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解決済みの質問

イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。

 (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。

 (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。

 (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。

 (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。

 (7) この虚構のからくりは 次のようである。

  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。

 
 この哲学を問います。よろしくどうぞ。




 そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。
 
  (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?

  という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。
 
 

投稿日時 - 2012-02-19 15:00:37

QNo.7314618

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質問者が選んだベストアンサー

居らず去らずの扇かな(老子)

投稿日時 - 2012-02-19 15:35:25

お礼

 三低さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 この語句どおりでは 検索できませんでした。

 考えるに こうでしょうか?
 
  ○ (キリスト・イエスとは?) ~~~~
   イエス・キリストは 生涯の全体をつうじてナザレの人ヨセフと
  マリアの子であるふつうの人間イエスであり 同じく生涯の全体を
  通じてと同時にそれをも超えて 神の子でありじしんが神であるキ
  リストであった。と言う。

   どちらか一方によって見るなかれ。見切ることなかれ。見尽くし
  たと思うことなかれ。
   
   たとえば こうである。聖母マリアとよばれることがある。
   けれども マリアは ヨセフの妻であり ふつうの女性である人
  間である。それと同時に キリストと成ったイエスの母としては
  それは 聖霊によって処女懐胎したという物語になっている。つま
  り その側面で 聖母マリアである。

