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解決済みの質問

イエスが なぜキリストか。

 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 (α) イエスが なぜキリストか。

 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。

 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。

 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。

 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。

 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。





 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

投稿日時 - 2012-08-19 07:56:38

QNo.7651567

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

たとえ自分の顔を恵んであげましても、
アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、
其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。

でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、
我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、
それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。
http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_list/

投稿日時 - 2012-08-21 18:47:22

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。


 ★ それを疑わずに受け入れていけば
 ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。
 うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。

 ★ 受け容れる
 ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。
 神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。

 すこしくそまじめに行きます。
 ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。


 
 前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?

 



 うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

投稿日時 - 2012-08-21 19:24:19

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回答(73)

ANo.73

たとえ『徳の積み立て』が不十分に留まっていましても、
思考(考慮)に関わらず、保険負債を担って下さるのですね。
http://www.shinnihon.or.jp/corporate-accounting/industries/basic/insurance/2010-11-09-03-02.html

投稿日時 - 2012-09-09 23:56:20

お礼

 つづきます。

 ★ 保険負債
 ☆ は たとえではなく 実際のことを言っているのですか?
 それなら ふつうにこの経験的なことがらとして 処理されて行きましょう。

 たとえなら?

 ★ たとえ『徳の積み立て』が不十分に留まっていましても、
 ☆ ええ。たしかに《善行を積む》であるとか《徳の積み立て》が十分か十分でないかは 水の湧き出る泉に成ることに差し障りはありません。
 わが《非思考の庭》を かのナゾの何ものかがノックして来たとき それを受け容れたなら 水が流れ出します。
 どういう過去を持ちどういう人柄であるか等々にかかわらず無条件に そうなるという物語です。

投稿日時 - 2012-09-10 00:37:04

ANo.72

此の様な意見を見付けました。
http://okwave.jp/qa/q7685546.html

投稿日時 - 2012-09-08 04:17:35

お礼

 ええっと ひとのみち氏には もうすでにいまの状態からの解脱の道をおしえてあります。
 また さからったようです。

 うまく対処した回答もついていますが はぐらかしの名人にとっては 効かないようです。

 効けばいいのですが だめなら ぶらじゅろんクンに すでにたしなめられたんぢゃないですか? と言ってやってください。

投稿日時 - 2012-09-08 06:18:44

ANo.71

無謬性を押し付けられ乍ら祭り上げられたイエスにとりましても、
基督公の称号の付与は迷惑な出来事だったのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88
http://www.youtube.com/watch?v=vfHaqURGjJU
http://www.youtube.com/watch?v=Rw7myHKT_VE

投稿日時 - 2012-09-07 08:22:31

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 無謬性を押し付けられ乍ら
 ☆ イエスは すでに生前にみづから自分がキリスト(メシア)であると言っています。
 そしてこのキリストが もし神の子でありみづからも神であるその存在を言うのでしたら その神には真理であることのむしろハタラキとして全知や全能や慈愛や不可変性やそして無謬性があると言われることはあります。
 属性としてそうであるなら 特に《押しつけられた》わけではありません。

 ★ 祭り上げられた
 ☆ というのは キリスト=マッシーアハの元の意味として 王であり またその当時のユダヤのローマ帝国への従属という情況としては政治的解放者という意味を持ったようですから キリストだと噂されれば そのように指導者になって欲しいという《まつりあげ》があったとも考えられます。
 ただし イエスは ほとんどそのウゴキは意に介しませんでした。



 ★ イエスにとりましても、基督公の称号の付与は迷惑な出来事だったのでしょうか?
 ☆ ですから この地上の国における政治的闘争家かつ解放者という意味でのキリスト称号だとすれば それを付与されて《迷惑》かどうかも 意に介さなかったものと思います。うわさはうわさで流れるでしょうから。

 弟子のひとりであるユダ(カリオテの人)が 弟子でありながらそのような――イエスに 政治的指導者になって欲しいという――《夢》を自分の側で持ち追い求めていたとも言われます。

 ほかの弟子たちも イエスの生前には イエスが自分はキリストだと言っていても そのことが神の子であり神であることだという意味を よくは分からなかったようです。

 十字架上の死を死んだのちに イエスは復活したとまでうわさされ 《非経験の場》のチカラとしての神であるとやはりうわさされました。つまり イエスというふつうの人間でありつつ キリストという神であるという見方です。
 このおとぎ話が 現実のチカラとして作用するもののようです。

投稿日時 - 2012-09-07 09:11:59

ANo.70

人工的に開発された情報資源の類いさえもが、
無量寿光のヲーターサーバーから汲み出されてきたのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7681328.html

投稿日時 - 2012-09-05 05:23:39

お礼

 ☆☆(No.33お礼欄) ~~~~
  ○ 『無量寿光』の御蔭で、『非経験の場』をおのが心に受け容れて成る『非思考の庭』には、『ビッグデータ』を有効に使う仕組みを開発する知恵が必要に応じて湧いてくるのでしょう。
 ~~~~~~~~~~

 そして No.60でも《無量寿光》の話が出ています。ヲータサーバについてもです。

 経験世界の情報と無量寿光とは 直接のつながりはありません。あっても 人間には分かりません。

投稿日時 - 2012-09-05 08:17:03

ANo.69

こんにちで言うところのキリスト教が〈必要とされてきた意味?〉は、ルネサンスの精神性から培われています。さかのぼる14世紀、キリスト教を繋いできた精神が暗い時代の象徴を帯びているのを図像学は確認します。このとき、エジプト-ギリシャ出自による成立や、バビロニアのカルディア文化とユダヤ教にみる土地民俗と、キリスト教の精髄は、別物になったようだということにひとつの論点が浮かび上がります。
〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうことを、ブラジュロンヌさんは言っているのではないかとあえて指摘したいと思います。

太陽が沈んで夜をくぐって昇ること、雨が川となり海から雲へと昇天しまた地に降りること、厳冬を超えて春に命が蘇るということ、洪水を超えて後に繁栄があること、そうした事象が、冥府と豊穣の愛児ホルスをして死者に川を渡らせたり、また黄金の矢と鞭をもつペルシアの王イマをして不可思議な避難の囲い地を設けさせる、通過儀礼の物語を古い神話の世界に生みだしています。ゾディアックを解釈に取り入れているマードック博士は、天体十二宮のみずがめ座通過に注目しています。
ともあれ、通過儀礼のための水の象徴は、〈大地に束縛される人間〉を清める意味を持っていたと思います。ルネサンス前夜から後期のすなわち〈時代と時間に束縛される人間〉にあっても、人々にとりついた死の主題は、『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観の中に置かれ、また聖書が人類史であり地史ですから、水の清めは象徴的によく機能しています。

しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。

投稿日時 - 2012-09-05 04:07:28

お礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いやぁ今回は じつにわたしは自分が《最短距離行きたがり屋》であるかを思い知らされました。

 だって すべては 尺八のひと音で済むと思っているのですから。
 人と会えば 《こんにちは》のひと言で宇宙は万々歳だと思っているのですから。

 いえいえ そうではありません。そうではなく 歴史にまなび言わば《人間化》を 類型として整理し しかもその内実をしっかりとおのれの人間化の軌跡とともに思想としても明らかにするといった作業 この王道でしょうか これをいかに怠っているか これを思い知らされました。

 ★ 『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観
 ☆ 何枚かの図とともに描かれているものですよね? どこかで見たおぼえがありますが もうとんと見向きもしないで来たなと思いました。
 歴史をたどる道を 気分にまかせいつも飛び越えて来ました。

 ★ 〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうこと
 ☆ ですか。たどればたどれるものだとは思いました。

 しかも《飛躍屋》の頑固あたまは 言います。
 アブラハムの個人に戻っただけではないかと。
 父祖の地 ふるさとなる《大地に束縛される》ことを嫌ってか アブラムぢいさん どこへとも分からずに 去って行きました。わしにはわしの道があるのぢゃと。

 ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。
 ☆ のちにアブラハムと名乗り換えたぢいさんが 妻のサラ(サライ)とともに すでにその水を湧き出させ ふつうの生活を送っている。高年になっても 子にもめぐまれた。
 なにが《哲学者の花園》ぞと。わが《飛躍》にこそ われらが人間の人間化の鍵があるのではないかと。



 エジプトもシュメールもどこどこも たとえば何て言いましたか ティアマトだかマルドゥクだか あるいはまたそれとしての創世記の話 これらの話題をいかに聖書がパクっていたとしても どうしてどうして 聖書記者には このアブラハムの《いのちがけの跳躍》がつたわっており すでに水はながれています。とても何て言いましたかエヌマエリシュだとかの神話どころの話ではありません。そのネタ元の話は わたしにはきわめて平面的な物語に映ります。

 水で話を継ぐとすれば わが日本にも ミソギがあります。あるいは滝行もあります。
 きわめて安易な《飛躍》の仕方であるとともに 問題は《身と心》のすべてを一瞬のうちにあらためるといった《人間化》の原理を見ようとしているのかも知れません。《理屈抜き》というやつです。


 ところが 聖書記者は この水は たとえであって 霊だと言いました。わけの分からないものだと。
 つまりこれは アブラハムの問題です。《去ろうと思ったから 去った》 これだけです。記述は 神のお告げのごとくに書いていますが。

 まぁ でも 西欧人もよくぞルネサンスを興したとも思いますけれど。
 ★ ~~~~
 しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。
 かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。
 ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。
 ~~~~~~~
 ☆ このあたりについては またくわしい歴史をたどる研究がなされているのでしょうが――つまり ルネサンスが言わば何故かまた沈んで行くというような歴史の一面があるかと思われます(あるいは 近代人の理性によって 揚げすぎたのでしょうか)―― その時代を経て
 ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。
 ☆ とまとめつつ 締めくくってもらいました。


