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解決済みの質問

《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?

 1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。

 2. 特にもし量子論による答えがあるのでしたら おしえてください。

 3. その昔アブラハムは 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。それは この地上における人間の生は 謂わば巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。

 4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。
 
  4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。

  4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところをおこなうのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。

  4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるが―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつは経験思考にもとづく経験行為である。

  4‐4. ヒラメキを得て そこに《去って行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。

  4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為だと言えるか?

 5. あらためて 問いはこうです。

  5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?

  5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?

  5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっているのではないか?

  5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれであろうか?

  5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?

  5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながす力のほうが 人間の自由意志による決定力よりも強いのではないか?

 6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?

 7. この事態について 量子論による解明はありましょうか?

 8. 違った角度から言い分があるという場合にも どうぞご回答をお寄せください。


 * まだ熟さない感がありますが その点あらかじめおことわりしておきます。

投稿日時 - 2011-06-09 15:33:20

QNo.6797352

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

No.5です。 若干の蛇足的説明です。 

(1)『つまりコギトのヒラメキに合わせて表わせば 『日ごろ生物や世界の成り立ちについての驚きや宇宙についての神秘などをつうじて神あるいは無い神に対する畏れを抱いていたところに』或る日ふとおとづれたその畏れを解き明かしたようなヒラメキ です。』とオソレヒラメキを説明されてます。その通りと思います。説明のなかの 『日頃 生物や世界の成り立ちについての驚きや宇宙についての神秘などをつうじて神あるいは無い神に対する畏れを抱いていた』 ということが重要とおもうのです。日頃 このようには考えもしなかった者には オソレヒラメキは出てこないと思うのです。要はヒラメキが発生するためには日頃から 受け入れられる背景があるのではないか という仮説であります。
ここでオソレヒラメキは知恵(宗教(宗教団体という意味ではない)などの生きかたの処方箋)につながり、コギトヒラメキ(哲学、数学、科学など)は知識につながる と説明されていますが この分類は程度の差ではないか と思うのです。個の生き方の問題に重点を置くか(直接人生か) 普遍的な知の解明に重点を置くか(間接人生か) の背景差ではないか と思います。勿論、2分して差を明確にしても問題なく 重要なことは ヒラメキを受け入れる背景があるのでは ないか ということです。

(2)十字架上のイエス・キリストのヒラメキ公理言葉は なぜそのような言動になるのか証明出来ない特異点と思います。宗教の場合の核心の部分です。思い切り 奇跡とか 不可思議なことが あっていい部分です。キリスト教以外も核心は同様とおもいます。もちろん、コギトヒラメキも同様 証明できないと思います。

(3)ポストモダンの私の理解ですが 次のように考えます。その前に 哲学は やがて滅亡する人類に(100年のちか100万年のちか)対して いかにあるべきかであります。私は 人類の延命が哲学によって 少しでも 可能なら 哲学の役目は果たしている と思うのです。過去、共産主義思想も含め モノカルチャー的哲学が背後にあり 世界統一哲学がベストである とされ 色々試みられたてきた思いますが 結局は 人類の延命ではなく短縮になっているのではないか と思うのです。正解モノカルチャー的哲学がみつからないのです。ではあるべき哲学は なにかですが、あたかも生物が多様種化して いかなる環境に対しても生き延びる種を保存しておくように、哲学の多様化をしておくことではないか と思うのです。人類の遭遇する多様な環境に 対応できる哲学を用意しておく ことがベターではないか と言う事です。これを徹底したものがポストモダンではないか と思うのです。
個人個人が独立した考えを許容する社会なのです。それは 個を重視する自由な民主主義的思想とも符合する と思います。ここで 個人の独立を重視しますと ご指摘のように 個人対個人の結節点の視点が薄くなると思います。そうすると 各個人の思想(哲学)をいかにして理解するかという理解が難しくなるという問題が発生します。論理構成の思想の場合は 勿論 相互理解は容易です。が非論理(感覚に訴える芸術など)の場合には 相互理解は困難になってきます。だから そこには 非論理を説明するための言葉がより必要になって行くとおもいます。非論理はすべて 理解困難かというと そうではない領域は 勿論 あるのですが。
このようにして 独立 思想を保存するか、あるいは、ご指摘のように個人と個人の結節点を重視し だれでも 相互コミュニケーション(愛を広義に定義したものも含む)を容易ならしむ ことがポストモダン社会の条件とするか であります。後者は  全体が容易に理解されるという特徴があって また 大モノカルチャー的哲学が発生するかもしれない と危惧するのです。私は 前者に絶対組するというわけではありませんが、個人対個人の思想(哲学)理解に 多少の困難さ があってもいいのではないか と思っています。

以上 大変 失礼しました

投稿日時 - 2011-06-15 01:04:55

お礼

 大変なことになってきました。おうけいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
 人類の全歴史と全科学を動員して結論を出さなければならないというような主題ではないでしょうか。

 §1 《人類にとっての大きな物語》の問題

 ★ 過去、共産主義思想も含め モノカルチャー的哲学が背後にあり 世界統一哲学がベストである とされ 色々試みられてきたと思いますが 結局は 人類の延命ではなく短縮になっているのではないか と思うのです。
 ☆ ううーん。わたしなりに腑分けしてみます。
 (1) マルクスとマルクス主義とは別だと見ます。これは 哲学と政治運動とは別だという意味になります。
 ▲ (ドイツ・イデオロギー)~~~~
 共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・
 共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。
 この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。

 ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。
 (古在由重訳)
 ~~~~~~~~~
 ☆ もっともマルクス自身も政治革命を目指しましたから――暴力革命ですね―― 広く共産主義運動とつながっていますが むしろその理論は《哲学》のほうに対応しており 実際に起きた運動(あるいは社会主義革命)のほうが《モノカルチャー社会力学》だと思います。

 なぜなら たとえば経済学ならどんなイデオロギを持っていたとしても 上のような歴史の展望は言うはずですから。共産主義と呼ぶかどうかにかかわらず
 ▼ いまの状態を廃棄するところの現実的な運動 
 ☆ をどの政治経済学も言うだけではなく実際におこなっています。保守主義でも――早いか遅いかの違いだけで――革新的政策はおこないます。
 その運動をひとつの極論にまで持って行き人びとを糾合しようとしたときその力が大きかったという一時期の歴史がある。こういうことだと見ます。
 資本主義の未来を展望したなら――その経済は市場を開拓して進むわけですから―― 
 ▼ 諸個人の世界史的存在
 ☆ ということは 研究者の誰もが思い到っていることなのではないでしょうか。

 (2) それでもなお《モノカルチャー的哲学》があり得ているのではないか?

 これはたとえば《千年王国》といった歴史の物語がかかわっているのでしょうね。
 人類にとって原始の楽園が喪失されたあと それが回復するという見通しをそれとして述べています。
 この想像の世界を経済行為を基礎とした見方に仕立てたのが 原始共産制から不平等への墜落を経てあらたな共産制を回復するというシナリオでしょうか。

 これについては 次のように考えます。
 (あ) エデンの園において犯したという原罪は ひとつにキリスト・イエスの登場によってチャラに成った。
  ・【Q:われわれは原罪を犯せしや?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html

 (い) つまり原罪などという根本的な悪なる思惟ないし行為の想定をして後にその削除をおこなうといったシナリオは キリストによって不要とされた。

 (う) ただし 原罪といった概念を想定しない民族においても――つまり人なら皆―― たとえば嘘をつくという行為をおこなう。だから シナリオを歴史の全体に宛てはめることが 問題なのであり必要のないことだと考えられる。

 (え) 共産主義運動にしても そのシナリオつまり《モノカルチャー的》な歴史観に問題がある。

 (お) さらには その運動においては――ソ連の出現として《歴史シナリオの飛び越し》があったわけだけれど それを已む無しと見たとしても―― 《世界史的存在としての諸個人》なる哲学がむしろ空しくないがしろにされてしまった。本来は開かれた思想であるはずだと見られる問題がある。

 (か) 上の(え)の問題にしてもそれはさらにその唯物史観の《宗教化》にも問題があると思われる。原罪をめぐる千年王国史観にしてもそうだと考えられ――要するに聖書を文字どおりに解する原理主義―― これはたしかにまさに哲学の出番であって ひとつに《非思考における神が思考としての観念の偶像において抱かれる》という問題があり ひとつに《個人の信仰が組織化された宗教に取って代わられる》という問題がある。こう見ます。

 (3) ★ 世界統一哲学
 ☆ これにしても その応用ないし運用のほうに問題があるのではないか?
 力の統一理論が出来たなら それによって《モノカルチャー的社会力学》のもとに人びとは窮屈な生活を送らねばならないということではないと思われますから。
 それでもなお
 ★ 結局は 人類の延命ではなく短縮になっているのではないか と思うのです。
 ☆ という怖れが消えない。これについては章をあらためます。

 §2 人類の延命か短縮か――哲学の使命――
 
 (4) ★ 世界統一哲学がベストである とされ 色々試みられてきたと思いますが 結局は 人類の延命ではなく短縮になっているのではないか。
 ☆ ここでは《短縮》の恐れががあるという前提で話しをすすめます。

 (5) ★ ~~~~~~
 正解モノカルチャー的哲学がみつからないのです。
 ではあるべき哲学は なにかですが、あたかも生物が多様種化して いかなる環境に対しても生き延びる種を保存しておくように、哲学の多様化をしておくことではないか と思うのです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ここで話は飛躍しますが オソレ(畏れ)ヒラメキに触れます。これの一番のねらいは じつは この畏れを人が抱くのもすでに神のちから(無根拠)によって促されているとまで見ようとしているところにあります。
 すなわち 一見すれば《多様性》にさからう動きであり 人類の短命化を促す思想ではないかと見られます。

 (6) もっともただちに反論しておける一つの段階としての議論はあります。
 《非思考の庭が成る》というふうに信仰を定義することには 神と無い神とが互いに同等であるということ そして神の名が違っていてもすべてこの非思考の庭に違わないならばやはり互いに同等であり対等であるということ。これらの内容を含みます。
 ということは 無神論と有神論の違いや 有神論の中でも神や仏の名の違いがあるけれども 互いに同等なのであるから それらの違いをやはり互いに認め合おうと言っています。異者の受容 このことを内容として含みます。
 つまり 多様性の尊重です。ヤハヱーもキリストもアッラーフもブラフマンもアミターバも随神の道も互いに受け容れ合おうと。

 (7) それでも オソレ・ヒラメキによれば 互いのウヤマヒやユヅリアヒが思想(生活態度)としてふつうのことだとまで言おうとしている。科学や思想における見解の違いについては 互いに認め合おうと言っているが それでも神(ないし無い神)へのオソレ(つまりけっきょく信仰)とその知恵を言うのならば 端的に見て多様性を破壊しようとしているのではないか?

 (8) ★ 人類の遭遇する多様な環境に 対応できる哲学を用意しておく ことがベターではないか と言う事です。これを徹底したものがポストモダンではないか と思うのです。
 ☆ 《人類の短命化》を促しているのではないかという前提に立って進めますと おそらくオソレヒラメキと信仰部門の重視説は この人類の――おそらくじつは その前史としての――終わりを確かにむしろ促している。こう考えることが出来るかと思います。

 (9) それでは仮りにそうだとして 前史が終わりそのあと本史が始まるのか あるいは後史とも呼ぶべき人類史が始まるのか。それは分かりません。まったく分からないまま いまわれわれが見ているこのわれわれ自身としての人類 これは 変わると思われますという意味で 前史の終焉を もしそうだとしたら 促しています。
 ホモ・サピエンスが 何になるのか・どのようにして変わるのか。分かりませんが おそらくあたらしい人間が生まれてくるでしょう。その歴史があらたには始まるでしょう。
 という思想です オソレヒラメキは。

 (10) 人と人とをつなぐ結節点としての個人――特にはその存在が 意志の主体であるということ―― これを重く見ますし そこにこそ自由を見ます。そうでない場合は いまだに前段階つまり前史を生きているのだと見られます。
 前史の自由は ポストモダンによって《無主体(結節点の無)の自由》説を生むほどに 成熟して来ており あらたな脱皮を求める段階――最終段階――にまで到ったのではないでしょうか?

 (11) この《愛》としての《大モノカルチャー思想》という基礎の上に あたらしい多様性のあり方を模索して行くのかどうか。

投稿日時 - 2011-06-15 12:16:50

ANo.6

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回答(11)

ANo.11

考察のつづきです。

ヒラメキとは主観の領域に落された、一雷の如きものであります。
それは、直観によって伝えられたものであります。
得たというよりも、伝えられたのであります。
伝えられた、という事は、その瞬間においては未分析であります。
直観において、得るという事は、伝わるという事でもあります。

個人の領域外のものが、個人の領域に伝えられたのであります。
そこには、伝えられるべき個人の領域における必然性と、領域外の個に対する必然性とが、複合的に見られるのであります。
個において必要とされるものが、伝えられるべくして伝えられたという必然性であります。

直観が、意志や五感に付随した働きを離れぬままに、一個人の領域外のものを受け取ったのであります。
ヒラメキとは、直観の働きが一個人の領域を越えるものである、と同時に、一個人に備わっている事の証明でもあります。

以上が、粗削りではありますが、受動態としての直観とヒラメキについての考察であります。
能動態としての直観についての考察については、機会を改めたいと思います。
そちらは、禅などの宗教色の濃い内容になってくるものと思われます。
それではよろしく、お元気で。

投稿日時 - 2011-06-21 21:52:09

お礼

 ★ 能動態としての直観についての考察については、機会を改めたいと思います。
 ☆ これは あたらしい観点だと思います。しかもむしろ《能動態》でありつつ
 ★ そちらは、禅などの宗教色の濃い内容になってくるものと思われます。
 ☆ なのですね。つまり 科学的・人為文化的というよりも 《宗教色の濃い内容》であると。

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 聖道門ゆえに《能動態》であるかと思いますが いかに内面において対応する契機を持つと言ってもやはりおのれの認識体系以外のところからヒラメキは来ると思われるとすれば その自力難行道におけるヒラメキとはいかにあるか? と関心が惹かれるところです。

 今回のご回答は そのままを受けとめますが その理解の仕方でよろしいのではないかと思います。
 雷のくだりから その動きや状態の分析へとすすめられています。

 上にすでに触れましたが ヒラメキは 外から来るのであるとは言え しかもおのれの内面において何らかの機が熟していてそのヒラメキ直観に応じることが出来る。といったかたちとして捉えられる。
 ★ 個において必要とされるものが、伝えられるべくして伝えられたという必然性であります。



 ★ そこには、伝えられるべき個人の領域における必然性と、領域外の個に対する必然性とが、複合的に見られるのであります。
 ☆ うん? つまり《領域外の個》ですか? これは おのれとそして関係し交通しあう他者をも交えて 必然性が捉えられていましょうか?
 そうかも知れません。それぞれの内面における機――たとえば《わたし》たちの社会的な自由の問題として――が熟しているといったかたちで 人間関係としても必然性がそこに見て取れると言うべきかも知れません。

 そしてもしそうであるなら 《人間(現実)が変わる》とか《人類の前史が終わる》とか言って 必然性の行き着く先を 勝手に見ようとしてもいます。
 こんな地点に いまわれわれは いると言えるでしょうか。

 ありがとうございました。それでは 次回にまたよろしくお願いします。

投稿日時 - 2011-06-21 23:37:47

ANo.10

以下のような考察をしてみました。
ご参考になれば幸いです。


ヒラメキとは直観によるものである。
直観とは無限のレーダーである。 (観測検知器)
直観とは、五感という限られたレーダーではなく、無限のレーダーである。
直観の働きは、個人の存在状況が一種のピークを迎えた時に自然に発動する。
一種のピークとは、個人のみならず、全体における変化の重要なポイントと見なされるものである。

直観によって得られたものが、未分析のままに確定され、主観に大きな変化をもたらす。
これがヒラメキと言われるものである。

ヒラメキの全体像とは
知る、という働きの根源をなすもの(識)が、遍満しているところにおいて、一個人の領域を越えて感応を起こす、といったものである。
そこには変化に伴う必然性があり、そこから見れば偶然という捉え方は無い。
一個人の領域とは、全体においての一部である。
全体とは、物理的、精神的なものの全てを含めた宇宙である。

投稿日時 - 2011-06-19 08:36:47

お礼

 へたのすけさん おかげで膨らみました。深化拡大しました。
 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 まづ回答No.1のお礼欄で示した図解を掲げ 自分の田に水を引きますが それに対応させて共通の理解を確認してまいります。

 これまでに美とは何かをめぐって問い求めて来ている結果(中間の結論)として 次のようなヒラメキの位置づけを得ています。


  ○ ヒラメキの位置づけ(ロゴスの階層) ~~~~~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

 
   * ~~~~~~~~~~~
   ・ロゴス:ことば
   ・スピリトゥス:霊。聖霊
   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)
   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば
   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。
    〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕
   ・ラチオ( ratio ):理性
    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕
   ~~~~~~~~~~~~~~
   
  ~~~~~~~~~~~~
 
