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解決済みの質問

お釈迦様の教えについて

こんにちは。お釈迦様の教えについて教えてください。
正直「宗教」というものには全く興味は無く、むしろ良いイメージは有りません。
しかし宗派問わず、現代の仏教と本来の「お釈迦様の教え」は異なるものでは
ないのか気になり質問させていただきます。

1)「~観音」「~如来」とか「~菩薩」などは本来のお釈迦様の教えの中に出てくるものなのでしょうか?
後世の人々が作り出したものなのでしょうか?
お釈迦様は神様とか偶像などを崇めろと言っていたのでしょうか?

2)つまるところお釈迦様が言ってることはどのようなことなのでしょうか?
「諸行無常」とか「煩悩を捨てる」など物事にこだわるな、諦めろという印象が強いです。
実際はそんなことではないとは思うのですが。。。
分かりやすい例などがありましたら教えてください。
(お釈迦様も色んなことを言ってると思いますので代表的なことで構いません)

投稿日時 - 2011-03-17 15:37:47

QNo.6599489

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

1.
「観音」は後世に作られたものでしょう。
「菩薩」は、先の回答にあるように、修行過程にいる人のことです。これが釈尊在世の頃にあった(釈尊に対して使われた)言葉だったのかどうかは分かりませんが、釈尊も、修行をしている時は「菩薩」でありました。
「菩薩」のうちの一人、「観音菩薩(観世音菩薩)」というのは、仏教の教えを分かりやすく説くため(方便のため)に作られた登場人物の一人と考えていいと思います(現実に「観音」さんという人がいたわけではない)。

釈尊は、偶像崇拝は禁止しています。
ですから仏像(釈尊の姿を形にしたもの)が作られるようになったのは、釈尊滅後、ずいぶんと時が過ぎてからです(何百年か後だったか……)。
それまでは、法輪(釈尊が説法で話すことを、車輪が転がることに譬えたもの)や仏足跡(釈尊の足跡をかたどったもの―釈尊の足の裏には通常の人にはない“模様”があったと伝えられています―)などが“釈尊”を偲ぶよすがとなっていました。

2.
釈尊の教えは、滅後そんなに長時間たたないうちに、直弟子たちが寄り集まって「忘れないように語り継ごう」ということで、編纂作業が始められました。
最初は、教えを口づてで暗記することが中心だったようです。ですから、「四諦」とか「八正道」とか「四苦八苦」とか、数字のついたものが多いそうです。「××については、四つの要素がある、一は○○、二は△△……」という具合に、箇条書きになれば覚えやすいということだったそうです。

その後、それらが字に書きとどめられました。
そしてさらにその教えを研究する人が出てきて、「これはこういうことだろう」「あれはこんなことが言いたかったのだろう」といろんな説が出てきて、「私はこのように聞きました、お釈迦さまはある時、××にいらっしゃって、これこれこういうことをして、こんなことを言われました……(如是我聞、一時仏在××……)」という決まり文句を付けた経典が多数、編纂されました。

これらの編纂された経典は、いわば“脚色”されたもので、釈尊の教えのエッセンスは含んでいますが、釈尊がそのまんまのことを教えられたのかどうかは、かなり疑問視されています。
ただ、いかに読みやすく、分かりやすく釈尊の教えを伝えるか、という“方便”の側面もあり、すべてを「偽物だ」「信ずるに足りぬ」と否定してしまうのもどうかと思います。

今、一番釈尊の生の言葉に近い経典と言われているのが、『法句経』『スッタニパータ』だと言われています。
これらはネットでも読めるようですから、検索して読んでみられては如何でしょう。

以上、20年以上前、大学の「仏教学」の講義で聞いたものを、記憶に基づいて書きました。
記憶違いの部分があるかもしれませんが、その際はご容赦を。

投稿日時 - 2011-03-17 20:00:10

お礼

簡潔にご回答いただきありがとうございます。
『法句経』『スッタニパータ』ちょっと調べてみます(^^)

投稿日時 - 2011-03-18 14:01:44

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回答(5)

ANo.5

 こんにちは。

 ブッダがいわゆる出家を志した動機としては 生老病死の四苦をあきらかに見ることだったと言われています。けれど 老病死のみっつの苦については分かりやすくても 生という苦については 分かりづらいようです。
 宮元啓一の説によると――これはわたしは bonbonnier という方からおそわったのですが―― 生存欲のことだそうです。
 なおまだ分かりにくい部分を残すと思いますが 周りのことが目に入らずただひとりだけにおいて生きようという欲望に駆られているときの無明(無知)なのでしょうか。