   イエスは 大食いで大酒飲みであった。人間である。
   イエスは キリストとして 神の言葉を伝えるという食事をして
  いた。その食事がなければ 生き続けられなかった。
   人間として あの盃――十字架への磔――を飲むというとき 大声を
  出して泣いた。と同時に キリストとして 《あなたの みこころ
  のままに》と父なる神に言って 受け容れた。
  ~~~~~~~~~~~~


 ★ 扇
 ☆ とは何を言うのか? これが 分かりませんでした。

投稿日時 - 2012-02-19 16:42:09

ANo.3

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回答(11)

ANo.11

イエスが神って、がアタナシウス派 の教義 じゃないの?

二ケア信条会議でアタナシウス派が正統と認められるまで、いろいろあったんじゃないかな。

あえて言うなら、大うそつきは、イエスではなく、原子キリスト教団の一派じゃないかなあ。聖書はあとでかかれtえるし、編纂者の意図がで書きかえられてるから、実際のイエスが殆ど見えない、その層を掘り起こすのが、Q資料だったかな。


最後の話は、教会教義学つまりバルトを勉強されてたらいいのかも。

投稿日時 - 2012-02-21 02:41:07

お礼

 満ち欠けさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ううーん。しょうじきに言って とりあつかうには むつかしい視点をお持ちのようですね。

 話の題材と言いますか個々の資料じたいについては分かりますが それを提示するその視点が いまひとつ明らかではないように思います。

 ★ 教会教義学つまりバルトを勉強されてたらいいのかも。
 ☆ K.バルトは ローマ書講解を読んだ程度ですが 何とも思想としての・つまりは生活態度としての次元には降りて来ないという印象です。聖書の視点を深めようとして問い求めていますが だから 具体的にどう生きるか あるいは共生ないし共同自治をどうするかにかんしては なかなかその問い求めの成果を活かしがたい。
 その文章は 観想である。観想に終わっているのではないか? このように思われます。


 ★ 聖書はあとでかかれてるし、編纂者の意図がで書きかえられてるから、実際のイエスが殆ど見えない、その層を掘り起こすのが、Q資料だったかな。
 ☆ それでよい・つまり 実際の自分が書物では見えなくてもよい とイエスは考えていたのではないですか?
 隠すということではなく すべては 神のことについて高々人間の言葉で表現するのだから すべては虚構である。と見るところから出発してのこの問いです。

 ★ あえて言うなら、大うそつきは、イエスではなく、原始キリスト教団の一派じゃないかなあ。
 ☆ それでよいということでしょうし それでなくても 神のことなら 誰れが――人間の言葉で書いても――同じように 虚構になりましょう。それでよいと思っていたのではないでしょうか イエスは?

 ★ 二ケア信条会議でアタナシウス派が正統と認められるまで、いろいろあったんじゃないかな。
 ☆ この質問の立ち場は 微妙に違います。
 《正統》論議は どうでもいいという立ち場です。
 ともかくいまのかたちの聖書にもとづき――そして 確かにアタナシウスの提案にもとづき採用され わたしの場合は アウグスティヌスの解き明かそうとした三位一体説にもとづいていますが―― 単純に《ウソ》という視点からひとつの主題を問い求めています。この虚構が 人間とその生および共生にとっては 究極の光となるようではないか? これです。

 こういう扱い方になっています。どうでしょう。

投稿日時 - 2012-02-21 10:33:39

ANo.10

(1) ★ イエスが神だといった。・・・それでもこのことがご疑問なんですね。
 ☆ 《イエスなる人間は 自分が神だと言った》については 次の聖書のくだりを参照してください。

 ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 
   * 16:16に ペトロの言葉として《生ける神の子》があり 
    イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えてい
    る。
     《メシア(マッシーアハ)》は ギリシャ語で《クリスト
    ス(キリスト)》と訳されて使われています。次の引用文を
    参照。

 ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~
 〔* サマリアの〕女が言った。

  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知って
  います。
   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてく
  ださいます。」

 イエスは言われた。
 
  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。

  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 ピリポが

  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

 と言うと、イエスは言われた。

  「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
  のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
  お示しください』と言うのか。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
  のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
  い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
  のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
  さい。
   はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
  また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
  である。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
  父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
  げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~

私は、ブラジェンヌさんの引用されているイエスなどの記述はその通りだと存じます。


 (2) ★ イエスが神だといった事を間違いだの錯覚だの、なんだのとはいえないかもしれませんね。
 ☆ このうたがいについては まづ確かに質問者は 《言った》とは書かないで 《大嘘をついた》と書いています。それゆえ 
 ★ 間違いだの 錯覚だの なんだの
 ☆ とけちをつけている格好だと言えば言えますね。

私はけちなどはつけていませんで、余りに激越な言い方に辛かったのです。避けただけです。イエスは嘘をついていない。イエスは錯覚もしていないし、まちがってもいません。と私は思います。

 (3) ★ だとするとイエスも私達も、その〔* 創造の〕意志と意図の中の存在だといえますか?
 ☆ これについては 分かりません。
私の投稿内容ではそうなっています。
以下の事については私は何かを申し上げる立場におりません。本パラグラフの後半の仰せの事は、私の投稿に書いてあることが私の申し上げる事で、ただ繰り返すだけになります。このことについてはブラジェンヌさんのいくらかのご参考になれば、という思いからであります。そしてなお、私は仰せのことに単に投稿しなければならないという思いだったに過ぎません。

 分からないという意味は 哲学としては 神を次のように規定して用いているからです。
  (あ) この世の経験世界に対して それを超える非経験の場があると想定する。これは 絶対であり 無限である。
  (い) じんるいの歴史においては この《非経験の場》を かみと呼んでいる。
  (う) 人によっては このかみを 絶対という規定だけではなく それを擬人化して《絶対者》と呼ぶ。
  (え) この絶対者を さらには宇宙の創造主と表現する場合もある。

 ☆ もしそこで
 ★ だとすると〔* 人間であるナザレの〕イエスも私達も、その〔* 創造の〕意志と意図の中の存在だといえますか?
