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解決済みの質問

《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

 哲学として定義してくださいませんか?

 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。


 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。

 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。

 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。

 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。

 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。

 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。

 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。

 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。

 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。

 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。

 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。

 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

投稿日時 - 2011-05-11 10:33:18

QNo.6729443

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。豊臣の時代ならまだしも、ブラジュロンさんの信教の自由は既に保障されています。何某の宗教組織の内部事情は知らないですが、そこでも同じであると思います。そのような内面的な事柄について、誰の手が届きうるのでしょうか。

おそらくブラジュロンさんが言いたいのはこうではないかと思います。
画一的な信仰ではなく、個性的な信仰を人はもつべきだ。と。人はそれぞれ異なるのであるから、それぞれにとって最高に相応しい信仰のスタイルないし内実があるはずだし、それを獲得できるはずだ。そうであるのだから、人々の信仰のスタイルもその個的な信仰へと一新されて然るべきではないのかと。その方がすばらしい未来が待っていると。

そのようなビジョンを持つことも確かに可能ですし、それに共感する人もいると思います。しかしそれ以上に、人々は他のビジョンを持っていて、それぞれがよしとする方向に動いて行くものであると思います。結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。

個性が大事なのは分かりますが、それは孤立とは異なるものであり、野原に様々な種類の花の咲くように、世間には様々な個性があって然るべきだし、実際にもそうであるでしょう。ブラジュロンさんは特異な方だとは思いますが、それでも、実際のところは珍しくはないでしょう。一つの花としてどこかに咲いていて、見る人だけが見る、そんなような花なのかもしれません。得体の知れない生命体というほどでは決してないですから、共感される人も少なくはないと思います。

投稿日時 - 2011-05-13 20:59:10

お礼

 ★ 実際には、信じるということを盗むこともできなければ、侵害することもできないと思います。それほど内面的であるので、誰も手出しができないといっても良いかもしれません。事実、ブラジュロンさんの信仰は誰かに阻害されたでしょうか?されていないはずです。
 ☆ これには 脱帽です。わたしが 舌足らずでした。

 ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。
 
 精神は どれだけ海の表面の心理が波風を受けて騒ぎ立てようとも 海として何ともありません。それと同じように 内面における良心や信教の自由が他人によって侵されることは 金輪際あり得ません。

 ですから 宗教組織に問題があるとしたらそれは 社会力学として自分の行動が左右されることです。
 ただし それについても
 ★ 結局大多数の画一的な信仰に傾倒するのも一つの選択であり、それをチョイスすることで何らかの安心や社会基盤を得ている人々もいるわけです。そして、それらを権威付けているのもまたそれを信仰している人々自身です。
 ☆ という分析を示しておられます。そうですね。それが 現実である 現実であるなら 哲学もそのとおりだと認めなくてはなりません。
 で それと同時に これこれのように別様に考えることも出来ると示すことが出来る程度だと思います。
 それが 《信じる》の定義であり 信仰の理論だと考えます。


 ということは 趣旨説明に述べたたたき台の内容に ひととおり賛同していただいたということでしょうか?
 つまり第一段階での理論作業は すでに済んでいる。そのあとは 人それぞれであり 千差万別だと見なければなるまい。こういったご見解でしょうか?

 じっさいわたしは 今としては 第二段階での具体的な現場の対処策については ずるいほど今は何もしようとはしていないわけですから すべておっしゃったことは受け容れざるを得ません。

 もっと言えば たとえば仏教なら仏教について その《教義》の内容を批判すべきところは批判して来ておりますので そういう方面からの接近の仕方を 第二段階の作業と いまは しています。現場にまではいま少し届かないその手前での作業です。

 ですから ひとつの結論はこうです:
 ☆☆(趣旨説明欄) 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
 ☆ というように 理論の外延として ひとこと触れておく。ここまでです。いまは これでよしとします。


 
 くどいように再考します。
 ☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
 ☆ このような現実は 人びとがそれぞれともかくそれをよしと選択した結果である。その自由な自己表現を認めなさい。――こうおっしゃった。
 おっしゃるとおりです。
 と同時に それは 第二段階での現場での作業である。しかるに第一段階における理論作業としては 信じるの定義を 普遍的なかたちで明らかにしたい。

 それによると 特には何が《信じる》ではないかが明らかになる。
 1. その人物がいかに偉かろうと人は 経験的な存在であるので どれだけとうとびこそすれ 《信じる》ことはしない。

 2. それと同じように理論や学問 あるいは愛や慈悲やの理念としての徳を成す事項 これらも経験事象であって それらを《信じる》とは言わない。

 3. しかも紛らわしいのは 宗教のその教義である。オシエは いかに信仰の動態から得られたその成果であっても 一たん人間の言葉に書き換えられたならそれは 思想や哲学となっている。ゆえにこれも経験事物であって だから《考える》ものでこそあれ 《信じる》ものではあり得ない。

 ☆ このような第一段階の作業を問題提起しています。
 このことが明らかになれば じつは すでにその第二段階での作業も 案外おのづから定まって来るとは見ています。
 そしてここで――このときに初めて―― あとは 人びとそれぞれの考察と判断によると言って行くことになると思います。
 
 ちがいはありましょうか?

投稿日時 - 2011-05-14 00:01:22

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回答(52)

ANo.60

忘我が無根拠の絶対無を受け入れさせてくれるのでしょうか。

投稿日時 - 2011-06-01 00:41:06

補足

 もし問い求めの途中でしたら あたらしい質問へ移っていただきとう存じます。

投稿日時 - 2011-06-01 13:43:22

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 忘我
 ☆ とは 何を言うのか いまひとつ分かりませんが――《無心の状態》と言うのと それほど違わないとも思われますが―― いづれにしましても 《信じる》については こうです。
 つまり 二段階があって 初めには《無根拠》のほうからわが心の庭におとづれるということ。次にこの無根拠をわが心の庭に迎えたわたしは 人間の意志行為としてそのまぼろしをわが心に受け容れるということ。

 忘我は まづ《忘我が 無根拠を呼びよせる》のでもなければ おそらく《忘我が われをして無根拠の受け容れをおこなわしめる》というのでもない。と考えます。前者は 無根拠の側からやってくると捉えますし 後者は はっきりと人間のわたしが意識をもしつつおのれの意志としておこなう こう考えます。
 どうでしょう?

 * 意識をもしつつおのれの意志としておこなう と言いましたが その行為の性質は 根拠無しにです。賭けのごとくにです。人間の意志行為なのだが 非思考と見るゆえんです。

投稿日時 - 2011-06-01 05:37:24

ANo.59

人間中心主義的には、
NULLの状態を受け入れる港(VPNポート)が開放されていたのでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-27 16:19:14

お礼

 ご投稿をありがとうございます。

 ★ 人間中心主義的には
 ☆ とはどういうことでしょう?

投稿日時 - 2011-05-27 18:15:19

ANo.58

肉食動物達の群れがチームプレーで狩りを行なう場合にも、
言語的な経験に先立つ信念が含まれていませんでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-27 14:29:55

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 動物は 扱っていません。
 自由意志〔を超えるかどうか〕の問題ですから。

投稿日時 - 2011-05-27 16:12:54

ANo.57

そもそも非経験の状態の維持に信じる過程が必要なのでしょうか。

経験されていない対象の事への与信は可能なのですか。

投稿日時 - 2011-05-25 17:04:23

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《非経験》ということが まだ伝わっていなかったのですね。
 ☆☆(趣旨説明欄) 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 ☆ そう言えばこの質問では ここくらいですね 触れているのは。
 《経験世界を超えて》というところが ミソです。

 そうしますと
 ○ 非経験のナゾとは 人間が《経験している・していない》をも超えている。
 ○ そして この非経験のナゾを相手にするのは 《想定の上で》なのです。
 ○ 想定した上では その非経験のナゾを――そして言いかえると《無根拠》を――心に受け容れるということが起こります。
 ○ わが心の庭を ひょっとして そのナゾがおとづれて来て窓をノックしているかも知れないと――想定の世界において――思ったとき これを受け容れるという仮りの行為をおこなう。
 ○ その行為は――想定の延長上にありますが もしそうしたとするならば―― 今度は人間のおこなう経験行為であろうと言っています。あたかも《賭け》のごとく えいやっと受け容れを決めて 言わば領収証を発行すると言っています たとえで言って。

 ○ なんでそんな想定をしなければならぬのか? なぜならわれわれ人間は どの言語においては 《信じる》という言葉を持っているからです。あるいは 《神》という言葉です。
 ○ つまり 神や信じるという言葉は 要らないのだ 意味のない言葉だ 死語だというのであれば そう証明してそのようにすればよいでしょうし あるいはそうでないとすれば 上のように定義して使いつづければよい。または 別の定義を持って使い続ければよい。

 ☆ こうなります。

 ★ そもそも非経験の状態の維持に信じる過程が必要なのでしょうか。
 ☆ 《非経験》は 《状態》であるかどうかさえ 人間には分かりません。分かるか分からないかが分かりません。
 おそらく非経験なるナゾは・つまり一般に神は 人間が何かを心配することはいっさい要らないでしょう。経験世界のすべてを超えた存在〔というなら存在〕ですから。ぎゃくに人間のほうが心配してもらうと言えば そう言えることになるでしょう。あくまで主観の内面における心のあり方の問題です。

 ★ 経験されていない対象の事への与信は可能なのですか。
 ☆ 上に触れましたように 神は人間が成すところの何の心配をも必要としていません。与信をも必要としていません。

 与信というのは 誰かが神なる存在は信用できん お払い箱だと言っているとき いやいや そうではない 神は信用するに足る存在だよ 何なら担保を指し出そうかと言って 裏書きすることを言うのでしょうか?
 それは その誰かなる人が その不信を言うことによってみづからの人間性を失いかけているようだとあなたが捉えたなら そう言ってやってもよいと考えます。神は 信用できんと言われることによっても何によっても傷つくことはあり得ませんが その人のためには 言ってやってもよいと思います。

投稿日時 - 2011-05-25 18:02:31

信じることの定義を全知全能の貴方が示して下さらないと、
庶民は祀り申し上げ難くなりますね。

投稿日時 - 2011-05-25 09:36:41

お礼

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~
 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。

 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。

 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。

 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。

 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。

 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。

 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。

 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。

 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。

 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。

 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。

 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さあ もしあなたが定義をするのを怠るなら 正真正銘の荒らしであると見なします。

投稿日時 - 2011-05-25 09:48:03

定義が辞書的な意味の範疇から逸脱すれば会話が成り立ちますか?

投稿日時 - 2011-05-25 08:11:09

お礼

 質問の趣旨を逸脱して 回答が成り立ちますか?

投稿日時 - 2011-05-25 09:18:30

前回の文言へ「先験的」という語を盛り込んだ理由は、【反語】だからです。

逆方向の質問が寄せられる遣り取りは、此のサイトでなくとも、
人類の歴史の中の手紙にも有り得ただろう、と考えられますが、
それを読んだ際に反語の可能性を踏まえていなかったでしょうか?

それとも単純な疑問文だと見做していたのでしょうか?

つまり、【「先験的」な疑い】は不可能なので、それの排除は有り得ないのです。

因みに、敢えては触れませんが、共通の論理の誕生の切っ掛けとして確実に機能し得る仕組みは既に明らかになっていますので、其処から話題が発展し得ると思われますから、御自身で其の調査を為さってみて下さい。

投稿日時 - 2011-05-24 18:11:09

お礼

 でもね。その場合にもすでに《信じる》の定義が 仮説としてでも 出来ている場合の反語法になります。
 その定義をまづお示しください。それからの話ではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-05-24 18:59:05

ルサンチマンの発想との比較で類推しました。

たとえ意識的な思考が御座いませんでしても、先験的には、疑念対象の排除の過程を辿らずに、<<信じる>>という行為が可能になり得るのでしょうか?

投稿日時 - 2011-05-23 22:15:40

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 疑念対象の排除の過程を辿らずに
 ☆ という過程もしくは場があるということは 何を意味するか? しかも
 ★ 先験的には
 ☆ だそうですね。

 でもね。その場合にはすでに《信じる》の定義が 仮説としてでも 出来ている場合の問いになります。
 その定義をまづお示しください。それからの話ではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-05-23 22:20:25

ANo.52

否定されている「思考」の用語の意味は、辞書の記述の通りの内容なのでしょうか。

それとも対象の特定を志向していない段階にも、その「思考」は関わっていますか。

そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃には、
「信じる」という過程の存在が必要になっていない筈です。

この部分の食い違いが残っていますと、他の方々の意見にも変化が及ぶのでしょうから、無駄な誤解の残留を防ぐ為に、そこの食い違いの不在証明の優先を御願いします。

投稿日時 - 2011-05-23 21:14:05

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ
 ★ 否定されている「思考」
 ☆ これは まったくの誤解です。
 ☆☆(趣旨説明) 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。
 ☆ 《信じる》とは何かを説明して 《思考に非ず》と言っているのみです。
 これは 《思考》というものを 要らないだとかのように否定しているのではありませんから。

 ★ 「思考」の用語の意味は、辞書の記述の通りの内容なのでしょうか。
 ☆ そのとおりです。言いかえると きちんとは定義していないわけですが 全体の趣旨説明からは  《非思考》としての《信じる》ではない自然本性としての能力行為を言っていることになります。
 意志や記憶といった能力行為もありますが ここでは《知解》としての思考にあたります。
 もう一度言いかえると

   考える――経験世界
   信じる――非経験の領域

 こういった対応関係をおさえることが出来ると思います。

 ★ それとも対象の特定を志向していない段階にも、その「思考」は関わっていますか。
 ☆ 上の図式で経験世界と対応する《考える》を取り上げるならば 《思考》をしていなくても 思考しうるものごとを対象としているわけですから そうですという答えになります。
 ★☆(編集しました= a ) 対象を特定していない場合
 ☆ にも大きくは《思考》の世界に属します。

 ただし やっかいな特殊な場合を取り上げておられましょうか?
 ★ 対象の特定を志向していない段階
 ☆ つまり
 ★ そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃
 ☆ ということのようですね。うえの( a )の場合と少し違って来ますね。

 ★ ~~~~
 そもそも、言語認識なる手段が誕生していない頃には、
 「信じる」という過程の存在が必要になっていない筈です。
 ~~~~~~
 ☆ 大きな主題のようで よくは分かりませんが こうお応えして 質問の問うところの探究にともにすすんでいただきましょうか。すなわち
 ○ 言語をまだ持ち得ていなかった頃 この頃にも 《考える》と《信じる》との能力行為は ともに潜在性としてならそなわっていた。
 ☆ と見るのだと。


 言いかえると 何のことはない。いま現在の人間のあり方について捉えてみてください。という問いになります。そう受けとめてくださればありがたいです。
 どうしてもそのような前提では 答えることが出来ないということでしたら その旨をも示してくださればさいわいです。

投稿日時 - 2011-05-23 21:40:00

http://okwave.jp/qa/q6708438.html?rel=innerHtml&p=complete&l=1
此方にも協力(慈愛)を提供してあげて下さいませ。

投稿日時 - 2011-05-23 00:40:09

お礼

 知っておいたほうがよさそうな主題でしたので 調べてみようかと思いましたが やめました。
 よく知りませんから。付け焼刃は控えました。

投稿日時 - 2011-05-23 08:08:40

他のページで酷い文言を盛り込みまして、失礼を致しました。

此方では冷静に進めていきます。

でも、難しいですね。

最初に我々の御先祖様達が言語の共有を開始した時に、
御互いの思考基盤(フォーマット)の共通性を、
言語に頼らずとも信じ切れたのか、
それとも「疑い方」を知らずとも半自動化されたのか…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88

http://www.sophia-it.com/content/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%BD%A2%E5%BC%8F

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%88
________________________

因みに、綺麗な写真ですね。

投稿日時 - 2011-05-23 00:38:13

補足

 ● ( OKWave 様のサイトを利用する際のマナーについて) ~~~
  哲学のカテゴリで独自の見解を頑なに主張なさる回答者の方々がいら
 っしゃいますが、質問者に【回答者の自説】を押し付ける遣り方は、
 「マナー違反」なのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-05-23 20:24:11

お礼

 ご投稿をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 他のページで酷い文言を盛り込みまして、失礼を致しました。

 此方では冷静に進めていきます。

 でも、難しいですね。
 ~~~~~~
 ☆ 《酷い文言を盛り込むこと》が 《冷静に進めることがむつかしい》場合には 控えがたいとは思われません。
 後者の場合には 一般にただおのれの推論などに不十分なところが出たりするだけです。酷い文言を盛り込むというのは ひとつに質問の趣旨を把握していないから もしくは 把握していてもそれをないがしろにするから。ひとつにもともと質問に回答しようとしているのではなく 難癖をつけようとしているだけだから。といったところでしょう。
 《酷い文言が盛り込まれた》のは 一再成ならずなのですから。むろんこちらからもその指摘をして来ています。いったいどういう料簡なのでしょう。けんかを売りたいのですか?


