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解決済みの質問

滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは

 どうしてか?

 次の文句をどう解釈するかを問います。

 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙) ~~~~
 2:15 ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
 
 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ( a )  《救われる者には命から命に到らせる香りである》のは分かるとして 《滅びる者には死から死に到らせる ≫良い香り≪ である》のは どういうことか?
 
 ちなみに いづれの場合にも 《キリストを知るという知識の ≫良い≪ 香り》(2:14)であるようです。同じ《香り》であるようです。

 ( b ) 《滅びる者》あるいは《死から死に到らせる》というのは どうも 十字架上のキリスト・イエスから目を離す人びとを言っているのではないか?
 その意味は 神をではなく 無い神を心に抱く人びとのことではないか?

 ( c )  《滅びる》とは 有る神が滅びるという言葉による表現上だけの問題であって そのような別様に(十字架から目を背けて背中越しに)キリストを見る人びとは いわゆる無神論の信仰を抱く者として その信仰によって救われる。こう言っていまいか?

 ( d ) したがって《死》も ただ表現上の問題であって 十字架上から目を背けることを言うのみではないか? 
 ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》ではないか?

 ( e ) 《良い香り》が そのような生活における慣性の法則にしたがうような心のくせを死に至らしめたことになる。いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか?


 やや特殊な主題ですが 湯気が立っている生まれたてほやほやの考えですので おしえてください。

投稿日時 - 2011-04-05 14:33:24

QNo.6646197

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。


> でも この質問としては 《わたしたち》がその心つもりとしてどうであるかよりも ともかく人びとと接したあと どのような反応や対応がもたらされるのか。こちらに焦点はあるのでしょうね。


 はい。仰られますように、愚生の述べましたところは、”心つもり”のみかと察せられます。その後の、「人びとと接したあと どのような反応や対応がもたらされるのか」には触れずにおりました。申し訳ございませんでした。


> しかもさらにその結果としての反応にかんして たとえば独我論の場合には《他者》という主題があらためて問題になる。――このような経過をともなって現われた問題であるでしょうか?


 元来、独我論と申しますと、以下のゴーストバスター様の仰るとおり、よい意味で使われることは多くはないかと思われます。
 http://okwave.jp/qa/q1350724.html 

 よく、この哲学カテゴリーの中でも、「すばらしい。あなたはすべてお見通しなわけですね!例えば自分が青いと思っている空ですが、他の人は、全く同じ青色を体験しているでしょうか?それがあなたにはわかりますか?」とか、こちらは(極端な)懐疑論に近いのですが「”1+2=2+1=3” がなぜ正しいといえるのでしょうか?」等の”肯定的な意味合いを込めて”意見を述べられる方がおられます。
 これは愚見ではございますが、決して、これらは建設的な意見とは言えないと考えております。 ですが、これを克服することも困難であることも事実とも考えております。
 例えば後者ですと、「足し算とは何か」を定義しなくてはいけませんし、また定義する際には「交換則を定義の中に組み込んでしまうべきなの」か、もしくは「足し算について別の定義をしておいて、交換則を証明するようにすべきか」等の考察を進めていかなくてはいけないからでございます。

> そうして質問者としては すでにこの独我論の場合を 《死》の状態に――無謀にも――たとえています。


 肯定的に論を勧めていきますと、他者の存在も含めまして、例えば、”愛( 汝の神を愛せ。かつ 人を愛せ)”を欠いた状態をも意味しますので、《死》につながっていくものと解してございます。


> ☆ という主題の筋も 独我論とともに あるにはあるでしょうが あまり生産的ではないでしょうか?

 

一時期、”行き過ぎた価値相対主義”がはびこった時期がございました。一見、個の尊重という意味では、すばらしく思えます。ですが、行き過ぎてしまいますと、コミュニティーの存続が危うくなりかねません。そして、そもそも議論自体が不可能になってしまいます(「それは貴方の考え方・価値観だよね。だけど、ぼくの考え・価値観はこうなんだけどね」等でございます)
 従いまして、生産的な議論と考えてございます。


> これは イエスというひとりの人物を特殊な存在として扱うかたちですが どうもそれでも一般的な問い求めをかたちづくるのではないかと考えます。
 当時のローマ帝国の支配下にあるユダヤ人の社会において はりつけに遭って死んだのは何故か。これが 人間の普遍的な存在の有り方を問うているように考えます。
 
 

 ご質問の趣旨が愚生にもわかりました。
 「イエスに背く側からの普遍的な捉え方」という従来の逆方向からの考察ということでしょうか。
 この問題につきましては、もう少々考える時間をお与えいただけますと、幸甚に存じます。

 
> それは たとえばいま出されている質問:
 【Q:これ以上生きる意味が全く見いだせない。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6649334.html
 のように最後の最後まで(主観においてでしょうが)のけ者にされる場合 つまりは周縁の周縁にまで追いやられる場合の主題であり問題であるかと考えます。

《第三項の排除》という仮説がありますが。


 今村氏の説でございましょうか。 ”ある共同体にとって排除された第三項は、共同体にとって都合のよいものに変形してイメージされる。例えば、その第三項は、ある時には聖なるものを、またあるときには汚く卑しくみじめな自己イメージを、共同体から押し付けられる」 といったものだったかと記憶してございます。
 おそらく、都合よく、その共同体から様々な押しつけがあったのかもしれません。
 
 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-04-10 22:56:56

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 独我論と規定してしまっていましたが 確かに《相対主義の絶対化》と説明したほうがよいかも知れません。すなわち 今回は 次の《行き過ぎた価値相対主義》に焦点が当たります。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 一時期、”行き過ぎた価値相対主義”がはびこった時期がございました。
 一見、個の尊重という意味では、すばらしく思えます。ですが、行き過ぎてしまいますと、コミュニティーの存続が危うくなりかねません。
 そして、そもそも議論自体が不可能になってしまいます(「それは貴方の考え方・価値観だよね。だけど、ぼくの考え・価値観はこうなんだけどね」等でございます)。 
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言いかえますと この《そもそも議論自体が不可能になってしまう》 この点を問題視していました。発信はするが受信は受けつけない半分の鎖国政策なのではないかというかたちを わたしのほうは見ようとしていました。

 ごく単純に言えば 排中律だけによっても はじめの定義にもとづく《 A は B ではない》を問い求めて行けば 相手とのあいだにかなりの程度にまで対話は進み得ると考えます。
 ところが 途中で中断するという事態が起きて来ます。そう言えば 思考停止という問題となる現象を指摘しておられました。そして この対話の中断というのは 一たん判断を停止して情況を見直し成り行きにも沿って見守るというエポケーなのでもなく そうではなく まったくその時点でおまえとは話をしないと決めて切り上げることです。
 これは 自分からの発信はするが 相手からの発信を受けることはその時点でやめにすることを意味します。半分鎖国政策です。
 あるいはもっと簡単に 都合耳しいと言えばいいでしょうか。自分にとって都合のわるいことは もう耳に入らないことにする。
 たしかにそうだと思います。話の中断と言っても その中身如何の問題です。都合がわるくない情況にあれば 対話はつづけて行くものと思われるのですから。

 社会の中で第三項にされて排除されるというその煮詰まったときの状態 この状態についての話は どうも自分には都合のわるい内容であるようです。《自虐的にならなければ》 その話について行くことは出来ないと受け取るのでしょうか?

 そうしてそのような第三項排除の物語は その後の経過があります。つまりおっしゃっていただいたように究極の取り扱いとして死において排除したあとには じつはその死者なる第三項を こんどは《聖なる者》とする。
 聖化して いわば排除した側の自分たちの存続とさらなる繁栄を図る。聖化しておけば いわば守護霊となるというふうに思っているようです。不幸にも死を死んだ者を手厚くほうむり死後もその徳や業績を讃えておけば 自分たちは愛に満ちた人間であると見なされると踏んだ。
 世の中は そういうふうに成り立っているのだし 進み行くものなのだと。
 
 おそらく自分の都合で鎖国政策をおこなう思想は イエスの事件についても このような世の中全体の事後的な扱いのもとにその身をかくまってもらって イエスの振る舞いが何たるかについて考えないし人の言うことにも耳を貸そうとしない。
 然りも否も どちらも言わない。否と言ってイエスを罵倒する思想はまだ話がつづいている。イエスの排除の物語についてのっぺらぼうを装う場合 これを問題にできるものならば そうしたいと考えました。いかがでしょう?

 その前に罵倒する場合にも議論が俟たれるようです。
 ★ 「イエスに背く側からの普遍的な捉え方」という従来の逆方向からの考察ということでしょうか。
 この問題につきましては、もう少々考える時間をお与えいただけますと、幸甚に存じます。
 ☆ の主題です。わたしの中では考えを終えた格好になっていますが。


 たしかに設問は急ごしらえでした。

 * 第三項を排除し切ったあと 排除した側がその死せる第三項なる人物のことを気にするのは いわゆる《たたり》をこわがっているのかも知れません。菅原道真をあらたに天神神社をつくって祀り上げるといった聖化の類型があるでしょうか。

投稿日時 - 2011-04-10 23:56:59

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回答(29)

ANo.37

それは人間ではないと教えてやっているのです。

当然のごとく、そのような考えを持っていない人に対してはそんなことはしません。

投稿日時 - 2011-04-15 21:52:06

ANo.36

反対概念ねえ。

自分を神と想定し、神の気持ちになれば 表面の感情はどうでもよいという見解にはなりますねえ。

それは理解していますよ。

今自分が直面している状況を思い描けば 私の言っていること正しいのです。

そして質問者はすでに実社会と関わらなくなり、死に行き、神と一体になって一旦は滅び行く人です。

私はこれから色々な活動をしていく人です。

立場の違いで思想が異なるのは当然ですね。

そして私はそれを分かって言っています。自分と、まだこれから何らかの意味ある事を成していくであろう人に向けての言葉です。

大きな違いはそれを解らずに言っているか、言っていないかの違いです。


ゴキブリというのは人間との違いを明確にする例として用いていますね。


そんなに傷つきましたか?

