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《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

 ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。

 まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。

     *
 
 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。

 ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。

 ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。

 あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。

 《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。
 ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。

 考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。
 根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。
 言いかえると 

 ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。

 ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。

      *


 さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。

 1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。

 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。

 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。

 7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。

 8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。

 9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。

 10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。

 11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。

 12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。

 13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。

 14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。

 15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。

 16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。

 17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

投稿日時 - 2012-08-05 09:56:38

QNo.7627807

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす
それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである
非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす
信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう
げに 恐ろしきものですな。

投稿日時 - 2012-08-06 22:02:20

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 《信じる》というコトもしくはその言葉をめぐって起こりうるいくつかの現象を分析されていましょうか。

 ★ ~~~~
 信じるという仮定から 信じているという結果がいつの間にか生じてしまう
 げに 恐ろしきものですな。
 ~~~~~~
 ☆ この現象・この問題は 割り合い分かりやすいことではないでしょうか?
 すなわち よく言えば(よく受け取れば) ことばとしての《信じる》があるから 信仰などという心的現象が 人びとに起きる。ということでしょうし。
 また一般には おそらく
 ★ 信じるという仮定から 
 ☆ というその中身が 〔おそらく〕想像上の何か――たとえば《神の愛》ですとか《愛なる神》ですとかのその観念――を《信じるという仮定》を置くと あんがいこれが《〈われは その何かを信じている〉という結果が生じてしまう》。
 のかも知れませんね。これは じつは 幻想ですね。神は 観念(つまり 思考)ではありませんから。


 ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす
 ☆ これは 直前のわいわいえいとさんとのやり取りで出て来ました。かかげます。

 ☆☆(No.4お礼欄) ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。
 ☆ の問題ではないでしょうか?

 すなわち 次のような心の構造とその仕組みにかかわっているように思います。
 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~
 例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。
 ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。
 そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。
 
 言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 非思考の領域が業に及ぶものならば
 ☆ とは 《非思考の庭》が あたかも泉となってのようにそこに ヒラメキを湧き出させる。

 このヒラメキから――と言っても それはむしろそのヒラメキなる直感じたいが 身業(身のわざ)であると思われますが その直感および直観なるヒラメキから―― 《考える》をつうじて 意業(精神の認識および判断のわざ)が持たれます。

 ★ 意業とは信じるという一点から生じる無限の心をさす
 ☆ 認識および判断が《無限の心ないし精神》であるのか にわかに断じがたいところではありますが そういった《限りなくひろがり展開する精神の緑野》が 《信じるという一点から生じる》。
 


 ★ ~~~~
 信じるとは 行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす
 それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである
 ~~~~~~~
 ☆ たぶん わたしなら――出しゃばりますが―― 言いかえるでしょうね。
 
 ★ 信じるとは 〔《考える》および《振る舞う》といった〕行為以前の領域に浸透して 全人格の変容をもたらす
 ☆ そうですね。《全人格の変容をもたらす》については

 ○ そうなんだと思いますが・そのとおりなのですが ただし 但し書きをも添え得る。それは じつは もともと生まれつきそなわっていた自然本性としての《わたし》であった。つまり もともとの《わたし》に立ち還ったのであると。

 その信仰として《非思考の庭がわが心に成った》その時点あたりでは おそろしいと感じるほどに《全人格の変容をもたらす》と見られるのですが そもそもその変容したあとの結果というのは 《わたし》だったのだと。
 しかも わたしはこの《わたし》を 知らなかったわけではないと知る。わたしはおのれの《わたし》を じつは 愛して来なかったわけではないと知る。おそろしいほどの変容ぶりをつぶさに見てみると それは わが愛する《わたし》であった。


 そのとき たしかに
 ★ それは 信じるという能動性の自己認識を超えてしまうものである
 ☆ と形容すべき要素が生じていますね。ただしこれも その《非思考の庭を成らしめたナゾのチカラ》が 《わたしの能動性やそのときの自己認識を超えている》と捉え得るものの そうではあるものの 変容したあとの状態は じつは もともとの《わたし》であった。

 《信じる》とは その《わたし》の核エネルギーなのでしょうか? または核反応のようなコトでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-06 22:42:02

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回答(32)

ANo.32

絶対無が自己を敬わせるべく謙譲語の命令形で関わっては来ないのですね。

余談ですが、御住まいの地域では、
爆撃の様なイカヅチ(神の唸り)に曝されずに済んでいますでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-18 15:53:38

お礼

 つづきまして。
 《罰当たり》と《自敬表現》とは 《神によるさばき》として 同じひとつの主題のもとにあったのですね。


 ★ 絶対無が自己を敬わせるべく謙譲語の命令形で関わっては来ないのですね。
 ☆ まづ 最初に心得るべきことは 《神》のことは その《さばき》にしても すべて人びとそれぞれの《主観》の問題であり その主観の範囲を出ないということだと考えます。


 ★ 〔神が人びとに対して〕自己を敬わせるべく
 ☆ これも 或るひとりの人が そのように捉えたとき・その捉えた主観の範囲内でのみ 意味が生じます。

 二人以上の人びとが 雷(神鳴り)を聞いて あっ 神によるわれわれへのサバキであると共同で認識するということは――あり得ますが(つまり 思想は自由ですので そういう同じ考えの人たちが集まるということはあり得ますが)―― 意味を成さない。と考えます。証明のしようがないからです。


 考えを同じくすること これは あり得ます。
 もしかすると ヒラメキを同じくすることさえ あるかも知れません。
 ですが――そして《非思考の庭》というその成り立ちそのものも 枠組みのようなものとして 互いに同じくするとまで捉えていますが―― 《わたしの神》と《あなたの神》とが 同じひとつの神であるということは いまの枠組みの核としては同じひとつの神だという想定をしているのですが ですが ですが ですが
 おそらく確かめようがないと思われます。



 このように考えるかぎりでは
 ★ 謙譲語の命令形で
 ☆ サバキをおこなおうとどうであろうと その内容がひとりの人の主観を出て 共有されるということは むつかしい。でしょうね。

 ★ ~~~~
 余談ですが、御住まいの地域では、
 爆撃の様なイカヅチ(神の唸り)に曝されずに済んでいますでしょうか?
 ~~~~~~
 ☆ 稲光と轟音とがしていましたが いまのところ被害の有無は分かりません。確かめていません。
 そして この《神の唸り》をそれとして認識するかどうか?
 これは あくまで一人ひとりの判断による。
 こういう結論になるかと考えます。
 主観を共同化しようとするそのいとなみは 是とも非とも決められないという意味です。
 同好会のみなさんが 見解を同じくすることはありましょうね。その程度だと言ってよいと思います。

投稿日時 - 2012-08-18 16:18:55

ANo.31

絶対無は下記のページの質問の様な罰当たりを見逃さないのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7637545.html

投稿日時 - 2012-08-18 15:03:50

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 これは むつかしいですね。
 お手上げですと言いたいところです。

 この問題は いわゆる《神義論( theodicy )》として議論されて来ていると思います。

 ▼ (神義論) ~~~~
 http://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E7%BE%A9%E8%AB%96

〔theodicy〕世界における諸悪の存在に対し、あくまでも神の全能と義を弁証しようとする論議。弁神論。
 ~~~~~~~~~~

 ☆ 要するに 妥当性に欠ける行為をおこなうことに対して 神は いかなる態度を採るのか? さばきは どうなるのか?

 ひとつだけ 答えを持ってはおります。

 ○ (神は この世の不法行為に対して なにゆえ沈黙を守るのか?) ~~~
 ひとの意志や心をないがしろにして 社会的な位置関係(身分)から来るチカラ関係にものを言わせて おのれの言いようにコトをはこぶ。早く言えば 顔が効くというその社会力学上の――おそらくほとんどは無効の・しかも既成勢力として有力であるところの――おのれの勝手な声を通し 相手に飲ませる。

 このマチガイとアヤマチに対して 神は 罰をあたえないのか? なぜあたえないのか?

 それは このような甘い汁を吸うというおこないに対して ひとりでも(あるいは 一瞬でも) あぁ うらやましいなぁという気持ちをいだくなら それがなくなるまでは 神はだまっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ すなわち 人間どもよ。おまえたちで 何とかしろ。自分たちで とことん話し合いをするなり 互いにその心をきよめるなりして いい解決策を考えなさい。甘えんぢゃない。

 ということでしょうね。

投稿日時 - 2012-08-18 15:41:54

ANo.30

自己を目的対象に据える自敬表現が利用される場合にも、
主語を自己にする必要性が御座いません。

従いまして、古語では謙譲語の命令形が…。

投稿日時 - 2012-08-18 11:52:40

お礼

 つづきまして。

 ★ 自己を目的対象に据える
 ☆ これなら まさしく《再帰表現》ですが?

 ★ 自己を目的対象に据える自敬表現
 ☆ つまり《自敬表現》であると 再帰形ではないということでしょうか? つまり

 ★ 主語を自己にする必要性が御座いません。
 ☆ であるとすれば たしかに主語の者は いま《自敬表現》を成す者とは別になるようですから 自敬者がみづからに動作をおよぼすという再帰形にはならないのでしょうが。

 そうしますと
 ★ 従いまして、古語では謙譲語の命令形が…。
 ☆ 現われましょうか? すなわち

 ○ 自敬者が みづからを主語に立てるのではなく 別の者を持って来て立て 《謙譲語》で命令表現をする。この命令形を 《本音で 混沌は 扱うのでしょうか?》(=回答No.28)

 となるのでしょうか。

 たとえば

 ・ 近(ちこ)う 参れ。

 といったかたちでしょうか?

 もしそうであったとしても それが どういう意味を問題として持つのか? これを 分かりかねています。

投稿日時 - 2012-08-18 15:12:52

ANo.29

再帰表現では御座いません。

投稿日時 - 2012-08-18 08:33:53

お礼

 では 残念ながら 分かりかねています。

投稿日時 - 2012-08-18 08:39:31

ANo.28

本音で混沌は謙譲語の命令形を扱うのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-18 07:27:01

お礼

 つづきまして。

 《混沌》は 原語のカオスの原義としての《原初》や《初期条件》などのことを言っていましょうか?

 《謙譲語》は おのれをへりくだった位置におくかたちで表現するのですよね?
 その《命令形》とは?

