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解決済みの質問

日本語における「理想」の意味

日本語における「理想」とは、どういう意味なのでしょうか。これは欲望という語と比較して考えると、およそわからないことになります。というのも、辞書を引けば、理想とは「完全なもの、最高の状態」を望むこと(大辞泉)とあります。つまり理想とは実現しえないほどの充足を望むことであって、この説明のみでは、貪欲greedの最たる状態ではないか?とさえ思われるのです。

しかし西洋の文脈でいえば、この希求される「完全なもの」とは、神に他ならなかったでしょう。実際、英語でideaといえば、そのままイデアを意味することができます。ネオ・プラトニスムとまじりあったキリスト教という背景を踏まえると、理想の追求とはイデア界の神的なもの(あるいは神そのもの)を希求する善の行いであって、自分の肉欲を満たそうとする貪欲greedと明確に区別されるものだったのです。

とはいえ、これは言ってみれば余所の文化でのことです。我々は普段何気なく「理想」という語を使っているのですが、こちらは、どのような理解に基づくのでしょうか。質問を整理すると、

(1)日本語の「理想」をどのように定義するか。
(2)理想と貪欲は、異なるといえるか。
(3)その判断基準はどこにあるか。

設問では敢えて外国人が質問するような態度をとりましたが、それは客観的に自分の国のことを理解したいと考えるからです。よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2011-06-13 02:21:15

QNo.6805751

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

成る程、あたしから見て何でそんな頓珍漢な質問が出て来たか判ってきた。コミュニケイションをするには余りにも端折り過ぎで、自分の生きざまと相手の生きざまが違うのだと言うことを全く無視して、自分が判っていることは相手にも判っている筈だと言う根拠のない前提に立って質問がなされるから、話しがややこしくなっちまうんだね。

先ず、あんたの理想という言葉で意味するものが物質的な豊かさの獲得という、極端に限定されたものを指しているから、あたしには何でそれが理想なのか皆目見当もつかなかった。だから、唐人の寝言みたいな頓珍漢な質問をする奴だと誤解されちまう。確かに、理想という言葉はそんなに古い日本語ではないかもしれないが、中国には桃源郷という言葉がとっくにあった。そして、そんな概念は平城、平安期の日本人に既に知られていた筈だ。また、キリスト教の神だプラトンだなんて持ち出さなくても、仏教には上下足す八方に十方浄土があり、その中でも西方の極楽浄土は特に日本人に人気があった。

今度機会があったら、惠心僧都の『往生要集』の極楽を読んでご覧なさい。それは正に理想の世界だ。でも、物質的豊かさとはまったく無関係な世界だ。この極楽が凄いんだ。どんな民族でも地獄の描写は常に面白い。何とまあいろいろな拷問を考えつくかと感心されてしまう。ところが、天国の描写となると、いきなり退屈になっている。ダンテの『神曲』の天国篇なんて、あんな所に居たら1週間で飽きてしまう気がする。ボッシュの絵の天国なんて、なんかアナーキーでヒッピーみたいな所がある。あたしは直接読んでいないので無責任なことを言うが、イスラム教の天国もキャバクラみたいなところだそうで、直ぐに飽きてしまいそうだ。

ところが『往生要集』の極楽なら、あたしゃ是非行ってみたいと思ったね。極楽以外の残りの九方の浄土に入るには、結構難しい入学試験がある。難しい教義を学んで奥義を究めなくちゃいかんとか、偉い坊さんになって出世しなくちゃいかんとか、真夏の竹やぶで1週間裸で蚊に食われる修行をしなくちゃならんとか、お金持ちになって莫大な寄付をしなくちゃならんとか、人間には一寸出来そうもない入学試験ばかりだ。ところが、極楽だけは、「阿弥陀様お助け下さい」って言うだけで良いんだそうだ。殆ど無試験で入れるってことだ。だから、極楽だけが人間用に用意されているらしい。

んで、その極楽に入ると、極楽の入門コースから始まる。そこは、絵も謂れぬ綺麗なところで、匂いも香しい。いくらでも美味い食い物が在る。まあ、超電化住宅に無料で生活を許されたみたいな物だ。そして、其処此処にある菩提樹の木の下で阿弥陀様が講義をなさっておられる。その講義の素晴らしさと来たら、超一流の学者さんの講義を聴いているようで、一言一言が目から鱗が落ちるように解っちまうのだそうだ。そして、そうだその通りだと感激するたびに、百万年寿命が延びる。

そんな感激を何度も繰り返しているうちに、知らず知らずのうちに極楽の中級コースに入っている。そこでは、最早美しい景色も香しい匂いもない。非常に質素な中で、阿弥陀様の講義を聴いている。そして、どんどんと究極への「理想」に近づいて行くそうだ。そして、その究極の状態では、あんたは最早あんたではなくなり、阿弥陀様と完全に合体融合しているんだそうだ。それが、平安末期から鎌倉時代に日本人が認識した理想の世界だ。どうだ、知的な世界だろう。だから、物質的な充足は単なる方便であって、理想でもなんでもないっちゅうことを、我々の先祖達は認識していた。

キリスト教やイスラム教の天国と比べて、あたしがある有名なインド人の物理学者にこのインド人の考えた極楽の話をしたら「そうかお前解ったか。インド人は頭が良いんだ」って威張ってた。

神道だって同じだ。お祈りのときは、ご先祖様や神様には無念無想でただ頭を下げる。決して、なんかの願い事を叶えてくれなんてお祈りしては駄目なんだそうだ。一々こちらから私の願い事はこれです何んて言わなくては解んないもんが神様であるものか。それに、こちらの願い事よりももっと重要なことを神様ご先祖様は知っている筈だ。だから、神様ご先祖様に任しておいて、何も祈るな、ちゅうことだ。んで、あんたが死んでもいきなりご先祖様になれる訳ではない。あんたのことをまだ覚えている人間が生きている間は、単なる死んだ爺さんや婆さんなだけだ。でも、その死後、時間をかけて段々とあんたの御霊が浄化されて行き、皆の記憶が無くなった頃に、あんたはご先祖様という集合体に合体する。まあ、上の阿弥陀様そっくりだ。んで、その状態が日本人にとって最も理想的だと考えて来たんだ。だから、あんたの言う理想と、ここで言う理想がどれだけかけ離れているかお判りだろう。

自分の拙い経験とその外挿だけの思い付きで理想云々するのではなくて、我々の先人達が考えて来た理想って何なのだろうと言うことも考えながらこの問題を論じないと、話しが限りなく浅く、陳腐になってしまう。

あんたは、決して木の股から生まれて来たのではなくて、日本人として日本の文化の中にどっぷりと浸かって生まれて来たことを忘れちゃ駄目だ。そして、あんたのご先祖様達はあんた並みか、あるいはあんたよりももっと優れた思考をして来たかもしれないと言うことも忘れちゃ駄目だ。あんたがどんなに西洋人の考えて来たことを学んだところで、結局あんたは日本語で考えることしかできないことを忘れちゃ駄目だ。別な言い方をすると、日本語で考えるあんたの思考法に関しては、西洋人には絶対に真似が出来ない物をあんたは持っている。幸いにも、日本人は世界から尊敬される長い歴史と、独特な深い文化を持っている。それによって、この人類の多様性に関して大変な貢献をしている。

確かに西洋の文化はその強大な軍事力の故に、他の文化に決定的な影響を与えて来た。だから、西洋の文化を学ぶことは重要なことだ。しかし、それはあんたが西洋人になるために学んでいるのではない。そんなつもりになって西洋人の土俵の上で相撲を取ったって、所詮西洋人に敵う筈がない。

しかし、そのような無視出来ない多大な影響力を持つ異国の文化を学ぶのは若いうちが一番良い。相手の手の内を知って置かないと、いよいよあんたが目覚めた後で、お前ら西洋人とはまた違った世界観もあるのだと西洋人に向って説得することが出来ないからだ。だから、今のうちは、西洋人の考えて来たことを一杯学んでいるあんたのそのやり方は、正しいやり方だ。

しかし、そのうちにあんたが歳を食ってくると、もう西洋は良い、ところで日本はどうなんだと言う気になって来るものだ。そして、いよいよ自分の土俵で相撲を取るときがやって来る。

若い故に西洋かぶれしているあんたを見ていると、そんなことを頭の片隅に入れておいて、いつか自分で何者なんだ、俺って日本人じゃないか、と言うことに気付いて欲しいと言う気になった。

まあ、あたしはあんたに一つの理想を描いているのかもしれんな。

投稿日時 - 2011-06-13 12:51:19

補足

【問いを締めるにあたって】
ご回答を多数お寄せいただき、どうもありがとうございました。当初は僕の言葉の至らない点があって、問いの意義に疑問も出されましたし、なるほど、理想などその当人が良いと思えば、他人があれこれ言うことでもないような気もしました。No.1の方のおっしゃる通りです。
しかしNo.6のお礼欄を使って補足したように、僕としては何が「理想」と呼ぶに値するものかを、今一度問い直すことが、理想と欲望の見分けがつかなくなった状況を呈してしまった社会において有益に思われたのです。実際、回答者の方々からも、現状の日本で「理想」が非常に曖昧になってしまっているという同意は得られたように思います。

幸いにも文明とは何かという論点から議論は活発化し、西洋と東洋の思考スタイルを対比するというテーマ、職人とは何かというテーマ、また何をもって文化の創出とみなせるかというテーマも出ました。なかなか面白いやり取りができたと思います。しかし結局のところ、「理想=イデア」という考えを支えには文化が必要なはずです。どの回答も秀逸で僕には面白かったのですが、この点について、最も直接的に答えてくださった回答をBAに選ばせて頂きました。

参加してくださった皆様方が多様な意見をお持ちであることを考慮して、ここで僕が無理に(1)(2)(3)と立てた問いの答えを書くことはしません。しかし共通する結論としては、日本人が「理想」と呼びうるものを考えるにあたっては、自国の文化を見直すことから始めること必要があるということは言えると考えられます。その日本の「文化」と呼ぶ対象が人それぞれ違うとしてもです。皆さま、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-06-20 23:52:21

お礼

どうもありがとうございます。回答内容もさることながら、期待を寄せていただいて、感謝しております。

さて、もう投稿それ自体で完成されているので、僕から付け加えることもないのです。しかし敢えて整理すると、理想の問題を考えるにあたって、ユートピアを検討してみたということですね。そして日本の主要な宗教のユートピアにおいて究極の目的は何であったかといえば、
・仏教:阿弥陀様と合体(『往生要集』)
・神道:ご先祖様に同化
であるということでした。

イスラム教のように死後という最も快楽におぼれる世界を想定してもよいところに来て、神道も仏教も、酒池肉林を退けている。かくして、欲望を垂れ流すような思想ではなかったと、(当然かもしれませんが)まず言えます。
更にこういう文化背景があるのだから、西欧の理想という言葉とその下地はなかったにしても、似たような概念があったのではないかと考えられます。実際、設問で説明したキリスト教の「理想」とは、
・キリスト教:イデア≒神を探究
ということでした。
どうやらこれは、阿弥陀様やご先祖様に同化しようとする仏教や神道とアナロジーがあると言えそうです。

かくして日本が文化的に、理想を貪欲と等しく結ぶような土壌をもっていたと言い得るはずがない。むしろキリスト教と最初から似ていたんだとも言えそうです。さて、ここで設問の3項目に沿って整理してみます。
(1)理想とは、欲望の探究ではなく、浄化され、至高の存在に近づくことである。
(2)理想とは聖に属し、俗な貪欲とは対極に位置する。
(3)この判断基準は、仏教と神道にある。

またもう少し考えを煮詰めてみます。お勧めの『往生要集』は読んでみようと思います。『神曲』を読んでいて、そちらを読んでいないのは、何とも面目がない話です。

投稿日時 - 2011-06-13 16:30:17

ANo.9

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回答(33)

ANo.33

No.15,19,25,26です

「理想」、「イデア」という単語そのもの、いや、概念を表す単語そのものは、一種の「額縁(+無意識のフィルター)」だと考えています。

そうして、人間の思索の方向性は、そういった「額縁(+無意識のフィルター)」を置く位置や方向性と合致します。

思索するから額縁が決まるのか、最初から額縁の位置が決まっていたから思索の方向性がきまるのかについては、言葉の習得過程における先天要因+環境要因など、さまざまな要因があるため、どちらか一方だけが正しいとは言えないと思われます。

しかしながら、少なくとも、そういった「単語」と「方向性」についての概念を理解することができるのであれば、方向性を変えることも、額縁の位置やフィルターを変えることも可能なわけです。
そうして、「理想」や「イデア」が指し示すであろう【先】、ないし、その先に実体があろうと無かろうと、向かう方向性は少なくとも「ある」ので、そういった【方向性】。

そのような「理想」、「イデア」概念としての【先】【方向性】を、単純に「対象」とするならば、「主体」+「窓枠」+「対象」のセットで語るべきものになると思います。

このことは、逆に「はじめにイデアありき」といった流れであっても、同じことです。
受け手が設定している「窓枠」を通じてしか、外部からの明かりは漏れてきません。

すなわち、「主体」+「窓枠」+「対象」のセットで語ることができ、かつ、(仮想的・幻想的であれ)知的に論じ合うことができる(議論の俎上に載せることができる)ため、No.32でimantarx氏が「相対的な理想」と述べておられますが、まさに、「理想」とは「相対的概念」を越えることはないと思っています。

ただし「対象」そのものの実在性を信じ、かつ、「対象」がはじめにありきといった概念を選択する場合に限り、「絶対的概念」として扱いうるでしょう。
しかし、その場合、「対象」が形而上学的存在であるかぎりにおいて、それは宗教の世界になると考えます。

投稿日時 - 2011-06-19 03:20:19

お礼

ありがとうございます。理想は相対的であり、絶対的ではないということですが、問題は相対的だと言い切る時、それが個人の欲望とどう違うのかということになろうかと思います。あるいはその欲望をどうやって、目的にするに値する正しいものとみなすことができるのか。その場合について、次のようにおっしゃってくださっています。

>ただし「対象」そのものの実在性を信じ、かつ、「対象」がはじめにありきといった概念を選択する場合に限り、「絶対的概念」として扱いうるでしょう。
しかし、その場合、「対象」が形而上学的存在であるかぎりにおいて、それは宗教の世界になると考えます。

これはそうですね。だから理想という概念がある時、文化的な支えが必要になるのだと思われます。西欧にはそれがあるが、日本にはそれがあるのだろうかというのが、この問いの趣旨でした。最後に問いの意義について確認出来て良かったと思います。

投稿日時 - 2011-06-20 23:38:20

ANo.32

私が語ろうとしていたのは相対的な理想だったんですね。無知無知。
失礼しました。退散します(赤面)。

投稿日時 - 2011-06-18 00:07:21

お礼

丁寧にありがとうございます。

投稿日時 - 2011-06-19 07:08:28

ANo.31

宣長に関する話題は「宣長がルネッサンスした『もののあわれ』」と表記した、私の過誤です。再発見ほどの意味で安易に使用してしまいました。それと西岡常一が成し遂げたものとはもともと別の文脈で使っていたつもりですが、「原点回帰」の意で「西岡は純粋に回帰し、宣長はイデオロギッシュに回帰を目論んだ」という批判を呼び込んだことは残念に思います。
宣長についての批評と、宣長と西岡の繋がりは、とりあえず置かせていただき、西岡の理想についてもう少し立論したいと思います。(いままでも「個人的な経験と感想」ではなく、「技術とはいったいなんであるのか」ということを述べていたつもりなんですけど、いたりませんで)

>「今の材料に過去の道具で生命を吹き込み未来に向けて再現する」ための連続的な対話

TANUHACHIさんのいう西岡棟梁の理想ですが、
「材料(木)に生命を吹き込み再現する」
と一口に言いますが、いったいどういうことでしょう?「生命を吹き込む」とは、何の比喩なのでしょう?
比喩であるならば当然解除できるはずですが、内容を理解しないでコラージュしていただけなんてことはないですよね?
また「再現」とはいったいどんな現象なのでしょう。「法隆寺を再現する」とは、色形の再現でしょうか?道具工法の再現でしょうか?それ以外に再現しなければならないものはあるでしょうか?