うらみつらみを言われても困りますね。それこそ「楽しめば」良いのではないでしょうか。なぜ楽しめずにいらいらしたり、傷ついたり根に持って恨んだりするのですか?

質問者を「誹謗中傷」する人がいたとして、楽しんでください。本望でしょう?w

投稿日時 - 2011-04-15 20:34:36

お礼

 それは 人間ではないとおしえてやっているというのみ。

投稿日時 - 2011-04-15 21:19:33

何らかの思想が出来上がった際には、
対立概念を主張なさる方々もが台頭しやすいものですので、
完全な融和は難しかろう、と思われますが、
そうは申せましても、私達は諦めずに克服の道を開拓するべきなのでしょう。

競い合い、称え合うのか、それとも御互いに譲り合うのか…。

此処でも譲り合いのプロトコルを御紹介します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/CSMA/CA

投稿日時 - 2011-04-15 02:06:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。わたしは OKWave 歴は 四・五年になりますか。当初から荒らしはすさまじいものがありました。とうとう投稿が300件を超えた質問もありました。(これは あとで削除があって 100件ほどに縮むというしろものでした。居心地がいいと思うのか いまだにあとを絶ちません)。

 ですが 荒らしはどうでもよい。問題は 話の中断であり 対話の放棄です。放棄という自覚さえ一切ないという場合です。まぁ 威張って言うのもいけませんが 削除されずに残っているその種の投稿を見てもらえば分かるはずです。言いかえると 見識のある投稿者の場合でも 途中で雲がくれするか それとも ああぢゃこうぢゃと問題のすり替えにヤッキになって あとはうやむやにする。この繰り返しでした。

 おかげさまでこの新しい年が明けるのを挟んでの頃から そのやり取りにはかなりの進展がありました。ときが満ちて来たとまで受け取っています。

 ついこの間も――という調子でかなり余裕こいてものを言っていますが―― 残務整理のやり取りがありました。そしていま続いている荒らしは 昔から変わらないものです。その相手側(複数です)からわたしのことを言わせれば ゴキブリ・ダニ・ゴミということだそうです。ここから消えろというはっきりした声もありました。

 でも アクシスの場合 このところ 初めてわたしの質問趣旨に賛成すると言うことがありましたし 反省の弁を出すようにさえ成っていました。そうですね わたしが ビートたけしの発言を批判したところからまた再び態度を硬化させたようです。

 そうですね。誰の意見であるかにかかわらず 主題に即してきちんと問い求めをおこなっていくという人は いまここでは数えるほどしかいません。真摯な態度をもって学問として成り立ち得る普遍性を追究するという人でも 最後のところで持論を手放したくないという場合も見られます。

 馬を水飲み場まで連れて行くことはできますが 水を飲ませることはできませんから こういった現状と経過を明らかにするのみとなります。

投稿日時 - 2011-04-15 09:07:11

ANo.34

>☆☆(No.7お礼欄) おしえるのも無駄だというご判断でしたら 放っておいてください。

 ですから、No.32で 「違いますよ、こうではないですか、つまりあなたの言っていることは間違いではないですか」と例を挙げて教えたのですが。

投稿日時 - 2011-04-14 23:44:25

補足

 ★★(No.27回答) と、言うほかないというところさ。
 ☆☆(お礼欄) めでたし めでたし。


 ☆ ここからあたらしい舞台に出るには それ相応の努力とあいさつが要ります。というおぎないを入れておきます。

投稿日時 - 2011-04-15 01:43:00

お礼

 相手の文章は 取り敢えずにでもただしいと受け取ってその言おうとするところを咀嚼して行くようにするとよいでしょう。

 そうすると――ぎゃくにのように―― その相手が見落としていたところをも分かるようになることが多いと思います。
 文脈もおのづから分かって来ます。

 ならば――その全体情況あるいは個々の局面というところまで分かって来て―― そういった文脈を無視して解釈することはもうなくなります。

投稿日時 - 2011-04-15 01:24:12

ANo.33

この質問者の保護者、信奉者の人へ

No.32の_AXIS はすぐさまブロックされました。

つまり、何をもくろんでいるか分かったのではないでしょうか。


>相手の文章は 取り敢えずにでもただしいと受け取ってその言おうとするところを咀嚼して行くようにするとよいでしょう

 相手の文章や発言は ニュートラルな姿勢で聞くのが良いですね。とりあえず正しいと言う前提で解釈しようとすれば、確かにそう取れるでしょう。それはどんなにでたらめを言っていても肯定的に解釈しようとすれば、それを正しいと思い込むことが出来ます。

 bさんが言う主張を肯定的に捉えようとし、それに見合った情報はいくらでも見つけられます。と、同時にそれとまったく反対の情報も見つけようとすればいくらでも見つけられます。

 bさんは自分で言っているような主張を、狭い職場の中で受け入れてきたからこそ、他者にもそういっているのでしょう。痴漢をする人は、する人に対して「楽しんでください」と言うでしょうね。

 違いますか?

投稿日時 - 2011-04-14 20:08:10

お礼

 ☆☆(No.7お礼欄) おしえるのも無駄だというご判断でしたら 放っておいてください。(このお伝えは もう百回目ほどでしょう)。

投稿日時 - 2011-04-14 21:19:49

ANo.32

b:悲しい嬉しいなどなどの心の上辺の動き――これを心理と言います――は 大海である心のやはり上辺に過ぎませんから 大したことはありません。

 「心」に上辺やら下辺やらがあるとは聞いたことがありませんが。「大したことはありません」と言いますが、その心、感情の動きで人は時に大きな犯罪さえ犯します。

b:その時その場では 大した影響を たしかに受けていますが――つまり嵐も吹けば台風も起きて大波小波でどんぶりこですが―― それはそのような冒険をたのしんでください。

 例えば誰かに「職場でセクハラを受けて困っている」と相談されたとき、「実害はないから気にしないことです、楽しんでください」と言うのですか。それは本人がそういうのであればまだ分かりますが、他人が言う言葉ではないですね。

 心理的抑圧などの積み重ねで人は消耗したり、実際に苦しみます。

 また、例えば砲弾などが飛び交う戦場において、「怖いです。どうしたらよいでしょう」と相談されたとき、「気持ちの持ち方しだいです」などとアドバイスするのでしょうか。


「大海である心」は神であり、私である、と言いたいのですか。

投稿日時 - 2011-04-14 05:48:44

お礼

 相手の文章は 取り敢えずにでもただしいと受け取ってその言おうとするところを咀嚼して行くようにするとよいでしょう。

 そうすると――ぎゃくにのように―― その相手が見落としていたところをも分かるようになることが多いと思います。
 文脈もおのづから分かって来ます。

 ならば――その全体情況あるいは個々の局面というところまで分かって来て―― そういった文脈を無視して解釈することはもうなくなります。

投稿日時 - 2011-04-14 09:17:48

「基督教信者達」と「其の他」とが平和に住み分けられ得る、
という理想の存在の可能性を示唆しているのでしょうか?

投稿日時 - 2011-04-14 02:16:26

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 その世界的な共存ののぞみを持って この聖句を取り上げ設問しました。

 言いかえると 非思考の庭に抱かれるナゾの何ものかは 有る神でも無い神でもよいでしょうし 有る神なら 名前がヤハヱーでもキリストの神でもアッラーフでも あるいはブラフマンでもアミターユスでもワ゛イローチャナでもまったく一切かまわないと言おうとしています。
 もしこの単純な公理に従わないという場合は その人の抱く神が ほんとうの神ではないことを物語ると言ってよいと思います。普遍性がないということをみづから証明したかたちになるからです。

 【Q:神とは何か】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6057191.html
 ここで そのことを問いました。


 おそらくこの自由な神学を展開しうる自由な非思考の庭(信仰)をいま自然なかたちで持てているのは 日本人なのではないでしょうか? ほかにもいるかとは思いますが よくは知りません。
 これからの世界で俄然として注目をあびるものと思われます。震災のあとのどさくさで秩序立った行動をするといったどころの話ではありません。全世界のみなさん おのれの信仰について自由で相対的な見方をしましょうと言って行くのは 或る種の仕方で日本人の使命であるかと思われます。
 じどうしゃがいしゃさん どうでしょう?

