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マ(間・間合い)の理論  (つづき)

 マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。また うまいマの取り方を求めます。

 (α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。

 (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。

 (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。

 (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?

 (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。

 (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。
 人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。

 (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?


 (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?
 
 (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?

 (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?

 (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?

 (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?


 (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか? 
 (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?

 (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?

 (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。

  ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~
   鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。

       〔* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で
       鎮静の逆のことのようです。ただし それも しづめる
       ためにそうするのだということのようです〕。

  〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。

  間はただのうつろなる時間と空間ではない。
  実は生命の蓄積されるおりめなのだ。
    (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 以上の所論をたたき台として ご見解をおおしえください。

投稿日時 - 2012-04-11 04:35:48

QNo.7414711

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。
これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。
しかし、如何せん、人間は、好むと好まざるとにかかわらず、間接的に殺人に加担することがあります。これは悲しいけれど現実です。
たとえば、携帯などで使用されているレアメタル、石油などの資源権益、資源分配をめぐる争いがその典型的な例でしょう。
その資源をめぐる争いで毎日のように人が殺されています。もちろん、私は直接的にその殺人行為に加担してはいませんが、わたしが携帯を使うこと、日々電気やガソリンを使う日常的行為によって、関節的にその殺人に加担しているわけです。私の日常の行為が巡り巡ってその殺人を誘発しているわけです。したがって、私にはその殺人に対する道義的な責任があるわけです。「そんなことになることは知らなかった」では済まされない問題です。
しかし、人間の能力は限られています。自分の何気ない日常の行為がどのような結果を招くかなど予測不能です。また、そうしたことを一つ一つ気にかけていたら、日常の生活を送れません。ジレンマです。ここに、非常に難しい問題が、矛盾があります。

私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。

この「めぐりめぐっての間接的な殺人」についてbragelonneさんはどのようにお考えですか。ご意見を伺えれば幸いです。



アブラハムのイサク殺害に関するbragelonneさんの解釈は深いですね。
私は、神がアブラハムの忠誠を試した話としてしか理解していませんでしたから。

最愛の息子でさえ神に対して捧げることができるのか?

アブラハムの苦悩、葛藤は別にして、アブラハムには「神がイサクを犠牲に求めるには人知を超えた何らかの理由がある」、あるいは「たとえ殺したとしても、神によってしかるべき取り計らいがあるに違いない」という強い確信があったと思っていたもので
話は予定調和に終わっているので、のちに神によってモーセに与えられる「汝、殺すことなかれ」に抵触しない形で終わっていますけれども。

投稿日時 - 2012-04-13 00:17:31

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 どう言いましょうか。この質問においても わたしの場合 要するに《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。

 というわけは たとえば
 ☆ 理念 あるいは 道徳
 ★ といった概念や観念の形成される以前の或る種の心や意志のみなもとのような領域における出来事です。

 むろん そのことは次のごとく捉えることにおいてそのまま質問趣旨に沿っていただいているようではあるのすが。つまりまづ
 ☆ ~~~
 「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。
 これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。
 ~~~~~
 ★ なのですが ここで 微妙な異同があると思われることにさらにこだわってみます。
 
 一方で
 ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 無前提の原則 / 公理
 ★ と捉えてもらっているその他方で
 ☆ 理念・徳性
 ★ という規定もされているということ。ここにこだわってみます。つまり 違うという感じを持っています。

 アブラハムのイサクを犠牲にささげる物語をめぐっての解釈にもかかわって来ているかと思います。
 
 ○ アブラハムは 長い苦悩のトンネルを抜け得たのは 《自分でも他人でも ひとが ひとをころすことはしないものだ》というヒラメキが得られたからではないのか。

 このとき 《神は ひとが ひとをころすことを欲しない》と言いかえてもよいかと思います。

 ▲ (ホセア書6:6) ~~~
 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく
 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ★ さんざん生け贄を受け取っておいて 何を言うかとも思いますが アブラハムのインスピレーションとしては これであった。と思います。
 すなわち
 ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 〔無前提の原則 / 公理〕
 ★ としての内容であり それはあくまで

 ★★ 《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。
 
 という道草の段階なのであり そしてまだなお ひとりの人間の主観にとどまっています。そのあとようやく概念として持たれるようになって
 ☆ 無前提の原則 / 公理 / 理念 / 徳性
 ★ として受け留められるようになるのだと。



 何だか歯切れがわるいですし 問題のないところをあたかもイチャモンをつけているみたいですが 確認します。

 ○ ~~~
 アブラハムにとって 自分の心なる非思考の庭における神とのあたかも対話は 結論として 《イサクを ころさない》が得られた。
 これは・つまり《ころさない》というのは

 (1) やっと思考にかかわるかたちで翻訳したあとの言葉として得たものである。実際は ヒラメキである。意味のあいまいなイメージとしてのような直感であった。

 (2) しかも概念化して《ころさない》と規定しえたとしても まだなお アブラハムという一人の人間の主観内面における出来事であるに過ぎなかった。
 ~~~~

 言いかえますと 次のような問いかけになると思います。

 (3) この《ころさない》あるいは《神は いけにえを欲しない》を モーセはいとも簡単に律法規範としたようだ。それは いったいどういうことなのだろう? 
 (3-1) つまり神は 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》であるというごとく一人ひとりの神であるはずだ。したがって 《ころさない》という観想もまだまだひとりの人間の主観の内にとどまるのではなかったか? それを いつのまに《共同主観》としたのか?

 (4) しかもさらに アブラハムの得た観想は 《ひとは ひとをころさない。われは ひとなり》といったひとつの《判断》であり さらにはそれを表現したとすればそういう《意思表示》であった。なのに モーセはこれを《なんぢ ころすなかれ》というふうに《人間という人間の主観をぜんぶ束ねてしまって 頭ごなしに規定として措定してしまった》。それでよいのだろうか?


    *

 その上で
 ☆ 「めぐりめぐっての間接的な殺人」について
 ★ ですが:
 これは ヒラメキの内容から逸れる《マヌケ》や内容をねじ曲げる《マチガイ》を
 片や抽象的に そこに居合わせた人びと互いの心的現象という次元における同時一体性の内に見るかどうかの問題があり
 片や具体的にたとえば資源獲得競争にしのぎを削っている人びとと その経済行為をまわり回って間接的に共有しているのではないかという同時一体性の問題があると見ます。

 しかも ずるい見方をもしなければならないと考えます。一人ひとりがそれぞれの内面において《わが神(または わが無い神)》をいだくというように 一人ひとりはその自由意志において行動しているということも 実際なのだと見ざるを得ないようです。

 その上で先の《自然本性ないし心的現象を基礎としての 具体的な経済行為をもめぐる人びと相互の連帯性》において マヌケやマチガイについて共同の責任を負うというかたちになるかと。
 ☆ 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。
 ★ とおっしゃるその中身を 上のように考えるというひとつの結果を得ました。


