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解決済みの質問

聖書について学びたいのですが、

例えば、どうして人は善悪の実を食べることを禁じられていたのか、どうして聖母マリアは処女のままで身籠ったのか(夫との子では不味かったのか)などが知りたいのですが、お薦めの本などないでしょうか。
基本的な質問ばかりでお恥ずかしいのですが、良い本がありましたらご紹介をお願いします。

投稿日時 - 2011-11-25 08:24:42

QNo.7153368

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

まずは、聖書を読まないことには始まらないということで、お薦めの聖書を。

『新共同訳 聖書』シリーズ
http://www.bible.or.jp/online/kyoudou01.html

聖書はもともとヘブライ語で書かれてありました。
それが次第にギリシア語・ラテン語に翻訳され、主に15世紀以降各国語に訳されて行きました。
しかし、聖書というのはもともと難解でどうにでも解釈できるようなところがあり、屡々論争となってきました。
そこで、20世紀に入ってから新共同訳という試みが続けられています。
これは、カトリック・主だったプロテスタント諸派などが「エキュメニズム(教会一致運動)」の一つとして推進しているものです。
なので、一番オーソドックスな訳になっています。
口語訳版と文語訳版がありますが、口語訳版の方が多く用いられていますね。
これ以外の聖書だと、やはり宗派色が出てきますので研究入門という意味ではお勧めしません。(信仰ということであれば話は別ですが)

次に聖書理解の書としてですが、

『聖書の読み方 』 大貫隆著 岩波新書
聖書学者の大家である著者が、聖書を一般人にもわかりやすく読み解いた書。
著者自身は、プロテスタント33教派が「合同」して成立した合同教会にて洗礼を受けています。
合同教会は、所謂無所属を旨とする公会主義という立場を取る団体であり、そうした背景からも、なるべく宗派色がないように配慮されていると推察されます。

『旧約聖書入門 上・下』 (NHKシリーズ NHKこころをよむ)大島 力 (著), 日本放送協会 (編)

以前、テレビでもやってた聖書解説番組のテキストだかをまとめたモノだったと記憶しています。
著者の大島力氏は青山学院大学の教授をされていますね。
彼もプロテスタントの一派だったかと思います。



最後に変わり種をひとつ。

『キリスト教理解のために―カトリック教育にかかわるすべての人に』
日本カトリック学校教育委員会 (編集)

カトリック学校などで働く教職者向けにつくられた冊子です。
96ページとかなりコンパクトにまとめられています。
気軽に読むにはいいかもしれませんね。

・・・と、とりあえず私がお薦め出来る本を紹介してみました。

蛇足として、ご質問にある内容は全てアヤフヤで、どうにでも解釈される点ではありますね。

例えば、アダムとエバが「禁断の実」を食べて楽園を追放されるという「失楽園」のエピソード。
この解釈も実に様々で、変わりどころでは、「人間を人間として完成させるため」なんて解釈もあります。
つまり、「禁断の実」を食べる前のアダムとエバには「自由意志」がなかった。
ところが、(悪魔に唆されたにせよ)初めて彼らは神に逆らって(つまり神の束縛から自由になって)「禁断の実」を食べたのだと。
それによって、人は「原罪」を背負うことになり、様々な試練を乗り越えなからも、最後の審判に日には約束の地にて神の国に入ることが運命付けられている・・・と。

誤解を恐れず簡略化して一例をあげましたが、こういった一つのエピソードをとっても、様々な人が様々な立場から様々な解釈をしているのが『聖書』と言われる書籍群なんです。
だからこそ、面白いですし研究のしがいがあると思います。
ただし、気を付けなくてはいけないのは、「信仰」という一個人の人格にも関わる問題ですので、こうだ!と自分の意見を押し付けずに相手の立場も尊重するようにしましょうね。
思わぬトラブルを避けるためにも。

ではでは、参考になれば幸いです。

投稿日時 - 2011-11-25 23:35:58

お礼

丁寧にありがとうございます。新共同訳の聖書は手元にあったのでまずはよく読んでみます。『聖書の読み方 』『旧約聖書入門 上・下』『キリスト教理解のために―カトリック教育にかかわるすべての人に』はどれも勉強になりそうです。読んでみます。
失楽園のエピソードを人間の自由意思と絡めて考えるのは興味深いです。自分でももっと深く考えてみたいです。
最後のご忠言も痛み入ります。そうですね、まずは耳を傾けることから始めて、色々な考え方(というより信じ方でしょうか)に触れてみたいです。信仰はとてもプライベートでデリケートな領域だと思うので、相手の立場に立って発言できるようになりたいです。

