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悟りについて

仏教の『悟り』
エックハルト・トールの『悟り』
神との対話の『悟り』
老子の『道(タオ)』
キリスト教では何というのか分からないんですけれども、
他にも『覚醒』とか『アセンション』とか言いますが、
全て同じ状態を示しているのでしょうか?

『欲』や『怒り』や『後悔』や『不安』や『エゴ』などを、
乗り越えた状態なのでしょうか?

悟りを開いた方がいらっしゃったら、教えて下さい。

よろしくお願いします。

投稿日時 - 2011-10-05 04:18:17

QNo.7052421

暇なときに回答ください

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回答(7)

ANo.7

エックハルト・トールの「悟り」?
作家名と、書の名。でしょうか。知りませんし、悟り、についての西洋思想からの
形而上学的解釈や評価には興味ありません。

神との対話の「悟り」
神との対話と和訳された、サンユッタ・ニカーヤ、だったかの、大乗教典の事でしょうか。
こういうのがありましたね。
その神は言った
 時は移りゆく、青春の日々は短く、後には老いと死が残る。
 このことを心に止め、安楽をもたらす善行をなせ。
ブッダは答えた
 時は移りゆく、青春の日々は短く、後には老いと死が残る。
 このことを心に止め、世間の利欲を捨て、静けさ、をめざせ。

利欲を捨てる事を縁として起こる、静けさ、が、「悟り」と言っているのでしょうった。

またその神は言った
 我が子より可愛いものはない。
 牛に勝る財貨はない。
 太陽に勝る光輝はない。
 海は最良の湖である。
ブッダは答えた
 己より可愛いものはない。
 穀物に勝る財貨はない。
 知恵に勝る光輝はない。
 雨雲は最良の湖である。
(静けさ、を縁として起こる)太陽の光輝にも勝る、知恵、
を会得するのが「悟り」と言っています。

当然の疑問?となるのは、ここに出てくる、神、とは何か。

知恵と心の会話、を考えているのか。
ソクラテスの言う、思惑愛好家vs哲学者(愛知者) を考えているのか。

それとも。バラモン思想対仏教(釈迦の思想)
心の思想、宗教、対、知恵の哲学、理法、方法論、の対比を考えているのか。
ですよね。
うがった見方になるのか、
神をブッダに及ばない者と、しながら、巧妙に?神を登場させている。
それがこの教典の目的とも見えるのです。
理法第一の釈迦の理法に、神、が存在する訳がない。釈迦の思想、仏教、とは
出発点から、バラモン思想(=ヒンズー教)の基礎、土台、の
上にその否定、対立思想、として起こったものなのです。
釈迦の時代のインドには。
バラモン(司祭)、クシャトリア(武士、王侯貴族)、バイシャ(市民)、スードラ、(奴隷)(だったかな?)
の身分制度が定着しており。最高身分のバラモンには、バラモンの子、でなければなれない。
そして、バラモンの子は、バラモンとなるべく育てられなければならない。
可愛い子には旅をさせろ、若いうちの苦労は買ってでもしろ、といいますが。
言うだけではなく。バラモンの子として生まれた男子は、学問を修めた後、40歳までは女人と
交わってはならない、という戒律のもと、修行、放浪の旅、に出ることが
義務づけられていた。バラモン階級にとっては、40歳までは、子供、青年、であり。
20代や30代で、知恵、悟り、は無理である。という認識なんですね。
バラモン修行者にとって、愛だの幸せだのは、(発情期の)青年の思想、子供の思想、
であり。そういう認識論で、悟りました、と言って。故郷に帰ることは
出来なかったはずです。
西洋では、哲学の国、古代ギリシャ市民の知恵、知能、は異常に突出しており、
現代のインテリなどとは比較にならないほど高かった。
と言われていますが、バラモン階級の知恵、知能はその上を行くものだったはずです。
ギリシャ哲学は、多分、を付けずとも、バラモン思想、古代インド哲学、の流入、影響、を縁として
起こっているのです。
釈迦は、王族、皇太子、ではあっても、バラモン、ではない。バラモン、には
なれない。
バラモン修行者は、期間限定の修行であり。40歳に成る頃。
アートマン(箇、個人)はブラフマン(全体、世界)であり、ブラフマンはアートマンである。
(漢訳仏教の梵我一如)との認識、境地を体験しました。などと嘘?をつけば。
許され、故郷に帰れ、結婚をし、司祭、指導者、バラモン、と認められた、筈、なのです。

