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解決済みの質問

カインは なぜ・どこが わるかったのか?

 明確には分かりません。いくつか解説を読みましたが たたき台とする案も見つかりません。

 ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~
 1: さて、アダムは妻エバを知った。
  彼女は身ごもってカインを産み、

   「わたしは主によって男子を得た」

  と言った。

 2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。
  アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

 4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
  主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。

 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。
     お前はそれを支配せねばならない。」

 8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
   カインは弟アベルを襲って殺した。

 9: 主はカインに言われた。

     「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」

    カインは答えた。

     「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 10: 主は言われた。

     「何ということをしたのか。
     お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。

 11:  今、お前は呪われる者となった。
     お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも
     なお、呪われる。

 12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す
     ことはない。
      お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 13: カインは主に言った。

      「わたしの罪は重すぎて負いきれません。

 14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし
      が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって
      しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す
      でしょう。」

 15: 主はカインに言われた。

       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の
      復讐を受けるであろう。」

    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに
   しるしを付けられた。

 16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ のちに弟アベルをころすまでに到る心の深い闇のような悩みがあったのかと推し測られますが それを具体的にどう捉えればよいのでしょう?

 ▲ (同上) ~~~~
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?

 農民と遊牧民との違いを指摘してそこに何かがあるといった議論も聞きますが むしろそれのほうがはっきりしないと考えられます。なんで職業の種類が 心のやましさにかかわるのか?

 よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2012-02-16 14:50:53

QNo.7308621

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質問者が選んだベストアンサー

弟を殺したことがやましかったのでは? 

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。

投稿日時 - 2012-02-16 15:24:35

お礼

 やり方をおしえてさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。
 ☆ 文脈をも交えて引いてみます。

 ▼(ヘブライ人への手紙11:1-4) ~~~~~
 1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 3: 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあと エノクやアブラハムやヤコブ・イスラエルらあるいは ヨセフやモーセなどなどのことがらをめぐって 信仰とは何か・その見えない力のことが語られています。

 ここで なお分からないのは こうです。
 ▼(同上) 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。
 ☆ アベルが信仰の篤い人であったことは そのまま受け容れるしかありません。分かります。ですけれども 
 ▼ アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ
 ☆ たからと言って その《いけにえの優れ具合い》によって・あるいはつまりカインのいけにえは劣っていたということによって 
 ▲ (創世記4:5) カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。
 ☆ ということなのでしょうか?


 つまりまづ
 ★ 弟を殺したことがやましかったのでは? 
 ☆ という理由は ちがいますよね? なぜって やましかったあと ころすまでに到ったのですから。


 整理しつつ考えてまいりますが:

 (1) カインも 神にいけにえをささげているということは 事実である。

   ▲(創世記4章) ~~~~
   3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として
    持って来た。

   4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。
    主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

   5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
   ~~~~~~~~~~~~~
  
 (2) 《土の実り》は 《羊の群れの中から選んだ肥えた初子》よりも劣っていた。あるいは絶対的にまちがっていた。もしくは いやしいものであった。ということなのか?

 (3) あるいは――いまのつてで言えば―― その農作物だとか羊の初子だとかのモノの問題ではなく いけにえをささげるときの心の問題なのであろうか?

 (4) おそらくヘブル書にしたがえば それら全体としてのその人の《信仰》のあり方やその中身の問題であったということであるらしい。そういうことなのか?
 つまりは 人の気持ちや心の問題をも超えて 否応なしに 〔ひょっとして心の目にも見えないところの〕信仰のあり方として決まっている・つまりは 神の目から見て 決まったということであろうか?

 (5) つまりは もしそうだとすれば 信仰とは ひとつに人間の心や意志のあり方を超えて すでに神のほうから見て 決められていると取るべきか?
 つまりいちおう人間はその自由意志で考え動くのであるから その意志による自由選択が どうなるかを神は予知していて その信仰のあり方がけっきょく決まっている(分かられている)というかたちになるのか?

 (6) もしそうだとすれば カインは 

  ▲(創世記4:5) ~~~~
  カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
  ~~~~~~~~~~~~~

 というのであれば そのときただちにその信仰の問題だということが――つまりは 人間の側の自由意志によるのではなく そうではなく 神の側の予知の中におさまる自分の信仰のあり方が問題だということが――すでに分かっていた。ということだろうか? 

 (7) カインは アベルにくらべて(もしくは比べるという問題ではなくかも知れないが) いけにえに何をささげたかではなく そもそも信仰のあり方が おかしかった。そしてそのこと自体について 神が《そのいけにえに目を留めなかった》そのことによって ただちに納得した。こういうことなのか?

 (8) すなわち カインとアベルとそして神とのあいだで すべては――最終の決定的な要因としては―― それぞれの信仰のあり方が決めるということなのだろうか?


 (9) そうしますと むしろこうなりますまいか?
 すなわち 《いけにえに何をささげるか》にかかわらず・あるいは もっと言えば たとえ《いけにえに何をささげるにしても・ささげなかったにしても》 それにはかかわることなく 信仰のあり方が 神に見られていた。分かられていた。――したがって 初めからカインは弟のアベルをけっきょくにおいてころすようなことになると分かられていた。ということなのだろうか?

 (10) だとすれば この一般化して《ひとごろし》ということの意味は どういうことなのか?
 なぜアベルという人間は――あるいはアベルでなくとも 人が―― ころされることになったのか? そのことにどういう意味があるのか? という問いに成って来ませんか?

 (11) それは 弟をころして《呪われる者》となったから カインはわるいのではなく そうではなく もともと信仰のあり方によって わるいおこないをする人間であった。となりましょうか? 

 (12) そしてそれでも カインは 神による守護をも得て 生き抜く。生き続けるということにつながりましょうか? 

 (13) こういう物語なのでしょうか?



 (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか?

 (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?


 (16) もしそうだとしたら

   ▲(創世記4:8) ~~~~~
    カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
    カインは弟アベルを襲って殺した。
   ~~~~~~~~~~~~~~

 というようなかたちで いま現代において 襲われるときには 人は抵抗するということでよろしいでしょうか? なぜならカインの問題はすでに済んでいる。ゆえに 二番煎じを演じる謂われはない。と考えられましょうから。


 ヘブル書の記事をおそわり 一気に考えてまいりました。
 このようでよろしいでしょうか? どこか間違えましたでしょうか?

投稿日時 - 2012-02-16 16:36:51

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回答(37)

ANo.37

宮田玲『旧約聖書における「パニーム(顔)」』 
これは面白い。もう少しじっくり考えたい内容ですね。
とても面白いものを紹介して頂き、ありがとうございました。

難しい問題になりますね。
記述と解釈を結ぶ約束事から読解に取り組むと、
物語のキャラクターを塑像し、物語内容に浴する、といった読み方ではなくなりますね。

ともあれ、記述というのは不思議な作業には違いありません。
中世以前は、名詞ひとつに際してもレフェランスが多様ですね。
イメージ層の厚さ、背景や地平の広さに、われわれの目が拓かれる契機にもなると思います。
記述の行為の本質には、霊的であり暗示的であり示唆的である性質が備わっていると思っています。
ロゴス化を引き受ける特権的な書き手の仕事というのは、
はたして書くべきことが先ずあってそれを書き綴っているのだろうかと、疑いたくなります。

顔の点も含め、聖書のタームの奥行きに気付くことがありましたら、
今後もじっくりと時間をかけて掘り進んでください。
ご精進楽しみにしています。
わたしは、この春から子供が幼稚園にあがりますが、おかげで赤ちゃんの頃とは比べ物にならないほど時間を取られており、自分の息の長い仕事にはとても手がつけられなくなりました。
それが幸せなのだというほどは胆をくくれていない自分が心のどこかにいるようです。

投稿日時 - 2012-02-28 01:08:01

補足

 お礼欄をおぎないます。

 ★ ~~~
 記述と解釈を結ぶ約束事から読解に取り組むと、
 物語のキャラクターを塑像し、物語内容に浴する、といった読み方ではなくなりますね。
 ~~~~~
 ☆ という問題についてです。おっしゃるようにむつかしい問題です。

 ただしここでは 聖書にかんする読み これに限定することとします。表現論の一般としては――表現論プロパーとしては―― まだこれからです。

    *

 聖書にかんしてなら どうもわたしには 単純な《表現の問題》があります。

 いつも言っているのですが 《わたしは ねたむ神である》という・人間の言葉によって表わされた神語の解釈についてです。
 《狭いながらもたのしい我が家》というふつうになじみのある生活世界を語った表現においても そこで《たのしい》のは ほんとうには《我が家》がではなく そこにつどう家族や人びとがです。
 それと同じように 《ねたむ》のは 《神》がではなく そうではなくその神のもとにあつまる人びとが であるのではないでしょうか?

 この事例 これは 次の肝心なことを別とすれば 読み取りにかんする第一の決まりだと考えます。


   *

 肝心なことと言えば 泣いても笑ってもどう考えても 神と人との――そしてさらに具体的には 神と我れとの――関係という中軸のことです。それがいかにあるか?

 たとえば これについても聖書の一節からヒントが得られるのではないかと思います。たとえばパウロによる説明。

 ▲ (パウロ:コリント前書 13:3-13) ~~~
   § 愛が中核である。

 3: 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 4: 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

 5: 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

 6: 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

 7: すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 8: 愛は決して滅びない。

   § 愛が中核であることは どこまでもつづく。ほかのものはすたれる。

             預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

 9: わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

 10: 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

 11: 幼な子だったとき、わたしは幼な子のように話し、幼な子のように思い、幼な子のように考えていた。成人した今、幼な子のことを棄てた。

 12: わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

 13: それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 ~~~~~~~~~~~~~

      *

 肝心なこと。われと神とのあいだがら。
 たとえば いま現在 次のような状態にあると考えられる。
 ▲ 13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 ☆ 言いかえると こうです。

  ○ 《わたしは ねたむ神である》という表現の文字通りの意味も そして《じつは ねたむのは神のもとにあつまる人びとである》という表現の意味するところも これらはまだ
 ▲ わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
 ☆ と言われるその状態であり情況なのだと考えます。

 なぜなら いまはまだわたしたちは
 ▲ 〔* 真理をあるいは神を〕 顔と顔とを合わせて見
 ☆ ていないからです。いまは
 ▲ 13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つ
 ☆ をもって生きます。ここでパウロは 
 ▲ この三つは、いつまでも残る。
 ☆ と書いていますが わたしの感覚では 《そのとき・すなわち 真理がすべてにおいてすべてであると見えたときには 信仰は要らない》と見ます。すでに見ているのですから わざわざ《信じる》こともないゆえです。そのつてで 希望も要らなくなります。

 すなわちつまりは
 ▲ その中で最も大いなるものは、愛である。
 ☆ というごとく けっきょく聖書の文章が 記者たる人間としてすでに意図してかどうかを別としてしまいますが 捉えようとし描こうとしたこと これは いまの《おぼろに見えている現実に 愛をどう捉えるか》 この課題であると思われます。

 そういうかたちでの《われと神とのあいだがら》は如何に? だと捉えます。とうぜん 構造的であり言ってみれば重層的であるとさえ考えられます。《ねたみ》も《いかり》も おおきな《愛》の構造世界にふくまれるのであるからにはです。

 ちなみにわたしは この問いをもうけるにあたって カインの場合のこの《神との関係》について 分かっていなかった。ヘブル書の記事をわすれていた(回答No.1お礼欄)。

    *

 ▲ 13:12 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 ☆ このように《今は一部しか知らない》状態において 《すでにあたかも真理をはっきりと見たというかのように・その意味で構造的にとらえる》 また《そのように読者をして見させる》。こういう意図が聖書記者にはあるでしょうね。結果的にとしてでも。

 文字はころし 霊は生かすというのなら 人間としての聖書記者の意図をも超えてはたらく何ものかの問題になるのかも知れません。そこのところは ぼかして・まさにおぼろのままに 触れておくだけにしたほうがよいかと思います。

 かんたんなかたちで言えば 《愛》というひと言で表わすその世界を 文字どおりの表現の意味するところから広げてさらに膨らませて どこまで捉えることが出来るか? 

 表現論一般は まだです。
 聖書の方法 すなわち 《人の自己表現は すべておおきな愛の関数である》なる方法が どこまで経験科学にとって有効なのか? こういう問いになりましょうか。

投稿日時 - 2012-02-28 17:10:57

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 ロゴス化を引き受ける特権的な書き手の仕事というのは、
 はたして書くべきことが先ずあってそれを書き綴っているのだろうかと、疑いたくなります。
 ~~~~~~
 ☆ これは 大きな主題です。

 むかし小説家の言辞として 世の中には物書きに二種類あると言っていたのを思い出しました。
 それは ものを書くときに 初めからすでに物語の筋が分かっていて とりわけこれこれのように終わるのだということがその書き手の中で決まっているというタイプが ひとつ。

 そしてもうひとつに 何も分からないで書く。むしろ何の構想もなく 主題やら主人公やらがぼんやりと思い浮かんでいる。けれどまだ 果たしてどうなるか それはいっさい分からない。分からないから書き始める。その言わば成り行きにしたがって進めるのだというタイプ。これらです。

 あるいは 最初の書き出しの一文は 言わば神から与えられるのだとも言われていたように記憶していますが 昨今の情況は どうなんでしょう。(知っていて 問いを投げかけているのではなく もう――昔も読むのはきわめてわづかだったのですから―― 読んでいませんので 分かりません)。

 取り急ぎ したためました。補足欄というありがたい場がありますので そちらで――さらにじっくり考えてから――ご返答をいたしたいと思います。

 ただ ご回答を読んだあとさらに最新のご投稿を読む機会があって その情況については唖然としました。
 ひとに向かってフェアなチェアマンであれと 欠席裁判を主宰する者が言っているようなのですから。
 まさに ヒキコモリではなく オシコモリではないかと。

 お時間をください。


 * 虚構作品と たとえば論文とは その生まれる事情についてそれほど変わることもなかろうと タカをくくっているかも知れません。との事割り書きは 添えておかねばならないかも知れません。

投稿日時 - 2012-02-28 10:01:53

ANo.36

ご盛況ですね。ざっと眺めた感触では、同じ主旨の投稿はないようでしたので、例によって雑で短めではありますが綴ってみます。

〈カインは激しく怒って顔を伏せた〉

ここにわたしは非常に強く意味を読みとっているのですが、今日ですとわたしたちは、本心をさとられぬように、表情の隠蔽のため、顔を伏せると簡単に考えますし、また書きもします。
しかし、聖書で【顔】というタームは、正面性-存在-世界の現前-肯定 を表しているであろうと思われ、
その対義として、背後-非在-得体の知れないもの-否定 が地平を形成しているように思われます。
【顔】を伏せたことは、明るみから身を隠すに等しい意味合いだろうと考えます。

神話や聖書は、物語表象に、お作法のごとき独特の意味や示唆があり、リアリスムの記述とはまったく異なった、掛け値のうえで書かれるものではないでしょうか。

出来事を追って起承転結に意味の開示があって織物のように物語が進行する、というよりも、象意をなぞりかえしなぞりかえし掘っている印象がときどきありまして、この場合にも、
顔を伏せた、と書かれたとき既にその暗部に堕ちた姿が描かれ、
罪と遭遇すること、そして、嘘をつくこと、と続けてなぞられ、
誰にも抹消されえない人間暗部の存在そのものとして、またなぞられる。

何がいけなかったたのか、というドラマツルギーのあるような問題ではなくて、
顔を伏せる役目、人間の暗部を引き受ける役目、という設定の中にカインが置かれていると思うのですね。
このように言って分かりにくくないことを望みますが。。。 

投稿日時 - 2012-02-24 06:02:51

お礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回の
 ★ ご盛況
 ☆ は これまでのわたしの質疑応答とは少し違って ひとえに――つまりこの質問でわたしはたたき台を出すことも成し得ずにいたことから始まって―― 回答者のみなさんが知恵をしぼって考えてくださった賜物と思います。掛け値なしです。(わたしも 自分ながらつけ添えるならば それに応えようとがんばったみたいです)。

 さて ご結論は 確かに独特な内容であるようにお見受けします。
 ★ ~~~~
 何がいけなかったのか、というドラマツルギーのあるような問題ではなくて、
 顔を伏せる役目、人間の暗部を引き受ける役目、
 という設定の中にカインが置かれていると思うのですね。
 ~~~~~~
 ☆ だとしますと アダムとエワからの血筋の系譜をたどる物語は あまり意味がない。まづこういう設定を捉えるべきだとなりましょうか?

 ★ 人間の暗部〔とそれ〕を引き受ける役目
 ☆ が先にあって この主題を たとえば アダムらの長子としてのカインなる存在に設定した。のだと。

 じつは わたくしもこの見方に片方の足を突っ込んでいまして それは たとえばこうです。

 ○ 自由意志を持つ存在としてのヒト をアダムらに設定する。

 と見るようにです。
 もう少し詳しくは:

 ○ (自由意志がそなわったヒトなる存在としてのアダムとエワ) ~~~
  1. 人は 身と心から成る自然本性がそなわっている。
  2. 心ないし精神は 記憶・知解および意志から成る。
  3. そのうち中軸となる意志は 自由な選択をゆるす自由意志である。
  4. この場合の自由とは おのれの心に逆らってモノゴトを欲することもあるということ。
  5. したがってこの自由は そのとき同時に答責性(説明責任)をも帯びるということ。(それによって 自然本性が 言わば善である。自己秩序が成り立つかたちである)。
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ですから その次の世代の長子であるカインには すでにこの段階で 別の主題が設定される。それは 人が自由意志によって為す行為のうち わが心に逆らった判断および行動としてのそれの極端な場合を取り上げておくということだと。
 すなわち自由意志が自然本性としてそこにこそそなわっているところの存在 この人なる存在そのものを抹殺するという意志行為であろうと。

 したがって ですから このカインの自由意志の中身に対して さらにその対極は アベルの精神であろうと考えられて来ます。自然本性が存在として言うなれば善であり・また自然本性を活かして存在を生き切ることも善であるかぎり この善の一筋に生きるという精神。

 

 そしてただし片足を入れているだけだというそのわけは こうです。
 やはり
 ★ 人間の暗部〔とそれ〕を引き受ける役目
 ☆ という主題は 
 ★ 人間の暗部
 ☆ が実際にあってそのあと それがひとつの主題となる。と考えるからです。人間の生きる現象 共存して生きる社会があるなら その現実から話を始めるよりほかに議論も出来ないと。
 現代にでもなれば そのような現実についての了解は出来ていますから いきなり議論を始めてもよいのでしょうが 聖書記者たちは そうはしなかった。と――反面では―― 思われます。

 その記者たちの好みだと言ってしまえば 中身のうすい話になってしまいますが 
 ★ ドラマツルギーのあるような問題
 ☆ として著わしたかった。のではないでしょうか?

    * これは わたしの考えでは まづ一にも二にも 神への信仰という
     ことが始まったアブラハムの物語が いちばん先にあったと考えます。
      そのあと かれから世代をさかのぼって けっきょくじんるいの始
     祖にまで行き着いた。そこから 物語をあらためて・つまりアブラハ
     ムのときから見てその前史を 捉えておこうとしたのだと。

 ドラマツルギーがあるなら 確かに一方では 一つひとつの主題を織り込んでその議論のようなものをもおこなうと同時に 他方では ドラマもある。登場人物たちをめぐる生活の生きた歴史もある。

 ということは 同じく同時に このカインを取り上げるのなら その考えや行動の
 ★ 何がいけなかったのか
 ☆ という問題をもふくんでいる。書いてないけれども 記者たちは 視野にはおさめている。と思われて来ます。
 必ずしも まだ分からないのですけれどね。つまり何がいけなかったのかというドラマの視点よりも 確かにけっきょく意志行為のうちの最悪としての人殺しという主題を設定することのほうに重点が置かれているのかも分かりません。

 あるいは ぐれいぞおんさんが取り上げておられた《人間の自由意志に対してさえ行使されうる神の絶対主権》という問題もかかわっているかと考えられます。そうは お応えしえていなかったかも分かりませんが このけっきょく人にとっては《恩恵》でもあるところの《神の絶対主権》を否定は出来ませんし また無視することも出来ないと思われるからにはです。


 ここまでが ご回答を受けて質問者が反応したそのままの応答です。







 ★ 顔を伏せた、と書かれたとき既にその暗部に堕ちた姿が描かれ
 ☆ このご見解は 《神の絶対主権》のことを暗示していると読めるように思うのですが どうでしょう?
 人の自由意志を凌駕する――絶対的に凌駕する――神の意志 これを カインはそのとき即座に受け留め 受け容れざるを得なかったというその瞬間のことでもあると見ます。
 おのれの心にさからった判断と行動 その種の自由意志による意志行為には 神の意志がはたらき そのことの間違いのない認識をきみはおこなえとカインに迫る。さばきと言うよりも これも めぐみであるように思われます。

 ★ 暗部に堕ちた 
 ☆ と表現されていますが じっさいこの《顔を伏せる》くだりは 直訳によれば《カインの顔が落ちた》というような表現だそうです。

 ▲ (創世記4:6) ~~~~~~
  ・(新共同訳) ・・・どうして顔を伏せるのか。
  ・(KingJamesVersion) ・・・why is thy countenance fallen?
  ・ 原語のヘブル語のナファルは 次のように《to fall, lie, be cast down, fail》という意味だそうです。
    http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H5307&t=KJV
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 そうして 《顔》については こう読んでおられるようですね。
 ★ ~~~~
 聖書で【顔】というタームは、正面性-存在-世界の現前-肯定 を表しているであろうと思われ、
その対義として、背後-非在-得体の知れないもの-否定 が地平を形成しているように思われます。
 【顔】を伏せたことは、明るみから身を隠すに等しい意味合いだろうと考えます。
 ~~~~~
 ☆ 今頃ですが ちょっと調べてみました。

 ◆ 宮田 玲:旧約聖書における「パニーム(顔)」 Panim (Face) in the Old Testament
  http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00004391&elmid=Body&lfname=630108.pdf 
 
 これが検索で出ました。そこでは この《パニーム(顔)》という語は:
 ◆ (1) 固有名詞と強く結びついた個別性、(2) 内部の奥行きへの暗示といった特徴が明らかとな
った。
 ☆ と言います。さらに この語は 《顔 あるいは 前面》といった意味であるにもかかわらず 複数形(《-イーム》という語尾がそれ)でほとんどつねに用いられる。このことは:
 ◆ ~~~~
 複数を強く保持するこの語の意味領域を確定しようとすれば、face(s)(顔/表面)ではなく phase(s)(相/局面)とでも訳すほうが適切な場面があるのではないか。
 内部へ向かって限りなく遡行し得る、ダイナミズムを伴った「内奥」に対する示唆が、複数という形式の一機能として認められて然るべきであろう。
 ~~~~~
 ☆ とも説明しています。《(2) 内部の奥行きへの暗示》と言えば オモテだけではなく内側をも内包していて けっきょく《心》をも表わし得るかと考えられます。その《カインの内面が落ちた》と。《局面が変わってしまった》と。



 まだ盛り付けが出来ていませんが すでにテーブルにお出しすることにします。

投稿日時 - 2012-02-24 09:17:52

ANo.35

ぶらじゅろぬさん、こんにちわ。
ご返事ありがとう。


何となく
◇エサウとヤコブの話
◇ヨセフとそのお兄さんたちの話
◇放蕩息子とそのお兄さんの話

なんかを思い浮かべてました。

「わるい」って言葉は
ちょっと違うんぢゃないかな。
怒るのも妬むのも当たり前だし。



気になったのは
「カインは いのらなかった」ってことです。
(コリント第二4:17前後・
 ルカ11:10あたり・
 マルコ11:24あたり)

他の回答者様と重複するかもですが、
アダムの時代に人間は不完全になった、
という設定なのですが、
それを認めなかったってことかしらん。


ついでに
ウリヤを殺したダビデの話も
何となく思い浮かべてました。

で、気になったのは
「カインは 悔い改めなかった」ってことです。



ヤコブがエサウの「かかとをつかんでいた」
という記述が気になってるんですが、
よくわからんです、関係ないかもです。


例によって思いついたことを
パツパツっと書きました。
読んでくれてありがとう。

投稿日時 - 2012-02-23 17:56:48

お礼

 にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 気になったのは
 「カインは いのらなかった」ってことです。
 (コリント第二4:17前後・
  ルカ11:10あたり・
  マルコ11:24あたり)
 ~~~~~~
 ☆ よく引用される箇所ですが 基本的なことのようですので 載せておきます。

 ▲ (ルカによる福音書 11:9-13) ~~~
 9: そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 10: だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 11: あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。

 12: また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。

 13: このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 ▲ (マルコによる福音書 11:22-25) ~~~~
 22: そこで、イエスは言われた。
    「神を信じなさい。
 23:  はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち
    上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の
    言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
 24:  だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得ら
    れたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
 25:  また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思う
    ことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたが
    たの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ なるほど。カインは 自分の思いを持っており 言い分をも持っている。だが なぜそれを祈り求めなかったか? と。



 ★ ~~~~
 ◇エサウとヤコブの話
 ◇ヨセフとそのお兄さんたちの話
 ◇放蕩息子とそのお兄さんの話
 ~~~~~~
 ☆ アベルが 通俗的な考え方から行けば 何とも割りに合わない人生だったと思われる限りで 放蕩息子の兄に似たところがあるかも分かりません。どちらも 真面目であります。
 ヨセフは いぢわるをされるほうですから どうなのでしょう? そうしてその逆境を乗り越えて行く。
 ヤコブは いまのヨセフと同じように――ヨセフよりは やんちゃな感じですが―― ヤコブ・イスラエルとなるべく定められているというように思われますので カインともアベルともあまり似ていないように思われますが どうでしょう。


 ★ ~~~
 アダムの時代に人間は不完全になった、
 という設定なのですが、
 それを認めなかったってことかしらん。
 ~~~~~~
 ☆ これは いきなりですが わたしは そのように自由意志によって わが心に逆らってでもその意志の発動をおこなうようになったという状態――つまり 楽園を追われて 不完全になった状態――が 神から《よし》とされた状態に入っていると思っています。


 ★ ~~~
 で、気になったのは
 「カインは 悔い改めなかった」ってことです。
 ~~~~~
 ☆ そのようでもあります。

 こんなところでしょうか。

投稿日時 - 2012-02-23 22:13:15

ANo.34

#33です。

>往々にして このヘビの生け捕りやヘビ使いになることに 悲観的である。きわめて悲観的な顔を見せている。ここに 人びとは辟易しているのではないでしょうか? それよりは 仏性だというわけです。

まあ、そういった側面もあるのかもしれませんね。

色々ありがとうございました。
  

投稿日時 - 2012-02-23 17:42:30

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 たしかに。
 何ごともあかるいのが いちばんです。



 


 ひょっとして まだまだご持論がお有りなのかも知れません。

投稿日時 - 2012-02-23 21:17:26

ANo.33

#32です。

> (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 端的に言えば、神というのは(作者がいかに書こうとも)単なるマッチポンプなんじゃないでしょうか。
 ☆ という見方を どんぴしゃりとして わたしはしています。

「解決済みである=マッチポンプ」というわけですか。わかりました。
であれば、くどくなるかもしれませんが、カインの貢物が無視されたのが仮に「信仰の問題」であるとしても、「神を信仰すべき」という聖書作者の意図に基づいて物語が作られているわけですから、それは当たり前のことではないか、と言っています。
つまり、悪役として登場するものはすべて「信仰に問題があったから」でないはずがないでしょう。
聖書の物語的構図を解明しようとするのは自由でしょうが、聖書執筆者の意図という視点を忘れると新興宗教に堕してしまうように思ったわけです。
聖書は小説として読むべきでしょう。

なぜベストセラーになっているのか、といえば、(殆んど読んだことがないのでたぶんですが)そこに真実が書かれているからです。
ただし、この場合の真実というのは、私流に表現すれば、神は超自我の、蛇や悪魔は本能の、そしてその他大勢は自我の象徴として登場しているという意味での真実です。
しかも、そのように上手に役割分担が為されているはずで、人々は聖書が自らの心の動きを象徴的に再現しているかのように感じるからこそ信じることができるのでしょう。
つまり、信じているのは神ではなく、実は自らの本態的な心の動きだと捉えるのが妥当です。
「信仰」という表現は、この点から目を逸らし、あたかも自らが何か他の力によって動かされているのだ、という錯覚を生ぜしめることが目的でしょう。
ですから、(少なくとも「信仰」に関して)「考える」を放棄しないと信仰はできない、とおそらく思われます。
少なくとも信仰しているとは認められないような気がします。
信仰のもっとも危険な点は、存在しない意志、あるいは意図が存在すると錯覚する、あるいはさせることではないでしょうか。


> 民俗としてその通念として ヘビ=アクマ説が横行している。よって まづはその通念のとおりに世の中のことを(つまり 人びとの心の特にうわべの心理共同=クウキを)受け止めて そこから話を始める。

これは全く違いますが、まあ、水掛け論をしてもしかたないので、
なぜそういった通念が発生したのか、という根本を無視しておられます。
とだけ述べておきましょう。
ヘビ=リビドー説にしても、これは単なる想像力、そして連想の問題にすぎません。
蛇でなくともリビドーの存在することに変わりはないわけで、それだけのことです。

>  なぜそんなことをねらって自己表現するのか?
 局地的な驟雨としての心理問題は その象徴が何であるかの仮説を含めて 人間存在にとっては 要らない。ゆえです。
 そのためには――大局観に立つには―― 非思考の庭がわが心に成るという信仰の動態として生きるのが いちばんだと思うからです。哲学を活かせる。心理の世界を引き潮とともに去らせ得る。からです。

根拠は無いということらしいですが、「要らない」というひとつのご見解であることはわかりました。
そういうお考えがあっても良いと思います。
>大局観に立つためには

という前提をまず立てるのではなく、大局観が自然に得られる道を探るのが妥当ではないかという気がします。
心理は(脳科学なども含めてですが)
>局地的な驟雨

ではなく、真理に通じる鍵であり、真理に近づくことは安心・安定をもたらすはずで、それがむしろ大局的見地に立てる近道であるかもしれません。
    

投稿日時 - 2012-02-23 15:36:48

お礼

 はこぶるさん ここまでともにやって来れて うれしいかぎりです。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 というのも すでに信仰としての――有神論か無神論かを問わず信仰としての――《非思考の庭がわが心に成る》という絡繰りについては 共有してもらったと思うからです。
 あとは 或る晴れた日に 心の窓をノックする音がおとづれるということ これのみだと思います。

 つまりは ぎゃくにはこぶるさんは わたくしが 聖書における心理学ないし精神分析学の明らかにするカラクリを 注意深く捉えて その説くところを拳拳服膺するようにということ あとはこれのみだとおっしゃることが出来るからです。