投稿日時 - 2011-11-25 23:57:26

ANo.3

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回答(9)

ANo.9

 ★(No.8お礼欄) つまり、善悪の実を食べる前から生殖はあったが、情欲はなく、自由意思を持つようになってから情欲を持つようになったと。そうすると、楽園で子供が生まれなかったのは不思議ですね。
 ☆ 楽園での話は アダムとエワを取り立てて主役として語っています。初めからほかの人びとがいてもよいでしょうし 生殖が成されていて 子どもがすでにあったということも考えられます。
 つまり 書かれてないだけということ。聖書記者は 全部を書くことはしなかったということ だと考えます。

投稿日時 - 2011-11-27 12:13:14

お礼

なるほど、よく分かりました。ありがとうございます。

投稿日時 - 2011-11-27 12:19:19

ANo.8

 No.5です。
 あたらしい参考書籍のご紹介はしませんが 例示した書物の有効性をなお示すためにつづります。

 ★ なるほど、前の方も述べていましたが、失楽園のエピソードは人間の自由意思の発生と関わってくるのですね。そして、人間は時間的存在になると。カインのエピソードも考えてみれば不思議です。聖書は逆説に満ちていますね。
 ☆ おおむねそのように理解します。

 なお越境行為になりますが
 ★(No.7お礼欄) 善悪の実を食べて得た知識が性であるとは、尤もな解釈ですね。天使には性がないと言いますが、エデンの園に住むアダムとエヴァもそのような罪のない存在だったのでしょうか。
 ☆ 自由意志によって みづからの心に逆らって判断しその内容を表現する(意志行為する)という・ウソから始まる自己背反行為は 人間関係の内の両性の対(つい)関係においては 情欲の問題として現われます。
 言いかえると 善悪を知る木から採って食べる前には エワやアダムには 情欲のない生殖があった。と考えられます。実際に生殖行為があったかどうかに関係なく 自由意志問題としてはそういう解釈になろうかと考えます。念のために言えば したがってかれら二人には 男女という性は 初めから ありました。




 ★ ~~~~~
 ( a ) 聖母マリアの処女懐胎はお伽噺としての側面という考え方もあるのですね。
 ( b ) その場合でも処女である必要はあるのかしらと思いますが、
 ( c ) やはり純粋や無垢といった意味があるのでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ ( a )の《おとぎ話》あるいは《物語》とわたしが言ったのは この経験世界を超えた領域――つまり 神であり聖霊のことですが――を扱うゆえに 哲学としてはそういう表現をもちいて説明しています。

 ( b )ですが 《非経験》の領域のはたらきつまり聖霊によって身ごもったとすれば――と言うことじたいが哲学から見ればおとぎ話であるのですが その話としては―― 言うなれば《処女懐胎》という表現になる。そういうことだと理解します。わざわざそのように言ったという意味です。

 ただし ( c )のようにそれ以上に意味を求めた向きもあった(ある)ようです。聖人であるかのごとく聖母マリアと言い(――だからと言って 低俗な女だったとは一言も言っていませんが――) 純粋志向となり 思い入れないし思い込みとしての純粋無垢の観念をいだく向きです。観念信仰のことです。偶像崇拝とも言います。

 その母の子が イエスというふつうの人間であると同時にキリストと呼ばれた神であるというふたつの貌(かお)を持つ。ゆえに その子の母も その懐胎に際して ふたつの側面を持つとされた。ただそれだけのことなのですから。

 強いて余計を添えるなら エデンの園の物語における《情欲のない性欲ないし生殖》という主題につながっているのかとも思われます。たぶんそれは こんどは《復活》という主題――もしくは 人間の前史から後史へのどんでん返しなる革命過程(?)――にからめないと 問題は解けないように思います。それは 元の楽園における生活の状態に戻るというのではないという意味が重要なのだと考えています。うんぬん。・・・

