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解決済みの質問

イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。

 (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。

 (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。

 (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。

 (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。

 (7) この虚構のからくりは 次のようである。

  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。

 
 この哲学を問います。よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2011-09-20 17:36:02

QNo.7023399

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質問者が選んだベストアンサー

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> ☆ こうなりますと 見方がふたつに分かれるのかも知れません。
 ○ 片や 「自分を裏切らない」という困難性を捉えるばあい。そして片や 誠心誠意のことばを発したはずが 覚えずみづからがみづからを裏切ってしまったことにおいて 言わばお手上げとなってむしろ おふざけとも呼ぶべき振る舞いであったと見るばあい。

 了解致しました。

> ☆ わたしには 後者のばあいも キリスト・イエスにつながっていると見えます。ふところに抱かれているとさえ見えます。その情況といったことを問うてみたかったです。

 誠に申し訳ございません。“虚偽の”キリスト・イエスということなのでしょうか?
 愚見を申しますと、「自分を裏切らない」と思いつつも、現実は必ずしもそうはいかない。そう考えましたときに、ただただ、神のふところに抱かれるしかない、と非力な愚生は考えております。

> ★ ~~~~
 ただ、一つだけ、気になるところがございます。それは、贖罪の問題でございます。以下に考えられうるものを列記してございます。
 ~~~~~~~~
☆ けっきょくこの主題についても イエスの出現するまでの旧約の時代に 大いなる虚構をあてはめて 原罪とそのあがないを捉えることにならないでしょうか?

  “原罪とそのあがないを虚構”としてしまいますと、神学が成り立つのかどうかの疑問が沸いてきてしまいます。
 そして、(皇帝ネロ当事)幾多の殉教者を出したときのリーダー的存在でもあるパウロは、冷酷な独裁者になってしまうと思うのですが、いかがでしょうか。
 仮に幻想であったと致しましても、贖罪がなされたという錯覚を信徒達に与え、人間としての希望を与えた功績は認められるかもしれません。しかしそれにしましては、犠牲者の数が多すぎると思われます。
 減らず口をたたいてしまいまして、誠に申し訳ございません。

> そのばあい イエスよりあとの世界史は 存在論にとってのひとつの基礎として 依然としてわが心のへそを曲げ得てあやまち得るところの自由意志を持ちつつ その自由意志に対する養育係としての倫理規範である律法が その枠組みとしては取り払われた(つまり 原罪があがなわれたゆえ)というあたらしい舞台の上に繰り広げられることとなった。こう見ます。

 たとえ、でっち上げであったと致しましても、上述ことは成立するものと考えられます。

> 原罪がちゃらになったということの周知徹底が たとえばこのニ千年のあいだおこなわれた。という見方にみちびかれると考えます。民主制のグローバル化が すすめられたという内容とほぼ同じですが。

 お恥ずかしながら、贖罪思想につきましては、あまり明るくはないのですが、原罪がちゃらになったと、人々がそう思えるようになったとき、新天地を築こうと考えたのは、理にかなっていると考えられます。

> ちょっと飛躍しているかも分かりません。

 いえいえ。この度のbragelonne様の円月殺法には、ただただ愚生はクラクラしてはおりますが・・・

> 原罪がことさら持たれず意識されなかった時代ないし地域においては おそらく倫理規範の有無・その有効性いかんが 問題となって来たのだと見ます。言いかえると 自由意志の可謬性のもんだい つまりは 意志の自由選択においてみづからが答責性をおびるという現実が問われているものと考えます。

 意見を等しく致します。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-28 21:11:24

お礼

 ★ ~~~
 > ちょっと飛躍しているかも分かりません。

 いえいえ。この度のbragelonne様の円月殺法には、ただただ愚生はクラクラしてはおりますが・・・
 ~~~~~
 ☆ そうですか。考えてみれば そういう方向をも視野に入れて思考実験をしてみたものです。
 
 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 イエスからあとの時代そしてあるいはクリスチアニズムが 社会のならわし(文明)として持たれなかった地域 これらの時代と地域にかんして イエス・キリストあるいはいま 原罪の問題は どう扱われるか? こういう問いの立て方です。
 言いかえると クリスチアニズムの陣地にそのような言ってみれば《異邦人》を招き入れるというかたちではなく 異邦人のそのままの世界にこちらが入って行って どう話を説き起こすか? こういう問い求めの仕方です。

 すなわちたとえば イエスが出たからには 原罪はすでにあがなわれています。しかもじつは そのあと宣教のつとめが果たされたのではあるのですが もはやイエスの神を人びとにおしえることはないと書かれてもいます。

 ▲ (ヘブル 書8:7-13) ~~~

    ・・・
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミア書 31:31-34)

 →【Q:ヘブル書に引くエレミア書の《新しい契約》とは?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3807611.html
 ~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ですから 要するに現代日本人にとっては
 ★ 原罪がちゃらになったと、人々がそう思えるようになったとき、新天地を築こうと考えたのは、理にかなっていると考えられます。
 ☆ という状態になっていると考えられるのです。一たん 原罪(ないしおのれの自由意志のあやまちが 言わば取り返しのつかないほどのあやまちだという規律性の自覚)の問題に注目する必要があるようには思えますが そのあとは アダムから第二のアダムまでの原罪や律法の問題がもうなかったかのように振る舞う。そう振る舞ってもよいと 上のヘブル書は 基本的に言っていると思えるのです。