 ★ ~~~
 ただし、この〔* 聖書が人気を博しているというその〕場合の真実というのは、私流に表現すれば、神は超自我の、蛇や悪魔は本能の、そしてその他大勢は自我の象徴として登場しているという意味での真実です。
 しかも、そのように上手に役割分担が為されているはずで、人々は聖書が自らの心の動きを象徴的に再現しているかのように感じるからこそ信じることができるのでしょう。
 ~~~~~ 
 ☆ ということであって そういうわけなのだとおっしゃるものと思います。


 そうですね。
 いたちの最後っ屁などは 大したことないわけですが ぎゃくにその大したことのないことを ひとこと 添えることにします。
 ★ 神は超自我
 ☆ これについては ふたつの見方から捉えねばなりません。人間の言葉で表わされた物語として見るかぎりでは おそらくそのご指摘のカラクリは 当てはまるところがあると考えます。
 もうひとつの見方としては 非経験の場すなわち神のことを 仮りの・代理の表現として表わしていると見た場合です。 

 これについては いつも《神は ねたむ神である》という一文についての議論を例に出します。《神はねたむ神である》というとき それは 表現の妙であって たとえば《雪の降る夜はたのしいペチカ》という表現で実際にたのしいのは ペチカがではなく その家の人びとがであると見られるように ちょうどそれと同じように 《ねたむ》のは 実際には神がではなく 神のもとにある人びとがであるということ。この例を持ち出して 言わば大局観は 別にあるといったことを言い張ろうとします。

 なぜなら もし《超自我》が神であるなら・また神が超自我であるなら それは人間の能力のひとつなのですから あくまで人間が駆使することのできるものだとなります。つまり 神や信じるという言葉は要らないということになります。それの当否については 広く大方の意見が出されて 話し合いと哲学的探究をとおして判定することだと思います。


 そして もし大局観というのなら 
 ★ 神は超自我の、蛇や悪魔は本能の、そしてその他大勢は自我の象徴として登場しているという意味での真実
 ☆ といった全体を見ることになるでしょうから それは《自我》ひとりの問題ではなく また《超自我》や《本能》それぞれの単独の問題でもないということが 明らかになるかと考えます。
 これは 対話によってたどり着けた大きな成果のひとつではないでしょうか?
 つまり 問題は・主題は 人という存在であり 人格全体としての《わたし》であるということ。この命題は とうといと感じます。
 自我は 調整機能というのであるから そのような全体観は 織り込み済みだと言われるかも知れませんが では その自我と《わたし》との関係はどうかという問いについて 必ずしも明確な答えが出ていなかったのではないでしょうか? それが明らかになったと思うからです。

 ● 人間の中にヘビが潜む。
 ☆ としても このヘビを《わたし》は ふくみ持っているのですから ヘビを生け捕りにして 何ならヘビ使いになればよい。こう考えられます。
 つまり ムイシキ理論ないし精神分析学は ――もう今では はこぶるさんは そうではないと明言されましたが――往々にして このヘビの生け捕りやヘビ使いになることに 悲観的である。きわめて悲観的な顔を見せている。ここに 人びとは辟易しているのではないでしょうか? それよりは 仏性だというわけです。


 
 たぶん世の中の変化につれて あるいは 研究のすすむにつれて これからも新しい視点などを受け取ったときそれらをめぐって 互いの対話は続けられていくことでしょう。と思います。
 お疲れさまでした。ありがとうございました。

 このあと ただちに新知見などをもって・あるいは そうでなくともまとめとして ご投稿を寄せてくださってもむろん かまいません。ので よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2012-02-23 16:37:45

ANo.32

#31です。

聖書についての単純な興味でお手を煩わせてしまっていますのでなるべく簡潔に問いたいと思います。

>神はむろん答えを知っていて問うている。そういうことであり そういうふうに相手の思考形式を全部自分の心の内に摂り込むというかたちで 話をするわけになります。
 ▲ (創世記4章)~~~
 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     ・・・
 ~~~~~~
 ☆ 相手の心をつつんでいる。そういう意味です。

2つ質問させてください。
まず、ということは、アベルの貢物を選んだ時点でカインが怒るということはわかっていたということですよね。
怒って殺してしまう、という予測まではできなかった、ということになるでしょうか。
また、「もしお前が正しいなら~」と言ったということは、カインは(カインも)正しいということだと思いますが、正しいけどもアベルの貢物のほうをよりに正しい、と判断した、ということでしょうか。
つまり、正しいのであれば、なぜ「目を留める」という簡単な行為すら神はしなかったのでしょうか。
意図的だとすれば、あくまでカインを正しくない者として設定するためのお膳立てが予め用意されていたと解釈するのが自然だと思うのですが。
つまり、カインがなぜ間違っていたのか、と問う意味はないわけで、それは単にカインが間違いを犯すべき人物として物語の中で設定されていたからにすぎないのではありませんか?
端的に言えば、神というのは(作者がいかに書こうとも)単なるマッチポンプなんじゃないでしょうか。
まさか、聖書に書かれていることが史実というわけではないですよね。
  
>非思考の庭なる信仰は 未知でもなく 言うならば非知ですが もともと《人が知り得るか知り得ないか それが知り得ないこと》としての非経験の場を〔のみ〕あつかっています。ゆえに《経験思考》とは矛盾することはないのです。住み分けています。

では改めてお尋ねします。
なぜ
>住み分ける

必要があるのですか?
「非知」という概念を否定しているわけではありませんよ。
なぜ、それが信仰の専売特許となる必要性があるのか、ということを尋ねています。
「非知」という領域もある。
それだけのことでしょう。

> このように 言うなれば 表面での局地的・一時的なできごとにかんしては それとして成り立つ場合があります。というよりは その一定の時空間では まさにその事実認識が ただしいというわけです。
 あたかもそのように たとえばコンプレックスに悩まされるという事態が起き得ます。そしてその事実認識は 間違っていません。しかも問題は 《人間存在ないしその人格ないし人生》の全体がどうかという主題にもなっています。同時にそのような広い視点も成り立っています。

これは奇異なご見解です。
>もともと《人が知り得るか知り得ないか それが知り得ないこと》としての非経験の場

にたちながら、
>その一定の時空間では まさにその事実認識が ただしい

という認識に至る、というのであれば、今流行のスピリチュアルという子供だましとどこが違うのでしょう。

> つまりは 目の前の嵐があまりにもひどいので 《へび》ならヘビの所為にする。生殖行為は――アウグスティヌスの命題としては 《情欲のない生殖》という境地を言っていますが―― 一般に言わばふたりが密室で致す行為ですので 何かと秘密やらそれにまつわって隠したい身体の部位もあると感じるようになるのでしょう。そういう一定の時空間の範囲とそこで起こる心理作用また集団としての共同心理といった情況が出て来ます。
 ただそれだけのことです。
 その局所的・一時的な事態について言えば ムイシキ説やコンプレックス理論も 当てはまり事実認識として合っていると思われる恰好になる。こういうことだと見ます。
 けれども 全体から見れば それらは 要らないことです。過ぎ去って行く事柄です。

たぶん大きな勘違いをなさっておられると思います。まず、
>要らない

という根拠が曖昧です。
そして、本当に
>過ぎ去って行く事柄

足り得ますか?
イブだって、自分の性欲の象徴として蛇だと言ったに相違ないとわたしは思います。
そういった象徴も思い浮かばないほどの精神状態で、なぜ知恵の実を食べてしまったのか、とひたすら悩み続けていればおそらく神経症となってしまったはずです。
その意味で、無意識を想定し、納得することは、要らないこととは言えないと思われます。
真理を知ることによって納得が得られ、(一時的には辛く感じる場合もあるにせよ)それが精神の安定につながることは明白な事実ではないでしょうか。

> ★ ただ、わたしの最も言いたいのは、記述されたことの意味を問うというよりは、なぜそのような記述をしたのか、その目的論的に捉えるほうが適切ではないかということです。
 ☆ これは 大賛成です。この質問でのやり取りでもわたしはそのような仕方で解釈をして来ています。

そうですかねえ・・・。
たとえば、悪役レスラーに対して、あいつは悪人だと言っても始まらない、ということをわたしは言っているわけなのですが。
悪役レスラーが登場するのは、その要素を観客自身が持ってることを興行主が良く知っているからにすぎません。
この場合、どんな理由であんな反則を相手にするのだろうか、と考えても意味はないでしょう。
それは、興行を成功させるためですし、聖書の場合は、神を信仰させるためです。
信仰と対極にある本能発露の最たるものとしての性欲否定のために失楽園は演出された、ということなんですが、案外正解のように勝手に思っています。
素人相手は疲れるでしょうから、今回はこのへんで。
 
  

投稿日時 - 2012-02-22 23:14:07

補足

 ひとつの事項を お礼欄の文章におぎないます。


 ○ 《心理の動きや集団としての心理共同 このような一時的なうわべの出来事は 要らない》というのは 言ってみれば ブディズムの《空》観と呼応すると考えます。

 ○ 現象は目の前で事実として起こっている。しかもそれらは 仮りに集まった要素や要因が互いに織り成すそのときそのときの出来事である。存在たらんとする人間つまり《わたし》はそのような移ろいゆくものごとは 移ろいゆくものごとだと見るからには そのような現象の中には身をゆだねることを成し得ない。
 非経験の場へと わが心を開こうと。

 こういった心の伸びもしくは明けであり 経験的な事態としては 志向性として捉えられる視点を 打ち出そうとしている。


 けれども 証明し得ていないではないか? とおっしゃるでしょう。

 証明し得ていないけれども そのような志向性を持ってあゆむのでないなら 世界のものごとはすべて 千年も万年も 同じ心理ゲームの繰り返しでしかあり得ないと見たことになる。ゆえです。この心理ゲーム人生を回避したい。ゆめです。

投稿日時 - 2012-02-23 00:17:33

お礼

 はこぶるさん ご回答をありがとうございます。

 細かいことは省いて わたしから見た核心をのべます。

 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~
 ・・・
 (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか?

 (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 端的に言えば、神というのは(作者がいかに書こうとも)単なるマッチポンプなんじゃないでしょうか。
 ☆ という見方を どんぴしゃりとして わたしはしています。

 ○ アダムとエワが原罪――ウソ・イツワリと取っていいと思います――を侵した。その《前科》は 人間が人間の能力と努力とではつぐない切れず そこから癒されることも自分の力ではかなわない。
 ゆえに 神は 第二のアダムとして その独り子であり自身も神であるキリストを イエスという人間という存在に肉化して送った。みごと十字架上の死とその後の復活によって アダムらの原罪はあがなわれた。めでたし めでたしというマッチポンプの物語です。

 カインにしても 神は かれが自分に背き あろうことか弟のアベルをころすというまでのことをすると予知していました。そのままそうさせて そのあと それとして赦し 余生を過ごさせた。マッチポンプと言えば そのとおりなのです。


 

 問題は まさにはこぶるさんは 先頭を切ってのごとく ヘビ=リビドー説に立って解釈なさるというそのことにあると思います。
 民俗としてその通念として ヘビ=アクマ説が横行している。よって まづはその通念のとおりに世の中のことを(つまり 人びとの心の特にうわべの心理共同=クウキを)受け止めて そこから話を始める。そのあと これらの心理の世界は 大海の局地における一時的な嵐のような出来事である。よって やがて過ぎ行くものなのだと その物語の筋に沿って 明らかにして行く。
 こういうマッチポンプ方式による物語です。
 
 その局地には ヘビ=リビドー説に当てはまる事態は たしかに起こっていると言わざるを得ないからです。

 という大局観を述べているだけだと言えます。それ以上のことは 人間の言葉では表わしがたいと思われます。あとは そのように論理的に表現しえない領域にかんして
 ★ 聖書の場合は、神を信仰させるためです。
 ☆ という事態が(つまり 上の大局観のほかに そういう事態も) 聖書記者は添えているものと思われます。

 なぜそんなことをねらって自己表現するのか?
 局地的な驟雨としての心理問題は その象徴が何であるかの仮説を含めて 人間存在にとっては 要らない。ゆえです。
 そのためには――大局観に立つには―― 非思考の庭がわが心に成るという信仰の動態として生きるのが いちばんだと思うからです。哲学を活かせる。心理の世界を引き潮とともに去らせ得る。からです。


 たぶん このお応えに対して いまいちどお考えを述べていただけるでしょう。

投稿日時 - 2012-02-23 00:03:59

ANo.31

#28です。

>    考える:経験世界における経験事物についてである。
    信じる:非経験の場を想定して これを心に受け容れる。

 ふたつはまったく次元の違うと言っていいほど異なる行為です。両立します。

しかし、「信じる」について考えることはできないのでしょうから、両立とは言えないでしょう。
明らかに「信じる」が上位に想定されていることになる。
また、#26お礼欄
>非経験の場〔なるナゾの何ものか〕

という表現に関してもですが、
非思考が経験世界ではないことはわかりますが、未来(未だ来たらず)であり未知(非知でも同じことでしょう)のことですから、思考の有無とは無関係であり、それが非思考であるのは当然でしょう。
なぜ「ナゾ」になるのか全く理解できません。
単に記憶の前段階とでも言えば済むことです。
と申し上げるだけに留めます。

> ★ 抑圧という操作をせざるを得ない(と感じる)ほどの環境からの刺激であったからこそ暗い部分が残るわけですから、そのために考える必要性が生じるだけです。
 ☆ これが 思い込みであり幻想であると言い続けています。いやな思い出もたのしい思い出も その過去の記憶が意識によみがえったなら そのように想起があった。これだけのことです。
 その想起に際して たのしい気持ちになったり いやな気持になったりする。ただそれだけのことです。

「これだけのこと」で済まない場合に関する視点の問題として無意識は論じる意味があるわけですから、「これだけのこと」で押し通されては全く会話になりません。

> それと同じように いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 これは むろんあるのは実際ですが これがただし どれだけの特別視されなければならないものかについては 大いに疑問としています。

そのようなご見解だということはわかりました。ただ、補足させていただくと、
>いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 

で、実際に思い出せない記憶もある、ということです。
そして、それを無意識と呼ぶだけであって、これも
>むろんあるのは実際です

ということです。
「特別視」という感覚がよくわからないのですが、それらに関して論じてはいけないわけではありませんよね。
その際、
「いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 そして、良いも悪いも含めて実際に思い出せない記憶が格納されている状態」の代名詞として無意識という表現があっても何ら差し支えはないでしょう。
特別視された結果現われるものが気に入らない、というだけにしか見えません。
坊主と袈裟はわけて考えるべきです。
キリがないので、無意識に関して定義的な側面から述べるのはこのへんで切り上げ、あたらしい課題にお誘いいただいたのでそちらに移りたいと思います。
その前にもうひとつだけ。

> ☆ だとしたら この《抑圧――自分自身にさとられないように隠すこと でしたね――で自我防衛機能》であるということを わたしは知っている。となります。それだけのことだ ここで 言えます。

これはある意味で真理です。
「わたしは知っている」のです。
ただ、「知っているのに知らない風を(それこそ無意識にですが)装うこと」が原因で様々な問題が発生する場合があるわけです。
「知っている」ことに気づかせるのが分析だろうという認識です。
むろん、なんの問題も発生していなければ、知らない振りをしていようが関係ありません。幸せな恋人の例も同じです。「>うわっつらを見ている」のではなく、必要のない(現状に何ら不満のない)、または望まない相手に無闇に分析を行う必要はない、ということです。

> ☆ ところが 《へび》――それは特に今度は 夢判断やふるい民俗としての事態ですが――の主題で カインの問題とつながるかも分かりません。

聖書を知らないど素人なので漠然とした感覚になってしまいますが、これは、聖書を書いた人の意図という視点で考えるのが妥当だと思います。

ウィキには、
「善悪の知識を得たアダムとイブは、裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で陰部を隠した。」
とあります。
この箇所は「裸の姿を恥ずかしいと思うようになった」のではなく、「人間は裸の姿を恥ずかしいと思うべきである」ということを言いたいのだ、と捉えるのが良いのではないでしょうか。
「性欲は抑制されるべきものである」という作者の意図がまず先にあるということです。
イブは蛇にそそのかされたわけですが、蛇はイブ自身の性欲の象徴です。
抑制されるべきものであることを印象的に示すために、作者は蛇を悪者として登場させたわけでしょう。
よく知りませんが、キリスト教で禁欲はかなり大きな構成要素になっていると思います。
なぜ蛇であったのか、に関しては、その作者の無意識が蛇と男根を結びつけイブ誘惑に適した生き物だと判断したからだと思います。

カインに関しても、作者がカインに与えた役割は何かという視点で考えると聖書に詳しいブラジュさんならすぐわかるのではないでしょうか。
>16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

の後の経過がわからないので、わたしには推測しようもありませんが。
>11:  今、お前は呪われる者となった。

という記述からすると、
殺人を犯す人間すらも神は許容する、という意図だろうかというぐらいです。
ただし、つまらないものとはいえ、貢物を忘れさえしなければ。
つまらないというのは、アベルは生け贄を以って貢物としたわけで、他の生命の犠牲を厭わなかったという意味で、その分、神への忠誠心は上だと判断されたからでしょう。
神の度量の広さと、神を敬わないことへの罰を一度に示そうとした箇所のような気はします。
弟殺しは、一種のエディプスコンプレックスの派生とみることが可能でしょう。
男児には、父親への尊敬と反抗が同時に存在するわけですが、その尊敬が拒否されたことによってアベルへの嫉妬が生じた。
蛇が(常にとは言いませんが)性欲の象徴であることと同じく、人間心理に合致した構図になっているために物語として無理なく受け入れられるのだと思われます。
ただ、わたしの最も言いたいのは、記述されたことの意味を問うというよりは、なぜそのような記述をしたのか、その目的論的に捉えるほうが適切ではないかということです。
いかに説得力を持つかという点で、作者の意図はたぶん成功していると言えそうな気がします。
読み物としては面白そうです。
めちゃくちゃでしょうか。  
  

投稿日時 - 2012-02-22 18:12:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。さっそくでしたね。第二弾(日本におけるヘビの事例)は まだきょうの午後に書き終わったくらいですから。


 そうですね。
 まづ カインのその後にかんする記事を 載せておきます。それとつづく記事で アダムとエワの三人目の子であるセトが生まれています。そこまで引きます。
 ▲ (創世記4・17-26) ~~~
 17: カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

 18: エノクにはイラドが生まれた。イラドはメフヤエルの父となり、メフヤエルはメトシャエルの父となり、メトシャエルはレメクの父となった。

 19: レメクは二人の妻をめとった。一人はアダ、もう一人はツィラといった。

 20: アダはヤバルを産んだ。ヤバルは、家畜を飼い天幕に住む者の先祖となった。
   
 21: その弟はユバルといい、竪琴や笛を奏でる者すべての先祖となった。

 22: ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅や鉄でさまざまの道具を作る者となった。トバル・カインの妹はナアマといった。

 23: さて、レメクは妻に言った。「アダとツィラよ、わが声を聞け。レメクの妻たちよ、わが言葉に耳を傾けよ。わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。

 24: カインのための復讐が七倍なら/レメクのためには七十七倍。」

 25: 再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。

 26: セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。
 ~~~~~~~~~~~



 問題はですね。大人と子どもとであれば 子どもの論理を 大人はそれをそのまま認めるわけではないけれども 自分の思考範囲内やあるいは度量の内につつみこむことになる。ということだと考えます。
 たとえば次の箇所は 神がひどく頓馬な質問をしていると言われていましたね。でも――これは ほかの回答者とのやり取りで言ったことですが―― 神はむろん答えを知っていて問うている。そういうことであり そういうふうに相手の思考形式を全部自分の心の内に摂り込むというかたちで 話をするわけになります。
 ▲ (創世記4章)~~~
 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 6: 主はカインに言われた。

     「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
     ・・・
 ~~~~~~
 ☆ 相手の心をつつんでいる。そういう意味です。
 
 で 非思考の庭なる信仰は 未知でもなく 言うならば非知ですが もともと《人が知り得るか知り得ないか それが知り得ないこと》としての非経験の場を〔のみ〕あつかっています。ゆえに《経験思考》とは矛盾することはないのです。住み分けています。
 そうして この多少とも非思考の庭から世界を見ている場合には 経験的な事柄にかんする思惟やおこないが すべてと言っていいほど分かる。ことがあります。
 たとえば 大海のオモテで局地的に暴風雨が襲っていても 大海なる心は やがてその前線が移動してゆくであろうと知っています。
 このように 言うなれば 表面での局地的・一時的なできごとにかんしては それとして成り立つ場合があります。というよりは その一定の時空間では まさにその事実認識が ただしいというわけです。
 あたかもそのように たとえばコンプレックスに悩まされるという事態が起き得ます。そしてその事実認識は 間違っていません。しかも問題は 《人間存在ないしその人格ないし人生》の全体がどうかという主題にもなっています。同時にそのような広い視点も成り立っています。

 ★ ~~~~~~
 「特別視」という感覚がよくわからないのですが、それらに関して論じてはいけないわけではありませんよね。
 その際、
 「いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 そして、良いも悪いも含めて実際に思い出せない記憶が格納されている状態」の代名詞として無意識という表現があっても何ら差し支えはないでしょう。
 特別視された結果現われるものが気に入らない、というだけにしか見えません。
 坊主と袈裟はわけて考えるべきです。
 ~~~~~~~~
 ☆ ということをすべて認めなければならないとしましょう。そのとき 信仰に立って経験事象を捉えようとする視点は 人間という存在とその生きることは それだけではないでしょうと言っているわけです。
 
 これまでは確かに 個々のモノゴトについて論理的に破綻をきたしているのではないかといった批判をして来たかも知れません。たとえば 
 ★ 良いも悪いも含めて実際に思い出せない記憶が格納されている状態
 ☆ と言った場合には 《思い出せない》と知っているなら その中身を知っているということです。
 あとで思い出したときに 《あぁ これは思い出せなかった記憶だ》と分かったというのなら それは《思い出せない》のではなく やはり《いやな思い出・思い出したくない過去の記憶》として実際は知っていたということです。
 というように論理的に批判していたかと考えます。

 でもいづれにしても 記憶とその想起がある。これだけです。と言ってよいはずです。
 それ以上に飾りをつけるのは ためにする詮索だと考えます。多少ゆづるなら 史上まれにみる台風と津波が起こったというような嫌な思い出も確かにあるかも知れません。でもそれも 主観的な見方によるとも思われるのです。
 この基本を超えて 記憶とその想起について飾りをつけるのは 《特別視》になります。
 
 つまりは 目の前の嵐があまりにもひどいので 《へび》ならヘビの所為にする。生殖行為は――アウグスティヌスの命題としては 《情欲のない生殖》という境地を言っていますが―― 一般に言わばふたりが密室で致す行為ですので 何かと秘密やらそれにまつわって隠したい身体の部位もあると感じるようになるのでしょう。そういう一定の時空間の範囲とそこで起こる心理作用また集団としての共同心理といった情況が出て来ます。
 ただそれだけのことです。
 その局所的・一時的な事態について言えば ムイシキ説やコンプレックス理論も 当てはまり事実認識として合っていると思われる恰好になる。こういうことだと見ます。
 けれども 全体から見れば それらは 要らないことです。過ぎ去って行く事柄です。


 ★ キリスト教で禁欲はかなり大きな構成要素になっていると思います。
 ☆ キリスト教というように集団ないし組織の宗教は すでに教義を守るべき原理原則としていますので・つまりは 思考の対象となる人間の言語で表現された内容を 言わば観念の神のごとくに扱っていますので それは 非思考の信仰ではなくなっています。
 よって その教義を守る中には いわゆる道徳や倫理規範としての性愛論も出て来て そこから《禁欲》というおこないも説かれて来ます。これは すでに個人の信仰から離れてしまったただの思惟の体系でありその実行(出来もしない実践)の問題となってしまっています。そういう問題です。
 宗教にかんするジョウシキというものは それがただしいかどうかを問うなら そのただしさがまるっきり哲学の検証に耐え得ないしろものです。

 ★ ただ、わたしの最も言いたいのは、記述されたことの意味を問うというよりは、なぜそのような記述をしたのか、その目的論的に捉えるほうが適切ではないかということです。
 ☆ これは 大賛成です。この質問でのやり取りでもわたしはそのような仕方で解釈をして来ています。
 ただし 
 ★ ~~~~
 いかに説得力を持つかという点で、作者の意図はたぶん成功していると言えそうな気がします。
 読み物としては面白そうです。
 めちゃくちゃでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ と言われるとき それは そういう局面の一時的なお話として捉えれば そのように見えるかも知れない。とお応えするしかないと思います。どうでしょう?  

投稿日時 - 2012-02-22 21:24:10

ANo.30

ぶらじゅろんぬさん、こんばんは。
宙ぶらりんです。やっとかめです。


なぜどこが!と筋の通った話はできませんが、
カインはアダムのコピーみたいだなあ・・・
と思っていました、いろいろなところが。


地面を耕す者となった。
(創世記3:23、4:2)


罪を犯した。
(創世記3:6、4:8)


隠した。
(創世記3:10、4:9)


追放された。
(創世記3:23、4:16)


けれど、毒麦を抜かれるように
即座に抹殺されることなく
ある恵み(?)により子孫を残した。
(創世記4:1、4:17)

___________

次に、気になったこといろいろ。


イエスがよく「羊飼い」に例えられますが、
その起源はアベルだったんぢゃないかな。


カインの捧げものは、
「信仰による行動(ヘブライ11章あたり)」
ではなく、例えば欲など、
別の動機が入っていたんぢゃないかな。
(↑伝道の書8:13あたり)


>心の深い闇のような悩みがあったのかと・・・
:それよりも、こっちも欲の問題ぢゃないかな。
(ヤコブの手紙1:14、1:15あたり)

___________


最近、
「業のない信仰は死んだものである。」
(ヤコブの手紙2:26、他)
とは実際のところどういうことなのか、
あれこれ考えています。

というのも、
「業のない信仰は死んだものである。」
→だから聴聞と宣教奉仕に励むべし、
というクリスチャンをよく見かけまして、
なんだか不思議に感じるからです。

業が先で信仰が後なんでしょうか。
信仰が先で業が後なんでしょうか。

信仰の原語は何で業の原語は何ぢゃ?
よう分からんです。

___________

順番もめちゃくちゃなまま、
思いついたとおりに書きました。
読んでくれてありがとう。ほぢゃ。


               
                 

投稿日時 - 2012-02-21 23:09:35

お礼

 こんにちは にゅうとらるさん。たしかにしばらく振りですね。ご回答をありがとうございます。

 今回は いろんなハプニングに遭っています。うれしいものがほとんどです。

 カインについてのヘブル書の記事のことを忘れていた・つまりそれを気づかせてくれたしょうみーはうさんのご回答No.1から始まって 次のてふてふさんのNo.2でも 《信仰》のあり方について あたまがぐらっとするような一撃を受けましたし。
 あとでは ぐれいぞおんさんのご回答が きわめておだやかな見解を示してくださったのですし はこぶるさんは例によって ムイシキ理論ないし精神分析の問題で互いに丁々発止とやり取りをしていますし しかもそのムイシキ理論のうちのリビドー論が あらためて――という意味は 息子のカインをつうじてということですが―― 母エワや父アダムの取った行動についての議論を考えさせるに到りました。《へび》論です。

 中には 悪ふざけの投稿もあったと言っておきます。それ以上は触れません。

 

 アダムとカイン 父と息子とのあいだに 類似するところがあるというご指摘。たしかにそうですね。
 特に次の点は おもしろいし 見逃せないというように思いました。
 ★ ~~~~
 ◇
 けれど、毒麦を抜かれるように
 即座に抹殺されることなく
 ある恵み(?)により子孫を残した。
 (創世記4:1、4:17)
 ~~~~~~
 ☆ 存続するということは 善が持ちこたえることであるように思われます。それだけで とうとい。というように見ます。
 まぁ ただしほかのご議論によると その《毒麦》であるところが取り上げられ やり玉に挙がっているようではあります。

 

 ★ ~~~~ 
 ◇
 イエスがよく「羊飼い」に例えられますが、
 その起源はアベルだったんぢゃないかな。
 ~~~~~~
 ☆ たぶんアベルの信仰のあり方から言って うなづくところでしょう。ただ そこからの展開が俟たれるとも言えるように思います。寝かしておく資料ということでしょうか。

 ★ ~~~~
 ◇
 カインの捧げものは、
 「信仰による行動(ヘブライ11章あたり)」
 ではなく、例えば欲など、
 別の動機が入っていたんぢゃないかな。
  (↑伝道の書8:13あたり)
 ~~~~~~~~~

 ☆ まづ
 ▲ (ヤコブの手紙1:14-15) ~~~
 むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。

 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ のほうを押さえておこうと思えば。そうですね。いまのところ これは むしろ当たり前だと思ってしまうのですが そこがいけないでしょうか? つまり
 ★ ~~~
 ◇
 >心の深い闇のような悩みがあったのかと・・・
 :それよりも、こっちも欲の問題ぢゃないかな。
 (ヤコブの手紙1:14、1:15あたり)
 ~~~~~
 ☆ こちらのほうの見方についてですが。保留のかたちになります。

 そして
 ▲ (コヘレトの言葉=伝道の書8:12-13) ~~~
  罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が なお、長生きしている。
  にもかかわらず、わたしには分かっている。
  神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり
  悪人は神を畏れないから、長生きできず 影のようなもので、
  決して幸福にはなれない。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ ぐれいぞおんさんによる《不正》説ですね。中身は分からないが 不正においてカインは行動しているのだと。
 そうですね。率直な反応としましては わたしは 判定するとすれば そうなるでしょうね。というよりほかないと思うのです。何とも煮えないご返事となります。

 ★ ~~~
 業が先で信仰が後なんでしょうか。
 信仰が先で業が後なんでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ ぐれいぞおんさんの言葉では 《神の絶対的な主権》によれば 何ものにも神が先行するとなるのでしょうね。だとすると 行為ないし人の意志の発動よりは 神によってあたえらえる信仰が先なのでしょう。
 ただし 信仰があいまいでも 行動を人は起こしていますから そのときにも あいまいだということは それとしての信仰のあり方が 一人ひとりに成っていると言えるかと思います。そういう信仰をあたえられているのだと。
 だとすれば おこないとそして心の奥の信仰とは 一般に すでに同時であるかも分かりません。
 どちらも経験世界に足をつけ腰を落ち着けているのなら あとさきはあまり違わないのかも。
 
 ただ どうなんでしょう。わたしが思うにですが 神は絶対的な主権を保ちつつも そのことはいっさい人が忘れてみづから思惟し行動するようにと願っているのではないでしょうか?
 わづかに 心の伸びもしくは明けがあるということ。つまりは 心がこの経験世界のことだけによって閉じているのではないということ。それがあれば――信仰が活きていれば―― あとはあとさきは あまり気にならない。のではないでしょうか?

 原語は どうなんですか?

投稿日時 - 2012-02-22 15:48:37

ANo.29

#19です。

 どちらの献げ物に目を留めようと、それは神の自由だ、この話はそういう神の絶対的主権を語っているのだ、ということがよく言われます。信仰的にはそういう考えも、確かに間違っているとは思いませんし、それで納得される方はそれでよいと思います。しかし、もう少し考えるべきことがここにはあるように思うのです。と言いますのは、実はこういう疑問を持つのは我々だけではなくて、すでに聖書の中に、そう思う人々がいるからです。
 例えば、ヘブライ人への手紙11:4を見ますと、

 『信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。』

とありまして、アベルはカインよりも信仰があったように書いてあります。また、ヨハネの手紙一3:12によれば、

 『カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。』

とありまして、アベルはカインよりも行いが善かったように書いてあります。また、マタイ福音書23:35には、

 『こうして、正しい人アベルの血から、』

 とありまして、アベルは「正しい人」とされています。これらはいずれも、聖書を書いた人々が、アベルの献げ物を神が嘉納されたのはどうしてだろうと考え、それは、アベルがカインより、信仰が深かったからだとか、善い行いをしたからだとか、正しかったからだとか、そんなことは創世記には何も書いてありませんのに、そういう理由付けを彼らがいろいろしたことを示しています。ですから、聖書の時代からすでに、皆この問題には頭を悩ませて、考えていたことが分かります。そういう事情を考慮しますと、アベルの献げ物だけを神が嘉納されたのを、神の絶対的主権であるの一言でバッサリと片付けるのは、どうかなと思うのです。

 今日までに試みられてきた幾つかの説明を上げてみますと、まず、カインは単に「土の実り」を献げたのに対し、アベルは献げ物を厳選して、羊の「肥えた」、そして、「初子」を献げた、それで、アベルの方が神への感謝に心を込めていると考えられ、《だから》その点が評価されて、神の目はアベルの献げ物に留められたのだ、という説明があります。
 あるいは、アベルの献げ物は「羊」であり、これは家畜を屠って、その血を祭壇に注いで罪の贖いとする贖罪の信仰に適うことで、《だから》その点が神の嘉納し給うところになったのだ、という説明もあります。
 さらにまた、アベル(Hebel)という名には、「儚い」、「無意味」、「無価値」といった意味がありますから、彼は軽蔑された、弱いものであったろう、《だから》愛なる神は、そういう小さいものであるアベルの献げ物の方に目を留められたのだ、という説明もあります。
 しかし、こういう説明を聞かされても、先に申しました聖書の中に記されている説明にしても、今申しましたような説明にしても、それらはいずれも、アベルはカインよりもなにか御心に適ったところがあって、《だから》その献げ物に神は目を留められたのだ、というそういう前提に立って、その理由を捜しているだけではないか、と思うのです。しかし、そのように理由を見つけては、《だから》神はカインよりアベルを愛されたというのは、あまりにも人間的論理を神の世界にまで持ち込んでいることになるのではないか、そういう印象を拭い切れないのです。

 今までなぜ神はカインの献げ物に目を留められなかったのか、そのわけを知ろうとしていろいろ言ってきましたが、しかし、#19で申しましたように、第三者のそういう一般的な推測、説明、考察、論議の対象に、神との関係はそもそも、なるものではないということです。一般的論議の的になることを許さない、しかし、その本人には切実に問題になる、そういう、《その人自身にとってのその人の事柄》、それが神との関係というものだということです。

 カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。この話を読んでいて、一番教えられたことはこのことです。カイン自身と神には分かっているが、ひとには分からない、そういう神とカインの関係、繰り返しますが、神と本人自身にしか分からない、第三者の知ることのできない、そういう関係、神との関係とは本来そういうものである、ということです。

 ですから、《カインの言い分》なる推論は、《カイン自身にとってのカインの事柄》を第三者が推測、説明、考察、論議の対象にするものと思われます。bragelonneさんが『教えて』と投げかけた問い掛けとはかなり異質なものになってはいないでしょうか。


 尚、《不正》は、

 『主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」』

の「正しくない」に依っていますので、それが一体何であるのか、それは分かりません。創世記 4:1-16では何も記されていませんので、一般的論議の的にしてはならないのでしょう。「正しくない信仰」と捉えるか、「信仰のゆがみ」と捉えるかは第三者の推測、説明、考察でしかありません。

投稿日時 - 2012-02-21 22:48:15

お礼

 ぐれいぞおんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 読ませるご文章ですねぇ。と言うと 上から目線になってしまいますが 自由・対等というふうにお受け取りいただければさいわいです。


 さて かんたんなことひとつを先に取り上げます。
 ★ 「正しくない信仰」と捉えるか、「信仰のゆがみ」と捉えるか
 ☆ 前者にかんしては 聖書記事に就いてそのまま表現しているとおっしゃった。
 後者のわたしの表現はですね 《ゆがみ》はあるけれどそれはまだ《信仰》であると思ったそのわけをしるします。
 単純に言って カインがほろぼされなかった。ゆえです。もうひとつには 《激しく怒って顔を伏せた》りしていますが ともかく神と話をしている。神と話が出来ている。そのひとつの事を思って そう判断したものです。
 そのような事由についてだけ 記しておきます。


 さて ここへの訪問者の方々も このご回答については やさしくやわらかくしっかりと推論をたどるかたちで述べておられますので 復唱して議論の発展へとつなげるかたちを取らなくても いきなり質問者からの応答をしるしてすすめてもよいと思います。
 
 焦点は次です。 
 ★ ~~~~~~~
 ですから、〔* 質問者が提出したところの〕《カインの言い分》なる推論は、《カイン自身にとってのカインの事柄》を第三者が推測、説明、考察、論議の対象にするものと思われます。bragelonneさんが『教えて』と投げかけた問い掛けとはかなり異質なものになってはいないでしょうか。
 ~~~~~~~~

 ☆ そうですね。まづ確かに ぐれいぞおんさんは 次のように戒めるかたちでおっしゃっていますね。
 ★★(回答No.19)~~~ 
 ところでカインが、神に問われて気付いた自分の正しくないこと、それは一体何であったのか、これは何度も言いますが分かりません。それは、カインと神だけが知っている問題です。このことは、しっかり押さえておかねばなりません。第三者であるわたしたちは、そのことに対して推測は控えねばなりません。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ それにさからってわたしは《カインの言い分》をしたためました。

 いま考えるにですが ふたつ言えるかと思います。
 ひとつは この《カインが、神に問われて気付いた自分の正しくないこと、それは一体何であったのか》について けっきょくむしろ虚構としての文学の観点から カインの言い分を推し測ってみたものだということではないか。
 言いかえると 哲学としての命題になるかどうかは微妙だと思われることです。

 もうひとつは この《言い分》は けっきょくカインの心の中の懸案であるかどうかを超えて 一般に持たれる・聖書にかんする哲学的な課題であるのではないか。これです。それは エワにささやいたというヘビの問題です。ヘビとは 何であるか?