 たぶん ヒラメキ次元を大事にするところの――そしてその意味で 一見場違いのような《タマシヅメ・タマフリ》の事例を出していますが の――自然本性ないしそのような基礎における観想が 人びとのあいだのマの関係としてその水嵩を増して行くことを思います(そう期待します)。 


 いやあ むつかしいですね。

投稿日時 - 2012-04-13 02:07:27

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回答(24)

ANo.24

また、人生相談だと思われちゃいましたね。
やっぱり、そうなんだ。

そうなんですね。きっと誰がみても。
ごめんね、つきあわせてしまって。

あんまり、けんかしないほうがいいですよ。

投稿日時 - 2012-04-23 14:31:56

お礼

 つづいてです。

 ★ ~~~
 また、人生相談だと思われちゃいましたね。
 やっぱり、そうなんだ。
 ~~~~~ 
 ☆ 昔は 回答者が鐘を撞くその撞き方や度合いに応じて返答をのべていると言っていましたが この言い方は どこか一方的な感じをもたらすところがありますから 別に言いかえてみますと:
 回答者の文章を受け取って 質問者との間に 磁場ができる。この磁場のあり方や状態に応じて 質問者としてのわたしは その落ち着くところを推し測って応答する。ということかと思います。

 だとすると 《人生相談である》というのは その電磁場の状態のゆくえが そうであったのかも知れません。わたしにとっては それは結果です。
 言いかえると この結果は 半々ですね。出所は。

 という応答になるのですが 能がないでしょうかね。その現われた結果からあらたに文章を書き起こすのが よいのかも。


 けんかは どうなんでしょう。ううーん。

投稿日時 - 2012-04-23 16:25:13

ANo.23

大抵の出目は、人間のうかつさであったり、心のひだであったり
反抗であったりと、自然な心のありようとして、合理的な因果律
として、既にアウトプットずみというところに、確からしさが
確認できるのではないでしょうか。
ですが、それが本来の目的に必ずしも建設的であるとはいえない
わけですが、つまり公共心をともなわない、ただのわがままは
不採用が妥当でしょう。

また、手づまり感が。

投稿日時 - 2012-04-23 12:14:28

お礼

 つづいてです。

 出目そのものをえらぶという場合は 少ないかも知れません。
 
 でも案外反抗心やらの《自然な心のありようとして》起きたその出目を 言わば加工して 自分の意志とするし自己表現として推し出すということかも分かりません。

 反抗心というよりは 抵抗と言ったほうがよいでしょうね。自然な心のありようは 一般に受け身において現われましょうから。

 ですから抵抗をそのまま表わすのではないでしょうから しっかりとその言い分について根拠を研究し把握しその上で 自己の意思表示をおこなうようになりましょう。

 世の中の偉業は たいていそんなところから出ているかも分かりません。
 ★ 公共心
 ☆ をともなうように自分で加工するのでしょう。

 というのでは?

投稿日時 - 2012-04-23 14:18:40

ANo.22

文脈(これこれこういうつもり)を含めた人工的な文は出目は
でにくいでしょう、だからそういうダイナミズムもなかなか
むずかしい。
ルサマンチン(もといルサンチマン)ってしもにしもについつい
ってことですが、これも出目じゃないかな。

だから、なんか変な感じなんじゃないのかな。
もぐさんとか、窮屈そうですよね。

投稿日時 - 2012-04-23 11:08:20

お礼

 つづいてです。

 次のわたしの文は 舌足らずだったかも知れません。

 ☆☆(No.21お礼欄) 偶然にせよ必然にせよ その出目について 確信を持つかどうかが 決め手です。

 つまり 出目をつねに《わたし》がえらぶというわけのものではないからです。捨てることもあります。


 《確信を持つ》ことは たしかに情報にかんしての《裏づけ》の問題もからみますね。
 わたしは 裏づけは もともと限界があると割り切っています。

 学問の場合には つねに仮説として永遠に問い求めつづけますが 一般の自己表現のための結論は――つまり出目を自分の結論としてえらんだ場合のその結論は―― 判断材料の乏しさ・つまり裏づけの弱さに関しては けっきょく確信の問題になって現われる。こう考えます。

 ゆえに あやまつは ひとのつね。とすでに初めに前提しているはずです。消極的な意味にしか成りませんが それもダイナミズムであるかも知れません。

 ★ ルサンチマン
 ☆ は ただのうわべの心理作用だと見ています。それを厄介なものとしているのは そう見ているむしろ理性のほうです。しかも その心理作用を大きな主題として 歴史の何から何まで事例を持ち出して来て ああだこうだといじくっているのも 理性です。それが カッコいいとでも思っているのでしょうか。
 わが心なる大海のうわべの波風のうちである。ルサンチマンは。と考えます。感性は すでにさとっているはずです。理性がひっかきまわすから 感情も出て来ましょう。
 


 《判断材料の乏しさ・つまり裏づけの弱さに関しては けっきょく確信の問題になって現われる》。
 これは けっきょく 判断材料にかんして 全体をすべて隈なく知るというのではなく そうではなく情況や相手の存在について《全体として》知るという問題だと考えられます。つまりその意味での《さとる》であり つまり確信に帰着します。
 この《全体として知った〔ところから判断する〕》は ダイナミズムでしょう。

投稿日時 - 2012-04-23 11:40:18

ANo.21

偶然あるいは必然の出目のようなものというのは、何故なのか、
公理または、理にかなう、あるいはどこからどうみても合理的
だと思われるわけですが(勿論出目をさぐるなどは、げすとも
いえますが)、ダイナミズムは博打にありと断定するのも
どうも、なんかですよね。

投稿日時 - 2012-04-23 09:31:35

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 このご指摘については お応えできると思います。
 ★ ~~~
 ダイナミズムは博打にありと断定するのも
 どうも、なんかですよね。
 ~~~~~
 ☆ 偶然にせよ必然にせよ その出目について 確信を持つかどうかが 決め手です。
 確信をもって《わたし》が言ったりおこなったりするということ。
 むろん勘違いもマチガイも起こりますが それをも――けっきょくそのときの相手も同じく互いに心を広く持って――乗り越えて行くような確信だと思います。
 
 ダイナミズムは 《わたし( 1 )》の自乗( 1x1=1 )を展開するその動態にある。と思います。
 《一》は 全体ですから その中にマヌケもマチガイも含みつつんでいるはずです。つねにアヤマチを揚棄してすすんで行くはずです。

投稿日時 - 2012-04-23 10:29:20

ANo.20

やっぱり、どこかなんか病んでるようにしかみえないのですが。
なんか変ですよね。

私の祖母は、農家をやってましたので、毛虫とか害虫を手で、
つぶしたりしていました。平気でやっているかどうかは、わから
ないけど、きっと必要なことだったからだと思うのですが。
これは近代感覚とかとは、ちょっと違うと思うんですね。

皇太子妃がかえるをおしりでつぶしちゃった話を冗談の様に
された時に、なんだか好印象をもったのですが。

なんかわかりません。
すいません。メモみたいになっちゃいました。

投稿日時 - 2012-04-22 22:48:58

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回は――自分の中でのことですが―― よく把握できませんでした。