 でも ふと思いました。
 もしこのように言うわたしが アブラハムのおこなったふつうの飛躍とは違って 特殊日本の地における環境が絡んでいるとするなら そのわたしの経験した《 salto mortale 》は みなさんにおすすめできる代物ではないかも知れない。
 いえ と同時に もし特殊日本では 決して被虐趣味ではないのに屈辱と排除との論理も実際も 世界に増して暗く深く普遍的なものであったとしたら 無理なくみなさんのものだと言えるかも知れない。

 吾人は 洪水になるほど 水かさを増して行かねばならないかも。
 (このフリーエッセーをもって お礼のご返事に代えます)。

投稿日時 - 2012-09-05 08:00:57

ANo.68

宗教の組織化は護送船団方式で展開していくのでしょうか?

投稿日時 - 2012-09-04 06:39:00

お礼

 いや ぎゃくでしょう。
 組織化した宗教は 他をけとばしてでも自分たちが前へすすもうとするでしょう。

 もしそのほうが都合がよいとなれば あたかも共存共栄だと言わんばかりに 互いに手を携えるというパーフォーマンスを世界宗教者会議等々といったかたちでおこなうに到りましょう。

 ほろびるべき宗派や他宗は ほろびるに任せるでしょう。護送船団方式とはぎゃくです。

投稿日時 - 2012-09-04 06:56:01

ANo.67

イデアが経験への認識の基盤を形作ってきたのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E6%B0%97%E5%BE%AA%E7%92%B0
http://kanjokamoku.k-solution.info/08/
http://okwave.jp/qa/q7679589.html

投稿日時 - 2012-09-04 06:17:35

お礼

 ご回答を――見過ごしていましたが―― ありがとうございます。

 経験から 認識を得ます。
 認識を整理するとともに 普遍性を持つ概念を取り出します。抽象化の作業だと思います。
 そこからさらに概念が どこかワケのわからぬ世界としてのイデアにまで発展し取り扱われるということではないでしょうか?

 ぎゃくの方向で イデアが 経験の世界のもろもろのことにかかわって来て イデアのほうが・つまりは幻想のほうが 現実にはたらきかけ 現実を変えることもあるのでしょう。

 でも まぼろしはまぼろしであって 消えて行きましょう。

投稿日時 - 2012-09-05 08:06:20

ANo.66

絶対的な真善美は必要なのでしょうか?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120829-00009743-engadget-sci

投稿日時 - 2012-09-03 23:47:22

お礼

 真善美としてであろうがなかろうが 《絶対》は 非経験の場として想定されるものです。

 《絶対》は ふつう 《真理》と呼ばれます。人間の主観における・経験的なものごとにかんする妥当性のある認識は 《真実》と呼んで区別されます。

 《絶対》は 一般に《存在ないし 生きること》が わるいことではなく よいことだと見なされるとき 善の系列として 《至高善》と呼ばれます。この上のない善という意味です。

 《絶対》は 美にかんしても かかわっていると見られます。ただしおそらく 美はすでに何らかのイメージやあるいはむしろ理念のようなものとつながっているとも見られます。つまり 美は 一般にすでにものごととしてある。こう考えられます。それでも この上ない美として 《絶対》のことを呼ぶこともあり得ると見ます。

 そういう想定をするという意味です。

投稿日時 - 2012-09-04 00:03:09

ANo.65

回答のお礼欄に、イエスの復活という言葉がありましたが、
イエスの〈復活〉は重要なのでしょうか。
最初に成立したとされる〈マルコ伝〉では、
イエスの〈復活〉の直接的な記述はありませんよね。
旧約の〈終末思想〉との関係でいえば、
イエスの復活というのは、イエスの神性に関係する極めて重要なテーマなのでしょうが、
個人的には、マルコ伝がそうであるように、イエスの復活は不必要なのではないかと思います。

いわゆるパウロの〈十字架の神学〉で事足りるんじゃないですか?
いやいや、〈十字架の神学〉もいらない。イエスという存在がキリスト教最大の秘蹟であり、
イエスの十字架事件も、復活も、たいして重要ではない、と思うのですが、
この考え方は駄目ですかね。
復活だ、原罪の贖罪などという教えは、言ってみれば、
泣いていた子供を宥(なだ)めすかすための方便、〈おためごかし〉みたいなものでしょう。
過激過ぎますかね、この考え方は。

bragelonneさんにとって、イエスの十字架事件、そして、イエスの復活はどのような意味をもっているのですか。

少しこの質問のテーマからは外れますが、
キリスト教における人間の霊魂とはいかなる存在なのでしょうか?

旧約聖書において、魂と肉体、どちらが大切かといえば、肉体の方ですよね。
霊魂というか生気は、神から人間の鼻に吹き込まれる息、つまり、バラモン教の気息(プラーナ)みたいなもので、肉体を動かす原動力、機能みたいなものでしょう。
しかし、キリスト教における霊魂は違う。行為の主体者であり、その責任者でもあり、したがって、賞罰の対象者になっている。これを教えの深化と見るか、矛盾と見るか、どうなんでしょう。
この教えの飛躍は、僕にとって、深い謎なのです。
(ゾロアスター教の影響と考えれば、一番、楽なんですが、それを言ったら、さすがにキリスト教的にはまずいでしょう。直接的ではないにしろ、キリスト教がゾロアスター教の影響を色濃く受けているのは、歴史的・文献学的には明らかなのでしょうが....。
大体、地上の王を「神の子」と呼ぶのは、ペルシアの影響。
旧約聖書が書物という形態をとるのは、バビロン捕囚以降の話なので、ペルシアやバビロンの思想の影響を受けていないと考えることに無理がある。
最後の審判や死者の復活思想、世界の終末思想も源泉はペルシアの思想でしょう、間違いなく。
そして、キリストの復活は、カナンの神バール、エジプトのオシリスの復活と関係づけて考えるべきなのでしょう。つまり、その思想の背景には、多くの民族が持っている『生命の循環思想』があるとみるべきなのでしょうね、キリスト教徒が何と言おうが)

キリストの「わたしを信じる者、神の御心にかなう人は天国にゆく」といったような発言、これは額面通り受けとるべきなのか。
それとも、新約聖書によく見られる比喩?
あるいは、イエスの、ハッタリ、プラフ??

一体、キリスト教は、死後の霊魂はどこにゆくと考えているんでしょうかねぇ~。
ローマ・カトリックの伝統教学の説くように、死後、生前の行ないに応じて、天国or地獄にひとまず行くんですかね。
それとも、例外なく、すべての霊魂は神のもとに帰り、最後の審判の直前に、再び肉体に与えられるのですかね。
あるいは、肉体の死と共に、霊魂も消滅する?そして、新たに神が新しい霊魂を吹き込む。

ちょっとした疑問です。

投稿日時 - 2012-09-01 21:01:41

お礼

 ご回答をありがとうございます。昨日は かなりの質と量とを書いたと思います。このご回答ひとつを先送りすることになりました。

 ★ イエスの〈復活〉は重要なのでしょうか。
 ☆ むろん 物語としてですが――《非経験の場》のチカラにかんするものですが―― まさにこの質問が注目することがらにかかわるものと考えます。すなわち
 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 ・・・その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《霊》における再生についてまで 《あなた自身が 涸れない泉になる》ことは ふくむと見ます。そうなれば 《永遠の現在》なる動態を生きることになる。これです。
 根拠ですか? ふつうの人間であるイエスが 非経験の場のチカラである神としてのキリストと呼ばれるようになったからです。われわれは このような羊飼いの声(笛?)について行きます。つまり 無根拠にてです。