投稿日時 - 2011-04-14 13:49:34

ANo.30

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっちでございます。

> ☆ そうですね。この情況もしくはその人の状態は きびしいようです。隙をつかれた感じを持ちました。

 ご参考にしていただき、どうもありがとうございました。

> ただし確認を求めているようでは どこか問い求めのあり方がきちんと設定されていないのかなとも思って どうもこの質問は 聖句じたいに何の問題もないものを 質問者がその扱いを乱暴にしてしまっている。とも思われ やや情けなく感じています。

 いえいえ。ここは皆様が対等に会話を交わし、自他共に高めあっていくものかと思っております。従いまして、ご質問者様におかれましては、情けなく思うことは全くないものと思われます。

> もしいまの政権の行動に向けての野党や国民の態度が どうも煮えきらないのではないかという思いを そのような設問の仕方にして排泄したとしますならば まことに申し開きが立たないと思います。それにおつき合いをおさせ申して これも腑甲斐ない思いでいます。

 確かに、愚生も煮え切らない思いがございます。今のオバマ政権もそうなのですが、国防長官のロバート・ゲーツ氏も前ブッシュ政権からの引き継でございます。従いまして、例えば、阪神大震災時の経験議員を呼んで来てもおかしくはないとも考えております。ただ、管氏の求心力の落ち込みが民主党内でのまとまりのなさを導いていることも事実かとも見ております。
 また何かございましたら、ご遠慮なく、ご意見等を述べられていただければ とそう思ってございます。
 話が変わりますが、案の定、スマトラ沖地震と同様「HAARP」を用いたという“陰謀論”もが出てきております。

> 同和人権問題 過去のいきさつが尾を引いているように思いました。

 当初の役割(功の部分)は非常に大きかったと考えております。ただ、大きくなるにつれまして、行政の側も「さわらぬ神に---」となってしまい、巨大な利権を生んでしまったものと推察してございます。

 駄文ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-04-13 23:21:20

お礼

 こんばんは ひどっちさん。あたたかくお答えいただきありがとうございます。

 ★ ・・・巨大な利権を生んでしまったものと推察してございます。
 ☆ そうなんですね。実際に話し合うしかないようだと思いました。

 ★ 話が変わりますが、案の定、スマトラ沖地震と同様「HAARP」を用いたという“陰謀論”もが出てきております。
 ☆ 風評であればと思いますが 何とも分からず そういう話が成り立ちそうなのも無気味です。

 どうも首相や政権や東電側などへの風当たりは 何だかおかしな具合いに成って来たように映ります。メディアの記者からして 互いに話をするという態度ではなくなって来たような。
 ★ ただ、管氏の求心力の落ち込みが民主党内でのまとまりのなさを導いていることも事実かとも見ております。
 ☆ そうですか。むしろ身内どうしの問題から出て来ているようなのですね。これもしっかりと見てまいります。


 様子を見て 閉じることにしたいと思います。いつもありがとうございます。

投稿日時 - 2011-04-14 00:34:25

ANo.29

 こんばんは、ご返答遅れましたこと深くお詫び申し上げます。

> この対話の中断というのは 一たん判断を停止して情況を見直し成り行きにも沿って見
守るというエポケーなのでもなく そうではなく まったくその時点でおまえとは話をし
ないと決めて切り上げることです。

 仰っておられることは、愚生にもよく分かります。エポケーならば、少し時間を空けて
対話に戻ればいいだけかと思われます。また、自分に都合がよければもちろん、対話は続
けます。”相手からの配信拒否”とは、やはりそのひとにとって不都合なところがあると考
えるのが妥当かと察せられます。

> 社会の中で第三項にされて排除されるというその煮詰まったときの状態 この状態につ
いての話は どうも自分には都合のわるい内容であるようです。《自虐的にならなけれ
ば》 その話について行くことは出来ないと受け取るのでしょうか?

 日本人との特徴と致しまして、情緒的な特質というものが挙げられるかと推察できます。ただこれ自体は別段問題はなく、むしろ時と場合によりますと、良い面もあろうかと思われます。ですが、論理でもって対峙すべき問題に対しましても、情緒的もしくは精神論的な面が前に出てきます。こうした傾向が受け付けられない。 というものがあるのでしょうか。

> 聖化して いわば排除した側の自分たちの存続とさらなる繁栄を図る。聖化しておけば 
いわば守護霊となるというふうに思っているようです。不幸にも死を死んだ者を手厚くほ
うむり死後もその徳や業績を讃えておけば 自分たちは愛に満ちた人間であると見なされ
ると踏んだ。
 世の中は そういうふうに成り立っているのだし 進み行くものなのだと。

 残念ながら、史実は(部分的にせよ)この実例を示しているかと存じます。

> おそらく自分の都合で鎖国政策をおこなう思想は イエスの事件についても このよう
な世の中全体の事後的な扱いのもとにその身をかくまってもらって イエスの振る舞いが
何たるかについて考えないし人の言うことにも耳を貸そうとしない。
 然りも否も どちらも言わない。否と言ってイエスを罵倒する思想はまだ話がつづいて
いる。イエスの排除の物語についてのっぺらぼうを装う場合 これを問題にできるものな
らば そうしたいと考えました。いかがでしょう?

 あくまで、これは愚見なのですが、信ずべきものが何もないという状況(虚無)の状況下では、ひとは生きられないと思っています。何かしらの、楔・拠るべきところが、生きていく上で必要と考えています。ですが、元来の「信仰」はおそらく科学万能教なるものにとって代わられ、単に科学で説明が不可能なもの(実際は無数にあるのですが)を“排除してしまう”、もしくは“軽視する”という風潮があるように見受けられます。

> * 第三項を排除し切ったあと 排除した側がその死せる第三項なる人物のことを気にす
るのは いわゆる《たたり》をこわがっているのかも知れません。菅原道真をあらたに天
神神社をつくって祀り上げるといった聖化の類型があるでしょうか。
 
残念ながら、これと言ったものが見つからないのですが、排除した後、聖人として崇める例は存じておりませんが、その社会の中で、聖人化(絶対化)し、それを利用して、恩恵を受けている人たちはいるかと思われます。

http://www6.ocn.ne.jp/~jinken75/newpage9.htm 

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-04-12 23:30:21

お礼

 ★ あくまで、これは愚見なのですが、信ずべきものが何もないという状況(虚無)の状況下では、ひとは生きられないと思っています。何かしらの、楔・拠るべきところが、生きていく上で必要と考えています。
 ☆ そうですね。この情況もしくはその人の状態は きびしいようです。隙をつかれた感じを持ちました。

 ひどっちさん お早うございます。
 ご回答をありがとうございます。くわしい説明をあたえてくださってありがとうございます。

 ただし確認を求めているようでは どこか問い求めのあり方がきちんと設定されていないのかなとも思って どうもこの質問は 聖句じたいに何の問題もないものを 質問者がその扱いを乱暴にしてしまっている。とも思われ やや情けなく感じています。

 もしいまの政権の行動に向けての野党や国民の態度が どうも煮えきらないのではないかという思いを そのような設問の仕方にして排泄したとしますならば まことに申し開きが立たないと思います。それにおつき合いをおさせ申して これも腑甲斐ない思いでいます。
 まことに申し訳ございませんでした。





 このままのかたちにてになりますが。

 

 * 同和人権問題 過去のいきさつが尾を引いているように思いました。

投稿日時 - 2011-04-13 09:29:29

ANo.23

発信はするが 受信はいっさい受けつけないという半分鎖国政策の持ち主なのではないですか?

と云う事を否定するために書いてみます。

又、他の人がどう思うかは本題では在りません、宗教と言う場合、その人自身の問題となります。

救われる事に付いての心的内容は、他力本願であれば、仏教においては阿弥陀如来もしくは『何かに』すくい取られる事を意味します。キリスト教であれば『主となるのか、キリストになるのかも知れません』

自力本願であるなら、自身に恐怖を与えた者が自身であった事を知ると云う事になります。どちらにしても自身が自身を納得する事を意味します。

如何いう表現方法をとるにしろ、本人が『全てを諦めた時』がその時になります。言い方を替えるなら『一回自我意識が全てを放下』する事が条件です。

逆説的な言い方になりますが、『全てを捨てきった時』『全てが手中に在る事を知る事です』理屈の世界から一回飛び出さない限り無理があります。

貴方が理窟の世界で、その思考方法を取っている限り、分からせる事には、無理が在ると感じます。理窟を捨てて貴方が理窟では無い考え方をする以外には、この根本原理は分からないと思います。

禅問答などの中に興味が在る問答があったら、そのうち一つだけでも『徹底する事を』お勧めします。宗教は『体験の世界です』ある意味砂糖の味を説いているのかも知れません。

この場合、色が白いとか、黒いものがあるという説明ではわからないと思います、直に砂糖の味を分かるには、実体験或は体得する必要が在ると感じます。

禅と同じで『貴方が分かったら教えてあげます』と言う他には言葉がありません。

投稿日時 - 2011-04-10 17:25:03

お礼

 わたしが あなたにとって 死から死へ到らせる良き香りであると納得が行ったのでしょうか?

 そういう実際の事例としては わたしは言っていません。ただししかも 実際の出来事を参考にして考えています。
 上の問いかけは したがって 答えを欲しての問いではありません。お考えのよすがにでもなればと思います。

投稿日時 - 2011-04-10 19:34:10

ANo.21

再度の回答となりますが、『滅びる』も『救われる』も共に、今の現状を『自身が肯定している立場にある』という意味です。

自分の立場を『良いの悪いのという立場を離れて』もっと強い言葉で言うならば『良いとか悪いとかを言う心を捨てて』受け入れている事を意味します。

今の自分を『全て肯定している』と云う事、それが出来た時『生』も『死』も一つのものと道元は言っています。『絶対肯定』とは自身の命の働きに従う事を意味します。

自身の命そのものの働きは、生まれる訳ではない事から、又滅するものではないことを、自我意識が了解することを意味します。

人間の苦しみとは、二つの意識の『落差』の事を言っています。この落差が大きい時『深刻な悩み』と言っています。この苦しみが解消する事を『心の矛盾が解消する』と言います。是が悟りです。

二つの意識の間にホットラインが通じた事を意味します。

右脳の『無意識の意識』と左脳の『自我意識』が共に手を取り合うことを意味します。

人間の脳は脳梁を切断した場合、自覚出来なくとも、二つの機能が違う意識が存在しています。分離ノウの研究成果の一つです。

参考までにその根拠を載せておきます。ウイキペデアからです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。”

投稿日時 - 2011-04-10 07:18:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 ですが いいですか? 問いはこうです。
 1. あなたが《『滅びる』も『救われる』も共に、今の現状を『自身が肯定している立場にある』》とき・つまりあるのですから そのとき ほかの人たちにとって 《良き香り》であるという表現で表わされたところを 受け容れますか?