 ひとつ それでも 思うことは こうです。
 ★ 近代感覚
 ☆ ですとか あるいは モダン ポストモダン コミュニタリアニズム リバタリアニズムなどなど その思想ないし思潮を一つひとつ特定して議論なさいますよね。

 いっそのこと 古代に飛んでみてはいかがでしょう?
 意外と ひとりの人間という位置づけやら 立ち場やらが分かりやすく浮かんでくるのではないでしょうか。
 だからどうなのかと言われて ただちにこれこれとして有益だとは必ずしも言えませんが そのほうが 何となく 自由な情況であるように思えます。
 中世だと 近代に対する反措定として提出されているきらいがありそうですから 古代です。日本でも西欧でも。

 こちらも すみません。あてずっぽうのようになりました。

投稿日時 - 2012-04-22 23:00:03

ANo.19

そうみると街の中は、すべて狸にみえてきます。
自動車も広告看板も、なんとなく狸ですね。
どうして親切そうな狸ばかり。

木嶋被告の事件がショッキングなのは、造形というものへの
いきすぎた軽視にあわせて女性性という内部構造の機能性へ偏って
ソースを求めている異常さです(被害者の方にはお気の毒なのですが)
造形(つまり美醜)と尊厳という問題はこれまでは、語られてきた
わけですが、そういう既成概念を打ち破るような事件です。
なんかほんとにわかんなくなります。

わからないのは、「愛情を込めて野菜を育てる」という概念も同じです。
どうして一度たりとも、
「愛情というソースにより帰納データの集積が詰まっているのですね」
とコメントされないんでしょうか。そうすれば、なんらかのうねりが
広がっていく気がするのですが。それは、ソースを傷つけてしまうかも
しれないという配慮なのか、それとも政治的な疑うべきことがあるのか
ということが謎です。かえって野菜も狸にしてしまわないでしょうか。

知の巨匠が言いたいことは未だわかりませんが、(私は憐憫の情のような
ものに少し混乱していたかもしれません)どちらがというのでもなく
そこには二項の答えがありそうです。
とりあえずペンディングです。

投稿日時 - 2012-04-21 17:41:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~
 そうみると街の中は、すべて狸にみえてきます。
 自動車も広告看板も、なんとなく狸ですね。
 どうして親切そうな狸ばかり。
 ~~~~~
 ☆ おそらく そういうことになるかと思います。

 問題は 自分です。自分はどうか。《狸》かどうか。
 と哲学者なら 反応するでしょうね 無表情で。

 でも そうですね。たしかに自分は 知っているのです。特に――理性のほうではなく―― 感覚はすでに だいたいのことの答えは知っているのだと思います。

 そしてそうまんざら捨てたものではないとも 言ってくれるのではないでしょうか。

 ★ 知の巨匠
 ☆ ?

投稿日時 - 2012-04-21 18:34:19

ANo.18

勿論そうです。
権力や権威から与えられるリソースで生きていくしかない
のだけど、そこには危険もつきまとっています。
だから、若者はリソースのソースを求めているのでしょうか。
そして結局、権威的なものを求めてしまっているのかも
しれません。だから変な感じなんでしょうね。
どっちにしても、ぎしぎししてる。
大人はいいけど、若者のことを真摯に考えてくれる人が
きっといると思ってたのは甘かったんでしょうか。
どうして、権力者はそうなちゃうのかな。

投稿日時 - 2012-04-19 00:05:19

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 若者はリソースのソースを求めているのでしょうか。
 そして結局、権威的なものを求めてしまっているのかも
 しれません。だから変な感じなんでしょうね。
 ~~~~~
 ☆ これは 偶像の問題です。いっそのこと 