 つまり 《わたし》に対して 話し手であるわたしが 命令するというかたちをおっしゃっていましょうか?

 つまり 神が《はじめに》 おのれに対して これから《〈ひかりあれ〉と申しなさい》と語るといったことでしょうか?
 
 この辺までは解釈してみたのですが なにぶん よく飲み込めません。補足要求です。

投稿日時 - 2012-08-18 07:46:29

ANo.27

それが『無根拠』で成り立っています故に、
たとえ我々が自覚し得ませんでしても、非経験の庭からの積極的な働き掛けが作用して、
( http://allabout.co.jp/gm/gc/297941/ )
我々の経験の内容が変容させられている、
という可能性の存在は否定され得ないのですね。
http://q.hatena.ne.jp/1294124328
http://creation.mb.softbank.jp/mc/tech/tech_web/web_ipaddress.html
http://www.au.kddi.com/ezfactory/tec/spec/ezsava_ip.html
http://www.nttdocomo.co.jp/service/developer/make/content/ip/index.html
http://blogs.itmedia.co.jp/sakamoto/2011/03/ip-53bc.html

投稿日時 - 2012-08-18 06:35:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 今回の取り上げられている主題は それほど問題の生じる内容ではないように思います。

 ★ 非経験の庭からの積極的な働き掛けが作用して、
 ☆ そのようなハタラキをわれわれは受けると――証明無しにですが―― 思っております。

 ★ 我々の経験の内容が変容させられている
 ☆ 同じくそうだと受け取っています。

 《人間(現実)が変わる》。すなわち わたしたちは 日から日へ必要なかぎりの能力をおのおのがあたえられ その方向へ向き直されたり そのための何かのきっかけに出遭わされたりすると思います。

 むろん よい方向へ変えられるわけですが ときには まづ――まづです まづ――よくない結果が現われる場合もあります。
 それを乗り超えたとき 自分にチカラがあったのだと分かり そこからあらたに出発するようになる。そういう場合もあろうかと思います。

 ★ 我々が自覚し得ませんでしても
 ☆ 《自覚》がコトの起こる前に起きることは ほとんどないと思っております。
 つまり つねに事後的に《わたしは 変わった。変えられた》と確認する程度ではないかと。

 ただし 《予感》があります。そしてこれも 一般に漠然としたものとして感じられるのだと見ます。将来への展望のごとくに。
 具体的な予感であれば それはすでに《変容》のコトが始まっている場合ではないかと。

 ですから 変容の《自覚》は 事後的に起き まれに《事中》においても予感のような自覚が生じる。このように見ています。

投稿日時 - 2012-08-18 06:56:11

ANo.26

更に詳しい解説に感謝します。

つまり、「『禿げた現フランス国王』の命題( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%8F%90 ) 」でも諭されている通りに、default値の正誤判定規準は個別に違っていても構わないのですね。

http://russell-j.com/FAQ-HAGE.HTM

投稿日時 - 2012-08-17 23:28:33

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ先に 次の文章におぎないをほどこします。
 ★★(No.25お礼欄) ~~~~
 ( a ) そこには《善》だけあればよいと或る人が考えれば その人にとって神は 善なる存在であるでしょうし 

 ( b ) いやいや この経験世界について考慮しそのチカラをはたらかせようとしているのなら 世の中の善に対するだけではなく悪に対して その悪を理解しなければならないし その悪に即して善の対策を打たねばならないとすれば 悪もその場にはあるということになるかも知れません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 

   ( a )がそれとして成り立つとするのは 《ただ善なる存在
  である》だけのその( a )のかたちにおいても 《悪に対して
  善の対策を打つことが出来る》という場合である。 

 という添え書きをすることになります。 
 《非経験の場》が《ひとり満ち足りている》ことを損ねるような神についての主観 これは 成り立ちません。と。


 さて
 ★ default値の正誤判定規準は個別に違っていても構わないのですね。
 ☆ このように見てきますと 上のおぎないが必要であったと分かりました。

 ですから ここで問題となるのは
 ★ default値の正誤判定規準
 ☆ すなわち

 (1) default値
 (2) 正誤判定規準

 このふたつのことがらが 《非経験の場》の規定にかんして 似つかわしくない。こう考えられます。
 (1)は 《値》が ふさわしくないでしょう。定量性を《非経験の場》について規定するのは なじまない。数量は 《考える》ことだからです。

 (2)は 《正誤》とその《判定》が いけないと見られます。《考える》の問題だからです。

 ですから 《値》も《正誤》も《判定》も みな経験世界における経験行為であり その内容を《非経験の場》に投影することは その思考そのものとしては出来ますが 非経験の場にとっては ふさわしくありません。

 また 事実 それは 経験世界の事象を非経験の場に移し入れようとしているのであって もともと《非経験の場》に そういう問題は生じていない。こうなると考えられます。





 《非経験の場》が・そしてそれを受け容れたわが心なる《非思考の庭》が 人びとの見解を有効とするという理論は その見解があくまで経験世界のものごとについてのことである場合です。

 消費税を上げると消費をおさえる〔から だめだ〕という見解があり 他方では たとえそうだとしても 国債の金利が上がるおそれが出て来たので たとえ部分的にでも国の財政を健全なものにしておくべきだという見解があるようです。

 このように経験世界におけるものごとについての見解は それらが互いに異なっており矛盾さえしていたとしても 基本的に言って その見解のいづれをも有効とするのは その見解が《非思考の庭》につながっていると見なされるときである。

 消費税増税かそれに反対かのふたつの見解が それぞれ有効だとなるのは 人びとの生活が守られるという基準が満たされるときであろうかと考えます。生活が保障されるというのは 《非思考の庭》につながる条件だと考えられますから。

 けれども 初期状態のあたいや その正誤の見解あるいはその判定の基準 こういったことがらは 《非経験の場》を むりやり経験世界に引きずりおろして来るようなものですから 《非思考の庭》を守っていないと考えられます。

 ぎゃくに言えば 経験世界の《考える》ことがらを 無理にでも非経験の場へと投影しつつ引き上げようとしていることになる。
 これは 無効でしょうね。

 ただし 非経験の場を ヤフヱーと呼んでもブラフマンとでもあるいはアッラーフとしてもキリストとしても そのように違った名で呼んだとしても その名づけは 《投影》や《引きずりおろし》の問題ではなく 《非経験の場》についての派生的なことがらであり飾りつけの問題であるに過ぎない。こう考えられる分野もあるようです。

投稿日時 - 2012-08-18 00:44:46

ANo.25

非経験の場は絶対無なので、
其処には自己矛盾が含まれているのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-17 12:31:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 非経験の場は絶対無なので、
 ☆ 非経験の場は 《人間の能力によって分かるか分からないかが分からないところ》として仮りに想定したものです。(それは 《かみ》という言葉が 《わたし》の生まれる前から用いられているのを知るからです)。

 その想定によれば 絶対とも無根拠とも無限とも不可変性ともあるいは少し色をつけて真理とも言いかえられるはずです。 

 たとえば《絶対》と言えるそのわけは 相対性として成る経験世界を超えているからですが だとすると その場は 経験的に言うところの《有る・無い》 これをも超えています。

 有るとも無いとも人間の認識や判断のチカラでは決められない場合には そしてそれをもし神と呼ぶとすれば 《神が存在する》とも《神は存在しない》とも 人間の言葉では言うことができます。どちらでも同じことです。人によって好きなほうをえらべばよいわけです。

 それと同じように《絶対》についても もしわざわざ言うとすれば 絶対有とも絶対無とも どちらとも言える。こうなります。どう呼んでも 非経験の場であることに変わりはありません。




 ★ 非経験の場は絶対〔無〕なので、其処には自己矛盾が含まれているのでしょうか?
 ☆ その言わんとするところが 飲み込めていないのですが たとえばこう答えることができると考えます。

 つまり 《ひとり満ち足りている存在》と呼んだばあい 《足りないものはない》わけです。

 だとすると そこには《自己完結性》もあれば《自己矛盾》もある。何でもあるし もし必要のないものだとすれば たとえば《死》はないということになるかと考えます。

 そこには《善》だけあればよいと或る人が考えれば その人にとって神は 善なる存在であるでしょうし いやいや この経験世界について考慮しそのチカラをはたらかせようとしているのなら 世の中の善に対するだけではなく悪に対して その悪を理解しなければならないし その悪に即して善の対策を打たねばならないとすれば 悪もその場にはあるということになるかも知れません。

 何でもあるし 必要でないものはない。それでも満ち足りていられるのだから。
 《自己矛盾》がもし必要なら それもありましょう。


 という答えになるかと思いますが 何か特別の自己矛盾を取り上げておられるのか。そこのところは まだ分かりませんでした。

投稿日時 - 2012-08-17 13:16:00

ANo.24

非経験の状態は解釈による差異を無効化させるのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q1291310.html