 2. そしてじつは受け容れている人の存在を前提として この問いは成っています。この良き香りは 相手にとって すくいの道にある場合には生命から生命へ到らせる良き香りであることは そのまま分かるとしても ほろびの道にある場合には 死から死へ到らせる良き香りであると表わされている。これについて問いたいのだと。

 3. ほろびの道にある場合と言っても それは 十字架上のイエスを《キリスト》として《有る神》と捉える場合でなくても 《無い神》と捉える場合であれば その《無い》ということを《死 あるいは ほろび》は表わしているに過ぎないのではないか。ゆえに 有神論と無神論とを合わせて じつは すくいの道にあることになるのではないか? これが ひとつです。

 4. そうは言うものの じつは ほろびの道にあるのではないかと想像させる場合が 思想のひとつの類型として実際にあるのではないか? それは 自分からは発信するが相手からの発信は 聞いたふりをしつつも一切〔自分に都合がわるいことは〕受けつけない――こういった受信鎖国の思想(生活態度)を持つ場合ではないか? 


 このようです。


 ★ 右脳の『無意識の意識』と左脳の『自我意識』が共に手を取り合うことを意味します。
 ☆ これは どうでもよろしい。どうでもよろしくないと言うのであれば 上の問い求めに沿って 回答を寄せてください。
 自分の主張の宣伝のために このわたしの質疑応答の場を使わないようにしてください。

 ということは 発信はするが 受信はいっさい受けつけないという半分鎖国政策の持ち主なのではないですか?

投稿日時 - 2011-04-10 10:19:23

ANo.18

卒業した立場から言うならば『 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 』と云う事になります。

是は同じ事を言っています。

投稿日時 - 2011-04-09 17:19:25

お礼

 ご回答ありがとうございます。

 分かりました。(つまり 卒業した立ち場について分かりました)。

 問い求めは そこで《すくわれる》については分かったとしても 《死から死に到る》とか《滅びる者》とかこれらは いったいどういうことを意味するか? これについて 勝手な解釈なのですが 自由な読みを試みています。そこで 大いにその自由な見解を示してくださいというのが 質問になります。どうですか?

 仮りに《ほろびる》ということが 人間にあるとして ではそれは どういうことを言うのか? どういう場合にそのようになるのか? 必ずしも明らかではありません。そんなことは ただの空想であるかも知れないのですから。
 そういう問題です。どうですか。

投稿日時 - 2011-04-09 17:54:59

ANo.17

★ 『二つある心が、二つになって対立する事を意味するからです』
 ☆ これが分かりません。

書いてみます、何時も書いていますので、読み飽きたかもしれませんが、具体的に書いてみます。『心の矛盾』と云う言葉は、自分自身の心に敏感な人だけが感じています。自身の心に敏感と言う意味は『二つの心の機能に違いがある事に気が付いた人』という意味ですが、人間の自我意識は『湧き上がる感情を感じている方の心です』

もう一つの心は『湧き上がる感情を感じさせている方の心です』例を挙げるなら、高い所に上がった場合『怖い』事を知らせる脳の機能です。どの位の高さなのかを『具体的に、瞬時に、言葉に拠らない情報として脳梁を通して伝えています』

納期や、大事な事などの期限が来た場合では忘れていたとしても、『せかせかとした気持ちを感じたり、追いかけられた気持ちを感じる事』を感じさせている者が存在する事です。

人に会った印象等も、その者の情報を受け取って『感情が湧き上がっています』危険をその者が察知した場合『殺気』として意識の在る『左脳に』脳梁を通して情報として送っています。

もっと差し迫った危険にさらされた場合、その者が『心も身体も支配して』行動をしています。その場合『思わずに、、、した。』という表現になります。


?ーたとえば わたしはこうしたいと思っている。しかし それはよくないとか しないほうがよいだろうとか そのように別なふうに考えれば それが 《二つの心》なのですか?

 でもだから どうなのでしょう? つまりもしそうだとしても この二つの心の葛藤をけっきょくわたしは わたしの判断で選択して結論を出すでしょう。


この場合の判断の違いが『個性と成って健常者か、病んだ者となるのかが分かれます』高い所の情報と情報を出す者を嫌う場合が『高所恐怖症』になります。心の矛盾となってその人を苦しめることを意味します。人に会う場合の情報と、情報を出す者を嫌い事が『対人恐怖症』となっています。


?ー★ 現実を見ているもう一つの自分と一つになる時 『全てを肯定した事になります』
 ☆ この《もう一つの自分と一つになる》と言うのがどうもおかしい。仮りに二つの自分がいたとして それらをどうしようかと考え最終の結論を出す自分がいるはずです。なんで《ひとつになる》という表現つまりそういう見方をするのか?
 またそのことが いかにして《すべてを肯定したことになる》のか? ただ選択肢から選んだだけのことではないのか?

恐怖症の場合の心理は、その者とその者の出している情報を受け取ろうとしなくなるという意味です、従って『情報を出す者は』その情報が伝わるまで出し続けるか、その情報を大きくして送る事を意味します。つまり現実と頭の中の妄想(受入れたくないと思う情報を避けるために架空の世界を作ってしまう現象)と二つの世界の中で身動きが取れなくなります。

その二つの世界『心の矛盾が解消する時』★ 現実を見ているもう一つの自分と一つになる時 『全てを肯定した事になります』

この意味は『感情を湧かせている者』が自我意識の優位になる事を意味します。自我意識はその者の下になって『戦いを止める事』を意味します。


?ー ★ 人間の不幸とは『現実を受け入れられない事』を意味します。
 ☆ 分からない。現実とは何かも然ることながら 現実を受け容れられないなら そういう判断であり選択であるはずです。それだけのことです。

感情を湧かせる者とその者を受け入れられない事が『現実逃避している事を意味します』つまり、頭の中に作り出された妄想の世界と現実の世界が二つになって『心が圧迫を受けている事を意味します。』言い替えるなら、現実を避けるために、頭の中に在りもしない天国を創りたいと思って地獄に落ちてしまう事を意味します。

眼の前の現実を受け入れる事は、その者を受け入れる事を意味します。命そのものの働きを受け入れる事事です。

?ー★ いかなる事実にも、喜んで従う事を『良い香りです。』と書いています。
 ☆ 良い香りかどうかを別として たが喜んで従うならそれは ただの阿呆ではないのですか? 
 事実を受け容れるかどうかは ただ認識の問題であるに過ぎません。否定しようが肯定しようが それはそれぞれそういう判断であり選択であるに過ぎません

深刻な悩みに悩む場合や、心を病んだ場合では、意識の根底から『身も心も』不安の為に緊張が続く訳ですので、その者を受入れる場合、意識の根底からの安らぎを得る事が出来ます。心の矛盾とは『意識の根底で、二つの意識が戦っています』自我意識が身体と心を支配しようとしますが『心や身体には圧迫感や漠然とした不安が』付き纏う事を意味します。

その者を上にする事で、圧迫が無くなります

投稿日時 - 2011-04-09 12:29:14

お礼

 そうですね。まづはご回答をありがとうございます。
 ですが 回答ではないですよね?

 けっきょく
 ★ 自我意識
 ☆ この言葉から自由になってください。
 おのぞみなら ふたつの自分がひとつになってください。
 そのとき 自我意識などは屁の河童であるはずです。
 《わたし》がいればよいのです。

 もしすでに自分がひとつになっているのでしたら その境地から投稿を寄せてください。
 その前の状態にわざわざ戻ってそのときの葛藤や苦悩をいちいち――自我意識とやらに振り回され―― ぐちゃぐちゃごちゃごちゃゴタクにして並べることから卒業してください。
 どうですか?

投稿日時 - 2011-04-09 12:47:14

ANo.16

『罪人達に捌きを齎す「法律」』の存在を<<良い香り>>だ、
と見做すのは誰なのかを考えて参りましたが、
その方針はずれていますでしょうか?

投稿日時 - 2011-04-09 12:19:29

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 それは はっきりしているのではないですか? 
 パウロもはっきり言っています。

 ▲ 文字はころし 霊は生かす。

 強いて名づければ 《律法主義》です。《道徳規範は 愚の骨頂》だということだと考えます。パリサイ人だとか ややこしいことは忘れました。
 《文字》は 観念ないし理念と捉えると分かりやすいと思います。

 《和を以って貴しと為せ》という《法律》を 《良い香り》だと見なす傾向にも通じましょう。
 足で立つのではなく 頭で立つという逆立ちの理性信仰ないしコギト主義であるとも考えられます。
 《和》はもともと 生活日常の中にあったナラワシであり それを規範化すると法律になります。順序(ないし それは order として秩序でもある)が逆転します。
 
 こんなところでよかったでしょうか。

投稿日時 - 2011-04-09 12:55:39

ANo.15

No.8です。

気になったので、覚書を読み返してみました。それで、No.8の回答をなかったことにして、もう一度書きこみたいと思います。

No8で運命のことを書いたのには、私なりの思い入れがあるのですが、聖書とはまったく関係ないことですので、どうぞ没にしてください。筆が滑りました。

以下、ご存知でしょうが、一応マクラということで:

ポールは小アジアからマセドニアに行く途中にコリントによって、再びコリントに寄る積りだったのに、タイタスを探し回っていたので約束を忘れてしまった。それで、反ポール派の人々がポールの教えについてあれこれ中傷めいたうわさを広げた。それを知ったポールがコリントの教会の人々に真情を吐露したのが、この手紙なので、極めて、説明的な、同情を引くような表現が各所に見られます。

彼は自分が正当な立場で、イエスの教えを正しく伝えていることを、何度も手紙の中で繰り返しています。

前後の事情から、質問者さんの抽出した2:15-16にある”破滅に向かうもの達”はポールのことを中傷する反ポール派のキリスト教徒達であると考えるのが妥当だと思われます。