 もし《信じる》ことは どういう行為か。これを問い求めるおつもりがあるなら お応えしましょう。
 概して言って 概念がいくつか違う系統のものなのに互いに入り組んでいるように思われます。 
 ○ 言語の生成および使用と 《信じる》とを同列に扱って論じていまいか。
 ○ 言語による相互理解と《信じる》とを同列に並べていまいか。
 
 ★(あ) 最初に我々の御先祖様達が言語の共有を開始した時に、
 ☆ 細かいことですが 《言語の共有》があるということは すでに互いに基本的には意思疎通が出来るようになっていると考えられます。《言語の共有を開始した》とするなら 相互理解が 相手の考えとの間での同じところも違うところも両方をふくめて成り立つようになったことを意味します。

 ★(い) 御互いの思考基盤(フォーマット)の共通性を、言語に頼らずとも信じ切れたのか、
 ☆ 上の(あ)の意味するところに基づけば 言語に対応するかたちでの思考形式は 基本的に相手とのあいだで共有されるようになったのだと見られます。つまり
 ★ 御互いの思考基盤(フォーマット)の共通性
 ☆ が基本的に見て つちかわれたのだと言ってよいはずです。
 ★ 言語に頼らずとも信じ切れたのか
 ☆ 《信じる》という言葉が使われているところは あとに回します。思考形式を互いに共通のものとして持ち得たならば それは《言語に それとして 頼っている》ことです。上に触れましたように 意思疎通がうまく行かない場合には その理解のむつかしいということを共有することが出来ている。またそういうフォーマットが出来ていると言っていいのでしょう。

 ここで・つまり言語をつうじての交通の場で 《信じる》という用語は げんみつに言えば ふさわしくありません。あくまでこの場は《考える》の範囲内にあります。それぞれの主観の内には おのれの《神への信仰》が持たれている場合があり得ますが 社会としての交通においてはあくまで基本は経験思考が基軸となります。(《信じる》にかんしても いまわれわれがここで行なっているように 経験思考として明らかにしようとすることになります)。


 ★ それとも「疑い方」を知らずとも半自動化されたのか…。
 ☆ ですから相互理解が得られないという場合には 確かに《うたがい》も持たれていましょうし その場合が重なるなら《疑い方》も人それぞれにその内面に形作られて行ったとも考えられます。けれども一般に自動化はしないでしょうし
 ★ 半自動化
 ☆ も しないと考えます。なぜなら人は 自分が疑っているということの妥当性についてもみづから疑うという能力と境位を持っていましょうから。


 つまりたぶんお分かりのように ことをコンピュータの世界の事柄にあてはめて捉えようとしておられる。そういうアプローチはというよりは いろんな観点や角度から捉えることはそういうアプローチを含めて まったく有益だと考えますが 考えるのですが それと同時にいま目の前の問題は何なのかそしてその焦点はどこにあるのか これを同時に考え合わせるのでなければ その思惟はなんのために為しているのかと問わなければならなくなります。
 早い話が この質問に回答する気はあるのか。となります。
 ご高察を願います。

投稿日時 - 2011-05-23 08:06:58

ANo.49

> ☆ 《事前に心の準備があった》かも知れないのですが それについて《知っていた》ことはなかったです。《わたしは 準備がある。準備が出来ている》とは思わなかったし むしろ知りませんでした。
 
解釈はこれでOKですよ。心の準備とはまさに心の準備の事で、頭で準備されたことではないという意味でもあります。私もほかに表現方法を思いつかなかったので心の準備と言うことにしたのであって、100%言いたいことを表現できているわけではありません。肝心のところから一歩引いた表現となっています。もっと表現を推し進めるなら喩えを使うことになります。きっと余計わかり難くなると思いますが、喩えば、孤立した空間があるとします。その空間には一枚の水面があって、それは完全に静止しているとします。外部要因はゼロの孤立した空間です。この水面に、たった一滴の水が落ち、波紋が広がるような瞬間が、ブラジュロンさんの言う信の瞬間ではないかと思うのです。初めて水面が励起したということは、初めて水面の存在が知られた瞬間の事です。初めて自分が○○であったことを知る。と。


>もう少し語り足りないと感じるところもありますが ひとまづお返しします。どうでしょうか。

いい感じなんじゃないでしょうか。語り足りないところも、語りたいと思われるならばどうぞ。その方がたぶん私の質問者に対する理解は深まるはずです。はじめ、質問文だけを読んだだけのときはかなり意味が不明でしたが、やり取りによって随分理解が進みました。体験談などを聞くと、ふむふむと思います。いくつかの答えを提示してきましたが、それらは理解の進み具合によって変遷しています。

投稿日時 - 2011-05-22 23:05:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ きっと余計わかり難くなると思いますが
 ☆ とご推測のとおりでした。水滴では ピンと来ないですね。

 たとえばもしその比喩で行くとすれば
 ★ 外部要因はゼロの孤立した空間です。
 ☆ というように設定する必要がないと考えられるのです。つまり 外部要因と接しており 激しく行き来していてもよいはずなんです。

 あとは 個人的な体験の問題に狭められるかも分かりませんが こうです。
 ★ この水面に、たった一滴の水が落ち、波紋が広がるような瞬間が、ブラジュロンさんの言う信の瞬間ではないかと思うのです。
 ☆ つまり 信の瞬間は――これまでのわたしの説明と錯綜するかも分かりませんが―― まったく知らないあいだにその信を与えられたという瞬間のあとに意識において来るわけです。信を与えられた一瞬のあとに それに気づいて言わば受け容れましたという領収証を発行したわけです。
 ですから 信の瞬間は あたまがすっきりしたという時でしょうか。いえ その前に与えられてそのあと頭がすっきりしたと感じたのでしょうね。そうして これは 信じるという人間の持つ行為なのだと知った。こういう経過だと捉えます。(信じるとは何かとそれまで尋ね求めて来ていたのですから その気づきは早かったです)。



 語り足りないというのは 感覚だけのことでした。まだはっきりしません。

投稿日時 - 2011-05-22 23:43:21

ANo.48

こんばんは、bragelonneさん。



●同感・共感そして反感の三分法の最後の三分の一に入る人ですから 

ふつうに相手をする人間ではないという意味です。

丁重におもてなしなさいって?

はーい、かしこまりい~♪

= = = = ( ^^)_旦~~~ ささ、どうぞ 一服 

『茶まつり囃子』
http://kanayakomyunithi.web.fc2.com/kokoro/hayasi.html


●ということは その見方はふるい。



べつに、ちゃかしちゃいませんてば( ̄^ ̄)キッパリ-☆

それよか―――――
●ねえさんは ふるい考えに浸っている
● 平成の今に到っても。甥っ子さんになじられるわけだ。



手揉み美味しいよ~♪

●甥っ子さんになじられるっていうけど…
「若手が製茶技術競う 八女で手もみ大会」なんてのもあったようだよ

【製茶技術の将来について】
http://www.ochakaido.com/juku1/13-5fut.htm

【お茶の博物館】
http://www.kaburagien.co.jp/museum/museum/museum9.php

●この二月三月の第五次世界大戦を経て そういうふうにすでに人を捌く――白黒や善悪の裁くではなく 仕分けするかたちの捌く――ようになりました。実行しています。

国土交通省 メールマガジン 平成23年2月3日http://www.mlit.go.jp/page/kanbo01_hy_001362.html

携帯電話
http://homepage1.nifty.com/samito/phones1.htm
http://ad.impress.co.jp/special/923sh/

投稿日時 - 2011-05-22 23:02:54

お礼

 あぁ 一服すると リフレッシュですね。ねえさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~
 手揉み美味しいよ~♪

 ● 甥っ子さんになじられるっていうけど…
 「若手が製茶技術競う 八女で手もみ大会」なんてのもあったようだよ
 ~~~~~~~~~~
 ☆ そうですか。おっしゃるとおりかも知れませんね。

 でも それでも口答えしますが
 ★ 丁重におもてなしなさいって
 ☆ これについては じゅうぶん 充分過ぎるほどおもてなししたあと 採った行動でしたよ。相手もじゅうぶん分かっていますよ。というよりも 相手は あまりにも充分過ぎるほど慎重にていねいにおもてなしをし続けたので かえって不思議に思っているくらいではないですかね。そんなやり取りを経て来ています。( ̄^ ̄)キッパリ-☆

 それでは きょうは そろそろお休みですね。
 なんか答えが少ないようにも感じますが。

投稿日時 - 2011-05-22 23:25:06

ANo.47

こんばんは、bragelonneさん。

●分かりません。
 それに その質問者は わたしのふつうに相手する人間ではありません。
 あしからず。

理不尽なシチュエーションその3

|(><)|キャーッ!!ってね。
(*^^*)肝が据わってます。

そうきますか?なかなか出てこない相手を燻って出てこさそうって作戦ですか?

人が悪いなあー、…人を食う?

人間ではない…魚…燻す…うまいっす!

燻製の作り方
http://www5.big.or.jp/~sakufu/kunsei.html


とかなんとかいっちゃって、好きなんですね?その質問者の方のこと~♪

モクモクモク)))))モグモグモグ)))))

投稿日時 - 2011-05-22 19:32:37

お礼

 ★ とかなんとかいっちゃって、好きなんですね?その質問者の方のこと~♪
 ☆ というふうに見る見方を ほかにもうひとり はこぶるさんがしていました。でも今では わたしからの説明でかれとても《洗脳》されたかも知れませんよ。
 ということは その見方はふるい。ねえさんは ふるい考えに浸っている 平成の今に到っても。甥っ子さんになじられるわけだ。

 同感・共感そして反感の三分法の最後の三分の一に入る人ですから ふつうに相手をする人間ではないという意味です。
 この二月三月の第五次世界大戦を経て そういうふうにすでに人を捌く――白黒や善悪の裁くではなく 仕分けするかたちの捌く――ようになりました。実行しています。


 モクモクモク)))))モグモグモグ)))))
 そう言えば 腹が減った。夕食まだだったぁ。

投稿日時 - 2011-05-22 19:46:45

ANo.46

こんにちは、bragelonneさん。


●☆ こんがらがって来るように出来ていませんか?
 1. ケムリ男(アキラと言うらしい)は クルマの整備士で整備するクルマから出る煙を浴びているし また煙草を吸っていたので そういうらしい。

 2. そのアキラが リナの腕を握って 《いいから 放せってば》と言っている。まづこれがおかしい。リナが腕を握っているのではないから。

 3. その光景を見た一人のひとは 《あ・誘拐》と――口に出してか心の中でか――つぶやいている。そんなバカな。往来で大きな声を出して《いいから 放せってば》といったやり取りを聞いたからと言って なんで誘拐に結びつくのか?

 4. しかもそのあと何の説明もなく その経過ないし結果としては 《リナはケムリ男によって、めでたく酔っ払いから解放されました》と言うことらしい。ええっ? ひょっとしてこの四コマの前に 酔っ払いに絡まれていた場面があったのだろうか?

 5. そうしてそのときリナは――お礼を言うこともなく―― 
 ★ 「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」 
 ☆ と言っている。それについての解説は こうである:
 ▲ せっかく助けてくれた王子様(?)に対して、お姫様はおカンムリです。理不尽ですね。

 6. いったいどうなってるの?

 7. 要するにお礼を言うべきところを 言わなかったという話ですか?




たしかに、不自然ですよね。

ってことは…逆に何かが隠されている?


とすると…

「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」と。

これは、四コマ漫画のヒントにあたるとは考えられやしませんか?

英語のお勉強のところだからといって

英語だけでは味気ないと作者は考えていたのかも?

で、お話に何かを忍び込ませていたとしたら…

2コマ目を見てください

ケムリの臭いが体についた男の人の腕の中に女の人いますよね?

慣用句「煙に巻く」
(けむにまく) 相手がよく知らないようなことを一方的に言い立てて、
戸惑わせたり、茫然(ぼうぜん)とさせたりする。


モクモクモク


 

投稿日時 - 2011-05-22 19:13:58

お礼

 わたしからのキスは 煙くさいし 煙に巻かれるようだから いやだってこと?


 モクモクモク。

投稿日時 - 2011-05-22 19:39:09

ANo.45

>わたしの経験から行けば もっと分かりやすく言うと 《そのナゾの何ものかを心に受け容れるという信じる行為》は わたしの身と心の中でいつかどこかにおいてすでに行なわれていたのを あとで確認したというようなものでした。だから それは去らないのです。

わからなくもないです。
とりあえず話を聞こうじゃないかと、始めに耳を傾ける。次第にその話はもっともだと感じるようになる。始めに話を聞こうじゃないかと耳をオープンにしたときに、信の萌芽が既に生じているといえるのかもしれません。
どんなはなしも聞こうじゃないかと、話を聞く前から、信の萌芽が用意されているとしたら、人はあらゆるものに対して信の前提を確保しており、その後、何らかの選定作業を経て、ああ、これは私の探していたものだとか、ああ、これは私の知っていたことだとか、『形を与えられた後に、確認できるもの』なのかもしれません。
これは私の言いたかったことだ、これは私の知りたかったことだ、これこそ私の求めていたものだと言ったとき、事前に心の準備があったと感じられるのではないかと思います。>「わたしの身と心の中でいつかどこかにおいてすでに行なわれていた・・・」というのは、そういうことに似ているのではないでしょうか。
ブラジュロンさんの例だと、アウグスティヌスを読むことによって、その事前の心の準備に形が与えられたのではないかと。

投稿日時 - 2011-05-22 18:33:02

お礼

 ひかりの波さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 わたしから見て頑固なように感じるときにも落ち着いていらっしゃいますが なかなかしづかな――心の静まりかえったと言っていいほどの落ち着いた――観察をなさるのですね。

 今回省察されたことがらについては わたしは自分の体験を述べてお応えとします。
 すでに幾分述べて来ていますが こうです。

 まづ話は 親鸞からです。歎異抄がよかった。その筋あるいは方向性において 同感出来た。
 その後 日蓮についてひととおり そしてブディズム一般について広く薄く まなびました。中観がどうのこうのと言っているとき ブディズムないし親鸞にかんして ひとつだけ 不都合なことがありました。肩が凝る。同感する内容を生きると 肩が凝る。これは どうしたことかと。
 三身常住をまなんでいたとき 三位一体論へと短絡しました。

 別に短絡したとすら言えることではなく 本屋で或る本を手に取っていたら それを――その当時はえらく高い¥3,600(いま ¥10,000)でしたが――買おうと思い立ちました。アウグスティヌス『三位一体論』(中沢宣夫訳)です。
 これを 540ページほどを 一年かけて読み終えました。ほかの勉強と並行して読んだほうがよいと判断したからです。その後は 一回通し読みして あとは毎日少しづつ読んでいました。

 途中 半ばほどにまで読み継いで来て これなら――それまでに聞いたり読んだりしたいわゆるキリスト教とは別だと分かって―― 信じられると思うようになった。《悪は存在しない》という命題などもよかった。やがて それでは《神とは何か》に行くのですが むしろ《信じるとはどういう行為か》 これを考え始めた。
 
 信じるとは これだという説明は出来ないぢゃないか。つまり これこれの行為は 信じるではないというふうに定義するよりないのかなぁと。目に見えるものは信じるの対象ではない。心の目に見えるものも だめ。科学の目で確かめられるもの これも 経験事象だからだめ。《神》という言葉もその概念もその発音も文字もむろんだめ。人間の用いる言葉は みんなだめ。それらは信じるの対象では あきらかに ないと。
 ぢゃあ なんで《信じる》という言葉をわれわれは持っているのか? 《強く思いを込めて意識している》といった事態だけなのか? 

 そうこうしているとき 或る日の夜中 就寝の前にふとんの上に立ったとき あたまがすっきりした。えっ? これが信じるということかと思ったわけです。
 わたしは すでに――むしろ子どものときからずうーっと――信じていた。信じつづけて来ていたと受け取ったというわけです。
 ちなみに そこで肩の凝りは直ったというわけです。

 その後ずっとブディズムからは遠ざかっていましたが この哲学カテで初めて問うたのが 次の質問です。
 【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html

 つまりそれは すでに二十数年経ったあとですから そのあいだには アウグスティヌスと聖書それにいわゆる神学を固めていました。五年ほどあとには いわゆる不退転になっていたでしょうか。

 そのように信仰観は 発達してこんにちに到るのですが その《信じる》の中身の論議について その表現を新たに詳しく得ることが出来こそすれ 変わって来てはいませんので それなりに自信を持っています。けれどもむろん開かれていなければなりません。ゆえに 問うています。


 一点少し違和感のある表現にぶつかっています。
 ★ これは私の言いたかったことだ、これは私の知りたかったことだ、これこそ私の求めていたものだと言ったとき、事前に心の準備があったと感じられるのではないかと思います。
 ☆ 《事前に心の準備があった》かも知れないのですが それについて《知っていた》ことはなかったです。《わたしは 準備がある。準備が出来ている》とは思わなかったし むしろ知りませんでした。
 つまり 《求めたいたものが ここにあった》というのは アウグスティヌスの文章表現について 知解し思考し判断したところの中身です。そしてその観念体系は 信じるの対象ではないわけです。


 もう少し語り足りないと感じるところもありますが ひとまづお返しします。どうでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-22 19:34:35

ANo.44

http://okwave.jp/qa/q6689433.html
此のページの#102番の方からの御指摘の通りに、何故なのかを確認しておりませんが、1人分(何方か)の投稿が抜けている様ですが、離脱を為さる方の信念は◆奇しくも◆生得的に獲得されていたのでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-22 17:03:15

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ちらっと見たら わたしが見放した質問ぢゃないですか。
 そしてその削除された投稿とは わたしのそれでしょう。

 わたしはその後一度も見ておりませんが:
 ★ 離脱を為さる方の信念は◆奇しくも◆生得的に獲得されていたのでしょうか。
 ☆ えらい仰々しくお考えになりますねぇ。

 わたしの意図は――つまり あえて理由を書かずに これはつまらん質問だという投稿内容だったのですが その意図は―― そのように理由をも明らかにせずとも 相手が何らかの《からみ》を見せてくるなら 話は成り立って行くかも知れない。そのときには しっかりと対話をすすめてみよう。――こういう魂胆でした。
 相手の反応は たしか 《放っとけ》でした。したがってそのようにしました。
 これだけです。これだけですよ。


 それとも 
 ★ 信念を 生得的に獲得する
 ☆ というような見方考え方をするというのは 何かもっと深い意味がありましょうか? ありましたら ぎゃくに おしえてください。

投稿日時 - 2011-05-22 18:01:49

ANo.43

理不尽なシチュエーションその2


【QNo.2970486ほにゃらか形而左右学 数学】回答番号13
http://okwave.jp/qa/q2970486.html

投稿日時 - 2011-05-22 17:02:12

お礼

 分かりません。
 それに その質問者は わたしのふつうに相手する人間ではありません。
 あしからず。

投稿日時 - 2011-05-22 17:37:36

ANo.42

こんにちは、bragelonneさん。

 


●ねねさんは? いや ねえさんは どう受け答えなさいますか?



受け答えですか?


理不尽なシチュエーションからすると…


「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」 ← やっぱこれでしょ?


「unreasonable」(アンリーズナブル)
http://ameblo.jp/eigomanga/entry-10784875092.html

投稿日時 - 2011-05-22 16:50:44

お礼

 わっからんことを言って来ますね。――ねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ▲ (理不尽な女:漫画で英語)) ~~~~~
 リナはケムリ男によって、めでたく酔っ払いから解放されました。
 せっかく助けてくれた王子様(?)に対して、お姫様はおカンムリです。
 理不尽ですね。
 ~~~~~~~~
 ☆ こんがらがって来るように出来ていませんか?
 1. ケムリ男(アキラと言うらしい)は クルマの整備士で整備するクルマから出る煙を浴びているし また煙草を吸っていたので そういうらしい。

