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解決済みの質問

純粋な趣味を持つ人・持てない人

趣味にも純粋にそれ自体を楽しむだけでなく、副次的な効果もある趣味がほとんどだと思います。
例えば、映画や読書は知識が増えるし、人と一緒に見たり、話題にしたりできるので人とのコミュニケーションに役立つといった副次的な効果があります。趣味の楽しみ以外にも効果が期待できるという意味で純粋な趣味ではないと思います。スポーツや旅行なども同様です。

趣味に何らかの副次的な意味を感じられないと続けられない人がいます。
その一方で、何の副次的効果のない趣味に熱中し続ける人もいます。

純粋な趣味を持つ人と持つことができない人の違いは何が原因なのでしょうか?

投稿日時 - 2011-05-13 23:05:30

QNo.6735680

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

副次的効果として、「知識が増える」と「人とのコミュニケーションに役立つ」をカウントするのには違和感があります。この2つが副次的効果として数えられるなら、「経験が増える・上達する」も効果として数えられると思います。そうなると、おおよそ副次的効果がない趣味というものが思いつきません。

知識が増えないけど、継続的に楽しめる活動、ってありますかね?
(ひなたぼっこ、飲酒、喫煙などの官能的なモノは無理やり趣味といえるのかな?)


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私は純粋な趣味/副次的効果を持つ趣味のラインをあえて引くならば、人と接する必要度が高い趣味であるかどうか、という点にあると思います。

そして、人と接する必要度というのは、趣味自体よりも、その人の取り組み方次第だとも思います。

僕は読書は好きですが、まわりに本のことを話題にする人はいませんので
誰にも読んだ本のことを話すことはありません。
でも、人の接しなくても読書は出来るので続けています。


趣味がゴルフ・麻雀、という人は仕事をやめれば行かなくなる人も結構いるでしょう。
多くは同僚や得意先とのコミュニケーションの一環として始めるからです。

-----------

勝手に「副次的」の定義を変更した上での回答ですが、
純粋な趣味を持つ・持たない理由を人間の違いに求めるならば、
「人間関係がなくても(自分ひとりでも)続けられる気質がその人にあるか」
だと思います。

投稿日時 - 2011-05-14 05:13:04

補足

>副次的効果として、「知識が増える」と「人とのコミュニケーションに役立つ」をカウントするのには違和感があります。この2つが副次的効果として数えられるなら、「経験が増える・上達する」も効果として数えられると思います。そうなると、おおよそ副次的効果がない趣味というものが思いつきません。

少し考えてみたのですが、「知識」や「経験」「技能」といったものにも有益・無益といった違いがあると思います。

例えば、読書で言えば、一般書店で平積みされている本を読むことは、本人は純粋な興味だったとしても、大抵、社会を知る、流行を知る、教養を得るといった意味(有益性)があると思います。
しかし、古書店で誰からも顧みられることもなく、全く役に立ちそうもない、古典でもなく、歴史的価値もない本を好んで読むのは、役に立つ知識が増えないので、純度の高い趣味だと思います。

とはいえ、本人にとっては(主観的には)有益な知識である可能性もありますね。ということは、価値基準が世間一般と違う人が私が言いたい純粋な趣味を持っている人ということになるのかもしれません。
逆に、純粋な趣味を持てない人は、価値基準が世間一般から自由になれない人ということかもしれません。

投稿日時 - 2011-05-15 10:21:25

お礼

ありがとうございます。

>私は純粋な趣味/副次的効果を持つ趣味のラインをあえて引くならば、人と接する必要度が高い趣味であるかどうか、という点にあると思います。

これは基準としてありそうだと思いました。

>「人間関係がなくても(自分ひとりでも)続けられる気質がその人にあるか」だと思います。

その気質の違いは何に由来するのでしょうか。

投稿日時 - 2011-05-15 10:22:22

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回答(7)

ANo.7

『・・・やり続ける。』としたことは難易度の高いものであり不可能に近いものがある。
『女装』にしても純粋さは最初のうちであり、続けていくうちで嫉妬、妬み、皮肉めいた言葉を吐くことにもなりかねない。派閥が起きる可能性は大きい。(後付とされても仕方がないが。)
人(人間)のすることだから感情というものが付きまとう。・・・1+1=2とした数学的なものとは程遠く誰がやろうが答えは1つとした性格をもっていないから。従ってやり続けるとしたことは困難を極め現実度としてはあり得ないに近いものを感じる。以上が感想であり結論とします。

投稿日時 - 2011-05-19 11:25:11

お礼

ありがとうございます。

私の言う「純粋な趣味を持つ人」は極めて稀な存在であるということですね。確かにそうかもしれません。


おかげ様で、この件に関して随分と考えることができました。
ただ、この質問で一番知りたかったのは、質問にあるように純粋な趣味を持つ人と持つことができない人の違いの“原因”は何かということです。

