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なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

 A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?

 A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?

 B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?

 B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?

 B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?

 B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?

 C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?
 
 C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?

 D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?

 D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?
  特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。

 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?


    *

 
 ○ (神を哲学する) ~~~~~

   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

 世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

 人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

 さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

 考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

 とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

 《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

 これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

 したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。

 逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。
 人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

 これに対する答えは むしろ簡単である。

 絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。
 介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

 しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

 議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。

 信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。

 いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

 信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

 もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。

 もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

 以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

 ~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-08-18 18:48:39

QNo.6951345

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 こんばんは、ひどっち でございます。

 かってながら、(臨時的にではございますが)こちら側に移ってまいりました。

> A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?

 当初はそうでなくとも、知らず知らずの間に、偶像化・崇拝化してしまうものと考えております。下記に示しておりますアリストテレス等もその一例かもしれません。

> B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?

[自然科学とキリスト教]
・宇宙とそのなかのすべてのものは、神によって創造され神によって支配されているという根本的な考え方があった。
・宇宙や自然を研究すれば、その根底にある原理・秩序を見出すことは、そのまま神の創造の御業の素晴らしさを見出すことができる。
・さらにそれを人々に知らせれば神の栄光に帰することになる。

 近代科学を作り出した人々のなかには、多かれ少なかれ上述のような動機が働いたとされています(定説)。
 例えば、ガリレオ(敬虔なキリスト教徒)は宇宙と聖書を同一視し、宇宙を“聖書”とのアナロジーで、いわば第二の聖書のように考えていました。
 また、ニュートン(プロテスタント)は、“ダニエル書”や“ヨハネの黙示録”を解釈した独自の終末論を展開していました。ただ、目的論には重きを置いていなかったとされています。つまり、万有引力の法則も、なぜ引力が発生するか、もしくは何のために引力が存在するのかということではなく、どのような法則によって引力が機能するのかということに興味を持ったとされています。その背景には、「神の行い・御業について、人間の持つ理性では理解不能であるという思想を背景としていた」とも言われています。

 ではそれ以前はと申しますと、スコラ哲学が主流を占めていました。極論を申しますと、アリストテレスがこうだ、と言えば、それが絶対であるとされていたわけです。

 長々と綴ってきましたが、”教義”=”聖書の記述内容”、と致しますと、自然科学の流れを引き継いでいるように推察されます。

> B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?

 宗教=教義(集団)と解しますと、おかしいと考えられます。残念ながら、愚生にはわかりません。

> B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?

 理性万能主義の所産かと存じます。
 もはや、率直に“信じる”ということができなくなったのかもしれません。

> C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?

 教団にとりましては、それが都合がよいから、また一方では、人は自由なるものを恐れているからと思われます。

> D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?
 D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?
  
 おそらく、これは無心論者に多く見られる傾向かと察せられます。特に、“宗教組織”の失敗(魔女狩り等でございます)に対しまして、少なくとも日本人は嫌悪感を抱いてしまうのかもしれません。もちろん、神=宗教組織、ではないのですが・・・

> E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?

 “信じる”という行為が、現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあるのかもしれません。ヴィトゲンシュタインではありませんが、「神はこの世界にはいない」のですが・・・


 何かご参考になるところがございましたら、幸いでございます。

投稿日時 - 2011-08-19 20:57:26

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。(そう言えば あいさつをしないでお礼欄に返答をしたためている場合もあります。機械的にていねいであるよりは ましだと考えてのことと答えても お叱りを受けねばならないかも知れません)。

 ★( a ) “信じる”という行為が、現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあるのかもしれません。
 ☆ たしかに《神の弱さは人間の強さよりも強く 神の愚かさは人間の賢さよりも賢い》と言ったところで 人びとは何のハタラキをも受けないほどになっているのかも知れません。
 《たましいの復旧と復興を!》と言っても 《暑苦しい。やめとけ》と返されるのが関の山でしょうか。

 ( b )★ ヴィトゲンシュタインではありませんが、「神はこの世界にはいない」のですが・・・
 ( c )★ ・宇宙とそのなかのすべてのものは、神によって創造され神によって支配されているという根本的な考え方があった。

 ☆ ふたつをまとめるならば 
 ( d ) この世界のものごとは 神の足跡であるかも知れず 神の姿をおぼろに映し出す鏡であるかも知れない。
 ☆ といった命題が導けると思われます。
 したがって
 ( d-1 ) 魔女や悪魔は 神の心を――どういう中身としてかはまだ別として――おぼろげにこの世界のものごととして映し出しているのかも知れないとまでは 見てみることが出来るかも知れない。
 ☆ と思いや考えを推し進めるひとがいても それほどおどろくことではない。
 つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。――にもかかわらず むしろ聖職者たちのほうが先導しかつ扇動して 《魔女》を決めつけこれを狩り根絶やすというマチガイを犯すまでに到った。よほど《偉かった》のでしょうか。

 ( d-2 ) 《偉くなかった》と言いたい人びとは この魔女狩りのあやまちを まるで神の罪だと言わんばかりに取り出し取り上げる。
 ☆☆(趣旨説明) D-1 それを批判するために 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに 神を論じる。
 ☆ に到ります。
 ★ ~~~~
 おそらく、これは無神論者に多く見られる傾向かと察せられます。特に、“宗教組織”の失敗(魔女狩り等でございます)に対しまして、少なくとも日本人は嫌悪感を抱いてしまうのかもしれません。もちろん、神=宗教組織、ではないのですが・・・
 ~~~~~~
 ☆ すなわち 無神論であれば 宗教組織の犯したアヤマチあるいは要するに人間がこの世界で侵すアヤマチを含めもろもろのおこないとしての物事を超えたところにその《無神》を想定しているのであるから そうであるのだから そこのところに持たれているその見方において自重しなければならないはずです。
 もし《神=宗教組織》と見てしまったなら 自分の《無神=すなわち 人間の思考と想像の産物》とすでに見てしまっていることになります。ヰトゲンシュタインの( b )の命題を忘れてしまっています。

 ( a )の命題を変形して 次のように言わねばならないように考えます。
 ( a-1 ) ~~~
 “信じる”という行為が、
 かくして“〔人間が〕考える”という行為の暴走としてのように犯すあやまちを 静かに強くしっかりと思いとどまらせる力を持つというのに 
 だからこの“〔人間が〕考える”という行為よりも格段に気高くとうとい人間の自由であり 人間の存在を証しする力を湛えているほどだというのに 
 そうであるにもかかわらず
 現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあって
 理性万能主義が蔓延っているのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~


 もし
 ★ ~~~~
  > A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?

 当初はそうでなくとも、知らず知らずの間に、偶像化・崇拝化してしまうものと考えております。下記に示しておりますアリストテレス等もその一例かもしれません。
 ~~~~~~~
 ☆ という事態がそこここに見られる世間一般の情況であるとしたならば けっきょく人びとはそれぞれ《信じる》という行為を じつは欲している。のではないか。
 ならば 神を見きわめよ。神を見きわめよう。
 となるはずなのですが。

 ガリレイやニュートンらは それぞれおのれの信仰が 《考える》理性の暴走をゆるさず じゅうぶんふつうにその理性を使いこなそうとした。と言えましょうか?

 《信じる》は《考える》に先行する。――さらにみなさんからも この主題を問い求めて行って ご見解をおおしえください。この《神についての勘違いを見きわめること》が どうも哲学のさまざまな あるいは すべての主題についての解明に先立って重要であると考えられて来ます。だとすれば それだけに衆知をあつめる必要があります。お待ちします。

投稿日時 - 2011-08-19 22:58:59

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回答(62)

ANo.62

御無沙汰を致しておりましたが、再度の投稿を御許し下さい。

一般的な解釈が誤っていたり、完全性を備えていなかったりしている故に、現実にそぐわないからこそ、それを受け入れる為に、多くの方々が象徴を信じずにいられないのではないでしょうか?

参考URL:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111023-00000068-san-soci.view-000

投稿日時 - 2011-10-24 21:40:23

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 一般的な解釈が誤っていたり、
 ☆ それで 趣旨説明に 質問者のつくったたたき台としての神とは何かをかかげています。

 ★ 完全性を備えていなかったりしている
 ☆ 質問者のたたき台も《完全》ではありませんが 間違いはないと考えています。その吟味をお願いし ご自分の見解をお示しくださいという問いです。

 ★ 故に、現実にそぐわないからこそ、
 ☆ これは 一概に決められません。そもそも《神ないし 絶対 X 》は 《事実 Y 》とは違いますし その事実認識としての《主観真実 Y-Zi 》とも明らかに違います。
 それでも 人間にとっての《現実》とは 《真理 X についての主観真実 X-Zi 》と《事実についての主観真実 Y-Zi 》とを合わせたものつまり《わたしの世界観 X-Y-Zi 》だと見ますが けっきょくそのうちの前者すなわち《真理観ないし神論 X-Zi 》は 実際のところ 事実――歴史事実――とどう合っているかは 人間に分からない。こう思われます。
 そして いわゆる神義論(テオデセー)という分野もあって 神学 X-Z と歴史学 Y-Z とのあいだのマ(間・間合い)の違いについて 説明しようとしています。

 けっきょくのところですが 《現実 X-Y-Zi 》としては 神は信仰 X-Zi として捉えられていますから 現実にそぐわないというのとは ちょっと違うはずです。経験合理性を超えているもの X について どう事実 Y と折り合いをつけるのかは 《そぐう・そぐわない》という捉え方とは違うからです。

 ★ それを受け入れる為に、多くの方々が象徴を信じずにいられないのではないでしょうか?
 ☆ ひとつに もし《事実にそぐわない神を受け入れられない》とすれば それは経験合理性においてその思考によって 《神を信じる》を捉えることが出来るという間違いをおかしています。
 ひとつに 《象徴》は 経験事物ないし人間存在のことを言うのでしょうから それは《信じる》の対象にはなりません。思い込む・信用するといった概念で捉えて表わすべきことでしょう。


 概念の間合い(捉え方)が まったく間違っています。

投稿日時 - 2011-10-24 22:31:57

ANo.61

アメリカの凋落やユーロの問題が起きている現在、彼ら欧米国家のキリスト教への疑問、ひいては国家として神を掲げていることに疑問を感じています。
欧米には敬虔なクリスチャンはいるのでしょうが、歴史的に見て大衆はキリスト教の名の元に管理されてきたのではないか。
逆にいえば、誰しも考えるであろう宗教的な課題、生や死、愛、罪(煩悩)についてキリスト教は神という絶対的なものを示して、あたかもそれが人類にしめしているような教義を構築してきたのではないか。つまり、神は社会秩序、とりわけ為政者のために都合のよいように神というものを祭り上げてきたのではないか。
神は宇宙の起源がまだ完全にはわかっていないと同じように、わかっていないという立場で研究し続けるという態度でいくのが正しいと思います。禅的なアプローチをキリスト教が取り入れたら、キリスト教自体が崩壊するだろうと思います。それでも神は存在するかしないかであって人間の思考範囲を超えている存在だと思った方が正解です。

投稿日時 - 2011-10-03 09:24:07

お礼

 ぢぇいずぃーけいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 神は宇宙の起源がまだ完全にはわかっていないと同じように、わかっていないという立場で研究し続けるという態度でいくのが正しいと思います。
 ★ それでも神は存在するかしないかであって人間の思考範囲を超えている存在だと思った方が正解です。
 ☆ この命題が 質問者の立てている仮説です。


 
 質問者は 野生児であり異端児でして たとえばこのような考え方をしております。
 1. 信仰は 考えるとは別物である。経験思考にあらずという意味で 非思考だと見る。

 2. ただしこの個人個人の信仰において 或る種のヒラメキや観想が得られる。わが心の非思考の庭に われとわが心があそぶとき われはむさぼらない・ぬすまない・ひとの連れ合いを欲しがらない・ひとをもおのれをもころさない。

 3. ここから命題を得てさらに 《なんぢ むさぼるなかれ・ころすなかれ・姦淫するなかれ》というように規範的命令にまで人は すすめた。

 4. すなわちこれらをわざわざ人に人がおしえるという教義として集団を組む宗教にまでつくり上げた。

 5. その宗教組織は 国家権力によって迫害され抵抗していたのですが やがて国教になってからは おおむね
 ★ 彼ら欧米国家のキリスト教への疑問、ひいては国家として神を掲げていることに疑問を感じています。
 ☆ というような情況が現われて来ました。

 6. ★ 欧米には敬虔なクリスチャンはいるのでしょうが、歴史的に見て大衆はキリスト教の名の元に管理されてきたのではないか。
 
 7. ★ 逆にいえば、誰しも考えるであろう宗教的な課題、生や死、愛、罪(煩悩)についてキリスト教は神という絶対的なものを示して、あたかもそれが人類にしめしているような教義を構築してきたのではないか。

 8. ★ つまり、神は社会秩序、とりわけ為政者のために都合のよいように神というものを祭り上げてきたのではないか。
 ☆ 《神が》そうしたのではないでしょうけれど。《神》の名とその権威のもとに人が そうして来たのでしょうけれど。

 9. 権威と権力に対しては 一般に人びとは弱いですからね。


 10. ★ 禅的なアプローチをキリスト教が取り入れたら、キリスト教自体が崩壊するだろうと思います。
 ☆ 是非 そうなって欲しいものです。個人の信仰は大事ですが たとえば組織宗教としてのローマ教会は 非思考という次元で人びとを人為的にたばねているとしたら その組織は ただちに自己解体して欲しいと思いますし そう言って来ております。


 こんなところでしょうか。久しぶりにご回答を寄せていただきました。

投稿日時 - 2011-10-03 14:01:22

ANo.60

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。


> ひとつの到達点に到ったと思います。互いに問い求めて来た結果だと思います。

 ご参考の一助となりえましたならば、光栄に存じます。

> ★ 〔蓮如について〕さらなる調査が必要かと、〔そう反省した次第でございました〕。

 そうでございますね。もう少し知りたいというのが、率直な感想でございます。

> ★ 日本は元来、大乗仏教を発展させてきた国でもございます。従いまして、この即得往生説をもっと訴えていって欲しいとそう願っております。

 はい。むしろなぜ、主張しないのかが不明でございます。

> ☆ 即身成仏の説もそうですね。
 あるいは 《世間虚仮》という考え方は 彼岸へのあこがれを言おうとするのみだと考えられます。
 【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html

 愚生の田舎が、真言宗でしたので、あえて記述を避けてきたのですが(変な荒しが入るのを避けたかったからでございます)、即身成仏ももちろん、そうでございます。梵我一如そのものであることが特徴的でございますが。
 もし、言うのでしたら、「世間虚仮 唯仏是真」ではなく、「世間是空 唯仏是信」ぐらいでしょうか。

> それにしましても このところ ブディズム関係の質問が多く目につきます。

 はい。仰る通りかと存じます。理由は定かではないのですが、一時的なものかもしれません。

> ★ ですが、今回のベテルギウスはその比ではないと考えております(地球からの距離:約600光年、直径:太陽系の木星軌道にほぼ相当)。
 ☆ 藤原定家が 22日間明るかったと書いているのですね。その規模がやっとわかりました。ありがとうございます。

 いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます。

> そうですね。まだ少し もう少し 開いていようと思います。特にあたらしい設問も思い浮かばず この質問をさらに広く問いたいという気持ちはあります。さらなる論点や主題がいま見えているというわけでもないですが。

 どうもお疲れさまでございました。

> ひとまづ おつかれさまでした。あたらしい観点などを模索したいとも思います。

 また、よろしくお願い申し上げます。


 最後まで、お読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2011-09-20 21:58:20

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 思いつかないと言っていながら ひとつあたらしい質問をしました。すでに問うたものですが なお問うにあたいすると思いました。

 ★ もし、言うのでしたら、「世間虚仮 唯仏是真」ではなく、「世間是空 唯仏是信」ぐらいでしょうか。
 ☆ 世間を空と見るのが仏陀の境地だと思いますので 信の位置がわかりにくいと揚げ足取りをしようかと思いましたが いい案が思い浮かばないので 受け容れたいと思います。
 世間虚仮 唯仏是真と言っただけで言い放ってしまうと ただただあらぬところへと舞い上がって行くかのように思ってしまいます。

 ★ ・・・即身成仏ももちろん、そうでございます。梵我一如そのものであることが特徴的でございますが。
 ☆ あぁ そうですね。大日如来というのは 厄介かも知れません。それにつまり 密教となると何が出て来るか。と言うと悪口になりますが。


 様子を見て 閉めたり あるいはさらにこの質問を開けておいたりすることとします。

投稿日時 - 2011-09-20 23:48:00

ANo.59

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。

> 蓮如については ほんとうに質問者としての不勉強を告白した上で言うべきでした。うたがいを持っていますと。
 でもその線で問い求めてまいりますので その点をお含みおきいただければと思います。


 いえいえ。これは愚生もそう考えておりました。従いまして、これは愚生にも落ち度があったものと思っており、さらなる調査が必要かと、そう反省した次第でございました。


> ★ ですが、どうなのでしょうか。「ここがすでに彼岸です」となりますと、”彼岸”という言葉は不要にも思えてくるのですが・・・

 ☆ これは その命題じたいとしては おっしゃるとおりです。娑婆即浄土だと宣言せねばならないのは――つまり 彼岸は此岸を離れてあるのではなく 究極においては此岸こそが彼岸であるとわざわざ言わなければならないのは―― まったく明確にひとつの理由からです。一般に来世往生の説がとなえられていて それが通念となっている部分があるから。これです。


 つまり、従来から”来世往生”説が根強く残っており、この此岸におきましても、彼岸たりえる、さらに申しますと、ブッダなりえる、ということでございますね。納得致しました。
 日本は元来、大乗仏教を発展させてきた国でもございます。従いまして、この即得往生説をもっと訴えていって欲しいとそう願っております。

> つまり言いかえるなら この来世往生の説から見ると 即得往生(即身成仏)によって現世(此岸)が浄土(彼岸)であるという説は むしろ《超越傾向》を帯びているのではないかと見えるのだと思います。自分たちが来世において捉えようとしている彼岸を現世ないし此岸において見ているなどということは 過激すぎて超越的にすっ飛んでいると思うのだと思われます。
 

 仰られますことは、愚生にも十分理解できます。

> その傾向ないし通念について それは違うのだ(つまり すっ飛んでいるという見方は まちがいだ)と明らかにするために わざわざ 信仰を得た者にはその彼岸は 此岸にある(色即是空だけではなくそこから 空即是色に相変移する)のだと説明することになるのだと思います。



 仰られますような解釈は確かに成立可能と思われます。まず、”空観”思想は、そもそも歴史的経緯から致しますと、(来世往生のみを認める)説一切有部に対しまして、その反論としてナーガルジュナにより、発展させられてきたこと。また、般若心経に見られますこの転換、色は空(実質的、本質的なものがなく、縁起に依るもの)であるが、それのみならず、空もまた色(目に現象として表象されうるもの)であるとの驚愕すべきこの発展は、ご質問者様のご見解を主張したかったのかもしれません(愚見ではございますが)。

> ☆ なるほど。つまり この場合の人間原理は 非思考の信仰と経験思考とのあいだに位置づけられようとしているかに見えます。それゆえ超越傾向を 此岸なる生活世界においても用いるとおっしゃるのかも知れないですね。

 まさしく、仰る通りでございます。ご理解賜り、厚くお礼申し上げます。

>  ☆ やはり アマテラス支配層およびそれの追随者層から見れば 非思考というものは 《超越的なことを考えているその行為》だと見えるのだと考えます。《超越的なこと》を《考えている》と見なすのだと思います。まさしく矛盾した捉え方です。
 わたしの物言いは このことのみを取り上げ批判しています。誤解していると言いますか 非思考のことが理解できないと言いますか そのことを批判しています。


 そうでございましたか。納得致しました。


> 人間原理としての超越傾向は いまこの例のような信仰の錯視から出て来る《超越的》という言葉の取り扱いとは別だと見ます。人間原理のほうでは 考え尽くせないナゾをそのままナゾとして捉えつづけているわけですから。
 

 これはどうも失礼致しました。ついつい、言葉尻を選んでしまっておりました。深くお詫び申し上げます。



> えっ?

 ★ オリオン座自体もなくなってしまうのですね

 ☆ ということは どういうことなのでしょう? 何か大きな影響はありましょうか?

 北斗七星に次いで馴染みがありますのは、おそらくオリオン座かと思われます。その中で最も光り輝いていますベテルギウスが無くなってしまいますので、必然的にオリオン座も成立しなくなり(下記サイトをご参照くださいませ)、冬の夜空もさびしくなってしまうのかな? と思ったわけでございます。別段、深い意味は全くございません。
 蛇足ではございますが、今から約千年前に日本人が超新星爆発を記録した日記が残っております(下記サイトをご参照くださいませ)。
 ですが、今回のベテルギウスはその比ではないと考えております(地球からの距離:約600光年、直径:太陽系の木星軌道にほぼ相当)。

・オリオン座
http://yumis.net/space/star/ori.htm 
・藤原定家の明月記 M1かに星雲の超新星爆発の古記録
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/ktjpm1.htm 


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-19 19:45:25

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ひとつの到達点に到ったと思います。互いに問い求めて来た結果だと思います。

 さらに展開がのぞまれるところは ふたつほどでしょうか。

 ★ 〔蓮如について〕さらなる調査が必要かと、〔そう反省した次第でございました〕。

 ★ 日本は元来、大乗仏教を発展させてきた国でもございます。従いまして、この即得往生説をもっと訴えていって欲しいとそう願っております。

 ☆ 即身成仏の説もそうですね。
 あるいは 《世間虚仮》という考え方は 彼岸へのあこがれを言おうとするのみだと考えられます。
 【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html

 それにしましても このところ ブディズム関係の質問が多く目につきます。

 ★ ですが、今回のベテルギウスはその比ではないと考えております(地球からの距離:約600光年、直径:太陽系の木星軌道にほぼ相当)。
 ☆ 藤原定家が 22日間明るかったと書いているのですね。その規模がやっとわかりました。ありがとうございます。


 そうですね。まだ少し もう少し 開いていようと思います。特にあたらしい設問も思い浮かばず この質問をさらに広く問いたいという気持ちはあります。さらなる論点や主題がいま見えているというわけでもないですが。

 ひとまづ おつかれさまでした。あたらしい観点などを模索したいとも思います。

投稿日時 - 2011-09-19 22:57:46

ANo.58

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。

> ☆ 詳しいデータをありがとうございます。

 ご参考としていただきまして、光栄に存じます。

 なお前回、出典を記載するのを忘れておりましたので、以下に列記させていただいております。誠に失礼致しました。
 
・恐慌時の労働組合
「この法律(ワグナー法)には、実質賃金を引き上げて消費を活性化する狙いがあった。しかし結果は、失業率が高止まりしたままで購買力は低い水準にとどまり、失敗に終わった。」
Wikipedia 全国労働関係法

・ドルの流通量
世界で流通するドル資金はリーマンショック前の2倍 みずほ総合研究所(オリジナル)
http://ameblo.jp/kireirich/entry-10699966956.html 

-----------------------------------------------------------------

> ○ 「住正定聚」・「即得往生 住不退転」

 ☆ を掲げるのでしたら 親鸞と同じですね。現世往生などという悠長なものでさえなく 《即得往生》すなわち《即身成仏》と同じになります。
 すでに彼岸に到ったというところから出発するのだと見ます。そうすると 彼岸にいるのではなく 此岸に戻って来ています。あるいは ここがすでに彼岸です。色即是空から空即是色に転換しており 娑婆即浄土です。
 つまりは 超越傾向は むろんありますが すでに動態としての信仰においてその非思考の庭におさまっています。あとはすべてと言ってよいほど この現実に向かい合うはずです。その意味で《内在傾向》のみです。


 上座部との決定的違いの一つが、この現世において”ブッダ”になりうる可能性の有無であったかと記憶しております(このことが要因で、各派に分裂を来したかと思われます)。もちろん(既存の浄土教をさらに押し進めていますが)親鸞も、そしてその継承者でもある蓮如も当然大乗に属します。蓮如は単なるカリスマ的独裁者と思っていましたが(思われているかもしれませんが)、当然と言えば当然なのかもしれませんが、実際は少々異なるように見受けられます。もし、仮にわがままな一独裁者ですと、信長に処刑されていたかと推察されます。
 ですが、どうなのでしょうか。「ここがすでに彼岸です」となりますと、”彼岸”という言葉は不要にも思えてくるのですが・・・

> 従いまして 次の図式においても それが実際の情況であったとしても 理論上は――つまり言いかえると 経験思考に先行する非思考なる信仰はすでに生活日常においては 経験思考に席をゆづり後ろにしりぞいているという理論形態に立てば―― いささか違った絵図になると見ます。

 ★ ~~~~
 つまり、対立事項は、以下のようになろうかと考えました。

 ・浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など:民衆の生活に密着

 ・臨済宗等の禅宗:幕府と結んで富強を誇り、この時代の文化を主導

 そして、
 
・前者:民衆を組織化した(宗教的)超越傾向が見られる

 ・後者:幕府、戦国大名に支持された(宗教的)内在的傾向が見られる

 ~~~~~~~
 ☆ すなわち違った絵図が描かれるであろうといった疑問点は 次のようです。

 1.禅宗とて ブディズムならば無神論であっても 非思考の信仰を身に帯びると思われます。その上で――つまり信仰を隠れた基軸とした上で―― 内在傾向を持つというに過ぎない。


 もちろん、禅宗も仏性の存在も肯定しておりますし、またご本尊は、確か釈迦如来だったかと記憶しております。ただ、他の宗派よりも”内在傾向”が強く感ぜられます。


> 2.ほかの宗派も信仰としてみれば その超越傾向はあくまで 内面主観におさめられた信仰の問題であって そのほかの側面はすべて現実的な内在傾向であるはずだ。実際にどうかを別として そう考えられます。


 ”超越”かどうかを決めるのも、内面主観に存在しますため、「現実的な内在傾向である」ことは事実かと考えられます。


> 3.とすれば 共同自治といった社会の側面において 《衝突》が起こるとすれば それはあくまで 共生における利害関係などなどから来ていると見るべきではないか。信仰や宗教を問題にするのは ほとんどはその利害関係の調整を図るときに区別すると分かりやすいといった便宜上の手段でしかないと思われます。


 仰られますように、史実はそうかと考えております。例えば、これは西欧の話となりますが、ユグノー戦争(スペイン王フェリペ2世とイングランド女王エリザベス1世の代理戦争)、30年戦争(ハプスブルク家とそれを阻止しようとする勢力との代理戦争)もそれらの一例かと考えられます。


> 6.しかもその基礎には むしろ単純に支配層と被支配層とのアマテラス‐スサノヲなる逆立連関関係が横たわっており そのような生活利害をめぐる対立がある。


 もちろん、存在するかと考えられます。逆に利益・利害がなければ、集団(組織)としては、むしろ動かないと考えております。


> 7.もしこの線で捉えてよいとすれば けっきょくは社会の各分野・各層それぞれの《内在傾向》どうしの対立なのであって アマテラス圏支配層からは スサノヲ圏被支配層の内在傾向のことを その信仰ないし宗教にかこつけて《超越傾向》として決めつけている。だけである。と考えられまいか?



 その一面はあろうかと思われます。ただ、これは単なる愚生の感覚に過ぎませんが、” 超越”という言葉にはあまり否定的な意味合いは感じ取れないのです。
 もし、これを全否定してしまいますと、物理学の領域において存在すると思われている(信じられている)物理法則(万有引力の法則、ニュートンの運動の法則、エネルギー保存則等でございます)すらも存立が危ぶまれてくるからでございます。もし仮に、明日、 万有引力の法則や慣性の法則が破綻してしまい、人類が宇宙空間に放り出されることが絶対にないとは、誰もがそれを保証・証明できないからでございます。従いまして、物理法則がなぜ成立し続けてきたのか、さらには今後も成立し続けるのかは全くのナゾであり、人智を超えていると考えられます。これを説明するのは、”人間原理(仮説ではございますが)”を持ってくるか、他の理論を引っ張ってくるしか他に方法はないと考えております。

参考:松原隆彦「人間原理について」
http://www.a.phys.nagoya-u.ac.jp/~taka/think/ningen.html 


> 8.スサノヲ圏が超越傾向を帯びるというのは みづからの生活を守るためには過激にたたかうこともあり得るというだけであって――特に戦国時代あるいは戦争状態にあっては 生きるか死ぬかの情況に追いやられているゆえに 過激さが現われるのであって―― それは その側面だけを取り上げるのは アマテラス圏からのレッテル貼りである作為がありはしまいか? アマテラス圏が 過激さで負けているとは思えないゆえ。


 もちろん、ラベリングはあったかと考えております。そして、このラベリング(レッテル貼)を狡猾にこなしてこれたため、その地位を保持できたのかもしれません。


> 10.この思想――ないしアマテラス予備軍症候群とも言うべき生活態度――から見れば 被支配層のスサノヲ市民よ きみたちは 被支配者の分際で何を過激に戦うというのかといった疑問と蔑みをみづからの心に覚える。というただそれだけのことではないか?
 

 このような思いが、あの時代にもあったことは事実かと思っております。ただ、スサノヲ市民を甘く見積もっていたため、自害に追い込まれるお殿様がいたのかもしれません。


> 11.そのような見方から 信仰ないし宗教にかこつけて《超越傾向と内在傾向との衝突》といった捉え方が出て来るのではあるまいか?

 かような傾向は今日でも見られると思われます。

 あくまでこれは愚生の印象なのですが、超越傾向と内在傾向の峻別、さらには日常用語とアマテラス学術用語との差異には、”優劣”といったものがそもそも存在しない、と考えておりますので、あまり気にしていないというのが実情でございます(あくまで愚見でございます)。



> たわごとに長くおつき合いいただき 申し訳ありません。ご批判をたまわればさいわいです。

 いえいえ。こちらこそ、愚生の屁理屈にお付き合い賜りまして、申し訳ない限りでございます。

 これは、余談になりますが、ベテルギウス(オリオン座の左上にある一等星)の超新星爆発が起こりますと、オリオン座自体もなくなってしまうのですね。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-18 22:48:03

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 蓮如については ほんとうに質問者としての不勉強を告白した上で言うべきでした。うたがいを持っていますと。
 でもその線で問い求めてまいりますので その点をお含みおきいただければと思います。

 蓮如については
 ★ もし、仮にわがままな一独裁者ですと、信長に処刑されていたかと推察されます。
 ☆ といった一筋縄で捉えきれないほどの政治人間であり 社会力学上の行動を得意とするものと思って来ました。
 ★ ですが、どうなのでしょうか。「ここがすでに彼岸です」となりますと、”彼岸”という言葉は不要にも思えてくるのですが・・・
 ☆ これは その命題じたいとしては おっしゃるとおりです。娑婆即浄土だと宣言せねばならないのは――つまり 彼岸は此岸を離れてあるのではなく 究極においては此岸こそが彼岸であるとわざわざ言わなければならないのは―― まったく明確にひとつの理由からです。一般に来世往生の説がとなえられていて それが通念となっている部分があるから。これです。
 つまり言いかえるなら この来世往生の説から見ると 即得往生(即身成仏)によって現世(此岸)が浄土(彼岸)であるという説は むしろ《超越傾向》を帯びているのではないかと見えるのだと思います。自分たちが来世において捉えようとしている彼岸を現世ないし此岸において見ているなどということは 過激すぎて超越的にすっ飛んでいると思うのだと思われます。
 その傾向ないし通念について それは違うのだ(つまり すっ飛んでいるという見方は まちがいだ)と明らかにするために わざわざ 信仰を得た者にはその彼岸は 此岸にある(色即是空だけではなくそこから 空即是色に相変移する)のだと説明することになるのだと思います。




 ▼ ~~~
 証明できない命題には正しい、間違っているということはない。ただそこに証明できない命題が「ある」だけである。そう思ってみれば、人間原理は科学を進める上での指針のようなものと受け止めるのが自然であろう。
 ~~~~~
 ☆ なるほど。つまり この場合の人間原理は 非思考の信仰と経験思考とのあいだに位置づけられようとしているかに見えます。それゆえ超越傾向を 此岸なる生活世界においても用いるとおっしゃるのかも知れないですね。
 ★ ~~~~
 ただ、これは単なる愚生の感覚に過ぎませんが、” 超越”という言葉にはあまり否定的な意味合いは感じ取れないのです。
 もし、これを全否定してしまいますと、物理学の領域において存在すると思われている(信じられている)物理法則(万有引力の法則、ニュートンの運動の法則、エネルギー保存則等でございます)すらも存立が危ぶまれてくるからでございます。
 ~~~~~~
 ☆ やはり アマテラス支配層およびそれの追随者層から見れば 非思考というものは 《超越的なことを考えているその行為》だと見えるのだと考えます。《超越的なこと》を《考えている》と見なすのだと思います。まさしく矛盾した捉え方です。
 わたしの物言いは このことのみを取り上げ批判しています。誤解していると言いますか 非思考のことが理解できないと言いますか そのことを批判しています。

 人間原理としての超越傾向は いまこの例のような信仰の錯視から出て来る《超越的》という言葉の取り扱いとは別だと見ます。人間原理のほうでは 考え尽くせないナゾをそのままナゾとして捉えつづけているわけですから。
 

 えっ?
 ★ オリオン座自体もなくなってしまうのですね
 ☆ ということは どういうことなのでしょう? 何か大きな影響はありましょうか?

投稿日時 - 2011-09-19 00:19:15

ANo.57

続きの投稿が酷く遅くなりまして申し訳が御座いませんでしたが、
此処で再開をさせて頂きます。

誤った具体的な対象を想定しませんと、煩悩の充足による救済が実感されにくいからこそ、其の誤りへの自覚を隠蔽する為に、『信じて仰ぐ(無駄な)崇拝』の価値が共有されていたのではないでしょうか?

実際に、民族の独立の為には『言語・宗教・経済』の個性化が必要になっているそうでして、それの獲得を訴えて、過去にバルト3国が独立を果たしています。

因みに、ベテルギウスの超新星爆発による悪影響から人類を救済するべく、一部の世界的な宗教団体が自分達の御本尊へ執拗に祈りを捧げ続けている様でして、今後にはそういう面目で布教活動を活発化させるのでしょう。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%99%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9+%E8%B6%85%E6%96%B0%E6%98%9F%E7%88%86%E7%99%BA&aq=2&oq=%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%82%8B&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt

投稿日時 - 2011-09-18 02:21:21

お礼

 ばっふぁろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ベテルギウスの超新星爆発
 ☆ これは 自然科学の知見にまかせたいと思います。必要あらば 政治的な対策も採られることでしょう。

 ★ 誤った具体的な対象を想定しませんと、煩悩の充足による救済が実感されにくい
 ☆ まづ
 ★ 煩悩の充足による救済
 ☆ とは何か?

 煩悩のおもむくところが満たされるということは いわゆる救いにはならない。ということでしょうか?
 しばしば人びとは ただ煩悩が満たされるとき そこに救いがあると思ってしまう。こういうことでしょうか?
 ――でしたら それも煩悩だと見なされるということでしょうね。
 
 ですから
 ○ 煩悩について自覚していようがいまいが それが満たされようが満たされまいが その満たされたときにしろ満たされないときにしろ それぞれの場合に救いがあると どれだけ間違って思ってしまおうと 煩悩が煩悩としてはたらくかぎり 救いはもたらされていない。
 ☆ と見るのでしょうね 一般に。

 というのも 煩悩とは 無明とも言われるようですが いちばん根本としては 生存欲だと見られています。生きようとするなら 生きようとするとき すでにそこに涅槃はない。これは とうぜんですね。煩悩が断ち切れた状態を涅槃と言うのですから。
 あるいはつまり無明であるということは ブッダの明知がない。
 つまり すくわれていない。

 よって 
 ★ 誤った具体的な対象を想定しませんと
 ☆ という条件は どれだけこの場合 有効で有益であるのか けっきょくのところ分からない。というように思われます。そのような対象が想定されていなくても あるいは仮りにその想定された対象が誤っていなくとも 煩悩がはたらくなら すくいはありません。すくいの無いところには ただしい救いの自覚もあやまった救いの自覚も それらがそれぞれあってもなくても けっきょく同じことだと思われます。すくわれていないという実態があるのみだからです。

 そのようにあやまった救いの実感がなければ すくわれていないでしょうし 実感があっても まづそのときに救われていないというのは 実態です。

 けれども 実感があって ただしい救いに対しても実感ないし自覚があるとすれば どうか?
 同じことだと考えます。
 はからいによって 煩悩が克服されるとは考えられませんから。
 克服されたという場合は 一時的また部分的な状態として起こるだけだと考えます。
 なぜなら 生きようとしているし 生きているからです。涅槃の状態ではないからです。

 こうなると その場合には ひとつの突破口として主観における救いつまり涅槃の成就といった主題が持たれると思います。
 そしてその場合には
 ★ 『信じて仰ぐ崇拝』
 ☆ については すべて つまりは主観にゆだねられるということになります。言いかえると その
 ○ 『信じて仰ぐ崇拝』の価値如何やそれが 無駄か有駄かなどなど
 ☆ については 一般的に決めることがむつかしい。となります。
 他者は おのれの真実として ほかの人の《信じ方》について批判をしてもよろしいし おのれの信じ方をほかの人に説いても自由です。すべて自己表現は自由ですが 他者の主観ないし心に 手を突っ込んでどうにかしようとしても無駄であり 自由違反だとなります。

 ★ 其の誤りへの自覚を隠蔽する
 ☆ 誤りがどうであるか 誤りを自覚しているかどうか その自覚を隠ぺいするかどうか こういったことは すべて まづ第一に煩悩のしからしむるわざであるということであり 第二には 主観的な内面世界でいちおう完結したかたちを取るということだと考えます。

 もっとも単純に言えば 
 ○ 信仰は 非思考の世界であり それゆえにもひとりの人間の主観世界にゆだねられておりそれが完結している。ゆえに 誰も――自分の信仰に対するかたちにおいて自分も――この信仰を どうにかして左右するということはあり得ない。
 ☆ となるはずです。

 ★ 実際に、民族の独立の為には『言語・宗教・経済』の個性化が必要になっているそうでして、それの獲得を訴えて、過去にバルト3国が独立を果たしています。
 ☆ 《民族の独立》という主題については・つまりあるいは――個人という次元ではなく 集団としての――《民族》という次元をめぐっては もう非思考の信仰は その背後にしりぞきます。ひとりの人間を介して 信仰と民族の自由実現というふたつの主題はつながっていますが 直接に論じたり行動したりすることはないと見ます。

 個人の信仰から得られた或る種の思惟形式および広く行為形式――つまり倫理規範のようなもの――をさらに《おしえ》として 集団的にあたかも実践するというかたちを取る組織宗教 これは 信仰とは別物ですから
 ★ 『言語・宗教・経済』
 ☆ も信仰とは次元がちがう。こうなります。

 宗教は 信仰が他者の主観内面に対して手を突っ込むことは出来ないことだというのに それにもかかわらず 集団においてその権威や権限の階層組織をつうじて 平気でおこなう。ゆえに 宗教は 信仰の自殺行為によって現われた人間とその社会にとっての負の現象であると考えます。要りません。
 宗教は 信仰の鬼っ子であると。

 個人の次元を離れたところの組織としての規範や行為関係は すでにすべてが主観内面をないがしろにしてよいというかたちでの生きようとする動きですから――あたかも社会の秩序がもたらされなければならないといった命令をいだくかのように 組織としても秩序立って行動しなければならないと勝手に規則をつくってしまった上で 他者に対して信仰内面にまで 外的な〔のみですが〕押しつけや強制を加えますから――
 それは もろに煩悩行為だと見られます。組織があるかぎり 煩悩行為あるいは自由に対する違反行為はなくならない。こう考えます。

投稿日時 - 2011-09-18 16:03:07

ANo.56

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


 
> ☆ ええ。つまり そのように成功する場合が もちろんあります。そのことを忘れて述べていました。

 つまりは そうではなく現在において潜在需要は(これは 有効需要はと言ったほうがよいのでしょうか)先進国においては その高い段階にまで来てその高止まりの状態で推移しており いま さらに超長期国債を発行しても よい効果を得られないのではないか。こういう思わくのもとに 成功例・つまり経済成長の余地が大いにある場合のことを忘れて述べていました。
 

 了解致しました。


> アメリカがあらたに需要喚起の政策を打ち出しましたが もしそれによって金融が緩和されマネーがあふれるようでしたら 新興国の不動産か株式か債券かに投資されることになったり あるいは金や商品への投資にまわされるという結果を得るだけなのではないか。こういうおそれを持っていました。います。


 はい。仰られますように、多くのマネーが、特にコモディティー投資・投機のために回されております。後述しておりますが、これが新興国にダメージを与えております。
 実際、世界で流通するドル資金は、以外にもリーマンショック前の約2倍だとされています。

> リーマンショックあるいはサブプライムローンによるバブルがはじける前には 膨大な上げ底(バブル)を成すような資金が世界中にあふれていたということではないでしょうか?


 世界を動くマネーは、120兆円以上だったとされています。ただ、レバレッジをかけた投機をしていたために、おそらく”京円”レベルのマネーがまわっていたとされています。”溢れていた”ことは事実と考えてよろしいかと存じます。

ソース:http://janjan.voicejapan.org/world/0802/0802281652/1.php 

> だとしたら その当時の経済水準に景気が回復するということは ふたたびバブル状態になるということを意味しないでしょうか? 製造業の見込み生産の水準が そもそも高すぎたのではなかったでしょうか?


 製造業の生産水準におきましては、どの指標でもって判断していいのかは難しいのですが、とりあえず、米ISM製造業指数(PMI)を例に考えてまいりたいと思います。
 以下のサイトにデータを示しております。4ページ以降に、1990年からの年度別の数値が載せられておりますが、著しい生産水準にあったとは、少なくともこの指数からは、見て取れないというのが率直な感想でございます。

出典:http://www.mizuho-msrc.com/dynmc/gcnt.php/DL0000006622/01/02/110902_us_ISM.pdf 

 ただ、アメリカ自体は、人口増加社会(特にヒスパニック系です)ですので、愚生は、あまり懸念はしてございません。


> ということは BRICs などの新興国における潜在成長率が基礎に成ってその高い水準の見込み生産高を吸収してくれれば 景気回復の余地があるとも考えられます。
 つまりはその場合 新興国における輸出による有効需要は 先進国向けとしては 差し引いたそのあとの需要であり成長のぶんに限られるというものですが。つまり新興国の内需〔のみ〕が 世界にとっての経済成長ないし景気回復のための発電所になるということではないでしょうか?


 その可能性は高いと考えております。ですが、新興国におけますインフレ状況は凄まじい状況となっております。
 以下に、愚生の回答をご紹介させていただきます。実を申しますと、ANo.2の回答者様の方が詳しく述べられております。換言致しますと、アメリカの金融緩和が新興国に大きなダメージを与えている(足を引っ張っている)というのが実情でございます。

http://okwave.jp/qa/q6959890.html 


> あぁ これも例の浜矩子が言っていたことですが ひとつの採り得る対策としては 分配の問題だと言います。 

 日本を例にとって 我が国は世界一の債権国であり 金持ちである。そのゆたかな国が 財政が立ちゆかなくなったままであるというのは どこかおかしい。ほかの国とくらべるなら 格差もそれほどではなく平均所得も極端に低いわけではない。けれども 所得分配をさらに再配分して低所得層が いま少し多くうるおうなら その場合には有効需要が増え そこからの租税収入も得られるようになろう。と。


 このご意見にも、一理あろうかと思われます。日本におけるデフレからの脱却には、この方法が最も功を奏すると考えております。
 前の金融大恐慌の際には、アメリカの労働組合の力が根強く、正社員とその他の人達との(賃金)格差が非常に大きかったがために(組合員の既得権益が大きかったために)、労働問題に大きな影を落としたとされております(戦争が始まるまでは、失業率は10%を下回ったことは一度もなかった記憶しております)。日本では、いっそのこと、正規・非正規の区別をなくした方がいいのではとも考えております。


> おそらく全般的にみれば 世界における賃金の格差が大きくあるかぎり 高いところは低いところとの競争に耐えられるように所得(賃金)を決めねばならない。とすれば それほど所得再配分の余地も大きくはない。限られてくるであろうけれども。


 もちろん、限界はございます。ですが、もう少し格差の是正はしてもよいのでは?というのが愚見でございます。

-----------------------------------------------------------------------------



> ☆ 現世往生と言いますか――空海の言葉では 即身成仏になりますが―― 決して来世に向けて心の伸びを持っているのではない。このことを確認していただければと思うのですが。その上で 実際上は 個々の民衆の状態はおっしゃるような来世往生といった通念のもとにあり 一般的な情況も 現代・現在においてもそうであるという見方をしたいと思うのですが?

 ▼ (ヰキぺ:現生正定聚) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E7%94%9F%E6%AD%A3%E5%AE%9A%E8%81%9A

 まず、参考資料をご提供いただきまして、厚くお礼申し上げます。

「信心を賜わったのちの「南無阿弥陀仏」と口で称える念仏、つまり称名念仏は、すでに浄土へ行くことが定まっていることへの報恩謝徳の念仏であるとする。念仏の功徳により浄土へ往生しようとする方法・手段(行)ではない。」

 さらに、

「蓮如は、『御文』一帖目第四通「自問自答」において、曇鸞の『浄土論註』「住正定聚」・「即得往生住不退転」や、覚如『改邪鈔』などの「平生業成」の語を引用し、親鸞の教えを述べている。」

 ということになりますと、一揆にて戦った人達も、決して「来世往生」のみではない、と考えられます。もしかしますと、(繰り返しとなりますが)あの特殊な状況下におきましては、地域の村々の人達自信も、自分たちの都合のよい方向に敵味方を選び、強かに生きていたのかもしれません。
 


> ◆(親鸞:有念無念の事) ~~~~


 まずは、訳文をもご提供いただきまして、厚くお礼申し上げます。


> いやいや 一向宗ゆえに超越傾向を帯びその一揆を戦ったのだと見るとしますと それは確かにそういう側面が大いにあると思います。思いますが もしそのことを事実としてみとめるなら こういうことにもなります。
 すなわち ほかの仏教宗派の民衆は おおよそみな―― 一向衆とは違って――けっきょく言ってみれば来世往生という思想に立っていた。つまりは 来世が超越傾向であり現世が現実主義としての内在傾向であるという二重の心的構造に成っていた。ゆえに 二つの傾向の衝突はあまり起こらなかった。つまり ただそれだけのいわゆる信心であった。


 もしかしますと、愚生の読解力不足だったかもしれません。もう一度、引用させていただきます。
 つまり、対立事項は、以下のようになろうかと考えました。

・浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など:民衆の生活に密着
・臨済宗等の禅宗:幕府と結んで富強を誇り、この時代の文化を主導

 そして、

・前者:民衆を組織化した(宗教的)超越傾向が見られる
・後者:幕府、戦国大名に支持された(宗教的)内在的傾向が見られる

 従いまして、「各宗派(内)の民衆は二重の心的構造に成っていた」とは、考えておりませんでした。
 もし、愚生に錯誤がみられましたなら、深くお詫び申し上げます。

「宗教的な視点から見るならば、超越傾向と内在傾向との衝突であったということができる。
 室町時代に入ると、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などが民衆の生活のなかに根を下ろして躍進を遂げ、他方、臨済宗をはじめとする禅宗勢力は幕府と結んで富強を誇り、この時代の文化を主導した。すなわち、農民層を中心に広範に民衆を組織化した超越傾向と、幕府ならびに戦国大名に支持された内在的傾向との対立はすでに潜在していたわけで、それが石山戦争において象徴的に顕在化したということができる。」
http://www.worldtimes.co.jp/special/mida/md000528.htm 


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-17 17:04:22

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 製造業の生産水準におきましては、・・・とりあえず、米 ISM 製造業指数(PMI)を例に考えてまいりたいと思います。
 ・・・1990年からの年度別の数値が載せられておりますが、著しい生産水準にあったとは、少なくともこの指数からは、見て取れないというのが率直な感想でございます。
 ~~~~~~
 ☆ 詳しいデータをありがとうございます。
 そしてきわめて無造作にわたくしの感触としましては この程度の水準にあること自体が すでに先進国では――人口の変化を考えないとすれば―― 飽和状態にあるのではないか。長期停滞――高止まりなのでしょうが――の状態にあるのではないか。という見方です。