 ただしそれでも《カインの》とするのは わづかにですが かれがアベルをころしているということがあり そのアベルに対するカイン自身の思いとしてもそれなりに推し測っているということ。これによって 微妙なかたちで なおまだカイン問題に引っかかっているのではないか。と自分に甘く判断してもみるのですが どうでしょう?

 もしその甘い判断を強引におしすすめるなら さらにそのあと 次のようにも 《カインの言い分》をわたしはおぎなっています。《カインの思い》をもつけ添えました。そして アベルとの関係についても触れています。
 こういった問いを わたしの中で持つのですが 果たして いかがお考えになりましょうか?

 ☆☆(No.24お礼欄) ~~~~~~~~~
  《カインの言い分》についてですが:
  ● ~~~~~~~~~~~
 ・・・そして、知恵はさらに神と同じように善悪を私に教えた。だから、私は主が私の摘み物に対して喜ばれなかったので恥ずかしく思った。それが、アベルへの妬みになり殺害した。罪=欲は主が与えたものだということですね。
  ~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 違います。
 (1) 善悪を知る木から採って食べると その名のとおりなら ひとはそこで善悪を知る。そして確かにこの木を知恵の木とも言っています。
 この事件は ただし そこで《へび》が介在している。それはなぜか? という問いです。

 (2) 善悪を知る木の実というのなら けっきょく人にとっては おのれの心に尋ねて よしとするか あるいは それはちょっとおかしいとか やばいとか――なぜなら 顔を赤らめたり胸の動悸がはげしくなったりする―― これらふたつの選択があることに対応しているのではないか? 良心に従う――ということは 上に触れたように けっきょく元は感性におけるモノゴトの仕分けとしての選択において決まっていると思われるその中身において 言い方としては 良心にしたがう――ことのほうを 善とよぶ。これにさからうほうを 負の善 という意味で悪と呼ぶ。
 このとき エワは そしてあとでアダムも 善にさからうほうをえらぼうとした。つまり 神の言いつけにさからうというかたちで 記されているそのことをおこなおうとした。
 けれどもそれが なんで へびが間に入って エワをそそのかすというようなコトになっているのか? この問いです。

 (3) カインは神にささげ物を持って行ったとき 目を留められなかったので激しく怒って顔を伏せた。
  ▲ ~~~~~~~~~~~
  6: 主はカインに言われた。

    「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
  ~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ カインは こう思っていた。
  ○ (カインの思い) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  主よ あなたにささげ物をささげることは 善であると思います。したがいます。きょうささげた物も決して優れていないわけではありません。
 問題は このようにおのれの心にしたがってよしとするコトをえらびおこなうその善が どうして 主よ あなたを経由して成り立っているのですか?
 つまり 問題となるのは 同じ趣旨だと思いますが 少し違います。いま述べた善にさからうとき・つまり悪をえらびそれをおこなうとき それは 人がその意志によって――心に逆らってですが おのれの判断と意志によって――おこなうということではないのでしょうか? なぜそこに へびが介入しているのでしょうか? 
 へびは要らないと思います。
 わたしが 人間として 悪を侵すのです。へびの仲介はないと思います。
 なぜ へびなのですか?


 (のちのカインの述懐として:)
  弟のアベルは このわたしの疑問に何ら反応を示さなかった。まるで善一筋。悪は知らぬという顔。われは へびではないと言ったきり。
 あとは かあーっとなって よく覚えていないほどです。でも それも へびの介在なしに わたしが 人殺しという悪を思いつき わたしの意志でおかした行為です。そのつぐないを一生かけて あるいはこの命を差し出して おこなおうと思います。

 でも ひょっとして 主よ あなたは 人が人をころすというその負の善なる意志行為 これを見越してわれら人間をお造りになったのではありませんか? 
 それはそれとして そのように負の善に向かう意志とそのコトの実行は 人間が負うべき間違いです。そのときなぜ ヘビが現われるのですか? 
 わたしは へびにそそのかされて 悪行をおこなったのではなく 自分の意志でおこなったのです。だから つぐないをします。
 へび これは何なのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 このあと そのてふてふさんへのお応えを書き込むつもりです。今晩は もう遅くなってしまいましたが 明日にでもまとめたいと思っています。もしよろしかったら どうぞご覧になってください。

投稿日時 - 2012-02-21 23:48:20

ANo.28

#26です。

> ところが 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。それゆえ 非経験の場を想定します。さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。

「人間わざではない」なら何のわざか、というところから神が生まれたわけでしょうから、それはよくわかります。
ただ、この命題は正しくは、
「人間わざではないと判断せざるを得ない」と表現すべきことのはずです。
この場合、単に人間の判断能力の限界を示しているだけであるかもしれない、という視点が抜け落ちていることになります。
人間わざであるどころか、まさに自らのわざであることに気づかないだけかも知れないわけで、それは検証できませんが、人間以外の何かのわざであるという想定を立てるよりは科学的であるように思われます。
それまでの記憶の蓄積に対して何らかの刺激が作用したときに、人間わざではないヒラメキなりを体験することはあるでしょう。
しかし、それはあたかも 自らの内に存在する記憶A と 何らかの刺激B の接触によって思いもかけない X という現象が生じる化学反応のようなものでしょう。
X が生じるという想定を人間ができないために、Aという自らの記憶とは無関係にX が生じたと考えてしまうようなものです。
脳の仕組みはまだまだ未解明の部分が多いようです。
たとえば夢のように、自らの意識とは無関係に発生する現象も現実に存在するわけですから、「人間わざではないように見える現象」を想定することは、それほど無茶なことではないと思われます。
実際問題として認識できない事柄・現象があることは事実なので、それに関して神という表現を比喩的に使うことは、むしろ表現上の問題として有効でしょう。
ただ、わたしの勘違いかもしれませんが、信仰と言う場合、この比喩であるということをすっかり忘れて、あるいは、意図的に無視してかかっているような気がするわけです。
比喩であるうちは、比喩の元となる未解明の領域が存在することは大前提として維持されています。
これを考えるのが面倒、あるいは辛い場合に、信仰が台頭してくるのではないか。
つまり、考えるを止めたとき信じるが生まれるのではないか、と述べたのはそのような意味でした。
まあ、しかし、これは解釈の違い、あるいは趣味の問題になってくるのでしょう。
こういったわけで、おっしゃるところの「非経験の庭」を想定する必然性がわたしには残念ながら全く理解できないので、それを前提としたご説明もほとんど論理性を見出せないという印象を受けます。


> ★ ~~~~~
 この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。
 :
 「知っている」の主体が何か、ということが大事になるでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ 《わたしは》と言っています。意味が分かりません。

ここでの「知っている」は「認識可能である」という意味です。
仕舞ってあると知らなくても記憶されている事柄はある、ということです。

> ☆ ですから 記憶の中に眠っていたものが目覚めたら それはムイシキだったものだと すべてについて言えます。《特別視》はありません。

すぐ思い出せるようなものは無意識とは呼ばなかったと思います。
「目覚めるべきものとして記憶の中に眠っていたもの」という(特別視という言葉を使用する必要はありませんが)括りでも良いでしょうが、それが無意識でしょう。

> あるいは 過去の記憶が よい・たのしい思い出であって 心がちからづけられるというようなムイシキの意識化もあり得ます。どうしても 暗い闇のほうへ持って行こうとしていませんか?

よい・たのしい思い出について何も考える必要はないでしょう。
よい・たのしい思い出というものは、忘れられることはあっても、抑圧という操作をする必要がないので現在の生活に好ましくない影響を及ぼすということは殆んどありません。
抑圧という操作をせざるを得ない(と感じる)ほどの環境からの刺激であったからこそ暗い部分が残るわけですから、そのために考える必要性が生じるだけです。
幸せな恋人同士に哲学を説く必要がないのと同様でしょう。

>★ ~~~
 繰り返しになると思いますが、『記憶とその想起』を妨げているものがある、という現実を無視しておられるようです。
 それが、あるだけ、と言っても何の意味もありません。
 ~~~~
 ☆ これが まさしく何もないのに何かあるという――ムイシキ理論の――《思い込み》です。

「思い出したくないほど嫌な記憶はなかなか思い出せないものだ」
という命題を否定されますか。
因みに少し補足すると、
「思い出したくないほど嫌な記憶を思い出さないようにすること」が抑圧で自我防衛機能のひとつです。
(格納された記憶の刺激が大きすぎるため)これに失敗した場合にトラウマという現象が発生するのではないかと思います。

>《検証できない内容にもとづく理論を振りかざして 相手に応用してしまい その診断結果を おしつける。あとは いくら違うと言っても 耳を貸さない。ほかの人にも言いふらす》  そういう問題です。筋が違います。

了解しました。
おしつけるのはよくありませんね。
以下は蛇足ですが、わたしの場合で言えば、乳房に非常に思い入れが深いのは事実ですし、むしろ思い入れの深くない男性のほうが不思議かな、という気はしますが。
ただ、大きすぎるとダメで、鳩胸が理想です。そういえば母親も乳房の大きいほうではなかったですね。
また、これは何度も申し上げていますが、マザコンでない男性はいません。
世の恋人の殆んどは、父親似、母親似の相手を選ぶものです。
むろん、兄弟姉妹似・従兄弟従姉妹似などという場合もよくあります。
ただ、コロンからそういった推論を立てるとすれば、それは分析に未熟な方だろうと思われます。

> ★ ~~~~
 >経験事象に属する
 :
 にも拘わらず、経験しているという実感を持てない、という点が無意識というものが想定される根拠になっていると思います。
 ~~~~~
 ☆ これを 山師と言います。ペテン師のことです。自分ひとりの仮説を超えてほかの人に当てはめるなら そうなります。

嫌なこと、面倒なことは大体忘れがちになると思うのですけどね。
>自分ひとりの仮説

とはならないように思われます。

ご質問とはずれたことばかりなのに丁寧に対応していただきました。
特に無ければそろそろ失礼する潮時かもしれません。
     

投稿日時 - 2012-02-21 17:38:20

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ こういったわけで、おっしゃるところの「非経験の庭」を想定する必然性がわたしには残念ながら全く理解できないので、それを前提としたご説明もほとんど論理性を見出せないという印象を受けます。
 ☆ これは そうではないというひとつはっきりとしたわけがあります。先にそれは 主観の問題であると言われかねない微妙なところだとはおことわりしておきます。

 ☆☆ 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。
 ☆ 要するに 自分を自分がみづからの人間としてのちからでしづやかに立たせるということ――何だか変な誤解を生みそうな表現ですが―― これは 出来ないと考えるからです。
 元気を出すことは出来ます。空元気を出すことなら さらに簡単で すぐに出来ます。でも 続かない。ということでしょう。
 もちろん ふつうにまじめな人たちは けっきょくどんな逆境に遭っても 何とか自分をうんうんと推してあゆみます。そういう人生を送ります。
 そこのところとの境界線がどうなのか たしかに明確ではありませんが どこか違うということでしょうね。つまり 前史と後史との違いがある。その意味は たとえば行きと帰りとの違いでしょうね。感覚的なものであり しかもその足取りとしての歩み これも違って来ます。
 初めから 往復するつもりであゆんでいたわけではありませんが 折り返し地点を回ったという感覚です。復路を精一杯あゆむ。こういう人生に変わってくる。こういう説明になります。
 言いかえると
 ★ 考えるを止めたとき信じるが生まれるのではないか、と述べたのはそのような意味でした。
 ☆ この見方はない。こういう意味です。なぜ考えるを止めるのですか? 

    考える:経験世界における経験事物についてである。
    信じる:非経験の場を想定して これを心に受け容れる。

 ふたつはまったく次元の違うと言っていいほど異なる行為です。両立します。

 たぶん いまのわたしにしても このあたりまででしょう 説明のおよぶ範囲は。と受け取っていただいてかまいません。


 ★★(回答No.25) 人から悟られないようにではなくて、自分自身に悟られないように、です。
 ☆ というものですから その《自分自身にさとられないように隠した》そのことを 《わたしは 知っている》のです。《可能性》の問題ではなく 事実です。
 その《わたしが知っている》ことをも《隠す・つまり 自分自身に悟られないように隠す》とすれば そのことをも《わたしは 知ってい》ます。これが 事実であり実際です。


 ★ すぐ思い出せるようなものは無意識とは呼ばなかったと思います。
 ☆ ですから すぐ思い出せるものも すぐには思い出せないものも すべて 記憶に眠っていれば ムイシキの状態にあると見なければウソだと言っています。

 ★ 抑圧という操作をせざるを得ない(と感じる)ほどの環境からの刺激であったからこそ暗い部分が残るわけですから、そのために考える必要性が生じるだけです。
 ☆ これが 思い込みであり幻想であると言い続けています。いやな思い出もたのしい思い出も その過去の記憶が意識によみがえったなら そのように想起があった。これだけのことです。
 その想起に際して たのしい気持ちになったり いやな気持になったりする。ただそれだけのことです。
 それ以上にクリスマスツリーを飾るのは 精神分析がためにする仕掛けです。

 いまちょうど てふてふさんが示してくれた《へび》についての神話や秘義の事典からの記事を読んでいます。考えています。
 フロイトは ヘビは――夢判断において―― 男根のしるしだと言い ユングは そのほかにも 男にとっては アニマとして 理想の女性像を表わし得るとか言うそうです。
 へびは エデンの園において エワにささやき 木の実を食べるようにそそのかしたと記されています。
 これとのたたかいがあるとも言われているようです。
 わたしは このヘビの存在(かんたんに言えば 悪魔)とそれとのたたかい(あるいは ぎゃくに 神と同一視して崇拝する民俗もあるそうです)は 要らないという見方をいま 考えています。文章にしようと努めています。
 
 それと同じように いやな思い出・思い出したくない過去の記憶 これは むろんあるのは実際ですが これがただし どれだけの特別視されなければならないものかについては 大いに疑問としています。
 クリスマスツリーを飾りで覆うのは この特別視したムイシキ(その記憶の事例)については いっさい要らない。要らないものなのに なぜか その言わばシガラミのほうへ 自分から寄って行く。そういうクセ(エートス)の問題だと考えますし それしかない。と思います。

 ★ 幸せな恋人同士に哲学を説く必要がないのと同様でしょう。
 ☆ この見方が 単なる心理学です。心ないし精神という大海のうわっつらを見ているだけだと考えます。
 たのしい思い出の場合にも 再考の余地はあると哲学なら考えるべきでしょう。それは 信仰を持つ場合にこそ 人はその哲学として考えることを活かすものと思います。信仰を持たない(つまり 実際には無神論の信仰を持っているのだけれど そんなことに無頓着である)場合には 心理として気持ちとしてたのしければ 考えるを止めてしまう。思い込みに入る。ツイ(対)なる幻想なりあるいは共同体の幻想なり そういった観念の共同の中へ――つまり蚕にとっての繭の中へ―― 閉じこもって行ってしまう。と考えます。


 ★ 「思い出したくないほど嫌な記憶はなかなか思い出せないものだ」という命題を否定されますか。
 ☆ これは 否定・肯定の問題ではないです。これは 《「思い出したくないほど嫌な記憶はなかなか思い出せないものだ」と それがどのくらい一般性を持つか不確かだけれど わたしは思う》という命題です。

 ★ 「思い出したくないほど嫌な記憶を思い出さないようにすること」が抑圧で自我防衛機能のひとつです。
 ☆ だとしたら この《抑圧――自分自身にさとられないように隠すこと でしたね――で自我防衛機能》であるということを わたしは知っている。となります。それだけのことだ ここで 言えます。

 ★ (格納された記憶の刺激が大きすぎるため)これに失敗した場合にトラウマという現象が発生するのではないかと思います。
 ☆ いいえ。嫌な気持ちになる。それだけです。あとは ためにするクリスマスツリーの飾りです。


 ★ おしつけるのはよくありませんね。・・・ただ、コロンからそういった推論を立てるとすれば、それは分析に未熟な方だろうと思われます。
 ☆ そういう議論をしていましたし そういう問題です。マザコン等々の事例のその中身は どうでもよいことで その勝手な推論を 自分以外の人間についておこない しかもその結果をおしつける。その行為じたいをとがめています。これは ムイシキ理論がひろめたのです。包丁の誤用・悪用とは別です。だって 理論どおりのことを応用しているのですから。

 ★ ~~~
  >経験事象に属する
 :
 にも拘わらず、経験しているという実感を持てない
 ~~~~~ 
 ☆ そういうときには 《でも 経験事象なんだよなぁ》とつぶやくのが ふつうの人間です。そうはつぶやかず ただしいと思って 他人にも当てはめ さらにはおしつけるのは いただけません。クリスマスツリーの飾りのたぐいになって行きます。


 ★ ご質問とはずれたことばかりなのに
 ☆ ところが 《へび》――それは特に今度は 夢判断やふるい民俗としての事態ですが――の主題で カインの問題とつながるかも分かりません。
 その件についてのわたしの応答をごらんになって これは 主題がかぶっているとお思いでしたら またご投稿をお寄せください。どうぞ。

投稿日時 - 2012-02-21 22:56:44

ANo.27

こんばんは、ブラジェロンさん。

>なぜ へびなのか?<
私は、性的欲求の象徴と考えていましたが。
蛇(serpent) http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.htmlを検索して、
>〔人間のライバル〕 人間と同じく、しかし〈逆の意味で〉、ヘビは、あらゆる動物の種と異なる。人間が発生の長い過程の帰結であるなら、この冷血動物、脚も毛も羽もない動物は、同じ過程の初めに位置させざるを得ない。その意味で、《人間》と《ヘビ》は、対立するもの、補完するもの、〈ライバル〉なのだ。またその意味で、人間の中にヘビが潜む。とくに人間の知力のコントロールが及ばない部分がそうである。ある精神分析学者(JUNH、237)がいった。ヘビは「脊椎動物であって、劣った精神や、隠れた心理現象や、稀で理解不能で神秘的な部分を体現する」。ところがヘビほど月並みで単純なものもありはしない。しかしこの単純さのせいで、ヘビほど精神にとって腹立たしいものもおそらく存在しない<
この部分に共感いたしましたので、人の知力が効かないもの感情を表しているとしたいと思います。

また、別の考えとして、>ヘビはイヴの最初の愛人であって、カインの真の父親であるという、ユダヤの律法学者の見解<は面白いと思いました。

投稿日時 - 2012-02-21 00:45:20

補足

 お礼欄からつづきます。
 文献[ a ]は 日本の事例が少ないのでこれをおぎないつつ 身近なかたちで《へび》を生け捕りにしたいと考えます。

 ○ (参考文献および参照箇所) ~~~~
 [ e ] 谷戸(やと)=ヰキぺ
 [ f ] 草分け=ヰキぺ
 [ g ] エロスないし愛欲=【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】その回答No.40
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html
 [ h ] 大物主=ヰキぺ
 ~~~~~~~~~~~~



 第二部 日本における民俗としてのヘビのお話

 § 13 谷戸の神から夜刀の神へ――総論= § 15までつづく――

 ◆ (夜刀神=ヰキぺ[ d ]) 夜刀神(やつのかみ、やとのかみ)は、『常陸国風土記』に登場する日本の神(蛇神)である。
 ☆ とその記事は書き始めています。《やと》とは 元は谷戸のことで 谷状の土地を言います。ちなみに このようなかたちの土地を 東では《さは(沢)》と言い 西では《たに》と言って分かれているそうです。すなわち 
 ◆ (谷戸:[ e ]) ~~~
 谷戸(やと)とは、
  丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形である。
  また、そのような地形を利用した農業とそれに付随する生態系を指すこともある。
  谷(や、やと)、谷津(やつ)、谷地(やち)、谷那(やな)などとも呼ばれ、主に日本の関東地方および東北地方の丘陵地で多く見られる。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 農耕に利用したというところが 重要です。

 § 14 谷戸を開墾し へびに出会った。

 上なる世界を《タカ〔ア〕マノハラ(高天原)》と言い 地下を《根の国》と言うとき 中間の陸地を《アシハラ(葦原)の中つ国》と言っていたように そこはまだまだ湿地が多かったようで人びと(縄文人また弥生人)は 山の中腹にまで住むところを求めて行っています。

 その初めの開墾のとき 当然のようにヘビが出て来ました。言わば先住者であり これに敬意を表し 《谷戸の神》と言ったものと思われます。
 生活上の守護神としては 善なる神であり 《なほびたま(直毘魂)》です。
 あらぶる力であれば 悪なる神。《荒魂(あらたま、あらみたま)》です。これとの対比では 前者は《にきたま(和魂)》と呼ぶようです。
 
   へび( § 1)⇒谷戸の神
    (α)水の神⇒ 生活・生命のしるし。善なる神。⇒直毘魂・和魂
    (β)水の神⇒ あらぶる者。悪なる神。⇒荒魂

 ちなみに なほびたま・あらみたまの《び・み》は (1) かなし(悲し)→ かなし・び かなし・み のそれらと同じく動詞化する語尾。または(2) かみ・むす・ひ(神生す霊)や かむ・な・び(神な霊)や やま・つ・み(山つ霊)や わた・つ・み(海つ霊) の《ひ・び・み(いづれも 霊)》のそれです。

 § 15 谷戸の神と《草分けの人と家》

 『常陸の国風土記』には 谷戸の神と 《打ち殺せ》とまで言って 闘ったとあるそうです([ d ])。境界線を決めてあとは 谷戸の神をうやまってもいると。
 そこには別様に
 ●[ d ] 土地の開墾に際して自然神である山野の神霊から土地を譲り受ける「地もらいの儀礼」と見ることもできるというが
 ☆ とあって この様子のほうが われわれの祖先のおこないそうなことだとわたしには思えます。
 《草分け》すなわち柴を刈り草を切りしてあらたな土地を耕し始めたその事また人を その後に人びとがあつまって出来たムラは大事にする。それと同じように へびさんにも先住者に対するものとしてのウヤマヒの心を忘れなかった。

 だから 囲いをしてここはおれの土地だと宣言したら その所有の権利が成るというのとは ちと違う。あとは力づくでもしくは法的手続きによって奪うかどうかになるのとは ちょっと違う。自然状態は 人が人に対して狼である( Homo homini lupus.)だとか 万人の万人に対する闘い( Bellum omnium contra omnis. )だとかと言うのとも すこし違う。

 でも谷戸の神を わざわざ《夜刀の神》――つまり 暗闇で足元を襲って来るといったイメージをあてはめたものでしょうか――ともその文字を替えて意味をもあらたにつけ加えている。これは 《たたかい》でもありましょうか?

 § 16 では 日本人は ヘビをエロースのしるしとして見なかったか?

  次のような意味合いを 谷戸の神なるヘビに人びとは見たか?

  (§ 1) ~~~~
    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。
    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。
    (ε) ゆえに エロスを象徴。
  (§ 4) ~~~~
    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ
     ~~~~~~~~
    
 たぶんそういった民俗事例はいくらでもあることでしょう。ストーンサークルのような遺跡には リンガを思わせるようなかたちもあるわけで その縄文人から始まっているわけです。(たぶんそれは 原始心性であって 歴史知性を持ったあとの扱い方や感覚とは違うものと思われます)。ですが 問題は あまりそのことの特別視は していない。というのが 基調ではないであろうか?
 たとえばエロスは ブディズムが入って来てから 例の理趣経でしたかの愛欲論を真言宗が 密教の中におさめたもののようです([ g ])。

 § 17 リビドーをそれとして受けとめ ムイシキを《わたし》のミクロコスモスの中におさめる。

 日本人は このリビドーを ちょうど谷戸の神との共生を図ったように おのれの《わたし》というミクロコスモスの中にそれとしておさめようとしている。のではないだろうか? 

 その例示としては思い浮かばないのであるが たとえば真言密教の中からは 例の立川流が現われている。けれどもこれを特に異端視するとか排除するとかしないで それとして全体としての社会の中におさめている。いわばそういった例示が思い浮かぶ。
 これは 《抑圧》であろうか? どうでしょう? そのところを得させ それとしての位置をあたえているということではないであろうか?

 § 18 オホモノヌシの神は じつは ヘビである。

 神々をめぐる日本人の世界観は たとえばこうである。

 ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~

 モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)
 コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)
  ↓        ↓            ↓
 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 まづ ヒトコトヌシ(一言主)のカミとは こうです。カミでありつつ現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたというそのくだりで出て来ます。そのとき一言主の神は こう名乗ったという。

    《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言
    言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》
                      (古事記)

 オホモノヌシは 三輪山の神ですが じつは 長物(ながもの)と言われ じつは ヘビです。神は 山全体がそうであるのですし その山をも越えて《かみ》を見ようとしてもいるのですが 仮りの姿は じつは ヘビです。
      
 § 19 《へび》なるオホモノヌシの神との結婚

 資料[ h ]によれば:
 ● (オホモノヌシとの結婚) ~~~~~
 イクタマヨリビメ〔なる女性〕の前に突然立派な男が現われて、二人は結婚した。しかしイクタマヨリビメはそれからすぐに身篭ってしまった。不審に思った父母が問いつめた所、イクタマヨリビメは、名前も知らない立派な男が夜毎にやって来ることを告白した。
 父母はその男の正体を知りたいと思い、糸巻きに巻いた麻糸を針に通し、針をその男の衣の裾に通すように教えた。翌朝、針につけた糸は戸の鍵穴から抜け出ており、糸をたどると三輪山の社まで続いていた。糸巻きには糸が三回りだけ残っていたので、「三輪」と呼ぶようになったという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ただのナンパ(夜這い?)であると考えられるとともに 神の聖霊によって懐胎した話としても――つまりあたかもイエスの母マリアの事例と似ているというような話としても――捉えられます。
 のちにこのイクタマヨリヒメより生まれたオホタタネコは 世の中に疫病がはやったときにそれをしづめるためにオホモノヌシの神をまつる役目に就きます。

 § 20 おそらく日本人は 共生の知恵にたけている。

 《なほびたま(直び魂)》にしろ《あらみたま》にしろ そのようにヘビを取り扱ったとしたら さらにそこにエロスの領域のことどもをも捉えた場合には すべて《モノはコトである》の世界観(§ 18)またそれとしてのミクロコスモスなる《わたくし》の中におさめて(§ 17) もしそれがモノスゴイことであったとしたら むしろそれをウヤマヒ きよらかなおそれをいだきつつ 共存しようとするのではないだろうか?