 ★ 直観とは、五感という限られたレーダーではなく、無限のレーダーである。
 ☆ この広義の直観を 無限ないし無制限・無規定のもとに捉えます。直感ヒラメキと狭義の直観ヒラメキとに分けています。直感は 混沌としたイメージをも含めています。

 ★ 直観によって得られたものが、未分析のままに確定され、主観に大きな変化をもたらす。これがヒラメキと言われるものである。
 ☆ 《未分析のまま》が 直感イメージであり 《主観に変化をもたらすかたちに確定される》なら 直観ヒラメキになると思います。解釈やふつうの言葉による表現が伴なわれることになると見ました。

 その
 ★ 直観とは無限のレーダーである。 (観測検知器)
 ☆ 無際限ということを 《神》で表わしています。《霊》とは 何が何だか分からないモノ(コト)であり 無根拠のことであり 人間の知性で規定することをいっさいしないという意味になると思います。

 ★ ~~~~~~~
 ヒラメキの全体像とは
 知る、という働きの根源をなすもの(識)が、遍満しているところにおいて、一個人の領域を越えて感応を起こす、といったものである。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 《知る》は 言葉や概念の以前に五感によって知覚したものを認識することをも含むとします。
 たとえば 嘘をつくときには 胸騒ぎが起こり しどろもどろになります。顔を赤らめます。これらは 何か人が認識したことにもとづき自分の意志でそうするわけではなく 感性(知覚)にもとづき身の自然発生としての動きだと見ますから。

 ウソをついたあとだけではなく ウソをつくというその行為に同時進行するヒラメキがあると思われます。この場合のヒラメキに対しては人は 逆らうことをしばらくは――そして他の人間から咎められずに一生を終えるという意味でもしばらくの間は――しおおせるとは見られるようです。
 (ヒラメキの弱さは 人間の強さよりも強い!?)
 そして
 ★ そこには変化に伴う必然性があり、そこから見れば偶然という捉え方は無い。
 ☆ 必然性としての事実およびそれを主観(わたし)が知っているという真実 これら事実と真実とを合わせた総合としての現実があると考えられます。

 ★ 一個人の領域とは、全体においての一部である。
 ☆ 社会的存在としての関係(かかわり)および社会生活としての交通(まじわり)において 個人は《全体における一部》を成す。
 ★ 全体とは、物理的、精神的なものの全てを含めた宇宙である。
 ☆ この世界・宇宙について 人は霊ないし神(ヤハヱーあるいはブラフマン)に関係づけたくなるようだ。
 (空観は けっきょく《無い神》を想定したかたちである。
 マハーワ゛イローチャナは 有る神でしょうか?
 如来蔵ないし仏性は――仏教に非ずといった批判も出ているようですが―― けっきょく中立概念としては 霊に当たると思われます)。


 ★ ~~~~~~
 直観の働きは、個人の存在状況が一種のピークを迎えた時に自然に発動する。
 一種のピークとは、個人のみならず、全体における変化の重要なポイントと見なされるものである。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《存在状況》について おうけいさんとのやり取り(No.5など)で オソレ(畏れ)ヒラメキとコギト(知解)ヒラメキとがあると分けてみました。コギトが深まりゆくピーク そして大自然への畏れやそもそもヒトならヒトという生物の成り立ちや仕組みの神秘についての畏敬が高まるピークがあります。
 おそらく聖書に親しむ人たちならこのピークのことを《ときが満ちる》と言うと思います。
 ときが満ちると ヒラメキが《自然に発動する》のだと見られます。

 ★ 一種のピークとは、個人のみならず、全体における変化の重要なポイントと見なされるものである。
 ☆ 《わたし》という個人の動態だけではなく この《全体における変化》そしてそのピークについては 一般的に言って議論や学問の研究が深まればよいがと願っています。
 社会において《ときが満ちる》とは どういう過程ないし局面を言うのか? 知りたいところです。

 最近どこかで読んだ記憶があるのですが 民主党政権は 徳川幕府に代わって明治維新を拓いたというふうに譬えられるのではなく まだまだ徳川慶喜なのだと言っていたように思います。でも あたらしい社会としての舞台は 必ずしも維新になるわけではないでしょうから なかなか局面の見方は むつかしいようです。
 それにもかかわらずわたしなどは 自由と責任をめぐって人類の前史がその無責任および自由からの逃避がピークに達したのではないかという局面を捉えて みづからのときを終えつつあるのだと 勝手なことを言っています。


 ★ 知る、という働きの根源をなすもの(識)が、遍満しているところにおいて、一個人の領域を越えて感応を起こす、といったものである。
 ☆ この《感応》そして《識ないしその遍満》については もう仏教研究から遠ざかっていますので気の効いたお応えが成し得ないままです。


