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解決済みの質問

われわれは原罪を犯せしや?(つづき)

 次のように表現しては 間違いでしょうか?

 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。
 
 こう表現しては 間違いでしょうか? という問いです。

   *

 以下に 原罪についての考え方をも述べます。


 1. 光は 曲がります。光も 曲がります。われわれ人間の心も かなしいかな 曲がります。

 2. しかも じつは じつに わたしが曲げるのです。

 3. うそをつかなかった人間は いません。本心を曲げて いつわりの証言をしたりします。

 4. 本心とは何か この問いも 必ずしも容易には 分かるものではないところがあるようですが うそをつくときには やましさを感じるものです。気持ちよいものではありません。

 5. 要するに このへそ曲がり・始原的にして普遍的なへその曲げ これを 原罪と言ったのだと考えます。

 6. 言いかえると へそを曲げる自由も 曲げない自由も どちらも備えた意志の自由を われわれ人間は 与えられている。これが 生まれつきの自然本性だと言う。






 7. へそを曲げるとき たしかに わたしたちは いわゆる良心の責めを感じます。ですが この世は 似たりよったりの人間が おもしろおかしく生きていくだけだ 寿命が尽きればあの世行き という考えを持つようになる人びとも出て来ます。

 8. こうなるとまた 一生のうちの《へそ曲がり》の積み重ねについて 死ぬときには すべてを清算して逝くのだというおとぎ話も紡がれ得ます。あまりにも無責任ではいけないという見方が現われるのでしょう。

 9. 良心は良心ですし 自由意志は自由意志として 大事なものです。これはおそらく存在の基本ないし生きることの基礎というものであって とうといものだと思われます。そうでないと 社会における人びとの振る舞いは 判断の決まらないのっぺらぼうの交通(まじわり)関係となって収拾がつかないことになります。

 10. したがって へそ曲がりの清算をめぐって何らかの交通整理が必要になるという一面も 社会に現われます。最後の審判といった大いなる物語にまで 発展しうるというわけのようです。




 


 11. へそ曲がりの清算とは言うものの 原罪をあがなったというイエスの物語は いくらか 毛色を異にしています。

 12. イエスというひとは ナザレ出身のふつうの人間でした。それでも人間にも 互いに 交通整理をする意志があれば その能力もある。そしてこの人間の能力をも超えるチカラのハタラキが問われました。

 13. 光は たとえ曲がっても 光である。腐っても鯛と言ったかどうか知りませんが さらに 光を超えた光もあると――もともと いわゆる旧約聖書の伝えるような人びとをつうじて 言われて来ましたし そのことを―― 明らかにする仕儀に かれは 到りました。

 14. へそ曲がりを 曲がったへそのまま 何ものかが包み(あるいは 覆い) 心も体も 何ものかによってわたしたちは それぞれ 掬われると言いました。人をすなどるとも言いましたからね。魚のごとく たも(網)で掬うというわけです。

 15. 原罪というとげが われわれの良心には刺さったままになっていたのを この棘は引き抜かれたと言い この言葉のままを 生きました。生き切りました。そのように伝えられました。

 16. 棘の刺さっていた患部は まだわれわれの存在に 残されているかも分かりません。すでに癒えていても あざや ほくろや 蒙古斑のごとく 残っているかも分かりません。原罪というのは つまり原初のへそ曲がりというのは 現在つまりイエスのあとの歴史においては そういう状態にあると考えられます。

投稿日時 - 2012-05-09 22:39:42

QNo.7467238

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

原罪については本当に謎だと思います。
「産めよ増えよ地に満ちよ」という言葉は
原罪を犯す前の言葉なので、何故
原罪を犯すまで、子供を産むのを待っていたのかは
謎だとしかいえないと思います。
(仮に、原罪を犯す前に子供を産んでいれば
カトリックでいうマリア様のような
無原罪(従って死なない)の人間がたくさん
存在したはずです。

また、善悪を知る木の実を食べてから
神様が戻ってくるまで少し時間が
ありました。(夕方に帰って来たのだと
思います)