  ○ 権威とは 無根拠である。そこから自由が来ている。

 とでも捉えるのが 偶像崇拝をまぬかれる道だと思います。

 ですから 
 ★ ~~~~
 大人はいいけど、若者のことを真摯に考えてくれる人が
 きっといると思ってたのは甘かったんでしょうか。
 どうして、権力者はそうなちゃうのかな。
 ~~~~~~
 ☆ という見方も――口幅ったい言い方ですが―― 偶像崇拝の枠組みの中におさまってしまっていると見ます。どこかに分別の上で納得の行く根拠や心の支えになるものを求めている。その結果 もし自分との・あるいは相手とのマの取り方にあやふやなところがあると アイドルへの密着というかたちに終わってしまうのではないか。こう思われますが どうでしょう。

投稿日時 - 2012-04-19 11:47:20

ANo.17

一番よくないのは、共依存関係ではないでしょうか。
こういう社会問題は現代では顕著ですよね。
だからといって、市場原理や選挙という仕組みでなんとかなるもの
でもないわけです。勿論、情だけでなんとかなるものでもない。
だから、狂気的な推進力を切望している人もいるのだろうけど
それも、どこか違う気がするんです。
本当につらそうな人を探して、データをとるのがいいのだろうけど
権力持ってない人が結局はフラットな立場がとれるってことなのに
だから絶対、権力持っちゃだめだと思うんです。

投稿日時 - 2012-04-18 22:16:08

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 つづいてです。
 ★ 権力
 ☆ については 一方的に批判するのもよくないと考えます。

 たとえ無法の勢力が権力をにぎったという場合でも その当面の社会的な秩序は その正統性のない狂気の権力のもとにすら保たれていると見なければならないとすれば です。



 話は 中途半端なままですが・そして突然変わりますが あの幸福の科学の政治部隊がすでに総選挙にも出たことがありますね。それでも 国民は 一人として国会に送らなかった。その前に オウム真理教の政治活動もありましたか。
 ★ 狂気的な推進力を切望している人もいるのだろうけど それも、どこか違う気がするんです。
 ☆ ということが 実現されています。これは あんがい国民もやるなと思えます。
 ただし オザワを切れないでいるのは おかしい。あるいは自民党がまだ生き長らえているのもおかしい。と考えます。


 ちょっと筋道の弱い話になりますが。

投稿日時 - 2012-04-18 22:42:15

ANo.16

そうなんです。
目的が手段にねじまげられているってことなんですね。

「ねまわし」って、情を手段に使うってことなんですよ。
だから、本質を失って、無目的に踊ってしまうのです。
(平成ポンポコの狸さんみたいですね)
少し距離をとったアウフヘーベンが望ましいよね。

投稿日時 - 2012-04-18 11:13:28

お礼

 一連のご回答です。ありがとうございます。

 ★ 目的が手段にねじまげられているってことなんですね。
 ★ 少し距離をとったアウフヘーベンが望ましいよね。
 ☆ たぶん こういうことだと考えます。

 ひとつに:目的を――最大の目的としての《自由 しかも 互いに自由》を大前提にしつつも―― 具体的に細分化して規定して行くと それら小目的が自己目的となって すでに手段であり大目的であると見なしてしまいがちである。

 ひとつに:《少し距離をとった》姿勢というのは 相手とのマとしてもじゅうぶん大切なことですが それにしても当面の小目的は それだけが単独分立してしまうわけではない。そうなっては いけない。というわけであるゆえに その小目的やその手段とのあいだにも距離を取ったほうがよいと思われます。

 それであって初めて《アウフヘーベン》ということになります。時間的な過程が見通されていることになります。その先には したがって 自由が望まれている。

 いえ そのように言うよりも やはり自由は 大前提であってすでにいま 何ものにも先行していると言ったほうがよいかも知れません。

 いま現在ここなる地点において かつほかでもない《わたし》において 《わたしはわたしであるという自由》が成ったというところから踏み出すのだと考えます。
 もしこの《自由の成る》ことがいまだ潜在性にのみあるとしたら それゆえにも《距離》が保たれている。からです。
 この距離こそが 相手とのマを保障してくれましょう。
 
 潜在性というのは たとえば日本人にとってなら《仏性が人に宿る》といったことでしょうし それはけっきょく《非思考の庭》だと考えられます。しかるべきマは そこでじゅうぶん保たれている。じゅうぶん過ぎるほど 保たれている。というわけです。

 この――雲をつかむような・わけの分からない――マを しかも 抜かすことなかれ。と。
 そこから 人びとのあいだに マとしての核分裂も核融合も起こり始めて行きましょう。そうなれば しめたものです。これは平和の原子力です。

 ぎゃくに言えば このような潜在性の流れ――伏流――に一顧だにせず 場当たりに社会力学上の有力なる勢力を糾合しているオッチャンやオバちゃんたちは やがてこのあたらしい潮の寄せて来るのを見てそれこそ
 ★ 平成ポンポコ狸さんみたい
 ☆ に
 ★ 本質を失って、無目的に踊ってしまう
 ☆ ことでしょう。
 われらが敵が 踊り出すのです。われらが 何もしないたたかいをたたかっているからです。
 これが アウフヘーベンの道程です。
 どぢゃ?

投稿日時 - 2012-04-18 12:36:05

ANo.15

そうですね、けんかの目的はあほらしいほどいいですね。


誰だってコミュニティの欲目があって当然だと思うし、それが、
本来の人間性なのだと思います。
ですがもし人類愛に見せかけたイワンのバカをつくろう計画が
あるとしたら、それは狡猾なファシズムと人は言うと思うのです。

そんなことは信じたくはありませんが。

投稿日時 - 2012-04-17 23:24:08

お礼

 つづいてです。

 ★ 人類愛に見せかけたイワンのバカをつくろう計画
 ★ 狡猾なファシズム
 ☆ といったふうに見られましょうか。

 もしそうだとしたら

 ○ 社会をイワンのバカなる人間像で満たす

 ということでしょうか? そうなるかも分かりませんね。
 ただ それを全体主義の体制とその仕組みによって製造するとしたら それは《イワンの馬鹿》ではなくなりますね。ほんとうの《イワンの馬鹿》は出来上がりません。
 ということは
 ★ 人類愛に見せかけた
 ☆ という初めの規定 つまりそのような前提が マのチガイを起こしているのだと見ます。よ。

投稿日時 - 2012-04-17 23:48:17

ANo.14

「無目的にあつくなる」一番それを理解するのが難しいです。
たぶん、テーマパークにいっても実感はできないと思います。
(ピカソの絵はすごいけど)

なんか無目的にマジなんですよね、それが不思議でしょうがない。
だけどそこに人々はいざなわれるわけですよね。
そしてはいりこんでいくんでしょうか。
私は、どうも宙に浮いちゃうみたいです。
それでもってしらっとなる。

やっぱり、理解できても実感としてわからないですね。

話は変わるけど、ブロジェロンヌさんは、もうあんまりけんか
しないほうがいいと思いますよ。

投稿日時 - 2012-04-17 22:28:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「無目的にあつくなる」一番それを理解するのが難しいです。
 ★ なんか無目的にマジなんですよね、それが不思議でしょうがない。
 ☆ というふうに受け取ってもらったのですね。

 ★ 無目的
 ☆ というわけではありません。目的は 決まっています。《自由》です。

 何もしないたたかい で得られると思っているわけです。

 何もしない ゆえに 分かりづらい。
 ★ やっぱり、理解できても実感としてわからないですね。
 ☆ つまり《無目的》だと映るのではないかと。

 ですから
 ★ ~~~
 話は変わるけど、ブロジェロンヌさんは、もうあんまりけんか
 しないほうがいいと思いますよ。
 ~~~~
 ☆ というふうに 基本的な姿勢として《何もしないし けんかもしない》のであるにもかかわらず そこには《たたかい》がありますから――えも言われぬかたちで たたかいがありますから―― わたしの文章に接すると 中にはけんかを売ってくる向きもある。こうだと見ます。
 売られた場合には たいてい 買います。
 それも大きく対話の一部だと見られるときにです。たいていは コミュニケーションの一環であると言ってよいと思います。
 
 水掛け論や堂々巡りの議論には そのようになってしまっていると言って話し合いをつづけます。
 あと 負け戦はしません。

 
 こういう姿勢と方針になっています。 

投稿日時 - 2012-04-17 22:50:32

ANo.13

ありがとうございます。
「まつりごと」って、もともと外側から設計じゃなかったの
かもしれません。
今思い出したけど、前に、文化比較のスレを沢山やっていた
人いました。目の付けどころがすごい壮大な感じの、あまがっぱ
さんが、「おおきなふろしきね」って茶化してた。
芝居と演劇の違いのこと、思い出しました。
偶像のパフォーマンスって、きっとそういうことなんですね。
テーマパークが分かんなかった理由がわかりました。
ピカソの絵も、そういうことか。知らないって恐ろしいです。

内側でパフォーマンスするってスタンスなら、クラフトマンの
政治って、一貫してぶれて(軽めに茶髪とかにして)作り込む
方が、あってるっていいたいのでしょうか。
よく、わかってないかもしれません。

投稿日時 - 2012-04-16 21:40:46

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 前回は 何もかもが偶像になってしまいました。あらゆるものを偶像と見てしまったかも知れません。
 あるいはつまり どんなかたちであれ人びとは 何らかの偶像を頭の中にいだいて おのれとのマや 他者とのあいだのマを図っているように見えて じつはけっきょくその偶像(アイドル)にべったりついてしまっている。マを見失っている。
 とデカい口をききましたが そうですね。
 ★ マツリゴト
 ☆ の話をします。

 わたくしの捉え方は はっきり決まっています。

 

 人びとは 秋になると穫り入れのときを迎えます。
 初穂を神(神々)にささげます。
 ムラは神に感謝をささげ儀式をおこなうとともに 神との共食として どんちゃんさわぎをもおこないます。
 そういった《まつり》です。

 或る日或る時 おれたちが神々である ゆえにおれたちに初穂をささげよ われら神々におまえたちは貢げと言い出した人びとがいた。
 きわめて学力優秀かつ品行方正 これ以上は人間的には成れないというほど人の道を究めた人たちでした。
 この神々あるいは王のもとに その王の徳による感化を受けて 人びとはさらにその生活に励みたまえと それはそれは 堂々と宣言しました。
 これを アマテラス族と言いますが かれらの玉にきずは わづかにただひとつ。《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまい》と誓ったことでした。

