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解決済みの質問

キリスト教とその信者に反感を持つ理由

哲学のカテゴリーで、キリスト教について質問があったときに、必ず、少なからず反感を持った回答が寄せられます。

それは一体なぜなのでしょう。

ご先祖様がフランスの新教徒で、激しい弾劾を受け、アメリカに移民してきたという、私のバイブルスタディの先生は、ただ一言、”それは嫉妬のせいである”と切って捨てます。私は、さすがに、”それは違うだろう"と、感じるのですが、残念ながら、反論ができません。

彼と対等に話してゆくために、皆様からヒントをいただきたいと思います。
ご自分の意見でも、一般論でもよろしいです。

宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。

投稿日時 - 2011-12-23 01:10:08

QNo.7204518

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

外側からの眺めではなく、内側・只中においての眺めから見てみましょうか(河童の屁理屈は置いといて)。

「反感」というレベルの低い感情を持っている人間が歴史的背景など難しいことを判断してから反応することはないでしょう。

そもそも、「反感」というより、今そこにいる人間の在り方・言動・行為振る舞いに不快なものや欺瞞を感じるのではないですか。

キリストは自ら重荷を背負うと言ったそうですが。

それではキリスト教においては誰が・何が 重荷を背負うのでしょうか。決して弾劾され、磔にされることのないローマ教皇ですか?保護され、認知されている牧師・神父でしょうか。それとも「キリスト教」が背負うのですか。

キリスト教の、「キリスト者」なのだから、世界の責任の一端を担い、自らも重荷を背負う覚悟があって入信したのでしょうか。それとも、自分だけいい思いをしたい・甘い汁を吸いたい あるいは自分だけは救われたい と思って入信したのでしょうか。

艱難辛苦を甘受し、重荷を背負う覚悟もなく、単に優越感や特別意識を持っていればそれは不快でしょう。救われるつもりで、甘え・依存しているくせに、ときに偉そうに?していたり、嬉々としてキリスト教を語っているなら。

そういったことで批判され、弾劾されるなら、本望ではないですか。

もちろんこれはこのサイトでキリスト教について質問する人に対しての回答です。

「キリスト者」が反感を買い、弾劾されるなら本望でしょう。フランス人のバイブルスタディの先生も本望なのではないでしょうか。

キリスト教の欺瞞や、嘘が歴史として表れ、記されるのです。歴史が先にあるのではありません。

まさかとは思いますが、キリスト者・クリスチャンと言うのは キリストに甘える者・依存する者・ぶら下がっている者 という意味ではないですよね。


総括的 ? ですか。また河童が「馬鹿がまた引っかかった」と冷笑しているのではないですか。

河童もワルよのう

投稿日時 - 2011-12-27 00:48:26

お礼

お礼が遅れておりますが、何とか年内に片付けようと、発奮しております。

あまがっぱさんがお好きなんですね。

イエスさんは、人々の罪を許して歩かれて、最後に我々の罪を背負って磔刑に会い、お蔭で、二千年後の現在に住む我々も、彼に甘え、依存しているわけです。

他の何者にも、甘えたり、依存したりしてはいけない、と仰るのです。

そして、そのために迫害されたり、糾弾されたりされるのは、本望なのです。貴方のおっしゃるとおりです。

教会に集まって、礼拝をしたり、聖書の勉強をしたり、悩みがあるときにはお互いに励ましあったりしている信者さんたちに、なぜ欺瞞を感じるか、なぜ不快なものを感じるか。

それが質問なのです。

優越感や特別意識を持って、偉そうにしているからですか。それが嫉妬という感情と結びつくのなら、うちの先生は正しいことになります。

と、いうわけで、うちの先生に一票入りました。

ご回答、誠にありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 12:07:45

ANo.16

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回答(21)

ANo.21

かかりつけの築地の病院が聖公会系で家族共々随分お世話になってきているからでしょうか、
私自身はキリスト教やキリスト教徒に対して特に反感を抱いたことはありません。

25年以上も前、ちょっとした怪我で入院した際、病室を巡回する図書ボランティアの存在を新鮮に思い有難みを感じ、後日手伝ったことがあります。
病院の空間とはうらはらに、一歩病院を出ると、私の行為は部外者にとっては偽善に映るものだったのかもしれませんが。
私のようなキリスト教徒ではない元患者や家族のみならず、勤務医が退職後にボランティアの立場で診察支援をすることも珍しくないとのことです。
終末期医療や乳房再建の心のケア、無差別な攻撃(地下鉄サリン事件)に対する対処など、地味ながらも困った人の役に立つという点において率先して取り組んできたその経緯は相応に評価し得るもので、それは立役者の現理事長そして創立者のキリスト教徒としての使命と決して無縁のものではないはずです。

ただしそんな私でも、一国の大統領が「十字軍」を持ち出し演説したような国際社会における政争の具や御旗としてのキリスト教に対しては、反感というよりも懸念や憂いを抱くことがあったのも事実です。
その病院とて、数年前に内紛による医師の退職で、患者をないがしろにしているなどと雑誌にスキャンダルとして派手に書きたてられましたっけ。

信仰の対象でないかぎりは、物事には良いところと悪いところの両方が見い出しやすいのですし、キリスト教を信仰していないからこそ見え、反感や憂いを抱くことがあるように思われます。
もっとも、先生の論理では嫉妬にしか映らないのかもしれませんね。

その考えをすり合わせていくことに、質問者さまには、何か意味が見出せるのでしょうか。

投稿日時 - 2011-12-29 11:06:18

お礼

回答が遅れて申し訳ありません。

築地の聖路加病院のことでしょうか。院長先生は、素晴らしい方だと聞いておりました。もう大変なお年でしょうが、お元気でしょうか。病院内でボランティアをなさったとのこと、嬉しく伺いました。それが外に出ると、偽善に映ってしまうというのは、残念なかぎりです。

今までのご回答の中にも、偽善、欺瞞、などという言葉が含まれていました。

偽善や欺瞞では、長いこと、無償のご奉仕ができるものではありません。

聖路加病院のようなところでも、内紛があったり、スキャンダルがあったりすると、キリスト教関係の病院であるだけ、余計に批判が集まるのかもしれません。過大な期待があるのですね。

先生は嫉妬と仰るけれど、私には人様に嫉妬されるような、華やかなところは少しもありません。質素で謙虚に生きるのが目標なのですが、ボランティアをするときに、いかに、お相手から、反感を取り除くか、というのが、実は大切なポイントです。

私の不注意で、お相手の気持ちを傷つけたりしない、というのが、現在の私の目標なのです。

ご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 13:10:18

ANo.20

相手は先生なのだろう? 反論をして対等に話す必要など、そもそもあるのかい?
――わからぬやつは、わからんでもよい。信仰とは、開き直りとも言えるほどの、透徹した決意があってこそ成り立つもんじゃないのかい?