 たぶん 復活は要らないという場合もあるのかと思います。根拠? 自由意志ゆえです。

        *

 ★ ~~~~~
 復活だ、原罪の贖罪などという教えは、言ってみれば、
 泣いていた子供を宥(なだ)めすかすための方便、〈おためごかし〉みたいなものでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ 復活は 触れました。
 《おためごかし》ではないでしょう。なぜなら 羊飼いの笛の音について行かなければよいわけですから。
 ★ 原罪の贖罪
 ☆ これはですね。原罪もしくは《へび》 このことに聖書記者が触れたことから イエスの登場において このアダムらの罪をあがなったという話になった。つまりそう書かざるを得なかった。まづこのように思います。

 ヘビの話は いわゆる世間の知恵なのだと思います。にんげんの自由意志によって 善と悪を知る木から採って食べたのであるにもかかわらず 聖書記者は わざわざ世間のことわざを分かりやすくするために採り入れて ヘビを登場させた。
 つまり 実際は ヘビのしわざなのではなく にんげん自身の意志行為として善悪を知る木から採って食べた。そのあと 《アダムよ きみはどこにいるのか?》との声をアダムらは聞いた。そこで 《きよらかなおそれ》を抱くようになった。
 それまでは 《聖なる甘え》だったわけです。甘えとすら気づいていなかった。ただし逆に見るなら そのアマエの時代にも すでに きよらかなおそれは 身と心に宿していた。

 ですから ヘビは・つまり原罪は すでに初めから まぼろしであった。世間の知恵としては 何かわれわれにんげんの意志を――幸か不幸か また良いほうへかわるいほうへか――みちびくチカラのようなものがあるのではないかと考えた。これを ヘビで表わした。でもすでに初めから まぼろしであった。
 そのヘビはまぼろしであるということを 創世記の記述を承けて新約聖書では わざわざ触れてイエスがチャラにしたのだという意味合いにおいて描かなければならなかった。
 つまり 初めに人間の生きることの中に原罪を据えるということが もともと《子どもだまし》の話であった。
 こう考えます。

         *

 ★ bragelonneさんにとって、イエスの十字架事件、そして、イエスの復活はどのような意味をもっているのですか。
 ☆ 復活は 触れました。
 十字架事件については 次のように回答を寄せたことがありますが まだそこから停滞したままです。
 ☆☆(【Q:キリスト教の教えについて】回答No.12) ~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6893242.html
 ・・・
 ○ 〔人間であると同時に神であるというのではなく ただひとえに〕神であるなら その十字架から降りて来いと言われて もし神の力によってその危機を切り抜けたとしたら 人びとはこぞって それは神であるから出来たことだ われわれ人間にはとても出来っこない そんな特殊な奇蹟を見せてもらっても何にもならない と言ったりすることでしょう。

 ○ けれどももし イエスはイエスであってただふつうの人間であるしかないとすれば 多少は立派な人間だったでおしまいです。或る程度の光を見させたでおしまいです。身と心に枯れない泉が湧く気遣いはなくなります。そのような泉は イデアのごとく或る程度は希望の星として受け留められたとしてもです。
 ~~~~~~~~~~~~~

       *


 ★ しかし、キリスト教における霊魂は違う。行為の主体者であり、その責任者でもあり、したがって、賞罰の対象者になっている。これを教えの深化と見るか、矛盾と見るか、どうなんでしょう。
 ☆ まづ《キリスト教》というのは オシエであり組織宗教です。個人にとっての非思考の庭なる信仰とは 関係ありません。

 つねに湧き出る水あるいは心の燈心がともっている状態 これはすでに《霊》の問題だと思います。
 この霊つまり聖霊なる神が(つまり 非経験の場なるチカラが) 人をして主体的な存在たらしめます。ということだと思います。
 そのことが実現していなくても 理論として大前提であるとして たとえば自由意志の公理が持たれています。自由意志があるとしないのなら 犯罪者はその犯罪について主体的な行為としての責任は問われることはないわけです。夢遊病者のごとくたまたまその犯罪をするにおよんだ。だけであると見なされるはずです。
 じっさいにそのように夢遊病者のごとくであったとしても・つまり決して主体的な意志による選択として行為したのでなかったとしても 理論上は 自由意志の主体としてその犯罪行為の責任を問われます。
 イエスがキリストであると 物語られたところから 人間論や社会行為論がきづかれていると考えます。


 もしそうではなく
 ★ 霊魂というか生気は、神から人間の鼻に吹き込まれる息、つまり、バラモン教の気息(プラーナ)みたいなもので、肉体を動かす原動力、機能みたいなものでしょう。 
 ☆ という規定だけによるとすれば 世界はまだ 歴史知性以前の状態にあると考えられます。意志自由を知らないからです。そのおのれの意志によってこの世界に入ったという歴史を知らないからです。撞球の玉突きのごとく突き突かれてあっちへ行ったりこっちへ来たりして人生を過ごし社会に生息しているだけとなりましょう。それでも 思いやりや科学の研究はいとなまれると思いますが。


     *


 ★ ゾロアスター教の影響
 ☆ と言えば 例の《ボディサットワ》なんかがそうであると言われます。そういう意味での・つまりいわゆる《救世主》としてのキリスト観 これは それとして影響を受けているのではないでしょうか。

 それは しかもキリスト教というオシエの話としては どうでもよいことなわけです。政治的な軍事的な解放者だと見られた場合もあったかも知れません。それも どうでもよいわけです。ザラトゥシュトラが どこまで明らかにしていたか定かではありませんが 《非経験の場》とそのチカラについて述べていなければ どうでもよい思想だと考えます。

 菩薩にしても王としての救世主にしても それらは 一回きりの歴史としての十字架事件ではないのですから それらが出て成功したとしてもまたあらたに別のそういうたぐいのキリストを必要とすることになります。イエスがキリストと呼ばれるその意味は そういう思想や修行や政治的解放の問題でも次元でもないと考えられます。


     *

 ぎゃくに一回性の歴史事件としてのあたかも世界史上に《特異点》を成すような十字架事件 つまりそれにかかわる《復活》のヒラメキが ほかの神話などから影響を受けているかいないか。これにかんしてですが
 ★ ~~~~
 そして、キリストの復活は、カナンの神バール、エジプトのオシリスの復活と関係づけて考えるべきなのでしょう。つまり、その思想の背景には、多くの民族が持っている『生命の循環思想』があるとみるべきなのでしょうね、キリスト教徒が何と言おうが)
 ~~~~~~ 
 ☆ キリスト教のオシエにおいて何と言っているか知りませんが キリストがイエスとなって指し示した神とそのチカラは 同じ復活とい言葉を用いていても 《生命の循環思想》とは似ても似つかないと言わざるを得ないでしょう。
 《わたし》は 掛け替えのないただひとりの存在だということを――その《自由意志》なる中軸の存在において――示しているからです。循環・輪廻は どうでもよいと見ます。
 この人間の生という高々百年・百五十年の時空間 これっきりの思想です。そこにおいて《永遠の現在》を生きるようになるという復活なる課題です。


 ★ 天の国 地獄
 ★ 一体、キリスト教は、死後の霊魂はどこにゆくと考えているんでしょうかねぇ~。
 ☆ 等々は どうでもよいはずです。たとえとしての話です。なにしろ 永遠の現在なのですから。

投稿日時 - 2012-09-02 10:32:23

ANo.64

ご無沙汰しておりました。

☆☆☆
>○ 人の内から生きた水が湧き出る

☆「水」ですか。bragelonneさんなら、「水」ではなく、過激に「火」という言葉が出てくるのではないか、と思っていたので、
いささか拍子抜けしております(笑い)。
イエスは”恵み”をもたらす人ですので、少なくともここでは、「火」はまずいですかね。
にしても、「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」というヨハネの記述が僕には気になります。
この〈栄光〉とは何を意味するのでしょうか。
このことばは、神としてのイエスの正当性に関わる重要なキーワードだと思うのですけれど、
bragelonneさんのお考えは?