 ▲ 宮元啓一:苦楽中道――ゴータマ・ブッダは何を発見したか――
 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html

 ☆ これによると まづブッダが初め修行のためについた仙人らのおしえは こうであったと言います。
 ▲ ~~~~~~~~~~
  輪廻←―行為(業)←―欲望

 すると、輪廻的な生存をやめるためには、つまり解脱にいたるためには、善悪の業を滅ぼせばよく、善悪の業を滅ぼすためには、欲望を滅ぼせばよいことになる。この解脱のメカニズムを図示すれば、つぎのようになる。

  欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)

 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ ところがブッダに分かっていたこととしては この《欲望の滅》などは 一時的な・心理的な・うわべのことに過ぎないということ。そこで到達した結論としては 先に触れた生存欲としての無明なのではないかだったと。欲望の起こる根源を見つけたのだと言います。

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~
  輪廻←―善悪の業←―欲望(貪、瞋)←―根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)

 ・・・では、欲望のよって起こる根源である根本的な生存欲を滅ぼすにはどうしたらよいか。それは、ふつうの人間には自覚できないことをはっきりと自覚すること、根本的に無知だった状態から最終的に脱出することである。
 これを可能にするものこそが、無自覚、無知の対極にある智慧であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。すると、解脱のメカニズムは、図示すれば、つぎのようなものに改められることになる。

  根本的な生存欲の滅―→欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)

 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さて どうなのでしょう?

 ただしこの智慧は わたしに言わせれば たとえばブラフマニズムが梵我一如として世界との一体感を説いたことに見られるような《心がやわらがしめられている状態》だとは思います。宇宙の主宰者とされるブラフマン(梵)と人のアートマン(我)との一体という説ですね。そういう境地であれば 《狭くて浅い生存欲から抜け出て さとりを得ている》とも考えられますから。

 そう考えると ブッダはそれほど新しい考えを編み出したとも言えない。
 ただたぶんですが ブッダは なにぶんにもこの・その当時支配的な宗教であったバラモン教とも言われるブラフマニズムを否定しておのれの説を打ち出しましたから けっきょく神(ないしブラフマン)はいなかったわけですし 後世に説かれて来る仏性も自分では明確には言わなかったので 拠りどころがあいまいに成ってしまった模様です。

 《おのれ》を拠りどころにせよと言っているか。あるいは《ブッダ自身 もしくは 観念のブッダ》をそれとするか。さらにあるいは 《戒律のみ もしくは その修行のみ》という派閥を生むことになってしまったか。《言葉では何も言い表わせない》という密教方式に走ったか。などなど 拠りどころは不明確・不明瞭なものとなりました。つまり多様なものとなりました。
 ぎゃくに言えば 仏性 このひとことで済むはずだとも言えます。それを阿弥陀仏や大日如来と呼んで 一般的に言えば神とあおぐかたち そういう派も出たようです。ブラフマニズムとそれほど類型的には変わりない。ただバラモン教では 聖職者が神聖にして侵すべからずというふうに支配していた。
 いづれにしても 後世においてだけではなく ブッダの思想は初めから迷走をしていたとも考えられます。カリスマのごとく人びとからアイドル視はされていたようですが。

 あるいはさらにつけ添えるとするならば
 ○ 根本的な生存欲
 ☆ に無明(無知)の根本原因を見るというのは 或る種の仕方でブディズム風の《原罪》を見たということかも知れません。クリスチアニズムでは キリスト・イエスの出現とその死で この原罪もちゃらになりましたが ブディズムでは 後世に出たアーラヤ識に通じるというようなこの或る種の原罪論が 決して正面には据えられないようですが 大きくくすぶっている。こう考えられます。

投稿日時 - 2011-03-18 10:57:41

お礼

ありがとうございました。ご紹介いただいたサイト見てみましたが

>「生存にまつわるすべての事実を観察、考察しなければならない」

とても厳しい道ですね。。。

宗教にありがちな「信じるものは救われる」的なものではなく
またお釈迦様自身が教えを広めようとしていた訳ではなさそうですね。
あくまで個人個人がどのように考え生きるか。。。そんなところでしょうか?