投稿日時 - 2011-12-28 13:54:41

お礼

お礼が遅くなって、申し訳ありません。

たくさんの人に教えておられる方ですが、質問や意見はいつも受け付けておられます。

もちろん、段違いに深い信仰心に支えられた方なので、私の意見など、はねつけられるのは覚悟の上です。

私の身を心配していただきまして、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 12:49:01

ANo.19

 No.7です。ご返答をいただきました。

 冗長にならないことのみ 前回の回答内容の確認のためにしるします。
 ★ ~~~~~
 それは、我々人間が、自分の置かれた状況に反応した理論しか展開できないからでしょう。それはジョン・カルヴィンにしても同じことです。彼の生きた時代は、フランスでは王権神授説が唱えられ、教会では免罪符が発行された後のことです。

 それを胸に刻んで、彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで、彼の思いをなぞるようにして、もう一度同節をお読みになってほしいと思います。
 ~~~~~~~

 ☆ もしカルワ゛ンがこの『キリスト教綱要』をロー教会や各国の政治や社会の状態などなどの時代情況に応じて書いたとしたら それこそ『綱要』としては要らないのではないでしょうか? おしえ(つまり ここは神学です)が時代情況によってころころ変わりましょうか?


 それに引き合いに出しました第一編第一章は 時代情況にいっさいかかわらないところの
 ★ 聖書で描かれたイエスの言動に終始一貫性がある
 ☆ そのことについてです。
 つまり わたしの回答は そのようにイエス・キリスト論として質問者さんがカルワ゛ンの発言に賛同するのかどうかを問うています。
 カルワ゛ンは――実際にはその時代にすでに コーワ゛ンと発音されていたそうですが―― 見るべきものがありません。政治的手腕があると言っても それは キリスト・イエス論にとって論外の問題です。
 そのように
 ★ 彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで
 ☆ ではなく 突き放して見ていますよ。

 この質疑応答の場というのは そのような互いの情報交換――わたしは 対話と呼んでいますが――を経ながら 世界に OK の波をおこして行こうとするところだと承知しています。



 《言動に終始一貫性があるから信奉する》というのは――《神によってではなく 人間の意志によって神の子らとして生まれた》(ヨハネ一章では逆 を参照)と言っているようで―― 微妙なのですが つまりあまりいただけないと思うのですが ともかく上に述べました一点のみ お伝えいたします。
 確認するならば こうです。
 ○ 《キリスト者は 聖書の知識や神の〈認識〉によってではなく 名を受け容れたこと(信じること)によってあゆむ》であるはずなのに カルワ゛ンは その逆のことを言おうとしている。のではないか?

 ☆ このような自由な言論に 《自分のほうに引き寄せるも引き寄せない》もありません。ご自分の見解やお立ち場が都合わるくなると 答えないようになり ほかの話ではぐらかすというのは キリスト者のおこないではありません。《反感を買うか否か》あるいは《それは嫉妬だ いや違う》うんぬんどころの問題ではなく 根本的な問題であるとお考えになりませんか?

 二千年が経って 世界は変わって来たようなのです。どんでん返しを予感なさいませんか?
 (とにもかくにも この二千年は まだまだ消化不良を起こしていたということではないでしょうか? 権威があるように見えるものを 権威ある者としてただただまつり挙げていればよかった。そのようにして 消化期間をもうけざるを得なかった)。

投稿日時 - 2011-12-28 09:53:38

お礼

再度のご回答、ありがとうございます。

人間の作り上げた組織の問題点はいつも同じです。権力争い、金権争い、後継者争い。。。教会内部も同じです。ただ、これは人間の問題であって、神の問題ではありません。

カルヴィンが、神の顔を見よ、といったのは、教会内の人間同士のいざこざから目を離し、もう一度、神の言葉を聴け、ということでしょう。それは、現在でも同じです。

一人の人間にできることは限られています。なるべく大きく、影響力のある教会に属して、そこでご奉仕をしてゆくことは、社会の中で虐げられた、貧しい人たち、病気の人たち、そして、苦しんでいる人たちに、かかわってゆくときに、より効果のある(たくさんの人たちを助けることができる)方法であると思います。

そして、人間的に成長し、驕った心、高ぶった心を、自分から、切り離してゆかなくてはなりません。そのための、バイブルスタディ、そのための、質問です。

ご理解いただければ、幸いです。

投稿日時 - 2011-12-31 12:40:17

ANo.18

>宗教全般ではなく、キリスト教に限って教えていただけると幸いです。
少しズレた答えになってしまうかもしれませんが
キリスト教に違和感を感じてしまう日本人的感覚から答えてみたいと思います。

キリスト教では、神を信じることを必須のこととして説いていますが
日本で一番大衆的な浄土宗では、念仏を唱えるだけでもよいとされています。
信じることが必要なのではなく、簡単な念仏を唱えるだけでもよいとされています。
愛や慈悲心を享受する立場を得ることにおいて、一遍の念仏だけでもよい、という解釈は
信仰心を持つ人、持たない人、すべての人を救済しようとする教えのように見えます。
信じる人だけが救われるというキリスト教と違って、信じない人でも救われるという最も簡単な実践を示したものです。
それは余りにも、甘過ぎる教えなのかもしれませんが
日本人に広く受け入れられた一つの宗教の極至だったようにも思います。
一つの神への信心を始めから必要とするキリスト教とは、大きな隔たりがあるように思います。

日本古来の神への信仰においては、自然と一体となった形が一般的なようです。
伊勢神宮はその最もたるものだと思います。
移り変わりゆく自然と共に様々な神もまた永遠に存在する、という感覚があると思います。
キリスト教では、神は一つであり、自然は神が創造したものであり、神とは超自然的存在であるようです。
自然と神は一体であるという日本人的感覚からは、どうしても違和感があるように思います。

以上簡単ですが、信心の有無の必要性と、神と自然との一体感の有無において
日本人の心がキリスト教に馴染めない面があるように思います。
それらも、古臭いといってしまえばそれまでですが
でも、なくなることはない、といった感じもするのですが・・・。

投稿日時 - 2011-12-27 20:10:34

お礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。