 2. そのアキラが リナの腕を握って 《いいから 放せってば》と言っている。まづこれがおかしい。リナが腕を握っているのではないから。

 3. その光景を見た一人のひとは 《あ・誘拐》と――口に出してか心の中でか――つぶやいている。そんなバカな。往来で大きな声を出して《いいから 放せってば》といったやり取りを聞いたからと言って なんで誘拐に結びつくのか?

 4. しかもそのあと何の説明もなく その経過ないし結果としては 《リナはケムリ男によって、めでたく酔っ払いから解放されました》と言うことらしい。ええっ? ひょっとしてこの四コマの前に 酔っ払いに絡まれていた場面があったのだろうか?

 5. そうしてそのときリナは――お礼を言うこともなく―― 
 ★ 「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」 
 ☆ と言っている。それについての解説は こうである:
 ▲ せっかく助けてくれた王子様(?)に対して、お姫様はおカンムリです。理不尽ですね。

 6. いったいどうなってるの?

 7. 要するにお礼を言うべきところを 言わなかったという話ですか?

 ☆ それでねえさんの受け答えは:
 ★ 「ケムリ くさいじゃ ないのよ|||||」 ← やっぱこれでしょ?

 ○ さらに問い求めていくことがのぞまれる!!!!!!!!!!


 あっ さらに次にも投稿をもらってるようです。

投稿日時 - 2011-05-22 17:22:15

ANo.41

こんにちは、bragelonneさん。


● ★ (    )に大変理不尽なお説教をされました 戦国無双2
 ☆ そう言えば ここも分かりづらかったです。



そうですか、分かりづらかったですか?

虫食い問題ですから…


【QNo.6633903和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・】
http://okwave.jp/qa/q6633903.html

【QNo.6522183《常識を超えた人間》です。思う存分ご批判をどうぞ。】
http://okwave.jp/qa/q6522183.html

【QNo.6422669日本語とはどういう言語か。】
http://okwave.jp/qa/q6422669.html

 ★ 「時制」の様な論理的階層の構築
 ☆ からは離れて(もしくは そのような方面への発達をうながすこと少なく) 人間的かつ身分的な階層がすでに社会力学として構築されているところから出発する。その力学的な人間関係は 国家という二階建ての構造ないし階層区分と連れ立って かたちづくられたか? ――たぶんそうだと思われるが さらに問い求めていくことがのぞまれる。


《信じる心》――――――さらに問い求めていくことがのぞまれる。


【副詞節の修飾構造について】
http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/Jinbun/L42-1/L4201_0131.pdf

投稿日時 - 2011-05-22 14:06:34

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 でりけーと なんでしょうか? こんかい分かりません。

 ★ 虫食い問題ですから…
 ★ さらに問い求めていくことがのぞまれる。
 ☆ このことが分かりました。



 あぁ その後ひとつ分かりました。
 ゆきやまくんにわたしは いまつらく当たりました。王様ごっこの王になって自由自在に振る舞おうとしていると見たので。
 わたしのわがままです。出しました。
 でもこれは もう引っ込められないと思います。(命令するか服従するかしかえらぶ道がないと思っているとしたら どこでどうなったのかと思います。甘えですらないように受け取られます。
 当たってくだけろと言いますか 相手に対してそのふところに飛び込んででもその心を示せというような要求は もう現代人はおこなわないのですか?)。

 ねねさんは? いや ねえさんは どう受け答えなさいますか?

投稿日時 - 2011-05-22 15:52:32

ANo.40

おはようございます、bragelonneさん。

●(趣旨説明欄) 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。

● ★★ ドライアーストン
☆ 考えてみれば やや説教調である。読む人にやや――ほんの やや――威圧感を与える。んちゃう?



そうなん???気にしない、気にしない(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

(    )に大変理不尽なお説教をされました 戦国無双2
http://www.youtube.com/watch?v=7D_cBjl36fo


「ロシア領」スイス・悪魔橋の記念碑 
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/hitano.html
ヨーロッパのあちこちには悪魔の橋と呼ばれる橋があります。これらの橋はたいていローマ帝国の時代に建設された巨大な橋ですが、ローマ時代の進んだ土木技術をすっかり忘れてしまっておバカになった中世のヨーロッパ人たちは、「あんな凄い橋を人間が作れるはずはない」「きっと悪魔が作ったに違いない!」と、付いた名前が悪魔の橋という次第です。
スイスにも「悪魔の橋」と呼ばれる橋があって、スイス・アルプス地方のアルトドルフとアンデルマットの間でロイス川を跨ぐ橋がそれ。しかしたいして大きな橋でもないし、この橋が架けられたのはローマ時代ではなくて1230年のこと。じゃあなぜ悪魔の橋と呼ばれているかというと、「悪魔が架けた橋」という伝説が伝わっているから。
昔むかし、人々が「この渓谷に橋があったらな~」と話していたところ悪魔が現れ、「俺様が橋を架けてやる。その代わり最初に橋を渡った者の魂をいただくぞ!」と言い出した。そこで人々は悪魔と契約を結んで橋を架けてもらったが、誰かが最初に橋を渡って悪魔に魂を差し出す生け贄にならなければならない。しかしアタマの良い人がいて、「ヤギ飼いを最初に渡らせればいいんだよ」。かくしてヤギ飼いはヤギの群れを追いながら橋を渡り、人たちは「最初に橋を通ったのはヤギだから、ヤギの魂を差し上げますよ」と悪魔に言い、激怒した悪魔は橋をぶっ壊してやろうと向こうの山から巨大な岩を抱えてやって来たが、途中で遭遇したお婆さんが十字を切ったため、岩を捨てて逃げ出した・・・というお話。それなら最初から十字を切りながら橋を渡ればいいじゃん!と思いますが、伝説にケチをつけてもしょうがないですね。ふもとのゲッシェネンの町には悪魔が捨てた悪魔の岩というのが今もあるそうな。
さて、その悪魔橋のほとりにロシア領の小さな飛地がある。ひょっとして悪魔が橋を架けるとき「俺様に魂を、ついでにロシアに土地を」と条件を付けた・・・なんてはずはなく、飛び地ができたきっかけはナポレオンだ。
フランス革命に衝撃を受けたイギリス、オランダ、スペイン、オーストリア、プロイセン、ナポリなどの周辺諸国は、1793年に第一次対仏大同盟を組んで革命政権を潰そうとしたが、ナポレオンの反撃によって破れ、スイスはヘルベティア共和国というフランスの傀儡国家になってしまった。しかしナポレオンがエジプト遠征に熱中していた98年に、こんどはロシアも加わって第二次対仏大同盟を結成。アレクサンドル・スヴォーロフ元帥率いるロシア軍はオーストリア軍とともにスイスや北イタリアを舞台にフランス軍を攻撃したが、その主戦場の1つとなったのが悪魔橋。当初フランス軍を圧倒していたロシア軍は99年の悪魔橋の戦いではフランス軍に包囲され、雪のアルプスを越えて退却し多くの犠牲者を出したのだった。
それから1世紀経った1899年、ロシアはスヴォーロフ元帥の奮戦と700人のロシア兵戦死者を称えるために、悪魔橋のほとりに記念碑を建て、スイスは「中立政策を脅かさないこと」を条件に、記念碑の敷地をロシアに割譲した。スイスとしてはロシア軍などの奮戦のお陰で、最終的に傀儡国家を脱して永世中立国になることができたわけで、ささやかな恩返しということ。とはいっても、記念碑のまわりをロシア兵が警備しているわけではなく、名目的にロシアになっているというだけだが、記念碑の前にはスイスの国旗と並んでロシアの国旗も翻っている。
スヴォーロフ元帥は現代でもロシアの英雄と言われ、ソ連時代にもスターリンはあちこちにスヴォーロフの銅像を建てたそうだが、となると、当時は悪魔の橋のほとりにソ連国旗が翻っていた?さて、どうでしょう・・・。

投稿日時 - 2011-05-22 09:39:45

補足

 ★ (    )に大変理不尽なお説教をされました 戦国無双2
 ☆ そう言えば ここも分かりづらかったです。

 ひとつ:《ねね軍》の存在について どういう意味があるのか。殺し合いはやめなさいということを ねねさんの強いところを見せて 説教する?

 ひとつ:(   )に のその括弧のことがよく分かりません。

 そう言えば 《理不尽な》とあるのも どういうわけなのだろう?


 以上 よろしくご教示のほどをお願い致す次第でございます。

投稿日時 - 2011-05-22 12:38:19

お礼

 ねえさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 組織宗教は
 ★ 結社の自由
 ☆ があるから しゃあないってこと?