投稿日時 - 2011-06-17 22:38:51

ANo.30

Wikipediaでの説明(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E6%83%B3)から類推しますと、
「理想」の「想」は「望む行為」と違いまして、それは「想念の世界」のことを意味している様ですが、如何なのでしょうか。

投稿日時 - 2011-06-17 18:36:24

ANo.29

にぎわってますね。見たついでに回答しておきます。
(1)日本語の「理想」をどのように定義するか。
★僕は廃棄物処理場を見学した事があります。
そこには捨てられた理想たちが山の様に積み上げられていました。
その中の、ひとつひとつに生活の役に立っていた
様子がうかがえました。シールが貼ってあったり、落書きがあったり。
もし僕が理想を定義するならば、理想とは捨てられていくものである。

(2)理想と貪欲は、異なるといえるか。
★僕は異なるといいたいです。
理想とは捨てられる側であり、貪欲とはそれを、捨てる側である。

(3)その判断基準はどこにあるか
★うーん。。。意味がわかりません。とゆーか考える余裕がありません。
また、てきとーな回答で申し訳ないです。

投稿日時 - 2011-06-17 01:31:32

お礼

ありがとうございます。現代の理想は使い捨てなのですね。手短な回答ながら、深いところを突いていると感じました。

投稿日時 - 2011-06-17 05:06:26

ANo.28

まず、議論に発言の権利は求められません。学会やシンポジウムじゃないのですから。求められるのは広い意味でルールに則ることでしょう。失礼ながら質問者さまには「発言権」という権威主義的発想があるようですね(少なくとも私には「言葉の職人」なる隠喩の意図するところは不明でした)。

兎も角私は、西岡常一に関する議論は「職人にとっての『理想』とは何か」という、この質問スレッドにおいても有意義な議論だと思っているのです(勝手ながら)。このことは職人の国としての日本の理解にも有意義だろうとも思っています。

>imantarxさんが主張する職人としてモノづくりに集中していただけという論旨も、

『だけ』……
つくづく伝わらないものですね。初手に返って、まず質問にお答えします。

(1)理想とは、実践の中で常に想起され目標とされるものである。人は完全な理想を描くことができないが、それは常に実践のなかで研かれ、そして新たな目標となる。
(2)異なる
(3)貪欲は机上で理想を語ることで生まれ、畳の上の水練で肥大する。そして他人に語られることで増殖していく。

さて西岡常一の理想ですが、まずは私に身近なパンの事から話しましょう。戦後日本にフランスパンを指導した、フランスパンの神様の一番弟子、フィリップ・ビゴ氏の著書からです。
「おいしいパンをつくるための唯一といえるコツは、生地と心を砕いてつきあい、最大限に生かしてやること。材料や作り方ではない、パンの気持ちを理解すること。これが一番だ」
はい。「おいしいパン」とはまさに「理想のパン」であり、「パンのイデア」ですね。おいしいパンを「良い建物」に、生地の心を「木の心」に代えてみましょう。まさに西岡の言葉そのものですね。西岡が見据えていたのは、建物のイデアであり、木との対話に必要だったのが槍ガンナだったのですね。技術というものに関しては「パンは色々。昔気質のパンもあれば時代が求めるパンもある(中略)配合も作り方もいろいろだ。だが、どの場合においても、パンのおいしさを生み出す「技術」がともなっていなければならず、その技術を身につけるには『心』が必要だ。(中略)ブーランジェに必要なのは、パンに対する心だ」との言葉が全てです。職人の技術の継承がいかに行われるか、小山三夫の著書「棟梁」でも同じことを言っているでしょう?そして西岡は飛鳥の工人たちの技術を希求したから文献にもあたったのですよ。(続く)

投稿日時 - 2011-06-16 21:07:54

お礼

ありがとうございます。いくつか誤解があったようです。まず僕はてっきり、回答者さんが職人であることを特権化して、職人のことは職人にしか分からし、職人しか語れないとおっしゃっているのかと思ったのです。というのも、学究の徒と職人を明確に対立させていましたから。それで発言権ということを書いたのです。

それから「だけ」という言葉がお気に障ったようですが、僕は、西岡氏が本居宣長のようにイデオロギーに基づいて行動していたのではないという意味で書いたのです。今回の補足を読んでも、そう回答者さんはおっしゃっていると思ったのですが、違うのですか。イデオロギーというのは政治思想やプロパガンダにつながるもののことをいうので、イデアがあるということとは別です。

さて、ご自分の職業からくみ上げたことをお教えくださるのですね。どうもありがとうございます。なるほどフランスパンの名人と、西岡氏の発想には接点があるのですね。いや、西岡氏にイデアがあるとおっしゃっているところを見ると、西岡氏は西洋的な発想だという見地になっているようですね。前に日本的な発想と西欧的な発想は異なるというお話も回答者さんから出ていましたが、今回は、対立を超えて、その接点を仰ってくださったのだと解釈しています。

投稿日時 - 2011-06-17 05:01:54

ANo.27

> この意味で「日本の精神文化」を僕は「コピー文化」「独自に形成された文化」と呼ぶよりも「翻案の蓄積と集合による寄せ木文化」と呼ぶスタンスに賛意を示したいと存じます。

狸さんは、言葉以外に道具がないと言っておきながら、修飾語や要らん情報が途中にちりばめられ過ぎていて、物の本質に髄々と迫って行くように言葉を使いこなせていないような印象を持った。まっ、これが当たっているかどうかは知らんが、そんな印象を持っちまったのはあたしの方だから、そんなあたしの気持ちをあんたがとやかく言っても仕様がないだろうがね。

あたしは「翻案の蓄積と集合による寄せ木文化」って形で日本の文化が凝縮できたとは、とても思えないね。日本の幕府制度と言う封建制度の創出と言い、それと天皇制度の両立と言い、日本人は大変独創的な民族だった。人類史的に見ても、多分中世の西欧に辛うじてそれと類似のものはあったが、他には何処を探しても存在しないような文化を日本人は持っている。要するに、コピーだ翻案だなんてレベルで捉えられない独創的な文化を持っていた国だと、あたしは理解している。今じゃ、社会学者の間でたぶん共通認識になっていると思うんだが、この、中世の西欧と日本だけが生み出せた独特な封建制度の存在が、現在の効率の良い産業革命の遂行と安定した資本主義社会の出現の根幹を為しているんだね。

だから、そんな物外国のコピーでも翻案でもなんでもない。もともと、日本人はコピーが下手なので、お隣の韓国や朝鮮みたいに、中国から教わった律令制度に根ざした中央集権制度を千年以上に渡って保持することが出来ずに、そんな、独創的な幕府制度を自前で創り出さざるを得なかったんじゃろが。

あたしは物理をやっているが、物が判るっちゅうことは、その現象の本質を短い言葉で抽出出来るキーワードが探し出せたと言うことだ。あんたの抽出はまだ、その本質には迫っていないと見た。

後、本居宣長の花の解釈にイチャモンを付けてなさるが、そんなんじゃ、狸さんは物が出来上がる、すなわち創造の営みと言うことが理解出来ていないように誤解されちまうよ。それが誤解だったかどうかなんてことよりももっと重要で決定的なことは、宣長翁がそれを桜と解釈したことで、日本人が説得され、それにも基づいてどれだけ日本人の心の中に世界に類を見ない独特な個性、すなわち文化創り出して来たか、と言うことだ。

確かに、宣長翁は古代の原文にこだわったことは確かだ。しかし、物を創り出すと言うことは、単なる文献学的な細かいことにこだわるだけでは出来やしない。そこには、偶然を契機とした横っ飛びが入り込まなくちゃならんのだ。

我々の現在のDNAの配列にしたって、昔あるときに脳味噌の中で手の動きを司る中枢の情報に関して、間違った情報がDNAの配列の中に入り込んでしまい、そこの一部が言語中枢に変わっちまった結果、今の我々がいるんだ。だから、人類は、そんな間違いのお陰で、あんたの最も基本的な道具である言語を手に入れることが出来たんだ。それを、いや、我々を理解するには古代のDNAという文献を出来るだけ正確に読まなくちゃならない。今我々が桜だと言っているDNAの配列は実は間違いで、梅が正しいんだ。だから、梅から桜へと間違った情報を伝えてしまって、今の我々を創出しちまった宣長野郎は太てえ野郎だなんて言う奴には、「ヘー、あんたって頭が良いんだね」って言いながら無視してりゃ良いんだ。


文化なんちゅう複雑なもんは、こうあらねばならぬ、だとか、昔は本当はこうだったなんて言うのは、蘊蓄を傾けて頭の体操で楽しむ分には良いが、そんなんで文化がどうのこうのと語っても何も始まらんことだ。それよりも、こんな横っ飛びが今の我々を創っているんだちゅうことを分析して、それじゃあこの先何が起こるんだか参考にさせて貰おうってえのが、歴史学なんじゃ御座せんか?要するに、我々の今を形作っているそんな大事な横っ飛びを先人達が何処でしたかを同定するために、歴史屋さんは緻密な文献整理をやってんじゃ御座んか?

 願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ

花に魅せられたのは宣長翁ばっかじゃなかったんだね。何か、あたしにも狸さんの言うことは本末転倒に思えちまった。

投稿日時 - 2011-06-16 03:04:54

お礼

ありがとうございます。タヌハチさんですが、僕は彼の文章が、なかなか読ませるものだと思っていますよ。余計なモノがないと面白くないと思うところです。僕の文章も余計なモノが多いのです。
まぁ僕のような若輩が言うのもよくありませんが、相手の値踏みはしないで、どうぞ、知的好奇心に導かれて議論しましょうよ。人間の質というなら、それはご老人の方が良いわけで、僕をはじめ若者は敵わないわけです。ご老人には、ソクラテスになっていただかないとなりません。「ふーん、君はなぜそう考えたのかなぁ、不思議だなぁ」という緩いスタンスです。

さて、日本の文化の性質とは何かという話になりましたね。他の方も読むと思うので簡単に整理すると、
・明治の西欧化以後に顕著なようにコピーの集合。
・日本には本質と呼ぶべきものがあった。
という二通りの見方が出ています。

誤解がないように書くと、これは、日本には連綿と万世一系の本質があったか、いやその本質はそもそも外来であったかというような水と油の話ではないのです。というのも、猪突先生は次のようにお書きです――「文化なんちゅう複雑なもんは、こうあらねばならぬ、だとか、昔は本当はこうだったなんて言うのは、蘊蓄を傾けて頭の体操で楽しむ分には良いが、そんなんで 文化がどうのこうのと語っても何も始まらんことだ」。また「日本の幕府制度と言う封建制度の創出と言い、それと天皇制度の両立」させたことが独創性とみなしうる、と。
先生のいう日本の本質とは様々なモノを混ぜて、成立するということです。タヌハチさんも、ただのコピーだとは言っていなくて、アレンジがあるとは認めていると思います。ここまで、主張は同じで、特に対立はしません。

しかし問題は出来上がったものが、コピーの貼り合わせであるか、新しい別のものになっているとみなせるのかという問題です。喩えていえば、水と砂糖と小麦粉とバターを練り込んだものが、依然として材料のごっちゃな塊であるのか、それとも、「ケーキ」という別モノになったのか。
タヌハチさんは、依然として材料が透けて見える雑多な塊であると主張し、猪突先生は新しい創作になったとおっしゃる。そしてその出来あがってしまったものが及ぼした影響関係に注目するべきであるとおっしゃるわけです。
同じものを前にして認識の差であるわけですが、この差がどこに由来するのか、興味があるところです。少し挑発的な指摘のされ方ではあったわけですが、「モノづくりとは何と心得るか」と本居のテーマを取り上げて問題提起なさったのは的確に思います。これに関する僕の意見は、もう書いてしまったように思うので、うるさくなってはいけないので、ここでは割愛します。

さて、最後に、僕は先生の指摘は、ここで一般論として、非常に鋭いものがあると思います。とある文献を精密に読むことは、一見正しいし、それに意地になる気質は職人的である。しかし先生が今回お書きのように、こういう批判の手法は、原理主義と同じ理屈を使っていることになります。「本来~~であったはずだ」ということですから。
文学作品のようなものを一人で読んでいるなら、それはそれでいいでしょう。しかし他人の解釈の評価をする際に「本来~~とあるべきなので、現状は虚偽である」という認識へ行ってしまうのなら、なかなか生産的ではありません。

文献学者は、潜在的には原理主義者なのかもしれませんね。バランス感覚が必要になって来るだろうなと思います。おそらく本居について考えてみるべきは、彼が独断で思想を展開したというより、その時代の風潮を顕著に体現していただけではないかという可能性でしょう。つまり本居の独創ならぬ独走ではなく、彼がその時代の空気を集約していたということはなかったのか。これは当時の文献を渉猟すればわかるわけでしょうが、なかなか、大変な仕事です。

投稿日時 - 2011-06-16 14:00:23

ANo.26

No.15,19,25です。

申し訳ございません。

No.19では、冒頭から「西洋哲学的」と書いてました。中程で「(西洋)科学的」としておりましたが、
こちらのミスで混乱させてしまったようです。

「西洋的、東洋的」は、「的」がついており、No.19にて記述しましたように、厳密な分類(二分)ではなく、方向性、志向性、「~しやすさ(傾向がある)」といった程度のものです。

No.25で、
>>>
対して(西洋)哲学では、ナンシーの著書(「無為の共同体」、「複数にして単数の存在」)などに、その片鱗を見ることができます。
<<<

ですが、「その片鱗」の示す先がずいぶんと離れていましたので、分かりにくい記述になっていると思います。

>>>
対して(西洋)哲学では、ナンシーの著書(「無為の共同体」、「複数にして単数の存在」)などに、「関連性を排除しない理想」という概念の片鱗を見ることができます。
<<<
になります。