 ★ ~~~~
 “虚偽の”キリスト・イエスということなのでしょうか?
 愚見を申しますと、「自分を裏切らない」と思いつつも、現実は必ずしもそうはいかない。そう考えましたときに、ただただ、神のふところに抱かれるしかない、と非力な愚生は考えております。
 ~~~~~~
 ☆ 究極の言い方をしますと 神が・そしてイエスもキリストとして 当時のユダヤ人たちに反発を呼び起こし 弟子たちにも裏切るという行為をさせた。こういう見方です。
 弟子たちも イエスがキリストつまり神であるということが分かっていなかった。その限りで イエスに最後までしたがうと言っていたとしても その力はあたえられていなかった。つまり 裏切った。
 《わたしを見る者は 父つまり神を見る》とイエスが言っても 弟子たちすら そのことが分からなかった。つまり《虚偽のキリスト・イエス》だと思っていた。(意識としては そうではなかったはずですが)。
 すなわち
 ★ 「自分を裏切らない」と思いつつも、現実は必ずしもそうはいかない。
 ☆ という事態を神なるキリストに対する場合として捉えるならということです。この場合はです。
 
 キリストのことが分からなかったのだ。裏切らないと言っていたとしても キリストのことが分からなかったその状態では 裏切る・裏切らないということの内容をほんとうには知らなかった。知りようがなかった。分からなかったからこそ 去って行ったあと キリストであったと分かった。のだと。
 視点が 一段高められた。のではないでしょうか?

 生前のイエスは ウソだった。あるいは ウソであってもよいほどだ。という地点に 死後には 立たされた。


 ★  “原罪とそのあがないを虚構”としてしまいますと、神学が成り立つのかどうかの疑問が沸いてきてしまいます。
 ☆ 神学がウソであってもかまわないという地点に 弟子たちは・そしてパウロも またわれわれ神の子らとされた者たちも 立たされているのではないでしょうか?


 ★ そして、(皇帝ネロ当事)幾多の殉教者を出したときのリーダー的存在でもあるパウロは、冷酷な独裁者になってしまうと思うのですが、いかがでしょうか。
 ☆ といった話が起こされるようなことが 歴史に実際に起こったのですが。つまりこれが イエスのあとの時代にも起こったのですが たとえばこのイエスのあとのニ千年 この時間というのは 時間差がはたらいたというごとく イエス・キリストの出現についての人びとの心の整理に当てられたのかも知れません。エレミヤの預言によれば イエスの去ったあとただちに このイエス後のニ千年という今の世界の状態になってもよかった。

 そんな想像の国での思考実験ですが いかがでしょう?

投稿日時 - 2011-09-28 23:57:14

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回答(14)

ANo.13

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> この質問は 根はまじめですが どこかふざけています。
 聖書をふざけて捉えることしかしない人びとも大勢いますから そのような場合に合わせた問い求めの仕方になります。


 はい。根本的なところは極めて真剣なものと拝察しております。


> でも ペテロにしたところで けっこうふざけていませんか? 自分の言葉を裏切ってしまうわけですから。


 自分の言葉を裏切る、確かにそのように考えられます。では「自分を裏切らない」という困難性は、おそらく誰もが実感しているものとも思えるのですが、いかがでしょうか。

> しかもこのように見る見方は イエスが十字架上に去って行ってしまうまでは 弟子たちにさえも あたかも目隠しの魔法がかけられていて イエスがキリスト(神の子であり神)であるとは分からないようにされていたといった冗談話をもみちびくかと思います。


 福音書を読む限りにおきましては、仰られるとおりかと存じます。飛躍ではないものと考えられます。


> ☆ 去らなければ パラクレートでしたかその聖霊は この世につまり弟子たちを初めとする人びとという人びとに送られて来ないのだと。


これは、一般論でございますが、“殉教者”の存在というのは大きい影響をもたらすことは事実かと考えております。
 では、ゴルゴダの丘での処刑がなければ、どうなっていたか? さらには、いき続けていたならばどうなっていたか? もちろん、答えはわかりません。ですが、断定は出来かねますが、人類史上最大の特異点とはおそらくなりえなかったかと思われます。

 
> ですから イエスは 自分が神であるとウソをつかなければならなかった。その虚構が 虚構こそが じんるいのための聖霊のたまものをよみがえらせた。ウソこそが 現実に人びとの心の燈心に火をともすことになった。
 

 この問題につきましては、参考とするものがないため、何とも申し上げられない、というのが実情でございます。
 ただ、一つだけ、気になるところがございます。それは、贖罪の問題でございます。以下に考えられうるものを列記してございます。

・そもそも原罪というものがなかった
・原罪はあったかもしれないが、これらのペテンにより、贖罪されたと、嘘を吹き込んだ
・原罪はあったかもしれないが、理由はわからいなが、とにかく許されることとなった


 最後まで、お読みくださいまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-27 22:05:41

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
  > でも ペテロにしたところで けっこうふざけていませんか? 自分の言葉を裏切ってしまうわけですから。


 自分の言葉を裏切る、確かにそのように考えられます。では「自分を裏切らない」という困難性は、おそらく誰もが実感しているものとも思えるのですが、いかがでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ こうなりますと 見方がふたつに分かれるのかも知れません。
 ○ 片や 「自分を裏切らない」という困難性を捉えるばあい。そして片や 誠心誠意のことばを発したはずが 覚えずみづからがみづからを裏切ってしまったことにおいて 言わばお手上げとなってむしろ おふざけとも呼ぶべき振る舞いであったと見るばあい。

 ☆ わたしには 後者のばあいも キリスト・イエスにつながっていると見えます。ふところに抱かれているとさえ見えます。その情況といったことを問うてみたかったです。


 ★ ~~~~
 ただ、一つだけ、気になるところがございます。それは、贖罪の問題でございます。以下に考えられうるものを列記してございます。

 ・そもそも原罪というものがなかった
 ・原罪はあったかもしれないが、これらのペテンにより、贖罪されたと、嘘を吹き込んだ
 ・原罪はあったかもしれないが、理由はわからいなが、とにかく許されることとなった

 ~~~~~~~~
 ☆ けっきょくこの主題についても イエスの出現するまでの旧約の時代に 大いなる虚構をあてはめて 原罪とそのあがないを捉えることにならないでしょうか?
 そのばあい イエスよりあとの世界史は 存在論にとってのひとつの基礎として 依然としてわが心のへそを曲げ得てあやまち得るところの自由意志を持ちつつ その自由意志に対する養育係としての倫理規範である律法が その枠組みとしては取り払われた(つまり 原罪があがなわれたゆえ)というあたらしい舞台の上に繰り広げられることとなった。こう見ます。

 原罪がちゃらになったということの周知徹底が たとえばこのニ千年のあいだおこなわれた。という見方にみちびかれると考えます。民主制のグローバル化が すすめられたという内容とほぼ同じですが。

 ちょっと飛躍しているかも分かりません。

 * 原罪がことさら持たれず意識されなかった時代ないし地域においては おそらく倫理規範の有無・その有効性いかんが 問題となって来たのだと見ます。言いかえると 自由意志の可謬性のもんだい つまりは 意志の自由選択においてみづからが答責性をおびるという現実が問われているものと考えます。
 原罪は要らないと言えば要らないということでしょうが それに代えるに 自由意志とその答責性については――人間の社会的交通の理論および現実にとって 先ほどの民主制のグローバル化と同じように―― 普遍的な人間性(自然本性)にそなわるものとして自覚される必要があったのだと見られます。

 質問者から 反応のままに書き込んでしまう結果となりました。割り引いて捉えておいてくださればさいわいです。

投稿日時 - 2011-09-27 23:14:05

ANo.12

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。

> そうですね。この質問の趣旨は たとえ歴史的イエスが実在しなかったとしても つまりは従ってまったくの虚構であったとしても その哲学的な内容がわれわれにうったえるものがある。こう見ようとしています。

 了解致しました。

> 実在についての論議としては おそらく次のようなひとつの結論が得られているのだとは思われます。

 まず、下記の内容に示しております、3つの共通事項の確認が得られましたこと、幸甚に存じます。

・イエスという名の人物はいた(しかし、福音書の記載内容が史実を伝えているかどうかは不透明)
・パウロは実在した
・イエスなる人物に弟子たちがおり、その中で、ペテロ、ヨハネは実在した
 
> それでも 話は成り立つ。ということを問うています。
 どうでしょう?