ですから、やれくさい臭いがするだの、あいつらは救われることがないだの、相当、感情的になっています。せっかく立ち上げた教会の信者をとられるかどうかの瀬戸際で、頭から湯気を出して、躍起になっているところが見えるようです。

a)については、ポールとその一派の教えは正統で、神の元に良い香りとなって届く、ということなのでしょう。

救われるものと滅亡するものの区別について:

イエスの教えにYesかNoか(あるいは保留ができるか)については、同じ2コリント1:17-20で、イエスもポールも自分の信条に正直であるから、ためらうことは一瞬たりとてない、といっているようです。

私達もポールのように、絶えず、自らに誠実にYesとNoとをはっきりさせながら暮らしてゆくのが理想的です。思想は必ず行動となって現れるのが本当だからです。

そこで、質問者さんの仰っている、”十字架に背をむけている”あるいは、”のっぺらぼうの思想、または、生活態度”ですが、ていのよい時間稼ぎ、あるいはNoと言えない気の弱さなのでしょう。これが魂の死に値するかどうか、意見の分かれるところだと思います。

やはりここで”放蕩息子”の例え話が出てくる余地がありますでしょうか。

投稿日時 - 2011-04-09 10:49:30

お礼

 いやぁ むつかしいですね。
 ご回答・ご説明をありがとうございます。

 確かにパウロはあせっていますね。たとえば
 ▲ (コリント後書 1:13-14) ~~~~
 わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。
 あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《イエスの来られる日》をおそらくこのときのパウロは そのまま将来の歴史的な事実として言っているかと思われます。
 ただ――ただしになるのですが―― その表現を取り出して来て 別の読みをすることはできませんか? つまり後世における《勝手な解釈》です。

 この上の箇所は別ですが いま質問に取り上げているところなどです。
 すなわち《すくい》や《ほろび》と言えば キリスト・イエスの出現ないし存在の究極の目的ないし理由にからんでいると思われます。その一点に焦点を当てて読んでみるという試みです。
 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~
 救われるものと滅亡するものの区別について:

 イエスの教えにYesかNoか(あるいは保留ができるか)については、同じ2コリント1:17-20で、イエスもポールも自分の信条に正直であるから、ためらうことは一瞬たりとてない、といっているようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような文脈のことです。

 ふたたびあせったようなパウロの言い分を見ておきます:
 ▲ (コリント後書 1:17-18) ~~~
 このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。

 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。

 ▼ (マタイ福音 5:37) ~~~
  [イエスの発言] あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ したがって ここでこの《然り・否》の問題として捉えてみるならば 分かっていることは 次になりましょうか?
 ○ 人びとの中には その自由意志による選択とそのおこないによって おのれの心という意味での神に背く場合があり その背きが継続しいわば基調になるならば 《ほろび》に到る者がいる。
 ○ 神は――つまりほんとうの神は―― このような思惟・判断そして行為について それでもその者をすくうかも知れないし そのまま滅びにまかせるかも知れない。人間には分からない。
 ○ ほんとうの神のことについては 《然り》であることはどこまでも然りであり 《否》は同じく否である。
 ○ ただし 人間がおのれの心に従って神だと言っているという意味での神については 然りもあれば否もあるし それらが互いに替わり得る。つまり 相対的なものごとでありその判断であるに過ぎないことを とうぜんのごとく 意味する。


 そこで
 ★ ~~~~~~~~~~
 そこで、質問者さんの仰っている、”十字架に背をむけている”あるいは、”のっぺらぼうの思想、または、生活態度”ですが、ていのよい時間稼ぎ、あるいはNoと言えない気の弱さなのでしょう。これが魂の死に値するかどうか、意見の分かれるところだと思います。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ Yes とも言えない・言わない――もしくは 他者と向き合っても 自分からは話をするとしてもその他者からの意見を聞き容れるという意味ではそもそも話をしない――という場合について 人間として勝手に判断するという試みをして問うています。


 ★ やはりここで”放蕩息子”の例え話が出てくる余地がありますでしょうか。
 ☆ 心を入れ替えるという意味では その反省という限りでですが 同じような回心としての類型があるのではないかとは思います。(自分の能力であらためるという場合の改心というよりは 心を回転する・もしくは回転せしめられるというところでしょうか)。


 たぶんこれからの推移においてこの文章は添削されて行くでしょう。(責任逃れとしてのようにですが)。

投稿日時 - 2011-04-09 14:00:01

「無思考」なのではなく、「非思考」である、という点が、
此処では比較的に重要なのでしょうか?

投稿日時 - 2011-04-09 02:39:12

お礼

 おっしゃるとおりだと考えます。

 ご回答をありがとうございます。

 思考に非ず。あるいは 非経験。
 思考とは 経験思考です。経験合理性にもとづく思惟であり推論です。


 無思考と言うと 多義的になるようです。
 (1) 無意識が 多義を持ちます。

  (1‐a) 意識していないこと。ないし潜在意識といった意味。

  (1‐b) 無の意識。無という意識。これは 無を――あなたも触れていましたか?―― 絶対無とするか相対無として扱うかでさらに分かれるでしょう。
    絶対無のほうは 《非経験・非思考》に通じて行きます。
    相対無は ただ有るか無いかを言うのみです。

  (1‐c) いわゆる精神分析で言う《無意識》。
    それが身体=精神のどこかにそれ独自の領域を持つという仮説に立つのだと思います。
    ブディズムでもおそらく同じように《アーラヤ識》を立てるのかと考えます。

    この無意識という領域は まやかしだと受け取っています。
    身体=精神から 内発的にしろ外からの刺激に応答するにしろ 起こる心的現象だとすれば済むと。
    つまり 意識にのぼったとき そのまま意識すれば済むと。
    つまり (1‐a)の潜在意識のこととすれば足りる。

 (2) 無思考は 無意識と同じように多義的です。

  (2‐a) 思考していない状態。潜在的な思いは起こっているのかも知れない。

  (2‐b) 無の思考。無を主題とした思考。ですから この場合も 絶対無と相対無とに分かれて 上の無意識の(1‐b)の場合と同じような分析が出来る。

    ただし 絶対無は じつは 思考し得ないということになりますから 但し書きを添えなければなりません。《絶対無》を仮りに代理表現を用いて表わすとすれば これこれのごとくになるという・つまりはその喩えとしての説明を意味することになります。

  (2‐c) やはり同じように無意識という独自の領域があるという内容をもって《無思考》の場ないしはたらきを言うかに捉えられる。

 でしょうか?

投稿日時 - 2011-04-09 13:21:28

ANo.13

★つ★ま★り★

『「滅びる者」を死から死へ至らしめる』という事を、
《良い香り.》だと見做せる、という立場に佇んでいるのは、
矢張り「救われる者」達ですよね。

投稿日時 - 2011-04-09 00:48:08

お礼

 つづいてです。

 たぶん立ち場がどうであるというのは 神の見方からものを言ったかたちなのでしょうね。

 人間には分からないものと考えます。言いかえると 確信という問題であると。また内面における信教・良心の自由というときの 信仰というコトなのでしょうね。

 この聖書の文句は それを――言葉にしたからには――もろにオモテのこととしてのように言っていますが。

投稿日時 - 2011-04-09 01:19:19

ANo.12

★『「滅びる者(犬共)」を死から死へと至らしめるのは、
「救われる者」の信仰心の維持にとって好都合である』
という意味が、その文脈には託されているのではないでしょうか?

つまり下記の一説の内容と同じ意図を読み取れませんでしょうか?

【聖なる物を犬共に与えるな。彼等はそれを踏み躙り、
向き返って、アナタ方に噛み付いてくるであろう。】

投稿日時 - 2011-04-09 00:26:37

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 信仰心の維持
 ☆ が もしその人の意志の力によってのみおこなわれ得るのであれば おっしゃっていることが あるいは読みとれるのかも知れないですね。

 ★【聖なる物を犬共に与えるな。彼等はそれを踏み躙り、 / 向き返って、アナタ方に噛み付いてくるであろう。】(マタイ7:6)
 ☆ この場合は 《わたしたちが その存在そのものにおいて キリストの良き香りである》ことと 微妙に違って来てはいませんか? 《聖なる物を与える》という場合とは。
 あるいは もっと微妙になりましょうか。
 つまり 《キリストの良き香りであるわたしたち》が ひとに福音をつたえるという場合は 複雑ですね。
 《福音をつたえる》ことにおいて《聖なるものを与える》ことをしているかどうか。

 まづ分かっていることは もし仮りに次のような疑いがあったとしたら それはやはり微妙だけれど 確実に違うと思われることです。
 ★ 『「滅びる者(犬共)」を死から死へと至らしめる
 ☆ このことが起こるというのは もしそうだとしたら それは《香りであるわたしが 福音をつたえる》ことと直接にはかかわりを持たない。つまりあるいは 《聖なるものを与える》こととかかわりを持つとして そのかかわりのあり方が わたしには分かっていない。そういうかたちで 起こるものと思われます。

 しかるに
 ▲ (マタイ7:6) 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
 ☆ というときには 《与える》こととその反応としての《踏みにじる・咬みついて来る》こととが そのままつながっているように考えられます。この点が 微妙に違うようです。

 あるいは こうでしょうか?
 《香りたるわたし》があなたに福音をつたえる。このことが《神聖なものを与える》ことだとする。そのあと《踏みにじり向き直って咬みついて来る》ことと そして《死から死へ到らせる》こととが 伴なわれるとする。
 それらのあいだの関係のあり方は どうか?
 《あたえる》という言葉の中身がどうかを知りたいとも思いますね。《伝える》と言えば 相手が《与えられたくない》という応答を成し得ますから これも微妙に違って来ます。
 それは措くとして。
 けっきょく《咬みつく》のは 反論したりするというかたちのあるおこないを意味するでしょうし 《死から死へ到る》のは おそらく目に見えないことだと思われます。