投稿日時 - 2012-08-17 07:31:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★☆ ~~~~
 非経験の〔場をわが心に受け容れた《非思考の庭》なる〕状態は 
 〔そこからヒラメキを経て ふつうの思考としてのコギトに到ったその経験世界では
 人びとの〕解釈による差異を
 無効化〔ではなく 無用化〕させるのでしょうか?
 ~~~~~~~~

 ええ。たぶんそうだと見ます。

 あるいは《無用化させる》というよりも 自由にその差異のあり方をおのおのが採用することができる。というべきでしょうか。

 趣味のちがいはもとより いづれにしてもヒラメキの源泉を同じくしているのならば――という意味は 互いの自由をとうとび互いにこれを実現させ合おうとして考え振る舞うということであるのならば―― 見解の相違であっても それを互いに受け留め まづは一定の時間にわたって互いに受け容れあっているでしょう。

 ときを俟つものと思います。



 この《ときを俟つ》は 《非思考の庭》なるまことにもとづく〔と互いに見なしあっている〕かぎりで 永遠にでも待つのだと見ます。

 ふたたび《領土》問題で捉えてみては どうでしょう?
 互いに対等で自由にもとづきその領有を主張しあっているのであるならば その見解の相違をまづみとめあって どちらが妥当性をじゅうぶんに持ち得ているかが互いに分かるまで 話し合ったり冷却期間を置いたりして ときを待ちます。

 そこでは 見解についての《差異》を無用としていると思います。
 言いかえると 差異はあるのだとまづ認め合うのだと見ます。
 つまり 無効化ではなく むしろ有効化していると思います。《有効》どうしのあいだでは さらにその妥当性を互いに競い合います。
 
 《有効性》は 非思考の庭から来ているというのが 人間のおのおのの主観について共同性を見ることの理屈です。
 さらにそのミナモトは 非経験の場なわけですが これは じつは 物語です。
 言いかえると 非経験の場および非思考の庭なる虚構のもとに人びとは ともに生きて行けるか? こういう課題と展望が持たれます。

 その虚構の中身を ゼロにする場合(つまり 無神論のばあい) それでもその物語は 変わらない。無神論と有神論とが 互いに対等であるというところが この虚構のミソです。

投稿日時 - 2012-08-17 10:40:05

ANo.23

非経験の目的対象は主格なのでしょうか?
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%93%E3%83%86%E3%82%A3

投稿日時 - 2012-08-17 01:27:31

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですよ。
 つまり 神の目的対象である人間が 主格として存在する主体であるという意味です。

 ほかの生物や自然現象について 目的対象としないというわけではなく しかもそれらを区別するわけは ヒトには自由意志が 自然本性としてそなわっているからです。

 いかなる行為にしても 意志自由にもとづく人間の行為として現われます。

 生理現象にしてもそれをあとから本人が自分の意志行為として引き受けるということになっています。
 満員電車でうしろの人びとから押されて前の人にぶつかったという場合でも その不可抗力による事象を 自分の行為と見なし引き受けるということをおこないます。だから すみませんとわびます。
 

 いかなる行為を取っても 人間にとってはすべて主格であるかたちでしか行ない得ないというのが 人間にあたえられた人間の条件だと思います。

 言うとすれば 神との関係において このように成っている。言わなくてもよいが これまでのところ じんるいと呼ばれる生物は この人間の条件のもとで生きていると思います。その説明に神を持ち出すと 分かりやすいと思っています。

 人間の思考の産物ではないということ 神は非経験の場であるということ この想定と虚構が 人間が人間であることにとって・《わたし》が《わたし》であることにとって もっとふさわしい物語である。こう考えていますが さくらいみさとサンにおかれましては いかがでしょう?

投稿日時 - 2012-08-17 07:19:55

ANo.22

『非経験の場』は自己目的的に成り立っているのでしょうか?
http://j-net21.smrj.go.jp/develop/digital/entry/001-20120314-01.html

投稿日時 - 2012-08-16 15:12:08

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 革命的ネットワーク制御技術「OpenFlow」
 ☆ と《自己目的性》とのつながりがよく分かりませんでした。

 ★ 『非経験の場』は自己目的的に成り立っているのでしょうか?
 ☆ たぶん 神はですね――つまり《非経験の場》は という意味ですが―― この経験世界の状態について よかれと思われるところを推し出そうとしているでしょうね。比喩としてものを言えばです。

 中でも特に 人間の状態・その社会の状態について よかれと思われるところが実現するようにと思っているでしょうね。



 ところが 人間たちは よかれと思うところを知っていても そのままその思うところをおこなうとは限らない。おそらく おこなうところの半分かそれ以上の部分は よくないと分かっているところをおこなっている。のかも分かりません。
 量としての半分以上ではなくても 定性的に見て過半の部分がよくないことではないか。
 近くは 《領土》という概念に人びとのあたまは占領されてしまっています。


 したがって――と言い始めているその意味は もっとも子供だましのごとく言えば 《非経験の場》は 打ち出の小づちでもあるのですから それでもそれなのにその小槌をわれわれ人間は 素直に振ることが出来ない そのような事情のもとにおいて―― 神がか人がか《よかれと思うところを推し出そうとしている》ときその実際の現われは つねに過去のシガラミの解きほぐしのみに終始している。
 後手後手にまわっている。
 ちっともあたらしく前にすすむということが ない。

 身分制を 理論じょうだけとしても 揚げて棄てるようになってから――つまり民主制があまねく採用されるようになってから―― もうあまり進展がなくなって来ている。

 まるで賽の河原での石積みのごとく 積み石をしては取り崩しまた積み上げるという作業を性懲りもなく繰り返している。



 非経験の場は ひとり満ち足りていますから つねに誰かのことを・つまり人間のことを思ってどうにかするようにみちびこうと思っているでしょうね。

 人間が自分たちでどうにかするように その方向へとみちびこうとしていると思われます。

 非経験の場はそのハタラキを 他者目的的にはたらかそうと思っているでしょうね。

投稿日時 - 2012-08-16 16:11:17

ANo.21

たとえ多重人格罹患者達の潜在的なweが経験していても、
顕在化されている人格が其の経験の有無を若し自覚していないのでしたら、
其の過程は『非経験の概念』だと見做され得るのですね。

投稿日時 - 2012-08-15 14:56:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 いえ 別の見解を持ちます。
 
 ★ 多重人格
 ☆ とは 器質による病理をのぞけば 社会性――つまり社会における人間関係に起因する性質――によるものとわたしは 理解しています。
 
 言いかえると その《多重》なる側面を持ったひとつの――つまり《わたし》としての――人格がある。のみである。こう考えます。

 早い話が 現われ出るどの人格の姿も 《わたし》なるひとつの基本的な人格に属するいくつかの側面である。これに過ぎないと。
 まだ現われ出て来ていない側面もふくめてです。

 そしてその潜在的な小人格も けっきょく現われ出れば経験事象ですから 《非経験の場》ではないでしょう。こう考えます。
 


 ひとりの《わたし》がいくつかの小人格を統括できなければ 罹患する状態になるかと考えます。
 統括できたら もう多重として現われることもなくなる。と思います。

投稿日時 - 2012-08-15 15:22:19

ANo.20

前回の説明が非常に分かりやすくて、其の御蔭で、経験の権限制御( http://ja.wikipedia.org/wiki/Active_Directory )との齟齬への更に理解が深まりました。

存在証明・不在証明の根拠を欠いている故に、通俗的な経験とは食い違っていますので、
其の特殊な経験は『非経験のArea』を構成させているのですね。

投稿日時 - 2012-08-15 12:30:47

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 少々抹香臭い話をします。


 《非経験の場》とは それが経験世界を超えているということは それが経験世界における因果関係やあるいは相互に依存してひとつの社会構造をかたちづくるといった関係錯綜からいっさい自由であることを意味します。

 因果関係から自由であるという意味で 比喩的に《特異点》です。

 この社会経験的な意味での特異点を かのイエスという人間が――それゆえに キリストと呼ばれるようになるかたちにて―― 十字架上の姿として あたかもかたちづくりました。

 むろん ユダヤ人たちの高等法院やその人びとの嫌悪やあるいはローマの官憲によって張りつけの刑に遭ったのですが これを 大泣きに泣きながらも 神のおぼしめしとしてみづからの心に受け容れた。

 《その権力をふるう人たちを 神よ ゆるしたまえ。かれらは 何をしているか知らないから》と言って 世の中のシガラミから自由な立ち場に立った。

 あるいは 《おまえがキリストなる神であるなら その木の上から降りて来い》という兵士たちの《観念の神(想像の産物たる神)》によって描かれかねないマボロシからも自由であったと言えるかたちで 決して磔の木から降りては行かなかった。
 神としてそのチカラで奇跡を起こすようなことはしなかった。
 そうしたとすれば(奇蹟を起こしたとすれば) それは あぁ 神だから出来るのだ おれたち人間には関係のないことだと言って やはり人びとは取り合わなくなってしまう。

 風は 或る日知らず知らずのうちに しかも 人間の側における行為としては地道ないとなみをとうとぶかたちにおいて 吹いた。と言わんばかりの虚構です。



 このようにして 特異点の歴史的実現を――たしかに かなしいかな 物語として・物語において―― 果たした。
 これが 次に言うところの事例のひとつだと見ます。
 ★ ~~~~~~
 存在証明・不在証明の根拠を欠いている故に、通俗的な経験とは食い違っていますので、
 其の特殊な経験は『非経験のArea』を構成させているのですね。
 ~~~~~~~~~
 ☆ 物語が語られたかぎりで 『非経験のArea』と経験世界とのインタフェイスと言うべきでしょうか? 言えないでしょうか?
 

投稿日時 - 2012-08-15 15:04:48

ANo.19

流れ作業の内の一部を外部の他社へと委託する『アウトソ~シング』の方式が採用されますと、
たとえ自社側の新入社員達が其のアウトソ~シングの手順を知りませんでしても、
(つまり、直接的な経験を済まさせて貰えませんでしても、)
其の新入社員達は自分達の部門の業務課題を十分に熟し切れれば余り批判されまい、
と私には思われますので、此の質問を拝見しました際に、
(其処へのこだわりを保った儘で)下記の通りの誤解を払拭せねばなりませんでした。

「『自分達による直接的な経験の不在』が『非経験』と関わっているのだろう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%97%E3%82%BB%E3%83%AB%E5%8C%96

従いまして、此の場で複数回の回答を受け付けて下さった御蔭で、
「他者達による経験をも踏まえない『(default値的な)非経験』」の存在可能性の模索の歴史を、私は知りたくなりました。

投稿日時 - 2012-08-15 02:16:38

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 素人が感じたままで反応してみますと:

 ★ 「『自分達による直接的な経験の不在』が『非経験』と関わっているのだろう。」
 ☆ この表現では 《非経験》の意味が 微妙に捉えにくいと思われます。

 ○ (非経験の場〔という想定の内容〕は) ~~~
 1. ひとつに 未経験のことではありません。

 未経験と言うなら やがて〔おそらく 必ずや〕経験しうるという意味になります。
 ですが 《非経験》は 《ひとが経験しうるかどうか それが人には分からない》と言っています。

 早い話が 《経験しうる》かも知れず すでに《経験した》かも知れません。
 ということは あくまでひとそれぞれの《主観》の問題におさまる内容であることを意味します。それ以外のことは 意味し得ません。

 つまりは 或る主観が おれは神を見たと言ったとしても――その主観内部のこととしては 真実でありうると認めたとしても―― その神直視なる体験をほかの人びとの主観と ただちに=科学的に証明しうるかたちで 共有しうるとは考えられない。となるはずです。

 一般に未経験であったことが あらたに経験されたというときには 経験合理性においてほかの人びとの主観においても妥当であると見なされて共有される経験内容のことを言うはずです。ですから 非経験とは だいぶ違います。

 2. ひとつに《不可経験》つまり《経験しうべからざる》ことではありません。

 もし《非経験の場》は ひとが経験しえないと人にとって分かって(つまり科学的に論証されて)いるのならば その論証された内容は じつは経験世界のものごとであるとなります。そういう認識の問題だとなるはずです。

 《無いとか あり得ないとか 起こり得ない》というふうにすでに分かり切っているのなら それは 認識しうる世界つまり経験世界の出来事であると見なされます。そうなるはずです。
 つまりそれは そのことが然りとも否とも分からないところの非経験の場ではありません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうでしょう? 検証をお願いしておきたいと思います。




 ★ 『(default値的な)非経験』
 ☆ 《初期条件》ないし《原初の状態》には じんるいにとってのそれと おのおの個体にとってのそれとがあると思います。

 《類としての存在にとっての デフォールト状態》は いろいろ神話などにおいて人びとは語り伝えて来ています。また たとえばビッグバンから始まってそれの歴史的経過を受け継いでのじんるいの誕生としての初期状態についても 探究されているものと思います。
 その内容がいづれであったとしても 問題は 《非経験の場》そのものにとっては 何も変わりませんし 影響を受けるものでもありません。神は ひとり満ち足りています。
 
 問題は その神をひとが受け容れたというその《非思考の庭》が 初期状態としてどうであったか? これだと思われます。
 ということは つねに《個人にとっての信仰とその初期状態》が問われて来るということでしょうか?