十字架で磔になったことで、人間イエスは神として完成する、なんて意味ではないですよね。
それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。


☆マルコ伝8:27以降に、
イエスの正体について、ペテロとのやりとりがありますよね。
そこで、イエスは『なんじはキリストなり』と答えたペテロを
『サタンよ、わが後ろへ退け。汝は神のことを思はず、かえって人のことを思ふ』
と叱りつけています。
この個所は読みようによっては、イエスは自らがキリストであることを否定している、とも解釈できます。
少なくとも、マルコ伝はこの立場をとっているように僕には思えるのですけれど。

また、

▲かれ(洗礼者ヨハネ)のべて言ふ
『我よりも力ある者、我が後(のち)に来る。我はかがみて、その鞋(くつ)の紐をとくにもたらず、我は水にて汝らにバプテスマを施せり。されど彼は聖霊にてバプテスマを施さん』
(マルコ伝1:7ー8)

 洗礼者ヨハネのこの言葉の後に、イエスが登場するので、
 〈聖霊でバプテスマを施す者〉はイエスだと、ふつうは解釈されていますが、
 これは〈イエス〉ではなく、〈父なる神〉と解釈すべきだという考え方もある。
 この考え方に従えば、イエスはあくまで人間。人間イエスが、なぜか分からないけれど、神に選ばれて、聖霊を与えられた。そして、イエスは神の言葉を人間に伝えたとなる。

神とイエス、さらに聖霊まで関係してきて、難しいですねぇ~。
三位一体説、これはなんか苦しい理論体系のように思えてならないのですよ、僕には。
僕は、イエスを神にまつりあげなくても、イエスは人間でも十分、キリスト教は成立すると思うのですけれども。
イエスの正体が何であるか、この問題は、それほど重要ではないのではないか、などと
例によって、罰当たりなことを考えております。

そもそも、〈キリスト〉という言葉が何を意味しているのか、これ自体が極めて曖昧ですから。
そもそもは、単なる人間世界の、地上権力としての王の意味かもしれませんし…
後世の人間が、キリスト教の教義確立の過程で、本来、聖書にはなかった新たな意味が、この〈キリスト〉という言葉に与えられた可能性も否定できませんし…

〈キリスト〉という夾雑物、いらないんじゃないでしょうかねぇ~。
イエスで十分だと、個人的には考えるのですが。

☆☆☆
この夏、すこし、仏教の仏身論(報身)を勉強したのですが、
報身(ほうじん)の他受用身というのは、
十地の菩薩でないと、その姿を見たり、その言葉を聞いたりはできないのだそうです。
つまり、阿弥陀仏の姿を目にすることのできる菩薩は、十地の最低レベルである〈初地〉以上ということです。報身は、菩薩のための仏さまということになります。
なので、阿弥陀浄土に往生できる人は、この娑婆世界において、ある程度、菩薩行を完成させた人ということになります。
しかも、阿弥陀浄土に往生後の、菩薩の修行の階梯・レベルによって、報身の他受用身の姿・形・大きさが異なって見えるのだそうです。
もちろん阿弥陀仏に姿・形がいくつもあるはずがないので、菩薩の機根・能力によって、その見え方が異なってくるのだそうです。

実は、阿弥陀仏の住む極楽世界というのは、とんでもない高みにある世界で、この世界に住む人間がおいそれと行ける世界ではないみたいですね。
〈聖なる甘え〉は、果たして、極楽往生に通用するのだろうか?
しないような気が....
親鸞の結論もそこに達していたのではないかと....

なので、誰でもその姿を目にし、その言葉を聞くことのできる応身(おうじん)が必要になるって仕組みになる。
もっとも、歴史的にいえば、応身であるゴータマ・ブッダが先で、報身は大乗仏教になってから成立した仏身なので、順序は逆になりますが…

十地のリンク先
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%9C%B0


☆☆☆
例によって、脱線しました。

○それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。
 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


〈キのじを言わない〉云々は賛成なのですが、
〈主観の問題〉は、どうでしょう。
〈主観〉と〈客観〉に分かれている間は、まだ《非思考の庭》に達していないような気がするのですが。
まだまだ、認識の対立構造が残っており、《思考の庭》の範疇内のような気がするのですが....
ここは、〈直観の問題〉の方が適切な気がするのですが、いかがでしょうか。

投稿日時 - 2012-09-01 15:06:07

補足

 《三位一体》についてです。

 まづ図示です。
 聖書から次の文句を取り出しその表示するところが ひとは三位一体なるカミの似像(にすがた)であるという。その見方をさらに内容として分析したものです。

 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ つぎに いくらかの説明です。

 《三位一体》とは?

 1. 神は 三つの位格(ペルソナ)が 《絶対》として 一体となった一つの本質(存在)である。

 2. 人は 一人ひとりの存在に 三つの行為能力が――相対的に・つまりは時間的な過程として―― 一体となった自然本性を持つ。

 3. 三つの行為能力の――時間的な懸隔をともなった―― 一体性が すでに次元を別にしていて はなはだ不類似ながら いくらかは 神の三位一体に似ている。これが 《ひとは 神のかたちに似せて 造られた》の意味です。

 4. 神の三位一体の説明には 光の喩えが 用いられる。
 ・光源が 父なるペルソナの神。
 ・光源からの発耀が あたかも父から生まれた子なるペルソナの神。
 ・光源および発耀から発出する明るさ・暖かさが 父および子から発出する第三のペルソナである聖霊なる神。

 5. 光源も発耀も明・暖も 光として 一体であるように 神の位格も 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊と 三者は 一体である。

 6. その一体性というのは 《絶対》としてであるゆえ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神も 各個が 各個と 各個は全体と 全体は各個と それぞれ 等しいというものである。

 7. 無限は――絶対であるが―― それを仮りに分割すれば じつは 分割しても その各部分は やはり 無限である。こういう想定である。

 8. 人は 経験的な知識や知恵を 記憶します。心の体験や あるいは 魂の発動をも 記憶します。また 記憶する前から 精神の秩序が この記憶という行為能力には あると考えられる。

 9. 記憶という宝庫から 人は もろもろのことを 知解します。あたかも記憶から生まれるかのように。

 10. 人の自然本性として備わる行為能力には さらに 三つ目がある。すでに 記憶するに際して あるいは そこからの知解を得るときに 何の問題についてか また その問題のために どういうことを知りたいか そういった主題や方法の意識をもって はたらく行為能力。これは 意志と呼ばれる。



 11. ここで 早道をすれば 単純な類似関係として 《記憶》が 父なる神に 《知解》が子なる神に 《意志》が聖霊なる神に それぞれ 比べられるという。

 12.意志は 意志行為として 社会にあって 相手がいる。相手との関係が 具体化して 交通し合うとなれば そこに 方向性と向きとが 決まる。こういった関係性を 一般的な意味での愛と言う。

 13. つまり 意志は 個なる独立存在として 自由意志であり ひととの関係性において 愛である。聖霊は 父と子から発出する明るさや暖かさである。この《人の意志》と《神の位格としての聖霊》との類似は その内実が 《愛》である。

 14. 意志=愛は 家族にあって 愛。組織にあって 経営。社会にあって 自治・共同自治。

 15. 社会全体としては 記憶が 法秩序。知解は 経済。意志は 政治。

 16. 三権分立としては 記憶が 司法。知解は 立法。意志が 行政。つまりは 三権分立も 三権の分業かつ協業としての一体性を持つと考えられる。つまり 《似像》であると思われる。

 このような人間と社会の成り立ち つまりは全体として 世界の構造だという理論です。どうでしょう?

投稿日時 - 2012-09-01 16:53:05

お礼

 やっほー。まだ閉めなかった甲斐がありました。
 こんにちは ねこさん。ご回答をありがとうございます。

 まづは 引用・援用のあいまいさを確認します。(へへっ)。
 ▲ (マルコ福音8:27-34) ~~~~
 8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、
 ・・・
 29 「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
 30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。

 31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
 32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
 33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
 34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。・・・
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ここは ほとんど明らかなように お説とは逆でしょう。
 ★ この個所は読みようによっては、イエスは自らがキリストであることを否定している、とも解釈できます。
 ☆ ちょうどサマリアの女との会話でも キリスト(メシア)であるとイエスみづからが言ったように ここでも 肯定していましょう。ただし 口外するなと言っているところではないですか。
 ペテロの《いさめ》は イエスが 自分は殺されると言った そのことゆえではないか?



 次にはですね:
 ★ ~~~
 十字架で磔になったことで、人間イエスは神として完成する、なんて意味ではないですよね。
 それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。
 ~~~~~ 
 ☆ これは 時系列としてと言いますか 出来事としては 磔とその後の――物語としての――復活 これで《神として完成する》つまり《キリストと呼ばれるようになる》のだと思いますが? 
 ★ それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。
 ☆ これは その物語の肉づけや味付けの問題ではないか。と思います。三位一体論の問題でしょうし 《同時に 人であり神である》ところがミソだと思います。この思想は もう破られ得ないワールドレコードでしょう。

 つまりは その《イエスは キリストである》なる命題〔をもたらした出来事〕について:
 ★ にしても、「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」というヨハネの記述が僕には気になります。この〈栄光〉とは何を意味するのでしょうか。
 ☆ この《栄光》でいいんぢゃないですか?



 ★ ~~~
 〈聖霊でバプテスマを施す者〉はイエスだと、ふつうは解釈されていますが、
 これは〈イエス〉ではなく、〈父なる神〉と解釈すべきだという考え方もある。
 ~~~~~
 ☆ たとえば:
 ▲ (マタイによる福音書 / 11章 27節 ) すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
 ▲ (ヨハネによる福音書 / 10章 38節 ) しかし、〔わたしが父の業を〕行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
 ▲ (ヨハネによる福音書 / 14章 10-11 )~~~~~
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうして 子の父も 父の子も 父と子とから発出する聖霊も すべてそれぞれ互いにひとしく 個は全体と 全体は個と やはりそれぞれ互いにひとしい。