 ということのように考えました。
 言いかえるならば 《犬》と《滅びに到る者たち》とが 違うということでしょうか。ただちに同じではないようです。

 回り道をしましたが その整理されていないままをお応えとします。

投稿日時 - 2011-04-09 01:13:47

ANo.11

 せっかくご返事いただいたのですが、相変わらずむずかしいです。

 “木”を見せてもらえるかと思ったら“森”を提供されたような気分でご返事を見ました。

 なんとなくですが、平和な社会に身を置く人々の心は、落ち着いている。心の安定を身に付けている。それは「非思考」故に。

 という事を言っているのか、なんて“想像”してみました。

投稿日時 - 2011-04-08 23:22:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 おっしゃっていただいたとおりです。
 ★ なんとなくですが、平和な社会に身を置く人々の心は、落ち着いている。心の安定を身に付けている。それは「非思考」故に。
 ☆ 《非思考ゆえに》が みそです。

 そうしてそのあと この《非思考ゆえに》の情況は 神をいだく人びとと無い神をいだく人たちと 両方の人がいる。のではないか?
 しかも そこでこれらどちらにも関心の薄い人たちがもしいたとしたら それは 独我論であろう。それは おのれの心に《非思考の庭》が成るか成らないかに関心が薄いことを意味しはしまいか? うんぬん。
 ここまでを問うています。

 
 もしイエスがキリストとして神であったなら そういう世界の見方を示していまいか? つまりは ほかの名で神である場合とまったく同じかたちにおいて 非思考の神であろうと。
 ブディズムも同じ趣旨であろう? と。

投稿日時 - 2011-04-08 23:59:07

ANo.10

 こんばんは、ヒドッチでございます。

> ( a )  《救われる者には命から命に到らせる香りである》のは分かるとして 《滅びる者には死から死に到らせる ≫良い香り≪ である》のは どういうことか?

主イエスを信じる人たちが多ければ多いほど、キリストを示していると思いますが、現実は異なるようでございます。実際、≫良い香り≪を受けながらも、反発し続けた当時のファリサイ派のひとたちもその一例かと考えられます。キリストの香りを放つとき、その福音に応答する人たちが出てくると同時に、どうしても反対する人たちが出てきてしまうということなのかもしれません。
 
> ( b )( c )

 意見を等しく致します。

> ( d )ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》ではないか?

 相対主義 → さらには、虚無主義 へと至り、《死》につながると考えられます。

> ( e )いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか?

 独我論の場合問題となりますのは、“他者”の問題かと思われます。ですが、独我論を完全に否定することが困難であることも事実であります。しかし、「なぜ、目の前に“他者”が存在するのか」については、独我論のみでは説明不可能とも考えられます。つまり、“他者”というものが少なくとも、現前に存在しています(しているように見えます)。そして、“他者”との対話も可能ですし、コミュニティーの形成も可能のようです。そして、“愛”という言葉も存在します。であるならば、肯定的・積極的に、“愛”、“譲り合い”をしていけば、いいものと考えております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-04-08 23:11:37

お礼

 《慈悲》は 関係論ではなく(もしくは 関係論でありながら) 存在論であるとおそわった主題にかかわっていましょうか?

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 あるいはつまり
 ○ 汝の神を愛せ。かつ 人を愛せ。
 ☆ という・表現がふたつにして内容がひとつの・ただ一つ課せられた命令とどうかかわるか?

 でも この質問としては 《わたしたち》がその心つもりとしてどうであるかよりも ともかく人びとと接したあと どのような反応や対応がもたらされるのか。こちらに焦点はあるのでしょうね。

 しかもさらにその結果としての反応にかんして たとえば独我論の場合には《他者》という主題があらためて問題になる。――このような経過をともなって現われた問題であるでしょうか?
 そうして質問者としては すでにこの独我論の場合を 《死》の状態に――無謀にも――たとえています。


 どうでしょう。これ以上は 話は容易に進む気配はありませんか? 
 ★ “他者”との対話も可能ですし、コミュニティーの形成も可能のようです。そして、“愛”という言葉も存在します。であるならば、肯定的・積極的に、“愛”、“譲り合い”をしていけば、いいものと考えております。
 ☆ という実践――それは おのれの信仰の動態である――に帰着しましょうか。すなわち
 ○ 汝の神を愛せ。かつ 人を愛せ。



 ★ 相対主義 → さらには、虚無主義 へと至り、《死》につながると考えられます。
 ☆ という主題の筋も 独我論とともに あるにはあるでしょうが あまり生産的ではないでしょうか?



 ひとつ思ったことがあります。
 十字架上のイエスは それに就く人びとに香りとなって しかも他方では その姿から目を背け顔をも背けて去って行く人たちがいても それはそれで すでに《良き知らせ》を――同じ香りにおいて――伝え終えているのだという見方です。
 ですからそうではなく 目で見ても見ていないようで 見たあと顔を背けたのかと思っても特にどうという振る舞いがあるでもない。という場合に コミュニケーションという主題が始まる。のではないか。

 これは イエスというひとりの人物を特殊な存在――つまりこの場合は あたかも普遍的な存在のあり方をする特殊な人――として扱うかたちですが どうもそれでも一般的な問い求めをかたちづくるのではないかと考えます。
 当時のローマ帝国の支配下にあるユダヤ人の社会において はりつけに遭って死んだのは何故か。これが 人間の普遍的な存在の有り方を問うているように考えます。
 ですからその一般性というのは 《滅びる者たち》をイエスに味方する側からだけ捉えては 成り立たなくなる。のではないか。イエスに背く側にとっても 普遍的な問いを問うているはずだ。
 ただしのっぺらぼうの反応をする場合には 何かそれこそ特殊な主題ないし問題が起きているのではないか? これでした。

 それは たとえばいま出されている質問:
 【Q:これ以上生きる意味が全く見いだせない。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6649334.html
 のように――きわめて粗い類型において――最後の最後まで(主観においてでしょうが)のけ者にされる場合 つまりは周縁の周縁にまで追いやられる場合の主題であり問題であるかと考えます。

 《第三項の排除》という仮説がありますが。

 まだ整理されていないかと思いますが。

投稿日時 - 2011-04-08 23:51:34

昔、高橋義孝さんだったかが、”翻訳物を読んで、意味がわかりにくい文章は、翻訳の間違いだと思って間違いない”と仰っておりましたが、この部分は私の判りやすく意訳された聖書には、次のように書いてあります。

Our lives are a Christ-like fragrance rising up to God.  But this fragrance is perceived differently by those who are being saved and by those who are perishing.  

To those who are perishing, we are a dreadful smell of death and doom.  But to those who are being saved, we are a life-giving perfume.  And who is adequate for such a task as this?

キングジェイムス判からすると、ものすごい意訳ですが、格段に判りやすくなっています。

2:15我々キリスト教徒の生活(布教生活)は神のもとに(あたかも神殿に漂う香のように)かぐわしく立ちのぼるものである。しかし、この香りは、神によって救われる者と、破滅する者達とでは全く違った受け取り方をされる。***

2:16破滅に向かうものたちにとって、私達(布教者)は死と運命の恐ろしい臭いがする。けれども、救済されるものにとっては、布教者は生命を与える香水である。このような意味ある仕事に誰がふさわしいというのか?

a)良い香り(イエスの教え)というのは、神を喜ばしめると同時に救われるものにとってもかぐわしい。2:16.。。滅びる者にとっては、恐ろしい悪臭を放つ、と私の聖書には(判りやすく)記してあります。

b-e)私はここの箇所を読むといつも、神の恵み(Grace)は神から与えられるもので、人間の選び取るものではない、というカルビンの主張を思い出すのです。いわゆる、pre-destinationです。オギャーと生まれた時から、いや、生まれる前から、もう誰が救われ、誰が破滅するか、決まっているという説です。

b-e)のお考えは、極めて正当で納得のゆくものなのです。

そして、そのお説の根本に、私は、もっと、運命的な、イエスの教えを聞けども心にとどめることの出来ぬ、絶望的な悲劇を見るのです。

投稿日時 - 2011-04-08 11:19:05

お礼

 ちゃおぽるぽさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 カルワ゛ンの《予定説》 これのみがわたしには気にかかっています。あるいはそれによると
 ★ そして、そのお説の根本に、私は、もっと、運命的な、イエスの教えを聞けども心にとどめることの出来ぬ、絶望的な悲劇を見るのです。
 ☆ わたしの《独我論》についての批判は あたかも断罪のごとくに聞こえてもおかしくないようですから 同じ趣きであるとも考えられるのですが わたし自身は 予定説には与しません。

 ここは 互いに心を尽くして知識を尽くして問い求め合うのがよいというときと場ではないでしょうか?

 ★ 私はここの箇所を読むといつも、神の恵み(Grace)は神から与えられるもので、人間の選び取るものではない、というカルビンの主張を思い出すのです。いわゆる、pre-destinationです。オギャーと生まれた時から、いや、生まれる前から、もう誰が救われ、誰が破滅するか、決まっているという説です。
 ☆ ここですが とは言ってもわたしからの言い分は きわめて簡単です。もし仮りに
 ★ オギャーと生まれた時から、いや、生まれる前から、もう誰が救われ、誰が破滅するか、決まっている
 ☆ としても そして確かにこのことが人間にはついぞ分かり得ないということもそのままそうであったとしても もしそうだったとしたら このパウロの述べたくだりについては 《けっきょく何らわれわれ人間には たとえ信徒であっても 分からない。ひとつのまとまりとしての人生を終えたあと 遺された人びとが評価し得るか? と言えば これもけっきょく分からない。たとえ死のときの状態が よくても悪くても つまりそのことが生き延びた人たちには分かったとしても なお救いに到ったかほろびに到ったかはなお分からない》という解釈になります。

 つまり ただいま得られた到達点は こうです。
 ○ 人はそれぞれ 神の恩恵のもとにあり(もしくは 無い神のもとにあって) おのれの・また他人(ひと)の救いや滅びについては たとえそれが確実にあると思われても いっさい人には分からない。知り得ない。
 ○ この解釈までであり そこまでに解釈はとどまれ。
 ☆ こうなるでしょう。

 さて どうであるか? を大胆にも問いたいと思うのですが どうでしょう?