投稿日時 - 2012-02-22 14:40:26

お礼

  てふてふさん お早うございます。お応えがおそくなりました。ご回答をありがとうございます。

 示してくださった《蛇》の百科事典の記事からヒントを得ました。
 ただし あなたのご持論にもさからって 《へび》は要らないという見方を提出し それに対する批判をも得て問い求めがすすめばよいと考えます。
 ● 人間の中にヘビが潜む。
 ☆ だからどうしたという話を展開します。
 
 ○ (参考文献および参照箇所) ~~~~
 [ a ] 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets 1983
  http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html
 [ b ] 聖書 wikisource (旧約および新約)
   http://ja.wikisource.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8
 [ c ] 無意識=ヰキぺ
 [ d ] 夜刀神(やとのかみ)=ヰキぺ
 [ e ] 

 ~~~~~~~~~~~~~

 § 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的社会的な意味

 文献[ a ]によって わたしなりの分類をします。
 
   ○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~
    (α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神
    (β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
           あらぶる者:悪魔
    (γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。
    (δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。
    (ε) ゆえに エロスを象徴。
    ~~~~~~~~~~~~~~    
 
 § 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。

 併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。
 この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。

 § 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。

 言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
 こういう見方を持ちます。

 § 4 この場合のムイシキは 

    (ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
       =リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ

 のことです。

 § 5 ムイシキの逆襲

 リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになる。
 その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。

 すなわち その意味にまで還元されたと言いますか低い次元に落とされたと言いますか そのように見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。

 § 6 ムイシキは 亡霊なり。

 ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。

 § 7 聖書におけるヘビの克服物語

 イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。
 第一のアダムは 神に背いた。つまり おのれの人間として自然本性にそなわった自由意志にめざめた。
 第二のアダムは その自由意志によるおのれの心に対する背反――単純に言って ウソ・イツワリ――は 人間つまりその当人じしんが 答責性(説明責任)を負って対処し自己経営するということを指し示した。その素地をつくり力のみなもととなった。すなわち ごめんなさいとあやまるということ。
 つまり ヘビなるアクマは どこにもいないと明かした。

 § 8 前章の話に理屈をつければ こうです。

 アクマは 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという希望を持ち得るけれども アクマなるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして この冥界へと人びとをさそう。
 イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまで何ものかに従順であった。ヘビなるアクマなどは 屁の河童であると。ますます怒ったアクマは ついに実際にイエスを死地に追いやり見世物にまでして実行した。ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。

 § 9 聖書の関係個所を引きます。

 ▲(創世記3:14-15) ~~~~
 主なる神は、蛇に向かって言われた。

  「このようなことをしたお前は
  あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
  呪われるものとなった。
  お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

  お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
  わたしは敵意を置く。
  彼はお前の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」

 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この部分すなわち
 
  ▲ ~~~~~~~~~~
  彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
  お前は彼のかかとを砕く。」
~~~~~~~~~~~~~

 という箇所が のちのイエスとの闘いだと言われます。

 § 10 つづき――蛇との闘いの事例――

 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
 〔* 民が出エジプトを悔やみ始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。

 民はモーセのもとに来て言った。
  「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
  わたしたちから蛇を取り除いてください。」

 モーセは民のために主に祈った。
 主はモーセに言われた。
  「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
  を見上げれば、命を得る。」

 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
 ~~~~~~~~~~~~~

 § 11 つづき

 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~
 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。

 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 § 12 もともと ヘビはアクマなりという説は 屁の河童だと誰もが見ているはずである。

 けれどもそのような民俗の通念があるなら――つまりあるいは そのようなクウキがあるなら―― 子どもだましのおとぎ話としてでも その実態をあきらかにしなければならない。亡霊は亡霊であると明らかにしなければならない。

 ★ また、別の考えとして、>ヘビはイヴの最初の愛人であって、カインの真の父親であるという、ユダヤの律法学者の見解<([ a ]) は面白いと思いました。
 ☆ 片や エロスが 人の生きることにともなうことと 片や これをアクマなる観念にまでふくらませてその観念の翼を広げて想像力を駆使することとは 別である。と言わねばならないと考えます。
 けれども 《エロース》とは そんなちゃちな性衝動だけを言っていたのだろうか?

 あるいは
 ● 人間の中にヘビが潜む。
 ☆ というのなら そのヘビもアクマも 《わたし》の一部だと堂々と言って行けばよい。それだけの話である。のではないか?
 
 ★ 人の知力が効かないもの感情を表しているとしたいと思います。
 ☆ ならば おそらくそのヘビ自身が というよりはその情欲とその発動にかんしての全体であるエロースが 自分の面倒を見てそれなりの秩序のもとに動くようになりましょう。
 

投稿日時 - 2012-02-22 10:45:36

ANo.26

#25です。

>  では このヒラメキは どこからくるのか?
  いまは 過去の学習経験や思考の蓄積から来るものは 別としています。言いかえると 経験や自分の意志から来るヒラメキではないヒラメキがある。こうわたしは 思っているという意味です。
 つまりは それは すでに経験を超えていると見るからには 非経験の場であり これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭が成ると見るわけです。
 したがって いま扱っているヒラメキは この非思考の庭に起きる。と見ますし ということは 非経験の場なるナゾの何ものかから来ている。と――想定上―― 見るというかたちです。

ヒラメキというものは否定しませんが、
>過去の学習経験や思考の蓄積から来るもの

があくまで土台になっているはずという認識なので、それを
>別としています

というご見解であれば、根本的な認識の相違があるものと解釈したほうが良さそうですね。

>   ● ヒラメキは わが心の非思考の庭に 或る日或る時 ふと どこからか確かに啓示のごとく 起きる。

 こうなると考えます。

これは全くそのとおりなのですが(というのは、そう感じられるからこそヒラメキという言葉で表現されるわけですが)、「ふと」と感じるのはあくまで意識上の感覚であって、実は無意識領域においては「ふと」ではなく、「なぜなら」という論理的な理由があらかじめ格納済みなわけです。
しかし、無意識である以上「なぜなら」をその時点で感覚することはできず、結果として「ふと」という感覚になるだけです。
脳科学の発展とともに、いずれその脳内メカニズムは解明されるものと考えますが。
重要なのは、
>啓示のごとく

であって、「啓示(と同質)である」ではないという点なのでしょう。
ですから、「啓示のごとく」ヒラメイタというのであれば、それはわかるのです。
しかし、(信仰というものの要素としてですが)それを「啓示である」と解釈してしまう(解釈させようとする)点に問題がありはしませんか。

> したがって ここには いわゆる大自然に対する畏敬の念を生む素地があるでしょうし その心をすでに《非思考の庭》と見るなら そこには《ナゾの何ものかへの きよらかなおそれ》をいだいているという己れの姿を人は見い出すと思います。

古代人が神を信じるのはわかります。
「考える」のキャパを超えたものは全て神として崇め、崇めることによって自身に(考えの及ばぬ現象が起きても安心して良いのだと)納得させたわけでしょう。
しかし、今は(たとえばですが)雷の仕組みも解明されていますよね。
「きよらかなおそれ」という表現はどうなんでしょうか。
本気でこのような表現をなさっているのでしょうか。
それと、《非思考の庭》というのは良く言えば無垢、そうでないとすれば無知と言い換えて良さそうですね。

> そのように ただ経験世界に閉じこもるというのでなく そうではなく この世をも超えた世界を想定したならば――つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持ったならば―― その《閉じていない》というところが 《心の明けであり心の伸び》だと見ます。

全く論理になっていませんね。
>この世をも超えた世界を想定

することが、なぜ、
>つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持った

ことになるのでしょうか。因果関係は見出せません。
>《心の明けであり心の伸び》

という表現で言いたいことはわかるような気がしますが、それは信仰のみがもたらすものではないでしょう。

>そこから 神という言葉があるのを知って この神に――なぜなら 超経験なら 相対の世界を超えているその絶対に――拠り所を見い出す。(あるいは そのとき いや そうではない わたしは けっきょくその超経験の場も それは《無い神》だと思うと言って 無神論という信仰を持つ場合もあると見ます)。

これは詭弁としか言いようがありません。
神という言葉を前提にすることを一方的に押し付けていますよね。
相対の世界を超えているものがあるぐらい小学生でも感じていますよ。
宇宙の法則と言ってもいいでしょうし、自然の摂理と言ってもいいでしょう。
わざわざ《無い神》などという発想までに及ぶ必要性はありません。
ですから、
> つまり 拠り所であるなら このいまの自分を活かすためであると考えて不都合はないと思います。

というご見解は、占い師のそれとなんら変わるところがありません。

> ★ それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。
 ☆ と一応は言えても この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。

「知っている」の主体が何か、ということが大事になるでしょう。

> ☆ ムイシキの領域が特別にあるわけではないという認識が重要だと ここで 成ります。すべての《思いこみ》も《思い》も みな記憶の中に《根を張っている》ことに間違いないからです。

《思いこみ》と《思い》の違いの重要性について、若干無頓着のように思われます。
すなわち、
> どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動だとかの見方があるので それに影響を受けて ムイシキを特別視しようとするクセが 人びとについてしまった。ただそれだけだと見ます。

ということではなくて、
ムイシキとして特別視せざるを得ないような現象が発生するために、
>どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動

という捉え方をせざるを得ない、ということでしょう。

> ☆ 記憶から過去のいやな思い出をよみがえらせたのですね? と問えば それで済むことです。

本当に済みますか?
検証されていますか?

>それによって悩んでいるなら その過去の事件をあらためて分析し心に納得ゆくようなまとめを得るようにする。これだけのことです。ムイシキだからこう そうでないからどう といった捉え方は 要らないはずです。

なぜ「要らない」のですか?
>これだけのことです。

とおっしゃる割には根拠が全く示されていません。
検証されているかなどと野暮なことは申しませんが、せめてアウトラインだけでも示すべきでしょう。
無意識の根拠についてはわたしはすでに何度も申し上げていますのであえて繰り返しませんが。
>納得ゆくようなまとめを得るようにする

ための無意識という概念だとわたしは言っているわけですが、そうではないという根拠はどこにありますか?

> ★ 無意識領域という想定が有効になると思います。
 ☆ いいえ。記憶とその想起があるだけです。眠っていたものは すべてムイシキだったものだというだけです。

繰り返しになると思いますが、『記憶とその想起』を妨げているものがある、という現実を無視しておられるようです。
それが、あるだけ、と言っても何の意味もありません。

> ★ つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。
 ☆ だから 他人に対して その人となりなどについてこれこれだと ムイシキ理論を用いて 判断しそのことを言って その中身が かならず当たっているのだぞと言い放っても自由だという意味ですか?
 《検証できない根拠にもとづく判断を 他人におしつけても 〈否定する根拠もないから〉 大丈夫だ》という意味ですか?

まあ、お互いに似たようなことをやっているんじゃないですか。
その意味では。
ご自分は常に、検証できる事柄のみを前提にして見解を述べていると思っていらっしゃるのでしょうか。
たとえそうだとしても『件の遣り取りを拝見した範疇においては』お互い様ではないのか、と言っています。

> ★ 神の検証はできるのですか。
 ☆ ふたつあります。ひとつは すでに述べて来たように 経験事象との対応を――想定のかぎりでですが――おこなって どこまで経験科学の検証に耐えられるか これを見ようとして来ています。ところが ムイシキ理論は ついぞ行なえないのです。

神の検証という難しいところをお答えいただいたと思いますが、全く説得力がありません。
また、ムイシキが(検証されていないとおっしゃるのであれば)なぜ
>経験科学の検証に耐えられるか これを見ようと

する対象であってはいけないのか、という根拠も示されておらず、曖昧性に終始したご返答と判断せざるを得ません。
また、一般的な感覚として、無意識の検証があえて必要なほど理解されていないものだとは到底思われません。

>他人に対して当てはめた診断を 言いっ放しであり 押しつけたままになります。これは 人間性が問われなければならない問題です。

ですから、それは言う側の人間の能力や人間性の問題であるか、または、受けとる側の勘違いや被害妄想にすぎません。
無意識が存在するという事実自体とは何の関係もないことは明白でしょう。

> もうひとつに ムイシキは 経験事象に属するので 神の問題が いわゆる公理として良心・信教の自由にもとづき 信仰として持たれているという現実と異なっていることです。

無意識は信仰の問題とは違うと言われればそのとおりですが、
>経験事象に属する

にも拘わらず、経験しているという実感を持てない、という点が無意識というものが想定される根拠になっていると思います。
  

投稿日時 - 2012-02-20 22:04:19

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~
 ヒラメキというものは否定しませんが、
 >過去の学習経験や思考の蓄積から来るもの
 :
 があくまで土台になっているはずという認識なので、それを
 >別としています
 :
 というご見解であれば、根本的な認識の相違があるものと解釈したほうが良さそうですね。
 ~~~~~~
 ☆ 経験にかかわって起きるヒラメキもある。けれども そうではないとしか考えられないヒラメキもある。それは わが暗き心が 科学の光や人の暖かさによって照らされ明るくなる場合とは違って そうではなく わが心の燈心が・燈心じたいが 灯されるという場合があり この種のヒラメキが いちばん分かりやすいとすでに述べました。次のごとくです。

 ☆☆(No.22お礼欄) ~~~
  孤りいるということや 人生のむなしさ・はかなさを身に染みて感じるときの闇のような・わが心の暗い世界を 偉人の英知や人びとのなさけや思いが癒してくれることはありますが そしてその闇に光を投じてくれることもあります。ありますが そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。

 科学による事実認識が世界を照らすこともあり得ますし 人びとの思いが 互いに自分たちの心をやわらがせることもあり得ます。要するに落ち込んだとき その凹みをあたたかくつつむこと これは 人間わざでもありえます。
 ところが 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。それゆえ 非経験の場を想定します。さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。
 ~~~~~~~~~~

 ★ ~~~~~
 重要なのは、
 >啓示のごとく
 :
 であって、「啓示(と同質)である」ではないという点なのでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ ここでわたしが《ごとく》というふうに言って直接に《啓示》となぜ言わなかったかと言えば それは 《啓示として》と言えば あまりにも宗教の教義のようであると思い これを避けたからです。要は わが過去の経験の中からだとは思えないヒラメキだというところにあります。啓示と言ってもいいですよ。なぜなら 啓示と見る主観はこの場合 それとしてならふつうのコミュニケーションに出してもいいと 一般に保証されていましょうから。

 ★ 「考える」のキャパを超えたものは全て神として崇め
 ☆ これは 思考能力の限界を 時代とともに どこに置くかの問題だと思われますから 微妙に定義の仕方が違って来ています。そもそもとして 非経験の場を想定するわけですから。この場が わが心に非思考の庭として成るなら それは 《神を崇める》といったこととは まづ初発の状態において違います。
 想定した神と言わばわたしは 対面するわけです。想定上ですが。その上で 確かにわたしは この神を受け容れるという場合と いやそうではなく こんなものをおれは受け容れない 無い神として受け容れるという場合とがあります。単純に《あがめる》とか《単に寄り掛かる》というような意味で身をゆだねるのではないわけです。自己を活かすためにあるという心の納得があるものと考えます。それゆえ受け容れようとするのだと。

 ★ 《非思考の庭》というのは良く言えば無垢、そうでないとすれば無知と言い換えて良さそうですね。
 ☆ 無垢・有垢の問題ではありません。なにしろ非思考であり非経験とのかかわりの庭なのですから。無垢というのは 思考がからんでいます。《無知》というよりは 《非知》でしょうね。


 ★ ~~~~
 >この世をも超えた世界を想定
 :
 することが、なぜ、
 >つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持った
 :
 ことになるのでしょうか。因果関係は見出せません。
 ~~~~~~~~
 ☆ 因果関係の問題ではありません。ふたつは 同じことだと言っています。《言葉として カミやシンジルを持つということは その厳密な意味においては 非経験の場が想定されたということになる》 こういう意味です。


 ★ ~~~~
 >《心の明けであり心の伸び》
 :
 という表現で言いたいことはわかるような気がしますが、それは信仰のみがもたらすものではないでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ それは・つまり《信仰のための専一的な用語》というのは 無理です。人間の言葉は つねに比喩などをつうじて別の意味を派生させます。(意味が変化しもします)。


 ★ ~~~~
 相対の世界を超えているものがあるぐらい小学生でも感じていますよ。
 宇宙の法則と言ってもいいでしょうし、自然の摂理と言ってもいいでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ まづ第一文の内容が聞けて よかったと思います。いままで非経験の場を言っても いったい通じているのかどうか あやふやだったのですから。
 ただしこれを《宇宙の法則》とか《自然の摂理》と言いかえるのは 初めの非経験の場から第二次的に派生した言い方になります。

  非経験の場〔なるナゾの何ものか〕:絶対・無限・不可変性・永遠
  →真理・至高の善・正義・慈愛・全知全能
  →〔擬人化〕絶対者 →神(あるいは 無い神)
  →絶対者たる神=創造主
  →宇宙の法則・自然の摂理・宇宙の霊魂(プシュケー・コスムー)・世界霊魂(アニマ・ムンディ)

 こういった派生的な規定が――想定上 ただし 人間の思考をつうじて――得られます。

 ★ わざわざ《無い神》などという発想までに及ぶ必要性はありません。
 ☆ 意味が捉えられません。《有る・無い》は 経験世界の規定です。非経験の場ではこれらを超えています。《有る無い》を超えた場を 超えていない人間の言葉で表わそうとすれば 《有る》つまり有神論か 《無い》つまり無神論か いづれかひとつにならざるを得ない。ということです。《有る神》と《無い神》とは 互いに同等であり 名前が違うだけで同一です。


 ★ ~~~~~
 この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。
 :
 「知っている」の主体が何か、ということが大事になるでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ 《わたしは》と言っています。意味が分かりません。

 ★ ムイシキとして特別視せざるを得ないような現象が発生するために
 ☆ ですから 記憶の中に眠っていたものが目覚めたら それはムイシキだったものだと すべてについて言えます。《特別視》はありません。
 あるいは 過去の記憶が よい・たのしい思い出であって 心がちからづけられるというようなムイシキの意識化もあり得ます。どうしても 暗い闇のほうへ持って行こうとしていませんか?

 ★ ~~~
 >納得ゆくようなまとめを得るようにする
 :
 ための無意識という概念だとわたしは言っているわけですが、そうではないという根拠はどこにありますか?
 ~~~~~
 ☆ 眠っていたものが起きたら それはすべて例外なく《ムイシキだった記憶》のことです。いいことも わるいことも 納得ゆくように総括しまとめて再び記憶へと返します。それだけのことです。

 ★ ~~~
 繰り返しになると思いますが、『記憶とその想起』を妨げているものがある、という現実を無視しておられるようです。
 それが、あるだけ、と言っても何の意味もありません。
 ~~~~
 ☆ これが まさしく何もないのに何かあるという――ムイシキ理論の――《思い込み》です。

 ★ ご自分は常に、検証できる事柄のみを前提にして見解を述べていると思っていらっしゃるのでしょうか。
 ☆ あなたは たとえばコロンをお使いです。これは 深層心理から行けば ふたつの乳房です。よほど乳房に思い入れがお有りのようです。つまりはもっと単純に言えば マザコンのことです。――と言われて あなたが それを そんなことはありません。特別にそんなことになっていることはありません。と答え返したとすると こう返答が来ます。そうでしょう。そのように否定なさるところが まさにムイシキ理論のセオリどおりなのですから やはり意識では分からなくても ムイシキにおいては 実相なのですよ。と。
 こんなことは わたしは言いません。
 《検証できない内容にもとづく理論を振りかざして 相手に応用してしまい その診断結果を おしつける。あとは いくら違うと言っても 耳を貸さない。ほかの人にも言いふらす》  そういう問題です。筋が違います。

 ★ ~~~~
 >経験事象に属する
 :
 にも拘わらず、経験しているという実感を持てない、という点が無意識というものが想定される根拠になっていると思います。
 ~~~~~
 ☆ これを 山師と言います。ペテン師のことです。自分ひとりの仮説を超えてほかの人に当てはめるなら そうなります。

投稿日時 - 2012-02-20 23:26:26

ANo.25

#23です。

些細な表現に拘って建設的方向性を見失ってもなんですから要点を絞りたいと思います。

>非思考というのは ヒラメキになれば 知覚をともないますから それにつれて心理作用も帯びて来ますが 心理などというのは大海の波風であるに過ぎません。心ないし精神が 大海です。そこに知覚もおこります。その前にイメージのごとき混沌としたヒラメキが起こり得ます。

ヒラメキは非思考の庭から突如天啓のごとく生じる、ということでしょうか。

> ですが 人間存在という拠り所は けっきょく果敢無くうつろいゆくものであると知っている人間は 《考える》という言葉では表わし得ない人の《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知ってそれを 《信じる》と呼んだのです。

「《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知って」と言う場合ですが、
この「知って」という状態になるための契機といったものはあるものでしょうか。

>人間存在の拠り所を 非経験の場に置くことは 人間存在としての自己を活かすためであり その自己に立って 信じるのです。めちゃくちゃです。

「人間存在の拠り所を 非経験の場に置くこと」が「人間存在としての自己を活かすため」であることの根拠はなんでしょうか。

>人からさとられないように隠すということですか? だったら さとられないようにするというハカラヒ(計らひ)があります。これを隠す。なら 記憶に残るのは必然です。
 つまり その隠す場所が どこであるか そんなことは どうでもよいはずです。記憶の中に残ることは 変わりないのです。どこであろうと 関係ないはずです。まさか 隠し場所を脳にわたしが指示して どこそこに仕舞っておいてくれと言うのでしょうか? めちゃくちゃです。

人から悟られないようにではなくて、自分自身に悟られないように、です。
隠すというのはいわゆる抑圧のことで、これは自我の防衛機制の代表格ですね。
また、場所や領域という表現にあまり拘る必要はありません。
記憶の中に残るが、しかし、なかなか意識に浮上してこないもの、これを無意識と呼ぶだけです。
それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。

> ★ 完治しないというのは無能な医者の言い訳にすぎないでしょう。
 ☆ だとしたら この《根を張っている》ということは 事実ではないということになります。それで《思い込み》と規定しているとも言えるのですが それだけでは話が済みません。《思い込み》も《根を張っている》ということも すべて錯覚であり幻想である。こう明言しなければならないはずです。

実際問題として、思い込んでいる人に、錯覚だ幻想だと言っても納得しないでしょう。
まず、なんらかの思いに苦しむ人がいる、ということが前提的事実としてあるわけです。
それは「思い」ではなく「思い込み」であり、なぜそのように思い込むのかといえば、その根は無意識領域にある、ということ。
その場合にも、無意識領域という想定が有効になると思います。
そういった領域があるわけではありませんが、このように比喩として表現することでわかりやすくなるでしょう。
このようにして、自分で抑圧していた感覚があることに気づくことによって、その感覚は白日の元にさらされて砕け、あたかも堰き止められていた土砂が取り除かれた川のように再び元の流れを取り戻すことが可能になります。

> ★ ~~~~~
 「私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした」
 に関しても、
 「これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。」
 に関しても、
 その根拠が示されていない。
 ~~~~~~~
 ☆ ふざけてはいけません。ムイシキは いくら理論として実際に使ってもそれの検証が出来ないものだと言っているぢゃないですか。検証のできない事柄を示して理論どおりだと言っても 根拠がない。ゆえにそういう理論を用いて人についての判断をおこなうのは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離なのです。

一般的に心や精神の問題は検証が難しいものでしょう。
脳科学の発達で大分解明されている部分もあるようですが、まだほんのわずかです。こういった問題に関して、
>検証のできない事柄

だというだけの理由で
>人間性のゆがみであり 人間性からの遊離

と断定するのはどうなのか、ということを申し上げました。
つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。
神の検証はできるのですか。
私見を差し挟めば、無意識に関しては、繰り返しになりますが、記憶しているはずなのに思い出せない記憶があることは誰もが理解できるのではないでしょうか。
場所を特定しろと言われれば現段階では無理でしょうが。

とはいえ、件の回答者さんもブラジュさんが「男根主義者であるようです」という理由で無意識の存在が確認できた、と言っているのに、男根主義者であるという根拠を明らかにしていません。
この意味で、「無意識の存在が確認できる」というには根拠に乏しい。
どっちもどっちだと言ったまでで、ふざけたわけではありません。
  

投稿日時 - 2012-02-20 17:43:19

お礼

 はこぶるさん 前々回では 口角泡を飛ばしていましたが 前回は ののしっています。これにめげずにご回答を寄せていただきまことにありがとうございます。

 ★ ヒラメキは非思考の庭から突如天啓のごとく生じる、ということでしょうか。
 ☆ 精確に言いますと:

  ○(ヒラメキとは) ~~~~
   もっとも非経験の場に近いと思われるもの(と言っても 感覚的なことですが)は 単なるイメージがひらめいたという直感です。まだ海のものとも山のものとも分からない状態であり得ます。
 そこからでも 人はいわゆるアイディアを見い出すことがあると見ます。
 
 次には 直観が ヒラメキのひとつとして 来ます。これは むしろすでに概念が固まっているかたちだと言ってよいと思います。すでにモノゴトの本質をも見抜いたというような内容を持ち得ると。

 いづれのヒラメキにしても そこから 言葉化して今度はその言葉いっぱいに思考の世界において中身を取り扱います。取捨選択 練りあげ 磨き上げといった整理作業や論理の展開などが行なわれて行きます。

 
  では このヒラメキは どこからくるのか?
  いまは 過去の学習経験や思考の蓄積から来るものは 別としています。言いかえると 経験や自分の意志から来るヒラメキではないヒラメキがある。こうわたしは 思っているという意味です。
 つまりは それは すでに経験を超えていると見るからには 非経験の場であり これをわが心に受け容れたときには 非思考の庭が成ると見るわけです。
 したがって いま扱っているヒラメキは この非思考の庭に起きる。と見ますし ということは 非経験の場なるナゾの何ものかから来ている。と――想定上―― 見るというかたちです。

   ● ヒラメキは わが心の非思考の庭に 或る日或る時 ふと どこからか確かに啓示のごとく 起きる。

 こうなると考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ ~~~~
 「《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知って」と言う場合ですが、
 この「知って」という状態になるための契機といったものはあるものでしょうか。
 ~~~~~~
 ☆ 古代人は お日さんをアマテラスというごとく 神と呼んだでしょうし 嵐をもスサノヲ(スサは 荒ぶのスサと言います)と呼んで これも神と言えば神々のひとはしらとしたようです。(古代インドでは スールヤ神が 太陽神のようですし インドラ神は 日本での帝釈天のことですが 雷霆神だそうです)。
 自然界の中にさらに超自然を捉えて とにかく《かみ》と呼んだようです。つまりはこれがすでに 非経験の場のことだと見ます。雷を《神鳴り》というごとくにです。
 言いかえると その日輪や雨風の自然現象そのものが 神であるというのでなく それの仮りの姿という意味で偶像だと――厳格には――捉えたと思います。神々は 非経験の場そのものとしての《かみ》の言わば分身であろうと。
 したがって ここには いわゆる大自然に対する畏敬の念を生む素地があるでしょうし その心をすでに《非思考の庭》と見るなら そこには《ナゾの何ものかへの きよらかなおそれ》をいだいているという己れの姿を人は見い出すと思います。
 そのように ただ経験世界に閉じこもるというのでなく そうではなく この世をも超えた世界を想定したならば――つまり《かみ》や《信じる》という言葉を持ったならば―― その《閉じていない》というところが 《心の明けであり心の伸び》だと見ます。これは 一般に《信仰》と呼ばれるのだと。
 大海に比される心の中に そのきっかけの時点では 心の中から出た思いとして起こるというのではなく まして心の表面で感情が起こりそれをめぐって心理があれこれはたらくというのでもなく 心を超えた場とのかかわりと捉えているのだと見ます。


 ★ 「人間存在の拠り所を 非経験の場に置くこと」が「人間存在としての自己を活かすため」であることの根拠はなんでしょうか。
 ☆ この世の経験的なものごとは 無常であり果敢無いと知ったあとの知性においては 拠り所は まづ 無いと見ると思います。そこから 神という言葉があるのを知って この神に――なぜなら 超経験なら 相対の世界を超えているその絶対に――拠り所を見い出す。(あるいは そのとき いや そうではない わたしは けっきょくその超経験の場も それは《無い神》だと思うと言って 無神論という信仰を持つ場合もあると見ます)。
 つまり 拠り所であるなら このいまの自分を活かすためであると考えて不都合はないと思います。



 ★ ~~~~
 人から悟られないようにではなくて、自分自身に悟られないように、です。
 隠すというのはいわゆる抑圧のことで、これは自我の防衛機制の代表格ですね。
 ~~~~~~
 ☆ でしたら この《抑圧》について・つまり隠したし抑圧したというコトについてわたしは 記憶しているということだと思います。つまり 知っているという意味です。普段は 無意識だとしても 基本的にわたしは記憶において知っていることだと見ます。 
 つまりその《わたし》の内部で 
 ★ 自我の防衛機制
 ☆ という作用があったとしても すべては《わたしが 記憶において――そのコトもそれを隠したことも――すべてを知っている》というのが ふつうの現実だと見ます。
 言いかえると その全体としての現実が 現実であるゆえに
 ★ ~~~~
 また、場所や領域という表現にあまり拘る必要はありません。
 記憶の中に残るが、しかし、なかなか意識に浮上してこないもの、これを無意識と呼ぶだけです。
 ~~~~~~
 ☆ ということが きわめて煮詰めた言い方では どうでもよい。となります。すなわち
 ★ それが記憶されている場所を仮に無意識領域と呼んでもなんら差し支えはないでしょう。
 ☆ と一応は言えても この《それ》もあれもこれもどれもすべては いまのコトにかんするかぎり 《わたしは 記憶において仕舞ってあると知っている》ことです。その区別に さして意味がないと見ます。したがって 領域を特別視する謂われもない。こう見ます。
 記憶の中で眠っているものは すべてムイシキの状態にあります。それだけだと見るという意味です。


 このことが大事なのは 次の場合です。
 ★ ~~~~
 まず、なんらかの思いに苦しむ人がいる、ということが前提的事実としてあるわけです。
 それは「思い」ではなく「思い込み」であり、なぜそのように思い込むのかといえば、その根は無意識領域にある、ということ。
 ~~~~~~
 ☆ ムイシキの領域が特別にあるわけではないという認識が重要だと ここで 成ります。すべての《思いこみ》も《思い》も みな記憶の中に《根を張っている》ことに間違いないからです。
 どうしてもムイシキとそれに突き動かされた欲動や衝動だとかの見方があるので それに影響を受けて ムイシキを特別視しようとするクセが 人びとについてしまった。ただそれだけだと見ます。

 ★ 実際問題として、思い込んでいる人に、錯覚だ幻想だと言っても納得しないでしょう。
 ☆ 記憶から過去のいやな思い出をよみがえらせたのですね? と問えば それで済むことです。それによって悩んでいるなら その過去の事件をあらためて分析し心に納得ゆくようなまとめを得るようにする。これだけのことです。ムイシキだからこう そうでないからどう といった捉え方は 要らないはずです。
 精神分析の手法は ここまででも 要りません。

 ★ 無意識領域という想定が有効になると思います。
 ☆ いいえ。記憶とその想起があるだけです。眠っていたものは すべてムイシキだったものだというだけです。
 次の事態は 上で述べた《過去の事件の分析と納得のゆく整理》という作業の中にぜんぶ含まれます。 
 ★ このようにして、自分で抑圧していた感覚があることに気づくことによって、その感覚は白日の元にさらされて砕け、あたかも堰き止められていた土砂が取り除かれた川のように再び元の流れを取り戻すことが可能になります。
 

 ★ つまり、「検証のできない事柄」であるということ自体はそれを否定する根拠足り得ないでしょう、ということです。
 ☆ だから 他人に対して その人となりなどについてこれこれだと ムイシキ理論を用いて 判断しそのことを言って その中身が かならず当たっているのだぞと言い放っても自由だという意味ですか?
 《検証できない根拠にもとづく判断を 他人におしつけても 〈否定する根拠もないから〉 大丈夫だ》という意味ですか?