 ★ そうなん???気にしない、気にしない(-_-)/~~~ピシー!ピシー!
 ☆ ほな しゃああないな。――ちょっとうまくまとまりすぎているという感じが あとに引くということかなぁ。

 ★ 「ロシア領」スイス・悪魔橋の記念碑 
 ▲ ~~~~
 ヨーロッパのあちこちには悪魔の橋と呼ばれる橋があります。
 これらの橋はたいていローマ帝国の時代に建設された巨大な橋ですが、ローマ時代の進んだ土木技術をすっかり忘れてしまっておバカになった中世のヨーロッパ人たちは、「あんな凄い橋を人間が作れるはずはない」「きっと悪魔が作ったに違いない!」と、付いた名前が悪魔の橋という次第です。
 ~~~~~~
 ☆ セゴビアだけではなかったと。ロシア領であることが問題ではないわけですね この事例は。
 《橋がすばらしいとか そんなところによくも橋を架けたとかのおどろき》から 悪魔という呼び方は来ている。ってえことですね。
 特に《信じる》ことと関係するものではない。つまり まちがった《信じる》のあり方を示している。

 セゴビアの悪魔橋は 何でもないということの証明をしてくれたのですね。さすが検索クイーンさま。


 ところで
 ★ key は 時制
 ☆ の意味がようわからない次第でございます。過去を現在時点から見て捉え直し その現在の自分の中に納め直している。とった意味ですか? そうだとして では《信じる心》と 特にどうつながるかは・・・?

投稿日時 - 2011-05-22 12:30:27

ANo.39

● ★ りあるた
☆ って何だろう。


うーんと、コレ → ☆「Realta=星」
http://www.astroarts.co.jp/news/2009/10/02planet_forming_disk/index-j.shtml


『PRIDE』
http://www.youtube.com/watch?v=1p4iGrJs2Zk&feature=related



 

投稿日時 - 2011-05-21 22:33:42

お礼

 ねえさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ▲ (星の成長をリアルタイムで観察) ~~~~~
 【2009年10月2日 JPL News】
 生まれたばかりの恒星のまわりの円盤が発する赤外線が、わずか1週間から数週間のうちに変化するようすが観測された。
 恒星を囲む円盤の進化は一般に数百万年かかるが、その途中でも、円盤がダイナミックに変化することがあるようだ。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ へえーっ。


 
 ☆☆(趣旨説明欄) 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
 ★ 自由と孤独


 ★★ ドライアーストン
 ☆ 考えてみれば やや説教調である。読む人にやや――ほんの やや――威圧感を与える。んちゃう?

投稿日時 - 2011-05-21 23:37:10

ANo.38

純粋な無心の行為の最中には、
信じている事情への自覚さえもが必要と見做されないでしょうね。

投稿日時 - 2011-05-19 16:51:41

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですが ふつうに仕事や日常生活を送っているときにも 信仰としての自覚は それほど起こらないのではないでしょうか?
 信仰について思い出すことがあるとしても だからどうするというふうには 自覚したりどうにかしたりすることはないのではないですか?
 
 まぁ ほかの国の人びとは 十字を切ったり祈ったりするのかも知れませんが それは信仰の確認として特に何を示しているかと言って 何もないと考えます。
 言いかえると 信仰は もしそのことについて思いめぐらしたり 実際真剣に祈ったりするというのは あくまで自分ひとりでいるときです。それに限ると言ってよいと思います。

 お尋ねは
 ★ 信じている事情への自覚
 ☆ と言って《事情》という言い方をなさっていますが 要するに神を思い浮かべるということでしたら 《おのれの信仰の確認》といったことと同じだと見なして 上のように考えました。すなわち わたしの考えは
 ★ 純粋な無心の行為の最中には、
 ☆ でなくても つまり純粋でなく無心でないときでも 特に信仰を思い出すということもないように思います。胸や顔の前で十字を切る仕草をしたからと言って 信仰の確認をしたとも思いません。それは ただの気休めであり ひょっとしたら 周りの人たちへの見せしめであるかも知れません。
 つまり ほかの人の前では 内面の信仰についてまづオモテに出さない。こう考えます。

 ほかの方々の見解も聞けるといいのかも知れません。

投稿日時 - 2011-05-19 21:42:45

ANo.37

セゴビアの水道橋を悪魔が建造した、という嘘を訝らなかった信心は、どうして向こうの民衆の間で揺るがなかったのですか。

投稿日時 - 2011-05-19 04:13:06

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 これは りとるきっづさんには似合わないおことば。

 迷信がつづいたというだけだと思うのですが。


 箸墓は 昼はひとがつくり 夜は神がつくったという嘘が流れていますね。
 でも いづれも それだけ驚きものだと言っているのかと思いますが。

投稿日時 - 2011-05-19 05:57:41

ANo.36

こんばんは、bragelonneさん。


●あなたは マリア型 それとも マルタ型?


はい、T型です! (*^^*)>〝〝〝


T型って???


「T」のジェスチャー=タ・イ・ム


ま  りあ

ま  るた


りあるた+ま=リアルタイム



データフロー



【トラフィック特性に基づいた実時間トラフィックの識別】
http://www.itrc.net/report/meet10/file/26b-anagawa.pdf


宿題:辞典シリーズ(F11)同じ「聞く」でも…
http://www.osaka-c.ed.jp/kate/karicen-folder/workbook-for-pref/ej.htm
be lost in



( ̄^ ̄)もしもし

先にある言葉、りとるきすえさんの<ねえさん>って、何ですの?

この<ねえさん>が曲者

あとに《マルタとマリア》の話が出てきて読めばマルタとマリアは姉妹とか

で、締めに「あなたは マリア型 それとも マルタ型?」ってか?<おい!

先におかれてある言葉に導かれるように「はい、わたしはマルタ型です」と

迂闊にも口走った日にはドボンです。あぶない、あぶない。

思考停止の罠ですよこれ。ホントにもう油断も隙もない。オニ-ィッ!

●マイルドなものから徐々にスパイシーな… ← |(><)|))))))) 激辛-ッ!!!





ココロノウタ / LOST IN TIME
http://www.youtube.com/watch?v=t9nZ32PJfbk

投稿日時 - 2011-05-19 03:35:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 マルタもマリアも まじめな人たちですよ。どちらも。その点で違いはないと思います。

 ★ りあるた
 ☆ って何だろう。

投稿日時 - 2011-05-19 05:52:00

人類が言語能力を獲得した後には、たとえ思考を停止させましても、
言語能力の獲得の前の時代の場合の様な直接的アクセスは、
殆ど為され得なくなったのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-05-19 00:30:31

お礼

 そうですね。――ご回答をありがとうございます。――

 ちょっと的がずれているかも分かりませんが 《エポケー》というアクセスのようなおこないがあり得ます。

 ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC

 エポケー(古典ギリシア語: ἐποχή epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。

 §1 懐疑主義
 においては、エポケーは判断を留保することを意味する。もし真理が到達不可能なものだったり、到達しにくいものだったりするなら、判断を急ぎすぎるとかならず誤ることになるであろうからである。

 §2 フッサールおよび現象学
 においては、エポケーは世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。
 ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。
 世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。

 §3 精神分析学
 において、エポケーは現実に対するあらゆる判断を留保することを意味する。これによって治療者の幻想と無意識の世界をうまく航行できるようにするのである。
 ~~~~~~~~~~

 あるいは別様に考えるなら
 ★ 言語能力の獲得の前の時代の場合の様な直接的アクセス
 ☆ は 捨てて来たと言えるかも知れません。
 アクセスに限らず 言語を用いる互いの交通方法を得たあとは その得る前の状態についてはその一切を棄てて来たということかも知れません。
 未練も無いか それとも もう世界が――動物とヒトとの間の隔たりとして――違うようだとも見られるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-19 05:40:42

大前提の無謬性を信じて遣りませんと、虚構作品の鑑賞もが阻まれますね。
http://okwave.jp/qa/q6734792.html

是はちょっとした冗談です。

投稿日時 - 2011-05-18 06:04:03

お礼

 ええ。
 ★ 大前提の無謬性を信じて遣りませんと
 ☆ この部分にも 《虚構》が含まれていますね。
 つまり そういう《信じて遣る》ということ自体が虚構となっており そうして前提になっているようです。よね。

投稿日時 - 2011-05-18 06:36:18

「《信じる》とは」という表現の副助詞「は」についての再考です。

こういうウェブページを見付けました。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%AF&dtype=0&dname=0na&stype=1&index=17552714511500&pagenum=11

投稿日時 - 2011-05-18 04:08:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ○ 《信じる》ということ‐ハ・・・
 ☆ だと思います。第一中心主題をみちびいているのだと。

投稿日時 - 2011-05-18 16:25:01

ANo.32

ある人が何かを信じるときには、それが信じるに値するものだとこころに知っているから信じるのだと思いました。
こころに知っているとは、通常の思考という言葉が当てはまるものではありません。内実の知であり、ある意味で無根拠に知っている何某です。

投稿日時 - 2011-05-18 02:17:33

お礼

 ひかりなみさん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。微妙である。とまづ思います。

 全体として――わるく言うつもりはありませんが―― どうも信じたあとその行為に納得したときの・また あぁよかったと思うときの後づけであるように感じます。まだ論証しない前から このように推し測って言ってみます。

 乳飲み子や幼児が母親を 思考や知識でなしに知っていて感じ分ける。という事例でもないですよね。
 あるいは動物が本能で 餌を求めたり毒のあるものを避けたりするときの事例でもなく。
 あと ヒラメキということがあって これは霊感と呼ばれる事態として 信じるということにつながっているとは思います。でもこれもげんみつには 《信じる》というその一瞬の行為の以前にも以後にも 或る程度一般に起きるとも見られます。

 信じるというその瞬間のわたしがその何ものかを受け容れるという行為に ヒラメキはあるか? どうも別であるように思われるのですが。そして そのことを説明しがたいといまは思っているのですが。

 ★ それが信じるに値するものだとこころに知っているから信じるのだと
 ☆ 無意識ということばは精神分析のほうへ連れて行かれやすいので使いたくないのですが 要するに意識はしておらず認識もなくその何ものかを心に受け容れたというとき それは
 ★ 内実の知であり、ある意味で無根拠に知っている何某です。
 ☆ と言えるかと問うならば 言えるだろうと考えます。
 仏性だとかあるいは神の霊がやどると言った場合 それは もともと自然本性においてそうであるということだと人びとは受け取っているはずです。そのような意味において
 ★ こころに知っているとは、通常の思考という言葉が当てはまるものではありません。
 ☆ という先験的な内実の知が当てはまるだろうと思います。

 では その上であらためて 次のように問うて見るなら どうなのか?
 ★ ある人が何かを信じる〔* というその一瞬の〕ときには、それが信じるに値するものだとこころに知っているから信じるの
 ☆ か? つまりわたしの感触では その瞬間には そのような意識も認識もないのではないかという物言いです。しかも あとで そういうものかなぁと思うことがある。身と心にもともと聖霊がやどるとすれば そういうものだろうなぁと。

 いやぁ 分かりません。そういうたとえば予感が走ってうっすらとあいまいな感覚として むしろ心に知っているゆえに その何ものかを受け容れるという信じる行為を持つ。のかも分かりません。
 
 わたしの経験から行けば もっと分かりやすく言うと 《そのナゾの何ものかを心に受け容れるという信じる行為》は わたしの身と心の中でいつかどこかにおいてすでに行なわれていたのを あとで確認したというようなものでした。だから それは去らないのです。だから 非思考です。非思考の庭が わが心に成ったというような現実です。

 そうですね。自分の経験のみを物指しとするのはいけません。がいまは このように捉えました。どうでしょう?

投稿日時 - 2011-05-18 06:22:38

「初めに言葉有き」なる文言の意味の無謬性が認められていませんと、
此の質問への回答は酷く難しくなりますね。

オーケストラでのセッションが現代の言語論理に依存しているのか否か、
という点にも注目なさっておく価値がないでしょうか?

投稿日時 - 2011-05-17 16:24:18

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 むつかしいご見解ですね。あるいは 感情として言えば ややこしい見方ですね。視点がいくつもあって 互いに錯綜さえしているかも知れません。

 ★ 「初めに言葉有き」なる文言の意味の無謬性が認められていませんと、 / 此の質問への回答は酷く難しくなりますね。
 ☆ (1) 《初めにことばがあった》という聖書記者の記事は 大いにこの《信じる》という行為にかかわっていて けっきょくそれらは互いに側面こそ違っていても けっきょく同じことを指し示しているとさえ捉えられます。たしかに です。

 (2) ただしその《文言の意味の無謬性》については それほどこだわらなくてもよいと考えます。単なる言葉による表現だと捉えてかまわないのではないでしょうか? もっともそのあとに続く文章(ことばは神とともにあった。・・・)と一体として 扱われなければならない性質の一文であることは はっきりしていると思います。

 (3) ということは 《初めにあったという言葉》を前提していなくてもこの問いに答えられないことはないと思われることには この質問は けっきょく《何が〈信じる〉という行為ではないか?》 これを明らかにすることのほうに重心がある。とも捉えられるからです。

 (4) ほんとうは《信じる》というコトではないのに 世間では やすやすと使われている。それは おかしいではないか。こんな物言いのために設問されたと言っても 間違いではないかも知れません。

 (5) 言われれば確かにそのような物言いを提出できるのも ヨハネによる福音が冒頭に《ことば》のことを提起してくれているからであるかも知れません。

 ★ オーケストラでのセッションが現代の言語論理に依存しているのか否か、 / という点にも注目なさっておく価値がないでしょうか?
 ☆ むつかしい。
 《セッションが》ですか? つまり《音楽が》ではなくという意味ですが。
 しかも《現代の言語論理に依存しているのか否か》ですか。この場合の《言語論理》とは どういう中身を言うのでしょう?
 言語じたいのことなのか? それとも 日本語なら日本語の論理をめぐる特徴を言うのか? 
 音楽と言語との関係や如何に? という問いでもないのですよね?

 すみません。分かりません。乞うご説明を。

投稿日時 - 2011-05-17 18:33:36

ANo.30

信念に衝動的な行為を肯定させる効果が含まれていますね。

だから、良い意図で信念を貫いてほしいものですが、
こういう方の存在を考えますと…。
http://okwave.jp/qa/q5466279.html

投稿日時 - 2011-05-17 06:30:09

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづその質問と趣旨説明を掲げます。
 【Q:復讐に意味はあるのでしょうか。】 ~~~
 復讐に意味はあるのでしょうか。
 憎しみとは一体なんなのでしょうか。
 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。
 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。

 また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。
 宜しくお願い致します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 短いので あなたのご回答を掲げます。
 ★★ (ANo.47 SakuraiMisato) 価値の欠如は有り得ますが、意味が無ければ言葉を存在させられません。

 ☆ わたしの回答は 次です。:No.14&19&41

 そうですね。わたしは 分からないと言っていますが 案外答えははっきりしているのです。
 ほかの人のことについては 何を答えにしてよいかは分からない。と同時に 自分の人生にとってのこととしては 分かっている。
 すなわち 復讐をするということを知らずに復讐という行為をおこなうといった行動のかたちは いわば人類が物ごころがついてからは なくなったと分かっていることが ひとつ。もうひとつには たとえば復讐を受けて命を絶たれた人がもう一度生き返るというのであれば 復讐をしてもよいのかも知れない。
 あるいはたとえば 人は人の行為としてのあやまちを赦したり裁いたりすることはあっても 人を赦すあるいは赦さないといったことは 出来ない。能力によって出来ない。つまり 人が人を赦すという能力は 人にはない。赦さないという能力も人にはない。
 あやまちとしての行動を批判し その行動に横たわる《死の所望》としての罪なる思想を批判することはあり得るし むしろ大いにすべきであるが あやまちや罪の主体としての人間存在については 赦すも赦さないもその能力が 人間にはない。

 もしこの考えによるとすれば
 ★ 信念に衝動的な行為を肯定させる効果が含まれていますね。
 ☆ には その行為を分ける必要があると思います。あやまちとしての行動は 肯定し得ません。一般的にそうなると考えます。主観的に 肯定することがあるかも知れませんが それは出来ないと考えます。
 ただし その衝動的な行為の相手もそして自己をも 人間存在としては どんなあやまちがあったとしても 人が赦すも赦さないも 出来ない。こう見ます。