そうですね。浄土教の阿弥陀様は、死にそうな人がいやだといってもお迎えに来て、極楽に連れて行ってくださる、と聞いたことがあります。”山越えの弥陀”でしたか。もし、それがスタンダードなら、”契約”から始まるのは、堅苦しく窮屈でしょう。

日本の豊かな自然に結びついた、古代の宗教の形が、まだ濃厚に残っているというご意見ですね。一体誰が祭られているのかよく判らないお社にも、ありがたさを感じて、手を合わせて、頭をたれる、というのが、日本の神道の良さなのでしょう。

それは、これからも長く続いてゆくものだとのご指摘です。

嫉妬、とはかけ離れた感情ですねぇ。これは。

日本人ならではの、感覚の確認をしていただきました。ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 12:21:49

ANo.17

いやいや、河童先生はそこまで悪人ではないですね。

自分で自分のしていることがわかっていないだけなのです。

河童先生は、以前このカテで自分のことを「アホ馬鹿」と言っていましたが、それは自嘲し過ぎですよね。

投稿日時 - 2011-12-27 01:02:33

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 12:09:21

ANo.15

お礼ありがとうございます。

>噛み砕くと、宗教の奥義に無知であるため、それが、偏見や反感に?がってしまうということですが。
デ・ローチ先生のいうには、”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。”人たちが多いのだそうです。

その先生のおっしゃることに近いと思います。

>キリスト教国の犯したたくさんの間違いを見て、キリスト教そのものの信憑性を判断することなのでしょうか。

本質は見がたいあまりに、表層に頼るのが人の弱さなのでしょうね。

>あとは、愛着、と仰るところがもうひとつわからなかったのですが、神道や仏教への愛着、ということでしょうか。

そうですね。慣れ親しんだものには道理を越えて惹かれるものです。

結局、キリスト教にしろ仏教にしろ、ほとんどが迷える羊であり、羊どうしが背比べしているというのが実状ではないでしょうか。

投稿日時 - 2011-12-26 19:13:34

お礼

お礼のなかの質問にまたお返事くださいまして、ありがとうございます。

本質は見がたいあまりに、表層に頼る人の弱さ。。。。というところですが。

本質というのは、英語で言うとリアリティのことで、(Realの名詞です)、日本語の”現実”と混同されがちです。ホーキング博士のブラックホールの研究を受けて、スタンフォード大学の先生が、実は、手当たり次第に周囲を飲み込んでゆくブラックホールの向こう側にこそ、本質があって、今我々が見ている現実は、そのホログラム(三次元の映像)にすぎない、という理論を研究なさっていられます。

ブラックホールの向こうが本質であり、現実は単なる表層である。。。。というのは極めてお考えに似ているように思い、これをもって、お礼の文章にさせていただきます。

ほかの方がおっしゃっている通り、宗教に帰依しても、決して、現実の問題が解決するわけではないのです。ただ、心の安らぎが訪れるだけです。これも単なる表層に過ぎないかもしれませんね。

投稿日時 - 2011-12-31 11:46:42

ANo.14

No.9の回答中に重大な誤記がありましたので、訂正します。
4段落目の後半、
「現に、アメリカ中西部社会では、未だに進化論を信じるキリスト教原理派が幅を利かせていたり、」
は「・・・・・・・・・・・・・・未だに進化論を否定するキリスト教原理派が幅を利かせていたり、」
の誤りです。正反対の意味になりますものね。
その下に表示した私の過去問における関連記載はNo.1や4のご回答に見えます。

ついでに、若干コメントを追加します。

他の回答者の皆さんのご回答やお礼を読んで・・・。
やはり、偽善や他宗教を受け入れないことや、世界制覇や戦争や大量殺戮や差別に手を貸したことなどが、反感の原因になっているようですね。

又、あなたの言われるように”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。”という人もおられますね。確かに、キリスト教に限らず宗教を信じている人の中には、「自分は正しい」という気持ちが強すぎて、他人に対して嫌に居丈高になっている人(いわゆる「偽善者」)もいると同時に、逆に宗教に頼らないと生きて行けなさそうな、とても弱弱しそうな人も多いように、昔感じたことがあります。(まあ、このようにステレオタイプ化するのはよくなく、今は色んな性格の人がいることに気づきましたが・・・)
ですから、前にも言いましたが、キリスト教信者と言っても色々いますし、皆普通の人間ですから、問題もありますし、間違いも大いにします。そのような人がいたからといって、その宗教は変だというふうには、どうか見てほしくないのです。

最後に、あなたが問題提議されていることですが、先生のおっしゃっているのは、キリスト教に反感も持つ人々の反感の背景には、キリスト教に対する”嫉妬”があるという意味でしょうか?

つまり、キリスト教を含めた西欧文明や、白人優位説や、実際に彼らが他の地域・民族・宗教を信じる人々に比べて裕福だったということでしょうか?

これは一概には言えませんが、古くはキリスト教の前身であるユダヤ教の母国であるユダヤの民は、長い間他民族に支配・抑圧されていましたし、イエス・キリストも、飼い葉おけの中で生まれ、最後は皆に裏切られて十字架上で悲惨な最期を迎えており、必ずしも、キリスト教が富める者・民族の味方だということはありません。しかし、ある時点で権力と宗教が結びついた時点で、残念ながらキリスト教も世界制覇に協力するなど、不本意な歴史を重ねてきたのは事実だと思います。

投稿日時 - 2011-12-26 17:26:59

お礼

お礼が遅れ続けて申し訳なく思っています。

西欧文明優位説や、白人優位説のせいで、”嫉妬”という言葉を使われたとは、普段の言動からは、とても信じられないので、頭をひねっているところです。

現在のところ、物質的な豊かさ、といえば、中東の国々の裕福さには、誰も太刀打ちできません。ご近所にM.D.Andersonという名の、名の通った、癌専門の病院があるのですが、海外からそこの特別室に入院なさるのは、中東の方ばかりですし、サウジアラビアの王子様も、亡くなるまでニューヨークの病院で治療を受けておられました。多分アメリカの健康保険に入っていなかったでしょうから、莫大な財産を費やされたことでしょう。

けれども、ご存知のように、アラブの民の先祖は、アブラハムの妾腹の息子で、嫡子が生まれたところで、砂漠に追放されてしまいます。ですから、直系の血を受けたイエスに、傍系の出であるところのイスラム系の人たちが、”嫉妬”するのか、とも考えてみたのですが、これは違います。