投稿日時 - 2011-06-16 02:33:30

お礼

丁寧にどうもありがとうございます。

投稿日時 - 2011-06-16 13:01:19

ANo.25

No.15、No.19です。

私が言わんと欲しているところの深層まで、いや、無意識の領域まで的確に踏み込んでおられます。かゆいところに手が届く思いというか、真に脱帽せざるを得ないといったところです。

まったく仰るとおりだと思っております。

ただ、少しだけ、気になる表現があるので、触れさせていただきます。

>>> No.19 お礼欄
西洋哲学は全体の一部として埋もれている本質を見抜くこということに特化し、細部を排除するものである。
<<<

私自身は(かなり慎重に)「(西洋)科学」と記述しました。広義の哲学は科学を含みますが、西洋哲学のある領域では、

>>> No.19 お礼欄
東洋思想は細部を排除しない。一部が本質だとは考えず、全体像そのままを本質であると捉えるからである。
<<<

と、同等の思索を行っています。

具体的には、たとえば(西洋)科学に関して言えば、「宇宙に法則はあるのか」(ジョン・D・バロウ 著、松浦俊輔 訳、青土社)にて、(西洋)科学的な思考の暗黙裡の九つの前提条件について、平均的な科学者の頭の枠組みということで、記述があります。

その内容は、九つの前提条件の一つ目と九つ目に要約されています。
>>>「宇宙に法則はあるのか」p.45-46
1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。
9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。
<<<

この前提条件が言わんとしていることは、「科学的・客観的に事物を見る。」といったとき、観測者である「この私」と「あなた」とが「交換可能」だという条件を持ち込んでいるということです。
ようするに、「この私」と「あなた」とが入れ替わることで変化する要因があったとして、対象に対する影響の割合のうち、そういったものの影響を「無視できるぐらい極力最小」ないし「入れ替わるときに発生する影響度を確率的に予測可能な範囲」にとどめおくことで、観測可能であるときのみ、「科学的・客観的に見る」ことが可能だということを意味しています。

こういったことが可能だという考え方は、「関連性を排除したところの理想」が成立しうるという概念に通じるところがあり、宗教で言えば唯一絶対神的な概念、科学で言えば(大)統一理論的な概念と相通じるところがあると思います。

対して(西洋)哲学では、ナンシーの著書(「無為の共同体」、「複数にして単数の存在」)などに、その片鱗を見ることができます。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/011001.html
http://mercamun.exblog.jp/6579346/

このような考え方の根底には、「この私」と「その他(外部、ないし全体)」とは、決して切り離すことができない(外部を切り離して見ることができない)という概念が横たわっているでしょう。

このことは、下記のような記述にも見て取れます。
>>> 「言語的思考へ、脱構築と現象学」、竹田青嗣、径書房p.90-p.91
カントの先験的哲学が表現する「超越論的動機」に関して、”誰もメタレベルに立てないという原則の確認”といった解釈もあるが、妥当とはいえない。それが意味するものは、当時の文脈に即してより正確に言い直せば、誰も「主観」の外に出て「客観」を直接確認できないという認識論的原理の確認であり、認識問題はこの前提の上でのみ構想されねばならないという思考原則の提示である。
(上記に対する注釈欄)
そもそも認識問題の本質的動機は、単に客観的で厳密な認識が可能かどうかといった問題にあるのではなく、むしろ諸世界観の対立をいかに克服するかという問題にあった。(同、p.90)
<<<

以上、専門家では無いのですが、いままでの人生で私が得た拙い知識を総動員しての、精一杯の思索になります。
ご参考になれば、幸いです。

投稿日時 - 2011-06-16 01:59:24

お礼

ありがとうございます。とても読み応えがありました。おっしゃるように、僕は議論をまとめるというより、話を自分の理解できる範囲での記述になっていました。失礼お詫びするとともに、的確なご指摘に感謝いたします。

前回は特に僕がお礼欄で西欧の個人主義的な傾向がイデアの発想にあるのではないかとしましたが、今回、回答者さんは、では西洋の科学と哲学において共通の認識はあり得るのか?と問い、またその手掛かりを示してくださったように思います。なるほど、いくら個人主義だといっても、どこまでも個人の主観では立ち行きません。科学は普遍的な原理を追求しているのであるし、また共同体の形成においては何らかの共通認識がなければなりません。カントを解釈した竹田の言葉を引いてくださったように、「誰も主観の外に出て客観を確認できない」にもかかわらず、「諸世界観の対立をいかに克服するか」が西欧においては重要な課題となったわけです。さて、どういうカラクリがあるのか。

回答者さんの意見を紹介してくださった浅田彰のリンクを手掛かりに、まとめさせていただけば、分有という考え方が一つのカギであると思います。分有を浅田はpartageとフランス語表記していますが、もともとはメテクシスというプラトン主義の概念です。つまり事物の本質(イデア)と本質でないものという差異はあるが、本質でないものにもイデアの片鱗はあるという考え方です。こうした考え方は、イデアの共有という考え方を導くものです。
バロウが述べる「観測者である『この私』と『あなた』とが『交換可能』」という発想はまさに自然科学の真理を共有するというメテクシスであり、またナンシーがメテクシスに基盤を置いているのは浅田彰が解説しているとおりです(無論、ナンシーの議論は細部がありますが、ここでは省略します)。

共同体を形成する共有という点では、日本的な発想と類似を見出すことはできるでしょう。しかしメテクシスは、徹頭徹尾、イデアという本質主義を前提としているものです。かくして「こういったことが可能だという考え方は、『関連性を排除したところの理想』が成立しうるという概念に通じるところがあり、宗教で言えば唯一絶対神的な概念、科学で言えば(大)統一理論的な概念と相通じるところがあると思います」とおっしゃるのは、全くそうだと思います。根本の原理としては、容易に混同できるものではないのです。

共有と一言で言っても、いろいろあり、少なくてもイデアでいう共有と日本の「理想」はどうやら違うらしい。両者の差異が、更にわかってきたという風に僕は考えています。

投稿日時 - 2011-06-16 12:58:30

ANo.24

 あの~、非常に初歩的な事で申し訳ないのですが、僕が他の回答者様を名指しで批判した憶えは全くありません。本居宣長が後世に残した禍根に関して書いた憶えはあります。
 本居宣長の過誤は大別して2つにわけることができます。
(1)結論を先に示して、それを後追いする形で証拠を探したが結論的には探し出すことが出来なかった(本末転倒)
(2)その本居宣長に代表される国学の水戸派が明治以降も復古調のイデオローグとして教育界や学界に君臨したことが無謀な選択へと進む道を切り開く端緒となった
事を指摘したのであって、「鎮守の森」を否定した憶えはありません。
 (1)では本居宣長が拠り所とした万葉集を紐解いても「花としての桜」の数は約40首、これに対し「花としての梅」は119首です。宣長はあくまでも「大和=桜」に拘り続け、文学作品としての万葉集にみられる美意識を捨象することで結論を導いてしまった。宣長にとってのライバルである新井白石の合理的な姿勢など到底受容できる代物ではなかった。「御門は神の子孫であるから神聖にして犯すべからず」との意識が先走る余り陥った罠だと僕は言ったのです。それと「鎮守の森」は何ら関係のある存在ではありません。一言も言及していません。
 寧ろ「鎮守の森」はアジール的存在として、公権力が及び得ない特殊な境界域であると理解していますよ。

 (2)は具体的な名前を出しますと、箕田胸喜や平泉澄といった右翼的な歴史学者のことです。明治維新と共に開花した日本の近代歴史学はヨーロッパに見られる実証的歴史学に多大な影響を受けた事もあきらかですが、彼らの研究や言論活動の足跡を辿る時に「学としてのスタイル」を検出することは残念ながら出来ません。見えないモノや不可侵のモノに対する畏怖の念で全てをシャットアウトしてしまう、本居宣長によってもたらされた国学を素直に受け継いでしまったことで学者としての本分を見失ってしまい、自分の内部に留め置くだけならばまだ許されたかもしれないものを、立場と地位を利用して彼らはプロパガンダに成り下がってしまった。こうした事実を指摘しているだけです。
 これ以上は質問者並びに他の回答者様にも迷惑が及ぶと考え、ご意見があれば貴殿のホームぺージで議論させて頂きたいと存じますが如何でしょうか?。

投稿日時 - 2011-06-16 01:07:13

お礼

僕のところで議論してくださって、全然構いませんが(お二人がお疲れになったらいけないなと思っています)、もう結論は見えていると思います。というのもお二人の見解で、次のことは一致しているからです。
・西岡氏はプロパガンダとして原点回帰をしたわけではない。

タヌハチさんが本居を批判していることは事実ですが西岡氏と本居の関係を論じているとは言えません(並べただけ)。
imantarxさんが主張する職人としてモノづくりに集中していただけという論旨も、よくわかります。そしてタヌハチさんは職人については、ご自分も職人の一人として、発言する権利があると述べただけです。職人とて常に政治と無縁ではいられないという現代思想的な議論をしているのではもありません。
ですので、結局、お二人の意見は落とし所がないわけではないのです。

おそらく、お二人の議論は、またその個人に向けられたわけではない言葉を、誹謗中傷の類として受け取ったということもあろうかと思います。僕は議論が活発化するのを歓迎していますが、しかし、お二人が疲れてしまうのは望むところではありません。ただし僕としては、お二人の考えがよりよく分かる機会となって、とても有意義でした。あらためてお礼申し上げます。

投稿日時 - 2011-06-16 09:56:56

ANo.23

質問者さまには、御質問とは直接関係ありませんが、周辺事項の一つだと思ってお許しいただければ、と思います。

TANUHACHI様
>僕のような若輩者が「職人の世界」や「エコノミックアニマル云々」を口にすることすらも難癖でありご不満でしょうか?。

まず、エコノミックアニマルに関して、私はあなたと意見を交わした覚えがありません。何の話でしょうか?
次に職人の世界について、あなたの理解に対して私が異論を 述べることが、何か不当なことですか?
「難癖」と表現したのは、あなたが自身の宣長評を以てして私の論に反論したこと。これは宣長に対しての「人身攻撃」の虚偽、そしてその宣長を引用した私の論に対しては「藁人形論法」の虚偽だと思います。そして世阿弥や利休を持ち出したこと。これは私の「鎮守の森」評に対する無関係な揶揄と判断しました。ゆえに「論旨が難癖」と表現しました。それらは全て比喩で提議してありますね?
「口にすることすら難癖」とは、いったいなんのことでしょうか?
「言葉の職人」であるならば、論理には誠実であってほしいと思います。やたらな修辞を使うのは、評論家や作家の領分ではないでしょうか。

さて本題。
>棟梁が木材の性質と当時の匠の技に対する「こだわり」を今の匠である棟梁が遺した言葉として受け止めていました。

何の為の「こだわり」だか解りますか?

「千年先にも在り続ける建物」の為のこだわりです。
飛鳥の工人達が残した遺産を千年後に受け取った西岡が、そっくりそのまま千年先に送る為の「こだわり」です。
飛鳥の工人たちの残したものは千年建ち続けた。西岡も千年建ち続けさせることを目標にした。
けれども、どうしても現代の台ガンナでは飛鳥の工人たちのように削れない。そこで必要だったのが槍ガンナです。この槍ガンナも、現在の鋼では荒すぎて同じようには削れない。当時と同じように砂鉄から鍛造した鋼でなければ、木の繊維に分け入るように削れない。だから西岡は刀鍛冶に槍ガンナをつくってもらったんですよ。
全ては「千年先に建ち続ける」という理想のために。西岡は法隆寺の檜の柱に触れて、謙虚に理想を抱いたのです。
文献を研究して上っ面を真似ることが理想なのではありません。職人にとって「理想」とは、知ることではなく、物として顕すことなのです。
こうした職人の理想の在り方は、「知る」ことが目的の方たちには、なかなか理解し難いことなのかもしれませんね。

投稿日時 - 2011-06-15 21:49:26

お礼

僕のことはお気になさらないで大丈夫です。職人のこと、更によくわかりました。ありがとうございます。しかしこうした有意義な知識を、険悪な中で提示するのは、もったえないと思えます。たとえれば、言い争いをしながら御馳走を食べているようなものです。また、お二人がお疲れになったらよくないかなとは思っていました。

かくして仲裁めいたことを僕は言う責任があると思ったのですが、お二人の投稿の一番新しいものに意見を付すのが適当と考え、No24のお礼欄に僕の考えを短く書きました。一読していただけたら幸いです。しかし議論は歓迎するというのが僕の方針ですから、どうぞ説教の類などとはとらない頂けたらと考えています。あくまで楽しく議論できたらという気持ちです。一応の管理責任がある設問者として、僕の到らなかった点は、どうぞお許しください。

投稿日時 - 2011-06-16 10:05:51

ANo.22

 こんにちは、Imantarx様そして質問者様には不快な思いと共に手厳しい叱責を受けたことを先ずはお詫び申し上げます。
 西岡棟梁と「エコノミックアニマル云々」との僕の言葉に関して。西岡棟梁の「理想」は棟梁が薬師寺西塔の再建が一先ず終えた時に「100年後に東塔と同じ高さになることを見越して今の高さにした」との言葉に基づいて、棟梁が木材の性質と当時の匠の技に対する「こだわり」を今の匠である棟梁が遺した言葉として受け止めていました。職人の世界ではマニュアルに相当するモノがないことも僕は理解しています。けれどもそのマニュアルに相当するモノが「匠の知恵」であり、それは素材とそれを加工する手段によって構築されている技であると僕は思います。
 現代の建築工学やら積算工学に基づく試算をに相当するモノを匠は既に「過去からの知恵」として受け継いでいて敢えてそれをマニュアルの様に無粋な形では残さず「見て、身体で獲得する」ことで現代に残してきた。これは一つの文化であるとも言えましょう。この様な形は僕が生業の一部として未だに関わっている歴史学の世界でも同様です。学問の世界で成果を表現する武器があるとすれば、それは「言葉」でしかありません。この意味で僕も「言葉の職人」の端くれに身を連ねる一人です。陶芸家が土と対話する事は土の性質と状態を知る事であるとも言われます。その時々の温度湿度や季節による水分がどの様に土の中に保たれているか、選んだ土が鉱物としてどの様な成分構成を含有しているか等の状況を匠は土と対話する事で瞬時に知り適切な対応を選択する。それはImantarx様の仰るとうり科学的なデータよりも知恵に基づく「勘」という言葉が適切な表現であると思います。
 「エコノミックアニマル云々」に関してはその前段にある「トランジスタの商人」との言葉を受ける形で、戦後の文字どうり全くのゼロベースからスタートし、そのアイデアを実際の商品の形として仕上げ輸出した時に海外から寄せられた賛辞であると僕は理解しています。当時外交でフランスのド・ゴール大統領あたりがフランス人独特のエスプリを込めての表現であり、敗戦国としての極東の小さな国が「文化的に先進国である自分達」よりも先に精密機械を作り上げた事に対する半ばヤッカミにも似た驚きの発露として理解する事も強ち誤りとは言えないのではないかと存じます。僕が生まれた時には既にカラーテレビが一般家庭に広く普及していた時代です。Imantarx様にとって僕のような若輩者が「職人の世界」や「エコノミックアニマル云々」を口にすることすらも難癖でありご不満でしょうか?。
 