 ★ 神の検証はできるのですか。
 ☆ ふたつあります。ひとつは すでに述べて来たように 経験事象との対応を――想定のかぎりでですが――おこなって どこまで経験科学の検証に耐えられるか これを見ようとして来ています。ところが ムイシキ理論は ついぞ行なえないのです。他人に対して当てはめた診断を 言いっ放しであり 押しつけたままになります。これは 人間性が問われなければならない問題です。
 もうひとつに ムイシキは 経験事象に属するので 神の問題が いわゆる公理として良心・信教の自由にもとづき 信仰として持たれているという現実と異なっていることです。言いかえると 信仰について この主観の内面の問題だという基本からさらにコミュニケーションの場に出て 経験合理性で何とか納得しうる説明を求めているし その成果を発表している。というところです。

投稿日時 - 2012-02-20 19:14:26

ANo.24

お早うございます。

>全体を〔も〕見ること――ホーリズム<この考え方は、経営者あるいは統治者の考え方ですね。全体の利益に対してどれだけの経費が掛ったかということ。哲学者の方が考えられているとは思いもつきませんでした。これが出来れば立派な実業家ですよ。

私もマズローの欲求段階説は、おかしいと思います。これは、人間のピラミッド型の組織に於いての統計の結果だと思います。その階級に於いて達成される欲求のことです。ピラミッドの上にいく程、人数が少なくなるので難しくなるというだけのことです。別に、段階はないと思います。逆に、聖職者や統治者は下の欲求が満たされていないのかも知れません。だとすると、悩み多き人達かもしれませんね。自分たちの生活レベルを下げるのに怖がって自己実現の欲求どころではないのかもしれません。(笑)

>感情や欲求を理性で抑制する<過度の感情の抑制が人間の自立に悪影響を及ぼしているということでしょうか?これが>その人の境地<ということでしょうか?
家族で考えた場合、三つ子の魂百までといいますから影響は、あると思います。心理学では、潜在意識として残るということですね。そのために、睡眠状態であるいは癒しの状態での治療が有効的であるということでしょうか?私は、カインに於いては、十分成熟した大人であり影響はないと思います。

>《自然淘汰》は ただ動物の世界だけだとわたしは考えます。<
そうでしょうか、人間はどうしても感情が理性より優先してしまうと思います。でも、動物と違うところは、知恵があります。知恵により感情を抑え理性が生まれたのです。

>《カインの言い分》<
エデンの園のお話ですね。キリスト教の思い込みなのであまり興味がないのですが?
カインは、悪魔であるへびが、主が造られたエバをそそのかして私に知恵の実を食べさせ、性欲などの欲望を感じさせた。そして、知恵はさらに神と同じように善悪を私に教えた。だから、私は主が私の摘み物に対して喜ばれなかったので恥ずかしく思った。それが、アベルへの妬みになり殺害した。罪=欲は主が与えたものだということですね。
どうなんでしょう。このころ、人間の中に知恵ある者が現れたということでしょう。みんな、同時に知恵がつけばいいのですが。まあ、人間が突然全員アインシュタインになるのは無理でしょうね。(笑)一部の人が優れた知恵を得た為に、善悪などなかった生き物が我欲を膨らまし罪が生まれたのでしょう。そして、彼は、あらゆるものに真実の名を付けたのでしょうね。カインは、その被害者だというのでしょうか?私は、進化だと思います。知恵ある者は、人間を繁栄させるために彼の精いっぱいの知恵を使い信仰も造ったのでしょう。一人の人間の寿命は、昔なら50年も生きれば長寿です、今は130年ぐらいは可能性があるとか少しは人間は進化しているのでしょうか?(笑)

投稿日時 - 2012-02-20 05:56:21

お礼

 

   てふてふが一匹 韃靼(だったん)海峡を渡って行った。

 という詩がむかしありました。そのことを思い起こさせるてふてふさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 この質問では 完全にイッポンを取られましたから何とか挽回せねばならぬと ねじり鉢巻きで頑張っているぶらじゅろんぬです。まぁ じょうだんですが。

 つまり反論をかかげます。
 ★ 知恵により感情を抑え理性が生まれたのです。
 ☆ いえいえ。理性は むしろ感性――つまり知覚作用――の中から芽生え大きく育つのです。その《芽生え》や《育つこと》 これらは 人間の知恵そのものですが。つまりは おそらく《記憶》という行為能力にあって それは 特に自己秩序作用といったハタラキであるかと考えます。自律神経と言うのでしょうか ひとりでにはたらいていてくれるものと思います。
 何が言いたいかと言えば 感性と理性とどちらが エライか? そりゃあ 感性のほうです。感性の中から――泥沼の中から 蓮の花が咲くように―― 理性が実って来ます。
 
 たとえば あなたが 夫と子供もある女性と恋愛に落ち入ったとします。これについて 理性は何と言うでしょう? 人の道を説くでしょうか? あるいは ばれないように注意せよでしょうか? おそらくこのとき 感性は そのあふれ出る感情いっぱいにして それでもあなたに告げるでしょう。《わたし(=感性)は この道を行くのは 好かん》と。
 おそらく 言葉にしては 感性は語らないかも知れません。けれども すでにじつは 初めから この道をすすもうとは思っていない自分があるのを あなた自身は知っているのです。なぜか? それは 決して理性がおしえたからではなく 感性として最初の一瞬にすでに分かっているのです。エライでしょう 感性は?
 理性は この感性の まさに良いところを パクって精一杯恰好をつけつつ論文を書くだけのことです。
 そうはお思いになりませんか?
 スサノヲのほうが アマテラスより立派なのです ほんとうは。

 ★ 人間はどうしても感情が理性より優先してしまうと思います。
 ☆ これでいいぢゃないですか。これがあるから 理性も生きる場所をあたえられています。
 それに 理性は 大した力ではありません。感情をもそして理性をも引っ張るのは けっきょく存在の全体としての《わたし》です。
 仮りに理性で何ごとも仕切ったとします。それでは ほとんど必ずあとからしっぺい返しが来ます。恰好だけよくても 足が地についていない。それが 理性です。
 ですから 理性も感性も引っくるめた人格全体としての《わたし》の問題になる。こう考えます。




 《カインの言い分》についてですが:
 ★ ~~~~~~
 ・・・そして、知恵はさらに神と同じように善悪を私に教えた。だから、私は主が私の摘み物に対して喜ばれなかったので恥ずかしく思った。それが、アベルへの妬みになり殺害した。罪=欲は主が与えたものだということですね。
 ~~~~~~~~
 ☆ 違います。
 (1) 善悪を知る木から採って食べると その名のとおりなら ひとはそこで善悪を知る。そして確かにこの木を知恵の木とも言っています。
 この事件は ただし そこで《へび》が介在している。それはなぜか? という問いです。

 (2) 善悪を知る木の実というのなら けっきょく人にとっては おのれの心に尋ねて よしとするか あるいは それはちょっとおかしいとか やばいとか――なぜなら 顔を赤らめたり胸の動悸がはげしくなったりする―― これらふたつの選択があることに対応しているのではないか? 良心に従う――ということは 上に触れたように けっきょく元は感性におけるモノゴトの仕分けとしての選択において決まっていると思われるその中身において 言い方としては 良心にしたがう――ことのほうを 善とよぶ。これにさからうほうを 負の善 という意味で悪と呼ぶ。
 このとき エワは そしてあとでアダムも 善にさからうほうをえらぼうとした。つまり 神の言いつけにさからうというかたちで 記されているそのことをおこなおうとした。
 けれどもそれが なんで へびが間に入って エワをそそのかすというようなコトになっているのか? この問いです。

 (3) カインは神にささげ物を持って行ったとき 目を留められなかったので激しく怒って顔を伏せた。
 ▲ ~~~~~~
 6: 主はカインに言われた。

    「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 ~~~~~~~~~
 ☆ カインは こう思っていた。
  ○ (カインの思い) ~~~~~
  主よ あなたにささげ物をささげることは 善であると思います。したがいます。きょうささげた物も決して優れていないわけではありません。
 問題は このようにおのれの心にしたがってよしとするコトをえらびおこなうその善が どうして 主よ あなたを経由して成り立っているのですか?
 つまり 問題となるのは 同じ趣旨だと思いますが 少し違います。いま述べた善にさからうとき・つまり悪をえらびそれをおこなうとき それは 人がその意志によって――心に逆らってですが おのれの判断と意志によって――おこなうということではないのでしょうか? なぜそこに へびが介入しているのでしょうか? 
 へびは要らないと思います。
 わたしが 人間として 悪を侵すのです。へびの仲介はないと思います。
 なぜ へびなのですか?


 (のちのカインの述懐として:)
  弟のアベルは このわたしの疑問に何ら反応を示さなかった。まるで善一筋。悪は知らぬという顔。われは へびではないと言ったきり。
 あとは かあーっとなって よく覚えていないほどです。でも それも へびの介在なしに わたしが 人殺しという悪を思いつき わたしの意志でおかした行為です。そのつぐないを一生かけて あるいはこの命を差し出して おこなおうと思います。

 でも ひょっとして 主よ あなたは 人が人をころすというその負の善なる意志行為 これを見越してわれら人間をお造りになったのではありませんか? 
 それはそれとして そのように負の善に向かう意志とそのコトの実行は 人間が負うべき間違いです。そのときなぜ ヘビが現われるのですか? 
 わたしは へびにそそのかされて 悪行をおこなったのではなく 自分の意志でおこなったのです。だから つぐないをします。
 へび これは何なのですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-02-20 12:53:48

ANo.23

#22です。

> こういう事実認識のことではなく 問題は トラウマならトラウマと呼ぶ症状になって現われるということ しかもこの症状は 一生なおらない(完治はしない)ということを言っている。これは けしからんという物言いです。

症状になって現われる、というより、現に現われた症状に対してトラウマと命名しただけと思われます。
完治しないというのは無能な医者の言い訳にすぎないでしょう。
記憶は無くならないでしょうが、誤った認識のに対する視点の転換が可能になれば、その記憶の質は自ずと変化するものとわたしは思います。

> いちばんの(という意味は けっきょく一生に一度の わが人生を決めるところの)ヒラメキは わが心の燈心を点(とも)す力のあったそれです。これは どう考えても わが身と心の中から現われたとは思えません。わが身と心に――知覚をとおして――現われるのですが 人間としての持ち分の中からは この着火するハタラキは出て来ないと考えるのです。

むろん、無意識などという概念も含めてですが、全ては脳の働きに関することであり、
>人間としての持ち分の中

から出てくるものと思います。

>そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。

それまでの蓄積なしに、そういった作用は発生し得ません。
ヒラメキという言葉で表現してもかまいませんが、少なくとも人間わざではないと「捉える」ということと、人間わざではないと「断定する」のとでは天地の違いがあります。

>さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。

それは単に人間というものの弱さの証明にすぎないでしょう。
つまり、考えるを放棄したときに信じるが発生するのは至極自然な心理作用だろうと思われます。
考えるは自らの思考がより所ですが、信じるの場合はそれ(自己)を放棄しているので、その代替として神が想定された。
こういうことではないでしょうか。

> 言いかえると もはや 人間の持つ言葉から 神や信じるという語は消えてなくなるという意味です。そうなるまでは――これは 良心および信教の自由に属す事柄であるのですから―― わたしは《わが心に非思考の庭が成った》 それが 信仰の成立でありそのまま信仰の動態であると説明しているわけです。

いや、これは良くありませんね。
ブラジュさんの見解は、「そうなる」時期を遅らせるだけの役割より果たしていませんよ。
ポピュリズムを哲学に持ち込む必要はあるのでしょうか。

> ところが ムイシキになると まるで そんな気配はないのです。その想定がおこなわれているのみです。

いや、ですから、無意識というのはあくまで比喩であることはおわかりでしょう。
意識する、自覚する。
これの対義語としての無意識と単純に考えれば良いだけなんですけどね。

>なぜ《地下の穴倉》は 独自の領域と見なされるのか? これに答えなければなりません。それも ままならないはずです。

それは簡単です。
地下の穴倉を必要とする、という心的な作用を人間が持っているからです。
不都合なことは隠してしまいたい、という、これですね。
むしろ、自然な感覚でしょう。
つまり、あるふたつの記憶がなぜ同質の記憶として扱われないのか、という、その理由に焦点を当てることによって問題が解決される場合があるから、ということになると思います。

>そして いかにムイシキと呼びたいひとつの記憶領域に《根を張っている思い込み》があるとしても それは 症状を呈することとは 関係ないということ。

これは逆でして、症状を呈するからこそ、《根を張っている思い込み》なのです。
症状を呈しないことに関して人間の所作朝から晩まで分析するのは暇人のすることですし、何の意味もないことでしょう。

>ムイシキの無意識の内なる活動によって そのコンプレックスは起こっているのだという説明 これは 簡単に人が盗用できる理論であり論理なのです。

しかし、論理というのは納得できるか否かで採用するか否かも決まるのではないでしょうか。
なぜ納得できないのか、という点をすり合わせていくしか方法はないでしょう。
「事例」に関しては、相互のやりとりの結果として以降の表現がなされるわけなので、一部だけを拝見しての判断は避けたいと思います。(全てを拝見するだけの気力もありませんし)
男根主義というのはよく知りませんが、フェミニズムの対義語的な意味なのでしょうか。
いずれにせよ、この点に関する当面の問題点はふたつと思います。
まず、男性であるならば大なり小なり男根主義でなくてどうするのか。
つぎに、あえて「主義」と評される以上は、何らかの理由があるわけでしょうから、そこについて(互いに)語ればよいことでしょう。
「男根主義者であるようです」
「ところが、あなたは違うと否定なさっている。」
どちらの場合も、その(男根主義者、および、否定の)根拠についての記述がなされていない点が問題であるといえば問題。
これだけのことでしょう。
無意識という概念自体になんの罪もありません。
「私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした」
に関しても、
「これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。」
に関しても、
その根拠が示されていない。
それは、わたしがよく拝見していないだけなのかもしれませんが、そこをつめていけばよろしいのではないですか。

投稿日時 - 2012-02-19 21:16:41

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ○ 非思考:思考に非ず
 ☆ この言葉を雑に扱っておられます。無思考つまり 思考がない のではありません。思考停止でもありません。
 思考中にも 非思考の庭にヒラメキが起こるということをしっかりと把握してください。
 ★ ~~~~
 つまり、考えるを放棄したときに信じるが発生するのは至極自然な心理作用だろうと思われます。
 考えるは自らの思考がより所ですが、信じるの場合はそれ(自己)を放棄しているので、その代替として神が想定された。
 こういうことではないでしょうか。 
 ~~~~~~
 ☆ 言いたくないですが 蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘ります。まるで違う世界であるということ。違いについて何とか知ろう・分かろうとしないのならば いくら言葉を費やしても話はまとまりません。
 ○ 考えるを放棄してはいません。しかも 放棄してもいいのです。非思考というのは ヒラメキになれば 知覚をともないますから それにつれて心理作用も帯びて来ますが 心理などというのは大海の波風であるに過ぎません。心ないし精神が 大海です。そこに知覚もおこります。その前にイメージのごとき混沌としたヒラメキが起こり得ます。

 ★ 考えるは自らの思考が拠り所です
 ☆ そんなばかな。拠り所は おのれ・《わたし》・その人格と境地・存在 そういうものです。しかもこの《人間存在》が有限で相対的で経験的に可変的であるゆえに それを超える非経験の場を想定するのは ごくふつうの想像力によるものです。
 無限・絶対・非経験(超経験)・不可変性などとしてその内容が 推測されます。それもあくまで想定からの派生という程度です。
 ですが 人間存在という拠り所は けっきょく果敢無くうつろいゆくものであると知っている人間は 《考える》という言葉では表わし得ない人の《身と心との志向性――心の明けまたは伸び――》を知ってそれを 《信じる》と呼んだのです。
 
 ★ 信じるの場合はそれ(自己)を放棄しているので
 ☆ めちゃくちゃです。人間存在の拠り所を 非経験の場に置くことは 人間存在としての自己を活かすためであり その自己に立って 信じるのです。めちゃくちゃです。
 自己を放棄しようがしまいが 非経験の場は想定上 存在します。それを受け容れたなら わが心に非思考の庭が成っている。それだけです。
 言いかえると それ以上の拠り所はないわけですから たしかに身をゆだねるということも起こりますが その必要もないほど ふつうに日常生活を送る。ただそれだけの話です。
 非経験・非思考という説明をないがしろにしないでください。



 ★ ~~~~
 地下の穴倉を必要とする、という心的な作用を人間が持っているからです。
 不都合なことは隠してしまいたい、という、これですね。
 むしろ、自然な感覚でしょう。
 ~~~~~~
 ☆ こんな無責任な話はありません。《かくす》ということは 自分がそのことを知っています。忘れようとするだけです。人からさとられないように隠すということですか? だったら さとられないようにするというハカラヒ(計らひ)があります。これを隠す。なら 記憶に残るのは必然です。
 つまり その隠す場所が どこであるか そんなことは どうでもよいはずです。記憶の中に残ることは 変わりないのです。どこであろうと 関係ないはずです。まさか 隠し場所を脳にわたしが指示して どこそこに仕舞っておいてくれと言うのでしょうか? めちゃくちゃです。



 ★ ブラジュさんの見解は、「そうなる」時期を遅らせるだけの役割より果たしていませんよ。
 ☆ これは反論になっていません。未来永劫に《非思考の庭》はありつづけると言っているのです。表現につけこんで 論理だけで突っ込むのは議論ではないでしょう。幕間の雑談ならいいですが。


 ★ これは逆でして、症状を呈するからこそ、《根を張っている思い込み》なのです。
 ☆ というとき その《症状》は直るということをすでにおっしゃっています。
 ★ 完治しないというのは無能な医者の言い訳にすぎないでしょう。
 ☆ だとしたら この《根を張っている》ということは 事実ではないということになります。それで《思い込み》と規定しているとも言えるのですが それだけでは話が済みません。《思い込み》も《根を張っている》ということも すべて錯覚であり幻想である。こう明言しなければならないはずです。つまり トラウマという名づけはいいとしても けっきょくその言葉に含まれていると人びとが思っている症状の部分 これが いっさいないのだと明言していなければならないはずなのです。それこそ 単なる心理作用のみであるということでしょう。大海である心は びくともしません。
 つまりは ムイシキから起こる症状は 何もないのだ。せいぜいが 錯覚であり幻想であるだけだとはっきりさせる必要がありましょう。
 つまりは もうそのときには ムイシキという言葉すら――精神分析の用語としては――要らないということです。つまりは 精神分析ということ自体が 意味がないということです。ムイシキがなくなれば そういうことになります。


 ★ ~~~~~
 「私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした」
 に関しても、
 「これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。」
 に関しても、
 その根拠が示されていない。
 ~~~~~~~
 ☆ ふざけてはいけません。ムイシキは いくら理論として実際に使ってもそれの検証が出来ないものだと言っているぢゃないですか。検証のできない事柄を示して理論どおりだと言っても 根拠がない。ゆえにそういう理論を用いて人についての判断をおこなうのは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離なのです。
 ふざけてはいけません。
 はこぶるさん あなたも ついに そこらのわるふざけ専門の哲学屋に成り下がったのですか?

投稿日時 - 2012-02-19 22:29:09

ANo.22

#20です。

>ということは 記憶の倉庫のほかにムイシキの領域があるのですか? 

そうですね。
たとえば、倉庫地下の穴倉にでも眠っているような在庫というほどの意味です。
なかなか日の目を見る機会に恵まれないという意味で、それを無意識と名づける。
しかし、ブラジュさんは穴倉と言ったって倉庫には変わりないだろう、とおっしゃっているわけで、つまり呼び名の問題にすぎません。
「なかなか日の目を見る機会に恵まれない記憶がある」という点では同じことでしょう。

> ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう?

いえ、そうですよ。わたしの理解ではですが。

> ★ 「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけ
 ☆ の領域があるのでしょう? 

ですから、これはあくまで比喩であることは当然でしょう。
記憶の中で、容易に浮かび上がってこないものを想定する際に(こういった想定をすることの有意性についてはブラジュさんも異論はないはずですが)、それを無意識の領域に格納されている記憶、のように表現するだけですよ。
前意識などという区分けを追加する場合もありますが、特に触れる必要はないでしょう。

> 誰れかが あなたはマザコンだろう? と言われてそれを否定したなら 相手は そのように否定するのは ムイシキ理論のセオリどおりだ 意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはずなのだ と返して来る。これです。

コンプレックスというのは複合・錯誤などと考えてよいと思いますが、マザーコンプレックスというのは他の女性を母親と勘違いして認識することです。
しかし、母親(あるいは代替的な女性)からの影響が皆無の男児というものは存在しないわけです。
つまり、多かれ少なかれ、成長後も男児というのは恋人や妻などに対して母親の面影を探そうとします。
また、そうでなければおかしいでしょう。
ただ、そのこと(対象の女性を母親と取り違えること)によって現実の生活において不都合が生じるような場合、複合・錯誤であることを認識する必要が出てくるだけです。
つまり、
>意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはず

なのはむしろ当然なのですが、だからといって、それがどうしたというのか、ということになります。
何の不都合も生じていない人間に対して、そういった用語を適用して喜ぶのは子供のやることですが、それにいちいち腹を立てるほうもどうかと思います。
記憶として深く刻まれている「母親から受けた影響」は膨大なものがあるでしょう。
しかし、いちいちそれを意識しているわけではない。
また、思い出そうとしても殆んど思い出せない記憶もある。
それを無意識と呼ぶだけですよ。
無意識という呼び名が無くなったからといってマザコン人間がいなくなるわけではありません。
ただ、程度の大小があるだけで、マザコンの要素を持たない男は誰一人としていないはずです。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといった風情が感じられますが、無意識には何の罪もありません。
ですから、
> これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか?

というのは全く根拠を欠いた推論と言えるでしょう。
歪み、遊離しているとすれば、それを扱う人間の問題にすぎません。

> これを 《そこまでの扱いをする》という見方は おかしいでしょう。ごくふつうのことなのですから。

いえいえ、ヒラメキや非思考の庭も検証できないと思うのですが。

> ヒラメキは その直感ないし直観じたいにおいてすでに経験的なものごととして得られたなら――それもふつうのことだと思いますが そしてもはやそれを解釈する必要もないわけですから―― 必ずしも非思考の庭に起きたそれ(ヒラメキ)だとは確かに見ないでしょう。ただし たとえば方向性を示す場合とか 同じようなことですが いまおこなっている道筋を変えてみるようにといった指示だとかなら 信仰にかかわるそれだと見なせましょう。

どうもわかりづらいので端的にお尋ねしますが、
非思考の庭という領域はどのあたりに想定されているのでしょうか。
ヒラメクというのは感覚の作用だと思いますが、「あ!」とヒラメイタ段階ですでにそれは蓄積された記憶に基づく営為でしょう。
方向性を示す、あるいは道筋を変えてみる、というのは、環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。

> しかも ムイシキにかんして問題となるのは あくまでその過去の亡霊のよみがえりが その人に一生付きまとうと見なしているところです。

記憶は(取捨選択や上書きなどもあるでしょうから一概には言えませんが)基本的に一生付きまとうと言って良いでしょうが、一生付きまとうことが問題なのではなく、単なる記憶にすぎないものを亡霊とみなしてしまう、という点に問題があるように思います。
単なる記憶ではなく亡霊なのだ、と言う場合には、亡霊とみなさざるを得ない現況があるから、ということになるでしょう。
たとえば街中における車のバックファイヤーがベトナム従軍時の敵の砲声に聞こえてしまう。
この場合、記憶における敵の砲声は亡霊と言えますが、それはバックファイヤーが敵の砲声に聞こえてしまう、という現況を反映したものでしょう。
敵の砲声は過ぎ去った過去のことであり、現在という時制には起こらないことだと認識できると亡霊は記憶に戻るはずです。
   

投稿日時 - 2012-02-19 17:18:55

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 納得できません。少しづつ微妙に焦点がずれていると考えます。

 ★ 敵の砲声は過ぎ去った過去のことであり、現在という時制には起こらないことだと認識できると亡霊は記憶に戻るはずです。
 ☆ こういう事実認識のことではなく 問題は トラウマならトラウマと呼ぶ症状になって現われるということ しかもこの症状は 一生なおらない(完治はしない)ということを言っている。これは けしからんという物言いです。


 ★ ~~~~~~
 非思考の庭という領域はどのあたりに想定されているのでしょうか。
 ヒラメクというのは感覚の作用だと思いますが、「あ!」とヒラメイタ段階ですでにそれは蓄積された記憶に基づく営為でしょう。
 方向性を示す、あるいは道筋を変えてみる、というのは、環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。
 ~~~~~~~~
 ☆ 直感ないし直観 これが ヒラメキであり 欧米で言うインスピレーションのことです。単なるイメージであって ほとんどその意味が分からない(あるいは 混沌とした状態である)場合さえあるはずです。そして 少しは概念として捉えることのできるイメージやさらには直観(これは かなり理論化したいわゆる本質的な内容を伴なうものであると思います)としてのヒラメキもある。こういう事情ですが・・・
 こういう事情ですが まづ 直感とかイメージとか言う以上は 知覚においてそれは現われます。むろん 経験的な事象です。

 問題は それが どこから来たかです。
 いちばんの(という意味は けっきょく一生に一度の わが人生を決めるところの)ヒラメキは わが心の燈心を点(とも)す力のあったそれです。これは どう考えても わが身と心の中から現われたとは思えません。わが身と心に――知覚をとおして――現われるのですが 人間としての持ち分の中からは この着火するハタラキは出て来ないと考えるのです。

 孤りいるということや 人生のむなしさ・はかなさを身に染みて感じるときの闇のような・わが心の暗い世界を 偉人の英知や人びとのなさけや思いが癒してくれることはありますが そしてその闇に光を投じてくれることもあります。ありますが そのわが心の――もちろん比喩ですが――燈心を点すということ 言わば核反応を起こすかのごとく ひとに力をよみがえらせるそのハタラキ これらの作用は 人間わざではないと捉えるという意味です。

 科学による事実認識が世界を照らすこともあり得ますし 人びとの思いが 互いに自分たちの心をやわらがせることもあり得ます。要するに落ち込んだとき その凹みをあたたかくつつむこと これは 人間わざでもありえます。
 ところが 心の奥なるまたは底なる場所の燈心に 火をともす これは おそらく 人間わざではない。こう考えます。それゆえ 非経験の場を想定します。さいわい じんるいは どの民族でもその言語に《かみ》という言葉を持ち 《信じる》という語をもわざわざ《考える》とは別に持っています。それにかんがみるなら この《かみを信じる》という呼び方と響き合うのではないか。こう帰結されます。
 
 もしこの心の燈心に火をともすといったヒラメキが あくまでどこまでも経験事象であり そのハタラキも人間わざの範囲におさまるというのなら それはそれでかまわない。言いかえると わざわざ神や信じるといった表現を当てなくても そのヒラメキが起こるのであれば それでよいわけです。
 言いかえると もはや 人間の持つ言葉から 神や信じるという語は消えてなくなるという意味です。そうなるまでは――これは 良心および信教の自由に属す事柄であるのですから―― わたしは《わが心に非思考の庭が成った》 それが 信仰の成立でありそのまま信仰の動態であると説明しているわけです。
 いまは この説明がいちばん説得力がある。こう思ってのことです。
 言いかえると
 ★ 環境から受けた何らかの刺激をそれまでの記憶によって咀嚼判断した結果と考えるのが極めて自然だと思うのですが、どうでしょうか。
 ☆ これでは 納得が行かないというただただその感覚に 根拠を――つまり無根拠という根拠を――見い出すというところです。つまりもし おっしゃるように 経験的な心的現象として《わが心の燈心に火をともす》ヒラメキが起きるのであれば それこそ トラウマは人間であるかぎり直るでしょう。完治すると断言しているべきでしょう。


 ★ いえいえ、ヒラメキや非思考の庭も検証できないと思うのですが。
 ☆ これは 非経験の場とのかかわりですが そのかかわるときには 知覚が起こりますから 経験現象となります。したがって その現象にかんするかぎり――自然科学者でさえ ヒラメキが事実であり現実であると認めているからには―― やがて脳内活動としても細胞組織の動きとして解明されるようになりましょう。
 と言えるのです ヒラメキの場合には。
 ところが ムイシキになると まるで そんな気配はないのです。その想定がおこなわれているのみです。


 ★ ~~~~~~
 たとえば、倉庫地下の穴倉にでも眠っているような在庫というほどの意味です。
 なかなか日の目を見る機会に恵まれないという意味で、それを無意識と名づける。
 しかし、ブラジュさんは穴倉と言ったって倉庫には変わりないだろう、とおっしゃっているわけで、つまり呼び名の問題にすぎません。
 「なかなか日の目を見る機会に恵まれない記憶がある」という点では同じことでしょう。
 ~~~~~~~~
 ☆ もしほんとうにこうであるならば ムイシキの領域という呼び方は まづいでしょう。なぜ《地下の穴倉》は 独自の領域と見なされるのか? これに答えなければなりません。それも ままならないはずです。
 ならば ただの記憶のことです。

 ★ ~~~~~~~
  > ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう?
 :
 いえ、そうですよ。わたしの理解ではですが。
 ~~~~~~~~~
 ☆ でしたら 次の命題について そのムイシキは 何ら特別の意味はなく ただ記憶の一分野だということになります。
 ★★(回答No.17)~~~~~~
 にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。
 イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。
 思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。
 ~~~~~~~~
 ☆ そして いかにムイシキと呼びたいひとつの記憶領域に《根を張っている思い込み》があるとしても それは 症状を呈することとは 関係ないということ。ここまでをしっかりとはっきりと明らかにしていなければならないでしょう。ですから仮りに《トラウマ》という用語さえをもただの呼び方の問題に過ぎないとして受け容れるとしても このトラウマは 過去のいまいましい記憶がよみがえったことによるただの一時的な現象であるに過ぎない。こうきちんと言っていなくてはなりません。そういう問題です いま扱っている問題は。


 ですから マザコン等々のコンプレックスにしても 問題は事実認識のあり方を超えて起こります。
 この場合は 直らないという問題であるよりも 検証ができないのにムイシキが活動していると言い張るところにあります。ムイシキの無意識の内なる活動によって そのコンプレックスは起こっているのだという説明 これは 簡単に人が盗用できる理論であり論理なのです。包丁の悪用・誤用の問題どころではなく まさに理論どおりに応用しているとさえ言わねばならない事態です。

 その事例をお示しします。わたしが最近受けた事例です。
 ●(【Q:われわれは 魂が去勢されていましょうか?】回答No.9)~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7277186.html
  
 精神分析的な話し方が、対話として不毛であるという指摘がありましたが、私はどうだか知りません。結局お書きになっているのは、無意識の存在を否定したというだけのことで、その理由も、統計も示されていません。したがって、何ら説得性をもつものではありません。
 しかし、傍から見れば、あなたは自覚なさっていないが、(すでに私が述べたように)非常な男根主義者であるようです。ところが、あなたは違うと否定なさっている。この事例で、私には十分に、無意識の存在が確認できるのでした。無意識である以上、当人は自覚することができず、「え?そんなことはない、おまえの深読みだ」と否定するものです。あなたの反応はセオリー通りです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆☆ ~~~~
 これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか?
 ~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-02-19 18:59:05

ANo.21

お早うございます。

人間は、感情の動物であると言われます。このときの喜怒哀楽の激しい感情を“情動”と言います。
感情は、情動(情緒)、気分、情熱、情操の総称です、元々は英語で、Feeling=比較的短時間で過ぎて行く感情、Emotion=心の動きを伴う感情で、主に情動と呼ばれます、Affection=何かに対する(向かう)感情と分けられています。感性は、主に美的な感じ方の表現で、この場合の感情とは関係がありません。理性により、人は感情を抑えています。

人間の快楽はマズローの欲求段階説より、生理的欲求(physiological need)、安全の欲求(safety need)所属と愛の欲求(social need/love and belonging)承認(尊重)の欲求(esteem)、自己実現の欲求(self-actualization)があります。これらの欲求は、脳により判断されると思います。人は、五感により神経を通り脳で感じるのです。そして、近年脳内麻薬、情報伝達物質により人の苦痛、快楽はコントロールできるようになってきています。ヨーガに於いては、五感の刺激で感情(潜在意識)に働きかけることで昔から、人の苦痛を取り除いたり、快楽を得ることができるのです。しかし、それは一時的なものです。

カインとアベルは、主からしたら失敗作だったとすると。何故、カインだけ感情が理性より弟殺しに至るまで優先したのでしょうか?
それは、間違った信仰だったからです。では、正しい信仰とは何か?朝、晩、神の言葉(聖書)を音楽と共に五感に感じるように行うことです。これにより、人間の感情(潜在意識)は幸せを感じ穏やかになるのです。その結果、アベルは幸せの内に天国に召され、カインは追放されさすらうものとなったのです。その後カインは、知恵により痩せた土地で農耕を発展させ文明を創ったのでしょう。日本では、縄文時代から弥生時代にあたると思います。

主は、本当に失敗作の人間を造ったのでしょうか?聖書とミサ曲と集会により感情はコントロールできるのではないですか.感情(潜在意識)により過ったカインは、直観あるいは直感と努力で多くの作物を得ることができ文明を発展させたのではないのですか。カインは償いを認め主にお返しをした。アベルは信仰で天国に導かれた。主は、この物語で人間の信仰について語っているのです。それは、信仰は感情(潜在意識)をコントロールして天国に人を導く道具なのです。お金や偶像崇拝も信仰の道具です。主は、人にカインのように生かさせるためと、アベルのように信仰させるために、わざと失敗作ともいえる人間を造ったのではないのでしょうか。

私は、主がいないとすれば、生物の相互依存関係が人間の潜在意識(感情)や理性の根源であると考えます。あらゆる生物は、独自に進化します。自然淘汰(環境適応、弱肉強食)は、進化の一部です。
信仰の本来の目的は、健康な肉体を保ち、感情を抑えることにより理性で人の過ちをなくすことです。しかし、環境が激変したとき人口抑制機能になるかもしれません。よって若者が宗教に嵌ればマイナスの面(人口抑制)が多くなると思います。以上、私の考えですが間違っているかもしれません。

投稿日時 - 2012-02-19 04:31:29

補足

 お礼欄について 入力まちがいがありました。

 あいさつを除いて三つ目のパラグラフの末尾の一文:

 ☆☆ 《欲求》という言い方には違和感がありますが 《自己実現の欲求》が 何よりも先に来るということ しかも それは ≫ほど≪ 存在ないし人格の全体のことであろうと見ました。つまり 境地のことです。
 ☆ この ≫ほど≪ は要りません。おわびしてなおします。

投稿日時 - 2012-02-19 12:29:24

お礼

 てふてふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 信仰の問題だというご見解 異論ありません。
 つまりは――ただし 各論において異論があることになりますが―― 人間という存在にかんしては 感性や理性 あるいは感情やそれの活かし方といった個々の要素要因を超えてと言いますか あるいはそれらをぜんぶ引っくるめてその人の境地 この境地の問題だという見方になるかと考えます。
 信仰の問題だということは 《境地》の問題だと見るという意味です。

 存在を個々の要素要因に分けて捉えるその分析に特に異論はありません。ただしこれらの要素がすべて鍵を握るという見方には賛成できません。所謂る要素還元主義に落ち入っては行けないと考えます。 
 つまりは 全体を〔も〕見ること――ホーリズムと言うのでしょうか そこらへんはあまり勉強したことがありません―― これは 大事でしょう。その見地からも 人の・その人の境地ということ これは 必ずしも目に見えないですからつかまえにくいですが 肝心でしょう。

 少々物言いをはさみますと マズローの仮説は ちょうどわたしの世代が 二十歳代に現われたかと記憶しています。さっそく――これは いくぶん関連していたものですから――読みました。
 結論は それらの要素があることは分かる。分かるが 何で段階だとかがあってその順序に従うなどということを言うのか? と思ったものです。しかも 《快楽》だとか《欲求》だとか なんでそんな概念でくくらなければならないのか? ともです。《欲求》という言い方には違和感がありますが 《自己実現の欲求》が 何よりも先に来るということ しかも それはほど存在ないし人格の全体のことであろうと見ました。つまり 境地のことです。

 いいかえると この自己実現の思いとその実践が あとのすべての欲求を包み込むのだと。
 自己実現というよりは 自己到来もしくは自己還帰であって つまりはもともとの《わたし》に立ち帰ることであって そこからさらにこの《わたし》を練り上げて行く そういうつねに自己表現としての文体もしくは動態である。こう いまでは 捉えます。
 自己実現と言っても クリスマスツリーのように飾りをいくつかつけるようにして実現していくのではない。人生において嫌でもついて来るしがらみ そのしがらみから自由な存在そして共存 このような共生のあり方を試行錯誤して模索して行くのだと。

 けっきょく 生理的欲求もあれば 人間どうしがふつうに自由に話し合える人間性としての思い これもある。ただそれだけのことだ。とも結論づけました。(だいたいが アメリカ人の理論は くだらんとさえ 暴論を吐いていました)。
 暴論は 見下してください。ただし 全体としてそれらの仮説に――つまりその理論を繰り出すその発想などに――引きずられて行ってしまわないようにとも願います。老婆心です。




 ですから その影響だとわたしが思うこととして ここでも出ていると思うことは 《感情や欲求を理性で抑制する》といった発想のことです。しかも わるい影響だとわたしは思っています。
 一にも二にも 抑制するからさらに大きなかたちとなって現われる。のではないでしょうか? 
 人の身と心との全体としてまた境地として 感情が起これば それは感情だと見る。そこから出発するというように思います。だいたい 段階や次元が低いとか高いとか そのように格づけする発想が間違っています。全体で 人間です。

 ですから アダムもエワも カインもアベルも 《失敗作》ではありません。(とあとで 再考・再論されていますが)。ほどよい状態の自然本性として生まれて来ている――何なら 造られた――と思いますよ。
 ただし 《自然淘汰》は ただ動物の世界だけだとわたしは考えます。それだけぢゃ 人間として能がない。わたしが生きるということは ほかの《わたし》たちと共に生きるということです。それが 人間という生物です。感情や理性がどうのこうのと言う前に 存在の全体として そう造られています。そしてそれは 自由意志 この一事に帰着します。むろん記憶や知解といった能力とともに自然本性としてそなわった意志能力のことです。
 そうでないと ヒトは 一方でやはり弱肉強食の格差社会に生きる動物としての状態〔のみ〕に成り下がりましょうし 他方ではアベルのようにただ天の国に召されるというだけの人生〔のみ〕になりかねません。ヒトは 天使でもなければ獣でもありません。ほどよく塩梅されて造られてある。のではありませんか?