投稿日時 - 2011-11-27 11:18:14

お礼

お返事をありがとうございます。
つまり、善悪の実を食べる前から生殖はあったが、情欲はなく、自由意思を持つようになってから情欲を持つようになったと。そうすると、楽園で子供が生まれなかったのは不思議ですね。
聖母マリアについても詳しくありがとうございます。行き過ぎれば観念信仰、偶像崇拝という見方もあると。話は逸れますが、日本人は昔から聖母マリアが好きですね(マリア観音など)。私もクリスチャンではありませんが、マリア様を敬う人の気持ちは分かるような気がします。
楽しくお話を聞かせてもらいました。また別の質問でもご教授を願えると嬉しいです。

投稿日時 - 2011-11-27 12:00:31

ANo.7

基本的に現在の聖書は、初期のキリスト教というか、イエスの思想をほとんど伝えていません。政治的に利用することを目的に、もっとも重要な霊的な部分をほぼ切り捨て、抜け殻になった書籍ともいえるでしょうね。(特に輪廻転生という魂の真実を切り捨てたのは失敗でした。)
また、そうするためにイエスの霊的な部分を引きついでいたグノーシス派の人々を、皆殺しにしたという歴史がキリスト教にはありますし、そういう体質がいろんな戦争の原因にもなってきています。(まあ、悪魔のトップであるルシファーとうり二つといわれる天使長のミカエルは、天使の軍団の長でもありますし、米軍を指導していますからね)

>>例えば、どうして人は善悪の実を食べることを禁じられていたのか、

「善悪の実」を食べたあとの記述を読むとわかりますが、それで得た知識はセックスの喜びのことでしょう。セックスざんまいの生活になったので、楽園を追い出されたというストーリであれば、(それが真実でなく、寓話的なものであったとしても)追い出されたことには、割と納得できるのではないでしょうか?

>>どうして聖母マリアは処女のままで身籠ったのか(夫との子では不味かったのか)

イエスには、弟たちがいます。彼らと同様に、正常な夫婦生活の結果として誕生したのです。もし彼を特別な人として扱いたかったのなら、天からいきなり降ってくるとか、十字架にかかったときに、その十字架ごと、天に吸い上げられていくというドラマチックな演出をすれば良かったのです。が、それはしませんでした。
彼も普通の人間であるということを強調したかったのだと思えます。

そして、キリスト教を男性優位の政治支配のツールとして使うとき、イエスを「特別な人」として演出する必要があったので、処女から生まれたとか、いろいろとデタラメな話を流布してきたわけです。

>>基本的な質問ばかりでお恥ずかしいのですが、良い本がありましたらご紹介をお願いします。

ナグ・ハマディ写本(初期キリスト教の正統と異端)など読まれると、イエスとマクラダのマリアの恋愛関係などが分かると思います。
また怪しげ?な霊界通信で書かれた本などが、キリスト教についての基本的な疑問に答えてくれると思います。

投稿日時 - 2011-11-27 08:25:52

お礼

政治と宗教は切っても切り離せぬ仲で、現在の聖書も大事な部分が切り捨てられているとしたら、とても残念です。
善悪の実を食べて得た知識が性であるとは、尤もな解釈ですね。天使には性がないと言いますが、エデンの園に住むアダムとエヴァもそのような罪のない存在だったのでしょうか。
聖母マリアの処女懐胎は政治的に流布された噂の一つに過ぎない。そういう側面もあるのでしょう。当時の社会がどのようなものだったかは知りませんが、現代まで語り継がれているということはかなり効果があったのでしょう。
図書館で『ナグ・ハマディ』を探してみます。霊界通信の方も、時間があれば手を出してみたいと思います。ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-11-27 09:17:44

ANo.6

特別にキリスト教に付いて深い理解が在る訳ではありませんが、そうして宗教に付いても同じ見解ですが、人間の、一人の悩み深い人間の見解として述べさせて頂きます。

人間には悩みが深くなる年代が在ります、いわゆる思春期という年代です。この年代に付いての考察から始めます。

この年代に人間の生物学的な成熟が完成します。つまり脳の機能分化の完成です。この脳の機能分化の完成された記載をウイキペデアから載せてみます。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

この二つの人格が、人間の悩みや疑問に繋がっていると考えられます。この意味するところは『誰も蛇に囁かれなくとも、成長する事によって、知恵のりんごを食べなくとも、全てに疑いを持つ可能性が存在する事』を示唆しています。