 さて質問者からの再度の問いかけと批判に関してですが、既にその問い掛けの中で質問者様は僕の言いたかった事を的確な言葉で表して下さっています。「文化としての日本の構造」が「翻訳文化」である、との言葉です。
 前回に寄せさせていただいた回答の中で、僕は丸山眞男の事例を引用し、近代としての日本の精神文化の構造が「儒教道徳と神道に依拠する捻れた天皇制的国家」であると申させていただきました。価値観として日本が移入してきたのは仏教であり儒教でありそして蘭学だったことも事実です。けれどもそれらを受容する段階で慈円の「道理」やら中世の「無常」としてつまみ食いの形で彼らの思索に組み込まれていった。これが「翻訳」の一つの側面(意識としての翻訳)。
 そしてもう一つは加賀や本願寺そして島原一揆に見られる「ある種の価値観に依拠する自検断権組織」として外界(国家もしくは権力)から離脱することを志向する等の事象から、「国家レベルでの理想なり理念」と「社会集団レベルとしての理想なり理念」との間ではそこに属する者に依り意識レベルにおいて歴然とした相違がある。つまり一つの国家としての枠の中に幾つかの異なる意識階層が存在することで、決して一枚岩の様な存在ではないとの側面(社会構造としての翻訳)。
 このうち後者は「アジール」と呼ばれる「空間領域に根ざした意識としての境界域」を示す歴史学上の定義であり、この度の質問者様の疑問を「日本における理想を文化として見た場合にどう理解できるか」との問題と同質であり「文化の位相をどう捉えるか」と理解できます。
 この意味で「日本の精神文化」を僕は「コピー文化」「独自に形成された文化」と呼ぶよりも「翻案の蓄積と集合による寄せ木文化」と呼ぶスタンスに賛意を示したいと存じます。
 本筋からかなり遠くに問題を拡げてしまい混乱を招くこととなったことをお詫びさせていただきます。
 

投稿日時 - 2011-06-15 17:52:45

お礼

ありがとうございます。不快な思いなど、とんでもない。僕はタヌハチさんが、ご自分の意見を書いてくださったことに感謝していますし、敬意を払っているつもりです。なるほど、僕も少し疑問を書きましたが、それはご意見を正確に知りたいという動機からです。

ご意見には、同意できる点が多くあります。今の問題点は、職人が何を考えているか?職人について語る資格を持つのは、職人だけか?という風になってきました。しかし結局、職人や匠とは何かと考えると、実は論文を執筆する学術研究者もまた、それに加えてよいのではないかと僕には思われます。研究論文の言語の使用は、それは慎重なモノで、普通の日常の言葉遣いとかけ離れています。誰が読んでも、仮に外国人が辞書を引きながら読んでも、正確に内容を伝えなければなりません。「なんとなくわかってよ?」という甘えが許される語の使用とは違うのです。僕はタヌハチさんが、ご自分の語る権利を主張していることを支持するところです。
ただし、こうした考え方には注意も必要であることを僕は常に自分に言い聞かせないとなりません。学者のように言語の職人であり、弁だけがやたら立つ者が語りまくって、相手を封殺してしまうことがあるからです。だから僕はImantarxさんが、職人を弁舌の徒ではないと数度強調した理由もわかるのです。

日本が翻訳文化であるというのは、なるほど、一つのご意見として、よくわかりますし、豊富な例をありがとうございます。僕もそう思います。何それがもともと正しかったという原理主義は、どうも僕には馴染みません。だから寄木細工やコラージュもまた結構だと思っています。
しかし、タヌハチさんにあっては、これはネガティヴな意味でおっしゃっているということなのでしょうか。

僕は翻訳、コピーも、また独自性を発揮する機会になると考えているのです。実際、西欧にも、確固とした独自性というものがあったわけではないと思えます。たとえば詩学において、聖書を翻訳するということは、常に大きな意味をもっていました。聖書と関係ないと思われている作品にも、聖書のエピソードへの目配せがあるのはご存じでしょうが、これは十七世紀や十八世紀において、聖書の翻案として捉えてもよいものです。この翻案が、当時の文脈が捨象された現代の読者からみて「独創性に富んでいる」と思われることもあります。それが独創的であるかどうかは、判断するものの視点の取り方なのだろうなと思うのです。

だから独創か独創でないかという判断は、既にタヌハチさんが先に触れてくださったとおり、生まれた年代によって異なるのかもしれません。意識的に西欧を真似した世代にしてみれば、独創性がないと言われるの痛い点を突かれたことになるかもしれません。しかし、もう既に寄木的な文化が形成されてしまった中で生まれてきた世代にしてみると、「これが日本の特性なんだな」と何らネガティヴな感情が無く、受け入れられるように思います。こうなってはコピーの集合もまた、コラージュという技法による独創性であるとさえ思われてくるのです。僕が後者の世代であることは言うまでもありません。

話が脱線するのは、本来書いた方が面白かったであろうことを設問に書きそびれたのですから、僕の責任が大きいと言えます。どうぞお気になさらないでください。むしろ歓迎するところです。

投稿日時 - 2011-06-16 09:33:36

ANo.21

そうですね、わかりやすく書いたつもりなのですが、厳密な話をお望みのようなので、私にはこれ以上の話はできません。「うーん、そういう意見もありますか。ふむふむ」で、OKですよ。議論を望んでいるわけではないので。私からは以上になりますので、続けてください。^^

投稿日時 - 2011-06-15 13:46:11

お礼

ありがとうございます。少し強く書き過ぎてしまったかもしれません。もしかしたら、口頭でやり取りするのなら、ああやっていろいろ話題があった方が、退屈しないでいいかもしれません。しかし書いたものを読むというのは、何度も検討できるわけですから、また別の「わかりやすさ」への配慮が必要だと僕には思えたのです。また何か気付いたら、お願いします。

投稿日時 - 2011-06-16 08:47:53

ANo.20

質問者様には失礼して、余談に応じさせていただきます。

TANUHACHI様
私は西岡棟梁の理想は、
>「今の材料に過去の道具で生命を吹き込み未来に向けて再現する」ための連続的な対話、
というような観念的なものではないと思います。同じ職人としての直感ですが。
職人は口舌の徒ではありませんから、理想は言葉では顕しません。言葉は方便。彼の理想は彼の仕事そのものです。敢えて言葉にすれば、今後先千年後にも建ち続ける檜の木組みです。
この実際的な理想のために必要だったのが、現代の劣化した技術ではなく、飛鳥の工人たちが示した本源的な技術であり、その技術に迫るために必要だったのが飛鳥の工人たち使った槍ガンナなのです。
TANUHACHI様の理解は、目的と手段の完全な転倒と言って良いでしょう。職人というもの、職人の「技術」というものが理解できないのは、もしかしたら「学校秀才」故なのかもしれませんね。

本居宣長に関しては見解の相違で結構ではないでしょうか?なるほど宣長が「花」について過誤を犯したからからと言って彼全体を貶めるのは、ラッセルやアインシュタインをその過誤によって貶めるのと同じでしょう。
また、「文化なき国家」と言いながら、西岡棟梁は認めておいでらしい。職人の技術は文化ではありませんか?
さらに言えば、なるほど世阿弥や利休は日本文化の精華と言えるかもしれません。けれどそのことと、私の提議した「鎮守の森は日本文化の結晶である」ことと、なんの関連もないでしょう。それは喩えば、ルネッサンスを西洋文明の華ととらえるのか、ローマ街道を西洋文明の礎とみなすのか、そんな議論ではありませんか?
全体の論旨が、難癖にしか思えませんが?

投稿日時 - 2011-06-15 02:26:42

お礼

ありがとうございます。もはや皆様方の投稿に周回遅れです。

なるほど、タヌハチさんが原点回帰というお話をして、西岡氏と本居を例としてくださったわけです。これについて、少なくても西岡氏の場合は、あくまで技術の復興を目的としたに過ぎず、思想的な主張ではないと注意を促しているわけですね。プロパガンダ的にも万葉集を復興しようとした本居とは大きく異なる、と。この根拠はご自分の職としての直感とおっしゃるが、これは職人の仕事に思想(とくに政治)は入り込まないし、入り込むべきではないとお考えだからでしょう。

しかしタヌハチさんは、西岡氏について、あの投稿では、彼が思想の類に基づいて原点回帰をしたとまでは言っていないと思います。また基本的には、僕にお話しになってくださったという書き方なので、特定の回答者に対して意見をぶつけてきたという風には考えていません。おそらく本居がお好きではないから、書いている間に、感情が高ぶったというところだろうと思います。ここの参加者の誰かを批判したのではないと思うのです。

投稿日時 - 2011-06-16 08:48:53

ANo.19

No.15です

喩えが悪かったので、分かりにくかったかも知れないですね。

まずは、本論の側から、喩えを変えてみます。

たとえば、西洋哲学的な理想という概念で身近なものは、「理想」気体などに代表されるようなものでしょう。
すなわち、気体を構成している粒子の大きさが「ゼロ」という状態を仮想的に想定するものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E6%83%B3%E6%B0%97%E4%BD%93
これは、たとえば、幾何学的な三角形が、幅が「ゼロ」の線と、面積が「ゼロ」の3点から構成されているというのと同じことです。すなわち、
>>>
ひとつは、その「あるべき姿」が、既存のものに内在化されているが気がついていない、あるいは見えないようになっていると考える立場です。
この場合、外部との関連性は「あるべき姿」を隠すだけの邪魔物(制約)になると考えられるため、そういったものを極力排除した状態を想定することになると思います。
<<<
といった態度であり、これは(西洋)科学的な立場で顕著なものです。

一方で、周囲との関連性の中に「あるべき姿」を見いだそうとする方向性が日本的だと思う理由は、今回の大震災後でもマナーを守る国民性に対する海外の評価に見て取れると思うからです。

また、No.9のcyototu氏の記述にも、その片鱗が隠されていると思います。特に西洋系の天国では、「個人」は「個人」のままの人格を維持するという概念で構成されていますが、東洋系(というより日本)の天国では、究極的に「合体融合」するという概念になっています。

無論、二分法で「どちらか一方」という概念ではなく、方向性・傾向という概念になります。

(1)日本人が「理想」を考えるとき、周囲との関連性を抜きにして考えるよりも、周囲との関連性を重視して考える傾向が強のだろうと思っています。
そういった意味から、
(2)貪欲という概念は、周囲との関連性を排除したところに現れてくるものでしょうから、どちらかといえば日本的な「理想」とは異なると思います。かといって、どちらかといえば「個」が中心となる西洋的な理想でもあり得ないのは、「神」を持ち出すまでもなく、倫理的な規範(関連性の重視)の方が強いからだと思います。
(3)「個」を主体とするか「全体」(ないし関連性)を主体とするかは、ケースバイケースでしょうが、そういった方向性が「理想」という概念に影響していると考えます。

投稿日時 - 2011-06-15 01:29:15

お礼

ありがとうございます。次のようなことかと考えました。

・西洋哲学は全体の一部として埋もれている本質を見抜くこということに特化し、細部を排除するものである。
・東洋思想は細部を排除しない。一部が本質だとは考えず、全体像そのままを本質であると捉えるからである。

こうであるとすれば、わかってきました。確かに古典主義では、自然は粗暴なものだと考えます。自然は雑多なモノであって、芸術家がその本質を見出してやらねばならないというのです。従って、人工物は自然それ自体よりも、より自然らしいものであるとみなされるわけです。
こうした古典主義はあるがままの自然を拒絶するわけですが、無論、リアリスムは対立するものに他なりませんし、そうした闘争関係もあったのです。このリアリスムが東洋的かどうかという議論は、僕はちょっと断言しかねます。ただし、僕もそうかなと感覚的に思うところです。

こうなってくると、「理想」と日本人が言う時、それにふさわしい中身は、イデアにはないでしょう。むしろ、全体をあるがままに受け入れて、そこに溶け込むことになると言えそうです。字引にある理想の定義が、「完全なモノ」を目指すとありますが、これは神ではなく、「全体の秩序や調和を把握して配慮する」ということであると言えそうです。

この秩序を重んじる思考の枠内では、「どこに進むべきか」という議論は行えません。というのも「全体」が一つの声を発信することはないからです。しかし「何となく感じとる」ことによって、全体の秩序を維持するための方向性は維持される、ということはあるでしょうね。それが震災で発揮されたというのは、なるほどおっしゃる通りだと思います。「自分は~~をするべきだ」と考えた人同士が錯綜したという話も、もちろん個別の話はあったかもしれませんが、全体として大混乱になっていないわけだから、秩序は保たれているわけです。首脳部がここまで迷走しているにもかかわらず、どうにかなっている風に見えるのは、一重に、発想の仕方が違うからでしょう。

なるほど、面白いですね。現状にもよく当てはまります。が、「理想」がこういう性質のものだとしたら、とても人間個人が口にするのはおこがましい語だということになりますね。西洋の理想は神の視点に立つところがありますから、まぁ、自分が思う主観的な神の声を聞けば、その通りにやってよろしいわけです。なぜなら、神の声を聞くことができるのは、ごく一部の人だからです。万人が認識できるものではありません。ジャンヌ・ダルクのように、神の声を聞いて、思いきったことをし、主導権を握ることができます。

しかし、ここで述べてきた東洋思想では、あくまで客観的に全体というもの把握しなければなりません。ここからいえるのは、三つあると思います。まず、「理想」は選ばれたものだけではなく、万人がもつことができること。次に、どんなに頭がいい人でも全体を把握するのは無理である以上、完全に「理想」を語ることができないということ。最後に、誰かが「理想は……」と口にし、さも全体のメリットになることをしているかのように語るのは、常に嘘が潜んでいるということ。