 どうなんでしょう? 意識においてみづからの意志によって受け容れるというとき以前の おさな子の場合には どうか? 

 わたしに分かっている〔と思っている〕こととしては すでに述べましたように 赤子のばあいの《聖なるアマエ》というべき状態や こんどはやがて成長しつつ意識的に受け容れるようになるばあいの《きよらかなおそれ》をいだくというべき状態 これらが 単純に言って 初期状態であろうかと思っています。

 それが 《非思考の庭》の出発点であり 生まれたときにそなわる自然本性にとってもその原点であり核を成す状態であると考えます。





 この《聖なるアマエ》もしくは《きよらかなおそれ》が
 ★ 『(default値的な)非経験』」の存在可能性
 ☆ であると考えるという意味です。

 ★ 『(default値的な)非経験』」の存在可能性の模索の歴史を、私は知りたくなりました。
 ☆ これについては ですから いわゆる宗教が説くそのオシエの中から あくまで個人の信仰(非思考の庭)として成り立っていたその内容を取り出して来れば その歴史がかいまみられるものと思います。

      *

 たとえば こうです。
 まづ【Q:本質観取と仏教】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7011950.html
 へのわたしの回答(No.1)から次を抜き書きします。(いくらか修正しています)。

      *

 大野晋の古語辞典には こうあります。
 ▼ (大野:古語辞典) ~~~~~~~
  いき【息】(生キと同根)(1)呼気。呼吸。(2)気力。活力。
   (3)茶の香気。

  ○ 〔* 解説として〕息と生キとを同根とする言語は 世界に例が少
   なくない。
    例えばラテン語 spiritus は息・生命・活力・魂
    ギリシャ語 anemos は空気・息・生命 
    ヘブライ語 ruah は風・息・生命の根源の意。

    日本の神話でも《息吹(いぶき)のさ霧》によって生まれ出る神
   神があるのは 息が生命を意味したからである。
             (1990補訂版)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 すなわち この《生(生命・生活)なる世界》について見て 純粋意識にまで還元するとこの《息もしくは風》に到るという現象学を もともと昔から行なって来ている見られます じんるいは。
 地水火風ないしアトムという場合も その種の探究なのでしょう。(ですから 現象学の専売特許ではないのでしょうね。)

 《息》にかかわるアートマン( atmo-sphere の atmo- と同根)を――ひとなる存在の側における――根源でありそれとしての純粋意識であると見立てたブラフマニズム このいわゆるバラモン教が ブッダに先行しましたね。
 そこではそのアートマンのさらに根源(または 同じ根源)としてのブラフマン これが世界ないし宇宙の側において 主宰神であるとして据えられ 両者の一体(梵我一如)をとなえるかたちを持ちました。

 ブラフマン(梵)とアートマン(我)との一如といった純粋意識に還元した世界観を――それが 実際の社会においては ブラフミン(バラモン聖職者)による支配と言ったようにいわゆるカーストなる身分制となっているのを見てこれを嘆いた結果でしょうか あるいはつまり あまりにも生活世界の内にあっては生まれによる固定した身分というようなただの観念として単なる通念として有力となってしまっているのを捉えてでしょうか―― ふたたびのようにさらにあらたな純粋意識へと還元したのが ゴータマ・ブッダだと見られます。
 無我(アン-アートマン)ないし空(スンニャター=ゼロ性)をとなえました。
 これは 煮詰めて言えば アートマンないしブラフマン神は 《無い神》であると言って・つまりそう言いかえて 無神論としての《非思考の庭》を説いたものと考えられます。

     *
 次には 
 【Q:現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7034634.html
 のそのNo.65お礼欄から引きます。

 § 2 現象学は 東西と古今にわたる哲学思想の原点をめぐって展開されているか?
 〔=すなわち 《『(default値的な)非経験』」の存在可能性の模索》は どうであったか?〕

 コギト(思考)だけに限らず インスピレーション(直感および直観のヒラメキ)をも扱い なかんづくその《主観》の扱いは 《わたし》とは何か? である。つまりは存在論であることにおいて世界史を 思想の原点として つらぬくものをあらためて探し出すこころみとして。

 《存在 ないし〈わたし〉》は 古代には 《かみ》一般とつらなって捉えられた。このつながりは――絶対的な隔たりを介しながらのつながりは――現代にまで インスピレーションという見方に残る。
 そして 次のようにも表現された。
  
   ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) これが《われ》に宿る。
   ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)

   ・主宰神ブラフマンとアートマンなる我との一体(梵我一如)


   ・ いや 《我》説ではなく 諸法無我だととなえつつ 《無い神》の想定による世界についての空観(縁起共生)を説く。
   ・その空観のまま 人(有情)には仏性という・じつはアートマン霊が宿るとした世界観。


   ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》
   ・《エフヱフ アシェル エフヱフ》
     =《 〈 I am. 〉――that is who I am.》。
     《〈わたしはある〉 それがわたしだ》。

   ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。
     《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。

   ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》

 うんぬん。うんぬん。

      *

 というのが 一瞥した歴史だと思います。
 これらは つまりこれらを さらに検討・検証しつつ 充実させたものにしていくのが ひとつの課題だと考えます。

投稿日時 - 2012-08-15 11:30:28

ANo.18

可能世界から『非経験の場』への完全な解脱は、
既に果たされているのに、社会生活の為にフィルタリングが掛けられてきたのですね。

投稿日時 - 2012-08-14 14:13:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 おそらくおっしゃるとおりだと思います。

 ○ なぜいわゆるシガラミなどのフィルタリングが掛けられているのか?

 それは 厳密に言うとすれば たぶんこうです。

 祖先たちも ウソをつきイツワリをおかして来た。その比喩としてになるのかどうか いかな赤ちゃんでも 〔その〕DNA を受け継いでいる。
 または 社会共同の心理もしくは観念またその幻想として 歴史的に――いやがおうでも――受け継ぐ部分がひとにはあるかも知れない。

 よって ついついシガラミを好み みづからがみづからにフィルタリングを掛けるというクセを持ってしまう。のかも知れません。

 つまり こうです。

 赤ん坊は すでにその聖なるアマエにおいて 《非経験の場》につながっていると思われる。そしてそれは ただし ものごころがまだついていない段階である。
 ものごころがついて ほどなく・そしてあっけなく簡単に 人がおのが心にさからってウソ・イツワリを好むようになるのは 先祖から受け継いだそのようなへそ曲がり DNA によるものと考えられる。

 だと思うのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2012-08-14 16:53:48

ANo.17

非経験のレジューム機能( http://e-words.jp/w/E383ACE382B8E383A5E383BCE383A0.html )が、
複数の経験群を関連付けて、記憶を形作るのでしょうね。

投稿日時 - 2012-08-14 11:14:07

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ レジューム機能
 ☆ 《サスペンド機能》とも言うそうですが
 
 ○ ハイバーネーション

 とも言うそうですね。《休止状態》。というよりも 語義に着目して 《冬眠状態》のことだと思われます。

 つまり 《非経験の場》をわが心に受け容れて《非思考の庭》が成ったあと そこから谷川の水を汲むかのようにヒラメキを得るということ。この《風のチカラ》がはたらく《身と心》と成ること。これを遠ざけているか または いちど得たあと――《われに立ち帰った》そのあと―― ふたたび《眠り》に入るということになる。これが 冬眠状態であり それでも《非経験の場》のチカラは それ自身のほうからはたらく。

 こういった構造的な存在過程の一端(というより原点)が レジューム機能でしょうか。



 ★ 複数の経験群を関連付けて、記憶を形作るのでしょうね。
 ☆ たぶん ふたつの階層があるのでしょうか。
 まづ 記憶という能力行為を目覚めさせる《風のチカラ》とそのハタラキというひとつの層があります。

 あとは 経験知と人間がその意志を用いておこなう判断などといった経験行為に属するときの記憶行為は 特には風のチカラとのつながりを必要としていないかも知れません。冬眠状態においてさえその能力行為をひとは成し得ると言うべきかも知れません。

 つまりあらためてまとめるなら:
 
 ○ (記憶という能力) ~~~~
 記憶という能力行為には 通常では 《われはわれなり》との自覚がないというような冬眠状態においても活動する認識の整理ないしその秩序化作用がある。