時間が有ったなら、神様が戻ってくる前に
「生命の木の実」のほうも食べてしまえば
良かったのにと思いますが、それすら
分からないということは、善悪を知る木の実を
食べても、善悪が分かっただけで、
賢くなるどころか、かえって頭が悪くなったように
思います。

投稿日時 - 2012-05-10 00:36:52

お礼

 あるゑんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「産めよ増えよ地に満ちよ」という言葉は / 原罪を犯す前の言葉なので
 ☆ ということは 原罪は 生殖ないし性欲もしくはその後の情欲とかかわっていると見ておられますね。

 質問者が原罪の中身だと見るところの《ウソ・イツワリ》も そのことにむろん――生活全般のことですから―― かかわっています。いますが 直接にではないとも見ています。
 言いかえると ウソ・イツワリのない生殖とは 情欲のない生殖だと見ます。見ますが それは性欲をおのがほしいままにゆがめたものを情欲と言うと定義しますから 《情欲のない生殖》にはふつうの――動物にあるようなゆがめようのない――性欲はあると見ます。
 《ほしいままに》というのは 自由意志の問題だと見てもいます。

 わざわざ何故このようなことを言うかと言いますと マリアの処女懐胎が問題とされているようだからです。

 ★ ~~~~
 〔* エワらは〕仮に、原罪を犯す前に子供を産んでいれば
 カトリックでいうマリア様のような
 無原罪(従って死なない)の人間がたくさん
 存在したはずです。
 ~~~~~~~
 ☆ ここが 微妙だと考えます。聖母マリアは ふつうの人間としてまた女として性交をつうじて妊娠しました。ところが その子イエスは そのイエスとしてふつうの人間であると同時に神の子であり神であるキリストでもあるというとき こちらのキリストの誕生の側面としては 聖霊によってみごもったというかたちになる。
 これだけのことだと見ます。人格と神格との両面がある。ということではないでしょうか。

 マリアも アダムとエワの子孫たる人類の一員としては 原罪をふつうに負っています。そういうゆがみうる自然本性として生まれて来ています。
 それだけのことと見ます。

 いえ 必ずしもそれだけとは言えない。言わないほうがよいとも思い返しました。



 なぜなら イエス・キリストが この原罪をあがなったのですから その後のマリアと言うとおかしいですが その後の人類は・そしてその前の人びとも あとからさかのぼって 原罪は消えた。ということなわけですから 話はつながって来ています。


 ★ ~~~
 時間が有ったなら、神様が戻ってくる前に
 「生命の木の実」のほうも食べてしまえば
 良かったのにと思いますが・・・
 ~~~~~
 ☆ たぶんこれも神の仕組んだ仕掛けであり 生命の木から採って食べるというのは およそキリスト・イエスの出現(十字架上の死と復活)を俟って 人間に対して成就させるというかたちを取った。のではないかと推し測られます。


 微妙だと思いますが もしそうだとしたら 質問者のいだく問い求めというのは ウソ・イツワリの原罪が裏を返せばやはり自由意志の問題であると考えられますから この自由意志を人間が備えているというその自然本性のことを わざわざアダムから〔第二のアダムと言われる〕イエスにまで到る長い歴史を通じて知らせるという恰好となっている。どうしてこんな長い時間が必要だったか? です。

 いちおう質問者の意図を申し述べました。

投稿日時 - 2012-05-10 10:45:48

ANo.1

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回答(6)

ANo.6

解釈の齟齬を露呈させる価値は殆ど無いだろう、
という意味を申し上げるべく、前回・前々回の回答を送信しておりました。

投稿日時 - 2012-05-16 00:45:08

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 原罪にかんしては もしそれを想定して世界観を立てる場合においても 現在時では要らないということ この解釈に落ち着くであろうと 賛同する内容なのでしょうか。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 16. 棘の刺さっていた患部は まだわれわれの存在に 残されているかも分かりません。すでに癒えていても あざや ほくろや 蒙古斑のごとく 残っているかも分かりません。原罪というのは つまり原初のへそ曲がりというのは 現在つまりイエスのあとの歴史においては そういう状態にあると考えられます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ この視点に賛同していただいたのでしょうか。