もっと、根本的な理由でしょう。イエスの教えは、永遠普遍の真実であり、それを丸ごと受け入れることが可能であったのは、別に信者が優れていたわけではなく、神の恵み(慈悲)があったからです。その辺りのヒントがあるように思い始めています。うまく言葉にできないのが、残念です。

再度のご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 11:27:44

ANo.13

人間は自分が理解できないものには根拠のない反感を持つものだと思います。
キリスト教が自分を受け入れてくれないと思うからではないでしょうか。
その先生は嫌いきらいも好きなうちのような相反する気持ちの絡み合っている
心理状態を嫉妬と言っているのでしょう。

まったく無関心だったら、回答もつけないのではないのでしょうか。

キリスト教は律法主義ではありません。

マタイによる福音書11の25以下ルカによる福音書10の21-22をお読みください。

イエスは律法に縛られていた人間を開放し一人一人の人間が神との関係を持つことを
教えられたのです。

マタイ 11の25
その時イエスはこういわれた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを
知恵あるものや賢いものに隠して、幼子のような者にお示しになりました。」

投稿日時 - 2011-12-25 23:00:01

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません。

そうですね。信者の側から見ると、ご回答は大変に正しいように思われるのですが、回答してくださった方たちから、偽善、欺瞞、との言葉をいただいているので、それにはそれなりの理由があるように思われます。

実際のところは、先生に伺ってみなければわからないのですが、皆さんの回答を読んで、考えてみたお蔭で、お返事を伺って、”ああ、そうですか”だけではなく、もう少し問題提起ができるように思います。

師走のお忙しい時期に、お時間をとっていただき、誠にありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-01 01:51:41

ANo.12

たぶん質問者様もお感じになっておられるのではないかと思いますが、読み物としての聖書は素晴らしいが、それが掟となって拘束されるのは嫌だ、ということがあるのかもしれません。日本には「嘘も方便」という諺がありますけど、キリスト教のような厳格な律法主義にはそういった方便は通用しません。現代日本のような自由主義の時代では、そういう厳格なイメージはなじめないのかも。

投稿日時 - 2011-12-25 15:40:25

お礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。

キリスト教の神は父親のような厳格なイメージがある、ということでしょうか。

イエスが人類全部の罪を負って磔刑になり、そのために、我々の罪が許された、というのも少し大掛かりで、好みではないかもしれません。

イエスか、ノーか、ハッキリしないところで生きてゆくのが楽ちんになってしまうと、洗礼を受けたりするのにも、違和感が感じられるかもしれません。

ライフスタイルの違い、というところでしょうか。

ご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 10:55:08

ANo.11

反感を持つ人がいる事は理解できます。

信者を獲得する為の数々の奇跡話、これだけでも真に納得はできませんしまして中世の宗教裁判の非人間的な内容など到底受け入れられるものでは有りません。更に異教徒イコール悪魔か野蛮人と言う考えも言語道断です。
また外国を侵略する手段として始めに現地の住民を甘い言葉で洗脳しその後軍隊に襲わせる、まるで旧ソ連が友好善隣条約を結びその後相手国を混乱させ助けると言う名目で軍を送り支配する、両者には共通点が大いにあります。

要するに広く人類全体の幸福を願っている振りをして邪悪な部分を隠し目的達成をする。
共産党や民主党にも共通する汚いやり方が垣間見える訳です。

これが嫉妬するほど素晴らしい対象でしょうか?

投稿日時 - 2011-12-24 23:26:16

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません。

そうですよねぇ。私もキリスト教の侵略の歴史を勉強した人たちが、信者に嫉妬をするという理屈がわからないので、この質問をしてみました。

先生のご先祖も迫害の経験者ですから、それは良くご存知のはずなのですが、彼にとっては、そんな過去の経緯を相殺してしまうほど、信仰が大切なものであるとわかります。その辺りが、”嫉妬”なる言葉を選んだヒントになるように思えます。

簡潔で、判りやすいご回答、ありがとうございました。

共産党はともかく、民主党は、そんなにひどいのでしょうか。。。。それも、大変ですねぇ。。。

投稿日時 - 2011-12-31 10:36:36

ANo.10

キリスト教に限ってはないですが、欧米人は歴史をものすごく重んじます。
古代ギリシャ時代から欧米から発信された思想が
世の科学技術や経済、法体系などなどを発展させてきたかを誇りにしているのと察します。

日本は閉鎖的な国で鎖国をしていて思想や国家に歴史の蓄積がほとんどないと想像されていた。
だから東洋は西洋に嫉妬するのだと。

実は世界の片隅で、島国日本が鎖国している戦前に増して、
戦後の日本の発想の豊かさには日本人の私でも知るほどに驚愕します。

日本が蓄積していた水準に嫉妬した世界が!大戦を仕掛けたんじゃないかと。
これを心理学用語で「投影」といいますね。
欧米人は鏡を覗くが好きなんでしょう。

投稿日時 - 2011-12-24 11:24:00

お礼

お礼が遅れてしまって、本当に申し訳ありません。

精神的な豊かさと、物質的な豊かさは、比例するものなのでしょうか。それとも相反するものなのでしょうか。

私は明治の時代に生まれた祖父母に極めて質素に育てられ、、昭和のバブルの時代についてゆけずに、尻尾を巻いて日本を逃げ出した人間です。物質的な豊かさに負けた訳です。ですから、回答者さんのおっしゃる、”戦後の日本の発想の豊かさ”言うのは恐怖と共に実感できます。

戦前から蓄えていた気概に、アメリカから輸入されたマテリアリズムが乗っかって、見る見るうちに経済大国になりましたね。それに嫉妬した西洋人が、鏡を覗くように自己の嫉妬心を、相手に投影したと仰る。。。。なるほど、なるほど、です。

いろいろな方のご意見を伺って、少しずつ、形が整ってきたように思います。