投稿日時 - 2011-03-18 14:26:17

ANo.4

妻子を連れて、修行の旅をしていた男が山中で鬼に出会った。
鬼は、諸行無常、と詠った。
感動した男は、その次を教えてくれ、と頼んだ。
鬼は、お前の妻を食わせてくれたら教えてやる。と言った。
男が承知すると。鬼は彼の妻を食った後
、是生滅法、と詠った
男は、その次も教えてくれ、と頼むと。鬼は、
お前の子供を食わせるなら教えてやる。と言った。
承知すると、鬼は子供を食った後
、生滅滅為、と詠った。
男が最後も教えてくれ、と頼むと。鬼は、
お前を食わせるなら教えてやる。と言った。
男が承知すると、鬼は
、滅為有楽、と詠った。
男は、急ぎ近くの岩に駈け登り。
諸行無常  あらゆるものは、変化してゆく過程として、今、在るのみ。
是生滅法  法を滅するのが生である。いずれ倒れると決まっているのに、植物は上に
        向かって伸びようとし、動物は死ぬと決まっているのに、生きよう、とする。
        それ故に、「人間の一切は、苦、となる。
生滅滅為  生を滅せ、生と一体の行為を滅せ。 
滅為有楽  それを為したなら、静けさ、安らぎの境地が有る。
と書き記すと、男は、鬼の餌食となるべく、岩から身を投げた。
そして、地面に激突すると思った瞬間。目が覚めた。
古代インドのシャカ族の王子、ゴータマ・シッダルータ皇太子、は夢を見ていたのです。
身を起こし、寝具の上に座った彼は、ふーっ。とため息をついた後、顔を上げ。
やっぱり、城にいては、妻子と共に、では無理なのだ。
すべて捨てよう、国も妻子も捨てるしかない。と決心をした。

これは、雪山童子、(前世の釈迦)の伝説(多分ヒンズー教の)。として知られる話を
書き換えたものですが。
前世の釈迦とは、出家前の釈迦、と解釈すると。
この話に出てくる。諸行無常、是生滅法、生滅滅為、滅為有楽、という思想は、釈迦の思想ではなく。出家前の釈迦が学んでいた(バラモンの教師から)知識、であり。釈迦以前の、古代インド哲学。
ヒンズー教と一体のバラモン哲学である、ことになります。
ウパニシャド哲学とも云われる、古代インド哲学を代表する言葉は。
アートマン(箇)はブラフマン(全体)であり、ブラフマンはアートマンである。と言われていますが。
漢訳仏教で言う、梵我一如、ですが。これは、(悟りの)境地、なのです。
釈迦が、国を捨て、妻子を捨ててまで求めたものが。自身の、幸せ、や、境地、などである筈が
ありません。
また「己こそ己の寄るべ」と説いているように。人が人を救うことは出来ない。自分を救う者は
自分自身しかないのです。空想、妄想を掲げて人を救おうなどと、出来ない事を教える、宗教、や
思想、でもないのです。万人を救うには、万人の知恵=精神を、高める、考え方、を求め、示す
こと。あるいは、この世界の在り方起こり方と合致する考え方、を求め教えること。つまりは、
バラモン哲学を超えた本当の哲学を求めること。だったはずなのです。
そして得たのが、縁起の理法であり、仏教と漢訳されている、ブッデイズム、仏主義、なのです。
「心なる実体はない」と説いているように。実体があるのは、肉体であり脳、なのです。
しかしそれだけでは、人間、生命、にはならない。
「骨にて築かれ、血と肉で固められた城は怒りと奢りとを宿す」肉体には、肉体を動かす能力、方向性、として、実体としては存在しない、心が不随している。その実体のない、心、あるいは能力に
よって、肉体が動き、変化してゆく、実体のない心(意識、無意識)を縁として、肉体に動き変化が
起こる。これはすべての事象の起こり方に共通する、法則である。すべては、縁(実体のない、能力方向性)によって、実体のある、物、に変化が起こる。この世界は、物、という、実体ある、形ある対象と、変化するという事象があるだけである。と云うのが、縁起の理法、なのです。
同じ考え方をしているのが、老子、であり。両者を結びつけたのが。玄奘三蔵の般若心経の
、色(形あるもの)不異空(実体のないもの) 色即是空・・(色=空 色×空=1)の一節なのです。
仏教、仏主義、とは。仏(悟りに導くもの)を縁として、悟り、が起こる。だから、自己を高めるには、
実体のない、外と自己、に付随している、仏(自己そして万人を導き高めるもの)を奉じ求めよう。
という、哲学、考え方、なのです。
仏陀、とは、目覚めた人、導くものとなった人、の意味ですが。
いつの時代にも、自分は仏陀の再来、生まれ変わりなどと言う阿呆は登場していたようで、
そういう者達によって、釈迦の哲学は歪曲、変質、していますが。
釈迦の教えであるかどうかは。
理法に適っているかをどうかを見る、しかなく、釈迦の言葉は必ずそうなっています。