 この質問としての展開が まだ見込めるかも知れません。だいたいときが満ちたかも知れません。しばらく開いています。

投稿日時 - 2011-06-19 12:14:42

2点追加します。
一つは母の体験について
もう一つは推測です。

昭和20年3月9日
田舎でも空襲警報が毎日のように鳴り響く
母は、田舎へ食糧の調達に来た、東京の伯父の子達と一緒に駅のホームにいた。
何故か急に東京へ行きたくなくなり、持参したたくさんの食糧をいとこの籠に預けて見送った。
翌、3月10日、東京大空襲
田舎からも東京の空が赤く見えた。
伯父の子達や身内の者は防空壕で焼死。
伯父は、空襲から会社を守るために出宅し、一人生き残った。
伯父から田舎へ、事の次第の連絡あり、母も知る。
東京にて亡くなった七人の仮法要。
母は幸運だとは思わず
なぜ?という疑問と悲しみだけが残った。
母に信仰はない。

(推測)
既知の認識体系以外(以前)の、知る働きが何らかに感応してしまう、といったもの
その働きのきっかけになるのは、既知の認識体系から与えられた情報によるもの
経験思考による暗示・学習の範囲を越えた働きをもつ
常に、時間性、精神性、の同時性を併せ持つ
時間性・・・一般には偶然としか認識されていない時間性、だが決してそうではない現実的時間性
精神性・・・既知の認識体系によって得えられた情報が一種の限界的(或いはそれに近い)状態をつくり出している
上記の2点から、既知の認識体系以外(以前)の、知る働きが発動してヒラメキが起こる。


先生どうでしょう?
知る働きの感応については、私の場合「識大」 (六大の一つ)による、となってしまいます。
やっぱり古臭いですかね・・・
偶然というものは何一つない・・・
段々とそんな感じがしてきました。

投稿日時 - 2011-06-16 22:37:47

お礼

 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 伯父の子達や身内の者は防空壕で焼死。
 ☆ この事実からすると つまりそれなりにしかるべく避難をしているわけですから わざわざ空襲に遭いに東京に帰ったとしても逃げ遅れて不運にもお母様と命運を分けたというようなかたちではないと思われる事実からしますと そのことは残念な事実ですが 関係性は ここで取り上げなくてもよいように思いました。それに
 ★ ~~~
 母は幸運だとは思わず
 なぜ?という疑問と悲しみだけが残った。
 母に信仰はない。
 ~~~~~
 ☆ という事情をうかがいますと まづはお一人のヒラメキにかかわるというように受け取りました。

 そこで
 ★ 上記の2点から、既知の認識体系以外(以前)の、知る働きが発動してヒラメキが起こる。
 ☆ という捉え方は そのとおりなのでしょうね。知識や記憶にもないことがヒラメキにははたらいている。というように思われます。
 あるいは
 ★ 知る働きが発動して
 ☆ といった知解(認識)の作用をすら超えている出来ごとであるかも知れないとさえ思えます。
 ★ 知る働きの感応については、私の場合「識大」 (六大の一つ)による、となってしまいます。
 ☆ この《知る働き》を超えている要素があるかも知れないと思っています。
 ★ 経験思考による暗示・学習の範囲を越えた働きをもつ
 ☆ ですね。


 ここで 伝説のようなことですが つまりは物語でありけっきょく虚構として表わされているかと思うことですが 一つのヒラメキの例を挙げてみます。

 ▼ (聖霊が降る――使徒言行録2:1-13)  ~~~
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。

 すると、一同は聖霊に満たされ、
 “霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。
 そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
 人々は驚き怪しんで言った。

  「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして
  わたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

   わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、
  また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギ
  ア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者
  もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ
  教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが
  わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 人々は皆驚き、とまどい、

  「いったい、これはどういうことなのか」

 と互いに言った。 しかし、

  「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」

 と言って、あざける者もいた。
 ~~~~~~~~
 ☆ 物語による限りで 何人かのひとがそれまでに話したことのない言語を話し始めたというヒラメキの作用であるようです。《既知の認識体系以外(以前)の》であることに間違いないのですが さらに知識や記憶からも離れている事柄が起きたという出来ごとのようです。
 そしてこの出来ごと自体は そのあとイエスの話をするために 或る種のシルシとして起こったといった程度であるようです。
 それでもその限りで
 ★ ~~~
 偶然というものは何一つない・・・
 段々とそんな感じがしてきました。
 ~~~~~
 ☆ といった見方にかかわっているかに思われます。

 そうしておそらく このヒラメキは その出来ごと自体はシルシであるとすれば そのあとに中身を解釈することや そのヒラメキのちからをとおして生きるということ――単純ですが そういう共生の問題――につながるのだと思われます。
 その段階で もしそうだとすれば
 ★ 知る働きの感応については、私の場合「識大」 (六大の一つ)による、となってしまいます。
 ☆ といった捉え方にかかわって来るのだと思われます。と言っても この五大と識大との一体性でしょうか については詳しくありませんで どうなんでしょう これも縁起・空観との共通の基礎において捉えるとわたしには分かりやすいように思うのですが?

 ごめんなさい。密教はほんとうは知らないのです。《先生》は パンクしました。

投稿日時 - 2011-06-16 23:53:30

ANo.8

 No.6です。 私の考えをご理解頂き ありがとうございました。脱線ついでに ひとこと述べさせてください。

 現状認識として『前史の自由は ポストモダンによって《無主体(結節点の無)の自由》説を生むほどに 成熟して来ており あらたな脱皮を求める段階――最終段階――にまで到ったのではないでしょうか?』とありますが、私の周りでは まだ ポストモダンは多数派になっていないようにおもわれます。勿論、最終段階に至っている という認識が間違っている と言っているのではなく、私には 少し 違うような感じを受けるのです。 ただそれだけなのですが。
ポストモダンは なんですか とか あるいは 理論派と称するポストモダン研究者が 展開する解析が論理的には間違っているのではないか とかいう場面に出会います。直接出会うのは かなり 狭い領域ですが ポストモダンを延々と説明することもあるのです。例えば、大学生の多くは ポストモダンは理解していないようにおもわれます。というかモダンも分かってないように感じます。数学者は ポストモダンの率先垂範者ですが 物理学者に至っては少数派とおもいます。他分野でも 例えば考古学者もまだ少数派と思います。その他私の知人でも少数派のような感じをうけます。ただ それだけです。

ご指摘のように最終段階なら 《愛》としての《大モノカルチャー思想》という基礎の上に あたらしい多様性のあり方を模索して行く のは一つの解であろう と思います。

以上大変失礼しました。

投稿日時 - 2011-06-15 23:31:00

お礼

 いえいえ わたしの見解が脱線です。
 おうけいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 考えてみればわたしは――どうして忘れてしまっていたのか きつねにつままれた恰好ですが―― たとえば

  ○ 人間(現実)が変わる

 という命題をすでに三十年も前に立てています。ふるい人を脱ぎ あたらしい人を着るというふうに――突然変異か何か分かりませんが―― 強引に・例によって無根拠のもとに見ようとしています。
 明らかな脱線です。

 少しは肉付けをしますが やはりたとえばちょうどへたのすけさんとのやり取りで 次のように書きました。そのこととかかわっています。

 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~
  ○ ヒラメキを受けその指し示す内容にあらがっても けっきょく従うようになるということ。そのようにヒラメキに勝てない人間の自由意志は それにもかかわらず そのヒラメキに従うことをとおしてかえって自由意志の自由が建てられて行く。

  ☆ これです。さて このあたり いかがでしょうか? 補足の問いです。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようにして《あたらしい人間》の登場へと 人類の歴史はその舞台を移すのではないか?

 いま・これまでの歴史においては 自由意志の自由が かろうじて《それが想定されないと 犯罪行為の責任が その行為主体である一人ひとりの個人にあると言えなくなる》というかたちで保たれているように考えます。
 これが 《前史》であるように考えます。

 前史を抜け出すとその世界にあっては 人は 責任が問われるとき それはわたしですとか いえ ぼくに責任がありますとか いえいえわたくしにも責任の一端がありますとか言い出すようになるかも知れません。
 一人ひとりが 自由だからです。自由意志の発揮される余地がじゅうぶん大きくなるからだと思われます。

 ポストモダンの考え方がまだ行き渡っていないとすれば それは 前史がまだ成熟(?)していないのだと思われます。


 でも これは まったくのわがままな脱線です。そういう思想です。ごめんなさい。

投稿日時 - 2011-06-16 00:03:41

行く、行かぬ、におけるヒラメキの働きとは・・・

> 6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?

超心理学の問題のようでもありますね。
先生においてはヒラメキをどうしても解明なさりたいのでしょうか。
実例をもって一つの答えとしたいと思います。

古い話になりますが、戦時中の事です。
私の母が親戚の人達に、田舎から東京に一緒に行ってみないかと誘われたのです。
まだ若かった母は喜んで、皆なと行くことにしました。
幾人かの親戚の人達と一緒に駅で切符を買い、ホームで列車を待っていました。
その時の事だったそうです。
突然なぜか、急に行きたくなくなったそうです。
なぜだかは分からないが、とにかく、どうしても行きたくなくなってしまった。
理由は自分でも分からない。
行かないよ、と言うと皆なが不思議がって、何故?どうして?切符も買ったのに・・・といわれた。
それでも、不思議にどうしても行きたくなくなってしまった。
親戚の人達がいくら進めても、とうとう行かなかった・・・のです。
そして、親戚の人達が東京へ行った翌日の出来事でした・・・
東京は大空襲にあって大火災となり、その親戚の人達もすべて焼け死んでしまったのです。

この話は母から何回も聞かされました。
あの時、自分も一緒に行っていたら死んでいたかもしれない。
不思議だけれど、あの時なぜ、行きたくなくなったのか分からない。
というのです。

どうやら先生の仰るように
>わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?
のようであります。
ヒラメキがどこから来るのかは分からない、けれども
指向する意志をも抑え込む、強いものでもあるようです。
母の体験のように
知らず知らずのうちに、生死を分かつ状況の中に置かれていたところで起きたヒラメキの力は大変なものであったようです。
列車が来るまでに、あと数分、或いは何十秒だったかもしれない。
そこで起きたヒラメキというものが母の運命を変えたのです。
断っておきますが、母には予知能力があったわけではありません。
たまたまだったのでしょう。
たまたまだったけれども、どうしてもそのヒラメキに勝つ事ができなかったのです。
不思議なのは、なぜ母だけにヒラメキが起き、一緒にいた親戚の人達にはヒラメキが起きなかったのか、という事でもあります。

ヒラメキの正体は不明です。
不明であって確かなのです。
その確かさが、時には人の運命をも変えてしまうのです。

投稿日時 - 2011-06-15 22:20:32

お礼

 稀有な体験を身近にお持ちなのですね。
 へたのすけさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 けなすわけではありません。すべてお話を受けとめ受け容れました。
 その上で ご母堂がその親戚の方々に対して どういった思いや考えをお持ちになったか。またそう成るに到った経緯はあるか それはどうなのか。これが知りたいところですね。
 それが分かると 信仰のかたちとしてさらに何らかの姿を表わすのかも知れない。こう思いました。人と人との関係性ということだと見ます。
 
 ただしなにぶん日本人に関することですので これを信じる・あれを信じないとはっきりとしたかたちで意識することもないかも分かりません。
 《ヒラメキ》という一事 これとして捉えたほうがよいかも知れません。
 そう見ると おもしろいですね。おもしろいという表現はわるいかも知れませんが なかなか引きこまれるお話ですね。

 ★ ~~~~
 ヒラメキの正体は不明です。
 不明であって確かなのです。
 その確かさが、時には人の運命をも変えてしまうのです。
 ~~~~~~~
 ☆ よくまとめてくださいました。
 また《無根拠》という言い方をもしています。


