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解決済みの質問

自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。

 つまり

 (α) われわれ日本人のあたまは あまりにも《観念》が巣食っているのではないか? そうだとしたら なぜそうか?

 これが 問いです。

 この問題を捉えるに当たっては 聖徳太子の事例を取り上げるのがよいと思われます。
 
 (β) 特に《さとり》の主題については これをどこまでも《精神 ないし 精神主義》において捉えるという傾向があり それは 聖徳太子の次の命題に現われている。のではないか?

  【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html

 あるいは この傾向は 言わずと知れた《神》観にも現われます。

 (β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。そうならば 人間が神であるとなる。
 (β‐2) 《キリスト教を信じる》だの 《宗教を信じる》だのという勘違い。教義は 思考の対象であり 信じるのは 非思考の問題である。

 (γ) 《主権在民= スサノヲ市民主権》についての勘違い。つまりはこの現実が ぎゃくに《精神上の問題》だと見なされ その主権問題は ただの観念に過ぎないと思われている。

 (γ‐1) 《和を以って貴しと為す》と言うけれど この和の実態はあくまで スサノヲ市民社会・つまり二階建てから成る国家の第一階における生活現実にもとづいている。それを勘違いしている。→(γ‐6)

 (γ‐2) 【Q:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6633903.html

 というように ウマヤドノトヨトミミがこの条文をしるしたのは あくまで 仏教の輸入について是か非かを問うて 崇仏派と排仏派とに分かれて殺し合いをおこなった結果 権力をにぎったあとである。

  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~
  一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
 しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 (γ‐3) つまりは  《上と下 すなわち アマテラス圏とスサノヲ圏との睦び合い》としての《和》も  遠くは あくまで S 圏が A 圏に《くにゆづり》をしたあとの段階で言っている。

 (γ‐4) つまりは ウマヤドさんは よっしゃこれでわれらが権力は安泰である どうだ 文句あるか? と言っているに過ぎない。

  ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。

 (γ‐5) そのためにこそ 《世間虚仮 唯仏是真》として 人びとのあたまを《観念》で覆おうとした。観念を巣食わせようとした。これが うまく行ったのである。大成功!!

 (γ‐6) 自分じしんは 《和を以って貴し》としなかった。成し得なかった。そのあと あくまでスサノヲ市民社会のありさまとしての《和》をパクって 条文に掲げたのである。スサノヲ市民どうしは けんかをするほど互いに仲が良かった。《和》そのものであった。ウマヤド氏は うらやましかった。ゆえに頭をひねって考えた。

 (γ‐7) そのアマテラス・マジックが どんぴしゃり うまく行った。この観念の手品が あたかも千数百年ものあいだトラウマのごとくにか あるいは白雲境のごとくにか 人びとのおつむに作用して来ている。

 (δ) ゆえにそののち遠く西のほうから渡って来たところのたとえば自我なる概念 この《自我》も ただ《わたし das Ich 》と言っているに過ぎないのに 何か高尚な観念でもあるかのように後生大事にいだかれている。

 (ε) このような大いなる《観念》――あるいは 観念の繭――の中で たとえば《自律せよ》などというまぼろしの哲学が 声高に言われている。

 (ε‐1) 経済的に自立せよというのなら まだ分かる。自律・他律などというのは せいぜいが 共同律・社会律に人びとが参加するというほどのことしか言えないはずなのだ。
 (ε‐2) それは 《自由 ないし 自由意志》の問題なのだから。たとえシガラミから自由になったとしても 社会は相手のいることだから 相互自律として成るしかないはずだ。
 (ε‐3) それを 声高に《自律》と言って なおも観念の繭の中に居続ける。くだらん。まぼろしのアマテラス語(その訛った方言)で カッコウをつけて言えばいいとでも思っている。

 (ζ) ・・・(つまり観念があたまに巣食うのは ほかにも 原因があるかも知れません)。


 以上 日本のルネサンスがかかっているかと思われますが どの事柄でもいいですから ご教示をお願いします。質問者からもツッコミを入れると思いますが まなんでまいります。

投稿日時 - 2012-03-09 23:24:38

QNo.7352913

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

(β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。
そうならば 人間が神であるとなる。
       ↑
神道では、人間も神になれますから、勘違いではありません。
人間どころか、旧い下駄や動物さえ神になれます。
トイレにも神様がいます。