 了解致しました。

 ただ、聖書を読みますと、そのリアル感には圧倒されます。たとえ、でっちあげ、であったとしてもです。そこでまず、記載内容から、引用したいと思います。
 (実在した)ペテロは、弟子の中心的人物でございましたが、実を申しますと、決して有能な弟子とは見受けられません。確かにでたらめかもしれません。具体例を以下に述べさせていただきます。

 ペトロが、「たとえ、みんながあなた[イエス]につまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った、にもかかわらず(マタイ26:33)、
 そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言ったとき、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言い、また、ほかの女中が彼に目を留め、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言ったときにも、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消しました。 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めました。するとすぐ、鶏が鳴いた訳でございます。(マタイ26:69-74)

 もし、本来ですと、ペテロは「いや、わたしがそのナザレのものだ!」と言い放ち、自らがその盾となるべきかだったかと思われます。
 しかし、この一連の場面は、少なくとも愚生には、次の言葉により、背筋を凍らせ、金縛りへと導きます。「だったら、ひどっち君、君ならそうできるんだよね」。
 ただただ、自己の非力さに絶望させられる次第でございます。かような愚生にも生きる資格があるとするならば、それは・・・と考えてしまいます。 

 以上その一例を見てきましたが、聖書の記述は極めてリアル感に満ちております。もし、これらの場面がたとえ捏ち上げであったとしましても、人々を引きつける何かを持っているものと考えております。もし捏造でしたら、聖書記述家は非常に想像力豊かであったかと推察できるものと考えれます。

 そこで、「それでも 話は成り立つか?」の問いかけにつきましては、成り立ってしまう、というのが愚見でございます。

 最後まで、お読みくださいまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-26 21:46:39

お礼

 いわば思考実験でしょうか この質問は。

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。

 この質問は 根はまじめですが どこかふざけています。
 聖書をふざけて捉えることしかしない人びとも大勢いますから そのような場合に合わせた問い求めの仕方になります。

 でも ペテロにしたところで けっこうふざけていませんか? 自分の言葉を裏切ってしまうわけですから。
 しかもこのように見る見方は イエスが十字架上に去って行ってしまうまでは 弟子たちにさえも あたかも目隠しの魔法がかけられていて イエスがキリスト(神の子であり神)であるとは分からないようにされていたといった冗談話をもみちびくかと思います。

 ▲ (出エジプト記33章) ~~~
 21: 更に、主は言われた。
   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。
 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 去らなければ パラクレートでしたかその聖霊は この世につまり弟子たちを初めとする人びとという人びとに送られて来ないのだと。
 
 ですから イエスは 自分が神であるとウソをつかなければならなかった。その虚構が 虚構こそが じんるいのための聖霊のたまものをよみがえらせた。ウソこそが 現実に人びとの心の燈心に火をともすことになった。
 このウソを本当だとは決して見ることが出来ず信じることができなかった(あるいは 信じることができないように魔法がかけられていた)人間の非力さが 十字架上の特異点につうじて聖霊のちからをあたえられることになるという方程式。
 恩恵は ただですから。ただ(無料)という言葉が 恩恵・めぐみということですから。

 このように考えます。いかがでしょう?

投稿日時 - 2011-09-26 23:31:58

ANo.11

母さんが夜鍋をして編んでくれたのは手袋ですが、
クリスチャンがおしゃれをして編んでるのは、
史上稀にみるペテン師の物語だったのですね。
今晩は。麦酒の季節が去ってやや感傷的なtaco8chです。

ところでその織物はそろそろほころびも酷いようだし、
第一デザインが陳腐で着れないんじゃないのかい?
なんたって肝心のクリスチャンが、
モエモエのレディメイド志向なんですものご主人様。
作者はとうの昔に死んだけど読者も死んだら、
このまま着られることも朽ちることもなく
百貨店の洋服売り場に埃と一緒にお蔵入りだねきっと。

昨今はカジュアル服でもメイドインチャイナだから、
安上がりでしかもそこそこ流行に即応してるし、
リサイクルで編み直しもするんだよ。試しに発注してみたら?
あ、そうそう、ところでわが国にも数十年前まで、
朕は神であるとのたもうた人がいたらしいよ。
もっとも彼の場合はカミングアウトしちゃったけど。あは。

投稿日時 - 2011-09-23 23:35:29

お礼

 taco8ch さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 史上稀にみるペテン師の物語だったのですね。
 ☆ ですから 《稀にみる》かどうか その《稀》の度合いが問題だということでしょう。

 ☆☆ (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。
 ☆ というように《最大》というと まだ 語弊がありましたが
 ☆☆ (ι)・・・世界史上ただひとつの特異点・・・
 ☆ というように《ただひとつ》と言えばよいし 言うべきでした。


 ★ ~~~~~
 あ、そうそう、ところでわが国にも数十年前まで、
 朕は神であるとのたもうた人がいたらしいよ。
 もっとも彼の場合はカミングアウトしちゃったけど。あは。
 ~~~~~~~
 ☆ 同じ類型であるのですが――《現人神》は 《わたしは神である》と言うことですから 同じ類型であるのですが―― その類型を誰が支持したかで またその大ウソのあり方が違って来ます。カミングアウトの問題ではありません。
 
 ひとつにイエスの場合は 生前にはいくら神の子であり神であると言っても 弟子たちを初めとして人間は分からなかった。うたがったというよりも そんなことは分からなかった。十字架上に去ったあと やっと分かった。
 つまりは 顔と顔を合わせて神を見ることは出来ない相談だから イエスを見ていても分からなかった。去ったあと わづかにイエスの背面を 神の子であり神であるキリストとして見ることが出来た。

 ひとつに 現人神の場合には 人びとは それを信じたふりをしていただけ。うたがうというよりも そんなことはあり得ないと初めから思っていた。だから 人間宣言と言われているけれど そのような内容は ほんとうには表わされていない。もともと 表現のあやが大々的におこなわれ それとして推移したのみ。
  【Q:昭和天皇による《人間宣言》は何を語っているのか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5915762.html



 ★ ~~~~
 ところでその織物はそろそろほころびも酷いようだし、
 第一デザインが陳腐で着れないんじゃないのかい?
 ~~~~~~
 ☆ たとえば どの箇所で《ほころびが酷いよう》ですか?
 《陳腐なデザイン》とはどういうところを言うのでしょう?