 こうだとしますと
 ★ だから、良い意図で信念を貫いてほしいものですが、
 ☆ という願いは 保障がされていないと分かります。それでも 存在は 言うとすれば 善であり擁護すべきです。そのあやまちを含む思想や行為 これについては どこまでもその間違いであることをきちんと説明して批判をおこなうべきだと考えます。
 罪を憎んで人を憎まずと言います。その徹底です。

投稿日時 - 2011-05-17 17:57:20

ANo.29

http://okwave.jp/qa/q6743300.html
諭してあげて下さい。

投稿日時 - 2011-05-17 04:36:48

お礼

 投稿しました。




 りとるきっづさんと りとるきすさんと まぎらわしいですね。いいんですけれど。

投稿日時 - 2011-05-17 14:34:00

ANo.28

【アマテラス公民の世は終わらせるがは どうですろうか】
のベストアンサー判定の無謬性はどうですろうか。

投稿日時 - 2011-05-17 03:45:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ツッコミますねぇ。

 ★ 無謬性
 ☆ を主張したことはありません。《妥当性》をうったえています。

 ただしお尋ねの質問でのベストアンサー選択にかんしては それをえらぶとき確かにその選ぶわたしの内にも 迷いがありました。
 結論としては ちょうど今のご回答のようにツッコミとしての値打ちに重きを置いたものです。

 ちなみに一般にベストアンサーについては わたしの場合 特にこれが秀でていると思うものがない限り 投稿してくださったみなさんに差し上げたいという心つもりでいます。
 言いかえると むしろ回答者の人として選ぶ場合さえあります。そのときその時点では この方に BA が行くのがいちばんよいだろうと思ったときには そうしたりします。
 おかしいかも知れませんが 総合的に見て互いの問い求めにおいて貢献した方だという意味があります。案外その選定には タイミングもあるようなのです。ひとこと感謝の意を込めてというような意味合いになる場合のことです。

 ご斟酌くださるとさいわいです。(するどいですね)。

投稿日時 - 2011-05-17 13:43:49

ANo.27

言語の獲得に先立って概念規定が可能になっていたのですか。

投稿日時 - 2011-05-17 03:16:45

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 言語の獲得に先立って概念規定が可能になっていたのですか。
 ☆ これはまた ツッコミますね。
 
 1. 言語の獲得がまだ成っていなくても 脳裡に概念なるものが芽生えてはいたでしょうね。

 2. 自然環界や人びととのかかわりとしての一応の社会環境を見て捉えて 何らかの思いが得られていたでしょうし その思いに或る程度の気持ちや意味が見て取れるように成っていたのではないかと。

 3. ところが
 ★ 概念規定が可能になっていたのか?
 ☆ と問うた場合 どうなのでしょう? よく練って得た考えではないのですが おそらく気持ちのかたちや意味のある思いを 何らかの概念として持ちつつあったと考えられるとき その概念を概念として規定したのは やはり言葉だったのでしょうか?

 4. 発声機能あるいは発音の仕組みがからだにあって 何らかの思いを抱いたときその思いのままに自己表出をしたら その発声の仕組みに意識においても気づき その音としての言葉が 思いとのあいだに対応関係を持ち始めて〔と気づいて〕 やがて概念規定を得て行ったか?

 5. 発声機能やら幼児の言語習得などなど細かいいろんな分野での研究について ほとんど知らないままでの憶測ですが。



 【Q:日本語とはどういう言語か。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html
 ☆☆ (その趣旨説明欄) ~~~~

 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

 と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。

  HA.....SI。

 というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。

  HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

 ――愛(は)し。

 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

 と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。

 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。
 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。
 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   やまと(山‐処)‐は うるはし。

 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

   やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて

  やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。
 ~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-05-17 13:34:09

ANo.26

こんばんは、bragelonneさん。


●すでに五月も半ばなりけり。




ですね。ヤバいってば。


「あっ?!」という間に


ヾ(★´∀`)ノ゜・*:. ☆夏休み☆.。.:*・゜ヾ(´∀`☆)ノ

http://zoome.jp/dennou/diary/10

ヾ(★´∀`)ノ゜・*:. ☆夏休み☆.。.:*・゜ヾ(´∀`☆)ノ



で、夏休みにつきものといえば…


「 宿 題 」 (||||||) ゾォーーー 


理科の観察実験
☆もののとけ方
http://kids.gakken.co.jp/kagaku/rika/index.html


●カレーライスについてですが、日本の市販のルーは甘口、中辛、辛口とマイルドなものから徐々にスパイシーなものと種類がたくさんありますね。私はS&Bとハウスを混ぜるのが好きです。

イイね!

【QNo.5575536《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》】より一部抜粋
http://okwave.jp/qa/q5575536.html

投稿日時 - 2011-05-17 00:43:32

お礼

 りとるきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 それでは 《甘え》の理論のご紹介です。

 ▲ (土井:信仰と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ヱ―バーが東洋社会の構成原理と考えたピエテート(ラテン語でピエタス 義務の感情 親子の相互に対する愛情を意味する)は大体《甘え》に相当するであろうと〔大塚久雄は〕言うのである。
 ヱ―バーはまた ギリシャ・ローマの世界は民族移動や戦争によってピエテートがこわされて成立したと述べているそうだが ここでピエテートを《甘え》とおきかえてみよう。するとこのような世界では《甘え》が通用しないことになる。
 言い換えれば そこでは連なりはあまり重視されない。したがってなんでも甘えていればことがすむというわけにはいかないのである。

 以上のごとく考えると ギリシャ世界またそれを引き継いだ西洋の特徴がはっきりして来る。例えばギリシャ最古の文学であるホメロスを取り上げると これは戦争およびそれに因んだ物語である。そこに書かれた世界において 親子および夫婦の間の情愛 そして特殊な友情を除けば あとはすべて闘争に他ならない。そのような世界ではとても他人の憐憫をあてにして暮らすわけにはいくまい。あらゆることに全力を尽くして戦うだけが人間に可能なすべてである。
 日本の社会では《甘え》が通用するので 勘弁してくれ ということでなんとかなり うやむやの中に妥協が成立するが 西洋ではとことん力試しをせねばならず であればこそ西洋で自由と理性が重んじられるようになったということができるのである。

 このような世界にキリスト教が伝播していった際 当然ピエテートは問題とならなかったであろう。多少は残っていたピエテートが キリスト教の浸透に好都合になるとしても 邪魔にはならなかったにちがいない。しかし理性は明らかに邪魔になった。なぜなら西洋人は昔も今も理性で勝負しようとするからだ。彼らは出来ることなら理性だけで事をすませようとする。かくして西洋のキリスト教において信仰と理性の関係が非常に早くから問題となったのである。
 いったいなぜ理性のほかに信仰がいるのか。信仰を得るために 理性は何の役にも立たないのか。また いったん信仰を得れば 必然的に理性はいらなくなるのか。このような信仰と理性の関係についての問題が 西洋人を何世紀も悩ましたということができるのである。
  (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.159-161)



 ところで これに反し日本人の場合は理性より《甘え》の方が信仰との関係において問題になると思われる。
 というのは西洋人が理性において自足的であろうとするように 日本人は《甘え》において自足的であるからである。もっとも《甘え》の場合は 理性の場合と対比して 信仰との関係がかなり異なったものとなる。
 というのは理性は信仰と対立的な関係になりやすいのに比して 《甘え》は信仰と並行的で重なりあう関係にあるので しばしば信仰と《甘え》と取り違えるということが起きるからである。
 その結果 自分では信仰しているつもりでも はたから見れば甘えているということになり しかも当の本人は自分の甘えに気がつかないのであるから まことに始末が悪いのである。



 これは特に日本人のクリスチャンの場合心すべきことであるが もちろん日本人の信者だけが信仰しているつもりで知らず知らず甘えるわけではない。西洋の信者でも同じことが起こり得るが しかしたびたび述べているように 日本語に《甘え》という便利な言葉があればこそ 信仰のあり方について《甘え》の観点から分析的に反省することが可能となる。であるから西洋人がその信仰生活について同じような反省を行なうためにも やはり《甘え》の観点を自分のものにすることが必要であろうと考えられるのである。
  (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.161-162)



 次にキリストの言葉を取り上げて いかに信仰の世界が甘えに似ているか それでいて甘えを超越するものであるかを示したいと思う。

 ○ 《マルタとマリア》の話
 マルタとマリア姉妹の家をキリストが訪問する。マルタはもてなしで忙しい。マリアは手伝わないでキリストのそばに坐りこんで話に耳を傾けている。
 腹が立ったマルタがキリストに 私ひとり働いているのをなんとも思わないのか マリアに命じて手伝わせてほしい と告げる。するとキリストがマルタに あなたはいろいろ心を労しているが なくてはならないものはただ一つだけ マリアはそっちを選んだのだから取り上げるわけにはいかない と答えた。

 この話はちょっと考えると マルタが奉仕しているのに反し マリアは何もせず キリストの話を聞いて満足しているのであるから マリアの方が甘えているといっていいように見える。しかしよく考えると 自分ひとり働いていることに腹を立て マリアに手伝わせて欲しいとキリストに頼んだマルタに《甘え》があったことは 明瞭である。
 それからマリアが実際に《甘え》の感情を自覚していたかどうか明らかではないが もしそれが事実としても キリストが嘉(よみ)したのはマリアが甘えたことではなく 彼女がひたすらキリストの教えに聞き入ったことだったという点を忘れてはならないであろう。
 (pp.162-163)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わたくしは 理性としての辛口と甘えとしての甘口とをブレンドしたところの《聖なる甘え》が好きです。そうすれば マイルドなものから徐々にスパイシーなものまでたくさんの種類の理論や意見に出会えてさらにまたブレンドして行けるかも知れません。


 宿題です。あなたは マリア型 それとも マルタ型?

投稿日時 - 2011-05-17 13:17:55

ANo.25

思考を外した→十分な検証をあえてせずに ということですかね。

ただ信じるという行為にも、いくつか種類があるように思います。
たとえば、スピーカーの中にたくさんの小人がいるわけではないと私は信じていますし、また地球のまわりを人工衛星が回っていることも、実際に見たわけでもないのに信じています。
しかし、それらを信じ込むのと、自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くことは、性質が大きく違います。
やはり前者については、まあスピーカーの例程度ならなんとかできますが、自分の力だけでは限界があることのように思います。そして自分の価値観の根拠に前者の「信じた」知識を置くことは、やはり後者とは質が異なるのだと思います。

投稿日時 - 2011-05-15 13:57:32

お礼

 じょいわーるどさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 結論から申すならば 今回も(高飛車な言い分になりますが) 経験事物についての経験思考にかんして 特殊に《信じる》という言葉を文学的に(つまり哲学的にではなく)あてはめる場合を いくつか分析して示しておられる。こう受け取ります。

 いちばんの違いは 
 ★(あ) 自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くこと
 ☆ というとき むしろこの表現の仕方のほうが《信じる》のことに触れて説明しているようにも受け取れるのですが でも微妙に違っていると考えられ そこにあると思います。
 つまり微妙に違うというときが いちばん違うということにもなります。
 すなわち

 1. じつは そもそもの初めに《信じる》という行為は――じつは――
 ★ 無根拠な虚構を置くこと
 ☆ なのです。じつはおおむね そうわたしは定義しています。その虚構を受け容れることだと。

 2. ところが その《フィクション》は げんみつに言えば 《無根拠〔なるナゾの何ものか〕》をわが心に受け容れたあと その混沌としたイメージのような世界から何らかのヒラメキを得て そこからさらにその中身を膨らませたものだとも考えます。

 3. 次の順序です。
  (α) 無根拠のナゾの何ものか(非経験)
 ⇒(β) これをわが心に――その無根拠そのものとして――受け容れる。
 ⇒(γ) そこでわが心には非思考の庭が成った。心の明けまたは伸び。
 ⇒(δ) 窓の明けられた心に 描像が得られる。観想。瞑想。ヒラメキ。
 ⇒(ε) このイメージから 言葉で表わす内容が得られる。預言。
 ⇒(ζ) ヒラメキ(観想・預言・イメージ)から 命題が得られる。

    たとえば アブラハムは 神からわが子をいけにえとして捧げよと
   命じられた。泣く泣く従って わが子をほふろうとしたそのとき や
   めなさいと言われた。
    これは ただの夢の中の話であり 幻想や妄想であるかも知れない。
   つまりは 混沌とした描像でしかないかも知れない。しかも子をほふる
   ということは ふつうの心ならしないものだと ヒラメキを得た。
    すなわち 《人は人をころさないものだ》という命題を得る。
    これを 《なんぢ ころすなかれ》という倫理規範(十戒)とするこ
   とが起きた。
    また ここにはアブラハムにとって或る種の《神についての物語》す
   なわち《虚構》が編まれていることになる。

 ⇒(η) このような命題から 人間の合理性にもとづく思考が始められる。
 
 4. 上の(η)から 経験思考においては 証拠を示したり論理をたどって証明したりするという《根拠》にもとづく推論が始められた。

 5. そこで
 ★(あ) 自分の価値観の根拠にあえて無根拠な虚構を置くこと
 ☆ ですが この命題は 次のふたつの部分に分けられると見ます。
 一方で《自分の価値観などなどの思考や思想についてそれをみちびいたところの根拠を示すこと》と 他方で《無根拠を受け容れること。およびその非思考の庭において 虚構を編むこと》であり これらは互いに 分けて捉えるべきものと考えます。

 6. むろん じつは 上の二つの事柄は 人間という存在においてつながっているとさえ言えると思いますが それでも基本としては 別である。つまり 《非思考の庭において無根拠を受け容れていること》と《経験思考において根拠をどこに置くかということ》とは やはり次元が違っており 別である。
 
 7. 早い話が 神を信じることと これこれのように生きるという思想(生活態度)とは――《わたし》という人間存在においてつながってはいますが―― やはり《非思考=信じる》と《思考=考える》とでは 隔たりがあると言わねばならないと考えます。

 8. おそらくその上で――つまり ふたつの事項は互いに隔たりがあると言った上で―― けっきょくわが人格としては 一体となっている。と見ることになるのではないか?

 ☆ スピーカーの中の小人や人工衛星が回っていることなどは 経験思考の扱う主題であると考えます。文学と科学とです。

投稿日時 - 2011-05-15 15:04:33

ANo.24

こんにちは、bragelonneさん。


無根拠ときますか?


そうきたならば、無根拠の大家としては耳が痛い(-_-;)uuu…

はい、「何の根拠もないけど」と、

しょっちゅう言い放ってます(TT)


たとえば… ココ↓とか… ♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆


【QNo.6397358継体ヲホドは雄略ワカタケルの子ではないか】
http://okwave.jp/qa/q6397358.html

投稿日時 - 2011-05-15 13:18:19

お礼

 りとるきすねえさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ところが ちぃーとばかし はなしはちがうんよ。

 歴史学にしても――つまりは この雄略ワカタケルの場合には 文献学や考古学や民俗学もしくは神話学 そして古代日本語に言語学 あるいは世界の古代史との比較対照などなどをひっくるめた歴史学にしても―― これは 経験科学でありやして 大いに経験思考をはたらかせてやってください。隅々にまで 推論をおよぼすのがよいでしょう。

 ただし 継体ヲホドなどの場合には それほど資料があるわけではありません。少ない資料から けっきょくは推論というより想像力をはたらせて推測するということにはなります。
 そして ときには そのように突拍子もない飛躍をして想像したほうが 学問としてもよく進展することがなきにしもあらずということがあるようです。


 つまり《信じる》の場合には 文字どおり・額面通り・掛け値無しに・寸分たがわず・まったくそのまま《根拠のない何か》を わが心に受け容れることを言うんよ。つまり 阿呆みたいになのら。
 ☆☆(趣旨説明欄) 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
 ☆ という定義でござぁーい。いかがでございましょうか? 



