだと思うのです。
 そうして繰り返すなら その相手を みづからすすんでその《すべてを否定する精神》としての死の状態を愛するような存在(?)に仕上げる。

 でももういちど見なおして出直したほうがよいのかも分かりません。と考えるようになりました。

 最初のところがよく分かりません。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 > と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。

 新たな「日本語が論理表現にふさわしくないわけがない」のご質問では、木造様が途中に入られ、論点を元に戻す作業がなされておられます(おそらく、お気遣いをなされたものかと)。従いまして、考えすぎのようにも、お見受けするのですが…..
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) 九十九匹から離れてしまった一匹という可能性は少ないとおっしゃっていますか?
 (2) 木造さんの回答内容が 《論点を元に戻す作業》だというその意味がよく分からないのですが?
 (3) そうだとしても そのことと アクマの《実存》の可能性との関連も よく分かりません。

 必要でしたら おしえてください。



 見直しと出直しを考えようと思います。

投稿日時 - 2011-02-21 23:02:39

ANo.6

 難しい質問ですが・・・一部分だけでも考えてみます。

 >第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。

 とは何か?

 それは「終身刑」に近いのかなとちょっと思いました。

 第一の死では、あやまち、しかも重い犯罪、殺人などを犯してしまうと、そこで「ああ俺の人生はもう終わりなのかな」と一度人生の死を思います。しかし刑に服すことで、もう一度人生をやり直すことができます。あるいは、あまりにも残忍な場合は「死刑」という本当の死を与えられます。

 それに対し、日本にはまだありませんが、「終身刑」は一生刑務所から出られない、つまり罪の固定、第一の死の固定ということになります。これこそ第二の死といってもいいくらい相当きつい報いです。

 これは何も犯罪に限ったことではありません。「潜水服は蝶の夢を見る」のように意識があっても体が動かない状態や、精神疾患で病態がずっと固定している状態などは、同じ苦しみを味わいます。

 それがアクマの働きからくるのか、自らが自らに連続殺人や終身刑を命令するのか、そこに救いとか希望はあるのかはまだよくわかりませんが、誰も好き好んでこのような地獄を味わい続けたいわけはありません。そこに本人の意思はないと思っています。映画 「瞳の奥の秘密」を見て、さらにこのイメージが強まりました。沈滞している今の日本もこの状態に陥っていなければいいのですが・・・
 

投稿日時 - 2011-02-21 01:10:07

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~
 それは「終身刑」に近いのかなとちょっと思いました。