 《着る・着れる》というよりは 《わが心の闇を照らし出した》だけではなく 《わが心の燈心に火をともした》という表現で伝えています。
 なかなか 捨てきれまいということではなかろうか。


 ★ ~~~~
 昨今はカジュアル服でもメイドインチャイナだから、
 安上がりでしかもそこそこ流行に即応してるし、
 リサイクルで編み直しもするんだよ。試しに発注してみたら?
 ~~~~~~
 ☆ これを言う意味が分からない。聖書の普及版がいくらでも欲しいと言いたい?
 そもそもその発想が ちゃちである。
 心の燈心に火がともされたなら それは 一生に一度なのだから リサイクルなどという発想が おかしい。

 麦酒の飲み過ぎぢゃないの? 

投稿日時 - 2011-09-24 00:15:42

ANo.10

 こんばんは、ひどっち でございます。

 突然の参入の非礼、深くお詫び申し上げます。

 仰られますように、主イエス実在の一次試料はないと、されております。
 ですが、以下に二次試料と思われるものを挙げさせていただきました。

ヨセフスのキリスト証言
http://www.sevenz.com/sevenZ/religion/josephe.html 

 また、今日におきまして、考古学・聖書学上その実在が確実視されているものも列記させてもらっております。

新約聖書に登場する実在人物
・パウロ(ロマ書は西暦50年代後半とされています。ガテラヤ書もほぼ同時期とされています。なお、福音書の成立よりも古いとされています)。殉教したといわれています。
・12弟子ペテロ(パウロの書簡にその記述が認められるとされています)。殉教したといわれています。
・12弟子ヨハネ(パウロの書簡にその記述が認められます)。処刑を免れたといわれています。

 また、一方では

皇帝ネロ(西暦37-68)
西暦64年 イエスの死後約30年後には、キリスト教徒の大迫害が実施されたことから、既にこの当時に相当数の教徒がいたことが推察されます。

 では、何故多くの信者が、殉教までしたのか? この問いにつきましては、おそらく、イエスのような人物(とりあえずそう呼ばせていただきます)がいたことを示唆しているものと考えられます。

 今回は、確実視されている知見のみを列記させていただきました。つまり、(6)に対します回答のみとなっております。


 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2011-09-22 22:30:06

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。この質問の趣旨は たとえ歴史的イエスが実在しなかったとしても つまりは従ってまったくの虚構であったとしても その哲学的な内容がわれわれにうったえるものがある。こう見ようとしています。

 実在についての論議としては おそらく次のようなひとつの結論が得られているのだとは思われます。

 ▲ (ヨセフスのキリスト証言) ~~~
 では本当にイエスは実在したのだろうか。 
 たとえヨセフスのキリスト証言の殆どが書き換えられているとしても、最初からそのテキストが存在しなかったとは考えづらい。
 つまりなんらかのイエスについての記述があったのは間違いないだろう。
 とすればイエスは実在したのだろう。
 しかしキリスト教会側の証言のようではなかった可能性はある。
 なにしろそれ以外は、このヨセフスの(真偽の疑わしい)証言しか残っていないのだから。
 ~~~~~~~~~

 そうして 次のようです。
 つまり パウロやペテロやそのほかの弟子たち あるいは その後ローマなどにおいて迫害に遭った《クリストに就く人たち》 これらに人びとが実際にいたし 歴史的事実でもあるといったことは それでも最大限に譲歩しようと思えば けっきょくパウロらが イエスという人物をでっち上げてその物語をつくったというところまで行くかと思います。

 つまりは ヨセフスの証言を合わせて捉えるなら ともかくイエスという名の人物はいた。ただしその歴史的な生涯の内容は 聖書に伝えられているところと同じかどうかは分からない。
 つまりは 最大限に譲歩しようと思えば 多少ともいわゆる宗教家として活躍したイエスなる人物がいて その人にかこつけて いまの聖書に記述される発言や行動をおこなったという物語をパウロらが編んだのだ。とここまで 縮約されるものと考えられます。

 それでも 話は成り立つ。ということを問うています。
 どうでしょう?

投稿日時 - 2011-09-23 00:10:44

ANo.9

ブースターです。
重大な誤解を発見しました。

★ それは信じてもいいんじゃないですか
 ☆ たずねていません。
 ちなみに そういう主題としてでしたら 信じるかどうかを人が調べてからその人間としての判断にもとづいて信じると決める そういうものではないというのが 質問者の見解です。信じることは 神からあたえられるという意味です。
 

主語が無いので文脈が誤解されていますが。
>それは信じてもいいんじゃないですか
これは、そんなイエスさんを私は信じるよ。
こんな意味です。
そこからあなたも信じ抜いていいのではないですかと言う様な文脈です。

ああ、簡潔に述べるなら同じことか。
今回は駄文となりましたが、何かの役に立つかもしれないので投稿しておきます。

投稿日時 - 2011-09-22 21:59:29

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 お応えしやすいこちらのほうから お応えします。

 主語を 人間・わたしとしていましたよ。

 そしてそこで 厳密に言えば わたしが信じるということは その信仰があたえられることだという意味です。
 その意味では 信じていいんぢゃないかという主題としては まづそのようには問うてもいませんし こちらつまり人間のわたしが 信じていいかどうかを 先に考えたり判断したりすることではない。このように質問者としては 思っていますという意味です。

 ★ そこからあなたも信じ抜いていいのではないですかと言う様な文脈です。
 ☆ という命題を掲げるということでしたら それは《わたしが 信じるにあたいする神だと判断する》ことが先に来ていますね。
 質問者としては そうは考えていませんが どうでしょう? というお応えです。

投稿日時 - 2011-09-22 23:31:01

ANo.8

ブースターです。
逃げ出したくなるほどの難題なのですね。
聖書のあらすじは神が待望された社会にイエスと言う救世主が現れてそして死んだと言う事なんですか。

イエスの死をみとった人々は弱い人間であり彼を死に追いやった人々だ。
イエスは確かに神であった、彼らのその神を信じる行いが彼を死に追いやった。

そんな事を考えました。
それから神からすらも奪うしかない風土で、そこに忽然と神ですと名乗りを上げたなら偉い人だなーとは思います。
イエスさんはうそをつく必要があったと思います。