 すでに五月も半ばなりけり。

投稿日時 - 2011-05-15 14:06:27

ANo.23

無根拠なままに、または根拠があってもそれに対する十分有力な反論があるのに、あることが正しいと思い込むこと。―そういうことを「信じる」と言うのだと思います。
信じるというのは、思考を外した、心の弱さからくる行為というイメージです。

逆にちゃんと正しいとわかることは、「確信する」などと使い分けています。

投稿日時 - 2011-05-15 06:51:39

お礼

 じょいわーるどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 無根拠なままに、または根拠があってもそれに対する十分有力な反論があるのに、あることが正しいと思い込むこと。―そういうことを「信じる」と言うのだと思います。
 ☆ 《無根拠》を非思考において受け容れること このようにひとつの見解を質問者としては出しています。その《無根拠》という言葉としては重なるところがありますが 
 ★ 正しいと
 ☆ の部分で やはり異なっています。――とまづ申し上げます。
 つまり《正しいと 少しでも判断した》のであれば それは 思考を経ています。非思考ではなくなります。

 すなわちおっしゃっている事例は 《考えたこと》についてその妥当性を強く意識した結果 相手に向けてそのことを強調したいがために《思い込んだ》のだと見ます。
 したがって――確かにじっさいにそれを《信じる》という言葉で表わすことはあるようなのですが それは けっきょくその心つもりの強さを取り立てて伝えようとしているだけだと思われ したがって―― ふつうには《思い込み》のことでしょう。《鵜呑み》とも言いますね。


 ★ 信じるというのは、思考を外した、心の弱さからくる行為というイメージです。
 ☆ というふうに表わすならば たとえば
 ○ 思考をおこなっておくべきところをその《思考を外した》
 ☆ と言っているようですし。あるいは
 ○ 心のあり方がふつうであれば いちいちそうしなくてよいものを 強く意識しその思いをも強めて行くこと
 ☆ と言っているようです。つまりは すべては この経験世界のことがらについて――感じたり考えたりするところを さらに意識しようとしていることとして――取り上げている。こう捉えますが いかがでしょう?

 すなわち
 ★ 逆にちゃんと正しいとわかることは、「確信する」などと使い分けています。
 ☆ これも《信》という語が入っていますが やはり経験思考の問題であると思われます。その思考が筋道立てて考え尽くしてあるから 確かなものだと安心して思っている。こういうことの事例であるようです。

 もしこうだとしたら やはり《信じる》は これら経験思考に非ず という定義の仕方にもとづけば 違う内容であると考えますが いかがでしょう?


 

投稿日時 - 2011-05-15 08:19:18

ANo.22

ノビタくんは意味不明です。私も理解していません。ルックスの事とは思えません。ノビタくんは複数いるようですから。変哲がないって言う意味でしょうか?

投稿日時 - 2011-05-14 22:16:55

補足

 ★ その共通善と言うのは例えばどのようなものが挙げられるでしょうか?
 ☆ 想定するわけです。そこはかとない何かを。

 その善に逆らうときには・つまりウソ・イツワリを言うときには 顔を赤らめたりしどろもどろになったりするという体からの知らせも人びとに共通であるところから そこには共通善があるだろうと。あるはずだと。 
 つまりはけっきょく 生きること ということでしょうか。

 つまりは 社会として生きるというからには 共生になるのではないですか。


 * つまりは 理論としては 悪は存在しないという命題が来ます。あるのは生きることとしての善と その善をそこねることとが起きている。負の善を悪と呼ぶというのみです。
 つまり 悪は マイナスの善として現象しているけれども 悪という存在があるわけではない。
 善の傷の部分が 悪であり その損傷を起こす行為も悪であると。

投稿日時 - 2011-05-14 22:35:26

お礼

 ありがとうございます。

 感触としては どうもわたしの質問によろこんで回答を寄せてくださる方々を言うのではないかと思うのですが そのノビタくんは 複数いるのですか?
 同じ名前で 複数いるのですか? たしかドラえもんか何かのキャラクターですよね? ドラえもんと友だちだという意味でしょうか。と言っても ドラえもんが どういう存在か詳しくは分かりませんが。

 ま いいです。ありがとうございます。うっちゃっておきます。



 * 前身のななにすは 二度 反省したことがあるんですよ。ごめんなさいと。わたしに向かって。
 部分的に賢そうと見えたかも知れませんが 支離滅裂ですよ。

投稿日時 - 2011-05-14 22:25:14

ANo.20

基本的に賛同したわけではなく、ブラジュロンさんがそういう考えなのだと理解したと思っていただけると良いでしょう。ナナンニッセさんも変わった質問を立てたようですし、ちょっとそっちの方ものぞいてきます。

投稿日時 - 2011-05-14 21:03:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 判断保留として受け取ります。

投稿日時 - 2011-05-14 21:38:39

ANo.18

そうですね、気持ちはわかるのですが、。神に通じたという表現が、ちょっとマニアックと思われるならそうなのでしょう。実際、ブラジュロンさんのおっしゃっていることはかなり独特です。

 間違ったことでも一時の繁栄を見る、それは栄枯盛衰であり時代と共に移ろい行くのは世の常であり、大宗教といわれているものでもそれは例外ではありません。大多数の人がその流れにまさしく流されているのは然りと思います。しかしながら、何時どの人が、何をきっかけにして目覚めるかはわからないことであり、今ある間違いは全て改正するべきだ、個人の自立、個人の信仰を何人も確立すべきだ、と、言うのは、他の人の都合を見ていないことにもなります。しかも、ブラジュロンさんが間違いだと言っていることは、ある人々にとっては是正されるべきでない事柄である可能性も少なくなく、この件は、是正だ、いや現状が正しい、と、水掛け論にもなりかねません。

ですから、ブラジュロンさんが信仰の事についてお話になるときには、私の信仰には言葉は要らないのですよと、付け足せばそれで十分なのではないかとも思えます。
その方が簡潔であり分かりやすく、人にも伝わりやすいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-13 17:54:06

お礼

 ひかりなみさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 あなたのようにしっかりと考えを述べる回答を得るのは 久しぶりです。数人の方々がそうしてくださっています。そしてあとは・・・。

 ★ 今ある間違いは全て改正するべきだ、個人の自立、個人の信仰を何人も確立すべきだ、と、言うのは、他の人の都合を見ていないことにもなります。
 ☆ 《他の人の都合を見ていないことになる》 このような内容による理由は 哲学が知ったことではありません。
 じっさいには 知ったことなのですが けっきょく二段階があることになるでしょう。
 すなわち いまここでおこなっているように 純理論的に《信じる》の定義づけをして それにもとづき現実の諸問題についてもその処方箋を明らかにすることが 第一段階。そのあとには 実際に具体的にその言わば現場ごとにどう対処するか これに取り組む段階が来ます。
 この理論作業の段階で 人びとの都合を考えることは必要ないはずです。

 そんなことを言ったら 我が国で仏教を導入するというとき 神道派と殺し合いになりました。つまり廃仏派は殺してでも仏教を導入するのだという歴史もありました。
 理論を立てたあと どうなるかわたしは知りませんが もしそうなら そのような過去の歴史のツケが回って来た ただそれだけのことではないでしょうか? つまり 自分たちはわるいことをおこなって来たのです。
 ローマ教会にしても 同じような歴史のツケが回って来ているでしょう。ガリレオさん ごめんなさい 魔女のみなさん たいへん申し訳ありませんでしたで済むことなのかどうか。

 ★ しかも、ブラジュロンさんが間違いだと言っていることは、ある人々にとっては是正されるべきでない事柄である可能性も少なくなく、この件は、是正だ、いや現状が正しい、と、水掛け論にもなりかねません。
 ☆ そんなことは いま――このいま―― 互いに対話をつうじて明らかにしていくことです。なんで初めにどちらかに決めておかねばならないのでしょう?


 ★ ~~~
 ですから、ブラジュロンさんが信仰の事についてお話になるときには、私の信仰には言葉は要らないのですよと、付け足せばそれで十分なのではないかとも思えます。
 その方が簡潔であり分かりやすく、人にも伝わりやすいのではないでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ 物分かりのよい若いお方ですね。
 それは ひとつに敗北主義です。ひとつに 事なかれ主義です。ひとつに馬鹿です。つまり おのれのタコツボに閉じこもるという意味における阿呆です。ほかには もうないかなぁ。



 おそらく いまの《宗教頼み》の心性において 復興とあたらしい社会の建設を目指しても たいしたことは出来ないのではないか。新新新新興宗教がもうけるのが 関の山ではないか。

 菅政権をこれだけぼろくそにこきおろしているその舌の根も乾いていないと思われる現在 この宗教による良心・信教の自由の侵害にかんするうたがいについて何も言わない・何も明らかにしようとしない なんてのは いったいどういう魂胆だい とお尋ねしなければなりませんよ。

投稿日時 - 2011-05-13 20:03:57

ANo.16

言葉と言うものには汎用性が必要であると思います。その言葉のもつ意味の深浅はあってもよいのですが。
言葉を厳密に用いることは良いことなのでしょうが、それが自分語に置き換わってしまっていては、共有することが難しくなります。むしろ、信じるという言葉の意味は通常のままでよいのであり、ブラジュロンさんの信じるという意味を、別の言葉に置き換えた方が便利が良いのではないかと思います。非思考の庭だとか、独特の言い回しをされていますし。神と通じた などという表現は如何でしょうか。信じるというのはあまりにも一般化されていて、ブラジュロンさん専用の言葉にするのは難しいと想います。何か別の良い表現があるのではないかと思いますが、如何でしょうか。

投稿日時 - 2011-05-13 15:03:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 神と通じた などという表現は如何でしょうか。
 ☆ これはわたしが《神とのつながり》といった表現を使いましたので それを咎めているのではなく そうではなく 《信じる》を《神と通じた》というふうに表現しなおすとよいのではないかという意味ですか?

 それは ちょっとマニアックではないですか?

 えっとですね。口はばったいことですが それでも言いますが あたらしい用語もしくはあたらしい考えは とうぜんまだ浸透していない段階では 通りがわるいです。わかりづらいなぁという感じで受け取られることが多いと思います。
 ですが いまの慣用がまちがっています。と申し上げています。必ず変わると《信じて》います。つまりこの言い回しは 非経験と向き合っての非思考の行為ではなく ただそのように思っているということを強調して言ったまでのもので いまでもそのように使われています。

 つまり 《信じる》についてげんみつに定義した内容とその使用 そして慣用表現とがある。
 けれども 信仰一般やあるいは――その現象や営みじたいに問題があると思われるところの――宗教についての表現では 慣用表現を使うことはあり得ません。すなわち一例として 《考えるの対象であるオシエを〈信じる〉》という言い方は あり得ません。専門としてげんみつに用いるべきです。

 要するに 誤用表現をただしましょうということを含みます。
 あるいは 組織宗教は 良心・信教の自由を侵すうたがいがある。ここまでをも含みます。違法行為のうたがいがあることについて その表現をあいまいなままにしておくことは 哲学はゆるしません。
 ★ むしろ、信じるという言葉の意味は通常のままでよいのであり、ブラジュロンさんの信じるという意味を、別の言葉に置き換えた方が便利が良いのではないかと思います。
 ☆ 真逆だと考えます。
 いまの宗教の《繁栄》につごうのよい使い方をしているだけです。
 ★ それが自分語に置き換わってしまっていては、共有することが難しくなります。
 ☆ 《共有している》一般の人びとも 同罪であるうたがいがかけられます。組織宗教のほうが《自分語に置き換えてしまっている》のです。わづかに結社の自由で守られているのみです。
 けれども 《おまえは これこれのオシエを信じよ》という呼びかけは 人間ならしないでしょう。しても無効ですが 一たんその組織に入ったなら 今度はその信仰の度合いに応じた身分関係のような上下関係によって 信仰という個人の自由の領域を侵されるおそれがある。こう言わなければならない。この点についても 問うています。

 信じるは 個人のこと。これは はっきりしているのです。
 どうでしょう?

投稿日時 - 2011-05-13 17:02:00

ANo.15

なるほど以前よりよくわかりました。精神における、ある種の宗教的体験があって、信仰を持つようになったということですね。
信じるというのは、何かに自分を預けるということでもあるでしょう。それが神であるのか、人であるのか、理想や学問であるのか、徳や愛であるのかを問わず。

という事で、信じるとは、何かに自分自身を預ける行為である、と言うのはどうでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-12 21:15:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 精神における、ある種の宗教的体験があって、信仰を持つようになったということですね。
 ☆ 言葉の問題 表現だけの問題ですが この際 げんみつにまいります。
 1. 《精神》は 人間の自然本性における能力です。経験事象です。
 非思考の庭で起きたことを 精神としても受けとめているであろうと言われても そうだとすれば それは精神だけではなく 身も心もであり 身体においても・というよりは 精神=身体 において体験があったということになります。
 ですから ことさら《精神における》というのは どこか違うと思います。

 2. 《宗教》というのは ただの経験思考です。
 反合理性をも一緒くたにした経験世界のことがらです。
 つまり 個人が その心の庭に神のおとづれを迎えてこれを受け容れ 非思考の場が動態として始まる。その信仰の動態において得られた観想(テオーリア)を 人間の言葉に翻訳して表わしたものが理論(テオリ)やら倫理などの思想です。
 さらにこれらを オシエとして――わざわざオシエとして――しかも集団となってつくったその組織にとっての教義とする。これが宗教です。
 宗教は 信仰の搾りかすです。さらにしかも その組織の権限関係にもとづいて 上の者が下の者に対してその信仰の度合いをうんぬんし(成っていないと審判し) おまけにそのあり方を左右するほどにオシエを強要する。ここには 良心・信教の自由を侵しているおそれがあると考えます。
 組織宗教は 個人の信仰の自殺行為である。これを見ます。

 ★ 信じるというのは、何かに自分を預けるということでもあるでしょう。それが神であるのか、人であるのか、理想や学問であるのか、徳や愛であるのかを問わず。
 ☆ 神は 非経験であり非対象です。ナゾです。そのほかの人・理想・学問・徳・愛は いづれにしても経験事物です。《自分を預ける》と言っても これらふた組に分かれたその区分においては おのづから違いがあると考えます。《信じる》と《考える》とに分かれているはずです。

 ★ という事で、信じるとは、何かに自分自身を預ける行為である、と言うのはどうでしょうか。
 ☆ 経験事物に《おのれを預ける》と言えるとすれば それは (1) 《信じる》とは別なのだが 信じるの場合の身をゆだねることに似ているところを取って来て あたかも同じようだと強調して言うためである。
 (2) あたかも一心不乱に邁進する場合を あたかも信じるにおいて身をゆだねることにたとえている。
 (3) 身をゆだねているのは あくまで信じるという側面においてであり しかもその信仰の動態において おのれの人生にとってのしごとが決まっていて そのしごとにやはり一生をささげるというような場合を言っている。