しかし、バラモン、ではないのに、国も妻子も捨て、放浪の旅に出た、釈迦の修行は、期間限定、
ではなく、帰る場所はない、一生、死ぬまでの、修行であり、旅、なのです。
釈迦の、悟り、が自らの安らぎ、涅槃の境地、などである筈がありません。
そんなものの為に、すべてを捨てる、などは出来ないのです。
釈迦の思想と、バラモン思想の違いは、仏教、ブッデイズム、と言われるように。

神、を奉じるのではなく、仏、(ブッ、悟りに導くもの)、を奉じよ。
なのです。
仏は二つが一体となります、一方は、出会い、体験、という縁であり。
もう一方は個人の内側にある、仏を見抜く目、としての、知恵、なのです。
仏教の、悟り、は仏を縁として起こる、自覚、であり。悟りは積み重ねるものであり。
悟りを積み重ね続ける事が人生であり、修行、なのです。
釈迦の、悟り、と言えるであろう事は、知恵の知恵、としての
考え方、縁起の理法、である。とは言えるでしょう。

その知恵のなかの知恵、が老子の明(みん =道、タオ、トウ、を知る知恵)でもあります。
老子の明と釈迦の縁起の理法は同じ考え方なのです。

道は道にして常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず。

・・・
人々は善は善であると考え、善が悪である事を知らない。
美は美であると考え、美が醜であることを知らない・・
の老子の(かって理解出来た者が一人もいないと言われる)考え方、哲学、を
理解出来るかどうかは。
x^2=1 の答えは何か?にかかっている。とも言えると思います。

x=1 と x=-1 と答え、他には考えられない。では
老子や釈迦の理解は無理でしょう。

答えは x=1/x  
x*1/x=1(イッ) と言うことです。

xという対象存在は、その逆となる(1/x)と一体として

1(いっ)なる、存在になっている。
善という名、言葉、は(1/善)一体であり。

(1/善)は、悪、と名付けられる。

善がなければ悪はない、悪がなければ善はない。
善悪は一つの概念の表裏である。
つまり 善=悪 であり

善×悪=善悪、という一つの名、認識単位、である。
とい考え方、になります。

ぐらいにしましょう。

投稿日時 - 2011-10-06 22:28:13

お礼

(○゜ε゜○)『hanniyagiさん、丁寧な回答ありがとうございます。人生迷走中の僕にはとても勉強になります。』


利欲を捨てる事を縁として起こる、静けさ、が、「悟り」と言っているのでしょう。

静けさ、を縁として起こる太陽の光輝にも勝る、知恵、
を会得するのが「悟り」と言っています。

悟りを積み重ね続ける事が人生であり、修行、なのです。

(○゜ε゜○)『やっぱり人間の目指す場所は無我なんですね?いまひとつ確信が持てないんですよね。試すか試さないしか残されてないって事なんだな。』


老子の明と釈迦の縁起の理法は同じ考え方なのです。

(○゜ε゜○)『やっぱり表現方法が違うだけで、言っている事は同じなんですね。』


人々は善は善であると考え、善が悪である事を知らない。
美は美であると考え、美が醜であることを知らない・・

(○゜ε゜○)『善悪の判断は出来事に対する人それぞれの価値観の問題だと、僕は理解しているんですが違うんですかね?』


理解出来るかどうかは。
x^2=1 の答えは何か?にかかっている。とも言えると思います。

x=1 と x=-1 と答え、他には考えられない。では
老子や釈迦の理解は無理でしょう。

答えは x=1/x  
x*1/x=1(イッ) と言うことです。

xという対象存在は、その逆となる(1/x)と一体として

1(いっ)なる、存在になっている。
善という名、言葉、は(1/善)一体であり。

(1/善)は、悪、と名付けられる。

つまり 善=悪 であり

善×悪=善悪、という一つの名、認識単位、である。

(○゜ε゜○)『_| ̄|○ ごめんなさい。せっかく書いて頂いたのに僕の数学力では理解できませんでした。僕には数学の勉強が必要みたいです。』


善がなければ悪はない、悪がなければ善はない。
善悪は一つの概念の表裏である。
つまり 善=悪

(○゜ε゜○)『世の中が全て善では、善はないのと同じであるという事なんですかね? 世の中が全て幸福なら、幸福はないのと同じであると一緒かなぁ。幸福を感じる為には不幸を感じなければならないって事かしら?』