ご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-31 01:57:02

ANo.9

私は40年以上前にカトリックの洗礼を受け、現在でもほとんど毎日曜教会に通って聖歌隊で歌っている熱心な信者ですが、未だに、キリスト教の根底である一神教的考え方に強い違和感を持っています。

表面的には、キリスト教社会に組み入れられ、信者仲間ともつきあい、精神的にも又生活面でも大きな恩恵と利便を受け、居心地の良い気持ちを味わわせて頂いています。カトリックは他宗教に対して融通無碍な所が多く、第二バチカン公会議以降、少なくても表面的に他宗教を攻撃するような所は少なくなり、社会に門戸を開いていると印象は格段に向上したと思います。

しかし、それでも日本人のクリスチャン比率が低い理由を考えると、どうしてもその「一神教的体質」が日本という社会に合わないような気がします。日本人は、自然や祖先たちに神の面影を感じたり、特定の宗教ではなく一般的な、超自然的存在である「神」の存在には親近感は持つものの、特定の、ましてや一神教への入信にはためらいを感じるからだと思います。私も全く同様であり、クリスチャンになったからと言っても、そのような一般的な宗派を超えた「神」を信じていることには変わりなく、キリスト教は単なる方便、アクセスの道具にしか過ぎません。寺や神社にも普通に参拝しますし、家には仏壇も置き、毎朝晩手を合わせます。坐禅にも通ったこともあります。

私のような考え方は、融通無碍なカトリックだから許されていても、これがプロテスタントだと、結構「原理主義」的傾向があり、「聖書」が唯一のよりどころ、神以外のものを少しでもほめたたえたり、入れ込んだりしようというものなら、全て「偶像崇拝」として退け、ましてや他宗教の聖像などに頭を下げるのはとんでもない、という空気が読み取れます。たとえ地獄に落ちようと、私は他宗教と融和しない宗教的立場には組したくありません。
現に、アメリカ中西部社会では、未だに進化論を信じるキリスト教原理派が幅を利かせていたり、異教徒を異質のものとして遠ざけたり排除したりする傾向が否定できないようですね。
→只今質問中の以下の質問への回答をご覧下さい。
http://okwave.jp/qa/q7205282.html

そのような中でもなお私がカトリックに踏みとどまっているのは、プロテスタントの神学者が主に聖書の研究のみに没頭しているのと違い、カトリックの神学者は、キリスト教をグローバルな世界や他宗教との関係性において客観的に捉え、自己礼賛のみに陥っていないことです。例えば元上智大学教授の門脇佳吉神父の著書では、仏教の高僧たちをよく研究され、それらから学ぶという姿勢を通して、キリスト教とは何ぞや?という問いかけをされています。又、マザーテレサはヒンドゥー教が多数を占めるインドの貧民街で、コルコタの街で行き倒れになっている人々を助け、彼らの死に際しては希望する宗教で葬式を上げてやり、教派を問わず大きな共感を呼びました。

又、キリスト教は「隣人愛」を最高の価値として重んじていると言われていますが、本当にそうなのかという疑問もわきあがってくると思います。
「隣人愛」は同じ家族や、民族・宗教・価値観を共有する人々との間では機能しているとしても、果たして「異教徒」と呼ばれる我々やイスラムの人々にも及ぶものでしょうか?
その答は、私としては「及ぶ」と好意的に見ていますが、中には上記のアメリカ中西部社会のように、キリスト教以外の人々を認めたがらない人々をはじめ、キリストの嫌った「パリサイ人」的な偽善者や差別主義者も多いことは否めません。

何よりも、キリスト教やイスラム教のような「一神教」は厳しい自然や民族間の葛藤の中で生き抜いてきた宗教であり、いくら「隣人愛」を重んじていると口では言っていても、人々を癒したり、許したりするよりも「裁く神」という印象もまぬがれない面があると思いますし、一部の仏教のように「念仏」さえ唱えていれば極楽に行けるなどというのとは違い「自助努力」を促しているようにも感じます。
この点に関しては、土居健郎氏が、「信仰と「甘え」」という著書で語っていたように、神様には甘えてもいいんだ、という考えもあり、決して神は厳しかったり、人間を裁くような存在ではない、というのが私の結論になっています。 

それでも、古くから十字軍や植民地攻略の際も、キリスト教を異民族に広めることが「錦の御旗」のように利用され、キリスト教は直接間接にそのような世界攻略を助けてきたことは事実でしょう。この点に関しては、前教皇ヨハネ・パウロ二世が2000年、過去キリスト教が犯した十字軍をはじめとした過ちを世界に向かって認め、謝罪したことは記憶に新しいです。↓
http://www.st.rim.or.jp/~success/houou_ye.html

キリスト教の信者は決して清廉潔白ではなく、皆と同じ人間であり、多くの過ちも犯し、矛盾をかかえていますが、それでも私はキリスト教信者になってよかったと思っています。

投稿日時 - 2011-12-23 20:35:54

お礼

回答が遅れて大変申し訳なく思っております。

そうですね。隣人は一体誰か、と聞かれたときのお答えが”親切なサマリア人”であったことの深い意味を、もう一度考えなくてはなりません。この例え話の中では、差別を受ける側であったサマリア人が助けてくれる側であり、我々は、命を救われる側であるのは、大切なことだと思われます。

私は、父方が代々カソリック、母方は禅宗、夫が代々南部洗礼派で、現在は夫に従って、回答者さんの仰る原理主義者に満ちた教会に通っています。ひとついえることは、私達よりもひとつ昔の世代はずいぶん頑迷なのですが、世代が下がるにしたがって、どんどん融通が利くようになっています。

アメリカの教育は、州の中にまた細かい学区がありまして、その学区ごとに指定の教科書が違うのですが、もっとも保守的な州のひとつであるテキサスの高校でも、きちんと進化論を教えています。私達の年代でも、高校で進化論を習ってでショックを受けた人たちが多いので、この、”進化論を否定する教育”というのが、どこで行われているのか、調べてみようと思います。

徹底的に進化論を否定する人たち、世の中のマテリアリズムに反対する人たちは、家庭で子供達を教育しています。そのサークルに出席したことがありますが、カソリックとプロテスタントの家庭が半々であったと記憶しています。

私も、隣人とは、宗教を超えたものだと信じています。実際には、教会の中での活動が多いので、どうしても信者さん同士の交流が主になってしまいます。それも大切なことですが、その心地よさを打ち破って、外に出てゆく勇気があるのが、本来のキリスト教徒のあり方なのでしょう。その困難を打ち破った人たちが、カソリックでは聖人と呼ばれるのだと思います。

イエスを救世主と信じるかぎり、カソリックもプロテスタントも、同じ神の国を目指しているのですから、過去は洗い流して(神道的ですが)、共存共栄を図ってゆけるようになると良いですね。ただ、ご指摘の通り、プロテスタントは四分五裂で、代表となって、仲直りをしてゆける御仁がいません。