 宇宙旅行で消費を高めるくらいではないか 停滞を超えるには。といった単純な見方です。
 あるいは 次の政策にも触れていただきました。
 ★ ~~~~~
 前の金融大恐慌の際には、アメリカの労働組合の力が根強く、正社員とその他の人達との(賃金)格差が非常に大きかったがために(組合員の既得権益が大きかったために)、労働問題に大きな影を落としたとされております(戦争が始まるまでは、失業率は10%を下回ったことは一度もなかった記憶しております)。
 日本では、いっそのこと、正規・非正規の区別をなくした方がいいのではとも考えております。
 ★ ~~~~
 ただ、アメリカ自体は、人口増加社会(特にヒスパニック系です)ですので、愚生は、あまり懸念はしてございません。
 ~~~~~~

     *

 ★ ~~~~~
 「蓮如は、『御文』一帖目第四通「自問自答」において、曇鸞の『浄土論註』「住正定聚」・「即得往生住不退転」や、覚如『改邪鈔』などの「平生業成」の語を引用し、親鸞の教えを述べている。」

 ということになりますと、一揆にて戦った人達も、決して「来世往生」のみではない、と考えられます。
 ~~~~~~~~
 ☆ そうでしたか。どうも蓮如については わたしは疑い深くなっています。
 たしか カラスは白いと言えば 白いとなるのだといった社会力学〔だけ〕の問題を論じていたかと思います。
 ○ 「住正定聚」・「即得往生 住不退転」
 ☆ を掲げるのでしたら 親鸞と同じですね。現世往生などという悠長なものでさえなく 《即得往生》すなわち《即身成仏》と同じになります。
 すでに彼岸に到ったというところから出発するのだと見ます。そうすると 彼岸にいるのではなく 此岸に戻って来ています。あるいは ここがすでに彼岸です。色即是空から空即是色に転換しており 娑婆即浄土です。
 つまりは 超越傾向は むろんありますが すでに動態としての信仰においてその非思考の庭におさまっています。あとはすべてと言ってよいほど この現実に向かい合うはずです。その意味で《内在傾向》のみです。

 従いまして 次の図式においても それが実際の情況であったとしても 理論上は――つまり言いかえると 経験思考に先行する非思考なる信仰はすでに生活日常においては 経験思考に席をゆづり後ろにしりぞいているという理論形態に立てば―― いささか違った絵図になると見ます。
 ★ ~~~~
 つまり、対立事項は、以下のようになろうかと考えました。

 ・浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など:民衆の生活に密着
 ・臨済宗等の禅宗:幕府と結んで富強を誇り、この時代の文化を主導

 そして、

 ・前者:民衆を組織化した(宗教的)超越傾向が見られる
 ・後者:幕府、戦国大名に支持された(宗教的)内在的傾向が見られる
 ~~~~~~~
 ☆ すなわち違った絵図が描かれるであろうといった疑問点は 次のようです。

 1. 禅宗とて ブディズムならば無神論であっても 非思考の信仰を身に帯びると思われます。その上で――つまり信仰を隠れた基軸とした上で―― 内在傾向を持つというに過ぎない。

 2. ほかの宗派も信仰としてみれば その超越傾向はあくまで 内面主観におさめられた信仰の問題であって そのほかの側面はすべて現実的な内在傾向であるはずだ。実際にどうかを別として そう考えられます。

 3. とすれば 共同自治といった社会の側面において 《衝突》が起こるとすれば それはあくまで 共生における利害関係などなどから来ていると見るべきではないか。信仰や宗教を問題にするのは ほとんどはその利害関係の調整を図るときに区別すると分かりやすいといった便宜上の手段でしかないと思われます。

 4. 信仰そのものの弾圧――信仰者への迫害――もありましょうが 問題は宗教つまり宗教組織との対立そしてさらにそれらへの弾圧といった性格および中身が 実際のことではないでしょうか?

 5. もしそうだとしたら それは 宗教がすでに政治団体となっているというところから出発していると言わねばならないのではないか? 

 6. しかもその基礎には むしろ単純に支配層と被支配層とのアマテラス‐スサノヲなる逆立連関関係が横たわっており そのような生活利害をめぐる対立がある。

 7. もしこの線で捉えてよいとすれば けっきょくは社会の各分野・各層それぞれの《内在傾向》どうしの対立なのであって アマテラス圏支配層からは スサノヲ圏被支配層の内在傾向のことを その信仰ないし宗教にかこつけて《超越傾向》として決めつけている。だけである。と考えられまいか?


 8. スサノヲ圏が超越傾向を帯びるというのは みづからの生活を守るためには過激にたたかうこともあり得るというだけであって――特に戦国時代あるいは戦争状態にあっては 生きるか死ぬかの情況に追いやられているゆえに 過激さが現われるのであって―― それは その側面だけを取り上げるのは アマテラス圏からのレッテル貼りである作為がありはしまいか? アマテラス圏が 過激さで負けているとは思えないゆえ。

 9. いわゆる来世往生の説に立つ場合には 来世が超越傾向であって現世が内在傾向であるという心的な二重構造を 《秩序立てて》持っているのではないか?  その結果は 往々にして既存のアマテラス‐スサノヲ逆立連関構造にそのまま従うものと思われる。きわめて おとなしい生活態度だ。

 10. この思想――ないしアマテラス予備軍症候群とも言うべき生活態度――から見れば 被支配層のスサノヲ市民よ きみたちは 被支配者の分際で何を過激に戦うというのかといった疑問と蔑みをみづからの心に覚える。というただそれだけのことではないか?
 
 11. そのような見方から 信仰ないし宗教にかこつけて《超越傾向と内在傾向との衝突》といった捉え方が出て来るのではあるまいか?

 

 たわごとに長くおつき合いいただき 申し訳ありません。ご批判をたまわればさいわいです。

投稿日時 - 2011-09-18 01:10:12

ANo.55

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


> ☆ けっきょく国債はそれを減らす意志を持って減らして行かないかぎり 超長期債券であるのではないでしょうか? 国を移るのでないかぎり。


 はい。残念ながら、結論としましてはそうなると考えられます。
 ですが、責任者であった調所広郷は、意外な活躍を見せます。以下引用でございます。

「薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い。だが、実際には明治5年(1872年)の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。一部商人資本に対しては交換条件としてこの密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。そして大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。」

ソース:Wikipedia 調所広郷



> 宗教的な視点から見るならば、
 「超越傾向と内在傾向との衝突であった」
 ということができる。
☆ どうなんでしょう。《内在傾向》というのが 分かりにくいのですが 世界内存在として禅宗をいだく・そしてそのときには 世の中の秩序を重んじ或る程度の支配には従うといった傾向を言うのでしょうか?
 たぶん仮りに超越的な――と言っても信仰はつねに超越的な要素を持つはずですが――志向性をもし生活日常においても表現しようとし始めたとしたら それは けっきょくただただ自分たちの生活を守るために ひとつの表現のかたちとして採っているだけであって ふだんは内在傾向であるのだと思われます。

 武士達が禅宗を好んだ理由があったのかと思います。以下に、信長の信仰観を見ることができますが、現実派の当時の武士たちもほぼ同様であったかと思われます。

「彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。」
ソース:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 
「人物」の「人柄」 からの引用でございます。

 一方、一般民衆、特に狩猟やその皮等を扱う元来穢れとみなされていた人たちには、受け入れられやすかったかと推測されます。そして、来世での阿弥陀仏とのコネクトを信じていたものと考えております。
 そう鑑みますと、宗教的な視点から、「超越傾向と内在傾向との衝突であった」と解することもできようかと考えております。

> あとは すべて社会力学の問題であって 信仰とは関係ないように思われます。

 愚生も、おそらく関係があったとしましても、極めて薄いもの、と考えております。

> あとは すべて社会力学の問題であって 信仰とは関係ないように思われます。

 つまり蓮如が

 ◆ そのため蓮如は、信心を個々人の心の問題とし、外には「王法為本」「仁義為先」を説いて、過激に走りがちな門徒を牽制した。
 ☆ それにしても おっしゃるように 戦国時代という特殊な情況のことを考慮に入れなければならないのかも分かりません。

 はい。愚生もそのような社会情勢(誰と敵・味方になるかは明日になってみないと、わからないという状況です)を鑑みますと、極めて特殊な事情であり、またかような時期であったからこそ、様々な同盟関係も築くことが可能となり(例えば、毛利と組んだ例等でございます)、一揆なるものが、巨大な勢力となったとも考えております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-16 21:50:06

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ですが、責任者であった調所広郷は、意外な活躍を見せます。
 ▲ (ヰキぺ:調所広郷)~~~
 薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、・・・財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。」
 ~~~~~
 ☆ ええ。つまり そのように成功する場合が もちろんあります。そのことを忘れて述べていました。
 つまりは そうではなく現在において潜在需要は(これは 有効需要はと言ったほうがよいのでしょうか)先進国においては その高い段階にまで来てその高止まりの状態で推移しており いま さらに超長期国債を発行しても よい効果を得られないのではないか。こういう思わくのもとに 成功例・つまり経済成長の余地が大いにある場合のことを忘れて述べていました。

 アメリカがあらたに需要喚起の政策を打ち出しましたが もしそれによって金融が緩和されマネーがあふれるようでしたら 新興国の不動産か株式か債券かに投資されることになったり あるいは金や商品への投資にまわされるという結果を得るだけなのではないか。こういうおそれを持っていました。います。
 リーマンショックあるいはサブプライムローンによるバブルがはじける前には 膨大な上げ底(バブル)を成すような資金が世界中にあふれていたということではないでしょうか?
 だとしたら その当時の経済水準に景気が回復するということは ふたたびバブル状態になるということを意味しないでしょうか? 製造業の見込み生産の水準が そもそも高すぎたのではなかったでしょうか?

 ということは BRICs などの新興国における潜在成長率が基礎に成ってその高い水準の見込み生産高を吸収してくれれば 景気回復の余地があるとも考えられます。
 つまりはその場合 新興国における輸出による有効需要は 先進国向けとしては 差し引いたそのあとの需要であり成長のぶんに限られるというものですが。つまり新興国の内需〔のみ〕が 世界にとっての経済成長ないし景気回復のための発電所になるということではないでしょうか?

 あぁ これも例の浜矩子が言っていたことですが ひとつの採り得る対策としては 分配の問題だと言います。 
 日本を例にとって 我が国は世界一の債権国であり 金持ちである。そのゆたかな国が 財政が立ちゆかなくなったままであるというのは どこかおかしい。ほかの国とくらべるなら 格差もそれほどではなく平均所得も極端に低いわけではない。けれども 所得分配をさらに再配分して低所得層が いま少し多くうるおうなら その場合には有効需要が増え そこからの租税収入も得られるようになろう。と。

 おそらく全般的にみれば 世界における賃金の格差が大きくあるかぎり 高いところは低いところとの競争に耐えられるように所得(賃金)を決めねばならない。とすれば それほど所得再配分の余地も大きくはない。限られてくるであろうけれども。

   *

 一向一揆の民衆は その信仰の実際のあり方がどうであったか これはいまわたしに資料がなく判断つきかねますが いま親鸞の信仰として言うとすれば その理論じょうは 次のご見解に異を唱えたいと思います。
 ★  一方、一般民衆、特に狩猟やその皮等を扱う元来穢れとみなされていた人たちには、受け入れられやすかったかと推測されます。そして、来世での阿弥陀仏とのコネクトを信じていたものと考えております。
 ☆ 現世往生と言いますか――空海の言葉では 即身成仏になりますが―― 決して来世に向けて心の伸びを持っているのではない。このことを確認していただければと思うのですが。その上で 実際上は 個々の民衆の状態はおっしゃるような来世往生といった通念のもとにあり 一般的な情況も 現代・現在においてもそうであるという見方をしたいと思うのですが?

 ▼ (ヰキぺ:現生正定聚) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E7%94%9F%E6%AD%A3%E5%AE%9A%E8%81%9A

 (げんしょうしょうじょうじゅ)とは、現生不退(げんしょうふたい)とも言い、阿弥陀如来より回向された信心を受容すれば、浄土に往生することが定まった身となり、悟り(覚り)を開いて仏に成ることが定まること、もしくは仏の覚りと等しい位に定まることをいう。

 浄土真宗の教義の根幹を指す用語であり、親鸞の信仰思想の特徴をあらわす語の一つである。

 親鸞は「浄土三部経」や七高僧の論釈章疏により、信心は阿弥陀如来の本願力により賜わるものであり、その信心を受容することで、浄土に往生することが定まった身となり、現在・現時点で悟り(覚り)を開き仏と成ることが定まる(仏の覚りと等しい位に定まる)とする。

 そのため、信心を賜わったのちの「南無阿弥陀仏」と口で称える念仏、つまり称名念仏は、すでに浄土へ行くことが定まっていることへの報恩謝徳の念仏であるとする。念仏の功徳により浄土へ往生しようとする方法・手段(行)ではない。
 
 ◆(親鸞:有念無念の事) ~~~~
 1. 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。

 2. 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。

 3. また十悪五逆の罪人 はじめて善知識にあふて すすめらるるときにいふことなり。

 4. 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに 正定聚のくらゐに住す。

 5. このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。

 6. 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。

  (末燈抄・一 伊藤博之校註)

 ☆ (現代語訳)~~~~~~~

 1. 臨終のときに阿弥陀仏が極楽へと引き取るためにやってくるという来迎は 修行や善行を積むことによって往生する場合のことである。自力をたのむ行者であるゆえ。

 2. 臨終に来迎を期待するということは 修行を積んで成仏する人に言うことである。いまだ阿弥陀仏からの他力なる真実の信心を得ていないゆえ。

 3. あるいはまた重い罪を犯した人が 臨終の折りに導師に会って念仏をすすめられるときに言うことである。

 4. 如来回向の信心にあずかる人は 如来の大慈悲にもれなく摂取されたゆえに まさしく往生することが定まっている人すなわち正定聚(しやうぢゃうじゅ)のくらいに住している。

 5. このゆえに臨終正念というような往生のかたちを俟つ必要がない。来迎をたのむこともない。

 6. 信心の定まるとき 往生が同じく定まるのだ。来迎の儀式を俟たない。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ ですから 少々くどいですが 次のご見解にも 理論上は 異を唱えざるを得ないと考えます。
 ★  そう鑑みますと、宗教的な視点から、「超越傾向と内在傾向との衝突であった」と解することもできようかと考えております。
 ☆ 信仰の理論においては その信仰者は ふつうに生活日常が《内在傾向》である。つまりふつうの意味で現実主義である。《超越傾向》は もともと信仰の成り立ちが 超越論的・先験的なことを受け容れるところにあるからには 内面においてそのとおりである。となると思います。
 つまりは 親鸞と同朋だと名乗る人間は 《超越傾向と内在傾向との衝突》を持つとは考えられません。その衝突が起こったとすれば それはあくまで生活上の最後の抵抗としてであるでしょうし 政治の場で起こっている。ないし広く社会力学としての力関係から起こっている。と思われます。
 
 いやいや 一向宗ゆえに超越傾向を帯びその一揆を戦ったのだと見るとしますと それは確かにそういう側面が大いにあると思います。思いますが もしそのことを事実としてみとめるなら こういうことにもなります。
 すなわち ほかの仏教宗派の民衆は おおよそみな―― 一向衆とは違って――けっきょく言ってみれば来世往生という思想に立っていた。つまりは 来世が超越傾向であり現世が現実主義としての内在傾向であるという二重の心的構造に成っていた。ゆえに 二つの傾向の衝突はあまり起こらなかった。つまり ただそれだけのいわゆる信心であった。
 もっと言いますと 親鸞の信仰理論のほかの宗派では 心の内面においてもそして一般に政治の側面においても 葛藤もなければ衝突も起こらない。二重構造としての秩序を持っていた。つまりは 魂が骨抜きにされていた。このように考えられます。

 親鸞以外は 信仰を持つでもなければ 共同自治をおこなうでもない。幽霊として生き長らえている。こう結論づけられます。


 ドクターひどっちに解きほぐしていただけるとさいわいです。

投稿日時 - 2011-09-16 23:30:37

ANo.54

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> ☆ そうでしたか。色合いが変わって行くのですね。バビロン捕囚や祖国の消滅にまで到れば どうも律法による雁字搦めの生活のあり方はまづいと かえって神が考え直したでしょうか。というような半ば冗談での応答になってしまいますが。



 はい。”恐怖・怒りの神”から主イエスの”愛の神”に、いきなり突如として移行してしまうのは、人間側にも、不都合かと考えられます。おそらく、準備期間という側面もあったものと考えております。


> ▼ 第十五話「関ヶ原から明治維新へ-薩摩藩と幕府の関係(1)-」
 そうですね。薩摩藩が 徳川幕府に対して敵対心を持ったのではないかとわたしが思ったのは その親疎の関係による親藩・譜代・外様といった区別によるのではありませんでした。つまり関ヶ原史観は念頭になかったのです。


 そうでございましたか。どうも失礼致しました。


> 各藩はあたらしい都に江戸屋敷を持ち 人質としてのように家族を置き そして参勤交代でやって来る。これによって各藩は 財政の余裕を蓄積し得ないようにされたかと思われます。
 その上に 薩摩藩は よその藩の治水事業に手弁当で駆り出された。これは大きいと感じた。そして推測した。これだけでした。


 了解致しました。


> ▲ (ヰキぺ:宝暦治水事件)
 ~~~
 
 § 事件概要

 ☆ すなわちこのとき《〈一戦交えるべき〉との強硬論が出た》ということをもとにして考えたものです。その後 幕末までは まだ百年ありますが。


 仰られますように、この文言からは、そのように解釈できるかと思われます。


> 大きく重いと思ったのは 財政逼迫の上に借金をせねばならなかったという事情です。
 すなわち 士農工商の農民に対しては 年貢を取って生かさず殺さずの方針だったとしたら 武士ないし各藩に対してもけっきょく同じような態度で幕府は臨んでいたのではないかと 推測したものです。

 ですから

 ☆☆ (No.52お礼欄)したがってかどうなのでしょうか 幕府を倒すときには理屈抜きで先頭に立ったということでしょうか。
   ☆ この部分を 印象批評でしかありませんから そのように事割るか削除したいと思います。


 以下の引用にもございますように、将軍家とは親密な関係を求めていたようでもあります。

「また江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍・徳川家斉に嫁がせた(ちなみに外様大名から将軍正室を輩出したのは薩摩藩だけである)。これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の政治的影響力は格段に上がったものの、藩財政は更に困窮の度を増した。」
ソース:Wikipedia 薩摩藩

 ですが、その後の情勢変化により、明治維新の原動力となったようでございます。

「薩英戦争を経て、西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。幕末には公武合体論や尊王攘夷を主張、その後長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となり、明治以降長く日本の政治を支配する薩摩閥を形成することとなる。」
ソース:ibid.

 話が異なりますが、薩摩藩は、財政が逼迫し過ぎたために、いわゆる”永久債”を発行したかと記憶しております。

ソース:http://www.gemki-fujii.com/blog/2009/000238.html 


> 微妙ですが 恨みを晴らすために・昔の仇を討つために戦争を起こすというのではなく 戦争が起こったならその先頭に立って事をかまえてもおかしくないと感じました。



 納得致しました。


> それとは別に この論文氏の次の推論には 疑問を感じました。

 ☆ 《家康の指示通り》に動けない事態になったとき なぜ家康にそのことを知らせて指示を受けようとしなかったのか?



 まず、共通認識と致しまして、以下のものを列記致しました。

・薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、親豊臣あるいは中立に立つ義弘の間で、家臣団の分裂ないし分離の形がみられていた。
・義弘に本国の島津軍を動かす決定権がそもそもなかった。関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵士であった。
・1600年、徳川家康が上杉景勝を討つために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じる。
・1600年、徳川家康が上杉景勝を征伐するために軍を起こすと、義弘は徳川家康から援軍要請を受けていたため、手持ちの1500の軍勢を率いて家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。

 ですが、諸説あるようでございます。

「元忠から家康が義弘に援軍要請したことを聞いていないと入城を拒否されたため、仕方なく西軍に与した(諸説有り:秀吉への降伏の際、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより、大隈一国と日向の一部が島津領として残った事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があった。関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが、義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に、西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は、江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって、創作されたものであるともいわれている)。」

ソース:http://www.shimazu-yoshihiro.com/shimazu-yoshihiro/shimazu-yoshihiro-sekigahara.html 



> ☆ もともと蓮如は 一揆推進の方針であったと言われます。(そういう事実をうかがわせる資料が出て来たと聞いています)。けれども――たとえば守護を自刃にまで追い込んだことは行き過ぎだと思ったのでしょうか―― ここで《一揆をいさめた》のですね。このあたり すっきりするような事情なり解釈なりがあるとよいと思われませんか? 
 真宗の組織を 僧侶の占めるべき位置を守りつつ 堅固なものとしたいということだったでしょうか?


 王法為本という為政者に従うという思想があったのかもしれませんが、主な理由は組織の死守・強化にあったものと思われます。以下、引用でございます。

「 蓮如は、教勢が急激に拡大していくにつれて、農民門徒の自主的な結合組織が、同じく支配体制の再編成を目指す戦国大名たちと競合・対立するであろうことを見通していた。そうしたなかで本願寺教団を守り、さらに発展の道を拓(ひら)いていくには、結局、次第に形をなしつつある新たな封建体制に順応する方向以外にはなかろうと考えていたようである。
 そのため蓮如は、信心を個々人の心の問題とし、外には「王法為本」「仁義為先」を説いて、過激に走りがちな門徒を牽制(けんせい)した。」

ソース:http://www.worldtimes.co.jp/special/mida/md000528.htm

> これも 単なる推測ですが 仮りにそうだとしたら(空想としては) けっきょく人びとの生活のために真宗組織があるのではなく その逆だと捉えられます。けれども 時代が時代であって 人びとの共同自治についての意識も少なかったでしょうか。


 少なくとも当初は、弾圧にたいする抵抗勢力であったと思われます。つまり、無謀な要求を突きつけるお殿様に対する、一種のクーデターのようなものであったかと考えております。御同朋思想からしましても、初期段階の頃は、生活を守るためだったかと推察しております。
 また、以外かもしれませんが、絶対的権力者であった蓮如に対しても、「ウチの村は参加しません」といった地方からの手紙が残っているのだそうです。つまり、地域の人達も相当知恵を絞って生きていたように見受けられます。何分、戦国時代という特殊な時代でしたので、地域・村を守るためには、Aにもつき、今度はBとも結託するという強かさはあったように考えております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-15 20:06:15

お礼

 ひどっちさん いろいろ調べてくださりご回答をありがとうございます。こんばんは。

 補正などを交えて確認をおこないます。

 ☆☆ (No.53お礼欄) もともと蓮如は 一揆推進の方針であったと言われます。(そういう事実をうかがわせる資料が出て来たと聞いています)。
 ☆ 確定ではないようですね。その可能性がないとは言えないのだと。すなわち:
 ▼ (ヰキぺ:加賀一向一揆) ~~~
 § 脚注
  長年、本願寺においては蓮如は平和主義者で一向一揆には否定的とされ、一連の一揆も側近の下間蓮崇の策動とされてきたが、近年の研究で同時期に蓮如が太刀を新調した(文明6年10月8日付門徒あての御文。それに相応すると見られる太刀は現在大阪歴史博物館にある)ことが明らかになっており、この時には主導的な役割を果たしていたと思われる(辻川達雄 『蓮如と七人の息子』(誠文堂新光社、1996年))。
 ただし、僧侶が刀剣を所持するのは数珠丸恒次という名刀を持った日蓮の例もあり、一向一揆と関係あるかは断定できない。
 ~~~~~~~~~~

 ☆ 一揆を起こす地位も身分も低い一般の人びとについて:
 ★ ~~~~
 御同朋思想からしましても、初期段階の頃は、生活を守るためだったかと推察しております。

 また、意外かもしれませんが、絶対的権力者であった蓮如に対しても、「ウチの村は参加しません」といった地方からの手紙が残っているのだそうです。つまり、地域の人達も相当知恵を絞って生きていたように見受けられます。
 何分、戦国時代という特殊な時代でしたので、地域・村を守るためには、Aにもつき、今度はBとも結託するという強かさはあったように考えております。
 ~~~~~~~

 ☆ ところがただし 何がしかの地位や身分を身におびている場合には その地位や組織の保守のために動く。
 ★ ~~~~
 王法為本という為政者に従うという思想があったのかもしれませんが、主な理由は組織の死守・強化にあったものと思われます。以下、引用でございます。

  「 蓮如は、教勢が急激に拡大していくにつれて、農民門徒の自主的な結合組織が、同じく支配体制の再編成を目指す戦国大名たちと競合・対立するであろうことを見通していた。うんぬん。・・・
 ◆ (「信仰為本」を守り抜く)~~~~~~~
 親鸞は、信仰の世界を世俗の権威ならびに権力から独立させて、信仰こそが主であって、この世の王法は従であるとした。権力の弾圧や迫害に対してはそれを甘受し、権力を打倒・変革するようなことはせず、あくまでも「信仰為本」を守り抜いた。一二五七年と推定される書状のなかで親鸞は概要、次のように述べている。

 ――仏者は、領主や地頭、名主たちと結んで念仏を広めようなどと考えてはならない。その在所に念仏が広まるということは仏のはからいであって、人間の力ではどうすることもできないことである。その在所で念仏の縁が尽き果てたならば、あくまでも信仰を守り通すために、住みなれた故郷も土地も家も捨てて、念仏のできるところへ移るべきである。

 これが、真宗に対する弾圧がギリギリの線まできた際の門徒のとるべき態度であった。
 ~~~~~~~~~~


 ☆ 島津義弘の行動について 次の推論だけでは はっきりしないということは はっきりしたと思います。
 ▼ (関ヶ原史観への批判) ~~~~
 ・・・そのため、島津勢は伏見城に入ることが出来ず、結局島津義弘はここで已む無く石田方に付くことを決心するのです。
 当時京都にいた島津勢は非常に寡少であったため、義弘としてはこう決断せざるを得ない状態にあったとも言えましょう。
 ~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 藩主の意向とは違って 義弘自身は 石田三成に好意的であったという見方が ひとつの可能性として説得的に思えます。
 ▲ (島津義弘) ~~~
 関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが、義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に、西軍に積極的に参加したとも言われており
 ~~~~~~~~~

 ★ 話が異なりますが、薩摩藩は、財政が逼迫し過ぎたために、いわゆる”永久債”を発行したかと記憶しております。
 ☆ けっきょく国債はそれを減らす意志を持って減らして行かないかぎり 超長期債券であるのではないでしょうか? 国を移るのでないかぎり。


 ◆ (「信仰為本」を守り抜く)~~~
 石山戦争は、政治的・軍事的に見るならば、本願寺教団ならびにそれと結んだ諸大名と織田信長との戦いであるが、宗教的な視点から見るならば、

   超越傾向と内在傾向との衝突であった

 ということができる。

 室町時代に入ると、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などが民衆の生活のなかに根を下ろして躍進を遂げ、他方、臨済宗をはじめとする禅宗勢力は幕府と結んで富強を誇り、この時代の文化を主導した。

 すなわち、農民層を中心に広範に民衆を組織化した超越傾向と、幕府ならびに戦国大名に支持された内在的傾向との対立はすでに潜在していたわけで、それが石山戦争において象徴的に顕在化したということができる。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょう。《内在傾向》というのが 分かりにくいのですが 世界内存在として禅宗をいだく・そしてそのときには 世の中の秩序を重んじ或る程度の支配には従うといった傾向を言うのでしょうか?
 たぶん仮りに超越的な――と言っても信仰はつねに超越的な要素を持つはずですが――志向性をもし生活日常においても表現しようとし始めたとしたら それは けっきょくただただ自分たちの生活を守るために ひとつの表現のかたちとして採っているだけであって ふだんは内在傾向であるのだと思われます。
 あとは すべて社会力学の問題であって 信仰とは関係ないように思われます。
 つまり蓮如が
 ◆ そのため蓮如は、信心を個々人の心の問題とし、外には「王法為本」「仁義為先」を説いて、過激に走りがちな門徒を牽制した。
 ☆ という場合にも すでにふつうのひとつの政治思想になっているのではないかと考えます。信仰が信仰として超越傾向を保つなら とうぜん神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ返すというふうに次元を異にすると思われるからです。

 それにしても おっしゃるように 戦国時代という特殊な情況のことを考慮に入れなければならないのかも分かりません。

投稿日時 - 2011-09-15 23:22:49

ANo.53

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

 以下に、ご参考までに蓮如の略歴を載せさせていただいております。

蓮如
1415年:親鸞の直系として本願寺第7世存如の長子として生まれる
1458年:第8子(5男)実如(後の本願寺9世)誕生
1473年:加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける(このとき、既に北陸の浄土系諸門を次々と統合していた)。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。
 だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った
1475年:吉崎御坊を退去。加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。一方、一揆を扇動した下間蓮崇を蓮如が破門。
1481年: 石黒光義が政親と結んで門徒弾圧に出たところ、越中で一揆が発生し、石黒光義が討ち取られる(”越中一向一揆”)。
1488年:”加賀一向一揆”が国人層と結びついて決起。高尾城にて富樫政親を討ち取る。その後、加賀は蓮如の3人の息子が実質統治することになる。
同年6月9日:加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。
同年7月:蓮如は消息を送って一揆を諌めた。
1489年:75歳。寺務を実如に譲り、山科南殿に隠居。
1496年:大坂石山の地に石山御坊(後の石山本願寺)を建立し、居所とした。
1499年2月20日:死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。
同年3月25日:山科本願寺において85歳で示寂。

  これ以降は、息子と孫の時代となります。
1531年:本願寺10世証如と、その後見人蓮淳(蓮如の6男)による法主の権限強化を図った政策方針の末に、加賀一向一揆と本願寺が対立。”大小一揆”と呼ばれる内乱を起こる。
1563年:”三河一向一揆”は、本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)が中心となってなされた。
1570年から1574年:長島一向一揆は、石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した


> 薩摩藩には よほど幕府はにらみを効かせていたようですね。

 以下のサイトを参照致しますと、決して、そのようなことはなさそうにも見受けられましたが、いかがなものでしょうか?

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/zatsuwa15.htm 

-------------------------------------------------------------------------------

> ☆ すなわち すでにダヰデについてその罪が赦されたことを見て来ましたが――つまり かれのいわゆる姦淫という死罪に値する行為をめぐって かれの心における悔いと省り見となかんづく基本的な初めの信仰への立ち帰りをとおして 愛のもとに赦されたと見たのでしたが――
 キリスト・イエスの指し示した神とその信仰にもとづく人間愛にかんして 旧約のときからその伏流水のごとく触れられていたということでしょうか?

 以下、思いついたことを列記させていただいております。もしかしますと、主イエス誕生のための整えのようなものがなされていたのかもしれません。

・メシアはダビデの子孫から生まれるとされていた。
・旧約の時代におきましても、例えば、イザヤ書、エレミア書等では、“怒る神”の様相はあまり見られない。しかし、初期の創世記(特に、甚だしい性の乱れが見られたソドムとゴムラが滅ぼされるところです)、出エジプト記(偶像崇拝するイスラエル人に対する裁きが見られます)では“怒る神”が見られる。

> 例の《聖絶》でしょうか 異民族で敵対する者に対しては皆殺しを命じるという神のイメージが強くて 《嫉む神・怒る神・復讐の神》と捉えられる度合いが かなりきつい。こういうことなのでしょうか?

 はい、それはあろうかと推察しております。ただ、必ずしも、異民族とは限らなかったようではございます。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-14 21:43:49

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 蓮如について情報を得させてくださってありがとうございます。

 ★ ~~~
 ・旧約の時代におきましても、例えば、イザヤ書、エレミア書等では、“怒る神”の様相はあまり見られない。しかし、初期の創世記(特に、甚だしい性の乱れが見られたソドムとゴムラが滅ぼされるところです)、出エジプト記(偶像崇拝するイスラエル人に対する裁きが見られます)では“怒る神”が見られる。
 ~~~~~
 ☆ そうでしたか。色合いが変わって行くのですね。バビロン捕囚や祖国の消滅にまで到れば どうも律法による雁字搦めの生活のあり方はまづいと かえって神が考え直したでしょうか。というような半ば冗談での応答になってしまいますが。