皆さんの回答を通して、考えた“原因”が二つあります。
一つは、純粋な趣味を持つ人は価値基準が世間一般と違うという可能性です。
傍から見れば無益なことをしているので純粋に趣味を楽しんでいるように見えるが、本人の主観としては、それをやることに楽しさではなく、有益な“意味”を見出しているということです。この場合、本人の主観としては純粋な趣味ではないが、客観的には(第三者から見ると)純粋な趣味に見えます。

二つ目は、趣味をやったときに楽しいと感じる度合いが一般より高いという可能性です。趣味をやった時に脳から出る快楽物質が異常に多いと言い換えても良いかもしれません。
例えは悪いですが、非合法の麻薬を使う人は、捕まれば人生に甚大な悪影響を受けるという点において使用を合理的に理解することはできません。しかし、麻薬を使用した時の快楽がそういった社会的な価値観を忘れさせるほどに魅力的であるという点において理解できます。
それと同じように、趣味の楽しさがとても強ければ、副次的効果などなくても容易に続けることができると思います。
とはいえ、どうしてそういった脳の違いがあるのかという“原因”まではわかりません。したがって、これは“原因”を言い換えただけの同義反復に過ぎないと思います。

さて、何度も回答をいただいて恐縮ですが、“原因”は何なのでしょう?
もし、よろしければ最後にご回答いただければと思います。

投稿日時 - 2011-05-19 22:40:27

ANo.6

本来の『テーマ』に戻ってみると纏めとしたものが浮き彫りされますね。

(1)『副次的』な副産物とするものが伴わないものは何か。(どんなものがあるか探索している。)
(2)友達や当事者同士とした形のものであってはならない。(複数であっても個人性が確立されていること。)

上記の要素をもった『趣味』とするものは“純粋性”を確定できる。
一人、黙々と楽しみ満足し悦に入っている様ではあっても趣味として成立する。何故なら単独的であり他のものとの介入は遮断しているものであるなら“純粋な趣味”と言える。
としたことを言いたいのでしょうか。

『副次的』を絶ち、趣味とした様は今こうしている状態もその枠内に入ると思う。誰からもエールを送られる質のものでもなく、報いを求めるものでもなく論議を交わしている以外何ものでもないとしたところで間違ってはいない。

投稿日時 - 2011-05-17 23:39:37

補足

>一人、黙々と楽しみ満足し悦に入っている様ではあっても趣味として成立する。何故なら単独的であり他のものとの介入は遮断しているものであるなら“純粋な趣味”と言える。
としたことを言いたいのでしょうか。

そういうことです。
念のため補足すると、純粋な趣味の条件として、必ずしも他人と一緒にやってはいけないというわけではないと思います。
例えば、テニスサークルがあったとして、その中には、テニスを純粋に楽しみたい人もいれば、テニスをすることと人と交流すること(友達をつくること)が半々くらい楽しみとしている人などがいると思います。仮にその人達に「あなたはテニスというゲームのみを純粋に楽しんでいますか?」と聞いたとしても本人にもどうなのか明確に答えられないと思います。

つまり、他人と一緒に楽しむ趣味の場合、「純粋な趣味」であるか、そうでないかの確定が困難であるということです。これは必ずしも他人と一緒に楽しむ趣味が純粋な趣味でありえないということではありません。確定が難しいということです。

>『副次的』を絶ち、趣味とした様は今こうしている状態もその枠内に入ると思う。

それはつまり、この質問がということですよね?少なくとも私にとっては、この疑問を解決することに有益な意味を感じてきたという点において違うと考えています。

投稿日時 - 2011-05-19 22:36:24

お礼

どうもありがとうございます。

投稿日時 - 2011-05-19 22:36:55

ANo.5

『補足』を読みました。
例として挙げた“棚作り”の論はある程度の理解はできました。後の“プラモデル作り”の論は『・・・これは副次的効果を求めておらず、趣味として純度が高いと思います。』としている。

(1)この場合、仮に完成された沢山の作品がガラスケースに入れられ宝物の様に飾られていたらどうでしょう。それを見れば同じ趣味の仲間は必ず賞賛するでしょう。そうなれば半ば自慢が入ると思う。そうなれば“棚作り”と同論となる。(友人の羨望の言葉が『サパートし副次的効果を生んでいる。』)

(2)健康的な“釣り”が趣味としても、今度は以前より“大物”を釣り上げて見せるぞと気合が入り、グッズにもお金を掛け釣竿にもランクの高いものを持つようになり、どんどんとのめり込み費用もバカにならない。しかし、止めようとは思わない。(過去に大物を釣った満足感、優越感が『サポートし副次的効果を生んでいる。』)