投稿日時 - 2011-09-22 21:27:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回は 表現だけだとしても 受け取り方によって微妙な内容が違って表わされるようなご回答だと思います。

 ★ 聖書のあらすじは神が待望された社会にイエスと言う救世主が現れてそして死んだと言う事なんですか。
 ☆ 旧約聖書の時代から待望されていたのは メシアと呼ばれる救世主と言えば救世主だと思います。
 それは・つまりメシアは もともと国王としてであったでしょうから 政治的なカリスマ これが待望されたということかも知れません。つまり 一般におそらく 神がではなかったのでしょう。

 ただし イエスがそのメシアとして現われたとき・もしくはその死後には それは神の子であり神であったと受け取られて行った。

 ★ イエスは確かに神であった、彼らのその神を信じる行いが彼を死に追いやった。
 ☆ これは イエスの死後にそう解釈されたと見れば 考える余地があるかも知れませんが 生前においては けっきょく誰ひとりとしてほんとうに神の子であり神であったと――弟子たちを含めて――思っていなかったはずです。
 すなわち メシアであっても 政治的な解放者 あるいは いわゆる偉い宗教家として受けとめられたようです。

 事情もしくは情況は このようだったと捉えます。

投稿日時 - 2011-09-22 23:48:05

ANo.7

ブースターです。
イエスさんは神の子と言われる位なのでそれくらい強く信じて、そしてきずなでつながっていたのだろうと考えていました。
おっしゃる通り神そのものなら、自らが神であるイエスさんの言葉をよく聞く事はいいことでしょう。
それは信じてもいいんじゃないですか

投稿日時 - 2011-09-22 12:32:56

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 いえ まちがえて捉えておられます。

 ★ おっしゃる通り神そのものなら、自らが神であるイエスさんの言葉をよく聞く事はいいことでしょう。
 ☆ まづこのように《イエスという人は――伝えられているところによるとですが―― 特にそれまでのユダヤの歴史において伝承されてきたメシアつまりキリストであるという言葉において 自分は神の子であり神であると言った》 このコトから話を始める必要があると考えます。
 (このコトを重要視しないし どうでもよいことだというのであれば 話はかみあわないことになります。その場合には かすかに話し合いの道が残るとすれば そのような見解において聖書の物語を 全部解釈し直してみせ 人びとにほんとうはこういうコトだったのだよと説明し得たというときでしょう)。

 つまり あらたな解釈にもとづく仮説が現われて来るまでは
 ★ 自らが神である〔* と言った〕イエスさん
 ☆ このコトが 話の出発点です。

 その出発点に立つばあい しかもこの質問では 質問者の解釈において問うています。大ウソをついたその虚構が もっとも重要な役割を果たしているのではないか? こういう問いです。言いかえると
 ★ イエスさんの言葉をよく聞く事はいいことでしょう。
 ☆ こういう見方は ここでは問うていません。かかわっていません。
 もしかかわっているということでしたら その理由を添えて説明してください。

 ここまで説明して来ましたように 次の観点や見解も ここではまったく話がかみあっていません。
 ★ イエスさんは神の子と言われる位なのでそれくらい強く信じて、そしてきずなでつながっていたのだろうと考えていました。
 ☆ 《神の子と言われる》ことは 二の次です。《と言われる》という部分は 二の次です。自分で言ったというそのコトから入ってくださいませんか?

 ★ そのくらい強く信じて
 ☆ われわれ(人間)が信じるということかと受け取りますが これもここでは ニの次の話です。人が信じる以前に イエス・キリストという物語つまり一大虚構が編まれたというコト これをどのように捉えるかを問うています。

 ★ そしてきずなでつながっていたのだろうと考えていました。
 ☆ きづなでつながる以前の段階において この虚構が哲学の主題であるということを問うています。


 ★ それは信じてもいいんじゃないですか
 ☆ たずねていません。
 ちなみに そういう主題としてでしたら 信じるかどうかを人が調べてからその人間としての判断にもとづいて信じると決める そういうものではないというのが 質問者の見解です。信じることは 神からあたえられるという意味です。
 

投稿日時 - 2011-09-22 13:39:49

ANo.6

A4です。
いやー聖書は真理を表していると言うのなら書いてある事は単純なのだろうと思っていましたがムヅカシイんですね。
失敗もしでかすかもしれませんが、挑戦してみます。
お騒がせするだけに終わるかもしれません。

A1、信じる事が心そのものだったのではないか。
少なくても私はそのような心です。

B1、信じる事が全てであり、信じ抜いたと公言するならば、その愛なり他者への思いやりなりは神のそれである。
錯覚だと言われるかもしれないが、私はそれでも正直で居られる。

C1,私の良くやるお釈迦様の検証が、史実をこねくり回すことであるのと同様に、イエスさんの検証も、他者を想定していて良く判らない。
一つだけ、恐らく私と共通するのは、、神を想定するか、他者を想定するかはともかく、彼は愛されている実感が有ったのでしょう。
そしてその感謝を、はるかかなたに手向けた。
そこに神を想定した。

ところで十字架を私にかざすのはおやめください。
私はもしかすると悪魔かもしれませんから。

投稿日時 - 2011-09-21 22:39:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ところで十字架を私にかざすのはおやめください。
 ☆ これは よく読みとれません。どのように言ったり振る舞ったりすることが 《十字架をかざす》ことになるのか。ちょっと見当がつきません。

 たぶん 寄せていただいた回答の内容について 質問者としての考えを述べること そのとき もしそうなら批判をもおこなうということ このことが 十字架をかざすというふうに受け取られるのでしょうか?