 あぁ えぇ さらに話はその先があります。
 この設問のときには忘れていましたが 思い出しました。同じ筋の話ですから なぜ忘れていたのか判然としませんが 次のことを思い出しました。

 ○ ヒラメキを受けその指し示す内容にあらがっても けっきょく従うようになるということ。そのようにヒラメキに勝てない人間の自由意志は それにもかかわらず そのヒラメキに従うことをとおしてかえって自由意志の自由が建てられて行く。

 ☆ これです。さて このあたり いかがでしょうか? 補足の問いです。

投稿日時 - 2011-06-15 22:55:44

ANo.5

P氏の投稿は何度もスルーしてきたのですが 今回分かりやすい解読をしていただき ありがとうございました。これを契機に少し考えてみました。以下多少ピントはずれかもしれませんが。

(1)論理学上の不完全性定理を前提にして ヒラメキを公理(言葉で定義する)に落とし 演繹によって理論構成して その理論を用いて世界(宇宙)を説明する という考えは納得します。説明出来ない、あるいは納得 出来なければ 公理とその上位のヒラメキを変更して 新たな論理系を構築していくのです。
おそらく ヒラメキ(公理)は人 夫々であり それにそった理論体系も夫々であります。演繹という思考が瞬時にされるのであれば 人と人の相互理解は ヒラメキ公理言葉のみで成立する と思うのです。相互理解の会話を効率よくするためには 演繹などという手間を省いてヒラメキ言葉だけでOKではないか、と思うのです。bragelonneさんが 神が降りてきた と言えば それで十分なのです。
そこでヒラメキが何故その人に降りて来て公理言葉になるか、ですが 私には そのヒラメキ周辺の分かっている知について 日頃から色々厳密解はどうであろうとか 公理を変更したらどうであろうとか 考えていると思うのです。そこに ヒラメキの切っ掛けトリガーが現れると 公理言葉まで一挙に進むように思うのです。例えば 目前に雷が落ちた でもよいし もの忘れしていたものを突然思い出したでもよいし 他者の言葉でもいいのです。そのトリガーにより 日頃 考えていた ヒラメキが連想され 公理言葉に発展すると思います。日頃考えてもいないところには トリガーがあったとしても公理言葉には至らないと思います。日頃から考えるとは脳内の記憶を多用して問題解決を熱望している状態と思います。そこに トリガー信号が乗ると思うのです。
ニュートンのリンゴが木から落ちる 話はよく知られたところと思います。日頃、何も考えない人なら 100万回 落下のリンゴをみても なにもヒラメキはおきないでしょう。発明の天才エジソンもまた日頃から考えており トリガーによって言葉になると思います。神のヒラメキと創造のヒラメキを同列に扱うのは問題かもしれませんが 私には 堂々巡りの公理言葉で始まる思考は 同じように思われます。