思春期頃から、自分と他人を比べて悩み始めたり、永遠と有限の狭間で物思いに耽ったり、或いは自分(人間)とは何者か?とか、全てに疑問を抱き始める年代の事を『失楽園』と形容していると感じます。

つまり天国とは『幼子』のように『心が未だ分化していないで、一つのものとして働いている状態』つまり『心が一つのものでいる状態』心に矛盾が生じていない状態を指しています。

誰の脳も脳梁を切断した場合には、右脳に一つの人格、左脳に一つの人格が存在していますが、その個とは殆ど気が付いていません、ですが気が付く場合が在ります。

分りやすく云うならば、二つの意識が上手く同調出来ている場合を『健常者』と言っています。何故ならば、二つの意識の間に『何も違和感が生じてこないからです』

二つの意識の間に違和感が生じた場合を『漠然とした不安』と形容しています。この漠然とした不安が『罪の意識=原罪』と解釈出来るからです。

この違和感は仏教においても生じています。それが『業』です。どちらにしても『生きる事やしに行く時に感じている不安』がその元になっています。

人間は生きている時にその生きるという中に『不安』と言う背景を背負っている、或いは死を前にした場合にも同じく『不安』と言う背景を背負っていると言う考え方が、キリスト教における十字架と言う罪を背負っていると言う象徴と思います。

宗教とは『心の矛盾』によって、人間は苦しむように出来ている事という、人間の心や精神構造のからくりを説いていると思います。

そうしてその苦しみからの解放が宗教の目的になっていると感じます。その目的とは『心の矛盾の解消』です。

言葉にするなら『有限の自分自身が、永遠の命を自分自身の中に実感する事によって、有限のこの身の存在を、永遠の存在の、後に置く事が可能になる事』です。

脳の機能から説明するなら、右脳の意識は『仏性とも神』とも言える存在です。その意識は『無意識の自分の主人公ですが』その他にも機能が在ります。

その機能とは『命そのものを働かせている原動力』と言う意味です。命そのものを司っている源と言う意味です。

母親の中に命が生じた瞬間から働き出す事を知っている働きそのものと言う意味です。細胞分裂することも知っている働きです。その働きは全ての遺伝子を持った存在と云う事も知っている存在と言う意味も含んでいます。

人間であると言う遺伝子も含んでいる事も知っている存在です。そうして日本人である事も知っていて、その肌から、背の高さから、その骨格までも親の遺伝子を受け継いでいる事も知っている存在です。

その働きは、桜の若い木が成長したとしてもその遺伝子をそっくり引き継いでいる事に通じています。ライオンの子がヤギになることが無い事に通じています。

そうしてその働きは『人間の身体にも心にも行動にも全て影響を及ぼしています。』

ところがその働きが余りにも巧妙に出来ている事によって、大抵の場合には『その働きが』分から無いようです。この判らない場合を『健常者』と呼んでいます。

左脳の意識は自我意識です。顕在意識です。その機能とは『分別機能』です。物事を分けて見てその分けた事を論理で計算してゆく機能です。

幼子はその計算能力が無いために、その計算が成り立たない事すら気が付いていません。その無知が天国の基になっています。計算能力が確かになった時『この世が計算通りに行かないことに気が付きます。』

この事を失楽園と言っています。計算するためには、全てが明らかである必要が在るからです。少しでも『不確定要素』が在る場合では『計算不能』となってしまうからです。

是が自我意識の限界となって、悩みや疑問が生じています。その悩みや疑問に飲み込まれた精神状態を『天国から追放された』と書いています。

結論から言うならば、命の働きと自我意識が争う事を『人間の苦しみ』と云う事が言えます。その苦しみを何処に感じているのかで『症状が分かれます』ですが心の矛盾を感じていることから『漠然とした不安』として感じている事は全てに共通しています。

『心の矛盾』から生じている症状は、全てにおいて『検査をした場合には、何処にも異常は在りません、精密検査をしたとしても何処にも異常がない事が、その前提として在りますが、共通点は、心のどこかに掛かる圧迫感です。』