 第一の死では、あやまち、しかも重い犯罪、殺人などを犯してしまうと、そこで「ああ俺の人生はもう終わりなのかな」と一度人生の死を思います。・・・
 ~~~~~~~~~~
 ☆ という切り口でのご見解 これも分かりやすいと思いました。

 ★ これは何も犯罪に限ったことではありません。「潜水服は蝶の夢を見る」のように意識があっても体が動かない状態や、精神疾患で病態がずっと固定している状態などは、同じ苦しみを味わいます。
 ☆ とつづいて来ます。
 わざとげんみつさを追求するとしたら こうなるかも知れません。つまり
 ○ このように《精神疾患で病態がずっと固定している状態》が アッキの場合にはときどきふと気づくようにして自覚にのぼる。けれどもさらになおこの気づきを即座に否定し続ける。そうして 第二の死にそのつど近づく。
 ○ ところがアクマの場合には すでに――仮定ですが――この第二の死に到っておりそれが固定しており またそうだと分かっていてもそれでよいのだと居直っており それどころか つねにほかの人をもそのみづからと同じ状態へとさそう。つまりこのいざないをおこなうことこそが アクマのパンであり仕事であるとなっている。

 のうばうんどさんは こころやさしい方だとお見受けしました。
 ★ ・・・誰も好き好んでこのような地獄を味わい続けたいわけはありません。そこに本人の意思はないと思っています。映画 「瞳の奥の秘密」を見て、さらにこのイメージが強まりました。沈滞している今の日本もこの状態に陥っていなければいいのですが・・・
 ☆ 質問者は それこそ鬼になって アクマの場合にはみづから好き好んでその状態になったのではないかとうたがっています。むろんそうではないという結論にみちびかれてもよいわけで さらにこの問い求めが深められていくことを いまは願っています。
 この映画について知らなくてすみません。

 かんたんに言うと 悪循環に落ち入ることはありやなしや? という問いになりましょうか。あれば そのあと毒を食らわば皿までというかのごとく 故意にそのアクの状態に突き進んで行くという場合を想定していることになります。

 単純な例を出しますと いまは与野党を問わず経済の安定成長を軌道に乗せるべく よい予算を組むことがいわば至上命令だと思われますが かえって足を引っ張る方向へと突き進みその悪循環に陥っているとさえ思われます。
 ひとの世の中には 歴史的な積み重ねとしても そのようなアクマのハタラキが現われる定めがあるのか? どうしようもないのか? それとも実際に具体的に人間がわざとそういうハタラキを どういうわけか 担って振る舞っているのか? 

投稿日時 - 2011-02-21 08:47:20

 こんばんは、Hidocchiでございます。

 以下に、第一、二の死につきまして、勝手ながら、概略を示させていただきました。不備な点等ございましたら、加筆・修正賜りますれば幸甚に存じます。

[各定義]
前提:あやまちは、心を失くし、われ無しとなる“死”である。
 ただし、この“死”とは、生物学上の“死”という意味ではなく、人間的・精神的“死”の状態を指しております。あくまで”形而下”の問題としてのものでござます。

・第一の死:あやまちに気づき、われに還り、われ有りとした場合の“死”である。このため、這い上がり再生可能な“死”をも意味する。

・第二の死:わが心に背き続け、われを離れ、われ無しとなった結果の“死”である。つまり、われ有りの状態に復帰することを拒み、再生への道を閉ざしてしまうが故に、「この第一の死が死ななくなる」ことをも意味する。

・《アッキ(悪鬼)》:進んで、自らの再生へ道を閉ざしてしまう者。そして、第二の死の状態に自ら進んで突っ込んでいく者。

・アクマ(悪魔):アッキたちを従えて、人びと [善意の第三者] を第二の死の状態へ是が非でもいざなうその作用。もしくは、そうした者たち・親玉。



> ( d-3 ) 要するに 第二の死に人々をいざなうということは 何事にもあやまちの道を用意しそこへといざない あやまちに落ち入ったなら その姿を固まらせる[身動きできなくする]というハタラキ これを生身のニンゲンがおこないうるか?

 存在していると考えております。例えば、”既得権益”もその好例かと推察しております。例えば、新規参入者の参加・介入の妨害。そして失敗した際には、2度と這い上がれないようなシステムが構築されておりますから(一度でも失敗したものには金融機関からの融資は受けることが不可能に近い現実がございます)、一回でも失敗させれば、それでコトが済んでしまうという状況にあろうかと察せられます。

>( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか? それともやはり――モノや環境のみによるのでないなら―― ニンゲンが好き好んでそう成り そういうドクターであり演出家に成って《活躍する》ということなのか?

 「ニンゲンが好き好んでそう成る」ことはあり得ると思っています。ですが、当初はそうではなく、”自己陶酔”、”周囲からの希望、煽動”等が主な原因かと思っております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-02-19 18:38:39

お礼