 と同時に 冬眠状態から目覚めさせて われのわれなる源泉としての《風のチカラ》のもとで――聖なるアマエにおいて――そのハタラキがあたえられるというときの記憶行為がある。記憶行為が そのように励起されるひとつの層があると思われる。それは ヒラメキにかかわっている。(インスピレーション)。
 ~~~~~~~~~
 
 と文章化をこころみました。

投稿日時 - 2012-08-14 11:45:25

ANo.16

「『(経験の基盤になり得る、原初的な)非経験』の経験」には、
始まりやら終わりやらが含まれていないのでしょうね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E6%B2%8C

投稿日時 - 2012-08-14 00:40:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 この《考える》にかかわる経験世界は つねに初めと終わりがあります。結果が原因となるという連なり方をするわけですが 因果関係で継起しています。

 《非経験の場》もそれを受け容れるというのは 経験行為ですから その人にとってはその《信じる》が始まったときがあります。

 そして《信じる》が始まる前にも とうぜん《非経験の場》は 経験世界を超えたかたちでですが いわば存続しています。(そういう想定です。つまり 簡単に・乱暴に言えば 《神》という言葉が 《わたし》の経験行為の始めや終わりにかかわらず 持たれているというかたちにおいてです)。

 ★ 原初的な
 ☆ の意味は 経験世界の《始め》を言う概念だと思いますが そうだとすれば 《非経験の場》はそれを超えています。《神》は 因果関係から自由であると――初めの想定から――規定されます。
 とくに十字架上のひとを例にとれば その姿は 言わば《特異点》のようです。通念にしたがって言えば それは善悪の彼岸です。


 ★ 経験の基盤になり得る・・・
 ☆ 善悪の判断や要するに《有るか無いか》の認識にかかわる経験世界は おそらくそのような認識という行為やその結果の知識を超えていると想定するところの《非経験の場》が 《みなもと》と成っていると推し測られます。

 わが心なる《信じる》としての《非思考の庭》は おそらく《経験的な思索や行動》の源泉であり原動力であろうと考えられます。その庭から泉に水の湧くごとく 直感および直観としてのヒラメキを得て 《コギト(われ考える)》にすすむからです。




 考えてみれば 煮詰めた議論としては 無神論をふくめ・そしていまだ自覚していない場合をふくめて 神を受け容れていると思われる《人間》は わづかにその存在(身と心)に生まれつきそなわる《特異点》のチカラ――それは 非経験としてはわけの分からないものだから《霊(=風・息)》と言われますが――を 実際にははたらかせていない場合がある。こう考えられます。

 《一切衆生 悉有仏性》というごとく 自然本性としてそなわったその《風のチカラ》を わざわざ遠ざけている。場合がある。
 《霊》などは まぼろしであり 神などは人間がつくったものだと堂々と主張しています。
 科学は万能ではないが かと言って全知全能の神などというのは あるわけがなく それはインチキだとうそぶいています。

 といったところでしょうか。

投稿日時 - 2012-08-14 02:11:16

ANo.15

論理的な分析が酷く難しい課題に直面した際に、
もしその課題の解決を回避してはいけないのでしたら、
その状況の被災者達には、情緒不安定の当事者意識が芽生え易くなりましょう。

従いまして、其処から類推しますと、
「『非経験』のヴァ~チャルな経験」の問題の難しさは、遥かに…。

投稿日時 - 2012-08-13 05:30:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ・・・その状況の被災者達には、情緒不安定の当事者意識が芽生え易くなりましょう。
 ☆ つまりは《逆説》と見てしまっている限りでは 《被災者》意識が取り着きます。そういうことです。

 ★ 情緒不安定
 ☆ の中から ふと窓を見つけ外を見てみようと思ったときには 被災者の意識は消えています。情緒不安定の状態の真っただ中へ どこからか風が吹いてくるのです。ならば しめたもの。
 とこころえてください。

 というよりは このような説明を聞くなら そうだ 一見すると《ぎゃく》だと感じることも そうではなく むしろ《わたしのいるべきところ》なのだとひるがえって感じられ その思いとともに あぁ そこに帰ればよいのだと思うようになりましょう。
 被災事件が まさにきっかけになり得ましょう。(ということは すでにそのように風は吹いているのかも分かりません。予行演習?)



 ★ ・・・もしその課題の解決を回避してはいけないのでしたら
 ☆ 課題を放り投げずその解決に取り組むのは 哲学としては 有志の人びとです。言葉にして表現し 人びとに分かりやすく説明するという課題に取り組むのは それはじっさいもんだいとしては 人数が限られて来ましょう。

 《戒律》ではありません。戒律はいっさいありません。《命令》は 強いて言えば《なんぢのとなりびとを愛せ》のみがあります。それが 《なんぢの神を愛せ》と同じ内容となります。

 (しかも そんなものは 自己愛であるに過ぎず ただの自己満足だと《哲学者》は皮肉るでしょう。あたっています。すべては 主観から始まりますから。すべては 《わたし》のもんだいですから)。



 ★ ~~~
 従いまして、其処から類推しますと、
 「『非経験』のヴァ~チャルな経験」の問題の難しさは、遥かに…。
 ~~~~
 ☆ という《〈取った〉たぬきの皮算用》なる人智を 風は吹き抜けて行きます。よ。
 心配要りません。

 あとは 《とき》があります。すべては ときとともに動きます。
 わたしの邪推では 日本人にときが来ていると思っています。
 その内のいくらの人びとに風が吹くか それは分かりません。必要なだけ吹きましょう。

 風は 思いのままに吹く。わけですから。



 さくらいみさとさんは わたしのこんな雲をつかむような話にご関心がありますか?

投稿日時 - 2012-08-13 10:00:41

ANo.14

たとえ経験され得る内容が解決課題の対象になっていましても、
もしその課題の論理的な分析が途哲も無く難しいのでしたら、
その状況へと巻き込まれた方々の多くが冷静な判断を阻まれやすくなり得ますので、
ましてや、『非経験(経験を得る手段・基盤)』が相手になると、…。

投稿日時 - 2012-08-13 00:01:55

お礼

 ご心配には及びません。

 《信じる》は 境地のもんだいです。 
 感性と理性とを ふくみつつ 超えてもいる心的現象として捉え得られましょう。

 《感じる》や《考える》を むやみに取り除こうとするわけではなく あるいは単純に不合理なことをよしとして受け容れるというのとも違うと言わねばなりませんが いわば思考としてにしろいわゆる修行としてにしろ 人為的なワザがチカラ尽き果てたところに ふとおとづれる風のようなものです。その意味で 《無根拠》のなにものかです。 

 ★(ぶらじゅろんぬが編集しました) 冷静な判断が阻まれる
 ☆ のではなく そうではなく この判断力にしてもその力量が尽き果てたところに ふとちいさな花が咲いているのが見えた。といった経験になるかと思います。
 認識や思考や判断やを 何も使い果たさなければならないという意味ではありません。
 風が吹いたときには これは 人間の能力を超えたもんだいであると――それが 無根拠であると――分かるという意味です。

 ご心配には及びません。
 すでに分かっているのに わけもなく何ものかにさからっているのではないか? こういうおそれと うたがいを 持たないことを心配するのがよいでしょう。

投稿日時 - 2012-08-13 00:17:26

ANo.13

「『非経験』を言語で表現する逆説的な経験」に葛藤されているのですね。

投稿日時 - 2012-08-12 13:30:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 たぶん ちがいます。筋道がぎゃくであるはずです。


 なぜなら 《神》という言葉は どの言語にもあって 用いられているからです。
 いわゆる宗教は そのオシエという点において 人間がつくったという要素が大きいのですが 神とのつながりは――その言葉を持つというかぎりで考えても―― 人間にとってすでに与えられている条件であるからです。

 生まれる前から 神という言葉は使われています。
 生まれたときから 赤子は 世界のいっさいに対して聖なるアマエを持っており そういうかたちで神とのつながりは そなわっています。


 ★ 逆説的な経験
 ☆ と見られてしまうのは 赤子のときの《聖なるアマエ》から人は一たん――ものごころがついてから ウソ・イツワリを おのれの意志行為として行ないそのことの味を味わうことをとおして 一たん――離れまた ときには立ち帰り 《葛藤》を持ち しかもこのような経験を繰り返す。ということをおこなっているからです。


 きよらかなおそれをいだいて 聖なるアマエに立ち帰るなら 葛藤もなければ 逆説と感じることもなくなります。
 というよりは そういう状態〔にありうる《わたし》〕のことをわたしは すでにつねに知っておりこれを愛しており あとは どのくらいへそが曲がっているかで 《逆説》感がその人によって感じられるということなのでしょう。

 
 これが 《信じる》ということです。
 ただし おっしゃるように このことを言葉にして表わすことは なかなか《人生の逆説》であるとか《葛藤》であるとかの話どころではないのでしょう。表わし得たとしても それを受け容れるに到るまでには 幾山河や万里の波がたちはだかっていると感じることなのでしょう。

 それは 哲学が みづからの経験科学性を超えたところのことをも扱わねばならないからなのでしょう。
 《超哲学》の部分については 哲学は 切って捨てるのが みづからの使命だとでも思っているキライがあります。
 《信じる》を 《考える》ですべて代替しうると哲学は思っているのでしょう。

投稿日時 - 2012-08-12 14:37:09

ANo.12

情緒不安定が本能の働きを鈍らせたりはしないのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-11 00:37:50

お礼

 そうであってもなくても 質問とはかかわりません。

投稿日時 - 2012-08-11 06:34:01

ANo.11

やあ。
この質問が立ってから何日か経っているよね。
晩酌しながら酒の肴になるかと思って何度か読んでみたのだが、こねくり回しのコツを忘れてしまってね、あまり頭に入らなかったよ。

《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

単純にこれのみなら、自らの存在を尋ねる事だと解釈しているよ。
私は私である。
とか、
私は生きている。
とか、
この手の認識のために根拠を神においていると言う事だろう。
思考である知性の発達も神様と二人三脚だと思うよ。

投稿日時 - 2012-08-08 21:43:13

お礼

 そうかい。

 どうも
 ★ やあ。 
 ☆ に対する応え方を知らない。

投稿日時 - 2012-08-08 22:03:51

ANo.10

No.7です。

ご自分の考えを述べてあるのは分かりますが、何をどう尋ねてあるのか分かりかねます。


実は心理学では、深層意識(無意識)や欲求の形など、どのようになっているかは
ある程度は解明されています。

それがどの程度信頼できるのか、心理療法の効果を含め自身を使い確認をとるようにしてます。
自身を掘り下げて知覚として知る範囲でお話ししています。

過去の人物が、考えたこと調べたこと、解決の為に作ったものを自分で検証しているのです。

その上で、あなたの最初の質問としての
>《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?
を私なりにお答えしました。