投稿日時 - 2012-03-10 09:02:37

補足

 ★ 神道では、人間も神になれますから、勘違いではありません。
 ☆ この《神道》そのものについて お礼欄ではきちんと述べて反証していなかったので これを述べます。
 
 すでに投稿した文章ですが 次のように考えます。超経験ないし非経験としての神が きちんと――行間にと言いますか 語の奥に――望まれて(遠くに眺められて)いると考えます。つまり 神は 人ではない。というのが 骨子です。

   *

 日本人の信仰――かんながらのみち――は オホタタネコを市民の代表とし 市民からの推挙を受けて立った崇神ミマキイリヒコイニヱを市長としたミワ(三輪)市政に始まると考えます。崇神ミマキイリヒコが いわゆるハツクニシラシシスメラミコト(初代指導者)として伝えられているところからです。紀元300年ごろ 奈良・三輪山付近のことだと捉えます。

 このときにこそ 次のような社会における人びとののぞみに満ちた動きが見られたのではないでしょうか。
 ▲ (十七条の憲法 第一条) ~~~
 ・・・上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ むろんこの憲法は ずっとのちのことですから わざとここに持って来たというだけですが したがってその生活現実のことを言います。
 というのも 崇神ミマキイリヒコは おそらく市長(または むらおさ)であって 社会はまだ二階建ての構造にはなっていなかったと考えられるからです。つまりお二階さんという意味での《お上》ではなかった。ですから ここでは市長と市民としての《上下》のことです。

 そのときの歴史的人間および歴史的社会にもとづき 《シントウの原形またその確立》について 次のように考えます。




 § 《ネコ‐ヒコ》連関と《イリ》なる歴史知性の誕生

 三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。
 そうしてある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めた。祟りという認識でしたから 祀れば(オホタタネコをして オホモノヌシのカミを祀らしめれば) 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシについての記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。

 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子であり 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。
 これは――つまり ネコとヒコとは――

  ○ 一人の人の身体と精神とに当てはめられるでしょうし 

  あるいは 

  ○ 市民政府として 市民一般と 市長および公務員とに
   やはり当てはめて捉えてもよい

 と思います。つまり ここでひとつの社会形態としても 確立したかたちを採り始めたと考えられます。

 すなわち この《ネコ‐ヒコ》連関は そのような内容をもって――つまり ひとりの人間存在が《身体‐精神の連関体》であること また《市民‐公民の連関関係を みづからの存在にそなえていること》 こういった内容をもって―― 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。世界にイリしたという意味です。《世界‐内‐存在 In-der-Welt-Sein 》。
 崇神(いわゆる天皇としては 第十代なのですが。そして ちなみに スジンと読みます。その)ミマキイリヒコイニヱの《イリ》であり《ヒコ》であります。
 歴史知性というのは あらためて言って 人のきよらかな自然本性にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。あるいは 目の前の現実の世界にそのまま――理屈抜きに もののあはれなる境地のもとに――《入り》してもよいと考えます。
 よって イリ‐ヒコ イリ‐ヒメ。あるいは ネコ(根子)。タタは 田田もしくは 鉄をつくるときの蹈鞴(たたら)のタタかとも言われています。


 その以前では イクタマヨリヒメというように《ヨリ(寄り・憑依)》の知性だったわけです。
 アニミスムないしシャーマニスム(たとえば 卑弥呼を想え。つまりそれは 崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀の出来事である)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。原始心性とも言います。これも シントウの原始的なかたちだろうと思われます。その《何ごと》は 《かみ》と呼ばれたのですから。

 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(時間的な・相対的な)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活 そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに(つまり現代人ともあたかも同じように) 営まれていくと言えます。(潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。




 かんたんですが この記述をもって 神道の神学の出発点と考えます。その心は 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトも いかにスメラミコトと言えども カミ(オホモノヌシ=ヒトコトヌシなるカミ)ではないということだと思いますが いかがでしょう。



 ○ (モノとコト e = mc^2 ) ~~~~~~~~

 モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主)
 コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主)
  ↓        ↓            ↓
 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・かみ