 ★ 三位一体説、これはなんか苦しい理論体系のように思えてならないのですよ、僕には。
 ☆ これについて 補足欄にておぎないますから どうぞ。


 ★ そもそも、〈キリスト〉という言葉が何を意味しているのか、これ自体が極めて曖昧ですから。
 ☆ イエスにひとしいものとしては ねこさんがお認めになっていない例の《非経験の場》のことです。

 ★ そもそもは、単なる人間世界の、地上権力としての王の意味かもしれませんし…
 ☆ サウルでしたか以下の王に油がそそがれたということですから そのとおりですよね。《神の子にして神》なるキリストという意味は あたらしく造ったことになりましょう。

 ★ 後世の人間が、キリスト教の教義確立の過程で、本来、聖書にはなかった新たな意味が、この〈キリスト〉という言葉に与えられた可能性も否定できませんし…
 ☆ これは あたらしい意味付けを別にすれば まづないでしょう。上に引いたマタイやヨハネのくだりだけでも じゅうぶん三位格の一体を言おうとしていましょう。《ことばが 肉(=人間=つまり 身と心)になった》。

 ★ 〈キリスト〉という夾雑物、いらないんじゃないでしょうかねぇ~。イエスで十分だと、個人的には考えるのですが。
 ☆ 補足欄の図示を参照くださいませ。





 ★ ~~~~
 報身(ほうじん)の他受用身というのは、
 十地の菩薩でないと、その姿を見たり、その言葉を聞いたりはできないのだそうです。
 ~~~~~~~
 ☆ たとえば:
 ▲ (ハバクク書2:4) ~~~~
 ○ たかめられたるわがたましいも ああ ただしからず。きよき人びとは しんじることによって生きる。

 ○ (新共同訳) 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

 ○ (口語訳) 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《信仰= 非思考の庭》が稼働し始めたなら 十地も 何て言いましたかね 理即も名字即も無知即(?)も関係ありません。《非行非善》です。修行で一定の地位に行けたからどう 行けなかったからこうといった思考法も理論もありません。《ハカラヒ無き》です。
 報身が見えなくったってかまいません。いまは鏡に映ったおぼろな姿を見て 信じるによって あゆみます。神直視は かなわなくてかまいません。むしろ 無理です 生身では。
 ある人には 異言を言う能力が ある人には預言するチカラが ある人には・・・というような多様性の姿でいいぢゃないですか。



 ★ 客観
 ☆ は 実際にはありません。主観の内なる認識のあり方を言うのみです。具体的な何らかの主観が人びととのあいだに共同性を持つとき 或る程度の客観だと見なされます。

 主観の内に《非思考の庭》が成ったときには たしかに
 ★ 直観の問題
 ☆ になると思います。ヒラメキです。直感および直観です。それは 非思考の庭に生じます。 
 そのあと コギト=思考の緑野あるいは密林ないし感性の田園または知性の都会・・・。



 

投稿日時 - 2012-09-01 16:47:14

ANo.63

教儀・教祖は特定の宗教へのログインパスワードなのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7674521.html

投稿日時 - 2012-09-01 10:21:56

お礼

 つづきです。

 ★ 宗教
 ☆ は どうでもよいものです。
 その意味をきちんと表わすために言えば くそくらえです。

投稿日時 - 2012-09-01 15:34:07

ANo.62

『無教儀の庭園』なのですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2%E6%B3%A8%E6%84%8F%E5%A0%B1

投稿日時 - 2012-08-31 23:30:31

お礼

ご回答をいただきました。

 ★ 無教儀
 ☆ ではありません。

 教義がある・ないというのは あくまで思考の緑野という次元です。
 オシエも 思考の対象ですし それがある場合も ない場合も 経験世界での出来ごとです。

 ところが 《非思考の庭》は 思考に非ずです。強いて言えば ヒラメキです。


 〔非経験の場=〕非思考の庭―――思考の緑野・感性の田園・知性の都会・・・

投稿日時 - 2012-09-01 01:38:02

ANo.61

非思考の庭では、個人情報から解放され続け得るのですね。
http://okwave.jp/qa/q7672857.html
http://www.atmarkit.co.jp/fwin2k/network/baswinlan022/baswinlan022_01.html

投稿日時 - 2012-08-31 09:29:08

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ちがいます。
 ○ 非思考の庭つまりわが内なる心と 精神の緑野(および密林)とも言うべき思考の分野(あるいは要するにそこから外に出て社会なる平原)とは 場がちがいます。

 ★ 個人情報から解放され
 ☆ るというのは 自分の個人情報が他者に知られないで守られるという意味でしょうか? それだとしますと そのことと(つまり 思考の緑野の次元)と わが心なる《非思考の庭》とは 《わたし》というにんげん存在においてつながっていますが 次元は別です。

 非思考の庭は 思考に非ずなのですから その庭においてたとえば《個人情報が守られる》といった思考次元の事柄は――つながっている・もしくは連絡がとれるようになっていましょうが―― やはり別です。意志ないしその行為として 別です。



 早い話が 非思考の庭における祈りと願いが 思考の緑野かつ行動の分野で叶ったというばあいがあるとします。
 そういうときには すでに《非思考の庭》がわが心に成っているということそのことを ありがたいと思っていればよいのだと考えます。
 そのめぐみが まわりのほかの人びとにもあまねく泉のごとく湧いてくるようにと祈りましょう。

投稿日時 - 2012-08-31 10:46:18

ANo.60

教儀の内容を思考して振る舞う段階に執着していますと、
無量寿光のウォーターサーバーからの水を活用し難くなるのですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9E%9A%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87

投稿日時 - 2012-08-30 11:22:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 No.53お礼欄に掲げました《ヒラメキの位置づけ または ロゴスの階層》 これをごらんください。
 というのも

   非経験の場・・・《わたし》:非思考の庭 / ヒラメキ / コギト(思考の緑野)

 この或る意味で言えば階層秩序は なかなか微妙な連絡関係になっていると考えられるからです。把握しがたいところがあるかも知れません。

 ★ 教儀の内容を思考して振る舞う段階
 ☆ これは あきからに《コギト:思考の緑野》であり またその野原かつ密林かつ田園かつ都会における社会生活を言います。オシエがコギトの段階なのは あきらかです。

 ★ 無量寿光のウォーターサーバー
 ☆ 無量寿光は 《非経験の場》のことです。それを言い換えたものです。
 その要するに神が 《ヲータサーバ》であると見ることも出来ましょうし あるいはいわゆる《霊(聖霊なる神)》として そのサーバからすでに《人間なるわたし》のところに来ている(やどっている)という見方も出来るかも知れません。

 ★ ウォーターサーバーからの水を活用
 ☆ これは 祈りと願いとともに ただしげんみつに言えば あくまでサーバのほうからの《めぐみ》としてもたらされるものです。
 学問や思いやりとしての光ないし水は にんげんの能力と努力とでもたらされ得ますが みづからがともしびとなり 泉となることは にんげんのチカラでは無理だと捉えられます。(そのわけは これも 無根拠です。無根拠において そう捉えます)。
 (言いかえると 赤子の《聖なるアマエ》であったり 成人してからの《立ち帰り》としての《きよらかなおそれ》であったりするものです。つまり 《非思考の庭》なる動態のことです)。

 しかも《その水を活用する》ことは すでに《思考の緑野(密林・野原・田園・都会)》という段階ないし舞台におけることがらです。 



 ▲ (ヰキぺ:一枚起請文) ~~~~~~

 唐土(もろこし)我朝(わがちょう)に
 ( a ) もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
 又
 ( b ) 学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

 ( c ) ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この法然の文章に沿って考えるなら ( a )の《智恵あるいは愛情や思いやり》や( b )の《学問ないし科学の成果》は にんげんの能力と努力のたまものです。
 法然が 念仏はそうではないと言っていることは たしかに
 ★ 教儀の内容を思考して振る舞う段階に執着してい
 ☆ ることではないと言ったかたちです。


 そうして あとは法然と親鸞との違いがあります。
 法然は ( c )のように《念仏をして極楽往生する。つまり念仏をつうじてあたかもヲータサーバからの水をあたえられる》と言ったかたちのようですが 親鸞は まるきり違います。

 称名念仏は 《非行非善なり》と言います。
 行に非ず。すなわち 念仏行をつうじて往生するのだとは見ないと言います。
 善に非ず。すなわち 善行をおこなうことによって極楽の水が このいま・ここなる《わたし》に湧き出るのだとも言わない。

 それは 《ハカラヒ無き》ことでなくてはいけないとも言いますし 言ってみれば アミターバは無根拠だと言ったことになります。

 無根拠に 聖なるアマエをいだく。無根拠に対して きよらかなおそれを持つ。そのとき 口をついて アミターバへの帰命(南無)のことが出て来ると。それだけのことだと。
 つまりは 《非思考の庭》なる動態なのだと捉えられます。

投稿日時 - 2012-08-30 12:02:20

ANo.59

『無宗教だ』と語って特定の団体への所属を否定し乍も、
我々日本人達の多くは東洋医学的なエネルギーの存在を受け入れていますので、
