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締切り済みの質問

お茶屋さんて

旧街道を歩いたりすると古いたたずまいの旅籠屋、とかお茶屋さんがあ
りますが、お茶屋さんであげはんぺんをかって食べた時にふと思ったの
ですが、二階の窓から長じゅばんの女の人が窓からのぞいていたりして、
子供がいったらいけないのがお茶屋さんだったはずのようなそんなあやふ
やな知識がぽかんと浮かびました。

お茶屋さんていうのは、一階では団子やお茶も飲めて、ニ階はそういう
禁断エリアでしたのでしょうか、お茶と海苔は保存方法がにてるから、
海苔も一緒に売っていたという話も聞いたことがありますが、お茶屋さん
の始まりから分岐の歴史が分かりましたら教えてください。
なにぶん無知なものですいませんがよろしくお願いします。

投稿日時 - 2011-03-08 11:29:14

QNo.6578044

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回答(6)

ANo.6

古いご質問に今更ながら、何方も書いてらっしゃらないので、補足させていただきます。

まず、ご質問者さんに誤解があります。

茶屋   →一般的に現在の料亭。簡単にいえばちゃんとした立派な建物で営業。
茶店   →今でいう喫茶店。よしず張りなどで簡易に作られた店。
茶葉屋→ お茶っ葉や海苔などを販売する商売屋。

この三つを混同されている。
ですから、ほかのご回答者様たちは、茶屋の説明をされてしまってるんですねぇ。   

ってなこってす。    

投稿日時 - 2012-01-08 11:57:04

ANo.5

 こんな「茶屋」もありました。

 画像の左。 竪川に架かる一之橋の右上を見てください。

 竪川の川岸で、ここのところだけに建造物があったのです。

 で、この場所で蕎麦(そば)を食べた人たちがいました。

 三百余年前。元赤穂浅野家の家来、足軽の寺坂吉衛門信行(てらさか・きちえもん・のぶゆき)が書いた 「寺坂信行自記」(国立国会図書館蔵) には、次のようにあります。

 ――忠左衛門、惣右衛門、沢右衛門其外六七人ハ両国橋向川岸町亀田屋と申茶屋に立寄候 そは切なと申付緩々と休息いたし八ツ前より安兵衛宅江参内蔵助父子一所に装束致し候――

 忠左衛門は、吉田忠左衛門兼亮 (よしだ・ちゅうざえもん・かねすけ) 足軽頭  寺坂吉衛門は吉田忠左衛門組下にいました。

 惣右衛門は、原惣右衛門元辰 (はら・そううえもん・もととき) 足軽頭
 http://www.kyoto-wel.com/yomoyama/yomoyama10/015/015.htm

 沢右衛門は、吉田沢右衛門兼貞 (よしだ・さわうえもん・かねさだ) 吉田忠左衛門の三男 

 江戸絵図を参照しながら寺坂吉衛門の自記に読むと――

 元禄十五年十二月十四日の夜中に、吉田忠左衛門らは、両国橋の西の(上の画像では大川の上)「米沢町」 にある堀部弥兵衛宅を出て両国橋を渡り、広場をぬけて右折(上の画像では左)した。