回答者さんの言葉から、少し話を広げすぎたかもしれませんが、うーん。ますます今の日本の状況がわかってきたような気がします。

投稿日時 - 2011-06-15 08:52:52

ANo.18

 こんばんは。Imantarx様のお言葉から一つの刺激を受けてのコメントであることをお許し下さい。
 宮大工の西岡常一氏は棟梁の世界で「最後の宮大工」と呼ばれ、確か西岡棟梁が手掛けた寺には斑鳩の法隆寺・法輪寺そして西の京の薬師寺再建を陣頭指揮の形で成し遂げた方ですね。古寺を再建する時に西岡棟梁が最も心を砕いたのは「出来うる限り当時と同じ手法で再現する」だったと記憶しています。
 そのために棟梁が拠り所としたのは春日権現絵巻やら石山寺縁起・東大寺写経所などの当時を伝える膨大な史料や正倉院の宝物群でした。「槍鉋」はそれらの中にひっそりと眠る形で存在したモノを「匠の技」によって復元された貴重な資料そのものでもあります。
 西岡棟梁がなぜ「当時のモノ」に拘ったのか。それを裏付けるのが棟梁の言葉として遺されていました。「今の材料に今の技を使っても過去を再現することはできない。今の材料に過去の技を使うならばそれはできる」。一本の桐の木から作られる一組の箱は箱と蓋に0.1ミリの違いがあれば何をせずとも音もなく静かに滑るように合わせて閉じることができる、とも申します。
 西岡棟梁の後継者に指名された小川三夫氏はこの言葉から「木と対話する意味」を始めて教えられたと回顧していました。木には板材としての木目の他にも樹皮や虫食いなどの部分がありますが、それら全てを引っくるめて使うことで木を活かすことができる。樹皮も室生寺に見られる檜皮葺などの屋根の素材としても使用されていました。
 西岡棟梁にとっての「理想」を僕は「今の材料に過去の道具で生命を吹き込み未来に向けて再現する」ための連続的な対話、と理解させていただきました。
 対話というスタイルだけならば本居宣長もそれに該当するかもしれませんが、彼はその本質を理解していなかったためにその後の日本の思潮に途轍もない過ちを遺す形となってしまったことも事実です。大和魂を復活させるために万葉の昔に返れと自己陶酔的に原点回帰を唱えたのも自由だがね。彼はその原点である万葉の時代では花と言えば「梅」を指し示す言葉だったことをすっかり忘れていた。学校秀才が陥る典型的な躓きに他ならないね。
 逆に日本の精神文化というならば江戸時代以前の鎌倉や室町時代の「無常観」であり、愚管抄の「道理」もある。「至高の価値」を何に求めるかとの話に揺り戻すならば、表面的には仮面を被る形で自分のスタイルを貫き通した藤原定家もいれば世阿弥や千利休そして小堀遠州や本阿弥光悦もいる。一見して「世捨て人」に見えても彼らに共通するのは世間で暮らす人以上に「世間の目」を気にしていたことも確かだね。だから彼らほど権力者の庇護を求める必要が他のライバル達にはなかったのだよ。
 徳川の時代に1つの精神文化の形を求めるならば、それは丸山眞男に代表される政治学者が「近代日本に地下水脈のように流れている古層」として儒教に基づく道徳観念の問題を指摘しています。幕府は統治機構としての国家原理を儒教それも朱子学に求め、明治国家はその冠に当たる部分を天皇に置き換え体裁として立憲国家の形を取ったがそこに流れる発想そのものは断絶することもなく神道と融合して受け継がれ、オカシナ方向へと舵をきってしまった。これが「文化なき国家」と呼ばれる由縁かもしれない、と僕は思います。
 途中で文体が変わってしまい申し訳ありません。
 

投稿日時 - 2011-06-14 22:58:03

お礼

ありがとうございます。宮大工のこと、勉強になりました。しかしこれと、本居を一緒にしてはならんということですね。僕なりにもう一回まとめさせていただきますが、――過去に遡ったという点では二人とも共通点が見いだせる。が、本居の場合は原理主義になった。しかも、正確に当時のことを把握していたわけではなく、「花」という語ひとつとっても、間違いがある。精密な研究というより、我田引水のプロパガンダであった――と読みました。

なるほど本居がダメというなら、それもそうかと思います。僕はこの点に関して中立的です。まだ自分で判断を下せるほどの材料が揃っていませんから。しかし日本の「精神文化」について、結局、どういうお考えをお持ちなのですか。あるのか、ないのか。あるとすれば、どれなのか。

そして僕の印象ということですが、明治の国家原理が、徳川幕府の朱子学を都合よく解釈をねじったとおっしゃるということだけれど、こうした接ぎ木もまた、日本的な発想と呼ぶことはできるのではありませんか。フランス革命のように、新しいものを作り、過去のものを何でも壊せばいいというわけでもありませんし。実際、革命以後、フランスはすぐに共和制に落ち着いたのではなく、王政復古と帝政のぶり返しを経験し、理念は揺らぎます。思考錯誤を経て、他を飲みこんで生成されてきたといってよいと思います。

こんな風に僕個人は思うので、文末にタヌハチさんは「文化なき国家」と言い切ってらっしゃるが、この言葉は強いと思うのです。また前までの文脈を踏まえても、「理想(理念)なき国家」とおっしゃった方が正確だと思うのです。

あるいは文化とは、理想に基づいて創出された純粋なモノだけを指すのであり、それは日本になかったとまでお考えということでしょうか。

投稿日時 - 2011-06-15 06:40:31

ANo.17

四度目の正直。
あっさり前言撤回させてください。
私が日々体感する身近な理想と、皆さんの語られる大きな理想の相違に苦しみましたが、
日本文化には、それを包括する概念があると思います。

「至極」
この他にも在るとは思いますが、私が思い起こせたのはこれです。
「理想」はこの至極を下地に、「ことわりをおもう」として受け入れられたのではないでしょうか。
それは技の極致も示すし、社会の在るべき姿も示します。
そして全ては天地の理、
本居宣長がルネッサンスした
「物の心 事の心
物のあわれ 事のあわれ」
に適うか否かが問われるのです。

(1)理想とは、日々の細々した立ち居振る舞いから、社会の在り様まで、天地の理との合致を目指すものである。

(2)当然異なる。

(3)あめつちのことわり、もののこころ、ことのこころに適うか否かである。


エコノミックアニマルは、古くはヴェネツィア人に向けられたヨーロッパ各国のやっかみではないでしょうか。メディアの煽りに乗せられて自虐的な国家観を抱くのは止めませんか?エコノミックアニマルと言われたら、「そうか日本も遂にルネッサンス最後の担い手ヴェネツィア人に並んだか」と思っておけば良かったのではないでしょうか。
そのころの日本に精神文化が育ってないと感じるのは、視るところが違うからだと思います。南方熊楠が死守し、宮脇昭が再発見し世界に広めた「鎮守の森」は日本文化の結晶です。
そしてまた、同じ理の中に、西岡常一が復元した法隆寺薬師堂が在るではないですか。
日本人の理想は欧米のそれのように言葉を尽くしてアピールされないのです。静かに事物と向き合い形に顕されてきたものなのではないでしょうか。
そして、そうした理想は、常に現代日本社会に警告を発していました。
御質問の出発点である現代日本社会の在りようは、「日本の理想を見失ったが故」なのではないでしょうか。

もういっこ蛇足
>日本古来のアミニズム

「自律分散システム 」と知ったかぶらせてください。

投稿日時 - 2011-06-14 17:38:04

お礼

再度、ありがとうございます。ここのスレッドを読みながら、ご自分の考えを練り上げてくださっているらしいと読めて、嬉しく思っています。回答者の中には、大工の親方と物理学の先生がいて、そのお二人は、モノづくりの実践者です。しかし、そのスタンスも多様だなと思います。

理想の上位概念である「至極」というものをまず示したうえで、理想は「至極」の一様態とおっしゃっているわけですね。この「至極」は、「もののあわれ」に通ずることにも、天と地と合一することを目的とするものである、と。
なるほど、イデアが神に合一することだとすれば、「至極」も非常に近しい概念であると言えそうです。かくして「理想」という語を使ったにせよ、潜在的には、それと似たものがあったから、問題ない、という方向に議論はなるでしょう。ただし「至極」は忘れられてしまった。そうだろうなと思います。この忘れられてしまったという意味は二重であり、理想に似た概念が西洋のものだろうと日本のものだろうと忘れられたということ、そしてとりわけ、日本のものが忘れられたということになりそうです。

最後の話の繋がりは淡い書き方をしてらっしゃいますが、エコノミックアニマルは日本流の理想のあらわれの一例だとお考えだということなのでしょうね。ただし贅沢をもう一つ言わせていただくと、西欧の理想と日本の「至極」の明確な差が、今一歩、分からないです。ともかく理想に近似する概念をもつことが重要であるというのは同意するところです。しかし西洋の「理想」をどんどん導入してくればいいわけではないとお考えのようですから。最も大きく違う点はどこにあるのかを伺えたらななどと思ってもいました。

>メディアの煽りに乗せられて自虐的な国家観を抱 くのは止めませんか?

これは質問欄の参加者全員に対しての呼びかけではあるでしょうが、まず僕に向けて話しているのだと受け取ります。うーん、これは違いますよ。物事は多面的なのです。結局、総体として僕は、日本が高度経済成長の時代に、西欧が精神的だと認めるほどのものを「示せなかった」と判断しています。しかし宮脇昭と西岡常一がダメだと言っているのではないのです。もっと高く評価されてしかるべきだと、むしろ僕は考える方向性です。彼らの評価がなぜ乏しかったかといえば、脚光を浴びる主流派は、商業主義が占めていたからだと考えることに矛盾はないと僕は思うのです。

投稿日時 - 2011-06-15 04:23:35

ANo.16

こんにちは。
理想と欲望を比較するのに、私がわかりやすいなと思う例を挙げて見ます。それは愛に関してですが、プラトニックラブと言う言葉を聞いたことがあると思います。精神で行う愛を言う言葉ですが、これに対して欲望の愛と言うと、端的に肉欲、情欲をあらわすものであると思います。端的に、理想の愛と、欲望の愛、と書き並べるだけでも、その二つが違うことはわかるかと思います。

それが精神によるところのものなのか、本能によるところのものなのかで、理想と欲望を分別することができるのではないでしょうか。

1)それは生存に在りながら、精神によって追い求められる純粋な存在の事である。
2)それは異なるといえる。
3)精神に基づくものか、本能に基づくものかで分別でき得る。

より速いマシン、より高い建造物、これらを求めることが本能に基づくことなのか、それとも精神に基づくことなのか。より速いということが興奮を呼ぶためのものなのか、精神の充足のためのものなのか、より高いということが、顕示欲を満たすためのものなのか、究めることの達成感を味わうためのものなのか。少なくとも技術者にとっては、それは精神に基づく後者の行いであると私には思われます。

およそ現代日本では、西洋的な理想の概念が浸透していると思います。古代日本にそれに変わる言葉があったのかどうか私にはわかりませんが、現代の言葉にも見られる清らかさや潔さといった言葉からも、何らかの、かくあるべしのような、目指すところはあったと思われます。おそらく、神事や風習などにも文化的痕跡として残っているのではないでしょうか。
しかし、清らかさや潔さなどにまつわる行為も、病気の蔓延を防ぐ目的などの実利があったと見ることもでき、その場合、それは本能に基づく行為(嫌悪など)ではないが、理知的でありかつ現実的な事として、現象していたと考えられます。
喩えば医者が、感染予防を徹底していて治療に当たるのは当然です。それを理想とは言いません。しかし、それが完全に徹底され目的を達成するのが確実になったとき、それは理想的であるということができます。そこから清潔であることは特定のシーンにおいては特に大切であるとされ、かくあるべしとされ、そこから清潔にまつわる理想が生じたと見ることができないでしょうか。
つまり、速いや、高い、といった事柄に関しても、実利がその背景にあったのではないかと言うことです。しかしより速く走りたい、ということが、高いところから見渡したい、ということが、本能的な欲求ではないのかといわれれば、そういう面もあるとなるでしょう。しかしながら、それは興奮や顕示欲とはことなるのであり、こういう場合には、欲求と欲望の区別も必要となってくるかと思います。

ちょっとぐだぐだになりましたか、以上のような感じです。

投稿日時 - 2011-06-14 13:33:54

お礼

ありがとうございます。こんにちは。文明論の話をあなたの質問欄でしたから、ここでの回答は理想の話というより、文明論に特化されているという風に見ました。そしてこうやって、いらしてくださるからには、議論を望むという風に受け止めています。うーん、議論をしたいというところではありますが、ちょっと記述の仕方の問題点を指摘させてください。上げ足をとっているというのじゃなくて、議論を始めるにあたっての重大な障害と思えることです。

まずアナロジーが多すぎて、議論の繋がりが見えないのです。プラトニックラブというのは、愛をめぐること。不浄や穢れの話は宗教のこと。さて、それがなぜ技術の話と関係あるのですか。どこの国にも、何かしら通俗的なモノと、そうでないものを区分する概念がある。だから技術に関しても、実利や欲望と違う何かがあると推測される――これ以上のことを仰っていますか。

次にあなたは、自分が技術者でもないのに、個別の技術者の意見を取り上げることもなく、技術者はこう考えているはずだという言い方をしていますね。しかしこれでは根拠がないから、技術者によりけりじゃないの?といって終わってしまいます。こうなると水掛け論にしかならず、後の話が続きません。どんなに好意的にコメントしても「回答者さんは技術者にそういう期待をしているんですね」というだけのことです。何か根拠があっておっしゃっているなら、それを示してください。

それから理想の定義は、精神と理想を言い換えただけのことで、中身の定義になっていません。あなたはプラトニックラブというが、そもそもイデアがプラトニスムの語なのです。プラトン主義において、その言い換えの語が見つかるのは当たり前すぎるのではないですか。
そしてプラトン主義は日本にどの点で「浸透」しているのでしょうか。飯島愛が自伝のタイトルで普及させたプラトニックラブですか。しかしそれはプラトンとはあまり関係ないですね。ポルノ女優が肉欲と対極の「プラトニック」という形容詞をラブにかけたことが撞着語法になって、注目を引いたというだけです。

こうやって整理すれば、なかなかボールを返せないことが明らかでしょう。かくして僕はエチケットの問題として「うーん、そういう意見もありますか。ふむふむ」というくらいのことは言えます。しかし中身がよくわからないので、賛成も反対もできないのです。

投稿日時 - 2011-06-15 03:50:55

ANo.15

個人的な感覚なので、全ての人に当てはまるかどうかは分かりませんが、書いておきます。

人間が対象物に対し、想像力を働かせて「あるべき姿」を空想するとき、大きく分けて二つの方向性があると思います。

ひとつは、その「あるべき姿」が、既存のものに内在化されているが気がついていない、あるいは見えないようになっていると考える立場です。
この場合、外部との関連性は「あるべき姿」を隠すだけの邪魔物(制約)になると考えられるため、そういったものを極力排除した状態を想定することになると思います。ドイツのアウトバーンなどは、そういった思索の元に作られたのではないでしょうか?