歴代の教皇は、プロテスタントを許してくださったのでしょうか。

投稿日時 - 2011-12-31 01:38:40

ANo.8

No4さんのような考え方をするなら
日本も天皇を神だと主張し、中国やアジアに
侵略戦争を行ったのですくなくとも
(国家)神道には、反感がなければならないと思います。

豊臣秀吉などは、聖書を読んでいなかったのでしょうか
「私のために、ののしられるときあなたがたは幸いである」
「命を失うものは、かえって命を得る」
殉教者たちは、天国行きを確信していたはずです。

また、さすがに新約聖書には書いてありませんが
旧約聖書には、神の命令で「戦争をせよ」などと
書かれています。

戦争が悪というのは、日本国憲法の問題で、
宗教は、特に戦争は「悪」であるとは
言っていないと思います。

投稿日時 - 2011-12-23 13:02:31

お礼

お礼が遅れて、申し訳ありません。

国家というのは、国民の安寧な暮らしを守るためのもので、戦争をする権限があるように思われています。その考え方が疑問視されて、人間の命の尊さが叫ばれだしたのは、ベトナム戦争以降のことではないでしょうか。

キリスト教を禁教にした豊臣秀吉も韓国に攻め入っています。

でも、No.4さんのように考える方が多いのも事実なのではないでしょうか。

この辺りは、私の質問とは関係があるようですが、全く別の問題であるように考えます。

alwen25さんは、信者さんのように思われますが、入信する際に、全く抵抗はありませんでしたか?周りからの反対があったとしたら、一体どんなものであったか、教えていただけると、嬉しいと存じます。

ご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-28 09:28:24

ANo.7

 ▲( a ) J.カルワ゛ン( Jean Calvin ):《神認識と自己認識は結び合った事柄である。それらはどのように相互に関連しているか。》・・・(ジャン・カルヴァン:《キリスト教綱要》第一編第一章の章題 渡辺信夫訳 2007)

 ☆( a-1 ) まづ《神認識》という言葉じたいに疑問がつく。自己認識と同じように・すなわち経験世界のものごとに対する認識と同じように 非経験の神について人間が《認識》できると表現することに違和感がある。
 ただし 神の愛(神が人を愛することおよび人が神を愛すること)と隣り人の愛(人間相互の愛)とが けっきょく同じひとつのことだと言われるからには 上のことは表現の問題にとどまると見て 読み進めよう。
 第一章には三つの節があるが その第二節を取り上げるなら 章全体の趣旨が分かると思われるので そうしたい。

 ▲( b ) (同上 第一章 1 の末尾)・・・自分自身〔の悲惨やその無知〕についての知覚は 各々を駆り立てて神の探求に向かわせるのみではなく 言うならば手を取って導くようにして 神を発見するように各々を引いて行くのである。

 ☆( b-1 ) ここでは 人間が自分の知覚や能力および努力によって《神を発見する》と言わんばかりに聞こえるが これも表現の問題にとどまると見ておこう。

 ▲( c )(承前としての第一章 2) その反面 人間は神の御顔を先づ凝視し 次にこれの直視から自己自身の検討へと下って来るのでなければ 曇りなき自己理解に決して到り得ないということが確認される。

 ☆( c-1 ) これほどキリスト信仰について誤解に満ちた発言はない。誤解も何もなく
 ○ 神の直視(=真理なる知恵を見まつること)
 ☆ はこの経験世界にあって生身のからだでいるあいだは できっこない。いまは鏡に映してぼんやりと見ている。すなわちたとえ人間が予感することはあっても 肉眼ではもとより心の眼でも見えない。
 たしかに終わりから始めるとも言われる。けれどもそれは 《信仰》においてである。
 たしかに信仰は すでに《直視》が得られたなら すでに目で見ている当のものを《信じる》必要はもうなくなるのだから 必要ではない。希望も必要なく 愛だけが残ると言われる。
 ここまでは言えるものの
 ▲ 人間は神の御顔を先づ凝視し
 ☆ というこれほどの表現がどうして出て来たのか? これは表現の問題におさまるとも思えないのだが どうであろう?
 神があたえたまうならば ヒラメキにおいて異言や預言を得てそこから
 ▲ 自己自身の検討へと下って来る
 ☆ ことはありうる。けれども
 ▲ 神の御顔の直視から〔自己自身の検討へと下って来る〕
 ☆ ということは あり得ない。

 小さなことだが
 ▲ 曇りなき自己理解
 ☆ は たとえ未熟でもまったくかまわないと言うべきだ。われわれは 知識の精確さによってではなく 信仰によってあゆむ。

 ▲( d )(承前) すなわち (これこそ我々万人にとって生まれながらの傲慢の然らしむる所であるが) 明白な証拠を突き付けられて 己の不義 汚らわしさ 愚かさ また不純を自ら認めざるを得なくされない限り いつも自分は義であり 完全であり 賢明であり 聖であるつもりでいるからである。

 ☆( d-1 ) ここも完全にまちがいである。われわれ人間は キリスト・イエスの名を心に受け容れて そのあやまちが赦されているのであって しかもすでにそのことは すべての人に実現しているのであって(エレミヤ書31:31以下の《あたらしい契約》を引いて論じるヘブル書8:1以下のくだりを参照) 《おのれの不義をまづ認めて そこから心が駆り立てられて神の探求へとみちびかれ 神の発見につながる》〔=( b )〕という見方も 正確ではない。
 しかもいまここ〔=( c )( d )〕ではそうではなく《神の直視から始めて 人間の自己認識に到る》とも言っている。
 ここまでの批判で批判は足りると思われる。次はおまけである。

 ▲( e )(承前) しかし 我々が自己を観察しているだけで主なる神に思いを向けずにいる限りは このように己を罪に定めることはない。

 ☆( e-1 ) すなわちここでカルワ゛ンは まづおのれの人間としての無力と悲惨を自覚せよ つまりはただただあやまちを自覚しその罪を深く思え そこから話が始まるのだと言おうとしている。
 《主なる神に思いを向ける》のは 何も人間の学識や品行方正なる努力によって成すものではない。そうではなく あたえられるものである。しかも それはすでに――上に触れたエレミヤ書のあたらしい契約の成就によって―― その信仰の自覚の如何にかかわらず あまねく実現したと宣言されたのである。
 人間としての弱さの自覚 あるいは それをもまた存在の全体をもつつんでくれる何ものかナゾなる存在 これに対するきよらかなおそれ を持つこと これだけで人びとはすべてみなすくわれている。世界との和解ができるようになっている。(するかしないかは また人それぞれである)。