 とうとうムラムラの人びとは これら行っちゃってるアマテラス族に対して 根負けしました。
 ならば この社会にも神棚をこしらえてやるから そこに きみたちは住まいなさいと言って 《くにゆづり》をしたと言います。お二階さんの誕生です。

 ところがところが この第二階から発する《みことのり》は それはそれは きびしいものでした。
 とにもかくにも ムラのマツリというマツリを 自分たちの管理運営のもとに束ねてしまうというものでした。
 だから ムラのマツリにおける神との共食やそのときの初穂のささげものは こんどは お二階さんたちへの納税(租庸調あるいは年貢)というかたちに変わってしまいました。
 このお二階さん政府を指して 《まつりごと》と言ったとさ。という物語です。

 やまとのくには
 おしなべて われこそはおれ
 しきなべて われこそはませ

 と言ったげな。

投稿日時 - 2012-04-16 22:26:52

ANo.12

私たちが、何かを認識するときは、まずはアウトラインから
確認しますよね。それが、まだモデル状態とか、設計段階
だったら、あたりまえのようにそうだと思うんだけど。

そこから、さらに外側のアウトラインが気になるはずです。
つまり、どういう思想でもって、どういう世界観を実現させ
たいのかとか、それでもってその辺がしっかり見えないと
そこをすっとばして、もっとも外側の偶像イメージをみる
ようになるということなんじゃないのかと思うんだけど。

大胆であるほどに、きっともっとも外側が気になるのだと
思いますが、これはもしかしたらわかんないけどたぶん
あんまりよくない日本人の特性なのかもしれません。

本当は大胆であるほど、もっとも外側や、枝葉末節とかの斬新
さは、みる必要ないといったら言い過ぎかもしれないけど。

とにかく、政治家にも偶像を求めているってことは、よっぽど
社会に不安が蔓延してるってことのようですね。

投稿日時 - 2012-04-16 09:14:08

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 たとえばマが抜けた・あるいはマが違ったというのは いろんな偶像(アイドル)のかたちを持ち出して来ることによって起こる。と思います。

 現実主義ないし保守派にも 理想主義ないしいわゆる革新派にも起こるようです。

 寄らば大樹の陰であり 長い物には巻かれろというのは そのように社会力学上 有力な人ないしその勢力に就き従うということを意味します。
 カリスマ指導者が 偶像と見なされています。
 自分とのマを見失い そのように外部の何ものかや誰かとのマにくっ付いてしまう。

 これではいけないと言うので 別のかたちで理想像を求めます。描きます。
 現実の新興宗教の教祖などは それとして社会力学上の有力となっていますから もう省きます。
 だとすると やはりブッダとかキリストとかになりましょうか。さもなければ あたかも第三の道として アニメのヒーローやヒロインあるいは 実際のタレントとしてのアイドルらでしょうか。
 つまりこれらは 第三の道をもふくめて 現実の社会力学あるいは要するにクウキやシガラミから解放されたところに じつは やはり偶像を描きこれに寄って行きすがって行くということになる。


 ですから 偶像は 外側にも内側にも マが抜けたときには求められます。
 外側の偶像は いくらカリスマだと言っても 栄枯盛衰があります。朽ち果てれば ただただ無残です。
 内側の場合は その内面的な心の問題としてとうとばれることがありますが どうしてどうして 同じく偶像です。ひと言で言えば 神を頭の中で思っていればよいという《観念の神》となり その意味での偶像崇拝のかたちに落ち入ります。
 永遠に《さとりとは何か? 神の愛とは何か?》と問い続ける偶像教です。

 わたしは わたしである。というマの取り方が 出来ていません。
 わたしと言ったときには その言う人がみづからのことを言っています。あたりまえの話です。

 わづかに《わたし》を対象化したということです。
 その対象化するという行為の主体は やはり《わたし》です。
 これが マの取り方です。


 そうではなく この《わたし》なる存在の中にわざわざ 別の表現として《自我》をつくって 《わたし》に代える。
 《わたしがわたしである》だけでよいのに こんどはわざわざ別の――要らぬ――マをつくるかのように 《自我》を持ち出して来る。
 自我の形成だとか 自我の確立だとか わけの分からないことを言い出す。

 架空のマをこしらえてそれによってかろうじて 社会力学としての有力な勢力によって圧倒されないようにと考えている。

 自我を言う場合には 外側の政治家らの有力者に頼るのではなく 内側のしかも《観念の神》にうつつを抜かすのでもなく そうではないからそれは 《自律》する人間だと言わんばかりに悦に入っている場合がある。それなら まだ アイドル路線のほうが ましだと思う。未来の世の中・次代の世界を夢見ているところが まだよい。

 自我を言い自律を 意味もなく説くやからに到っては おそらくはこの世界から逃れたいと思っているらしい。自然そのものになって・しかも動物のように自然に溶け込んでしまって もう世の中のけんかや競争にはおさらばしたいと思っているらしい。われは――自我の確立を言いつつも―― 光の波であり粒子である。われは クオークである。どんなもんだい! おまえら 成れるものなら成ってみろ。と言っているかのようである。


 あぁ おおいなるマの抜け落ち。


 という反応を持ちました。

投稿日時 - 2012-04-16 10:03:32

ANo.11

脱線してすいません。
なんか死んじゃうのかとかってにおもっちゃった。

ネットはやりすぎると死への衝動を加速させる気がします。
だから、どっか「いっちゃってる感」がありますよね。
これは、なぜなのかというのも、一つの課題かもしれません。

本題になりますが、コミュニタリアン、とリバタリアンの折り合い
の問題のようです。

例えば、コミュタリアン的には、西洋医学の様なものは、はたして
生まれるのでしょうか、愛すべき隣人の為にという感覚には様々な
限界がありそうです。排他的なコミュニティ感覚では悪い性格の人
はスポイルされても自業自得です。

西洋医学的は、人類愛的な信仰感覚と、冷徹な分析的な感覚の
リバタリアニズムから発達したきがする。それもすすみすぎると
また、倫理とかけはなれたものになってしまいます。

サンデル教授は、できるだけ透明な目でおとしどころをさぐっている
ようでしたが、言い切ることはできてないとおもいます。
浅田彰さんという方も、リバタリアンをほのめかしているけど、
ほのめかしているにとどまっている。
国内というフレームで考えてもということだと思います。
それは、パーソナルなバイアスをとりきれているのかという疑問から
慎重になっているのかどうかは、想像できませんが。

とにかく、そういう問題であるということじゃないでしょうか。

まぬけは、コミュニタリアンのもんだいです。
パーソナルな私の目からみると、そのような問題が目に付くという
ことだと思います。

例えば、アウトプットにこだわった少女時代と偶像にこだわったAKB
とどっちかという気分的なものになってしまいます。芸能分野以外
だったら、少女時代を目指した方がいいんじゃないかと思っちゃって
いる。社会不安から偶像よりになっているからよけいにそう思っちゃう。