 すごいですね ひどっちさんは。旗幟鮮明の点において。
 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ アクマというハタラキは・・・「ニンゲンが好き好んでそう成る」ことはあり得ると思っています。
 ☆ ドクター・アクマとか 演出家と言ったりしていますが まだまだ断定は避けているところがありました わたしは。
 と言っても たしかに一方でそのハタラキそのものになった節があるとすでに言っています。他方では それはただ単に九十九匹から離れ迷子になっただけかも知れないと考えているところもあったりします。

 ★ ですが、当初はそうではなく、”自己陶酔”、”周囲からの希望、煽動”等が主な原因かと思っております。
 ☆ というように もちろん周到な見方をおこたらないわけです。
 どうでしょう? 後者つまり《周囲からの影響》は どこまで効いているのか? これには わたしは問い求めの余地があるように思っています。もし《好き好んで》であったら そのような周囲の意向といったものをも考慮していたとしても いづれかの瞬間に或る日ふと そういう趣きのヒラメキがあって ひとりすっくと立った。こういう場面を思い描いてはおります。そのヒラメキのときの決断に それまでの周りから受け取ったその願いや思いをすべて注ぎ込んだかたちであってもよいのですが。

 ついでにと言ってもいけませんが 《自己陶酔》も それほど長くもしくはそれほど強くは効いていないかも知れません。というのも アクマは 老獪であって ちょっとやそっと押しても引いてもびくともしない《神のごとき・負のだけれど精神》であると思われるからです。
 あるいはまた こちらがイニシアチヴを取って押しているようであっても じつは押されているという結果になることさえあると思われます。議論として明らかに攻め切ったというときにも その攻め切られた事態を逆手に取って 攻勢に出てくることなどはわけないのかも知れません。不合理ですが 何でもありのマキアヱ゛ッリなのだと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ( d-3 ) : 存在していると考えております。
 例えば、”既得権益”もその好例かと推察しております。
 例えば、新規参入者の参加・介入の妨害。そして失敗した際には、2度と這い上がれないようなシステムが構築されておりますから(一度でも失敗したものには金融機関からの融資は受けることが不可能に近い現実がございます)、一回でも失敗させれば、それでコトが済んでしまうという状況にあろうかと察せられます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ほんとにわたしたちは こうなるとアクマよりも歳を取って手練手管に通じていなくてはならなくなるようです。
 おっしゃるとおりですね。
 もしきびしいことを言おうとすれば ふたつあります。
 ひとつは これは制度が変われば――制度の運営に融通を利かせれば――或る程度は アクマの力も制限されることがありうると思われることです。アクマは いっぺんに急所をねらうものとすればです。
 もうひとつには 同じく社会制度じょうの死をこうむるという事態だということです。この被害者は じつは 社会慣習じょうの失敗をなめていますが 必ずしもあやまちを犯したわけではない。そのゆえです。

 アクマは その狙った相手をもこのあやまちなる死に追いやり この第一の死を《愛する》ようにみちびくものと考えます。その人間が アクマもしくはアッキなる姿に骨の髄から成るように仕上げるのだと思います。


 ですから 
 ☆☆ ( d-4 ) アクマというハタラキは 人間〔の心や意志や努力〕を超えた力から来るのか?
 ☆ というときの《超越的な力》というのは それほど神秘的なものではなく けっきょく社会の中の人間関係が錯綜して長い間の歴史的に出来た結果としての恨みつらみ その匂いにふと触れた瞬間に われはアクマになるぞと心に決めるということかも知れません。そういう力によるアクマの生成です。

 ですけれど 《心に決める》ということは その人間が好き好んでみづからすすんで成るということであるかとも思われます。
 あるいはこのアクマのハタラキを発揮するのは 人生に一度か二度 もしくは自分の仇と言いたい特定の相手に対してだけのことかも知れません。あとは そのアクマの状態から逃れ出ることが出来るかどうか分かりませんが もう足を洗っているかも知れません。

 こうやって考えて来て ふと思いました。
 ○ 社会学のなかでアクマ学というべき議論をまとめておけば 人生や社会における壁や溝や山や谷について 意外とその事態の認識が出来て ひとは凹むことも少なくなるかも知れない。
 ☆ と。
 さてどう展開すれば・・・。

投稿日時 - 2011-02-19 20:42:31

あー
推敲中のを間違えて投稿してしまいました

エロジジイとかふざけて書いた所は削る予定でした

すみません

投稿日時 - 2011-02-19 05:32:18

補足

 味方とは?

 その国から派遣されて地球に駐在する大使館に勤務する外交官。
 その外交官どうしであることが 味方どうしであるということになります。

 その国と言っても けっきょくこの地球のことなのですが。