もうひとつは、その「架空のもの」は、既存のものを含む外部に渡って広がっていて、観察者の心にまで広がっているがゆえに「感じ取ること」ができるという立場です。思索的には、「まず、全体があり、対象物や思索する心はその部分である」という視点になります。
この場合、対象物そのものよりも、外部との関連性(調和)の中に「あるべき姿」が想定されることでしょう。

ご存じかも知れませんが、西洋的視点と東洋的視点の違いについて、興味深い実験結果(アンケート結果)が2009年8月24日のテレビ番組で放映されていました。http://www.ntv.co.jp/marumie/onair/090824/090824_04.html#Q1

過去および現在の日本人のどれだけの人がどちら側の視点を有しているかは分かりかねますが、大震災後の多くの日本人の対応は、外部との調和の中に「あるべき姿」を想定して動いているように見えます。

投稿日時 - 2011-06-14 04:05:05

お礼

ありがとうございます。3.11以降、周囲に流されることなく、自らの欲望を再検討することが重要だ、という方向に話が固まって来たところではあったのですが、これには反対だということですね。つまり、

>大震災後の多くの日本人の対応は、外部との調和の中に「あるべき姿」を想定して動いているように見えます。

うーん、そうですか。客観的に捉えるということは大切ですから、このように対案も歓迎するところです。ただもう少し、この点については事実を想起できるように詳しく書いてくださるとありがたいです。
ともあれ、僕のいう方向性は、日本が西洋の思考スタイルを取り入れるべきだという議論であって、東洋的な感性を踏まえていないのではないかという指摘をなさっているとは言えそうです。しかし実はこの東洋的な思考の説明の箇所が、僕の不勉強ということかもしれませんが、よくわからないのでした。

>もうひとつは、その「架空のもの」は、既存のものを含む外部に渡って広がっていて、観察者の心にまで広がっているがゆえに「感じ取ること」ができるという立場です。思索的には、「まず、全体があり、対象物や思索する心はその部分である」という視点になります。この場合、対象物そのものよりも、外部との関連性(調和)の中に「あるべき姿」が想定されることでしょう。

ここがリンクのバラエティ番組「世界丸見え」のアンケート調査で、東洋的と言われているものの見方に対応するということなのだろうなと推測します。しかし一部を考察することで全体の様相を推論するとは、シャーロック・ホームズにも「一滴の水から大海を知ることができる」とあったように、甚だ西洋的な考察スタイルだと思うのです。いわゆる演繹法です(白状すると、僕は「世界丸見え」の説明にはバラエティとしての暇つぶし以上の説得力を感じませんでした)。そして最初の話に戻りますが、この演繹法の思考スタイルによって、日本が震災以後、周囲と調和しているとは、どういう意味なのでしょうか。ちょっと僕には想像がつかないので、保留したような書き方しか今はできないのでした。すみません。

投稿日時 - 2011-06-14 06:01:15

ANo.14

#10の木造さん関連で蘊蓄を。

>まったく理想を持たない国民で、ここまで技術的・文化的に発展した国は歴史上あったのでしょうか。興味がつきません。

あたしは、むかし自分の経験から、ドイツ人とアメリカ人、日本人とベルギー人、これをそれぞれ組みにして比較することを思い付いたことがあった。

ドイツ人とアメリカ人の共通点は、共に人間を規則でコントロール出来ると思っている。そして、ドイツはそれが見ごとに巧く行っている国のようだった。ドイツのある有名な研究所を訪れたとき、そこの建物の廊下の途中にところどころ防火用のガラス戸が付いていた。そして右側通行だったかどうか忘れたが、それに従って廊下を歩いているとそこに障壁があることが分からないくらいスムースに廊下を歩ける。ところが、その反対側を歩くと不自由きわまりない廊下だった。何とまあ、いろいろ計算されて出来ていることかと感心した。

その反対がアメリカだ。アメリカはidealistic country すなわち、理想、ないし理念の国と言うことになっている。実際、彼等は口では理想を掲げ、その実現のためにありとあらゆる規則を作っている。ところが、それが全く巧く行っていない国だ。そんな規則を皆が無視しており、めちゃくちゃな国だ。

日本人とベルギー人の共通点は、ともに人間を規則でコントロールするなんて出来っこないと思っている。だから、この両方の国は規則ではなくて、成り行きで人々が収まるところに収まるようにしておけば良いと思っているようだ。その成り行きに任せて見ごとに失敗しているのがベルギーだ。皆てんでんばらばらで、日本人から見ると何もかにもが驚くほど効率が悪い。まあ、ベルギー人の名誉のために言っとくが、ベルギーは美味いビールに美味い料理、人生の楽しみ方は、日本人よりも上のようには見えた。んで、それが巧く行っていない理由は、徹底した個人主義の土台の上に、成り行きに任せているからなんだと思う。

その反対が日本だ。日本人は、国とはこうあるべきだ、人々はこうあるべきだなんて前もって考えても無駄だ、規則なんか作ったって、必ず何処かで齟齬が出る。だから、成り行きに任せていれば良いんだってなところで、だれかお偉いさんがこうせいああせいと言うのではなく、皆に勝手気ままに行動させて、収まるところに収まるように社会全体が出来ているようだ。だから、神の手も、予定調和もない。偶然の成り行きで収まるところに収まるように構造が自発的に出来上がって来るのを待っている。そうして、少なくとも最近まではそれで見ごとに成功して来た国だ。実は、こう言う、何の計画書もなく何の存在目的もなく偶然の成り行きで、収まるところに収まるように出来上がって来る構造のことを散逸構造と呼ぶんだが、日本の社会構造はその散逸構造の教科書みたいにうまく出来た構造だ。散逸構造の特徴は、成り行きで出来るから、何が起こってもそう簡単に構造が壊れない。

何か前もって目的を決め、設計図に基づいて出来上がって来る構造は散逸構造ではない。例えば、それは高度な機械時計みたいなものだ。その存在は、自発的に出来た訳ではなくて、誰かその構造の外側にある者が、前もって存在目的を明確にして作り上げる構造だ。その典型が、例えば機械時計は驚くほど複雑に出来ているが、その中に一寸したピンでも放り込むと、その機械は動かなくなる。その点、われわれの体の構造も含めて、もともと偶然の成り行きで、前もってのシナリオも存在目的もなく勝って出来てきた散逸構造は、偶然の障害物に大変な抵抗力がある。だから、ピンの一つや二つ差し込まれたって、その機能は落ちるが、それで一巻の終わりといことがない。日本の社会はそんな散逸構造の典型だね。だから、日本の社会が出来るにあたって、ビジョンだ理想だなんてものが何の役割も演じていない。あるのは偶然だけだ。

パリを見ていると、その中心部の整然とした町並みは大変美しい。如何にもそれを設計した人間の理念が現れている。それに比べると、東京の町並みの乱雑さときたら、一見なんの秩序も見えない。30年以上昔に聞いたことのある話しだが、その当時は東京の建物は約30年ごとに壊されては新しいものが作れて来たそうだ。それをあちこちでてんでバラバラにやっている。それを、西洋の社会学者が、大河の流れに例えていた。東京の町は一見そこに留まっているように見えるが、いつも流れている。そこには渦があり、あそこには流れがと、あちこちいろんなことが起こりながら、いつもそのメンバーが変わりながら新しい何かを生み出している大変にダイナミックな、だから大変美しい町だ、と形容していた。

ドイツのやり方も日本のやり方も、互いに一長一短があるようだ。今回の原発なんて、そんな成り行きに任せていた付けが回ったってな風に考えられないこともない。あるいは、その反対に、国のお偉いさん達が、国民に取って何が必要なのかを俺たちには考える力があるんだとふんぞり返って、何かアメリカや旧ソ連見たいな理念を持ち出して、国民に任せずに国民には内緒で計画を進め、日本の伝統的な散逸構造に任せる方法を採らなかったために起こってしまった大惨事なのかもしれん。まあ、私はどちらかと言うと、付けが回った方だと思ってはいる。

あたしには、ゴルフとプリウスを比べるのは、トンボとチョウチョウを比べているようなもんで、こっちの方があっちより優れているのいないのなんて、そんな比較は意味ないと思うんだがね。

木造百年も良いが、30年ごとに立て替えるのもダイナミズムの源泉になっているっちゅう見方もあるみたいだが、どうかね、でえく。

投稿日時 - 2011-06-13 21:02:30

お礼

先生、ありがとうございます。僕の論旨からすれば、ゴルフとプリウスの対比など、親方の意見に反対するべきだったのかもしれませんが、未だ正面切って反対するのは苦手なところです。うーむ、なるほどと、とりあえず口にし、相手が何を言いたいかの大枠をつかもうと思ったりもするのです。おそらく親方が、先生の話に応答してくださることでしょうから、基本的には僕はちょっと隅で傍観させてもらいます。ここでは雑感を書くにとどめましょう。

パリの街並みですが、あれは新古典主義によるもので、大革命期の名残です。新古典主義とはギリシア様式の復古調ですが、ギリシアの文化を大々的に取り込んで、ポリス的な民主主義的を気取ったというのが、そもそもです。建築物、街並み、その様式が民主主義を高らかに称揚しているというわけです。まさしく理念によって街並みが作られ、古い街は自分らで壊してしまった。東京となれば、焼け野原らになり果てた中で、再興してきた街です。ヴァイタリティがあれば、何でもよかった。民主化が理念に基づいて行われたのか、それとも成り行きによって起きたのかという差は、まさに街並みに出ているわけです。

しかし散逸構造とお書きのように、東京は散逸しているが某かの構造ではあって、街もできてしまったものを受け入れて、接ぎ木する形で、何らかのまとまりができてきた。憲法もとりあえず外国の草案との合作でできたが、まぁ、それもなかなかいいじゃないかと受け入れた。こんな寛容さ、あるいは事後承認の力が、日本の見出した平和なのかもしれない、とも思えます。
先生は原発の問題を、成り行き任せか、一部が主導したせいかと問うておられますね。しかし、僕は事後承認の力を当て込んで引き起こされたのだと思っています。つまり、何が起きても受け入れざるを得ないし、受け入れる力が日本にはあるだろう、というアテがあり、また国民の方にも自負があった。その結果、それは首脳部の無責任を引き起こし、また国民が首脳部任せにするということにもつながったと思えます。

散逸構造を形成したパワーとは事後承認の力である、と僕はここでいっているのですが、原発事故は、果たして事後承認できるようなレヴェルのものなのか。いや、そうはいかないだろうと僕は思ったりします。すると日本のあり方が変わって来るだろうなとは思います。No13のお礼欄でも書いたのですが、受け手の側が拒絶するということが今後起きてしかるべきであり、またその判断基準が求められることになるだろうな――というのが僕の時代の読みです。

受け手側が拒否するようになると、日本流の散逸構造は構造として体をなさず、何かバラバラな時期を一度、経なければならないだろうなどと思ってみたりもします。それくらいなら散逸構造のまま留まろうという意見も出てくるだろうな、と思ったりもします。それでもなお散逸構造を脱するべきか否か。これが問題です。

もしよかったら一つ伺いたいのですが、物理学的にみて、散逸構造から、理念によって統制が取れた構造への移行は可能なのですか。あるいは、まったく行われえないのですか。これは余談に属すると思うので、ご無理でなければ、お教えください。

投稿日時 - 2011-06-14 06:59:04

ANo.13

 質問者様からの問い掛けに対して一言、直接の答にはなっていないかもしれませんが、僕の好きな舞台作品に『ラ・マンチャの男』というブロードウェイのミュージカル作品があります。セルバンテスの作品『ドン・キホーテ』をベースとする作品ですが、その中にこんな台詞があります。曰く「狂気とは何か。現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれない。夢に溺れて現実を見ないのも狂気かもしれない。だが最も憎むべき狂気はありのままの人生に折り合いを付けてあるべき姿のために闘わないことだ」。
 ドン・キホーテは風車を巨人と勘違いして突撃していくような夢想家であることには違いありません。近代の理知的な発想に基づいて端から見れば“馬鹿げた発想”と映るのも頷けます。けれども「斯くありたい」「斯くあるべし」との志そのものを一概に否定することもどうでしょう。
 僕は質問者様の「理想」という表現をこの台詞の「あるべき」と同じ事として考えてみました。精神的な意味であるいは人の生き方において自らが拠り所とするものが戦後そしてバブル更には3.11といった節目節目でどのように変化してきたか。僕の両親の世代は幼い頃を戦後の焼け野原の中で「明日の食料(かて)をどの様にして手に入れるか」として過ごしてきた世代です。ですから「生きる」ことを充足させることが当面の課題であり、「理想」としては次の月に家財道具として何を揃えようかと現実の要求を先ず念頭に置いて働いてきた。やがてそれが満たされると同時に今度は「どのような家庭を築き、子供にはどの様な将来を模索させるか」として「家族としての設計図」を書き始めることが一般的に普及?していった、と当時のニュース映像などから僕の眼には映っています。
 「個」としては「小さな幸せ」を追求することが決して悪いとは思いませんが、一部としてその中に芽生えていた「お金があれば何でも出来る」そのためには「世の流れに抗うことはよろしくない」との意識が「長いものには巻かれろ」或いは「寄らば大樹の陰」として「物言わぬサイレント・マジョリティ」を生み出してしまった背景にあるのではないのかとの理解を持っています。
 この「余りに過度の拝金意識」が70年代後半から80年代にかけて地下水脈のように進行していき「消費は美徳」との歪んだ認識とその絶頂期としてのバブル経済とそれを裏付ける旗振り役を務めたのが「デジタル」に依拠する「二極化」の発想。それらの現実を覆い隠そうとするための「喧しい精神文化論」の終着駅が現在の日本が抱えている諸問題です。
 「戦後日本」という言葉の響きから外国の人が思い浮かべる単語を列挙するならば、古くは「トランジスタの商人」でありそこから「エコノミック・アニマル」「SONYやPANASONICなどのメーカー・ブランド」という具合にモノは出てきますが、日本の歴史や文化に造詣の深い人でない限りは精神文化を想起させる言葉が出てくることも多くはないのが現実です。外国からみれば「日本=モノに固執する集団」としか映っていないのではなかろうかとの思いすらします。
 「モノに満たされた充足感」が直ちに日本人の描く「理想像」には該当しないかもしれません。「個」としての日本人を見た場合に、果たして西洋の文化や哲学で説明される「理想」に対応する事象を具体的に提示できるほどの確たる証拠も僕は持ち合わせていません。何となれば、日本社会の歴史的構造の特殊性として常に指摘される不思議さ、つまり「統べる者と従う者」の関係において、従う者は従うことにある種の充足感を持ちそこに安住することになぜ疑念を持たないのかとの疑問です。
 もし日本人に「なぜ?」と社会と社会のあり方に対して問い掛ける姿勢が顕在化していたのであれば、フランス革命よりも以前に日本での構造的変化が生まれていたはずです。それがなかったのは異質なモノに対する無意識の警戒があり、金太郎飴のように同化することによって社会に受容される条件を手に入れる事ができる「ムラ意識」とも呼びうる思考様式が何処かにあるのではなかろうか。或いは己が懐深くに仕舞い込んで表には出さないだけとの処世術が働いているのやもしれません。
 僕の個人的な見解としては
(1)日本語では西洋に見られる「理想(The Impossible Dream)」に相当する言葉は精神文化が有るか否かは疑問
(2)モノ文化としての「理想」と限定する場合に「充足感」を得る手段てとして「貪欲」は現実の形・方法として顕在化する
(3)に関しては何とも申し上げることもできません。「衣食足りて礼節を知る」などとの言葉はいつの間にやらこの国では死語と化してしまった風潮が漂っていますので。
 ただ「3.11」を境目としてこの国に再び「分岐点」が訪れていることは紛れもない現実であろうとは思われますが。
 青二才の上に不勉強なモノでまことに申し訳ありませんが。