ただ、社会不安が内需の嗜好に反映されているっていうのは、共同体と
して国をみた場合は悪い事じゃないんだと思うんだけど。

生産は後からついてくるものだという考えの方が、いいとは思うけど
長い目でみた社会幸福感というのも、細かいデータさえ分析できれば
可能な気がするんだけど、どうなんでしょうね。

とりあえず、ネットはほどほどにという結論だけはでましたね。

投稿日時 - 2012-04-14 17:47:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ とりあえず、ネットはほどほどにという結論だけはでましたね。
 ☆ ほどほどどころか いつもひまですよ。

 数件の回答が固まって来るときには そのときかなり集中的に書き込まねばなりませんが それを除けば まったく楽ちんです。

 

 あとは どうなんでしょう。
 ★ コミュニタリアン、とリバタリアンの折り合いの問題
 ☆ これら両者は それほど違いはないと思うんですけどねぇ。


 ★ ~~~
 例えば、アウトプットにこだわった少女時代と偶像にこだわったAKB
 とどっちかという気分的なものになってしまいます。
 ~~~~~
 ☆ 知らないのですけれど 推測で考えるなら どうなんでしょうか。
 ★ アウトプットにこだわった少女時代
 ☆ という言い方なんですけれど その結果 それらのタレントたちは ファンからけっきょく偶像視されるのではないでしょうか?

 というように 比較対照の論点が いまひとつわたしにはピンと来ていないのです。

 とお答えするしかないように思いますが。

投稿日時 - 2012-04-14 19:48:56

ANo.10

ずっと絶対上機嫌ですから、お元気でいてほしいだけです。

投稿日時 - 2012-04-13 15:35:01

お礼

 ありがとうございます。


 このところ あわてふためくちょっとした事件が身辺で二件もたてつづけに起きました。何とかおさまりましたが ちょっとした春の椿事でした。


 確かに機嫌はいいですね。
 つまり よく怒りますが 怒っていても別にそれは関係ないです。
 ほんとうに怒っているのですが 相手を見ていると言いますか そういう姿勢に変わりないからでしょうか。


 はあとまいんどさんは ときには保守的な一面が見えたときもありましたけれどね。

投稿日時 - 2012-04-13 20:30:21

ANo.9

フレームの外から見ているという前提でなければ、
フレームの話は進まない、まではいいですよね。

どこそこのどういうだれこれ、を秘匿しているという条件には、
そういう欲求がかくれているということです。

例えそこに、アイデンティティの片鱗をのぞかせている
としても、そこには実は別の目的へ照射がもくろみが
隠されていても、まずは、その棚上げ行為のコンセンサス
があるということだと思ったのですが、

相対主義的になったのは、何らかの変化ですか?

投稿日時 - 2012-04-13 11:04:20

お礼

 はあとまいんどさん――ご回答をありがとうございます―― 今回は 意味が分かりません。読み取りにくいです。

 ★ 相対主義的になったのは、何らかの変化ですか?
 ☆ わたしが《相対主義的になった》ということですか? ものごとはつねに相対性のもとに見ているつもりですが 《相対主義》ではないです。というのは 相対性なる経験世界を超えたところに非思考の(つまり 信仰の・あるいはヒラメキの)場があると捉えているからです。


 もしそういう観点から言うとすれば
 ★ ~~~
 フレームの外から見ているという前提でなければ、
 フレームの話は進まない、まではいいですよね。
 ~~~~~
 ☆ という・ごくすなおなふつうの見方にも 別のその観点を注入することも出来ます。
 
 つまりは 《フレームの外に出ずに その中にいてフレームを見ていても》 経験相対的な《話は進まない》としても その場を突き抜けることは出来ましょう。つまりその中側から突き抜けるというヒラメキはあり得て それがつねに妥当性を持つとは限りませんが じゅうぶんその観想としての中身は威力を持ち得ると考えます。

 たとえばクウキで雁字搦めになったこの日本社会の内側にいても 何がしかその中からフレームを突き抜けて クウキの閉塞性だとかの情況を相対的なものとして見ることが出来るようになります。


 次のくだりが 分かりません。お手上げです。
 ★ ~~~
 どこそこのどういうだれこれ、を秘匿しているという条件には、
 そういう欲求がかくれているということです。

 例えそこに、アイデンティティの片鱗をのぞかせている
 としても、そこには実は別の目的へ照射がもくろみが
 隠されていても、まずは、その棚上げ行為のコンセンサス
 があるということだと思ったのですが、
 ~~~~~


 よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2012-04-13 14:04:34

ANo.8

「ま」というのは、ぬけてはよくないと思います。

例えば、「なんらかのこと」を中心として、人間交通がされれば
圧迫感が緩和されます。
そのような、例えば「どうでもいいお天気の話」を緩和目的にする
など、としても「ま」は必要であるし、

感情論、水掛け論を排除することでの、信頼性の確立はあり得る
と思います。「とりあえずどういうはなしだっけ」っていう。
(おまえのかあちゃんがでべそであるということは論外ですよね
という確認)

現代も「まぬけ」の問題が、かえって非生産的に働いていること
は疑ってみてもいいかもしれません。

ぎしぎししているという現代の問題は、「まぬけ」と関わっている
と思うのですが、

例えば、アウトプットに関心があまりなく、偶像への関心を持つと
いうことなどは、そういう事例じゃないでしょうか。

投稿日時 - 2012-04-13 08:48:10

お礼

 はあとまいんどさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~
 例えば、アウトプットに関心があまりなく、偶像への関心を持つと
 いうことなどは、そういう事例じゃないでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ つまり たとえ《偶像ないしアイドル》にあこがれるとしても・そしてそれにつき従うにしても それを《偶像》つまり仮りのものとして捉えるというマが持たれていれば 大したことでもない。
 ★ アウトプットに関心があまりなく
 ☆ というのは マが初めにあったとしてもそのあと そのアイドルとの世界に閉じこもって行くようになる。ということでしょうね。


 ★ ぎしぎししているという現代の問題は、「まぬけ」と関わっていると思うのですが、
 ☆ つまり 経済活動としての仕事でもぎしぎししており そのギシギシから解かれた自由時間においては 一たんマをもってアイドルに相い対するのだけれど そのあとのことには関心がなく内へ内へと籠もって行く。ということかも知れません。
 結果として マが抜けてしまうようです。
 おそらくそれでも 息抜きをしているのであって そこまでに留まれば まだマのチガイにまでは到らない。ということかも知れません。

 だったら 仕事の時間においても・仲間や同僚との交通においても 極力マを持とうとすれば あんがいみんなのチカラというのは 持前のチカラを発揮するようになり ただちにうんと・そしてグウンと上がるのではないかと思います。

 いっそのこと
 ★ おまえのかあちゃん でえべえそ
 ☆ というマの抜けた《まじない》を ときには投げかけてもよいのかも知れません。

 中国や韓国の企業戦士に対して われわれは近頃は劣勢にあって いらいらしているかも知れないので。

投稿日時 - 2012-04-13 09:56:22

認識の主体である主観としての《わたし》と認識されるものとして自己《おのれ》との関係、ならびに自分と他者、自他の関係を日本的な「間」という概念を使って考察するというのは、面白いですね。読み物としては難解である(少なくとも僕にはそう感じられるましたが)ことを除けば、エッセー、省察録としても非常に面白かったです。

☆さてさて
>(α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。
とありますが、命題とあるからには証明もしくは結論があると思うのですけれども、bragelonne御自身としてこの命題に対する結論をお持ちなのですか。

>(α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。
とあります。
これは(α)の「人を殺さないという命題」に深く関連する部分だと思います。bragelonneさんは、αの命題に対してここに答えを示されているとも読みとれますが…
しかし、なぜ「おのれとのマををそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っている」なら「互いに相手の自由を侵さない(自分・他人を殺さない)であろう。」と帰結できるのですか。
少なくとも文中にはこの論拠が示されていないと思われます。
論拠はあるのですか。それとも直観やbragelonneさんの信条なのでしょうか。


(β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?

文脈的には「同時一体でない」と解釈されるのですが、そのように受け取ってよいのでしょうか。bragelonneさんの本意は別のところにあると思われるのですが…

投稿日時 - 2012-04-12 00:36:59

お礼

 そうですね。分かりにくかったようですし 舌足らずだったでしょうか。

 ねむりねこにゃあさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ☆ ~~~
 さてさて
  >(α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。
 とありますが、命題とあるからには証明もしくは結論があると思うのですけれども、bragelonne御自身としてこの命題に対する結論をお持ちなのですか。
 ~~~~~
 ★ ごもっともなツッコミだと思います。

