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われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

 次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。

 ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80

 § 仏陀の範囲

 ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、

 ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

 ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。

 ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F

 § 概要

 ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。
 過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。
 ~~~~~~~~~~

 問いです。
 【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?
 
 (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?

 (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?

 (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?

 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・

 (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?

 (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?

 (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?

 けれども
 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?

 (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? 

 (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?

 (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。



 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

投稿日時 - 2012-06-11 11:24:06

QNo.7526932

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんばんは。


☆☆☆
《方便品 第二》に答えはすべて出ています。
《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。つまり、法華経が説かれた段階で、法華経前史の《唯仏与仏》は、もはや成立しない。《真理の開示》があったからです。
法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。(その場を立ち去った高慢の人間はいますが、それは、ここでは、ひとまず除外)
だから、《若有聞法者 無一不成仏》。《法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない》となる。
なので、《唯仏与仏》は、《若有聞法者 無一不成仏》の観点から、もう一度、考え直さなければならない。少なくとも《法華経前史》の立場で《唯仏与仏》は語られるべきものではない。
法華経の説く《生命の普遍平等性》の哲学を理解していない。
それでもなお《唯仏与仏》を口にしたいのなら、
これは《ただ法華経と佛の立場に立つ私》と理解するべきものと考えます。
《唯仏与仏》は、法華経と向き合う自分でよい。もっとも純粋な信仰の形と解釈すればいい。
あるいは《同じ仏の立場にたつあなたと私》でいい。
《一切衆生 悉有仏性》が本当なら、《あなたと私》でもよい。
法華経の至る所に出ている、「法華経の一句たりとも、ホニャララホニャララ」みたいな言葉の意味は何ぞ!!
部分でとらえるな!!!
少なくとも《唯仏与仏》を排除の理由に使うな!!!!

などと、《眠り猫》の分際で、生意気なことを考えています。


☆☆☆
◇わたしの《唯我独尊》解釈
わたしは、ゴータマブッダが語ったとされる《唯我独尊》の意味を《ゴータマブッダだけがただひとり尊い》とは解釈していません。
アートマンという言葉を使うと御幣がありますが、
《ただアートマンのみが尊い》
このアートマンを仏性、如来蔵と呼ぶのなら、仏性、如来蔵の本来の一味・平等性から、《唯我独尊》を
《万人すべてが平等に尊い》
と読み替えることもできます。
あるいは、もっと卑近に
《人間、誰しも、自分がいちばん大切》
でもいいと考えています。
「《唯我独尊》は人間の自己愛の強さ、我執の強さを言ったものだ。悟りを開く前のゴータマ・ブッダにも強い我執があったのだ」と解釈してもいい。
でないと、《唯我独尊》が薄っぺらいものになって、まったくつまらない!!
ゴータマブッダの真意をまったく読み違えているけれど、この方が《唯我独尊》って言葉に深みが増すじゃないですか(笑い)

《あほう》ですんで、わたし。



☆☆☆
と思い切り脱線したところから出発しました。

○ 法を知らぬ者は仏を語りえない
 となるのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 一応そうではあっても 《法を知らぬ者》も まったくのかたちでシャットアウトされているのではないと ひとこと添えていただきたい。こう思いますが どうでしょう?

◇「真理の体得は難しい」という意味ならば別ですけれど、
「法を知らぬ者は仏を語りえない」など論外でしょう。
この論理に従えば、ブッダ以外は、誰も仏について語れないことになってしまう。
日蓮を含め、あらゆる宗派の祖師たちを含めてです。
《法華経前史》の《唯仏与仏》の論理ですよ、これは。
すでに真理の全面的開示はあったのですから。
あとはそれから何を読み取るか、個人の問題だと思います。



○☆ これは ゴータマ・ブッダと日蓮とのあいだの《唯仏与仏》を言っているところですが もし――もし です もし――このことがほんとうであるならば このことを持ち出している けいえす5518さんご自身も そのゴータマ氏や日蓮氏とほぼ同じ境地にあると 自認し自称しているということになると思います。

 そういう理解でよろしいでしょうか? つまりは おまえらには――いえ ぶらじゅろんぬには――分からないことだ というご回答なのでしょうか?

◇だと思います。《ぶらじゅろんぬ》さんと私には分からない話だ、いう意味でしょう。
そして、おそらく、控えめな表現での《仏道修行の勧誘》です。



☆ (え) この(あ)は 仏性ないし如来蔵の立ち場と矛盾しないと理解します。≒(う)。

◇はい、本当に悟ってしまえば。
そして、悟ってしまえば、《本覚》《始覚》の区別も生滅します。
《本覚》は《勝義諦》の立場で述べたもので、《始覚》は《世俗諦》(世間的な道理)で説かれたものですから。般若経的な言葉を借りれば、《本覚即始覚・始覚即本覚》なので。あるいは、《本覚始覚不二》なので。
始覚的な《仏の種》も、法界・法身から流出したものなので、梵我一如の観点からその差別は消失してしまいます。《仏の種》は、法身から来たと言ってもいいし、それは実は《如来蔵》であると言っても、同じことを言っているにすぎません。



☆(こ) それとも キリストも背景にしりぞき ブッダも背後へ隠れてしまうのだという・《あたらしい天とあたらしい地》の世界と時代を言っておられましょうか?

◇「はい」とはっきりと明言するほどの勇気も度胸もありませんが、「YES」です。
超越者としての、支配原理としての《キリスト》と《ブッダ》は、もうこの世にいない。
《キリスト》、《ブッダ》というこの世で作り上げられた偶像を信じ、そんなものに祈っても、けっして答えてはくれない。
キリストやブッダの残した言葉などを頼りに、あとは自分で何とかせい!!
という立場です。



☆◇ (う) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分であるならば 
  ☆☆(趣旨説明欄) (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?
の問題をも通り越して ひょっとして《地涌の菩薩》たちのあたらしい時代の到来なのでしょうか? 末法も弥勒菩薩も 屁の河童であると。


《末法も弥勒菩薩も屁の河童》
たぶん。《弥勒菩薩》が下生して救ってくれるなど、到底、信じていません。
が、こんな私でも「救ってくださる」とおっしゃるのなら、そのご厚意には甘えちゃいます。

《地涌の菩薩》の新しい時代ですかぁ~。《地涌の菩薩》について考えたことがないので....
どうでしょう....、《(地涌の菩薩+地涌の声聞)÷2》くらいでしょうか。



☆ もし印象だけで述べてもよいのでしたら 法華経は それまでの集大成であって ほかのオシエを捨ててしまえというのとは違うような感じなのですが そんなあやふやな言い分は通らないでしょうか。

◇どうでしょう、正直、法華経自体、その立場が曖昧なように感じられるので。
法華経を受持し、六波羅蜜を行ずる修行者は尊いといったような記述もありますし.....
中立の立場から言うと、法華経は矛盾に満ちた部分を多くはらんでいますので。
特に融和性と排他性!!
個人的な意見ですが、法華経には不足している部分が多いと思います。
いわゆる小乗の教えは切り捨てても問題はないと考えますが、他の大乗経典の理解は必須と言ったところではないでしょうか。

投稿日時 - 2012-06-14 22:23:34

お礼

 うわぁ こりゃあ たまげた!
 驚天動地とは このことぢゃわい。

 ねむりねこさん まづは ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~
 《地涌の菩薩》の新しい時代ですかぁ~。《地涌の菩薩》について考えたことがないので....
 どうでしょう....、《(地涌の菩薩+地涌の声聞)÷2》くらいでしょうか。
 ~~~~~
 ☆ ぢゃあ 《(地涌の菩薩+地涌の縁覚+地涌の声聞)÷3》ではどうでしょう? 音楽家も絵描きさんもいてくれるとよいです。

 もう仏界は どうでもよいでしょう。あると分かっているのですから。
 実際のはたらきは それぞれだと思えます。地獄も畜生も それとして はたらくのかも知れません。

 あとは そのまま引用してお応えすることになりますので 引用したことにして みなさんは 回答欄のほうをご覧ください。

 次は 知る前と知ったあととで ギャップが大きいので かかげます。
 ◇ ~~~
 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。
 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。
 ~~~~~

   *


 ふさわしい参照資料をと思って探しましたが  いまひとつだったかも知れません。が かかげます。

 ▲ (イザヤ書65:19-25) ~~~~
 わたしは エルサレムを喜び わが民を楽しむ。
 泣く声と叫ぶ声は 再びその中に聞こえることはない。

 わずか数日で死ぬみどりごと
 おのが命の日を満たさない老人とは
 もはやその中にはいない。

 百歳で死ぬ者は なお若い者とせられ
 百歳で死ぬ者は のろわれた罪人とされる。

 彼らは家を建てて それに住み
 ぶどう畑を作って その実を食べる。

 彼らが建てる所に ほかの人は住まず
 彼らが植えるものは ほかの人が食べない。

 わが民の命は 木の命のようになり
 わが選んだ者は
 その手のわざを ながく楽しむからである。

 彼らの勤労は むだではなく
 その生むところの子らは 災いにかからない。

 彼らは 主に祝福された者のすえであって
 その子らも彼と共におるからである。

 彼らが呼ばない先に わたしは答え
 彼らがなお語っているときに わたしは聞く。

 おおかみと小羊は共に食らい
 ししは牛のようにわらを食らい 
 へびはちりを食物とする。

 彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく 
 やぶることはない と主は言われる。
 ~~~~~~~~~~~~


 ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。

    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~



 ☆ いましばらく開いていましょうか。

投稿日時 - 2012-06-14 23:17:43

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回答(61)

ANo.62

自己の完全な認識客体化による属性把握は、
解脱の後にでも、不可能なのではないでしょうか?

投稿日時 - 2012-06-22 02:04:02

ANo.61

続きの回答の為に、下記のページでも、ヒントを賜れませんでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7546534.html

投稿日時 - 2012-06-21 16:17:36

お礼

 どうぞ。

投稿日時 - 2012-06-21 17:20:28

ANo.60

No.54です。

 ■ 現代もそうですが、質問者様の仰るように、自身の生命境界を覚知し、円満する法を求め、自らをそこに境智冥合させていこうとする民衆は、極稀だと思います。

 ☆ ですから 互いに境智冥合を何かにつけ言い合って行けばよい。さらにつけ加えるとすれば そのとき 誰もが《われは ブッダなり》と宣言するということ。これをおこなえば もう大丈夫でしょう。《南無阿弥陀仏》が それほど普及するのなら 同じようにあまねく生活の中に溶け込んで実践されて行くでしょう。

■多くの衆生が無明の境地にあるのに、はたして、それだけで“法”=“仏”ないし“仏性”を知覚しえるかは疑問です。



 ■ しかしながら、以前の回答にも書きましたが、衆生をして“仏性がある”という事は否定していませんし、十界互具を肯定していますのでもちろんその中には“仏界”も含まれます。

 ☆ このことをして 《われは ブッダなり》と言うという意味です。

■衆生を総して“仏陀”とは言えません。


 ■ しかしながら、衆生というのは常に“仏界”に固定されて生きるものではありません。

 ☆ ええ。一念三千でよいのだと思います。理のだけでなく 事のとしてと言うべきでしょうか。

すなわち
 ■ 例えば「ランク(レベル)」的に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚(辟支仏)・菩薩・仏といった十界があるのではなく、全てが一念(念心ともいいましょうか)に収まり、何かの縁によって瞬時瞬時現われてくるというものです。

 ■ また、法華経では全ての衆生が成仏するとは説いておりません。

 ☆ たしかに条件づけてはいるようです。


 ◇(回答No.31) ~~~~
 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。
 ・・・
 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。(その場を立ち去った高慢の人間はいますが、それは、ここでは、ひとまず除外)
 だから、《若有聞法者 無一不成仏》。《法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない》となる。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち《法を聞いたなら》という条件づけです。ただしその条件のもとでは 《一人として成仏せずということはない》と書かれているのですよね?

■書かれています。しかしながら、No.31の言うように、『一人として成仏せずということはない』と捉えるのは誤りです。それはこの方便品は舎利沸を二乗から得道させるために、これから説く法に対して“信”を増長させる目的で進言していることで、この智慧第一とされていた舎利沸ですら“信”を持って仏道に入る⇒以信得入を現しています。その後に続く文言には、法華経を説く場合の事が書かれていて、多くの衆生は疑いを持ち法華経を捨て、悪道に入ることが書かれています。そしてさらにその後に、『当知是妙法 諸仏之秘要』という、諸仏成道の因である“法”の存在が明かされるのです。
さらにその後の、比喩品第三に於いて、『妙法蓮華経』が初めて釈迦牟尼仏より口にされ、舎利沸にたいして未来世において成仏する旨の記別があります。



 むろん
 ■ あくまでも“仏性が有る”ということと、“成仏”=“仏になる”ということは別なのです。

 ☆ ということが 前提となっています。

■⇒全ての衆生をして、仏陀とは言えない。




 ■ 全ての衆生が成仏できるとは言っておりません。

 ☆ たしかに ねむりねこさんは

 ◇ 法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない。

 ☆ というように《法華経を聞く》と言い いま上でわたしは《法を聞く》とわざと言いかえました。
 これは どういうことかと言うと ダルマとしての法は 遍満している。このことのゆえです。先ほど引用した文章で省略した箇所は 次のようです。

 ◇ ~~~
 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。

 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。つまり、法華経が説かれた段階で、法華経前史の《唯仏与仏》は、もはや成立しない。《真理の開示》があったからです。
 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。
 ~~~~~
 ☆ 人は 生まれて来て この世界に生きている。このことだけで すでにダルマとしての法に接している。あとは 境智冥合の道をあゆむだけです。互いに声をかけあってすすめばよい。こういう見方に立ちます。
 
 以上のように考えます。どうでしょう?

■十界互具、一念三千参照。衆生の念心が不変ではない事にあると思います。
また、多くの衆生は法華経を聞くと、疑念をなし、法華経を謗り、法華経の行者をも迫害する。この報いは、無間地獄の業となり、再び人間として生まれる事も、仏にすら縁を出来ない者となることを説かれています。
逆に、仏に会い、仏の説法を聞き、大乗を求め、仏の道に入ることすら、極少ない機会だと言われています。

結論から言えば、いくら森羅万象に法が編満しているからと言って、それを悟り、自らの仏性と境智冥合させる高徳の衆生は極稀であると言えるでしょう。


※※※
設問をいただくたびに、様々な教典、しゃく書をひともき研鑽させていただける機会を与えていただき感謝申し上げます。
現在に於いても、未だ十二分に“妙法蓮華経(法華経)”を修学しておらず、回答させていただきました事、大変恐縮しております。今回の質問に於いて、回答出来ていない事象、文句につきましては、今後研鑽の中で少しでも理解出来ますよう努めてまいりたといと思います。凡夫の身ながら、仏の知恵に関して口を挟む事に少なからず反省をしつつ、今後とも弛まぬよう研鑽し、実戦に励みたいと思います。

南無妙法蓮華経

投稿日時 - 2012-06-19 19:13:42

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。



 なぜ けいえすさんは 悲観的になられるのですか?
 ■ 論から言えば、いくら森羅万象に法が編満しているからと言って、それを悟り、自らの仏性と境智冥合させる高徳の衆生は極稀であると言えるでしょう。
 ☆ だいじゅぶですよ。ときが満ちて そのときになれば 地涌の菩薩が躍り出て来ます。
 かれらが まだ迷いの中にある人びとに声をかけて 元気になるようはたらきかけます。
 それに ひとまづは 三分の一の人びとが 成道すればよいのではないですか? ほかに三分の一の法華誹謗の徒がいるのかも知れません。真ん中の三分の一の人びとは おおむね 初めの光の勢力としての人びとについて来ましょう。

 ということは もう今では上行菩薩も旧いのかも知れません。あらたな地涌の菩薩の時代です。特に指導者は要らないでしょう。
 境智冥合は 自由自在に出来るでしょう 初めの約三割の人びとにとっては。


 ところで なんで 南無妙法蓮華経と言って インド語と漢語とで称えるのですか?
 奇妙ですよね? 久遠仏であるのなら。

 
 おそらく 《われは ブッダなり》が 南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経などに取って代わりましょう。
 そのあとは いちいちこのような宣言は要らなくなりましょう。


 ありがとうございました。
 もう少し開いています。

投稿日時 - 2012-06-19 23:03:07

ANo.59

他に言わないと認識できない?共有ではなくて強要、自分をそんな崇高だと思わない。ブッダの言葉で堅い石が風に揺るがないように他の言葉に揺らがない、みたいな言葉があるでしょ、そのような見解を持つべきではないとは一言も言ってない、否定もしてない、自分がそう思わないから言わない、詳論をなぜ求める?自分がそう思ってればいい、ブッダも黙ってなさいって言ってるじゃん、多くしゃべらずにおのれを信じる。質問文長すぎて読んでない。なぜ言わないかを回答したのみ

投稿日時 - 2012-06-19 09:21:12

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 他に言わないと認識できない?
 ☆ 前回も書きましたように 認識は おのれの内面においてすでに初めにおこなうことです。
 認識を得たなら そのことの社会性を確認する意味で 互いに《宣言する》ということになるります。

 けっきょく その必要もやがて時代とともに なくなって行きましょう。ただ これまで永い永いあいだ 延々と《おさとりごっこ》の議論がつづいて来ました。わたしたちは これに終止符を打つ必要があろうかと考えます。
 考えない人には 《強要》しないことは あたりまえです。
 

 ★ ブッダも黙ってなさいって言ってるじゃん
 ☆ そのブッダが 阿呆であったと言っているのです。人びとは 騙されてきたという意味です。

投稿日時 - 2012-06-19 10:33:37

ANo.58

何でいちいち自分がそうだって人に言うの?別に思わないけど

投稿日時 - 2012-06-19 01:05:33

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 二段階あります。
 1. われわれが一人ひとり ブッダであると認識する。

 2. その認識を互いに共有する。

 第二の段階で そのために
 ★ いちいち自分がそうだって人に言う
 ☆ ということをおこないます。確認のようなものです。



 ★ 別に思わないけど 
 ☆ 上の(1)の認識を持っていないし 持とうと思わないし 持つべきでもない。というご見解でしょうか?

 論拠は いかがでしょうか?
 そういった感想としてのご回答でしょうか?

投稿日時 - 2012-06-19 01:21:31

ANo.57

無根拠の使役が…

投稿日時 - 2012-06-19 00:57:26

お礼

 ええ加減にせーや。

投稿日時 - 2012-06-19 01:22:09

ANo.56

絶対無へと向かい合う主体の側ではなくて、
絶対無自体が自敬を保持…。

『謙譲との関係性』の抜本的な学び直しを…。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1275225857

投稿日時 - 2012-06-18 10:17:10

お礼

 ★ 絶対無自体が自敬を保持…。

 ☆ 《絶対》は 絶対有にせよ絶対無にせよ 《ひとり満ち足りている存在(非存在)》だと見るからには これこれをするとか・しないとかという問題は生じません。

 たとえば 《絶対》でありこれに色をつけて《絶対者》であるのだから 《全知全能》であるはずだと推理するのは マチガイではないと思われますが それはあくまで人間が推理するものです。絶対者の側で何が起こっているのか そんなことは 分かりっこありません。

 《天と地を創った》というのは あくまで人間の側の推理であり想像でありそれを あくまで人間の言葉で表わしたものであり そうであるに過ぎません。要するに神の側で何が起こっているのか 分かりません。

 それだから 初めの神の定義に反しないかぎり どんなことを想像してこれを表現しても 通って行くということになるようです。

 ぢゃあ
 ★ 絶対無自体が自敬を保持
 ☆ ということも 想像と表現は自由ではないか? と問い返されるかと思いますが まづ《自敬》がどういうことか分かりません。それに たぶん《自己を尊敬する》ことでしたら 《ひとり満ち足りている者》がわざわざそうすることもない。こう考えられます。


 何度せつめいすれば 《非経験の場》なる絶対の概念がわかりましょうか。

投稿日時 - 2012-06-18 10:55:49

ANo.55

絶対無が自敬を…

投稿日時 - 2012-06-18 01:13:04

お礼

 No.52お礼欄
 そうですね。

 ○ 無我(アン‐アートマン)⇒空

 ここから 

 ○ 空⇒ 絶対無

 がみちびかれる。あるいはつまり もともと 絶対無が想定されていた。というところでしょうか。
 それでは
 
 ○ この絶対無と相い向かい合う《わたし》に どのようにして《自敬》が生まれるのか?

 このあたりは どうでしょう?
 つまりは ブディズムの説くところに沿って言っているのか。それとも 独自の道が用意されているのか。
 あるいはまた

 ○ そもそも《自敬》とは どういうことでしょう?

 聞きなれない言葉ですので 発案者から説明があってしかるべきでしょう。
 あとは 《われは ブッダなり》と宣言することとの関係はどうなのか? になります。

投稿日時 - 2012-06-18 05:30:38

ANo.54

No.49です。

 (Q‐15)
 ■ ~~~
 仰るように、御本尊がある現在に於いても、〔法(ダルマ)は〕森羅万象に普遍しています。しかしながら、それを目に見える
 形で日蓮大聖人は御本尊として現しました。という事になると、この本尊を“本”としなければならない。
 ~~~~
 ☆ 日蓮氏が ダルマとしての・人間の経験し得べからざる法を 目に見えるかたちに表わしたというのは 措くとしまして(それは 議論しても結着がつかないでしょうから 措くとしまして) そのときおそらく《ダルマの仮りの像》と《“本”としてのダルマ》とをくらべて どうして
 ■ 〔仮りの像としての〕本尊を“本”としなければならない。
 ☆ のかが 分かりません。ふつうは 本末転倒だと見るのが ふつうでしょう。

★回答保留(現時点では、適切な回答が見つかりません。)



(Q‐16)
 ■ ~~~
  (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか?

 口でああだこうだと言っても、衆生(人間)は忘れ、迷うからです。
 ~~~~~
 ☆ “本”としてのダルマは 到るところに遍満しているというのに どうして《忘れる》のでしょう? たしかに《迷い》もするでしょうし ときどき《忘れる》こともしましょう。けれども 《われに還る》という経験は だれもがするところです。一生わすれているというのは まれであります。
 ですから 迷いに迷い ダルマを忘れているとしても でしたら 人びとは身の周りの人たちに ひとこと 境智冥合だよと言って ダルマのことを想い起こさせればよいではないですか。
 目に見えるかたちの本尊のその物 これを利用するというのは 幼稚すぎませんか?

■先ず最初に、『南無妙法蓮華経』を“法(達磨)”とする立場での回答をいたしますが、現実に日本天台第三の座主より以降、この法は存在すれども、広められる事は有りませんでした。それは、第三の座主“慈覚”が真言密教を取り入れた事によります。そして、それ以降、約400年間埋もれてしまうになるのです。日蓮大聖人は諸国遊学の後、建長五年(1253年)、安房の国、清澄寺において『南無妙法蓮華経』を衆生救済の“法(達磨)”として開宗されます。当時の人々(衆生)は、上は執権から下は農民に至るまで、西方極楽浄土を夢見て『阿弥陀仏』を信仰していました。法然の浄土宗はもちろん、天台宗、律宗ですら阿弥陀信仰でした。こういった中で『南無妙法蓮華経』を広め、法華経で説かれる“法難”を受け、上行菩薩の再誕のお立場を現します。佐渡への流罪以降は、法華経の題目である『南無妙法蓮華経』を本尊として広め、甲斐の国身延において「熱原の法難」直後、弘安二年十月十二日、一閻浮提総与の御本尊を認めます。

要するに、当時の日本国において、仏教の研鑽等は僧侶しか行ったおらず、一般の国民は文字も読めず、書けない人間も多かった事が事があげられます。もっとも、当時の社寺・僧侶というのは、現在の大学の役割をしています。また、政府は、飢饉・疫病・災害・戦などには、各宗の高僧に祈祷を依頼し、治めてもらうことを常識として行っていました。
現代もそうですが、質問者様の仰るように、自身の生命境界を覚知し、円満する法を求め、自らをそこに境智冥合させていこうとする民衆は、極稀だと思います。




 (Q‐17)
 ■ ~~~~
  >法華経ではのちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?
   〔つまり (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか? そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと 法華経では のちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?〕

■逆に、上行菩薩の再誕として日蓮大聖人が世に生まれ、『南無妙法蓮華経』を“法(達磨)”とし、衆生救済の本尊として世の中に流布したのです。

  ■ そうです。日蓮大聖人は、文上では“上行菩薩の再誕”と言われていますし、文底では
 久遠元初・自受用報身如来のお立場で、自受用報身が所証の法として本来所持されている
 究極の真理(法)である『南無妙法蓮華経』の御本尊を現し、これを流布します。
 これは、妙法蓮華経 嘱累品第二十二の冒頭にある『汝等応当一 心流布此法 広令増益』
 の文字がそうです。前如来神力品第二十一において“結要付嘱(けっちょうふぞく)”された、仏の
 要法を末法において衆生救済のために広めるということです。
 ~~~~
 ☆ このお答えは 次の二点が答えられていません。
  (あ) なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか?
  (い) そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと〔ことづけられたのか?〕

 すなわち

  ▼(妙法蓮華経 嘱累品第二十二の冒頭) 汝等よ 応当(まさ)に一心にこの法(=この場合は オシエ)を流布して 広く増益(ぞうやく)せしむべし

 とブッダが語り伝えたことは分かりましたが それが どのような形でどのような運動になるかは まだ分かりません。つまり上の(あ)および(い)の問いとして 《本尊》を作り しかもそれを広く用いるというような運動体制にするかどうかの問題。および言葉はわるいですが《専売特許のごときかたち》にするかどうかの問題です。
 ダルマとしての法は 宇宙にも身近にも満ち満ちているというのに この《南無妙法蓮華経》なる本尊でなければダメというその根拠は いかに? となります。

※この質問については、もう少しお時間をいただきたいと思います。




 (Q‐18)
 ■ ~~~
 要するに、質問者様も仰っている“法(ダルマ)”と“仏性”の関係に於いて、“法(ダルマ)”の定義が
なされるべきだという事です。
 ~~~~
 ☆ 定義も何も けいえすさんは 《一切衆生悉有仏性》(これは 涅槃経でしょうか)を受け容れておられないのですか? むろんダルマのことです。分身というべきか。想定として ダルマの霊と言うべきか。あるいは
 
 ○ 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」 

 ○ (No.35お礼欄――大乗起信論から) 〔大乗の《大》というそのわけの〕第二に そのもつ特性が大きいこと(相大)。すなわち 〔衆生心〕はその内に如来を宿すもの(如来蔵)として 如来と同じ徳相(功徳)を本来無量に具えているからである。

 こういった命題を受け容れられないというお立ち場でしょうか?

■上記に書かれている内容については認識していません。⇒過去に、触れていないということです。
しかしながら、以前の回答にも書きましたが、衆生をして“仏性がある”という事は否定していませんし、十界互具を肯定していますのでもちろんその中には“仏界”も含まれます。しかしながら、衆生というのは常に“仏界”に固定されて生きるものではありません。例えば「ランク(レベル)」的に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚(辟支仏)・菩薩・仏といった十界があるのではなく、全てが一念(念心ともいいましょうか)に収まり、何かの縁によって瞬時瞬時現われてくるというものです。地獄にいるから地獄だけとか、仏だから仏だけということではないのです。瞬間瞬間変わるのです。また、法華経では全ての衆生が成仏するとは説いておりません。あくまでも“仏性が有る”ということと、“成仏”=“仏になる”ということは別なのです。むしろ、法華経で説かれている、あるいは、日蓮大聖人が御書で仰っている事は、成仏の難儀さを説いています。例えば“法”に巡り合う可能性や、それを“法”として認識する(できる)難しさ。法華経を広める際に起きるとされている、“法難”に耐える事がでるのかどうか。全ての衆生が成仏できるとは言っておりません。

投稿日時 - 2012-06-17 21:19:22

お礼

 けいえすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ■ 現代もそうですが、質問者様の仰るように、自身の生命境界を覚知し、円満する法を求め、自らをそこに境智冥合させていこうとする民衆は、極稀だと思います。
 ☆ ですから 互いに境智冥合を何かにつけ言い合って行けばよい。さらにつけ加えるとすれば そのとき 誰もが《われは ブッダなり》と宣言するということ。これをおこなえば もう大丈夫でしょう。《南無阿弥陀仏》が それほど普及するのなら 同じようにあまねく生活の中に溶け込んで実践されて行くでしょう。


 ■ しかしながら、以前の回答にも書きましたが、衆生をして“仏性がある”という事は否定していませんし、十界互具を肯定していますのでもちろんその中には“仏界”も含まれます。
 ☆ このことをして 《われは ブッダなり》と言うという意味です。

 ■ しかしながら、衆生というのは常に“仏界”に固定されて生きるものではありません。
 ☆ ええ。一念三千でよいのだと思います。理のだけでなく 事のとしてと言うべきでしょうか。すなわち
 ■ 例えば「ランク(レベル)」的に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚(辟支仏)・菩薩・仏といった十界があるのではなく、全てが一念(念心ともいいましょうか)に収まり、何かの縁によって瞬時瞬時現われてくるというものです。

 ■ また、法華経では全ての衆生が成仏するとは説いておりません。
 ☆ たしかに条件づけてはいるようです。
 ◇(回答No.31) ~~~~
 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。
 ・・・
 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。(その場を立ち去った高慢の人間はいますが、それは、ここでは、ひとまず除外)
 だから、《若有聞法者 無一不成仏》。《法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない》となる。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち《法を聞いたなら》という条件づけです。ただしその条件のもとでは 《一人として成仏せずということはない》と書かれているのですよね?

 むろん
 ■ あくまでも“仏性が有る”ということと、“成仏”=“仏になる”ということは別なのです。
 ☆ ということが 前提となっています。

 ■ 全ての衆生が成仏できるとは言っておりません。
 ☆ たしかに ねむりねこさんは
 ◇ 法華経を聞いた者は、一人として成仏できないものはない。
 ☆ というように《法華経を聞く》と言い いま上でわたしは《法を聞く》とわざと言いかえました。
 これは どういうことかと言うと ダルマとしての法は 遍満している。このことのゆえです。先ほど引用した文章で省略した箇所は 次のようです。
 ◇ ~~~
 《方便品 第二》に答えはすべて出ています。

 《唯仏与仏》つまり《仏と仏でないと分からない》は、法華経が説かれる以前、すなわち、釈尊によって真理が開示される前の話で、法華経前史、pre-historyです。つまり、法華経が説かれた段階で、法華経前史の《唯仏与仏》は、もはや成立しない。《真理の開示》があったからです。
 法華経の方便品を聞き、聴聞者は仏の立場に立った。
 ~~~~~
 ☆ 人は 生まれて来て この世界に生きている。このことだけで すでにダルマとしての法に接している。あとは 境智冥合の道をあゆむだけです。互いに声をかけあってすすめばよい。こういう見方に立ちます。
 
 以上のように考えます。どうでしょう?