 ▼ 第十五話「関ヶ原から明治維新へ-薩摩藩と幕府の関係(1)-」
 ☆ 関ヶ原史観 すなわち関ヶ原での負けとそれによる幕府による冷遇を根に持って 明治維新へ向けては幕府倒壊へ先頭に立ったという見方は あったとしても維新のあとの冗談まじりの後づけであるとのこと。
 そうですね。薩摩藩が 徳川幕府に対して敵対心を持ったのではないかとわたしが思ったのは その親疎の関係による親藩・譜代・外様といった区別によるのではありませんでした。つまり関ヶ原史観は念頭になかったのです。

 各藩はあたらしい都に江戸屋敷を持ち 人質としてのように家族を置き そして参勤交代でやって来る。これによって各藩は 財政の余裕を蓄積し得ないようにされたかと思われます。
 その上に 薩摩藩は よその藩の治水事業に手弁当で駆り出された。これは大きいと感じた。そして推測した。これだけでした。

 ▲ (ヰキぺ:宝暦治水事件) ~~~
  § 事件概要
  ( a )  当時既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、
  ( b ) 工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。
  ( c ) 財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。

  ( d )同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。

  ( e ) 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちこのとき《〈一戦交えるべき〉との強硬論が出た》ということをもとにして考えたものです。その後 幕末までは まだ百年ありますが。

 大きく重いと思ったのは 財政逼迫の上に借金をせねばならなかったという事情です。
 すなわち 士農工商の農民に対しては 年貢を取って生かさず殺さずの方針だったとしたら 武士ないし各藩に対してもけっきょく同じような態度で幕府は臨んでいたのではないかと 推測したものです。

 ですから
 ☆☆ (No.52お礼欄)したがってかどうなのでしょうか 幕府を倒すときには理屈抜きで先頭に立ったということでしょうか。
 ☆ この部分を 印象批評でしかありませんから そのように事割るか削除したいと思います。

 もうひとつは 微妙なことですが 《恨みを晴らす》という感覚では言っていませんでした。もし幕府と一戦を交えるという事態になれば 何かと過去のいきさつがあるから 勇み立って先頭になっても不思議はないという意味合いでした。
 微妙ですが 恨みを晴らすために・昔の仇を討つために戦争を起こすというのではなく 戦争が起こったならその先頭に立って事をかまえてもおかしくないと感じました。


 それとは別に この論文氏の次の推論には 疑問を感じました。
 ▼ (関ヶ原史観への批判) ~~~~
 その家康の予想通り、その後石田三成が挙兵したため、島津勢は家康の指示通り伏見城に入城しようと試みますが、伏見城を守る徳川方の武将・鳥居元忠は「援軍無用!」とばかりに、島津勢の入城を堅く拒否しました。
 そのため、島津勢は伏見城に入ることが出来ず、結局島津義弘はここで已む無く石田方に付くことを決心するのです。
 当時京都にいた島津勢は非常に寡少であったため、義弘としてはこう決断せざるを得ない状態にあったとも言えましょう。
 ~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 《家康の指示通り》に動けない事態になったとき なぜ家康にそのことを知らせて指示を受けようとしなかったのか?
 もしすでに時間がなかったとしたなら それでも《島津勢は非常に寡少であった》ことが なぜ家康の敵方に就くことになるのでしょう? その判断はやむを得ないと見ているようですが その根拠はわたしには分かりません。《援軍無用》と事割られたから やむを得ず敵方に就くという論理が見えません。
 なおこの物言いは 関ヶ原史観の復活を意図したものではありません。それとはまったく別に どうしてその推論が妥当だと言えるのか。この一点についての疑問を ついでに出してみました。


   *


 ★ ~~~
 同(1488)年6月9日:加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。
 同年7月:蓮如は消息を送って一揆を諌めた。
 ~~~~~
 ☆ もともと蓮如は 一揆推進の方針であったと言われます。(そういう事実をうかがわせる資料が出て来たと聞いています)。けれども――たとえば守護を自刃にまで追い込んだことは行き過ぎだと思ったのでしょうか―― ここで《一揆をいさめた》のですね。このあたり すっきりするような事情なり解釈なりがあるとよいと思われませんか? 
 真宗の組織を 僧侶の占めるべき位置を守りつつ 堅固なものとしたいということだったでしょうか?
 これも 単なる推測ですが 仮りにそうだとしたら(空想としては) けっきょく人びとの生活のために真宗組織があるのではなく その逆だと捉えられます。けれども 時代が時代であって 人びとの共同自治についての意識も少なかったでしょうか。



 今回も勝手な物言いを添えています。問い求めが進み得ればさいわいですし その方向がよからぬさまでしたら その旨をご指摘くださいませ。

投稿日時 - 2011-09-14 23:27:07

ANo.52

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> ☆ この中で 伊勢長島についてはまだ《高度な治水技術》はなかったと思われます。 というのは わがふるさとの隣町でして そしてそこは輪中ですが 治水はまだ出来ていなかったように思われます。

 そうでございましたか。“輪中”の地域だったのですか。以前、伊藤正春著「創薬物語-貧乏力」(新興医学出版社)を読んだときに、著者が自らのことを“輪中根性”が抜け切れていないとの記述があり、自分でも調べたことがございます。
 そうなりますと、やはり、治水は不完全であったかと推察されます。 

> ☆ 治水工事の場所は 上流の岐阜県ですが――いまも千本松原として残っていると思います―― 薩摩藩の指導者(ひらたゆきえ)の墓が桑名市にあり この薩摩藩士の功労については小学校の学芸会で劇にして伝えるということをしていました。
 これらの情報によれば 長島は高度な共同自治を敷いていたかと思われますが 治水技術が発達していたというのは まだだったのではないかと考えます。

 確かに、仰るとおりかと思われます。

> 細かいことですが ひとこと触れました。

 いえいえ、ご参考となる情報提供いただきまして、どうもありがとうございました。

> ☆ 石山本願寺との戦争で武士の側が勝ったところから 自分たちの自治かどうかの勝負がついたのでしょうか?
 蓮如の敷いた寺の制度は 強固でしたか。それなら 国主に代わって坊主が権威を持っても それほどの自治だとも言えないかも知れません。
 時代を考慮すれば一歩 民主制へとすすもうとしたと見るべきでしょうか?

 武士側が勝ち、信長の大虐殺(7万人以上ともされています。第六天魔王と言われたのはこのときのことがきっかけだったかと記憶しております)もあったことから、民衆の不安感も募り、戦意が喪失していくもの、また抵抗しようとするもの等、バラバラになってしまったものと考えております。石山が信長のものとなった状況下では、もはや、組織的な戦いは不可能になろうかと思われます。つまり、勝負がついたと言っても言い過ぎではないと考えられます。
 蓮如の敷いた寺の制度は強固だったとされています。ただ、初期段階では、蓮如はそんなには積極的ではなかったと記憶しているのですが。
 また、「民主制へとすすもうとしたと見るべきか」のご質問につきましては、志を同じくする友という“御同朋”という思想が元来ございました。従いまして、自分たちが主権者である、との自覚はあったものと考えております(おそらく、このとき、日本の歴史上、はじめてそのような考えに至ったものであったものとも思われます)。
 ですが、制度の観点から見ますと、構成員からの選挙によるリーダーの選出というシステムが存在しなかったことから、やはり、“民主制”とは幾分異なるものかと考えられえます。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-13 19:23:44

補足

 次の著書の中からひとくだりを引きます。

 ◆ (関根清三:ギリシャ・ヘブライの倫理思想) ~~~
 第五章 / 3. アガペー再考 // 隣人愛

    自分自身を愛するように 隣人を愛しなさい。
         (レビ記19:18)

 これは『申命記』6:4-5と並んで イエスが《最大の戒め》に数え 《律法と預言者とが この二つの戒めにかかっている》(マタイ22:40)と語った 枢要の戒めである。イエスがまた有名な山上の説教において この戒めに触れ 次のようにも述べている。
 
    《君の隣人を愛し 君の敵を憎め》と言われたのを 君たちは
   聞いている。しかしわたしは君たちに言う。
     自分の敵を愛し 迫害する者のために祈りなさい。
     (マタイ5:43-44; ルカ6:27-28)

 この《君の隣人を愛し》の背後に『レビ記』19:18があり また《君の敵を憎め》という言い方は旧約のどこにもないことは 多くの注解者が指摘するとおりである。だが寡聞の限りどの注解者も触れないが 憎敵の箇所がないのみならず 『レビ記』19:18の《君の隣人を君自身と同じように愛しなさい》の前には実は 次の一句が先行していることに 我々は注目したいと思う。曰く

     心の中で君の身内の者を憎んではならない。・・・
     復讐してはならない。
     君の国の人びとを恨んではならない。
       (レビ記19:17-18)

 つまりここでは 《隣人》の中でも 《君》に悪いことをして 《憎》まれ《恨》まれている 本来は《復讐》の対象となる つまり広義の《敵》が問題となっているのである。とすれば 敵を愛せよ というのが 実は既に『レビ記』19:18の使信だったことになる。

 〔もちろん旧約は他方で憎敵の思いにも事欠かず また具体的な行為の勧めに留まって イエスのような一般的な定式化や 《祈り》への内面化にまでは到ってはいない・・・〕
    (2011 pp.192-193)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち すでにダヰデについてその罪が赦されたことを見て来ましたが――つまり かれのいわゆる姦淫という死罪に値する行為をめぐって かれの心における悔いと省り見となかんづく基本的な初めの信仰への立ち帰りをとおして 愛のもとに赦されたと見たのでしたが――
 キリスト・イエスの指し示した神とその信仰にもとづく人間愛にかんして 旧約のときからその伏流水のごとく触れられていたということでしょうか?


 例の《聖絶》でしょうか 異民族で敵対する者に対しては皆殺しを命じるという神のイメージが強くて 《嫉む神・怒る神・復讐の神》と捉えられる度合いが かなりきつい。こういうことなのでしょうか?



 広くみなさんとの相互理解を深めるために 次のやり取りを参照していただくよう掲げます。

  【Q:預言者ホセアの行動をどう捉えますか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6827810.html
  【Q:ダヰ゛デに何が起こったか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6901513.html

    

投稿日時 - 2011-09-14 10:49:56

お礼

 ★ ~~~~
 また、「民主制へとすすもうとしたと見るべきか」のご質問につきましては、志を同じくする友という“御同朋”という思想が元来ございました。従いまして、自分たちが主権者である、との自覚はあったものと考えております(おそらく、このとき、日本の歴史上、はじめてそのような考えに至ったものであったものとも思われます)。
 ですが、制度の観点から見ますと、構成員からの選挙によるリーダーの選出というシステムが存在しなかったことから、やはり、“民主制”とは幾分異なるものかと考えられえます。
 ~~~~~~ 
 ☆ えぇ このあたりですね。ご同朋の考え方――目と鼻の先に 同朋高校という学校がありまして そこでは 校長以下すべての生徒に到るまで みな互いにだれだれさんと さんづけで呼び合っていると言います。与えられた権限に応じて呼び変えることも大事だと批評されたこともありましたが――なり。
 主権者の自覚を持ったことなり。それが 日本史じょう国家が出来てから初めてだったのではないかということなり。
 あぁ ただし選挙制ではなかったのでしょうね。

 おっと ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 蓮如についても きちんと知っとかなくちゃと思いつつ きょうまで来てしまいました。組織として再興したことにまちがいはないのでしょうけれど。



 薩摩藩には よほど幕府はにらみを効かせていたようですね。参勤交代どころではなく 財力や武力を蓄えることの出来ないようにと。
 したがってかどうなのでしょうか 幕府を倒すときには理屈抜きで先頭に立ったということでしょうか。



 あたらしい問い求めを考えなくてはいけなくなったかも分かりません。考えてみます。

投稿日時 - 2011-09-13 22:02:56

ANo.51

恐らく一般の方々が日常的に利用している言葉で表現し得ない内容の事を仰りたい、と考えていらっしゃるのでしょうけれども、若しそうでしたら、一般的な言葉に特殊な意味を添えるべきではなく、別の完全なオリジナルタームを拵えて頂くべきなのでしょう。

従いまして、非常に勿体無いと考えられましたので、
畏れ入りますが、再度の投稿を試みます。

若し神が絶対無の存在に留まるのでしたら、そういう絶対無的な可能世界からの作用の有無さえもが認識されようがないのでしょうから、そもそも受け入れは成り立ち得ないでしょう。

投稿日時 - 2011-09-13 07:59:56

お礼

 ☆☆ (No.48お礼欄・その最後尾) ~~~~
 木(十字架)に架けられる者は 呪われたものと言われています。呪われた者となって・つまり人間の屑となって去って行ったという話でなければ 絶対無の一般性および現実性は 伝えられ得なかった。ゆえにその特殊性は 一般性を用意します。
 うんぬん。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ここから話を継ぎたいと考えます。

 ばっふぁろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 話は こうです。骨子として:
 ○ まぼろしであることが 事実ではなくとも 想像をも許容した思いや考えとしての主観真実として――そして その《真実》とそして《事実》一般とで人間の《現実》を成すというかたちで―― 認められることがあり得る。しかも その主観が共同化されうる。コモンセンスと成り得る。
 ○ そしてこのように マボロシが共同主観となり得るというのは あくまでこころざしとしてであり そのような心の伸びもしくは明けが 社会的に見えない教会を成すという場合である。

 ☆ 言いかえると こうです。
 ★ 若し神が絶対無の存在に留まるのでしたら、そういう絶対無的な可能世界からの作用の有無さえもが認識されようがないのでしょうから、そもそも受け入れは成り立ち得ないでしょう。
 ☆ と一般に考えられるとき それでもそこには微妙にかすかなかたちで但し書きが添えられるというものです。きわめての詭弁を弄することを承知の上で こうです:
 ○ 絶対無にしろ絶対有にしろ 絶対の領域については そこからの《作用の有無さえもが認識されようがない》ゆえに そもそもそれの受け容れは《成り立つか成り立たないか このことについての判断が 人間には下し得ない》。

 ☆ そのことによっても 絶対なる領域は 絶対有と言う場合と絶対無と言う場合とが 互いに同等にあり得ます。どちらも対等であり 人がどちらをえらぼうと自由です。
 それと同じように この絶対の領域からのハタラキは それを受け容れると言う場合と それを受け容れない(そんなハタラキなどは無い)と言う場合とがあり得ます。どちらも 同等の内容を表現しており 対等であり どちらをえらぶかはまったく人それぞれの自由だということになります。

 つまり これゆえに《絶対》については 考えるの対象として捉えることなく 非思考の場なのだと捉え つまりは人間はこれを《信じる》という言葉を持ち得て表わすようになったのでしょう。(あるいは いちいちそのように考えて言葉をつくったわけではないでしょうから そもそも人間の言葉は 初めからそのように成っているということなのでしょう)。

    *


 ただ アブラハムからモーセから ダヰデからイザヤから エレミヤから誰々から その《絶対》を問い求めて来た――あるいはむしろ その《絶対》に魚が網に掬われるように捉えられて来た――人びとの生きた系譜は ついにイエスという人間にたどりつくと その人間という存在じたいが その《絶対》であると ふつうに考えるなら愚かにもそして神がかりの極致のごとくに 宣言するに到りました。


  アブラム(のちのアブラハム)は 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げ受けたかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。
 その子孫として モーセは その神に 名を尋ねたとき 

   《〈わたしはある〉 それが わたしである。》

 という答えを得たと言います。
 伝えによると ダヰデという人は 

   きょう わたしは おまえを生んだ。

 という言葉を その神から聞いたそうです。
 イザヤという人に到っては 

   主(=神)なる霊が わたしに臨んだ。

 と表現する歴史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・るためである。
    (イザヤ書61:1-3)

 その後 さらに時は飛んで イエスという人が出ました。
 イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
    すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
   る箇所が目に留まった。

      主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。
      主がわたしを遣わしたのは 貧しい人に福音を伝え
      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
      (つまり=イザヤ書61:1-2)

    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

  と話し始めた。
     (以上は ルカ福音4:17-21)

 ☆ 神と人間との関係の歴史が――人間の言語による表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論の問題としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。イエスが この《わたしはある》という名の神なる絶対について その信仰および思想あるいは要するに人間存在の全体のあり方を完成させた。こう捉えられます。
 《絶対》観は ここに究められたと思われます。きわめて傲慢にも あるいはそれゆえにきわめてつつましやかに 人間が人間であると宣言したときだと思います。




 さらにその後 このイエスという人は この存在論の実証をしたと伝えにはあるようです。
 十字架上において はりつけになるというコトを 〔神の貌(かお)としては〕みづから欲して そのとおりになったことにおいてだと言います。
 生前には かれが当局に捕らわれたとき かれを見捨てて逃げた弟子たちも その死後においてやっと かのイエスは 神であったと言い始めたそうです。

 もしかれが 神ではなくただ人間であるだけであったとすれば そのような存在論の実証は もし信念の強い殊勝な人がいれば その限りで誰でも 出来るでしょう。でかした よくやったな 弱い人びとにとって必要があれば さらになおまた誰か続くだろううんぬんとうわさして それだけのことです。

 ただ単に人間であったなら 《わたしはある》という名の神のもとにある人間をめぐる存在論は 《完成》していないことになります。
 アブラハムやモーセらは 自分たちからイザヤらにつらなった存在論の系譜とその悲願をめぐって さらに 別の人によって実現するのを待つということになります。

 けれどももしイエスが 人間ではなく仮りに神であるだけだったとすれば そのままそれは 《うそ》ですから 史的イエスは存在しなかったという非実在論によって 聖書の伝えを一笑に付すというわけです。

 以上のようなひとつの虚構が なかなか 捨てがたいものであるようなのです。
 というより 絶対性について人間が考え得る理論としては そのように虚構をも交えつつの《人間イエスは 神なるキリストである》という非思考の場にきわまるものと思われます。
 その特殊性から あらゆる《絶対》の理論にかんする一般性をみちびくことが出来るからです。
 

 神の霊がひとにやどるという見方が ブディズムの仏性の理論を含み得るからです。ほかの名前の異なる神をすべて含み得るからです。(名が違うだけの場合は どちらがどちらを含むというよりは 互いに対等ですが)。
 その逆の見方も出来ないではないかも知れませんが 存在論ないし絶対観の極まるところは ほかの特殊絶対性理論としての信仰形態――つまり俗に言う宗教のことですが――においては ついぞ明らかになっていない。こう考えられます。どうでしょう?
  

投稿日時 - 2011-09-13 14:14:27

ANo.50

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> ☆ えぇ そうですね。まだ体験がないと言われれば それまでになってしまうかも知れません。案外おおきいですね。考えてみれば そのためにも科学の解法としてのヒラメキの事例などがあるのかと思われて来ます。あるいは 自然つまり大自然との交感といった体験でしょうか。
 といった事柄が 今回おおきな位置を占めるかとも思いました。

 ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。

> あとは ムレあるいは 昔むかしからの集落としてのムレないしムラ。の問題。
 ★ (参考サイト) 関川村の村八分騒動はその後どうなったのか
 ☆ つまり このムラの有力者らは あたかも DNA がそうなっているというかのように 行動様式としてその有力を通すということ。そしてつまりは その結果 それに従う者とそうでない者とに人を仕分けするというくせを身におびているようです。
 わたしのささやかな体験としましては 神社への初穂料などの寄付を 町内会があつめるという制度(ならわし)です。この場合などは 必ずしも有力者つまり町のボスの言いなりになるというのではなく それよりは 昔からの既得権を 宗教法人が放棄しないという場合です。ナラワシじたいが 強固なものになっているようです。
 (わたしが脳天気なせいか 特に気づくような八分行為は受けていませんけれど)。

 そうでございましたか。
宗教法人の立場が維持できるのならば、あえて野蛮なことはしない、ということでしょうか。
ですが、八分行為にあわれず、とりあえずは良かったものと思っております。

> そう言えば 一向一揆について調べようと思って――しかもそうとう昔から思って――来ているのに ほとんど手がついていません。代官か誰かを追い出して自分たちで自治を始めたのでしたっけ。

 はい、自分たちの自治体を作ったというのは正しいかと存じます。加賀の城は陥落、加賀の国主は自害し、一向一揆による 「一向宗の国」 が誕生しました(加賀一向一揆)。この結果、ますます一向宗門徒の「独立・自治」の動きが強まり、各地で大名や権力者との対立・抗争が始まったものと思われます。
 また、以下の記述にも見られますが、非常に安定した町が築かれていたようでもございます。
 
「戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
 
> 坊主は要らない。自分たちで共同自治を始めるというあたりです。その後は 檀家制度になってしまいましたから 気力をそがれたでしょうか。あっ いえ 信長あたりからすでに武力による支配がかぶせられましたでしょうか?

 「坊主は要らない」は存じておりませんが、気力がそがれた経緯は以下のように考えております。

 信長による武力支配 → 散り散りとなった一向宗の内部分裂 → 江戸時代になっても内部分裂は治まらない → (三河一向一揆にて、窮地に陥れられた経験があったため)徳川家は抵抗派の教如を支援し、勢力を二分化させる(穏健派の西本願寺と抵抗派の東本願寺)


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-12 22:12:54

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ▼ (ヰキぺ:一向一揆) 本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。
 ☆ この中で 伊勢長島についてはまだ《高度な治水技術》はなかったと思われます。
 というのは わがふるさとの隣町でして そしてそこは輪中ですが 治水はまだ出来ていなかったように思われます。

 ▼ (ヰキぺ:宝暦治水事件) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 ○ 宝暦治水とは、江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

 ○ 幕府が工事を命じた目的は、薩摩藩の財政弱体化であった。

 ○ この工事による治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだとされる。だが皮肉にも、堤完成後には洪水の回数がむしろ増加した。これは、完成した堤が川底への土砂の堆積を促したためと指摘されている。・・・
 近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、明治初期に「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事によって初めて行われた。
 ~~~~~~~~
 ☆ 治水工事の場所は 上流の岐阜県ですが――いまも千本松原として残っていると思います―― 薩摩藩の指導者(ひらたゆきえ)の墓が桑名市にあり この薩摩藩士の功労については小学校の学芸会で劇にして伝えるということをしていました。
 これらの情報によれば 長島は高度な共同自治を敷いていたかと思われますが 治水技術が発達していたというのは まだだったのではないかと考えます。
 細かいことですが ひとこと触れました。


 ★ ~~~~
 「坊主は要らない」は存じておりませんが、気力がそがれた経緯は以下のように考えております。

 信長による武力支配 → 散り散りとなった一向宗の内部分裂 → 江戸時代になっても内部分裂は治まらない → (三河一向一揆にて、窮地に陥れられた経験があったため)徳川家は抵抗派の教如を支援し、勢力を二分化させる(穏健派の西本願寺と抵抗派の東本願寺)
 ~~~~~~
 ☆ 石山本願寺との戦争で武士の側が勝ったところから 自分たちの自治かどうかの勝負がついたのでしょうか?
 蓮如の敷いた寺の制度は 強固でしたか。それなら 国主に代わって坊主が権威を持っても それほどの自治だとも言えないかも知れません。時代を考慮すれば一歩 民主制へとすすもうとしたと見るべきでしょうか?

投稿日時 - 2011-09-12 23:55:53

ANo.49

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


> でも おそらく《人間原理》は 土俵の徳俵に足をかけて踏ん張るために見つけ出されたものではないかと思いますし それは どこかでは一度持ち出すことになるのかと思います。



 その折は、よろしくお願い申し上げます。



> 【Q:浄土教から見た「自灯明」】の質問に寄せた文章です。ひとりの信じる者と宗教組織の会員とを分けて見ようとしたものです。微妙なことに前者は 後者の姿をとったかたちにおいても 存在するかと思われます。

 仰られますように、存在するものと考えられます。



> ☆☆ (その回答No.20) ~~~~
 
 ◆ (歎異抄) 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

 ◆ 親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。
 
 ☆ このような命題は 案外《自灯明》という見方に かたちとしては似ているかも知れませんね。

 とは言うものの 他力本願のもとにこの《ひとり》の思想が生きられることにも間違いありません。

 「他力本願のもとにこの《ひとり》の思想が生きられる」、正論かと存じます。

> 何やらおかしなことが言い始められています。

 これは、ご質問者様が管理しきれていないところにも、問題があろうかと思われます。


> アブラハムは ふるさとを去って行けというお告げのようなヒラメキとその基礎としての信仰からすべては始まっています。

 そのような旅の思想は ひとつに人生そのものが この世界への一時的な滞在であり巡礼の旅路にたとえられることを示すとも言われます。

 あるいは もうひとつには――旅とは別に―― ひとつの土地への永住にともなわれる慣れから来る思考の停滞を避けたとも。

 習慣から来る惰性を避けると言えば ここで人間にとってその存在をめぐって《ひとり》という思想にもつながります。

 つまりは アミターユスもしくは神というのは あくまでその如来もしくは神と《われ》との一対一のかかわりにおいてある。こう言おうとしていたと思われます。(ほかの意味もある中で そのひとつとしてです)。


 如来が信仰の対象となったのは、おそらくインドにおきまして浄土三部経ができた西暦1、2世紀頃だとされていますが、原則、(ゆるやかな)一神教的要素が含まれているものと考えております。なお、如来信仰の明確な起源はわかりませんが(少なくとも、ナーガルジュナのような歴史的人物が開祖ではないようです)、時代の流れとともに、生じてきたものと思われます。

> そしてナラワシにまでなればその社会におけるムレ(群れ・村)が ひとりの人間にとってその自由をさまたげるという問題も起きがちです。

 今日におきましても、状況は少し異なるかもしれませんが、村八分がなされるのを鑑みますと・・・

参考:http://www.webhistory.jpn.org/archives/61 


> つまりは アブラハムの信仰も親鸞のそれも このようなナラワシおよびそこにおけるムレ(群れたがるくせ)といった問題情況にあって一人ひとりの自由を守る――そしてそれにもとづき共生をはかる――ことを旨とした。あるいはつまり そのため以外のものではないでしょう。

 意見を等しく致します。 どうしても、集団化による安心感のようなものを、自然と求めてしまうのかもしれません。


> その後の旧約時代の民族共同体としてのまとまりや新約時代からの教会制度やあるいは宗派をつくっての信徒団体としてのムレに片向く動き これらは あくまで歴史において派生してしまった副作用です。


 古くは、パリサイ派等の各派が存在したようですから、「ムレに片向く動き」も早々と見られたのは事実かと思われます。


> 宗派のための団体組織は 廃れるがままにしておけばよかった。その素地から《ひとり》の思想が根づいて来ることが いまにおいても 待たれます。


 互助団体、勉強会、祭り等の集いは別としまして、そのまま時代の流れに任せておけばよろしいかと存じます。


> このようなアブラハムないし親鸞の信仰にもとづく《ひとり》の思想は 決していわゆる個人主義に堕すことなく《われ》としての存在観――互いにわれであることをとおしての縁起共生の思想――を今からでも芽生えさせて行くことでしょう。



 愚生と致しましても、そう願っております。
 これは、BuffaloAndJtp様のご質問を拝読させていただいたのですが、”信仰にもとづく《ひとり》の思想” は、そのひとにおけます、ヒラメキ等の経験の有無・影響の度合い等に依存するものかもしれません。



> ☆ 提出してくださったたたき台(=集団化、群化?)に添えるいま一つのたたき台としてです。いかがでしょう。

 了解致しました。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-11 23:31:14

お礼

 ★ これは、BuffaloAndJtp 様のご質問を拝読させていただいたのですが、”信仰にもとづく《ひとり》の思想” は、そのひとにおけます、ヒラメキ等の経験の有無・影響の度合い等に依存するものかもしれません。
 ☆ えぇ そうですね。まだ体験がないと言われれば それまでになってしまうかも知れません。案外おおきいですね。考えてみれば そのためにも科学の解法としてのヒラメキの事例などがあるのかと思われて来ます。あるいは 自然つまり大自然との交感といった体験でしょうか。

 といった事柄が 今回おおきな位置を占めるかとも思いました。
 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 あとは ムレあるいは 昔むかしからの集落としてのムレないしムラ。の問題。
 ★ (参考サイト) 関川村の村八分騒動はその後どうなったのか
 ☆ つまり このムラの有力者らは あたかも DNA がそうなっているというかのように 行動様式としてその有力を通すということ。そしてつまりは その結果 それに従う者とそうでない者とに人を仕分けするというくせを身におびているようです。
 わたしのささやかな体験としましては 神社への初穂料などの寄付を 町内会があつめるという制度(ならわし)です。この場合などは 必ずしも有力者つまり町のボスの言いなりになるというのではなく それよりは 昔からの既得権を 宗教法人が放棄しないという場合です。ナラワシじたいが 強固なものになっているようです。
 (わたしが脳天気なせいか 特に気づくような八分行為は受けていませんけれど)。

 ★ 互助団体、勉強会、祭り等の集いは別としまして、そのまま時代の流れに任せておけばよろしいかと存じます。
 ☆ といった日常生活じょうの問題もありそうです。何とか学会も その名のとおりに 信仰は個人個人が持って別として あとはあくまで勉強会を開くというのであれば その集まりに問題はないものと思われます。


 そう言えば 一向一揆について調べようと思って――しかもそうとう昔から思って――来ているのに ほとんど手がついていません。代官か誰かを追い出して自分たちで自治を始めたのでしたっけ。
 もう忘れているほど前に 思い立ってはいたのですけれど。誰かが質問に取り上げてくれるといいのにとさえ思います。
 坊主は要らない。自分たちで共同自治を始めるというあたりです。その後は 檀家制度になってしまいましたから 気力をそがれたでしょうか。あっ いえ 信長あたりからすでに武力による支配がかぶせられましたでしょうか?


 ほとんどまとまっていないかたちではありますが。

投稿日時 - 2011-09-12 00:40:07

ANo.48

折角の御返事に対しまして続きの回答を送信させて頂かずに、自分の個人的な都合で時間を置きまして、誠に申し訳が御座いませんでした。

基本的な箇所から私の見落としの存在が発覚しましたが、私の個人的な内容に留まらず、非常に重要なポイントになろうかと思われますので、確認の為に投稿を再開させて頂きます。

そもそも、『受け入れる』という判断が行なわれる場合には、其の行為の動作主達への作用が先立っていて、其の作用を受け入れていくだけなのではないでしょうか?

つまり、若し絶対無が働き掛けてくる作用の存在を確認し得ませんでしたら、多くの方々がそれを受け入れられませんでしょうから、『信じて仰ぐ崇拝』の継続さえもが心理的に難しくなるのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-09-11 11:39:29

お礼

 えぇ おっしゃっているとおりだと思います。

 ばっふぁろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 《受け容れるとは どういうことか?》の問いから入っての検証だと思います。

 すなわちその《受け容れる》と言っても 《非思考の信じる》という特殊な場合があるという。ところがその特殊な場合というのが それとても そもそも初めに《信じる としての受け容れる》その対象もしくは相手からの作用 これがないことには 何もそこで起きていないのではないか? 
 ★ つまり、若し絶対無が働き掛けてくる作用の存在を確認し得ませんでしたら、多くの方々がそれを受け入れられませんでしょう
 ☆ と。このとおりなのです。

 その意味は ひとつにあくまで信仰は その人自身の主観のうちで起きる出来ごとであるに過ぎないということ。
 もうひとつに 主観としての出来ごとであるとした場合においても それは やはり まぼろしであるということ。

 さらには この主観の内なるマボロシが その主観のいいように解釈されることさえ起きる。そういうヒラメキとしての信仰であり それとしての《受け容れ》であり得ます。

 アブラハムが まだ名をあらためる前でアブラムと名乗っていたとき そのマボロシがかれにおとづれました。これをかれは受け容れ さらには次のようにまで解釈しています。非思考のヒラメキを 思考の次元において主観が そのように受け容れたという我田引水になります。

 ▼ (創世記12:1-5) ~~~
  主はアブラムに言われた。
   「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて 
   わたしが示す地に行きなさい。

   わたしはあなたを大いなる国民にし
   あなたを祝福し、あなたの名を高める。
   祝福の源となるように。

   あなたを祝福する人をわたしは祝福し
   あなたを呪う者をわたしは呪う。
   地上の氏族はすべて
   あなたによって祝福に入る。」

  アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
  アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
 ~~~~~~~~~

 ☆ 《このふるさとの地を去って 行け》というお告げだったはずです。行き先も告げられずにです。(そのつど示されるかたちです)。歳を取ってからの出来ごとです。いわゆる悪い意味でも言うところの神がかりです。

 おそらく のちにおいては このアブラハムの血筋が栄えたところから 《去って行け》のほかに《祝福》のことばも添えられたものと思われます。
 あるいはまた このように《非経験ないし絶対無が 人間にマボロシとしておとづれ これをどういうわけか・どういうかたちにおいてか 受け容れた》ということ これを人類における信仰の始まりとして位置づけるかたちで 後づけをした記述となっている。



 おそらく それまでは・それ以外では 自然との共感や一体感あるいはそれへの畏れ(さらにあるいは 人間の力としても驚異的な力が発揮されることがあることへのおどろき)を《かみがみ》と呼んで 或る種の信仰としていたろうと思われます。
 つまりは たとえば雷としての神鳴りですね。このときこの神を 雷鳴や稲光りなどの自然現象として見られるコトとそして――もしそうだとしたら その奥の――絶対無なるモノとにきちんと仕分けして アブラハムの信仰は 成ったものと 後づけとしてでも 捉えられたのではないでしょうか?

 すなわち神話や昔話に出て来るようなカミガミに対する
 ★ 『信じて仰ぐ崇拝』
 ☆ を 肉の目や心の目でみられる対象としてのカミガミと そしてそれらの現象には現われて来ない――《隠れたる神 デウス・アブスコンディトゥス》としての――絶対無とに分けることを成し得た。

 ですから このアブラハムの信仰のあと たとえばモーセに対しては
 ▼ (出エジプト記33:23) ~~~
  ・・・
  きみはわたし(=神)の後ろ姿を見るが、
  わたしの顔は見えない。
 
   cf.【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。】
   そのNo.6お礼欄の後半
    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6981757.html
 ~~~~~~~
 ☆ という表現での認識がもたらされています。絶対領域と相対世界とをきちんと分けたものです。

 それでも
 ★ つまり、若し絶対無が働き掛けてくる作用の存在を確認し得ませんでしたら、多くの方々がそれを受け入れられませんでしょうから、『信じて仰ぐ崇拝』の継続さえもが心理的に難しくなるのではないでしょうか?
 ☆ とおっしゃるとおりの見方が持ち出され得ますし 多くの人びとにおいて同じ思いが起きるのではないかとわたくしも考えます。

 それゆえ アブラハムの後裔たちは考えました。今度は――故郷を去るだけの話ではなく この世から去るというまでの話として――或る人が十字架上に去って行くという物語にまで伸びました。
 つまりは 相対的な現象としてあるこの世では顔を見ることが出来ずただマボロシとしてあるその存在(もしくは 非存在)が この世を去ったあとでは その背面が見られるようになった。ふつうの人間のイエスに その背面のしるしとしてキリストという名づけがおこなわれた。
 そしてこのおとぎ話が むしろユダヤ人よりほかの人びとのあいだで 取り敢えずは歴史物語や人物伝説として《受け容れ》られ その物語に触れて 中にはアブラハムと同じ信仰体験を得て マボロシをも受け容れるという人類史の一部にも発展して行った。

 こういうふうに成っていると考えます。

 * 物語について人間が 後づけをするだけではなく 脚色をもおこなうといったことをほのめかした記述にしました。それもこれも アブラハムに起きた事件が 現実であると見るかどうか こちらのほうが大事だという意味を込めてそうしています。

 あるいはもし このアブラハムからイエス・キリストにまで到る――影の主人公としての――《絶対無》の歴史物語が まったくの作り話だったとしましょう。そうだとしても おそらくこのキリスト・イエスなる特殊絶対性理論が 人類史上もっとも妥当な思想であるということになるでしょう。
 つまり 一般絶対性理論を むしろこの特殊神論が用意するものと思われます。そのときにはキリストのキの字までもがなくなって行くであろうという展望です。

 木(十字架)に架けられる者は 呪われたものと言われています。呪われた者となって・つまり人間の屑となって去って行ったという話でなければ 絶対無の一般性および現実性は 伝えられ得なかった。ゆえにその特殊性は 一般性を用意します。
 うんぬん。

投稿日時 - 2011-09-11 14:22:55

ANo.47

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> 今回の質問は あまり見てくれとしては右往左往していないかも知れませんが 質問者にとってけっこう大変なやり取りです。

 誠に申し訳ございませんでした。以後気をつけたいと思っております。

> ▼ (ヰキぺ:自然の斉一性原理) 
 ☆ すなわち この場での質疑応答じたいが 仮説法による――それとしてのですが・つまり公理ないし《自然の斉一性原理》を前提とする範囲でのことですが――証明をこころみています。

 了解致しました。

> ☆ なるほど。科学者は 自分の主題・課題というものがはっきりしているのですね。単純に一般論へと持って行くのは どうも趣旨に反するということかも知れません。
 不完全性定理も それ自体が 外延としてのように ナゾを想定するかにも見えるようではありますが。

 おそらく、あえて難しく・分かりにくい表現を用いるポストモダニストに対するアンチテーゼも含まれているのかもしれません。

> ○ 超経験ないし非経験の領域 X の想定
 ☆ これは 仮説法によって幾分かでも証明したいと思いますが それは 人類がそれぞれの言葉で《神 ないし 信じる》という語を持つに到りこれを用いているという言語習慣がある――ここから出発して想定している。そういう筋道になっています。
 これが 一般絶対性理論です。

 あえて、極論を申し上げます。
 現在、世界中には、キリスト教信者が約19億人、イスラム教信者が約10億人、ヒンドゥー教信者が約7億人、仏教信者が約3億人いるとされています。世界の人口は約55億人ですから、約70%以上の人たちが何かしらの信仰に携わっているものと考えられます。
 そうしますと、
1. 信仰を持つものが約7割もいるが、彼らはバカなのか?
2. もし、バカでないなら、何なのか?
3. むしろ、比率から判断すると、これがごくごく自然と言える可能性もあるのではないか?