(3)マニアックな『女装』を趣味とする人たちもかなり多いと聞いています。これは究極の域に近い趣味だといえる。衣装は勿論のこと、お化粧、下着、女性が身に着けるすべてのものを買い揃える。
お化粧も専属のメイクさんに手ほどきを受け、下着だって何だってすべて専属の方から見立ててもらい、この時点でコストも半端ではない。写真を撮ったり、お茶を飲んだり、会話を楽しんだりと・・・。そのまま街にくり出すもありとからしい・・・。傍からみたら何がいいのか(楽しい)と思うが、これもあくまでも『趣味』でやっていること。
しかも、奥さん、家族にバレたらどうしょう。彼女に知られたらどうしょう。とかなりのリスクを背負いながらもやっている。(これも『副次的効果』抜きは考えられない。)

この3つは何れにせよ“純粋な趣味”ではないとするでしょうね。純粋性の高い趣味とするなら、同じ“釣り”にしても魚もいそうにない川辺で一人ポツンと釣り糸を垂れている。(これぞ純粋な趣味とするでしょうね。)

『趣味』という言葉の中にすでに“副次的”は必要不可欠な要因とし“固定概念”とした思考性があるとしています。『純粋な趣味』と言われるのであればもはや“修行”に近いものを感じますね。

例えば、最初の“棚作り”にしても『趣味として始めた・・・』ではなく、『お遊びで始めた・・・』或いは『好きで始めた・・・』とした言葉(変換)に成りますね。

投稿日時 - 2011-05-17 01:55:58

補足

一度、言葉を整理してみます。趣味には二つの面があると私は考えています。

趣味の“主な効果(主な目的)”= 趣味それ自体の楽しみ
趣味の“副次的効果”= 趣味それ自体の楽しみ以外の有益な効果


>(1)この場合、仮に完成された沢山の作品がガラスケースに入れられ宝物の様に飾られていたらどうでしょう。それを見れば同じ趣味の仲間は必ず賞賛するでしょう。そうなれば半ば自慢が入ると思う。そうなれば“棚作り”と同論となる。(友人の羨望の言葉が『サパートし副次的効果を生んでいる。』)

私もその通りだと思います。この場合は純粋な趣味ではないと考えています。先の補足で私が言いたかったのは、プラモデルを趣味とする人が、誰にも見せず、仮に偶然見せたとしても他人の反応に関心がない場合です。

>(2)健康的な“釣り”が趣味としても、…(過去に大物を釣った満足感、優越感が『サポートし副次的効果を生んでいる。』)

「大物を釣った満足感」は釣りという趣味の“主な目的”であって「副次的効果」ではないと思います。そのため、「過去に大物を釣った満足感」によって趣味の継続がサポートされている人は純粋な趣味を持っている人だと思います。
「優越感」の場合はちょっと微妙ですね。場合によると思います。

釣りという趣味の典型的な副次的効果としては、友達と一緒に行くことが楽しいなどがあると思います。

>(3)マニアックな『女装』を趣味とする人…(これも『副次的効果』抜きは考えられない。)

女装という趣味の楽しさ(主な目的)が、仮に“普段の自分とは違う自分に変身すること”だとして、その楽しみのためにリスクを背負うのは、「副次的効果」のためではなく、変身する楽しさという“主な目的”のためだと思います。そうだとすると、この場合も純粋な趣味だと思います。

投稿日時 - 2011-05-17 13:26:25

お礼

再度ご回答いただいて、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-05-17 13:27:16

ANo.4

映画や読書は趣味ですが、人とのコミュニケーションが好きな人は人とのコミュニケーションが趣味と言っても間違いではないでしょう。
映画や読書が趣味な人は、チケットや本を入手するためにお金を稼がないといけないし、自分にあったものを探すときには情報を得る努力もします。
人とのコミュニケーションが趣味な人は、コミュニケーションをとるために映画や読書で知識を得るかもしれません。
どちらにしても、欲求を満たすものという点で一致しています。
趣味の定義をどうとらえるかの違いであって、純粋とかは関係ないです。

投稿日時 - 2011-05-15 10:28:08

補足

なぜ私がこの疑問を持っているかというと、子供の頃は趣味の理由を考えることなく楽しんでいたと思います。しかし、成長するにしたがって、趣味の“意味”を考えてしまい、「これをやっても意味がない」と考えたり「俺はいったい何をやっているんだろう」という感覚が強くなって続けられなくなったというのがあります。
しかし、傍から見れば何が楽しいのか理解しがたく、有益性もない趣味を続けている人も(多くはないですが)います。