(2)ここまでは 普通に理解されるところと思います。P氏はここで存在問題を考えます。公理言葉の論理系の存在の問題を物理学の基本法則に還元して理解しようと 考えます。なぜなら 素粒子(光を含め 単位になる素粒子)こそ全ての存在の基本構成の基と考えているからです。基本素粒子の振る舞いを表す法則が全ての存在を表していると考えます。基本法則とは不確定性原理であり シュレーデンガ―の波動方程式(振幅の自乗の絶対値が存在確率を表す)などです。          もちろん 公理言葉は素粒子ではない わけで これをどう処理したのでしょうか。少なくとも公理言葉を物質に変換しないと素粒子にとどかないのです。そこで 公理言葉をメモリーしている脳物質に目をつけます。メモリー脳物質こそ 存在の本質と考えたのです。この物質は素粒子とはスケールは異なりますが 素粒子の不確定性原理であり シュレーデンガ―の波動方程式の確率波は適用できるとして考えます。不確定性原理を適用する場合には 脳内の特定部位(メモリー分子)を厳密に決めることは 運動量(メモリー分子)のバラツキが大きくなる という説明をします。そのバラツキは宇宙規模スケールに広がっていい加減であると説明します。そのいい加減という意味を 公理言葉の意味がいい加減といういうことに置き直して理解しています。
確率波においてもメモリー分子の確率分布の説明をするべきところを 宇宙規模スケール表現し、公理言葉の意味を置き直し確率が1ならば無限空間に広がるとの説明をするのです。
もちろん これらの素粒子の動きを表す法則をメモリー分子に適用することは 勝手ですが フィジカルミーニング(対象のスケールを考えれば分かるのですが)が全く意味をなさないものになっているのです。公理言葉を素粒子に置きなおす という試みは意味をなさない のです。bragelonneさんのご指摘の通りと思います。
ですから 公理言葉のメモリー脳物質(機能)までは 分かるとしても それ以上の詳細は 今後の脳研究に待たれるべき項目と考えます。

(3)この問題の中間報告としては メモリー脳機能は人固有のものであるということと その固有の機能のなかに 思想(科学、論理学、哲学、非論理的思考などふくめ)が存在するということでしょう。ポストモダン的にとらえれば 個々に独立に思想が乱立している のです。 個々の理解言葉があれば(コミュニケーションがとれれば)その部分の共通の世界は広がるということです。数学とか 科学の世界などは 共通理解の成功例と思います。共通理解のないところは 多様な交わりのない 好き勝手な 任意(いい加減)の世界から成り立っているともいえます。共通理解の交通を愛の領域と呼んだとしてもその定義を明確にすれば問題ないと思います。

以上 失礼しました。

投稿日時 - 2011-06-14 00:43:39

お礼

 いやぁ 質問はしてみるものですね。
 視野がひろがりました。世界が明るくなります。
 おうけい9608さん お早うございます。ご回答・ご解説をありがとうございます。

 No.3のげいじゅつさん( Kunst366 さん)が量子論によりは生物学に回答を求めるべきではないかと指摘されたように
 ★ ですから 公理言葉のメモリー脳物質(機能)までは 分かるとしても それ以上の詳細は 今後の脳研究に待たれるべき項目と考えます。
 ☆ と捉えてよいようなのですね。つまり これは世界を量子へ還元して捉える見方への注意ともからんでいるということのようです。

 わたしの側から引っかかるところを遠慮なく申せば ヒラメキが経験思考に先行するという見方にはまだ未練があります。たとえば
 ★ 神のヒラメキと創造(* 想像・思考)のヒラメキを同列に扱うのは問題かもしれませんが 私には 堂々巡りの公理言葉で始まる思考は 同じように思われます。
 ☆ この《神のヒラメキ》にも 思考(コギト)と非思考(信仰・クレド)との二つの系列があるように考えます。(ちなみに いわゆる宗教教義は おしえとして言葉で表わしているものですから コギトのほうに属します)。
 すなわち
 ★ そこでヒラメキが何故その人に降りて来て公理言葉になるか、ですが 私には そのヒラメキ周辺の分かっている知について 日頃から色々厳密解はどうであろうとか 公理を変更したらどうであろうとか 考えていると思うのです。
 ☆ というコギトとしての(コギトに直結する)ヒラメキと そしてそのほかに《われは信じる(クレド)》としてのヒラメキとがある。こう考えます。

 信じるとしてのヒラメキとは何か?
 それは 《おそれ》ですね。大自然への畏敬であるとか 人間の崇高な考えや振る舞いについてのウヤマヒであるとか そういったおどろきを伴なったオソレもあるでしょうし。
 さらにはけっきょく人間がおのれは決して意志堅固ではなく 心が望まないところを心に逆らってでも欲しておこないにまで及んでしまうということがあったり あるいは単純に言って嘘をついてしまったりする。その相対的で有限でお調子者の存在であることの自覚としての 何ものか人間や世界を超えた存在への畏れ です。
 つまりコギトのヒラメキに合わせて表わせば 日ごろ生物や世界の成り立ちについての驚きや宇宙についての神秘などをつうじて神あるいは無い神に対する畏れを抱いていたところに或る日ふとおとづれたその畏れを解き明かしたようなヒラメキ です。

 敢えて抹香臭い言葉をさらに持ち出すならば
 ▼ (コロサイの信徒への手紙 2章 3節 ) ~~~
 知恵と知識の宝はすべて、キリスト(* 十字架上のイエス)の内に隠れています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《おそれ》としてのヒラメキは 《知恵》につながると思われます。知識はむろんコギトとしてのヒラメキです。十字架上のイエス・キリストとは あたかも特異点だと思われるからです。それが ヒラメキにつながるのであろうと思われます。(でも 無い神の場合もあります)。



 次のあたり さらによく分かりました。
 ★ ~~~~~~~~
 不確定性原理を適用する場合には 脳内の特定部位(メモリー分子)を厳密に決めることは 運動量(メモリー分子)のバラツキが大きくなる という説明をします。そのバラツキは宇宙規模スケールに広がっていい加減であると説明します。そのいい加減という意味を 公理言葉の意味がいい加減といういうことに置き直して理解しています。
 確率波においてもメモリー分子の確率分布の説明をするべきところを 宇宙規模スケールに表現し、公理言葉の意味を置き直し確率が1ならば無限空間に広がるとの説明をするのです。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん《認識体》であるのみの存在ならば その人間にとっての認識の領域に入って来る雑音や狭雑物を除けば 階層現象性を超えて 人間も量子であると見ているのかも知れないと思いました。

 言いかえるとわたくしは 人間存在にとってやはり《意志行為》を問題にしそこに重きを置いているのですが そのことは他方で《ポストモダン》にもかかわっているように思います。その点は どうでしょう?
 次の前半つまり 全体としてのまとめについては そのとおりに了解しましたが そのあとそれを《ポストモダン的にとらえれば》というときの認識には 断り書きが要るように思いました。
 ★ (3) この問題の中間報告としては メモリー脳機能は人固有のものであるということと その固有の機能のなかに 思想(科学、論理学、哲学、非論理的思考などふくめ)が存在するということでしょう。(あ) ポストモダン的にとらえれば 個々に独立に思想が乱立している のです。
 ☆ (あ)について 《独立に》ということですから むしろポストモダンではないようにも思われますが つまり《関係のみ》ではなくその網の目関係の結び目である或る種の主体 これをも前提にしているようですから もう文句も何もないのですが 《乱立している》という表現のほうにも注意してみました。
 《メモリー脳機能》のほかに《〔その記憶と記憶にもとづく知解による思惟や行動への選択肢の用意 ここからの取捨選択としての〕意志決定なる行為能力》を等しく 存在の無くてはならない特徴と考えることとつながります。結び目としての人間存在のことです。つまり 関係構造におけるつなぎや網の目のほうではなく結節点のほうにも注目するというかたちを言いたいのですが ポストモダンにはその視点が薄いように思われ そこから《乱立している》という表現が出て来るのではないかと勝手ながら思われるからです。