 ☆☆ (No.4お礼欄) ~~~
 ( a-1 ) 《愛》をめぐって 《心情》という言葉が出て来ています。《心情を打ち明ける》ということは ふつう一般には 人間の経験行為でしょう。そのことと《愛 もしくは 神の愛》とがどのようにかかわっているのか? これが知りたいところです。
 ~~~~~~~~~~~~~

 ★ A1、信じる事が心そのものだったのではないか。

 ☆ キリストは 神の子であり神であったとしるされています。次の《ことば》そして《ひかり》のことです。
 ▲ (No.3お礼欄) ~~~
 (ヨハネによる福音1:1~5) ~~~~
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは、はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。
 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうしますと キリスト・イエスは 人びとが心に受け容れて信じるその対象であるわけです。つまり 神です。

 神みづからが 神を《信じる》ということがあり得るとお考えでしょうか?
 ★ A1、信じる事が心そのものだったのではないか。
 ☆ 神に 時間的な行為がありましょうか? 時間的に考えたり信じたり 考えを変えたり信じなくなったり そういう行為がありえましょうか?
 そういう表現をとるときがあるかも知れませんが それはあくまで擬人法で表現しているからであるはずです。
 そういったところについて神の問題があると思います。神とは何か? です。

投稿日時 - 2011-09-21 23:01:09

こんにちは。

ようやく飲み込めました。ニーチェへのオマージュだったのですね。

なるほど。虚構なればこそ、歴史上の特異点として価値の逆転が起こり得た、と。

事実は小説より奇なり。
しかしまれに小説は事実さえも描き直してしまう。


すみません一歩も進めませんでした
m(_ _)m

投稿日時 - 2011-09-21 21:35:25

お礼

 いまんたるくすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 特異点で言おうとしたことは すべての因果関係から イエス・キリストの――そうですねぇ――意志は 自由である。といったところでしょうか。

 そのキリスト・イエスに――十字架上のその存在に――われわれもあやかろう。そうすれば 知恵と知識 知性と感性 すべての人間能力が活かされるであろうと。

 その点は
 ★ 価値の逆転が起こり得る
 ☆ ことに通じるのではないでしょうか?





 すみません。ニーチェは 好きではありません。
 たとえば 永劫回帰 こんな屁のような思惟や事態はあり得ません。ではないでしょうか?





 たしかに われわれで世界を
 ★ 描き直してしま
 ☆ いましょう。

投稿日時 - 2011-09-21 22:20:26

ANo.4

こんばんわ。
ポケモンのブースターとお呼びください。
ちなみに私は反省と言う事柄を理解していません。
常に前向きであろうと考えています。

多分彼は、私の愛は神の愛であると心情を打ち明けたのでしょう。
神の愛に等しいと卑怯な言い方はしなかったのでしょう。
自らの信仰を打ち明けたし、それに対して責任もとったのでしょう。

投稿日時 - 2011-09-21 21:31:09

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▼ (ヨハネによる福音書 17章) ~~~
 1節:イエスはこれらのこと(* 省略します)を話してから、天を仰いで言われた。

   「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすように
   なるために、子に栄光を与えてください。
 2: あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。
   そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を
   与えることができるのです。
 3: 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたの
   お遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
 4: わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂
   げて、地上であなたの栄光を現わしました。
 5: 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られ
   る前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
 6: 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御
   名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたし
   に与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
 7: わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものである
   ことを、今、彼らは知っています。
 8: なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らは
   それを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、
   あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
 9: 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えて
   くださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだから
   です。
 10: わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのも
   のです。わたしは彼らによって栄光を受けました。
 11: わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わた
   しはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御
   名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一
   つとなるためです。
 12: わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名に
   よって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほか
   は、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。
 13: しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これら
   のことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるように
   なるためです。
 14: わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。
   わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
 15: わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪
   い者から守ってくださることです。
 16: わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
 17: 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は
   真理です。
 18: わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わし
   ました。
 19: 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によ
   ってささげられた者となるためです。
 20: また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる
   人々のためにも、お願いします。
 21: 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるよ
   うに、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にい
   るようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わ
   しになったことを、信じるようになります。
 22: あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたした
   ちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
 23: わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼
   らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わ
   しになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛
   しておられたことを、世が知るようになります。
 24: 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共に
   おらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与え
   てくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
 25: 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知って
   おり、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
 26: わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。
   わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にい
   るようになるためです。」
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ たとえば このひとくだりにちなんで 次のご見解の内容を もう少し説明してくださるとありがたいというように思いました。

 ★ ~~~~~~~~
 ( a ) 多分彼は、私の愛は神の愛であると心情を打ち明けたのでしょう。

 ( b ) 神の愛に等しいと卑怯な言い方はしなかったのでしょう。

 ( c ) 自らの信仰を打ち明けたし、それに対して責任もとったのでしょう。
 ~~~~~~~~~~

 ☆ ( a-1 ) 《愛》をめぐって 《心情》という言葉が出て来ています。《心情を打ち明ける》ということは ふつう一般には 人間の経験行為でしょう。そのことと《愛 もしくは 神の愛》とがどのようにかかわっているのか? これが知りたいところです。

 ( b-1 ) もしイエスは イエスという人間であると同時にキリストなる神であるとすれば 《わたしの愛》は《神の愛にひとしい》というよりは そのまま《神の愛》であるということになると思います。そこのところが 判然としません。いかがでしょう?

 ( c-1 ) 《キリスト・イエスの信仰》とは どういうことか? つまりみづからが 人びとの受け容れ信じるところの光であるというとき そのみづからは何を信じるのでしょう?

 いかがでしょう?

投稿日時 - 2011-09-21 22:10:32

ANo.3

イエス・キリストは神の子だとか、生き返ったとか、三位一体とかって、
言い出しっぺはイエスさん本人じゃないんじゃない?
イエスさんの言い分だと自分は預言者だよ的なことを言ってた気がします。
たしか、どれもイエスさんが死んだ後に弟子とか信仰してた人が言い出したような。
だから、三位一体とかを否定する派閥とかもあったような。
No.1での回答にかかれていることも、
誰々曰く、イエスはこうこう言っていた!というもので、
その誰々ってのが、勝手に言いすぎちゃっただけのように思えます。
小さい子が、僕のお父さんは社長なんだ!と言っちゃうみたいに。

だとすると、イエスさんは、当時のあまりに過激な律法主義になってしまったユダヤ教に対して、
そうじゃないんだよ、的な、当時では画期的なことを言って回っていたら(新たな宗教としてではなくて、
いまの宗教の矛盾点や間違いを正そうとしていただけ)、殺されちゃって、
それに悲しんだ、信仰心の高い(律法主義で苦い思いをしてたみたいな人)人達が、
イエス・キリストは神の子だったんだ!とか、別の角度からの神だ!とか、生き返った!とか言って、
神様に祭りたて新たな宗教を作っちゃったのかも。
当時の律法主義でさんざんな目にあってる人達からすれば、これを推し進めることで、
当時の律法主義の強いユダヤ教から解放されて、立場がよくなるわけだから。
自分は、神様も伝説も神話も、その当時の特定の人間が自分のために利用してたら大きく広まっちゃったって考えてます。
神様がいることにすれば、神様がこういってるから、こうこうしようって言って統治しやすいし、
米ひとつぶでも残せば、なんたらって伝説を作れば、子供が食べ物を粗末にしなくなるし。
人を殺せば地獄に落ちる、と信じさせれば、殺人が減るわけだし。
間違ってたら、ごめんなさい。