投稿日時 - 2011-10-07 12:38:04

ANo.6

 『悟る』とは、何か特別な人間が特殊なことをして為すものではなくて、さして難しいことではなく、その字体が示すように立心偏に吾(われ、おのれ)、つまり、『心』=『吾』であるということを覚知することを『悟る』ということであり、それは『心』こそが自分自身、本質であって、鏡に映る肉体はその所有物ではあっても、決して自分そのものではなく、その肉体を見て自分と認識している心こそが自分自身そのものであるということを言っているのです。それで、このことに気付いたデカルトは『我思う、故に我あり』という有名な言葉を残していますが、ともかく、肉体というものは、時間の経過によって変化していきますが、色も形もない心というものは不変なのです。
 
 たとえば、ある人の5歳と25歳、50歳と80歳を比べれば、その外観は明らかに違って見えますが、その心はいくつになろうが、一貫して「私と思う心」に変化はないはずです。つまり、年齢によってその心が別人に変化することは無く、徹頭徹尾、同じ心であり続けるはずです。しかも、その心という本質は、その肉体が朽ちえたとしても、色も形もないが故に朽ちることなく存続しつづけるのです。つまり、我々の本質というものは永遠に続くのです。それでいわゆる宿業というものが存在することになるのです。つまり、その心の為す善悪の所業が、その本質に刻まれて、その善悪の報いを必ず受けていくことになるのです。いわば自分で蒔いた種は、必ず自分で刈り取らなければならないということです。

 よく聞く話ですが、「自分は別段、何も悪いことをしていないのに、なぜ、こんな境遇なのか」と嘆き、その原因を自分以外に求める場合がありますが、これも過去世に刻んだ業の悪果かと思われます。これを分かりやすく言えば、ドライバーと車の関係みたいなもので、ある違反をしたとして、その車を乗り換えたとしても、その罪はそのドライバーに付いて回るのでたとえ何台車を変えたとしても、それから逃れられず、必ずやその罪の報いを受けることになるようなものです。また、生まれながらにして平和な国や戦乱の国、金持ちの家や貧しい家、健康体や病弱な体等々、そのような違いがなぜ生じるのか。当然、生まれる以前にその原因を求めたとしても何ら不合理なことはなく、極めて自然なことかと思われます。

 ともかく、我々自身の本質は決して朽ちることなく永遠に存在し続け、その因縁によって様々な境涯を得ては繰り返し、繰り返しその営みを続けていくのです。つまり、本来の自分というものは「死んだら終わり」では決してなく、それはあくまで自分の所有している肉体のみの話で、自分自身は永遠の存在であるということです。ところが世の中、本末転倒というか、大部分の人は本当の自分ではないものを自分自身と思い込み、それに執着しては悩み苦しんでいるのが現状かと思われます。

 それでこの本末転倒に気付いた(覚醒した者=ブッダ)釈尊が、生老病死の打開のために、このことを教えようと説き始めたのが仏教の始まりであり、ですから、以上の話からでも「自分は本来、永遠の存在である」と確信できるのであれば、『悟りを得た』と言ってもよいかと思われます。ともかく、『悟り』というと難解な言い回し表現や特別な人物しか得られないように主張する場合が多いように見られますが、大体、真理というものは決して難しいものではなく、誰でも志向できる明解なものかと思われます。

投稿日時 - 2011-10-06 16:37:30

お礼

肉体というものは、時間の経過によって変化していきますが、心というものは不変。

心の為す善悪の所業が、その本質に刻まれて、その善悪の報いを必ず受けていく。

本当の自分ではないものを自分自身と思い込み、それに執着しては悩み苦しんでいるのが現状。

「自分は本来、永遠の存在である」と確信できるのであれば、『悟りを得た』と言ってもよい。

○『悟り』という体験をすると、
『平安で満たされた状態になる』
とよく本などで見かけます。

本当にそんな状態が存在するのでしょうか?

私なんかは普段、
欲しい物を手に入れて喜んだり、
競争に勝って喜んだり、
堕落して楽をしてみたり、
そんな風にして喜びを得ているんですが、

『悟り』というものが本当に存在すれば、
不幸の原因は全て無くなるなぁとも思うんです。

本当にあるんでしょうか?