いろいろな人の趣味を考えてみた場合、その趣味から何らかの有益な副次的効果を感じられることも多く、その点では趣味を続けることを理解できます。しかし、そうでない場合、どうしてその趣味を続けられるのか理解しにくいのです。
自分が有益な副次的効果のない趣味を続ける方法を知りたいというのもあります。

投稿日時 - 2011-05-15 10:58:53

お礼

ありがとうございます。

投稿日時 - 2011-05-15 10:59:22

ANo.3

>趣味の楽しみ以外にも効果が期待できるという意味で純粋な趣味ではないと思います。
(1)“趣味”というのは自分にとってそれが楽しいから、面白いから、興味を惹かれるから、・・・etc
だと認識していましたが・・・『趣味に何らかの副次的な意味を感じられないと続けられない人がいます。』・・・もし、そうだとしたらそれは『趣味』と称する(明々する)ものを覆すことですよね。?

『趣味』とするのであれば、満足感や、癒し、としたものであってこそ、そう呼ばれる。趣のある味わい。(読んで字の如くです。)だから楽しいと感じる。そして時として予期せずおまけも有ったりする。

(2)>その一方で、何の副次的効果のない趣味に熱中し続ける人もいます。
>純粋な趣味を持つ人と持つことができない人の違いは何が原因なのでしょうか?

中にはそうした方もいるでしょう。そうした“境目”というものは自分が意識上で認めている(肯定判断)から出来ること。『副次的』な効果を求めると非純粋。『副次的』なものを望まずやり続ける人は純粋ということになりますよね。『趣味』という言葉に置き換える(持ってくる)ととても伝わり難くなる。

(1)『趣味』とはそうしたもの。
(2)やり続けることに意義があると意識を認可ている者。(仕事上、職業柄。)

趣味本来のものと、そうとは呼ばない(呼べない)ものを同一視しているように思われるけど。

投稿日時 - 2011-05-14 18:08:36

補足

「趣味に何らかの副次的な意味を感じられないと続けられない」のなら、それは趣味ではないと仰っているんですよね。

しかし、実は趣味は楽しいことばかりではないと思います。例えば日曜大工が趣味だったとして、棚を作ろうとするとき、その工程には、デザインや設計、材料の検討、製作などいろいろな作業があると思います。仮に、理想的な塗料が見つからなかった場合、あちこち探して見つけるのに1ヶ月かかったり、設計や組み立てが好きでもヤスリがけが面倒でやりたくなかったり、いろいろと障害がつき物だと思います。それでも続けることができるのは、単純に楽しいからだけでなく、既製品の棚には理想のものがないという必要性や、家族からそういった面で頼りにされるから、父親としての尊厳に一役買っているといった副次的効果が続けることをサポートしているのではないかと思います。
日曜大工に意味を感じなければ、面倒になってやめてしまうかもしれないが、それでもやはり趣味ではあると思います。

一方、それが日曜大工でなくプラモデルだったらどうでしょうか。特に実用性は無さそうだし、同じ趣味のある友人がいるわけでもなくネットで自分の作品を公開するわけでもなく、ただ淡々と作っていたとしたら。これは副次的効果を求めておらず、趣味として純度が高いと思います。

投稿日時 - 2011-05-15 10:45:57

お礼

>(2)やり続けることに意義があると意識を認可ている者。(仕事上、職業柄。)

楽しい・楽しくない、ではなく、やり続けることそれ自体に意義を感じるということであって、その意義を感じる人間性は日頃の仕事で培われたということでしょうか。
そういう人もいるのでしょうね。

ありがとうございます。

投稿日時 - 2011-05-15 10:47:14

ANo.2

 副次的な効果性、何かの実用性などがない趣味ってどういうのがあるか、私の中で反省しています。
 後からそういうものが出てきているか、最初からそういうものを目的・期待しているか。
 
 私は勝手ですから、あまり人のことなどはお構いしません。
 ですので、勝手に散歩や好きなことをやっています。
 役立っているとは思いませんが、役立っているんでしょう。そして意識しないが最初から何かのために、と思っているのもあり、後から役立つことになっっているのもあるでしょう。

 純粋な趣味に熱中している人って、そういう趣味ってあるんでしょうね。
 自分で何か追究したり、重ねていけるものはそうでしょうね。
 宗教はどうなんでしょうね。やはり実用性や目的性があるんでしょうかね。
 それでは宗教としては亜流となりますね。

 ご参考にまで。

投稿日時 - 2011-05-14 08:17:39

お礼

疑問点を共有していただけたようです。ありがとうございます。

自分では純粋な楽しみでやっているつもりでも、よく考えてみると、(無意識に)有益な副次的効果を期待している人は、実はかなり多いと思います。

宗教についてはよくわかりませんが、信仰それ自体よりもそれに伴う人間関係がメインになっている場合も多い気がします。

投稿日時 - 2011-05-15 10:30:07

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