投稿日時 - 2011-09-21 07:43:59

お礼

 わかぎさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 まづたとえば
 ★ ~~~~
 No.1での回答にかかれていることも、
 誰々曰く、イエスはこうこう言っていた!というもので、
 その誰々ってのが、勝手に言いすぎちゃっただけのように思えます。
 ~~~~~~~
 ☆ そうですよ。イエスは 自分で本を書いて残したわけではありませんから すべて聖書記者の物語です。つまり念のために言えば イエスがこう言った・ああ言ったというのは 伝承ということになります。
 その意味をも含めて 《虚構》とここでは言っています。

 具体的なこまかい事情を 当時の情況に即して書いてもらいましたが ぎゃくに大きくこの虚構の物語を あらすじとして述べて お応えとしたいと思いました。



 その前に ひとつだけ取り上げるとしますと たとえば
 ★ ~~~~~
 イエスさんは、当時のあまりに過激な律法主義になってしまったユダヤ教に対して、
 そうじゃないんだよ、的な、当時では画期的なことを言って回っていたら(新たな宗教としてではなくて、
 いまの宗教の矛盾点や間違いを正そうとしていただけ)、・・・
 ~~~~~~~
 ☆ にかんしては 次のように考えます。
 
 1. 律法主義のまちがいをただしたのは イエス・キリストの旨を承けてですが パウロだと思います。で どちらも――イエス自身が言っていたと伝えられるように―― イエスは律法を完成させるために来たのだと成ると思います。
 (それは 信仰による義であり したがってじつは 律法のモーセの前のアブラハムの信仰だと言えるかと考えます)。

 2. イエスは 新たな宗教を立てるであるとかは思っていないでしょうね。
 のちにローマ教会が立ったのですが――しかも イエスが ペテロにおまえは岩だから おまえの上にわが教会を立てると言ったと言いますが―― いづれにしても イエスはすべての人にみづからの光を示した これに尽きると考えます。
 (言いかえると 個人的な考えですが 見えざる教会が世界に現われることを指し示したと)。

 3. 当時のユダヤ宗教について その中であらためてイエスが神を指し示したというその物語は 次のように捉えられると思っています。

    *

 
 ▲ (ヨハネによる福音1:1~5) ~~~~ 
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは、はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。
 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 
 これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。
 (たしかに すべては表現の問題であるとさえ言えかねないかたちなのですが その表現の歴史としてでも 世界は動いて来ました)。

 アブラハム(そのとき アブラム)は 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。

 その子孫として モーセは その神に 名を尋ねたとき

   《〈わたしはある〉 それが わたしである》

 という答えを得たと言います。
 伝えによると ダヰデという人は 

   《きょう わたしは おまえを生んだ》

 という言葉を その神から聞いたそうです。
 イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に発展しました。

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
      (イザヤ書 61:1-3)

 その後 時はさらに飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たと言うわけです。
 イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み
     油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは
     貧しい人に福音を伝え
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
         (つまり イザヤ書61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 
     ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。
  と話し始めた。
        (ルカによる福音4:17-21)



 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えます。
 《存在》――《わたしは ある》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。

 さらにその後 このイエスという人は この存在論の実証をしたと伝えられています。しかも この存在論は 神そのものを指し示す光の理論であったと聖書記者ヨハネは――先に見たように―― まとめたようです。
 
 そしてイエスがみづからを神であると言った(つまり すでにいくらでも そのような趣旨で語っている)。このことによって 存在論は 《完成》したことになると見ます。だからアブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたということになります。

 この虚構が なかなか 捨てがたいようなのです。




 このような物語にとっては――わかぎさんに少々物言いを添えますが―― 存在論が個人の信仰いかんにかかわらず すべての人のものであるからには ユダヤ教なり何なりの宗教がどうだ 正統なる系譜はこうだといった議論はどうでもよい。こう考えます。
 あなたの心の燈心に火がともったかどうか これのみの問題です。
 このようにお応えいたします。

投稿日時 - 2011-09-21 09:23:26

ANo.2

>>(1)イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。
否。大嘘か真実かを論ずる前に、イエスは自らが神であるとは言っていない。

>>(2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。
否。虚構か否かを論ずる前に、哲学ではない。

>>(3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。
「人」と「人間」は通常同義である。使い分けるのであれば定義をすべきであり、このままでは文意が不明である。

>>(4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。
「ゆえに」とは、前段を受けて結論の前に用いる語であるが、(1)~(3)から「人びとに光を見させ」る事ができるとは思えない。
一般的には、(1)~(4)の部分で論理破綻を起こしていると判断される文章構成である。

>>(5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。
その根拠が記載されていない。また、現代語で自らを示す語は「みづから」ではなく「みずから」と表記すべきである。

>>(6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。
意味不明。刑死した者がどうやって他人の心の燈心に火をつけることができるのか、論理の飛躍がある。

>>(7) この虚構のからくりは 次のようである。
α部とβ部は矛盾している。イエスが神として去った(死んだ)のであれば神が無力であると人々は思うであろうし、人として去ったのであれば、神ではなかったという証拠として考えるはずである。
γ部は「つまり」と書いてあるが、まったく詰まっていない。「見させる光」とはどこから出た概念か記述が無い。
δ部は意味不明。どこの世界に自分が刑死する事を芸術作品と定義する者がいるのか。
ε部「すなわち」とあるが、まったく「即ち」ではない。あなたは何を言いたいのか?「すなわち」はα~δのどこを受けての即ちなのか。
ζ部「われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らした」と書いているが、ε部の記述と矛盾する。
η部「示した」とあるが、刑死した人間がどうやって示すのか。しかも、θ部で「これらすべては 大ウソである。」と論じているが、誰がどう言ったことを嘘であると断じているのか。あなたが自分で勝手に論理展開したことを自分で嘘だと告白してどうするのか。
ι部「世界史上ただひとつの特異点であり」と論じる根拠は何か。あなたは世界史上知らない事は一つも無いのか。文字の無かった文明で似たようなことが無かったと断言できるのか。
そもそも、特異点とはどのような意味で用いているのか。


結論:「哲学を問う」以前に、各部の分け方が恣意的で論理展開なのか、ただの陳述部なのか理解できない。他人と議論をしたければ、理解できる論理構成で質問文を記述すべきである。

キリスト教に対して偏見をもち、非難することは個人の自由だが、イエスが言っていないことを書いて、イエスは嘘つきだと論じるのは誹謗中傷でしかない。
誹謗中傷は真実に基づかないので、哲学的に議論が深まることは無い。よって、事実誤認の質問であると判断し、回答を締めくくるものである。
以上。

投稿日時 - 2011-09-21 00:09:13

お礼

 五匹の子豚さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ○ 言葉を一義的に規定して用いよ。
 ☆ こういった物言いでしょうか?