 ありがとうございます。

投稿日時 - 2012-05-16 09:43:40

ANo.5

布教用の必要悪は多様化し得ますので、
其のせいで、派閥の乱立さえもが伴なったのでしょうから、
もし一般に個人的な信条を表明なさらなければ、
(もし日常の振る舞い方で周囲へ影響を与えませんでしたら、)
たとえ自由な解釈が適用されましても、構わないでしょう。

投稿日時 - 2012-05-15 07:40:43

補足

 お礼欄の次の一文をおぎないます。

 ☆☆(お礼欄) 西欧ないし欧米の発想にきわめて深くまたまづいかたちで巻き込まれておられます。
 ☆ これは 従来の歴史的に伝統ともなっている発想に欠陥を捉えこれを批判している見解 その見解の拠って立つ発想のことです。

 西欧の思想の系譜の中でもその主流に対する批判的な見解ないしその思潮 これの拠って立つ発想には あんがいかぶれてしまっているようです 日本人は。

 わざわざ言う必要のない《神は死んだ》といった非主流としての批判的な発言 これには たましいを奪われてしまっているようです。

投稿日時 - 2012-05-15 09:01:38

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 やはり条件づけられていますが それを措いて捉えますと
 ★ たとえ自由な解釈が適用されましても、構わないでしょう。
 ☆ といった結論でしょうか。

 そうしますと さらに同じくいまの条件づけを措いておきますが 前回のご見解から変わったということでしょうか?

 つまりたとえば
 ★★(回答No.4) ~~~~
 最初に其の宗教を作り上げた方々の境遇を度外視しますと、
 解釈が大きく齟齬を来たしますから、
 ~~~~~~
 ☆ を修正され――やはり条件づけを脇に措いておきますと―― 

 ○ 齟齬をきたすものではない自由な解釈がゆるされており じっさいにあり得る。

 というひとつの結論でしょうか? すなわち
 ★★(回答No.4) 全く共通性が見出だされない程に個性的な信仰方法
 ☆ でもかまわない。つまりは 質問者の解釈もそれのひとつの自由な現われであると受け取ってよろしいでしょうか?
 ☆☆(趣旨説明欄) 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。
 (そしてその心は イエスを契機として原罪は――歴史をさかのぼってアダムとエワからのじんるいにとっても―― 要らなくなったのだし じっさい要らない。というものである)。

 ☆ これもあり得る解釈であると受け取ってよろしいでしょうか?

 



 でも このご結論は はっきり申しますが あたりまえのことです。表現の自由 この公理をひと言いえば 済むことです。

 しかも 一たん措いておいた条件づけについても それは まったくの勘違いであると質問者は考えます。
 ★ もし一般に個人的な信条を表明なさらなければ
 ☆ これほど 良心・信教の自由 言論の自由に違反する言動はありません。

 ★ (もし日常の振る舞い方で周囲へ影響を与えませんでしたら、)
 ☆ これほど 人間をバカにした言動はありません。自分の見解を発表しない人びとは あたかも撞球の球のごとくキューで撞かれなければ動かないしキューで撞かれたならその受けたチカラの作用のままに突き動かされると断じています。


 


 ★ ~~~~
 布教用の必要悪は多様化し得ますので、
 其のせいで、派閥の乱立さえもが伴なったのでしょうから
 ~~~~~~
 ☆ 布教としての自己表現までは 相手にそのように振る舞っても 表現の自由にとどまります。
 あとのもろもろの事態は 理論の問題ではありません。
 《必要悪》として《悪》が入っていたとしたら それは 批判し みなで処理するというのみです。
 《派閥の乱立》もヘチマもありません。ただの精神錯乱情況であるに過ぎません。

 というのが 原罪は要らなくなったし もともと要らないと言えるようになったという問いの趣旨です。それに含まれます。つまりは 宗教組織の自己解体のすすめでもあります。


 
 こどつじゅつぷさん 西欧ないし欧米の発想にきわめて深くまたまづいかたちで巻き込まれておられます。余計なことながら。(出る杭を打つそのスタイルの部分は 日本人のものでもあります)。