 ☆ という問いだけに絞って答えるとすればそれは 創造主のもとにあるという意味で 言えますとなります。

 となりますが この問い求めは あまり意味がありません。と質問者は考えます。はじめの想定にもとづきそこから定義を派生させて その上で考えてみた事柄であるに過ぎないと思うからです。

 (4) ★ つまり私達も、或いは一定の意識境地においては(なれば)、同じ事が言えるのではないかとおもいませんですか。
 ☆ これは わたしの解釈によると われわれふつうの人間も イエスと同じことがらを語ることができる という意味なのでしょうか? 
 すなわち 誰れでも人間は 《わたしは 神である》と言えるという意味でしょうか?
 それは無理でしょう。(3)に述べた定義に従うならば 無理です。人間は 有限な存在であって 無限ではなく 言うまでもなく絶対ではありませんから。

 仮りにわれわれ人間も――けっきょくイエス・キリストが言ったように―― 永遠の生命が得られるとしたときには どうか? おそらくそれは――まったく突飛な仮定ですが―― 人間としてそのように生かされてあるといったことではないかと考えます。つまりは 人と神とのあいだには 絶対的な隔たりがある。こう思います。

投稿日時 - 2012-02-20 16:02:43

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 情報交換つまりわたしの言葉で対話をお望みなのでしょうか?
 それとも 投稿した回答を読んで欲しいということなのでしょうか?

 後者で理解しましたと答えると 対話が始まるのですね。

 わけ分かりません。




 ★ 以下の事については私は何かを申し上げる立場におりません。
 ☆ この意味が分かりません。分かりますが その意味は 人間のなすコトではないので 受けつけません。


 あとは
 ★ イエスは嘘をついていない。イエスは錯覚もしていないし、まちがってもいません。と私は思います。
 ☆ というところでしょうか お応えすべきところは。
 つまり わたしが《イエスは大嘘をついた》と イエスもしくは聖書にけちをつけたことは けしからんという方向でのご回答でしょうか?
 
    けしからんという言い回しを用いましたが だから わたしに
   けちをつけているというようなたことを言うためではありません。
    聞き流してください。表現のあやです。



 さてあらためて 《わたしは キリスト(メシア)である》とイエスが言ったことについて 
 ★ イエスは嘘をついていない。イエスは錯覚もしていないし、まちがってもいません。と私は思います。
 ☆ というご回答だと受け止めてご返答もうしあげます。

 つまりまづ《人間が神である》といったことは 証明のしようがありません。ふつうは 信じられないという反応が返って来るということも ふつう一般であると思います。
  そこで 検証しえないことを言ったのだから これを《大嘘をついた》と表現してみた。こういうことです。これだけのことです。そうして その内実については 趣旨説明において るる説明しています。

 証明のしようがないことですから 
 ★ まちがっているかどうか
 ☆ は 人間には分かりません。

 ★ 錯覚をしているかどうか
 ☆ は していないでしょう。なぜなら その言ったことについて――弟子たちの証言によれば・つまり聖書の伝えるところによれば―― これまた証明をすることがむつかしい《信仰》の問題としてなのですが イエスの語っていたとおりだったと その死後に言わばその言葉が成就した。ということに関する限りでは 《錯覚している》とは言えないでしょう。

 ★ ウソをついているかどうか
 ☆ これについて 趣旨説明欄でたたき台としての考え方を提出しています。
 
 その主旨は こうです。たとえウソをついていたとしても・それが大嘘であったとしても 十字架上に去って行ったというそのあり方においては まさしく必要で肝心要のウソであったと言わねばならないのではないか? というものです。

 たとえ《大嘘をついた》という場合においても そういう謂わば去ったあとのからくりが用意されていた。
 言いかえると 弟子たちは・つまり弟子たちでさえ イエスの生前においては イエスが《自分はキリストである》と言っていたことの意味が分からなかった。去って行ったあとに ようやく分かった。しかも イエスは《わたしが去らなければ おまえたちに神からの聖霊が贈られてくることはない》とも言っていた。

 こういう事情であったのであり 言うなればこういうからくりが あったのだとやっと分かった。

 このたたき台としての内容について みなさんから ご見解をつのっているというのが この質問です。


 ★ 以下の事については私は何かを申し上げる立場におりません。
 ☆ この発言は 人間のなす行為ではありません。すみやかに撤回してください。

投稿日時 - 2012-02-20 16:51:18

ANo.9

私は普通の人の心算でしたが、失礼でしたらおわびします。

投稿日時 - 2012-02-20 15:36:52

お礼

 つづいてのご投稿です。

 ということは わたしの回答を読んでくれといったご投稿だったと理解しておきます。

 そこまでのこととして 受け取ってくれという意味なのだと。

投稿日時 - 2012-02-20 15:49:07

ANo.8

《言った》とは書かないで 《大嘘をついた》と書いています。それゆえ 
 ★ 間違いだの 錯覚だの なんだの
 ☆ とけちをつけている格好だと言えば言えますね。
けちなどつけていないですよ。
単に《大嘘をついた》というフレーズを思い出さなかっただけですよ。
そしてこの《大嘘をついた》という過激なフレーズに心理的につらい思いがして、私の心と脳髄を封印していたのでしょうね。
けちをつける理由も利益も、目的も、そして動機もありはしなことはブラジェンヌさんがよくご存じでしょう。

投稿日時 - 2012-02-20 14:14:54

お礼

 つづいてです。

 ☆☆ けちをつけている
 ☆ というのは わたしが イエスないし聖書に対してという意味です。

投稿日時 - 2012-02-20 14:44:30

ANo.7

ANo.6

いつもに変わらず詳細なご対応に痛み入ります。
愚老はANo.6に書いた以上の何も、その後、敷衍するものを持ち合わせておりませんで、長い文章を読解することも心身的に限界です。
どうぞANo.6の事からご理解くだされば幸甚です。
私はクリスチャンでもなく、神学の勉強もしていない単なるdevoteeでしかありません。

投稿日時 - 2012-02-20 14:10:33

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 あまり褒めたおこないだとは見受けることのむつかしいご投稿でした。

 たとえば 《イエスは ほんとうに自分が神だと言った》と聖書のくだりを参照して分かったなら その点了解したよと返すのが ふつうの人でしょう。

投稿日時 - 2012-02-20 14:47:01

ANo.6

bragelonneさん、相変わらずご活躍ですね。
皆さんのご回答を精読しないで回答すると、またお叱りになるでしょうが。
ちょいとご参考のご質問がありますので、ご紹介します。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1381871048
あぁまだ、一人の回答者ですね。そこにこのbainiao56さんの質問にまとめて回答していますね。

イエスが神だといった。
bragelonneさんは聖書に詳しい方なんですね。
それでもこのことがご疑問なんですね。
私は単純ですから。
前提を以って語る事は哲学では慎重であるべきですね。
もしこの宇宙がなってできてきたのでなく、創造されてきたのなら、創造の意志と意図がありますね。
そしてその意志と意図はどこに創造したか、何処とかなんとかは創造後の観念であれば、それは或いは創造の意図と意志の中に持ったことになるのかも知れませんね。
だとするとイエスも私達も、その意志と意図の中の存在だといえますか?
そうだとすれば、イエスが神だといった事を間違いだの錯覚だの、なんだのとはいえないかもしれませんね。
つまり私達も、或いは一定の意識境地においては(なれば)、同じ事が言えるのではないかとおもいませんですか。

そういうことを、ご紹介のhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1381871048
では回答していると存じますよ。

投稿日時 - 2012-02-20 08:49:50

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 (1) ★ イエスが神だといった。・・・それでもこのことがご疑問なんですね。
 ☆ 《イエスなる人間は 自分が神だと言った》については 次の聖書のくだりを参照してください。

 ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 
   * 16:16に ペトロの言葉として《生ける神の子》があり 
    イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えてい
    る。
     《メシア(マッシーアハ)》は ギリシャ語で《クリスト
    ス(キリスト)》と訳されて使われています。次の引用文を
    参照。

 ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~
 〔* サマリアの〕女が言った。

  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知って
  います。
   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてく
  ださいます。」

 イエスは言われた。
 
  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。

  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 ピリポが

  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

 と言うと、イエスは言われた。

  「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
  のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
  お示しください』と言うのか。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
  のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
  い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
  のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
  さい。
   はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
  また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
  である。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
  父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
  げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 (2) ★ イエスが神だといった事を間違いだの錯覚だの、なんだのとはいえないかもしれませんね。
 ☆ このうたがいについては まづ確かに質問者は 《言った》とは書かないで 《大嘘をついた》と書いています。それゆえ 
 ★ 間違いだの 錯覚だの なんだの
 ☆ とけちをつけている格好だと言えば言えますね。

 全体としては どうでしょう? つまり 趣旨説明の全体です。《大嘘をついた》ことが 煮詰めて言ってしまえば まさに生きていると言っていると読めませんか? その意味では《間違い・錯覚》と言うのと《大嘘をついた》と言うのとは 違って来ます。


 (3) ★ だとするとイエスも私達も、その〔* 創造の〕意志と意図の中の存在だといえますか?
 ☆ これについては 分かりません。
 分からないという意味は 哲学としては 神を次のように規定して用いているからです。
  (あ) この世の経験世界に対して それを超える非経験の場があると想定する。これは 絶対であり 無限である。
  (い) じんるいの歴史においては この《非経験の場》を かみと呼んでいる。
  (う) 人によっては このかみを 絶対という規定だけではなく それを擬人化して《絶対者》と呼ぶ。
  (え) この絶対者を さらには宇宙の創造主と表現する場合もある。

 ☆ もしそこで
 ★ だとすると〔* 人間であるナザレの〕イエスも私達も、その〔* 創造の〕意志と意図の中の存在だといえますか?
 ☆ という問いだけに絞って答えるとすればそれは 創造主のもとにあるという意味で 言えますとなります。

 となりますが この問い求めは あまり意味がありません。と質問者は考えます。はじめの想定にもとづきそこから定義を派生させて その上で考えてみた事柄であるに過ぎないと思うからです。

 (4) ★ つまり私達も、或いは一定の意識境地においては(なれば)、同じ事が言えるのではないかとおもいませんですか。
 ☆ これは わたしの解釈によると われわれふつうの人間も イエスと同じことがらを語ることができる という意味なのでしょうか? 
 すなわち 誰れでも人間は 《わたしは 神である》と言えるという意味でしょうか?
 それは無理でしょう。(3)に述べた定義に従うならば 無理です。人間は 有限な存在であって 無限ではなく 言うまでもなく絶対ではありませんから。

 仮りにわれわれ人間も――けっきょくイエス・キリストが言ったように―― 永遠の生命が得られるとしたときには どうか? おそらくそれは――まったく突飛な仮定ですが―― 人間としてそのように生かされてあるといったことではないかと考えます。つまりは 人と神とのあいだには 絶対的な隔たりがある。こう思います。

投稿日時 - 2012-02-20 12:01:35

ANo.5

確かイエスと呼ばれている彼は、「神とは人間のことである」と言っていたそうですが、すべての聖書から削除されている言葉だと聞いています。

投稿日時 - 2012-02-19 23:55:45

お礼

 えるどさん こんばんは。

 ううーん。
 ★ 削除されている言葉
 ☆ つまり《削除された》という事実が分かっているのでしょうか? それが
 ★〔* 編集しました。( a ):〕 イエスは 《神とは人間のことである》と言った
 ☆ なのですね。

 むろんいまの聖書の四つの福音書のほかにも いくつも福音書が書かれたことは 史実だと聞いています。
 おもに異端として葬り去られたようです。それでも残っているものもあって それらについても研究がおこなわれている。

 もし( a )のような命題であったとすれば いまの聖書の記事とはまったく違うと言わねばなりません。
 (《神々》という言葉で それらは人間でもあるといった意味合いのことを イエスが言っていたことはあったと いま思い出しましたが 《神》とはということでしたら やはり根本的に違う命題であると思います)。

 そうしますと どうなりましょうか?

 その( a )の記事に信頼を置くということでしょうか?

 となれば 信仰個条がまったく違いますので この質問をめぐっては ご回答とするには それ以前の互いの出発点を同じものとせねば話は始まらない。こうなるようです。


 ううーん。どうしましょう。とても無理のようですね。



 ともかく
 ○ 神も人間も 人間である。
 ☆ こういう見方があるというご指摘として承っておくことにしましょうか。よろしいでしょうか。
 

投稿日時 - 2012-02-20 00:10:54

ANo.4

もう一度だけ、回答します。
 (マタイによる福音 16:20) ~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

とあるなら,どうして弟子達は現在に至まで,イエスをメシア・キリストだと吹聴するのでしょうか?
そういわなければ,誰にも耳を貸してもらえない。と考えたとしか思えません。
そんな弟子達の言葉に正当性があるとも思えません。

神のような大きな存在があれば,気が楽になる所もあるので,そのような存在がいたら面白いだろうとは,思いますけどね。
1つの教義に縛られたら,もう,神ではないでしょう。
人の意見を複数解釈して,自分の都合のいいように話を持って行きたがる人物は,大嫌いです。

投稿日時 - 2012-02-19 16:59:38

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 1つの教義に縛られたら,もう,神ではないでしょう。
 ☆ これは 次のように述べた内容と一致していると考えます。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
  (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?
 ~~~~~~~~~~~~~