投稿日時 - 2012-06-17 23:29:25

ANo.53

後方システムからの支援の存在への共通理解の余裕は期待され難いでしょう。
http://okwave.jp/qa/q7536419.html

投稿日時 - 2012-06-17 12:55:36

お礼

 No.52お礼欄での問いに答えてからにしてください。

投稿日時 - 2012-06-17 13:18:30

ANo.52

絶対無の自敬…

投稿日時 - 2012-06-17 11:45:42

お礼

 そうですね。

 ○ 無我(アン‐アートマン)⇒空

 ここから 

 ○ 空⇒ 絶対無

 がみちびかれる。あるいはつまり もともと 絶対無が想定されていた。というところでしょうか。
 それでは
 
 ○ この絶対無と相い向かい合う《わたし》に どのようにして《自敬》が生まれるのか?

 このあたりは どうでしょう?
 つまりは ブディズムの説くところに沿って言っているのか。それとも 独自の道が用意されているのか。
 あるいはまた

 ○ そもそも《自敬》とは どういうことでしょう?

 聞きなれない言葉ですので 発案者から説明があってしかるべきでしょう。
 あとは 《われは ブッダなり》と宣言することとの関係はどうなのか? になります。

投稿日時 - 2012-06-17 11:59:27

ANo.51

今晩はです。


☆☆☆
☆ すなわち わたしの物言いは このような説明を ゴータマ・ブッダその人が示しているべきだった。これです。そして これだけです。空や法身が出て来ないとすれば つまりは....
といったふうに説明をさらに添えることまでは 言っていないと 真実を言ったことにはならない。こう考えられます。どうでしょう?

◇おっしゃる通り、そこを説くことを避けてしまった。
三法印ではなく、
最初に、はっきりと
《一切皆空》
と言えば、事足りた。
それだけで済んだ。
二千年以上にわたる不毛な議論を避けることができた、ってところでしょうか。
ついでに
《梵即空》

これを言ってもらわないと、困ってしまう。



☆☆☆
☆ すなわち 浄土系の《称名念仏》のうち 親鸞の場合には 特殊であり 当てはまらないと見ます。つまり《全身を傾ける》=《称名念仏》は その結果 成仏するとは見られておらず 順序がぎゃくであって 《信心があたえられた結果 その恩にむくいて 念仏を称える》のだと言われます。

◇思わぬところで火がついてしまった。
おっしゃる通り、親鸞の方向は逆ですね。
称名念仏からではなく、《報恩》でしたっけ、信心が与えられた結果、感謝の気持ちが《南無阿弥陀仏》の言葉になるみたいなことを言っていたような気がします。
(日本・中国の宗学にまったく疎いもので)

ですが、入り口は、親鸞も、やはり法然の説いた《専修念仏》の考え方ですよね。出発点はバクティみたいな思想です、やっぱり。
親鸞の教えを完成形から見るのは、すこし「う~ん」です。

でも、親鸞は《専修念仏》で終らなかった。
《大無量寿経》の《三毒五悪段》などに示されているように、
人間は本来、阿弥陀仏に救われるに値しない存在。
どうしようもないほど、罪深い。
その深い罪の自覚が親鸞の再出発点。
そんな罪深い自分でも救ってくださるのだ。
その感謝の気持ちが《南無阿弥陀仏》という言葉になって自然と口に現れる。

罪の意識からの信仰の純化。
救済の確信。
すごいと思います、親鸞。

たしかどこかで、
弥陀への信心がかたまってしまえば、もはや、《南無阿弥陀仏》さえいらない、
なんて言っていたような、言っていなかったような....

これは別の人だったかな?
すいません、日本の宗学については、ほんと~に無知なもので。

投稿日時 - 2012-06-16 22:21:43

お礼

 わあ またまた おったまげた。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 
 ◇ ~~~
 三法印ではなく、

   三法印
   1.諸行無常印
   2.諸法無我印
   3.涅槃寂静印

 最初に、はっきりと

  《一切皆空》

 と言えば、事足りた。
 それだけで済んだ。
 二千年以上にわたる不毛な議論を避けることができた、ってところでしょうか。

 ついでに
 《梵即空》
 。
 これを言ってもらわないと、困ってしまう。
 ~~~~~
 ☆ 二三年前のむかし ここで 仏教のおしえとは? の問いへの回答には 《梵我一如》が けっこう多かったように思います。そんな問題です。


 あっ。梵即空の両者ともが 非経験の場ですよ。想定において。
 これを受け留め受け容れると わが心に非思考の庭が成るという寸法です。
 心の明け。伸び。窓。志向性。
 あるいは すでに自然本性としてやどっていた霊のようなもの。




    *

 ★ ~~~
 たしかどこかで、
 弥陀への信心がかたまってしまえば、もはや、《南無阿弥陀仏》さえいらない、
 なんて言っていたような、言っていなかったような....
 ~~~~~~
 ☆ あっ すみません。これは 知らないです。でも それが 論理的帰結でしょうね。
 あるいはつまり
 ◇ 弥陀への信心がかたまる 
 ☆ ことさえも 易行門にしたがうのでしょうね。絶対他力ですね。《はからひ》は一切ない。これを無くすというはからひも ないかたち。ここが むつかしい。
 (わたしは 結果としては 挫折したかたちです。でも キリストという存在にすくわれた)。

 (考えてみれば 聖書の視点を すでにこのブディズムの論議において しかるべく出しているべきだった。反応としては 少なかった。ので 仕方がないかな)。




 ◇ 親鸞の教えを完成形から見るのは、すこし「う~ん」です。
 ☆ って言っても そのあとに《再出発》からのけっきょくは完成形に触れておられるぢゃないですか。

投稿日時 - 2012-06-16 22:50:10

ANo.50

こんばんはです。


☆☆☆
『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』ですか。後期ウパニシャッドですか。僕の未知の世界ですね。
『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の成立はおよそ1~2世紀ごろとされていますから、龍樹の時代と重なりますね。第四位のアートマンの説明を読むと、般若・中観的ですね。いわゆる《勝義諦・俗諦》の論理を使って説明していますし....

う~ん、どうでしょう。
この考え方の源泉は、ヒンズー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」(紀元前3~2世紀成立)に見つけることもできるような。
主宰神・バガヴァットは、最高原理である梵・ブラフマンと同一視されたり、それをも超越した存在ともされているようなので。

また、
マハーバーラタには、梵を「自生」・霊魂・最高神と三段階に分ける説などもあるそうなので(すでにバラモン教の方も、理論崩壊しているな。少なくとも、もう無傷ではない。新思想のアートマン一元論に対抗して?)、
これに、《幻力・マーヤー》によって我々から姿を隠している最高の《神我・プルシャ》を加えれば、アートマンの四位説も出てきそうな...
バガヴァットの優位な属性を最高の神我・プルシャとし、劣位な属性をブラフマンととらえればいいような気も....

《マーヤー・幻(力)》、大乗経典、とくに般若経では大切な概念ですねぇ....

《バガヴァッド・ギーター》によれば、
バガヴァットへの至心な《バクティ・献身》をすれば、バガヴァットのお恵みで輪廻を超越できるそうな....
「全心を傾けて彼(=最高神・バガヴァット)に帰命せよ。……彼の恩恵(プラサーダ・prasada)により、汝は永遠最高の安祥に達すべし。」 (バガヴァッド・ギーター)

この全身を傾ける、つまり《バクティ》を、《南無妙法蓮華経》のお題目とすれば、日蓮系の教えになるわな。《南無阿弥陀仏》の念仏とすれば、浄土系だわな....


二日前に思いついたけれど、
《マーヤー》を法華経の説く《方便》ととらえれば、バガヴァット(仏教の方では、世尊と訳されます)は久遠の本仏だわな。《寿量品》になるわな。
《バガヴァット》の《アヴァター(ラ)・化身》である《クリシュナ》は、歴史上のゴータマ・ブッダ、つまり《応身》になるわな。
事実、インドから仏教が消滅した時、ブッダは《バガヴァット・ヴィシュヌ》の化身とされ、ヒンズー教のヴィシュヌ派では、ご本尊の《ヴィシュヌ・バガヴァット》の劣位の神となって吸収されたし....




☆☆☆
と、いきなり、思いっきり危険な話をして始まってしまいました。
単なる戯れ言、思いつき。
bragelonneさん、これを真(マ)に受けては駄目ですよ、僕は半分本気ですけれど。



☆☆☆
バラモン教・ヒンズー教は、仏教哲学の影響を強く受けていますよ。
いわゆる小乗の仏教哲学に対抗して、バラモン教もヴェーダにもとづく哲学を作ったといわれていますので。隆盛を迎える仏教の根絶のためとされているらしいですけれど....
《ぶらじゅろんぬ》さんがお示しになった、後期ヴェーダンタ哲学の大成者・シャンカラ、仏教哲学を持ち込んでいて、《仮面の仏教徒》なんて揶揄されているらしいので。

仏教の方も、同時に、バラモン・ヒンズー教から強い影響を受けています。
そもそも両者を切り離して考えることがナンセンス。
仏教教団の指導層は、バラモン階級出身だったと考えられますんで。
岩本裕が初期仏典をもとに出身階級を調べたところ、50%近くがバラモン階級出身者。
龍樹は分かりませんが、唯識思想の大成者である無著・世親はバラモン階級出身なので。



☆☆☆
☆無我ないし非我つまりアン‐アートマンを説くなら その《否定》のあり方もしくはその実際の意味 これが どうであるかをきちんと説明していなければならなかった。

◇歴史上のゴータマ・ブッダは、哲学・形而上学としては説かなかった。これは事実です。
ヨーロッパの学者であるJ.ゴンダはこのように述べています。
「(『世界は永遠か、いなか』といったような形而上学的な議論は)解脱の大目的に役立たず、思弁だけを擁するこの種の質問に答える暇がないためである。二律背反に関するこの姿勢には、仏陀自身の姿勢の立場からだけではなく、哲学的にみても叡智が閃いている。この効用主義とブッダの権威に対する信仰は、最初期の仏弟子たちを不可知論へと導くことになった。仏陀は、応報の機構・転生の原理・解脱の状態などについて、事細かな説明を与えなかった。」  (インド思想史)

修行をすれば、そして、その修行が完成すれば、全部、分かると、その部分を棚上げした。これは事実です。

でも、全くしなかったかのと言うと、ヨーガの修行階梯で、そのことを間接的に表現している。
ゴータマ仏教のヨーガ階梯、結構面倒で、まして実践がまったくともなっていない僕にはまったく分からない話なのですが、仏教の《三界》の構造を見れば分かると思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%95%8C

これは、仏教の世界観というよりも、ヨーガの修行階梯そのものです。特に《色界》・《無色界》は。
色界の《初禅天》である《大梵天》が、宇宙の創造神である梵天の住む世界です。
ヨーガの階梯が深まるにつれて、二禅天→三禅天→四禅天。ここで、ヨーガ内での、物質的存在をともなわない、表象世界は終ります。
さらに、ヨーガが深まると、ヨーガ中の表象さえ完全に消失し、心の働きまで完全に静止します。
そして、さらにヨーガが深まると、《滅尽定》、すべてが滅した《滅界》《悟りの世界》へと到達します。

この禅定・ヨーガ中にどのようなことが観察できるのか、ゴータマ・ブッダは《沙門果経》などで事細かに説明しているらしいので、
《応報の機構・転生の原理・解脱の状態》などをまったく説明していないとは言えないです。
この部分は神話として表現されています。
ただ、哲学としては説かなかった。
哲学部分を、ヨーガの実習の中に入れた。
そして、仏教の《色界・無色界》、さらに《滅界》とは、まさしく《非思考の庭》!!
(非経験はどうかなぁ~、ちょっと微妙な気が....)

ということになりませんでしょうか。
アートマン=ブラフマンなる有神論を含み、その対立構造すら最終的には解消されるということが、ゴータマ・ブッダの禅定階梯のシステムに示されていると思うのですが。

(ベック著 渡辺照宏・渡辺重郎訳 仏教下 岩波文庫
 第三章 第二段階ーーー瞑想 に、ゴータマブッダの禅定についての詳しい説明があります。)


☆ただ諸法無我を説き ブラフマニズムに対抗したというのでは ただその社会力学的な世俗的な有力なる思潮に対して 駄々をこねただけだと見なさざるを得ないからです。さとりも へったくれもありません。

◇《駄々をこねる》ですか。
当時のブラフマニズムは、祭式と密接に関係していましたからね。人間である《ブラフマン》であるバラモンが祭式をすれば、不死の世界に行けるというような考え方も依然として根強く残っていましたから、
《ブラフマン》の存在の有無については、本心はどうであれ、
ゴータマブッダは口を噤むしかないでしょう。
時代性を考慮してあげないと、可哀想ではありませんかね。
アートマンはあると言えば、それに執著し、ブラフマンがあると言えば、それに頼ってしまいますんで、人間は。

宇宙の最高原理を《ブラフマン》と呼ぶか、《法身》あるいは《空》と呼ぶか、まぁ、その呼称についての仏教とバラモン・ヒンズー教の争いは、不毛と言えば不毛な議論で、ブディスト側が駄々をこねていると言われても仕方ないとは思いますけれど。
大乗の《法身》や《空》は、紛れもなく、宇宙の最高原理であり、その意味で《ブラフマン》と呼べますんで。




☆☆☆
☆ブッダ あやまてりというよりは ブッダは ブラフマニズムに対して マ(間合い)の取り方がまづかった。お粗末だった。こうではないでしょうか? 

◇いやいや、これは困りました。
どうしても僕の口から「YES」の答えを引き出したいようですね。
後世に要らぬ論争の火種を残したという意味では、確かに、お粗末であったかもしれません。

でも、ゴータマブッダは、ヨーガの階梯でブラフマニズムとの間合いのとり方を教えていますんで。あとは、自灯明というところでしょうか。
法灯明の部分は既に示してあるので。

投稿日時 - 2012-06-16 20:23:29

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。議論が再発しましたが ご回答をありがとうございます。

 今回も 復唱の愚はおこないません。

 次のくだりを確認すれば 問いは済みました。
 ◇ ~~~
 宇宙の最高原理を《ブラフマン》と呼ぶか、《法身》あるいは《空》と呼ぶか、まぁ、その呼称についての仏教とバラモン・ヒンズー教の争いは、不毛と言えば不毛な議論で、ブディスト側が駄々をこねていると言われても仕方ないとは思いますけれど。
 大乗の《法身》や《空》は、紛れもなく、宇宙の最高原理であり、その意味で《ブラフマン》と呼べますんで。
 ~~~~~
 ☆ すなわち わたしの物言いは このような説明を ゴータマ・ブッダその人が示しているべきだった。これです。そして これだけです。空や法身が出て来ないとすれば つまりは

 ○ アートマン=ブラフマン(梵我一如)説に対抗して アン‐アートマン(無我)説を唱えるけれど それは 信仰(非思考の庭)としてはどちらも互いに違いはなく同じである。わづかに このアートマンやブラフマンを 人格神としてやあるいは経験事象ないし特定の人間そのものとして捉えそのように思い込んでしまうマチガイが見られる。それを批判しているのです。

 といったふうに説明をさらに添えることまでは 言っていないと 真実を言ったことにはならない。こう考えられます。どうでしょう?


    *

 あと 次のくだりについて 親鸞関連で ひとこと考えを述べます。
 ◇ この全身を傾ける、つまり《バクティ・献身》を、《南無妙法蓮華経》のお題目とすれば、日蓮系の教えになるわな。《南無阿弥陀仏》の念仏とすれば、浄土系だわな....

 ☆ すなわち 浄土系の《称名念仏》のうち 親鸞の場合には 特殊であり 当てはまらないと見ます。つまり《全身を傾ける》=《称名念仏》は その結果 成仏するとは見られておらず 順序がぎゃくであって 《信心があたえられた結果 その恩にむくいて 念仏を称える》のだと言われます。

 ▼ (ヰキぺ:称名念仏) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%B0%E5%90%8D%E5%BF%B5%E4%BB%8F#cite_note-4

 § 人物

 §§ 親鸞

  法然の弟子である親鸞にも受け継がれる。後に親鸞は、浄土真宗の宗祖と定められる。

  浄土往生の道が開けるのは、阿弥陀仏の本願によるものであり、この理(ことわり)を賜る(=信心をいただく)ことにより救われるとする。
 よって「阿弥陀仏より賜わる信心」を浄土往生の正因とし、その信心を賜わった後は「仏恩」に対して自然に湧き起こる「報謝」の心によるものとする。
 そのことを「信心正因 称名報恩」という。
 念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない[*]。

   [*]  念仏を、~捉えない。:…唯円の作とされる『歎異抄』八では、「一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからい(計らい)にて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々」と述べている。
 ~~~~~~~~~~

    *

 次の主題など取り上げ得ずだったようです。あとに取っておきましょうかね。

 ◇ ヨーガの修行階梯 / 《三界》の構造
 ◇ ~~~
 そして、仏教の《色界・無色界》、さらに《滅界》とは、まさしく《非思考の庭》!!
 (非経験はどうかなぁ~、ちょっと微妙な気が....)
 ~~~~~

投稿日時 - 2012-06-16 21:17:14

ANo.49

(か) 成道は それとしての法(ダルマ)を《境》として 境智冥合して 成る。

■そうです。

 (き) この法は いわゆる法身としては 経験世界を超えたところのまさに法だと思われるのであるが それの仮りの像として《本尊》がある。この本尊の前へ坐らせることが 成道へ人をみちびくことである。

■坐らせること⇒題目を唱える

 (く) 目に見える本尊であるゆえ 《知覚》できる。つまり 成道の法は 非経験の場であるけれども 経験的に人は知覚できる。

■そうです。

 (け) これらの成道へのあゆみにおいて 現代では 爾前経に対応しておこなわれたような《衆生の機根のととのえ》は 要らない。

■そうです。それは、現代が末法であり、我々衆生は末法に生まれし、衆生だからです。
これは、釈尊在世の正法時代の衆生と機根が違い、“本未有善(ほんみうぜん)”の衆生が
生まれてくるとされています。その為、末法の法である『南無妙法蓮華経』の御本尊にダイ
レクトで帰依します。

※※※※※※※※※※※※※※※

 (Q‐8) 目に見える本尊がなくても 法(ダルマ)は いたるところに満ちていると考えられませんか?

■思いますし、仰る通りです。これは、前回答と言葉を違えていると思われるかも知れませんが、
文永までというのは、目に見える形で『南無妙法蓮華経』の御本尊が存在していたわけではありません。
仰るように、御本尊がある現在に於いても、森羅万象に普遍しています。しかしながら、それを目に見える
形で日蓮大聖人は御本尊として現しました。という事になると、この本尊を“本”としなければならない。
また、御本尊が目の前に無い時にには、思い浮かべて題目を唱える事も多々ありますよ。
基本的に、御本尊の前に座り、朝夕の勤行・唱題をしているだけですし。

 (Q‐9) 目に見えない法(ダルマ)であっても 宇宙や人間やは現象としてなら存在しているので あたかもその法を知覚できると言ってもよろしいでしょうか?

■問題は、その“法”が何なのか??? と。いうことにあると思います。

そういう境智冥合のばあいが まれに あるともおっしゃっています。

■それは、多くの宗教(仏教以外)が誕生する背景にも有ると思います。そして、前項でも書きましたが
“境智冥合”する対極に位置するものの存在です。

 (Q‐10) 《機根のととのえ》が要らないのでしたら そういうことになるかと考えられます。すでに法華経の段階における宇宙や社会になっていると思われるからには。
 (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか? そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと 法華経では のちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?

■口でああだこうだと言っても、衆生(人間)は忘れ、迷うからです。

>法華経ではのちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?

■そうです。日蓮大聖人は、文上では“上行菩薩の再誕”と言われていますし、文底では
久遠元初・自受用報身如来のお立場で、自受用報身が所証の法として本来所持されている
究極の真理(法)である『南無妙法蓮華経』の御本尊を現し、これを流布します。
これは、妙法蓮華経 嘱累品第二十二の冒頭にある『汝等応当一 心流布此法 広令増益』
の文字がそうです。前如来神力品第二十一において“結要付嘱(けっちょうふぞく)”された、仏の
要法を末法において衆生救済のために広めるということです。

 (Q‐12) もし機根のととのえも要らないのでしたら 成道へ進み入ることは 人の心にやどる如来蔵(仏性)の目覚めるにつれて その人もさとりに到るとは 考えられませんか?

■考えません。それは、実在して御本尊があるからです。
先にも書きましたが、鎌倉文永までは形としての“御本尊”は存在しません。
しかし、いつの時代にも、首題である『南無妙法蓮華経』は有ったわけですよ。
天台、伝教両大師は自行として唱えていたわけですし。

※↑もしそうなら、日本天台宗は、一同にして『南無妙法蓮華経』と唱えなければ
嘘だと思うのですが、、、。まぁ、これは置いといて。

 (Q‐13) すなわち 境智冥合のくらいは すでに仏性において誰にあっても用意がなされていて あとは 人(善知識?)をきっかけにすることはあっても 法(ダルマ)そのものがはたらきを起こすというほどに 成るとは考えられませんか?

■考えません。上記記述参照。

 (Q‐14) なんで わざわざかたちのある本尊が必要となりましょうか? かたちのあるだけ 法(ダルマ)としては インチキではありませんか? 見えざる本尊は もともと 初めからあるのではないですか?

■考えません。上記記述参照。


 次の問いに《無くはない》というお答えをもらっていますからには そう考えられます。
  ■ ~~~
    (Q‐3) 《さまざまな研鑽》とありますが こういう場合は考えられませんか? つまり すでにこの世に生まれてこのかた 人びととともにあゆみ来て そのそれぞれの言わば《小宇宙》なる存在に接した経験から ふと思うと すでに自分は《境智冥合》を果たしていたとさとり あぁ これが《研鑽》だったかぁと思う体験。こういう場合は あり得ませんか?

   ■ 無くはないと思いますが・・・

■ここで言う、「無くはない」という事は、他宗教の確立のきっかけとして、予言者が出現したり、
過去世の記憶を持ち合わせて生まれてくる方が存在したり、世界的指導者が何らかの形で縁したり
といったような、漠然とした事まで視野に入れて回答したものです。

要するに、質問者様も仰っている“法(ダルマ)”と“仏性”の関係に於いて、“法(ダルマ)”の定義が
なされるべきだという事です。

投稿日時 - 2012-06-16 15:00:48

お礼

 けいえすさん ご回答をありがとうございます。

 さっそくお応えしてまいります。一つひとつを復唱しませんが それは おおむねおっしゃるとおりであるか または 大きな問題にならないと思うからです。


 (Q‐15)
 ■ ~~~
 仰るように、御本尊がある現在に於いても、〔法(ダルマ)は〕森羅万象に普遍しています。しかしながら、それを目に見える
 形で日蓮大聖人は御本尊として現しました。という事になると、この本尊を“本”としなければならない。
 ~~~~
 ☆ 日蓮氏が ダルマとしての・人間の経験し得べからざる法を 目に見えるかたちに表わしたというのは 措くとしまして(それは 議論しても結着がつかないでしょうから 措くとしまして) そのときおそらく《ダルマの仮りの像》と《“本”としてのダルマ》とをくらべて どうして
 ■ 〔仮りの像としての〕本尊を“本”としなければならない。
 ☆ のかが 分かりません。ふつうは 本末転倒だと見るのが ふつうでしょう。




 (Q‐16)
 ■ ~~~
  (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか?