 ★ 2:16破滅に向かうものたちにとって、私達(布教者)は死と運命の恐ろしい臭いがする。
 ☆ つまりは 《破滅に向かうものたち》というのは そういう事実があることは確実だけれど 誰がそれに当てはまるのかは一切分からないというとき そのように言うとき 具体的には意味を持たない。というところまでに解釈をとどめておけというのか? これが問いになります。
 つまり こうです。もし仮りに《私達(布教者)〔が〕死と運命の恐ろしい臭いがする》と或る誰かに思われ言われたとき それが果たしてそう思いそう言った人は この文面にあるように《破滅に向かうもの》であるのか? そう判断してよいのか? その判断は 間違っていないのか?

 つまり この質問の趣旨としては 《いっさい分からない》のではないか? と言おうとしています。
 ただし同時に 一般的には ひとつに《肩越しに十字架上のイエスを見るひとは 無神論という非思考の徒として おそらく救いの道にある》と 類型的に 考えられるのではないか?
 そしてもうひとつに ところが《はりつけのイエスを見るには見たが そのことに何ら考えを寄せない。思いを抱かない。あるいは 思いを抱くとも抱かないとも また考えを寄せるとも寄せないとも決めないし 決まらない。こういう場合には 〈生と死〉を超えた死の状態(のっぺらぼうの顔と表情)にあると 類型的に 言えるのではないか》 こういうおそろしい判断にまで及ぼうかという問いかけになっています。

 つまりは 単純に言えば イエスはそれだけの死を死んだ。それだけの死に方をしている。ひとはこのはりつけの死を避けて通れない。と。
 つまりは 《香り》を片やみづみづしい香りと受けとめようと片や死の香りと取ってしりぞけようと それは かまわない。ともに互いに同じように言ってみればすくいの道にある。
 ただし 香りを嗅がないし 認めない。香りがあるか無いかも 知らないと受けとめる。そういう場合には 
 ★ 私は、もっと、運命的な、イエスの教えを聞けども心にとどめることの出来ぬ、絶望的な悲劇を見るのです。
 ☆ 《運命的な》という表現は さらに定義が必要だと考えますが そういった――あくまで類型的な思惟においてですが――見方が出て来るように ふと思いました。という問いです。
 さて どうでしょう?

投稿日時 - 2011-04-08 13:59:13

ANo.7

>これを むしゃくしゃして(心の表面における波風が起きて)つい意識の排泄を ガミガミ電波として放出するかたちになる場合があるのでしょう。そしてこれを受けるアース役もいることになると。

>その意識の排泄であることをきちんと認識すること。


 いつでも書き込めるフリースペースに補足を書いた、と捉えてみてはどうでしょう。

 あるいは「24時間営業のコンビニは便利です。」ていうw


> 悲しい嬉しいなどなどの心の上辺の動き――これを心理と言います――は 大海である心のやはり上辺に過ぎませんから 大したことはありません。

>その時その場では 大した影響を たしかに受けていますが――つまり嵐も吹けば台風も起きて大波小波でどんぶりこですが―― それはそのような冒険をたのしんでください。

投稿日時 - 2011-04-08 05:26:39

補足

 この場をお借りします。
 取り上げている聖書のくだりは 断片的と見られかねません。よって ひとつの文脈を全体としてかかげます。次のような表題のもとに受け取られているパラグラフです。

 ◆ パウロの不安と安心
 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第二の手紙 2:12-17)~~~
 2:13 わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていましたが、

 2:13 兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました。

 2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

 2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

 2:17 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
 
 ▲ ( KJV = King James Version )~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2:13   I had no rest in my spirit, because I found not Titus my brother: but taking my leave of them, I went from thence into Macedonia.

 2:14   Now thanks [be] unto God, which always causeth us to triumph in Christ, and maketh manifest the savour of his knowledge by us in every place.

 2:15   For we are unto God a sweet savour of Christ, in them that are saved, and in them that perish:

 2:16  To the one [we are] the savour of death unto death; and to the other the savour of life unto life. And who [is] sufficient for these things?

 2:17   For we are not as many, which corrupt the word of God: but as of sincerity, but as of God, in the sight of God speak we in Christ.

 ▲ (原文) ~~~~~~~~
 2:15   ὅτι  Χριστοῦ  εὐωδία( euoodia = sweet savour )  ἐσμὲν  τῷ  θεῷ  ἐν  τοῖς  σῳζομένοις  καὶ  ἐν  τοῖς  ἀπολλυμένοις

 2:16   οἷς  μὲν  ὀσμὴ( osmee = savour )  θανάτου  εἰς  θάνατον  οἷς  δὲ  ὀσμὴ( osmee = savour )  ζωῆς  εἰς  ζωήν  καὶ  πρὸς  ταῦτα  τίς  ἱκανός
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 次の語は 互いに同じ語根から出ているようです。

  ・od- (=香り): odor; euo-od-ia; o[d-]smee
   * eu-:良い ( evangel= eu + angel(知らせ)=福音; good news )

 ☆ 2:15 では 特に《良き= eu 》という語が添えられているようです。

投稿日時 - 2011-04-08 13:08:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2011-04-08 09:59:43

ANo.6

思考を含んだ情緒の不安定を払拭すると、
「和合」への道が開拓され得るのでしょうか?

投稿日時 - 2011-04-08 02:01:00

お礼

 つづいてです。

 ★ 情緒の不安定
 ☆ というその状態にさらに
 ★ 思考〔の不安定〕
 ☆ もが含まれているということですね?

 そのような不安定の状態を抜け出すと
 ★ 「和合」への道が開拓され得るのでしょうか?
 ☆ と問うておられる。

 いえいえ 《「和合」への道》はすでに人の自然本性において生まれつき備わっていてつねに《開拓され得る》状態にあるということではないでしょうか?
 情緒の不安定になることも その和合への道の上にあって ただどこか道草を食うことになるといった程度のことではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-04-08 04:03:58

ANo.5

和らがしめられている我々の状態は良い香りになっているので、
尊しと為さずとも、平等に、
大乗の船への搭乗券を割り当てて貰えそうでしょうか?

投稿日時 - 2011-04-08 01:48:22

お礼

 よいかおりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 和らがしめられている我々の状態は良い香りになっている
 ☆ ということは 
 ★ 大乗の船への搭乗券を割り当てて貰え
 ☆ ただけではなく すでに 搭乗しているということでしょうね。

投稿日時 - 2011-04-08 03:57:07

ANo.4

 一旦は漠然とした回答で済まそうと、思ったのですがbragelonneさんのご返事を見て、今回はちょっとあなたの世界に浸ってみようかと思いました。
 途中でリタイアするかもしれませんが。

 まずは言葉の共有から。

 2:15の「私たち」のことを、“やわらがしめられている私たち”という意味だと云っていますが、このやわらがしめられている、が何を意味しているのか忘れてしまいました。

 よろしくお願いいたします。

 

投稿日時 - 2011-04-07 22:34:08

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 先日書いたお応えから引きます。
 心がやわらがしめられているというのは 《和》でもあるでしょうから 次のごとく一般的であるというかたちで述べます。イスラームとも基礎において同じであろうと見ようとします。

 (1) 《和》とは何か?
 
 韓国の人たちが 安寧(アンニョン)ですか(ハシムニカ)と表現して こんにちはを表わします。ユダヤやアラブのセム系では 平安(シャローム・サラ-ム)を!と言って あいさつします。
 そのように おそらく世界の人びとはどこでも誰でも やわらぎを持ったやすらかな生活の共同をもとめているし そのように生きようとしていると考えます。
 定義したことにはなりませんが そういったナラワシがあるということは 定義すべき中身が 現実にあるということかと考えます。

 (2) サラ-ムを!とあいさつするイスラームの信仰とは何か?

 ▲(2-1)(アブラハムの信仰) ~~~~~
 〔ムハンマドは 『聖書』の話を受け継ぐ限り〕ユダヤ教徒の主張に反論するだけでは彼らを説得できず かえって彼らからムハンマドの主張は ユダヤ教の模倣だと反駁された。
 そこでムハンマドは モーセよりもはるかに古く アラブにとっても民族の始祖とされるアブラハムの意義に注目し 彼こそ一神教の信仰心あつい預言者で 《純正な人》であり 《神に帰依する人(ムスリム)》であり 彼の信仰は神にたいする絶対的な《服従・帰依(イスラーム)》であって ムハンマドの説く宗教とはアブラハムの宗教 すなわちイスラムであると宣言した。
      (『コーラン』2・124藤本勝次ら注 )

 ▼(2-2)(クルアーン(コーラン) 4・125)~~~~~
 宗教ということになれば 善行にはげみ 自分の行動を神にゆだね 純正の信者アブラハムの教えに従う者にだれがまさるであろうか。神はアブラハムを友となしたもうた。
      (藤本勝次ら訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (3) 前項(2-2)の説明

 《宗教》は 子音三つの構成として《D-W-N》から成る語であり これは 動詞として《告白する》の意があります。
 《純正の信者》のうち 《純正な人(HaNiiF < H-N-F)》は その三子音の語として《認める・認めさせる》の意です。
 《信(信仰)》は どういうわけか《倦む・疲れる》の意もある《ことば・語る(M-L-L)》という動詞と同根です。
 そういう形に仮りに基づいて この(2-2)のくだりを 次のように 解釈したことがあります。