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 世界に《イリ》した知性なる人間の その世界における位置づけが重要だと考えます。
 《ひと》と《かみ》との間のへだたり および 近しさ このことが重要ではないかと。
 スメラミコトも 仮りに現われた仮りの存在としてカミと呼ぶことはあっても(ほんとうは ないはずですが) カミなのではないということ。
 もしそうでなくなるとすれば それは 別様の神学になるだろうと捉えます。
 いかに多くのカミガミが現われても それらはすべて《オホモノヌシ=ヒトコトヌシ》としての唯一なるカミのもとにまとまっている。その仮りの分身である。こう捉えます。



 ゆえに 神道が 特殊な《神》観を持つとは見ません。どうでしょう?
 持ち得たと言いたいのかも知れませんが 一時的狂気の時代でしょう。でも日本人は ばかではありませんで そういう狂気におつきあいし 現人神というクウキを信じる振りをしていただけだと考えます。ほんとうに信じていると思われるほど 真に迫っていました。終戦になってあるいは民主制になって けろっと変わりました。もとのイリ歴史知性に戻りました。
 あとは 言葉の両義性・多義性のもんだいだけです。

投稿日時 - 2012-03-10 12:44:24

お礼

 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 広く言葉の遣い方を見てみれば おっしゃるとおりですね。

 問題は 端的に言えば

  ○ 《付喪神や 厠の神を信じる》と言うか? それは 一般的であるか?

 という点に帰着するのではありませんか?

 ★ 旧い下駄や動物さえ神になれます。
 ☆ というときには おそらくそこまでの《何ものか超自然で超経験的なナゾ――つまりけっきょくは神――に対するわれわれ人間のいだく きよらかなおそれ》のことを示唆しているし その心や思いを表わそうとした言葉のナラワシなのではないでしょうか?

 ★ 人間も神になれます。
 ☆ この場合は どうでしょう? もし誰れでも成れるのなら けっきょく神という言葉すら要らなくなるのではありませんか?
 たしかに その昔つまり大昔には 人間を分けて 天つ神と国つ神とがいるとされました。(ほかに よそ者の神としての人間がいましたか)。みんな 神です。(あるいは 天と国とにも分類されないアウトカーストがいたかも知れませんが)。
 ですが 現代において そういう言葉の遣い方は 通用しましょうか?

 ★ トイレにも神様がいます。
 ☆ だとしても はっきりわたしたちは 区別して使っているのではありませんか? どうでしょう?

投稿日時 - 2012-03-10 09:15:21

ANo.1

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回答(7)

ANo.7

bragelonneさん、こんばんは


>「質問者からもツッコミを入れる」

ありがとうございます。

投稿日時 - 2012-03-13 19:27:34

お礼

 こんばんは。くりなるさん。

 自信がある場合は そういう気持ちでいます。

 そうでない場合は ぎゃくにと言いますか 同じですが どこまでも理解したくてしつこく食い下がります。そういう意味でのツッコミを入れます。

 けっきょく 批判やツッコミとしてのけんかを 自由に対等にたのしくすすめて行けばよいのではないかとも考えます。
 
 では。

投稿日時 - 2012-03-13 22:03:42

ANo.6

bragelonneさん、ありがとうごさいます。


>「まちがいがあれば、きちんと叱る」

・・・よろしくお願いいたします。


>「(大人たちの)成してよいこと」

よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2012-03-13 17:16:50

お礼

 いえいえ。もっと教育学やらの用語で学術的に書かなければならないかも分かりません。そこまでは勉強していませんで そんなところです。

 くりなるさん ご返事をありがとうございます。

 
 何ごとも試行錯誤でやって来ました。

 こちらこそ これからも よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2012-03-13 18:53:34

ANo.5

bragelonneさん、こんにちは、「女性のおしゃべり」みたいになってしまって、すみませんね。


「教育、教育、教育」

「教育」とは「おしえ、はぐくむこと」と読めるわけですが、

それは
「やってみせる、やらせてみる、できたらほめる」
ということと思います。


・・・上記では、「日本のルネサンス」には、不十分でしょうか

投稿日時 - 2012-03-13 13:50:54

お礼

 くりなるさん こんにちは。
 ★ 「日本のルネサンス」
 ☆ に触れてくださったのは あなたが初めてです。これは うれしいです。ご回答をありがとうございます。
 
 そうですね。万葉集のうたは―― 一万ではなく四千五百首ほどですが―― 過半数は無名の人が詠んだものです。
 千三百年ほどのちのこんにち 復興を期にルネサンスと行きたいものです。それも あなたとわたしとで この OKWave からとまいりたいものです。