 これらの問いが生じてきます。宗教をアヘンだと断じたマルキシズムも、唯物史観という彼岸の世界を求めているわけですから、これも一種の宗教かと考えられます。

 もし、この世界中に、“信仰”という言葉が存在し、ごく日常でも用いられている国々もあります(おそらく明治以前の日本もそうだったかと思われます)。彼らの生活において、この言葉が、どのような役割を担っているのか?等につきまして、今後、考察を述べていきたいと考えております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-09 21:54:32

お礼

 ちょうどほかの質問への投稿として書いた内容が 今回のお応えとして合っているかと思います。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
  > 今回の質問は あまり見てくれとしては右往左往していないかも知れませんが 質問者にとってけっこう大変なやり取りです。

 誠に申し訳ございませんでした。以後気をつけたいと思っております。
 ~~~~~~
 ☆ あぁ えぇ 表現がよくなかったですね。いちばんのむつかしいところは 《境地》のことを持ち出してもよいかどうか これが 迷うところです。これを言ってしまうと 上から目線になってしまいますし しかもその内容は無味乾燥の言い回しに過ぎないと見られるおそれが 多分に出て来ます。
 でも おそらく《人間原理》は 土俵の徳俵に足をかけて踏ん張るために見つけ出されたものではないかと思いますし それは どこかでは一度持ち出すことになるのかと思います。




 【Q:浄土教から見た「自灯明」】の質問に寄せた文章です。ひとりの信じる者と宗教組織の会員とを分けて見ようとしたものです。微妙なことに前者は 後者の姿をとったかたちにおいても 存在するかと思われます。その組織が 歴史の成り行きの上でひろく大きく社会という場にひとしいと見られるような場合です。

 ☆☆ (その回答No.20) ~~~~

  ◆ (歎異抄) 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。

  ◆ 親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。

  ☆ このような命題は 案外《自灯明》という見方に かたちとしては似ているかも知れませんね。
 とは言うものの 他力本願のもとにこの《ひとり》の思想が生きられることにも間違いありません。


 何やらおかしなことが言い始められています。(* これは 直前のNo.17・18・19の回答内容のことです)。
 アブラハム(初めは アブラムですが)は ふるさとを去って行けというお告げのようなヒラメキとその基礎としての信仰からすべては始まっています。

 そのような旅の思想は ひとつに人生そのものが この世界への一時的な滞在であり巡礼の旅路にたとえられることを示すとも言われます。
 あるいは もうひとつには――旅とは別に―― ひとつの土地への永住にともなわれる慣れから来る思考の停滞を避けたとも。

 習慣から来る惰性を避けると言えば ここで人間にとってその存在をめぐって《ひとり》という思想にもつながります。
 つまりは アミターユスもしくは神というのは あくまでその如来もしくは神と《われ》との一対一のかかわりにおいてある。こう言おうとしていたと思われます。(ほかの意味もある中で そのひとつとしてです)。



 言いかえると 日の神の信仰を初めとする自然(自然なる神々)の信仰とそこから来る個人的な慣れや集団としての慣わしの問題も起きて来ますし。そしてナラワシにまでなればその社会におけるムレ(群れ・村)が ひとりの人間にとってその自由をさまたげるという問題も起きがちです。

 つまりは アブラハムの信仰も親鸞のそれも このようなナラワシおよびそこにおけるムレ(群れたがるくせ)といった問題情況にあって一人ひとりの自由を守る――そしてそれにもとづき共生をはかる――ことを旨とした。あるいはつまり そのため以外のものではないでしょう。
 その後の旧約時代の民族共同体としてのまとまりや新約時代からの教会制度やあるいは宗派をつくっての信徒団体としてのムレに片向く動き これらは あくまで歴史において派生してしまった副作用です。

 ムレタガリが――悪貨は良貨を駆逐するのナラワシのとおりにのごとく―― ほとんどそれは付和雷同であるなら無効であるのに勢力を盛り返して 基本理論としてつねに有効な民主制なる自由をさまたげて 社会力学じょう有力になっただけのことです。
 (現代では ムレタガリと民主制とのすり合わせが模索されていると思います。むろん後者の有効性を活かす方向にだと思われます)。

 といった過去および将来についての見とおしも 大事だと思うという投稿です。



 * 門徒だとおっしゃっていますのに もし理論として言うとすれば 信徒の組織を再興した蓮如は親鸞の考え方とはほとんど何の関係もない こう考えます。信徒たちの個人的な集まりや自由な助け合いは別ですが 宗派のための団体組織は 廃れるがままにしておけばよかった。その素地から《ひとり》の思想が根づいて来ることが いまにおいても 待たれます。

 このようなアブラハムないし親鸞の信仰にもとづく《ひとり》の思想は 決していわゆる個人主義に堕すことなく《われ》としての存在観――互いにわれであることをとおしての縁起共生の思想――を今からでも芽生えさせて行くことでしょう。


 * なお信仰においては――それは 非経験のナゾをめぐる非思考の姿勢を言っていますから―― 他力は 絶対他力のことですが 自力については それは人間の存在や能力が有限なのですから 絶対自力ということはあり得ません。それでも 聖道門において自力が説かれるとすればそれは おそらく無神論という信仰にもとづいている。こう考えられます。

 《無い神》を信じている つまりそのようなやはり絶対他力の信仰である。おそらくブラフマンなる主宰神を避けた結果 そのような自力の思想が――無神論のもとに――それだけに焦点をあてるかたちで 引き出されて来たのでしょう。

 自力と他力 あるいは 自灯明と法灯明 これらは それら自体として取り上げることは 屁の河童だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 提出してくださったたたき台に添えるいま一つのたたき台としてです。いかがでしょう。

投稿日時 - 2011-09-09 22:48:10

ANo.46

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


> ☆ としますと そのことは 次の作業仮説のことと同じだと捉えてよいでしょうか?
 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~
 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。
 ~~~~~~~~~~~~~~

「X は経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。」と類似点があろうかと考えております。
確かに、経験世界には“○△の法則”なるものが存在します。しかし、これら法則を決定付けているものはといいますと、ナゾとなってしまいます。科学の基礎を成立させる“斉一性原理”は、当然のこととして受け入れられておりますが、これを証明・正当化することは不可能なわけでございます。もし仮にこれらの法則等を成立せしめているものを求めるとするならば、帰納法によらない“X”領域が想定される必要があろうかと考えられます(経験世界では不可能であることを意味します。つまり、ナゾでございます。)。

参考:自然の斉一性原理
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%96%89%E4%B8%80%E6%80%A7 


> ☆ そうして じつは このくだりで 前回取り上げました《内部と外部》の問題があります。
 ★ “ an external world ” が何を指すのかは、確かに不明瞭かと存じます。
 ☆ の問題です。《外部の世界》は 《超経験・非経験 X 》を示し得るか?
 ○ 《そと》とは 
  (1)《なか》と同じ次元で並んでいる別の場を表わすか それとも
  (2)《なか》の世界を次元として超えている――したがって 中と同じ
    次元の〔狭義の〕外の世界をも超えている――場を表わすか。

 以下のように文章を並べてみました。3段目の“that world”は2段目の”an external world”を示していると考えられます。objective truths等を主張していることからも、ポストモダニズムが祭り上げた“不完全性定理”をある意味批判的に述べたものかもしれません。つまり、外部=系の外部であるように見受けられますが、いかがでしょうか?

I'm a stodgy old scientist who believes, naively,
that there exists an external world,
that there exist objective truths about “that world”,


> ☆ ただしここではわたしは このプラス α を 《摂理》とは採らないで 単純に《公理系や科学認識が 全体には達しないということ。その部分性》だと捉えます。全体と部分認識との差を埋めるのは ひょっとしたら 神の知恵のはたらきとしての人間の側におけるヒラメキであるかも知れませんが。

 了解致しました。

 その意味では この一般神論は 人間の具体的な存在つまりおのおのの《わたし》における信仰の類型論になると考えます。
 つまりは 今度は カントの超越論的統覚を参照するかたちになるのかと思います。
 
> しかもおそらく そのことは ひどっちさんの提出された
 ★ 人間原理
 ☆ と密接につながっているように考えます。

 ご参考にしていただきまして、どうもありがとうございました。

> ○ 先験的統覚を持ち出すのは 《わたし》が人間なる存在であるという言わば徳俵に足を引っ掛けて背水の陣において《わたし》をうったえている姿ではないか。
 ☆ と考えるからです。言いかえると
 ○ わたしが人間原理を持ち出してその基礎の上に 存在は存在であると自同律を繰り返すのは 先験的統覚のゆえにである。

 確かに、「存在は存在であると自同律を繰り返すのは」は統覚の作用と考えられます。

> ★ カントの先験的論理学・認識論からは、幾分かの飛躍の感もございますが
 ☆ の《飛躍》の部分です。
 ○ 先験的統覚の自覚を 《境地》と呼びます。

 「先験的統覚の自覚を 《境地》と呼びます。」、かような自覚をすることは、一種の“境地”と言えるかと思われます。

> ○ 境地が内容をともないそれとしてはたらくならそれは わが心に非思考の庭が成ったということを意味するのだと。
 ☆ またそのあとの動態としての信仰およびヒラメキをとおしての思考・認識が来るというふうにです。

 カントはそれ以上のことは言及していなかったと記憶しております。ですが、最終的には、ナゾにたどり着く訳でもございます。従いまして、お示しになられた、理論も妥当性はあろうかと考えられます。ただ、これを実証するのは大変かとは存じますが・・・


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-08 19:50:15

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 今回の質問は あまり見てくれとしては右往左往していないかも知れませんが 質問者にとってけっこう大変なやり取りです。

 ★ ~~~
 カントはそれ(* 信仰およびその境地など)以上のことは言及していなかったと記憶しております。
 ですが、最終的には、ナゾにたどり着く訳でもございます。従いまして、お示しになられた、理論も妥当性はあろうかと考えられます。ただ、これを実証するのは大変かとは存じますが・・・
 ~~~~~~
 ☆ それは アブダクション(仮説法)によっています。ちょうど示してくださった《自然の斉一性原理》の解説の中に 出て来ました。

 ▼ (ヰキぺ:自然の斉一性原理) ~~~~
 § 正当化
  だが、自然の斉一性を仮定することは科学の基礎でもある。現行の自然科学は、基本的にひとまずはこの原理を仮定することによって成り立っている。すなわち、

   アブダクション(発見)
   →仮説「全てのF(F1、F2、F3……)は~である」
   →予測「どのようなFも~である」
   →予測に相応する観察「F1は~である」

 という一連の仮定の根底に、この原理が置かれるわけである。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち この場での質疑応答じたいが 仮説法による――それとしてのですが・つまり公理ないし《自然の斉一性原理》を前提とする範囲でのことですが――証明をこころみています。

    *

 ★ ~~~~~~~~~
  以下のように文章を並べてみました。3段目の“that world”は2段目の”an external world”を示していると考えられます。objective truths等を主張していることからも、ポストモダニズムが祭り上げた“不完全性定理”をある意味批判的に述べたものかもしれません。つまり、外部=系の外部であるように見受けられますが、いかがでしょうか?

 I'm a stodgy old scientist who believes, naively,
 that there exists an external world,
 that there exist objective truths about “that world”,

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。科学者は 自分の主題・課題というものがはっきりしているのですね。単純に一般論へと持って行くのは どうも趣旨に反するということかも知れません。
 不完全性定理も それ自体が 外延としてのように ナゾを想定するかにも見えるようではありますが。

     *

 ○ 超経験ないし非経験の領域 X の想定
 ☆ これは 仮説法によって幾分かでも証明したいと思いますが それは 人類がそれぞれの言葉で《神 ないし 信じる》という語を持つに到りこれを用いているという言語習慣がある――ここから出発して想定している。そういう筋道になっています。
 これが 一般絶対性理論です。

投稿日時 - 2011-09-08 22:39:00

ANo.45

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> いつもこんな風に文章を運ぶものですから いけないという部分もあるかとも思いますが 問い求めをすすめることが出来たらと思います。

 いえいえ。ご自由な発言をお待ちしております。

> ★繰り返しとなりますが、自然法の発生原因と同様、科学の基本法則の原因(理由)自体も、そもそも“非知”かと考えております。
 ☆ この見方と次の見方とをもし合わせて考えることが出来るとすれば 《信念とそれのもとにある研究態度》というふうに受け取られます。

 実を申しますと、以下のご質問との関連性が高くございます。つまり、「物理法則自体も何故存在しているのか分からないけれども、ただ存在しているだけでしかないからです。」とほぼ同じ意味でございます。さらに申しますと、「物理法則自体も経験則に依存しているだけで、その根本理由は不明であり、いつかは破綻する可能性もある」ということでございます。
 例えば、「質量保存の法則」なるものがラボアジェにより、発見されたとされていますが、もちろん、現在では、厳密には成立しないことが証明されております。もし、この法則が常に真ならば、原子力エネルギーは存在しえないからでございます(核分裂の際、僅かではございますが、質量の減少が起こります。この質量変化が、mc^2という莫大なエネルギーとなります)。

『存在する』に物理法則は不要なのか?
http://okwave.jp/qa/q6994883.html 

> ★(回答No.40) ~~~~~
 今回は、原文を載せさせていただきました(前回の訳文は誰がしたのかは不明でございます)。
But why did I do it? I confess that I'm an unabashed Old Leftist who never quite understood how deconstruction was supposed to help the working class. And I'm a stodgy old scientist who believes, naively, that there exists an external world, that there exist objective truths about that world, and that my job is to discover some of them.
 ~~~~~~~~~~~~~~
 2.▼ 外部の世界というものが実在し、世界についての客観的な真理というものが実在して、
 ☆ というふうに《客観》あるいは《実在》という言い回しは その許容範囲が大きいとして措いておきますが 《外部〔の世界〕》という表現には 注意が必要だと考えるからです。あとで考えることにして。

 “an external world”が何を指すのかは、確かに不明瞭かと存じます。

> 3. ★ 自然法の発生原因と同様、科学の基本法則の原因(理由)自体も、そもそも“非知”かと
3-3. すなわち 因果関係のもとにあるのか? あるいは創造者-被造物の関係として規定し切ってよいのか? つまり《創造主ないし第一原因》という捉え方は すでに信仰の具体的な――それぞれの主観における――形態のひとつにしか過ぎないのではないか?
3-4. 《科学の基本法則の原因(理由)》 これも神を摂理と見なしての《具体的な信仰の形態》をあらわしていると思います。基本法則と言うに到れば もろに経験世界のことだからですし 上のように第一原因という見方を示しているからです。

 この問題につきましては、上記ご質問サイトにおきまして、愚見を述べさせてもらっております。
 では、なぜゲーデルがその時代の潮流に反して、不完全性定理を証明したのか?この問いに対する説は種々あろうかと思われます。今日一般的な説は、そもそも集合論自体に矛盾が見られていたため、これを証明した、というものです。一方、今から20年以上前の説では、敬虔なカトリックであるゲーデルが、(人が構築した)公理システムは不完全であり、その他のプラスαを加えなければ、完結しない、と考えていたというものでございます。では、そのプラスαというのは、神の知恵でございます。
 もしこの説が正しかったとしますと(20年以上前までは、有力説でした)、神の知恵・摂理、こうしたものが必要とされるのかもしれません。

> 恩をあだで返す仕儀――あぁ

 いえいえ。お気になさらないでくださいませ。

> ★ ファイヤアーベントの記述 ~~~~
   ● 結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに...
   ☆ 大統一理論ないし万物の理論さえも 科学の知としては この《特殊・特別・一回限りないし一部分のもの》だと言えましょうか?
  ~~~~~~~~~~~~~~

 いえ。これは異なるものと考えております。ファイヤアーベントの主張は、(大)発明とは、偶発的なヒラメキのようなものの産物であることを言いたかったものと考えられます。
 ですが、この大統一理論は、単に統一させようとしただけのもの、と思われます。仮説の上に、さらに仮説を立てるという、少し眉唾ものと愚生は考えております。


> ☆ カントの先験的論理学は 次の見方と重なると考えています。ご見解をたまわれればありがたいです。(形式論理学なら 巨大な――そしてその認識のいとなみとして偉大な――タコツボであることを免れないと考えます)。
 ☆☆(No.38お礼欄) ~~~~
 ○1 不完全性定理は わが心における非思考の庭において・つまり信仰において 〔定理じたいの〕自己言及を含み持っている。
 ○2 言いかえると 不完全性定理は みづからを考えみちびき出した存在(つまり 人間)の中に はぐくまれるようにして おさまっている。
 ○3 人間にかんしては その存在が科学に先行する。境地が 科学の定理を覆いつつみこむ。
 ○4 信仰――特には ヒラメキ――は 思考に先行する。
 ○5 信仰は みづからの内に 科学認識をそして特にそこにおける自己言及をおさめている。
 ~~~~~~~~~~~

 まず、形式論理学(純粋)論理学は、仰られますように、その系内に完全に納まるものかと考えられます。
 ○2におきましては、定理そのものかと考えられます。○3につきましては、おそらく正しいと考えております(人間原理からの類推でございます)。○4は、ファイヤアーベントの主張からの類推により、意見を等しく致します。○5におきましては、信仰をヒラメキと解しますと、上述の愚見から、論理的に導けるかと存じます。
 カントの先験的論理学・認識論からは、幾分かの飛躍の感もございますが、意見を等しく致します。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-07 19:11:52

お礼

 今回も――迷いに迷った挙句‐‐‐おっと ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。‐‐‐―― わが田に水を引くいやらしい戦法です。

 ★ つまり、「物理法則自体も何故存在しているのか分からないけれども、ただ存在しているだけでしかないからです。」とほぼ同じ意味でございます。さらに申しますと、「物理法則自体も経験則に依存しているだけで、その根本理由は不明であり、いつかは破綻する可能性もある」ということでございます。
 ☆ としますと そのことは 次の作業仮説のことと同じだと捉えてよいでしょうか?

 ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~
 ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

 経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そうして じつは このくだりで 前回取り上げました《内部と外部》の問題があります。
 アラン・カーソルが言ったところの
 ★ “ an external world ” が何を指すのかは、確かに不明瞭かと存じます。
 ☆ の問題です。《外部の世界》は 《超経験・非経験 X 》を示し得るか?

 どうなんでしょう? 表現の問題だったんでしょうか? つまりわたくしの早とちりだった。・・・

 ○ 《そと》とは 
  (1)《なか》と同じ次元で並んでいる別の場を表わすか それとも
  (2)《なか》の世界を次元として超えている――したがって 中と同じ
    次元の〔狭義の〕外の世界をも超えている――場を表わすか。

 ☆ このふたつの意味がありましょうか? (2)は苦肉の策であるようにまだ思えていますので――なぜなら《超えている》なら それは じつは中や内をも とどのつまりにおいて含むことになるからですが―― なるべく使わないようにしたいとは思っていますが でもあり得ると言うべきでしょうか?


 そのとき しかしながらその《非経験 X の 経験世界 Y への介入》の問題があります。
 ★ ~~~~~~~
 なぜゲーデルがその時代の潮流に反して、不完全性定理を証明したのか?
 ・・・今から20年以上前の説では、敬虔なカトリックであるゲーデルが、(人が構築した)公理システムは不完全であり、その他のプラス α を加えなければ、完結しない、と考えていたというものでございます。では、そのプラス α というのは、神の知恵でございます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ただしここではわたしは このプラス α を 《摂理》とは採らないで 単純に《公理系や科学認識が 全体には達しないということ。その部分性》だと捉えます。全体と部分認識との差を埋めるのは ひょっとしたら 神の知恵のはたらきとしての人間の側におけるヒラメキであるかも知れませんが。

 その意味では この一般神論は 人間の具体的な存在つまりおのおのの《わたし》における信仰の類型論になると考えます。 
 つまりは 今度は カントの超越論的統覚を参照するかたちになるのかと思います。
 しかもおそらく そのことは ひどっちさんの提出された
 ★ 人間原理
 ☆ と密接につながっているように考えます。
 ○ 先験的統覚を持ち出すのは 《わたし》が人間なる存在であるという言わば徳俵に足を引っ掛けて背水の陣において《わたし》をうったえている姿ではないか。
 ☆ と考えるからです。言いかえると
 ○ わたしが人間原理を持ち出してその基礎の上に 存在は存在であると自同律を繰り返すのは 先験的統覚のゆえにである。
 ☆ とも考えられます。けれども
 ○ この超越論的統覚とは わたし( Zi )の信仰 X-Zi のもとにある。
 ☆ と見ます。思考に先立つことを 思考で説明しています。

 ★ カントの先験的論理学・認識論からは、幾分かの飛躍の感もございますが
 ☆ の《飛躍》の部分です。
 ○ 先験的統覚の自覚を 《境地》と呼びます。
 ○ 境地が内容をともないそれとしてはたらくならそれは わが心に非思考の庭が成ったということを意味するのだと。
 ☆ またそのあとの動態としての信仰およびヒラメキをとおしての思考・認識が来るというふうにです。


 今回は けっきょく勇んで筆を執った割りには考えがすすみませんでした。枯渇の状態でさえあるかも知れません。ご批評をまづはお待ちします。




 * ★ ですが、この大統一理論は、単に統一させようとしただけのもの、と思われます。仮説の上に、さらに仮説を立てるという、少し眉唾ものと愚生は考えております。
 ☆ 留意します。(わたしなどは 重力なら重力で統一して理解できるなら よかったと思ってしまうところがあるものですから。細部にも注意してまいります)。

投稿日時 - 2011-09-08 14:41:35

ANo.44

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


> ☆ 一般的な言い方として 《前提がある。そこから みちびき出せるものは みちびき出せるのだ》というかたちとして受け取りましたが よろしいでしょうか?

 はい、よろしいかと存じます。そもそも、バナッハ・タルスキの定理も最初にこの定理を証明したときに意図していたのは、「 前提の”選択公理”が正しくない」ことを示すことであったとされています。ですが、今日のほとんど数学者には、”この証明は「選択公理は奇怪で非直観的」な結果を与えるものだ”と解釈されているようではございますが・・・

> ☆ そうしますと――という意味は 上で触れました《前提(つまり 公理やそれからみちびき出した定理や命題)があればうんぬん》としますとになりますが―― 数学ないしそれによって明らかになる論理の世界というのは きわめて巨大な宇宙大のタコツボだということになりませんか?

 論理学と数学とは少し、区別が必要かと考えております。以下のANo.7のご回答者様はそのあたりを後半部分にて詳しくご説明がなされております。
http://okwave.jp/qa/q6985389_2.html#answer 

 蛇足ながら、「ゲーデルの完全性定理」を以下のサイトにて、ご紹介させていただいております。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%AE%8C%E5%85%A8%E6%80%A7%E5%AE%9A%E7%90%86

 「完全性定理」はひとが持っている推論規則が完全であること(逆に言いますと、これ以上の拡張がありえないこと)を示しています。「AならばBである」と「Aである」とから「Bである」を推論する三段論法のような形式的推論よって、論理学・論理体系の完全性(公理系から演繹可能であること)が証明されました。
 一方、自然数とか集合を対象とする数学の体系(問題領域が無限集合)では不完全であること、いかにその体系を整備し拡張しても、決定不可能な命題が常に存在してしまうことを意味しております。
 ただここで問題となりますのは、数学以外の他のプラスαにより、決定可能になる可能性はございます。

> ほかの自然科学は この数論を超えて事実を尋ね求めるものだと。その発見された事実について事後的に(また事前にも)証明するべくあるいはつまり整合的に理解するべく 数学論理をも――あたらしい論理を探し出すかたちにおいてさえも――活用すると。

 はい、その通りかと考えられます。以前、ご紹介させていただきました、ファイヤアーベントの記述もその証左かと思われます。

ポール・K・ファイヤアーベント著 村上陽一郎訳「知についての三つの対話」p.21から、
「トム[トーマス]・クーンが量子力学の革命に直接関わった人たちのなかで現存する科学者にインタヴューしたことがあります。その際彼らの最初の反応は、成書にあることをただ繰り返すことだった。でもクーンの方が一枚上手だった。前以てクーンはその人物に関連する書簡類や私的な覚書などの類をよく読んでいた。それらは成書に書かれていたこととは随分違う内容だった。クーンが論点に触れていくうちに、相手も実際にはどんなことが起こっていたのかを少しずつ思い出していった。この話はニュートンにも当てはまりますよ。研究をするということは。結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに.....」

> そうしますと・もし大筋でそうだとしますと 科学は残念ながら この世界ないし宇宙のつねに部分的な事柄をしか扱えないものと考えられます。

 はい、仰るとおりかと存じます。部分が重なり、統合されるときがやって来るかもしれませんが、1000年後といった遠い先の話かと思われます。

> 数学やメタ数学を超えて宇宙全体の論理を扱えるメタ・メタ数学が現われればいちおう別だと考えられますが でもたぶんさらにその上のメタ さらにそれを超えるメタ・・・というふうにメタが有限という大前提において限りなくつづくものと考えられます。

 考え方としましては、可能かと考えられます。ですが、メタ数学の段階で、十分であること、また、むしろそれ以上になりますと、ひとの能力を超えてくるかもしれません。

> ☆ カントの先験的論理学は 次の見方と重なると考えています。ご見解をたまわれればありがたいです。(形式論理学なら 巨大な――そしてその認識のいとなみとして偉大な――タコツボであることを免れないと考えます)。

 誠に申し訳ございません。この問題につきましては、明日のでもご報告できればと考えております。

> ☆ 不完全性定理じたいが 《数論は 宇宙大のタコツボであるというかたちを超え得ない》と言っているのではないでしょうか?

 おそらく数学は、公理系といった“閉じられた系”であることは事実かもしれません。

> ○ 信仰ないし存在は 思考ないし認識に先行する。

 これはある意味、当然かと考えられます。

> ☆ ここで 《信仰ないし存在》に代えて 《先験的ないし統合論的な統覚》をそれとして――つまり論理的にあるいは認識論的に――持って来ると やはりすべてはメタ科学だというふうに狭く規定されてしまうおそれがあると思います。

 はい、仰るとおりになろうかと思われます。ですが、これが人間“理性”の限界をも意味しているのかもしれません。

> * 吉本隆明が 親鸞の《信》にちなんで 《非知》ということを言っていますが、かかわりがあるとは思います。

 当然関わりが認められると考えられます。

 繰り返しとなりますが、自然法の発生原因と同様、科学の基本法則の原因(理由)自体も、そもそも“非知”かと考えております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-06 22:48:59

お礼

 きわめて微妙に 信仰もしくは信念とそれのもとにある科学観(学者としての姿勢)を 今回のご文章には感じました。ときわめて主観的な受け取り方を――ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――お応えとすることになります。
 いつもこんな風に文章を運ぶものですから いけないという部分もあるかとも思いますが 問い求めをすすめることが出来たらと思います。

 ★ 繰り返しとなりますが、自然法の発生原因と同様、科学の基本法則の原因(理由)自体も、そもそも“非知”かと考えております。
 ☆ この見方と次の見方とをもし合わせて考えることが出来るとすれば 《信念とそれのもとにある研究態度》というふうに受け取られます。

 ★★(回答No.40) ~~~~~
  アラン・カーソル(あのカーソル事件のカーソル氏です)が以下の発言をしております。おそらく、科学者は、「その道(自己の信念)にしたがって その探究をつづけていくであろう」と考えております。

 「でもなぜわたしがあんなことをしたのか? 告白しておくと、わたしは古くさい左翼であることをまったく恥ずかしいと思っておらず、脱構築(deconstruction)がなんで労働階級を助けることになるのやら、さっぱり理解できない人間だ。そしてわたしは頑固な古くさい科学者でもあって、外部の世界というものが実在し、世界についての客観的な真理というものが実在して、自分の仕事がその真理の一部を発見することだと、脳天気にも信じているのだ。」

 ~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ なぜ《信仰》とわたしが見るのを躊躇するか? 《非知》という心の伸びおよび明けを掲げておられるのに なぜ信仰ではなく信念と言うのか?
 何故かと考えるに:
 1. カーソルの言い分のほうから見ますが:
  ▼ 自分の仕事がその真理の一部を発見することだと、脳天気にも信じているのだ。
 ☆ というふうに 《信じる》を 人間の仕事の次元にも使っている。という揚げ足取りから入りまして:

 2.▼ 外部の世界というものが実在し、世界についての客観的な真理というものが実在して、
 ☆ というふうに《客観》あるいは《実在》という言い回しは その許容範囲が大きいとして措いておきますが 《外部〔の世界〕》という表現には 注意が必要だと考えるからです。あとで考えることにして。

 3. ★ 自然法の発生原因と同様、科学の基本法則の原因(理由)自体も、そもそも“非知”かと
 ☆ この見方が微妙であるように感じます。
 3-1. 自然法は 人間の自然本性一般としてなり条理としてなりにおいては まだ抽象的なものですが それでも 人は人をころすことはしないであろうといったそこまでの具体的な要素を宿しており すでに非知の領域から降りて来ています。

 3-2. むろんここでは《自然法の発生原因》ということですから 非知でいいわけです。しかも微妙にこんどは《発生原因》とは何かという問いが出て来ます。

 3-3. すなわち 因果関係のもとにあるのか? あるいは創造者-被造物の関係として規定し切ってよいのか? つまり《創造主ないし第一原因》という捉え方は すでに信仰の具体的な――それぞれの主観における――形態のひとつにしか過ぎないのではないか?

 3-4. 《科学の基本法則の原因(理由)》 これも神を摂理と見なしての《具体的な信仰の形態》をあらわしていると思います。基本法則と言うに到れば もろに経験世界のことだからですし 上のように第一原因という見方を示しているからです。


 4. そこでこの(3)の《信仰内容の具体化 つまり それとしての信念》とそして(2)の《外部》とを合わせて捉えるとどう考えられるか?
 4-1. いちばんおそれられることは――機械的に文字どおりに受け取って勘違いした場合には―― 具体的に表現し始めた段階にあるその信仰内容は いわゆる信念・信条としてこの世界の内部にあり その信念のよって来たる原因は 外部にある。こうなりがちです。

 4-2. 言葉ないし表現の問題としては 《外部》と《超えている もしくは 非》とは同じかどうかが問われます。もちろん 後者は 内部および外部を合わせた世界全体を超えていると言おうとしています。

 4-3. ということは 実質的に《真理の一部の発見という仕事》の中身が問われると思います。そこに収斂すると思います。
 
 4-4. もし非知ないし非思考をとおして神とかかわっているのなら 人はその神の霊を宿すという表現にまで人間観や世界観がすすむものと思います。《真理を――真理じたいが 霊のことですから――宿す》。

 4-5. これが 真偽・善悪・内部外部を超えてしかも含む彼岸としての境地を言い すなわち信仰の妙義をあらわそうとしていると思います。

 4-6. だとしますと 《真理の一部の発見という仕事》は じつは・じつに 《人間としての存在 あるいはもっと具体的に 〈わたし〉の境地が 日から日へと変えられること》にあると捉えます。

 4-7. 生きること・生活すること・ともに生きること そしてそのためにも科学すること これらのいとなみは 《真理の霊のはたらきのもとにあって日々変えられて行く〈わたし〉の境地の動態》に後行している。
 (先行・後行は 時間的なあとさきを言うよりは 考え方の上でのそれだと見ます)。




 ☆ バナッハ・タルスキの定理も「ゲーデルの完全性定理」・不完全性定理もP.グリムもポール・K・ファイヤアーベントもメタ数学もカーソルも何もかもをすべておそわっておきながら 恩をあだで返す仕儀――あぁ わたしはなんと悪魔憑きのきわまる人間でしょう。

 ★  論理学と数学とは少し、区別が必要かと考えております。
 ★ ファイヤアーベントの記述 ~~~~
   ● 結局、非常に特殊・特別・一回限りのものとの出逢いということに...
   ☆ 大統一理論ないし万物の理論さえも 科学の知としては この《特殊・特別・一回限りないし一部分のもの》だと言えましょうか?
  ~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 「完全性定理」はひとが持っている推論規則が完全であること(逆に言いますと、これ以上の拡張がありえないこと)を示しています。・・・
 ☆ これらについて たぶんまだはっきりとは分かっていないのだと思います。どのように尋ねればよいかが分からないのかも知れません。



 でもそれにもかかわらず 上のような悪魔の遠吠えを今回は お応えとしてお伝えしたいと思いました。
 煮ても焼いても食えないしろものに化してしまったかも知れません。あとはゆだねるという大甘のかたちにて。


 * 吉本隆明が 《非知》というときには 文字どおり海を超えての――いわゆる信心の巡礼としての旅路の果ての――彼岸を言っているという記憶があります。言いかえると ヒラメキというよりは 修行とそのたどり着く果てであり 彼岸がそのまま人間にとっての悲願であるかたちだというニュアンスが強かったと思います。
 ですから 《非知》というその言葉だけとしてのかかわりであるかも分かりません。

投稿日時 - 2011-09-07 11:02:40

ANo.43

頻繁の登場で畏れ入りますが、此のページでの重要なタームに関しましての質問を見付けましたので、其のページを紹介させて下さい。
http://okwave.jp/qa/q6993180.html

投稿日時 - 2011-09-06 14:07:22

お礼

 ばっふぁろうさん ご回答をありがとうございます。

 このご回答のひとつ前のNo.41につきましては 鋭意勉強中ですが いかんせん 前へ進みません。進めません。
 とおことわりして このご回答については 次のように考えます。

 ★★ (【Q:受け入れるの意味が知りたいです】回答No.3)~~~
 主観的な解釈による懐疑を行なわずに、作者の個性的な視点による辻褄合わせに準ずる、という判断を、一般的に『受け入れ』と呼んでいるのではないでしょうか?
 ~~~~~~~
 ☆ ということで 一般に あるのに対して この質問で《非経験のなぞを受け容れる》と言う場合には やはり特殊なのだと考えます。
 たとえばナゾですから 《懐疑をおこなう・おこなわない》を超えています。何を思考しどう懐疑するかについて何も分からないわけです。あるいは ぎゃくに いろいろ自由に考えたり疑ったりして構わないわけです。しかも その答えが出るか出ないか これは ついぞ人間には分からないというしろものです。そういう場合の何らかの決断にかかわります。

 それは 賭けのときの決断に似ています。
 伸るか反るか。一か八かです。
 つまりは 前へすすむか後ろへしりぞくか。右へ行くか左へ行くか。A をえらぶか B をえらぶか。

 すなわち 人間は その言葉として――いづれの母語においても―― 《神》や《信じる》といった言葉を持ってしまっているので 多くの人びとは これを信じるか信じないかを考える場面を持ちます。つまり神などはどうでもよいとするか それとも受け容れるかです。

 なんら根拠や理由はないはずです。あっても・添えても そのことが意味をなすこともないと思われます。(その人自身には 意味があって それをえらぶ理由にするかも分かりませんが 一般論としては あり得ないし 分からないということであるはずです)。
 そのとき 《受け容れない》ということは けっきょくもし仮りにそうえらぶとしても その《神》という言葉が人びとによって使われているということ自体については 受け容れていることになります。
 これを言いかえると 《無い神》を受け容れた。こうなると考えます。
 すなわち無い神を信じるという無神論に立った。ことになるのだと。

投稿日時 - 2011-09-06 14:35:36

ANo.42

特別企画: ノーベル賞候補者リスト!(物理学賞 前編)
http://hermite.exblog.jp/5745935/

投稿日時 - 2011-09-06 05:01:33

お礼

 ○ Relying on Zero-Gravity
 ☆ ってどういう意味だろう?


 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-06 16:34:09

ANo.41

若し愚生の拙い私見からも類推して頂ける内容が御座いましたら、幸甚に存じますので、そうありたいと願いまして、再度の参加を試みさせて頂きます。

そもそも、現実を破綻させずに済ませる為に、素粒子物理学では様々な繰り込みの方式が採用されていますので、其の御蔭で、たとえ対象の外部への開放を系に盛り込みませんでしても、認識が成り立っています。

従いまして、フラクタルの様な手段による無限分割は、
波動化によって食い止められ得るのでしょう。

投稿日時 - 2011-09-06 02:42:52

お礼

 すみません。歯が立ちません。

 どなたか助けていただけませんか?

 ひとつ分かると思うことは:
 ★ フラクタルの様な手段による無限分割
 ☆ この《無限》は 経験世界における可能無限であると考えます。

 あとは 手が出ません。しょうじき。
 ばっふぁろうさん すみません。




 ▼ (繰り込み理論)~~~~~
 (三省堂「大辞林 第二版」より)
 電子と電磁場の相互作用を量子電磁力学によって扱うとき、理論上は無限大となる電子の質量と電荷を有限な観測値に置き換え、矛盾のない理論体系を確立しようとする理論。

 朝永振一郎、アメリカのシュウインガー、ファインマンがそれぞれ独立に提唱し、これによって量子電磁力学は一応の完成をみた。

 ▼ (量子電磁力学) ~~~~
 荷電粒子と電磁場から成る系を、相対論的な場の量子論として扱う理論。

 その本質は繰り込み理論に負っており、電子やミュー(μ)粒子などの電磁的性質に関する実験結果を非常に高い精度で再現する。量子電気力学。

 ▼ (場の理論) ~~~~~
 物体あるいは粒子間に働く重力・電磁力などの相互作用が、重力場・電磁場など、力を媒介する場との相互作用を通して行われるという立場で構成される理論。

 場を非量子論的に扱う場合を特に場の古典論、場を量子化し、場の量子と粒子との相互作用を量子論的に扱う場合を場の量子論、また単に場の理論という。

 量子力学的には素粒子も場として記述されるので、素粒子と場とは統一的に扱われ、素粒子論も場の理論という。
 ~~~~~~~~~

投稿日時 - 2011-09-06 17:05:46

ANo.40

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


> 数学とほかの科学とのあいだには 差があるのですね。論理上の検証と実験上のそれとは違うということでしょうか?