 てふてふさん わたしは質問者としてさらに問いを発展させました。No.19のぐれいぞーんさんへのお礼欄に《カインの言い分》として書きました。よろしかったら お考えください。そのNo.19の補足欄には アダムとエワの物語を資料として載せてあります。

投稿日時 - 2012-02-19 10:01:31

ANo.20

#18です。

>《意識していなかったこと》は 《無意識だったこと》です。(潜在意識にあったというようなことは 措いておきます)。
 言いかえると この意識は 記憶の倉庫から現われたものです。
 つまり この記憶のほかに 《ムイシキ》という領域が独自にあるというのは あまりにも勝手な独断である。こういう問題です。

なぜ、倉庫にあるものと倉庫にないものを分けてはいけないのか。
その理由がよくわかりません。
どちらも在庫であるには違いないのであって、呼び名がどうあれ、それほど問題にされるべきことなのでしょうか。
「あまりにも勝手な独断」と言うには大げさすぎるような気がしますね。

> しかも問題はそれにとどまらないからです。
 自分の意識や意識していない記憶の中からではなく あるいは ふつうに身体の生理としての欲求からでもなく それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来たという見方が なされてしまう。

それは全く逆であると思います。
つまり、
>それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来た

わけではないのに、
>それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来た

と思い込んでしまう。
これです。
そもそも、無意識というものを
>別個で独立した

と捉えること自体が誤りでして、「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけではないかと思います。
「自らと無関係の意識」ということではないことでしょう。

> あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。

具に利用されるか否かはあくまで運用面での問題でしょう。
包丁で殺人が為されたから包丁が悪い、という論理と大差ありません。
>記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえ

とおっしゃったことを撤回なさるのですか?
悪魔が命令しようが神が命令しようが、自分のやったことは自分のやったことです。
その原動力が常に、一元的に明確に意識できる意志によるものであるとは限らないというだけの話であって、ごく一般的な事象でしょう。
なにがそんなに不思議なのかよくわかりません。
責任論ということであれば、それはまた別の話になるでしょう。

>これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
> それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? (たとえば 村上春樹と河合隼雄との連携プレーなどです)

両者ともよく知らないのでなんとも言えませんが、どうも、精神分析の尻尾だけを見て毛嫌いなさっているような印象を受けますね。
また、神父の大半が(おそらく)凡人であるのと同様に、精神科医とて大半はおそらく単なる自営業者でしょう。
もしそうであるようならば、あまり期待しすぎても意味はありません。

> したがって その非思考の庭に或る日或る時 ヒラメキが起きる。その内容を捉え もし単なるイメージであったなら出来るだけ人間の言葉で表わしうるように思い描いたり考えたりしながら 概念として言葉として表現しようとする。ここから元はヒラメキであったそのものを活かすようにして 日常生活における自己表現へとすすむ。
 つまり このヒラメキには《身をゆだねる》ことは いっさい関係ありません。

いや、そうではなくて、ヒラメキに対してそこまでの扱いをするということ自体がすでに「身を委ねる」ということだと言っているわけです。
無意識の証明をせよ、とおっしゃる一方で、
>或る日或る時 ヒラメキが起きる

という、唐突な前提を元に論を進める、という神経がわたしには全く理解できません。
つまり、
>記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえ

であるのに、それを無意識と呼ぶことに対してことほどさように拘る割には、という意味ですが。
無意識を想定することの弊害に対する根拠が全く不明である、というのが貴論の難点となっているように思われます。
ちょっと中途半端になりそうだったので、あえて補足させていただきました。
ひとまず今回はこんなところです。
  

投稿日時 - 2012-02-18 23:01:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 いえいえ ぎゃくに問いたい。
 ★ なぜ、倉庫にあるものと倉庫にないものを分けてはいけないのか。
 ☆ ということは 記憶の倉庫のほかにムイシキの領域があるのですか? 記憶の倉庫に眠っていたもののほかに ムイシキだったものが意識されるようになったということがありますか?
 つまり 記憶以外に在庫があるのですか?
 なければ・つまりないはずですから 勝手な独断だと見ます。


 ★ ~~~~
 そもそも、無意識というものを
 >別個で独立した
 :
 と捉えること自体が誤りでして、「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけではないかと思います。
 「自らと無関係の意識」ということではないことでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ これも 同じ問いが出されます。
 ならば ムイシキは それ独自の領域とそこでのハタラキを持つのではなく そうではなく 一般に言う記憶に属するということなのですか? そうではないのでしょう? つまり
 ★ 「無」とはいえ「(あくまで自らの)意識である」という意味での「無意識」という名づけ
 ☆ の領域があるのでしょう? 
 わたしが 記憶とは別個にそれ独自の領域と言ったのは むろん 人体の内ないし精神の内のことです。しかもそれが どこを探しても記憶のほかの場所としてはない。だから おかしいと言っています。《自らと関係している》というのは もともと あたりまえです。ヒトの中から起きて来ることだというのでしょうから。


 ★ ~~~~~
 > あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。
 :
 具に利用されるか否かはあくまで運用面での問題でしょう。
 包丁で殺人が為されたから包丁が悪い、という論理と大差ありません。
 ~~~~~~~~
 ☆ 包丁は それの道具としての使い道が決まっています。ムイシキ理論は 言わば万能です。それを振りかざした場合それによってつく傷は 包丁によって傷がつく場合よりは はなはだ分かりにくい。
 ☆☆ 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。
 ☆ というのは 総論でして その中にはいくつかの場合があり得ます。いちばんひどい例は こうです。
 誰れかが あなたはマザコンだろう? と言われてそれを否定したなら 相手は そのように否定するのは ムイシキ理論のセオリどおりだ 意識では分からなくてもムイシキにおいてはじつはそのようなウゴキがあるはずなのだ と返して来る。これです。

 こんなばかな話はありません。
 ムイシキについては検証できないと来ているからです。包丁どころの話ではなく 多勢に無勢のときには そのやり玉に挙げられたなら めちゃめちゃにされてしまいます。
 ですから 次の捉え方は 違うのです。
 ★ ~~~~
 悪魔が命令しようが神が命令しようが、自分のやったことは自分のやったことです。
 その原動力が常に、一元的に明確に意識できる意志によるものであるとは限らないというだけの話であって、ごく一般的な事象でしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ 悪魔を例に持ち出したのがわるかったようですが 問題は違うのです。
 ゆえに
 ☆☆ ~~~~
 これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか?
 ~~~~~~~




 ★ いや、そうではなくて、ヒラメキに対してそこまでの扱いをするということ自体がすでに「身を委ねる」ということだと言っているわけです。
 ☆ これは 一般論の問題として議論しても始まりません。ひとつの最終として現われた自己表現が 生活の中で有効であったとしたら それでよいという問題です。ヒラメキの効用がそこに見られるという意味です。
 これを 《そこまでの扱いをする》という見方は おかしいでしょう。ごくふつうのことなのですから。ヒラメキにも 言わば当たり外れがあるわけです。というより 信仰にかかわるヒラメキは ぜんぶ当たりだと一応見られますが それでも どう応用すればよいか分からない場合があるということでしょう。ですから 例示したことは 応用が効いたという場合なわけです。別に特別扱いということではありません。身をゆだねるということとは 筋が違いましょう。



 ★ ~~~~
 無意識の証明をせよ、とおっしゃる一方で、
 >或る日或る時 ヒラメキが起きる
 :
 という、唐突な前提を元に論を進める、という神経がわたしには全く理解できません。
 ~~~~~~
 ☆ これは異なことをおっしゃる。ヒラメキは むしろ自然科学者のほうが なじみが深いのではないですか。ふつうのことですよ。

 ヒラメキは その直感ないし直観じたいにおいてすでに経験的なものごととして得られたなら――それもふつうのことだと思いますが そしてもはやそれを解釈する必要もないわけですから―― 必ずしも非思考の庭に起きたそれ(ヒラメキ)だとは確かに見ないでしょう。ただし たとえば方向性を示す場合とか 同じようなことですが いまおこなっている道筋を変えてみるようにといった指示だとかなら 信仰にかかわるそれだと見なせましょう。

 ムイシキは そのムイシキの領域じたいをヒトの中に想定しているのですから 仮りにヒラメキのような内容物の意識化が起こったとしても すべて経験事象だと考えられます。単なる仮象だとしても その経験事物としての過去の亡霊にかかわるモノゴトです。それに限られます。
 ただし こんなことは もしそれがあっても 記憶の中から過去の思い出が意識上に浮かんだというだけのことだと一般には見るのだとも言っています。

 しかも ムイシキにかんして問題となるのは あくまでその過去の亡霊のよみがえりが その人に一生付きまとうと見なしているところです。それゆえ 死へのいざないという内実しか 精神分析にはありえないというところです。引導を渡す役割をになっているとも言えましょう。
 そんな役目も要らないし ムイシキから浮かび上がる過去の亡霊などはいっさいないということです。

投稿日時 - 2012-02-19 00:13:07

ANo.19

 アベルはカインよりもなにか御心に適ったところがあって、《だから》その献げ物に神は目を留められたのだ、というそういう前提に立って、その理由を捜しているだけではないか、と思うのです。しかし、そのように理由を見つけては、《だから》神はカインよりアベルを愛されたというのは、あまりにも人間的論理を神の世界にまで持ち込んでいることになるのではないか、そういう印象を拭い切れないのです。

 まず注意したいことは、カインとアベルの献げ物に対する神の不公平について、わたしたちは、いろいろその理由を求めて考えているわけですが、肝心のカインとアベルは、二人とも何の説明も神に求めていないことです。二人とも黙っています。アベルが黙っているのはそれはそれで分かりますが、不公平な扱いを受けたカインも何も説明を求めていないのです。彼は後でアベルを殺して、神に追及されるまで、ずっと黙ったままです。何の説明も神の不公平な扱いについて求めていません。しかし、彼は何の説明も求めてはいませんが、決定的な一つのことを、黙ったままでやっているのです。5節の後半に記されていることです。

 『カインは激しく怒って顔を伏せた。』

 そしてこの沈黙のままのカインの態度に対して、神も6-7節で、初めて沈黙を破って語られたのでした。

 『主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」』

 この5-7節に、いま間題にしています神の不公平の謎を解くカギがある、と考えています。

 カインはまず激しく怒りました。当然です。誰だって怒ります。この神の不公平は黙って済まされる性質のものではありません。しかし、その怒る彼は、顔を伏せたとあります。ということは、神の不公平な扱いに怒りつつも、その時そこで、怒り続けるわけにはいかない、したがって顔を伏せるより仕方のないものが、自分の中にあることに、彼は気付いたということでしょう。

 それは一体何であるのか、それは分かりません。しかし、神がカインの献げ物に目を留められなかったその原因となったものを、カイン自身はその時、分かっていたのです。だから顔が上げられなかったのです。「正しいのなら顔を上げられるはずではないか」と神は言われているのに、上げられないものが自分にあることが分かっていたのです。

 ということは、カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。この話を読んでいて、一番教えられたことはこのことです。カイン自身と神には分かっているが、ひとには分からない、そういう神とカインの関係、繰り返しますが、神と本人自身にしか分からない、第三者の知ることのできない、そういう関係、神との関係とは本来そういうものである、ということです。

 今までなぜ神はカインの献げ物に目を留められなかったのか、そのわけを知ろうとしていろいろ言われてきていますが、しかし、第三者のそういう一般的な推測、説明、考察、論議の対象に、神との関係はそもそも、なるものではないということです。一般的論議の的になることを許さない、しかし、その本人には切実に問題になる、そういう、《その人自身にとってのその人の事柄》、それが神との関係というものだということです。

 もう少し「カインが激しく怒って顔を伏せた」5節の場面を考えてみると、ここには「カインは激しく怒って顔を伏せた」、と一息に書いてあります。しかし、激しく怒っている時と、顔を伏せている時とには、若干の時間のずれがあるのではないでしょうか。なぜなら「お前が正しいのなら顔を上げられるはず」と神が言っておられるように、カインはその怒りが正当なものなら、顔を伏せる必要はないのです。顔を上げたままで怒ればよいのです。その彼が、顔を伏せているのは、自分は正しくない、と気付いているからです。つまり、彼は最初、自分は正しいと思って激しく怒ったものの、そこで神に問われて、実は自分は正しくなかったと気付かされたから、顔を伏せているのです。ですから、激しく怒っている時と、顔を伏せている時とは、時間的に重なることではなくて、そこには若干の微妙な時間のずれがあるはずではないでしょうか。

 こういうことはわたしたちも経験すると思います。相手に非があると思って、それを口にして責めた途端に、実は自分の方にあった非に気付く、そして、振り上げたこぶしの下ろし場所に困って、顔を伏せる、そういうことがあるのではないでしようか。

 言い換えれば、激しく怒っている時は、《彼が神に》、《自分の正しさ》を振りかざして問いかけている時です。それに対して顔を伏せている時は、逆に《神が彼に》、《神の正しさ》をもって問いかけ、彼が自分の正しくないことに気付かされている時です。言い換えれば・怒るカインは、神に間いかけるカイン。しかし、顔を伏せるカインは、神に問われているカインです。そこには微妙な時間的ずれがあります。いずれにしても、ここでカインは神に問いかける者から、神に問われる者に、変わっているのです。注意深く読めばそういうことです。

 ところでカインが、神に問われて気付いた自分の正しくないこと、それは一体何であったのか、これは何度も言いますが分かりません。それは、カインと神だけが知っている問題です。このことは、しっかり押さえておかねばなりません。第三者であるわたしたちは、そのことに対して推測は控えねばなりません。

 しかし、それでもハッキリ分かることがあります。それは、カインが自分の正しくないことを、神に間われて気付きながら、それを素直に認めていない、ということです。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」、そう神に言われている彼に、彼の頑なさを感じます。カインの犯している正しくないことが何なのか、これはサッパリ分かりませんが、それを神に示されながら認めようとしない彼の頑なさ、これはよく分かります。そして、その顔を伏せている頑なな彼に、神は言われました、「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」。ここでこの話で初めて、罪の問題が出てくるのです。注意したいことは、彼が正しくないことをしていたこと自体は、そして、そのために目を留めていただけないような献げ物をしたこと自体は、罪ではなかったのです。

 人間誰だって正しくないことを、程度の差こそあれ、皆して生きています。これは仕様がないのです。問題はそれが問われた時です。その時、それを認めるか、認めないかです。カインはそれを頑なに認めようとしませんでした。そして、そこに彼を戸口で待ち伏せて、襲いかかろうとしている罪の間題があったのです。

 自分を正当化しないことです。頑なでないことです。カインを素直にさせなかったものは、アベルへの妬みだったでしょう。弟の献げ物に神が目を留められて、自分の献げ物が無視されたことへの怒りであったでしょう。しかし、カインはアベルを妬んだから、その献げ物を無視されたのではありません。献げ物が無視されたのは、先に申しましたように、彼には、何かわたしたちには分からない不正があったからです。そしてその不正は、神に問われるまでは彼にも分からぬことであったのであり、その点は仕方のないことでした。しかし、その不正が問われた時、つまり、彼がそれに気付いた時、カインはそれを素直に認めるよりも、自分を正当化してそれを認めず、アベルヘの妬みに流されてしまったのです。顔を伏せてしまったのです。それが罪でした。ですから、不正と罪とは別問題なのです。

 求められるのは、自分の正しくないことに気付いたら素直に認めること、それだけです。それが「お前はそれを支配せねばならない」と、最後に言われた神の言葉の意味です。自分の正しくないことに気付いておきながら、それを、口実をつけたり、弁解をしたり、ひとに責任を転嫁したり、ひとが気付いていないことをいいことにして認めようとしない、とにかく、自分に甘いこと、素直でないこと、頑ななこと、それが罪なのです。

 神との関係は神とわたしとだけが分かっている事柄で、余人の知らない事柄ですから、不正があっても・それをひとはおそらく知らないでしよう、いや、知りません。誰も知りませんが、誰も知らないからこそ、まず、そこでその正しからざることを自分自身が認めることで、それを支配しなければならないのです。そこに、神からわたしたちに求められる、最初にして最後の課題があるのです。

 正しくないことを認めたからといって、それを実際に正せるかどうか、それは分かりません。しかし、それは別問題です。とにかく、わたしたちは、自分自身の甘さ、頑なさを支配して、自分の非を素直に認めねばなりません。戸口で待ち伏せている罪に対しては、それしかありません。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」、と言われたのはそういうことでしょう。

投稿日時 - 2012-02-18 18:16:39

補足

 お礼欄の末尾にある《カインの言い分》 これを理解するために聖書のくだりを参照していただければと思い 引用しておきます。


 ▲ (創世記 2:7―3:24) ~~~~~~

 2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

 2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。

 2:9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

 2:10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。

 2:11 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、

 2:12 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。

 2:13 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。

 2:14 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。

 2:15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。

 2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。

 2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

 2:19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

 2:20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

 2:21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。

 2:22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

 2:23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

 2:24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。

 2:25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。

 第3章

 3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

 3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

 3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

 3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

 3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

 3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

 3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

 3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

 3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

 3:12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。

 3:13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

 3:14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。

 3:15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

 3:16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。

 3:17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

 3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。

 3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。

 3:20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。

 3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

 3:22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

 3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

 3:24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-02-19 00:29:21

お礼

 灰色地帯さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ていねいに説明なさっていて ほとんどそのままを復唱することになるようなご文章ですので その点 お礼としてのお応えが簡単すぎることになるかも知れませんが 前もっておことわりしておきます。

 大きな視点として ふたつ おそわりました。

 ひとつは わたしの見方で《信仰》であり そのあり方が 次のようだと明らかにされています。
 ★ 神との関係は神とわたしとだけが分かっている事柄で、余人の知らない事柄です。
 ★ カインと神の間には、わたしたち第三者には分からない、しかし、カイン自身と神には分かっている、そういう何かがあった、ということになります。
 ☆ そして 次のようにも指摘なさるとき つまり
 ★ それは一体何であるのか、それは分かりません。しかし、神がカインの献げ物に目を留められなかったその原因となったものを、カイン自身はその時、分かっていたのです。
 ☆ というとき その《一体何であるのか》と言えば それが 回答No.1の方が指摘されたヘブル書11章にもとづき やはり信仰であり さらに質問者としてですがそれは《信仰のゆがみ》であろうと捉えたものでした。
 あるいはつまり 《不正》と捉えておられます。
 ★ 献げ物が無視されたのは、先に申しましたように、彼(カイン)には、何かわたしたちには分からない不正があったからです。そしてその不正は、神に問われるまでは彼にも分からぬことであったのであり、その点は仕方のないことでした。




 もうひとつは いま取り上げた《信仰のゆがみ》もしくは《不正》と そして《罪》とはちがうということです。
 不正と罪とは別だということ。
 ★ しかし、その不正が問われた時、つまり、彼がそれに気付いた時、カインはそれを素直に認めるよりも、自分を正当化してそれを認めず、アベルヘの妬みに流されてしまったのです。顔を伏せてしまったのです。それが罪でした。ですから、不正と罪とは別問題なのです。
 ★ 「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」、と言われたのはそういうことでしょう。


    * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     わいわいえいとさん どうもわたくしの見方はまちがっていた
    ようです。おわびして このように訂正しますので よろしくお願
    いします。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★  正しくないことを認めたからといって、それを実際に正せるかどうか、それは分かりません。しかし、それは別問題です。とにかく、わたしたちは、自分自身の甘さ、頑なさを支配して、自分の非を素直に認めねばなりません。戸口で待ち伏せている罪に対しては、それしかありません。







 このあと 今度はわたしがカインに成り代わって 別様に反論してみましょう。別様にです。批判というのとはちょっと違います。

 ▲ ~~~~~
 5: カインとその献げ物には目を留められなかった。
  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 ~~~~~~~
 ☆ ぐれーぞーんさんも ていねいにきちんとここを読み込んで分析されています。
 すでに簡単に反論のようなかたちで入ることにします。

 カインの言い分として 次のようなことが取り上げられるのではないか? そういう別様のお話です。

 ○ (カインの言い分) ~~~~~~
 ですが 主よ わが母エワとそして父のアダムをそそのかしたあの蛇 あの蛇は どうしていたのですか? どうして親たちを 主の言いつけにさからったことをするようにそそのかしたのでしょう?
 
 なるほど はじめには すべての被造物をご覧になって はなはだ良しと見たというその話は アダムとエワとが 自由意志を持ちそれを発揮するというところまでを含めて 良しとされたのだと考えます。早く言えば ヒトがウソをつくという自由選択をも備えているというところまでを含めて 良しとされたのだと。

 けれども それだとすれば 主よ なぜ蛇が出て来るのでしょう? 
 善悪を知る木から採って食べてはいけないというあなたの言いつけに対して わざわざ蛇という第三者の仲介があったのは どういうことでしょう? つまり言いつけに対して ヒトがそのままおのれの自由意志によって さからい またウソをついて言い訳をするということで よいのではないでしょうか?
 なぜ 蛇がそこにいるのでしょう?

 自分の自由な――ただしへそ曲がりの――選択であったなら それゆえに わたしがやりました わたしがあなたに逆らいましたと素直に受け答えできると考えます。どうして そうはなっていないのでしょう?

 なんで《へび》なのでしょう?


 こんな小細工をする 主よ あなたは わたしは嫌いです。好かんことです。わたしは あなたから 遠ざかりたい。そう思っているだけのことです。

 だから ささげ物が顧みられなかったときわたしは 《激しく怒って顔を伏せた》のです。
 それとも わたしたちヒトは 主よ あなたのあやつり人形なのでしょうか?

 弟のアベルは それに何の抵抗もなかった。主よ 弟はあなたのためには死んでもいいという顔をして わたしに向き合っていた。

 わたしは 蛇を説明しないあなたは 好きません。あなたのいないところへ行きたい。
 《不正》とは 何ですか?
 《信仰のゆがみ》とは何?
 《罪》ですか? つみっていったいなんのことですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

投稿日時 - 2012-02-18 20:04:44

ANo.18

#17です。

> それに 記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえです。

そうですね。
その眠っているという状態を無意識と呼んでいるだけだと思うのですが。
単に名称の違いですから
>特定して見せなければウソ

とこだわる必要もないでしょう。

> それに――感覚の問題として言えば―― ヒラメキは それまで何ら知らなかったし むろん意識してもいなかった知恵のようなものがあたえられることです。
>これが 信仰ないしヒラメキの起こる場所です。つまりは 非経験の場との接点とも言えます。

ヒラメキというのはそういったものでしょうね。
悟りや啓示なんかもおそらく同じでしょう。

> ☆ ひょっとして トラウマは消えると言っておられるのですか?

様々でしょうから一概に断定はできないでしょうが、緩和されることはあると思います。
「思い込み」と述べたのは、トラウマのメカニズムに関しての私見です。
つまり、トラウマは「起こり得ないことにも拘わらず、未来的に起こるかもしれない」という怖れが源泉だと思います。

> ★ なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。
 ☆ 過去は思い出しうる現在として 記憶にありますが それが 現在の生に対して 何ら影響はおよぼさないというのは 違うと思いますよ。記憶がよみがえるなら それとして感想を持ち感慨にふけることもあり なかんづくそのいまいましい過去のことであるなら 過ぎ去ったことであっても その現在の自分にとってつらい思いをさせます。どうして この事実を否定されるのですか?

「感懐」や「つらい思い」はトラウマとはたぶん呼ばないはずです。
上でも触れましたが、起こりえない過去のそれと同じことが再び起こるのではないか、という怖れが現在の生活を脅かすほどの影響力を持つ場合にトラウマという言葉が使われるのではないかと思います。
「感懐」や「つらい思い」が引き起こされたとしても、そのこと自体は「現時点での生に対して影響を及ぼした」とまでは表現しない。
広義に解釈すれば、なんでもトラウマになるでしょうが、この言葉はわたしとしてはあくまで狭義に使用したいと思っているだけです。
「過去のそれと同じことが再び起こるはずはないのだから、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能」
こういうことになると思います。

> ☆ 記憶において過去がまだ活きている。ただこれだけのことに 思い込みがどこからか付いてくるのですか? なんで? 

体験を記憶する際には、一般に解釈が付随するものだからではないかと思います。

>そういう精神分析の存続のための一段上の思い込みなのではないですか? そうでなければ 精神分析は 砂上の楼閣のごとく崩壊してしまうからでしょう。
 どうしても トラウマは永続して欲しい。思い込みだが それは存続するのだと 人びとをだましつづけている。だけだと考えます。

精神分析に興味はありますが、全くの一素人なので治療として有効か否かは知りません。
認知行動療法と組み合わせると面白いのではないか、という漠然とした印象は持っていますが。
ただ、トラウマという用語がなくともトラウマという現象は発生するわけですから、それに対してどうかということになっていくと思います。

>☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。

そのようですね。
非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという、そういった営為がなぜ行われるのかを考えていくと信仰の意味がわかるのかもしれません。

>☆ 死の国行きのソファ列車ですよね。トラウマは 永遠について回る。観念しなさいという宗教でもあります。心的作用だとかベクトルだとか言っても すべては 完治せずという名の列車に乗るようになるための促しであるに過ぎません。死の宗教 それが 精神分析です。

ちょっと検索してみましたが、たしかに、治療としての評判は良くないようですね。
ただ、多様なようですから、精神分析とひと括りに非難しても不毛でしょう。
表面的な知識しか持っていないので詳細をお示しするのは難しいですが、自分の状況を納得いく形で把握するためのひとつのツールとして有効な側面は色々あるように思われます。

ご質問の意図とはちょっとずれた回答に終始してしまったようで申し訳ありません。
丁寧に応じていただきありがとうございます。
今回はとりあえずこんなところで失礼します。
  

投稿日時 - 2012-02-18 17:39:18

お礼

 口角泡を飛ばしてご批判に――前回は――反論しました。

 まづはご回答をありがとうございます。

 ムイシキとそして信仰にかかわるヒラメキ この二点で 応答しておきます。



 トラウマにかんしては まだ荒削りの内容しか出て来ていないかも知れません。(わたしが専門的なことを知っているが小出しにしているとか もったいぶっているとかという意味ではなく ほんとうは詳しくないという意味ですが)。

 問題は 
 ★★ ムイシキ領域
 ☆ というように《領域》を持ち出すときです。

 じつにかんたんなことです。
 それまで意識していなかったことが意識にのぼる。このとき《意識していなかったこと》は 《無意識だったこと》です。(潜在意識にあったというようなことは 措いておきます)。
 言いかえると この意識は 記憶の倉庫から現われたものです。
 つまり この記憶のほかに 《ムイシキ》という領域が独自にあるというのは あまりにも勝手な独断である。こういう問題です。


 しかも問題はそれにとどまらないからです。
 自分の意識や意識していない記憶の中からではなく あるいは ふつうに身体の生理としての欲求からでもなく それらと別個で独立した《ムイシキ領域》から これこれの欲動やら衝動やらが出て来たという見方が なされてしまう。これです。
 あたかも 悪魔がそうしろと命令したから わたしは――不本意ながらも―― そうしました。といったようにウソブクことが横行してしまいます。これは 人間性のゆがみであり 人間性からの遊離です。
 こんなことは 生まれながらにそなえた人間の自然本性にはありません。そこから逸れて行く動きを 文学などは好んで題材にしたりしますが それは 遊離した状態を扱っているということだと考えられます。想像力を持て余しているのでしょう。とだけ言っておきます。
 それを 精神分析が・つまりこの場合は ムイシキなる理論が うながしているし あろうことか正当化しているというところまで来ている。のではないか? (たとえば 村上春樹と河合隼雄との連携プレーなどです)。
 こういう物言いです。





 信仰にかんする誤解があります。180度違う見解になる事柄ですので かさねてこちらの見解を明らかにします。

 ★ ~~~~~
  >☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。
 :
 そのようですね。
 非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという、そういった営為がなぜ行われるのかを考えていくと信仰の意味がわかるのかもしれません。
 ~~~~~~~
 ☆ ここで わたしから見て完全に異なると思われる点は 次の見方です。
 ★ 非経験の場でのヒラメキに身を委ねるという・・・
 ☆ これは 信仰の中身にはなく またヒラメキともまるで違うことです。
 もし《身をゆだねる》というのであれば 《非経験の場》(つまり 神です)をめぐってそれとの関係がわが心において《非思考の庭》と成るべく それを(つまり 神)を受け容れる。このとき 人は この非経験のナゾの何ものかに身をゆだねている。というふうに捉えます。

 したがって その非思考の庭に或る日或る時 ヒラメキが起きる。その内容を捉え もし単なるイメージであったなら出来るだけ人間の言葉で表わしうるように思い描いたり考えたりしながら 概念として言葉として表現しようとする。ここから元はヒラメキであったそのものを活かすようにして 日常生活における自己表現へとすすむ。
 つまり このヒラメキには《身をゆだねる》ことは いっさい関係ありません。
 という相違点についてでした。


 これからも 対話はつづくもののようです。そういう性質の主題であるのかも分かりません。
 とりあえず 今回はここまでとわたしもします。ありがとうございました。
  

投稿日時 - 2012-02-18 19:23:08

ANo.17

#13です。

>(ヒラメキは)どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。

「受け留める」という述語の対象と、「現われる」の主語がよくわからないのでなんとも言えませんが、どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。
取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。
すでに脳にインプットされている点では同じことだと思います。
雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。

> ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。

受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。
なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。
にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。
イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。
思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。

>あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。

闇雲にいわしの頭でも信じたくなることは誰にでもある、といった意味となんら変わるところがないような気がしますが。

> おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。
 ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。

たしかに面白いご見解ですね。
無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。
(いわゆる救い足り得る要素を兼ね備えていることを否定するわけではないので)その心理作用自体を否定するつもりはないのですが、やはり、そこからなんらかの誤謬が発生してくるのは理の当然であるような気がします。
つまり、わたしに言わせれば、信仰とは救い号という汽車の乗車券であると同時に、誤謬という名の駅を通過、あるいは終点とする運命にあるわけです。
なぜかといって、乗客は、乗車すること自体に価値を見出すよう勧められ、且つ行き先は告げられないままに切符を買わされるからです。
運転士を信じてさえいれば良いのだ、という説明書を右手に。
そこにあるのは現状を脱するために、ただこの汽車に乗って「どこかに」旅立たなければならない、という、ある種の強迫観念であろうと思われます。(くどいようですが、そのこと自体を否定しようとするものではありません)

無意識の想定も同様に無根拠である、ということですね。
たしかに、それを見た人はいませんし、摑んだ人もいません。
ただ、人は意志の動物ですが、意志というだけでは説明の付かない自分というものを自覚することもまた可能でしょう。
無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが、神となるともはや他律的としか言いようがなく、それが本質的な相違点になるのかもしれません。
    

投稿日時 - 2012-02-17 22:43:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ムイシキは 経験世界を超えたところ・つまり非経験の領域を想定しているのですか?
 していないはずです。
 あくまで 人間の存在あるいはつまり身と心の場に限られるはずです。

 つまりは それに対して 非経験の場と接触するという想定において ヒラメキが得られるという捉え方です。(ここでは 経験的なモノゴトとして 勘がはたらいたといったようなヒラメキは 別としています)。

 ムイシキとヒラメキとは その源泉となる場所が違います。ですから
 ★ どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。
 ☆ とはなりません。

 ヒラメキは そのまたたきをする一瞬の出来事です。それで消えます。
 ★ 取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。
 ☆ 別に取り込むことはありません。ヒラメキが起こったという記憶は残りましょうが。ヒラメキとして得られた一般に情報を活かしたなら もうその一つのヒラメキは おしまいです。お役御免となります。


 ★ 雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。
 ☆ この表現はおかしいですよ。最初には比喩で雷を出しておいて 次には実際に雷に打たれたと言っているように受け取られます。
 それと 眠っていた記憶は ただ意識していなかったというだけのことです。潜在意識としてあったとも言えます。別に
 ★ ムイシキ領域
 ☆ があるとは証明されていません。ただあると想定しているだけのことです。
 それに 記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえです。わざわざ ムイシキを持ち出すこともありません。

 それに――感覚の問題として言えば―― ヒラメキは それまで何ら知らなかったし むろん意識してもいなかった知恵のようなものがあたえられることです。それゆえ 想定として 非経験の場と言いますし それをわが心で受け留めたその場は 仮りにでも非思考の庭と言います。それは 心の伸びあるいは明けないし志向性のことです。
 だからと言って 伸びならどこまで伸びるのかとか 明けならその言わば窓を明ければ何があるのかとか そういう問題ではないわけです。比喩であって 肝心なところは わが心が閉じられていないということです。これが 信仰ないしヒラメキの起こる場所です。つまりは 非経験の場との接点とも言えます。


 ムイシキは あくまで勝手にそれがあると想定しているだけのものです。勝手にとか だけのものとか いうのは それが 経験世界のことだというゆえです。経験世界の中にあるのなら きちんと特定して見せなければウソです。
 


 ★ ~~~~~~
  > ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。
 :
 受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ひょっとして トラウマは消えると言っておられるのですか?