 一之橋を渡ってり竪川を越え、南側の川岸を東に向かって歩いて、林町五丁目の堀部安兵衛宅に行った。

 さて、この道筋から 「両国橋向川岸町」 を探してみましょう。

 両国橋の東(画像では下側)の広場の右手(画像では左)に 「尾上町」 があります。
 元禄の頃、ここは「御石置場」でした。

 尾上町と 「元町」 の間を抜けた突き当たり。竪川の川岸では、そこだけ町場になっているのがわかりますね。

 画像は安政二年の切絵図で、吉田忠左衛門らの行動から百数十年を経ている。 

 しかし、元禄時代から同じ場所に町場があったことが、幕府普請方作成の資料に見えます。


 亀田屋という茶屋を出た忠左衛門らは、「八ツ前」 に林町五丁目の堀部安兵衛名義で借りていた長屋に入った。

 元禄十五年十二月十五日で計算すると、「八ツ」は、午前1時48分となる。

 こんな時間まで営業してる店といったら、今でいう 「風俗営業の店」 しかない。公認の吉原と違って、モグリでの営業。のちに「岡場所」と称されたところです。

 風俗営業の茶屋「亀田屋」 に入ったら、セットで 「そば切」 がでてきたということです。

 茹でた蕎麦(そば)を笊にとり、上から熱湯をかけて蓋をして蒸らす。

 それを椀に入れ、大根おろしの絞り汁を入れた 「垂味噌」(たれみそ) とともに供した。

 これは、腹を満たすためのものではなく、酒の肴です。

 異性との最後の宴でした。

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投稿日時 - 2011-03-10 16:43:45

ANo.4

bungetsuです。

>>遊女の世界にも厳しいヒエラルキーがあったということでしょうか。

多少はありました。
と言うのは・・・
「太夫」と「格子」だけしかいない妓楼・・・大見世。
「散茶」や「うめ茶」しかいない妓楼・・・中見世。
「五寸局」や「三寸局」、「なみ局」しか抱えていない妓楼・・・小見世。
などと妓楼の格付けがありました。
しかし、遊郭全体として見た場合には、厳しい階級制度だったのです。


>>出会い系というのは、「婚前交渉」が目的なのでしょうか、
結婚目的恋愛≒お見合いみたいな機能があったのか、それとも夜這い
のような単なる娯楽性を追求したものなのか。

「婚前交渉」もあったでしょうし、「不倫」もあったでしょう。
また、単なる「性欲」のはけ口だった場合もあったでしょうね。
大商人や武家では、江戸では儒教の精神が重んじられていましたので、許婚者(いいなづけ)制度が一般的でした。
しかし、中には親に隠れての「密通」などもあったと思います。

>>いづれにしてもカフェインと性欲の関係がそこにあったんでしょうか。

お茶ですから、カフェインと言うよりも「カテキン」が関わっていたのかも・・・。

投稿日時 - 2011-03-09 18:00:28

ANo.3

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>お茶屋さんの始まりから分岐の歴史が分かりましたら教えてください。

茶屋とつくものとしては、

引手茶屋
江戸時代、吉原の遊郭内にあり、まずは客は引手茶屋に腰を据えて、そこからお気に入りの「太夫」(後に「花魁」おいらん)や「格子」と呼ばれる一級遊女を呼び寄せて顔見世をする茶屋。


出会茶屋
現代のラブホテルのようなもの。男女が連れ立って訪れる場合と茶屋の仲居を口説く場合とがありました。仲居を口説いて男女の関係をするものを非公認の遊女たちでしたので「岡場所」と呼びました。不忍池、深川などが有名。

峠の茶屋など
ここは、旅人の休憩場所。大方は宿場と宿場の中間くらいにあり、旅人は、この茶屋には泊まれません。従って、茶屋での遊女の接待はありませんでした。とは言うものの、遊女を二階に住まわせての違法行為もなくはない。しかし、公然とそれを行うと違法行為ですので、たちまち店の主人も遊女もお縄になりました。うわさにならない程度の接待はあった・・・と言うべきでしょうか。

飯盛女
この飯盛女は茶屋ではなく、江戸四宿(千住、板橋、品川、内藤新宿)の宿にいた半公認の遊女。
1軒に2人という決まりがありましたが、表で客引きをするのは2人でも一旦客を引き込んでしまえば、裏に回ればぞろぞろ・・・。