安易に基督教等への入信を訴えたがる民族よりも我々日本人の方が、
遥かに『非経験の庭』に触れ合えているのでしょうね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1335597103

投稿日時 - 2012-08-30 08:46:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 我々日本人の方が、遥かに『非経験の庭』に触れ合えているのでしょうね。
 ☆ ひとつに 民族ごとに分けて 信仰のあり方について判断をくだすのは――わたしも趣旨説明の(β)の最後のところでそれらしきことをやっていますが―― 慎重でなくてはならないと考えます。

 ひとつに 《非経験の場》をわが心に受け容れたとき成る《非思考の庭》は あくまで個人ごとの出来ごとであり 主観の問題です。これが 信仰です。

 ひとつに (β)の最後で
 ☆☆(趣旨説明欄) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。
 ☆ と言っているのは 《唯一神についての信仰》が 文章化されたオシエとして受け取られそれによって取って代わられ挙句の果てに《観念の神を思い描く信念や信条 そしてそれによって展開される文化や教養》となってしまっている状態と情況としては 日本人の社会ではそれほどつよくない。この事由によります。

 これら三つのことがらについてぎゃくの角度から言えば 心が《非経験の場》にしづかに・はげしく接しているのは 誰でも同じです。例外はありません。あとは その人と《とき》とによります。


 ★ 基督教
 ☆ これが 非思考の庭としての信仰ではなく オシエとしての宗教であり信念・文化・教養のたぐいのことです。

投稿日時 - 2012-08-30 09:42:29

ANo.58

勿論乍ら、55の野蛮な個人主義は西洋人達の精神的態度を指しています。

つまり、特定の教儀に個人主義が同調しますと、『ルサンチマン』型の排除が…。

http://okwave.jp/qa/q7668799.html

投稿日時 - 2012-08-29 23:56:49

お礼

 ご投稿をありがとうございます。

 西洋は 西欧とアメリカとを分けて 或る程度考えを述べたおぼえがありますが。

投稿日時 - 2012-08-30 07:44:00

ANo.57

#53の投稿は#50の内容への解説ですが、
引用先のページの意味を理解なさっていますか?
(動作主の行為が及ぶ相手への…)

投稿日時 - 2012-08-29 10:34:36

お礼

 そのようにおっしゃるということは わたしの理解が そちらの理解どおりには到っていないということなのでしょう。

 ですから わたしは自分の見解を述べています。
 それについての批判は と言いますか つねにわたしは批判に開かれています。批判を受けるためにこそ こうして設問しているのですから。
 理解が行き届かないのは 致し方ありません。
 その労を取ってくださるかどうかだと思います。

投稿日時 - 2012-08-29 10:41:20

ANo.56

お礼

 われわれ――というのは 誰を言うのかを措いておきますが――は この世の屑でありゴミですよ。

 その程度に笑いものになることくらいでは おどろきません。

 この世の不平や不満に苦悩や揉め事 これらをいだいた人びとの意識による排泄をすべてアース役となり再生処理工場となって処理しています。
 イエスの下請けですけれどね。

投稿日時 - 2012-08-29 10:23:44

ANo.55

組織への依存が無自覚の裡に其処への責任転嫁を促し得ますので、
野蛮な個人主義が蔓延り、。
http://ja.wikipedia.org/wiki/MARS%E6%8A%95%E8%B3%87

因みに、出馬予定は?

投稿日時 - 2012-08-29 08:29:47

お礼

 つづきです。

 ★ 野蛮な個人主義
 ☆ これについては 直接に《イエスが なぜキリストか》の問いとはかかわりません。


 それと 日本人のあいだでは 《個人ないし個人主義》は――ないとは見ませんが―― きわめてまれだと考えす。
 およそたとえば神輿の上に載せられ担がれるかたちで その神輿の上のひとりの個人が やがてワンマンぶりを発揮すれば 《野蛮な個人主義》に見えるというほどのことでしょう。

 われわれは 三度の飯よりも 群れたがります。

 群れによる出馬はありません。

投稿日時 - 2012-08-29 10:17:22

ANo.54

宗教団体への加入に限らず、何らかの組織への依存が心の支えになっている、
という錯覚を覚えますと、他者達にも其の感覚を共有してほしくなりやすくて、
其のせいで、不毛な派閥化が…。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BE%E9%96%A5
http://www.youtube.com/watch?v=42mEPHh0__s

投稿日時 - 2012-08-29 07:05:14

お礼

 つづきます。

 そうですね。わたしの考えでは 組織を 宗教組織とそうでないものとのふたつに明確に分けます。
 宗教組織は あくまで個人の良心・信教の自由として成り立っているものであるにもかかわらずその意志ないし心をも基礎として 人が複数あつまります。つまり信仰の度合いが そこに参加する人びとの評価の基準にさえされてしまいます。

 そうされても 内面がどうにかなるわけではないのですが――精神が 外からのまた他者からのチカラによってどうにかされてしまうということは ほんとうにはないのですが ただし社会的な位置づけやら身分関係やらとして外形的には大いに影響を受けざるを得なくなります―― けっきょく良心・信教の自由を踏みにじるおそれが出て来ます。
 その問題を問うています。

 言いかえると 宗教組織におけるヒエラルキアから来る動きづらさやそこでの派閥関係と そうではない一般の組織における派閥の力学とは 基本的に違う。こう考えます。後者の場合には 表現の自由にもとづき 互いに意見をたたかわせればよいと――理論上は―― 考えられます。

投稿日時 - 2012-08-29 10:12:53

ANo.53

http://homepage3.nifty.com/bunpou/keigoC.htm

自然を非経験のサーバーだと考えますと、
関わり方の点で、アクティブモードとパッシブモードとの切り替えが…。

http://ja.wikipedia.org/wiki/File_Transfer_Protocol

投稿日時 - 2012-08-29 06:46:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ 敬語マスター編  そのI  「謙譲語」と「尊敬語」と「丁寧語」について
 ☆ から たとえば次の語を取り上げ その起源について分析してみます。

 ○ 謙譲語:まかる :[意味](退出する・参上する);[ふつう語] 出づ・去る・行く

 (1) この語は まづ 次の語と語根を同じくすると言われます。

 ○ まか‐す(任す);まか‐る(罷る);まけ(任け)

 例文:大君のまけ(任け)のまにまに ひなさかる国治めにと・・・(万葉集3291)

 ☆ これは《任命〔する〕》の意味です。
 
 (2) ここからは 推測をまじえます。韓国語に 次の語があります。
 
 ○ 맡기다( math-gi-da マッキダ):任せる

 ☆ 語尾の‐ダは 英語の to 不定詞のようなものですから マッキが語幹です。どうもこれが借用されて《まかる》などが造られたのではないかという憶測です。
 憶測が間違いであっても構わないという前提で取り上げているのですが その意味は 尊敬語であろうと謙譲語であろうと もともと語じたいに 表敬の意味などはない。これを確認するためのひとつの分析になります。

 (3) マッキダは じつは つぎの語から派生しています。

 ○ 맡다( math-da マッタ):引き受ける。

 つまり マッキダは 《引き受けさせる》という意味での派生語です。
 それはそれとして マッキダのマッキから 《まけ・まかす・まかる》が借用しつつ造られた。のではないかという妄想です。

 (4) だいたい 語末の母音は ‐イで安定するのが 日本語ですが 不定法(不定として捉える気分)としては ‐ア か ‐オ( ö )です。
 ですから マッキから マカが想定され そこから 人為・使役相としては マカ‐スが造られ 自然生成の相としては マカ‐ルが得られた。マケ(任け)は 

 ○ maka-i > makä > make まけ

 という生成です。〔 haka 捗(ハカがゆく・ハカ取る・ハカ‐る(測る)のハカ) > haka-i > hake はけ(水はけのハケ)〕



 (5) つまりどういうことか?
 
 ○ まか‐す:引き受けさせる;相手の自由な意志による行為や現象にゆだねる。
 ○ まか‐る:引き受けさせられたこと・命じられたことをする(相手の自由な意志を尊重しているかたち)

 と表現したいのであって そしてそれらが社会の現実の身分関係に沿って用いられたに過ぎないのであって そこで表敬やら謙譲の意味合いが出るというのは 言葉そのものにはない。社会的なニンゲン関係という文脈から出て来るに過ぎない。

 こういうことだと考えます。
 
 (6) もうひとつたとえば

 ○ (謙譲語)聞こゆ・聞こえさす: [意味](申し上げる);[ふつう語] 言ふ

 にしても 《聞こえるかたちをとる。聞こえるように言う》と表わしているだけであって その言葉じたいに上下関係や尊敬もヘリクダリもない。と言わねばなりません。
 
 (7) 社会の情況に合わせて言葉の表現を変えて用いるというのは 宣言と言わずマニフェストと言い 討論ではなくディベートであったり お話会はトークショーであったりとなります。今では身分関係が薄いのですから 敬語表現という意味合いも薄いものです。言葉じたいに 表敬の意味合いが濃かったり薄かったりする中身はありません。


     *


 ★ ~~~~~
 自然を非経験のサーバーだと考えますと、
 関わり方の点で、アクティブモードとパッシブモードとの切り替えが…。
 ~~~~~~~
 ☆ 《非経験の場》と人間もしくは社会のこととのあいだには わが心なる《非思考の庭》を介在させて捉える必要があります。
 非思考の庭と コギト(つまり思考です)とのあいだには ヒラメキ(直感および直観)を介在させます。
 ですから 《サーバ》だとしても 直接に関わるとは捉えないほうがよいと考えます。