 口でああだこうだと言っても、衆生(人間)は忘れ、迷うからです。
 ~~~~~
 ☆ “本”としてのダルマは 到るところに遍満しているというのに どうして《忘れる》のでしょう? たしかに《迷い》もするでしょうし ときどき《忘れる》こともしましょう。けれども 《われに還る》という経験は だれもがするところです。一生わすれているというのは まれであります。
 ですから 迷いに迷い ダルマを忘れているとしても でしたら 人びとは身の周りの人たちに ひとこと 境智冥合だよと言って ダルマのことを想い起こさせればよいではないですか。
 目に見えるかたちの本尊のその物 これを利用するというのは 幼稚すぎませんか?



 (Q‐17)
 ■ ~~~~
  >法華経ではのちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?
   〔つまり (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか? そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと 法華経では のちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?〕

  ■ そうです。日蓮大聖人は、文上では“上行菩薩の再誕”と言われていますし、文底では
 久遠元初・自受用報身如来のお立場で、自受用報身が所証の法として本来所持されている
 究極の真理(法)である『南無妙法蓮華経』の御本尊を現し、これを流布します。
 これは、妙法蓮華経 嘱累品第二十二の冒頭にある『汝等応当一 心流布此法 広令増益』
 の文字がそうです。前如来神力品第二十一において“結要付嘱(けっちょうふぞく)”された、仏の
 要法を末法において衆生救済のために広めるということです。
 ~~~~
 ☆ このお答えは 次の二点が答えられていません。
  (あ) なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか?
  (い) そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと〔ことづけられたのか?〕

 すなわち

  ▼(妙法蓮華経 嘱累品第二十二の冒頭) 汝等よ 応当(まさ)に一心にこの法(=この場合は オシエ)を流布して 広く増益(ぞうやく)せしむべし

 とブッダが語り伝えたことは分かりましたが それが どのような形でどのような運動になるかは まだ分かりません。つまり上の(あ)および(い)の問いとして 《本尊》を作り しかもそれを広く用いるというような運動体制にするかどうかの問題。および言葉はわるいですが《専売特許のごときかたち》にするかどうかの問題です。
 ダルマとしての法は 宇宙にも身近にも満ち満ちているというのに この《南無妙法蓮華経》なる本尊でなければダメというその根拠は いかに? となります。





 (Q‐18)
 ■ ~~~
 要するに、質問者様も仰っている“法(ダルマ)”と“仏性”の関係に於いて、“法(ダルマ)”の定義が
なされるべきだという事です。
 ~~~~
 ☆ 定義も何も けいえすさんは 《一切衆生悉有仏性》(これは 涅槃経でしょうか)を受け容れておられないのですか? むろんダルマのことです。分身というべきか。想定として ダルマの霊と言うべきか。あるいは
 
 ○ 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」 

 ○ (No.35お礼欄――大乗起信論から) 〔大乗の《大》というそのわけの〕第二に そのもつ特性が大きいこと(相大)。すなわち 〔衆生心〕はその内に如来を宿すもの(如来蔵)として 如来と同じ徳相(功徳)を本来無量に具えているからである。

 こういった命題を受け容れられないというお立ち場でしょうか?






 (Q‐19)
 中ほどにおいて 《ご本尊》があるから それはダルマとしてよいのだといった論旨が見られます。これは 同意できませんし 問題が大きいと思います。
 けれども それは論じるにはあまりにも 気乗りがしません。あしからずご了承ください。弁明をおぎなわれるようでしたら お応えしてまいります。

投稿日時 - 2012-06-16 16:04:26

ANo.48

No.40です。

No.40での回答をする前に、No.40の回答の中で質問者様の認識をお伺いしてく補足事項の
要求を行っていますので、回答をお願い致します。


>> (Q‐5) 法(ダルマ)は 経験世界に〔も〕属していて これを人間が《知覚》することが出来るのでしょうか?

>> >経験世界
>> >経験世界に〔も〕属していて

>>●どういう概念で捉えたら宜しいでしょうか?⇒ご教授下さい。


また、併せて、根本首題の回答に付随して、現在(プレゼンスの意)の立場を案内するに、
どうしても、日蓮聖人・創価学会に関する、あるいはその教義での解釈を用いる事もあります
が、これは了承いただけるのでしょうか?

もちろん、日蓮聖人・創価学会については、是是非非有るかとは思います。また、ここに強要
するといった主旨はここ(このWEB上の論議)では御座いません事を御理解いただきたいと存じます。

投稿日時 - 2012-06-16 11:40:42

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 わたしには 一切のタブーはありません。まったき自由です。どうぞ 自由なご見解をお寄せください。


 ○ 経験世界

 につきましては 間接的に触れ得たと思いました。というよりは この《経験世界》は 文字通りの意味です。身と心が位置するままの世界です。その世界は 人間が《知覚》し得ます。
 そうではなく

 ○ 法(ダルマ)は 経験世界に〔も〕属していて 

 が分かりづらかったでしょうか。
 次のような意味です。

 ○ 法(ダルマ)は 法身として あくまで経験世界を超えている。知覚しえず 経験合理性によって思考することも為し得ない。思考し想像したとしても その内容または結論が そのままで正しいとか正しくないとか 最終的なかたちとして 判断できるものではない。といった《非経験の場》が想定されていて そのことをたとえば――《秩序》があるとさらに想定されたなら―― 《法(ダルマ)》として 表現され ひとつの規定となる。ということだと考えます。

 ○ 法(ダルマ)が 経験世界にも属しているか? これは この法が 仮りの姿として経験世界にも自己を表わすと仮定した場合のことです。もし 目に見える本尊ないし《南無妙法蓮華経》が 法(ダルマ)を表わしているとすれば そのことを言います。目に見えない法(ダルマ)とそして目に見える法(ダルマ)とがあり 本尊が後者の法(ダルマ)だとなります。仮りの姿 仮りの像だという理解です。

投稿日時 - 2012-06-16 12:59:05

ANo.47

あっ、そうか、
bragelonneさんの質問は、
《メタ・ブラフマー》 = 《ブラフマン・アートマン》じゃないか
ということですか。
ならば、答えはYESです。
《梵天勧請》は論理破綻しています。

でもまぁ~、
宇宙を作ったといっても、形而下の人格神(インドの神々は形而下的な存在なので)に成り下がっていますから、梵天。
たぶん、梵天も輪廻するので。
ゴータマ仏教、形而下しかやらないんで。形而上学はやらないという原則があるので。
幸い、この時代の哲学の主流はアートマン議論なので、ハハハっ!!
と逃げる。

投稿日時 - 2012-06-16 03:42:25

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ここでは 次の主題についてあらためてお尋ねしてみようと考えました。

 ☆☆(趣旨説明欄) (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには〔その説は〕 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。

 ☆ これは 《法身》論でもありますが ここではその《〈想定〉から入る》というひとつの論点があることを取り上げたいと思います。

 ちょっと参考書をひもときました。
 前田専学が 『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の解説の中で《アートマン=ブラフマン』を説明しています。
 四つの事柄で明らかにするところで 第一位の《普遍位》 第二位の《光明位》のあとの 第三位と第四位の事項に大きな特徴があると言います。

 ▼ (『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』の《アートマン=ブラフマン》) ~~~~~~~~
 第三位のアートマンはまた 一切万有の主宰神であり 全知者であり 内制者( sic )であり 万物の根源といわれています。しかしながら第三位のアートマンは 究極の最高原理ではなく その根底に第四位のアートマンがあるのです。

 従来最高原理とされていたものを一応認めておきながら それらが究極的な原理であることを否認し それを低級な見解であるとして 自説こそがその上に位置づけられることを主張しています。
  (前田専学:『インド哲学へのいざない――ヴェーダとウパニシャッド――』 2000  II ウパニシャッド 第三章 神秘的聖音〈オーム〉 § 四位を有するアートマン=ブラフマン )
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ このアートマン=ブラフマンの議論の前に 《オーム》が説かれており これが 非経験の絶対者であるブラフマンの仮りの像(経験的な 音の像)であると言います。(どこかで聞いた構成です)。

 そこで 第四位の説明です。
 ▼(同上。承前) ~~~~
 第四位の場合には 第一位から第三位までに用いられてきた肯定的・積極的な表現をまったく否定しております。
 第四位は 言語表現を超越しており 絶対的に否定的にしか表現できない存在であり しかも興味深いことには 大乗仏教で用いられる表現が見られます。
 例えば 第四位に対して

 ・ 言葉で表現することができず( avyavahaarya 不可戯論)
 ・ 把捉されず( agraahya 不可取)
 ・ 特徴を持たず( alaksana 無相。( 文字表記は 補助記号を省略しています))
 ・ 不可思議( acintya )であって

 ・ 現象を融消し( prapancopasama 滅一切戯論)
 ・ 寂滅し( saanta )
 ・ 吉祥にして( siva )
 ・ 不二( advaita ) である

 といわれております。
 しかしこれらは大乗仏教に特徴的な言葉であり とくに prapancopasama は バラモン教関係の文献にはほかに用例がありませんが 大乗仏教の中観派の龍樹の『中論』の冒頭に出て来るキーワードの一つです。・・・このような事実から 『マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド』における第四位の発見は 大乗仏教 とくに中観派の影響によると推測されます。
   (前田 ibid. )
 ~~~~~~~~~~




 そこで――前田の解説はなお続きますが―― 話はここから先にあります。端的に言って この《第四位》のアートマン=ブラフマンは 《非経験の場》であり しかも問題は それゆえ(つまり 非経験を扱うゆえ) それは経験事物についての経験思考による認識や判断によるのではなく そうではなく あくまで仮定として《想定する》というかたちで経験科学の中にも導入されるということ。これだと考えられます。

 前田がつづけます。
 ▼ (同上。承前) ~~~
 さらに興味深いことには 従来最高原理として認められていたものとは まったく次元を異にする第四位を承認したことです。
 換言すれば 人格神と絶対者 主宰神とブラフマンをはじめてかなり明確に区別づけているのです。

 これは 中観派の最高の真理と世俗的真理という二種の真理の説(真俗二諦)の影響を受けているのでしょうか。後代になりますと シャンカラは やはり二種の真理を説き 最高の真理の立ち場においてはブラフマンは無属性( nirguna )であるのに対して 無明の 世俗の立ち場からすればブラフマンは有属性( saguna )であり 人格神は無明の立ち場において存在するにすぎない と主張するようになります。
  (前田 ibid. )
 ~~~~~~~~~~~~

 ▼ 中観派の《最高の真理》と《世俗的真理》 
 ☆ とは あくまで《非経験の場 X〔を人間 Z が仮りに受け容れたその非思考の庭なる主観真実  X-Zi 〕》と《事実 Y を経験合理性にもとづき人間が認識したその真実( Y-Zi )》とです。
 《最高の真理》としてのブラフマン=アートマンは もちろん 人間がそのように《想定する》ところの何かであります。経験合理性で捉えるところの因果関係から自由な場の設定です。(ということは X なるブラフマン=アートマンが 因果関係を超えつつ 表現上それを覆い包むことはあり得ます)。
  

 そこで ゴータマ批判です。
 無我ないし非我つまりアン‐アートマンを説くなら その《否定》のあり方もしくはその実際の意味 これが どうであるかをきちんと説明していなければならなかった。
 無我ないし無梵 としてのけっきょく無神論 これは アートマン=ブラフマン(つまり梵我一如)なる有神論と 《わが心における非思考の庭 X-Zi つまり 信仰》にあっては 互いにまったく同等であり対等であり いづれをえらぶということはない。こうはっきりと明らかにしていなければならなかった。
 ただ諸法無我を説き ブラフマニズムに対抗したというのでは ただその社会力学的な世俗的な有力なる思潮に対して 駄々をこねただけだと見なさざるを得ないからです。さとりも へったくれもありません。
 だからのちに 法身説があらわれ 如来蔵説が説かれて来る。説かれて来ざるを得ない内容しか――顕在としてのものごとにおいては――明らかにしていないし し得なかった。こう判断せざるを得ないのではないか?

 ブッダ あやまてりというよりは ブッダは ブラフマニズムに対して マ(間合い)の取り方がまづかった。お粗末だった。こうではないでしょうか? 
 だから 後世において《おさとりごっこ》が 延々とつづく結果となった。これは 悲惨であります。
 

投稿日時 - 2012-06-16 12:34:37

ANo.46

bragelonneさん、こんばんは

仰るところの「非思考の庭」というのが、ですね、・・・そういうこと(「信仰」)では、これは「哲学」として扱われるのもどうか、と、言われても仕方が無いのかと

>「Q10 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?」

ほほう・・・大乗仏教なら、そう言ったであろう、かもしれないところ?

投稿日時 - 2012-06-16 01:55:20

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 仰るところの「非思考の庭」というのが、ですね、・・・そういうこと(「信仰」)では、これは「哲学」として扱われるのもどうか、と、言われても仕方が無いのかと
 ☆ これは もとより おっしゃるとおりです。

 非経験の場にかかわる信仰は もとより哲学は扱いません。
 ただし それでも 経験思想の立ち場から どれだけ迫ってゆけるか。どれだけ経験科学としてその実態を明らかにしうるか?
 こういう問題認識と観点から 問い求めている。そういう情況です。

 ○ 《非経験の場》を想定する。

 のです 哲学としては。

 ○ この非経験の場を それとして受け留め受け容れる。これが わが心において《非思考の庭》として成ることです。ノーと言って受け留める場合もあります。つまり 無神論の場合です。
 
 ○ つまり《庭》と言っても何もないのですが 言ってみれば 心の伸び ないし 明けだと見ます。志向性のことです。心の窓と言ってもよいでしょうが この窓は それを開ければ 外が見えるとか見えないとか そういうたぐいのものではなく 心が《閉じていない》ということ〔のみ〕を言おうとしたものです。つまり 志向性です。



   *

 ★ ~~~~
  >「Q10 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?」

 ほほう・・・大乗仏教なら、そう言ったであろう、かもしれないところ?
 ~~~~~~ 
 ☆ 賛成に一票でしょうか? いやいや それはうたがわしいという一票でしょうか?

投稿日時 - 2012-06-16 08:42:42

ANo.45

こんばんはです。


☆☆☆
(Q) アートマンに吸収されたとは言え 梵我一如というのであれば 勧請したのは梵天であるとき 同時にアートマンも勧請している。ということにならないのですかね?

 それと同時に アン‐アートマン=無我(ないし非我)説をもとなえている。のは・・・


◇ブッダの時代には、半二元論的な《梵我一如》ではなく、もう既に《アートマン一元論》になっていたんですよ。
そして、宇宙の最高原理はアートマンです。
《サーンキヤ》では《プルシャ・神我》が最高原理です。
《梵・ブラフマン》は、最高原理の座をアートマンに譲りわたし、宇宙を創造した神・《梵天・ブラフマナー》、人格神になっていた。

この時代は、最高原理《ブラフマン》と言ったら、《アートマン》《プルシャ》《プトガラ》などを意味するんですよ。
最高神(絶対神ではありません)である《梵天・ブラフマナー》とは別個の存在になっていた、少なくとも、仏教では。

梵天は宇宙を作ったけれど、この世界の支配原理でなければ、仏教にとってはまったく無害な存在です。
そして、仏教は、新たに宇宙の最高原理となった《アートマン》を徹底攻撃したというわけです。

投稿日時 - 2012-06-16 01:47:19

お礼

 このご回答内容は No.47でのやり取りにつながりますが どういうわけか お礼のご返答を忘れてしまっていました。ごめんなさい。

 ★ 《梵・ブラフマン》は、最高原理の座をアートマンに譲りわたし、宇宙を創造した神・《梵天・ブラフマナー》、人格神になっていた。
 ★ ~~~
 梵天は宇宙を作ったけれど、この世界の支配原理でなければ、仏教にとってはまったく無害な存在です。
 そして、仏教は、新たに宇宙の最高原理となった《アートマン》を徹底攻撃したというわけです。
 ~~~~~

 このご指摘を承けて No.47につづくと思います。
 すみませんでした。締めようと思って気づきました。

投稿日時 - 2012-06-24 08:53:19

ANo.44

bragelonneさん、こんばんは

(内心の)信教の自由ということから言ったら、所詮は、「他人の庭」ですか
(bragelonneさんの博識を、とやかく言うものではありません)

投稿日時 - 2012-06-16 00:58:35

お礼

 こんばんは くりなるさん。ご回答をありがとうございます。

 ん?
 
 信仰というあゆみ つまりは 《わが心に非思考の庭が成る》というその成就およびそれ以降の動態 これは 人それぞれであるから 互いに
 ★ 所詮は、「他人の庭」ですか
 ☆ と見ざるを得ない。こういう捉え方のことでしょうか?

 それは そうでしょうね。
 そうして 神の霊がやどるとも言えるその状態としての 《仏性を宿す存在》は 一人ひとりにおいて完結していることにおいて おそらく互いに共通の要素があるのでしょうね。仏性ないし如来蔵として。

投稿日時 - 2012-06-16 01:20:49

ANo.43

>アン‐アートマン説をとなえるというのに 梵天からの勧請を受けて悟りの内容を伝え始めたというのも 何だかごちゃまぜなような気がします。

梵天の存在を否定したのではなく、梵天が究極存在であることを否定したのでございます。

投稿日時 - 2012-06-16 00:44:23

補足

 お礼欄の次の表現を訂正します。

 ☆☆(お礼欄の中ほど) ~~~
 ・・・もし
 ★ 梵天が究極存在であることを否定した
 ☆ の な ら 梵我一如のほうは そのままであるとすれば アートマンともつながっていると思われるのです。
 ~~~~~~~~~~~~

 次のようにです。

 ○ (訂正後)~~~
 ・・・もし
 ★ 梵天が究極存在であることを否定した
 ☆ のだとしても 梵我一如のほうは そのままであるとすれば なおアートマンとつながっていると思われるのです。
 ~~~~~~

投稿日時 - 2012-06-16 01:24:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 宇宙の根本原理としてのブラフマン(中性名詞)と 神の名としてのブラフマン(男性名詞。それゆえ 区別するとき こちらを ブラフマーと呼ぶそうですね)との違いがあるようですが もし
 ★ 梵天が究極存在であることを否定した
 ☆ のなら 梵我一如のほうは そのままであるとすれば アートマンともつながっていると思われるのです。
 つまり 梵天勧請と言うなら アートマンのほうからも勧請があったと見られると思われるのです。

 なのに アン‐アートマンなる説を立てている。

 これって 変ではないですか?

投稿日時 - 2012-06-16 01:13:03

ANo.42

こんばんは。


☆☆☆
 ふと思うにですが
 
 ○ 梵天勧請

 というのも 不思議です。アートマンについて初めは無記としていたのたかどうか いづれにせよ アン‐アートマン説をとなえるというのに 梵天からの勧請を受けて悟りの内容を伝え始めたというのも 何だかごちゃまぜなような気がします。



◇ブッダに先行するウパニシャッドで、《梵我一如》ということでブラフマンがアートマンに吸収されたからじゃないでしょうか。

宇宙の最高原理とされるブラフマンは、発生の経緯からしてひじょ~うに胡散臭い存在。
《宇宙の真理とは何ぞ》というような真摯な哲学的探求から生まれたというよりも、祭式宗教であるバラモン教の祭式原理の説明のためにでっち上げられた存在ですんで。
しかも梵我一如で、個我であるアートマンとブラフマンが同じということになって、ブラフマンは宗教と哲学の主役降板。
あらたに宇宙の最高原理の座に上り詰めたアートマン探索隆盛の時代になった。
そして、ブラフマンは、ただの宇宙創造神になってしまった。

仏教の双子の宗教といわれるジャイナ教でも、宇宙の最高原理であるブラフマンなんかどうでもよくなっている。主役は《命我・ジーヴ》とよばれるアートマン。
バラモン教の主要哲学学派の一つ《サーンキヤ》でも、宇宙の最高原理は《プルシャ・神我》と呼ばれるアートマン。
仏教に至っては、その《アートマン》さえ捨てた。

最高原理の座をアートマンに譲り、ただの宇宙創造神、インドの神々の一人になってしまえば、
梵天は仏教にとってまったく無害な存在。
他の神さまよりもずっと偉そうな神様だから、仏伝製作者が、ブッダの神格化をする上で利用した。
まぁ、こんなところではないでしょうか。


~~~
さらに時代がくだると、
ヒンズー教の主要なビシュヌ教では、
宇宙創造神の梵天は、《イーシュヴァラ・主宰神》になった《ヴィシュヌ神》の手のひらに転がされる程度の神になってしまう。
ここでは、もう梵天はグノーシスのデミウルゴス的存在。真なる神・ヴィシュヌが存在することにも気づかないおバカさんになってしまっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%BC

投稿日時 - 2012-06-16 00:25:15

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 もう一度だけ おたずねしてみます。

 (Q) アートマンに吸収されたとは言え 梵我一如というのであれば 勧請したのは梵天であるとき 同時にアートマンも勧請している。ということにならないのですかね?

 それと同時に アン‐アートマン=無我(ないし非我)説をもとなえている。のは・・・

投稿日時 - 2012-06-16 01:02:39

ANo.41

#36~#38の内容が同じ意図を表現していますが、
『どうでもよい』との御返事から察しますと、
重要な共通項の存在をお分かりになっていらっしゃらないのだろう、
と思われますが、如何でしょうか?

投稿日時 - 2012-06-15 23:47:25

お礼

 相手がこれこれと言っている。
 それに対して 自分はあれそれと考える。
 それは これこれの理由からである。

 そのようにやり取りをすすめてください。

投稿日時 - 2012-06-16 00:12:18

ANo.40

 ■ もし、この先質問者様が様々な研鑽をされ、いずれかの“法(達磨)”を信受し、その“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導くならば、仏陀と呼ばれるでしょう。
 ☆ 今までよりもっと端的なかたちで 質問をいたします。

 (Q‐1) 《地涌の菩薩》は 《ブッダ》と呼ばれないのでしょうか?

■『地涌の菩薩』は、妙法蓮華経 従地涌出品第十五に出てく“菩薩”です。
地涌の菩薩は過去の釈迦仏が、過去世に於いて教化した菩薩とされています。
そして、従地涌出品では、弥勒菩薩が過去の教化について、代表し質問します。
これに対して釈迦仏は、次の如来寿量品 第十六で現世の修行で成道(始成正覚)した
のではなくて、過去世に成道(久遠実成)したことを明らかにし、過去世において地涌の菩薩
を教化した事を明します。
この後の、如来神力品 第二十一、嘱累品 第二十二で釈迦仏(如来滅後)滅後の娑婆世界
において、妙法蓮華経の弘通の付嘱を受けます。

地涌の菩薩は、この法華経においては“仏(仏陀)”という表記はありません。“菩薩”という
表記しか有りません。

私感ですが、釈迦仏(如来滅後)滅後の娑婆世界において、妙法蓮華経の弘通の付嘱を受けて
おりますので、未来世に於いて付嘱された“法”をもって法華弘通をいたします。
この事から考えれば、その時点で“仏(仏陀)”の行動、あるいは如来という立場に成るかと思います。

※この点については、研鑽不足もあり、明確に回答する事は出来ません。

 (Q‐2) けいえす5518さんは 《衆生を成道へみちびき》ましたか?

■これは、今の人生に於いてという事だと考えますが、宜しいでしょうか?

色々な誤解や認識の不一致もあり、日蓮聖人・創価学会のお話は避けようと
思っていましたが、今世に於いてということであれば、導いています。
それは“衆生を成道へみちびく”という表現よりは、弘教という事です。
これは日蓮聖人・創価学会の教義の話ですが、“法(達磨)”というものを
『南無妙法蓮華経』の本尊としている事は、御存じだと思いますし、事実その
認識により成り立っている事です。この事を踏まえれば、創価学会一人一人は
各々差が有るにせよ、導いていると言えるでしょう。
しかしながら、何度かお話ししていますが、我々は衆生であり、一人の凡夫です。
それは、十界の生命境界が縁により移り変わるからです。

 (Q‐3) 《さまざまな研鑽》とありますが こういう場合は考えられませんか? つまり すでにこの世に生まれてこのかた 人びととともにあゆみ来て そのそれぞれの言わば《小宇宙》なる存在に接した経験から ふと思うと すでに自分は《境智冥合》を果たしていたとさとり あぁ これが《研鑽》だったかぁと思う体験。こういう場合は あり得ませんか?

■無くはないと思いますが、極一部でしょう。また、それらが本当に“真理”という
ものかどうか。それは認識により変わってくるのではないでしょうか。

ユダヤ教、イスラム教等の覚者。予言者(シャーマン)等の覚者。一部の世界の
指導者等も視野に入れています。

また、 《さまざまな研鑽》と書きましたのは、今回の質疑応答も含めて、質問者様は
真理に対する造詣も深く、今後、あるいは既に何かを覚知されているのかも知れません。
ただ、今回の質疑の中では、、“法(達磨)”または、神あるいは創造神などについての
真理を特定されていないため、指摘の文を追記いたしました。


 (Q‐4) 《“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導く》 この命題についてですが けっきょく《成道へとみちびく》のは 人ですか? 法ですか?

■人です。そして、成仏の因として『法』が有り、そこに縁します。
逆に、衆生をして仏法(成道の法の意)に導くことこそ、仏の生命状態の
発露だと考えます。 

 (Q‐5) 法(ダルマ)は 経験世界に〔も〕属していて これを人間が《知覚》することが出来るのでしょうか?

>経験世界
>経験世界に〔も〕属していて

●どういう概念で捉えたら宜しいでしょうか?⇒ご教授下さい。

■その為に、本尊として現しています。あとは、唱題して、自分の生命境涯を
見てみれば良いと思います。明確でしょう。


 ■ 仏性を備えているとはいえ、成仏の“法(達磨)”を知覚していなければならないと考えます。
 ☆ この命題との関連です。

■“法(達磨)”を知覚⇒日蓮聖人・創価学会においては、『南無妙法蓮華経』の御本尊として
明確になっています。


    *

 《爾前経と法華経との関係》についてですが:
 ■ これについては、それまで導いてきた声聞・縁楽(辟支仏)を始めとする弟子・衆生の機根を整える為に、先ずは方便の意味で権経を説き、機根が整ったところで肝心に当たる法華経を説いたと言われています。

 ■ 尚、法華経以前の教え(爾前経)を捨てるとありますが、捨てるというのはそれまで説いてきたところの迹仏の事で、爾前経を全く用いないという事ではありません。

 ☆ そうしますと:

 (Q‐6) 現代人が成道へと到るには 爾前経での《機根のととのえ》をやはり同じように経たうえで 法華経による境智冥合の実践へとすすむ ということでしょうか? それとも いきなり法華経という段階に自分を位置させることから始めるのでしょうか?

■現代⇒末法では、『南無妙法蓮華経』の御本尊にダイレクトに帰依します。
これは、以前の回答にも書いています。

 (Q‐7) しつこく尋ねますが (Q‐3)のように 《肝心に当たる法華経》に拠らなくても 世の中を勤勉に仕事をし生きたという経験のうちに 境智冥合を果たしていたという場合は あり得ますか?

■前項参照⇒Q3

投稿日時 - 2012-06-15 20:26:11

お礼

 けいえす5518さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 さらにお尋ねしたいと思います。
 主題を分散させないように しぼりました。

 (あ)■ 現代⇒末法では、『南無妙法蓮華経』の御本尊にダイレクトに帰依します。

 (い)■ ~~~~
  (Q‐4) 《“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導く》 この命題についてですが けっきょく《成道へとみちびく》のは 人ですか? 法ですか?