 ★ ~~~~~~~~
 (あ‐1) 個々の理解言葉があれば(コミュニケーションがとれれば)その部分の共通の世界は広がるということです。
 (あ‐2) 数学とか 科学の世界などは 共通理解の成功例と思います。
 (あ‐3) 共通理解のないところは 多様な交わりのない 好き勝手な 任意(いい加減)の世界から成り立っているともいえます。
 (あ‐4) 共通理解の交通を愛の領域と呼んだとしてもその定義を明確にすれば問題ないと思います。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ここでは 《共通理解》が 片やコギトとしてのヒラメキの系譜にある理解言葉 そして他方クレドないし畏れとしてのヒラメキの系譜にある愛(関係交通) これら二つの側面で行なわれるように思います。
 あるいは《愛》は 関係交通と言うならば 《科学としてのコギトをつうじての共通理解》をも含むと言ったほうがよいとは思います。
 愛は この科学交通のほかにも また(あ‐3)の《好き勝手な 任意(いい加減)の世界から成り立っている》場合にも 人の情感あるいは 情感と意識(理性)とをひっくるめた人間の境地というものがあって これを――畏れの系譜として――取り立てて言おうとしたいのですが どうでしょう?

 神へのおそれの系譜として 人びとのあいだではウヤマヒ(敬意・礼儀)にもとづく愛だと捉えられます。ゆづりあいにも発展します。
 (あ‐4)の《愛》の定義を広げていただいて (あ‐1)のコミュニケーションを コギトの科学部門と ウヤマヒ・ユヅリアヒの人格部門との総合として とらえていただければと思いました。



 またもや 自分の田に水を引いて来たようです。確率分布を自分勝手に決めているようにさえ見えてしまいましょうか? 確かに世界の基礎については かなりはっきりと《愛》なら愛だと言いきろうとしているようです。このいい加減な狭隘さは どうにもならないのでしょうか。

投稿日時 - 2011-06-14 12:02:53

ANo.4

閃きとは人間の内部に心の意思以外に宇宙の意識(叡智、神、魂、命、潜在意識等)の意思があります。心とは人間の目、耳、舌、鼻の細胞の意思です。一方宇宙の意識の意思は貴方の生命である命の意思で神の意思でもあります。この意思は閃き、直感、警告、映像、衝動などの指示を心に与えています。閃きに

限らず心は受動的にこれ等を受け入れていますが時々何故かと考えていますが貴方の内部の神の声とは知らずにいますがこれ等は叡智の声なのです。貴方がこれ等の事を本当に知りたいのなら参考URLに入れておきますのでご参考にして下さい。gooさんは厳格なのでURLを消されるかもしれませんけどね

参考URL:http://www.geocities.jp/eiennoseimei3/index.htm

投稿日時 - 2011-06-13 21:25:20

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。次のところにこの質問の焦点があります。
 ★ ~~~~~~
 ・・・神の意思でもあります。この意思は閃き、直感、警告、映像、衝動などの指示を心に与えています。閃きに

 限らず心は受動的にこれ等を受け入れていますが
 ~~~~~~~
 ☆ このとき《神の意思は ヒラメキなどの指示を心に与えている》という局面とそして《心はこれらを受け容れている》というその行為とのつながりが どうなっているか。これです。
 《ヒラメキが与えた指示》を人間がその意志によって《受け容れる》こと この行為は じつは 人間の意志自由によってえらぶのでありながら その方向性はヒラメキのほうの力によって決められているのではないか? これです。
 どうなんでしょうね。

投稿日時 - 2011-06-13 22:03:39

ひとつおじさんにお伺いしたいことがあるのですが(重要ポイントですので)。
無視しても別に構いませんが。

なぜ「特にもし量子論による答えがあるのでしたら」なのでしょう。
統計学者ジェームズ・ダービン曰く「なぜ生物学ではないのか?」

投稿日時 - 2011-06-10 12:55:54

お礼

 たしかにそうですね。

 テレポーテーションであるとかのことを想い描いていたのですが 考えてみれば もしそのような感覚的な以心伝心などなどがあるとすれば それはインスピレーションとしてのヒラメキとはむしろ別のことだという理解になるかも知れません。

 非思考におけるヒラメキは 量子の動きを超えているとこそ捉えるべきでした。

 これは 失礼しました。そしてご指摘をいただきありがとうございました。

 このように質問趣旨については 受け取ってくださいますよう願います。



 * さらに考えてみれば この今問うているヒラメキは たしかに非思考つまり非経験の領域を想定した問い求めなのですが そのことにまったく問題はないのですが それでもこのヒラメキを体験するのは 人間の経験行為であるという矛盾のようなものが横たわります。
 そうですよね。そうなりますよね。
 ううーん。そこらあたりについても 量子論の解明をも参照しつつ さらに尋究して行ければよいがと思ったのでしょうか。


 焦点は とにもかくにも 次にあります。

 ○ ~~~~~
 非思考の庭がわが心に成ると表現する《信じる》は なぞを受け容れるというときの最後の段階での《受け容れ》は じつは 人間の側の意志行為であり 経験行為である。
 このとき この経験行為は 人間の自由意志のおもむくままに行為をえらぶという判断がともなわれるはずだが その自由な意志決定は 果たして人間の思うがままに成し得るものなのか?
 ~~~~~
 ☆ これです。