 ただし 必ずしも目に見えない国であるかも知れません。
 同じ地球のことなのですが 目に見える国々と目に見えない国とがあるというところでしょうか。
 
 けっきょく自覚の有無で どちらの国に重心があるかが決まり 外交官でいられるかどうかが決まるでしょうか。
 重心は たぶん 自分だけでは決まらないかも知れません。
 いづれ心の窓をノックするそのおとづれがあることでしょう。

投稿日時 - 2011-02-23 15:27:04

お礼

 まぁ 当たらずと言えども遠からずとも言えるような感じで

 そう言われてよろこんでいるかも知れず。・・・

 違っていても たいした感じではないようでもあり。





 つまりは わたしがニンゲン扱いしないという宣言を出してそのお方に与えたので その傷を癒やすためにのようにご機嫌をうかがってくれたというようにも解釈されて。




 われに味方がいるということの現実性について ちと考えてみなくてはならなくては くてくてというような感じにて。

投稿日時 - 2011-02-19 09:19:42

ANo.2

馬鹿の考え休むに似たり。っていうか、病人ですな。専門医の診断を受けましょう。
己の発想を哲学と思い込んでいるのは質問者だけです。自己評価が高すぎます。

投稿日時 - 2011-02-18 15:59:45

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 自己評価が高すぎます。
 ☆ あなたの評価が低すぎます。というよりも 評価をする能力がありましょうか?

 ★ 己の発想を哲学と思い込んでいるのは質問者だけです。
 ☆ この《おのれの発想》について そもそも認識をしたのですか?
 していないから その中身の復唱もできない。復唱もしないで 批評も評価もあったもんぢゃない。それくらいも分からないで 回答を寄せるのですか?

 ★ 馬鹿の考え休むに似たり。っていうか、病人ですな。専門医の診断を受けましょう。
 ☆ だいたい自分の理解力を超えたことについては たいていの人間は こう言います。そう言っておけば なんとかカッコウはつくと思う多少の知恵がはたらくのでしょうか。
 あほの浅知恵 死ぬに似たり。っていうか 死人ですな。ごしゅうしょうさまでした。ここにも坊さんは いらっしゃるようですから ご厄介になりましょう。

 たいへんありがとうございました。

投稿日時 - 2011-02-18 17:02:45

ANo.1

悪魔とか鬼とか、みんなただの空想です。
はやく普通の世界に帰ってきてください!

投稿日時 - 2011-02-18 13:27:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 悪魔とか鬼とか、みんなただの空想です。
 ☆ そうしますと 《空想》は 《現実》ではないのですか?

 ★ はやく普通の世界に帰ってきてください!
 ☆ このあなたの《普通の世界》には 《空想》がないのですか?

 そうですね。
 たとえば《はかない(儚い・果敢無い)あるいは はかなむ》ということばがあります。
 これは 《はか(進捗)が行く》や《はか(進捗)取る⇒捗る》のハカが無いと言っているのですが いわゆる無常観のことですね。果ては《どうせ死ぬ身だ》というところに行き着くようなひとつの見方です。
 ところが ここから《空想》が始まるのです。
 だったら ヤケクソだと言ってみたり あるいは どうせおれなんか死んだって どうってことないのだしとか あるいは何を《空想》してか 人をひとりやふたり殺しても おれもいっしょに死にゃあいいんだろとかつぶやいてみたりということが 起こらないとも限らない。
 つまりこの《空想》が アッキもしくはアクマになりうるというもんだいです。
 そうぢゃないですか?

 わたしたちは 誰もが ウソをつくのです。あやまちは そこから始まります。その一片のウソによって どこまでも続いていた広い我が宇宙が 一瞬のうちに区切られて来ます。《わたし》の生きる時空間が限りのある場であり時間であるということになります。
 このうつろいゆく世界を見たあとは 片やその《第一の死からの復活》という空想を編んでみたり 片やこの第一の死はもはやどうしようもないのだ あぁ世の中は飲めや歌えやでおもしろおかしく生きるしかないから始まって しまいには いまをうまく生き切ればよいのだ そのためには何でもしよう 悪というのは見つかるから悪なのだ 見つからなければ生きるためには善である あぁそうだ この思想をおれは広めてやる アクマの思想だ これならこわいものは無い うんぬん うんぬんとその《空想》が果てしなく続きしかも思想として編まれて行きます。
 アッキたちが 現実に いるではないですか。アクマも ひょっとしたら そのあなたの傍にたばこをくゆらせて坐っているかも知れないではないですか。いや 分かりませんが そういう思想ないし風潮は 世の中を飛び交っていますよ。

 そういう主題を取り上げています。
 ご自分のお考えを どうぞお寄せください。

投稿日時 - 2011-02-18 13:52:36

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