 ★ ~~~
 それ(《教育》)は
 「やってみせる、やらせてみる、できたらほめる」
 ということと思います。
 ~~~~~~

 ★ やってみせる
 ☆ がいちばん大事だとわたしは思います。あるいは別に見せなくとも ふつうにやっているということ。それを確かに子どもたちは見るでしょうから それが いちばん先に来るとわたしも思います。ではないでしょうか?

 ★ ほめる
 ☆ ことも そうするとよいと よく言われます。ほんとうだと思います。あとは 少々くどいこととしては 《その子どもの存在を大事にし その考えや振る舞いで まちがいがあれば きちんと叱る》ことも つけ添えたいとは思いますが どうでしょう?



 あと そうですね。やはり《子ども》は 大人とは違うと考えられます。その意志自由についてまだよく分からない。したがって責任を持つことにまだまだきちんとした態度は取れないかと思われます。とすると 言葉はわるいですが 発展途上にあるのだと思われます。
 そうして そのゆえにも まちがいについては――その《子どもがそこにいるということ自体は どこまでも受け留め受け容れつつ愛しつつ》―― その子の身になって 叱ることも重要ではないかと 素人考えを持っています。

 そして 発展途上にある子どもということでは よく言われることがあります。それは 西欧の言葉で エデュケイトというとき 日本語の《おしえはぐくむ》とは違って 《引き(‐デュケ)出す(エ‐)》という意味を持っていることです。これは むろん子どもに自然本性としてそなわった能力をであるはずです。

 大人が大人から その能力を引き出すことすら 自然なかたちでなら特にスポーツだとか習い事だとかには あり得ます。まして子どもに対してなら この仕事は 大人の・つまりは教師や周りのわれわれ大人たちの成してよいことではないかと思います。

 これは ひとつの教訓を物語っていると思います。つまりは 教育において確かに《おしえる》のですが それは言わば子どもの白紙状態にいろんな知識を植えつけるのでは必ずしもなく そうではなく 知識はあたらしいものばかりであったとしても それを受け留め受け容れる能力つまり知恵は もともとすでに赤ちゃんのときから育んで来たものだと思われますから その知恵を引き出し 知識を得て行くチカラをも引き出して行く。自分で自分をおしえるかたちを引き出して行く。こうも考えます。

 どうでしょうか?

投稿日時 - 2012-03-13 16:46:24

ANo.4

bragelonneさん、こんばんは

「I am」ということと、
「It is」が違う、ということは、

それは違うでしょう。


でもね、bragelonneさん、それは悲観的過ぎるんじゃないかと思います。
戦後、何年経ってるんでしょうか。

「はやぶさ」は失敗したのでしょうか

投稿日時 - 2012-03-11 20:47:16

お礼

 ん?

 くりなるさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 「はやぶさ」は失敗したのでしょうか
 ☆ エンジンが四つとも故障したけれど 部分的に 動くものが残っていた。それらを合わせ技で活用して ふたたび動かした。失敗していない。

 ゆえに《自我》という翻訳語を使っていても やがてそれなりに普及しそれなりに使い勝手のよい概念になるかも。ということですか?


 たぶんならないでしょう。
 《自我は ぶらじゅろんぬと申します》とは言わないのであって もしこれが言うようになったとしたら ぎゃくにそれはただ《わたし》に代わる(あるいは 並行して用いるための)単語に過ぎなくなって 精神分析の用語ではなくなりましょう。
 だから どっちかです。何とも意味のあいまいな遣い方をしつづけるか。それとも その遣い方がなくなってしまうか。

 ですから これにかんしては