 ○ ~~~~~
 自由意志による自由な選択としての決定 これはこれで そのとおりであると同時に じつは その選択は 《受け容れ》か《拒む》かにかんして むしろヒラメキの側におまけ(余韻)としてのように伴なわれている力のほうが 人間の意志よりは 優位に立っているのではないか?
 ~~~~~~~
 ☆ これです。


 えぇ さらに趣旨説明としての考えを述べます。
 1. 人が生きるとき その前に高い山が立ちはだかることがあります。これは垂直壁だと思われるとき 自分に特に間違いがないと思われるなら そのように足の泥(なづ)むことに遭うのは 悪魔のしわざではないかと思うことがあります。

 2. ところが考えるに もしたとえ悪魔が立ちはだかったと受け取るとしても その悪魔はじつは神が おのれを練り上げ磨き上げるために与えた試練だとさえ捉えられる。という世界観があり得 そういう境地があり得ると見た。

 3. だったら そのような人生における行き悩みに突き当たることと 非思考の《信じる》を与えられたこととは けっきょくつながっている。

 4. ならば そもそも《信じる》が成り立つその起源のときにおいて なぞの無根拠が向こうのほうから我れにやってくるというだけではなく そのナゾを受け容れること(つまり信じること) そのときの意志決定に際しても むしろナゾの力のほうが 決定的な力を持つと考えられまいか?

 5. そのことを《ひらめき》という心的現象について当てはめて問いたい。こう思った。

投稿日時 - 2011-06-10 13:51:36

ANo.2

「閃き」だけでなく、あらゆる認識の内容は突発的に対称性を破って、脳裏に思い浮かんでくるのでしょうけれども、経絡上の身体的な感受性が鈍ければ、沸き起こってき難いでしょうね。

投稿日時 - 2011-06-10 06:35:52

お礼

 ☆☆(趣旨説明) 1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。
 ☆ この条件に注意してしてください。

 ★ 「閃き」だけでなく、あらゆる認識の内容は
 ☆ というふうに主題内容を広げることは 別の問題になります。

 ★ 突発的に対称性を破って、脳裏に思い浮かんでくる
 ☆ まづ一義的には――ここで言うヒラメキに関する限りでは―― 《対称性を破る》かどうかの表象が定かではない段階でのヒラメキを扱っています。それが 上の第一項の意味です。

 ★ 経絡上の身体的な感受性が鈍ければ、沸き起こってき難いでしょうね。
 ☆ ではなくて すでに起こった段階としてヒラメキを扱っています。

 いかにもその感受性が鈍いご投稿をありがとうございました。

投稿日時 - 2011-06-10 08:57:04

ANo.1

全ての存在は、ひらめきに過ぎません。
あらゆる物体の根源が、量子振動に還元されるという超弦理論
により、認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性
に発散する(=無)ことが明らかとなっています。

つまり、“ある存在”に基づいて明示的に把握し、合理的に対応した
としても、その「ある存在」自体が、認識体の不完全性において、
対象の階層現象性を表面的=いい加減に捉えた結果(絶対確定化
=無限発散)として、有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、
「ひらめき」の方が本質なのです。
「ひらめき」がどんなに鋭くても、全知全能的なものではなく、「いい
加減」とセットであり、「予知夢は出来事が起きてから名乗り出る」
というのも、そうした事によるのでしょう。

そうした構造は、対象におけるそのような不確定性原理のみならず、
それを受ける認識の側(公理系)における不完全性定理にも反映
されている事によって、先入条件を要せずに、完全な任意=不確定的
無限性の潜在としての認識可能性(自我仮説=時間)に対する相補
としての時空仮説性(空間)、という構造を完結させるのです。

全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)
補完であり、ビッグバン自体、最大のひらめきだと言えます(現在
(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生)。
生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。

投稿日時 - 2011-06-09 16:41:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。理解を深めるために わたくしの見方を先に述べてそれと突き合わせるという作業におつきあい願えますか?

  ○ 図-a-1 ヒラメキの位置づけ

     無根拠(神)
      |
     ヒラメキ
      |
     人間(経験思考および自由意志)

   ・なおこの図の詳しい内容は 註‐1を参照されたし。

 つまりは ご回答内容に――わたくしの理解のもとに――したがって《量子振動》への還元を位置づけると 次のようになると思われます。《認識体》をわたしの言葉で《意志主体》と言い換えています。

  ○ 図-a-2 量子振動の位置づけ

      人間(意志主体):じつはヒラメキ
       |
      (階層現象性)
       |
      量子振動

 片や人間存在からあたかも上方へのぼって行くかたちにおいて《ヒラメキの優位(または 人間の思考や意志に対する先行性)》を見ようとしています。片や人間存在からあたかも下方へ――つまりは その構成要素の認識へと――降りて行って
 ★ 全ての存在は、ひらめきに過ぎません。
 ☆ と見ている。

 まづおおまかな捉え方として これでよろしいでしょうか?


 次には 《還元》の意味が問われます。
 ★☆(ぶらじゅろんぬが編集したかたちです)~~~
 “ある存在”〔は〕・・・その「ある存在」自体が、・・・有限的性質を派生させたものに過ぎない以上、「ひらめき」の方が本質なのです。
 ★ ~~~~~~~~~
  ・・・認識体との相対を排除した外的存在性は、無限不確定性に発散する(=無)ことが明らかとなっています。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この《外的存在性》とは何か? それだけを取り出して議論する意味は何であるか?
 あるいは《有限的性質》を帯びる偶有存在なる人間が 物質の集まりから成ると言ってもその物質としての根源が 人間の《本質》であり 人間はこの本質に《還元》されるのか?
 そうだとして その理屈をどのように理解すればよいか?


 言いかえると 人間存在は 単にものごとを知解する動物であるのではなく――つまりは《認識体》であるだけではなく―― その知解(認識)によって得た選択肢から取捨選択するという意志による判断をもおこなう動態です。ヒラメキを受け容れるか拒むか おのれの意志によって決定する行為主体です。
 だからこそ どうもヒラメキのほうが 人間の思考(知解)や意志判断に先行するのではないかという見方が出されます。(先行というのは 時間的にである以上に 考え方の上で・存在のあり方として 優先されてしかるべきというような意味です)。
 つまり もし存在が・つまりあるいは自由意志が 物質の基本要素としての量子振動に還元されるとすれば その自由意志はもはや選択の自由が消えてしまっており すべてその身と心がそれによって成り立つ物質にたしかに還元されるでしょうし こうやってヒラメキがどうのこうのと問い求めることすらどうでもよいことになります。のではありませんか?

 ★ 現在(感受表面)からの過去(記憶)と未来(予測)への対発生
 ☆ これは昔から 過去は 現在においてふり返って捉えている時空であり 未来も現在から展望して捉えようとしている時空であり すべて現在にあると言って来ているその捉え方に似ているように思います。つまり 量子振動といった《本質》にさかのぼって捉えなくても 偶有なる存在の現在(そういう動態)が そのままおのれの時空を捉えているとは思うのですが それでは足りませんか?

 ですから
 ★ 生きることは、その補完(「派生」の自覚化)として、愛に向かうのです。
 ☆ という見方に対しては 《過去も未来もそこに含むところの現在》がいわば永遠の現在であることによりその動態を生きること この見方と突き合わせるかたちになります。
 永遠の現在とは その時空において《わたしがわたしであるわたしが わたししている》ことです。同じ《わたし》として 社会にあっては 人びとが互いに関係(かかわり)を持ち交通(まじわり)をいとなむ。この個人として《生きる》こと そして人間関係として《共に生きること》 これが 愛だという定義です。関係動態といった意味です。交通でもあり 特にはそこにおける意思疎通とその有効性でもあります。

 意思疎通の有効性とは ヒラメキとの自由な一致の度合いによって決まると見ます。それぞれ個人の主観において――そのつどの現在時において―― 過程します。
 ★ その補完(「派生」の自覚化)として
 ☆ がよく飲み込めないので 模索しているのですが それはおそらく先の《還元》問題――なぜ還元したかたちにおいてこそ世界を捉えなければならないか?――と けっきょくは同じ問題だとも見られます。

 もし極論したほうが 互いの異同をよく捉えうるとすれば こうです。
 偶有なる存在としての人間は そのように《ひとり》としては有限なる時空を生きるのでありながら その時空は《永遠の現在》なる動態である。ゆえに 社会にあっては 互いにかかわりを持ちまじわりをおこなう。これが愛である。(そこから 愛情や思いやりとしてのプラスの愛もあれば 憎悪やいがみ合いとしてのマイナスの愛もあると見られるからには 愛は 中立なる概念である)。
 なぜ
 ★ 補完(「派生」の自覚化)
 ☆ か? そしてそのあとに
 ★ 愛に向かうのです。
 ☆ なのか? つまり《生きる》ことは すなわちそのままで《関係》であり《愛》であるとならないのは なぜか?
 つまり ヒラメキが優先されるとすれば そうなるはずではないか? 
 

 こういった反応を持ちました。どうでしょう?


 〔註‐1〕 ヒラメキの位置づけの詳しい図解

  ○ (ロゴスの階層) ~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理

  ~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-06-09 23:19:28

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