 ★ なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。
 ☆ 過去は思い出しうる現在として 記憶にありますが それが 現在の生に対して 何ら影響はおよぼさないというのは 違うと思いますよ。記憶がよみがえるなら それとして感想を持ち感慨にふけることもあり なかんづくそのいまいましい過去のことであるなら 過ぎ去ったことであっても その現在の自分にとってつらい思いをさせます。どうして この事実を否定されるのですか?
 トラウマはあり得ます。ただし それが どこやらで蓄積されたというそのムイシキの所為だとは思わない。記憶として過去が活きている。ただそれだけのことです。



 ★ ~~~~~~
 にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。
 イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。
 思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。
 ~~~~~~~~
 ☆ 記憶において過去がまだ活きている。ただこれだけのことに 思い込みがどこからか付いてくるのですか? なんで? 
 思い込みがあると勝手に 要らぬ説明をつけ加えているだけではありませんか? 
 ★ その根はムイシキ領域に張っています。
 ☆ ですって? そういう精神分析の存続のための一段上の思い込みなのではないですか? そうでなければ 精神分析は 砂上の楼閣のごとく崩壊してしまうからでしょう。
 どうしても トラウマは永続して欲しい。思い込みだが それは存続するのだと 人びとをだましつづけている。だけだと考えます。

 仮りにいま言ったことが当たっていなくても けっきょくムイシキ領域に根を張ったトラウマが 人びとを死への旅路にいざなうという段取りになっています。ただちには死なないから その死までのあいだ 患者として医療事業の顧客として自分たちをうるおすという仕組みです。

 


 ★ 無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。
 ☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。
 ★ その心理作用
 ☆ ではありません。あり得ません。非思考なのですから 知覚もおよびません。心理とは何ら関係ありません。《志向性》と言ってしまえば すでに思考において捉えた概念になっています。その最初のほんの一瞬における心の明け これが ヒラメキとして信仰の現われになりましょう。心理以前のことです。
 汽車にも船にも乗るわけではありません。
 船に乗って言わば巡礼の旅路をあゆむといった比喩の表現があり得ますが つまり一般に人生は 信仰においても試練であるといった内容ですが これは 一人ひとりの主観の問題です。



 ★ 無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが
 ☆ 死の国行きのソファ列車ですよね。トラウマは 永遠について回る。観念しなさいという宗教でもあります。心的作用だとかベクトルだとか言っても すべては 完治せずという名の列車に乗るようになるための促しであるに過ぎません。死の宗教 それが 精神分析です。

投稿日時 - 2012-02-17 23:54:09

ANo.16

 物質と精神

 物質は、大きさ、重さ、温度、形状、など。
 精神は、喜、怒、哀、楽、これらは情。そして記憶、意識、などの働き。

 なぜ物質としての(空間をも含んで)宇宙が存在するのか。
 その中に現れた、人間はなぜ「精神」を意識するのか。

 こんな不思議なことはない!

 “カイン”は精神の中の人。

 神は精神。
 だから“カイン”には“神”が存在する。

 だから“神”は万人に存在する。

 ・・・・・なんてことも、考えてみました。

 

投稿日時 - 2012-02-17 19:47:51

お礼

 つづいてです。

 ★ だから“神”は万人に存在する。
 ☆ ここは いいんぢゃないですか。

 ただし
 ★ 神は精神
 ☆ これは 多くの人が落ち入る勘違い。

 ○ 【Q:神は 何でないか?】 ~~~~~~
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7295152.html

 (趣旨説明欄)

  15. まとめて 神は何でないか?

  A. 神は 人間の精神ではない。

  ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。

  B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。

  ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ
   っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと
   ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。
    つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ こんなことを考えて来ています。

投稿日時 - 2012-02-17 21:36:05

ANo.15

 なぜ苦手なのか。
 それはブラジュロンネさんが理性の人だから。

 聖書は心の世界。
 そしてその主は神。
 神とは=信仰。
 信仰は理性に非ず。
 信仰は感情。

 聖書は感情を持って読むべし。


 ・・・・・なんてことを思ってしまいました。

 カインに対する神の情を感じます。

 

投稿日時 - 2012-02-17 19:23:20

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 信仰は感情。
 ☆ ここは違う。

 ここも 信仰は理性に非ず また 感情に非ず。ですよ。

 非思考の庭がわが心に成る。これが しかも動態として 信仰というコトです。どうでしょう。

投稿日時 - 2012-02-17 21:32:25

ANo.14

なぜ議論が進まないのか。まず、ここは基本的には議論をする場ではありません。少しなら補足質問ということで応答できます。だが、矢継ぎ早に大量に書かれても応答しきれないのです。ましてや、指摘する箇所があまりに多い場合には、手間を惜しんでしまいます。ところで、

>わたしは モンテスキューは知りません。

それを確認して安心しました。というのも、それなら、落ち込んでも仕方ないではありませんか。知らないことについてテキトーなことを書いてしまった結果、相手にされなかった。それだけのことです。しかし、似た事態は、今度も繰り返されております。たとえば、

>わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したので

それは無理ですよ。聖霊が書いたものでしょう? 「聖書記者の心つもりにまで分け入る」ことがおできになるというのなら、あなたは自ら、自分が聖人だと言っているようなものです。普通の感覚からすれば、「なんか嘘ついてら」と思ってしまうでしょう。要するに、私があなたの「お城」とやらに入ってまで攻める労をとらない理由は、こういう議論の基盤を作る手続きが手抜きだなと感じるからなのです。

カインのお話しについて、私としては、いろいろ指摘もしてあげられますが、あとはご自分でお勉強できると思います。言語については、あなたの説明がやはりテキトーだと思うが、私は説明する手間を惜しんでいます。あなたが気になるのなら、キッテルを読んでもらうことにしましょう。
アウグスティヌスの解釈については、一元論という説をあなたがお持ちであることは理解しました。しかし、アウグスティヌスが自分で二元論としか言いようがないことを書いてしまっています。なぜなんでしょうね。あとはあなたが、自分で検証してみてください。
No10の補足欄は読みましたが、面白いと思った箇所は、ご自分で進展させてください。私が書くべきことは既に書き終えていると感じました。結局、どこまでも、無限に、あなたの問い求めに応じるわけにはいきません。ではこれにて。

投稿日時 - 2012-02-17 18:38:38

お礼

 なるほど。

 マッチ‐ピンポンダッシュ 方式ですな。


 議論を経て対話が実りのあるものになる。


 
 押し売りはしないと言っておいた。


 こういう手合いだとは ちと気づくのがおそかった。





 順番をわざと変えた。こんなところで アディユー。

投稿日時 - 2012-02-17 21:30:11

ANo.13

#6です。

> カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人間として登場しています。

どのように信仰するか、ということなのですね。
なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。

>   読者よ 問題は 信仰なのだ。
   あなたの心と意志そのものなのだ。さとれ。

 と行間において ふてぶてしくささやいている。ようなのです。

なるほど。
信仰と論理が相容れないものであることが、改めてわかりました。
にも拘わらず信仰が定着しているという場合は、無意識によるものであることが明白でしょうから、その意味でやはり興味深いと思います。
    

投稿日時 - 2012-02-17 17:07:18

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ○ ムイシキとヒラメキとの違い。

 ☆ これは ムイシキがあくまで 人間存在の中に属する。つまりは 身と心のどこかにあると想定されている。しかし そこから起こってやがて意識されうる動きとしてあるものとしてしか分からない。

 ヒラメキは 人間やこの経験世界の中からは――いま 信仰の問題にかぎるならば―― 出てくるものではない。どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。要するに 神からの声です。

 ムイシキは このじんるいの経験世界とその全歴史の蓄積とかかわっているのでしょう。むろん 個人としての意志行為の蓄積つまりその意味での歴史がおもなものでしょうが。

 ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。

 ヒラメキは これを超えます。トラウマを突き抜けるようにヒラメキます。生きることへとつなぎます。
 
 ヒラメキのあり方はやがて脳の動きが探究され 解明されましょうが ムイシキにかんしては そのような将来の解明の気遣いはありえません。
 ほんとうはムイシキなどはなく 潜在意識しかないと言っていいでしょう。あとは 身と心とにあたかも備わった欲動などが起きるというだけのことだと考えます。





 ★ ~~~~~
  > カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人 間として登場しています。
 :
 どのように信仰するか、ということなのですね。
 なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。
 ~~~~~~
 ☆ けっきょく
 ★ なぜ信仰するか
 ☆ あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。
 これを否定する場合には この世界が 経験合理性によって分かるその経験世界からのみ成っているという或る種の信仰をいだく場合です。言いかえると 非経験の世界は すべて 経験存在である人間のムイシキという場にあたかもおさまっていると主張する思想でありましょう。

 おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。
 ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。
 どうでしょう。

投稿日時 - 2012-02-17 17:51:45

ANo.12

批判は結構ですよ。しかし、神と信仰について、ご自分の定義を持ち出して反例となさるのは、客観的な議論ではありません。あなたは書いてらっしゃらないが、あなたの原点は以下の文章ではありませんか。

>人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。

アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。
しかし嫉妬に狂うとは、アウグスティヌスはカインにも神への愛があったことを認めているということにはなります。彼の愛が報われなかったのはなぜなのか。これはすでに示したように、新約聖書では、「信仰」と呼べるものではなかったからだ、という解釈になっています。この見方を整理すると、嫉妬に狂う類の愛情と、信仰は別物だというわけです。信仰とは恋人を愛するようなやり方とは異なるというわけです。エロスとアガペーの差だと言えば、あまりに当たり前すぎて、今更、綿密に議論する必要もないでしょう。

こうした点は既にNo1のお礼欄でふれてらっしゃるようですね。カインの信仰は歪んでいた、と指摘しているのですから。「カインが生き抜く物語か?」と聞いていますが、そういうお話しでしょう。信仰の持ち様がダメなカインが生きて行けるように取り計らったのですから。
しかしそれではあまりにキリスト教的な解釈で、批判精神がないではありませんか。「学問として」であるのなら、新約聖書の記述をあれこれと批判検討し、客観的な視野を獲得するようにしなければ、おもしろくありません。そうした一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。

反例は、最初に書いたように、ご自分の定義を持ち出していると感じられたので、私としては応答しようがありません。強いて言えば、上記に記したように、あまりにアウグスティヌス的な見解である、と感じました。そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。
それからSaddiqとdikaiosについては、私は納得できませんでした。というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。したがって、接点があっても全然不思議ではありませんし、反例になりません。反例を挙げるのなら、ギリシア語に「義」を示す語がいくつあり、Saddiqに該当する語がない、だから便宜上、似た意味をもつdikaiosを用いたのだ、と検証してみせなければなりません。あなたの反例はそこまでに達していらっしゃいませんね。そういうわけで、論理的に納得できません。

モンテスキューについてですが、私はたとえば、以下のような記述であれば、納得したと思いますよ。
http://dictionnaire-montesquieu.ens-lyon.fr/index.php?id=377
どうです、モンテスキューの他の文献から詳細に引用してきているでしょう? これと比べても、ご自分は立派な記述をしたと思いますか。私が要求している論述の水準と、あなたが十分と思う論述の水準には隔たりがあって、いくらあなたが言葉を費やしても、私には届かなかったのです。次第に私は煩わしくなり始めた。他の方との議論に割り込んでこられて迷惑だと感じた。あなたの言葉で言えば、「うるさい」と感じた。――それだけのことです。あなたにしてみたら、ごく首尾一貫したことを理路整然と語っていたおつもりでしょうが、私は何とも雲をつかむ話をしているな、としか感じなかったのでした。

投稿日時 - 2012-02-17 15:15:15

お礼

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。―― どうも進展のほどが うまく行きませんねぇ。なぜでしょうかねぇ。


 だいたいあなたは 議論を途中まで引っ張って行って 放り投げる。
 あるいは 城の堀のまわりに兵隊さんを幾重にも張り巡らし 議論が始まるかと思いきや あとは お結びでも食べて 昼寝している。

 こちらが 信仰の定義を書いて ちょうど城の中の図面まで見せた格好になったら 攻めやすしと見るのではなく 《反例》だとおっしゃる。反例なら 原案がなくてはおかしい。

 わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したのでそれを読んだら もう腰が引けたのだろうか。
 だが 文面はいまだに食ってかかって来ている。

 



 ★ それから Saddiq と dikaios については、私は納得できませんでした。
 ☆ じゅうぶんに納得の行く議論だとなおうったえます。

 ★ というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。
 ☆ なら どうして 次のような新しい考え方が起きて来たというのか?
 ★★(回答No.9) どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。
 




 ★ ~~~~~~
 あなたの原点は以下の文章ではありませんか。

 >人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。

 アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。
 ~~~~~~~~
 ☆ この図式はおかしいですね。あまりにもたとえばマニケーイズムだと見られます。つまりは グノーシス主義とほぼ同じです 善悪の二元論としては。
 ただし アウグスティヌスの場合は むろんさんざマニケイストたちと議論を闘わせて来ているのであって 二元論ではありえない。悪は善の欠如というかたちで 善(むしろ 存在ないし生命)の一元論です。

 それは たとえば次のような文章にもとめるべきです。
 ◆ (アウグスティヌス:神の国と地上の国) ~~~
 この天の国は地上を寄留している間に あらゆる民族からその市民を召し出し あらゆる言語の寄留者の社会をつくる。そして 地の国の平和をもたらして保存している習慣や法律や制度の相違においては何ら意を用いず それらのうちの何ものも廃止したり 破壊したりせず むしろそれらは異なる民族においてさまざまではあっても 地上の平和という一つの同じ目的をめざしている限り もしも唯一の最高の真なる神が崇拝されるべきだと教える宗教が阻止されないならば これを保持したり追求したりするのである。

 それゆえに天の国すら地上において寄留している間は地上の平和の用い 死すべき人間の本性に属する事物に関しては 敬虔と宗教とを妨害せぬ限り 人間の意志の結合を保護しかつ欲求し 地上の平和を天上の平和にもたらす。
 天上の平和こそは真の平和であって 厳密にはこれのみが理性的被造物の平和 つまり神を享受し神において相互を享受するもっとも秩序があり もっとも和合した社会であって またそう呼ばれてしかるべきものである。
  (『神の国』 第19巻 17章 松田禎二・岡野昌雄・泉治典訳  1983)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりづらいと思うので 解説をも引いておきます。
 ■ (R.A.マーカス( Markus ):Saeculum ) ~~~~
 世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民にとっては まさにこの世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。

 人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 世界( saeculum )というものを 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国( Civitas Terrena )とのあいだの 中間地帯( no man's land )として》ではなく 《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見通しえた時のみであるという そのような現実の中に位置する或る時間帯( temporal life )として》見るというかれの理解から 発しているものである。
 (§ 3 私訳 1970)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 言いかえると カインのその後に建てた地上の町も その秩序においては アベルの・神の国と同じ基礎に立ちその基盤じたいを共有している。





 ★ 一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。
 ☆ No.10補足欄を参照のこと。


 ★ そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。
 ☆ 許容する姿勢を見せているようですが けっきょく相手にあなたは許容しないのですね? と尋ねておけば 許容しなくても済むとでも思っているとしか見えない。
 


 ★ 友情論
 ☆ については ふたつつけ添えておきます。

 わたしは モンテスキューは知りません。

 もうひとつ。友情もけっきょく じんるいの次元で捉えないと つねに破綻に瀕していると言わざるを得ない。同胞が どれだけ 志を持つ青年らを失望させたか。ゆえに 実行や実現の現実性がなくても なおおのれの心の中では――閉じないで――開かれているというその境地に〔友情は〕還元されていくものと思われるということ。雲をつかむ話をしているのです。

投稿日時 - 2012-02-17 17:22:26

ANo.11

 「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
 これは、カインの“弟殺し”を「主」が予言したものであると、ようやく解かりました。

 また14:のカインの言葉からは「主」に見放されてしまえば生きていけない、と訴えていて、だからこそ15:で「主」は、カインを見放してはいないという意味を込めて、「カインを殺す者は七倍の復習をうける」と言ったんですね?

 「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。

 わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。
 ・・・・・と、言っているようにも思います。


       独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない)

投稿日時 - 2012-02-17 12:29:09

お礼

 わいわいえいとさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。
 ☆ カインが聞いたら 涙を流してよろこぶ? かも知れません。

 ★ ~~~~
 わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。
 ・・・・・と、言っているようにも思います。
 ~~~~~
 ☆ そうですか。そうですね。つよい信仰をお持ちなのですね。
 こういう表現についてうんぬんするのは 苦手です。なぜでしょうかねぇ。信仰が強いとか弱いとかにかかわるからでしょうか。個人的になるからですかねぇ。



 ★ 独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない)
 ☆ のですが 考えてみれば じんるいのすべての人びとが 子どもなのですよ? その内《出来の悪い子》は どれほどいましょうか? 一割? 二割?
 もし信仰をお持ちなら その神の意志と心に合わせて あなたも同じように出来の悪い子がかわいいというかたちになるということですが だいじょうぶですか? わたしは 何人も何人もは むつかしいと思ってしまいます。

投稿日時 - 2012-02-17 16:22:17

ANo.10

前に随分と落ち込ませてしまったようですから、お詫びを兼ねて、投稿してみることにしました。一応、あなたをご満足させようと、調べてまいりましたよ。

まずアベルとカインのお話しに触れた一節は、新約聖書で、六ケ所あるそうですね。念のために列挙しておきましょう。マタイ福音書23、ルカ福音書11、へブル書11と12、ユダ書、ヨハネ第一書。これらが、旧約聖書のアベルとカインの箇所を解釈する上での手掛かりになると、従来は思われてきました。まず新約聖書に沿った先行研究をまとめることから始めましょう。

注目するべきは、マタイ・ルカでは、アベルの扱いは「義人アベルAbel tou dikaiou」となっていることです。この義人dikaiosはユダヤ教の文脈で出てくる義人saddiqとは異なる意味だそうです。
キッテル新約聖書神学辞典の「義」の項目によれば、Saddiqが「神の裁定により己の権利を擁護されたもの」であるのに対し、dikaiosは「己の義務を神に対して果たす一方……神の要求に答えて、神の御前で義人と認められるにふさわしき正しさを自ら保有する者」であるそうです。どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。
実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。

だが、ここからが、実は思案のしどころです。上記はあくまで、新約聖書の記述であり、後世の者による一解釈であるとも言えます。すなわちマタイ・ルカ・「へブル人の手紙」の成立時期を考慮すると、どうやらこれは、ローマの迫害にあったキリスト教徒らが信仰を固める必要に迫られていた時期に書かれたことが明らかになります。義人アベル像を一つの比喩として、信仰を失う危機にあったものに対し、忠告するという意図があったようです(シュトラートマンの説)。
以上のように時系列を整理して考えると、いくら新約聖書であると言ったところで、一解釈に過ぎず、あまり新約聖書の記述に引きずられてしまってはどうしようもないことになります。結局、義人―アベルvs非・義人―カインという構図にしかなりません。そして、もっとも極端な例では、シュナイダーのように、カインは本質的に悪であり、当初から神に憎まれていた、などという単純な解釈に落ち着いてしまいます。いやはや、これでは世界には、生まれおちてから、神に嫌われる絶対的な悪がいることになってしまいます(というより、シュナイダーはユダヤ教的な解釈に行ってしまったと言える?)。それでは、カインがあまりにも不憫というものでしょう。新約聖書の記載にだけ頼った先行研究は、新約聖書の解釈の偏りを、図らずも、明らかにしてしまったと言えるのです。
おそらく、あなたはそういうことはご存じなのでしょうね。だが、それではよいと思わない。そこで、また別のモノの見方を求めているわけです。以下、私の分析を書いてみることにします。

すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。
まず、正しさを決めるのは、神ではないのか?神ではなく、カインが決めてもよいことなのか?という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。
次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます(※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。

こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか? 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。
もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。

アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。ちなみに私自身は、この問題について、特に信条はありません。グノーシス的な見解は、あくまで「分析」であり、私自身の意見とは異なりますので、ご留意ください。

投稿日時 - 2012-02-17 06:00:13

補足

 お礼欄からつづきます。

 § 3 あなたご自身の分析をわたしが分析します。

 § 3-1 神は失態を演じたか? そのことを間抜けのごとく書かせたのか?

 ★ ~~~~~~~
 すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。
 ~~~~~~~~~

 ☆ 次の考え方を導入すれば その《不思議なこと》を見てみる前に 疑いは晴れましょう。

 ▲ (コリント前書 1:25) ~~~
  神の愚かさは人〔の賢さ〕よりも賢く、
  神の弱さは人〔の強さ〕よりも強いからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 3-2 ★ 《正しさを決めるのは、神ではないのか?》

 ★ まず、正しさを決めるのは、神ではないのか? 神ではなく、カインが決めてもよいことなのか? という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。
 ☆ これは 表現の問題です。文学の手法が入っているとして読むべきです。

 どういうことか? たとえば次のように神がアダムやエワに問いかけるとき 神はその答えを知らないわけではない。いえ じゅうぶん知っていて尋ねています。そういう手法です。そうして 人間に対して あやまちうる判断でよいから自分で考えて決めなさいと言っているのかも分かりません。
 ▲ (創世記 3:9-13) ~~~~
 主なる神はアダムを呼ばれた。

   「どこにいるのか。」

 彼は答えた。

   「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れて
   おります。わたしは裸ですから。」
 
 神は言われた。

   「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じ
   た木から食べたのか。」

 アダムは答えた。

   「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から
   取って与えたので、食べました。」

 主なる神は女に向かって言われた。
  
   「何ということをしたのか。」

 女は答えた。

   「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 § 3-3 神は失態を演じたか?

 ★ ~~~~~~~~~
 (あ) 次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。
 (い) 結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。
 (う) これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。
 (え) (※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ (え)は おもしろいですが ならば もっと先へすすんで欲しい。組織宗教の自己解体を勧めるというまでにです。
 (い)の《精霊》は 聖書の神としては――《神の意志・愛》に相当するものとしては――《聖霊》と呼びそう書きます。(年寄りゆえの物言いでしょうが)。
 ○ 〔(い)を厳密な表現に言い直すとしたら〕 ~~~
 聖書はあくまで 人間が書いたものです。聖書記者が ヒラメキ(インスピレーション)を得て書きました。ヒラメキは 神の聖霊のしわざだと見る場合があります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (う)の《メッセージ》は もしそうであるならば
 ★ あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。
 ☆ というふうに遠慮せずに さらに進めたほうがよいと考えます。この経験世界に起こる現象としてはすべて いかに神につなげられて捉えられるとしても その現象じたいは 仮りの姿であると。神そのものとして受け取ってはならないと。
 《失態》かどうかは すでに前二節において基本的な見方を明らかにしました。
 あるいはまた その時代その地域の人びとの信仰をめぐる境地のあり方に従って 神の言葉や振る舞いが 記者によって書き記されたと考えられます。境地が低ければ それに合わせて語ったり振る舞ったりする姿が描かれることになります。(これは 旧約の範囲にとどまると言うべきでしょうか)。

 § 4 ★ 《結局、カインは、どう振舞うべきであったのか?》

 一挙に引用します。
 ★ ~~~~~~
 (お) こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか?
 (か) 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。
 (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。
 (く) しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。
 (け) だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。
 ~~~~~~~~~
 ☆ (け)の《神を超える》問題は すでに§ 2-1および§ 2-2で述べました。ありえないという立ち場です。神を超えたら そこも神の領域です。そういう想定です。これで(く)にも応えました。
 
 (お)から(き)までの三つの事項では カインの信仰に対する態度は如何に? という問いを発してその答えからおのづと解決策が出て来る問いだと考えます。
 現代人なら 一たん神とは切り離されていると考えます。たぶん宗教改革のころにおいて 少なくとも教会の説く神とは切り離されたのだと。非キリスト教圏に住む人びとにとっては もともと〔聖書の神と特定したかたちにおいては〕結ばれていないでしょう。
 どういうことかと言えば ここでカインは まだ――まだです まだ――神と結ばれていたと見るという意味です。と同時に 神から離れたい・あるいは神に反抗したいと思っていたのではないでしょうか?
 けれども あろうことか 弟のアベルをころすまではそのことの是非について分からなかった。そのあと 神との結びつきに目覚めた。(ここは 議論の分かれるところかも知れません)。
 ですから 現代人のごとくに神を一たん別の場所に置いて(もしくは 放ったらかしにしておいて) 《どう振る舞うべきか》というような問い方は カインは しないのではないか?
 ★ (か) 神によろこんでもらうこと
 ☆ なら いまのまだ曲りなりにも保っている神との結びつきに従って生きればよいということくらいは 知っている。それが ――主観の問題でもありましょうが――《ただしいこと》だとも知っている。ですから むしろこの神の道から離れたかった。
 ★ (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります。
 ☆ の《判断する力》は 別の意味になります。つまり 神との結びつきを解くための思惟および判断のことです。そもそも基本的に神に逆らうということについては 父親母親の事例で知っているはずなのですが。そしてその楽園から追われた状態については すでに受け継いでいると思われますが さらに神に《造反》するには どうすればよいかを考えていたかも知れません。

 § 5 『ユダの手紙』は カインを全否定しているか?