 ○ ヒラメキの位置づけ(ロゴスの階層 または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか) ~~~~~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に
        もとづこうとする論理

 
   * ~~~~~~~~~~~
   ・ロゴス:ことば
   ・スピリトゥス:霊。聖霊
   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)
   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば
   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。
    〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕
   ・ラチオ( ratio ):理性
    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕
   ~~~~~~~~~~~~~~
   
  ~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-08-29 10:01:45

ANo.52

#50の続きです。

敬いの気持ちが添えられているのか否かを申し上げているのは御座いませんでして、
あくまでも『(入門の)国文法』の技術論を展開させていますが、
まさか本当に御存知ではいらっしゃらないのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-28 11:29:35

お礼

 つづきです。

 ★ 『(入門の)国文法』の技術論
 ☆ 知りませんが 問題は ウヤマヒという存在論かつコミュニケーション論としての哲学にあります。と申しています。
 焦点のおき方が 違うかと考えます。

投稿日時 - 2012-08-28 20:20:31

ANo.51

一度、別の要素を加えまして、伺います。

『エランビタール』の仕組みは、
『(非経験の場からの)水』に支えられてきたのでしょうか?

http://www1.vecceed.ne.jp/~te1518/hon3.htm
http://goonsh.ddo.jp/fg/2004/06/24/elan-vital
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20051128

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B2

投稿日時 - 2012-08-28 10:51:33

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ ~~~~
 閑老人のつぶやき 本について3
 I 上田閑照『エックハルト 異端と正統の間で』
 ~~~~~

 ☆ この内容に異をとなえます。

 神との合一だとか一たん神を去るとか そういったことは 概念操作である。と考えます。
 非経験の場ないしそれを受け容れたわが心なる非思考の場 ここで概念操作があるとは考えられません。
 
 別様にこの反論内容を説明しようと思えば:
 合一だと思っていなくても 神は手を差し伸べているかも分かりませんし 神を去ったと人間が思ったからと言って 神が遠ざかったとか近づいたとか言うのは ただのうわべのことだと見ます。

 にんげんは 自由意志をあたえられたその意味での主体ですが それを成り立たせる根拠は 神であり その神はじつは 無根拠です。人間から見れば 無根拠です。
 
 エックハルトないし上田閑照ないし《閑老人》の観想もしくは思索は 非思考の庭であそびをしているのかも知れません。つまり いい意味でもそうであるかも知れないとともに あまりいい意味だとは思われない観念のあそびであるかも知れません。




 ★ ~~~~
 『エランビタール』の仕組みは、
 『(非経験の場からの)水』に支えられてきたのでしょうか?
 ~~~~~
 ☆ エラン・ヰタルというのは――推測ですが―― 『(非経験の場からの)水』のあり方を捉えて そのまま名づけているかたちであるように思います。 
 ただし 生物学的な内容がおもなもののようで 生命のチカラを言っていましょうか?

 《泉に湧き出る水》は 生物学的なチカラをふくみ それを超えたチカラをも言っていますから ふつうは――何とも正体が分からないゆえ――《霊》と呼んでいます。つまり 無根拠のことです。

投稿日時 - 2012-08-28 20:32:31

ANo.50

『動作主の行為が及ぼす相手達への表敬』の表現は大学入試へも出題される程度の内容に留まっていますが、本当にそれを御存知でいらっしゃらないのでしょうか?

非常に博識でいらっしゃる様ですので、
殊更に常識を紹介する回答を提出させて頂きますと、寧ろかえって失礼に当たるのではないか、
と私には思われましたから、遠回しの表現で十分条件が満たされ得るだろう、
と考えておりますが、『自敬表現』の様な解説が必要なのでしょうか?

因みに、其の発想は通信等の各Protocolの策定にも役立ってきました。

投稿日時 - 2012-08-28 06:54:45

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 『動作主の行為が及ぼす相手達への表敬』の表現
 ☆ 表敬表現がなくても――人と人とのあいだにウヤマヒ関係があれば―― かまわないという考えです。

 ( a ) 動作主=話し手。その動作をこうむる人=聞き手のばあい。

  ( a-1 ) わたしは あなたを見た。
  
 ( b ) 動作主=話し手。動作をこうむる人=第三者。

  ( b-1 ) わたしは かれを見た。
  ( b-2 ) わたしは 天皇を見た。
  ( b-3 ) わたしは あなたの父親を見た。

 ( c ) 動作主=聞き手。動作をこうむる人=話し手。
 
  ( c-1 ) あなたは わたしを見た。

 ( d ) 動作主=聞き手。動作をこうむる人=第三者。
 
  ( d-1 ) あなたは かのじょを見た。
  ( d-2 ) あなたは 天皇を見た。
  ( d-3 ) あなたは わたしの母親を見た。

 ( e ) 動作主=第三者。動作をこうむる人=話し手。

  ( e-1 ) かれは わたしを見た。
  ( e-2 ) 天皇は わたしを見た。 
  ( e-3 ) あなたの親は わたしを見た。

 ( f ) 動作主=第三者。動作をこうむる人=聞き手。

  ( f-1 ) かのじょは あなたを見た。
 
 ( g ) 動作主=第三者。動作をこうむる人=別の第三者。

  ( g-1 ) かれは かのじょを見た。
  ( g-2 ) 天皇は 皇后を見た。
  ( g-3 ) あなたの親は わたしの親を見た。



 ★ 通信等の各Protocolの策定
 ☆ は哲学以後の問題だと見ます。

投稿日時 - 2012-08-28 10:42:43

ANo.49

『(内大臣が夕霧を)あなづり聞こえ給ふ』という表現が源氏物語に御座いますが、…!?

投稿日時 - 2012-08-27 21:22:19

お礼

 直前No.48のお礼欄と同じお応えです。

投稿日時 - 2012-08-27 21:28:05

ANo.48

自己受け手形の様な自敬
http://boki2s.seesaa.net/article/31101257.html

投稿日時 - 2012-08-27 12:12:45

お礼

 敬語表現――すなわち 相手を高める尊敬語および自分を低める謙譲語―― これはあくまでこの世の身分関係に沿ってその事実関係に合わせて表現しているのみです。
 
 やはり人間関係としてはその表層の心理について気を配るのみの話です。
 言ってみれば ウヤマヒの振りをしていれば済むという思想です。
 その意味での敬語表現は シガラミにわざわざ自分からどっぷりとつかって行こうという《自己犠牲》の精神に発しているのでしょう。
 《見上げた》行為なのでしょう。



 身の周りの者から尊敬語によってものを言われることをつねとする身分の上の者が そのように尊敬語表現を相手にうながすためのようにしてさらに自敬表現を用いるまでに到るのは 謙譲語に輪をかけるようにして自分を貶めさらに謙譲語をつけ加えて相手におもねることと同じように 笑止千万なことです。

投稿日時 - 2012-08-27 14:54:48

ANo.47

御互いの意見の尊重は尊厳を…。

投稿日時 - 2012-08-27 11:52:09

お礼

 だれがいつどこで相手の意見をないがしろにしましたか?