暇つぶし程度に、意見を頂けると、嬉しいです。^_^ゞ ぽりぽり

投稿日時 - 2011-10-06 18:15:11

ANo.5

yasuo0330さん。「悟りを開いた方がいらっしゃったら、教えて下さい。」
なんて書かれたら回答できませんよ。
勿論、私は悟りを開いておりませんが。
しかし、悟りを開いた人が、4人もいるなんて正直びっくりです。

投稿日時 - 2011-10-06 01:04:55

お礼

yuimakoziさん、回答ありがとうございます。

「悟りを開いた方がいらっしゃったら、教えて下さい。」は、
余計でしたね。

ごめんなさい。^_^ゞ ぽりぽり

投稿日時 - 2011-10-06 03:26:32

仏教の悟りと、エックハルト・トールの悟りと、
老子の「道」は、同じものと考えて結構です。

覚醒やアセンションは、
上記のものとは別物っぽいです。

キリストは悟っていた可能性が高いですけど、
勉強した事がないので、あまり詳しくは判りません。


欲や怒りや後悔や不安やエゴなどを、
乗り越えた状態を悟りと言うのではなく、
それらの心の働きが起きる前の、
純粋な意識に留まる事を、悟りと言うんです。

だから、悟りを開くと言うより、
悟りで居る、と言った方が、
表現としては正確です。

「自分を何らかの対象に同一化する意識ではなく、
 意識そのものとしての自分というアイデンティティに気づく。
 これが神の平安である。」

↑はニュー・アースからの引用文ですけど、
言い回しが違うだけで、内容は全く同じです。

違うのは言い回しだけで、
結局、本物はみんな、
同じトコを指さしてんですよ。

投稿日時 - 2011-10-05 21:09:27

お礼

siryuanさん 丁寧な回答ありがとうございます。

心の働きが起きる前の、
純粋な意識に留まる事を、悟りと言う。

悟りを開くと言うより、
悟りで居る。

僕は普段、
自分の感情を観察する、
自分の思考を観察する、
瞑想をする、
という事を行っているのですが、
どうもいまだに、何の反応もありません。

悟りというものは、本当に存在するのでしょうか?

もっと良いやり方が、存在するのでしょうか?

もしあれば、教えて頂けると助かります。

投稿日時 - 2011-10-06 03:22:32

ANo.3

環境からの刺激を蓄積して、次の刺激に対する反応を変える
単細胞生物の段階から(パソコン程度)、何十年の五感の相関
した刺激を蓄積した中に、新たな先行媒体(光や音)の刺激に
おける次の総合的刺激の予測(=空間的広がり)を予測する
までの間に、どこかで突然“心が生まれた”のではないように
(イルカには心があるがネズミにはない、などという事はない)、
あらゆる刺激に対して、自己の信じる全宇宙の原理への還元を
可能にする認識への深まりの、どこかで突然“悟る”というのは
胡散臭い話だ。

投稿日時 - 2011-10-05 15:50:47

お礼

psytexさん、丁寧な回答 ありがとうございます。

やはり、悟りというものは、存在しないのでしょうか。

だとすると、とても寂しい。

投稿日時 - 2011-10-06 03:05:57

ANo.2

全て同じ状態を示しているのでしょうか?

○悟り〔認識力)にも階梯があってね。だから同じではないですよ。上がった中では釈尊の悟りが一番高いですね。


『欲』や『怒り』や『後悔』や『不安』や『エゴ』などを、乗り越えた状態なのでしょうか?

○ 悟りとは認識力のことですから、例として上がっている心の格闘がなくなるというものではないのです、ただ冷静に判断できるということですね。
例えば、仏にも怒りはあるのですよ。教育的な指導という意味ですがそういうこともあるのですよ。つまり悟れば感情がなくなるということはないということですね。
まあ、認識力の違いを判りやすく言えば、人間が蟻を見て思うことと、蟻が人間を見て思うことの差ですね。蟻が何を思おうと人間は意に介さないでしょ。そんなものですね。

投稿日時 - 2011-10-05 08:21:10

お礼

mmkyさん、丁寧な回答 ありがとうございました。

悟り=認識力

感情、心の格闘がなくなるわけではなく、冷静に判断できるということ。

人間が蟻を見て思うことと、蟻が人間を見て思うことの差。
蟻が何を思おうと人間は意に介さないでしょ。
そんなものですね。

『欲』や『怒り』が出てきても、
気にならなくなるっていう事なんですかね。

普段、人間は、
欲しい物を手に入れたり、
勝って優越感を得たり、
周りの人間から認められたり、
堕落して楽をしたり、
そういう風にして、喜びを得ていますよね。

悟り=認識力があがると、
そういった事を必要としない、
『満ち足りた気分』というものが、
本当に存在するのでしょうか?