 以下の点が指摘されております。
 
・「仮説を立て実験観察により検証する」という自然科学の最大の特徴を欠いている。実験結果によって理論が覆される事があるが数学ではありえない。
・自然科学は自然現象を扱う学問である。しかし数学は論理で、公理から導けるものなら何でも扱うことが可能。
・数学は論理なので自然現象と矛盾する数学を作る事が可能。例:バナッハ・タルスキの定理
http://blog.livedoor.jp/enjoy_math/archives/51113597.html 


> ★ メタ数学(超数学)

 ☆ がまだよく分かりません。


 以下に参考サイトをご紹介させていただいております。”「数学」自体を数学的に考える”ということでございます。

・Wikipedia 超数学
・「メタ数学・超数学ってなんですか?」
http://okwave.jp/qa/q1135774.html 
・松岡正剛の千夜千冊 オスカーベッカー「数学的思考」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0748.html 


> ★ ”無限”とはある意味、数学に特有で、非経験的観念かとも考えられます。
 ☆ 可能無限でなければ 無限は まったく非経験として想定されるものと思って来ました。
 つまりわたしに分かりやすい説明としては 無限を二で割っても三で割っても その商は やはり無限であるというかたちにおいてです。つまり 絶対であり 非経験だと考えます。

 はい。ご理解賜りまして、ありがとうございます。無限に十倍乗じましても、また一京倍乗じましても、同じ無限(大)でございます(一方では、どちらで割っても無限大となります)。経験上ある程度感覚的にはイメージが湧きますが、”経験外”のことかと考えられます。
 一方、自然科学におけます”法則(経験則)”も突き詰めれば、ナゾになろうかと考えら得られます(基本となる法則である、慣性の法則、エネルギー保存の法則等がどうして成立しているかはわかってはおりませんので。とにかく、発見以来矛盾が見られていない、というだけかもしれません)。


> これと メタ数学との関連がいまひとつ分かりにくいのですが どう違うのでしょう? どう重なっているのでしょうか?



 ”無限”とメタ数学(超数学)との直接の関連性はございません。ただ、ゲーデルが不完全性定理におきまして、メタ数学(一種の自己言及化)を用いたということでございます。

「Gが証明可能であれば、”命題「Gは証明できる」もまた証明可能である”。一方Gは命題「Gは証明できない」と同値であることが証明可能であるので、両者から矛盾が導かれる。」
Wikipedia ゲーデルの不完全性定理 概要 からでございます。

> ANo.38お礼らんからでござます
 人間の能力・特に科学という道具によってどこまでのことが分かるか またその分かったことを再現したり加工したりすることができるか。こういった主題をめぐって 議論をたたかわせている。というように感じました。
 科学は その道にしたがって その探究をつづけていくであろうというひどっちさんのご見解が ふつうの見方であるのではないかと思いました。

 前段につきましては、仰られますように、数学・科学の限界の追求といった側面も強くございます。
 後段につきましては、アラン・カーソル(あのカーソル事件のカーソル氏です)が以下の発言をしております。おそらく、科学者は、「その道(自己の信念)にしたがって その探究をつづけていくであろう」と考えております。

「でもなぜわたしがあんなことをしたのか? 告白しておくと、わたしは古くさい左翼であることをまったく恥ずかしいと思っておらず、脱構築(deconstruction)がなんで労働階級を助けることになるのやら、さっぱり理解できない人間だ。そしてわたしは頑固な古くさい科学者でもあって、外部の世界というものが実在し、世界についての客観的な真理というものが実在して、自分の仕事がその真理の一部を発見することだと、脳天気にも信じているのだ。」


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-06 01:30:16

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 そしてこのところ いつにも増して お世話になっています。おしえていただいております。

 如何ようにも料理してやってください。煮ても焼いても食えないほどでしたら うっちゃってやってください。

 ★ ・数学は論理なので自然現象と矛盾する数学を作る事が可能。例:バナッハ・タルスキの定理
 ▲ (数学って面白い!?) ~~~

  ○ バナッハ・タルスキの定理の主張は、以下のようなものです。

   『球体Aを有限個に分割し、適当に寄せ集めることで、任意の
   大きさの球体Bを作れる。』

 例を挙げると、ゴマ粒ほどの大きさの球を分割して上手に寄せ集めることで、バスケットボール大の球が作れるということになります。

 球体の大きさは任意ですから、太陽と同じ大きさの球をゴマ粒から作ることも可能です。



 ちなみに〔この定理の〕証明は、選択公理という集合論の公理を仮定しています。

  ○ 選択公理とは、

   『無限個のグループがあり、各グループに一人以上が所属して
  いるとき、各グループから一人ずつ選んでくることができる』

 という決め事です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 一般的な言い方として 《前提がある。そこから みちびき出せるものは みちびき出せるのだ》というかたちとして受け取りましたが よろしいでしょうか?


 ★ ・松岡正剛の千夜千冊 オスカーベッカー「数学的思考」
 ☆ 松岡の文章で――きわめて傲慢なことを承知の上でなのですが――初めて有益だと思いました。(このあいだテレビの番組で クレスピダッダのことをおそわりましたが これは 松岡だからおしえられたという問題ではありませんので)。
 そうしますと――という意味は 上で触れました《前提(つまり 公理やそれからみちびき出した定理や命題)があればうんぬん》としますとになりますが―― 数学ないしそれによって明らかになる論理の世界というのは きわめて巨大な宇宙大のタコツボだということになりませんか?
 ほかの自然科学は この数論を超えて事実を尋ね求めるものだと。その発見された事実について事後的に(また事前にも)証明するべくあるいはつまり整合的に理解するべく 数学論理をも――あたらしい論理を探し出すかたちにおいてさえも――活用すると。

 そうしますと・もし大筋でそうだとしますと 科学は残念ながら この世界ないし宇宙のつねに部分的な事柄をしか扱えないものと考えられます。

 数学やメタ数学を超えて宇宙全体の論理を扱えるメタ・メタ数学が現われればいちおう別だと考えられますが でもたぶんさらにその上のメタ さらにそれを超えるメタ・・・というふうにメタが有限という大前提において限りなくつづくものと考えられます。

 この傲慢論理を論破してくださいませ。



 ★ ・Wikipedia 超数学
 ☆ から次に出くわしました。
 ▼ (ヰキぺ:形式論理学) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%BC%8F%E8%AB%96%E7%90%86

 § 形式的論理学(formale Logik)とは、

 ドイツ観念論哲学の祖と言われるイマヌエル・カントがアリストテレス流の論理学に与えた名称。
 自己の唱えた超越論的論理学(transzendentale Logik)と対比したもの。
 
 エドムント・フッサールなどによって、従来の論理学をカントが「全く誤解して」名付けたものであり、対比されている超越論的論理学は形而上学と認識論の奇妙な混合物というべきものであると批判された(フッサール「形式的論理学と超越論的論理学」)。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ カントの先験的論理学は 次の見方と重なると考えています。ご見解をたまわれればありがたいです。(形式論理学なら 巨大な――そしてその認識のいとなみとして偉大な――タコツボであることを免れないと考えます)。

 ☆☆(No.38お礼欄) ~~~~
 ○ 不完全性定理は わが心における非思考の庭において・つまり信仰において 〔定理じたいの〕自己言及を含み持っている。

 ○ 言いかえると 不完全性定理は みづからを考えみちびき出した存在(つまり 人間)の中に はぐくまれるようにして おさまっている。

 ○ 人間にかんしては その存在が科学に先行する。境地が 科学の定理を覆いつつみこむ。

 ○ 信仰――特には ヒラメキ――は 思考に先行する。

 ○ 信仰は みづからの内に 科学認識をそして特にそこにおける自己言及をおさめている。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ 不完全性定理じたいが 《数論は 宇宙大のタコツボであるというかたちを超え得ない》と言っているのではないでしょうか?

 ○ 公理系が無矛盾なら不完全である。
 ☆ つまり 

    無矛盾な公理系およびそこからみちびき出せた命題は
    その全体がその全体としてのタコツボの構成において 
    無矛盾であり真偽を決定し得る完全性を持つ。

    ただしそのタコツボ自体が 完全であるかどうかは
   分からない。
    それ自身がみづからの無矛盾性を証明しうるものでは
   ない。

 ☆ ということを 信仰ないし人間は その存在そのもの(それは動態)においておさめているし 知っている。これも ひとつのメタ数学だとしたら そのメタ数学を自己の内におさめる信仰ないし人間の存在がある。

 ○ 信仰ないし存在は 思考ないし認識に先行する。

 ☆ ここで 《信仰ないし存在》に代えて 《先験的ないし統合論的な統覚》をそれとして――つまり論理的にあるいは認識論的に――持って来ると やはりすべてはメタ科学だというふうに狭く規定されてしまうおそれがあると思います。
 ゆえに きわめてずるく横着に大バカモノとして学問のいとなみをあざ笑うかのように 《非思考》を打ち出しています。

  * 吉本隆明が 親鸞の《信》にちなんで 《非知》ということを言って
  いますが いまのような議論は――その後の吉本を読まなくなったことも
  あって――していないと思います。
   かかわりがあるとは思います。

 ☆ 自己言及性というのは タコツボ〔としての認識体系〕である〔ことを自覚しているのだ〕ということかと思います。


 
 科学の持つ特徴や性質あるいはその歩み方などについての・復唱もせずに触れ残しました後半のご文章は そのままを引用して確認すべき内容ですので その意味でご回答欄のほうにゆだねたいと思います。


 ツッコミどころ満載になれましたら さいわいです。 

投稿日時 - 2011-09-06 11:41:44

ANo.39

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> このご回答で受けとめていただいたことについて 感謝申し上げつつ 確認してあゆんで行きたいと思います。

 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。

> ☆ きわめて微妙ながら 科学の力の届く範囲を見きわめようとなさっておられるように思います。前提が前提であるなら それとして科学の判断には 妥当性があり 《真偽が決定されうる》という判断も納得されうるはずだと。 
 あるいは 科学もその作業の過程に属し 動態であるということでしょうか?

 はい、もちろん、他の科学分野との関連性も生じます。
 ですが、“定理”と呼ばれるものにつきましては、ほとんどが数学におけるものでございます。他の学問分野におきましても、若干は存在します(例:カルノーの法則。証明がなされております)。
一方、特に数式で記述する学問体系の中には、(数学がそうであるのと同様に)科学におきまして、証明不可能な命題(経験的には、それが真であるとわかっている場合にもです)、さらに申しますと、決定不可能な命題(仮説)が、この定理により存在することになろうかと考えられます。
ですが、その根本をなすところに、“自然法則・経験則”がございます。極論を申しますと、“慣性の法則”等の“経験則”は、その存在は確かに確認されてはいますが、“常に正しい”ということは未解決かと存じます。さらに申しますと、「永遠に法則が成立し続ける保障はない」、ということでもあります。

> そのとき《自己言及性》あるいは《無限》を扱うということの問題が からまっていましょうか?

 そもそも、証明方法がメタ数学(メタとは、Metaphysicsのmeta-にあたります)に拠っております。つまり、ある意味、自己言及的な証明になろうかと推察されます。

[一例です]
2 + 3 = ? 答え: 5   → 数学
“2 + 3 = 5”、これ自体が成立する  → メタ数学(超数学)

 ”無限”とはある意味、数学特有の言葉でもございます。他の分野でも使用されるかもしれませんが、例えば、宇宙物理に致しましても、宇宙の直径約1000億光年と、決して無限という訳でもなございません。”無限”とはある意味、数学に特有で、非経験的観念かとも考えられます。

> 全体としてまなんで行きたいと思いますが ひどっちさんのご見解に対して失礼になりましょうか?

 いえいえ。全くそんなことはございません。愚生にお役に立てるところがございましたなら、と思っております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-05 22:15:20

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 数学とほかの科学とのあいだには 差があるのですね。論理上の検証と実験上のそれとは違うということでしょうか?

 それと
 ★ メタ数学(超数学)
 ☆ がまだよく分かりません。

 ★ ”無限”とはある意味、数学に特有で、非経験的観念かとも考えられます。
 ☆ 可能無限でなければ 無限は まったく非経験として想定されるものと思って来ました。
 つまりわたしに分かりやすい説明としては 無限を二で割っても三で割っても その商は やはり無限であるというかたちにおいてです。つまり 絶対であり 非経験だと考えます。
 これと メタ数学との関連がいまひとつ分かりにくいのですが どう違うのでしょう? どう重なっているのでしょうか?

 今回は この点についてお願いしたいと思います。おしえていただければさいわいです。

投稿日時 - 2011-09-05 22:54:35

ANo.38

絶対神への考察の過程の途上で思い付いた視点が御座いますので、
失念しない内に此処で其の内容を纏めさせて頂く為に、申し上げます。

不完全性定理は、信仰によって自己言及を回避させているのでしょうか?

投稿日時 - 2011-09-05 13:12:19

補足

 ★ 【Q:ヴァーチャルな無分別智】
   http://okwave.jp/qa/q6902888.html

 ☆ につきましては 趣旨をまだつかみかねています。
 もう少し議論が煮詰まって来ませんと。

投稿日時 - 2011-09-05 16:26:25

お礼

 【Q:不完全性定理を自然科学に敷衍できるか。】のやり取りを読み終わったところです。

 ばっふぁろうさん ご回答をありがとうございます。

 分かりません。ごめんなさい。見かけ(わたしの予告)倒しに終わりました。

 もし印象だけでものを言うことがゆるされますならば こう考えます。
 人間の能力・特に科学という道具によってどこまでのことが分かるか またその分かったことを再現したり加工したりすることができるか。こういった主題をめぐって 議論をたたかわせている。というように感じました。
 科学は その道にしたがって その探究をつづけていくであろうというひどっちさんのご見解が ふつうの見方であるのではないかと思いました。

 特に無限について 実無限をあつかうかどうかという話をすすめるのなら この質問の《神》の想定を参照して欲しいと思いました。
 《想定》だというところが ミソだと思っています。

 ★ 不完全性定理は、信仰によって自己言及を回避させているのでしょうか?
 ☆ こう考えます。つまり 次のように表現しなおします。

 ○ 不完全性定理は わが心における非思考の庭において・つまり信仰において 〔定理じたいの〕自己言及を含み持っている。

 ○ 言いかえると 不完全性定理は みづからを考えみちびき出した存在(つまり 人間)の中に はぐくまれるようにして おさまっている。

 ○ 人間にかんしては――これは 実無限を問うていた方も触れておられましたが―― その存在が科学に先行する。境地が 科学の定理を覆いつつみこむ。

 ○ 信仰――特には ヒラメキ――は 思考に先行する。

 ○ 信仰は みづからの内に 科学認識をそして特にそこにおける自己言及をおさめている。


 ☆ きわめて漫画チックに言えば:

 ○ 池としての思考の蓄積は もし周りが洪水になっていれば あまり役に立たない。洪水とは 人間の存在としての境地を指して言っている。


 
 じんるいの科学の営為に対する失礼を省みずでした。

投稿日時 - 2011-09-05 14:53:29

ANo.37

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


> ほかのところで 言い回しの勢いで この質問の想定している神学が 一般絶対性理論であり 【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭った】などなどのキリスト神学は 特殊絶対性理論だと述べました。

 しかも 特殊絶対性のほうから その個別の神学ないし信仰形態を基礎として 一般絶対性理論ないし一般神論がもたらされるのだと。

 そこらへんを固めて行きたいと思っていますが どうでしょう?


 了解致しました。固めていく重要性もございますことから、微力を尽したいと思っております。


> ゆきくんへのお礼欄に書いたこととしましては:
  神の子であり神であるキリストが 父のはかりごとのもとに 勝手に 磔になった。この勝手にのゆえに 神の愛であると書きました。


 ご意見頂戴致しまして、 どうもありがとうございました。


> また じどうしゃがいしゃさんへのお応えのなかで:

 神は モーセに《あなたは わたしの顔を見て生きることは出来ない。わたしが手を取りのけるとき わたしのうしろすがたを見るであろう》と言ったように キリストも十字架上に去って行ったそのあと――聖霊がおとづれ―― 弟子たちを初めとする人びとに キリストも神の背面を見せしめた。これが 非思考の信仰であると書きました。

 ここらへんの事柄です
 さらにすすめて行きたいところはです。



 了解致しました。


> ばっふぁろうさんや じどうしゃがいしゃさんが 反応されるかも分かりません。わたしは いまひとつ筆が伸びません。せっかく書いてくださったのに どうお応えしてよいか 自信がありません。あしからずお願いいたします。もちろん 見守ります。

 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。当方と致しましても、微力を尽くしたく存じます。


 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-05 00:52:29

お礼

 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。

 このご回答で受けとめていただいたことについて 感謝申し上げつつ 確認してあゆんで行きたいと思います。

 ほかのことについて思考中です。
 直前(No.36)のばっふぁろうさんの取り上げておられる【Q:不完全性定理を自然科学に敷衍できるか。】のやり取りからもまなんでいます。
 何も出て来ないかも知れませんが 思考中です。

 ばっふぁろうさんご自身のご質問:

  【Q:絶対無の存在証明を巡って、…。】
  (不完全性定理の完全性は自己言及的に証明され得るのでしょうか? )

 でご説明をいただき まことにありがとうございます。

 ★★(そのご回答No.9) ~~~~~
 ・・・従いまして、「真なる命題は存在しない」、とまでは断じていないことになります(ただ、それが証明されうるかは、別問題となり未定でございます)。
 そこで、この不完全性定理では、そもそも証明がなされております(”予想”ではなく”定理”となってございます)。従いまして、《真偽決定可能》な部分に該当するものと考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ きわめて微妙ながら 科学の力の届く範囲を見きわめようとなさっておられるように思います。前提が前提であるなら それとして科学の判断には 妥当性があり 《真偽が決定されうる》という判断も納得されうるはずだと。 
 あるいは 科学もその作業の過程に属し 動態であるということでしょうか?

 そのとき《自己言及性》あるいは《無限》を扱うということの問題が からまっていましょうか?

 全体としてまなんで行きたいと思いますが ひどっちさんのご見解に対して失礼になりましょうか?
 それが分からない状態ですので 失礼の節はそれをご指摘いただきつつ よろしくお願いいたしたいと思います。

投稿日時 - 2011-09-05 11:59:43

ANo.36

続きで更に御邪魔をさせて頂きます。

前回の回答欄で申し上げましたページでは、『不完全性定理の完全性の有無』の検証の為に、ベテランのプログラマーの方が、【網羅性テスト(http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1&ei=UTF-8&p=%E7%B6%B2%E7%BE%85%E6%80%A7%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88)】の内容に言及して下さっていますが、下記のページでの質疑にも、ヒントが隠れていませんでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q5497722.html
http://okwave.jp/qa/q6902888.html

投稿日時 - 2011-09-05 00:30:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 時間をあたえてください。

 
 【Q:不完全性定理を自然科学に敷衍できるか。】をまなんでいます。
 何も出て来ないかも知れませんが しばらくお待ちください。

投稿日時 - 2011-09-05 11:31:14

ANo.35

度重なる参加で畏れ入りますが、
此処の内容に関する質問を私が別のページで提出させて頂きましたので、
報告をさせて頂きます。

http://okwave.jp/qa/q6985389.html

投稿日時 - 2011-09-04 15:12:20

お礼

 はい 承知しており うかがっています。

 わたしくしにとって 焦点が結ばないと言いますか 不完全性定理の全体が見定められないと言いますか 躊躇するという以上にまだ手が出ません。

 見守っております。

 ご回答を寄せていただくのはいつでも何度でも大丈夫なんですが。
 そしてありがとうございます。

投稿日時 - 2011-09-04 15:22:23

ANo.34

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> そうですね。今回は まぼろしのことばかりになってしまいました。
 一歩すすめようとした結果ではあると思います。


 誠に、光栄に存じます。


> ということは もうそれ以上は進めることも出来ないかと思われます。
 そのまぼろしのことに対して心を開いているというところまでかと思われます。


 仰られますように、これ以上のご議論は難しいと思われます。後は、各々の方達が、その偶発的ともいえます事象とどう関わっていくか、というはなしになろうかと思われます。


> ばっふぁろうさんの提示された主題について なにかありましたら おしえてください。勝手に引用させてもらっていますが。



1. 『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない
2. 【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
3. 絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?

 1につきましては、省略させていただきます。
 2に関しましては、
【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ない
 → 経験不可能にも関わらず、可能性に(のみ)立脚した世界は、成立しない。 
 とさせていただきます。

 この問題につきましては、「そもそもわからない」というのが愚見でございます。一例を挙げさせていただきますと、宇宙空間は半径約460光年とされています。「では、その外側の世界とは?」、「そもそもその外部の世界(空間)が存在するのか否か」、「もしあれば、その空間のさらにもう一つ外側の空間はどうなのか?」 これらの疑問に対しましては、現在の科学では返答不可能な問題かと推察されます。
 従いまして、「わからない」としか申し上げようがないというのが実情でございます。おそらく、ほぼ確実に申し上げられることは、ひとには認識不可能な世界も存在しても決しておかしくはない、ということぐらいかもしれません。

 なお、3の問題につきましても、”ナゾ”としか申し上げようがないとうのが実情でございます。



> ゆきくんが声をかけてくれました。
 元気になったようですね。
 それ以上もう何も言う資格もないのです。
 見守ってまいりたいと思います。

 そうでございましたか。
 確かに以前よりも、冷静かつ、いろんな方達の言葉にも落ち着いてお話されるように拝見致しております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-03 21:21:54

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございまず。

 ★ 仰られますように、これ以上のご議論は難しいと思われます。後は、各々の方達が、その偶発的ともいえます事象とどう関わっていくか、というはなしになろうかと思われます。
 ☆ おっしゃるところに落ち着くかとわたくしも考えます。

 ほかのところで 言い回しの勢いで この質問の想定している神学が 一般絶対性理論であり 【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭った】などなどのキリスト神学は 特殊絶対性理論だと述べました。
 しかも 特殊絶対性のほうから その個別の神学ないし信仰形態を基礎として 一般絶対性理論ないし一般神論がもたらされるのだと。

 そこらへんを固めて行きたいと思っていますが どうでしょう?

 ゆきくんへのお礼欄に書いたこととしましては:
  神の子であり神であるキリストが 父のはかりごとのもとに 勝手に 磔になった。この勝手にのゆえに 神の愛であると書きました。

 また じどうしゃがいしゃさんへのお応えのなかで:
  神は モーセに《あなたは わたしの顔を見て生きることは出来ない。わたしが手を取りのけるとき わたしのうしろすがたを見るであろう》と言ったように キリストも十字架上に去って行ったそのあと――聖霊がおとづれ―― 弟子たちを初めとする人びとに キリストも神の背面を見せしめた。これが 非思考の信仰であると書きました。

 ここらへんの事柄です さらにすすめて行きたいところはです。


 ばっふぁろうさんや じどうしゃがいしゃさんが 反応されるかも分かりません。わたしは いまひとつ筆が伸びません。せっかく書いてくださったのに どうお応えしてよいか 自信がありません。あしからずお願いいたします。もちろん 見守ります。

投稿日時 - 2011-09-03 21:55:28

御無沙汰で失礼を致しておりましたが、
久し振りに経験世界からの眺望を試みさせて下さい。

絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?

投稿日時 - 2011-09-03 00:32:58

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 こちらの命題は ちょっと早合点をなさったのかなとも思います。

 1. この世界は 人間にわかることとしては 四次元の時空間であり 経験世界である。

 2. ところが人間は 《かみ》だとかそれを《信じる》といった言葉を持ち それとしての意味内容をもった意思の疎通をおこなっている。
 
 3. これをしりぞける向きにしても それは無神論と言って じつは《無神》というかみを立てている。なぜなら 《かみ》の存在も非存在も人間の能力で証明しえないから。(経験世界におけるそれの存在は 否定されることが証明されたようですが)。

 4. つまりは 《かみ そして神ないし無い神を信じる》という言語習慣とそれに見合う現実は 人類にとって まさに現実である。(事実と主観真実とを包み込んだ大きな現実として そのまま現実である)。

 5. 主観真実が 事実と並んで現実だと言わねばならないことには 無神論者にしても けっきょく《かみ》の領域を 表現の上で否定しているだけであって その領域すなわち《非経験の領域》については 肯定するにも否定するにも証明し得ないからである。

 6. すなわち表象しえない領域については それを表わすしるしとしての言葉が持たれ用いられるにしたがって 認めざるを得ず それとして共通の定義や了解を得ておくことがのぞましい。

 7. 非経験の領域は 人間にとってナゾであるが ただし何らかの仮りの表現を与えたり 仮りの説明を加えたりすることがおこなわれる。

 8. 《かみ》と表わしても それにあまり意味がともなうとも思えないが これを《非経験》と言えば それとして・つまり経験世界を超えているという意味として 捉えられる。経験に対して非経験。相対に対して《絶対》。有限に対して《無限》。などなど。

 9. 《絶対》についてさらに分かりやすく《絶対者》というように擬人化した表現をも持つ。

 10. ★ 絶対者は非経験世界との一体化を経験しているのでしょうか?
 ☆ と問うことは どうなんでしょう けっきょくその問う人がそれぞれの主観において どう考えるか。あるいは どう感じるかといった性質の問いなのでしょうか?

 11. 絶対者なる神は ひとり満ち足りている存在である。というふうにも仮りの説明が為されますが そのとき《神は 非経験世界を――その世界じたいが 自分自身のことであるわけですが――経験しているか?》

 12. どうでしょう? 思う存分 非経験世界との一体化――あるいは もともと一体であること――を味わっているかも知れません。どうなんでしょう?

投稿日時 - 2011-09-03 11:51:03

ANo.32

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> ☆ 確認しえてよかったと思います。(これも むしろ 論理的な推測のようなものですが)。

 こちらこそ、光栄に存じます。

> ○《この経験世界に経験的な自然現象や社会的な行為関係などとしての事象と同じかたちにおいては存在しない》ということは 《同じ経験世界において 経験的なモノコトとは別のかたちで存在しうる。かも知れない》というまぼろしの可能性を排除していない。
 ☆ こう思われませんか? 

 まぼろし等の偶発的なものにつきましては、排除しておりません。数学等に見られる“公理“の世界での論理でございますから。

> 言い直しますと:
 ○ 神は霊である。この霊は 経験世界に経験的な事物と同じかたちでは存在していない。と同時に 経験事物と別のかたちで――しかもそれが プラスの霊としてかまたはマイナスの霊として―― 存在する。かも知れない。

 可能性はあろうかと考えられます。ただ、再現性が確保されないため、疑問を抱くだけかと思われます。おそらく、経験世界とは別の何かしらの原理のようなものがあるのかもしれません。

> 十字架上のキリスト・イエスのことしか知ろうとは思わなくなった。というのはそこらへんのナゾのことを言っているように思うのですが 果たしていかがでしょう?
 そうしたとき この経験世界に足をつけて 事実と主観真実とをまとめた大いなる現実を生きるであろうし これをあらためて行くであろうと思われます。

 前段関しましては、愚生にはわかりません。後段の方におきましては、やはり、この経験政界に立脚しながら、主観的事実をも重んじながら現実の生を営むのが理想かと存じます。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-02 22:04:02

お礼

 そうですね。今回は まぼろしのことばかりになってしまいました。
 一歩すすめようとした結果ではあると思います。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ということは もうそれ以上は進めることも出来ないかと思われます。
 そのまぼろしのことに対して心を開いているというところまでかと思われます。


 ばっふぁろうさんの提示された主題について なにかありましたら おしえてください。勝手に引用させてもらっていますが。



 ゆきくんが声をかけてくれました。
 元気になったようですね。
 それ以上もう何も言う資格もないのです。
 見守ってまいりたいと思います。

投稿日時 - 2011-09-02 22:19:02

ANo.31

(私の側の業務の都合で参加させて頂けなかったと申しましても、)前の回答の時から日にちを空けてすいませんでした。

『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない状況の下では、寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-09-02 16:37:03

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。じつは 今回お出しの主題は 前半の《状況》については ひどっちさんが解説をしてくれていて(回答No.28および29)むしろその根拠は提出されているのではないでしょうか? 
 後半の問いは まづわたしにはむつかしい問題であるようです。というのも その問いはむしろ経験思考ないしその論理で考察されているのではないでしょうか?


 まづ前半のほうです。
 ★ 『経験世界での不在を証明させ得る根拠』が提出され得ない状況
 ☆ 神が 経験世界における存在としては 存在しないのだということ。つまりその不在が証明されているのではないでしょうか? ゲーデルの定理を使ったP.グリムの証明だそうです。

 ◆(回答No.28) ~~~
 P. グリムによる”神の非存在論の証明”というのがございます。
 これは、神を完全・絶対的存在と定義した場合、この世に神は存在しない。ということを示しております(ゲーデルの不完全性定理から導かれました)。

 ◆ (回答No.29) ~~~
 第1不完全性定理
  公理系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
 第2不完全性定理
  公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

 無矛盾性、つまりその公理系で何か問題を考えたときに、矛盾する結果を来さないことでございます。
 従いまして、この第1定理からは、「無矛盾で出来ているならば、その公理系では、真であるとも偽であるとも証明できない命題がどうしても出て来てしまう」ということを意味します。

 例えば、つい最近までは、「フェルマーの最終定理(中学生でも理解できる命題にもかかわらず、約350年間、莫大な懸賞金がかけられましたが、証明がなされませんでした。ですが、20世紀後半に証明されることになりました)」が、この証明不可能な命題である、との憶測もございました。
 ざっくり申しますと、全ての真理(経験的に真と分かっていたとしましても)は証明不可能(決定不可能)、ということでございます。なお、第2定理の方は省略させてもらっております。

 従いまして、確かに全ての自然数論(以降、簡略のため、”数学”とさせていただきます)を公理化することは不可能であることはいえますし、また全ての数学を論理学的に還元することも不可能であるともいえます。ですが、この定理のみからは、「”全ての”根拠が不完全」とは断じにくいと考えられます。

 もし神が全てのことを知っているとします(もちろん、数学の全てをも知っておられます)。
 一方、(経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。
 そうなりますと、神が〔* ――この経験世界にある存在として――〕全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。
 これが、P.グリムのおおまかな証明方法でございます。
 ~~~~~~~~~~~~


 そうして
 ★ 寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
 ☆ の主題については わたしにはむつかしい問題です。

 参考になるかどうか分かりませんが 《いくらかの【経験され得ない可能世界】の〈不〉存在証明》のほうとしては 次のように考えたのでした。
 ☆☆(No.28お礼欄) ~~~
  ★ つまり、絶対真空等は経験したことがない、ということであります。将来はどうかはわかりませんが、現時点では到達はしていないのが現状でございます。
  ☆ 自然科学に明るくないゆえに 無謀にもお尋ねしたいと思います。

  ○ ~~~~~~~~~
  もし絶対真空が経験されたという場合 その真空をたとえば宇宙線は通って行きますか?
  通ればそこは 経験世界でしょうし。
  通らなければそこには通さなかった壁としての境界があることになります。
  経験世界の中でその一部を占める時空間において 絶対世界が存在したということになります。
  言いかえると 絶対が相対によって規定されているという経験が現われています。矛盾ではないでしょうか?
  ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし 次のような批評をもらっています。

 ◆(回答No.29) ~~~~
 この「もし絶対真空が経験されたという場合」というとことが、厄介でございます。
 “絶対零度”もそうでございますが、経験されうることは、もしかしますと(むしろ、おそらく)ないかもしれません。仮に宇宙のどこかにいけばあるかもしれませんが、宇宙空間といえども、分子がさまよっているからでございます。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 純粋に(?)論理的に処理することは 出来ないものでしょうか?



 ★ 寧ろ逆に【経験され得ない可能世界】の存在証明さえもが成り立ち得ないのではないでしょうか?
 ☆ すみません。お手上げです。(神の想定そして定義とは 別のひとつの分野として成立するかのように思うのですが)。

投稿日時 - 2011-09-02 19:39:38

ANo.30

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


> ☆ 《無矛盾であれば 証明も反証も出来ない命題が存在する》 ゆえに
 ★ (経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。
 ☆ つまりは 《無矛盾であって 証明ないし反証ができる命題が存在する》ことも事実なのですね。それゆえ
 ★ そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。
 ☆ この《す べ て の真理を決定できる》とは言えないとなるのでしょうか?

 はい。ゲーデルの定理(“真なる命題”と“その証明”は別々のものと考えてくださいませ)からは、全ての真なる命題(経験的に真であることがわかっていましても)に対しましては、真であるとは証明不可能、ということを意味します。ですが、神は万能である以上は、全ての証明方法を知っているはずでございます。

> そう理解しますが だとしますと そうだとしましても ここで言う《真理》は 経験思考で認識し〔中にはその当否をも判断し〕得るものですよね。
 だとしますと――理科系の人たちに食いつきますが―― その真理は 人間にも認識しうるということにならないでしょうか? わざわざ神を持ち出さなくてもよいのではないか? こういう意味なのですが?

 はい。「ここで言う《真理》は 経験思考で認識し〔中にはその当否をも判断し〕得るもの」でございます。
 神を持ち出しました理由でございますが、今までに様々な存在証明がなされてきました。そしてどれもが(当然のことながら)“証明しえた”というものではございませんでした。このとき、人間理性においては、神はこの経験世界には説明不可能な世界に存する。ということを証明したかったのだと考えられます。少し例が異なりますが、代数的に5次方程式の解法は、約2,3百年間探索し続けられてきました。そこで、「そんな解法は存在しない」と証明したのには、それなりの意味があったものと考えております。おそらく、この数学の出来事とほぼ同じ経緯であったものと推察しております。ひとはどうしても、(存在しないことが証明されるまでは)その存在の根拠なるものを求めたがるのかもしれません。

> 神としての真理と 人間が経験思考で分かる真なる命題というときの真理とは 明らかに違うものだと見ますが どうでしょう?

 仰られますように、異なるものかと考えられます。


> もうひとつ ドクターに楯つきます。

 愚生はそんなたいした研究者ではないのですが、以下に愚見申し上げます。

~~~~
> ★「〈神〉や〈信じる〉という言葉を何時ごろから(言語自体の獲得時期との相同・相違性を鑑みまして)、そして、なぜ、今日まで、それが用いられてきたのか?」は不明でございます。と申しますのも、今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ~~~~~~
 ☆ 《信じる》という言葉が もしその神を顔と顔を合わせて見まつるならば もはやすでに見ているのですから 信じる(非思考・非経験)ことは必要がなくなる。こう考えられます。
  ▲ (コリント前書 13:12-13) ~~~
 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
  ~~~~~
 論理的には 信仰は要らなくなります。

 はい、“そのときには”、はっきり知られることとなり、その結果、“信仰”という言葉も自然と消失していくものと察せられます。“そのとき”が何時なのかは愚生には分かりませんが、来るべきときが来れば(今はまだそのときではないと思っております)、そうなるものと思われます。

> というふうに言葉が消えてなくなることは そういうふうにして 考えられますが これは
 ★ 今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ☆ というときの《消失》とは 別のことではないかと考えます。しかも人が前史から後史に入って信仰が要らなくなったときにも その後史においても《われは前史において この神を〈信じ〉ていたのだなぁ》と振りかえって述懐する場合に使うことがあるかと思われます。

 その言葉(申し訳ございません。ここでは、“単語”の意味で用いました)が消失する際は、(変化等を遂げて)他の言葉に代替されてしまった、もしくはその言葉を使うひとがいなくなり、その必要性がなくなってしまった、と考えられるかと思われます。
 仰られますように、いったん消失した言葉(単語)が復活することは非常に稀なことから、異なる可能性は否定でいきないとも思われます。


 何かしらの、ご参考となり得ましたなら、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2011-09-01 22:21:48

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~
  ▲ (コリント前書 13:12-13) ~~~~~
 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
  ~~~~~~~~~
  ☆ 論理的には 信仰は要らなくなります。

 はい、“そのときには”、はっきり知られることとなり、その結果、“信仰”という言葉も自然と消失していくものと察せられます。“そのとき”が何時なのかは愚生には分かりませんが、来るべきときが来れば(今はまだそのときではないと思っております)、そうなるものと思われます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 確認しえてよかったと思います。(これも むしろ 論理的な推測のようなものですが)。


 ★ ~~~~
 ・・・このとき、人間理性においては、神はこの経験世界には説明不可能な世界に存する。ということを証明したかったのだと考えられます。
 ・・・
 ひとはどうしても、(存在しないことが証明されるまでは)その存在の根拠なるものを求めたがるのかもしれません。
 ~~~~~~
 ☆ ちょっとしつこい食い下がりをしてみます。

 ○ 《この経験世界に経験的な自然現象や社会的な行為関係などとしての事象と同じかたちにおいては存在しない》ということは 《同じ経験世界において 経験的なモノコトとは別のかたちで存在しうる。かも知れない》というまぼろしの可能性を排除していない。

 ☆ こう思われませんか? 

 もしそうだとした場合 ただし《まぼろしの可能性》とは何か? にもなると思います。
 《霊》であり《なぞ》であり それは 表象し得ない。説明不可能な世界に存在しつつ この経験世界にはその霊でありナゾであるまぼろしとして存在する(もしくは マイナスの霊やナゾとして存在する)ということになるかも知れません。

 言い直しますと:
 ○ 神は霊である。この霊は 経験世界に経験的な事物と同じかたちでは存在していない。と同時に 経験事物と別のかたちで――しかもそれが プラスの霊としてかまたはマイナスの霊として―― 存在する。かも知れない。

 ☆ と。この無根拠もしくは非合理を ひとは見よ。となるかも知れませんし ならないかも知れません。


 十字架上のキリスト・イエスのことしか知ろうとは思わなくなった。というのはそこらへんのナゾのことを言っているように思うのですが 果たしていかがでしょう?
 そうしたとき この経験世界に足をつけて 事実と主観真実とをまとめた大いなる現実を生きるであろうし これをあらためて行くであろうと思われます。

投稿日時 - 2011-09-01 23:19:58

ANo.29

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。


 ○ (神は存在するか否か? と問うことについて) ~~~~~
> 次のような答えでは 無味乾燥です。
 【回答1】 ~~~~~~~~~
 神の存在が証明されたなら その証明にかんする限りで 《神の存在》は 肯定される。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 
 はい、これだけでは、仰られますように、“陳腐”以外何者でもないと思われます。

> 次のように答えるなら 或る程度の妥当性があると認められるでしょうか。
 【回答2】 ~~~~~~~~~~
 神は いやしくも神であるなら その存在を証明される必要はない。その必要があっては おかしい。
 また 証明されようがされまいが その証明の可否や内容は あくまで 人間の存在を基準にして言っているのであり その理性および感性から見ての話にとどまる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 
 前段の必要があっても別段構わないと思っております。ひとは知的好奇心に富む動物でございます。ひとのみが神を信ずる種ならば、知りたいというひと特有のものが存在しても構わないと思うからでございます。
 後段の方に関しましては、意見を等しく致します。

> 理屈をこねて次のように答えを回避する答えを用意することも考えられる。
 【回答3】 ~~~~~~~~~~~~
 神について なぜ その存在を証明したいのか? これを 先に聞かせて欲しいと答える。
 証明したいわけではないという返答であれば ぢゃあ しなくていいではないかと答える。
 証明したいと返答されれば 誰に対してか? と問い返す。
 人びと一般に対してだという返答を受けるなら ぢゃあ それは 必要ないはずだと答える。
 神との関係は――非思考だからなのだと考えられるが それは措くとしても―― もし神が人に伝えられ得るというのであれば 存在を証明する必要もない。
 それでも どうしても 自分に対して証明したいという答弁が返ってきたなら どうか? 大いに 証明につとめてくださいと答える。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 「もし神が人に伝えられ得るというのであれば」という箇所が若干ひっかかりを覚えます。それ以外は、仰るとおりかと存じます。

> ○ もし絶対真空が経験されたという場合 その真空をたとえば宇宙線は通って行きますか? 通ればそこは 経験世界でしょうし 通らなければそこには通さなかった壁としての境界があることになります。経験世界の中でその一部を占める時空間において 絶対世界が存在したということになります。言いかえると 絶対が相対によって規定されているという経験が現われています。矛盾ではないでしょうか?

 この「もし絶対真空が経験されたという場合」というとことが、厄介でございます。“絶対零度”もそうでございますが、経験されうることは、もしかしますと(むしろ、おそらく)ないかもしれません。仮に宇宙のどこかにいけばあるかもしれませんが、宇宙空間といえども、分子がさまよっているからでございます。
 
> ☆ これらの実際の証明については 残念ながら 理解が追いつきません。

第1不完全性定理 
公理系が、無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理 
公理系が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない。

 無矛盾性、つまりその公理系で何か問題を考えたときに、矛盾する結果を来さないことでございます。従いまして、この第1定理からは、「無矛盾で出来ているならば、その公理系では、真であるとも偽であるとも証明できない命題がどうしても出て来てしまう」ということを意味します。例えば、つい最近までは、「フェルマーの最終定理(中学生でも理解できる命題にもかかわらず、約350年間、莫大な懸賞金がかけられましたが、証明がなされませんでした。ですが、20世紀後半に証明されることになりました)」が、この証明不可能な命題である、との憶測もございました。ざっくり申しますと、全ての真理(経験的に真と分かっていたとしましても)は証明不可能(決定不可能)、とうことでございます。なお、第2定理の方は省略させてもらっております。
 従いまして、確かに全ての自然数論(以降、簡略のため、”数学”とさせていただきます)を公理化することは不可能であることはいえますし、また全ての数学を論理学的に還元することも不可能であるともいえます。ですが、この定理のみからは、「”全ての”根拠が不完全」とは断じにくいと考えられます。

 もし神が全てのことを知っているとします(もちろん、数学の全てをも知っておられます)。一方、(経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。これが、グリムのおおまかな証明方法でございます。

> ☆ カントの議論につきましては 詳しいかたちでではありませんが 最初に触れましたように なぜ《存在を証明しようとする》のか? という思いを捨てきれません。つまりこれは これこれの理由からというかたちで 話を継ぐこともままならないのですが。

 存在証明というよりも、認識不可能性を主張したことを鑑みますと、おそらく、ルター派であったカントにしてみれば、神のご意志を知りたかったのでは、と考えております。

> 趣旨説明によるかぎりでは 神は《神を想定する》という捉え方をしています。
 もっと簡単な話としては 《なぜわたしたち人間は 〈神〉や〈信じる〉という言葉を持っているのか?》という問いから出発するという捉え方です。この問いに答えられなければ その神は想定しておかざるを得ず 想定したかぎりで定義をしておかねばならない。となるという見方です。
 そうして こういった議論の以前に 生きる・生活するという次元で《信じる》というコトは 現実である。と見るかたちです。

 《なぜわたしたち人間は 〈神〉や〈信じる〉という言葉を持っているのか?》 この問いに対する回答は非常に難しいと考えられます。おそらく、ひとが文化・文明を築いた時点から既にこれらの言葉があったものと推察しております。ですが、進化論的にひとよりも遡った種では(化石等から発話器官が未発達であったとされる北京原人等です)、これらの言葉はもちろん持っておりません。おそらく、言語の獲得とほぼ同時期頃には用いられてきた言葉かと考えております。

> ここから さらにみなさんとともに互いに理解や認識を深めるために 問い求めが展開されましょうか? どのように展開するのが よいでしょうか?

 「〈神〉や〈信じる〉という言葉を何時ごろから(言語自体の獲得時期との相同・相違性を鑑みまして)、そして、なぜ、今日まで、それが用いられてきたのか?」は不明でございます。と申しますのも、今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。

> 神学における議論を取り上げるのが ひとつの方法であるかと思うところはあるのですが やはりそれも最初に触れましたように 存在証明という入り方そのことに 質問者としましては 違和感があって 自分からは踏み出しづらいものがあります。どなたかの問題提起に対するかたちでなら それに従ってまいりたいと思っています。

 了解致しました。

 何かしらの、ご参考となり得ましたなら、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2011-08-31 19:54:36

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ゲーデルおよびP.グリムについて説明してくださりありがとうございます。
 ただし今回は その科学としての行き方(方法)にわざととしてでも異論をとなえてみたいと思います。二点です。

 ★ ~~~
 もし神が全てのことを知っているとします(もちろん、数学の全てをも知っておられます)。一方、(経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。これが、グリムのおおまかな証明方法でございます。
 ~~~~~
 ☆ 《無矛盾であれば 証明も反証も出来ない命題が存在する》 ゆえに
 ★ (経験世界では)ゲーデルの定理からしますと矛盾を犯すことなく、その真理を決定はできないことになっています。
 ☆ つまりは 《無矛盾であって 証明ないし反証ができる命題が存在する》ことも事実なのですね。それゆえ
 ★ そうなりますと、神が全ての真理を決定できる、ということは、矛盾を孕んでいることになります。
 ☆ この《す べ て の真理を決定できる》とは言えないとなるのでしょうか?