 ○〔(2-2)の解釈例〕~~~~~
 〔自己存在の〕告白(D-W-Nからなる語≒《宗教》)〔の表現〕にかんして美しい(=正しい。(H-S-Nから成る語)〔と思われる〕者は誰か。

 自己の顔(=行動・意志)を アッラーフ(唯一の神)に 〔そうすることが健全・安寧(S-L-M)であるとして〕ゆだね それが美しくあり 〔そして〕この信仰(M-L-L)からはづれる者がいれば それを 〔話し合いを通じて〕認めさせる(H-N-F)者としてのイブラーヒーム(アブラハム)に自ら従う者のほかに〔誰がいるか〕。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (4) 前項(2-1)の説明

 《 S-L-M 》という三つの子音から成るかたちの語は ヘブル語でもシャロームと言って挨拶するかたちに現われており この挨拶はアラブ語で《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》と言うのと同じです。どちらかが訛っているだけです。
 イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《〔やすらぎへ〕身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れてわたしは〕 すこやかならしめられた( muSLiM < S-L-M )》というわけのようです。ムスリムの初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞です。

 (5) イスラームとしての非思考(信仰)や それにもとづきムスリムらが互いにサラ-ムをと挨拶するのは 《心がやわらがしめられている》ことを表わすことになっている。と――理論の上では――考えられます。


 要するに信仰として わが心に非思考の庭が成ること。そのときやわらがしめられることと思います。
 心に拠りどころとして《無根拠》をいだく。これが 非思考の庭が成るということです。どうでしょう?

投稿日時 - 2011-04-07 22:52:44

ANo.3

訂正

 もし、悲しくなったとき(感情が不安定になったとき)に必ず起こるというのであれば、電磁気的な乱れの影響を受けやすいのでしょう。必ず起こっていないとしても、体調の具合や心理的に安定しているなどの理由により、電磁気的な乱れを感じにくいときもあるかもしれないですね。


⇒もし、悲しくなったとき(感情が不安定になったとき)に必ず起こるというのであれば、電磁気的な乱れの影響を受けやすいのでしょう。また、地震が起こった時に悲しくならないときがあったとしても、それは体調の具合や心理的に安定しているなどの理由により、電磁気的な乱れを感じにくい、と考えられます。


>のではないか?


 まあ、いいんじゃない。

投稿日時 - 2011-04-07 04:01:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 しかし どこの文章の訂正なのか わかんないよお。



 悲しい嬉しいなどなどの心の上辺の動き――これを心理と言います――は 大海である心のやはり上辺に過ぎませんから 大したことはありません。
 その時その場では 大した影響を たしかに受けていますが――つまり嵐も吹けば台風も起きて大波小波でどんぶりこですが―― それはそのような冒険をたのしんでください。

 電磁波は ヒトからも出ているそうですよ。これを むしゃくしゃして(心の表面における波風が起きて)つい意識の排泄を ガミガミ電波として放出するかたちになる場合があるのでしょう。そしてこれを受けるアース役もいることになると。
 おのれの心にも波が立ち風が吹いている場合には このアース役で受けた電磁波が 自分の心に残ります。アース役はつらいよと言って――言葉に出してはっきり言って―― 軽くゴミ処理すればよいはずです。その意識の排泄であることをきちんと認識すること。およびその意識の内容に考え違いがあれば その中身である命題を正すこと。批判しておくこと。だと考えます。

投稿日時 - 2011-04-07 09:49:05

ANo.2

 私なら次のように解釈します。

 煩悩がある故に、菩提への“求心”も現れるのだと。

 今回はこれだけを「回答」としたいと思います。

 以後は勘弁してください。

投稿日時 - 2011-04-07 03:58:35

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 2:15に注目してください。《良い香り》というのは 《わたしたち》がなのです。

 すでに心がやわらがしめられているわたしたちです。


 どうもあわてて設問してしまったようで この大前提についてすでに当たり前のこととして趣旨説明を書いていたようです。この聖書のくだりにかんしては すでにキリスト者であるという大前提がありました。

 はやまったかなぁ。でも しばらくはご投稿を俟ちます。



 * 《煩悩・菩提心の起こり》は まったく通り過ぎて来たあとの舞台でいまのことが言われています。
 《2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり》も したがってその《滅びる者》についても《煩悩うんぬん》を超えている境地から《わたしたち》は見ています。だから 背を向けた者と解してその場合も 無神論の信仰としてすくわれるであろうと。

 ただし 次の場合には特殊であるかも知れない。果たしてどうか? と問うています。
 ☆☆(趣旨説明) ~~~~~~~
 ( d ) ・・・ただ もし多少とも《死》とかかわりがあるとしたなら それはそのように目を背けたあと 神も無い神もいづれも抱かなくなった場合 そうすると きわめて相対主義的な顔も目鼻もないのっぺらぼうの思想(生活態度)によって生きることになる。これは《死》ではないか?

 ( e ) 《良い香り》が そのような生活における慣性の法則にしたがうような心のくせを死に至らしめたことになる。いわゆる独我論は この良き香りによって(あるいは 酔って)みづからをみづからが殺したその結果である。のではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 独我論とは 半分が鎖国状態にある思想(生活態度)のことを言います。輸出(発信)はするけれど 輸入(受信)はいっさいしないという半鎖国政策です。対話にならない場合です。
 そう言えばこうして あなたも そのように――結果的に――なっていますか?

投稿日時 - 2011-04-07 09:37:20

ANo.1

人間には二つ心が在る事を意味します。一つは『命そのものの働きです』母親のお腹に命が宿った瞬間から働き出す働きです。蜘蛛がその種としての蜘蛛の巣を、誰にも習わないにも拘らず、脳内に刷り込まれた情報(記憶)によって作る機能を持っている事と同じです。

人間の脳内にも、命を働かせている『種としての記憶が』刷り込まれています。細胞分裂から始まって、生まれるや否や、泣く事も笑う事も、安心する事も、恐怖になる事も知っている記憶です。のどが渇いた事や、腹が減った事や、スピードを出し過ぎた事や、高い所にいる事を『自我意識に情報として』伝える機能(働き)が存在しています。

その機能が働か無い場合があります、不眠症です。吃音です。もっと言うならば神経症全般です。神経症の原因は『自我意識で全てを行おうとする事です。』

自我意識のみで、普通人は眠っていると勘違いしていますが、自我意識は眠る事はありません。只『意識が無くなって』自分の身体と心は、『無意識の自分』が支配しています。

ですが自分はその事を知らないでいます。何故ならば『意識が無くなった事を』自分は意識出来ないからです。

従って、意識して、意識したままで眠ろうとする事は、出来ません。この事を『不眠症と言っています』

我を忘れた場合でも、身体と心は普通の動いています。貴方も長い人生で経験したと思いますが『ハット我に返る時』の事です。

我に返る前の自分は『無意識の自分が』体と心を支配しています。

無意識の時の自分は、自身の神や仏が自分の身体と心を支配しています。それは自分の『働きです』自身の感情や、心臓や、呼吸や、ホルモンの調節をしている者の事です。

人間の五官から入ってくる事は、自分とその者が『共有していますが』主に感情を湧き上がらせる情報を提供しています。その情報を『言葉に翻訳して』自我意識は受け取っています。

その者は、環境の情報を全て肯定して、事実をそのまま事実として、自分に伝えています。人間には『我』が有る事によって、その事実を否定しようとします。その場合を『不幸』といいます。

事実を伝える者の言う事に素直に従う事を『救われる』と言います。いかなる事実にも、喜んで従う事を『良い香りです。』と書いています。

現実を見ているもう一つの自分と一つになる時『全てを肯定した事になります』人間の不幸とは『現実を受け入れられない事』を意味します。それは『二つある心が、二つになって対立する事を意味するからです』

投稿日時 - 2011-04-06 21:51:33

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 結論としては まづ分かりませんですが どうお聞きしましょうか。

 ★ 人間には二つ心が在る事を意味します。
 ★ 『二つある心が、二つになって対立する事を意味するからです』
 ☆ これが分かりません。

 たとえば わたしはこうしたいと思っている。しかし それはよくないとか しないほうがよいだろうとか そのように別なふうに考えれば それが 《二つの心》なのですか?

 でもだから どうなのでしょう? つまりもしそうだとしても この二つの心の葛藤をけっきょくわたしは わたしの判断で選択して結論を出すでしょう。
 つまり まるで何を言っているのか分かりません。

 すなわち
 ★ 現実を見ているもう一つの自分と一つになる時 『全てを肯定した事になります』
 ☆ この《もう一つの自分と一つになる》と言うのがどうもおかしい。仮りに二つの自分がいたとして それらをどうしようかと考え最終の結論を出す自分がいるはずです。なんで《ひとつになる》という表現つまりそういう見方をするのか?
 またそのことが いかにして《すべてを肯定したことになる》のか? ただ選択肢から選んだだけのことではないのか?

 ★ 人間の不幸とは『現実を受け入れられない事』を意味します。
 ☆ 分からない。現実とは何かも然ることながら 現実を受け容れられないなら そういう判断であり選択であるはずです。それだけのことです。
 現実にさからって・あるいは現実から逃避して生きるという選択だってあり得ます。
 いったい何を言おうとしているのか 分かりません。

 ★ いかなる事実にも、喜んで従う事を『良い香りです。』と書いています。
 ☆ 良い香りかどうかを別として たが喜んで従うならそれは ただの阿呆ではないのですか? 
 事実を受け容れるかどうかは ただ認識の問題であるに過ぎません。否定しようが肯定しようが それはそれぞれそういう判断であり選択であるに過ぎません。

投稿日時 - 2011-04-06 22:20:52

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