確かに存在すれば、世の中の
欲しい物を奪い合う争い等も無くなるなぁとも思うんですが。

時間があれば、教えて頂けると助かります。

投稿日時 - 2011-10-06 01:12:47

ANo.1

悟りに至る前段階では、苦しみが付き纏っています。是は自我意識による認識の間違いを、もう一つの意識である「神や仏」が指摘していることを示しています。

言い方を換えるなら人間の苦しみは「心の矛盾」を苦しんでいる事を示しています。如何いう苦しみであっても人間は心の奥底からの疑問や悩みや違和感や、生き難さを、心に感じていることを示しています。

心を病む場合でも、神経症で生き難い想いをする場合でも、自律神経失調症で、苦しむ場合でも、納期を違えて苦しむ場合でも、生き方を間違えて苦しむ場合でも、死の恐怖に怯える場合でも全てが「自身の心を自身の心が圧迫している事」です。

この背景にあるものは「自身の心が二つ在る事」です。この二つの心が「矛盾や、対立や、分裂や、果てには決裂する事」が現実には存在しています。

この解決方法が「悟る」という現象です。是は脳の機能分化の結果です。機能が違う脳がそれぞれ違う事に使われている事を示しています。

自我意識は顕在意識として自分には分かりますが、右脳の意識は「無意識界や、潜在意識として、或は命の働きとして働いています」是は「無意識下」の事です。

悟りに入る条件は「言葉のない世界で考える事」が絶対条件ですが、自我意識には想像も出来ない世界です。この事が「悟り」を分かり難くしています。

この映像を見た場合少しは判るかも知れません。

URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

言葉のない世界と自我意識がコミュニケーション、或はコンタクト出来た事が、悟る事を意味しています。是は右脳と左脳に「ホットラインが」引かれたことを意味します。

禅問答が解けた事を意味しています。禅問答は、言葉のない脳の機能がその世界の事を書いています。

是以後「心同士が争わなくなるという意味があります」

心の矛盾が解消するという意味になります。強迫観念も、心の対立も、分裂も終結することです。その様を「心が静寂になる=涅槃」と形容しています。

言い方を換えるなら「神(右脳の意識)と和解して、(自我意識が)右脳の意識の下で働く」「神の僕となる」と云う事を示しています。

心の発生する場所での出来事です。天地創造のまさにその現場です。意識は無意識と共にその現場から飛び出そうとする正にその刹那です。

意識が未だ混沌としていて、意識下での出来事です。その場所を「未分化」という表現方法も在ります。「意識の根底」脳梁の中での情報交換の最中です。

投稿日時 - 2011-10-05 07:18:59

お礼

tumaritou1さん、とても分かりやすい回答 ありがとうございました。

ジル・ボルト・テイラーさんの動画も 初めて見させて頂きました。

私なりの動画を見た理解だと、

人間の頭の中には、『右脳』『左脳』という
別々の事に関心を持ち、
別々に情報を処理する、
二つの人格が存在する。

『右脳』の人格は、
『映像で考える』
『現在、この場所、この瞬間が全て』
『自分を取り巻く全てのエネルギーと一体になる』
『自分の体の動きから、運動感覚で学ぶ』
『体が軽くなる』
『平安で満ち足りた気分になる』
『感情の重荷から解放される』

『左脳』の人格は、
『言葉で考える』
『過去と未来が全て』
『周りと私を分離する』

この『右脳』『左脳』という二つの違う人格が対立する為に、
『苦しみ』『悩み』『葛藤』が生じる。

人間は普段、『左脳』で生きている割合が多いのかなぁとも感じました。
その為、『争い』や『刺激』や『堕落』が必要になってくるんじゃないかと。
『右脳』で生きる割合が増えれば、『満ち足りた気分』な訳だからそういった事も必要なくなると。

その為に、意図して『左脳』から『右脳』へ歩み寄る必要がある。

『右脳』と『左脳』がコミュニケーションをとる
=『右脳』と『左脳』が争わなくなる
=矛盾が解消する
=静寂になる
=涅槃
=悟り

ジル・ボルト・テイラーさんは、
『左脳』の血管が破裂し、
脳障害を引き起こした為に、
『右脳』の世界に入ったと語っていましたが、

我々一般人が『左脳』から『右脳』へ歩み寄る、
具体的な方法は存在するのでしょうか?
その方法が『瞑想』とかになるのでしょうか?

もし存在するのなら、時間がある時に、
教えて頂けると助かります。

長々とすみませんでした。

投稿日時 - 2011-10-05 23:58:03

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