   (う)■ 人です。そして、成仏の因として『法』が有り、そこに縁します。
  逆に、衆生をして仏法(成道の法の意)に導くことこそ、仏の生命状態の
  発露だと考えます。 
 
 (え)■ ~~~~~~
    (Q‐5) 法(ダルマ)は 経験世界に〔も〕属していて これを人間が《知覚》することが出来るのでしょうか?

   >経験世界
   >経験世界に〔も〕属していて

   ● どういう概念で捉えたら宜しいでしょうか?⇒ご教授下さい。

  (お)■ その為に、本尊として現しています。あとは、唱題して、自分の生命境涯を
   見てみれば良いと思います。明確でしょう。
 ~~~~~~~~~

 ☆ これらなどから 次のようにまとめてよろしいでしょうか?

 (か) 成道は それとしての法(ダルマ)を《境》として 境智冥合して 成る。

 (き) この法は いわゆる法身としては 経験世界を超えたところのまさに法だと思われるのであるが それの仮りの像として《本尊》がある。この本尊の前へ坐らせることが 成道へ人をみちびくことである。

 (く) 目に見える本尊であるゆえ 《知覚》できる。つまり 成道の法は 非経験の場であるけれども 経験的に人は知覚できる。

 (け) これらの成道へのあゆみにおいて 現代では 爾前経に対応しておこなわれたような《衆生の機根のととのえ》は 要らない。





 マチガイはさらに指摘していただくとして このような理解から出発して ほぼ最終的なお尋ねになるかと思うその質問をしてみます。

 (Q‐8) 目に見える本尊がなくても 法(ダルマ)は いたるところに満ちていると考えられませんか?

 (Q‐9) 目に見えない法(ダルマ)であっても 宇宙や人間やは現象としてなら存在しているので あたかもその法を知覚できると言ってもよろしいでしょうか? そういう境智冥合のばあいが まれに あるともおっしゃっています。

 (Q‐10) 《機根のととのえ》が要らないのでしたら そういうことになるかと考えられます。すでに法華経の段階における宇宙や社会になっていると思われるからには。

 (Q‐11) つまり なぜ目に見える本尊としての法(ダルマ)が 必要になるのでしょうか? そのような専売特許のごときかたち・あるいは運動体制にせよと 法華経では のちの上行菩薩や地涌の菩薩たちに言(こと)づけられたのでしょうか?

 (Q‐12) もし機根のととのえも要らないのでしたら 成道へ進み入ることは 人の心にやどる如来蔵(仏性)の目覚めるにつれて その人もさとりに到るとは 考えられませんか?

 (Q‐13) すなわち 境智冥合のくらいは すでに仏性において誰にあっても用意がなされていて あとは 人(善知識?)をきっかけにすることはあっても 法(ダルマ)そのものがはたらきを起こすというほどに 成るとは考えられませんか?

 (Q‐14) なんで わざわざかたちのある本尊が必要となりましょうか? かたちのあるだけ 法(ダルマ)としては インチキではありませんか? 見えざる本尊は もともと 初めからあるのではないですか?
 次の問いに《無くはない》というお答えをもらっていますからには そう考えられます。
  ■ ~~~
    (Q‐3) 《さまざまな研鑽》とありますが こういう場合は考えられませんか? つまり すでにこの世に生まれてこのかた 人びととともにあゆみ来て そのそれぞれの言わば《小宇宙》なる存在に接した経験から ふと思うと すでに自分は《境智冥合》を果たしていたとさとり あぁ これが《研鑽》だったかぁと思う体験。こういう場合は あり得ませんか?

   ■ 無くはないと思いますが・・・
 ~~~~~~


 おわづらわせ申しますが よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2012-06-15 22:35:31

ANo.39

みけねこさん、どうもです。


ゴータマ・ブッダについては、意外な程、分かっていないんですよ。
一般に名前はゴータマ・シッダッタとされていますが、ゴータマは《最上の牛》、シッダッタは《成就者》という意味で、実名ではないだろうとされています。
消されたんですよ、仏伝作者たちによって、ブッダの本名。
父親シュッドダーナ、母親マーヤ、おばさんで育ての母親ゴータミー(マハープラジャパティー)、
奥さんのヤショーダーラ、子供のラーフラ、
従弟のアーナンダとデーヴァダッタの名前は出てるんですけれど....。
理髪師のウパーリの名も分かっているんですが.....


参考になればと、ブッダについての記事のリンク先を以下にしめします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

投稿日時 - 2012-06-15 17:28:40

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ふと思うにですが
 
 ○ 梵天勧請

 というのも 不思議です。アートマンについて初めは無記としていたのたかどうか いづれにせよ アン‐アートマン説をとなえるというのに 梵天からの勧請を受けて悟りの内容を伝え始めたというのも 何だかごちゃまぜなような気がします。

投稿日時 - 2012-06-15 21:51:55

ANo.38

別のページ( http://okwave.jp/qa/q7534633.html )で、
前回の回答に関する質問を致しましたから、
御教授を賜れませんでしょうか?

投稿日時 - 2012-06-15 15:39:53

お礼

 直前(No.37)のお礼欄の応答にて。

投稿日時 - 2012-06-15 16:29:21

ANo.37

前回の回答の通りに、『不本意な現実の有り難味を悟った諦めのこと』を、『観念する』と…。

投稿日時 - 2012-06-15 15:33:27

お礼

 ★ 不本意な現実
 ☆ が《あり難い》のですか?

 その
 ★ 不本意さ
 ☆ を 自分で――出来れば具体的に――分析し人に説明できるようになることが いちばんです。

 ★ 観念する
 ☆ かしないかは どうでもよいことです。

投稿日時 - 2012-06-15 16:28:16

ANo.36

『在りの儘の現実』を絶対的な救いの結果の賜物だと見做すのは、
遺憾乍ら非常に難しくて、…。

投稿日時 - 2012-06-15 11:58:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 もしそういった判断が 何らかの合理性を持ちさらに一般に妥当性があると認められるとするならば それは 人間一人ひとりにそなわった生まれながらの自然本性としての知性および意志という能力によるものでありましょう。

 すなわち ご見解にもかかわらず
 ★ 『在りの儘の現実』を絶対的な救いの結果の賜物だと見做す
 ☆ ことになっている。こう考えられます。

投稿日時 - 2012-06-15 13:04:14

ANo.35

テフ テフさん
眠りネコさん初め
皆さん おはようございます。
東上線 朝霞台駅 あたり

眠りネコさんのおかげで 法華経とそれ以前の経の関係が私的には ファイナルアナウンサー かな。
テフ テフ さん 面白い 例えです。
多少 脱線記載で許してください。
医聖のヒポクラテスは地中海沿岸の各種
名医に医療の修業の旅をして道を極めました。
日蓮も日本中の名僧に弟子入りして 修業を積み 法華経に開眼します。
ところで ブツダの手塚治虫の漫画には マー 漫画ですが あまり 師匠がありませんこの人 一人で この境地までたどりついたのでしょうか?

それから 法華経 寿量品 第 16 余り理解してない 私 でした

私の苦難な人生は人生相談の質問に立ってますので☆気の向いた方はみて☆

投稿日時 - 2012-06-15 07:20:54

お礼

 みけねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 悪名高き《本覚思想》を伝えるとともに 《如来蔵(仏性)》を説く《大乗起信論》から 引きます。

 ▲ (大乗とは何か / 如来を宿すこと) ~~~
 § 1 ここにいう〔大乗・マハーヤーナーとよばれる〕もの(法)とは 〔具体的には〕衆生ひとりひとりの心(衆生心)をさす。

 § 2 この〔衆生ひとりひとりの〕心にはすべての世俗的に価値あるもの(世間法) および 世俗を超越した価値あるもの(出世間法)が含まれており したがって それが大乗の内容を表現している。

 § 3 何故かというと この〔衆生ひとりひとりの〕心の真実ありのままのすがた(心真如相)に大乗というもの自体(体)が顕われており 他方 その心が 〔種々の現象の〕生滅する因由となるすがた(心生滅縁相 すなわち 現実に機能している心のありさま)に大乗の自体とその諸特性(相)とが示されているからである。


 § 4 次に その内容(義)〔すなわち〈大きい乗りもの〉といわれる意味のうち まづ 〈大きい〉ということ〕には三点がある。

 第一に そのもの自体が大きいということ(体大)。すなわち 〔衆生心の本体は〕すべての真実のあり方(一切法真如)として 〔すべての衆生には〕平等に具わっており 〔衆生が迷っているからとて〕減るものではなく 〔悟っているからといって〕増すものでもないからである。

 第二に そのもつ特性が大きいこと(相大)。すなわち 〔衆生心〕はその内に如来を宿すもの(如来蔵)として 如来と同じ徳相(功徳)を本来無量に具えているからである。

 第三に そのはたらきが大きいこと(用大)。すなわち 〔その衆生心の内なる如来 すなわち心真如が〕世間的ならびに世間超越的なすべての価値あるもの(善)の因となり 果となるからである。


 § 5 〔次に〈乗りもの〉という意味は〕すべての仏たちがむかし それに乗っ〔て悟りを得〕たし また〔仏と同じ悟りを求める〕菩薩たちもみな それに乗って〔将来〕如来の地位に到達するであろうからである。

 (《大乗への信心を起こさせる書(大乗起信論 現代語訳)》 第二段 主題――大乗とは何か――(立義分)
  高崎直道訳 // 宇井白寿・高崎直道訳注 岩波文庫『大乗起信論』 1994)
 ~~~~~~~~~~~~

    *



 ▼ (ヰキぺ:四箇格言) 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%AE%87%E6%A0%BC%E8%A8%80
 ☆ について 考えてみたいと思います。どうなるかは分かりません。
 

投稿日時 - 2012-06-15 11:38:14

ANo.34

bragelonneさんこんばんは。

私は全くのど素人ですが。#27の法華経 寿量品 第16に興味を持ちました。
この文章からすると仏陀は、今でいう人間で最初の精神科の医者だったのではないでしょうか?
彼は、人間の苦を無くすにはどうしたらいいか修行の旅に出た。そして、彼はあらゆる苦とそれを治療する方法を試みた。そして、ついに彼は菩提樹の下で人間の自然治癒力を発見した。彼は、自然治癒力を最大限に発揮する方法を弟子たちに説いた。
病気の根本は、人間の知恵から起こっている。それは、人間の概念のパラドックス(煩悩)だ。治すには、健全な肉体と健全な精神を保つことだ。その方法が、お経として伝えられた、五感全てによる最大限の自然治癒力発揮法である。もちろん、密教(ドーパミン、エンケファリン等)の治療も認めた。そして、治った者は、普通に生活すればよい。お経は病気に成った時だけでよい。仏陀は、全ての人に生命活動を見たのだ。人間は困った人がいれば誰もが助けるであろう。人間は自分達の知恵により、自らを信じる(信仰する)のだ。仏陀は、人間はみんな仏陀なんだと思った。
法華経とは、いわば、仏陀の教えの目録または要約ではないのでしょうか?

まぁ~これだけだとは思わないのですが。

投稿日時 - 2012-06-15 02:52:13

お礼

 てふてふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 なるほど。そうなんですね。
 ★ #27の法華経 寿量品 第16に興味を持ちました。 / この文章からすると仏陀は、今でいう人間で最初の精神科の医者だったのではないでしょうか?
 ☆ 聖書にも人から悪霊を追い出すといった記事があります。

 ◇ (回答No.31) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」
 ☆ この《自性としての清浄心》に てふてふさんも着目しておられましょうか。
 ★ ついに彼は菩提樹の下で人間の自然治癒力を発見した。
 ★ 治すには、健全な肉体と健全な精神を保つことだ。
 ★ 五感全てによる最大限の自然治癒力発揮法である。

 あるいは
 ★ もちろん、密教(ドーパミン、エンケファリン等)の治療も認めた。
 ☆ といったところにまで 目配りされたんですね。わたしは 密教にも 精神医学にも明るくないので なんともしっかりとしたご返答が返せないのですが どうなのでしょう。

 ★ 病気の根本は、人間の知恵から起こっている。それは、人間の概念のパラドックス(煩悩)だ。
 ☆ このパラドックスが あまりにも錯綜した結ぼれ方をしてほどけなくなったときには そういった密教風の休息手段も必要になりましょうか どうでしょうか。

 ★ 仏陀は、全ての人に生命活動を見たのだ。人間は困った人がいれば誰もが助けるであろう。人間は自分達の知恵により、自らを信じる(信仰する)のだ。仏陀は、人間はみんな仏陀なんだと思った。
 ☆ ゴータマ・ブッダは 成道したあと そのさとりを人に伝えようか迷ったそうですね。これほど深い智慧をふつうの人が受け取って理解しうるかと――自分ながら―― 思うところがあったそうですね。そのあと 《梵天勧請》というのでしょうか 迷いをひるがえして 法の輪をころがし始めたのだとか。

 ★ 法華経とは、いわば、仏陀の教えの目録または要約ではないのでしょうか?
 ☆ 先ほどの《生命活動》の視点があるそうですね。
 というところまで受け留めていますが この《法華経 寿量品 第16》には わたしはまだ ピンと来ていません。

 ★ まぁ~これだけだとは思わないのですが。
 ☆ とわたしも 言っておかないとならないようです。

 ありがとうございました。お久しぶりでしたね。




 あっ。 
 ★ 仏陀は、人間はみんな仏陀なんだと思った。
 ☆ 質問に対するドンピシャのお答えだったですね。ブッダ自身がそう思ったという見方になっています。
 そして質問者は そこからわざわざ《誰もがそれぞれ自分はブッダであると 内面で自分にも言うし さらに人に向かっても言う》というところまで伸ばしています。互いに言い合うようになるなら もう要らなくなるかと思われます。

投稿日時 - 2012-06-15 05:42:59

ANo.33

ひさしびりに大繁盛しているようですね。
おめでとうございます。
仏教徒さんがそういう態度が取れるなら私も意地悪ばかりする事をやめるかもしれません。
相変わらず今回のやり取りが意味不明ですが。
宗教談議で無く哲学としての片鱗があるとお考えですか。

投稿日時 - 2012-06-15 01:07:45

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ひさしびりに大繁盛しているようですね。
 ☆ ほんとですね。昔を思い出します。

 ★ おめでとうございます。
 ☆ ありがとうございます。

 ★ 仏教徒さんがそういう態度が取れるなら私も意地悪ばかりする事をやめるかもしれません。
 ☆ たしかに そういう変化も感じられます。瞬間湯沸かし器のわたしが 自重するくらいですから。

 ★ 相変わらず今回のやり取りが意味不明ですが。
 ☆ そうなんですか。

 ★ 宗教談議で無く哲学としての片鱗があるとお考えですか。
 ☆ あぁ えぇ。そういうふうに見られてしまっても仕方がないところもありますね。軌道修正と言いますか 哲学の線路に立ち帰ろうとはしているつもりなのですが。

 でも――あなたもお認めになるように――じゅうぶん むくいられていますので 長い目で見ることも大事なようですよ。

投稿日時 - 2012-06-15 05:14:11

ANo.32

No.16です。

質問主旨から離れてしまいますので、日蓮聖人・『南無妙法蓮華経』の事は、ひと先ず置いておきましょう。

質問者様の冒頭にある、首題についてお話したいと思います。


☆われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか

■仏陀

仏の十号の一つ。
一切の法を如実に知見し、その性相を通達了解した人で、等正覚を成じた大聖者をいい、他にも正覚を成じさせる智者をいう。


仏陀⇒仏の相対にあるのが衆生でしょうか。


■衆生
無明、煩悩をもって迷いの世界に住む人。

・衆生界=衆生の境界のこと。十界のうち仏界をのぞく、九界の総称。

上記の様な違いがあると思います。
ですから、仏性を備えているとはいえ、成仏の“法(達磨)”を知覚していなければならないと考えます。
もし、この先質問者様が様々な研鑽をされ、いずれかの“法(達磨)”を信受し、その“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導くならば、仏陀と呼ばれるでしょう。


 ☆ゴータマ・ブッダは この法華経として伝わるその中身を説くまでは 仮りのオシエをのみ説いていて けっきょく《諸仏の秘要》としての最高の法を出し惜しみしていたということでしょうか?

■これについては、それまで導いてきた声聞・縁楽(辟支仏)を始めとする弟子・衆生の機根を整える為に、先ずは方便の意味で権経を説き、機根が整ったところで肝心に当たる法華経を説いたと言われています。

尚、法華経以前の教え(爾前経)を捨てるとありますが、捨てるというのはそれまで説いてきたところの迹仏の事で、爾前経を全く用いないという事ではありません。


※法華経の解釈、日蓮聖人につきましては、また、別の機会にお話ししたいと思います。

投稿日時 - 2012-06-14 22:51:19

お礼

 けいえす5518さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ■ もし、この先質問者様が様々な研鑽をされ、いずれかの“法(達磨)”を信受し、その“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導くならば、仏陀と呼ばれるでしょう。
 ☆ 今までよりもっと端的なかたちで 質問をいたします。

 (Q‐1) 《地涌の菩薩》は 《ブッダ》と呼ばれないのでしょうか?

 (Q‐2) けいえす5518さんは 《衆生を成道へみちびき》ましたか?

 (Q‐3) 《さまざまな研鑽》とありますが こういう場合は考えられませんか? つまり すでにこの世に生まれてこのかた 人びととともにあゆみ来て そのそれぞれの言わば《小宇宙》なる存在に接した経験から ふと思うと すでに自分は《境智冥合》を果たしていたとさとり あぁ これが《研鑽》だったかぁと思う体験。こういう場合は あり得ませんか?

 (Q‐4) 《“法(達磨)”のもとに衆生を成道へと導く》 この命題についてですが けっきょく《成道へとみちびく》のは 人ですか? 法ですか? 

 (Q‐5) 法(ダルマ)は 経験世界に〔も〕属していて これを人間が《知覚》することが出来るのでしょうか?
 ■ 仏性を備えているとはいえ、成仏の“法(達磨)”を知覚していなければならないと考えます。
 ☆ この命題との関連です。


    *

 《爾前経と法華経との関係》についてですが:
 ■ これについては、それまで導いてきた声聞・縁楽(辟支仏)を始めとする弟子・衆生の機根を整える為に、先ずは方便の意味で権経を説き、機根が整ったところで肝心に当たる法華経を説いたと言われています。

 ■ 尚、法華経以前の教え(爾前経)を捨てるとありますが、捨てるというのはそれまで説いてきたところの迹仏の事で、爾前経を全く用いないという事ではありません。

 ☆ そうしますと:

 (Q‐6) 現代人が成道へと到るには 爾前経での《機根のととのえ》をやはり同じように経たうえで 法華経による境智冥合の実践へとすすむ ということでしょうか? それとも いきなり法華経という段階に自分を位置させることから始めるのでしょうか?

 (Q‐7) しつこく尋ねますが (Q‐3)のように 《肝心に当たる法華経》に拠らなくても 世の中を勤勉に仕事をし生きたという経験のうちに 境智冥合を果たしていたという場合は あり得ますか?


 

 どうぞよろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2012-06-14 23:46:04

ANo.30

ks5518さま NemurinekoNyaさま 質問者さま そして 逆質問者さま 皆さん いい議論になってきました

確かに 逆質問者さんのいうように 質問それ自体にたいし.
何も法華経まで 持ち出して 議論するのはそこまでしなくても
ても の 感もあります しかし 質問に対し 法華経を学ぶ事は有意義と 思います。各位より 教学が低い私ですが ここに出てる各位が 教学の先輩や先生と 思います。一番近い NemurinekoNya 様の 解答に深謝します。法華経の読みこなしには 私 正に 教学と信心がたりません。

投稿日時 - 2012-06-14 07:16:42

お礼

 みけねこ1178さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 さらに 参考資料をかかげるかたちのお応えとします。

 ▲(ヰキぺ:教相判釈) ~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%99%82%E5%85%AB%E6%95%99

 § 五時八教説(天台)

 五時八教の教判、あるいは五時八教説(ごじはっきょうせつ)とは、天台智顗(ちぎ、538年 - 597年)が、一切経を五時八教に分けたものである。日本へは最澄が紹介した。これを日蓮が採用し、法華経が最高の教えであるという根拠とした。

 § 五時

 最初に華厳経を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な阿含経を説いたとする。人々の理解の割合に応じて、方等経、般若経を説き、最後の8年間で法華経と涅槃経を説いたとする。そして最後に説いた法華経が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。

 五時を、説法した期間・会座(えざ=説法の場所)・経典などを分類すると次の通り。

  1.華厳時 期間 - 21日間(一説に31日間とも)
 会座 - ガヤー城近郊、ナイランジャナー河の菩提樹の下など、7処8会
 経典 - 華厳経(大方廣仏華厳経)
 位 - 乳酥、別・円を説く頓教、擬宜の教え

 2.阿含時 期間 - 12年間
 会座 - バラナシー国の鹿野苑
 経典 - 増一、長、中、雑、小の阿含経、法句経などの南伝大蔵経
 位 - 酪酥、蔵のみを説く漸教(秘密・不定教もあり)、誘引の教え

 3.方等時 期間 - 16年間(一説に8年間)
 会座 - シュラバスティーの祇園精舎、マガダ国の竹林精舎、ヴェーサリー国のアンバーパリー園など
 経典 - 大方等大集経、阿弥陀経、大日経、金光明経、維摩経、勝鬘経、解深密経など権大乗経
 位 - 生酥、蔵通別円の4教を対比して説く漸教(秘密・不定教もあり)、弾訶の教え

 4.般若時 期間 - 14年間(一説に22年間)
 会座 - マガダ国のラージャガハ附近の霊鷲山など、4処16会
 経典 - 大般若経、金剛般若経、般若心経など
 位 - 熟酥、円教に通別を帯ばしめて説く漸教(秘密・不定教もあり)、淘汰の教え

 5.法華涅槃時 期間 - 8年間(うち涅槃経は一日一夜)
 会座 - マガダ国のラージャガハ附近の霊鷲山など、2処3会(法華経)、クシナガラのアジタパティー河辺の沙羅双樹の下(涅槃経)
 経典 - 法華経28品を中心とする法華三部経、涅槃経
 位 - 醍醐、円教を説く頓教(秘密・不定教なし)、開会の教え





 ただしこれは、経典に書かれている時間・時期的な記述や場所、またその内容から、あくまでも順序だてて分けただけで、必ずしも釈迦が絶対的に必ずその順番で説いたわけではない。

 そのことは、日蓮も守護国家論で、

  「大部の経、大概(おおむね)是の如し。此れより已外(いげ)諸の大小乗経は次第不定(しだいふじょう)なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く。みな義類(ぎるい)を以て之を収めて一処に置くべし」

 と述べている。したがって、対機説法(たいきせっぽう)、臨機応変という言葉が示すように釈迦仏が衆生の機根(教えを聞ける器、度合い)に応じて、教法を前後して説いたことを留意しなくてはならない。また智顗が分類した五時説を日蓮が採用しつつも、次第不定で前後していることを既に認知していたという事実があることを、大乗非仏説及び経典成立史の観点から留意しなくてはならない。したがって今日の仏教学では五時説は歴史的事実とは言いえないが、宗学的には仏教学の成果をどのように受容するかという新たな課題を生んでいる。

 なお、智顗は、涅槃経に対しては、法華経とほぼ同内容で、その真理は既に法華経で明かしており、法華の救いに漏れた者達のために説かれた教えにすぎない、という位置づけから、また涅槃は一日一夜の説法なので法華の八年間に摂したため、法華と涅槃とを分けず「法華涅槃時」としたが、華厳経から法華経までは次第不定に説かれたのに対して、涅槃経は経典の内容や場所から判断して唯一、釈迦が入滅の時に至って説いた教法である、としている。
 ~~~~~~~~~

 ☆ ねむりねこさんのご回答を受けて 法華経は集大成であるというように受け取ることが出来ましたが その優位性にかんしては まだ愚かなままでいます。

投稿日時 - 2012-06-14 11:15:53

ANo.29

おはようございます。



☆☆☆
☆ そうしますと
《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》
 という見方は 《さとり》の度合いに応じて言っているという理解でよろしいでしょうか?

◇はい、わたしは、それで構わないと考えます。むしろ、そう解釈すべきだと思います。
《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》では、
仏陀以外は、最高の真理とされる《法華経》を読んでも分からないことになってしまう。
修行の意味がなくなってしまう。救いがなくなってしまう。
《悟り》かどうか分かりませんが、
 法華経の理解が深まれば、それだけ法華経に対す見方が深まる。色々なことが見えてくる。
 修行が深まれば、それだけ世界の真実が見えてくる。
それで何にも問題がないと考えます。
そして、仏道が完成したその時、つまり、仏陀になったとき、はじめて、世界の真実がすべて明かになる、でよい。
でないと、《方便品》の《若有聞法者 無一不成仏》が光らない。
と考えます。
《唯仏与仏》を排除の論理に使うべきではない、と考えます。
法華経は現に釈尊によって説かれ、この世に存在している事実を重視すべきだ、と考えます。



☆☆☆
◆ つまり、迷いにある段階ですでに《人間は悟っている》と考えます。(これが天台本覚思想!!違ったかな、ポリポリ)
☆ これは 《一切衆生悉有仏性》とは 微妙に違うようでした。《本覚》と言ってしまっていると 実際問題としては 努力を怠る向きが増えるでしょうね。

◇bragelonneさんもご存知のように、わたしは《本覚》の立場をとりません。
また、かと言って、《始覚(門)》(修行によって初めて悟りへの機根が生じる)という立場もとりません。
《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分と考えています。



☆☆☆
○ 《〈爾前経〉に任せている部分》というのは もし《方便として》であるなら その方便はなくても 法華経だけで済む。ということになりませんか?

◇法華経の論理に従えば、そういうことになります。
《堤婆達多品 第十二》では、文殊菩薩が説いた法華経のみで龍王の娘は、《無上正覚》を得て、ブッダになったことになっていますので。

法華経を飛ばし飛ばしに斜め読みしたところ、
《四聖諦・苦集滅道》、《十二因縁》、大乗の《空》、完全ではないけれど《六波羅蜜》らしきことも書いてあるので、大乗・小乗の主要な教えは、いちおう、法華経に含まれていることになるのかな。新しい世界観も示されていますし....
なので、仏教の学問的詮索をあれこれするのでなければ、法華経だけで十分という気がします。
特に在家信者には。

でも、無明の闇に包まれている《あほう》で詮索好きの僕には、正直、物足りない....。哲学・形而上学的な議論がもっと欲しい。

教義的には、法華経だけでは足りていないような....
中国の天台教学は、その教学形成において、華厳経や般若経をはじめとする他の大小乗の経典が必要であったことは、紛れもない事実です。つまり、《〈爾前経〉に任せている部分》の理解がどうしても必要になる。
宗派内の教学・宗学にとんと疎いのでよく分かりませんが、宗学の本とかを読めばそれでいいような気がしますけれども、それでは《オラが宗派の教え》に無批判に....
大局的観点が欠如してしまうような....