心の矛盾として感じていますが、言い方を換えるなら『自我意識VS命の働き』が争うと言う構図です。どの場合も『生き難い想い』が共通点です。

身体の機能障害として感じている場合は、自律神経失調症や過敏性腸症候群や心身症等です。

行動が制限されると感じている場合は『恐怖症や神経症』です。

心の自由が制限されたと言う錯覚が『心を病む事』です。

今の医学では『薬による療法が主流のようですが』原因まで切り込む事が出来ていないという理由から『寛解が限度』になっています。

どちらにしたところで、本当の意味での完治は存在しています。それは『心の矛盾の解消』です。

仏教における完治では、『見性』=『悟りを開く』と云う事です。キリスト教においては『神に会って和解する』です。どちらの意味も、『自我意識が自分の命そのものの働きと出会って、和解する』と言う意味です。

悟りを開くと言う言い方や、神に会って和解するという言い方は、古臭くたり、仰々しい言い方になっていますが、そういう言い方は止めて、只全ての心の矛盾に単を発した症状が完治して、只普通の生活に戻る。という言い方が似合っています。

『生き難い思いの解消』は、心の矛盾の解消と共に在ります。日本においてはそのテキストも存在していますので、自分自身を学ぶ中で、『自分の安心を人や薬任せにしないで』自分自身を学ぶ事の中から発見する事が出来ます。

右脳の意識を体感している動画も載せて置きます。参考になれば良いのですが。

URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

投稿日時 - 2011-11-27 07:39:04

お礼

宗教を脳の在り方から考えたことはなかったので、興味深く読ませて頂きました。
失楽園とは、脳の分化がまだ進んでいない幼児や子供から思春期を経て大人になっていく際の、不安や苦悩の発生を言うのですね。私達は成長の過程で誰しも善悪の実を食べ、エデンの園を追い出されていると。皆様の話を聞く度に、この象徴的なエピソードの多様な解釈のされ方に驚かされます。
そして、自我意識と命の働きが和解することによって、この不安が解消されると。それは、置き換えれば、神と人との和解、つまりキリストの磔刑を通して原罪が贖われ、神と人との新しい関係が生まれたと信じることにあるのでしょうか。
それにしても健常者とは何なのでしょうか。健常者であることは恵まれているのでしょうか。考えさせられます。
とても勉強なりました。動画も後で閲覧させて頂きます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-11-27 08:39:59

ANo.5

 こんにちは。

 ふたつの主題に即してお答えします。

 ★ どうして人は善悪の実を食べることを禁じられていたのか
 ☆ 禁忌の問題だとは見ません。次のように 《自由意志》に気づき これを用いるというそのヒトとしての存在の基礎的な条件のことだと取ります。意志自由ということは 時間の関数です。よって 生存の初めと終わりとがあります。《死に到る》とは そういう意味です。

 ○ (エワとアダムの物語) ~~~~
 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。
 
 言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 禁忌にかかわるように語られているのは 自由意志によってこそ人は おのれの心にも自由に逆らって ウソをつきイツワリを述べるということが起きて来るからです。
 よって二人はエデンの園を追われましたが それでふつうの人間になったとも考えられます。
 考えてもみてください。弟のアベルをころしたカインでさえ かれがみんなから殺されると恐れていたとき 神は《カインを殺す者は その七倍の復讐を受ける》といって その人間という存在としては守りました。それと同じように アダムとエワにも むしろ時間的存在なる人間としての前途を祝福したと言ってもよいのではないでしょうか?

 これは 次の本を基礎として考えたものです。
 ○ アウグスティヌス:『創世記逐語注解』 ~~~~
   アウグスティヌス著作集 第16巻 創世記注解(1)「創世記逐語注解(1)」第1-9巻 片柳栄一訳
       1994
   同 第17巻 創世記注解(2)「創世記逐語注解(2)」第10-12巻 「未完の創世記逐語注
      解」 片柳栄一訳 1999
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ どうして聖母マリアは処女のままで身籠ったのか(夫との子では不味かったのか)
 ☆ これは その子の問題から来ています。
 その子は ヨセフを父としマリアを母として ナザレ〔という地方の〕人として――ベツレヘムで生まれ――イエスと名づけられたふつうの人間であり しかも――物語によれば――同時に のちにキリストと呼ばれたごとく 神の独り子でありみづからも神である存在であった。
 マリアは ふつうに身ごもって人間であるイエスを生んだ。と同時に――おとぎ話としては―― 聖霊なる神によって神の独り子(かつ自身も神)が肉となったその身を宿した。
 よって 聖霊による妊娠の側面は 処女懐胎ということになります。それだけの話です。