 ★ 悲観的過ぎるんじゃないか
 ☆ という観点は たぶん筋がちがいます。悲観楽観のもんだいではないと思いますよ。
 あいまいをつづけるかどうかです。

 ちがいますか?

投稿日時 - 2012-03-11 21:05:03

ANo.3

bragelonneさん、こんばんは


>「遠く西のほうから渡って来たところの」

「何処産か」、というのは、・・・モノの善し悪しを決定する際には、決定的な事由ではないと思います。

投稿日時 - 2012-03-11 19:10:12

お礼

 くりなるさん こんばんは。


 うん?

 ★ 「何処産か」、というのは、・・・モノの善し悪しを決定する際には、決定的な事由ではないと思います。
 ☆ それはそうですが わたしが言ったことは どうでしたか?・・・
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 (δ) ゆえにそののち遠く西のほうから渡って来たところのたとえば自我なる概念 この《自我》も ただ《わたし das Ich 》と言っているに過ぎないのに 何か高尚な観念でもあるかのように後生大事にいだかれている。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ つまり これは 日本人の受け容れ方がおかしいという物言いですよ。

 日本語で《自我》と訳されている元の言葉は 《 das Ich / ego 》であり これらは《わたし〔が〕》という意味の言葉です。つまり なぜわざわざこのようなことを言うかと言えば 日本語で《お名前は?》と訊かれて 《自我は ぶらじゅろんぬと申します》とは 言いません。つまり《わたしは》と言います。それと同じ言葉が 西欧語では用いられているのに なぜ日本語では 別の言葉にしたのか? その必要はないではないか? という物言いです。

 どうでしょう?


 もっとも確かにわたしは 《自我》を初めとして 《超自我》も《無意識》もそういった精神分析の用語もその学も認めていません。反対しています。それは ここでは出していないとは思いますが。

投稿日時 - 2012-03-11 20:08:58

ANo.2

”もし誰れでも成れるのなら けっきょく神という言葉すら
要らなくなるのではありませんか?”
   ↑
神道では、万物に魂が宿ると考えるでしょう。
そこには神、人間、動植物、無機物、ロボット・・
の間に基本的な違いは無いのではないでしょうか。

子供は誰でも大人になれます。
しかし、大人という言葉はやはり必要だと思います。


★ トイレにも神様がいます。
 ☆ だとしても はっきりわたしたちは 
区別して使っているのではありませんか? どうでしょう?
   ↑
区別、というのは神と神以外のモノとの区別のことでしょうか?
人間も神になれますが、それは一部の人間だけです。
人間=神 ではないのですから、その区別があっても
差し支えないと思いますが。
神、というとどうしてもキリストの神を想定してしまう
から違和感を感じるのではないですか。


※補足は難しすぎて、私には理解しかねます。
ごめんなさい。

投稿日時 - 2012-03-11 07:19:36

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 ( a ) 神道では、万物に魂が宿ると考えるでしょう。
 そこには神、人間、動植物、無機物、ロボット・・
 の間に基本的な違いは無いのではないでしょうか。

 ( b )子供は誰でも大人になれます。
 しかし、大人という言葉はやはり必要だと思います。
 ~~~~~
 ☆ このふたつの部分は 意味が互いに別ですよ!?
 ( a ) は だいたいにおいて いわゆる《仏性》のことでしょう。さもなければ 大昔の――縄文人の――《ヨリ(寄り憑く)》原始心性の名残りだと思われます。