 ★ 反感
 ☆ がなくなれば あるいは薄まれば それでよいかという問題ではないと考えましたので カルワ゛ンはお門違いかも分かりませんが イエス・キリストの出現についての理解が得られていないという点で新教各派も旧教も似たり寄ったりだと思い これを取り上げて論じ回答としました。

 (《第二節》のほんの始まり部分を取り扱っただけで批判はじゅうぶんだとして切り上げたのは わたしの判断ですが 冗長をきらい いまはそのままとします)。

投稿日時 - 2011-12-23 12:09:21

お礼

お礼が遅くなって申し訳ありません。

私がキリスト教を信奉するのは、聖書で描かれたイエスの言動に終始一貫性があるからです。

喩え聖人であろうと、人間である我々はそういうわけには行きません。ギリシア、ローマ、トルコの同胞に書き続けたパオロの書簡にさえ、矛盾が見受けられます。

それは、我々人間が、自分の置かれた状況に反応した理論しか展開できないからでしょう。それはジョン・カルヴィンにしても同じことです。彼の生きた時代は、フランスでは王権神授説が唱えられ、教会では免罪符が発行された後のことです。

それを胸に刻んで、彼をご自分のほうに引き寄せようとしないで、彼の思いをなぞるようにして、もう一度同節をお読みになってほしいと思います。

ご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-28 09:14:07

ANo.6

こんにちは。

反感と言うのは、個人的な意見や感覚の表明ではなく、全面的な批判ということでよかったですか?
そういう回答を目にするので・・。

キリスト教も、キリスト教徒も、いろいろだけれど、
批判的な人は、たぶん悪い一面だけを知っているか、逆にあんまりよく知らない人か、
なんじゃないかな?と思います。
それに、勧善懲悪的な思考タイプなんだと思います。


わたしもキリスト教は好きになれない所もありますが、なかなかよい所もあるじゃないの、とも思っています。


たとえば、「ある人のことをキライ」ってなる時は、たいてい深くその人を理解していない時だと思います。
相手の深い事情や思いを知ることができると、全面的な批判ってできないんですよね。

勧善懲悪みたいな考えだと、「あの人は悪人」ってなっちゃいますが、
それはその人が善悪二元論的な考えをしているからそうなるのだと思います。

「自分にとっては敵のような人でも、その人なりの葛藤や事情があってそういう生き方をしている」と思います。
それを知ると、むしろ感動する気持ちさえおきます。
だから、愛をもって相手のことを深く知ると、全面的な批判にはなりません。

批判するタイプの場合、「これは正しい、善い」「これは間違っている、悪い」という思考だと思いますが、
視点を変えると、「すべての人は、その人の正しい道を歩んでいる」と気づくと思います。


先生のおっしゃる「嫉妬」ですが、「八つ当たりも入っている」という意味では、あたっているかも知れません。
批判的な人であっても、あまりストレスがたまっていなければ八つ当たりをしないと思いますから。

投稿日時 - 2011-12-23 08:42:59

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません。

”善悪二元論的な考え方”と、”ストレス”が批判や反感の元になるとのお考えですね。

性善論を軸にして、対象を文学的に捉える素養を持つ、寛大な方だと思いました。

仰るとおり、(キリスト教の教義は現代人の生き方にそぐわないところも多々ありますが、)信者さん一人ひとりを見ていると、愛すべき方が多いのです。それは、イスラム教徒や仏教徒、また、宗教をもたない方々と全く同じなのです。

”全ての人は、その人の正しい道を歩んでいる、”と仰るのは、キリスト教の言い方では、”全ての人には神に与えられた役割がある、”という風になります。ただ、その与えられた役割を、粛々と、感謝しながらこなしてゆく、というのは、難しいことです。

可愛い盛りのお嬢さんを癌でなくされたお父さんが、”素晴らしい娘を与えてくださった神に感謝するお祈りを、霊安室で静かに捧げていたところ、それを見た救急担当の看護婦さんが、その深い平安の心に打たれてイエスキリストを信じたいと確信し、そこで一緒にお祈りをした、”などというお話しをここで書いても、たいていの方は、”偽善的である”と感じるのではないでしょうか。でもそれを、優しそうなお父さんから直接伺うと、それはそれは美しいと感じます。

愛を持って相手を知る、と仰るのは、それは大切なことであると思いました。

ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-28 01:40:10

ANo.5

全ての宗教は構造的に奥行きがあり、生涯をかけても極めがたい。よって、他宗教を理解する為の余力は残らず、偏見や浅学に留まる。
あとは愛着でしょうね。

投稿日時 - 2011-12-23 08:17:13

お礼

お礼が遅れて申し訳ありません。

すこぶる哲学的なご回答です。

噛み砕くと、宗教の奥義に無知であるため、それが、偏見や反感に繫がってしまうということですが。

デ・ローチ先生のいうには、

”聖典の深いところに触れずに、そのメッセンジャーの間違いを見て、宗教の良し悪しを判断する。”

人たちが多いのだそうです。

キリスト教国の犯したたくさんの間違いを見て、キリスト教そのものの信憑性を判断することなのでしょうか。

あとは、愛着、と仰るところがもうひとつわからなかったのですが、神道や仏教への愛着、ということでしょうか。

教えていただけると、幸いです。

投稿日時 - 2011-12-26 12:37:07

ANo.4

キリスト教国家がやってきた歴史から
だと思います。

1,アフリカに侵略し、土地を奪い、奴隷として
 4000万人を輸出して大儲け。
 お陰で、アフリカは社会、家庭が崩壊して今でも
 飢餓大陸。

2,更に、歴史や民族、宗教を無視して、勝手に
 国境を引いたため、現代でも内戦が絶えず、
 立ち直ろうにも立ち上がれない。

 これは、アフリカのみならず、中東も同じ。

3,アジアを侵略してやりたい放題。
 アヘン戦争など、恥の極め。

4,米国では、明白なる神の意志だとして、先住民900万を
 虐殺し、土地を奪う。
 黒人を奴隷として輸入し、差別しまくる。

5,現在でも、建前は、愛だ人権だとしながら、やることは
 差別や侵略ばかりで、勝手な価値観を世界中に押しつける。

 当初、キリスト教に好意的だった秀吉も、やがて
 キリスト教が侵略の先兵だと気づき、更に、日本人を
 奴隷として売買していることが発覚するや、
 キリスト教を禁止した。
 
要するに、偽善の代表みたいな存在だからでないですか。

投稿日時 - 2011-12-23 07:05:28