《あほう》で縁なき衆生の僕には、そう感じられます。

法華経をよりよく理解するために、他の経典もあわせて読んだ方が良いというところではないでしょうか。
日蓮も一切経を読んだと言いますから、他の経典、特に般若経くらいは読んでもバチはあたらないでしょう。
偉い人が「絶対に駄目」と言ったら、それは《自・己・矛・盾》!!
法華経が本当に《最勝経王》、すなわち《もっともすぐれた釈尊の教え》であることを信じていな~い!
法華経をまったく信じていな~い!!
法華経の功徳・威力を、全然、信じていな~い!!!
《論語読みの論語知らず》ってこともあるので。



☆☆☆
◆ 法華経以外(以前?)の教えは、部分的で、真理の一面だけしか解き明かしていない、ということです。
◆ なお、天台智ギは五時八教の経判をたてて、法華経の優位性を主張しています。
☆ 法華経は そんなに優位なのですか? 例示をひとつ挙げておしえていただければと思いますが。

◇天台智ギによれば、そうらしいです。
時に、一番最初に釈尊がその自内証を説いたとされる《頓教》の華厳経との優劣が問題になりますけれど....
無明の闇に覆われた《あほう》な僕には、大乗経典それぞれの優劣はつけられませんが....

それでも、法華経のいいところをあげれば、
(1)三乗一乗、会三帰一
(2)女人成仏
(3)五逆罪を犯した者で成仏できる。《一闡提》救済の道が開かれた。
と言ったところでしょうか。
日本のブディストはほとんど大乗仏教徒なので(1)は問題になりませんから、注目すべき点は(2)と(3)。

法華経の《堤婆達多品 第十二》に、(2)と(3)は出ています。

(2)女人成仏。仏教では、女性には五障があるとされていて、その中に《女性は絶対にブッダになれない。女性はけっして成仏できない》というものがあります。
法華経による修行の功徳によって、龍王の娘が一度男になってから成仏するという裏技を使っていますけれど、この問題を解決しています。
もっとも、《勝鬘経》では、勝鬘夫人が釈尊から成仏できるという予言を得ているので、法華経だけかと言えば、少し微妙な気が....
ですが、平安時代に女性の間で女人成仏を明確に説く法華経が心の支えになったのは事実です。女性蔑視の激しかった時代に、信仰の上での女性と男性の平等性が示されていた。

(3)五逆罪を犯した者でも救われる。
仏敵とされる堤婆達多、無間地獄に落ちますけれど、釈尊は「過去に法華経を釈尊に説いた功徳によって、堤婆達多が遠い未来に仏になる」ことを予言しています。
僕はここに注目したいです。
つまり、この堤婆達多の成仏予言によって、万人に対する救済の道が開かれた。ここから、(仏教信仰上での)人間の普遍的平等性が導き出せる。

さらに一つ上げれば、仏教に関する知識がなくても、法華経は、誰でもそれを読めば、比較的容易にその教えを知ることができる。
と言うと、法華経信者には怒られるかもしれませんが、少なくとも書かれていることの表面的な意味は理解できる。
大乗の高邁な教えに容易に接することができる。
こういう大乗経典は少ないですよ~。
その意味だけでも、貴重です、法華経!!

分かりやすく書いてあるということは、けっして、その教えが低いということを意味しない!!

投稿日時 - 2012-06-14 06:38:34

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~
 《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》では、
 仏陀以外は、最高の真理とされる《法華経》を読んでも分からないことになってしまう。
 修行の意味がなくなってしまう。救いがなくなってしまう。
 ・・・
 《唯仏与仏》を排除の論理に使うべきではない、と考えます。
 ~~~~~
 ☆ だとすれば この句を持ち出して いかにまったきブッダであることを自認し自称する人も その境位をひけらかすべきではない。また ひけらかすブッダたちの言い分を 自分の見解として持ち出すべきではない。
 
   *
 
 ☆ へたのすけさんに向けて 質問者からの応答です。
 次のご見解を――それはそれとして成り立つとしても そこにとどまらず―― 一般の人びとに向けての言葉へと開いてくださるとよいと思いますが どうでしょう? よろしくお願いします。すなわち
 ◆(回答No.17) ~~~~
  ・・・
  法を知らぬ者は仏を語りえない

 となるのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 一応そうではあっても 《法を知らぬ者》も まったくのかたちでシャットアウトされているのではないと ひとこと添えていただきたい。こう思いますが どうでしょう?

 ☆ けいえす5518さん。けいえすさんにも 同じような苦情があります。
 ■(回答No.16) ~~~~
  ※ 釈尊のいう『唯我独尊』ということは、釈尊
 個人を指しているものではなく、「法を知覚し
 ている当体」を指している。これは、世間の学
 者は「正しい法」に帰依もせず、認識だけで
 理解しているためである。
 
 ■ これは言いかえれば、唯仏与仏ということでしょう。
 仏の知恵の浅深を現している言葉です。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これは ゴータマ・ブッダと日蓮とのあいだの《唯仏与仏》を言っているところですが もし――もし です もし――このことがほんとうであるならば このことを持ち出している けいえす5518さんご自身も そのゴータマ氏や日蓮氏とほぼ同じ境地にあると 自認し自称しているということになると思います。

 そういう理解でよろしいでしょうか? つまりは おまえらには――いえ ぶらじゅろんぬには――分からないことだ というご回答なのでしょうか?

 もしそうではなく 推測で持ち出しただけだとなれば それは 独り言にはなりますが 質問に対する回答ではないはずです。つまり そこらあたりを いやしくもブッダの道をあゆむ人であるならば しっかりときちんとわきまえ表現し尽くしていただきたい。

 ■ 世間の学者は「正しい法」に帰依もせず、認識だけで理解している
 ☆ または 認識だけで吹聴している と言われないためです。

     *

 ◇ ~~~~
 (あ) bragelonne さんもご存知のように、わたしは《本覚》の立場をとりません。
 (い) また、かと言って、《始覚(門)》(修行によって初めて悟りへの機根が生じる)という立場もとりません。
 (う) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分と考えています。
 ~~~~~~
 ☆ (え) この(あ)は 仏性ないし如来蔵の立ち場と矛盾しないと理解します。≒(う)。
 (お) 本覚思想批判つまり 袴谷憲昭の《批判仏教》は かなり読みました。そこでは 如来蔵をも仏説からはしりぞけていたと思います。

 (か) この(い)のご見解は あざやかな内容があるように思います。袴谷氏と手紙でやり取りをしたことがあるのですが そこでわたしは 《名字即・即・究竟即》と言って食い下がったことがあります。
 たとえば むしろキリスト信仰にのっとって言うのですが 聖書の中身や神学について何も知らなくてもよい ただ イエス・キリストという名を聞き受け容れたなら 信仰は成り そこから信仰の動態がつづくという意味で言っています。
 つまり それを ブディズムに当てはめて 名字即・即・究竟即 だと言いました。

 (き) すなわち この場合の名字即は ブッダの法を聞いたというよりは ブッダという名を耳にしたという意味です。

 (く) それとも 《始学〔門〕(修行によって初めて悟りへの機根が生じる)》説を退けるということは 理即と言うのでしょうか  この理即の立ち場に立つということでしょうか? つまりブッダのブの字も キリストのキの音も知らずそのような名字を聞かない前から 《自性清浄心》が 活きて いるということでしょうか?

 (け) 潜在性という見方をすれば 生まれたままの姿で《ブッダである》でしょうが 名字を聞くだけはしないと 《われは ブッダである》とは言えないと思います。《われは 〔大文字のではなく小文字の〕クリストなり》とはまだ言えないことになると。

 (こ) それとも キリストも背景にしりぞき ブッダも背後へ隠れてしまうのだという・《あたらしい天とあたらしい地》の世界と時代を言っておられましょうか?

   *
 
 法華経のもんだいです。
 
 これは 上に見てきた議論にもとづくなら 《法華経だけで済む》という問題であるよりは 法華経も要らないというあたらしい視点であるように考えられます。
 もし さとりにとって《始学〔門〕》が関係なく 

  ◇ (う) 《客塵煩悩 自性清浄心》「煩悩はお客さん。だから、心はキラキラと光り輝けるんだよ」で十分
 
 であるならば 

  ☆☆(趣旨説明欄) (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

 の問題をも通り越して ひょっとして《地涌の菩薩》たちのあたらしい時代の到来なのでしょうか? 末法も弥勒菩薩も 屁の河童であると。

    *

 ◇ ~~~
 (3)五逆罪を犯した者でも救われる。
 仏敵とされる堤婆達多、無間地獄に落ちますけれど、釈尊は「過去に法華経を釈尊に説いた功徳によって、堤婆達多が遠い未来に仏になる」ことを予言しています。
 僕はここに注目したいです。
 つまり、この堤婆達多の成仏予言によって、万人に対する救済の道が開かれた。ここから、(仏教信仰上での)人間の普遍的平等性が導き出せる。
 ~~~~~~
 ☆ この内容に反対する者はいないでしょう。
 しかもわたしは 感覚の問題として 《神のえこひいき》説が好きです。そう思えば――《神は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》と思えば―― 来世を問わず ただちにいま・ここで 人はさとると思います。《真理がすべてにおいて真理である》世界が 間髪を入れずに 開けると感じます。

   *

 ◇ (2)女人成仏。
 ☆ これは ブッダが その成道の初めから明らかにしようと思っていたが 世の中の情況を見つつその機が熟するのを俟って 法華経で説いたということなのか? あるいはつまり 出し惜しみをしていたのか? それとも法華経として説くことが目的だったので 法華経として説いたということなのか。ブッダの心やいかに? と問わねばならないのではないでしょうか?

    *

 ◇ ~~~~~~
 法華経を飛ばし飛ばしに斜め読みしたところ、
 《四聖諦・苦集滅道》、《十二因縁》、大乗の《空》、完全ではないけれど《六波羅蜜》らしきことも書いてあるので、大乗・小乗の主要な教えは、いちおう、法華経に含まれていることになるのかな。新しい世界観も示されていますし....
 なので、仏教の学問的詮索をあれこれするのでなければ、法華経だけで十分という気がします。
 特に在家信者には。
 ~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。
 もし印象だけで述べてもよいのでしたら 法華経は それまでの集大成であって ほかのオシエを捨ててしまえというのとは違うような感じなのですが そんなあやふやな言い分は通らないでしょうか。
 如来寿量品の引用したくだり(No.27お礼欄)は 残念ながら まだピンと来ません。

 みなさんとともに いましばらく議論は つづきましょうか。

投稿日時 - 2012-06-14 11:02:32

ANo.28

ちょっと逆質問させてください。
長文のやり取りが多くて何を論議しているのかさっぱりわかりません。
単純明快である今回の質問がなぜこのような長文になっているのか教えてください。
ついていけません。

投稿日時 - 2012-06-13 23:00:09

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ なぜこのような長文になっているのか
 ☆ 文献――つまり 経文のことですが――にもとづこうとする態度から来ています。学問としてふつうだと思います。

 文献を離れても 定義や用語の表現を精確なものにしておこうといういとなみです。

 あるいは ブディズムやさらにはそれに先行したブラフマニズムにおけるやはり用語にかんして それらが経験事物のことを言っているのか それとも非経験の場のこととして持ち出されているのか この仕分けをきちんとしておくことは 大事だと考えます。
 信仰の部分とそして経験思想の部分との仕分けです。

 そんなところでしょうか。

投稿日時 - 2012-06-14 00:22:03

ANo.27

こんばんニャーのオニャンコ 秋元康

や-もうタイトル出尽くして
ks5518 NemurinekoNya のお二人の解答で
法華経にも詳しくですね。十界互具 をご存知ですね。
それぞれの生命状態にそれぞれの生命状態が備わる 十界論をここまでくると 凄い
法華経とそれ以前の経の関係を すべて捨てるかは 確かに 釈尊の言葉を 鵜呑みにするかは 一刀両断とはいかんかな-

日蓮が釈尊の生まれ変わりかは 本人も
我こそは釈尊の生まれ変わるべき姿 とはいってないが.
末法における法華経の行者とはいってます。
四個?の格言は4種の宗教を破釈したの
ですが 法華経の優位制をもてば 簡単だな-。

創☆☆☆の経は
法華経 寿量品 第16ですね
余談でした。
尚私mikeneko1178は
キリスト教の神とは
との質問にたってます。

暗いと不平をゆうよりも 進んで 明かりを点けましょう。では。

投稿日時 - 2012-06-13 22:36:36

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 十界互具
 ★ 四個?の格言
 ★ 法華経の優位制
 ★ 法華経 寿量品 第16


 ゴータマ・ブッダは語っています。
 ▲ (いわゆる如来寿量品) ~~~~
 考えられないほどの幾千万億劫の昔・・・
 そのとき余は最勝の《さとり》に達し それ以来いつも余は教えを説いている。

 多くの求法者たちを鼓舞し 《さとり》の智慧に安住させた。・・・

 《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために
 余は巧妙な手段を語る。

 そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく
 この世に教えを弘めるのだ。

 その場合 余は霊妙な力によって みづからの姿を現わし
 そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。

 人々は理性が転倒して愚かであり
 余がそこに立っているにもかかわらず
 余を見ることはない。

 かれらは余の肉身が完全に滅したと考え 遺骨にさまざまの供養をする。
 余を見ることなく 渇望を生じ かくてかれらに正しい心が生じる。

 この世の人々が心ただしく おだやかで 愛欲を離れた者となったとき
 そこで余は弟子の集団を集め ここグリドゥラ=クータ(霊鷲山)に余は姿を現わす。
 そして そののちに 余はかれらに このように話すのだ。

 《あのとき この世で余は入滅したのではない。僧たちよ。
 あれは余の巧妙な手段なのだ。余は繰り返し繰り返し人間の世界にいるのだ。》

 他の国土の人々から崇め尊ばれたときには 余はかれらにも余の最勝の教えを弘めるのだ。
 ・・・(中略)・・・
 余の智慧の力はこのように光り輝き その際限はない。余の寿命も長く
 無限の劫のあいだ続く。余は前世の所行を果たして この寿命を得たのだ。

 賢き人々よ この点について疑うではない。疑う心を残らず捨てよ。
 余はこの真実の言葉を語る。余の言葉は未だかつて偽りではないのだ。
 ・・・(略)・・・
 余は世間の父 みずから存在して 一切の人間の庇護者であり医者である。
 愚かな者たちの意識が転倒して 判断力を失ったことを知り
 入滅しないで入滅したと見せるのだ。

 それは 何故か。余がいつも姿を現わしていることにより 理性なく無知な人々は
 信じなくなり 愛欲に狂い 快楽のために不幸な境遇に落ちるであろう。

 しかし 余は絶えず世間の人々のあれこれの行為を知り
 《どのようにして かれらを〈さとり〉に導こうか。どのようにして
 かれらに仏の教えを得させようか》と考えて 世間の人々にそれぞれ語るのだ。

  (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五 
  〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下)
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ わっかんないもんね。

投稿日時 - 2012-06-14 00:14:09

ANo.26

みけねこさん、こんばんはです。

現在飼ってはいませんが、猫、大好きです。
野良猫に本気でガブリと噛まれて指から血が流れ出ようが、「あっ、噛まれた」とヘラヘラ笑うくらい好きです。

三毛猫を飼っていらっしゃるのですか。
わたし、三毛猫のオスが欲しいです。
で、高い金額で売り飛ばしちゃいます(笑い)


☆☆☆
ちょっとしゃしゃり出て、
#No.23での、bragelloneさんから三毛猫さんへの質問の回答。


☆それとも マチガイではないが 部分的であったり程度が低かったりするということでしょうか?
◇法華経以外(以前?)の教えは、部分的で、真理の一面だけしか解き明かしていない、ということです。
 こうした考え方は、なにも法華経だけに限ったものではなく、程度の差はあれ、他の大乗経典にも共通してみられます。
 一番典型的なのが、唯識の根本経典である《解深密経》の三時の教判説でしょう。
 初時として、いわゆる小乗などの《有教》(人空は説くが法空は説かない)を教え説いた。
 二時として、般若経などの《空教》を説いた。
 三時として、華厳や法華経などの《中道教》(一方的な有でもない、一方的な空でもないとする教え)を説いた
 なお、天台智ギは五時八教の経判をたてて、法華経の優位性を主張しています。


★ 爾前経といって それ以前の経は法華経に至る方便なのですべて捨てよ。と釈尊はいっており
☆ ということのようですが 《方便》は たしかにそれをそのまま受け取るならマチガイになる場合もあるし 単なるタトエ程度のことと受け取っていればそれほど害はないという場合もあるかと考えます。

◇これは、法華経の《方便品》《比喩品》をどう読むかで立場が分かれると思います。
 悟りへ至る手段として三つの教え、声聞乗、独覚乗、菩薩乗(大乗)を説いた。でも、最終的には一つの立場しかない。
その唯一の立場を、《法華経を含むすべての大乗経典》とするか、《法華経》のみとするか。つまり、法華経を説く以前のすべての教えは、最終的に《法華経》へと導引するためのものであるとするか、この見方の相違です。

なので、後者の考え方に従うと、「★ 法華経に至る方便」という結論になります。

なのですが、問題は、法華経がすべての教えを包摂しているかどうか。
で包摂していなかったら、つまり、《爾前経》に任せている部分があるのならば、その部分は《爾前経》を読めば良いということになります。
けっして、法華経以外の教えがすべて無価値だと言っているわけではありません。


☆☆☆
☆それとも 《万人が ブッダである》という土台に立つのか?
◇法華経は《万人が仏陀である》という立場です。三乗一乗(三乗虚仮 一乗真実だったかな?)、会三帰一は、まさしくこのことを言っています。
さらに、法華経の方便品には《無一不成仏》という言葉があります。「一人として成仏しない者はない」と明言しています。
天台智ギの《十界互具説》からも、この結論を導き出すことはできます。人間界にいるすべての人間は《仏界》を有している。
つまり、迷いにある段階ですでに《人間は悟っている》と考えます。(これが天台本覚思想!!違ったかな、ポリポリ)




☆☆☆
ちょっと、いやいや、
結構、でしゃばった真似をしました。

投稿日時 - 2012-06-13 20:53:15

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~
 法華経は《万人が仏陀である》という立場です。
 ・・・
 さらに、法華経の方便品には《無一不成仏》という言葉があります。「一人として成仏しない者はない」と明言しています。
 ~~~~~

 ☆ そうしますと
 
  《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》

 という見方は 《さとり》の度合いに応じて言っているという理解でよろしいでしょうか?
 言いかえると よほど特殊な――または きわめて限られた人数の人しか到り得ないような――境地を 一般の人びとにひけらかすために言ったものでしょうか?

   *

 ◇ つまり、迷いにある段階ですでに《人間は悟っている》と考えます。(これが天台本覚思想!!違ったかな、ポリポリ)
 ☆ これは 《一切衆生悉有仏性》とは 微妙に違うようでした。《本覚》と言ってしまっていると 実際問題としては 努力を怠る向きが増えるでしょうね。

    *

 ◇ ~~~
 法華経を説く以前のすべての教えは、最終的に《法華経》へと導引するためのものであるとするか、この・・・考え方に従うと、「★ 法華経に至る方便」という結論になります。

 なのですが、問題は、法華経がすべての教えを包摂しているかどうか。
 で包摂していなかったら、つまり、《爾前経》に任せている部分があるのならば、その部分は《爾前経》を読めば良いということになります。
 けっして、法華経以外の教えがすべて無価値だと言っているわけではありません。
 ~~~~~
 ☆ ここは 重箱の隅をほじくりますが:

 ○ 《〈爾前経〉に任せている部分》というのは もし《方便として》であるなら その方便はなくても 法華経だけで済む。ということになりませんか?


    *

 ◇ 法華経以外(以前?)の教えは、部分的で、真理の一面だけしか解き明かしていない、ということです。
 ◇ なお、天台智ギは五時八教の経判をたてて、法華経の優位性を主張しています。
 ☆ 法華経は そんなに優位なのですか? 例示をひとつ挙げておしえていただければと思いますが。

 よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2012-06-13 23:55:32

ANo.25

No.16です。

 ■ ~~~
  『妙法蓮華経(法華経)』の中で説かれている法
 は、妙法蓮華経という仏の当体の事です。これに
 対し“帰命をする”という事で、“南無”を付けてい
 ます。 
 ~~~~~
 ☆ これは おそらくいわゆる大乗仏教の《法身(ダルマ・カーヤ)》のことなのでしょうね。だとすれば 仏性ないし如来蔵とも同じだということになりそうです。
 つまり そのかぎりで 《南無妙法蓮華経》が ほかの特別の《成仏の種》であるという見方にはまだ成らないように見られます。

■『妙法蓮華経』は、妙法蓮華経の中で、諸仏を
仏成へと導いた根本法としての記述があるから
です。

方便品第二にある『当知是妙法 諸仏之秘要』が
これに当たります。

ですので、仏性ないし如来蔵とは少し違うと思い
ます。あくまでも、『法』ですから。ですから、質問
者様の仰るところの《ブラフマン》に相当するので
しょうか。もっとも、ここで議論する『妙法蓮華経』
と《ブラフマン》については、出典も違うでしょうし
全く同じ概念のものとは断定できないかと思いま
す。


 ■ 成仏の定義については、変わりは無いと思います。
 ☆ だとしますと 《南無妙法蓮華経》の以前と以後とで――《時(時代)が違い これにより、衆生の機根が変わってきます》としても―― 《成仏の種》はまったく同じひとつ(如来蔵)であると推察されますが どうでしょう?

■前項回答参照のうえ、研鑽願います。

   *

 あとはですね。法華経ないし日蓮に拠る宗派とそうではなく またそれぞれの拠り所を持つという宗派とで おのおのそれとしての根拠を述べている。その一端を明らかにしてくださった。というような受け取りにしか いまのところ 成らないのですが どうしましょう。理解が浅いでしょうか。

■いえいえ。私こそ未学にて確信にいたる回答
を差し上げられず申し訳御座いません。

そもそも、日蓮聖人の鎌倉時代における開宗は
天変地異や飢饉、疫病、戦乱などによる人間の
身に降りかかるそうした根源をつきとめ、安穏で
平和な世の中を作ることを目的とされました。
鎌倉、京都(叡山を拠点)、奈良、大阪への修学
の中で、釈尊⇒中国天台⇒伝教へと繋がってき
た法が、いつの間にか滅し、他宗の独自の理論
が展開されている事を発見し、千葉に戻られ開宗
した事が始まりです。

この事については、質問者様は良く御存じかと思
います。

その開宗の際、当時ほぼ日本に広まる宗派につ
いて、先ず破折します。これが“四箇の格言”です。
そして日蓮聖人は、本来の仏教修行の“法”として
『南無妙法蓮華経』を広めます。この時点では、未
だ曼荼羅御本尊は有りません。

その後、『立正安国論』を幕府に提出するわけです。
様々な法難の中、上行菩薩の再誕としての立場を
現し弘安二年に本門の本尊を現します。

確かに一宗の歴史かも知れませんが、本来であれ
ば各宗において良く研鑽され、正邪を明確にし、広
く共通の認識が持てれば良かったのかと思いますが、
歴史の上では、そうされる事もなく、現在においても
何が真で、何が誤りかという議論もされず、宗教さえ
も形骸化し、人間生活から遠のいていることも事実と
して有ると思います。