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (マタイによる福音 16:20) ~~~~~~~
  それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 とあるなら,どうして弟子達は現在に至まで,イエスをメシア・キリストだと吹聴するのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ひとつに弟子たちあるいは聖書記者たちは――かれらなりの仕方で―― イエスの語った話や行動をできるだけ忠実にしるしておこうとしたということだと見ます。
 もうひとつに とは言うものの 《誰れにも話さないように》と言われていることまで しゃべってしまったのか? という疑いが出るということのようですが これは はっきりしています。
 
 なぜかと言えば 生前にすでにイエスは 自分がキリスト(メシア)であり神であると言っていたのだけれども 弟子たちでさえ ついぞイエスが十字架上に去ったあとでなければ そのイエスの語ったことの意味が分からなかった。つまり 言いかえると イエスが去ってしまったあとになって 弟子たちはイエスが生前に言っていたことが ほんとうだったと やっと気づいた。それで そのことを 最初は人びとに《吹聴》していましたし 時間が経ってからは 文書にも残しておこうという話になって これを書き残した。つまり できるだけ忠実に 必要なことだと思うことは何もかも 書き記した。――こういうことだと考えます。

 たとえば イエス自身が 自分が去って行かなければ 神の聖霊は きみたちにやって来ないという意味のことを言っています。そのとおりに 死を死んだあとやっと 弟子たちの眼は開かれた。という事情です。
 つまり イエスの大嘘が 少なくとも弟子たちには ウソでなかった。つまり 雲をつかむような話なのですが それでも 弟子たちは 十字架上に――と言っても その光景を実際に見ていたのは ほとんどいませんが――イエスを見送ったあとやっと 聖霊が贈られて 背筋が伸び あらためてイエスを《吹聴》し始めた。こういう事情です。