投稿日時 - 2012-05-15 08:48:10

ANo.4

価値観が教儀を成り立たせてきた訳ですので、
最初に其の宗教を作り上げた方々の境遇を度外視しますと、
解釈が大きく齟齬を来たしますから、
たとえ全く共通性が見出だされない程に個性的な信仰方法への評価を望まれましても、
期待通りの回答は届かないでしょう。

投稿日時 - 2012-05-14 11:23:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ ・・・期待通りの回答は届かないでしょう。
 ☆ これは その前に条件がつけられていますが 一般的に言えば 質問者に《期待》はありません。ぎゃくに言いかえると ちょうど あるゑんさんが
 ◆(回答No.1) 原罪については本当に謎だと思います。
 ☆ と見ておられるように いろんな解釈の可能性があると考えますから そのようなさまざまな――互いに相反するような中身を持ったものとしても――回答を《期待》しています。

 その条件づけですが 最初のほうから見てまいります。
 ★ 価値観が教儀を成り立たせてきた訳ですので、
 ☆ 《教儀》とは 《教義とそれにのっとった儀式》のことでしょうか。ただこの命題は 一方の方向だけを捉えていませんか?
 すなわち《教義》の内容を解釈したところにおのれの《価値観》を見い出しかたちづくるというもう一方の方向性もあるかと考えます。