 そのとき 《万物に魂が宿る》というその魂すなわち仏性が どういうかたちにおいてか 顕在したという場合を 《目覚めた(ブッダ)》というわけですから これの神道版が 《人も何もかも神に成れる》ということなはずです。

 つまりは 人間にしぼって考えるなら 人間が 仏性にめざめた・その意味で神である人間になったと言っているはずです。

 いいかえると これを( b )の論法に当てはめると・つまりは無理に当てはめてみても 

  ○ もともと《大人である要素を宿していた》子どもが 大人であるようになった。

 というくらいにしかならないでしょう。つまり 通りません。おかしいはずです。《子ども》と《大人》とは 一方から他方への継続性がありますが 概念として互いに別なのです。しかるに 《人間が神になる》という場合には 大きく概念は 《人間》というただひとつの存在であり それについてのみ言っています。つまり ブディズムの神道版においてはです。



 そうしますと
 ☆☆ ”もし誰れでも成れるのなら けっきょく神という言葉すら要らなくなるのではありませんか?”
 ☆ というわたしの反論の仕方は あまり有効ではなかったことにもなります。

 すなわち 後半へとつづきます。
 ★ ~~~
 人間も神になれますが、それは一部の人間だけです。
 人間=神 ではないのですから、その区別があっても
 差し支えないと思いますが。
 ~~~~~
 ☆ ということは どうなんでしょう? 《一部の人間》は 《人間=神》であると言うのか? それとも そのときにも 《人間 ≠ 神》ではあるが その一部の人間にあっては 特殊に《神に成った》ということなのか?

 でも おそらく後者だとしてもけっきょく それは《万物に仏性と呼ぶ魂が宿っていて それが言わば開花したなら ブッダと成ると意味を借りて言うところの 神となる》という前半の議論が ここでも活きているのではありませんか?
 もしあなたの言う意味での神道だけだとすれば 《かみ》はすでに初めから かみであったわけですから 少し・いや大幅に違います。言いかえると ただの寄り憑きとしての心性のことを言っていると考えられます。
 ですが 《理解しかねます》と言われてしまいましたが 神道はそのアニミズムだけではないのだという話を補足欄にて述べました。それによれば ブディズムの《ブッダになる》という思想も それを概念上の類型としては すでに神道そのものにおいて持ち得ていた。こうなると見ます。


 よって 当面の結論としましては こうです。

 1. 神という言葉は 両義性ないし多義性を帯びている。

 2. 自然現象および人間的自然(感性および理性)あるいは人間の織り成すさまざまな社会現象 これらすべてに理屈無しで《寄り憑く》原始心性が その何かに経験世界を超えた要素(チカラ)をも見たとしたなら その要素を《かみ》と呼んだ。この《かみ》が 歴史的にまづ先にあった。
 ただしこれはまた 要素だけではなくその要素を持つ事物あるいは人間という存在にまで拡大して その《かみ》という言葉をあてはめて用いていた。

 3. ブディズムの影響によって この《要素としてのカミ》を 仏性と見た。ないしは 《たましい》と見た。したがって 万物に魂ないし仏性あるいはカミが宿ると捉えた。

 4. カミの場合は もともと初めにカミがあった。つまりは オホモノヌシのカミだとか ヒトコトヌシのカミであるとか もともとカミであるものが先行してあった。


   * オホモノヌシは ナガモノ(長物)と言うように じつは 
   ヘビです。仮りの姿として ヘビを捉えてそう名づけたようで
   す。
     あるいはヒトコトヌシは 次のように紹介されています。
   ヒトコトヌシ(一言主)のカミが カミでありつつ現実の姿に
   なったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もした
   というそのくだりに出て来ます。そのとき一言主の神は こう
   名乗ったという。

    《あ(吾)は
     悪事(まがごと)も一言
     善事(よごと)も一言
     言離(ことさか・言い放つ)の神
     葛城の一言主の大神ぞ》
          (古事記)

    そこには 雄略ワカタケルの言ったこととして 《カミさん
    が まさか現実の人間の姿で現われるとは思わなかった》と
    もあります。
     つまり その場合は たしかに《ヒトとカミとは 別だ》
    という認識があります。そういう認識もあったようです。

 5. あとは 西洋の神学ないし論理の影響を受けた結果としての《神》観が現われました。
 これは 想定上のものだと捉えるのが いちばん経験合理性にかなう見方だと思います。《絶対》ないし《無限》という概念を当てるかたちです。
 言いかえると 《非経験》です。
  ★ 神、というとどうしてもキリストの神を想定してしまうから違和感を感じるのではないですか。
  ☆ と受け止められている場合のそれです。

 6. でも たとえば(2)の《寄り憑く》原始心性にとってのアニミズムにおいてさえ 要素として捉えているのは むしろ超自然的なチカラのようなものではないかと見られます。つまり 《非経験の神》とそうは違わない。
 また(4)のオホモノヌシのカミにしても 仮りの姿(偶像)はヘビですが その奥にまで人びとの心の眼は行き届いている。ヒトコトヌシのカミの事例に見ても 実際の事象と目に見えないチカラとは分けて捉えられている。つまりは 《キリストの神》と別段違っていません。

 7. 言いかえると要するに 神は 経験世界における存在や事象について仮りに当てはめて用いる場合と そうではなく非経験の領域ないしチカラのことを そもそも言う場合との両義が 構造的に成り立っている。というのが 無難な解釈になりましょうか?

 8. ですから 次のような命題にして捉えても 神道の中身に相反すると見ることもない。こう考えます。

  ☆☆(趣旨説明欄) (β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。そうならば 人間が神であるとなる。


 どうでしょう?

  
 
 

投稿日時 - 2012-03-11 08:37:24

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