 弟子たちも 何が何だか分からなかったかも知れません。
 ★ そんな弟子達の言葉に正当性があるとも思えません。
 ☆ 正当性があるかどうか あるいは 科学的に根拠があるかどうか こういう話ではなく そうではなくて 弟子たちは 悲しみの中から 起き上がって来てしまった。生前と同じように《吹聴》する意志と力とがあたえられた。ただそれだけのことです。正当性は 言ってみれば どうでもよい。こういう事情です。表現の自由にもとづくかぎりで 《布教》ないし《宣教》をおこないました。



 ★ 人の意見を複数解釈して,自分の都合のいいように話を持って行きたがる人物は,大嫌いです。
 ☆ これほど誠実に解釈をしてお応えしているのに ただただレッテルを貼って おしまいとするような人物は むなくそわるいです。

投稿日時 - 2012-02-19 17:39:17

ANo.2

kを除く問は,考えるだけ時間の無駄。キリストが自らを,神だと言ったとは到底思えない。
kにしても,イエスがキリストだと、母体であるユダヤ教徒は認めていない。
キリスト教徒だけが,イエスをキリストだと規定している。
神は,人の思考から生み出された物なので,人間の思考以外に居場所は無い。
知識体系に治まっているから,キリスト教は容認されている。

投稿日時 - 2012-02-19 15:34:27

お礼

 すきっぷまんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。神観と言いましょうか 神は何であるか・あるいは神は何でないかについて まるっきり違うご見解であるようです。

   まづ 【Q:神は 何でないか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7295152.html
  という質問を挙げていますが そこでは 