人が考えるのは自由ですから、あなたの考えに特に反論するつもりもありません。
ここの規定にあるように、情報交換の場であり議論の場ではないと考えています。

ですから、あなたの意見は否定も肯定もせず
それに対しての真偽は、時間をかけて自分の中から見出せるかで判断するだけです。

私は、知識からの考えだけで判断しないようにしていますので。
そこのところはご了承ください。


「信じる」という言葉を先に知識として知りましたが
自分の中から見出した「信じる」は、それによって自分の何に繋がっていくかを知るものでした。

考えと感覚が融合した知覚は感覚が入りますので、申し訳ありませんが論じてもお伝えできません。
その点もご了承願います。


ご自身の追及、頑張って下さい。

投稿日時 - 2012-08-08 00:39:22

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 次のように図示して説明する内容 これによって補足要求としてお尋ねしたかっこうでした。


  生活世界: (幼児:)本能 / (大人:)感性を含む思考
  _________________________
  その根底: ・・・・・《信じる(非思考の庭)》・・・・・・・・



 幼児の本能による振る舞いは 《信じる》というみなもととつながって 《聖なるアマエ》と呼び得よう。

 大人の《感性をふくむ思考(つまり うたがいを容れる)》は おおむね《わたし》が《わたし自身》を探し求める旅をしている。言わば巡礼の旅路である。
 つまりそれは 根底における《信じる》とそのようにして――つまり自己還帰あるいは自己到来の過程というかたちにおいて――つながっている。聖なるアマエを じつは知っていて つねに きよらかなおそれを抱いている。(もしくは わざと それにさからっている)。






 ★ ~~~~
 考えと感覚が融合した知覚は感覚が入りますので、申し訳ありませんが論じてもお伝えできません。
 その点もご了承願います。
 ~~~~~~
 ☆ この点は 了承いたしかねます。
 なぜなら たとえば百科全書派が 西欧で出ましたね。そのときには とうぜんのごとく《感覚》についてそのあらゆる様態を取り上げ 哲学としての定義をほどこしました。
 感覚の分析からしり込みするのなら 哲学には成りません。ですから 承知いたしかねます。
 



 ★ ~~~~
 私は、知識からの考えだけで判断しないようにしていますので。
 そこのところはご了承ください。
 ~~~~~~
 ☆ ここにも誤解があると考えます。
 《信じる》は 非思考の庭がわが心に成ることだと言って 《知識や考え》の問題ではないと言っています。そしてそれでも哲学は このこと(非思考の庭)についても出来るところまでは 概念による理解を得ようとしてすすむのだと言っています。
 そこのところをどうかご了承いただきたい。それが 問いの趣旨とこころです。



 《本能》や《感性をふくむ思考・そしてそこにうたがいをも含む》といった経験的な事象や行為は 《信じる》と けっきょくにおいては つながっているとは見ますが そのままのかたちで同じ次元において対応させるのは 問い求めの中身としてどうなのか? こういうお尋ねです。はっきりしていると思います。(最初の図示を参照ください)。

 お引き留めするわけではありませんが 情報交換として そちらの情報を いまのままでは受け容れがたい。ゆえにその事由を明らかにして さらにお訊きしています。

 

投稿日時 - 2012-08-08 05:53:02

ANo.9

No.7です。
お尋ねの件ですね。


>(あ)★ 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてます
    ★ 出発点は本能です

>(い)★ 信じるという自らの意志により生じた動作

> これら(あ)と(い)とは 互いに相容れないほど別だと思われますが どちらも《信じる》についての説明となっています。どうでしょう?

信じるのは本能であり、疑いは経験から生じます。
その時点で選択肢ができてしまう訳です。

有る程度の年齢になると、選択肢がある場合は意志によって選びますよね。

産まれたては選択肢を持たないので信じる。
経験を積み重ねて、すべてをそのまま信じるのは違うと知る。

そう言うことを指しています。

投稿日時 - 2012-08-07 21:13:14

お礼

 かんと‐あいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ほかのみなさんは どう受け取っておられましょうか。と思いますが ここではわたしの感じたままの受け留め方をつづって できればさらにお尋ねしてまいりたいと存じます。


 ★ ~~~~
 信じるのは本能であり、疑いは経験から生じます。
 その時点で選択肢ができてしまう訳です。
 ~~~~~~
 ☆ たしかにまづ《本能》には じつは選択肢がありません。赤ん坊は 本能で母親のお乳を求め吸うのだと思います。そのとき お乳とそうでないものとの区別も 身の感覚でおこなっているのだと思われます。

 区別には 選択するという行為が伴なっているようですが お乳を吸うという動作には 選択肢はありません。哺乳瓶で吸うというのは 親の側の選択であろうと考えられます。

 ところが もしこのことが《信じる》とかかわっているとした場合 それでも人は 幼児からやがてものごころがつくようになると ウソをつくというそれとしての自由選択の意志行為を経て すでにもう本能による行動はしなくなります。

 そのときどきの時点で 食べるか食べないかを選択するようになります。何を食べるかについて 思考をつうじて考えた結果そのものをえらぶという意志行為によることとなります。

 と考えてくるなら けっきょく赤子が本能によって振る舞うにせよ人が考えることによって自由に選択するという意志行為をおこなうにせよ その根底には 言ってみれば何ものかを信じるという《存在の原点》のごとき核があるかと考えられます。

 そうして 《うたがう》は 食べるものが腐っていないか・毒が入っていないかなどと疑うにせよ疑わないと決めるにせよ とうぜんのごとくそれは 《考える》の問題です。言いかえると 《何を食べるか》の選択行為においておこなうその要素であると考えられます。




 つまりですから 何が言いたいかと言いますと こうです。

 ○ 《信じる》は ひとつに何も考えないのですし ひとつにその受け容れるものについて それは無根拠と言う如く じつは何も分かっていないわけです。

 したがって まづ《本能》は 何も考えないという点で 信じるに似ていますが 信じるは《無根拠》なるナゾの何ものかを いちおう知覚しているかあるいは概念として認識しているかだとしますと 俄然 違って来ると思います。
 しかも きよらかなおそれ あるいは 聖なるアマエとしてその中身は やはり似ているようです。

 《うたがい》は あくまで《考える》の問題です。何らかの根拠を問い求めています。






 《信じる》が ナゾの何ものかを 無根拠として無根拠において 受け容れるというとき その《非経験の場》を間違えることはあるか?

 ないと考えます。
 なぜならもし間違えたときには それは 《いちおう概念として認識している》ところの神なら神が すでにその人の頭の中で《思いとして持たれていたり 想像においてその中身を想い描いていたりする》場合に限られるからです。言いかえると すでに神がオシエとなって抱かれている場合です。オシエは 信じるの対象ではなく 考えるのそれですから。

 教義は 根拠を問い求めています。

 人間なる教祖を信じるという場合も 同じくです。人間であるなら 人はその人について考えてその人柄を捉えることをします。ときには 信用できないという判断(選択)にまでみちびかれることもあります。つまり うたがいです。

 うたがうや考えるがからんでいるなら それは 経験思考の問題です。信じるではありません。


 このように《信じる》が その受け容れるものを間違えることは ほんとうにはない。
 こう考えるにつけても 信じるは 考えるとは次元が違う。とさえ思われます。




 ★ 産まれたては選択肢を持たないので信じる。
 ☆ というように見えますが げんみつに言えば そこにはふたつの階層があると思われます。
 
 根底の次元に 信じるがある。(赤子は むろん 自覚していませんが)。その上に この場合は考えるではなく 本能による振る舞いというひとつの生活の層がある。のではあるまいか。

 ★ 経験を積み重ねて、すべてをそのまま信じるのは違うと知る。
 ☆ 《経験や世界の認識を積み重ねて その結果出した結論》は むろん選択肢としてでありそれを選択するわけですが あくまで経験合理性にもとづきくだした妥当性のある内容のことです。つまり 考えるの対象です。信じる・信じないとは別のことではないでしょうか?
 
 (このとき 信じるという表現をすることがあるのは 強くその妥当性を思っている。確信している。といった意味です。その妥当性がくつがえることがある・つまり うたがいを容れている。のですから 《信じる》とは別です)。


 どうでしょう?

投稿日時 - 2012-08-07 22:22:06

ANo.8

No.7です。

信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてますので
私的には、特にそれ以上は哲学はありません。

なぜならば、人間は生まれながらにして自身を他者にゆだねます。
子を育てるという行為の間に、子からの疑いは入る余地が無いからであり
疑いは経験から来るものだからです

本能とは、他者とのふれあい(スキンシップや優しい声かけ)をすることが
生きる上で必要する欲求であり、それにより人に対しての信頼を強めます。

子供の時ふれあいが足りないと、欲求を叶えられなかったことにより
人を信頼することが難しくなり、コミュニケーションも苦手となります。

乳幼児期のふれあいが、自分を受け入れてくれるという確認であり
他者を受け入れられる基礎となります。

受け入れられ感が足りないで欲求不満で育つと、人はそれを宗教や神に強く求める場合があります。
あるいは科学に、金に、権力に求める場合もあります。


上記のように信じるがどのように働いて行き、生き方に強い影響を与えますが
出発点は本能ですから、私はそれ以上掘り下げることができません。


「行為(こうい)とは、人が自らの意志(意思)に基づいてする動作。」ウィキより

ということですので、信じるという自らの意志により生じた動作は、自己責任であり
他者や何か(社会とか宗教とか国家とか政治とか)の責任にしないのが
質問の最初の投げかけである「どういう行為か」に繋がると考える次第です。

投稿日時 - 2012-08-07 10:25:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。前回は わたしの物差しで測って理解し受け取ったかたちでお応えしました。
 今回は 述べられたご見解のままを受け取って 単純に分かりにくいと思ったところをお尋ねしてまいりたい。こう考えます。

 ○ 本能による行動と意志による行為

 これをどのように位置づけているのか? この点をまづお尋ねします。

 (あ)★ 信じるにおいては、人間の基本的欲求(本能)から生じてます
    ★ 出発点は本能です

 (い)★ 信じるという自らの意志により生じた動作

 これら(あ)と(い)とは 互いに相容れないほど別だと思われますが どちらも《信じる》についての説明となっています。どうでしょう?



  ☆ ~~~~~~
  ですから 自説を出さないと言いましたが すでに述べた説明を確認
 しておきますと:

  信じようとするもの(無根拠のナゾ)を受け容れるという行為 これ
 は 《わたし》の意志による経験行為です。
 
  しかもその《無根拠のナゾ》が わたしのところにやって来るのは
 わたしの意志や思考や何やかやをすべて超えたところからである。

  つまり 《本能》をも超えている。
  この経験世界の因果関係や相互依存あるいはつまり世の中のシガラミ
 の関係をすべて超えたところ それが 非経験の場であり 無根拠のナ
 ゾです。
 ~~~~~~~~~~
   
