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解決済みの質問

被災者とわれらにとって 芸術とは何か

 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。

 ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。
 こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。
 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。

 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

   神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら
  ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと
  して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも
  なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。

 といった命題を得る。
 この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。
 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。

 《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。
 あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。

 果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。
 ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに?
  つまりは この生活日常がわれらが芸術行為であり この芸術が 互いに差し伸べる支援の手であるのか。そこにわれらがきづなはあるであろうか。

投稿日時 - 2011-04-16 18:25:58

QNo.6672671

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質問者が選んだベストアンサー

かなり誤解しているかも知れませんが。ご容赦を。

『芸術は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払って』とありますが 正確ではないと思います(哲学という分野につながっている と述べておられます)。『それは哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。』と改行して言われている通りと思います。要は 哲学(主張)がキーであると思います。それを踏まえて『日常生活における一挙手一投足が 芸術行為である』と考えられると思います。目的達成するため哲学を手段として考えるなら 芸術行為も支援、絆となる得ると思います。

ここで bragelonneさんは 直ちに このような結論を得られるであろうと思うのですが なぜ このような質問をされるかであります。想像するに 今回の東北大地震被災者への支援活動について 義援金とか物資とかボランティア活動などの直接活動はよく分かるが そうでないものは 果たして支援活動といえるのか と。哲学とか、2階建考方とか、芸術とか は直接援活動にくらべて 何なのか を問われているように思います。

これは東北大地震に対してのみ言えることではなく 全ての災害について言えることでしょう。もっと言えば 最大の災害は 10年先か10万年先か予想できませんが 人類の滅亡でしょう。これに対して哲学的間接的なものは 何の役にたっているのでしょうか。『この滅亡を出来るだけ 先に伸ばす』を人類の目的にするなら 直接的延命策は だれにでも 分かるところです。これに対して 哲学的間接的なモノは 日常のこと 近未来のこと などの限定された領域に対して 精神的豊かさを与えていると思うのです。個が生きるとは 精神的豊かさも求めて生きていることと思います。個が生きて 人類の延命があると思います。と思っておりますが 果たして 哲学的間接的なモノの価値を いかほどの人が認めているのでしょうか 疑問ですが。
しかし、プロ野球などのスポーツにもこの間接的要素はあると思い 観ていて疑問はかなり払拭されたように思います。

投稿日時 - 2011-04-19 13:20:15

お礼

 ok9608 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。もうほとんど全部言っていただきました。
 
 スポーツにしても触れてもらいましたし しかもそれらの興行であったとしても――電力事情を顧ることはそれとして必要だと思われますが それはそれとして―― 特に震災のことに触れずともよいのではないかとさえ思うところもあります。一般にさらっと触れればよいのではないかと。

 それにしても 自分が体を動かして何かをしようというまでに到らず 残念ながら支援のお金でさえままならずというありさまで考えついた苦肉の策と言われるのが落ちだと思っていました。ひと声出してみようかという事情でした。

 ★ 要は 哲学(主張)がキーであると思います。それを踏まえて『日常生活における一挙手一投足が 芸術行為である』と考えられると思います。目的達成するため哲学を手段として考えるなら 芸術行為も支援、絆となり得ると思います。
 ☆ ということで もし屋上屋を重ねるならば ただちに哲学的な成果が得られなくても ただいまの・当面の生活をそれぞれやはりしっかりと送ろうという結論になったものですから ということでした。

 直接の支援を何も出来ずにいると かえって恐縮してしまい よけい悪い結果が出てもいけない。そうも思いました。そんなところでした。

 ありがとうございました。質問者が励まされました。

投稿日時 - 2011-04-19 14:01:58

ANo.1

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