 そう理解しますが だとしますと そうだとしましても ここで言う《真理》は 経験思考で認識し〔中にはその当否をも判断し〕得るものですよね。
 だとしますと――理科系の人たちに食いつきますが―― その真理は 人間にも認識しうるということにならないでしょうか? わざわざ神を持ち出さなくてもよいのではないか? こういう意味なのですが?

 神としての真理と 人間が経験思考で分かる真なる命題というときの真理とは 明らかに違うものだと見ますが どうでしょう?




 もうひとつ ドクターに楯つきます。
 ★ ~~~~
 「〈神〉や〈信じる〉という言葉を何時ごろから(言語自体の獲得時期との相同・相違性を鑑みまして)、そして、なぜ、今日まで、それが用いられてきたのか?」は不明でございます。と申しますのも、今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ~~~~~~
 ☆ 《信じる》という言葉が もしその神を顔と顔を合わせて見まつるならば もはやすでに見ているのですから 信じる(非思考・非経験)ことは必要がなくなる。こう考えられます。

  ▲ (コリント前書 13:12-13) ~~~
   わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが
  そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今
  は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているよ
  うにはっきり知ることになる。

   それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
  その中で最も大いなるものは、愛である。
  ~~~~~

 ここでは 《三つとも残る》と書いてありますが それは《神を見る》ということが ひょっとすると主観真実として大きく現実的であるかも知れませんが 一般に非事実的なことですので そういう表現になるのではないかと考えます。
 論理的には 信仰は要らなくなります。
 かたちあるものについては希望とは言わないというときの希望も すでにかたちとして見ているのならば その希望は要らなくなります。愛は 残る。

 というふうに言葉が消えてなくなることは そういうふうにして 考えられますが これは
 ★ 今日まで、様々な“言葉”が生まれてはきましたが、おそらく、その大部分は数千年もすれば、消失してしまうのが常だからでございます。
 ☆ というときの《消失》とは 別のことではないかと考えます。しかも人が前史から後史に入って信仰が要らなくなったときにも その後史においても《われは前史において この神を〈信じ〉ていたのだなぁ》と振りかえって述懐する場合に使うことがあるかと思われます。


 これらふたつについて 検討願えればさいわいに思うところです。いかがでしょう?

投稿日時 - 2011-08-31 23:00:05

ANo.28

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。

 他の回答者様のご意見を読みながら、少しオツムをひねってみました。

 まず、「絶対無」がそもそも存在するのか、そして、「“全て”の根拠が不完全な状態」について、愚見を述べたく存じます。ただ、他の回答者様とのやりとりは、禁じられておりますので、単なる愚生の独り言ととして、ご一読いただければと思っております。

 まず、現時点では、まだ「絶対無」に到達したことはない、というのが愚生の知る所でございます。つまり、絶対真空等は経験したことがない、ということであります。将来はどうかはわかりませんが、現時点では到達はしていないのが現状でございます。
 また、ゲーデルの不完全性定理によりますと、確かに、存在論的に”絶対有”は存在しない、ということは言えると考えられます。ですが、「全ての根拠が不完全」とは、ゲーデルの定理からでは断定できないものと思われます。
 以前もご紹介させていただきましたが、P. グリムによる”神の非存在論の証明”というのかございます。これは、神を完全・絶対的存在と定義した場合、この世に神は存在しない。ということを示しております(ゲーデルの不完全性定理から導かれました)。ですが、彼はそれにも関わらず、神学は否定していません。と申しますのも、神は人間理性では認識不可能に過ぎず、だからといって、その信仰が否定できるものではない、からという理由からです。これは、古くは、例えばカントによる純粋理性批判に見られますように、「人間の理性は(思弁的な)経験を超えた神の存在を認識することはできない」ということと、ほぼ同義かと考えられます(因にカントはルター派でした)。
 極論を申しますと、人間理性の求めるところと、信仰とは別次元ものと考えております。
 なお、他のご回答者様に批判的な内容となってしまいましたが、あくまで、ご質問者の質問への回答という範疇のものでございます。従いまして、回答者を批判する意志は全くございません。
 もし、ご心象を害するようでしたら、深くお詫び申し上げます。

 駄文、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-30 01:22:40

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 数学や論理学を敢えて省みず 次のようにひねくれたことを考えたことがあります。神の存在(または 非存在)証明とは どういう意味があるかについてです。

 ○ (神は存在するか否か? と問うことについて) ~~~~~

 次のような答えでは 無味乾燥です。

 【回答1】 ~~~~~~~~~
 神の存在が証明されたなら その証明にかんする限りで 《神の存在》は 肯定される。
 ~~~~~~~~~~~~~~
  

 次のように答えるなら 或る程度の妥当性があると認められるでしょうか。

 【回答2】 ~~~~~~~~~~
 神は いやしくも神であるなら その存在を証明される必要はない。その必要があっては おかしい。

 また 証明されようがされまいが その証明の可否や内容は あくまで 人間の存在を基準にして言っているのであり その理性および感性から見ての話にとどまる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし 《いやしくも神であるなら》という条件に 異論を唱える人が出るでしょう。


 理屈をこねて次のように答えを回避する答えを用意することも考えられる。

 【回答3】 ~~~~~~~~~~~~
 神について なぜ その存在を証明したいのか? これを 先に聞かせて欲しいと答える。
 証明したいわけではないという返答であれば ぢゃあ しなくていいではないかと答える。

 証明したいと返答されれば 誰に対してか? と問い返す。
 人びと一般に対してだという返答を受けるなら ぢゃあ それは 必要ないはずだと答える。
 神との関係は――非思考だからなのだと考えられるが それは措くとしても―― もし神が人に伝えられ得るというのであれば 存在を証明する必要もない。

 それでも どうしても 自分に対して証明したいという答弁が返ってきたなら どうか? 大いに 証明につとめてくださいと答える。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~


 ★ つまり、絶対真空等は経験したことがない、ということであります。将来はどうかはわかりませんが、現時点では到達はしていないのが現状でございます。
 ☆ 自然科学に明るくないゆえに 無謀にもお尋ねしたいと思います。
 ○ もし絶対真空が経験されたという場合 その真空をたとえば宇宙線は通って行きますか? 通ればそこは 経験世界でしょうし 通らなければそこには通さなかった壁としての境界があることになります。経験世界の中でその一部を占める時空間において 絶対世界が存在したということになります。言いかえると 絶対が相対によって規定されているという経験が現われています。矛盾ではないでしょうか?


 ★ ~~~~
 また、ゲーデルの不完全性定理によりますと、確かに、存在論的に”絶対有”は存在しない、ということは言えると考えられます。ですが、「全ての根拠が不完全」とは、ゲーデルの定理からでは断定できないものと思われます。
 ★ ~~~~~~
 P. グリムによる”神の非存在論の証明”というのがございます。これは、神を完全・絶対的存在と定義した場合、この世に神は存在しない。ということを示しております(ゲーデルの不完全性定理から導かれました)。ですが、彼はそれにも関わらず、神学は否定していません。
 ~~~~~~~~
 ☆ これらの実際の証明については 残念ながら 理解が追いつきません。

 ★ これは、古くは、例えばカントによる純粋理性批判に見られますように、「人間の理性は(思弁的な)経験を超えた神の存在を認識することはできない」ということと、ほぼ同義かと考えられます(因にカントはルター派でした)。
 ☆ カントの議論につきましては 詳しいかたちでではありませんが 最初に触れましたように なぜ《存在を証明しようとする》のか? という思いを捨てきれません。つまりこれは これこれの理由からというかたちで 話を継ぐこともままならないのですが。

 趣旨説明によるかぎりでは 神は《神を想定する》という捉え方をしています。
 もっと簡単な話としては 《なぜわたしたち人間は 〈神〉や〈信じる〉という言葉を持っているのか?》という問いから出発するという捉え方です。この問いに答えられなければ その神は想定しておかざるを得ず 想定したかぎりで定義をしておかねばならない。となるという見方です。
 そうして こういった議論の以前に 生きる・生活するという次元で《信じる》というコトは 現実である。と見るかたちです。


 ここから さらにみなさんとともに互いに理解や認識を深めるために 問い求めが展開されましょうか? どのように展開するのが よいでしょうか?

 神学における議論を取り上げるのが ひとつの方法であるかと思うところはあるのですが やはりそれも最初に触れましたように 存在証明という入り方そのことに 質問者としましては 違和感があって 自分からは踏み出しづらいものがあります。どなたかの問題提起に対するかたちでなら それに従ってまいりたいと思っています。

 

投稿日時 - 2011-08-30 09:29:13

ANo.27

<head>私自身の学びにも役立っていますので、
夜分に畏れ入りますが、続けて御邪魔をさせて頂きます。</head>

<body>
全ての根拠が不完全な状態に留まっていますので、
完全な根拠の存在が否定されていますから、
そういう意味では『無根拠の儘で承認されざるを得ない』のだろう、
と私には思われましたが、其の考え方には謬見が含まれていますでしょうか?
</body>

投稿日時 - 2011-08-29 01:24:52

お礼

 いえいえ 経験思考の世界において おっしゃるとおりだと思います。

 ばっふぁろうさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ そういう意味では『無根拠の儘で承認されざるを得ない』のだろう、
 ☆ つまりこの場合の《根拠・無根拠》というのは 経験思考で考えて判断することのできる内容を言っているはずです。推論や理由説明としての根拠(その有無)を その場合には あつかっているはずです。
 そしてそれは 非思考の信じるとは 別の話である。こういう意味です。

 もし
 ★ 全ての根拠が不完全な状態に留まっていますので、
 ☆ というときの《根拠》が 経験世界における根拠であるとともに 同時に非経験の領域における神としての根拠・無根拠をも取り扱っているのだとしたら どうか?
 それは この場合 ありえないようです。
 なぜなら もし神についての根拠・無根拠を言うのでしたら
 ★ 不完全な状態に留まっています
 ☆ というふうに判断することができるとは考えられません。

 完全だろうか どこまで完全だろうかといったかたちで その根拠の信憑性・確実性を吟味・検討することは 神については あり得ません。
 つまり おこなってもよいわけですが その結果が 人間に分かるかたちで出るという気づかいはあり得ません。それが 神の定義です。表象し得ないナゾとして。どうでしょう?

投稿日時 - 2011-08-29 01:48:25

ANo.26

前回の回答内容に関しましての具体例を追記させて頂きます。

例えば、周知の通りに、某アインシュタイン氏は量子力学固有の現象の存在を信じたがりませんでしたが、現代社会では、既に量子暗号による通信の技術さえもが開発されています。

従いまして、たとえ内容を信じられませんでしても認めざるを得ない、という情報群は少なくないと思われますので、経験を許可され得ない情報の場合にも、不確定性原理を適用させましたら、多くの方々に『絶対無の可能世界の広がり』を明確に認知させ得るのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-28 05:30:44

お礼

 つづいてですね。

 前回(No.25)の前置きが まづ参照されるのではないでしょうか。
 ☆☆(No.25お礼欄) ~~~~
  そうですね。
  ★ 【不完全性定理】
  ☆ は 神の問題とからませて議論があるようにうかがっていますが その前に問題は 経験世界かそれを超えているかの問いにあります。経験思考の及ぶ範囲かそれとも思考が及ばない(つまり 及ぶとも及ばないとも分からない)領域か この区別にあります。
 ~~~~~~~~~~~

 すなわち
 ★ 量子力学固有の現象の存在 / 量子暗号による通信の技術
 ☆ これらが あくまで経験世界における現象であり事象であるということにおいて 神の領域には達していない。これです。(ただし その現象に神の力が介入していたり その事象において人びとをみちびいていたりすると見ることがあっても それは 自由です)。


 ★ 経験を許可され得ない情報の場合にも
 ☆ この場合について 議論が持ち上がりましょうか。経験し得ない情報あるいはその領域 これは あたかも神の領域に似ていますから。
 ですが ここでも《経験世界の内にあるか それともそれを超えているか》 この区別が重要です。
 《経験世界の中で しかも知り得ない・ゆえに経験し得ないことがらがある》というとき・つまり言うのですから それは 経験世界における現象・事象である。となるはずです。

 つまりは
 ★ 不確定性原理を適用させましたら、多くの方々に『絶対無〔* と見まごうばかりの実は相対有〕の可能世界の広がり』を明確に認知させ得るのではないでしょうか?
 ☆ と帰結されるのではないでしょうか?

 人間があやつれる絶対有も絶対無も あり得ません。定義つまり想定の内容ないし仕方においてです。

 ひょっとしたら ここらへんで――人間もやっと民主制や平和(生命)のとうとさに目覚め始めたようだから―― わしの力を逆に人間が操作することができるようにしてやろうか と神が思っているかも分かりません。でも それは ほんの一部分のちからなのでしょうね。

投稿日時 - 2011-08-28 09:25:20

ANo.25

<head>丁寧な返事の御蔭で私自身の愚見を見直せる機会にもなっていますので、助かっていると思われますから、畏れ入りますが、更に追加で申し上げさせて下さい。</head>

<body>
経験世界の誕生の前の絶対無が無根拠で成り立っている、と伺いましたが、【不完全性定理】が根拠になって、『【絶対無】への認知』の必要性が現時点で既に証明されていますので、私達はそれを『承認』せざるを得なくなっている、と考えられます。<br>

従いまして、『承認』を致しさえすれば済む状況の下では、たとえ別段に其の内容の正当性を信じて遣りませんでしても、支障を来たさないのではないでしょうか?</body>

投稿日時 - 2011-08-28 04:23:33

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 【不完全性定理】
 ☆ は 神の問題とからませて議論があるようにうかがっていますが その前に問題は 経験世界かそれを超えているかの問いにあります。経験思考の及ぶ範囲かそれとも思考が及ばない(つまり 及ぶとも及ばないとも分からない)領域か この区別にあります。

 そうですね。その前に
 ★ 経験世界の誕生の前の絶対無が無根拠で成り立っている、と伺いましたが
 ☆ について 細かい表現の問題を捉えておきます。
 
 (1) 上の《非経験の領域 あるいは 思考を超えており・ゆえに非思考の場としてあつかわねばならない領域》――以後は かんたんに《神》と言うことにしますが――は 無限であり無根拠であり〔経験相対の世界を超えるゆえ〕絶対であると規定することができると思われますが それを経験思考としての《有る・無い》で表現することは 言わば第二次の規定です。
 
 (2) すなわち 神としての《絶対》を 有るとして絶対有と表わしたり あるいはそうではなく無いとして絶対無と言ったりするのは 人間が分かりやすくするために使う便宜的な(第二次の)表現です。

 ☆ つまりきわめて細かいことを言って何ですが 定義上における表現を整理しておきたいと思います。

 (3) 経験世界を超えた領域は たしかに《経験世界の誕生の前》ですが 《超えた》という規定(想定)は その誕生のあとにおいても当てはまります。

 (4) そして さらに神の属性を第二次・第三次において引き出してくると 《超えている》ならその経験世界に介入するということになります。経験世界を蔽い包み ひょっとしたら何らかの力のはたらきとしてこの経験世界をみちびいているかも分かりません。

 (5) ちなみに そういった第二次以降の属性はもちろん第一次の本体についてすら 《無い》と見る場合には――無神論の場合には―― この経験世界に対する奇蹟などのような神のはたらきは一切ないと見ています。神そのものが無いと見ているのですから。
 
 (6) ただしその無神論にしても 《無い神》を《経験世界を超えたところ》に想定しています。ゆえに非思考の場としての心の有り方を示しています。つまり早く言えば 信仰〔のひとつの形態〕です。

 (7) 有る神も無い神も 絶対であり――絶対有であったり絶対無であったりし―― そのまま無限であり 無根拠です。・・・重箱の隅をほじくっているのですが 
 ★ 絶対無が無根拠で成り立っている
 ☆ という表現は 違和感があります。神はどう成り立っているのか人間には分かりませんが――つまり それゆえに おれは分かったぞという人も じつは自由に出て来れるということになるのですが―― 一般に無根拠として受け取ることができると考えます。

 (8) その意味は 別の表現が可能だということをも示唆します。神は 宇宙大のでっかい根拠なのだと言っても まったく問題はありません。ただしその根拠の内容を示すことは むつかしいでしょうね。





 (9) 従いまして もし《不完全性定理》が その公理系をめぐって人間の思考のおよぶ事柄をあつかうものであれば それは 神の領域には 基本的に言って 達していません。


 (10) もし
 ★ 【不完全性定理】が根拠になって、『【絶対無】への認知』の必要性が現時点で既に証明されています
 ☆ ということでしたら おしえていただきたいと思います。つまり 神ないし絶対という領域を 人間は想定せざるを得ないというところまでは 証明されうると思われますが それ以上のことは むしろ神の領域だと考えます。

 (11) その意味は こうです。人間は 神の領域を想定することは出来るけれど それによって 神をつくったとか 神の存在(ないし不在)を認知したとかいうふうに 人間の側の思考や行為が成り立つものとは思えないからです。

 (12) 人間の思考やそのほかのあらゆる能力そして存在じたいをも超えたナゾの領域を 人間がどうしてつくったりあれこれ指図するかのように取り扱ったりすることができましょう?




 (13) ★ ~~~~~
 従いまして、『承認』を致しさえすれば済む状況の下では、たとえ別段に其の内容の正当性を信じて遣りませんでしても、支障を来たさないのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~
 ☆ ということには帰結されませんで 《承認》ではなく《認知》でもなく ただただ人間は《受け容れる》のみなのです。

 (14) ただし 人間には自由意志がそなわっており この想定した神を わたしは受け容れないぞというかたちで――つまり《無い神》として――受け容れることも まったく自由であり正当です。

 (15) この存在するとしてにせよ存在しないとしてにせよ《心に受け容れる》こと これが 非思考における心の動きとして 伸びあるいは明けといった志向性です。つまり信仰です。

 (16) 心に受け容れると言いましたが もっと分かりやすく言えば ヤハヱーだとかアッラーだとか あるいは 仏性なりキリストなりといった神の名を 心に親しく(あるいは 無として)持つ。それだけの行為です。(ただし 生涯をとおしての動態であり過程であるコトです)。

 (17) (13)における《正当性を信じる》というのは 信じる(受け容れる)ときに《正当性》うんぬんは かかわっていません。人間が神の正当性がどうのこうのと決める立ち場にはありません。

 (18) 《わたしは神という言葉が好きだ》と言う人がいるとしますと そんなかんたんな心の伸び それが すでに信仰だということだと考えます。《神などいるもんか》と言うときの心の明け これが信仰なのだと思います。神とつながったゆえ。

 (19) 絶対ということにかんしては それを否定しても つながることになります。なにしろ絶対なのです。

 (20) 誰もがこの神に向かって きよらかなおそれを持つに到るはずです。例外は無いと言ったほうがよいのではないでしょうか。――ただし 人間にかんするかぎり それは 時間過程においてあります。

投稿日時 - 2011-08-28 09:09:23

ANo.24

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。

> ひどっちさんは 社会の秩序をつかさどるお偉方たちは それほどあきらめが早いとも思われない。その欲において淡白だとは考えにくい。ゆえに しつこく迫り狙った相手は逃さないであろうとお考えですね。


 はい。いったん得られた地位、立場、利権なるものは、手段を選ばず、死守するものと思っております。

> 島田紳助の事件もありました。
 風通しがほんのちょっとでもよくなればよいがと思います。


 意見を等しく致します。暴力団と芸能関係の癒着等は、昔から知られたことかと思われます。もちろん、暴の方達にも、利益がございます。ですあが、地方巡業や、アイドル歌手の過去・裏顔の件(高部知子の”ニャンニャン事件”などは事務所としては避けたいでしょうから)等から、事務所側としましても利益があるため、関係を持っているという側面もございます。
 さらに風通しがよくなり、いっそのこと、”◯●組”から、”◯●カンパニー”等に変更し、一種の企業活動にも出てもらいたいとも思っております。


> 今回は ネタが切れたみたいです。エアポケットにはまったみたいですね。
 たまには こういう場合もあると見ておきます。

 申し訳ございません。愚生と致しましても、興味を引く話題等提供できれば良かったのですが・・・


 なお、菅首相が退陣表明したようでございます。確かに、時期はこの頃になろうことは予想できてはいましたが、どことなく、後味が悪い気持ちでおります。

「菅首相:退陣表明 県内各党談話 /静岡」  2011-08-27 毎日新聞
http://mainichi.jp/area/shizuoka/news/20110827ddlk22010251000c.html 


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-27 18:32:57

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。


 暴の人たちも 震災の復旧のためにボランチアに出かけているのだとか。分からないようにと。

 
 政局は けっきょく あれですね。自民党の落選組の声が強くて 総選挙が早く来ることをただただ願っているのだとか。その方向の民主党代表かつ首相なら 協力するというふうに。谷垣も石原も そのもとで動いているのですとか。




 《Q:仏教は一神教か?》のほうでも この質問と同じ主題が出ています。出張しなくてはなりませんでした。


 次のアイディアが なかなか像を結びません。これも ぼちぼちまいりますので よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2011-08-27 18:47:03

ANo.23

前回の回答の説明が短か過ぎましたせいで、肝心な部分を御伝えし切れていなかった様ですので、申し訳無く思われましたから、畏れ入りますが、再びの投稿を御許し下さいませ。

そもそも前回に私が強調したかった部分はイデアと違いまして、
『信じる』という内容に注目しております。

つまり、絶対無の内容で御座いませんでしても、私達は(日常生活の過程の途上で、)類似の状況を経験し続けている筈ですので、前回の回答を纏めさせて頂きました。

例えば、私達が疎い分野の情報を押し付けられる状況に巻き込まれた際に、其の内容の信憑性の高さを私達が疑ってしまう、という可能性が御座いますね。

でも、其の場合にも、若し疑いを払拭し得る十分な根拠が提出されましたら、たとえ其の内容を私達が信じたくなかったとしましても、それへの【認知】を拒めなくなってしまうのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-27 12:28:34

お礼

 ばっふぁろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 質問者としてわたしが提出している説も仮説であり たたき台ですから 批判し別の説を出してもらってまったくかまいませんが(つまり それこそ もしあるとすれば 望んでいるところです ですけれど) たたき台は ひとつの話の出発点にもなっていますから それにからめて新知見やご自身の見解を寄せていただきたいのです。

 ★ ~~~~~
 でも、其の場合にも(* すなわち 《其の内容の信憑性の高さを私達が疑ってしまう、という可能性が》あるという場合にも)、若し疑いを払拭し得る十分な根拠が提出されましたら、たとえ其の内容を私達が信じたくなかったとしましても、それへの【認知】を拒めなくなってしまうのではないでしょうか?
 ~~~~~~
 ☆ そうですよ。

 けれども ここでは 次の言葉において 定義上の意味があいまいになっています(両義を持つかたちになっています)。

 ○ 信憑性があると思考し判断して信じる= 
    経験合理性に照らして妥当性があると認めること

 ○ この質問で使う《信じる》= 
    経験思考を超えて 無根拠のことを――またはナゾの何ものかを
   無根拠において――受け容れること。

    ちなみに 肯定して受け容れる場合と 否定して受け容れる場合
   とがある。有神論と無神論とである。

 こんな情況だと捉えます。

投稿日時 - 2011-08-27 15:02:34

ANo.22

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。

> ☆ この参考サイトの議論に注目しました。わたしの見方に引き寄せてのものですが つぎのようです。

 ご紹介いただきまして、どうもありがとうございました。


☆ 日本社会における《ラべリング》は 次のようではないかとうたがっています。
 ○ ~~~~~~~~
> 1. ラべリングや ムラハチブや KY や《異端分子》やの扱いを その管理者の次元ではいっさいオモテに出してはしない。オモテに出すときは アマテラス予備軍――すなわちその管理者になびく一般の人びと――にそれとなくやらせる。軽くやらせておく〔だけとする〕。

 憲法下での制約もございますので、あからさまには、おそらくできないという事情もあるかもしれません。

> 4. というような手がひとつ考えられますが もっと問題なのは むしろ初めから敵対する相手をしかるべく決めて はっきりとこちらは追い落とす作戦に出るというときです。

 おそらく、事実かと思われます。敵対する相手は、案外偶発的なものにより選ばれるのかもしれません。ですが、決定はされた後は、そのまま作戦に打って出ると思われます。

> 5. そのための手は 案外《不良》の場合に似ています。ただしそのきっかけが違っています。相手に不良事件を犯させるというわけではなく 一般にちょっとした悪いうわさを流したりしてその相手をまづは怒らせることから始めるようです。

 はい、悪い噂の出所はもちろん極秘としまして、上述のような“挑発行為”はしているものと考えております。そして徐々にエスカレートさせていくものと思われます。

> 6. 怒らせたなら その手を緩めずなおもむしろ同じ手を使ってますます怒りをたくわえるかたちに持っていく。それは こちらが企んでいると分かられてもよいけれど それをはっきりしたかたちでは示さない。まさにうわさを流すといったように 何となく悪さが仕掛けられているなと分かる程度で しかもそのたくらみとしては 一つひとつ明らかなかたちで行なっていく。

 おそらく、はっきりしたかたちでは示さない形でもって、着実に外堀を埋めていく、四面楚歌に陥れていく。このような手口は、もちろん、あろうかと察せられます。

> 7. 途中で じゅうぶん相手が怒ったと見たころ こんどははっきりとそのような悪さないし企みは こちらがやったのだと知らせる。言いかえるとつまり その相手からの何らかの報復を むしろ期待する。
 8. つまりは その報復は およそはっきりと危害を加えるというほどの事件になるような中身になると期待している。

 “こちらがやったのだと知らせる”、これは親玉よりもその家来たちにさせると思われますが、“報復”、つまり、できれば“明らかな犯罪・反社会的なもの”を期待しているかと考えております。

> 9. この期待が裏切られなければ その或る種の犯罪があったということをもってそのとき初めてきちんと《不良ないし犯罪者》のラべリングをおこなう。

 おそらく、その犯罪の一部始終に対しまして、恐ろしいまでの入念な記録をつくっているものと思われます。

> 10. その後は このラべリングをした相手は 活かさず殺さずの状態においておけば 必要なときに何かと人びと一般の敵をこしらえるときに便利な存在となる。大いにこれを活用することができる。

 はい、組織内(もしくは社会全体)でのいざこざがあった場合にでも、その相手を仮想敵国のように仕掛け、矛先をそちらに向け、利用するという方法はよく採られるものと推察しております。

> 11. その相手は 怒りを行為には表わさなかったとしたら どうか?――失敗である。ほかに色仕掛けという手もあるが だいたいにおいて失敗である。

 いかなる挑発にも乗らなかったならば、美人局。ですが執拗なもの達は、意外と単純には諦めてくれないとはおもっておりますが・・・

> 13. 簡単な日本式アマテラス管理理論でしたが ここでは《悪魔》論は むしろないと考えられるのではないだろうか。アマテラス普遍抽象語による教義や規範が登場するのではなく アマテラス秩序体制が 或る種のラべリング理論として――いくつかの既成のラベルのもとに秩序を保とうとする共同自治理論として――考えられていまいか?
> 14. この日本方式にも悪魔論がもしあるとすればそれは すでに――何ものか抽象普遍としての・社会の統合たるしるしとしてのアマテラシテのもとに――ラべリングが成され終わっていて・という意味で《審問》が終えられていて その階層秩序を守ることが 求められている。

 はい、全く意見を等しく致します。“秩序体制の維持”を第一と考えていると推察しております。

> 15. 彼の地での火あぶりの刑は こちらでの《干されること》である。この社会秩序や組織秩序に従いたくないなら お前の好きな階層に行けばよいと突き放すことである。それがいやなら いまは当分干されたままに大人しくしていろと。

 《干されること》が一番近いと思われます。ですが、仮に別の階層に突き放したとしましても、また別のものをターゲットとしていくものと考えております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-26 19:07:40

お礼

 当たらずと言えども遠からじ でしょうか。

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ひどっちさんは 社会の秩序をつかさどるお偉方たちは それほどあきらめが早いとも思われない。その欲において淡白だとは考えにくい。ゆえに しつこく迫り狙った相手は逃さないであろうとお考えですね。

 島田紳助の事件もありました。
 フジテレビ系「とくダネ!」の小倉智昭キャスターが 暴力団を擁護するような発言をしたとのニュースもありました。
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110826-00000001-jct-soci

 風通しがほんのちょっとでもよくなればよいがと思います。

 今回は ネタが切れたみたいです。エアポケットにはまったみたいですね。
 たまには こういう場合もあると見ておきます。

投稿日時 - 2011-08-26 23:10:13

ANo.21

気付いた重要な内容が御座いまして、御意見を伺いたくなりましたので、私の質問の展開の中でも触れましたが、此方にも同一の内容を綴らせて頂きます。

つまり、たとえ『受け入れられるべき境遇への納得が難しい』と感じられましょうとも、【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、信じられずとも【(疑わない)容認】が可能なのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-26 13:06:08

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、
 ☆ この場合《立ちはだかる》と言っても 特に妨げになっているのではなく ただ目の前に横たわっている(つまり 見えている)という状態を言うのだと解します。
 それはそれとしまして 問題は
 ★ イデア
 ☆ ここにすべての誤解の出発点があるように考えます。

 ○ ヒラメキは イメージとしての直感から何らかの言葉を介する直観――つまり或る種のさとり――にまで熟すれば すでに言葉であり概念であり観念にもなり得て たしかにイデアにまでつながることがあり得ます。あり得ますが 基本的には イデアとは別だと捉えたほうがよい。

 ☆ こう考えます。
 どういうことか?

 イデア論への批判として言えば
 ○ ヒラメキは 思考やその行為において得られる理解を超えている。つまりその意味で ヒラメキは(信仰はという意味に取っていただいてよいと考えますが) イデアを超えている。もしくは イデア論とは別である。

 ☆ こう考えます。
 どういうことか?

 ○ ~~~~
 1. 或る晴れた日 ふと《わたし》の心の窓をノックする者がいる。指の先で触れられたような感覚をおぼえた。たとえば良い香りがするような感覚であったとする。

 2. そこでわたしは このおとづれた者を心に受け容れた。ようこそお出でいただきましたと。

 3. 非経験の神を信じるというのは これだけの行為です。非思考の庭が わがこころに成ると表現しています。

 4. このノック事件は いったいどういうことだったのか? これは 信仰が成立したそのあと 思考においてあれこれ考え整理しつつ理解しようとすることです。

 5. その段階で 思考なり観念なりイデアなりが持たれます。

 6. たとえば《神》とか《愛》とか《慈悲》とか《真理》とか まして《正義》とかのイデアが どこかにそのモノとしてあって 人がこれをやっと捉えて心に受け容れるといったことではまったくありません。

 7. そういうイデアの方程式が仮りにあるとしたら――あると主張すること自体は自由ですから あるとしたら―― それは けっきょくすべてが思考(われ考える)ないし精神の領域におさまっていますので すべてが経験行為であり 内容として倫理思想であったりその種の修行のための哲学行為であったりするのだと見ます。

 8. すなわち イデアもマテリアも 非思考なる信仰とは その源において別です。

 9. そうしますと けっきょく神にかんするかぎり・ということは信仰にかんするかぎり 条件は一切無しとなります。

 10. ★ たとえ『受け入れられるべき境遇への納得が難しい』と感じられましょうとも、
 ☆ というときの条件は 信仰の成立にとって 先立ちません。

 11. ★ 【疑われ得ない真実(イデア)】が目の前に立ちはだかっているのでしたら、
 ☆ という条件を問いません。

 12. ★ 信じられずとも
 ☆ という条件は この《信じる》が たぶんやはり《イデア》のような思考における確実な何ものかにその初めからかかわっているという前提を匂わせていますから やはり要りません。

 13. ★ 【(疑わない)容認】
 ☆ 《容認》もしくは単純に《受け容れる(つまり はっきりするように言えば 領収証を切る)》というのは そのとき非思考ですから・思考を伴なっていませんから(えいやっと決める賭けのような行為ですから) 《疑う・疑わない》とはかかわっていない。こう言わなければならないと考えます。
 ~~~~~~~~~

 ☆ イデア論は 《われ考える》を重んじるというだけではなく それよりは特に精神を――精神主義といった極端な主義主張においてではなく――とうとぶというふつうの思想において 一般に人びとに受け容れられていますから なかなかこれを 信仰論においてうっちゃることはむつかしいのかも知れません。

 けれども 《経験世界およびその経験思考》とそして《非経験のナゾおよびそれの非思考における受け容れである信仰》とは 厳然と峻別しなければ話は始まらない。これが この質問のひとつの焦点であると思います。

 相対性の経験世界において 人間の思考能力によって――たとえそれが有限なものであっても なお限りなく尽力するかたちにおいて――すすむといういわゆる無神論の信仰があるのだと思います。
 ただしこの無神論は 非思考のナゾを想定しているという前提を忘れているのだと考えます。これも 有神論とまったく同じ形態において 信仰であるということをです。
 なぜなら 人間存在と経験世界とは 有限だとすでに誰もが認識しています。この有限の世界を超えたところの何ものかについては 思考は及ばないということ。
 思考を超えてしまっているナゾに対しては それは無いと想定するか 有ると想定してこれを心に受け容れるか どちらかの道があるというかたちです。
 無神論と有神論とです。どちらも 非経験の領域について あくまで思考を超えて 有るか無いかを想定しただけのことです。ゆえに どちらも信仰であり 互いにまったく同等であり対等です。


 こういった問いを問うています。
 

投稿日時 - 2011-08-26 14:28:22

ANo.20

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。ひどっち でございます。

> ジャンヌ・ダルクの記事の中から さらに抜き書きをしておきます。

 ▲ (ヰキぺ:ジャンヌ・ダルク) ~~~


 詳細なるご説明を賜り厚くお礼申し上げます。


> ☆(5)では 一たん悔悛し改宗したのですね。極刑は免れたとか。
 そのようにきちんと《審問》の内容ないし結果が決められているというのも 何ともおかしく感じます。空想をあつかっているわけですから。