 ★ ~~~~
 もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。
 ~~~~~~
 ☆ ユダ書簡は 《さばき》について書いています。それは 神のおこなうことです。ほんとうのところは 聖書記者としてのユダにとっても分からない。《警告》のような役目を持つ書簡だと見ます。
 その《異端者たち》あるいは《神のさばきを受けるはずの不信心な者たち》は 《カインの道をたどる》と言うのでしょう? ですから 上に見たようにそれは 神の道から外れることを考えているということだと思います。
 外れないなら 神の道であり もしそうならば《絶対的な正義の存在》は そこに初めからあったし いまもこれからもありつづけ どこへも行かず 移ろいゆくものでもない。こう考えられます。
 《神を超えたものの存在の措定》は なぜ必要か まだ納得が行きません。

 荒削りもあったかとおそれますが。
 

投稿日時 - 2012-02-17 15:16:17

お礼

 ★ 前に随分と落ち込ませてしまったようですから
 ☆ 昨年までなら やり取りが途中で切れても(つまりは 相手が途中でとんずらしても) まだ起こり得る事態であると受け止めていました。局面が変わったのです。そこへ 以前と同じ事態が現われた。このことに出遭って《落ち込んだ》のです。じゅうぶん分かるはずである説明をしているのにこれが伝わらなかった。この非力に蒼ざめたのです。それ以外に問題はありません。

 言いかえると 今回つまりこの今のご投稿から見れば前回のやり取りの断絶については 途中での切れが しかもブロックされるという事態であったこと これも 予想していないことゆえだからです。
 今回は おかしな動きがあれば ただちに断ち切ります。草鞋の底の埃をもきれいに払って 引きます。押し売りではないのですから。


 
 さて何はともあれ ご回答に感謝もうしあげます。

 全体として 残念ながら 批判を内容とするこちらからのお応えになります。


 § 1 《信仰》の定義が 必要です。

 ★ アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。
 ☆ この《信仰の問題》とは何であるか? これが必ずしも明確ではないと受け取らざるを得ないからです。
 むろん ご自身のそれがどうであるとか そういうことではなく哲学としての定義です。議論をすすめるための作業仮説でもいいわけですから 明らかにしておかないと 空回りの部分が出て来ましょう。
 
 さらにつまりは あなたが《単なる信仰の問題であるという以上に》とか《新約聖書の解釈の世界から外へ出る》とかいうときに そこで捉えられている内容が わたしの見方からすれば やはり信仰の問題であったということがあり得るからです。

 § 2 前章の言い分について 例証します。

 § 2-1

 ★ 神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは
 ☆ これは グノーシス主義が問題になる以前の問題です。そもそも
 ★ 神を超える
 ☆ という概念が 分かりません。おそらくそのように言えると思って疑わないのであれば こうでしょう。すなわち そのように超えられ得る神というのは 誰れか人間が想像し思考し作り上げた《神にかんする観念 ないし 観念の神》であるということです。(そして このことは グノーシス主義に確かに当てはまります)。これなら いくらでも よりすぐれた内容の観念神が作られ得るかも知れないからです。

 § 2-2 そもそも 神についての説明はこうです。
 
 ○ (神についての一つの説明)~~~~~
  神は――神と想定されたならば―― 《絶対》です。《無限》です。
  その上も下もなく(超える超えないということは あり得ず) 並び立つものもなく ひとり満ち足りている存在です。
  正義や慈愛や遍在や不可変性や全知全能などなどの言わば属性が添えられるのは この《絶対ないし無限》についての――人間の思考における――派生です。
 ~~~~~~~

 § 2-3 あるいはさらに反証として

 《義 ツァディーク ディカイオス》なる言葉をめぐってですが:
 ★ ~~~~~~
 どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。
 ~~~~~~~~
 ☆ これは この説について承知した上でではありませんが・それでも言えることには もともと旧約聖書について 新約聖書の出る前にギリシャ語訳(セプトゥアギンタ)が出ていますから そこでは 上の言葉は そのように互いに呼応しているということがあるからです。

 言いかえると ギリシャ語には ヘブル語のツァディークの意味を忠実に伝える言葉がなかった。ただそれだけのことであるはずです。当てた言葉がやがて外延として 同じ意味を持つことはあり得ます。日本語には 渇愛とか愛欲といった意味での愛という言葉しかその昔にはなかったのが 別の意味に用いられるようになっています。そのようにです。

 ちなみに キッテル新約聖書神学辞典を疑うわけではありませんが 次のような情報もあります。
 ● ( dikaios ) ~~~~
  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=G1342&t=KJV1)

 righteous, observing divine laws

 : in a wide sense, upright, righteous, virtuous, keeping the commands of God

 1) of those who seem to themselves to be righteous, who pride themselves to be righteous, who pride themselves in their virtues, whether real or imagined

 2) innocent, faultless, guiltless

 3) used of him whose way of thinking, feeling, and acting is wholly conformed to the will of God, and who therefore needs no rectification in the heart or life

 3-a) only Christ truly

 4) approved of or acceptable of God
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり最後のほうで ヘブル語の意味に合わせたかたちになっているということだと見ればよいはずです。

 § 2-5 カインは 信仰がなかったのではなく それがゆがんでいたのだ。

 ★ 実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。
 ☆ 同じく回答No.1へのお礼欄にて このことは触れました。文面には書いてないのですが カインにしたところで 神への信仰の中にあった。神の声が聞ける境地にあった。ただし反抗し遠ざかろうとしていた。だけなのだと。単純に言って 滅ぼされなかったからである。

 § 2-6 上記§ 2-3 の引用文についてあらためて問う。

 ★ すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。
 ☆ 人が《信仰を持っている》ということは 事実としてあり得ますので 間違いではありませんが それだけでは 信仰を取り間違えます。
 
 ○ (信仰とは 定義の二) ~~~
  信仰は あくまで神からあたえられるものです。
  あたえられたものを受け取るのは 人の意志行為であり 経験行為ですが ――もし神秘になってもよいとのゆるしが得られればと断った上で言いますが――この意志行為として受け取るという経験行為も じつは あたえられるものだと見ているのが 信仰である。

 人間の思考や判断など一切の経験行為はもとより その存在じたいも 神に先行することはない。
 神がすべてに先行する力でありハタラキであると見るのが 信仰である。
 
 これは 恩恵(恩寵・賜物・めぐみ)と言われますが むろんそれは 《ただで(無料で gratis )》という意味から来ています。《絶対》〔との関係〕とは 人間にとってそういうことであり 言わば《無根拠》である。
 ゆえに 《神の前で信仰を持っている》と言ったところで・あるいはそれが まぎれもないその人の真実であったとしても なお信仰は 神に先行しない。という信仰でなければいけない。こう言えると思います。
 それゆえに むしろ《神に好かれている》といった表現のほうが 信仰をあらわすのにふさわしいと考えられます。
 ~~~~~~~~~~


 一たん休みましょう。このあとは 補足欄につなげるつもりです。

投稿日時 - 2012-02-17 12:03:31

ANo.9

A5です。
過ちを犯したのはあくまでもカインであるとする物語に沿って進めてみます。
>土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。
この場合の他者とは麦やコメの類です。
命を育み実りを産むとはいかなることか、殺して奪うだけとは違うでしょう。
食べる事は殺し奪う事でなく生かし育むことであるのが農耕です。
この発見と知恵は神の英知が助けとならなければなされなかった。
何故ならいまでも判ってない事が証拠だ。
生きると言う事が生きとし生ける者同士がつながることであるが実のところカインとアベルと言う物語の登場人物はどちらもそこまで英知を咀嚼し得なかったであろう。
話は仏教に飛びますが、生かすために死に、生きると言う行為のみがつながっていくのが輪廻です。
無邪気に殺しを働いた(羊)アベルの方が物語の読者に同情される野蛮な時代の物語です。

投稿日時 - 2012-02-17 01:24:07

お礼

 つづけてのご回答です。ありがとうございます。

 ★ 食べる事は殺し奪う事でなく生かし育むことであるのが農耕です。
 ☆ 分かりません。
 稲や麦の栽培というのは 野生のままに放っておくのではないわけですから もちろん 種を蒔いて肥料をやり害虫や草を取り除き 育てるわけです。育つのをたすけるわけです。《生かし育む》。
 そして《たべる》ことは その実あるいはほかには茎も根も花(?)も われわれ人間のからだのために栄養として摂ります。
 このことについて なぜわざわざ 
 ★ 殺し奪うことでなく
 ☆ と言うかというと それは どうもこの農耕との対比として 遊牧ないし牧畜における生活の様式が そうであるかららしい。つまり 遊牧畜におけるその獣や家畜に対しては《殺して奪う》ゆえに
 ★ 命を育み実りを産むとはいかなることか、殺して奪うだけとは違うでしょう。
 ☆ と。

 どうもおかしいですよ。
 (1) 遊牧や牧畜においても 羊などに草を食ませ また家畜には餌をやります。つまり 生かし育てます。

 (2) だとすれば あとでこれを殺し自分たち人間のからだのために摂取することは どちらも同じことです。動物と植物の違いがあるだけで どちらも同じ生物です。

 (3) けれども そもそも 羊を飼っているのは ころされたアベルであり 土を耕していたのは 兄のカインです。カインが弟のアベルをころしたのですよ。

 勘違いがありませんか?

投稿日時 - 2012-02-17 10:52:12

ANo.8

 7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。の、次の文「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。

 ブラジュロンヌさんはどう解釈してますか。

 カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。

投稿日時 - 2012-02-16 23:02:20

お礼

 わいわいえいとさん つづけてのご回答をありがとうございます。
 
 ★ 「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。
 ☆ これは のちのことになりますが けっきょく弟のアベルをころしたあとにも 《それでも 生きて行け》と言っているのだと見ます。前回 つぎのように ちらっと触れました。

 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~
 信仰とそのゆらぎと 悪行とそれでも ≫それの自治≪ を最後までつらぬきとおすこと などがさらに付随した主題となっていましょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《悪行を犯したあとの それでも 自己経営つまり自身の自治をつらぬけ》という意味ではないかと。

 ★ カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。
 ☆ これは ご愛嬌だと思います。わたしが振っておいて何ですが よくは分かりません。
 たとえば カインのこの《前科》を知ってそういう非行について思いを馳せる そうして言わば反面教師として 人びとは自省する よってカインをころすことはなくなる。といったことかとも思いますが まぁ 愛嬌としての問いであるかも知れません。


 今回は 意外と多くのご見解に接することが出来て よろこんでいます。うれしいです。

投稿日時 - 2012-02-17 00:15:50

神学や聖書の解釈について、ほとんど何も知りませんが、素人理解でもかまわないのでしたら、、、
 
1)創世記第1章では、神が作ったものすべては、はなはだ良かったとのことですから、林檎の樹も蛇も神の思い通りのいいものだったのです。
 
2)その後、創世記第2、3章では、神は林檎を食べるなと人(アダム)に指示して、その後でイブを作ります。さらに蛇にイブをそそのかせ、イブにアダムをそそのかせて、アダムが林檎を食べてから、叱責しています。
☆ 神は人(アダム)を神に似せて作り、はなはだ良かったとしながらも、アダムの思考や行動を試して、出来損ないだったことを確認して、作り直すのではなくて、追放し、新たな追加責任を課しました。

3)創世記4章のときには、神に何をささげるべきであるかの律法は、アダム、エバ、カイン、アベルには、まだ示されていません。レビ記やヘブル人への手紙は気にしなくてもかまわないと思います。
4)カインとアベルがそれぞれ捧げものを持ってきたとき、神はカインの捧げものを軽く扱います。それで、カインは激しく怒って顔を伏せました。
 
5)神は、カインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」と言います。
神学ではどう解釈するのか知りませんが、カインの捧げてきた土の実りは、良い捧げなのか/or/良いとは言えない捧なのか、の識別をカインが自分で考えるように求めているように思います。忸怩たるところがあるから、顔を伏せたのだろうというロジックでしょう。犠牲や捧物についての律法を神はカインなどにまだ示してはいないので、捧もの神が無視した事に対するカインの反応で、カインの神に対する姿勢、誠意を試したのでしょう。 神がどういう行為をしたにせよ、人が何かに対して(神に対してでも、アベルに対してでも、その他のことにしてでも)激しく怒ったり、相手の顔を見ていられないような状態になるのは、カインは、神が作るつもりのパーフェクトな人間ではなかったことが、これで判明します。(カインの直接の両親がアダムとイブでも、それを作ったのが神で、アダムとイブが創世記第3章の神の指示でカインを生んだ)(この状況は、林檎、蛇、エバを使って、アダムの出来具合を確認し、失敗作だったのがわかったのと同じです)
 
6)神は、カインに「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言います。
神学ではどう解釈するのか知りませんが、神は、それでもまた新たなためしをします。 カインがアベルを憎むようなことやアベルに対する害意を抱かないように、カインが自分をセルフコントロールすることを求めているようです。仮に、アベルに対する嫉妬のような気持ちが湧いたにしても、そのような低次元の心理や感情を自分で抑制せよと、カインに言ったようです。
 
7)カインは、アベルに言葉をかけ、野原でアベルを襲って殺す。(ここでまた、神の作ったカインは神の期待を破ります。神の人間作りは欠陥だらけで、大失敗作であったことが確認されます) 6)の神のためしは、ものの見事に、人間が失敗作だったことを示します。仮にカインはアベルを殺さないで、恨んで暴力を振るっただけなら、今度は神はアベルを対象に何かのためしを仕掛けて、アベルも出来損ないであることを神に示し、神はがっかりするストーリーになっているのでしょう。
聖書は、人間は神に似せられて作られたが、失敗作であることを繰り返して記載してると思います。
 
 ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽
 6: 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら カインの心中にやましく動きがあったのかと推察されますが、それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?
 
 ☆★  ★☆
※ ストーリーの流れから、カインにやましさがない(神に対し誠実で、最高の捧ものをしたと昂然といていられる)ことはないでしょう。 ストーリーは、いかに人間は出来損ないであるかを、一貫して述べています。
※ 何がカインのやましさであるかであるかは、どうでもいいのだと思います。だから、そこは省略されていると思います。読むものが、自分に引き戻して、やましいことを考えてもかまわないでしょう。それであたりではなくて、自分の反省に使えればかまわないでしょう。
例えば、農産物は大量にできたので、一番いい部分は自家消費用に残して2級品を持っていたとか、あまりを捧ものにしたとか、、、。 捧ものそれ自体の良否ではなくて、神から自分が軽く扱われたことに対する悔しさ屈辱感かもしれません。どれであるにしても、神から見れば、神に似せて作った人間としては失敗作だったことを示す反応です。
アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来たとの表現から、一番を選んで捧ものにしたとのイメージで、カインは土の実りを持って来たとの表現ですから、二番目かあまりモノか最高のモノかはわかりません。カインは神に無視されたことで嫉妬か恥ずかしさか何かの反応をしただけです。
創世記3章では、神は、人をエデンから追い出して、人が土を耕すようにしたことが明記されているので、羊を飼うのでも、農耕するのでも、どちらも、神の指示に従ったことで、どれを仕事にしたのかで、やましさが生まれるとは思いません。

投稿日時 - 2012-02-16 22:26:55

お礼

 そうですね。――まづは もとこうこうせいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――できるだけ経験合理性によって判断しうる論理と感覚において 応答してまいりたいと考えます。《信仰》のことを避けてとおるわけには行かないでしょうが。


 ★ 聖書は、人間は神に似せられて作られたが、失敗作であることを繰り返して記載してると思います。
 ☆ これが基本的な見方だとおっしゃっている。こう受け取りました。

 この命題について考えてまいります。
 個々のご指摘については 質問者ながら 〔ほかにも同種のご回答を寄せてもらっていますが 特には〕回答No.1およびNo.2を基軸としてわたくしなりの答えを得ましたので 〔個々のご指摘については〕いま上の命題についてお応えすれば おおむねお応えできるかに思えるほどですから。

 問題は
 ★ 神に似せて
 ☆ という表現をどういう内容として解釈するか。だと思います。
 《似ている》のなら その神のごとく もっとしっかりしていなさい 人間よと言うのか。それとも 《似てはいるが 片や経験存在であり 片や非経験の領域なる存在であるのだから その隔たりは はなはだしい。有限と無限との違いがある》と捉えるのか。

 とうぜんこの選択では 後者になるのですが それでも問いはつづくようです。
 ★ 1)創世記第1章では、神が作ったものすべては、はなはだ良かった
 ☆ ならば 隔たりの絶対性にもめげずに 人間はそれなりの
 ★ 神が作るつもりのパーフェクトな人間
 ☆ であってよいし そうであるはずではなかったのか? それなのに
 ★ 神は人(アダム)を神に似せて作り、はなはだ良かったとしながらも、アダムの思考や行動を試して、出来損ないだったことを確認して、
 ☆ といったことがどうして起きるのか? こういった問いに行き着きましょうか。


 そうですね。――と余裕をこいて お応えしますが―― どうなんでしょう? たとえば アダムは エワにさそわれて禁じられた善悪を知る木から採って食べたあと 風のそよぐ或る夕べ 神から

   アダムよ きみはどこにいるのか?

 と問いかけられます。つまりその声を――たとえば良心の声を――聞くだけの耳は持っていたのでした。そうして ただし 女がすすめるから食べたと理由にならない言い訳をもしています。エワも同じように言い訳をします。
 おそらく これでよいと神は見たのだと思います。よい答弁ではないのですが 勝手に木から採って食べたというその自由意志について まちがったかたちだとは言え 答責性を持って答えようとはしている。
 この説明責任をともなった自由な選択としての自己表現 この形式でよいと見たのだと考えます。

 言いかえると 神であるなら 自由意志による選択は すでにその同じ時点で責任もともなわれています。責任を含んだ行為がぜんぶ実行され そのままぜんぶ自由な意志行為が成ります。ということは この神に似せてつくられた人間の場合には この《選択における自由》と《自由にともなわれる責任》とは 時間的なずれをともなって おそらくけっきょくにおいては 一体となって成ると考えられるというわけです。
 後半の議論は 希望において《一体である》かたちですが――つまりほんとうに一体であるかどうかは分からないのですが―― それでも 神においては 意志行為がその結果や責任についても 最初の行動の時点ですべて完成されている。ところが 人間の場合は もし完成されうるとしても それは 時間的なずれをともなってである。こういう《類似点》と《似ても似つかない点》とがある。と考えられます。

 つまりひと言で言って 人間は この自由と責任といった主題について《出来損ない》であって それで《よし》なのだと受け取っています わたしの場合。




 すなわち アダムらがエデンの園を追われても それがふつうだという意味です。
 カインは――わたしはこれまで考えつかなかったのですが―― 神への信仰において それを曲げたりゆがめたりすることがあった。これでも よし なのだと見ます。
 弟をころすこと この点については おそらくこの世において人びとは殺し合うことがあるといった経験事実を捉えて その言わば起源をどうにかして捉えようそして描いておこうとしたのだと受け取ります。
 アダムらの子どものあいだに歴史事実としてそういう悲惨な出来事があったかどうか それには関係なく 聖書記者は すでにこの第二世代においてそういう事態を取り上げ取り扱った。こう捉えます。

 どうでしょう?





 個々の事例について見てみます。
 ★ 4)カインとアベルがそれぞれ捧げものを持ってきたとき、神はカインの捧げものを軽く扱います。それで、カインは激しく怒って顔を伏せました。
 ☆ ですから この表現には 隠し玉があってそれは 《信仰》のあり方なのだと暗に言っていると見るわけです。表面の文字や表現には気を遣っていない。

 ★ 6)神は、カインに「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言います。
 ☆ これは ただひとつのこと すなわち のちのこと(つまりアベル殺し)をもすでに含めて 《それでも 生きて行け》という意味だと見ます。
 
 ★ ~~~~
 ※ 何がカインのやましさであるかであるかは、どうでもいいのだと思います。だから、そこは省略されていると思います。読むものが、自分に引き戻して、やましいことを考えてもかまわないでしょう。それであたりではなくて、自分の反省に使えればかまわないでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ ここは重なるところもあるようです。いづれにしましても やましさは それがあっても《信仰のゆがみ》にかんするそれのみが問題になっていると取るわけです。

 ★ ~~~~~
 創世記3章では、神は、人をエデンから追い出して、人が土を耕すようにしたことが明記されているので、羊を飼うのでも、農耕するのでも、どちらも、神の指示に従ったことで、どれを仕事にしたのかで、やましさが生まれるとは思いません。
 ~~~~~~
 ☆ これは 趣旨説明に触れたことと呼応していると思います。

 セルフコントロールですとか ささげ物がどうであるかですとか 述べていただいていますが どうもそういった心理的なことがらや比較としての程度問題などにかんしては 聖書記者は まさにそのように表現しておいて まったく関心がない。どうもこのようであると読みました。
 果たして どうでしょうか。

投稿日時 - 2012-02-17 00:06:45

ANo.6

> 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?

男児にとって父親は乗り越えるべき存在であると同時に尊敬したい対象でもあるわけなので、主の言葉はアベルへの嫉妬を掻き立てるに充分であったことでしょう。ゆえに、

>(主が) カインとその献げ物には目を留められなかった。

のなら、
>  カインは激しく怒って顔を伏せた。

のは(カインが神ではなく人間であるならば、という前提でですがーーーとお断りするのは全く知らないからですが)当然のことでしょう。にも拘わらず、

>「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

と主が尋ねたのだとすればいかにも間の抜けた問いではないでしょうか。
むしろ、そのことがアベル殺害の直接的動機となったとしても不思議ではないでしょう。
つまり、全くの独断的解釈によれば、アベルは主の身代わりとして殺されたことになります。
あるいは、弟を殺すことによって父からの愛を渇望していることを知らしめたかった。
代替的にエディブスコンプレックスが実現された、とでも言いましょうか、側面から捉えると極めて明白な展開だろうと思われますが、聖書を読んだことのない素人の戯言と受け止めていただいて構いません。
しかし、いやしくも神であるならば、なぜ贈り物の中身で差別する必要があったのか、そのあたりのほうがむしろ興味があります。
また、嫉妬心を掻き立てることになるという単純な事実にすら気づかなかったのだろうか・・・などについても面白いなという印象を受けました。
あえて試練を与えたのだということであれば、完全な出来レースですから聖書自体が無意味になってしまうでしょうし。

素直な印象としてですが、聖書というのはなかなか面白い読み物のように感じました。
というか、面白く紹介していただいた、と受け止めるべきなのかもしれませんね。
なんか的外れな回答のようで申しわけありません。
聖書に全く興味ない者が回答してはいけませんでしたね。
適当にスルーなさってください。
          

投稿日時 - 2012-02-16 21:53:00

お礼

 これはですね。――はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――これは 回答No.1を受け取ってから そしてそれをべストアンサーだと内心では決めたにもかかわらず まだなお回答を受けつけていた質問者がわるいと言えばわるい。まづこうお断りしなければならないと考えます。

 おおきなあやまちだとは しょうじき 思いませんが――なぜなら 多くの方々のいろんなご見解をうかがうことはよいことだと思うからですが―― 考えるには回答No.1の《ヘブル書の解釈》より以上の見方が現われるとも ちょっと思いつかない。そういう状態ではいるものですから その回答No.1との兼ね合いでは 申し訳ない気持ちもあります。

 なるほど 精神分析の典型的な解釈が成り立つではないか。とおっしゃる。わけですよね。

 ヘブル書の解釈をあらためて――特には回答No.1およびNo.2のそれぞれにおそわりつつ――わたしなりに のべてみます。そこでは 嫉妬という事象や そして語弊のある言い方ですが 弟殺しといった事象を完全に超えているということ。まづ あらかじめながら これが 答えの鍵になると考えます。

      *

 カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人間として登場しています。ただし これを曲げた。ゆがめた。どのようにかは なかなか分からないのですが その現象面としては 神へいけにえを捧げるというおこないをめぐって 現われた。
 そして このくだりでは 聖書記者は いっさいこの主題となっている肝心の信仰問題については 触れていない。
 信仰の問題でありつつ 信仰として触れないまま 事態が進展する。むしろ肝心のことは書かずに アベルとの関係やあるいは神との関係において どうしたこうした どうなったこうなったと 淡々と書いてゆく。
 たとえば
 ★ ~~~~~~
  >(主が) カインとその献げ物には目を留められなかった。
 :
 のなら、
 >  カインは激しく怒って顔を伏せた。
 :
 のは(カインが神ではなく人間であるならば、という前提でですがーーーとお断りするのは全く知らないからですが)当然のことでしょう。にも拘わらず、

 >「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
 :
 と主が尋ねたのだとすればいかにも間の抜けた問いではないでしょうか。
 ~~~~~~~~
 ☆ といった頓珍漢な書き方をしている。堂々と 阿呆な書き方をしています。
 つまりは そのとき同時に 

   読者よ 問題は 信仰なのだ。
   あなたの心と意志そのものなのだ。さとれ。

 と行間において ふてぶてしくささやいている。ようなのです。


 ささげ物などは 極端に言えば どうでもよい。どちらがすぐれているのか これもどうでもよい。弟に嫉妬したかどうかなども どうでもよい。神が 間抜けだと思われても それもどうでもよい。

      *


 こういったところだと考えます。
 わたしが趣旨説明に《心の葛藤なり悩みなり》を出してしまったために はこぶるさんのような解釈に発展したかも分かりません。とにもかくにも いまの状態においては いま述べた見方を持つに到っています。


 そうして こうなりますと さらにほかの多くの方々のご見解を聞いてみたほうがよいとも考えられます。聞いてみなければならなくなったように思います。
 というお応えにて けっきょく分析された内容について触れずじまいでしたが あらためてそこらへんについても ご主張がありましたら お寄せくださいますようお願いしておきたいと思います。

 

  

投稿日時 - 2012-02-16 22:45:30

ANo.5

土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。
生かす事が自らが生きる事につながる。
この耕す知恵は猿からは生まれない知恵でして、神様が人に教えてくれたものです。
英知は全てそうです。
カインの故事は、神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。
私がその物語の作者なら「お前は私のために生きる事を怠った」そんな一文を添えます。

投稿日時 - 2012-02-16 21:13:50

補足

 お礼欄のおぎないです。

 ★ 神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。
 ☆ ひょっとしてこの《あやまち》は カインがおかしたのではなく そうではなく 神に隷従していたアベルが その《隷従するのみで神を理解することを怠った》ということなのでしょうか?


 ひとつの見方をかたちづくるようにも思いますし その反面では 《神を理解する》というコトについて そのままではやはり飲み込めないものがあります。
 そもそも《神を人間が その理性によって経験合理性に合った妥当性のある内容として 理解する》ことが出来るとは 思わないからです。
 仮りの説明をして 神を指し示そうとする努力はおこなわれますが 《理解しえた》という認識はないと考えます。つまり 神は 基本的に《理解する》対象であるとは思わない。

 そういう難点もあるかと思うのですが。

投稿日時 - 2012-02-16 22:26:18

お礼

 ふられおんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 むつかしいですね。むつかしくお考えなのですね。

 ★ ~~~~
 土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。
 生かす事が自らが生きる事につながる。
 ~~~~~~
 ☆ ここの《他者》とは 麦なら麦 米なら米というその栽培植物のことですか? それとも ほかの人のことでしょうか? 家族のことでしょうか? となり人でしょうか?
 でもほかの人びととの共生は 狩猟・採集・漁労の生活においても 課題であったと思われはします。

 ★ ~~~~
 この耕す知恵は猿からは生まれない知恵でして、神様が人に教えてくれたものです。
 英知は全てそうです。
 ~~~~~~
 ☆ たしかに――わたしも思うにですが―― 知恵は知識を活かすコツのようなものだと考えます。それは ヒラメキ(ないしインスピレーション)において得られるというように思います。そのような意味で 神とかかわっていると捉えます。

 ★ ~~~~~
 カインの故事は、神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。
 私がその物語の作者なら「お前は私のために生きる事を怠った」そんな一文を添えます。
 ~~~~~~~
 ☆ ううーん。待ってください。このカインとアベルの物語の前の世代は アダムとエワ夫婦の話です。そしてかれらについては 《神の言いつけに隷従することが求められていたところ これに逆らった》という話ですね。そこで 自由意志の存在がたしかめられた。

 そのあと カインの世代において
 ★ 神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ち
 ☆ が出て来るのですか? 
 この場合 言ってみれば 弟のアベルは すぐれたささげ物をそなえて 言わば《隷従》していたわけです。はっきりとは書いてないと思うのですが カインはその内心では《神への隷従を嫌って よく分からないけれど 劣った供え物をささげた》というようにも読めます。
 そう考えると 合点が行かないのですが どこか読み落としていましょうか?
 
 ★ 「お前は私のために生きる事を怠った」
 ☆  これは そのように神が言うということですよね? ううーん。これも 微妙ですね。
 なぜかと言えば 神はそこまでは 服従を強いるものではないのではないか? こう考えるゆえです。

 ちょっと よく飲み込めませんでした。どうでしょう?

投稿日時 - 2012-02-16 22:09:54

ANo.4

 今回は無知な私でも何とか読み通せる質問でしたので“仏教目線”ですが答えてみようと思います。

 主題は「信仰心は正しく堅固でなければならない」という事だと思います。

 主が“妻エバ”に男子(カイン)を産ませたということは、その「主題」をカインを通して示したかったから。

 主は、献げ物に引け目を感じるカインの心の弱さを批判し、修行の為にノド(さすらい)の地に住まわせました。

 だから“主の使い”で修行中の身であるカインを、出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだと思います。

 

 

投稿日時 - 2012-02-16 20:15:15

お礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 主題は「信仰心は正しく堅固でなければならない」という事だと思います。
 ☆ やはり 主題は 《信仰》ですか。
 聖書の信仰にかんして わたくしの思うところをひと言つけ添えますが それは《ただしく堅固である》ことも すべて ナゾの何ものかから与えられるという捉え方になるとは思います。

 ★ 主が“妻エバ”に男子(カイン)を産ませたということは、その「主題」をカインを通して示したかったから。
 ☆ 次の新しい世代をとおしても 信仰という主題を示そうとした。わけですね。

 ★ 主は、献げ物に引け目を感じるカインの心の弱さを批判し、修行の為にノド(さすらい)の地に住まわせました。
 ☆ そうしますと カインはすでにささげ物をしたときすでに 自分の心にやましさを感じていたという解釈ですね。

 つまり けっきょく いきなり信仰という主題が入って来ているのですね。回答No.2のてふてふさんに言わせると それゆえにこそ当然触れなかったのだそうです。そこまで言われると そう受け取るしかないように思います。

 弟殺しをおこなうまでに到ったカインであるけれども それでも
 ★ だから“主の使い”
 ☆ として扱われるのですね?

 ★ だから“主の使い”で修行中の身であるカインを、出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだと思います。
 ☆ 生かされているけれども つぐないもしなければならない。あるいは 遠くイエス・キリストの歴史的な登場までその完全な癒しとしてのすくいは またねばならないということを示すものか?

 信仰とそのゆらぎと 悪行とそれでもそれの自治を最後までつらぬきとおすこと などがさらに付随した主題となっていましょうか?


 ところで
 ★ 出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだ
 ☆ このしるしとは 具体的に何だとお考えになりますか? そんなしるしが ありますか? 雰囲気でしょうか? かえって相手には カインは なごみをもたらすのでしょうか? うんぬん。・・・

投稿日時 - 2012-02-16 21:54:16

ANo.3

 難しいですよね。私の解釈です。

・神の「御心」を人が知ることは出来ない。

 信仰を持っていても様々な不幸に人は会いますが、その時必ず「他の誰でもなく、なぜ自分が?」という問いを持つと思います。しかし、結局はそれを受け入れるしかありません。

 結局、信仰とはすべてを神にゆだね、受け入れること・・その比喩ではないかと思っています。

投稿日時 - 2012-02-16 18:45:09

お礼

 ぽおめんさん こんばんは。

 ★ 難しいですよね。
 ☆ この質問の主題はむつかしいです。むつかしかったです。

 まづ
 ★ ・神の「御心」を人が知ることは出来ない。
 ☆ これは おっしゃるとおりだと思います。

 ★ 信仰を持っていても様々な不幸に人は会いますが、その時必ず「他の誰でもなく、なぜ自分が?」という問いを持つと思います。しかし、結局はそれを受け入れるしかありません。
 ☆ これも そのとおりに受け取ります。或る程度 あとでそのわけが分かる――主観において納得が行く――場合もあるかと思います。

 ★ 結局、信仰とはすべてを神にゆだね、受け入れること・・その比喩ではないかと思っています。
 ☆ ここは 表現として 微妙なのではないかと考えます。
 一方で《信仰》は何だと問うならば 《すべてを神にゆだね 受け容れること》と言えると思います。
 他方で その定義のままに思いを持ち行動をおこなっているかと言えば 必ずしもそうではない。

 すぐ上で捉えたように おのれの自由意志で振る舞っていたとき 或る種の不幸に出会う。そうしてその場合に《すべてをゆだね 受け容れる》という姿勢になるとは思います。思いますが つねにそういう態度を採っているかと言えば むしろやはり――心の底においてゆだねているという感覚を持ちつつ―― けっきょくかなり好きなように振る舞っているのではないかとも考えます。

 別に道をゆがめようと思ってではなく ゆだねているという感覚の上でなのだけれども 自由な選択をおこなっていると考えます。

 それは したがって ひとつには確信の問題だと思われます。必ずしも《すべてをゆだね 受け容れている》というその確信ではなく そうではなく ヒラメキを受けたような確信です。
 言いかえると 《すべて みこころのままに》という祈りは すでにすべてをゆだねていますが それによって行動を起こすと考えるのも きつい。ように思うのです。
 その《ゆだね》は 言葉によって成るのではなく やはりあたえられるものだと考えるからです。

 でも微妙なようです。述べ切ってはいないかも知れません。
 ★ その比喩ではないかと思っています。
 ☆ とおっしゃるならば このいまの微妙さをも含めて言っておられるようだとも思いましたが。

投稿日時 - 2012-02-16 21:40:53

ANo.2

こんにちは、ブラジェロン子爵。

私は、聖書は読んだことはないのですが。カインとアベルは二人とも信仰の深い人だったと思います。
主は、二人の献げ物を見て、率直にアベルの羊の初子が優れていると思われたのです。そこで、カインは、もっと努力して来年優れた献げ物をするべきでした。しかし、彼の心には、弟に対する妬みの心が生まれてしまったのです。弟殺しにまで至ったカインに対して、主は償いとして、罰を与えられた。彼は、其の信仰心からあまんじてさすらいの地へ住んだのではないでしょうか?当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。この物語は、信仰心が憎しみになることもある、しかし、主はそういう人も生かす者であると言われているのです。カインには、知恵により生きる試練を与えられたのです。
私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。

投稿日時 - 2012-02-16 18:05:29

お礼

 ★( a ) 私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。
 ☆ このくだりだけが 見解を異にしました。

 てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 なかなか信仰の篤い見方ではないかと思いました。
 ★ 当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。
 ☆ このように《信仰》の問題に帰して捉えるというのは 回答No.1の方のヘブル書での記事についてのご指摘がなければ分からなかった。つまり 忘れてしまっていました。
 このヘブル書で触れられていなかったら どうなっていたか。とも考えます。

 たしかに信仰が一にも二にも主題であったはずなんです。ただアダムとエワから次の世代へ移って 何も明らかにせずに――つまり 献げもののよしあしを言うだけで――信仰の問題を表現していたとは 思いつけなかった。気づかなかった。

 ★ 弟殺しにまで至ったカインに対して、主は償いとして、罰を与えられた。
 ☆ ここまで行くと もう事態ははっきりしている。とは思います。ただし
 ★ しかし、彼の心には、弟に対する妬みの心が生まれてしまったのです。
 ☆ ということが事実だとした場合 それでも《妬み》によって 相手をころすまでに到るか? 信仰の中身が ゆるがせになるほど ねたみ切ったりするだろうか? あるいは そもそも先に信仰のあり方がゆらいでいたのか? それゆえ ねたみが出たのか?

 つまり 信仰は 切り札であると同時に それだけで何もかもを切ってしまうと なかなか納得がすんなりとは行きがたい。ところもあると思ったりします。
 でも 
 ★ 当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。
 ☆ てふてふさんにとっては 《当然》なのですね? 恐れ入りました。完全に イッポン。


 最初の( a )の命題は わかりにくいように思います。それほどはっきりと決まっているとは いまのところ 思えないでいます。いろんな場合があるのではないかという意味です。
 すなわち後半の部分:
 ★ 主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。
 ☆ については もし主観においてそう思われるのであれば そういうことかなと思います。
 前半の部分:
 ★ 私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。
 ☆ これは 死ぬという事態が含まれているというコトですよね? だとしたら それほど簡単に言い切ってよいものか 自問しつづけます。答えは出ましょうか? むつかしい。と思います。――宙ぶらりんですが。

投稿日時 - 2012-02-16 21:25:53

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