 いづれにしても 身をゆだねるのは 神に対してであり 信じるという場合に限られます。厳密に言えば。

 蛇足もしくは余分を添えますと 《身をゆだねる》ことが出来るのは それも 人間が自分からするのではなく そうすることが出来るようにその力が与えられる。と考えます。そうでないと 信仰の動態としておのれのしごとに身をゆだねるのと たとえば学問に身をささげる場合でしかも信仰の動態にはかかわりがないというのとが区別できなくなります。区別はあるはずです。
 もし後者すなわち学問に一生をささげる場合でしかもその人が無神論であったという場合 このときには 無神論もけっきょく有神論と同じかたちで 人生におけるおのれのしごととしての自覚があったということだと考えます。その場合は 区別する必要はなくなります。
 こまかいことでした。
 

投稿日時 - 2011-05-13 00:42:21

ANo.13

ブラジュロンさんを説得したいわけではないのですが、理解しようとはしています。
ブラジュロンさんは何を信じておられるのですか?また、何故それを信じておられるのでしょうか?
以上二点、よろしくお願いします。ぼちぼち行きましょう。

私は、信じるとは、何かを目指して歩いていることであると思いました。平たく言えば、ですが。その何かが、超越的なことなのか、それとも人生を通じて体験しうることなのか、その違いは、この定義にはあまり関係ありません。

投稿日時 - 2011-05-12 17:55:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 私は、信じるとは、何かを目指して歩いていることであると思いました。平たく言えば、ですが。
 ☆ おそらく一方で《信じる》その対象――じつは 非経験であるゆえに 非対象――は そのまま時空間を超えている何かであるでしょう。つまり 目指すべき何かとして表象しうるものとは思えません。
 たしかにそれでも何とかしてそれをイメージにでも表わそうということに努めはしますが。つまりたとえば

  ○ 真理がすべてにおいてすべてである状態ないし境地

 といったふうに表わされてもいます。でもことさらこれを目指すべき目標地点として推し出さないのは じつはすでにその境地の種は生まれつきの身と心にやどっていると思っているからです。
 日本人は 仏性という言い方にはなじみがあると思われます。それと同じように 神の霊がわが身と心に宿るとじつは思っています。そのちからが はたらくのは 必ずしもわたしないし人間の努力によってなのではないと思ってもいるからです。

 他方で《信じる》がその対象は不確かだと言っても その信仰の動態には わが人生としての何らかの目指すことがあるのではないか? それは あります。けっきょく職業であり もっとゆるやかに広く捉えて人生における仕事なのでしょう。
 それは たとえばわたしにとっては 組織宗教が解体されることです。人びとがそれぞれ主体的にあゆむことができるようになることです。

 これら両側面があるかとは思います。

 さて
 ★ ブラジュロンさんは何を信じておられるのですか? また、何故それを信じておられるのでしょうか?
 ☆ わたしの信じるのは キリスト・イエスの神です。アウグスティヌスをつうじて知りました。ことさらこれを言うのは その前に聖書や解説書を読んでもピンと来なかったからです。
 何故信じるか? アウグスティヌスを読んで――おもに『三位一体論』ですが―― これは信じることができると思ったことが まづ初めのことです。では どうすれば信じるようになるのか? と思ったとき けっきょく信じるとは どういうことか? という主題に行き着きました。この質問と同じです。
 あれこれ考えたり その思いや考えを寝かしておいたりして かれこれ数カ月が経ったとき 或る日或る時 あれっ おれはこの聖書の神を信じているではないか。ということに気づきました。
 何故信じるのか? 信じられるものがやっとあったと思ったところからでしょう。

 でも言いかえると この非思考の庭がわが心に成ったという信仰の成立は その信仰があたえられたのだと思っています。何故信じるのかは したがって分かりません。その与えられたものを取るか捨てるか ふたつにひとつだったということです。
 その信仰という動態が いったいどういうことかと思って考えつづけたのが 二・三年。その後 五年目ごろから この非思考のあって無きがごとくの状態ないし境地が 確立し始めた。

 さらにその後は 炉心の溶融を起こさずに燃え続けているものですから その火の明るく照らすその先へとあゆみ入って進まざるをえない。垂直壁が立ちはだかった場合にも それをくぐり抜けて広い野原に出てしまうという経験がつづけば それに従わざるを得ません。そうではないでしょうか?

 目に見える具体的なこととしては
 【Q:アマテラス公民の世は終わらせるがはどうですろうか】
 このようなインタムライズムなる未来社会を目指しています。

 全部が 内面においては 信仰の動態であり 外に向けては 社会的交通におけるわが自己表現のやはり動態です。すべてが すでに発電されつづけているその力――これをあれそれだと言って指し示すことは出来ないので 聖霊と言っていますが――にみちびかれてあゆんでいます。

 答えになっていましょうか。

投稿日時 - 2011-05-12 18:51:10

結局自己の体験としては
愛の成就を見たことがある
愛憎はわかっている
としかのべてませんね。

はっはっは ちょとつ様に はっきり負けてますよww

貴方の姿は愛が成就していない姿です。ちょとつ様が羨ましくて仕方がないwww

何事もかなっていない よう で残念です。
「わかるかわからないかわからない」ということ以外に、何か主張するべきことがあるなら答えなさい。
(本棚だけは分厚いが、それは貴方自身ではないのですよwww 何事にも薄っぺらのおじじは反省するべきです。)

さて哲学に帰ります。

質問者様の議論を整理いたしますと>

>愛には二通りアル。
>普通の愛 と無根拠の愛である。
>無根拠とは、俺にもわからないが、お前にもわからないものであると定義する。

>つまり、無根拠の愛はお前にはわからない。
>おは見たことか、お前にもわからない愛がアル。

何とかを超えた というのも 同じ意味合いで使っていらっしゃるようですが・・・

>お前がなんと言おうと言葉を放った時点で無根拠の世界のことではない。

でも自分の言葉には価値があるていうwww 
しょっちゅうわからない と いいながら わかっているという(脚注:覚書として記載www)

神徳も同様に「本当の」とか「絶対の」とか言い方を変えて表現していますが、
「オレ様の」と同値です。

話の基本は要するに「オレの神とお前の神は違う」「教会の説く『徳』ハちょろい」
「新しさでは俺に負ける」「悔しかったら領収書を気って解散しろwww」とかいっているだけです。

貴方が「新しい」「わかっている」と称する事象=その具体的な内容は、

「わかるかわからないか、わからない」というテクスチャ(ごにょごにょ)です。

新しい世界は、新しいオレ様の哲学の世界。
おれはあたらしい。お前は俺の言っていることがわからない。
(定義上「お前にはわからないことがある」と仮定したからあたりまえだろwww)

モダリィティという観点から言うと可能性という範囲の事象でしかなく、
はかのとこで使っていらっしゃるように
>>「どんな経験的なことがらに向き合うというときにも 人間には非経験のナゾが無関係になっているとは言えない。」
といっているだけ。

いいかえれば
全ての事象・ありとあらゆる事柄に可能性として非経験のナゾが関わっている可能性があるといちゃもんをつけているだけです。
可能性とつけると議論としてみっともないし主張が弱くなるので、つけない。
可能性は認めろということで、ただ認めてほしいだけです。

質問者様にひきつけた実例として、たとえば英会話の話。
オレ様は今英会話が出来ないかもしれないが、これから変わるかもしれない。
これからオレ様の願いが成就して大逆転。可能性は認めろ!
自分が何歳かもう一度考えてみて子供じみたことはゆわないように心がけなさい。

このチョコパフェにはゴキブリのエッセンスが入っている「かもしれない」!
でも鳩山とかんは信じるていうwww(おざわでもいいけどねwww)

飛行機のひゆに戻ると
飛行機を見たことがある。乗ったのも同じことだ。搭乗券も買ったことがあったかもしれない。というようなことです。

自己の主張として
でも飛行機に似た新しい乗り物がある。本当の飛行機である。信仰の問題であり新しいオレ様は、
預言者として迫害されながらも、本当の飛行機に関して覚書を書き綴っている。こころしてよめ!
と続けるwww

なんだそれぇぇwww

こういう論理展開は民を「し」に追いやる似非民主主義の論理です。「し」も「しあわせ」のうちというわけです。
おまえらにお灸をすえてやるという傲慢です。
ごろつきの批評=陰謀論です。

--------------------------
結論 ちょとつにまけてる kusukusu

投稿日時 - 2011-05-12 14:45:28

お礼

 《信じる》ということばを あんたも使っている。誰もが使っている。
 なら それを定義してみなさい。

 問いは これだけだ。

 ★☆ 「わかるかわからないか、わからない」
 ☆ とはっきり分かっていると知らなければいけない。わが心に非思考の庭が成ったかどうかで その現実性についての把握に薄い濃い 浅い深いがある。


 ちょとつったあ だれだ。人間か?

投稿日時 - 2011-05-12 15:14:16

いろいろと難しそうですが、無根拠について話そうと思います。
果たして本当に無根拠なのかという事です。人が何かをしたいという願望を持つとき、その願望は無根拠に起こるのかと言う点を究明したいと思います。
願望のもとには、逆に、△△には成りたくないという恐れや否定的な感覚があって、その反作用として○○をしたいとか、○○に成りたいとかがあるかもしれません。あるいは、気質と言うものが願望の根拠になっているかもしれませんし、。このままであると、信じるという行為が無根拠であるというところの説得的な根拠が乏しいのではないかと思うのです。
自分の夢見た世界が素晴らしいためにそれを信じるとか、あるいは実際に目の前にした出来事に心打たれてとか、その場合、何故それが素晴らしいのか、何故心を打たれたのか、といった根拠があるはずだと思います。いわば、『信じるのはなぜか』と言うところです。

話が多岐に及んでいますので、この点にフォーカスさせていただきましたが、如何でしょうか。

投稿日時 - 2011-05-12 13:03:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 荒らしに似た投稿の中に挟まれていて 見失っていました。

 ★ 自分の夢見た世界が素晴らしいためにそれを信じるとか、
 ☆ 《その夢見た世界》は 《素晴らしい》と分かるのなら そこで象(かたち)に表わされていますね その目指したいと思う何かは。なら 経験世界のものごとに属します。これについては 考えるのであって 信じるとは言いません。

 ★ あるいは実際に目の前にした出来事に心打たれてとか、
 ☆ 同じく表象し得ているものごとですから 信じるの対象にはなり得ません。

 ★ その場合、何故それが素晴らしいのか、何故心を打たれたのか、といった根拠があるはずだと思います。
 ☆ もちろんありましょう。表象し得ているからには その表象を言葉に換えて 思考するはずです。思考の内容もしくは結果として 根拠となるものがあるはずです。

 ★ いわば、『信じるのはなぜか』と言うところです。
 ☆ そういう角度から見て行くのもよいですかね。《ただ信じたい》に行き着くかも分かりませんけれど。

 ★ 話が多岐に及んでいますので、この点にフォーカスさせていただきましたが、如何でしょうか。
 ☆ ここまでは以上のようにまだ説得されませんでした。さらにどうぞ ご投稿をつづけてくださいませ。

投稿日時 - 2011-05-12 16:28:28

うあ やっパリ反論できないんだwww

「いや なにをいわれても 俺様の思っている『信じる』とは違う」
というコメントしか逃げ道がないというのは、悲しいことですね。

愛のある人・徳のある人はいるもので、その人を信じるとはいえる。

さらに言葉が使われることで独自のダイナミズムが生まれるのであって
質問者様の想像と言語の現実というのは、2つの異なるものです。

あなたは、人と違って、信の対象を実感できないというだけのことです。

ほかの人からの批判もありますが
質問者様の主張=「愛・徳は、考えるもので、非経験のものを信じるなんて錯乱である」というのは、理にかなっていませんよ。信とは人と言葉をつなごうとするコミュニケーション行為です。
一番の問題は、「質問者様に あい も徳もない」ということだけで
ほかの人はちゃんとわかっています。

愛という概念がわからないから、
それをみてすぐ「愛憎」に書き換えたがる人には、理解しがたいかもしれませんがねwww

愛と愛憎はちがいます。

チョコパフェに自分でゴキブリを入れてから、「パフェとは食べられないものであるといっているようなものです。

愛が「チョコパフェ」でゴキブリが「憎」

こんだけいっても小僧にはわからないんだろうけど・・・

あなたには、神も徳も愛もないので、同じようなものと思わざるえをえず、
さらに決め付けで愛と徳は神から来ていると思い込み、すべてが存在しないものだと自分に言い聞かせているだけです。

「愛の人」といったばあい、愛はその人の中にあります。
「徳の人」といった場合もそうですが、どちらも、その振る舞いに内に秘める力がみなぎっているものです。

そういう人にめぐり合ったときのあなたの行動が手に取るようにわかります。
カップルを見たら「嫉妬」・えらひひとがきたら、「たいしたことない」と逃げ腰になるwww

勇気も何もない人www

愛は絵に描いたもちだwwwと
叫ぶあなたの姿は不憫な姿です・・・

とりあえずはじめて見なさい。「今よりはずれ」という状態は、ないはずです。

逃げてばかりいないで
悔しければみんなが納得する反論をして見なさい。
「あなたの人生のなかで具体的に」愛憎ではない愛=憎しみとはかけ離れたところの愛
欲求不満の補償としての「合理化」ではない
行動としての愛があったというのでしょうか?

愛がなかったので、「あい」について妄想してたとしか考えられないので聞いています。

投稿日時 - 2011-05-12 02:56:05

お礼

 多少とも目を見張る愛の行為が 人間の成すところとして かなった場合がありましょう。
 人間に分かったなら その内容は人間の範囲を出ません。
 
 そう言った上で言うのですが 愛は時として実現することがあります。 
 憎むという行為においてさえ わが心がやわらがしめられたという経験はあり得ます。その行為が 自分のものであれ相手のものであれ 第三者の行為であれ。
 それが 《考える》を超えた《信じる》の世界であたえられる経験です。

 しかも それはつねに まぼろしではないかという――反面における――きよらかなおそれが 《信じる》にはあります。
 多少とも目を見張る愛の行為では なかなかそこまでのまぼろしは見られないでしょう。もうそれでじゅうぶんだと安心し納得が行ってしまうのでしょうか。