 はい。悔悛し改宗を誓ったことにより、極刑は逃れることができました。ですが、以下の2点の罪で死刑が確定されたとされています。
 ですが、 イングランドの強引な介入に反発を示す者も少なからずいたためでしょうか、敵国の軍人でもあり、またジャンヌダルクによりそれなりの損失を被ったにも関わらず、即極刑にならなかったのがある意味不思議でございます。
 これは逆説的でございますが、『《審問》の内容ないし、その結果が厳密に決められていた、もしくは(反発者により)求められて」ため、即処刑されずに済んだのかもしれません。
 ですが、以下の行為により極刑は避けられなくなってしまうのですが。

・男装という不当な行為をした
・教会を経由せず、直接、神と対話したと信じた


> (4)では 《声》の正体を突きとめようとしています。遅れてるウって感じです。中世が闇の世紀だというのは もう古い見方ですが それにしても古代市民のほうが こんな話には笑ってしまうのではないかと思われます。天使を特定するとか いや それは森の精霊であるとか。


 もはやスコラ哲学も下火になっておりましたし、コペルニクスが生まれたのが1473年ということを鑑みますと、確かに古さを感じさせられます。


> (2)の言うように《声》の内容を果たしたあと おっしゃるように権力闘争に翻弄されることになったのですね。


 はい、そのようになってしまいました。十代の一女性に過ぎなかったため、とても酷だったかと思われます。


> (4):ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。
 ――なのですね。《悪魔論》は 絡んでいます。つまり 領主ら為政者の次元では 聖職者を巻き込み はっきりと《教義》の問題としても推移しているようです。


 はい、そのように解することが可能と考えられます。


> ということは 民衆レベルの排除運動とは別の動きもあったということかも分かりません。


 はい、民衆レベルの問題ではないものと考えております。身内に裏切られ(援軍要請が却下されました)、しかもジャンヌダルクが支持したシャルル7世にも疎まれ(イギリスに身代金を払えば済んだ話だったのですが)、全く不運だったかと思われます。

> あるいはつまり どのレベルの動きにしても その普遍抽象の規範のようなものとしては 悪魔論というアマテラス語教義があったとも考えられて来ます。ちょっと勇み足で考えてみました。


 はい。
一種の”ラベリング論”にも通じるところあるのかもしれません。まだ、頭の中で整理ができておりませんが・・・

参考:http://allabout.co.jp/gm/gc/294049/ 


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-25 22:13:02

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
  > あるいはつまり どのレベルの動きにしても その普遍抽象の規範のようなものとしては 悪魔論というアマテラス語教義があったとも考えられて来ます。ちょっと勇み足で考えてみました。


 はい。
一種の”ラベリング論”にも通じるところあるのかもしれません。
 ~~~~~~
 ☆ この参考サイトの議論に注目しました。わたしの見方に引き寄せてのものですが つぎのようです。

 ▲ (逸脱行動論とラベリング理論) ~~~~
 「予言の自己成就」

 とはいえ、殺人のような犯罪を犯した者は、えん罪などではない限りその犯した罪によって「殺人者」というラベリングをされてしまうわけですから、仕方がないといえます。

 しかし、そうではないラベリングによって、殺人者を社会が作ってしまうことも考えられるわけです。

 つまり、ちょっと悪いことをした少年に「不良」というラベリングをしてしまう。最初はそれをはがそうとしても、うまくいかず、やがてあきらめて本当に不良少年になってしまうということです。

 これが「予言の自己成就」、つまりラベリングの通りの人間ができてしまうという理論です。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 日本社会における《ラべリング》は 次のようではないかとうたがっています。

 ○ ~~~~~~~~
 1. ラべリングや ムラハチブや KY や《異端分子》やの扱いを その管理者の次元ではいっさいオモテに出してはしない。オモテに出すときは アマテラス予備軍――すなわちその管理者になびく一般の人びと――にそれとなくやらせる。軽くやらせておく〔だけとする〕。

 2. 言いかえると その異端分子を上にある者としては 泳がせておく。好きなように行動させておく。ということは すでにウラでは ラべリングを済ませてしまっているとも見られる。

 3. 《不良》というラベルを オモテ立っては貼らないけれど ウラでは監視をつづけているというとき そのような注意を持つことになったきっかけとしての初めの不良事件をもしふたたび犯すことがあったなら そこからは 公私ともどもウラオモテ一体の監視体制に入る。

 4. というような手がひとつ考えられますが もっと問題なのは むしろ初めから敵対する相手をしかるべく決めて はっきりとこちらは追い落とす作戦に出るというときです。

 5. そのための手は 案外《不良》の場合に似ています。ただしそのきっかけが違っています。相手に不良事件を犯させるというわけではなく 一般にちょっとした悪いうわさを流したりしてその相手をまづは怒らせることから始めるようです。

 6. 怒らせたなら その手を緩めずなおもむしろ同じ手を使ってますます怒りをたくわえるかたちに持っていく。それは こちらが企んでいると分かられてもよいけれど それをはっきりしたかたちでは示さない。まさにうわさを流すといったように 何となく悪さが仕掛けられているなと分かる程度で しかもそのたくらみとしては 一つひとつ明らかなかたちで行なっていく。

 7. 途中で じゅうぶん相手が怒ったと見たころ こんどははっきりとそのような悪さないし企みは こちらがやったのだと知らせる。言いかえるとつまり その相手からの何らかの報復を むしろ期待する。

 8. つまりは その報復は およそはっきりと危害を加えるというほどの事件になるような中身になると期待している。
 
 9. この期待が裏切られなければ その或る種の犯罪があったということをもってそのとき初めてきちんと《不良ないし犯罪者》のラべリングをおこなう。

 10. その後は このラべリングをした相手は 活かさず殺さずの状態においておけば 必要なときに何かと人びと一般の敵をこしらえるときに便利な存在となる。大いにこれを活用することができる。

 11. その相手は 怒りを行為には表わさなかったとしたら どうか?――失敗である。ほかに色仕掛けという手もあるが だいたいにおいて失敗である。

 12. あるいはつまり いわゆる暴力団という存在は きちんと当局の管理のもとに置かれて接触があるかたちとなっている。これは すでに社会の約束としてラべリングをしてしまったかたちを取っており 《予言の自己成就》がすでに成った段階から むしろ制度として 始まっている。

 13. 簡単な日本式アマテラス管理理論でしたが ここでは《悪魔》論は むしろないと考えられるのではないだろうか。アマテラス普遍抽象語による教義や規範が登場するのではなく アマテラス秩序体制が 或る種のラべリング理論として――いくつかの既成のラベルのもとに秩序を保とうとする共同自治理論として――考えられていまいか?

 14. この日本方式にも悪魔論がもしあるとすればそれは すでに――何ものか抽象普遍としての・社会の統合たるしるしとしてのアマテラシテのもとに――ラべリングが成され終わっていて・という意味で《審問》が終えられていて その階層秩序を守ることが 求められている。

 15. 彼の地での火あぶりの刑は こちらでの《干されること》である。この社会秩序や組織秩序に従いたくないなら お前の好きな階層に行けばよいと突き放すことである。それがいやなら いまは当分干されたままに大人しくしていろと。
 ~~~~~~~~~~~

 ジャンヌ・ダルクは 出ないでしょうね なかなか。どうなんでしょう。

投稿日時 - 2011-08-26 00:20:03

ANo.19

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> (1) 共同自治における排除の問題 そして(2) この排除が 異端あるいは異教徒といった異者を相手にするとき 排除に理論があって正当化されうると言うかのように 裁きというかたちを取るという問題 さらには(3) その理論に悪魔論が使われることがあるという問題。
 でしょうか。

 あるいはそして 主体は 大きくは三者になりましょうか。
 民衆と 領主らの為政者と 組織宗教ないし聖職者。

 はい、定説が存在しないことを鑑みましても、相当複雑もしくは各地域により背景がかなり異なったものであったように考えられます。



> あるいはそして いじめ論や排除論と 悪魔論とは たしかに別だと見られますね。



 幾分、いじめ論に近い可能性はございますが(転校生等、外部からの影響を阻止し、いじめることによって、従来の仲間でうまくやっていこうとする)、仰られますように、別と考えるのがよろしいかと思われます。


> そうですね。いづれも大きな主題で どうしましょう。この質問においては質問者は 受け身でいましょうか。こちらが展開するかたちを取らないで。


 申し訳ございません。勝手に愚生の方が出しゃばってしまったようでございます。まずは、以下のご質問にご返答していきたいと思います。


> スペインでは 少々茶化した言い方をしますが ヤハヱーとキリストとアッラーとが入り混じっているという情況だったのでしょうか。上のいろんな視点や論点が もろに詰まっていたということのように見えます。


 セルビア大聖堂(世界で3番目に大きな大聖堂なのだそうです)も、モスクを改造してつくられたそうでございます。おそらく、イスラムの痕跡を残したくはなかったものと推察しております。ですが、アルハンブラ宮殿は、当時の面影をある程度残しているようでございます(かなりの改修が施されたようでございますが)。
 

> かのジャンヌダルクは どうなんでしょう? 悪魔と見なされ 火あぶりの刑に処されたというのは 単なる伝説であって 史実ではないのでしょうか?

 気になることが 出ては来ますね。


 おそらく、史実かと存じます。百年戦争(1337-1453)という複雑な戦争の中(基本的には英仏戦争なのですが、両国国王はフランス語を話してましたし、戦争初期では、ローマ法王はアヴィニョン捕囚で実施的な権限は制限されていた状況だったかと記憶しております)、そんな中、権力闘争に翻弄された一女性だったかと思われます。
 ブルゴーニュ派のフィリップにより、彼女に恨みを持つイギリス軍に金貨2万で売り飛ばされ、14回にもわたる異端審問を受け、1431年に火刑にされたといわれています。
 ただ、その後は、ローマ法王カリストゥス3世は裁判のやり直しを命じ、1455年、ジャンヌの復権裁判が行われ、1456年、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアン(セーヌ河河畔の都市)にて、処刑裁判の破棄が宣告されたそうでございます。
 そして、20世紀(1920年)になって守護聖人に列せられることになりました( 長年忘れられていたジャンヌを国民的ヒロインとして広報したのはナポレオンだと言われています)。

「点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが、火の勢いが強くなると「全てを委ねます」といって無反応になったと記録されている。 <中略> ジャンヌは死してなお、性器を晒されるという女性としての屈辱も受けたのである。その後約4時間をかけて燃やされたジャンヌの亡骸の灰は、セーヌ川に流された。」
(Wikipedia ジャンヌダルクからです)


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-24 22:13:26

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 ジャンヌ・ダルクの記事の中から さらに抜き書きをしておきます。
 ▲ (ヰキぺ:ジャンヌ・ダルク) ~~~
 (1)ジャンヌは1425年、初めて「声」を聞いたとされる。
 後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。

 (2)ジャンヌの神託であるオルレアンの解放とランスでの戴冠式の両方が成し遂げられたことになる。




 (3) 1431年2月21日、ルーアンで異端審問裁判が始まる。

 (4) 審理の大きな争点はジャンヌが聞いたとする声の正体だった。
 ジャンヌは声の主を天使である聖カトリーヌ(カタリナ)、聖マルグリット(マルガリタ)、及び聖ミシェル(ミカエル)だと主張したが、審理の結果それは森の精霊であり、ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。


 (5) 5月24日、サン=トゥアン修道院の仮設法廷で判決が言い渡され、ジャンヌは火刑に処されるはずだったが、判決読み上げの途中でジャンヌは異端であることを認め、教会に指示に従って改宗することを告げた。この時ジャンヌが署名した誓約書は読み聞かされた内容ととラテン語の正式の文面は大きく違っていたと言われる。ジャンヌは改宗に応じて悔悛したため極刑は免れ、永久入牢とされた。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ (5)では 一たん悔悛し改宗したのですね。極刑は免れたとか。
 そのようにきちんと《審問》の内容ないし結果が決められているというのも 何ともおかしく感じます。空想をあつかっているわけですから。

 (4)では 《声》の正体を突きとめようとしています。遅れてるウって感じです。中世が闇の世紀だというのは もう古い見方ですが それにしても古代市民のほうが こんな話には笑ってしまうのではないかと思われます。天使を特定するとか いや それは森の精霊であるとか。

 (2)の言うように《声》の内容を果たしたあと おっしゃるように権力闘争に翻弄されることになったのですね。

 (4):ジャンヌは悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端者であると結論づけられた。――なのですね。《悪魔論》は 絡んでいます。つまり 領主ら為政者の次元では 聖職者を巻き込み はっきりと《教義》の問題としても推移しているようです。

 ということは 民衆レベルの排除運動とは別の動きもあったということかも分かりません。
 あるいはつまり どのレベルの動きにしても その普遍抽象の規範のようなものとしては 悪魔論というアマテラス語教義があったとも考えられて来ます。ちょっと勇み足で考えてみました。

 たぶんもっと広いフィールドワークにもとづいて捉えなければならないのでしょう。

 といったふうに思いました。

投稿日時 - 2011-08-24 23:50:01

ANo.18

有り難う御座います。

前回の私の回答では、説明が不足し過ぎていましたので、申し訳無く思われましたから、反省の意図をも込めまして、再度の投稿を試みますが、御容赦を御願い申し上げます。

先ず、少なくとも、現代の欧米人達は(家族の中でも)『御互いへの信頼度』を言葉に翻訳し続けていたがる様ですので、真実在への態度さえもが大袈裟になりやすいですよね。

でも、人類が【本来の健康的な感性】を取り戻す際に、
果たして『信念の内在への自覚』が必要になっているのでしょうか?

矢張り、たとえ信念を知りませんでしても、若し真実在への疑念が沸き起こっていませんでしたら、【大乗の船】への搭乗を許可して貰えるのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-24 03:06:00

お礼

 ばっふぁろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ちょうど過去の質問を見ていたら 同じような趣旨のやり取りがあったのを見つけました。
 まづそれを掲げてみます。

 ○ 【Q:滅びる者にとっても キリストの良い香りと言うのは】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6646197.html
 ● (ANo.5 TheGoodSmell さん) ~~~~~

 和らがしめられている我々の状態は良い香りになっているので、
 尊しと為さずとも、平等に、
 大乗の船への搭乗券を割り当てて貰えそうでしょうか?

  (投稿日時 - 2011-04-08 01:48:22)

 ○ (お礼=ぶらじゅろんぬ ) ~~~~~~~
 よいかおりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 和らがしめられている我々の状態は良い香りになっている
 ☆ ということは 
 ★ 大乗の船への搭乗券を割り当てて貰え
 ☆ ただけではなく すでに 搭乗しているということでしょうね。
 
   (投稿日時 - 2011-04-08 03:57:07)

 ~~~~~~~~~~~~~~~


 ですから わたくしの考えでは: 
 1. まづすでに――前回のアダムとエワの話のあと 個人的な見方によりますが キリスト・イエスが歴史に登場したということ・それだけにおいて―― 人びとは・いえ人類はみな《マハーヤ-ナの船に搭乗してしまっている》と見ます。

 2. その航海において 個々にボートを出して漕ぎ出す人びとも現われるとすれば 順風満帆の日々もあれば 嵐の中を航かねばならないときもある。

 3. よって経絡と心の状態とが たぶん相互作用するかたちにおいて 順調なときもあれば失調する場合もある。
 ★ 【本来の健康的な感性】
 ☆ を見失ったり 見失うだけではなくそれに傷をつけたりして遠ざかってしまう場合も出て来る。

 4. そういうときには 或る日或る時ヒラメキとともにその感性を取り戻す。というのが 基礎にある基本的な方程式ではないかと見ます。

 5. ヒラメキは 実際においては一般におのれのあやまちに気づいたときに来ます。《われあやまつなら――そのあやまちに気づき〈われに還り〉―― われあり》という事件として起こるはずです。身も心も 感性も 自然本性としてよみがえります。

 6. もしこの方程式によるとしますと
 ★ 果たして『信念の内在への自覚』が必要になっているのでしょうか?
 ☆ の問いに対しては 否 そのような自覚や信念やあるいは思考または修行などなどはいっさい要らない。という答えになります。
 
 7. ★ 矢張り、たとえ信念を知りませんでしても、
 ☆ われに還ることは出来ると見ます。ただし

 8. ★ 若し真実在への疑念が沸き起こっていませんでしたら、
 ☆ というこの条件さえ要らない。こう考えます。無条件でヒラメキは 《わたし》に来ます。

 9. ★ ~~~~
 先ず、少なくとも、現代の欧米人達は(家族の中でも)『御互いへの信頼度』を言葉に翻訳し続けていたがる様ですので、真実在への態度さえもが大袈裟になりやすいですよね。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これについては まづ《大袈裟になりがち》なところは 実際の事実だとわたしも見ます。
 ただし 互いの信頼関係を 確かめ合うかどうか。その必要があるかどうか。その確かめのためにいちいち言葉に出して言わなければならないのかどうか。――これについては どっちもどっちではないでしょうか?

 10. どちらでもあり だと思われます。《大袈裟な態度や表現》は われわれにはごめんだという感じが強いですが それはそれぞれの社会としてのナラワシの違いだと思われます。

 11. いちいちわざわざ言葉にして口に出して自己表現するかどうか これは どちらであっても ヒラメキの起こることについて妨げにはならないと考えます。
 
 12. 大乗の船は あまりにパーフォーマンスや個人プレーに走ると もうおまえは船から海の中へ放り出すぞとは言わないと思います。

 13. むしろあまりにものタコツボ型の寡黙に対しては 船をゆすって船酔いにでもさせて 分かったか? おまえはもっと自己表現をするようにしなさいと叱咤するのではないでしょうか?

 14. とは言え 自己表現のあり方については 言語の類型に応じて――たとえば英語と日本語の類型的な違いに応じて――違いが出ているとも考えますが それは ここでは触れません。

 

 何か言い落としているようにも感じますが ひとまづお返ししましょう。

投稿日時 - 2011-08-24 10:38:46

ANo.17

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> ★ そこで、もしかしますと、一種の“スケープゴート”にされたのではないかとの疑問はもち続けておりました。そして、単に権力者の意向のみで裁判にかけられたものでもないとも思えてきました。

 ☆ ううーん。だとしますと 広い意味でのムラハチブだと考えられませんか? それに姥捨て山のごとく処置(処刑)がくわわったかたちにおいてです。


 はい、そういうことになろうかと存じます。少数の排除が、その集団の安定化に寄与するものと考えていた人達がいた、ということが実際にあったものと考えております。

> つまり それでしたら 信仰に〔かかわっているでしょうけれど 社会現象としてだけ見れば〕関係なく 共同自治の問題であるとなると考えます。
 ただし 魔女を悪魔に――まったく形式的にだけとしても――関係づけているのならば やはりローマ教会は 見解を出すべきだと考えます。

 自治問題も多分に含まれていると考えております。小領主が特に天災、つまり飢饉や疫病による民衆の底知れぬ不安、さらには暴徒の沈静化に対しましては、なす術がなかったため、あえてスケープゴートを求めたとも考えております(大きな連邦型の領主ではほとんど魔女狩りはなされなかったことからも、それが支持されるかと考えております)。


> スペインの異端審問の歴史において途中でその《回勅》というのですね それを出していると分かりました。

 ▼ (ヰキぺ:スペイン異端審問)
 ~~~
 § スペイン異端審問の変遷

 1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。
 そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。

 ~~~~~~~~

 ☆ ここだけから判断するなら やはりその内容は《裁きについての是非としての見解》ではないようにも 残念ながら うかがえるかも知れません。
 《行き過ぎを批判》なら 行き過ぎなければよいとなります。


 はい、全く正論かと思われます。なぜ、行き過ぎでなくとも、魔女狩りが実施されたのかは断定できないのですが、おそらく、ヴァチカンの弱みを握っていたものと思われます。

「フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベルソの存在が邪魔なものになっていた。フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。」

「「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧的に臨んでいた。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。勢い盛んだったオスマン帝国がギリシアを支配下においてイタリア本土を脅かし始めたのだ。」
(Wikipedia スペイン異端審問 からです)

 ヴァチカンの肩を持つつもりはございませんが、スペイン国王は、教皇の足下を見ていたものと考えられます。そして、国内での権力を得ようとしたものと考えております(コロンブスがスペインの力を借りて、新大陸を発見したのは1492年のことでしたから、相当の力を持っていたことが伺えます)。

> 《処罰は世俗の権力が行なうのであって 異端審問の制度において裁くのは 教会関係者である》のならば その《裁く》という行為の問題が いちばんであると考えます。

 悪魔ではないかと思ってしまうことと 悪魔として裁くこととは 別だと考えますから。



 はい。たとえ、スペインとの関係には妥協せざるを得なかったとしましても、《裁く》ことを拒否し続けるべきであったと考えております。


> ★ ~~~~

 愚生も、宗教の教団化・組織化には、反対でございます。

 ご質問者様の質疑に回答するのは、一回答者と致しまして義務と考えております。従いまして、また、何かございましたら、引き続きお願い致します。

 ~~~~~

 ☆ 二点 いづれにつきましても ありがとうございます。


 宗教の組織化につきましては、進行の形骸化を招く結果となりますため、反対なのですが、ただ、魔女狩りにつきましては、可能な限り、事実を突き止めたいという想いから、回答させてもらっております。


> ★ あまりにも人気(?)がありすぎ、ヴァチカンとしましても当惑しているようでございます。

 ☆ せっかくですから 挙げてくださった記事を掲げておきます。


 どうも、ご説明賜りまして、厚くお礼申し上げます。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-23 19:36:59

お礼

 (1) 共同自治における排除の問題 そして(2) この排除が 異端あるいは異教徒といった異者を相手にするとき 排除に理論があって正当化されうると言うかのように 裁きというかたちを取るという問題 さらには(3) その理論に悪魔論が使われることがあるという問題。
 でしょうか。

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 あるいはそして 主体は 大きくは三者になりましょうか。
 民衆と 領主らの為政者と 組織宗教ないし聖職者。

 あるいはそして いじめ論や排除論と 悪魔論とは たしかに別だと見られますね。


 そうですね。いづれも大きな主題で どうしましょう。この質問においては質問者は 受け身でいましょうか。こちらが展開するかたちを取らないで。(もったいぶっているように見えるとしたら それは違うのですが。つまりただちにその展開の用意があるのではありません)。


 スペインでは 少々茶化した言い方をしますが ヤハヱーとキリストとアッラーとが入り混じっているという情況だったのでしょうか。上のいろんな視点や論点が もろに詰まっていたということのように見えます。
 
 ここは わたしは受け身でいますとすれば それにしても かのジャンヌダルクは どうなんでしょう? 悪魔と見なされ 火あぶりの刑に処されたというのは 単なる伝説であって 史実ではないのでしょうか?
 気になることが 出ては来ますね。

 今回 こんな感じでお受け取りしました。どうでしょう。

投稿日時 - 2011-08-24 00:27:02

ANo.16

考えさせて頂ける機会に恵まれています事情に感謝を致しまして、度々ながら畏れ入りますが、続きの投稿を致します。

そもそも、現代の地球の人類の殆どが言語を習得した途端に、其の言語(認識・記録・伝達)によって一生を支配されざるを得なくなりますよね。

でも、そうは申しましても、何かを信じる場合にも我々は其の言語を利用していますので、其の言語の価値を訝れる別手段・比較対象群を外部から獲得しませんと、其の言表内様の真贋を(比較的に)公正に評価することは難しくなるのでしょう。

従いまして、自分達の【母語(敢えて『母国語』に致しませんでした。)】を幼児期に覚える際に、たとえそれの価値を信じる技術を私達が備えていませんでしても、其の言語の価値への【疑念】を抱かずに、私達は周囲の共同体から其の言語を学んでいきますね。

そして、其処からも窺われます通りに、極限的な真実在への帰依の場合にも、本来的には、信じずとも絶対者の事を疑っていませんでしたら(比較的に)適切な関係が成り立っていたのではないか、と思われますし、若し経絡的に完璧な健康状態が取り戻されましたら、言語思考等の『あらゆる欲望・情動からの解脱』が人類によって果たされ得る(※1)のですから、そういう意味でも、信じる行為は【天地人の一体化】の必要条件にならないでしょう。

※1 大阪府八尾市では、15年以上もの期間に渡りまして、複数名の方々が食事を為さらずとも病院に掛からず健康的な生活を営まれていまして、特に有名な鍼灸師の女性は、そういう栄養状態の下にいらっしゃいながらも、フルマラソンを好タイムで完走なさり続けています。
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%A3%AE%E7%BE%8E%E6%99%BA%E4%BB%A3%20%E7%94%B2%E7%94%B0&sp=1&aq=-1&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&SpellState=

投稿日時 - 2011-08-23 02:48:18

お礼

 ばっふぁろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 今回は 決まった主題です。その意味では 簡単だと考えます。

 ★ 極限的な真実在への帰依の場合にも、本来的には、信じずとも絶対者の事を疑っていませんでしたら(比較的に)適切な関係が成り立っていたのではないか、と思われますし
 ☆ これは 《エデンの園におけるエワとアダムが 食べないようにと禁じられていた善悪を知る木から採って食べた。そのあと 二人に死を死ぬことが現われた》の物語が扱っています。

 要するに 人は 誰もが物ごころがついてから 一度はウソをつくという話だと思われます。
 みづからの心〔の思い〕に逆らって何かを思ったり言ったり行なったりするウソ・イツワリです。このように《へそを曲げること》を起こすので 
 ★ 絶対者の事を疑っていませんでしたら
 ☆ という条件――つまりそのような生まれてからの身と心の状態――は 破れている。こう考えます。

 アダムもそしてエワも その木から採って食べたあと 或る日の風の吹くころ 《アダムよ きみは どこにいるのか?》といった声を聞いた。そのように ウソをおこなったことを悔いるということが起こった。
 したがって
 ★ 本来的には、信じずとも
 ☆ よかったのでしょうが そうは行かないというのが いわゆる自由意志の問題です。
 心に従う自由意志もあれば それに逆らう自由もあるというのが 人間の生まれたままの自然本性である。こう考えます。

投稿日時 - 2011-08-23 05:49:44

ANo.15

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。
 
> 魔女とされたなら もうその窮地を抜け出す道はなかったという話として聞いていました。
 体に重石をつけて川に放り投げる。もし浮き上がって来なければ それが魔女として正当にも処罰を受けたという証拠だと見なされた。
 つまりこのことは 被告に少しでも弁解の余地を与えようとしてのことに見えて じつは 死をまぬかれる余地は残っていなかったのだと。
すなわち もし仮りに万が一川に投げ入れられても浮き上がって来たなら それは それこそが魔女の使う魔法なのだと見なされ やはり魔女であることが立証された。ゆえに 処刑だ。となったのだと。

 お示しになられましたことは、一般的に流布している説と思われます。愚生も以下の書籍を読むまでは、残虐極まる汚点と考えておりました。

浜本隆志著「魔女とカルトのドイツ史」講談社 
 をざっくりとではありますが、読んだことがございました。そこでは、“穀物の収穫の減少と魔女狩りの件数に相関関係が見られる”ことが記載されておりました。そこで、もしかしますと、一種の“スケープゴート”にされたのではないかとの疑問はもち続けておりました。そして、単に権力者の意向のみで裁判にかけられたものでもないとも思えてきました。
 最近の調査でも、このことが示されつつあるのを鑑みますと、魔女狩りの残虐性が誇張された背景には、“キリスト教批判”、“女性差別運動”があったものと推察しております(犠牲者の約9割が女性とされています。因に、密告者の9割も女性であったとされています)。 

> ~~~~~~
 ただ、上述のスペインのように、為政者が積極的に魔女狩り(異端者の排除)を進めたこともあり、政治的な問題も多分に含まれておりました。従いまして、「《裁き》の回避」は簡単ではなかったようにも見受けられます。
 ~~~~~~~
 ☆ 《裁き》についての見解を発表するだけでもしておけば ローマ教会という存在は まだ歴史において意義を持ち得たという見方です。

 ヴァチカンとしては、断固とした“声明”を発表しておくべきだったと思われます。

 なお、余談ではございますが、当時の列強国スペインを陥れるための政治的陰謀も見られた可能性もあるようでございます。

「最新の研究によれば、スペイン異端審問において12万5千人近くが裁判を受けたが、実際に死刑を宣告されたのはそのうち1200人~2000人程度で、ほとんどの被告は警告を受けるか、無罪が証明されて釈放されたとされている。どうやらスペイン異端審問には(スペインを批判するために用いられた)「黒い伝説」の一部として、誇張され過大に語られてきた部分もあると見られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F からでございます。)

> ○ ガリレイやニュートンら
 ☆ については けっきょく一人ひとりにかんして そのそれぞれの信仰の姿勢を――もし他人からでも見ることが出来るものならば――見つめて 何らかの評言をあたえることになると思いました。やはり宗教一般の観点を持ち出しても それほど(もしくは ほとんど)生産的ではないようだと。

 宗教一般的観点から致しますと、仰られますように、生産的ではないものと思われます。

> いやぁ けっきょく教会の非をなじったわたしのあやまちを正しさらにそれを受けてまとめてくださいましたのに それに対してもかえって食いついています。食い下がっているのではない。つまり 議論を尾を引かせるように話を引っ張っているのではないとは思っていますが。

 愚生も、宗教の教団化・組織化には、反対でございます。
 ご質問者様の質疑に回答するのは、一回答者と致しまして義務と考えております。従いまして、また、何かございましたら、引き続きお願い致します。

> 聞くところによりますと いまでもローマ教会には 悪魔憑きを治す悪魔払い(エクソシスト)がいるそうですね。

 あまりにも人気(?)がありすぎ、ヴァチカンとしましても当惑しているようでございます。

参考:http://mediasabor.jp/2008/01/post_305.html 

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-22 21:19:58

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 
 ★ そこで、もしかしますと、一種の“スケープゴート”にされたのではないかとの疑問はもち続けておりました。そして、単に権力者の意向のみで裁判にかけられたものでもないとも思えてきました。
 ☆ ううーん。だとしますと 広い意味でのムラハチブだと考えられませんか? それに姥捨て山のごとく処置(処刑)がくわわったかたちにおいてです。
 つまり それでしたら 信仰に〔かかわっているでしょうけれど 社会現象としてだけ見れば〕関係なく 共同自治の問題であるとなると考えます。
 ただし 魔女を悪魔に――まったく形式的にだけとしても――関係づけているのならば やはりローマ教会は 見解を出すべきだと考えます。

 スペインの異端審問の歴史において途中でその《回勅》というのですね それを出していると分かりました。
 
 ▼ (ヰキぺ:スペイン異端審問) ~~~
 § スペイン異端審問の変遷

 1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。

 そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。
 ~~~~~~~~
 ☆ ここだけから判断するなら やはりその内容は《裁きについての是非としての見解》ではないようにも 残念ながら うかがえるかも知れません。
 《行き過ぎを批判》なら 行き過ぎなければよいとなります。
 《処罰は世俗の権力が行なうのであって 異端審問の制度において裁くのは 教会関係者である》のならば その《裁く》という行為の問題が いちばんであると考えます。

 悪魔ではないかと思ってしまうことと 悪魔として裁くこととは 別だと考えますから。



 ★ ~~~~
 愚生も、宗教の教団化・組織化には、反対でございます。

 ご質問者様の質疑に回答するのは、一回答者と致しまして義務と考えております。従いまして、また、何かございましたら、引き続きお願い致します。
 ~~~~~
 ☆ 二点 いづれにつきましても ありがとうございます。


 ★ あまりにも人気(?)がありすぎ、ヴァチカンとしましても当惑しているようでございます。
 ☆ せっかくですから 挙げてくださった記事を掲げておきます。

 ▲ (エクソシスト(悪魔祓い師)が足りない) ~~~
  ━ イタリア青少年の間に、悪魔崇拝者が増加
      イタリア在住ジャーナリスト 小池 弘美
  <記事概要>

 「ローマ教皇、悪魔に宣戦布告」

 ローマ教皇ベネディクト16世は、各司教区にエクソシスト(悪魔祓い師)を必要なだけ、少なくとも1人は配置する、と明らかにした。

 ヴァチカンのニュースサイト、「パパニュース」によれば、各司教に配布されるエクソシスト任命のためのマニュアルが現在準備されつつあり、2008年前半には出来上がる予定だという。

 各司教区に悪魔祓いのスペシャリストを配置する目的は、悪魔を抱えて苦しむ人たちを救うことにあるが、活動中のエクソシストたちが教区を超えて悪魔祓いをしなくてもすむようになる、という利点もある。

 2007年12月28日付 日刊紙LA STAMPA  より 
 ~~~~~~~~~

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-22 22:52:47

ANo.14

詳しい説明を下さいまして、有り難う御座います。

折角の機会ですので、畏れ入りますが、更に続けさせて頂きます。

先ず、鍼灸医学の研究結果によりますと、次の通りの事情が判明しています。

つまり、御存知でいらっしゃるのかもしれませんが、【経絡的な歪みの残留(筋肉の過剰な攣縮の慢性化)】は無駄な『情緒不安定』の温床を容易に拵えてしまいます。

しかも、陰陽五行図の一覧へは【思考】さえもが盛り込まれていまして、若し本来の超越的な健康状態を人類が取り戻せるのでしたら、其の場合には、思考からの解脱が叶うのだろう、と其処でも諭され続けてきました。

従いまして、疑う思考の停止・無効化の為に、経絡的な機能の面での滞りを自分達の身体内部から徹底的に除去するべく、本来的には、精進に励む方針へ人類が迎えますと、非常に望ましいのかも知れません。

でも、残念ながら、限られた資源(物質・情報・技術)の奪い合いでの勝利が世界史上で高く評価され続け過ぎましたせいで、既得権益の分量の比較による【相対的な優越感】が差別を暗示させるのでしょうから、相対的な優越感を味わいたがる『不純な動機』の完全な『駆逐は、今後にも難しくあり続けるのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-22 03:49:43

お礼

 ありがとうございます。こんにちは ばっふぁろうさん。

 まづ素朴な質問を提出するかたちで お応えしてまいります。

 (1) 身(経絡)と心(情緒の状態)とは 互いに影響し合っているのではあるまいか?

 ★ 【経絡的な歪みの残留(筋肉の過剰な攣縮の慢性化)】は無駄な『情緒不安定』の温床を容易に拵えてしまいます。
 ☆ このような場合において その逆の順序での現象は あり得ませんか? すなわち

 ○ 何らかの情緒不安定があって その結果 《経絡的なひづみ》が起こる。つまり 双方向的であるのではないか?

 (2) 陰陽五行説における《思考》とは どういう事態か?
 
 ★ 陰陽五行図の一覧へは【思考】さえもが盛り込まれていまして 
 ☆ 次のような理解しか得られませんでしたが どうなりましょう?
 ○ 陰陽の相関する関係において あるいは 五行相生・五行相剋において それなりに身にもそして心にも対応する現象が起こり そこに《思考》も起こっている。

 (3) 人間の自然本性としての身のあるいは心の状態とは 何か?

 ★ 本来の超越的な健康状態
 ☆ たとえばエデンの園においてアダムとエワは もし善と悪の知識の木から採って食べなければ 死ぬということは起こらなかったと言われることがありますが そのような《始原の健康状態》を想定しておられましょうか?

 ただし 善悪を知る木から採って食べたことは もうそれとして取り返しのつかない事件であったわけで しかもそれよりもすぐれた心身の状態になるとも言われています。それは 現在時における《精神と身体》の復活という希望です。
 科学的に医学的にそうなるというものか よく分かりませんが そういった健康状態のあり方が 問われているのでしょうね。取り敢えず。

 (4) 思考は 人間存在(ないしその自然本性)においてどう位置づけられるか?

 ★ 思考からの解脱が叶うのだろう
 ☆ 単純に言いまして 《思考からの解脱》が どうして必要なのか。これが分かりません。なぜなら ヒラメキ あるいは 無根拠のナゾがわが心をおとづれるときの非思考の事件 これにとって《思考》は何ら邪魔にはなりません。それは ただ《思考にあらず》というかたちで取り扱われるのみだと考えますが そこのところはどういうふうに捉えられていましょうか?

 (4-1) 非思考なる信仰(あるいは ヒラメキ)にとって 思考は何ら邪魔にはならない。

 ★ 疑う思考の停止・無効化
 ☆ つまりこういった施策(ないし修行)は 要らないと思うのですが どうでしょう?

 (5) 経絡の問題を どう取り扱うか?
 
 ★ 経絡的な機能の面での滞りを自分達の身体内部から徹底的に除去するべく
 ☆ これは どうなんでしょう? ひづみは ほぐせばよいと考えてはいけませんか?

 (6) 思考の純不純は 経絡に影響を与えるであろうが そして思考としてそのまま心にも影響しているであろうが 非思考の信仰(ヒラメキ)は 非思考というごとく 経絡(身)と思考(心)とを超えている。
 
 ★ 限られた資源(物質・情報・技術)の奪い合いでの勝利が世界史上で高く評価され続け過ぎましたせいで
 ☆ これは そのとおりでしょうね。
 情報は 知識や知恵という意味では限界はないとも思いますが。
 その意味では 技術も 長い目でみれば知識や知恵としての情報のごとくであるようにも考えられます。
 ただし 経済活動として 世界の中でその主体どうしのあいだで奪い合いといった様相を呈していますね。

 ★ 既得権益の分量の比較による【相対的な優越感】が差別を暗示させる
 ★ 相対的な優越感を味わいたがる『不純な動機』
 ☆ これらも そうでしょうね。そういう事実が見られるでしょうね。

 ただし それでは何故
 ★ 相対的な優越感を味わいたがる『不純な動機』の完全な『駆逐
 ☆ が必要になるのか? 《不純な動機》のどこがまづいのか?
 つまりそのような感情としての志向性とその認識にもとづく思考を 経絡にとってのおよび心にとっての言わば悪だと見るのは どうしてか? 