お礼

お礼が遅れて申し訳ありませんでした。

正直なところ、一番判りやすくて、賛同を得やすいご回答だと考えます。確かにおっしゃる通りなのです。

先年ダライラマ14世のお話を聞く機会がありまして、その時彼は明確に、”他の地域に宗教の布教に行っては行けない”と諌めておられました。どの地域にもそこに住む人々が築き上げてきた歴史と文化があり、他宗教を持ち込むことは、その文化を破滅に導くことになるからです。

それをたくさん例を挙げて仰っているのだと思います。

その、偽善の代表であったキリスト教を改めていって、次の世代につなげてゆくにはどうしたらよいか、というのが、私達のテーマです。

何か良いお考えがありましたら、教えてくださると幸いです。
ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-26 12:20:10

日本人の反応に限定しますが、キリスト教原理主義の国がいつも戦争ばかりしていること、そしてなによりもキリスト教原理主義の米国が異教徒の日本の一般市民に対して二度にわたって原爆を使ったことが原因じゃないかとおもいます。

これは歴史の必然ではなくて、歴史の偶然だとおもいますが、もし、イスラム教国のインドネシアが戦争ばかりして、広島や長崎に原爆を落としたら、やはり、日本ではイスラム教に少なからず反感をもったでしょう。

核兵器で他国を脅かす国と言えば、キリスト教国です。
イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、、、、。
これらのキリスト教国だけで核弾頭の95%以上を保有していますね。

キリスト教国が核兵器を持たず、核兵器を使わなければ、インドや中国も核武装をしなかったと思います。

投稿日時 - 2011-12-23 03:24:43

お礼

お礼が遅れて、申し訳ありません。

そうですね。第二次大戦後、日本と同じような歴史を歩んできた韓国と比べて、日本でキリスト教が発展しなかった理由に原爆の投下が挙げられるかもしれません。

ただ、朝鮮半島は、いまだにひとつの国が二つに分割されて、戦後が終わっていないにもかかわらず、日本の戦後はずいぶん前に終わっているような印象を受けます。

その韓国の人々が、占領国である米国からもたらされたキリスト教に反感なくなじめ、日本人には受け入れられないのを見ると、木造さんの仰るとおり、原爆のもたらした傷跡が、いかに深いものであったかが判ります。

世界で唯一の被爆国の国民であった自覚を持ち続けてゆきたいと思っています。

ご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-26 12:01:57

ANo.2

ひとつには、歴史的な知識によるものでしょう。

ヒュパティアの惨殺で知られる新プラトン主義の知識人の迫害や、
アレキサンドリア図書館の焼き討ち、
十字軍における、異教徒およびキリスト教異端に対する蛮行、
異端審問や魔女狩り裁判の異常性、
宣教活動における未開地への梅毒の持ち込み、
キリスト教文化圏の宗主国による植民地における財産略奪、
などが、他害的・利己的・侵犯的な出来事として認知されるためでしょう。

あるいはまた、聖書という書物の来歴を視野に入れると、
聖書に書かれている内容にのみ振り回されて読解しあうという信者さんたちの輪が、
盲目的で自己完結的な世界に見えるということもあるでしょう。

日本では、救世軍と有産知識階級が結びついての廃娼活動や歳末募金や社会鍋といった
社会的弱者へ向けられた事業が、戦争や震災や大不況で維持し切れなかった面があります。
階級差、身分差のおおきい欧米でキリスト教の持つ積極的介入の役割が、
日本には浸透しなかったと言えるのではないでしょうか。
そのため、キリスト教の歴史的特徴や組織的特徴といった外側からの眺めをうがつのかもしれません。

投稿日時 - 2011-12-23 02:16:00

補足

質問をしておきながら、申し訳のないことですが、お礼が遅れております。

どうか、あと、二日間の猶予をいただきたいと存じます。

投稿日時 - 2011-12-24 12:26:54

お礼

お礼が遅れましたことをお詫びします。

客観的かつ総括的なご意見をありがとうございます。

そうですね。歴史的に見ますと、1492年が西欧地域において、キリスト教がイスラム教を凌駕した年で、その後のキリスト教の発展の歴史は、西欧諸国による、それ以外の地域への侵略の歴史とぴったり重なります。

歴史を、過去のあやまちを繰り返さないための座標とするか、或いは、そのあやまちにこだわり続けてゆくかは、将来をになう若い人たちが決めてゆくのでしょう。

二番目のポイントである選民思想から派生したキリスト教の自己完結性については、思い当たることが大変多いし、信者としては、反省をしてゆかなくてはならないところです。深く頷けるお説です。

三番目にあげて下さった、日本の社会にキリスト教が浸透するのを、戦争や震災が妨げた、というのは、今まで考えたことがありませんでした。それで、今に至っても社会とキリスト教の接点が広がることが出来なかったのですね。

私達が、将来、考えてゆかなくてはいけない課題を与えてくださいまして、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-26 11:38:57

ANo.1

頭に思い浮かぶのはハムラビ法典や旧約聖書にある「目には目を、歯には歯を」の言葉です。

正規の意味は異なりますが、やったらやりかえすですね。
これに僕は反感をいだきます。
同じメッカである、同じ聖書からの分岐のユダヤ、イスラム教
もなじめません。自然を征服できると考えてます。

投稿日時 - 2011-12-23 01:18:31

お礼

仰ることは、なんとなく判るように思うのです。

自然を征服できると考えている、そしてやったらやり返すような、浅はかな人間性を反映した神の属性になじめない、というより、一歩進んで、”それは神のあるべき姿ではない”とお考えなのでしょうね。

自然や環境を尊重し、相手を思いやる心に満ちた人たちの集まりであったら、お心に沿うのでしょう。

キリスト、ユダヤ、イスラム教徒共に、(現在も続いている聖地の取り合いなどを見ていると)、確かに譲り合いの精神などかけらもないように見えます。言葉では、いくらでも綺麗ごとは並べられるけれど、信者の行動の軌跡から、自分本位な、傲慢さをご覧になっているのだと思いました。

何か補足なさることがあるようでしたら、またよろしくお願いします。
ご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2011-12-23 10:45:08

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