 ですから 《出発点は 本能ではなく 非経験の場およびそれのわたしによる受け容れである》と思われます。
 その上で
 ★ ~~~~
 信じるという自らの意志により生じた動作は、自己責任であり
 他者や何か(社会とか宗教とか国家とか政治とか)の責任にしないのが
 質問の最初の投げかけである「どういう行為か」に繋がると考える次第です。
 ~~~~~~~
 ☆ というように 経験思考の緑野における(つまり この世界における)ひろく自己表現としての行為は 《自己責任》のもとにおこなわれる。こうなるのだと思います。





 それとは少し別ですが 次のご指摘は 重要ではないかと考えます。 
 ★ ~~~~~
 本能とは、他者とのふれあい(スキンシップや優しい声かけ)をすることが
 生きる上で必要する欲求であり、それにより人に対しての信頼を強めます。

 子供の時ふれあいが足りないと、欲求を叶えられなかったことにより
 人を信頼することが難しくなり、コミュニケーションも苦手となります。

 乳幼児期のふれあいが、自分を受け入れてくれるという確認であり
 他者を受け入れられる基礎となります。
 ~~~~~~~
 ☆ 《甘え》と言うと 他人に依存しすぎることだと受け取るのがふつうになっていて 用いづらい言葉ですが 赤ん坊は 誰が何と言おうと アマエから出発します。全面的に――そして言ってみれば 聖なるかたちにおいて――母親にだけではなく一般に人に対して 依存することから出発します。
 このアマエは じつは したがって その依存を受け留め受け容れるかどうかにもかかわりますから 《受け容れ》がなくては 何にもなりません。
 ということで おそらくおっしゃるように この聖なるアマエ あるいは 〔ものごころがすでについているとすると多少とも不安を伴なっての〕きよらかなおそれ この体験が のちのち大きな意味を持つのではないかとわたくしも考えます。
 自然本性の持ち味を確かなものとする基礎固めなのではないかと。



 では この幼児における《聖なるアマエ》が 親のつごうでうまく成り立たなかった場合は どうなるか?
 結論から言えば わたしは 心配することはないと考えます。

 アマエを受け留める親の存在以上のものが 目に見えないながら 神の存在(つまり 非経験の場としては 非存在)なのではないかと捉えるからです。

 人は 子として親と持つ関係以上に 存在の条件として 《無根拠のナゾ》としづかにはげしくかかわっている。から心配要らない。こう思います。

 ですから
 ★ ~~~~
 受け入れられ感が足りないで欲求不満で育つと、人はそれを宗教や神に強く求める場合があります。
 あるいは科学に、金に、権力に求める場合もあります。
 ~~~~~~
 ☆ これらは すべて《インチキの神》であろうと考えます。
 (科学や仕事に勤勉であることが マチガイだという意味ではありません。それらを神として受け留めようとするのは インチキの世界に入ることだという意味です)。

 なぜなら 自然本性が 何もしなくとも そのまま問い求めているのが 神だからです。それは 《わたし》自身を問い求めることと けっきょく同じことになるのだとも考えられます。
 いわゆる《宗教》は 人為的に《聖なるアマエ》の対象としての観念なる神を 作り出している。こう考えられます。

 といった格好になりました。今回もかなり出しゃばりました。

投稿日時 - 2012-08-07 13:48:49

ANo.7

信じるとは、人間のおこなう「自己責任に基づく」行為だと思います。

信じるに至るまでは、様々あるでしょうが
信じるという形で受け入れたのは、その人自身ですから
行為としては、自己責任を全うするのがよろしいかと。

信じる=受け入れる

だと思います。


ちなみに信じるも疑うも、私は通常使いません。
確認できたものは、それに関しては信じるに値する。
それだけでしょうか。

投稿日時 - 2012-08-07 00:28:44

お礼

 かんと‐あいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 おっしゃっていることは分かります。これまでのみなさんとのやり取りを見てもらっても その中身をおおむね同じくしておられると思います。

 ただしどうも 表現にかんしましては――こまかいことにこだわりますが―― 微妙に違う。こうも感じられました。

 ★ ~~~
 信じる=受け入れる

 だと思います。
 ~~~~~~
 ☆ おそらく基本的に見解を同じくしていただいたのだと思います。思いますが 表現としては・また哲学としては もっと詳しい手続きのような作業が欲しい。わづかにこう思いました。

 ○ ひとを受け容れる。自分を誹謗中傷し世の中から抹殺しようとしたその相手を 心より受け容れる。敵をわが心に 無条件にて 受け容れる。

 というのも《受け容れる》ことですから。たしかにこのように人を差別せず あたかも自分と同じように受け容れるときには おそらくその源泉または原動力のごとくして《信じる〔としての 神の受け容れ〕》があって働いているのではないかと思われますが そうなのですが ただ《受け容れる》という定義だけでは こちらも扱いに困ってしまいます。とまづは 正直に物言いをお伝えしたいと思います。





 ★ 信じるとは、人間のおこなう「自己責任に基づく」行為だと思います。
 ☆ これも おそらく段階が分けられておらず 直接につながっているのだと見ます。
 
 ○ ヒラメキは 《非思考の庭》と《精神の思考の緑野》とのツナギである。

 ということは ヒラメキの源泉もしくは原動力が 核エネルギーとしての《信じる》です。その動態です。
 《思考の緑野 あるいは 未開拓の原野や密林》なる世界において
 ★ 人間のおこなう「自己責任に基づく」行為
 ☆ が みなもとの《信じる》から 自由に堂々と自信を持って 表わされて来ます。
 このような段階が 凝縮されてつながれたかたちで かんと‐あいさんの心とあたまの中でたぶん直観されたのではないかと思われます。どうでしょう?
 ですから おっしゃる意味は よく分かります。と申しました。



 少し省エネ答法をゆるしてもらってしまいましょうか。つまり あとはこれまでのやり取り・そこにおけるわたしの受け答えを参照していただくというかたちにてと思ったのですが どうでしょう? 

投稿日時 - 2012-08-07 07:49:25

ANo.6

 「信じる」と云う言葉を使うから、ブラジュロンヌさんの心意が伝わらないのではないでしょうか。

 「非思考の庭」=「信仰」=「信じる」と云った図式を提示していますが、ブラジュロンヌさんの言わんとする事は、例えれば・・・・・

 母の胸に抱かれ、安らかな状態の幼子。この母と子の精神的関係こそが「非思考の庭」なのだという事ですね?

 そう思うと、これまで言われてきた事は「信仰」の“内容”について顕わしたい、という思いが強いのだと考えます。

 この“内容”は信じるとかの事柄ではないので、したがって「非思考の庭」と表現出来るのだと思います。

投稿日時 - 2012-08-07 00:20:57

お礼

 わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ この“内容”は信じるとかの事柄ではないので、したがって「非思考の庭」と表現出来るのだと思います。
 ☆ 何にしても言葉で表わされたもの・つまりは言葉をとおして人が思考しているもの そのような内容は 《考える》の対象であって 《信じる》ものではありません。
 しかも

 ○ 非思考の庭

 この表現にしても 言葉をとおして・またその意味内容において 人はすでに表象をしています。《思考》という概念ないし何らかのその象(かたち)を得てそれとして表わしています。また《思考に非ず》と言ってやはり概念によって筋道をつくり推論を得て行きます。象に表わして行きます。

 つまり 《非思考の庭》という言葉は すでに《思考の領域》において成り立っています。
 しかも 何とかして《非経験の場》のことを・そのナゾのことを伝えようともしています。


 言いかえると 言葉はみな経験世界に属しており そうでありながらも わづかに《非経験の場》を想定してそのナゾを指し示すためにも用いられる。こういうことだと考えられます。

 そのナゾは じつは・じつに 無根拠です。
 (これは じつは 根拠があるのかも知れないのですが。つまり 根拠があるのか無いのか それについても根拠のある理解や説明が 人間には出来ない。そういう《非経験の場》が想定されています。《かみ》とは そういうものです)。

 この無根拠を無根拠のまま――ややもすると バカみたいに非思考において――受け容れる。これが 《信じる》という人間の行為だと考えます。







 ★ 母の胸に抱かれ、安らかな状態の幼子。この母と子の精神的関係こそが「非思考の庭」なのだという事ですね?
 ☆ おさな子に自分の《わたし》が意識されてあるとすれば そういうことなのでしょうね。

 言いかえると ものごころがついてからの問題なのでしょうね 信仰は。
 ものごころがついてから ひとは誰でもウソをつきますから 一たんナゾの何ものかから離れてしまうのでしょう。それをふたたび受け容れるということなのでしょう 《信じる》というのは。


 ひとは かみが何たるかがふと分かったと思うときには 《かしこまり》ますね。
 あるいは 《あは。 Ah ! 》と言って もののあはれにみちびかれます。
 あるいは 《きよらかなおそれ》をいだきます。

 これは おさな子のやすらかなさまと同じなのでしょうね。
 ちがいは わづかに おとなは いちいちその神を 心に受け容れるという作業を経なければならない。こう思われます。


 たしかにこういう《信じる》ことは 《考える》をおこなったとしても 得られません。かすかなそのイメージが得られるかも分かりませんが 体験しなければ分からないでしょう。
 しかも もしもとの《わたし》に戻るのだとしたら じつは《信じる》ということを――もしくは《かみ》を――もともと知っているのでしょうし じつはつねに愛してもいるのでしょう。だから 体験する前にすでに その目指すところが分かっている。
 (さとりも こういうふうに説明するとよいと思われるのに)。







 しかもです。しかも しかも しかも。この《信じる》という人間の行為は どういう行為か? これを 哲学するという問い求めです この質問は。

 おそらくこの問い求めが一定の成果を得たなら 人にとっての《核反応ないし核エネルギー》とでも言うべき信仰について 万人にあてはまる普遍的な説明を成し得たということですから もう世界における宗教の違いなどは 屁の河童となるでしょう。