 ★ ・・・『駆逐は、今後にも難しくあり続けるのではないでしょうか?
 ☆ そうかも分かりませんが そうであっても 神のおとづれにとって 何の差し障りもありません。神の手がノックする音を聞くのに 何の支障もありません。その音を聞いて受け容れるのに では 支障があるか?
 ありません。そのときには 神の力に限りがあるという考えによって支障が出るかも知れませんが 《不純な動機や心や あるいは 経絡のひづみ》によって妨げられることはありません。

 
 (7) 思考のひづみと 非思考の庭(つまり 心)の閉鎖とは 別である。〔≒(4)および(6)〕

 思考は 不純であれ悪であれ あるいはそうでない健康なものであれ ヒラメキにとって・スクイにとって 何ら邪魔にはならない。こう考えます。
 スクイは 思考に非ず。思考をそしてモノゴトの善悪を超えて ヒラメキはやって来ます。人はそれを 無根拠のままに受け容れるだけです。神として・あるいは無い神として。

 これで 言うとすれば 経絡のひづみもやがて直って来るでしょう。

 (8) だって ヒラメキに対して《無心》とおっしゃっているぢゃありませんか。
 あるいは 無心だ有心だといったことは この人間のはからいですから どうでもよいと突き放せばよいはずです。・・・

投稿日時 - 2011-08-22 18:07:41

ANo.13

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> 魔女狩りは 教会ないし聖職者が先導かつ扇動したという見方は 間違いでしたか。


 現在の調査結果では、否定されているようでございます。


> たしかに異端審問といった裁きを問題にしたかったのですが 魔女呼ばわりも 大きくはその裁きに入ると思っていました。
 異端審問も ご指摘のようにむしろ民衆のあいだにおける不安つまりは治安秩序の問題から発しているかに伝えていますね。


 はい、以下のスペインにおける治安維持が惨劇を生んでしまったため、悪評がつきまとっているものと考えております。

 Wikipedia 異端審問  スペインの異端審問 からです
「当時のスペインにはキリスト教に改宗したイスラム教徒(モリスコ)やユダヤ教徒(マラノ)たちが多くいたため、”国内の統一と安定において、このような人々が不安材料になると考えた王は、教皇に対してスペイン国内での独自の異端審問機関の設置の許可を願った”。これは教皇のコントロールを離れた独自の異端審問であり、異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知した教皇は許可をためらったが、フェルナンド王は政治的恫喝によってこの許可をとりつけることに成功した。結果としてスペイン異端審問は多くの処刑者を生んだことで、異端審問の負のイメージを決定付け、キリスト教の歴史に暗い影を落とすことになった。」


> ☆ 考えてみれば 魔女に対する民衆裁判にしても それが 異教徒の問題であれ異端のそれであれ けっきょく――司法権や処罰権が教会にはなかったとしても―― その公式の見解を発表して《裁き》を回避させることは出来たかに推し測られます。
 つまり 民衆のあいだの動きをそうだとしたら 放っておいたことになり それは 《未必の故意》のような振る舞いになるかに思われるからです。

 仰られますように、もしそれができていれば、こんなにもイメージが悪くなくなっていなかったと推察しております。

 ただ、上述のスペインのように、為政者が積極的に魔女狩り(異端者の排除)を進めたこともあり、政治的な問題も多分に含まれておりました。従いまして、「《裁き》の回避」は簡単ではなかったようにも見受けられます。


> 次の文章については 《魔女》は 削除しまして 《悪魔》〔およびそれを悪魔として裁くこと〕の問題として考えようとしていると読んでいただければさいわいです。

 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~
 
 ( d-1 ) 魔女や悪魔は 神の心を――どういう中身としてかはまだ別として――おぼろげにこの世界のものごととして映し出しているのかも知れないとまでは 見てみることが出来るかも知れない。


 ☆ と思いや考えを推し進めるひとがいても それほどおどろくことではない。
 つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。
 ~~~~~~~~~~~


 悪魔の存在が想定できたかもしれない。しかし、このことが直接そのまま”魔女狩り”に移ったとうのには無理があろうかと察せられます

> ☆ すなわち 自分にとって《悪魔》と思えるような相手が現われたとした場合 それは 単純に言って神からの叱責であるかあるいは注意を促しつつ何らかの助言を与えようとする神の手紙であるか と捉える見方も成り立つかに考えられるからです。
 《悪魔狩り》には発展しない。むつかしい問題があるかとも思いますが 基本は互いに自由なやはり批判を含めた対話に活路を求めるということだと言おうとしていました。


 ご質問者様のご趣意、理解致しました。



> ガリレイやニュートンらに 現代からその現代の信仰論を当てはめようとするのは ほどほどにですね。

 はい。不退転の決意と情熱を持って神を知ろうとした人達は、現代には受け入れ難いものかと思われます。ですが、皮肉なことではございますが、過去の諸賢人がかような熱意で科学を発展させてきたのですが、その科学が宗教とは対義語のようになってしまいました。もちろん、対象は異なりますため、同列に並べることには無理がございますが、敵対するものではないものとも考えております。

 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-08-22 00:09:59

お礼

 こんにちは。 ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 のっけから茶飲み話ですが。
 魔女とされたなら もうその窮地を抜け出す道はなかったという話として聞いていました。
 体に重石をつけて川に放り投げる。もし浮き上がって来なければ それが魔女として正当にも処罰を受けたという証拠だと見なされた。
 つまりこのことは 被告に少しでも弁解の余地を与えようとしてのことに見えて じつは 死をまぬかれる余地は残っていなかったのだと。
すなわち もし仮りに万が一川に投げ入れられても浮き上がって来たなら それは それこそが魔女の使う魔法なのだと見なされ やはり魔女であることが立証された。ゆえに 処刑だ。となったのだと。

 そしてこのような魔女裁判を教会とは別に民衆がおこなっていたとすれば それに対して《裁き》という一点において どういう基本的な考え方をすべきかを 教会は発表すべきだったと考えます。
 発表しても 民衆の動きを止めようにもどうしようもなかったとすれば それもひとつの歴史だと思われますが 見解を出さなかったとすれば 歴史にならないと思われます。つまり教会の存在意義がその事件にかんして なかったということだと見ます。

 ★ Wikipedia 異端審問  スペインの異端審問 からです
 ☆ の中でも けっきょくローマ法王は 許可をあたえることで(《裁き》についての公式見解を発表しないことで)スペイン国王のやりたいように異端審問をさせたことになると考えられるからです。

 これだけは 言っておきたかったことです。

 くどいように重ねて申しますと:
 ★ ~~~~~~
 ただ、上述のスペインのように、為政者が積極的に魔女狩り(異端者の排除)を進めたこともあり、政治的な問題も多分に含まれておりました。従いまして、「《裁き》の回避」は簡単ではなかったようにも見受けられます。
 ~~~~~~~
 ☆ 《裁き》についての見解を発表するだけでもしておけば ローマ教会という存在は まだ歴史において意義を持ち得たという見方です。



 ○ ガリレイやニュートンら
 ☆ については けっきょく一人ひとりにかんして そのそれぞれの信仰の姿勢を――もし他人からでも見ることが出来るものならば――見つめて 何らかの評言をあたえることになると思いました。やはり宗教一般の観点を持ち出しても それほど(もしくは ほとんど)生産的ではないようだと。


 いやぁ けっきょく教会の非をなじったわたしのあやまちを正しさらにそれを受けてまとめてくださいましたのに それに対してもかえって食いついています。食い下がっているのではない。つまり 議論を尾を引かせるように話を引っ張っているのではないとは思っていますが。


 聞くところによりますと いまでもローマ教会には 悪魔憑きを治す悪魔払い(エクソシスト)がいるそうですね。

投稿日時 - 2011-08-22 16:02:44

ANo.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> そう言えば あいさつをしないでお礼欄に返答をしたためている場合もあります。

 いえいえ、お気遣いな全く無用でございます。


> 《たましいの復旧と復興を!》と言っても 《暑苦しい。やめとけ》と返されるのが関の山でしょうか。


 残念ながら、現実はそのようでございます。


> ☆ ふたつをまとめるならば 
 
( d ) この世界のものごとは 神の足跡であるかも知れず 神の姿をおぼろに映し出す鏡であるかも知れない。
 
 ☆ といった命題が導けると思われます。


 仰れますような結論になりうると考えらます。


> つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。――にもかかわらず むしろ聖職者たちのほうが先導しかつ扇動して 《魔女》を決めつけこれを狩り根絶やすというマチガイを犯すまでに到った。よほど《偉かった》のでしょうか。


 神のご意志を知りたい、たとえそこまで辿り着かずとも、「初めからすべてを神の みこころにゆだねていた」と考えております。
 なお、魔女狩りの件ではございますが、 一般に考えられているものとは違い、実際、裁きを受けたのは、ほとんどが異端審問所ではなく民衆法廷であったとされています。
 また、一昔前までは、数百万人の犠牲者とされていましたが、実際はそこまではいかないようでございます。

・「魔女」の告発は、一般市民の間では魔女や悪魔への恐怖があり、一般市民によりなされた。
・ほとんどの魔女とされた者は民衆法廷で裁かれており、民衆法廷には厳密なルールが存在しないため、行き過ぎた拷問や刑罰がなされてしまった(一般に考えられているものとは異なり、教会裁判まで持ち込まれた場合のほとんどが無罪放免とされていたようです)。
・宗教界の権威者たちは非キリスト教的な思想を元来嫌っていた。
・強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化しなかった(市民の過剰な反応を抑えることができた)。

 以上の史実を鑑みますと、単に権力者の一方的な意向だけで魔女裁判がされた訳ではなさそうなのです。ですが、全く責任がなかったとも言いにくいのですが。
 疫病(ペスト等です)や社会・自然の大変動(戦争や飢饉等です)により、精神的な不安に苛まれ、そこに権力者の意向が重なって起こったものと思われます。
(参考 Wikipedia 魔女裁判)

> ☆ すなわち 無神論であれば 宗教組織の犯したアヤマチあるいは要するに人間がこの世界で侵すアヤマチを含めもろもろのおこないとしての物事を超えたところにその《無神》を想定しているのであるから そうであるのだから そこのところに持たれているその見方において自重しなければならないはずです。

 はい、意見を等しく致します。

> ( a )の命題を変形して 次のように言わねばならないように考えます。

 ( a-1 ) ~~~
 
 “信じる”という行為が、

 かくして“〔人間が〕考える”という行為の暴走としてのように犯すあやまちを 静かに強くしっかりと思いとどまらせる力を持つというのに

 だからこの“〔人間が〕考える”という行為よりも格段に気高くとうとい人間の自由であり 人間の存在を証しする力を湛えているほどだというのに 

 そうであるにもかかわらず
 現代では“愚かなこと”という風潮が、その根底にあって
 理性万能主義が蔓延っているのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~


 残念ではありますが、事実かと思われます。



> ☆ という事態がそこここに見られる世間一般の情況であるとしたならば けっきょく人びとはそれぞれ《信じる》という行為を じつは欲している。のではないか。
 ならば 神を見きわめよ。神を見きわめよう。
 となるはずなのですが。


 はい、おそらく完全な”虚無主義”には、人はついていけないと思われます。この結果、おそらく、”科学崇拝”と揶揄される現象が生じてしまったものと考えております。

> ガリレイやニュートンらは それぞれおのれの信仰が 《考える》理性の暴走をゆるさず じゅうぶんふつうにその理性を使いこなそうとした。と言えましょうか?


 断定はしにくいのですが、神のご意志までは無理としましても、その結果を知ることにより、神を知りたかったものと考えております。そして、その結果、西欧において、自然科学が発展していきたものと考えております(通説ではございますが・・・)。

 なにかしらの、ご参考になれば、幸いでございます。

投稿日時 - 2011-08-21 21:37:13

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 魔女狩りは 教会ないし聖職者が先導かつ扇動したという見方は 間違いでしたか。

 たしかに異端審問といった裁きを問題にしたかったのですが 魔女呼ばわりも 大きくはその裁きに入ると思っていました。
 異端審問も ご指摘のようにむしろ民衆のあいだにおける不安つまりは治安秩序の問題から発しているかに伝えていますね。

 ▼(ヰキぺ:異端審問) ~~~~ 
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F

 12世紀に「中世の異端審問」と呼ばれる最初の異端審問が始まったのは、南フランスにおいてカタリ派がその影響力を拡大したことが直接の契機であった。
 先に述べたようにしばしば異端問題は政治問題であり、地域の領主たちが治安を乱すとして個別に地域内のカタリ派の捕縛や裁判を行っていたが、そういった従来の方法をまとめた形でだされた1184年の教皇勅書『アド・アボレンダム(甚だしきもののために)』(ルキウス3世)によって教会による公式な異端審問の方法が示された。
 そこで定められた異端審問は各地域の司教の管轄において行われていた。司教たちは定期的に自らの教区を回って異端者がいないかを確かめるというものだった。

 教会には一般的な司法権や処罰権がなかったこともあって、このシステムはそれほど厳密に適用されていなかったが、その後世俗の領主たちが教会の異端審問を補助する形で、異端審問で有罪判決を受けたものを引き取って処罰するようになると様相が一変した。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 先ほどのあやまちは お詫びして撤回しますが 考えてみれば 魔女に対する民衆裁判にしても それが 異教徒の問題であれ異端のそれであれ けっきょく――司法権や処罰権が教会にはなかったとしても―― その公式の見解を発表して《裁き》を回避させることは出来たかに推し測られます。
 つまり 民衆のあいだの動きをそうだとしたら 放っておいたことになり それは 《未必の故意》のような振る舞いになるかに思われるからです。

 ▼(同上) ~~~~
 1542年、時の法王パウルス3世によってローマに設けられた異端審問所は、従来のような教皇によって少数の異端審問官が任命されるシステムを廃し、神学者や学識の誉れ高い枢機卿たちからなる委員会が、特定の教説や著作に対して異端性がないかどうかを審議すると同時に、各国で行われる異端審問に問題がないよう監督することを目的としてつくられた。
 ~~~~~~~~
 ☆ 要するに 異なる見解については 互いの自由な批判をどこまでも推し進めて行くといった制度(または 慣わし)であれば まだよいかと思います。

 次の文章については 《魔女》は 削除しまして 《悪魔》〔およびそれを悪魔として裁くこと〕の問題として考えようとしていると読んでいただければさいわいです。
 ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~
  ( d-1 ) 魔女や悪魔は 神の心を――どういう中身としてかはまだ別として――おぼろげにこの世界のものごととして映し出しているのかも知れないとまでは 見てみることが出来るかも知れない。

  ☆ と思いや考えを推し進めるひとがいても それほどおどろくことではない。
 つまりは そこから《魔女狩り》には発展し得ない。と言わねばならない。神の心が知りたいという心つもりだったはずだ。あるいは すでに初めにすべてを神の みこころにゆだねていたはずだ。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 自分にとって《悪魔》と思えるような相手が現われたとした場合 それは 単純に言って神からの叱責であるかあるいは注意を促しつつ何らかの助言を与えようとする神の手紙であるか と捉える見方も成り立つかに考えられるからです。
 《悪魔狩り》には発展しない。むつかしい問題があるかとも思いますが 基本は互いに自由なやはり批判を含めた対話に活路を求めるということだと言おうとしていました。


 ガリレイやニュートンらに 現代からその現代の信仰論を当てはめようとするのは ほどほどにですね。

 こんなところになりました。どうでしょう。

投稿日時 - 2011-08-21 22:58:22

ANo.11

丁寧な返事を下さり、有り難く思いますので、
感謝の気持ちを添えまして、続きの投稿をさせて頂きます。

そこで唐突ながら畏れ入りますが、次の点の疑問を申し上げます。

そもそも、『信じる』という語は他動詞に留まっていますので、対象不在の状態では成り立ち得ませんでして、たとえ対象が具体的に絞り込まれていませんでしても、若し無心で行なわれていないのでしたら、ブロードキャスト的(http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%80%80%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt)に、通俗的な信仰は行なわれていかざるを得ないのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-21 01:36:42

お礼

 ★ そもそも、『信じる』という語は他動詞に留まっていますので、対象不在の状態では成り立ち得ませんでして、
 ☆ 《信仰とは何か》論ですね。

 ばっふぁろうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 まづ 次の問い求めをして来ております。そこでのたたき台を再掲します。
 【Q:《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6729443.html
 ○ (上記質問での趣旨説明) ~~~~~
 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為である。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。

 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。

 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。

 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。

 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。

 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。

 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰〔によるの〕であろうと考えられる。

 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。

 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。

 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れることが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離した〔あと もはや問わない〕ところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。

 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
 ~~~~~~~~~~~


 ★ 『信じる』という語は他動詞に留まっています
 ☆ 相手は 《非経験の領域》です。ゆえにこの行為主体つまりわれわれ人間にとっては 《非思考》――思考によっては捉えられないナゾ――です。しかもその信じるという行為は 人間がおこなう経験行為です。
 
 ★ 対象不在の状態では成り立ち得ませんでして
 ☆ まづ《対象》は 《非経験のナゾ》ですが したがって《不在》というよりは――存在か不在かが決められないゆえ―― 《非対象》だと捉えます。(あるいは 《不在なるものの現在・遍在》と言ったりします)。
 《非対象》を信じるというのは そのナゾを受け容れることです。(ちなみに 無神論の場合には 《無い神》として受け容れます)。
 《不在のものを受け容れる》とは どういうことか? ――《心の伸び》です。あるいは《心の明け》です。《志向性》です。特に何かのかたちある行為ではないと言わねばならないかも知れません。

 信じたときには 心の燈心に火が灯されたと言葉のあやとして表現しますが ともかく《閉ざされていた――暗い闇であった――心が 何となくでもひらかれた》そのことを言うと思います。
 《わが心に 非思考の庭が成った》 こういうふうに表わします。これが 《信仰の成立》であり そのまま――理論上――《すくい》です。(その内実の充実は 時間過程に属します。けれども 魚が網に掬われるように わが身も心も掬い上げられています)。

 ★ 若し無心で行なわれていないのでしたら
 ☆ 人間の側でおこなうことは 《〔その雲をつかむような〕ナゾを――その無根拠のままに――受け容れること》のみです。そのとき《邪心があっても》かまいません。《欲望に満ち満ちていても》大丈夫です。むしろ その非思考の庭が成ることにおいて 《無心》にせしめられるようになります。心がやわらがしめられます。〔ちなみに イスラームとは 語義としてそういう意味です。《アンニョン・ハシムニカ》のアンニョン(安寧)のことです〕。


 以上の定義と理論がもし現実に成っていないとみたときには おっしゃるような・言ってみれば――悪意がないとすれば――《信仰の普及版》が世に出回るということになりましょうね。
 ただし 信仰者が集まってその組織に 信仰の深浅の度合いにもとづきその地位や身分を決めるというかたちのヒエラルキア(権限をともなう階層秩序)を敷くとしたら それは 個人の信仰・その自由をすでに初めに踏みにじるものです。個人の信仰を他人が瀬踏みし値踏みしその上けっきょくその人を 良くにしろ悪しくにしろ 裁くことまでおこなっています。
 この裁きということは あってはなりません。問題は 信仰の中身を他人どうしが値踏みしそれを基準にして人びとの権限関係を決めてしまうことにあると考えます。

 ★ ブロードキャスト的に〔* しろ マルチキャスト的にしろ ユニキャストとしてにしろ〕 通俗的な信仰は行なわれていかざるを得ないのではないでしょうか?
 ☆ たぶん おっしゃるように・つまり現状分析としてそのようにきびしいものがあると皆が同意の声を上げざるを得ないように 宗教団体が 大通りを胸を張って歩いています。
 ただし どうでしょう それは 一人ひとりの人間がいわば《哲学を放棄した》ところで デカイ顔をして大手を振ってのさばるようになるのだ。と見るべきなのでしょうね。
 わたしたちは ただ《くにゆづり》をしているに過ぎません。その団体の指導者に対しても一般会員に対しても 話し合いを永続的に持とうとします。
 この哲学カテでのやり取りは 必ずや実を成らせることでしょう。十年 二十年・・・。


 こんな感じになりました。

投稿日時 - 2011-08-21 09:54:07

ANo.10

たとえ自己が救いを受けられたと当事者達に感じていましょうとも、若し其の救済内容が『他者達の境涯(経済状態・健康状態・人間関係等)への相対的な【優越感】』に起因しているのでしたら、『純粋な無心状態への成長』を彼等が辿れないのでしょうから、本来的には救済の具体化を求めるべきなのではないのでしょう。

でも、『神は自らを助く者だけを助く』筈なのにも関わらず、残念ながら『他力本願』の妄想的な拡大解釈が助長され過ぎたせいで、多くの方々が救済の結果にも【物質的な根拠の確保】を期待したがりやすくなりましたね。

従いまして、『信仰の自由』と『表現の自由』との両立の制御が、
法的には必要なのかもしれませんね。

投稿日時 - 2011-08-20 13:59:48

補足

 お礼欄での表現のあいまいなところ(1)と そして入力の結果を勘違いしてしまったところ(2)を おぎないます。

 (1) 最後の段落では 《信仰の自由》と《表現の自由》 これらふたつを扱って ふたつは互いにじつは次元がちがうのだと言おうとしています。

 したがって 法律や倫理規範によって 表現の自由を制御しようとすることは よほどのことが起きた場合ではないかと言っています。
 よほどの場合というのは 信仰の自由によっても扱い得ないほどの《表現の自由》が行使された場合です。つまり 物理的に存在を傷つけようとしたり抹殺しようとしたりする表現行為の場合です。


 (2) 中ほどの《つまり・すなわち・取りも直さず じつは》の段落において
 さらにその中ほどで 次のような入力ミスがありました。

 x (ミスでした) ~~~

   それも 主観の内にとどめられる事件0
  見方です。

 ~~~~~~

 ○ (つぎのように直します) ~~~

  それも 主観の内にとどめられる事件だという範囲を出ないという見方です。

 ~~~~~~

 おわびします。

 

投稿日時 - 2011-08-21 00:06:22

お礼

 つづいてです。

 前回(No.9)のお応えをも参照して欲しいのですが 片や定義と理論で処理する分野があり 片やそのあと実際問題に対処する同じく哲学の分野がある。こういう二段構えになります。

 ★ 若し其の救済内容が『他者達の境涯(経済状態・健康状態・人間関係等)への相対的な【優越感】』に起因しているのでしたら
 ☆ という事態について 片や実際問題として捉えたときの問題分析をしてもらっています。片や じつは理論としての問題もあります。なぜなら《すくい》は その内容がたしかに《自己の経済力や健康あるいは人間関係》といったかたちある相対的なモノゴトにかかわると言ってよいでしょうが それ自体だとは言えない。経済力がついていないからと言って すくわれていないとは言えないからです。

 信仰――わが心に 非思考の庭が成る――は 《わたしは 神(ないし無い神)を信じる》と公言したときに成ります。その成ると同時に 理論的には《すくい》も出来上がりました。《考える》を超えて《信じる》による境地が出来上がったからです。

 無心でなかったり純粋でなかったりしても かまいません。善と悪とをひとまとめにしてそれらの彼岸が 非思考の境地に成り立ったからです。
 この境地の練り上げ 磨き上げが そのあとの人生です。つまり そういう信仰生活です。
 人間の能力や努力によって この境地が得られるとは考えないかたちです。これが 無心です。この境地の心に なおも不純な動機や欲望が含まれていてもかまいません。《わたし》なる人間の計らいによって この境地の実現が成るとは思っていないからです。


 つまり・すなわち・取りも直さず じつは 
 ★ 『神は自らを助く者だけを助く』
 ☆ と考えるかどうかは この信仰とその境地にとって どうでもよいことなのです。そう見てそう言ってもよいでしょうし あるいは人事を尽くして天命を俟つ と考えそう言ってもよいでしょう。とともに そう考え努力することと 《非思考の信仰ないしその境地》とは 同じ次元では捉えられていないと思われます。
 《自ら助く者を助く》のは 実際には 友や仲間であったり 知らない人であったり あるいは時には敵なる者であったり あるいは自然の成り行きや偶然のめぐりあわせであったり さまざまです。そしてそのいづれの場合であっても それは《神が介在して助けてくれた》と見なすのは じつに 主観の問題です。その本人だけの問題になります。
 言いかえると これらの場合のすべてについて その助けられるいづれの場合についても 《他力本願》という見方によっていたからだと見なすことも できます。それも 主観の内にとどめられる事件0
見方です。
 主観にあって《自力・他力》いづれの見方を取っても その境地はともに同じく信仰によって・つまりは神(ないし無い神)によって与えられためぐみであると見ることができます。境地が与えられためぐみであり そのめぐみのもとにある《わたし》が 実際上のすくいや助けを受けることが出来た。こういう《信仰〔および思考〕の史観》だと考えます。

 実際問題を問題にするなら
 ★ 救済の〔* というよりは 助け合いとしての〕結果にも【物質的な根拠の確保】を期待したがりやすくなりましたね。
 ☆ という場合は 時には あると思われます。モノが要り用なときはあると思います。境地に立って境地の磨き上げのために――それも おそらく実際には おのれ一人のではなく 互いの境地のために――モノを必要とする場合はあると思われます。精神と物質 身と心 どちらも 信仰の境地からまとめてひとつとして取り扱われます。


 申し訳ないけれど 次には異を唱えます。
 ★ ~~~~
 従いまして、『信仰の自由』と『表現の自由』との両立の制御が、
 法的には必要なのかもしれませんね。
 ~~~~~~
 ☆ 信仰の自由ないしその境地に立てば・つまり立って 表現の自由を享受して行くことになると思いますので――それが その理論どおりに行っているかどうかは これまた別の問題ですが―― それらを同じ次元において見る必要はなく 法的にその制御を考えることも よほどの事態に直面してのことではないか。こう考えるのですが どうでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-20 16:28:52

#3での回答の続きです。

救済を求めている信者達の多くは、救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。

従いまして、そのせいで、相対的な信仰対象の比較による派閥争いさえもが、
世界史上で繰り返されてきたのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-20 12:36:38

お礼

 ばっふぁろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 次のご投稿内容(No.10)をも合わせて むつかしいことをお考えである。

 神の定義をしこれを大前提とした上で そのあとの具体的に社会において発生する問題を問うておられる。実際問題は これこれであり あれそれであると。

 ただですね ただそういった実際問題というのは どうも
 ☆☆(趣旨説明) C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?
 ☆ から派生する問題であり ひとことでまとめれば《組織宗教》の問題である。こう考えられます。

 ★ ・・・相対的な信仰対象の比較による派閥争いさえもが / 世界史上で繰り返されてきたのではないでしょうか?
 ☆ 実際問題として おっしゃるとおりですよね。
 ただ 哲学としては その現実性を受けとめつつも なおも定義と理論において処理――交通整理――をすることを基本とすると思われるのです。 
 たとえば
 ★ 派閥争い
 ☆ この対立としての状態や過程が 理論的に避け得ないことかどうかを判断してから対処すると思うのです。どういう集団における何の対立関係であるのか?
 ★ 相対的な信仰対象の比較による
 ☆ ですね。こう考えるならば じつは・ところが
 (1) 信仰の対象は けっきょく非対象でしかない。表象し得ないのだから。

 (2) つまり《信仰に対象がある。しかも 相対的な・経験事象としての対象を持つ》と言うのは したがって 自己矛盾だとなります。神が 観念の・偶像としての神に成り下がります。

 (3) なぜ 何が そんな自己矛盾を来たしているのか?――個人の信仰が 個人を超えた集団ないしその集団の指導者によって規定され信仰の内容や保ち方についても規定され左右されるとすれば その集団組織は 信教・良心の自由を侵しているとの疑いがかけられます。

 (4) つまりは 初めの《派閥争い》は 組織宗教の組織宗教たるゆえんにこそ 起こることであり 信仰という立ち場から言えば その自由を踏みにじる社会行為であるとなると考えます。

 ☆ このような(1)から(4)までの事態を起こす原因は 次に求められています。
 ★ 救済を求めている信者達の多くは、救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。

 (5) 《信者たち》という規定からしてすでに《個人信仰》がそれを扱う場として《信仰する者たちの集まり》という場に移っています。

 (6) あらためて 神がひとりの人間に信仰として持たれるそのきっかけをふり返るなら それは この経験世界を超えて《人間の能力によって分かるか分からないかが分からないナゾの領域》を想定するところからです。

 (7) ただし実際には わざわざ想定をする必要もなくわたしたちはすでに社会に暮らしていて そこではコトバとして《神》や《信じる》という語を使うという習慣の中にいます。すでにそこから出発しています。

 (8) つまり このような人間的自然および社会的慣習としての《ことば》なる与件を持っているので そのとき《わたしは神を信じる》とか《わたしは無い神を信じる(つまり 無神論者である)》というどちらかひとつを選択すれば済むことになっています。

 (9) どうしても決断が出来ない場合には その猶予も与えられているわけですが このような事情にあるとき じつはコトはきわめて単純であって この《神(ないし無い神)を信じる》と言ったそのことで 《救済》は済んでいます。

 (10) コトが済んでいると言っても たしかに問題が残らないという意味ではなく しかもその《救済》の不確かさは すべて一人の人の主観(それは 人生として動態)の範囲内におさまり 主観にすべてがゆだねられます。

 (11) そのあとなのです。そのあと
 ★ 救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。
 ☆ という事態が生じると考えられます。《救済の具体的な根拠の明示を 無自覚の裡に求める》というなら それは主には組織宗教のからむ問題です。個人としてその種の本や講演を求めたとすれば 必ずしも組織の問題ではないわけですが 
 ★ 救済を求めている信者達の多くは、
 ☆ ということであれば 集団がからみます。

 (12) ひどっちさん(回答No.5)の見るところによれば 考えるに対して 信じるを愚かなことと現代人は見なしていると言います。とすれば そうであるのに 《個人として〈信じる〉という決断ができず しかも その決断を組織の中に入っておのれの外(他者)から〈救済〉の渇望のもとに迫られることによって下すかたちを取る》というようなことになっているようです。つまり
 ★ 救済を求めている信者達の多くは、救済の具体的な根拠の明示を無自覚の裡に求めてしまいやすいのだろう、と思われます。

 (13) じつは基本的には 《根拠》はないわけです。分かるか分からないかが分からないナゾについて根拠は 明らかではありません。ゆえに《わたしは 神を(ないし 無い神を)信じる》とひとこと公言すれば そこで信仰は成立し 理論上《すくい》も成ったとなります。

 (14) この定義および理論を言わば踏みにじって そこから別の世界に抜け出てしまってのように 別の《すくい》を求める。根拠は分かり得ないのにそれが明示された信仰が欲しいなどという事態が繰り広げられている。《愛》なら《愛》 教祖なら教祖といった観念や姿を或る種の根拠として 信仰とそれによる救いが得られたと思うのかも知れません。――勘違いです。
 こう見ます。
 このような事態について 分析のメスを入れておられる。

 こう受け取ります。どうでしょう?

投稿日時 - 2011-08-20 15:50:53

ANo.8

 #7
 いいえ、私はbragelonneさんの哲学を哲学ではないとは申し上げていません。
 私の志向する界と方法と目的が違うということに過ぎません。
 ですからbragelonneさんがお前のは哲学ではない、というようなことに繋がるお話はなさらないで欲しいと存じます。無論、bragelonneさんがそういうことを仰せになっているという事ではりません。
 ただ、ブロックを解除してくれ、多少とも私も関心を持っている言葉や文章内容がありましたので、かみ合った議論はできませんが、私のやっていることをご参考までに投稿させていただきました。
 今後bragelonneさんのコメントなどに添うことの出来るものを何とか投稿したいと存じているのです。
 また、いろんなご回答から私も勉強させていただきたく、ご挨拶のつもりでした。

投稿日時 - 2011-08-20 10:09:10

補足

 よく分かりませんが――という意味は こういった質疑応答においてふつうに前提されていることを確認されているだけのように思われるのでですが―― もし回答No.7のような文章がふたたびありましたら それに対するお礼欄と同じ応答を繰り返します。

投稿日時 - 2011-08-20 14:50:10

お礼

 これから朝食を取って 図書館へ本を返しに行かねばなりません。
 しばしの時間のご容赦を。

投稿日時 - 2011-08-20 10:15:50

ANo.7

 #4お分かりになっていると存じますが。#4で“私は哲学としては回答できません。”において哲学というタームで、標示している内容は、bragelonneさんの方法と目的での哲学です。
 このことは書かないでおきたかったが、やはり戴いたコメントに対しての応答は必要と存じまして、敢えて書くことに致しました。あしからずお許し下さい。

投稿日時 - 2011-08-20 08:14:46

お礼

 つづいてです。

 ★ bragelonneさんの方法と目的での哲学
 ☆ これはつまり 誰か特定の人間の哲学が問われるということは ほんとうには ないでしょう。

 ○ 誰だれの方法と目的での哲学

 ☆ これはむしろ 一人ひとり誰もが持っています。
 そして誰もが発展途上にありますが その中で割り合いはっきりしている場合とそうでない場合とがある。こういうことだと思われます。

 いづれにしましても《特定の誰だれさんの方法と目的での哲学》を仮りにもし異端であるとか例外だとか特殊なものとしてあつかうのであれば そのこと自体で哲学が自殺しようとしていることになりましょう。
 もしその理由をきちんと述べたとしても やっと自殺を押しとどめているだけの状態でありましょう。
 表現の自由を侵すうたがいがかけられますから。そして 言わば――ほんとうはそんなことはあり得ないのですが――哲学外の社会力学上の力が加えられるというような事態です。

 これは 哲学の放棄です。哲学を放棄した上で 外からこれこそが哲学だと口を挟むようなものです。

 おそらくこれもそれも 《神にかんする勘違い》から発している大きな問題だと考えられます。どうでしょう。

投稿日時 - 2011-08-20 08:48:19

ANo.6

 ANo.4です。
 コメントを拝読しました。ご参考までに私の現状を披露申し上げましたが、コメントにそったことがまとまりましたら、また投稿させていただきます。

投稿日時 - 2011-08-20 06:27:54

お礼

 ご投稿をありがとうございます。

 分かりました。了解しました。

 なお前回において 賛同いただきました事項についてはなおきびしく問い続ける姿勢とともにありがたく受けとめています。

投稿日時 - 2011-08-20 08:10:43

ANo.4

 愛とは愛させること
という貴方のご質問に回答しようとしましたが、その当時は未だブロックされていました。

 今回、私には問題性のないことにですがブロックを解除されています。有り難う御座います。
 やはり貴方の哲学としてのご質問に、私は哲学としては回答できません。

A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?
 krya1998⇒だから行と信仰の中で、神の意識という自分を経験する精進をしております。

 A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?
  krya1998⇒私たちの会では、神のメッセンジャーであるということで神ではない。
        それも外部の声や存在としてではなく、真の自己の声としてです。

B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?
 krya1998⇒その限りで終始はできないですね。

 B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?
  krya1998⇒教義は私どもにはないんです。

 B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?
  krya1998⇒《宗教を信じる》って何かの問題もありますね。

 B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?
  krya1998⇒観念の中には画けないですね。

 C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?
  krya1998⇒これも無理ですね。
 
 C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?
  krya1998⇒その教団と信徒さんが満足なら結構でしょう。目指す一つの星をさしているんでしょうか。

 D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?
 krya1998⇒正に人の過ちですね。

 D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。
 krya1998⇒まことに仰せのとおりですね。

 E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?
 krya1998⇒仰せのとおりですね。

投稿日時 - 2011-08-19 16:47:44

お礼

 ★ やはり貴方の哲学としてのご質問に、私は哲学としては回答できません。
 ☆ これは 大きな問題です。

 ★ だから行と信仰の中で、神の意識という自分を経験する精進をしております。
 ☆ この《神の意識という自分》という表現がどういうことを意味するのか 哲学として説明しないからには 対話はかなわないと思われます。
 ご主観の内でいくらとうとき内容の修行をしているとしてもです。

 ★ ~~~~
 C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?

  krya1998⇒その教団と信徒さんが満足なら結構でしょう。目指す一つの星をさしているんでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ 《神はこれこれだと 一人のひとがその主観の内で 決める》ことは その内容の是非や当否を別として 自由です。(良心・信教の自由)。
 《神はこれこれだと 一人の人間が 他の人間に伝える》ことも 自由です。(表現の自由)。
 現在において《宗教の組織をつくる》ことも 自由です。(結社の自由)。
 ただし《教団》の内で――その組織に従わねばならないという規則のもとに――《神はこれこれだと決める》のは 無条件に自由だとは言えないはずです。初めの《信教・良心の自由》を侵すおそれがあります。
 教団やそこにおける地位の高い者が 勝手に独りごとを言うというかたちで《神はこれこれだ》とつぶやく程度まででしょう ゆるされるのは。けれども そのような《独りごとによるつぶやき》が いわゆるクウキとなって けっきょくそれに従いそれを守ることが掟となって行ってしまう。このおそれが ありましょう。

 こんな問題点を問い求めたいという質問です。

投稿日時 - 2011-08-19 21:57:33

救済を経験したがる不純な動機によって、
信仰心が成り立ちやすいからなのではないでしょうか?

投稿日時 - 2011-08-19 12:52:29

お礼

 ばっふぁろう&ぢぇいてぃーぴーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 神にしても信仰にしても一般に軽く見ている。自分の救いについては重く見ていても そのときその場で《すくわれた》と感じたなら あとは軽く見ている。
 こんな感じでしょうか?

 そうですね。
 ★ 信仰心が成り立ちやすい
 ☆ 成り立ったと思うのなら それでよいとさえわたしは思うこともあったりします。

 条件として:
 1. 何のマ(間合い)の違いも何の憂えも疑いもなく――ただし神への信仰として これでよいのかというきよらかなおそれは保ちつつ――神をいだいている。
 
 2. ほかの名前の神あるいは無神論という信仰の無神に対して排除せず すべて受け容れる――ただし 勘違いがあると捉えたなら互いにつねに自由に指摘する〔ことまでは 指摘しておく〕――。

 3. 一時的な成り立ちではなく あとで思いや信仰を変えるのなら それは神の名前が変わっただけだというような信仰の形態にまで深まっている。

 4. 組織宗教は 基本的におかしいと考えるが 仮りに一時的にでも組織にいるとしたら とにもかくにも 教団の思いや命令によって信仰が左右されるものではないということ。




 もしこういう条件を満たすなら 案外 人びとの《すくい》を求める心は 純粋だと思うところがあります。あるいは その条件を満たそうとしているなら と言いかえてもよいと思います。
 どうでしょう?


 * 言いかえると 上に挙げた条件は 一たん信仰心が成ったと思ったあとに 吟味してみるというかたちでよいかと考えます。初めから門を狭めないといったところでしょうか。

投稿日時 - 2011-08-19 13:38:20

ANo.2

はっきりいって、暑苦しい質問ですなあ。

「こうなって然るべきなのに、現実はそうではない。それは何故か」
そうあなたは問うわけだけど。
いやみな回答ではないけれど、「別に世の中の人みんながあなたのような人ではないから」っていうことではありませんか。
ごくごく単純に。

あなたは「信教の自由」という言葉を誤用しているようだけど、あなたの領域Xとわたしの領域Xはそもそも定義上重ならないんだし、その点さえ認められれば、言葉の本来の意味でお互いに何をするのも没交渉。それでいいじゃありませんか。あなたはあなたの神を信じているようだしね。

投稿日時 - 2011-08-18 20:24:50

お礼

 ★ 「別に世の中の人みんながあなたのような人ではないから」っていうことではありませんか。
 ☆ という見解は 何にでも当てはまりましょう。

 ★ あなたは「信教の自由」という言葉を誤用しているようだけど、
 ☆ どの点で?

 ★ あなたの領域Xとわたしの領域Xはそもそも定義上重ならないんだし、
 ☆ 名前としては ですね。定義においては 同じものです。

 ★ その点さえ認められれば、
 ☆ 暑苦しいとも言っていられないでしょうね。

 ★ 言葉の本来の意味でお互いに何をするのも没交渉。
 ☆ と言いたいのでしょうか? 言わなくてもすでに そうだったのをわざわざ言うということは よほど趣旨説明に納得なさいましたね。

 ★ それでいいじゃありませんか。
 ☆ とお応えしておきますが その内実は 互いにイスカの嘴のようでしょうか。

 ★ あなたはあなたの神を信じているようだしね。
 ☆ たぶん趣旨説明では そういう点については触れていませんが 推測なさったのでしょうか? 質問はそのあと どのようなご見解であるか これを問うています。

投稿日時 - 2011-08-19 01:32:26

ANo.1

ンで質問は。。。。。

暑いんだから余り難しいこと言わないの・・・・・・・

                爺の独り言より

投稿日時 - 2011-08-18 19:14:28

お礼

 第一行と第二行とは それぞれの内容が矛盾しているように受け取りました。

投稿日時 - 2011-08-19 01:23:02

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