 ★ ~~~~
 最初に其の宗教を作り上げた方々の境遇を度外視しますと、
 解釈が大きく齟齬を来たしますから、
 ~~~~~~
 ☆ これについても どうなんでしょう 双方向の動きが見て取られるということではないでしょうか。
 人はその環境や《境遇》によってどういう価値観を持ちさらには倫理にかんする規範という意味での宗教をつくったり持つようになったりするか? これは すでに成っている宗教に接するということも《境遇ないし環境》に入りますから やはり双方向の影響があるかと考えます。

 言いかえると たとえばこの《原罪》論について
 ★ 〔* 教祖だとかの境遇を度外視すると〕 解釈が大きく齟齬を来たしますから
 ☆ という見方は 質問者は摂りません。どういう境遇にあったとしても そこからいろんな解釈の可能性は出て来ると見ます。同じような境遇にあってもそこから正反対の解釈や宗教創始が出て来るであろうと見ます。



 ですから
 ★ たとえ全く共通性が見出だされない程に個性的な信仰方法への評価を望まれましても、
 ☆ という条件づけについても 質問者は 正直な話 あまり意に介していません。これは 《条件づけ》として捉えた場合です。この命題そのものの受け取りについては つぎに取り扱います。

 《たとえ》は意味が取れないので 省きますが
 ★ 全く共通性が見出だされない程に個性的な信仰方法への評価を望まれましても 
 ☆ この解釈命題をめぐっての質問者からの応答です。


 1. 《信仰方法》ないし《信仰》は つねに《個性的》です。それ以外にあり得ません。

 2. もしそれがあるように見えたとしたら それは 集団としての宗教を或るひとりの個人が よほど独自に解釈などをしたりして おのれの信仰方法としている場合であるか。それとも

 3. それとも すでに宗教は組織をもって(または 組織を持たなくても)集団として一定の教義をいだいている。(または 教義はなくとも あたかも一定の価値観が共有されているといった情況がある)。という情況に対して たとえば質問者のように或るひとりの個人が 異端としてのごとくあるいは背教したあとの一定の世界観として その信仰内容を発表する。といった場合を言うのでしょう。

 4. おそらくこの(3)が 《個性的な信仰方法》ということなのでしょう。

 5. だから 
 ★ 全く共通性が見出だされない程に個性的な信仰方法への評価を望まれましても、期待通りの回答は届かないでしょう。
 ☆ という見解が回答として寄せられたのでしょう。

 6. だとしたら すでに質問者が《期待》した回答であるはずです。つまり《期待》の中のひとつです。つまりまだその中身は 議論の入り口にとどまっていると見ざるを得ませんが
 ★ 全く共通性が見出だされない程に個性的な信仰方法
 ☆ というひとつの《評価》をもらっているからです。ご回答をありがとうございます。

 7. そうして問題は おそらくもしこの質問を見ているいわゆるクリスチャンが 何も回答しないとすれば それは反論が出来ないからです。無視するという手はあるにはありますが それはただし一般論であって クリスチャンには当てはまりません。つねに人に対しては 隣り人になるようにするのが クリスチャンだからです。
 ★ 全く共通性が見出だされない程に個性的な信仰方法
 ☆ が発表された場合にも 隣り人となって反応をするのが 聖書の神をいだく人のふつうだからです。
 むかしは 異端として裁くか背教者として排除するかでしたが たぶんいまは その手は使わないでしょうから。

投稿日時 - 2012-05-14 12:37:34

ANo.3

『ルサンチマン』による指摘の通りに、
西洋風の伝統にとりましては、
『原罪』の大義名分が必要になっているのでしょう。

投稿日時 - 2012-05-13 23:47:15

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 残念ながら おっしゃることの奥にまでは質問者の理解が及ばないようです。
 チカラ不足だと思います。




 もしそれでも受け取ったままでもよいから何か応答するところを述べよということでしたら 次のように反応します。

 キリスト・イエスの登場のあとでは
 ★ 西洋風の伝統にとりましては
 ☆ という条件をもはや必要とせず 世界のいづれの地の人びとにとっても
 ★ 『原罪』の大義名分が必要になっているのでしょう。
 ☆ というよりも すでに《原罪》をうんぬんする理由がなくなりその必要もなくなっていると考えます。なぜなら
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これで わざわざ原罪を人びとのあいだにひとつの主題として提示した物語は完結したと見るからです。あとに余韻がのこったとしてもです。教会が君臨していたとしてもです。尾ひれがついただけだと見るという意味です。組織宗教はやがて自己解体するであろうという意味です。原罪があがなわれたからです。

 ★ 『ルサンチマン』による指摘の通りに
 ☆ といった歴史的な推移と言いましょうか ひとつの問題提起のようなものは きわめて単純に言えば 上のローマ教会ないしそれに反抗する新教会などなど制度としての宗教が存続していたぶんだけ それらに対する反措定として起こされたものである。そして それであるに過ぎない。

 つまりは 原罪なる主題は要らなくなったのであり それとともに教会なり組織宗教なり あるいはそのようなひとつの社会体制なりといったナラワシはすべて 要らないと考えます。二千年ほどでしょうか 余韻は残ったということのようです。

 これらの文化様式に基本的になじまなかった・ユダヤないしギリシャローマ系統以外の世界においては ただしおそらくウソ・イツワリをも自由に選択しうるというそのような人間にとっての自然本性としての自由意志 これについてその存在に気づかされた。とは考えます。

 アダムとエワの物語が その罪観念にはなじまないとしても 存在論として基本的に言って やはりほかの世界にとっても地続きの人間観であると捉えられるようになった。こう考えます。自由意志ないしその議論は じんるいに共通しているのだと考えられます。

 質問そのものとしては このような趣旨で問うています。

投稿日時 - 2012-05-14 04:39:57

ANo.2

文化圏が齟齬を来たしますと、
原罪の定義づけ自体が蓋し変わって参りますでしょう。

投稿日時 - 2012-05-13 10:53:24

お礼

 こどつじゅつぷさん ご回答をありがとうございます。


 ★ 原罪の定義
 ☆ の基本としては おそらく《ひとが神の心に背いた》ということでしょうね。

 ★ 原罪の定義づけ自体が蓋し変わって参りますでしょう。
 ☆ それはおそらく《解釈》の問題として そのようであるとわたしも考えます。

 ★ 文化圏が齟齬を来たしますと、
 ☆ といった時だけではなく 秩序立ってその文化圏があるときにも人によってさまざまに解釈されるとは考えます。権力ないし権威の側からそれについての統制があったとしても そんなことには関係なく 人の見解はさまざまであると思われます。


 質問の主旨は 要するに――イエスのあとの歴史では―― 《原罪》は要らない。こう言おうとしています。
 なくても何の差し障りも出ない。のではないか?

 こんなところに焦点があります。どうでしょう。

投稿日時 - 2012-05-13 13:19:19

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