>>お茶と海苔は保存方法がにてるから、海苔も一緒に売っていたという話も聞いたことがありますが

はい、これは江戸時代から定着しました。どちらも湿気を極端に嫌いましたので、お茶も海苔も茶壷に入れられ、お客が来た時だけ開けて品定めをさせました。


(よもやま話)
(1)吉原の遊女の格としては、「太夫」(宝暦年間頃よりは「花魁」)、「格子」(こうし)、「散茶」(さんちゃ)、「うめ茶」、「五寸局」(ごすんつぼね)、「三寸局」、「なみ局」、「次」となりますが、遊郭の見世の格子戸の前に並んでお客を引くのは散茶以下の遊女。「太夫」や「格子」は、吉原の大門を潜ったすぐのところに引手茶屋5~6軒があり、客はまずその茶屋に腰を据えて、お気に入りの「太夫」や「格子」を呼び寄せました。この時、妓楼から引手茶屋まで「太夫」や「格子」が移動するのを「花魁道中」と呼ぶ。1回や2回目では顔見世程度。3回目にして、「太夫」や「格子」が気に入れば、男を連れて妓楼の自分の部屋へ案内をしてくれます。もし、気に入らなければ、そこでチョン。しかし、客(男)も何とか気に入られようと、布団や座布団などの貢物をして努力しました。この「花魁道中」には、禿(かむろ)と呼ばれる遊女付きの幼い少女数人や新造と呼ばれるまだ客をとったことのない遊女見習いを数人、太鼓持ち、若衆などがお供をします。こうした人たちへのご祝儀、引手茶屋での飲食、妓楼への揚代などなど、一晩に30~40両が飛びました。

(2)遊女の第三級を「散茶」(さんちゃ)と呼びました。これは、煎茶をいれるとき振って出すお茶と振らないで出すお茶があり、この振らないで出すお茶を「散茶」と呼びました。つまりは、見世の格子戸の前で客引きをして、どんな客でも振らないで、しゃにむに二階へと連れ揚げる・・・洒落からの呼び名が定着したものです。

投稿日時 - 2011-03-08 18:50:45

お礼

ありがとうございます。
遊女の世界にも厳しいヒエラルキーがあったということでしょうか。
出会い系というのは、「婚前交渉」が目的なのでしょうか、
結婚目的恋愛≒お見合いみたいな機能があったのか、それとも夜這い
のような単なる娯楽性を追求したものなのか。
いづれにしてもカフェインと性欲の関係がそこにあったんでしょうか。

投稿日時 - 2011-03-09 15:11:10

ANo.2

こんにちは。

お茶屋さんですか。
お茶屋さんにもいろいろあったようです。
現代でいう喫茶店…これにも「出会い系喫茶」とか怪しいものから
スタバのように純粋にお茶を楽しむところもあります。

むかしもいまも人間がやることですからそう変わりはありません。
街道宿場や峠のお茶屋は、純粋に旅の疲れをとるところが多かったでしょう。

小さい宿場などは飯盛り屋などといった定食屋があり、その土地の風俗で
気が合えば男性の相手をする「飯盛り女」という売春があったようです。
(江戸期以前の日本はは性風俗が今より大らかだったのでしょうね)

根津や湯島などを代表とする江戸でのお茶屋は個室になっており、
出会い系…あるいはラブホのようなところが多くあったようで、
町人たちが合瀬を楽しんでいたようです。

海苔のことは、よく知りませんので他の賢哲にお任せします。
ただ質問を見て思ったことは、
老舗の「山本山」は海苔とお茶の販売会社だから何か関係があるのかもしれませんね。
(中途半端ですみません)

投稿日時 - 2011-03-08 12:04:09

お礼

ありがとうございます。
やはり、カフェインと性欲の因果関係なのでしょうか。

投稿日時 - 2011-03-09 15:03:29

ANo.1

江戸時代のお茶屋さんが今の喫茶店に相当します。

今の喫茶店の大半は繁華街や観光地にあり、歩き疲れた人のための
有料休憩所です。座れて冷たい物や暖かい物が飲めればいいのです。
これに対して純水にコーヒーの味を楽しむカフェもありますし、
出会い系の喫茶店もあります。

江戸時代にも出会い茶屋と呼ばれる形式のお茶屋があり、普段は
給仕の仕事をしている女性が場合によっては安価で自分を売ったり
していたようです。

投稿日時 - 2011-03-08 11:39:02

お礼

ありがとうございます。
カフェインと性欲の因果関係の歴史は他の国では、
どうなっているのでしょうか。

投稿日時 - 2011-03-09 15:02:23

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