   *

 中で次の一点について 何とか触れてみます。
 ■ ~~~
 これは言いかえれば、唯仏与仏ということでしょう。
 仏の知恵の浅深を現している言葉です。
 ~~~~~
 ☆ もしこのように《唯仏与仏》を言うのでしたら 誰もが《わたしは ブッダである》というところから出発していなければ この《唯仏与仏》としての成仏ないしさとりが 分からないということになりませんか?
 つまり 人はすでに生まれた姿においてこの《仏》であるというのでなければ ブッダがいくら何を説いてもいっさい分からないということになりませんか?

■この『唯仏与仏』ということは、当時の声聞にたい
して仏の知恵の深さを示した文言です。釈尊の『法
華経』の説法は、声聞にとって理解しがたい事だっ
たと思います。それは、始成正覚を払って、久遠実
成の立場を開くのですから当然でしょう。
だから、声聞は法華経を説く釈尊の言葉に疑問を
持つのです。理解が出来ないのです。そこで、多宝
如来の証明を持って、法華経を真実とするのです。


 あるいはつまり そうではなく 人はすでに生まれた姿においてこの世界の中に位置するというその存在のあり方だけによって《境智冥合》している。潜在性としてですね。というところから出発しないなら いくら《南無妙法蓮華経》なり日蓮の《生命の当体》という《境》に接しても 冥合し得ないのではないですか?

■“以信得入”を持って、境智冥合に至ります。“信”
が無ければいくら剛情に祈っても、冥合しません。
また、十界互具が説かれている以上、個々の生命
には仏性がり、その仏性を開いて仏(仏陀と呼ばれ
るかは別として)と成るのです。

 もっと簡単に言えば 《唯仏与仏》というときの《仏》は われわれ一般の人間〔における仏性〕とどう同じでどう違うのか? まったく違っているのならば――渡りえない海を隔てているのならば―― いくら説法を聞いても境として接しても ついぞ分からないし冥合もし得ない。ということになりませんか?

■先ず良く『十界互具』を理解されるべきでしょう。
これは地獄界から仏界までの十の境涯が個々の
生命に具し、瞬間瞬間にそれぞれが変化して現わ
れます。
その上で、本来、衆生である人間は、六道の内に
治まる(巡る)と言われています。その上で、仏界だ
けが現じがたく、本尊に縁する(題目を唱える)事で
現われるのです。仏界が現われたからといって、
永劫に仏界かというとそうではありません。それは、
私たち衆生は、生活の上様々なものに縁し、境涯
を変化させてしまうからです。それも、瞬時瞬時に
です。
そこが、貴方の言う『仏』と我ら衆生の大きな違い
でしょう。

投稿日時 - 2012-06-13 19:09:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ですが そしてまた ていねいに説明をそれとして していただいていますが どうも要領を得ません。得難いです。

 日蓮は ほかのブディストと 名前も人格も違う。ゆえに 日蓮という人は ほかの人たちとは違うのだ。こうおっしゃっているとしか聞こえません。
 法華経は ほかの経文とは違うことが書いてある。ゆえに 法華経は ほかの経文とは違うのだ。こういうご主張であるということまでは分かります。それ以上は 分かり難くあります。

 日蓮は えらいそうだ。ゆえに 日蓮がえらい。こういうご議論であるように受け取るしかないのですが どうしましょう。
 
 

 ★ 方便品第二にある『当知是妙法 諸仏之秘要』が / これに当たります。
 ☆ この《知るべき是の妙法》は
 ★ 諸仏を仏成へと導いた根本法 としての『妙法蓮華経』
 ☆ のことだと受け取ることができますが それが どんな中身であるのか? 一向に分かりません。といった状態です。
 ゴータマ・ブッダは この法華経として伝わるその中身を説くまでは 仮りのオシエをのみ説いていて けっきょく《諸仏の秘要》としての最高の法を出し惜しみしていたということでしょうか?

投稿日時 - 2012-06-13 23:26:00

ANo.24

オハコンバワ
毎度です NemurinekoNyaさんも凄い知識で尚 ネコずき でしょうか 私は 三毛猫とスコティシュフォ-ルドの長毛種を飼ってます。
ネコはめんこい
ちょつと法華経の談議は中断します。
皆さんの学識の高さに挫折してます。
また後で。

投稿日時 - 2012-06-13 19:02:34

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 あいにく ネコもイヌもわたしは だめです。

 といった情況です。

投稿日時 - 2012-06-13 23:05:40

ANo.23

どーもです。(時間帯が微妙なので、挨拶の言葉に困ってしまいます)



☆☆☆
(1) ブディズムは それとしての観念体系がしっかりと築かれている。この準拠枠を破るわけには行かない。けれども この準拠枠は 知としてふつうに経験合理性にもとづくという経験科学の立ち場である。

(2) ただし マハーヤーナー・ブディズムでは《法身》を言う。このかぎり いまひとつ別の枠があって 《非経験の場》としての神を想定するという前提を持ったものである。類型としてなら 《梵我一如》を説いている。

(3) 上の(1)の学知は 実践がつきものである。
 ★ ゴータマ仏教は、《修行をすれば》という前提がつくので、裏を返せば《修行しなければ悟れない》。

(4) そうして (2)の立ち場に立てば 次のように神学を交えた哲学としての構成になっている。
◇わたしは、かねがね大乗は形而上学だと考えていましたが、おっしゃる通り、神学的哲学とした方が適切なようです。大乗経典は高邁な哲学をといていますが、神話そのものですから。(1)~(4)については異論はありません。



☆☆☆
(5) こうだとして進めますが わたしの立ち場としましては じつは (1)の経験哲学としての観念体系と(2)の神学的哲学とは 両立するという見方を持ちます。

◇これ以降、わたしは次のような作業仮説をたてました。ヒントは#No.14で書いたJ.ゴンダの
《多種多様な大自然の出来事は、この偉大な「業の法則」の結果に他ならない。》
の宇宙を統べる、偉大な《業の法則》です。
J.ゴンダの頭の中にはおそらく12支縁起もしくはブッダのオリジナルの業の法則があったものと考えられますが、わたしはこの偉大な「業の法則」に、《縁起の法則》を支配する原理、すなわち宇宙の掟である最高原理《天則・リタ》、そして天則の守護者《ヴァルナ》をみました。これは、《ブラフマン》と言っていいです。
《業の法則》、つまり、みずからの行為=業が、みずからの善悪を決定するという思想は、この当時のインドでは常識だったので、ゴータマ・ブッダ自身、このことに気づいていなかったのかも知れません。あるいは、気づいていたけれど、気づかないふりをした。
輪廻の思想をアプリオリの原則として仏教の中に取り入れているのですから、論理的に当然のことです。


《縁起の法則》を支配するスーパー《縁起の法則》、あるいはメタ《縁起の法則》とはなんぞ。
これを大乗の創始者たちは、《空》《空性》と考えた。
(たぶん、これにはヨーガが深く関係しています。ヨーガが《非思考の庭》あるいは《非経験の庭》なのかはのいずれなのか、判断がつきません....)
《空》の意味の拡大です。そして、大乗の《空》が現象界と真理界を統べる最高原理となり、神となった。
大乗仏教において、《空》は《虚空》にたとえられます。何にもない空っぽの空間。それが虚空です。空のイメージとしてぴったりです。そして、空の性質としては、以下のものが上げられます。
【虚空の性質】
(1)広大で無辺。つまり、無限、
(2)一味・平等。無差別
(3)あらゆる事物にゆき渡っている(遍行)。遍在、遍満。
(4)その本性はいかなる汚れをともなっていない。《自性清浄》

これは、神や宇宙の最高原理の定義にふさわしいように思われます。

これで、なぜ、大乗仏教のはじまりが《般若経》であったのかが分かります。
つまり、《縁起の法則》の拡大、すなわち、形而下の現象をすべて多い包む新しい《空》の理論が大乗の誕生を産んだ。
これはそれほど荒唐なことではありません。大乗仏教の発展史は、論理的にはどうしても解明できない大乗の《空》がどのようなものであるのか、その解明史といっても過言ではありません。それは現在においても同じこと。空とは何ぞ、日夜、多くの人がその問の答えを求めて、自問自答していますので。まさしく、神です、大乗の《空》は。

大乗においては、《空(性)》《真如》《法界》《法身》などはどれもほとんど同義です。なので、
大乗の《空(性)》→大乗の《法身》→《如来蔵》
と、発展したのではあるまいか。

この仮説は、それほど不自然なものではありません。事実、暦史上、この順序で大乗経典の創作・編纂が行われたからです。《法身》思想から、大乗の《空》が生まれたわけではないので。

《非思考?・非経験?の庭》が大乗仏教を生んだといったところでしょうか。



☆☆☆
(8) 《神》としてのブラフマンであれば その定義にのっとるかぎりで 経験科学としてのゴータマ・ブディズムとしても きちんと扱い得る。

◇大乗仏教者のその理解が正しかったかは別にして、
大乗は、ゴータマブッダが《修行をすれば分かる》と棚上げした部分を補完した。ブラフマンとなった《空》という新たな概念で補完したと言ったところでしょうか。
大乗の教義は、小乗(上座部仏教)の教義を包括しているので。



(10) なにしろ 縁起の過程から自由であるという《非経験の場》として 想定しているのですから 自由自在です。ゴータマ・ブディズムなる経験思想にとって この神学は なんら邪魔者にはなりません。むしろ 
 ☆この欠落を埋める神学的哲学だと見られます。

◇ご指摘の通りだと思います。
ただ、形而下をあつかう上座部仏教の側からすれば、大乗はおとぎ話、荒唐無稽な話に見える。「実証不可能じゃないか」となる。
取り扱っている次元のちがう話ですから。


(11) すなわち
 ☆ ゴータマ仏教は 言わば《する(人為・作為)》の経験哲学であるようです。
 それに対して と言いますか むしろそれをふくむかたちで 《なる(つまり人為を容れた自然史過程)》の神学的哲学が 大乗仏教の精神であるのではないでしょうか?
 後者は 前者と矛盾しません。前者が 無記とするところは 想定するという仮構において扱うだけですから。

 ◇まったく異議がありません、


(12) まとめますと (4)の《神を非経験の場として想定する》補助線によって (2)の大乗仏教の神学的哲学は (1)のゴータマ・ブディズムなる経験科学と相いたずさえて 世界観の構築にすすみうる。(3)の修行につきましては わたしは分からないという立ち場です。よく知りません。ヨガも知りませんし。(保留となりましょうか)。

 ◇おっしゃる通りです。ヨガや坐禅をしたことがないので、わたしも本などで読んだこと以外は、ヨガについてはまったく分かりません。


☆☆☆
(13) ブッダ あやまてり。なのでは?

◇さあ、これはどうでしょう。
大乗誕生に直接つながる契機・手がかりは、ゴータマブッダの教えの中にすべてありますから。
般若の空の完成者と言ってよい龍樹は、自身を《ブッダの(直接の)弟子》と言っていますので。
また、上座部のアビダルマ教学がなかったならば、大乗の《空思想》は誕生しなかったであろうからです。

また、インド大乗仏教の完成である唯識思想の誕生の背景には、上座部の一つの学派である《経量部》の思想があります。そして、のちに唯識の一派である《有相唯識派》は《経量部》と合流します。僅かの差(心の外に物があるか、ないかの差です)が残る、完全な形での合流ではありませんでしたが、神話哲学と経験主義的哲学の合流です。

○心の外に物がある、ないかは重要な差ではないか?
◇仏教では、この差はそれほど重要じゃないです。仏教は誕生当時から、心を問題にしていますので。
まして、《経量部》は、「外界に物が存在しているかもしれない。あるかどうかは、推測の妥当性から判断するしかない」ってきわめて表象主義的な考え方をするので、唯識とあまり変わらない考え方をするんで。

話戻って、《ブッダ過てり》。
こればっかりは、ゴータマブッダに直接聞いてみる以外、方策はないのではないでしょうか。
ゴータマブッダが《修行すれば分かる》と棚上げした部分を神話的手法で解き明かしたつもりの大乗仏教、実はとんでもない勘違いを犯しているのかもしれないので。

投稿日時 - 2012-06-13 16:39:09

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 祝杯を挙げましょうか。

 乾杯!

 

 《空》が 補助線だったということでしょうか?
 かつまた 鍵語であると。

 縁起説はもちろんのこと 無我ないし非我を言うことにおいて すでに《空》は ゴータマ氏も言っていたということでしょうか?
 あるいは ブッダないしブッダに成ると言ったからには 仏性ないし如来蔵も言っていたのだと。


 つながりましたか?
 整合性が成りましたか?

 そこで あらためて 乾杯!
 (完熟ぶどうのワインを買って来ました。手頃のもの)。





 それまでの哲学は《実体》をやかましく言って来ていたので 構造主義は これを否定するのにやっきとなった。
 のとあたかも同じように ゴータマ氏は アートマン=ブラフマンの実体主義(その傾向)に反をとなえようとしたのでしょうか。
 きびしく言えば アートマンの想定も アン-アートマンの想定も 神としては 同じなのでしょうけれど。


 別様に言いかえると 《わたしは ブッダである》と公言したほうがよいという見解は 人間としてのブッダとわれわれ一般の人間とのあいだに あまりにも深い溝があるという見方が人びとを覆ってしまっているのではないか。もしそうだとしたら このことを解消しておくことは 大事だと思われるという考えに立っています。
 神と人間とのあいだには たしかに超えられない隔たりがあると言わねばなりません。しかも 神は この経験世界にもあまねく存在しているという見方が出来ます。



 《ブッダ あやまてり》は アートマンとアン‐アートマンとの間に 神としては 何の違いもないということを言い損ねているとしたら そう言えるのではないかと考えます。






 もういちど見直して お応えすべきはお応えすることとします。

投稿日時 - 2012-06-13 20:32:27

ANo.22

5度目です
日蓮と創価学会のよもやま話はこの辺にして
法華経については釈尊の集大成です。
爾前経といって それ以前の経は法華経に至る方便なのですべて捨てよ。と釈尊はいっており 偶像崇拝も捨てよと語っているのですが。はい。
尚 涅槃経が釈尊の最後の経だとの反論があり たしかに これは死への旅立ちの経です 葬式で坊さんが読みますね。
貴方様は法華経をどう解釈されているか
簡単にお言葉を.はい。

投稿日時 - 2012-06-13 02:53:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 貴方様は法華経をどう解釈されているか
 ☆ 特に法華経についてこれといった見解はありません。つまり ブッダないしそのオシエを全体として捉えています。

 言いかえると
 ★ 爾前経といって それ以前の経は法華経に至る方便なのですべて捨てよ。と釈尊はいっており
 ☆ ということは ブッダ自身が書いたわけではないので それまで説いたオシエは 全部捨てよということになるとまづ思われます。ということは 爾前経としてのちに編まれるオシエは ぜんぶマチガイだったということでしょうか?
 それとも マチガイではないが 部分的であったり程度が低かったりするということでしょうか?
 
 でも捨てよと言ったということは 弟子たちは そのブッダの言葉にさからって のちに編んだということになりますね。
 捨ててしまって 法華経だけにまなべばよいという根拠は どこにありますか?
 ★ 法華経に至る方便
 ☆ ということのようですが 《方便》は たしかにそれをそのまま受け取るならマチガイになる場合もあるし 単なるタトエ程度のことと受け取っていればそれほど害はないという場合もあるかと考えます。

 そのへんのことが明らかにされるべきだと考えます。







 けれども このように みなさんがブッダについて解説されているということは 《誰もがそれぞれブッダである》という出発点に立っているからではありませんか?
 そうでなければ みんなそれぞれ世迷いごとを繰り出しているだけだとなります。《ブッダはブッダとだけ互いに分かり合える》といった回答も寄せられています。すべて 戯れ言になるのか? それとも 《万人が ブッダである》という土台に立つのか?
 そのあたりに焦点をあててさらにご見解を寄せてみてくださいませ。

投稿日時 - 2012-06-13 08:17:42

ANo.21

・・・やっぱり、満ち足りているのに、求めたりはしませんね。

投稿日時 - 2012-06-13 00:51:47

お礼

 つづいてです。

 そうでしょうね。

 人間の側から 求め 催促すると 《ひとり満ち足りた者》は答えてくれると人間は 思うのでしょうね。

 一人ひとり主観の範囲内で そういう神とのやり取りをおこなうということがあるのでしょうね。

 自己満足だとも言わねばならないと同時にその反面では あるいはそれでも そこにおのれの主観の伸びや明けやまたあたらしい世界の見方へのあゆみが得られることがあるのはないでしょうか。



 満ち足りている者は 求めたりしないでしょう。
 ただし 求めに応じてくれたとき人間は その神が たとえば罰を与えるというかたちで 人間に求めているのだと表現することはあるのでしょう。

投稿日時 - 2012-06-13 00:59:01

ANo.20

「催促」というのは、求める、ということですよね。

投稿日時 - 2012-06-13 00:29:42

お礼

 つづいてです。

 ええ。人間の側が 求める です。

投稿日時 - 2012-06-13 00:42:44

ANo.19

「ひとり満ち足りる」というのに「神」は、なんだっていうのか

投稿日時 - 2012-06-13 00:07:30

お礼

 つづいてです。

 たぶん われわれ人間が何かと催促しているのでは?

投稿日時 - 2012-06-13 00:19:54

ANo.18

「ひとり満ち足りているもの」とは、程遠いから?

(「ひとり満ち足りる」というのに「神」は、なんだっていうのか)

投稿日時 - 2012-06-12 23:46:57

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「ひとり満ち足りているもの」とは、程遠い
 ☆ ということは その者に たとえばわれわれは 指の先で触れられているということもあり得ると思うのですが?

 あるいは 別様にすでに書いたこととしては そのナゾの何ものかはニュートリノのごとくわれわれの身と心をもつねに突き抜けているとも考えられます。

 あるいはつまり つねにどこにもあまねく存在しているとも考えられます。(想定じょうそのように帰結されます)。

 つまりは われわれの心にすでにやどっているとも考えられます。仏性とも神の霊とも呼ぶかたちで。
 ・・・

投稿日時 - 2012-06-13 00:01:34

ANo.17

もう一度

法が仏を行ずる

道元の言葉です。

成仏の証ともいわれる言葉です。

法があって仏がある

法を知って仏を知る

法を知らざれば仏を知ることもない

法を知らぬ者は仏を語りえない

となるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2012-06-12 22:50:05

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 詳しくありませんが あらためてお尋ねするならば この
 ★ 法を知る
 ☆ ということが 《人は生まれた姿において――潜在性としてでしょうか――ブッダである》ということを物語っていませんか?



 あるいはつまり もしそうでなければ 人びと一般は
 ★ 法を知らぬ者は仏を語りえない
 ☆ どころか 《仏を語られても いっさいちんぷんかんぷんである》となりませんか?
 それとも 法ないし仏は そういうものなんですか? つまり馬の耳に念仏なのでしょうか?


 すなわちつまり
 ☆☆ (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?
 ☆ については 言えるわけがない というお答えでしょうか?

 それは そのようにブッダというものを 特別視しているのではありませんか? むやみやたらに聖なる者として祀り上げていませんか?

投稿日時 - 2012-06-12 23:13:04

ANo.16

No.12です。
お礼欄に記されている質問について、お答え
いたします。

 ■ ~~~
  釈尊の教義がそれまでと違うところは、歴劫
 修行により成道するのではなくて、その身をして
 即身成仏するところにあります。そして、衆生を
 して仏になる種こそが「南無妙法蓮華経」なの
 です。
 ~~~~
 ☆ (問い‐1) 《歴劫修行》というのは 人間の一生涯を超えて永い時間を言うのだと思いますが その《修行》のときには いつも人間として生まれて生きたその間に〔のみ〕修行したということでしょうか?

■そう言われています。

 (問い‐2) もしそうでなければ《霊》のすがたにおいて連続した期間において 修行をしたといったことでしょうか?

■前期参照。

 (問い‐3) 《仏になる種》は 《如来蔵における仏性》だと思いますが それと《南無妙法蓮華経》とどういう関係がありますか?

■『妙法蓮華経(法華経)』の中で説かれている法
は、妙法蓮華経という仏の当体の事です。これに
対し“帰命をする”という事で、“南無”を付けてい
ます。 

 (問い‐4) 《南無妙法蓮華経》は いつから現われたのですか?

■『南無妙法蓮華経』という言葉(表記)自体は、中国
天台宗の時代ですが、それ以前、竜樹菩薩も唱えて
いたとされます。しかしながら、仏教が漢訳されるの
は、中国の鳩摩羅什ですから、それ以前の竜樹菩
薩が『南無妙法蓮華経』と唱えたかは私は疑問に
思います。唱えたとあれば、『南無薩達磨芬陀梨
伽蘇多覧』と唱えたかは不明です。 

その現われた時点以前の成仏は それ以後の成仏と違いがあるのですか?

■成仏の定義については、変わりは無いと思います。
しかし、釈尊言われるところの時(時代)が違います。
これにより、衆生の機根が変わってきます。


 (問い‐5) 生身において即身成仏することができるというのは 《ひとはブッダである》からではありませんか?

■違います。それは、仏性の現われにありますが、
仏性というものは、本尊との縁により現われるのです。
 
 (問い‐6) その《種》と言うのなら 仏性・如来蔵でしょうが それよりほかにまだ《南無妙法蓮華経》が要るのですか? どうしてでしょう。

■南無妙法蓮華経こそが種であり、そこに帰命し
生きる(広める)事で自身の仏性が開花するのです。

 (問い‐7) もしそうなら 宇宙の生命を問う根本的な問いにかんして どうしてそのような専売特許のごとき仕組みになっているのですか?

■専売特許ではなくて、本来の衆生の目的がそこ
にあるからです。法に縁し、法を広め、衆生を導く。
仏の使いとして生きるのですから、仏の境涯となる
のは必然ではないでしょうか。



  ■ ~~~ 
  「われわれ一人ひとりが それぞれブッダで
 ある」とは言わないが、十界論(一念三千法門)
 で、個々の生命の仏性については認知してい
 ます。⇒仏界がそれに当たる。
 ~~~~~
 ☆ (問い‐8) このように言うなら 《ひとはみな ブッダである》という状態から出発すると言ってよいのでは?

■仏界というものは、人の生命に内在とれている
ものです。しかしながら、常時仏界が現われている
かと言えばそうではありません。多くの衆生は、六
道より出ることは有りません。これを“六道輪廻”と
言いますが、仏界というものは本尊に縁して初めて
現われるからです。ですから、“仏になる可能性が
有る”という事なのです。

 (問い‐9) そしてあらためて そのほかに《南無妙法蓮華経》なる《種》が 特殊だと思われるかたちで 必要になるのですか?

■一概に『南無妙法蓮華経』といっても、肝心なのは
本尊にあるのです。この本尊論というのは、帰命の
対象となる“根本尊敬”になりますから、衆生の仏性
には大きく関係するものなのです。


 ■ ~~~
  仏性は個々の生命に存在するが、本尊
 との境智冥合により現われるものなので、
 一人一人を「仏陀」とは言えないでしょう。
 ~~~~
 ☆ (問い‐10) 《仏性は個々の生命に存在する》という状態を《〈わたし〉は ブッダである》という宣言に表わすと見るわけですが 《本尊》というのなら この世界のすべてが 自灯明であり法灯明である。すなわち それつまり本尊は ダルマ=法身仏として宇宙に遍満しているのであって ゆえに 別様に《南無妙法蓮華経》という種が必要となる理由が分かりません。

■>それつまり本尊はダルマ=法身仏として宇宙に遍満しているのであって

これが何処からの引用かという事です。

 (問い‐11) すでに《わたしはブッダである》と言った《わたし》が 世界とそのまま《境智冥合》すればよいわけで ほかに何かがなんで必要なのでしょう?

■どうやって、境智冥合するのでしょうか。


 ■ それは、「法本尊」と「人本尊」がまさにそれに当たるでしょう。
 
 ☆ (問い‐12) これは 《ブラフマンとアートマン》あるいは《法灯明と自灯明》との対応だと思われます。同じだけれども 特別に《法本尊と人本尊》とが 境智冥合のために必要だというその根拠は何でしょう?

■法本尊は正しく“仏になる法”であり、人本尊
は“仏の生命の体現”であると言えるからです。 

 (問い‐13) あるいはその根拠を述べることは長くなるとすれば その特徴は何でしょう? 特殊な《種ないし境》として つまりは南無妙法蓮華経が 特別に必要であることの特徴は何でしょう?

■成道するための“法”だからです。

 (問い‐14) あるいはさらに言いかえますが 要するにもし日蓮がどうしても特殊にまた特別に《境智冥合》の対象たる《境》として必要だということになるなら 宇宙の仏性(如来蔵)は 日蓮なる日本人ひとりの存在にしか宿っていないということになりませんか?
 (種は 誰もに宿っているという言い方で考えるなら 日蓮ひとりにのみその種にやる水が宿っているといった事態だと捉えられます。そんな唯我独尊は もううんざりではないでしょうか?)

■日蓮を僧と見るか、法華経で予言されている
上行菩薩の再誕と見るかで、認識は変わると思
います。

 (問い‐15) 前項の唯我独尊は 次のご見解とどう同じでどう違っていましょうか?
 ■ ~~~~
  ※ 釈尊のいう『唯我独尊』ということは、釈尊
 個人を指しているものではなく、「法を知覚し
 ている当体」を指している。これは、世間の学
 者は「正しい法」に帰依もせず、認識だけで
 理解しているためである。
 ~~~~~

■これは言いかえれば、唯仏与仏ということでしょう。
仏の知恵の浅深を現している言葉です。

※急いで書いてしまいましたので、不明な点もある
かと思います。ご了承ください。

投稿日時 - 2012-06-12 21:36:22

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ■ ~~~
  『妙法蓮華経(法華経)』の中で説かれている法
 は、妙法蓮華経という仏の当体の事です。これに
 対し“帰命をする”という事で、“南無”を付けてい
 ます。 
 ~~~~~
 ☆ これは おそらくいわゆる大乗仏教の《法身(ダルマ・カーヤ)》のことなのでしょうね。だとすれば 仏性ないし如来蔵とも同じだということになりそうです。
 つまり そのかぎりで 《南無妙法蓮華経》が ほかの特別の《成仏の種》であるという見方にはまだ成らないように見られます。


 ■ 成仏の定義については、変わりは無いと思います。
 ☆ だとしますと 《南無妙法蓮華経》の以前と以後とで――《時(時代)が違い これにより、衆生の機根が変わってきます》としても―― 《成仏の種》はまったく同じひとつ(如来蔵)であると推察されますが どうでしょう?

   *

 あとはですね。法華経ないし日蓮に拠る宗派とそうではなく またそれぞれの拠り所を持つという宗派とで おのおのそれとしての根拠を述べている。その一端を明らかにしてくださった。というような受け取りにしか いまのところ 成らないのですが どうしましょう。理解が浅いでしょうか。