 これには おそらくわれわれ日本人が――と言ってもむろんほかの人びとを取り退けるのではないわけですが それでも―― ふさわしい。

 《きよらかなおそれ》もしくは《聖なるあまえ》 このことをよく知っていると思われるからです。
 唯一神に対する頑迷な《信仰(?)》からは はなから自由であるからです。


 わづかに――わいわいえいとさんを前にして 堂々と言いますが―― ブディズムのモヤモヤ・ワールドが このような論理的な哲学の仕事を妨げている。としかわたしには思えません。

 片や もののあはれについての表現のむつかしさと 片や どこまで行っても曖昧模糊たるさとりのモヤモヤとは まったく異なるものです。

 きよらかなおそれは――ヒラメキのはたらきに似て―― 何とかしてこれを仮りにでも言葉によっても表現し 誰もが納得するようなその内容を共有したいと思っている。

 さとりは この内容表現やその共有を 何とかしてむしろ させないようにする。そんなものを言葉で表わされてたまるかとでも思っている。タコツボなるモヤモヤ・ワールド。天上天下唯我独尊。
 ・・・


 このあたりまでとしましょう。

投稿日時 - 2012-08-07 07:28:37

ANo.4

都内でも、玄関先に柊(ひいらぎ)の枝に、鰯の頭を刺して“邪気を払う”風習を見ることがあります。
「鰯の頭も信心から」
辞書に、たとえどんなつまらないものでも信心の仕方次第で、尊くありがたいものになるということ。と、あります。

質問文の前半を読んでいて、ブラジュロンヌさんの表現する「非思考の庭」に、上記の信心も含まれるんだろうなあ、と思いましたが。

「信仰とは行為そのものであって、そこに“思索”が入ってはならない」と、言っているのだと受け止めました。
また、信仰には対象物があるけど、その対象物によっては信仰とは言えない世界がある、とも言っているようです。

と、ここまで考えたら“鰯の頭”は、信仰の対象にしてはいけないのだろうかと、さらなる疑問が起きてしまいました。

投稿日時 - 2012-08-06 16:35:27

お礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ええ。そうですね。
 ★ と、ここまで考えたら“鰯の頭”は、信仰の対象にしてはいけないのだろうかと、さらなる疑問が起きてしまいました。
 ☆ おっしゃるとおりだと思います。言いかえると 《きっかけ》にするだけなら よいのではないでしょうか?

 あるいはさらに言いかえると 何であっても 《信じる対象――じつは 非対象――》を仮りに示すものであることはかまわないわけです。仮りの代理物を仮りのものだと知っているかぎり 鰯のあたまでも何でもかまわない。こう考えます。

 つまり早い話が 鰯のあたまは 信仰の対象には成り得ません。かたちあるものですから 見る・触れる・食べるあるいは科学的に認識するといった《考える》の対象です。考えるの対象であるものを信じるということはあり得ません。
 (つよく思うという意味で 言葉のあやとして 信じると言ったりすることは別とします)。



 ★ 「信仰とは行為そのものであって、そこに“思索”が入ってはならない」と、言っているのだと受け止めました。
 ☆ その――たとえとして敢えて言ってみますが――《いわしのあたま》が仮りに示すところの《非経験の場》 これを(と言っても要するに 神のことですが)一たんわが心なる非思考の庭において受け容れたとするなら あとは これの持続ということになります。

 信仰は 受け容れるという行為とその保持の過程というやはり行為です。その意味で 動態です。
 もっとも 忘れたり怠けたりしたとき ちゃんとその動態過程に連れ戻してくれますから 安心です。つまり そうでなければ 信仰は 人間の・そして《わたし》の努力によってのみ成り立たせるものであり しかもその自分のチカラで保持して行くということになってしまいます。

 受け容れおよび保つという自分の行為はおこないますが それ以上に何ものかナゾのチカラが この《わたし》の動態を たも(網)で掬うようにして 受け留めてくれている。そういうことだと思います。安心です。宇宙と一体なんだもおーん。

 ★ ・・・そこに“思索”が入ってはならない」
 ☆ これはですね。受け容れおよび保ちという非思考の庭の動態的過程そのものにおいては 《思索》も《思考》もいっさい入りません。《非思考》なのですから。

 ただし 例の《ひらめき》というそのときどきの事件があります。
 ヒラメキが起こると そこからその直感および直観を何とかして言葉で表わそうとする試みが持たれます。
 そうなると むろんのこと その段階では 《思考》の領域に入っています。《思索》も大いにおこなうでしょう。
 
 言いかえると このヒラメキなる直感および直観を大前提としてそのあとでは 《コギト エルゴ スム》と言えるのかも知れません。大いに《考える》の領域にすすみますから。《われ考える ゆえにわれあり》という命題のみによっては にんげんの存在は説明し得ません。

 ヒラメキは 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのツナギとなりましょうか。どうでしょうか。

投稿日時 - 2012-08-06 21:13:58

非経験の場を信じている際には、
どう遣って其の方々はそれを自覚するのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-05 22:39:42

お礼

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~
 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。
 無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。

 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。
 思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。

 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。
 しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。
 言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。

 6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。
 それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。
 これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。

 7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。
 ~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-08-05 22:53:34

言語によるコミュニケーションさえもが、相互の信頼の維持に依存していますね。

従いまして、Protocolを疑わないので、
電気通信機器類は『無心』での遣り取りを継続させ得るのでしょう。

投稿日時 - 2012-08-05 11:17:46

お礼

 つづいてです。

 ★ 言語によるコミュニケーションさえもが、相互の信頼の維持に依存していますね。
 ☆ その信頼が破られることもありますね。
 
 という意味は 信頼が保たれることも保たれず破られることもある。これが 経験世界です。

 そこに《無心》を持って来ても いま問う問題の中身には関係して来ません。



 非思考の庭 これを問うています。
 非思考とは 思考が無い・あるいは思考をしていないという状態のことではありません。思考していようがいまいが 思考をしてものごとのけりがつくか そのつくかつかないかが分からないという領域にかかわる心の状態であり その庭です。



 経験世界と非経験の場(これは 想定です)とを峻別してください。
 でもこのことは もう口が酸っぱくなるほどすでに何度も言って来ていますから こんど同じことを書いて来ても もう取り合いません。

投稿日時 - 2012-08-05 13:19:14

価値判断の一般的な尺度を度外視して、敢えて『訝り・疑念』を忘れる為に、
積極的な働き掛けに陶酔・耽溺し続ける、
という『無心』での信仰には、確かに集団代表者による管理が必要になっていませんね。

そして、電気通信機器類の遣り取りが『無心』で継続されていく際にも、
管理者達の存在が必要になっていませんね。

投稿日時 - 2012-08-05 11:04:30

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ですが 異なる見解を持ちますので 説明してまいります。

 ★ 『無心』での信仰
 ☆ 一般にですが 《無心》は 非思考としての信仰ではありません。
 そのような見方をするときの定義をしておきます。

 ○ 無心とは: ~~~~~
 1. その無心であるとき《わたし》は 自己を自覚して 存在しています。潜在意識になっている場合を含めて 自覚があります。

 2. ただし言ってみれば その《わたし》は わたしなるものの自覚のみの意識しかありません。

 3. よって 言いかえると 近くも遠くも含めた周りのことや生きている時間過程について 言わば白紙の状態にあります。

 4. 同じく言いかえると この時空間なる世界およびそこに繰り広げられるものごと これらすべてに対して わが感受性ははたらいています。閉じられているわけではないのです。

 5. したがってあとは 世界に起こるさまざまな事柄について 言わば自然本性のままにそれらを感受することになります。

 6. あとは もろもろの記憶が意識に浮かび上がり そして知解行為(認識)や意志行為(判断)がはたらくようになりますから 無心としての《わたしなるものの自覚》だけではなくなります。
 ~~~~~~~~~~~ 

 さて
 ★ 価値判断の一般的な尺度を度外視して、
 ☆ というとき たしかに 《価値判断》あるいはその《尺度》 これらは 経験行為でありそのものごとですから これらを《度外視して》というなら 一見すると 経験世界を超えるというふうに思えるかも知れません。ですが それは 無理です。
 たとえばその尺度つまりは経験合理性を度外視するというのは これも じつは 経験思考であり経験行為だからです。度外視するということは むしろ無心ではないかたちにおいて意図的に為す経験行為です。
 つまり この表現の中身に関する限り それは経験世界の内にあるということです。

 ★ 敢えて『訝り・疑念』を忘れる為に、
 ☆ いぶかりも疑念も たしかに経験思考なのですから それを《忘れる》と言えば 一見 経験世界を超えると見えるかも知れません。ですが それは あり得ません。
 《わすれる》というのは 経験行為です。むしろ《有心》(計らいがある)でおこなう経験行為であり 依然として 経験世界にとどまっています。

 ★ 積極的な働き掛けに陶酔・耽溺し続ける、
 ☆ 《積極的な働きかけ》が 何を言うのか分かりませんが とうぜん 経験事象でしょう。その経験世界の事象に《陶酔・耽溺し続ける》というのも むろん 経験行為です。陶酔しているなら 意識もなくハカラヒもないと言うかも知れませんが その陶酔する初めのときの意図あるいは意識が 経験行為ですし そのあとも むろん 経験世界にとどまっている現象です。
 眠っている場合 意識がないから それは 非経験の世界だなどとは言えません。

 ★ という『無心』
 ☆ ということでしたら この無心は けっきょく《合理性を無視する・うたがいを忘れる・外界の刺激に陶酔する》という経験行為としての・言わば《はからひ》によってもたらされた状態です。
 つまり なるほど無心であるかも知れませんが それは 大きくは人間の意図および意識という経験世界の内における現象である。こう考えざるを得ません。


 
 非思考の庭なる信仰との違いは 《非経験の場》が初めに想定されているかどうか そしてこれを無根拠において受け容れるかどうか このような要因の有無にありましょう。



 ★ という『無心』での信仰
 ☆ と言うには 無理があります。経験行為のみによって成るものは 信仰とは言いません。

 ★ という『無心』の信仰には、確かに集団代表者による管理が必要になっていませんね。
 ☆ そうかも知れませんが それは 《中央管理》が必要であろうがなかろうが すべては 経験行為の範疇に入ります。
 ですから この質問の問い求めるところとは まるで違います。

 こういう説明になります。

投稿日時 - 2012-08-05 13:12:06

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