 イエスなる人間は キリストなる神である。この命題ないし三位一体の神という主題については 次をお読みください。
 ○ アウグスティヌス:『三位一体論』中沢宣夫訳 1975

 ☆☆ 【Q:なぜ神を勘違いしたままでいるのか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6951345.html

投稿日時 - 2011-11-26 14:15:19

お礼

丁寧にありがとうございます。
なるほど、前の方も述べていましたが、失楽園のエピソードは人間の自由意思の発生と関わってくるのですね。そして、人間は時間的存在になると。カインのエピソードも考えてみれば不思議です。聖書は逆説に満ちていますね。
聖母マリアの処女懐胎はお伽噺としての側面という考え方もあるのですね。その場合でも処女である必要はあるのかしらと思いますが、やはり純粋や無垢といった意味があるのでしょうか。
アウグスティヌスは名前こそ存じていましたが、手に取って読んでみようとは思っていませんでした。難しそうですが、何時か読んでみたいです。

投稿日時 - 2011-11-27 03:32:40

ANo.4

>ただ私はクリスチャンではないのでそのような閃きが訪れるか不安です。

実は回答者もクリスチャンでないときに突然、理屈でなく自分が罪人であると気づきました。もちろんそれ以前にも自分の中になにかよからぬ考えなどがあり、罪人だとは理解していましたが、頭だけの理解だったと思います。しかしある時突然、イエスキリストをヒラメキにより捉えることができるようになりました。その時がクリスチャンになった瞬間と思います。何を申し上げたいかと言いますと、理性よりひらめきの方が重要かもしれないということです。

>現代の価値観から鑑みれば、善悪を知ることが死をもたらすとは不思議な感じがします。無知の状態が良しとされているのでしょうか。もしかすると、このような疑問を持つこと自体が過ちなのでしょうか。

いろいろなことを考えたり、願ったりすることは何ら問題となることでないと思います。クリスチャンの間でよく語られることですが、「美しい女性と町ですれ違ったときに、美しいと感じるのは問題ないけれど、もし振り返って見るとこれは罪の始まりではないか」という表現がまことしやかに語られています。つまり美しいと感じるのはよいのだが、その先を想像してゆくことはことにより欲望の奴隷になるという罪に陥るのではないかと言うことだと思います。個人的には美しい女性をみてふりかえってもたいした問題とは思っておりませんが。

同様に聖書の記載に疑いや否定の感情が生まれても、それは自然なことである場合がほとんどと思います。ただ聖書はそのような否定や疑問に耐えられない書物ではありません。なにしろ神の言葉ですから、調べれば調べるほどむしろその内容にとらわれることになると思います。さらにその言葉が生きる拠り所にさえなります。

たしかに現代の教育を受けたものとして、理性や理論で問題と取り組み解決策を見出すのが正しいと感じても不思議ではございません。つまり善悪も理性や理論で取り扱うこにあたりこれも自然にとってしまう方法だと思います。多くの場合それは正しい方法でもあります。しかし現代人は善悪やその他の諸問題を理性や理論でこねくり回して、その結果、核兵器を製造し、最後には「神はわれらの味方」と言いながら、それを人々の頭上に落とすという結論にまで達しました。神様にとっていい迷惑と思います。

話がそれましたが、人間の理論にはときには破綻があります。それを聖書では「神から離れて善悪を自分で判断し始めると死をもたらす」と述べていると思います。無知の状態が良いことだとは思えませんが。神を無視している状態は良くないことであり、神を認めた状態はある意味で正しい方向にむいていると言えると思います。これはあくまでもクリスチャンの視点ではございますが。

聖書は巨大な逆説の世界ですので、一見矛盾だらけと思います。しかし2000年の人類の批判に耐えて、語り継がれてきたものであり、現代の文明にも大きな影響を加えてきたものですので、ある意味で生涯かけて研究しても悔いのないものだと言えなくのないと思います。

お近くの教会の牧師はみなさんの質問に応えるべく、お待ちしていると思います。訪ねてみてください。

投稿日時 - 2011-11-26 13:11:39

お礼

お返事をありがとうございます。まずは聖書を熟読してみることにします。理性に依らずに子供のように読んでみたいと思います。
聖書に疑問を覚えること自体は自然なことなのですね。そう言って貰えてほっとしました。
確かに理性や理論ばかりの現代には不信感や味気無さを覚えます。無宗教の私でも、人間以上のものへの敬意を忘れてはいけないように思います。そして、神様の御言葉に従うということが必ずしも無知であるということではないのでしょうね。
お陰様で色々考えさせられました。また他の質問でもご教授を願えたら嬉しい限りです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-11-26 13:59:14