   *

 中で次の一点について 何とか触れてみます。
 ■ ~~~
 これは言いかえれば、唯仏与仏ということでしょう。
 仏の知恵の浅深を現している言葉です。
 ~~~~~
 ☆ もしこのように《唯仏与仏》を言うのでしたら 誰もが《わたしは ブッダである》というところから出発していなければ この《唯仏与仏》としての成仏ないしさとりが 分からないということになりませんか?
 つまり 人はすでに生まれた姿においてこの《仏》であるというのでなければ ブッダがいくら何を説いてもいっさい分からないということになりませんか?

 あるいはつまり そうではなく 人はすでに生まれた姿においてこの世界の中に位置するというその存在のあり方だけによって《境智冥合》している。潜在性としてですね。というところから出発しないなら いくら《南無妙法蓮華経》なり日蓮の《生命の当体》という《境》に接しても 冥合し得ないのではないですか?

 もっと簡単に言えば 《唯仏与仏》というときの《仏》は われわれ一般の人間〔における仏性〕とどう同じでどう違うのか? まったく違っているのならば――渡りえない海を隔てているのならば―― いくら説法を聞いても境として接しても ついぞ分からないし冥合もし得ない。ということになりませんか?

投稿日時 - 2012-06-12 23:01:20

ANo.15

4度目ですね
ks5518さん 凄い知識で 質問者さんも凄いがこの方も凄い
結局凡人がブッタになれるかは解らないのですが 即身成仏なので仏には成れるんでしょうね ま-あんまり答えにはなってないな-。

日蓮の余談
釈尊は聖人は3世を知るのとおりks5518さんの記載にもある様に 一億三千万塵天光????????
の昔に悟りを得たのが前世だそうです


さて釈尊は未来の自身の未来の生まれ変わりも予言しており
何千年後かは忘れたがだが 以下の予言をしている。

私の説いた法は将来衆生に忘れ去られる
歩華経に縁が無くなる 末法思想ですね。
その時日出ずる国から僧侶が生まれ変わりとして誕生する

その僧侶は卑しい身分の子供として生まれ 貧しい身なりで
末法の僧侶なので平たい文章で御文をしたため 衆生に歩華経を解くが 知識人からは 低い知識しかないと思われる。
また 時の権力者などから正しい法を説くが故に迫害され波瀾万丈な人生を送るであろう との予言で

日蓮こそ末法の法華経の行者である との見解があり 釈尊の末法における生まれ変わりである。
信ずるはかはともかく そこそこ予言には当たっています。

歴史の教科書にあったり 古い日本映画に出てきたり
国家頑行(漢字が不明)立正安国論が有名ですね。

当時武士は禅宗を信心しており 禅天魔と破釈して数々の法難を受けます。
正しい宗教を信じないと 他国から侵略されるぞ などと 国家元首 北條時宗 ちがったかな- に3度進言するが受け入れられなかった

因みに日蓮を信望する宗教団体はいろいろあるのですが
なんといっても憎まれっ子世にはばかる創価学会が有名です
新興宗教団体ではダントツの会員数を誇っています。
芸能界☆放送局☆新聞社☆国会☆司法界など 社会の隅々までいて 好まなくても凄い団体で資金力も凄く10億以下はお金じゃないらしい。
久本雅美が強信の芸術部員で有名で彼女に入会にさそわれて
創価学会なんか 大嫌いだ と いったお笑いタレントは番組が消えうせる。

余談で失礼しました。

投稿日時 - 2012-06-12 19:39:24

お礼

 同じ内容のご投稿でした。どちらかが削除されましょうから 同じお応えをかかげておきます。


 ご回答をありがとうございます。

 ★ 法華経
 ☆ が もしそうだとすれば 鍵をにぎるように思います。その中身と言いますか あるいはその解釈がと言いますか。
 
 これは それぞれの立ち場で研究され論文等として見解も発表されているのでしょうね。
 いまこの時点ではそちらのほうにゆだねたい。こう思っています。

 もちろん その結果をふまえて持論を ここでさらに展開されてもいいと思います。

 かんたんですが そういうお応えになりましょうか。

投稿日時 - 2012-06-12 23:14:48

ANo.14

こんばんは。


☆☆☆
★ 要は、《ブラフマン》を《バラモン教で説くブラフマン》と考えるか、「ブラフマンに対するバラモン教的定義は間違っている」とするかの立場の違いです。
 ☆ 《絶対》であるなら どう名づけようと〔その神は〕みな同じであるはずです。《定義》というよりは 《絶対》なるナゾの何ものかは これを人間が《想定している》という出発点があるはずです。その想定にもとづき いろんな定義が出てくるという見方です。
 上のブラフマンズムに対抗するブディズムは ただ だだをこねているとしか見えません。同じ絶対なる神をめぐって 名称であらそっていると見えるという意味です。

「名称で争っている」と言えば、まぁ、その通りなのですが、ブラフマン・アートマンを認めるわけにはいかないという理由もあるのですよ。

(原始仏教と上座部)仏教は徹頭徹尾、梵を否認した。唯一恒在の宇宙的存在を認める必要もないし、それを認めなくても一切は十分説明できる。....《業》より高いものはない。....ただ業の説だけが世界の出来事や世界苦の説明を可能にする。個々は、みずからが行う行為(=業)によって生じる。自らの行為が、再生の時、ふた親をいずれにするかまで決定するのである。多種多様な大自然の出来事は、この偉大な「業の法則」の結果に他ならない。その原因は、自己自身以外にありえない。....「もし人が絶対存在という言葉によって、既知のあらゆる存在の外に存するものを理解しようとするならば、そのような存在はいかなる論法によっても理解できない。我々自身、その存在を知ることができない。何となれば、宇宙は互いに依存するものの体系だからである。体系を産み出したものが、産み出されたものとなんら係わらないなど、いかにしてありえようか。」   {J.ゴンダ インド思想史)

ゴータマ仏教というのは、形而下の現象を記述する法則で構成されているので、原理上、形而上的な議論をできないようになっているんですよ。しかも、縁起や輪廻の法則というのは、相互依存性と一瞬たりとも休むことの(輪廻という)動態を記述するもので、原因が結果に、結果が原因という循環論法。だから、《業より高いものはない》はずなのに《その業の原因は、自己自身》なので、行為と行為者との関係、どちらが上位者か識別ができない。《鶏が先か卵が先か》の議論になってしまう。媒介者として行為者の意思を立てても同じことです。
これが
☆ もしこうなら 《人間〔の意志行為〕》は 《業を超越している》と言っているにひとしい。こう見られませんか? 
の答えになります。

涅槃は輪廻という動態の停止ととらえることができるけれど、涅槃が如何なるものかは具体的に説明ができない。すべての出来事を動態でとらえる仏教は、静態と相性が抜群に悪い。
 たとえば、涅槃は、ろうそくの火が消えたことにたとえられますが、
 ろうそくの燃料である業が消滅すれば、ろうそくの火(輪廻する人間)が消えてしまう。
 ろうそくの火がどこに行ったかは分からない。でも、ろうそくの火がなくなったのは分かる。
 分からないんだったら、それ以上考えるだけ無駄。大切なのは、ろうそくの火が消えること。どうでもいいじゃん。
効用主義といってしまえばそれまでなのですが、
ゴータマ・ブッダの仏教は、そのような論理的欠点を有している。弱点を有している。
まして、あるかどうか確かめようもない《ブラフマン》など論外。そのような《ブラフマン》があったとしても、《体系を産み出したものが、産み出されたものとなんら係わらないなど、いかにしてありえようか。》なので、仏教の縁起の法則に引っかかってしまう。
最後は《エポケー》。

なので、
(14) 《絶対》なる《神》は それぞれの名称の違いにかかわらず すべて同じであり《ひとつ》であり それは《全体》を意味しています。

に対しては、不可知論になってしまう。
この一戦を踏み越すと、大乗仏教の法身思想になってしまう....
上座部の《法身》は、ゴータマ・ブッダの教え(ダルマ)の集まり、つまり悟りへのマニュアルなので、これがたとえ永遠の存在だとしても、はたしてこれを神と呼んでいいのか、何とも微妙です。



☆☆☆
以前から申し上げているように、
大乗の法身思想は、越えてはならない一線を越した感があるので、《梵我一如》と呼んでいただいて結構です。密教は、ましてそうです。
梵と呼ぶか法身や空性と呼ぶか、アートマンと呼ぶか如来蔵あるいは仏性と呼ぶかは、歴史的・伝統的な経緯です。





☆☆☆
 ○ (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?
 ☆ 《わたし・ぶらじゅろんぬは ブッダである》 とまづは隗より始めます。ここが ロードスですから。

これは何とも。
ゴータマ仏教は、《修行をすれば》という前提がつくので、裏を返せば《修行しなければ悟れない》。どうでしょうか、少し疑問符がつくような....。
ゴータマブッダが説いたとされる《一闡提》《断善根》(みずからの行為で悟る能力を失った人)の問題もありますし、修行論的立場から言えば、《仏性》止まりの方がいいような気がします。

まして大乗の唯識、《一切衆生悉有仏性》を認めてないので。
《わたし・ねむりねこ》同様に、
《わたし・ぶらじゅろんぬ》も永遠に悟ることができない《無姓有情》かもしれない(笑い)。

投稿日時 - 2012-06-12 19:37:45

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 次のように要約してよろしいでしょうか?
 (1) ブディズムは それとしての観念体系がしっかりと築かれている。この準拠枠を破るわけには行かない。けれども この準拠枠は 知としてふつうに経験合理性にもとづくという経験科学の立ち場である。

 (2) ただし マハーヤーナー・ブディズムでは《法身》を言う。このかぎり いまひとつ別の枠があって 《非経験の場》としての神を想定するという前提を持ったものである。類型としてなら 《梵我一如》を説いている。

 (3) 上の(1)の学知は 実践がつきものである。
 ★ ゴータマ仏教は、《修行をすれば》という前提がつくので、裏を返せば《修行しなければ悟れない》。

 (4) そうして (2)の立ち場に立てば 次のように神学を交えた哲学としての構成になっている。
 ★★(回答No.7) ~~~~
 (か) ★ 《ブッダの悟り》の境地は、過去仏であろうが、法身仏であろうが、阿弥陀さんであろうが、同一です。したがって、相対的なものではないです。
  ☆ もしこうであるなら 《永遠》は ほんとうに永遠であり絶対なのであって すべては・つまりアートマンもブラフマンも 法身も仏性ないし如来蔵も 自灯明も法灯明も ダルマ(法)もすべては 《かみ》です。名称の違いを問わずです。
 そうして 神は非経験の場ゆえ これを人間が受け容れるのは 非思考の庭がわが心に成るという・それとしての経験動態です。

 ・ 教えとしてのダルマが 相対的なものであることは それが経験思考の領域に属するなら 当然だと考えます。

 おっしゃる通りです。そのように考えられて、結構だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~

   *


 (5) こうだとして進めますが わたしの立ち場としましては じつは (1)の経験哲学としての観念体系と(2)の神学的哲学とは 両立するという見方を持ちます。

 (6) まづ余興のような話題ですが 観念論としては 梵我一如なる世界観は 決して特異なものではないと考えられますよね。つまり

  ・《宇宙霊魂(プシュケー・トゥー・コスムー)ないし世界霊魂(アニマ・ムンディ)》

 これは 人の体ないし生命と一体であるというものだと思います。

 (7) 問題は この《霊魂》ないし《梵天》を どのように定義するかだと考えられます。

  ○ (《神》とは何か) ~~~
   (い) 人類が持った《神》という言葉は どう規定しておくのか?

   (ろ) 人間の知性は 歴史知性であって すべて経験合理性にもとづく認識より成る。

   (は) では人間は この《経験知》しか扱わないか? つまりその問いに《神》はどうかかわっているのか?
 
   (に) 人類は 《絶対》あるいは《無限》という概念を持ったからには その《非経験の場》をどう扱うのか?

   (ほ) つまりは・すなわち 《非経験の場》は 経験思考を超えている(または 因果関係から自由である)と《想定される》と定義するしかないではないか?

   (へ) これが 《神》である。もし《非経験の場》という規定に従うならば あとはそれをどう名づけようと それは 《神》の範疇に入る。

   (と) 《霊魂》も《ブラフマンないしアートマン》もまた《法身》も 非経験の場かそれとも経験世界に属すると見るか この基準で判断されるし され切ることができる。
 ~~~~~~~~~~~

 (8) 《神》としてのブラフマンであれば その定義にのっとるかぎりで 経験科学としてのゴータマ・ブディズムとしても きちんと扱い得る。

 ★ ~~~
 ・・・あるかどうか確かめようもない《ブラフマン》など論外。そのような《ブラフマン》があったとしても、《体系を産み出したものが、産み出されたものとなんら係わらないなど、いかにしてありえようか。》なので、仏教の縁起の法則に引っかかってしまう。
 ~~~~~
 ☆ すなわち 神としてのブラフマンなら 《体系を産み出した》という属性規定は 《非経験の場》だという想定から派生した見方であるに過ぎない。とすれば 《産み出されたもの――すなわち経験世界およびそこにおける縁起の過程――と どうかかわるか》は その派生概念としての属性規定の問題です。
 
 (9) すなわち 神であるなら もし造物主という属性規定に沿ってその世界観を明らかにするなら その神ないしブラフマンは
 ○ ひとつに 非経験の場として経験世界にはげしく接していると見る見方があり 
 ○ ひとつに 非経験の場は――絶対ゆえに――経験世界を覆いつつむと見る 
 ○ ひとつに あたかもニュートリノのごとくブラフマンの霊魂は経験世界をつねに突き抜けていると見る
 ○ ひとつに いやいや 宇宙霊魂は いつ・どこにでも遍在していると見る・・・
 と成り得ます。

 (10) なにしろ 縁起の過程から自由であるという《非経験の場》として 想定しているのですから 自由自在です。ゴータマ・ブディズムなる経験思想にとって この神学は なんら邪魔者にはなりません。むしろ 
 ★ ~~~
 効用主義といってしまえばそれまでなのですが、
 ゴータマ・ブッダの仏教は、そのような論理的欠点を有している。弱点を有している。
 ~~~~~
 ☆ この欠落を埋める神学的哲学だと見られます。

 (11) すなわち
 ★ ~~~
 ゴータマ仏教というのは、形而下の現象を記述する法則で構成されているので、原理上、形而上的な議論をできないようになっているんですよ。しかも、縁起や輪廻の法則というのは、相互依存性と一瞬たりとも休むことのない(輪廻という)動態を記述するもので、原因が結果に、結果が原因という循環論法。だから、《業より高いものはない》はずなのに《その業の原因は、自己自身》なので、行為と行為者との関係、どちらが上位者か識別ができない。
 ~~~~~
 ☆ ゴータマ仏教は 言わば《する(人為・作為)》の経験哲学であるようです。
 それに対して と言いますか むしろそれをふくむかたちで 《なる(つまり人為を容れた自然史過程)》の神学的哲学が 大乗仏教の精神であるのではないでしょうか?
 後者は 前者と矛盾しません。前者が 無記とするところは 想定するという仮構において扱うだけですから。

 (12) まとめますと (4)の《神を非経験の場として想定する》補助線によって (2)の大乗仏教の神学的哲学は (1)のゴータマ・ブディズムなる経験科学と相いたずさえて 世界観の構築にすすみうる。(3)の修行につきましては わたしは分からないという立ち場です。よく知りません。ヨガも知りませんし。(保留となりましょうか)。




 (13) ブッダ あやまてり。なのでは?

投稿日時 - 2012-06-12 22:19:37

ANo.13

4度目ですね
ks5518さん 凄い知識で 質問者さんも凄いがこの方も凄い
結局凡人がブッタになれるかは解らないのですが 即身成仏なので仏には成れるんでしょうね ま-あんまり答えにはなってないな-。

日蓮の余談
釈尊は聖人は3世を知るのとおりks5518さんの記載にもある様に 一億三千万塵天光????????
の昔に悟りを得たのが前世だそうです


さて釈尊は未来の自身の未来の生まれ変わりも予言しており
何千年後かは忘れたがだが 以下の予言をしている。

私の説いた法は将来衆生に忘れ去られる
歩華経に縁が無くなる 末法思想ですね。
その時日出ずる国から僧侶が生まれ変わりとして誕生する

その僧侶は卑しい身分の子供として生まれ 貧しい身なりで
末法の僧侶なので平たい文章で御文をしたため 衆生に歩華経を解くが 知識人からは 低い知識しかないと思われる。
また 時の権力者などから正しい法を説くが故に迫害され波瀾万丈な人生を送るであろう との予言で

日蓮こそ末法の法華経の行者である との見解があり 釈尊の末法における生まれ変わりである。
信ずるはかはともかく そこそこ予言には当たっています。

歴史の教科書にあったり 古い日本映画に出てきたり
国家頑行(漢字が不明)立正安国論が有名ですね。

当時武士は禅宗を信心しており 禅天魔と破釈して数々の法難を受けます。
正しい宗教を信じないと 他国から侵略されるぞ などと 国家元首 北條時宗 ちがったかな- に3度進言するが受け入れられなかった

因みに日蓮を信望する宗教団体はいろいろあるのですが
なんといっても憎まれっ子世にはばかる創価学会が有名です
新興宗教団体ではダントツの会員数を誇っています。
芸能界☆放送局☆新聞社☆国会☆司法界など 社会の隅々までいて 好まなくても凄い団体で資金力も凄く10億以下はお金じゃないらしい。
久本雅美が強信の芸術部員で有名で彼女に入会にさそわれて
創価学会なんか 大嫌いだ と いったお笑いタレントは番組が消えうせる。

余談で失礼しました。

投稿日時 - 2012-06-12 19:30:46

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 法華経
 ☆ が もしそうだとすれば 鍵をにぎるように思います。その中身と言いますか あるいはその解釈がと言いますか。
 
 これは それぞれの立ち場で研究され論文等として見解も発表されているのでしょうね。
 いまこの時点ではそちらのほうにゆだねたい。こう思っています。

 もちろん その結果をふまえて持論を ここでさらに展開されてもいいと思います。

 かんたんですが そういうお応えになりましょうか。

投稿日時 - 2012-06-12 22:30:11

ANo.12

答えられるところだけ、回答いたします。

【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?
 
 (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?

■釈尊の成道は、過去世において下種に
より成道していた事が明かされています。

 (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?

■同じ下種であるから、程度の差は無い
と考えられます。

 (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?

■釈尊自身が、法華経の中で多宝如来を
証言者としてひかれています。


 【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・

 (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?

 (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?

 (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?

※釈尊のいう『唯我独尊』ということは、釈尊
個人を指しているものではなく、「法を知覚し
ている当体」を指している。これは、世間の学
者は「正しい法」に帰依もせず、認識だけで
理解しているためである。


 けれども
 【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?

■仏陀=仏=如来であれば、最終的な結論
であるところの『法』の授持があるわけですか
ら、差は無いと考えます。

 (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? 

■「われわれ一人ひとりが それぞれブッダで
ある」とは言わないが、十界論(一念三千法門)
で、個々の生命の仏性については認知してい
ます。⇒仏界がそれに当たる。

 (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?

■それは、「法本尊」と「人本尊」がまさに
それに当たるでしょう。

 (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。

■釈尊の教義がそれまでと違うところは、歴劫
修行により成道するのではなくて、その身をして
即身成仏するところにあります。そして、衆生を
して仏になる種こそが「南無妙法蓮華経」なの
です。


 (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

■仏性は個々の生命に存在するが、本尊
との境智冥合により現われるものなので、
一人一人を「仏陀」とは言えないでしょう。

※※Q2-4.5.6については、原始仏教をあまり
理解していないので、回答いたしませんでした。

◎Wikipediaにある文言ついては、それが全て
ではないと思います。それは、“仏”が直接書い
ているならともかく、そうではないと思うからです。
多様な物の見方をすれば、解釈も変わってくる
かと思います。

◎久遠元初、久遠実成、始成正覚が理解でき
ると、質問者様の疑問により良い理解が出来る
かと思います。この点につきましては、ご自身で
研鑽していただけると良いと思います。

P.S 質問者様は、長くキリスト教の造詣が深く
おありかと思いましたが、私の認識不足だったの
でしょうか。失礼いたしました。

投稿日時 - 2012-06-12 14:21:23

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。次のご見解について最初にお尋ねしたいと思います。
 ■ ~~~
  釈尊の教義がそれまでと違うところは、歴劫
 修行により成道するのではなくて、その身をして
 即身成仏するところにあります。そして、衆生を
 して仏になる種こそが「南無妙法蓮華経」なの
 です。
 ~~~~
 ☆ (問い‐1) 《歴劫修行》というのは 人間の一生涯を超えて永い時間を言うのだと思いますが その《修行》のときには いつも人間として生まれて生きたその間に〔のみ〕修行したということでしょうか?

 (問い‐2) もしそうでなければ《霊》のすがたにおいて連続した期間において 修行をしたといったことでしょうか?

 (問い‐3) 《仏になる種》は 《如来蔵における仏性》だと思いますが それと《南無妙法蓮華経》とどういう関係がありますか? 

 (問い‐4) 《南無妙法蓮華経》は いつから現われたのですか? その現われた時点以前の成仏は それ以後の成仏と違いがあるのですか?

 (問い‐5) 生身において即身成仏することができるというのは 《ひとはブッダである》からではありませんか?
 
 (問い‐6) その《種》と言うのなら 仏性・如来蔵でしょうが それよりほかにまだ《南無妙法蓮華経》が要るのですか? どうしてでしょう。

 (問い‐7) もしそうなら 宇宙の生命を問う根本的な問いにかんして どうしてそのような専売特許のごとき仕組みになっているのですか?



  ■ ~~~ 
  「われわれ一人ひとりが それぞれブッダで
 ある」とは言わないが、十界論(一念三千法門)
 で、個々の生命の仏性については認知してい
 ます。⇒仏界がそれに当たる。
 ~~~~~
 ☆ (問い‐8) このように言うなら 《ひとはみな ブッダである》という状態から出発すると言ってよいのでは?

 (問い‐9) そしてあらためて そのほかに《南無妙法蓮華経》なる《種》が 特殊だと思われるかたちで 必要になるのですか?


 ■ ~~~
  仏性は個々の生命に存在するが、本尊
 との境智冥合により現われるものなので、
 一人一人を「仏陀」とは言えないでしょう。
 ~~~~
 ☆ (問い‐10) 《仏性は個々の生命に存在する》という状態を《〈わたし〉は ブッダである》という宣言に表わすと見るわけですが 《本尊》というのなら この世界のすべてが 自灯明であり法灯明である。すなわち それつまり本尊は ダルマ=法身仏として宇宙に遍満しているのであって ゆえに 別様に《南無妙法蓮華経》という種が必要となる理由が分かりません。

 (問い‐11) すでに《わたしはブッダである》と言った《わたし》が 世界とそのまま《境智冥合》すればよいわけで ほかに何かがなんで必要なのでしょう?


 ■ それは、「法本尊」と「人本尊」がまさにそれに当たるでしょう。
 
 ☆ (問い‐12) これは 《ブラフマンとアートマン》あるいは《法灯明と自灯明》との対応だと思われます。同じだけれども 特別に《法本尊と人本尊》とが 境智冥合のために必要だというその根拠は何でしょう? 

 (問い‐13) あるいはその根拠を述べることは長くなるとすれば その特徴は何でしょう? 特殊な《種ないし境》として つまりは南無妙法蓮華経が 特別に必要であることの特徴は何でしょう?

 (問い‐14) あるいはさらに言いかえますが 要するにもし日蓮がどうしても特殊にまた特別に《境智冥合》の対象たる《境》として必要だということになるなら 宇宙の仏性(如来蔵)は 日蓮なる日本人ひとりの存在にしか宿っていないということになりませんか?
 (種は 誰もに宿っているという言い方で考えるなら 日蓮ひとりにのみその種にやる水が宿っているといった事態だと捉えられます。そんな唯我独尊は もううんざりではないでしょうか?)

 (問い‐15) 前項の唯我独尊は 次のご見解とどう同じでどう違っていましょうか?
 ■ ~~~~
  ※ 釈尊のいう『唯我独尊』ということは、釈尊
 個人を指しているものではなく、「法を知覚し
 ている当体」を指している。これは、世間の学
 者は「正しい法」に帰依もせず、認識だけで
 理解しているためである。
 ~~~~~


 ちょっと盛り込み過ぎたでしょうか? よろしかったらお尋ねします。

投稿日時 - 2012-06-12 17:27:22

ANo.10

3度目です
煩悩即菩薩
煩悩をもつ我々でも
即菩薩の様な境涯になれる。
即身成仏
ま-似たようなもん?
ご存知の様に仏教は第一に 宗教は哲学の実践的形態と定義しており 神は厳然とおられます なんて キリスト教とは全く違う概念で私は聖書を読むと頭が変になります。

さて十界論 ご存知ですね。前提として生命論は宇宙全体も我が身も 生命と捕らえています。
十界論は人間の生命状態を顕す概念です。最高の境涯の仏界から最低の境涯である 地獄界まであり これは死んで来世で極楽浄土にいく とか 地獄に落ちるのではなく.
現世での人間の生命境涯を著します。標準的境涯を人界といいます 仏界は何物にも侵されない絶対的幸福の境地です。
たとえば貴方が人を殺したいとおもったらそれはまさに貴方の生命状態は地獄界にあります。
南無妙法蓮華経 は
これは よく御本尊だったり お題目 だったりします サンクリット語の 中国の名僧が訳したものとされ
南無は帰命 と訳し
妙法は 余り正確ではないのですが歩華経です?
蓮華経 これは葬式の砂糖にかいてあるハスの花で 蓮華の花は泥の中でも美しい花をさかす。
つまり 歩華経を行ずればおのずと辱悪のこの世でも蓮華の様な境涯を築ける。

我々並び替えに我が弟子 所難あれども疑う心なければじねんに仏界にいたるべし
日蓮
残念ながら現代の衆生は釈迦仏教に縁しておらず 末法です
末法における歩華経の行者こそ日蓮大聖人です

いや すみません
なにやら宗教勧誘じみて すみません。

全然質問の解答になりません

しかし貴方様の知識と高い境地には感服です
どこかの仏教系大学の先生か はたまた高僧か

勝手な記載で失礼しました。

投稿日時 - 2012-06-12 07:55:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ ~~~
 十界論は人間の生命状態を顕す概念です。最高の境涯の仏界から最低の境涯である 地獄界まであり これは死んで来世で極楽浄土にいく とか 地獄に落ちるのではなく.
 現世での人間の生命境涯を著します。標準的境涯を人界といいます 仏界は何物にも侵されない絶対的幸福の境地です。
 ~~~~~
 ☆ 《われは ブッダなり》と公言した人間も ブッダなら・ブッダなるゆえにこそ 地獄界なる境地をも持ち合わせていますね。
 わたしは 瞬間湯沸かし器の阿修羅ですし。
 相手のさまざまな境地に合わせて すでに説法することなく――なぜなら 相手も皆 すでにブッダであるゆえ すでに説法するはなく―― 日常の仕事でともにつとめを果たしますし 趣味に興じたりします。
 



 たぶん《わたしは ブッダである》という公言をおこなったあとは 《転法輪》は要らないでしょう。
 あとは その境地が歴史する過程だけでしょうから。境地と知恵とこの知恵を深めること。そしてそれらがみちびく有益な知識の共有といったことになりましょうから。




 世の中には 日蓮型の《ブッダ宣言》が好きな人たちもいますね。でも 仲良くやって行きましょう。
 オシエは 法華経をふくめ さとりを得たあとでは 要らなくなる筏だそうですよ。
 ★ 仏教系大学の先生か はたまた高僧
 ☆ の方々のご研究に接してまなんで来ました。

投稿日時 - 2012-06-12 10:50:44

ANo.8

御互いに主張し合っている時点で、
其の話題の対象が万民の共通点ではなくなるでしょう。

本来的には、下記URLのページで提示されている様な質問への回答の為に、
貴方の素晴らしい知性を発揮させてあげるべきではないでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7513074.html

投稿日時 - 2012-06-12 01:10:33

お礼

 ★ NetVolanteDNS リモート接続
 ☆ については 分かりません。無知です。


 ★ ~~~
 御互いに主張し合っている時点で、
 其の話題の対象が万民の共通点ではなくなるでしょう。
 ~~~~~
 ☆ そんなことにはなりません。万一そうなるとしたら まだ哲学の修業が足りないからでしょう。

投稿日時 - 2012-06-12 05:14:29

こんばんは。



☆☆☆
華厳の人とかは怒るかもしれませんが、《法身》は《ブラフマン》のような宇宙を司る最高原理のような大(だい)それた存在ではありません。仏教の最高原理《法身》ですら、あくまで《ブラフマンもどき》的な存在です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《もどき》なら 《相対性の世界》だと考えるしかないと思うのですが?

★仏教では、宇宙を唯一主宰する最高原理、あらゆる物に超越するものとしての《ブラフマン》の存在を否定します。つまり、バラモン教的《ブラフマン》観の否定です。
ですが、《ブラフマンもどき》の存在は否定しません。そして、《ブラフマンもどき》こそが《真のブラフマン》であるといった考え方をします。さらに、《ブラフマンもどき》にして《真のブラフマン》を、本来、言葉で表現できないけれど、仮に《法身》を読んでおこうといったイメージです。
要は、《ブラフマン》を《バラモン教で説くブラフマン》と考えるか、「ブラフマンに対するバラモン教的定義は間違っている」とするかの立場の違いです。
歴史上のゴータマ・ブッダが輪廻の主体を《アートマン》としなかったのは、輪廻の主体がバラモン教で考えられている《アートマン》と同一視されるのを恐れたためです。
同様に、後世の仏教哲学者・思想家が、宇宙の真実在に対して《ブラフマン》という名称をつけなかったのは、《法身》などをバラモン教などで説かれている《ブラフマン》と同一視されることを恐れたためでしょう。
なので、《ブラフマンもどき》《法身》こそ宇宙の真実在ですから、《ブッダの悟り》は相対的なものではない、ということになります。
仏教としては、
宇宙を唯一主宰する最高原理、あらゆる物に超越するものとしての《ブラフマン》、そのようなものが存在したら、理論崩壊してしまいます。それは、人間自身の行為と行為結果すなわち《業》を超える存在になってしまいますから。
でも、《ブラフマンもどき》ならいいんですよ、《業》を超えた存在ではないので。
ブッダも阿弥陀さんも、法身仏でさえも、人間の《業》を超越した存在ではない(人間の業を変えることは、《ブラフマンもどき》ではけっして変えることができない。できるのは本人だけな)ので、その存在は許されるわけです。

このブラフマン・アートマンの定義の違いを明確にした上でならば、仏教の最終目的は《梵我一如》と言えます。




☆☆☆
 次のご見解が わかりづらいです。
 (え) ★ ~~~
 あとは、《永遠のブッダ》を何と呼ぶか、その名称の問題です。
 なので、《仏教》は《無神論》ではないです。「いわゆる《神》でない神の教え」ですから、仏教。
 ~~~~~~~~

《永遠のブッダ・法身仏》あるいは《実在のブッダ》を神と呼んでもいいのですけれど、
その神は、ユダヤキリスト教的な意味での唯一《絶対神》Godではない。まして、古代インドの多神教的な神さまDevaでもない。そうしたGodやDevaという神では《ない》(無い)、そうしたGodとDevaとは違う神、Buddhaという神
という意味です。
なので、仏教は《無神論》でないということになります。
同時に、《無神論》は、神でないものを神とするする《有神論》と定義することも可能だと思います。



☆☆☆
☆ そのようにゴータマ・ブッダが言うのは自由ですが そして仲間からそう認められることも自由ですが 果たして人びとは どうそれを一般的に認めることができるか?