 あるいは
 ○ たとえば嘘という言葉は すでに価値判断が入っている。
 ☆ という立ち場を取っておられるようです。

 ★ (1)・・・大嘘か真実かを論ずる前に、イエスは自らが神であるとは言っていない。
 ☆ この真偽につきましては 回答No.1へのお礼欄を見てください。

 ★ (2)・・・虚構か否かを論ずる前に、哲学ではない。
 ☆ 人が神であるという命題は 主観真実であり得ますが 事実であるかどうかは ついぞ人間には分からないでしょう。よって 虚構という言葉であらわしたものです。

 ★ ~~~~
 >>(3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。

 「人」と「人間」は通常同義である。使い分けるのであれば定義をすべきであり、このままでは文意が不明である。
 ~~~~~~
 ☆ 次のように言いかえます。
 ○ (3) 神であると同時に人間である存在が・・・

 ★ ~~~~
 >>(4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。

 「ゆえに」とは、前段を受けて結論の前に用いる語であるが、(1)~(3)から「人びとに光を見させ」る事ができるとは思えない。
 ~~~~~
 ☆ もちろん そうです。言いかえると あとに述べる(7)のからくりの全体から 順序を前後させて《ゆえに》とつづきます。それでも(1)から(3)を承けてこの(4)で ゆえにと用いたのは それは 理由が(7)で後出しますが 事由として前の命題からつづくという恰好だからです。


 ★ ~~~
 >>(5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。

 その根拠が記載されていない。また、現代語で自らを示す語は「みづから」ではなく「みずから」と表記すべきである。
 ~~~~~
 ☆ 根拠は (4)の場合と同じく後出の(7)です。
 みづから←―身‐つ(の)‐から(自体・成り行き)。
 現代語として そういう表記をしています。そういう方針だという意味です。

 ★ ~~~~
 >>(6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。

 意味不明。刑死した者がどうやって他人の心の燈心に火をつけることができるのか、論理の飛躍がある。
 ~~~~~~
 ☆ つまり
 ☆☆ (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。
 ☆ に呼応します。
 (ε)は 《闇を照らす理性の光あるいは感性の輝き》のことを言っており それに対して イエス・キリストの光は これこれこのようだというのが この(ζ)です。
 ★ 論理の飛躍がある。
 ☆ とのことですが そもそも《心の燈心》という表現ですでに論理は破綻をきたしています。そこを読み取っていただくようになっています。


 ★ ~~~~
 α部とβ部は矛盾している。イエスが神として去った(死んだ)のであれば神が無力であると人々は思うであろうし、人として去ったのであれば、神ではなかったという証拠として考えるはずである。
 ~~~~~~
 ☆ 人間イエスは 大泣きに泣いていましたし この盃を取りのけてくださいと願っています。でも みこころのままにとも言っています。ですから 人間イエスとして十字架にのぼったし そのまま磔の刑を受けた。もし神なら そこから降りて来いとローマ兵士らが言ったとしたら そしてそれに応じて降りて来たなら それは神の力としての奇蹟だと人びとは見るであろう。という意味です。
 神として去ったかも知れませんが 神として死んだという見方は まづ成り立たないでしょう。神の定義に反するでしょう。

 (β)の《神として去った》は あとの(ζ)と(η)にその内容がつづきます。そしてそのことは 神としての光だと言おうとしていますが それは(γ)から(ε)までの内容――すなわち 人間の理性や感性としての能力および努力のもたらす光という内容――とは違うのだと言おうとしています。

 ★ γ部は「つまり」と書いてあるが、まったく詰まっていない。「見させる光」とはどこから出た概念か記述が無い。
 ☆ これは おっしゃるとおりです。舌足らずでした。(β)に少なくとも《この刑死を決めた人びとらに対して 何のうらみもなく死地に就いた》くらいの或る種の光を書いておくべきでした。
 つまりは 漠然となら 罪もなく死刑になるというにもかかわらず何も不平を言わないといった姿を 或る種の光と見るのではないかと思ってのことでした。

 ★ δ部は意味不明。どこの世界に自分が刑死する事を芸術作品と定義する者がいるのか。
 ☆ そういう見方があるのでしたら この(δ)は 削ってもよいです。感性における自己表現として捉える場合があるのではないかと思ってのことでした。


 ★ ~~~~
 (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

 η部「示した」とあるが、刑死した人間がどうやって示すのか。
 ~~~~~~~
 ☆ 《わたしは神である》と宣言した人間が 十字架上に去っていったことにより 《示した》というものです。その事件を聞いた人が 心に示されるものを感じたという意味です。

 ★ しかも、θ部で「これらすべては 大ウソである。」と論じているが、誰がどう言ったことを嘘であると断じているのか。あなたが自分で勝手に論理展開したことを自分で嘘だと告白してどうするのか。
 ☆ 《わたしは神である》というのは ウソでしょう。虚構でしょう。

 ★ ι部「世界史上ただひとつの特異点であり」と論じる根拠は何か。
 ☆ この世の因果関係から自由な存在と見なされたとしたなら あたかも特異点として受けとめられているという意味です。

 ★ あなたは世界史上知らない事は一つも無いのか。
 ☆ ほかに特異点となった人間ないし存在はいますか? おしえて欲しいという問いです。

 これらのウソないし虚構が たしかに事実とは言えないとともに 人間の真実を捉えたかに思われると同時にこの真実をも超えており しかもこれら《事実と真実との総合としての現実》に足を置く・あるいは根を張った。
 これが 世界史の最大の哲学であり 自由の泉となっている。
 いかがでしょう? という問いです。

投稿日時 - 2011-09-21 01:25:34

ANo.1

イエスが「自分が神である」といった
のは、新約聖書のどこに書かれているのでしょうか。
弟子が「神の子」と言っていたのは見たことがありますが。

投稿日時 - 2011-09-20 22:02:56

お礼

 あるゑんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 これは異なことをおっしゃる。
 
 ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 
  * 16:16 ペトロの言葉として《生ける神の子》があり イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えている。

 ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~
 〔* サマリアの〕女が言った。
  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
  その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
 イエスは言われた。
  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。
  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 フィリポが
  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」
 と言うと、イエスは言われた。
  「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
  のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
  お示しください』と言うのか。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
  のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
  い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
  のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
  さい。
   はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
  また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
  である。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
  父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
  げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 どうでしょう?

投稿日時 - 2011-09-20 23:33:36

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