 ○ この《命題》は 仮説ないし作業仮説 として捉えていただけるとさいわいです。

 ですから そのあとの議論も 疑問形で表現しているところは 基本的にその仮説について自分でも問うというかたちになっています。

 次の――わたしとしては ひとつの命題としたいところの――問いが 分析や検証のきわめてむつかしい領域にあるであろうと思われる主題です。
 ☆ ~~~~
 (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?

 文脈的には「同時一体でない」と解釈されるのですが、そのように受け取ってよいのでしょうか。
 bragelonneさんの本意は別のところにあると思われるのですが…
 ~~~~~~
 ★ わたしの《本意》は 《同時一体である》と見ています。

   *

 この仮説を 命題と言ってしまったわけは 次の事情にあります。

 例のアブラハムが 我が子イサクをいけにえとして神にささげるという話からです。
 おそらく錯乱するまでにアブラハムは考えに考え 悩みに悩んだと思われます。ついにイサクをほうむるというとき 神によってとめられるという話ですが 受け取り方のひとつとして こう思いました。
 すなわち その苦しい悩みの中からアブラハムは この〔敢えて〕命題つまり 《ひとは ひとをころすことはしないものなのだ》という命題を――けっきょく無根拠において非思考のただの直感として――持ったのではないかというものです。
 
 これが けっきょくやはり公理のごとくであると人びとに受け留められたのでしょうか やがてモーセは律法として規範化しました。《なんぢ ころすなかれ》。
 これによって 人殺しを禁じるという共同主観もしくは 共同の幻想が 人類のあいだに普及しています。(《幻想》は 言い過ぎでしょうか。《観念の共同》でしょうか)。
 このときむしろ規範化する前の・アブラハムの《命題ないし観想》としての《ひとは ひとをころさないという能力をもって生まれて来ている》のほうが 共同主観を形成するであろうと見ます。《戒律》という規範形式は ひとの《主観〔の自由〕》をむしろころします。

    *
 上の(β‐3‐1)の問いは 次の問いと同じ内容です。
 ★★(趣旨説明欄) ~~~
 (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?
 ~~~~~~
 ★ すなわち

 ○ わたしの個人としての心的現象と 相手の個人としての心的現象とが 基本的に言って《同時一体》であるという社会関係 このようなひとつの磁場の全体として わたしのマヌケ(間抜け)という事象が起きる。のではないか?

 です。

 ○ わたしに起こったマヌケなる事象は 相手においても――しばしば時間差をともなって――起こるかも分かりません。マヌケという同じ現象が起こらなくても わたしに起こったマヌケのコトが あとでその相手にも分かるようになる。つまり じつは あの時に互いに同時に 考え方としては マヌケが起こっていたのだと心に合点が行くように分かる。のではないか?


   *

 ご覧のようにそしてお察しのように この主題は まだフロンティアです。現在進行形です。

 大胆なまでにも自由なご所見をお伺いできれば この上ないよろこびです。

投稿日時 - 2012-04-12 10:16:51

ANo.5

それって、高松塚古墳のことですか?
入ったんですか?
わたしは工事中でした。

すいません。とりとめがないですね。
おやすみなさい。

投稿日時 - 2012-04-11 23:02:56

お礼

 つづいてです。

 ○ 石舞台
 ☆ は 蘇我入鹿だったと思います。

 ★ 高松塚古墳
 ☆ とは別です。こちらは たしか 棺の絵が飾ってあったと思います。狭い場所だったような。
 工事中 って 全然見られなかったのですか。それは 残念。

 石舞台は それはそれは でっかい石 つまり岩ですね で作ってありました。

投稿日時 - 2012-04-11 23:14:39

ANo.4

韓国行ったことないです。
奈良の明日香村で、つれの人とサイクリングしました。

投稿日時 - 2012-04-11 22:28:15

お礼

 つづいてです。

 韓国で 登山は ピクニックみたいに割り合いみんなに愛されている趣味・スポーツだと聞いたものですから。関連があるのかなと。それだけです。


 えぇ。飛鳥では サイクリングがずらっと並んでいますね。わたしは 歩きましたけれど。
 まだまだ素朴でした。
 石舞台などは ただし 商業主義の波が押し寄せていました。むかしは まったく放ったらかしにしてありました。割り合い近かったので 高校の春休みに自転車旅行で行きました。つまり 玄室だかに勝手に入って行けました。

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2012-04-11 22:40:48

ANo.3

昔、ピクニックに行きました。
もともとは、朝鮮半島の方が発達していたのは間違いないと思います。
想像だけど、その負けている感をうまく「たかくなおきこころ」みたいに、
とおとぶところからってきがする。

だから、「まちがい」をたくさん、表に出してはずかしめられること
で、アイデンティティを変容させていくことにマゾ的快感をもとめる
ことが、それが、たかきこころの推進力だったとかって
かってに考えた。