投稿日時 - 2011-06-13 20:09:18

お礼

タヌハチさん、どうもありがとうございます。青二才とおっしゃいますが、僕の方がどうやら若いので、御遠慮は無用です。『ラ・マンチャの男』の導入部をはじめとする具体例を、非情に面白く読ませていただきました。僕もセルバンテスはとても好きです。全体の概要は、――戦後の日本は、ともかく生きるのに必死で、物質の豊かさを追い求めた。理想はなかったと言える。実際、高度経済成長期に、日本は精神的と言われるような文化を算出できなかった――という風に読みました。

高度経済成長期の日本の芸術家も何もしなかったとは言えませんが、世界的に知られることとなった村上春樹がそうであるように、多くの芸術家は精神的な文化の担い手であるというより、商業主義に乗っかったスターであるという風に僕には思えます。『ノルウェイの森』のように、売れるから、注目された。そして読者も、もはや芸術家に精神的な支柱ではなく、生活を少しおシャレにしてくれるセンスを求めている。なるほど深い精神性があったらあった方がいいが、それを得ることに労力を注ぐ気はなく、ちょっと楽しく、教養を自慢できる程度でよい。これをわかってなのか、村上龍に至っては、生活を豊かにするハウツーを、具体的かつ丁寧に教えてくれるアナリストと化しています。
精神性ではなく、センス。理想と貪欲という区別がなくなった現状にはNo11と12のご指摘を踏まえつつ、それらのお礼欄でも書いたのです。しかしタヌハチさんから、精神的なモノの産出というお話を振っていただいて、これもまた現代の世相を反映した切り口となりうるかと僕には思われるのです。

このセンスが問題だと思われるのは、あらゆるものを等しく、商品とみなすからです。これは、「ブルータス」をはじめとする雑誌を開けば、一目瞭然です。芸術作品も、アップルコンピューターの洒落たデザインのパソコンだとか、デザインの良い製品も、同じ価値の土俵で提示されます。ここでいうセンスとは、いうなれば、商品として買うことが可能な精神性だと僕には思えています。
いや、これでは精神性など生まれてこないでしょう。というのも勉強するより、お金を払う方が楽です。いいかえれば、芸術とデザイナーの商品が同じ価値を有しているのなら、後者を買った方が楽ですし、かつ確かな投資です。というのも、芸術作品など、買うには買ったが、理解できるかわかりませんから。こうした中で形成される風潮とは、お金を払って理解できないのは、作り手が悪いものです。こうなると、精神的文化の担い手も、自らの信じる「あるべきもの」を作れなくなります。お客様に媚びなければならなくなります。

ここで話がドン・キホーテ―的な挑戦をやることのむずかしさに戻ってくるのですが、モノづくりの担い手が「古典主義的な精神性」を目指して、遍歴の騎士をやると、どうも生活の糧を奪われてしまうように思われるのです。真理を追究するという意味での理想をやると、どうも説教臭くなるでしょう。それよりは、「何となくクリスタル」(田中康夫)のヒロインが好みそうな、何だかわからないぼやっとしたセンスのいいもの生産して、買いまくってもらった方が楽なわけです。

しかし土壌が変わらないことには、変わらないと思うのです。コンセンサスを裏切り、ドン・キホーテ―となるべきなのは消費者である、という風に僕は思ったりするのでした。消費者が味付けだけの良いものに強くNOを突き付けることは、3.11以降、重要であるように思えます。その一歩として、自らの欲望を見つめ直すことが重要などと僕は考えているのでした。少し話が脱線気味になってしまいましたが、議論の方向性自体は同じという上での、意見交換ということでお許しください。

投稿日時 - 2011-06-14 05:23:42

ANo.12

三度失礼いたします。

(1)多神教の価値観に基づき、人それぞれの「考え得る最も完全なもの。(中略)意志と努力との究極の目標として観念的に構成されたもの」
vwにはvwの、トヨタにはトヨタの。
西岡常一には西岡常一の、
ミケランジェロにはミケランジェロの、
演奏家にはそれぞれね理想の音があり、
私には私の理想がある。
それぞれ、過去の天才が到達した地点かもしれないし、その先の前人未踏の地点かもしれない。

(2)貪欲と呼ぶかどうかはわかりませんが、人の抱く理想には完全はなさそうです。中には間違った理想も、社会に害になる理想もあるかもしれないのが、日本人の「理想」観ではないでしょうか。

(3)顕された結果が全てではないでしょうか。
トヨタの車の評価、
西岡常一の仕事の評価、
私の作ったパンの評価、
原発の評価、
危機管理の評価、
行動の評価。

投稿日時 - 2011-06-13 19:40:10

お礼

ありがとうございます。そうでしたか、パンをおつくりになられる方でしたか。大変、失礼いたしました。僕がファンタジアという言葉を軽々しく扱ったと咎められた理由は合点がいきました。確かに経験知が不足していると思われたことでしょう。実際、「人と違うものをやってやろう=独創性」と思って、何かすると失敗するものです。淡々と自分の思う正しいことをしていたら、いつの間にか、人と違うことになっていた、というのが王道と僕は思っています。
またファンタジアはもともとラテン語(ギリシア語だという説もある)で、ヴィジョンの意味です。想像力によって、何かの情景を描くという意味がもとで、そこからさまざまな語義が派生したわけです。想像と観想の差はあるが、目の前にはないものを着想するという点で、とてもイデアに近い語だと思います。こういうことはわかってはいたのですが、ただ、コミュニケーションとして、どうボールを投げ返していいかわからなかったのでした。お許しください。

さて、多神教の価値観というのは、日本古来のアニミズムということでしょうね。それをベースに多様な価値観を受け入れ、絶対評価で、それぞれが「よい」と考えるモノを受け入れるべきである、ということですね。
こうなると理想とは主観的なモノであって、客観的に見れば「愚かしい理想」という形容矛盾に陥った事態も発生するには違いない。ただしその理想の質を吟味するより、その結果をまず見て、多様な欲望を受け入れるべきである。
これはNo11の方の意見と、近いなという印象です。そして僕の意見によれば、現状の日本はこれなのです。

しかし、最終的には「その質そのものを問い直すことで、自らを規制することが必要だろう」とおっしゃるわけです。従来の欲望に寛大だった状態から変わっていかないとならないという方向性について、まさに同感です。3.11が時代の変わり目なのかなという印象をもっています。

投稿日時 - 2011-06-14 03:52:58

ANo.11

(1)日本語の「理想」をどのように定義するか。
○ 小さな社会、例えば会社、集団、村、町でみんなが幸せに暮らせる社会を理想としている。
(2)理想と貪欲は、異なるといえるか。
○ 立場の違いだけで同じ。例えば、経済大国の日本が自国の利益のみを考えて歴史を刻むことは他国から観れば貪欲そのものに見える。国を会社、集団、村、町に置き換えても同じ。
(3)その判断基準はどこにあるか。
(2)に同じであるが、トップに立つということは回りに良い影響を与える義務があるというのが基本。日本人その基本を忘れてしまっている。
理想国家とは、理想を実現すべく努力する国民性と同時に、国が発展して国民が豊かになれば、その方法を他国にも広める努力をすることです。小さな理想は貪欲に変わるのですね。理想は際限が無いので実現した理想をより多くの者が手本にして豊かさを享受するような世界を目指すということになりますね。
日本にはそれが欠けていますね。
例えば、隣国が無謀な軍拡をすれば、いさめるか自らの軍事力で他国を守るということも大国であれば義務として考えることも理想国家ですね。立派な軍隊を自国の災害のみに使うというのは貪欲になるのですね。というように理想というものは国の根幹や個人や国家の未来を創っていくものですね。

投稿日時 - 2011-06-13 18:06:33

お礼

どうもありがとうございます。まずムラのような小さな社会全体に富が「幸せ」に行きわたることが理想あるというわけですね。富を欲する気持ちには、善も悪も無い。しかし一部の者がせしめる貪欲という行為は、ムラ社会の「幸せ」を脅かすだけに、糾弾されるべきである――これが大筋であると思います。欲の質を問うのではなく、その分配の仕方が問題である、というわけです。
これは村全体が豊かになるならどんどん豊かになってよいということですから、この自由が引き起こす問題は、ある村が富栄えても、他の村が貧困であるという事態です。つまり、ユートピアの村が富を総取りしないように抑制するブレーキを果たす概念とは何か。次のようにお書きです。

>理想国家とは、理想を実現すべく努力する国民性と同時に、国が発展して国民が豊かになれば、その方法を他国にも広める努力をすることです。小さな理想は貪 欲に変わるのですね。理想は際限が無いので実現した理想をより多くの者が手本にして豊かさを享受するような世界を目指すということになりますね。日本にはそれが欠けていますね。

つまり「大きな理想」をもつ必要がある。それは、世界は一つとでも言うべき、自分の村を超えた統一されたコミュニティを構想し、富める村はそこでリーダーとして富の再配分を行うべきである、ということですね。

これは非常に鋭いご意見だとも思いました。つまり欲望の質を理想とか貪欲とかその是非を吟味しなかったとしても、――言い換えると欲望全部を肯定したとしても、総体として富を再配分する「大きな理想」で調節できるという考え方は、十全にそれが達成されていないとご指摘ではあるものの、日本が行こうとしている道と思えます。僕は正直、自衛隊には人道的な立場から、紛争地に関わって欲しくないと考えています。しかし技術を分配したり、寄付を行ったというのは、まさに富を再配分していたといってよいでしょう。

しかし3.11以降も、富を再配分するだけでいいのでしょうか。僕としては、やはり欲望の質を吟味し、個人個人、ひいては国家全体が、自分でブレーキをかけた方がいいのではないかと考えているのでもあります。その理由は原子力のように、国全体をとにかく電力で満たそうとしたはいいが(つまり徹底的に富を求めたが)、過剰に作り過ぎた上、国土を危険にさらしたという事例があるからです。その富の追求が果たして必要なものなのかどうか、吟味する必要性を感じているのでした。

投稿日時 - 2011-06-14 03:23:44

ANo.10

叢さんの質問は今一焦点が見えないのですが、理想に関して雑感を少々。

戦後、日本とドイツは国土が荒廃しましたね。
ちょうどモータリゼーションの波があったので、両国とも膨大な公共工事をしてい道路を作った。
一つだけ大きな違いがあるのですが、ドイツでは、道路は、自動車がスピードを出すために直線で作り、また交差点で停止しなくてすむよう出来るだけ立体交差をつくった。結果、片側一車線の田舎道を走っていても立体交差が多いので、車を停止する必要がない。一方の日本では、車がスピードを出すと危ないので新規の道路も緩やかなカーブをつなげて作った。もちろん交差点には信号機を付けて車を停止させるし、交差点以外でも出来るだけたくさん信号機をつけるよう、地元の市会議員に陳情するのが当たり前だった。結果、日本では100Kmの移動をするのに、ドイツ人の倍の時間をかけて、1.5倍ぐらいの燃料を消費して運転してゆく社会が出来上がった。

さて、ドイツ人と日本人の間に土木技術の差があったのか?ドイツ人ならできる土木で日本人には出来ない土木があったのか?無いですね。
違いは理想だけです。
車は止まらずに走るのが理想だということを明確に認識してできるだけ理想に近づけようとしたドイツ人に対し、車社会の理想を描くことなく、車のネガの部分を抑制することに情熱を注いだ日本人。
角を矯めて牛を殺すと言いますね。

プリ薄という薄い車、じゃなかったプリウスというガソリン車でバッテリー駆動の電動モーターを兼備した車があるでしょう。
この車は、自動車が自動車らしく走れない場面(=渋滞)で燃料の無駄を省いて環境にやさしい。
ドイツにはゴルフという名前の大衆車がありますが、この車はプリウスとはことなり、自動車が自動車らしく高速運転するときに燃料の無駄使いをなくすよう、直噴エンジンにターボチャージャという一昔前ならレースカーに用いられる技術を国民車に載せてしまった。トヨタとVWの技術の差がどの程度あるのか存じませんが、理想が違うことは明らかですね。

国家の理想、理想の国家を記述するとすれば、それはどこでしょう?
そう、日本国憲法前文です。
この日本国憲法前文を外国人に書いてもらった原稿で済ましてしまう、これが日本人ですね。

日本人ってのは世界でももっとも理想に頓着しない国民だと思います。

今、喧しい原子力発電の議論。
もともとの理想は、化石燃料が枯渇してゆく中で、世界人類(=70億人)が電力の恩恵を受けるにはどうしたら良いか、から始まったはずですが、ちょっとトラブルと理想は忘れて、ネガつぶしの議論に入り、ネガがなくせないなら理想も要らないや、ってな議論になっちまう。

まったく理想を持たない国民で、ここまで技術的・文化的に発展した国は歴史上あったのでしょうか。興味がつきません。

投稿日時 - 2011-06-13 13:43:25

お礼

親方、ありがとうございます。おそらくNo6のお礼欄も読んでくださったのだと思いますが、なるほど、総体として、日本は理想がないということですか。

うーん、そうですか。僕が「理想がないはずがない」と持っていこうかと思ったところで、「いやいや、おまえ、本当にないらしいんだから」というわけです。車の例は知りませんでしたが、確かに、そうですね。エコ・カーといえば何でもいいのかと僕は思ったら、ゴルフのように、早く目的につく車も、なるほど総体としてエコにはなっているかもしれません。車とは何であるかという本質を見極める力が、日本人には欠けていたと言えそうです。

こうした本質を見極めることなく進む有様は、作ってもらった憲法然り。理系の花形だったにもかかわらず、今やお荷物と化して迷走している原発然り。日本のどこに理想=ヴィジョンがあるのだろうか、無いではないか、と看破なさっているわけです。これらをまとめると、次のようになりそうですね。
(1)理想とは本質を見極め、一貫したヴィジョンをもつことである。
(2)理想と貪欲の差は、判断なし。しかし日本には理想がそもそもない。
(3)現代の迷走する様をみれば明らか。

しかし日本人が理想=ヴィジョンをもつには、何から始めたらいいのでしょう。教養もドイツに比べて、それほど劣っているわけではないように思います。根本的に何がダメなのだとお考えですか。結果論として、大国になったのだから、このままでいいではないかというお話ではなさそうだと思うのですが。

投稿日時 - 2011-06-13 16:51:16

日本語に理想という言葉がなかったというのは、その通りだろうと思えます。しかし言葉がないから、概念がなかったと言えるでしょうか。とりわけ、理想のように大切な概念をめぐって。故意にやっているのかもしれませんが、キリスト教圏でなければ、秩序も何もないと述べているのと、この命題は同じようなものだと思えます。しかし「理想」という言葉が伝来する以前、もともと何かしら「理」という言葉をめぐって、イデアとはいわないまでも、観念的なモノがあったと思うのです。でなければ、訳しようもなかったはずです。