 そうでなければ 
 ★ ~~~
 愛は絵に描いたもちだwwwと
 叫ぶあなたの姿は不憫な姿です・・・
 ~~~~~ 
 ☆ という高ぶりの声は出て来ないでしょう。

 あなたには分からないあたらしい世界が 人間にはあるのですよ。

投稿日時 - 2011-05-12 06:59:57

何かを目指して歩いているということ、ではないでしょうか。

1.信じているから考えるということもあるのではないか。
 
2.反合理性を人間の境地で引き受け筒と言う部分は思考ではないのではないだろうか。そう決めたという自分がいることから、判断が近いかもしれないが、決心と言うとずいぶん大仰な気がします。

3.信じることは賭けだろうか?信じることは100%の勝利に似ている。しかも無料でできる。喩えば世界最速を目指す男がいたとします。彼は信じているはずです。世界最速になるのだと。でも実際は世界で100番目くらいに終わったとしましょう。彼の信じるは破れたことになります。自分より速い奴がたくさんいたという事実に破れるのです。一方で、何かを目指して歩いているということの何かが、信じるに値することだったとしましょう。それが何であるかを言い切るのは難しいですが、心に定めた目標があるとします。喩えば、人はどの人も老いたり病んだり、あるいは他の原因で死にますが、死に際にあってもしあわせでありつづけた人があるとしましょう。彼は何に勝利したのでしょうか。人生に勝利したといえるのだと私は思います。終わらない旅が薦められるのではありません。求めは応じによって必ず終わるので、歩みは到達によって終わるので、薦められるのだと私は思います。

4.これは質問者のもつ信じるのイメージであると思います。人によっては他のイメージを持つ人もいるでしょう。私の印象では、それは確かなもの、です。

5.信じるということは無根拠ではないと思います。そうしたい、という動機があるはずとおもいます。目的地のある人は、その目的地に行きたい、と思ったのでしょうし、○○したい、という気持ちが根拠にあるはずです。それが○○の部分が普遍的であればあるほど、その歩みが確かになってくるのではないでしょうか。

6.かみという言葉は、なんにでも置き換えられるジョーカーのようなカードに似ていると思います。ここではかみを島と言う言葉に置き換えたとします。海は広いですから、遠くにある陸地は見えません。しかし、漂流物や鳥などを観察して、人は遠くに、自分の居る場所以外にも陸地があることを察知します。いわば神からの手紙を得て、かみを目指そうと思えるわけです。その手紙が啓示なのか、伝道なのか、詩なのか、それとも自分の望みなのか、いろいろ置き換えられると思います。それを読んで、この世に神はあるはずだと思った人のうち、さらに神を目指したいと思った人が、かみを目指すのだと思います。
 私の場合は、自分が相望んでいるから、目指すのだということになります。いわば自分からの手紙があるということになります。内的な広がりを自覚して(あるいは想定して)、ということになります。あるひとからみればただの想像に過ぎないと見ることもできるでしょうが、人によってはそれは理想だと見る人もあるでしょう。空想だと思われることもできるでしょう。ただ、自分が相歩きたいと思ったら、そのときに信じるは始まっているのだと思います。

7.人の内面に関わることなので、その自由が自他共に認められているのではないかと思います。

8.そうかもしれません。

9.どのような形で何を受け取るかは自由であると思います。そのような人々があるというだけで輩と呼んでよいのでしょうか。

10.私は、究極は形になって現れると考えています。思考にも究極があって、成らない間は思考できないかもしれないが、成ったときには究極の思考と言ってよいと思います。チャンピオンが、自らの記録を更新するようなものです。

11.そんなことはない。そういった教えを信じて実践している人も沢山いる。しかもそれによって何かが閉ざされるということもないと思う。

12そうかもしれないが、ただ素直に聞いて実践して成功する人もいる。それが究極であるかないかはさておいて。

13.こういう結論にたどり着くことがよくわかりません。

14.誰によっても制限されえないのが信じるということであり、それは個人とか組織とかを超えたものであると思います。

15.弱いから関係を持つというわけではなく、関係を持つものだから、強いとか弱いとかが後付で出てくるのではないかとも思う。強弱は関係を持つということの本質には当たらないと思います。

16.いろんな仕事があるし、冠婚葬祭だって広く認められています。他の人の事はさておいて、自分の歩みに精励するのが筋ではないでしょうか。

信じるということは素晴らしいことだと思います。しかしだまされるようでは道は遠い。自分自身を信じて道を歩くべきだと私は思っています。それが抽象的なのか、具象であるのか、そういうことは事の本質ではないでしょう。

質問者が迷っているのは、かみがあるかどうかわからないから迷っているのだと思いました。しかし目標とするものが自身の内奥から涌出されたものならば、あるいは身近な友人などから示されたことならば、それを信じて歩いてみても良いのではないかと思えます。信じるということは勇気がいることだと思います。ましで自分自身を信じるということは、本当に勇気のいることだと思うのです。究極の存在、かみなどを想定して歩くのは比較的まだ楽だと思います。しかし現実、掛け値なしの自分自身によって歩くということは難しいのだと思います。ましてそれによって究極を目指そうというのは途方もない話のようにも思われます。だけれどそれが、○○であるならば信じられる、その○○が大事なのではないでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-11 23:32:05

お礼

 ひかりなみさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 項目ごとにお応えしていまいります。
 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。
 ★ 1.信じているから考えるということもあるのではないか。
 ☆ それはたぶん《信じる》を始めたあとのことではないかと考えます。それは とうぜんです。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。
 ★ 2.反合理性を人間の境地で引き受けつつと言う部分は思考ではないのではないだろうか。そう決めたという自分がいることから、判断が近いかもしれないが、決心と言うとずいぶん大仰な気がします。
 ☆ すべては 思考しその結果――選択肢があればさらに取捨選択して――判断をくだします。反合理性については 合理性に反していると認識したあと それが現実に――無効のうちにでも――おこなわれていたとすれば その限りで わが境地もしくは人格のあり方としていちおう引き受ける。のだと思います。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。
 ★ 喩えば世界最速を目指す男がいたとします。彼は信じているはずです。世界最速になるのだと。
 ☆ おそらくそういうふうに《信じる》を使うなら それは 走るという経験的なことがらについてはその目標を目指し達成するのだという心つもりを強く持つと自分に言い聞かせていることです。その強調のために《信じる》を当てている。
 ただ どんな経験的なことがらに向き合うというときにも 人間には非経験のナゾが無関係になっているとは言えない。言いかえると わが心にはそのナゾの何ものかを受け容れたという非思考の庭が成っている。ですから 一方で走るという経験事象と他方でそれをめぐるいわば《無根拠の庭の景色》なる非経験とのかかわりとが つねに起きている。とは考えます。
 無根拠にもとづきおのれの文体を その非思考ゆえに発進させるという側面も 人間にはあるはずです。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。
 ★ 4.これは質問者のもつ信じるのイメージであると思います。人によっては他のイメージを持つ人もいるでしょう。私の印象では、それは確かなもの、です。
 ☆ 《他のイメージ》があり得ましょうが 《確かなもの》というのは おそらく語弊があるのではないでしょうか。なぜなら 信仰は非思考ゆえに《確かなものではないゆえに 確かなものとして与えられたと分かって来る》のだと思いますから。
 でも それでも人によって イメージも分かれているかも知れませんし そのあり方も ひょっとして 違うかも分かりません。

 ★ 5.信じるということは無根拠ではないと思います。そうしたい、という動機があるはずとおもいます。
 ☆ なぜ《そうしたい》のか? それは《無根拠》ゆえに起きるのではありませんか? 動機はそれが持たれたなら それとしてはっきりしているはずですが。

 ★ 6. 私の場合は、自分が相望んでいるから、目指すのだということになります。・・・ただ、自分が相歩きたいと思ったら、そのときに信じるは始まっているのだと思います。
 ☆ このことのわたしの受け取りとしては その意志の始まりやその動きについて煮詰めて捉えようとするなら それは 無根拠だったと思われませんか? になります。
 そのあと 世界のあらゆることが 神からの手紙でありうるという見方が得られるのだと。

 7&8について同じ見解と受け取ります。

 9&10は 非経験にかかわる非思考としての信仰およびそこからの観想と そのほかには それが言葉にして表わされたからと言ってそれをオシエとするなら それはすでに《信じる》対象ではなくなっている。ということを言おうとしているものです。その区別です。
 言いかえると オシエは 信じるの対象ではなく 考えるものであるのだと。往々にして・というよりはつねに 組織宗教になればこのオシエが 信じなければならないことがらになってしまう。という批判をしています。

 ★ 11.そんなことはない。そういった教えを信じて実践している人も沢山いる。しかもそれによって何かが閉ざされるということもないと思う。
 ☆ この現象について 批判しています。《教えを信じる》ということは あり得ません。言葉として矛盾しています。《強く気持ちを持つ》といった強調でこの《信じる》を使っているわけではないとしたらですし この場合には強調としての使い方をつつしむべきです。《信じる》自由が オシエを思いの中に持てという強要によって侵されます。これは ただの政治行為です。あしき政治行為です。社会力学上の行為だという意味です。

 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。
 ★ 13.こういう結論にたどり着くことがよくわかりません。
 ☆ 信仰の徒が集団を成すのは 極端に悪くいえば 撞球が 社会力学上の力に撞かれて右往左往するすがたです。つまりその信仰は信仰ではないと結論づけられましょう。信じていないからです。ただ考えて行動しているだけだからです。なぜなら
 ★ 14.誰によっても制限されえないのが信じるということであり、それは個人とか組織とかを超えたものであると思います。
 ☆ ということからです。

 ★ 15.・・・〔心の〕強弱は関係を持つということの本質には当たらないと思います。
 ☆ ならばなおさら 群れることはないと考えます。信仰の徒に宗教組織は要らないと。

 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
 ★ 16.いろんな仕事があるし、冠婚葬祭だって広く認められています。他の人の事はさておいて、自分の歩みに精励するのが筋ではないでしょうか。
 ☆ 冠婚葬祭が 信じるとはいっさいかかわりがないのであれば それはふつうの職業であり事業です。葬祭の側面で問題は起こるでしょうね。したがってこの葬祭の行事も おのおのが自由に自主的におこなうか それとも見えざる教会(宗教とはいっさい関係のないエクレシア)としての自治体が公共の仕事として信仰の種類に関係なくおこなえばよいと考えます。

 以上のようにお応えします。どうでしょうか?

投稿日時 - 2011-05-12 12:08:26

ANo.5

キリスト教のような宗教において信じるという
ことは
「存在の絶対的肯定」
である、と定義できるのではないでしょうか。

理性で考えれば、あのような宗教は矛盾だらけです。
しかし、それでも肯定するのです。
しかも、その肯定は絶対的です。
絶対的ということは、相対的でない、という
ことであり例外などは認められません。

人間の脳には、二つの側面があります。
一つは、情を司る面であり、もう一つは理を
司る面です。
信じる、ということは情の面の問題です。
理とは次元を異にするのです。
従って、ここでは理は、後付であり、営業の道具に過ぎません。
理論による矛盾追及も意味を持ちません。

投稿日時 - 2011-05-11 17:38:26

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まだ満足しません。
 ★ 「存在の絶対的肯定」
 ☆ というひとつの側面での説明は うなづくところがありますが おそらくそれは結果として伴なわれるひとつの側面であるのではないでしょうか?
 つまりは 《信じた》結果として そのような存在と知性および情感のあり方が帰結されるのだと。

 なぜなら そのような絶対的肯定は 《肯定する》というのも知性による思考および判断としての経験行為ですし 《絶対的である》ことは 《絶対》そのものではないと初めから分かっていると思われるからです。どうでしょう?
 つまりは 《信じる》とはどういう行為か? になりましょう。

 また ある程度は趣旨説明に書いたと思うのですが
 ★ キリスト教のような宗教
 ☆ この宗教というのが やっかいです。そこには オシエがあります。オシエは言葉で表わされています。つまりその内容は 経験合理性にもとづいて表現されたもので あくまで《考える》の対象です。《信じる》とは何のかかわりもありません。考えるものを信じたら それはただの思い込みでしかありません。あるいは 精神の錯乱です。

 すなわちそのようなオシエをめぐるところのご考察には ついて行けません。
 ★ ~~~~~
 理性で考えれば、あのような宗教は矛盾だらけです。
 しかし、それでも肯定するのです。
 しかも、その肯定は絶対的です。
 ~~~~~~~
 ☆ この場合の《肯定する》というのも けっきょく《理性》で考え判断しているということです。経験合理性から見て《矛盾だらけ》のものをも《肯定する》とはどういうことでしょう? それも《絶対的に》というのは?
 
 これは 《信じる》の一般性を持った定義ではありませんね。キリスト教批判としてなら まだしもです。

 ★ 信じる、ということは情の面の問題です。
 ☆ これも納得が行きません。反対します。《情》は 経験事象です。感情ないし情感として知覚したことがら これについてもその知覚を認識に換えて人はやはり《考える》のです。《信じる》は 《考える》ことではありません。考えることで何らかの判断が得られたなら それをわざわざ《信じる》ことはありません。

 言葉は 不思議なもので 誰々さんは そんな犯罪を犯すような人ではありません。わたしは信じています。などというふうに《信じる》を使ったりしますが これらはあくまで強めようとするための方便です。確実性を訴えようとしているだけの使い方です。つまりそう考えているしまたそう感じていると言っているだけです。

 ですから 《信じる》は この経験世界にあってよほど特別のことが想定された上で その何ものかについてそのように無根拠であっても受け容れる こういった行為であるように考えます。いかがでしょう?

 つまりは 理性とも感性とも次元を異にした場が想定されているようなのです。

投稿日時 - 2011-05-11 21:26:33

質問者様に
 徳と愛の経験がないとお察しします。

信じるというのはそういうニトにも、
「愛と徳」という希望を与えることが出来るのです。

ほら
愛と徳は経験だろ!
とふざけるのは自由ですが、領収書中毒の貴方には、その経験がないということを見過ごしているようです。

飛行機にのったことのない人に飛行機の説明を「言葉を通じて」おこなっても意味がありません。

経験したことのない人にその経験を説明しろといわれれば、
話者と聞き手の立場が違うというのは、普通です。

教えてもらっているのだからまじめに考えなさい。

愛と徳は経験ではないが存在している。
日常生活が哲学であるというのなら「信じるということが日常」というのも受け入れるべきである
といえます。

投稿日時 - 2011-05-11 14:45:41

お礼

 回答者様に

 ★ 愛と徳は経験ではないが存在している。
 ☆ それを 示してください。そしてその前にまづは 次を定義してください。

 ★ 日常生活が哲学であるというのなら「信じるということが日常」というのも受け入れるべきであるといえます。
 ☆ その《信じる》とは どういうコトか? 分からんものを受け容れるも受け容れないもないでしょう。

 いいかね。
 ★ 飛行機にのったことのない人
 ☆ でもそれが空を飛んでいるのを見たことはあるんだ。では《信じる》とは? そして《愛》とは?

 ★ 徳
 ☆ は大したことはありません。せいぜいが 宗教の思い込みによる自己満足ですから。

 ○ 領収証
 ☆ は経験事象であり それを切るのも経験行為です。その相手は 非経験なのです。ナゾです。そこのところをじっくりと思い直してみてください。何かが得られましょう。

 * 《愛》は 愛憎として正負の中身を持つ経験行為であり またしかもそれらを超えた非経験のナゾの愛もあり得ましょう。
 しっかりと考えてみるとよいでしょう。

投稿日時 - 2011-05-11 15:41:27

ANo.1

>《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

《信じない行為》・・・と・・・《信じ切る行為》・・の中間点

投稿日時 - 2011-05-11 11:02:43

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ですが たぶんまちがいでしょう。
 どうしてだか 分かりますか?
 
 無神論の場合でさえ 領収証は発行しているのですよ。《神を信じない》ということは 《無い神を信じます》という受け取り証を切ったことです。
 受け取りにハンコを押したなら 《中間》だとか《押し切った》だとかの程度問題はありません。
 どうでしょう?

 つまり そこのところが 経験世界の問題を扱うことと非経験のことに対する処し方との違いではないでしょうか? 
 ありがとうございました。


 * ハンコを押す前の状態は たしかにあります。清水の舞台から下りなけれならないほどのおそれがあるとすれば ためらいます。
 けれども 押さないと決めた場合 それはつまりは《神を受け容れるのではなく無い神を受け容れた》というかたちで けっきょく受け取り証にハンコを押したことになります。どうしてでしょう?


 * ハンコを押さないという判断があるか? あると認められるか?
 それはたとえばどの言語でも使われているいまの主題の《信じる》という言葉 この言葉はまったくまやかしである。錯覚であり それを用いることは間違いであり非人間的なことである。といった命題を主張して それを証明し切ることでしょう。その論証が成ったならば そのように有神論と無神論のほかに第三の立ち場があると認められることでしょう。

投稿日時 - 2011-05-11 13:36:29

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