投稿日時 - 2011-03-18 01:41:53

お礼

ご回答ありがとうございました。
非常に難解ですね。。。ただお釈迦様の求めていたものや教えが
いわゆる「宗教」とは異なる「哲学」ということは理解できました。

>人が人を救うことは出来ない。自分を救う者は自分自身しかない

深いです。。。

投稿日時 - 2011-03-18 14:12:09

ANo.2

こんにちは。maggaです^^


僕なりに書いてみようと思います。



<<正直「宗教」というものには全く興味は無く、むしろ良いイメージは有りません。>>

僕もです^^;

今言われている「宗教」は「科学的」の逆でしょうか。

何か明確にわかっていない事について「概念を固定化させて、事実として決め付ける」ひどくなると「その概念以外の概念をその根拠に関わらず否定し、他排する」という性質が現代で言われる「宗教」という言葉に入っていると感じます。

この選択は全くの個人の自由ですが、僕には科学的・論理的な方が性に合うようです。

<<お釈迦様の教えについて教えてください。>>

御釈迦様の教え自体は、宗教的というよりは科学的であると思います。

結構厳密に感じます。

1)

「~観音」「~菩薩」は悟りを目指す人。
悟っていない人のことと理解しています。

「如来」は阿羅漢に覚った方。

<<お釈迦様は神様とか偶像などを崇めろと言っていたのでしょうか?>>

言っていないと思います。

後世造られたものも多いと思います。

初期の態度で言えば、わからないものは保留ですかね^^

2)

<<つまるところお釈迦様が言ってることはどのようなことなのでしょうか?>>

あくまで僕の理解ですので間違いが多いことと思いますが。

「手放すこと」

といえる気もします。

その方法でも、よく勧められたといわれるのは慈悲の冥想です。
一切生命の幸福を願う心を育成することで、エゴが薄まる。
思惟も感情も、煩悩より慈悲が出やすくなり
自他の役にたつ行為がしやすくなる。

もう一つ、メインの修習が、ヴィパッサナー(明確な気付き)
で、徹底的に理性的に感覚・感情・妄想に気付きてほっておく訓練。

これはやればやるほどに、今まで見えていなかったほどに繊細に感情や感覚の流れが
見えるようになっていくと思います。

生命ならば気付きは育成するべきものでしょう。

その気付きの育成の完成によって「無常」を知る、理解することが出来たなら、
煩悩の原因が無くなり、一切の感情的苦しみが無くなり、死後、涅槃につく。

ということと思います。

その修習の過程で、邪魔になる行為を排除し自他の幸福のためになるように、道を整える

「八正道」というものがあります。

具体的な、心の落ち着きの原因を断ち、明確に物事を観て、判断し、正しい方法に向かって集中し行為を決定していくためのガイドラインという理解を僕はしています。

<<「諸行無常」とか「煩悩を捨てる」など物事にこだわるな、諦めろという印象が強いです。 実際はそんなことではないとは思うのですが。。。>>

実際そのようなことと思いますが、奥に深い論理があると思いますよ。

初期仏教のパーリ経典は多く、心の科学的分析観察方法の参考書のように受け止めています。

まずはカーラーマ経などなどをオススメします。

「手放す生き方(タイの森の僧侶に学ぶ「気づき」の瞑想実践)」
「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」

などは初期の科学的な仏教の教えを垣間見えるものと思いますよ。

何か思索の役に立てば幸いです。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

投稿日時 - 2011-03-17 16:29:30

お礼

「御釈迦様の教え自体は、宗教的というよりは科学的」

非常に興味深いお言葉でした。そう捉えると必ずしも
「仏教=お釈迦様の教え」では無いということで
お釈迦様に興味がわいてきました。
(あくまでも人物として。宗教に対してではありませんが)

投稿日時 - 2011-03-18 11:13:38

ANo.1

お釈迦様自体後世に人間が勝手に作った偶像の産物にしか過ぎません。


ちなみに、日本は古代から神を敬う民族であり、仏教の思想は聖徳太子が勝手に権力を利用して持ち込んだものです。


従って、教えなんて何にもありません。


後々の人達が綺麗事を並べて教えにしているんです。

投稿日時 - 2011-03-17 16:04:29

お礼

なるほど、「実在の人物ではなかった。」
そのような考えもあるのですね。
ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-03-18 11:02:23

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