平安末期から鎌倉初期にかけて流行した末法思想がまさにこれだと思います。
この世に仏と仏教の正しい教えは、もはや存在しない。どうする、どうする、と日本社会は大混乱しました(貴族社会から武家社会への変換期で社会が混乱したことも、その一因)。
その解決策のひとつが、この世とは違う阿弥陀浄土に往生しようとする浄土教(浄土宗・浄土真宗)です。
ちなみに、《この世》というのは《娑婆世界》です。
仏教では、現在、仏のいる世界は《阿弥陀浄土》をはじめにいろいろあります。
ただ、一つの世界には一人のブッダしかいない、という大前提が仏教にはあるので、ゴータマ・ブッダが現れた時には、この娑婆世界にいたとされる過去の6仏(応身)はもはやこの時代の娑婆世界にいない。そして、次にこの娑婆世界にブッダとして現れるのは、弥勒菩薩(弥勒仏)。
つまり、この娑婆世界には、現在、生身の体を持ったブッダ(応身)は、もはやいない、という意味です。

人間をはじめとする、生きとし生けるもの、すべてが仏性や如来蔵を持っていようが、この娑婆世界では、弥勒仏が現れるまで《悟る》こと、《成仏》はできない。

じゃっ、《即身成仏》とはなんぞ?
答えは、高野山奥の院に今も生きているとされる弘法大師・空海にあります。
《即身成仏》を説いた弘法大師・空海は、《ブッダ》になっていません。
なので、《弥勒仏》がこの世に下生した時に、そのお手伝いをしようと、入定(滅尽定)し、自身の時を止めて、今も生きている。
そもそも、即身成仏というのは、この身のままで瑜伽(加持行)を行えば、その時だけ仏のようになれるという思想。三密(三業)加持すれば、誰しもその時だけは仏のように成れるというのであって、この生身の体で仏・ブッダになるという教えではありません。
この《娑婆世界》で、そうそう簡単に真の《悟り》を得られません。
真の《悟り》に達するためには、永遠に等しいような時間、修行しないとされていますので。

では、禅宗で言う悟りとは?
あれは、仏教でいう《阿耨多羅三藐三菩提》(無上正覚)でも何でもありません。悟りの段階のほんの入り口(にもなっていないかも?)です。



☆☆☆
(か) ★ 《ブッダの悟り》の境地は、過去仏であろうが、法身仏であろうが、阿弥陀さんであろうが、同一です。したがって、相対的なものではないです。
 ☆ もしこうであるなら 《永遠》は ほんとうに永遠であり絶対なのであって すべては・つまりアートマンもブラフマンも 法身も仏性ないし如来蔵も 自灯明も法灯明も ダルマ(法)もすべては 《かみ》です。名称の違いを問わずです。
 そうして 神は非経験の場ゆえ これを人間が受け容れるのは 非思考の庭がわが心に成るという・それとしての経験動態です。

 ・ 教えとしてのダルマが 相対的なものであることは それが経験思考の領域に属するなら 当然だと考えます。

おっしゃる通りです。そのように考えられて、結構だと思います。



☆☆☆
(き) ★  でも、仏教の修行・実践の立場からは、《本覚思想》的な立場をとってはいけないと思います。修行・実践の重要性がなくなるので。
 ☆ ゴータマ氏は なぜ自分がさとりを得たと思ってそう公表したか? 《本覚思想》の立ち場に立ったゆえではないでしょうか? 

これは微妙です。ゴータマブッダが生きて時代、修行によって輪廻からの軛を説くことが出来るという考え方が、仏教のみならずインドの他の宗教にアプリオリの原則として認められていたので…。
それを《本覚思想》と呼ぶのなら、まぁ、《本覚思想》と呼べないことはないのでしょうが、どちらかといえば《一切衆生悉有仏性》の方が適切だと思います。
《本覚思想》とはちょっと違うような気がするんですが....
いわゆる《本覚思想》は、「ブッダの悟りを得る前から、実は、衆生はすべて悟っていたのだ」とか「迷いのある段階でも、じつは、衆生は悟っているのだ」いう立場なので、どうでしょう、微妙な気がします。

投稿日時 - 2012-06-12 00:27:45

お礼

 いつもていねいに説明していただけるご回答をありがとうございます。
 読んだそのつど 反応をしるして行きました。ので 重複するような議論になっているところがあるかも知れませんが よろしくお願いいたします。


 ★ なので、《ブラフマンもどき》《法身》こそ宇宙の真実在ですから、《ブッダの悟り》は相対的なものではない、ということになります。
 ☆ 端折った引用ですが 質問者の物言いは こうです。

 (11) 《宇宙の真実在》が 《絶対》のことであるなら これを《ブラフマン》と言おうと《ブラフマンもどき》と言おうと あるいは《神》と言おうが《無い神》と言おうが すべて同じである。《仏性ないし如来蔵》も同じなはずです。

 (12) 《人間のさとり》自体は それが時間的な経験行為であるからには じつは質問者も相対的なものだと理解していますが それがゴータマさんでもわたしでも誰でも得られるというのは 《絶対》という《非経験の場》が想定されていてこれにかかわるからだと見られましょうし そう見る場合しかあり得ない。

 (13) したがって
 ★ 《ブッダの悟り》は相対的なものではない
 ☆ ということは 《仏性(ないし如来蔵)》としては 絶対なる普遍性〔として想定されたもの〕であり 《人間の得たさとり》としては 時間的な動態であると言っているはず。

 ☆ このように考えられます。
 くどくなりますが:
 ★ 要は、《ブラフマン》を《バラモン教で説くブラフマン》と考えるか、「ブラフマンに対するバラモン教的定義は間違っている」とするかの立場の違いです。
 ☆ 《絶対》であるなら どう名づけようと〔その神は〕みな同じであるはずです。《定義》というよりは 《絶対》なるナゾの何ものかは これを人間が《想定している》という出発点があるはずです。その想定にもとづき いろんな定義が出てくるという見方です。
 上のブラフマンズムに対抗するブディズムは ただ だだをこねているとしか見えません。同じ絶対なる神をめぐって 名称であらそっていると見えるという意味です。

    *

 同じ論点ですが:
 ★ ブッダも阿弥陀さんも、法身仏でさえも、人間の《業》を超越した存在ではない(人間の業を変えることは、《ブラフマンもどき》ではけっして変えることができない。できるのは本人だけな)ので、その存在は許されるわけです。
 ☆ もしこうなら 《人間〔の意志行為〕》は 《業を超越している》と言っているにひとしい。こう見られませんか? 
 もしそうではないとしたら おそらく人間にとって《業を超越しうる何ものかのチカラ》が けっきょく《絶対》なるものとして 想定されている。つまり 触れられていないけれど 想定されている。それは 《ブラフマンもどき》でないとしたら 名前はどうつけようと けっきょく《ブラフマンないしアートマン》と同じであり それは 神のことになります。そしておそらく《想定されているけれど 触れられていない》とすれば この神は じっさいの呼び名としては《無い神》ということになります。

 すなわち――そして もう一度 すなわち――
 ★ このブラフマン・アートマンの定義の違いを明確にした上でならば、仏教の最終目的は《梵我一如》と言えます。
 ☆ となる。ゴータマ・ブッダを初めとするブディストたちは 議論をむつかしくしているだけではないでしょうか? あるいはつまり 有神論と無神論との違いに過ぎず 中身はまったく同じであるではないかと。


   *

 同じ主題・同じ論点です:
 ★ ~~~
 《永遠のブッダ・法身仏》あるいは《実在のブッダ》を神と呼んでもいいのですけれど、
その神は、ユダヤキリスト教的な意味での唯一《絶対神》Godではない。まして、古代インドの多神教的な神さまDevaでもない。そうしたGodやDevaという神では《ない》(無い)、そうしたGodとDevaとは違う神、  Buddhaという神
 という意味です。
 なので、仏教は《無神論》でないということになります。
 同時に、《無神論》は、神でないものを神とするする《有神論》と定義することも可能だと思います。
 ~~~~
 ☆ 旧約聖書の神は げんみつに言えば ユダヤ民族にとっての絶対なる神です。自己矛盾ですが その矛盾は 万人にとっての神と表現しなおされ 揚げて棄てられました。
 そして 古代インドの多神の中で帝王なるインドラも宇宙の法則なるワ゛ルナでしたかも あらたに《絶対》として想定されるならそれぞれ 互いに同じ《神》になります。神鳴り(雷)であるにとどまっているなら 経験事象としてのただの分身としてのカミです。

 (14) 《絶対》なる《神》は それぞれの名称の違いにかかわらず すべて同じであり《ひとつ》であり それは《全体》を意味しています。

    *

 ★ この《娑婆世界》で、そうそう簡単に真の《悟り》を得られません。
 ☆ ~~~~
 (13) したがって
   ★ 《ブッダの悟り》は相対的なものではない
   ☆ ということは 《仏性(ないし如来蔵)》としては 絶対なる普遍性〔として想定されたもの〕であり 《人間の得たさとり》としては 時間的な動態であると言っているはず。
 ~~~~~~
 ☆ 時間的な動態としてのさとりは 即身成仏であるはずです。いえ すでにその存在として自然本性において 人はブッダである です。その実際の現われ方は 人さまざまでありましょう。
 ですから 過去七仏も弥勒菩薩も 人間としてのさとりにおいては 相対的なものです。つまり 万人がそれぞれブッダであるということと 同じことです。

 あるいは こう表わしたほうがよいかも知れません。
 
 (15) ~~~
 オシエは向こう岸に渡るための筏であると喩えられて その筏がさとりを得た者にとっては要らなくなるというよりは そうではなく それを批判してじつは 人間はその存在・その自然本性においてすでにブッダであると宣言する。
 このことは 人とブッダとは地続きであるという意味である。決して海や河がブッダとわれわれとを隔てているのではない。だからこそ《仏性ないし如来蔵》と言っていると。
 ~~~~~~~~

 ★ 《即身成仏》を説いた弘法大師・空海は、《ブッダ》になっていません。
 ★ ~~~
 では、禅宗で言う悟りとは?
 あれは、仏教でいう《阿耨多羅三藐三菩提》(無上正覚)でも何でもありません。悟りの段階のほんの入り口(にもなっていないかも?)です。
 ~~~~
 ☆ こういった段階があってかまわないわけです。けれども 人はブッダである。すべては ここから出発しているのだと。

   *

 読んだ分だけそのつど すでにお応えを書くというかたちで来ましたら 最後のふたつの事項で 大きな賛同を明らかにしていただきました。謝謝。多謝。カムサハムニダ。です。

 ★ ~~~
 《一切衆生悉有仏性》の方が適切だと思います。
 《本覚思想》とはちょっと違うような気がするんですが....
 いわゆる《本覚思想》は、「ブッダの悟りを得る前から、実は、衆生はすべて悟っていたのだ」とか「迷いのある段階でも、じつは、衆生は悟っているのだ」いう立場なので、どうでしょう、微妙な気がします。
 ~~~~~
 ☆ たしかにもしそうでしたら 違うようです。
 つまり 《ひとは ブッダである》と《ひとは もともとさとりを得ている》とは 微妙に違うようです。実際のさとりとしては 時間的にその境地が得られて行くという段階があり 《ブッダであること》の実践であると考えられます。

    *

 ○ (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?
 ☆ 《わたし・ぶらじゅろんぬは ブッダである》 とまづは隗より始めます。ここが ロードスですから。

   *
 
 この質問としてのスレで この哲学カテのブッダをめぐるすべての観念論が一掃されることをのぞみます。

投稿日時 - 2012-06-12 05:11:44

>人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

法が仏を行ずる
という事に人びとが目覚めていないからではないですか。

投稿日時 - 2012-06-11 23:53:18

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 法が仏を行ずる
 ☆ ダルマが 人間になるといったことでしょうか? つまり 神の子が人間になるといったことでしょうか?

 もしそうなら
 ★ という事に人びとが目覚めていない
 ☆ ことはないと――現代人に限っては―― 思われるのですが?

 もし目覚めていれば 言うというわけですよね?
 目覚めた人から順次 言って行けばどうでしょう?

投稿日時 - 2012-06-12 00:09:53

ANo.5

2度目の登場です。
即身即菩提
つまり 西方極楽浄土などではなく 今のこの身で菩薩の境涯を築ける。
ところで生命論をご存知で なら 十界論もご存知ですね これがホントの釈迦に説法。失礼しました。

投稿日時 - 2012-06-11 21:35:15

お礼

 つづいてです。

 ★ 即身成仏 煩悩即菩提
 ☆ ゆえに
 ★ 今のこの身で菩薩の境涯を築ける。


 ☆ そうだと思いますが さらには いえいえ 質問の趣旨は

 ○ わたしたち一人ひとりが ブッダであると言う

 です。菩薩ではなく ただちにブッダです。


 あるいは
 ★ 西方極楽浄土
 ☆ は 即身成仏と同じことだと思います。摂取不捨によって一瞬のうちに正定衆へとみちびかれる。




 ★ ところで生命論をご存知で なら 十界論もご存知ですね これがホントの釈迦に説法。失礼しました。
 ☆ いえいえ。《生命》の観点は 重要ですね。ただし じっさいに研究したり試したりはしていません。
 また 知識も 残念ながら 断片的です。

 こちらこそ 失礼しているかも知れません。思いきって言っていますし しかもしばしば山師のごとく法螺を吹くかのごとく大きな口をたたきます。

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2012-06-11 22:05:36

ANo.4

やあ。
たとえば今回の質問で語られた論理は上出来だ。
細かくこねくり回す必要が無い。
しかしその上出来加減は、あなたの考えとして、私の考えと分けた上で、尊敬できると言う意味だ、
この分かちが、なんだかんだと悟りは様々だと言う話になるのだろう。
この路線では、お釈迦様とまったく同じになる事は誰にもできないと言う事になる。
そしてひれ伏す君には君なりの悟りがあろうと言う事になる。
私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間と言う言葉を指すと、かたくなに思い続けていてね、すなわち仏陀と言ってもごく平凡な事だ。
そして人間であることは尊い。
お釈迦様は人間の群れの中に人間以外が混じっていると表明したも同然だよ。
それはたかだか2500年前の事だが、それでも当時の哲学としては良い土台を築いたと思うよ。
あとは彼の哲学を理解できる者が先に進めればいい。
私にもそれはできるがやりたいかどうかは別だ。
むしろプラトンの良く生きると言う言い回しが頭にくる。
理想的な生き方が単なる夢物語で普通の生き方では困難だと言っている。
時間認識知性であり、進化した人間である私が自分らしく生きる道は、世捨て人や乞食坊主にしかないとでも言うかのごときだ。
そのような聖者の生き様に反発しているよ。
多分、無の悟りをもう一度判り易く語ったところで、金には無らんだろう。
だからやりたくない。

投稿日時 - 2012-06-11 21:17:48

お礼

 ★ ~~~
 私は仏と言う言葉を現代語訳すると人間と言う言葉を指すと、かたくなに思い続けていてね、すなわち仏陀と言ってもごく平凡な事だ。
 そして人間であることは尊い。
 ~~~~~
 ☆ この見方は まさに

 ○ わたしたちそれぞれが ブッダであると言う。

 という出発点から出たものだと考えます。




 あとは
 ★ お釈迦様は人間の群れの中に人間以外が混じっていると表明したも同然だよ。
 ☆ というときの《人間以外》というのが よく分からなかった。

投稿日時 - 2012-06-11 21:57:25

こんばんは。



☆☆☆
§ 仏陀の範囲
( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、

 ゴータマ・ブッダには、いちおう、十号と称しまして、十ほどの呼び名があります。
 《如来》、《応供(阿羅漢)》、…、《世尊(バガヴァット)》などなど
 この他に、最初期の経典などでは、ジャイナ教と同じく《勝者(ジナ)》という言葉も使われています。
 《ブッダ》という言葉が、仏教でもっぱら《ブッダ》が使われるようになったのは、ジャイナ教の覚者・ジナとの区別のため。
 歴史的なものです。
 つまり、実在のブッダは、それほど偉い存在だとは考えられていなかった。聖仙(インドの仙人)レベルです、最初期のブッダの姿は。インドの神さまよりも下の存在であった。


( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。

 《アートマン》ではないです。《アートマンもどき》です


( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。
 《ブラフマンもどき》《法身・ダルマカーヤ》です。


【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?
(1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?

 ある意味で。バラモン教の世界では、教えは師から弟子へと直接伝えられるもの。その伝統にしたがっただけかも知れません。あるいは、教えを遡らすことによって、仏教を権威づけようとしたとも考えられます。
 でも、これではつまらない解釈なので、
 ブッダの悟り、教法が永遠のものであったとしたら、過去にもいたのではないか、という論理的推測のためとも考えられます。あるいは、ゴータマ・ブッダの宗教的確信。仏教(修行のため)の教えは永遠だという表明。
といったところでしょうか。


(2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?

 同じだと考えるべきだと思います。違いがあっては、《悟り》が相対的になるので、まずいです。


(3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?

 ということなので、逃げ道を作らなくても、理窟はつけるられます。




【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・

(4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?

 バラモン教などで説く《ブラフマン》ではないです。《ブラフマンもどき》です。
 《法身》とは、ダルマ・カーヤ。古くは、《ゴータマ・ブッダの教え・法》を体現した何か、程度の意味です。それを実体視た呼び方が《法身》です。ゴータマ・ブッダの説いた教えを真実と解釈すれば、《真実》、真実在と考えれば《真実在》とも呼べます。
 華厳の人とかは怒るかもしれませんが、《法身》は《ブラフマン》のような宇宙を司る最高原理のような大(だい)それた存在ではありません。仏教の最高原理《法身》ですら、あくまで《ブラフマンもどき》的な存在です。


(5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?

 まあそうですね。でも、《梵もどき》《アートマンもどき》一如です。
 たぶん《法身》の《遍満性》から、以前紹介した《勝鬘経》などの《如来蔵》思想が生まれたのでしょう。
 《勝鬘経》においては、宇宙の最高原理《梵・ブラフマン》は個我の真実在である《我・アートマン》に吸収されています。
 ウパニシャッド以降、インドでは《ブラフマン》の影が薄くなり、《アートマン》が優勢になりますから、論理的必然性ですね。仏教も数あるインド教の一つですから、思想史的に言えば、その影響をまぬがれなかったということでしょう。



(6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?

 仏教の言う《ブラフマンもどき=アートマンもどき》、ユダヤ=キリスト教、あるいはイスラームの神さまみたいな超越的な存在ではないです。自己の業(行為と行為結果)を超える存在ではけっしてない。唯一神教てきな神ではないという意味では《(唯一神のような絶対神では)無い神》です。
 さらに、仏教の時代にいた、インドの神さまは、《ブラフマンの人間的化身》バラモンに使役される程度の神さまですから、その意味でもブッダは《(インドの古い神さまのようなものでも)無い神》です。
 あとは、《永遠のブッダ》を何と呼ぶか、その名称の問題です。
 なので、《仏教》は《無神論》ではないです。「いわゆる《神》でない神の教え」ですから、仏教。


【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?

 ★これの答えは、とりあえず、保留。長くなるので....

(7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか? 

ゴータマ・ブッダの生きた時代、過去6仏はすでにこの世にいないので、何の矛盾もありません。この世には、今、私以外のブッダはいないという意味です。
 ゴータマブッダ滅後、弥勒菩薩がこの世にあらわれるまで、この世では誰もブッダになれません。
 よって、矛盾なしです。


(8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?

 《ブッダの悟り》の境地は、過去仏であろうが、法身仏であろうが、阿弥陀さんであろうが、同一です。したがって、相対的なものではないです。

 《自灯明》《法灯明》、これは、上座部仏教と日本の大乗仏教では、おそらく解釈の仕方がが違いますね。なのですが、
 《自灯明》を《アートマンもどき》とし、《法灯明》を《ブラフマンもどき》と考えればよろしいのではないでしょうか
 《アートマンもどき》を悟りの覚体である《如来蔵》とすれば、《如来蔵》思想ができ上がります。
 《ブラフマンもどき》に重点をおけば、《法身》思想です。



(9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。

 修行的な観点からは、たとえそうであったとしても、口が避けても「《ダルマ・教え》が絶対」とは言えない。それでは、ダルマ、つまり釈尊が説いた教えへの執著が断ちきれない。それでは絶対に悟れない。
《いかだのたとえ》で紹介しましたけれど、最後の段階では、「ふん、こんなもの」と、《ダルマ・教え》すら捨てさらなければならない。
なのですが、教法的には、とりあえず「悟りに至る手段として、永遠的な存在であると説いた」と言ったところでしょうか。

余談ですが、
空海は、最澄が《理趣経釈》を借りようと申し出たときに、「あなた、こんな文字で書かれたものを読んで、本当に悟れると思っているのですか。こんなもの、カスですよ、カス!!」と、その借用を一蹴しています。これを読んだ、最澄、激怒します。最澄は天台、つまり、法華経を永遠の理法とする立場なので…
どっちの姿勢が正しいんでしょうねぇ~。
わたしは、空海のこの考え方のほうが好きですね。


(10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

歴史上実在したゴータマ・ブッダの立場は、《修行をすれば、誰でもブッダになれる》ですから、これが言葉が答えになるのではないでしょうか。

大乗では、《涅槃経》でもっとダイレクトに「一切衆生 悉有仏性」と言っています。
さらに進んで、天台教学では「さらに草木国土だってみんなブッダしている」みたいなことを言っています。これがいわゆる、《天台本覚思想》。

でも、仏教の修行・実践の立場からは、《本覚思想》的な立場をとってはいけないと思います。修行・実践の重要性がなくなるので。

投稿日時 - 2012-06-11 19:51:35

お礼

 こんばんは。連続設問の実行中です。
 ご回答をありがとうございます。

 次の(あ)と(い)とは 相容れないように思われますが どうでしょう?

 (あ) ★ ~~~
  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?

 同じだと考えるべきだと思います。違いがあっては、《悟り》が相対的になるので、まずいです。

 (い) ★ ~~~
 華厳の人とかは怒るかもしれませんが、《法身》は《ブラフマン》のような宇宙を司る最高原理のような大(だい)それた存在ではありません。仏教の最高原理《法身》ですら、あくまで《ブラフマンもどき》的な存在です。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《もどき》なら 《相対性の世界》だと考えるしかないと思うのですが?

 (う) ★ あるいは、ゴータマ・ブッダの宗教的確信。仏教(修行のため)の教えは永遠だという表明。 / といったところでしょうか。

 ☆ この《永遠》も そうだとすると ブッダの主観の中のひとつの真実を表明したものであって ほかの人間から見て その通りに《永遠》であるとは限らないと言ったことになると思われます。


    *

 次のご見解が わかりづらいです。
 (え) ★ ~~~
 あとは、《永遠のブッダ》を何と呼ぶか、その名称の問題です。
 なので、《仏教》は《無神論》ではないです。「いわゆる《神》でない神の教え」ですから、仏教。
 ~~~~~~~~
 ☆ 《永遠》は 《絶対》でしかないという理解なのですが? これをそれぞれの言語で《かみ》と呼ぶはずです。ほかの神(ないし神々)は あくまで経験事物を仮りにそう(神と)呼んだに過ぎないという理解です。
 (あるいは 経験事象にかんして 神鳴り=雷というように神を持ち出した場合は 《ひとつなる(すなわち 全体なる)かみ》の分身とでも見るという捉え方もあろうかと考えます)。

 ここで 
 ☆☆ 無い神
 ☆ というのは 上の・それしかあり得ない《かみ》の別称です。《かみは存在する》と言いたくない向きにとっての《かみ》の呼び名です。まったく違いはありません。つまり《絶対》〔という想定〕にかんしては 有神論=無神論です。

    *

 (お) ★ ~~~
 この世には、今、私以外のブッダはいないという意味です。
 ゴータマブッダ滅後、弥勒菩薩がこの世にあらわれるまで、この世では誰もブッダになれません。
 ~~~~~~
 ☆ そのようにゴータマ・ブッダが言うのは自由ですが そして仲間からそう認められることも自由ですが 果たして人びとは どうそれを一般的に認めることができるか? この問いが 過去七仏の話による《証明もどき》と同じではないでしょうか?

   *

 最初の(あ)(い)のところで出すべきでしたが 次のご見解は 重大です。

 (か) ★ 《ブッダの悟り》の境地は、過去仏であろうが、法身仏であろうが、阿弥陀さんであろうが、同一です。したがって、相対的なものではないです。
 ☆ もしこうであるなら 《永遠》は ほんとうに永遠であり絶対なのであって すべては・つまりアートマンもブラフマンも 法身も仏性ないし如来蔵も 自灯明も法灯明も ダルマ(法)もすべては 《かみ》です。名称の違いを問わずです。
 そうして 神は非経験の場ゆえ これを人間が受け容れるのは 非思考の庭がわが心に成るという・それとしての経験動態です。

 ・ 教えとしてのダルマが 相対的なものであることは それが経験思考の領域に属するなら 当然だと考えます。

    *

 (き) ★  でも、仏教の修行・実践の立場からは、《本覚思想》的な立場をとってはいけないと思います。修行・実践の重要性がなくなるので。
 ☆ ゴータマ氏は なぜ自分がさとりを得たと思ってそう公表したか? 《本覚思想》の立ち場に立ったゆえではないでしょうか? 

 修行・実践するためにも 《われは ブッダなり》と誰もが言うという出発点が必要ではないでしょうか?
 そうでないと ゴータマ氏のブッダ体験は 人類の中できわめて特殊なものであることになりませんか? 一部の人には分かるが ほかの人たちにはついぞ分からないといった境地のこととして。

 言いかえると さとりが相対的なものでないのならば 《ひとは ブッダである》から出発するというかたちよりほかに その道は成り立たないと考えます。(精確を期せば 《潜在的に》という条件をつけたほうがよいかも知れませんが)。(重ねて述べれば この出発点は 実践のためにこそ必要だと考えます)。

投稿日時 - 2012-06-11 21:52:28

ANo.2

質問に対する回答にはならないのですが
仏教は生命哲学理論でできており. 仏は生命の当体と訳します。詳細は法華経を
ご一読下さい。

投稿日時 - 2012-06-11 19:07:20

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか
 ☆ 言わないものだということでしょうか? 言ってもよいとお考えなのでしょうか?



 ★ 仏は生命の当体と訳します。
 ☆ わたしたち一人ひとりも その存在は《生命の当体》であると考えられます。

投稿日時 - 2012-06-11 21:05:18

ANo.1

たとえ其の内容が事実で御座いましても、
それを主張する遣り方の採用が世間的に望ましいとは限られていません。

平等な権利の行使の機会が平等に割り当てられていない、
という事情と同じく、…。

投稿日時 - 2012-06-11 12:21:32

お礼

 根本的に 反哲学の立ち場の方だと認識しました。

 保守反動という意味です。

 それは 社会力学であるかも分かりませんが 哲学ではありません。
 非人道的であるとも考えます。

 どこが? ですか。

 おしえを乞うのならば おしえましょう。

投稿日時 - 2012-06-11 13:09:48

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