ANo.2

プロテスタントのクリスチャンです。

聖書はたしかに難解な書物であると思いますが、聖書を理解するためにはやはり聖書をとにかく読まざるを得ないのではないかと思います。また聖書は論理的なアプローチでは理解できない面が多々ございます。それではどうして理解するのだということになろうかと思いますが、理解はおそらくヒラメキによって突然訪れると思います。

「つまりあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」聖書エペソ2章

解説書ではございませんが、「塩狩峠」という小説で実際にあった事件を基に三浦綾子さんが書きました。キリストを信じるとどのように変えられるのかの例としてよむことが出来ます。

>どうして人は善悪の実を食べることを禁じられていたのか、

「神である主は、人に命じて仰せられた「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。 それを取って食べるその時、 あなたは必ず死ぬ。」 (創世記3章17節)

>どうして聖母マリアは処女のままで身籠ったのか

イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた 。聖書の数箇所で述べられています。もし神が人が出来ること以上のことができなければ、意味がないと思いますが、いかがでしょうか。

投稿日時 - 2011-11-25 22:25:13

お礼

丁寧にありがとうございます。やはり聖書を繰り返し読まなくてはいけないのですね。ただ私はクリスチャンではないのでそのような閃きが訪れるか不安です。
現代の価値観から鑑みれば、善悪を知ることが死をもたらすとは不思議な感じがします。無知の状態が良しとされているのでしょうか。もしかすると、このような疑問を持つこと自体が過ちなのでしょうか。
処女懐胎については仰る通り人間以上の業だと思います。
最後になりましたが、文学からのアプローチは盲点でした。三浦綾子の『塩狩峠』を読んでみます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-11-25 23:03:32

ANo.1

これは、人の誕生についての、例えばなしです。人は自分の意思で、天国から地上に来ました。聖書は、人の誕生を、原罪として説明しています。人は、最初は神の世界にいました。そこへ蛇が現れて、神の世界より最と魅力的な世界があると言って、脳の世界を紹介しました。神の子は、誘惑に負けて、脳である知恵の実を食べてしまいました。そして脳と合体したので、天国から地上に落ちて、苦しみが始まりました。この世界は仮の世界、シュミレーションの世界です。だから何回も仕切り直しがあります。本当の世界は、別にあります。宇宙の太極は、完全調和の世界です。調和の世界が、成長拡大するためには、まわりの周辺部の、不完全、不調和を、調和に変換する必要があります。そこで変換する場所として、仮の世界の地球が創られました。ここで不調和世界の脳と、調和世界の自然の心である神が、出会う事になりました。そこへ調和の世界から、宗教で言う神の子の無我が来て、不調和世界の脳の自我と、合体して、人が誕生しました。だから人の心は、自我と無我が合体して出来ています。最初の頃は、無我が強く自我が小さいので、神の超能力がありました。だから神と人の合いの子である、神人と呼ばれていました。アトランチス古代文明頃までいました。神人がピラミッドを創りました。現代は、人は、自我が強く無我が小さいので、神の超能力はありません。そして人は、脳が自我が自分だと勘違いをしています。人は本当は、無我の神の子です。しかしいよいよ仮の世界が、終わる時が来ました。終わると、仕切り直しになるので、人の心は、脳の自我と、神の無我が、解体されて、それぞれ元の世界へ帰ります。脳の自我は、不調和世界の脳の世界へ、神の無我は、完全調和世界の神の世界へ帰ります。人は、神の子だから神の世界へ帰ります。

投稿日時 - 2011-11-25 17:54:20

お礼

脳の世界と神の世界、自我と無自我、不調和と調和、世界の仕切り直し。興味深い世界観ですね。ただオーソドックスなキリスト教的世界観と異なるような気がしますが、どうなのでしょうか。今回は本の紹介を主旨としていますので、他に回答を頂けなければベストアンサーということにさせて頂きます。

投稿日時 - 2011-11-25 18:47:11

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