そこで、それこそ大辞泉を引けばですが、「理」には「中国宋代の宇宙の根本原理」という意があるそうです。つまり秩序の整頓された様を、玉の筋の整った様子になぞらえて呼んだのが、「理」です。これに即せば、「理想」とは、真理や道理が筋道正しく行われることを想いうかべた語だと解釈してよいでしょう。なるほど儒教の理と、キリスト教圏のイデアは異なります。しかし儒教の構想も、イデアに劣らないものです。なぜなら「理」は、真と善に密に関わるからです(どうも美には関わらないらしいから、真善美が一致するイデアとは違うわけですが)。

さて、No6の文明についての記述は、なるほど、欲望と理(ことわり)が一緒くたになっている現状というものがあるのかもしれませんし、それは私も否定はしません。しかしそれが言葉の定義が曖昧であることによって引き起こされたと考えるのは、飛躍というものでしょう。むしろモラルの低下によって、「理」を認識する力が弱まったと考えるのが、筋道ではないでしょうか。そのモラルの低下を、「理想」という言葉の定義の曖昧さを切り口に浮かび上がらせようとするのが、この設問の趣旨だとは認めはしたとしてもです。

ご参考までに。

投稿日時 - 2011-06-13 12:20:19

お礼

どうもありがとうございます。僕の設定した形式に即せば、
(1)理想とは儒教の「理」である。
(2)それは貪欲と違う。
(3)その基準は理の下地となる儒教にある。
ということになりますね。

おそらく理の他にも、理想に相当する語は何かしらあったかもしれません。前の語が死語になって、置き換わっただけである、とは言えるかもしれません。僕はキリスト教圏でないと秩序がないと言いたかったわけではありませんが、ともあれ、言葉に捉われていたかもしれないとは思いました。

しかし儒教にせよ、ネオ・プラトニスムにせよ、元の根っこの部分を、現代の我々が忘れているということも確かだろうと思うのです。その結果、理想という語は、イデアを下地に持ちながら、貪欲と区別さえつかないのが、現状になってしまった。果たして我々が今、その根の部分を捨象して理想という言葉を使う時、代わりに何を込めているのかを知りたいところです。

サイコロさんも儒教やキリスト教の元の根っこを踏まえて、理想という語を使っているわけでは必ずしもないでしょう。個人的な見解を教えてもらいたいというところです。

投稿日時 - 2011-06-13 12:49:36

ANo.7

「理想」の対義語は、「現実」であり、状態に関する定義であって、
貪欲や欲求のように内的な条件とは、同一次元では扱えません。
現実において生じる何らかの価値観において、それを敷衍して
得られる極限を意味します。
それが、「貪欲」が往々にして意味しがちな、即物的欲求とは、
どちらかといえば距離をおいた、認識的な指向です(「同一次元
ではない」ので、例外的に衝動的な指向の極限も「理想」と言う
場合もあります=酒池肉林的な)。
「理想<>現実」「貪欲<>禁欲」において、物事をとらえるべきで、
無理やり結びつけても、混乱するだけです。

投稿日時 - 2011-06-13 09:58:04

補足

【質問全体の補足】
この設問が屁理屈ではないかという指摘が相次いだので、齟齬を埋めるべく、設問の動機をNo6のお礼欄に書きました。もし不審に思った方がいらしたら、そちらを参考にもしてください。

投稿日時 - 2011-06-13 10:37:39

お礼

どうもありがとうございます。理想の対義語とは、現実というのはその通りですね。対義語にしておくと、一応は、整理されています。混ぜるなというのもごもっともです。

しかし、その観念的な世界の内実とは何かと問うてみましょう。psytexさんが述べていることは、端的にいえば、イデア界でしょう?が、日本の文化にはイデア界についての認識がない。では「理想」は、果たして日本人がどう理解することができるのでしょうか。日本人に「理想」が理解できないとは言わないが、酒池肉林もあり得るとお書きのように、貪欲とまぜこぜになってしまっているのが現状ではないでしょうか。

僕が混ぜているというより、既にまぜこぜになってしまっている現状を指摘しているというつもりだったのです。日本人にとって整理を明確にする分かりやすい理想の定義があったら(つまりイデア界以外)、ご教授ください。

投稿日時 - 2011-06-13 10:20:00

ANo.6

あたしが訳が解らんのは、そんなところで筋道を付けて、話しを何処に持って行こうって言うのかってところだ。論理を弄んで時間つぶしでもしようと言う以外に、何ら生産性を感じないんだが。

問題の提起がその回答よりも常に優れていると言われる所以は、その問題の提起の動機にある。んで、その動機は何なんだ。

投稿日時 - 2011-06-13 08:47:34

お礼

僕は先生のように上手く書けませんから、そのままの順で書きますよ。

僕の当初の疑問は、日本人の築き上げた高度な技術の文明には理想があるのか?という大味なものでした。なるほど日本は経済大国で、様々な豊かさを実現してきたわけです。しかし、この豊かさは貪欲とはどう違うのだろう。理想だと断言できるのか。原子力をはじめ、どうも理想と呼べないようだというのが、僕の考えです。

とはいえ、待て、待て、そう自国を卑下するものではない。理想とはそもそも何だっただろうと考えました。そこで「理想」という語を、改めて調べてみました。設問に書いた通りですが、どうも「理想」は西洋の宗教的な背景をもった語であるらしい。おそらくideaをそのまま明治に訳して、理念(イデア)を想い描くという意味で、「理想」という語が生まれたんだろうなと思われました。

もともと外来語ではある。しかし日本人は「理想」という言葉を受け入れて、その概念を支える文化的な下地がないにもかかわらず使い始めてしまった。この結果、何でも欲望を「理想」と呼んで美化し、自らの欲を見つめなくなったのではないか?と僕には思われたのです。そして実際、大辞泉では(「完全」がイデア論を踏まえた神であるとわかれば問題はないが)、究極の貪欲が「理想」なのか?と思えるような説明になっている。

僕は大辞泉をやり玉にあげる気はないのですが、この時、なるほどなぁと思ったのです。そもそも、理想という語の定義が、ここまで大味だったら、何でも「理想」と呼びたい放題じゃないか。そして功利主義の企業にせよ、エネルギーをやたらと増産する原子力にせよ、何でもかんでも「理想」という言葉の影に隠れて、欲望を美化することも矛盾ないじゃないか、と思われたのです。
更に恐ろしいのは、自分で欲望を美化して欺いているという自覚があるなら兎も角、最初から、理想と欲望の境を見分けがついていないのかもしれないというこです。というのも、辞書の語義からして区分がないのだから(広辞苑、明鏡の定義も、必ずしも明快とは思えません)。実はこんなことを、哲学カテの他の質問で文明論をやり取りしていたら感じました。

さて、話を文明に戻しますが、こうした日本の現状は、これまた貪欲に関する西洋の比喩をもってくるなら、バベルの塔をやっているようなものだと思われたのです。当人らは、「完全」「すばらしいもの」「最高のこと」を「観念に従って」やっていると思って石を運んでいるが、神からみれば、それは貪欲の所業に他ならない。結果、メルトスルーのごとき、天誅を非情にも連帯責任で食らわせられる。
バベルの塔の民らは理想と貪欲の区別もついていないから、彼らからするとなぜ懲罰されるのかもわからず、定めし悲劇には違いない。しかし、こうなりたくないと思えば、理想と貪欲の概念を区別しておくべきでだと思ったのです。しかし概念の区分には、最初に道具として、語が必要になります。理想の語義が大味なままであれば、穴のあいた桶で水をすくっているようなものと思われます。かくして日本人が日本語で使う「理想」の内実を問うたのです。

投稿日時 - 2011-06-13 10:07:14

>独創性

なるほど経験知の不足ですね。ものづくりに独創性なんてないんですよ。作り手にあるのは「理想」。観る人間が勝手に「独創的」と呼ぶことも在るだけです。

演奏家も技術者ですから、常に「理想」を意識しているでしょうね。

貪欲との違いですが、
貪欲は人の状態、意識の在りよう、
理想は想い描かれた観念、
を意味しているのではないですか?
○「理想を抱く」
×「貪欲を抱く」

辞書変えて、考えた方が有意義だと思います。

投稿日時 - 2011-06-13 07:58:11

お礼

再投稿、ありがとうございます。正直、何が言いたいのか、よく、わかりません。そういじわるせず、どうぞ丁寧に書いてくださいな。

まずファンタジアは、独創性でなければそれでも結構です。僕はイタリア語を訳しただけですから(語義はたくさんありますよ)。しかし、もともと何が言いたかったのですか。
また経験知と書いているのに、なぜ自分の経験を超えて、「ものづくりに独創性なんてないんですよ」と一般化して断言できるのですか。どうも曖昧であると、僕には思えたのです。ここまでおっしゃるからには、モノづくりの語経験があるのだと思いますが、詳しく書いてくれないと説得はされません。

さて、貪欲と理想は、前者が状態で、後者が思い描くものだと、動詞「抱く」を根拠におっしゃるわけです。しかし、その中身に違いがないかと僕は聞いているつもりなのでした。
辞書は、まぁ、叩き台にしているだけです。大辞泉が間違っていると述べてはいないのですが、どうもそう見えてしまったようですね。広辞苑を使ったとしても、同じように考えたと思いますよ。

投稿日時 - 2011-06-13 08:33:16

ANo.4

理想と貪欲は関係があります。それは、風が吹けば桶屋が儲かるからです。

投稿日時 - 2011-06-13 06:58:51

お礼

ありがとうございます。先だっての僕の非礼、お詫びします。こうして尋ねてきてくださったのですし、仲直りしませんか。

ところでご回答の内容は、「風が吹けば……」という但し書きつきですから、理想と貪欲を並べるのは無茶苦茶な理屈であるとご指摘なさったという風に読んでいます。

結論としては、僕もそう思うのです。しかしその筋道が、今一つ、わからぬというところです。当たり前すぎるとおっしゃるかもしれませんが、教えていただけませんか。

投稿日時 - 2011-06-13 07:31:05

広辞苑をひくと(ideal)と載っています。「考え得る最も完全なもの。(中略)意志と努力との究極の目標として観念的に構成されたもの」
だそうで、完全にイデアの訳語です。福沢諭吉なんかが作った翻訳語なのかもしれません。
辞書に混乱させられてしまいましたね。
二番三番は割愛します。

実際はこう使います。

お得意さん「余所んちのパンを買って帰ったら、孫が食べてくれないんだよ。
粉が違うんかねぇ、
酵母が違うんかねぇ」
パン屋「いいえ。違うのは『理想』です」

イデアとの対比は判りませんが、イタリアではこんな言い方をするそうです。
「職人の仕事は、手とファンタジアだ」

余談ですが、その「西洋の文脈」はキリスト教下の話ですか? イデアは確かギリシア発祥なので、多神教の価値観が大本ではないでしょうか?
「神」といっても絶対の価値ではないので、ご質問のイメージとは違うような気がします。

投稿日時 - 2011-06-13 05:31:05

お礼

ありがとうございます。うーん、僕の質問が分かりにくかったかなぁと、頭をかいています。

まず「理想」が福沢諭吉などの訳語である可能性もありますし、それは先刻承知なのです。しかし、もう日本に浸透して、普通に使う単語になってしまいました。となると、もともと外来語でござい!と言ってすむ話ではなくなった、というのが話の出発点です。だから当初から「日本語の『理想』」と「日本語の」と但し書きをつけた上、理想が括弧にくくられているのです。

次にギリシア云々の話ですが、ギリシアとキリスト教は全然宗教の体系が違うではないかと思うでしょうが、それは、うーん、早合点です。というのもルネッサンス期にネオプラトニスムが美術に影響を与えた、って聞いたことあるでしょう。異教なのに変だなと思いませんでしたか。異端審問にならなかったのか?と疑問に思いませんでしたか。
実は「ネオプラトニスム」という概念が十九世紀に誕生して、ギリシアとキリスト教が、精密に腑分けが進んで来たのは今日のことです。それまで、ギリシア神話と聖書が混同されていることも多かったのです。こうした例は、二十世紀だと、シモーヌ・ヴェイユの『キリスト教的直観』などに見られます。ゼウスと一神教の神は同じものとして語られており、この論考は修道院などで読み上げられたのだそうです。

最後にパンの比喩です。

>パン屋「いいえ。違うのは『理想』です」
>職人の仕事は、手とファンタジアだ

ここでいうファンタジアは、「空想力」というより、独創性という意味でしょうね。理想とは独創性だという提案かな?と思って読みました。

投稿日時 - 2011-06-13 06:03:39

ごめんなさいちょっと興奮しちゃって
強く言いすぎちゃいました。反省してます。

たぶんkusa-muraさんの主張したい事は
私の思いつかないところのレベルの事なのだろうって考えたら、
わたしがでしゃばったのかもって思いました

気を悪くしたのでしたら、本当にごめんなさい。

投稿日時 - 2011-06-13 04:21:39

お礼

大丈夫です。どうもありがとうございます。

投稿日時 - 2011-06-13 05:31:49

私は自分の自己実現のために学校を選んで、そこで頑張ってます。
これは自分の理想のために頑張って入った環境なんです。
その学校に入れた自分は、理想の環境を努力して手に入れたと思ってるんです。
今は理想の環境の中に所属する自分を更に成長させようとしてるんですけど
(もっといい環境にしようと、個人ながら、努力しています)

これって、実現しないものなんですか?
私はいま、自分の所属する環境が現実のものだって普通に思いながら、一生懸命
やっているんですけど、これって実現しないほどの願望なんですか。

貪欲ってなんですか?

>>>つまり理想とは実現しえないほどの充足を望むことで
>>>あって、この説明のみでは、貪欲greedの最たる状態ではないか?
>>>とさえ思われるのです

実現した現実の環境で頑張っている人達がいて、その人達を「貪欲だ」と言い切れるほどの
傲慢さがあるんですか?

一生懸命やっている人達がいるんですよ?
なんかムカつきますこの質問

投稿日時 - 2011-06-13 03:32:04

お礼

ありがとうございます。理想と貪欲は全然違うものだから、おいそれと混ぜるようなことを書くんではないよ!ということですね。
確かに、やることなすこと望むこと、何もかも貪欲とくくられたら、たまったものではありません。何かしら「正しい」と思う気持ちがないと、その目的に向かって邁進できません。後ろめたい気持ちなどもちたくないものです。

しかし、どの望みが「理想」と呼んで胸を張れるものであろうかと考えると、設問に示したように、その基準は曖昧だと僕は思ったのです。これはよろしくないと思って、質問してみました。この答えの糸口がわかったら、理想というものに対して確固たる自信を持って、邁進できるかもしれないなと僕は思っています。

一生懸命やることそれ自体が素晴らしいことであって、真摯な気持ちがあるかどうかが、一つの基準となるというご意見を頂いたと、まず考えてみたいと思います。そうですね、僕も学生の頃、そう思っていました。これも一つの有力な説として、受け止めさせていただきます。

ご学業、うまくいくようにお祈りしております。

投稿日時 - 2011-06-13 05:31:23

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