   ○ 神は 人間の精神ではない。

  という命題をかかげています。もし精神であるなら おっしゃ
  るように 精神が神であり 人間が神であるとなります。すな
  わち 神とは人間の思考や想像によってこしらえられたもので
  あるとなります。

 すなわち
 ★ 神は,人の思考から生み出された物なので,人間の思考以外に居場所は無い。
 ☆ けれどもこれなら たとえばわざわざ――《考える》で済ますのではなく それとは別に―― 《信じる》という言葉を持ち出す意味がなくなりましょう。
 すなわち

   ○ 経験世界のほかに 非経験の場を想定しこれを 神とよぶ。
   ○ 神に対しては それを信じるのであって 考えるとは言わない。
   ○ つまりは 経験世界のものごとについては 考えるのだ。
   ○ 信じる(信仰)とは 非経験の場が わが心に《非思考の庭》として成ることだ。
   ○ 非経験の場(つまり 神)をわが心で受け容れること これが 信仰である。


 ★ 知識体系に治まっているから,キリスト教は容認されている。
 ☆ 個人のキリスト信仰は 組織宗教としてのキリスト教とは別だという捉え方です。《教義》をむしろあたかも神のごとくあつかっているとするなら それは神が《知識体系におさまっている》となるでしょう。

 教義とは 信じる人がそのヒラメキにおいて観想(テオーリア)をあたえられ これを理論(テオリ)として人間の言葉で表わす。つまり 聖書もそうだと見ているのですが そのような・すでに概念化され思考の対象となった観念体系が 教義ですから これは どう見ても神ではなく 信じるべきものではありません。



 ★ キリスト教徒だけが,イエスをキリストだと規定している。
 ☆ 人間イエスが 神の子でありみづからも神であるキリストだという規定を否定するということには ふたつの場合があります。
 ひとつは 良心・信教の自由にもとづき このキリスト信仰を摂らないという判断ないし選択のことです。
 もうひとつは イエス・キリストがこれこれのことを語ったという・人間の言葉での説明 これに否定的な見解を持つ場合です。
 後者のばあいには 基本的に言って 人間の言葉で述べているわけですから――思考の対象としてあるわけですから それに応じて―― 賛成反対いづれの場合にも その哲学の命題について哲学として批評し批判しなければならない。こうなるはずです。

 ですから 《キリスト信仰の徒だけが キリスト・イエスを受け容れている》という判断は 前者の場合にはそのままで通用しますが 後者の場合には――つまり この質問の場合には―― 当てはまりません。いえ むろん ご見解としてはそれでよいのですが 理由を示さないと 回答にはなりません。


 ★ キリストが自らを,神だと言ったとは到底思えない。
 ☆ これについては 回答No.1へのお礼欄でわたしが書き示したところを参照なさってください。

 ★ kにしても,イエスがキリストだと、母体であるユダヤ教徒は認めていない。
 ☆ これについては すでにお応えし終えていると思います。

 どうでしょう。

投稿日時 - 2012-02-19 16:19:26

ANo.1

神ではなく預言者では?

投稿日時 - 2012-02-19 15:23:23

お礼

 しろあまさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 預言者
 ☆ は 洗礼者ヨハネが 最後です。

 イエスは キリストと呼ばれる神の子であり みづからも神であるという聖書のくだりを示します。

 ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 
   * 16:16に ペトロの言葉として《生ける神の子》があり 
    イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えてい
    る。
     《メシア(マッシーアハ)》は ギリシャ語で《クリスト
    ス(キリスト)》と訳されて使われています。次の引用文を
    参照。

 ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~
 〔* サマリアの〕女が言った。

  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知って
  います。
   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてく
  ださいます。」

 イエスは言われた。
 
  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。

  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 ピリポが

  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

 と言うと、イエスは言われた。

  「ピリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
  のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
  お示しください』と言うのか。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
  のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
  い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
  のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
  さい。
   はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
  また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
  である。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
  父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
  げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 どうでしょう?

投稿日時 - 2012-02-19 15:33:23

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