予想のとおり、やっぱりネットあきてきました。

投稿日時 - 2012-04-11 22:11:00

お礼

 つづいてです。

 ★ ~~~
 昔、ピクニックに行きました。
 もともとは、朝鮮半島の方が発達していたのは間違いないと思います。
 ~~~~~
 ☆ ええ。トゥンサン(登山)なんかは ごく一般的な趣味・スポーツであるとか聞きました。



 ★ ~~~~
 だから、「まちがい」をたくさん、表に出してはずかしめられること
 で、アイデンティティを変容させていくことにマゾ的快感をもとめる
 ことが、それが、たかきこころの推進力だったとかって
 かってに考えた。
 ~~~~~~
 ☆ あぁ。《立ち帰る》ということは 恥をかきかき たどり着くことだということでしょうか?
 でも それほどでもないと思います。またそういうことは前提にしていませんでした。

 つまりそれは ヒラメキを前提としていましたし いまも そうです。
 ただ きっかけは 何らかのマイナスの事態が起きて そういう静かな《立ち帰り》の時間を持とうとするということかも知れません。


 ★ 予想のとおり、やっぱりネットあきてきました。
 ☆ そうですか。ご卒業ということでしょうか。






 そうですね。《わたしがわたしである》ことは 競争でもなければ ほかの人間との比較の問題でもないとは思いますけれど。・・・

投稿日時 - 2012-04-11 22:21:55

ANo.2

同意見です。
グローバルといいながら、かわいい子を旅に出す在り方として
現状どうなのかと考えさせられます。
もともとあるおおらかな、野山を駆け回る黄色い猿のプライドを、
格差とか二局化の社会承認的なエリート意識で抑圧しておいて、
階級社会に放り出して、イエローモンキーのデッドロックの罠
に苦しんでひねてしまった人も知っています。
アグレッシブな勇気のいる大変なことなのに、
なんか無責任な気がします。
個性なんて、へちゃむくれや、短足や、いんきんたむしみたいな
ことを、まるで芝生の青さのように流布したり、へんなんですね。

投稿日時 - 2012-04-11 18:54:15

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ご見解が一致したようです。
 ここらあたりが 重要ではないかと思っております。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか? 
 (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?

 (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし このことの実際のあり方としては まだまだ 一般に共同の概念として持たれてはいないかも知れない。というこれからの望みがあります。

 ★ ~~~
 個性なんて、へちゃむくれや、短足や、いんきんたむしみたいな
 ことを、まるで芝生の青さのように流布したり、へんなんですね。
 ~~~~~
 ☆ といった《個性》にしても すべて鎮めて まづ静かなたましいに立ち帰るといった・雲をつかむような話を〔も〕 しようとしています ここでは。


 深く静かに潜航しまして やがては・ほんとうは グローバルな舞台にも出て行く人びとの姿をも描いてみたいというふうな です。その土台のような存在のあり方です。
 ★ アグレッシヴ
 ☆ な世界を 突き抜けて行くような姿です。


 さらに問い求めが煮詰まって行くことを期待したいと思います。

 

投稿日時 - 2012-04-11 21:33:07

ANo.1

マチガイは人類を進歩させる動力源のひとつですゾ
ヒトがヒトを殺さないて必然がそもそも無いのでは?

次段階への飛躍=見方を変えればマチガイの一形態

相互不可侵の均一社会が望みなら私輩とは意見違い

投稿日時 - 2012-04-11 05:37:50

お礼

 うろんりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 さあて あたらしい質問なんですが・そして一番目のご回答なので 全体的なことを書いたほうがよいと思ったのですが いきなり わたしからの反応をつづってまいります。

 ★ ヒトがヒトを殺さないて必然がそもそも無いのでは?
 ☆ これは 原則として成り立つかどうかの まづは 問題です。公理のように前提としうるかという。

 たとえば――最近用いた例示ですけれど―― 憲法によるかぎりで日本国民は 納税の義務があります。つまり これは 労働や教育を受けることやの取り決めと同じく 原則の問題としてあります。
 そして同時に 実際上どうなのかといった《必然か否か》などの問題も 別にあります。

 つまり 納税の義務という原則があることと この義務に従うことは必然かということとは 互いに別の問題です。

 よって――仮説としてですが――

 ○ 《わたし》は《わたしがわたしである》というマの原則にもとづけば 《ひとは ひとをころさない》と見る。

 というかたちです。

 ○ 《わたし》は 《ひとは ひとをころさない》という能力をその生まれつきの自然本性において持つ。

 といった内容の原則です。




 したがいまして 次の命題も 重要な主題であるようですが 一概にそう言えるものかどうかの問題もあるかと考えます。

 ★ マチガイは人類を進歩させる動力源のひとつですゾ
 ☆ いろんな場合がありそうです 考えてみれば。

 ○ (マチガイが じんるいの進歩に貢献した場合) ~~~
 1. セレンディピティと言いますから 思わぬ〔良い〕発見は さまざまにいくらでもあるでしょうね。あやまちという意味での間違いではないのでしょうが 初めの意図としてのマが違ったところで 進歩につながる動力源となるのでしょう。

 2. ということは 考えてみるに 初めからマチガイを意図していたとか計画的にマチガイをおこなったというのでもない。ということではないか?――すなわちこれも 原則の問題と実際のあり方や応用の問題とは違うということを物語っていませんか?
 ~~~~~~~~~~

 科学上の発見とかを 上手に例で示し得ず 打ち切りましたが そういった二面性もしくは 原則と応用といった構造性をもった命題ですよね。


 ★ 次段階への飛躍=見方を変えればマチガイの一形態
 ☆ 要するに こういう場合に《マチガイ》を持ち出すということは おそらく結果論としてのことなのでしょう。
 そして キュリ夫人がラヂウムの発見をしたことは マチガイのもとにおこなったことではなく しかもその結果被ばくによって寿命をちぢめるというマチガイが起きました。

 よって 前提としてマチガイを置き 全面的にマチガイを肯定して認めこれを勧めるという行き方は 違うというように思いますゾ。




 ★ 相互不可侵の均一社会が望みなら私輩とは意見違い
 ☆ たぶん それでも《マチガイを起こさないという原則を 大々的にそこら中に張り巡らせる》といった方針あるいはそういったクウキ これには反対するということなのかも知れません。

 おそらく――言えることは―― もしひとのおのが内面においてもあるいは外面における人と人との交通関係においても マの取り方が自然本性に沿って無理なくうまく行った状態に ひとと社会がもし成るとすれば そのときには〔おそらく 言えることとしては〕 《人間(現実)が変わる》ということでしょう。
 いまのホモ・サピエンス・サピエンスが あらたなニンゲンの種に変わるということです。
 そのあたらしいじんるいにとっては 
 ★ 相互不可侵の均一社会
 ☆ の問題としてではなく あたらしい別種のマチガイを許容して自分たちの世の中をいとなんで行くことでしょう。

 

 でもまだまだこの今の日本において お上の言うことに逆らわないといったクウキが有力であるとすれば その状態のほうが
 ★ 相互不可侵の均一社会
 ☆ なのではないでしょうか? いますでに閉塞感をともなった閉鎖社会に閉じ込められているのではないでしょうか? ただただ感性を麻痺させて それに耐えているのではないでしょうか?

投稿日時 - 2012-04-11 12:00:58

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