投稿日時 - 2012-08-27 14:46:04

ANo.46

尊崇対象への尊敬は適切なのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-27 11:38:39

お礼

 ★ 尊崇
 ☆ という言葉は ほとんど哲学的内容を持つとは考えません。

 ただすがりよることに過ぎないと考えます。
 心の動きではあっても ただ表層の心理に過ぎないという意味です。
 意志行為として内実を持たない。こういう意味です。

投稿日時 - 2012-08-27 14:45:24

ANo.45

たとえ別の文を添えませんでしても、日本語では#41の内容を『非常に』簡単に…。

投稿日時 - 2012-08-27 11:29:22

お礼

 と言うよりも 内容がよくつかめません。

 判じ物を回答とするのは いかがなものでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-27 14:42:50

ANo.44

盛況ですね。

こんなページを見付けました。
http://okwave.jp/qa/q3019521.html
(5番の回答を御覧になって下さいませ。)

投稿日時 - 2012-08-27 08:34:56

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ (【Q:尊敬とリスペクト】回答No.5) ~~~~
 3.尊敬(日)とリスペクト(英)の違い:

 (1)
 尊敬(日):話し手と聞き手の間に、身分、位置の上下関係が自然に発生する。
 リスペクト(英):話し手と聞き手の間に、身分、位置の上下関係はなく、あくまで対等。

 尊敬(日):「尊敬する」は人を目的語にとる他動詞で、物を「尊敬する」とは言わない。
 リスペクト(英):「リスペクト」は人も物も目的語にとる他動詞で、物、例えば人の考えなどを「リスペクトする」と言うことができる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 二点 反論します。

 (あ) ▲ 尊敬(日):「尊敬する」は人を目的語にとる他動詞で、物を「尊敬する」とは言わない。
 ☆ 漢語の《尊敬》はそのような意味合いで遣われるようですが では《ウヤマヒ》はどうかという主題が欠けていると思われます。

 ◆(大野晋・古語辞典) ~~~~
  うやまひ〔敬ひ〕
   [語源] ウヤ(礼)マヒ(舞)の意か。マヒは フルマヒ・タチマヒのマヒに同じ。
   [語義] 敬意を表わす動作をする。
   [文例] ・阿闍梨も大威徳を――・ひて (紫式部日記)
       ・仏法を崇(うやま)ふ (大唐西域記三・長寛点)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 《文例》から見れば 《大威徳》は ほぼその人のことを言っているようですが 《仏法》については 《人》ではないものを目的語に取っています。
 ですから 借用語としての《尊敬する》だけをしらべただけでは 全体像を捉え得たとは言えないでしょう。

 (い) ▲ 尊敬(日):話し手と聞き手の間に、身分、位置の上下関係が自然に発生する。
 ☆ 《自然に発生する》ことと その発生する前の状態について考えることとは ふたつの別のことです。
 哲学は 両方をあつかいます。

 《マナザシを上からそそぐ側とそれをそそがれる側とに分かれる》というのは なるほど自然本性の意志行為によって発生します。
 その自然本性の意志行為の以前は どうか? いえいえ そうではなく同じ意志行為において その自然本性の内容として 《マナザシを同じ高さにおいて見る》という意志行為はないのか? この問いがまだなお考慮されていません。

 言いかえると こうです。
 世の中は すでに社会が出来ていて歴史を経て来ているならば すでに広い意味でのシガラミがそこかしこに出来ています。このシガラミに沿って人は そのそそぐマナザシを決めていると言えます。たいていは そうだという意味です。
 ということは 《同じ高さにおいてマナザシをたもつ》人間は どうするか? 上からそそがれたとき どうするか?
 その人の人格をとうとび にわかにはその意志行為のマチガイを指摘することもないでしょう。ただし そのマナザシを同じ高さにたもとうとするし――その心つもりを絶やさないでいましょうし―― とりわけ自分のマナザシについては やはり同じ高さであるようつねに意識して 相手を見る。こうだと言えましょう。



 つまり これら(あ)(い)の見解から 《自由で対等なウヤマヒ表現》が――例としては レル・ラレルのように―― あり得たし 成り立っていると考えます。
 成り立っているのは 潜在的にと言ったほうがよいかも知れません。
 ということは 敬語表現の中で《相手を高める尊敬語 および 自分を低める謙譲語》のナラワシを 上層として その下層には 《同じ高さのマナザシを持ってのウヤマヒ表現》がのぞみにおいていとなまれている。
 こういうことではないでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-27 09:47:22

ANo.43

お礼

 つづきます。

 ★ 教祖無しの組織管理は…?
 ☆ ムラムラ(市町村)に祭りは 或る種の仕方で 人びとの信仰共同体です。強いて言えば 神道です。
 そこに《教祖》はありません。

 ただし ムラムラの神社は その昔 国家が出来たときから ヒエラルキアの中に組み込まれその位置づけが出来ています。その最高位の司祭は 天皇であるのでしょうか。

 と考え始めましたが これは 実際の事態を知らないで述べてもつまらないことになりますから やめます。理論の問題ではないと思いますから。
 現在の神社組織がどうなっているのか。という課題になりましょうか。


 イスラームも 《教祖無し》ですよね。
 ムハンマドは 預言者でしかないのですから。

投稿日時 - 2012-08-27 10:02:25

ANo.42

日本語の連文節が中心の流動化を…。

投稿日時 - 2012-08-27 00:13:01

お礼

 つづきます。

 ★ 日本語の連文節が中心の流動化を…。
 ☆ うながす ですか?

 たぶんそれは 大勢に影響はないと考えます。
 主題が提示されるということは 《中心主題》が明確に示されるということです。
 その中心主題 つまりあくまでひとつの中心主題に いかに多くの連文節がついても 同じことでしょうから。

投稿日時 - 2012-08-27 09:55:51

ANo.41

動作主の行為が及ぶ相手達への間接…。

目の付け所が◎ャ~プでしょう。
http://okwave.jp/qa/q7665290.html

投稿日時 - 2012-08-27 00:02:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 動作主の行為が及ぶ相手達への間接…。
 ☆ 的な敬意表現 でしょうか?

 基本的に言えば 文を別に添えればよいと考えます。
 その《相手達》について 自分はどう思っているかを 別文にて説明すればよいと考えます。
 同じ文の中で 体言なら別のかたちで表わすとか用言ならそこに敬語法の補充をおこなうとか そういう形態は おそらく上層ないし表層における敬意表現に過ぎない。こう考えるという意味です。

 わざわざシガラミを 鋼鉄の鳥かごに代え補強するようなものです。

投稿日時 - 2012-08-27 09:53:00

ANo.40

http://okwave.jp/qa/q7660782.html
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20090810/335476/
『のれん』と暖簾

投稿日時 - 2012-08-26 12:46:20

お礼

 ▲ 命が2つあった場合、その価値は大きく変化しますか?
 ☆ これもわたしには どこから切り込んで行けばよいのか。分かりづらいところを どう尋ね返せばよいのか。が分からないでいます。 
 この主題は それほど関心を引きませんというのも ほんとうですが。

投稿日時 - 2012-08-26 14:13:40

ANo.39

和風? http://okwave.jp/qa/q7662731.html

投稿日時 - 2012-08-26 12:26:39

お礼

 ▲ 自信のない自分
 ☆ 《和風》かどうか?
 いづれにしましても その趣旨説明がいまひとつよく飲み込めません。

 一方では なんら心配することなく問題などないと見られますし 他方では それでもどこか愚図っているところがあるのかなとも思われます。

 そこを尋ねる場合もありますが いまなかなか はっきりしません わたしには。様子見です。(どうするかも分かりませんが)。

投稿日時 - 2012-08-26 14:11:14

ANo.38

古代日本の庶民は為政者陣営に降参したのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-26 12:21:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづおことわりしなければならないことは 文献のない時代のことで 歴史学もお手上げだということです。
 記紀(古事記・日本書紀)等々の――単なる神話でしかない文章をふくむ――資料をもとに自分の歴史物語をえがくというかたちになります。

 基本は 《くにゆづり》をした これです。

 ふたつの説明を用意します。


     *

 縄文人から弥生人へそして古墳時代人へと推移する日本人の《心性ないし知性》を次のように捉えます。

 -1 :原始心性= 《ヨリ(憑り)》:世界への寄り憑き
          (アニミスム&シャ​ーマニスム)
  0 :歴史知性= 《イリ(入り)》:世界への入り
 +1 :超歴史知性= 《ヨセ(寄せ)》:世界を寄せる。《ヨリ》を束ね
      依らしめ​ 《イリ》をも社会力学上(政治的に)寄せる。

 原始心性は 非情のごとく言えば 歴史知性以前です。イリは ふつうの社会人です。
 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では な​ぜ 最後にヨセが出て来たのか。ここでは これ(ヨセなるスーパー歴史知性)は 要ら​ぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と​言ったりします)。これはまた 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる​原始心性におけるアニミスム自然本性の要素を備えている​でしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでし​ょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科​学的な――心性として いわゆる信仰(非思考)をも持っ​ています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだこと​でしょう。

 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》​なる人間類型が出ました。



 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性​は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(​村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 神と​の共食を持ちます。つまり 穀物の収穫に感謝し供え物を​して 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り​・祭り)》です。どんちゃん騒ぎもおこないます。

 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうの​イリ歴史知性を超えたと言わんばかりの精神において) 《まつり​ごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは​ 個人の信仰を束ねる集団としての宗教であり政治です。

 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナ​ガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき​。
  
 西暦四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州​のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来​ます。

 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせ​ます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史​知性なる有限で時間的な存在としての自覚を持ったあとだというこ​とです。かくて 《ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性》で​ 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ​子かも知れません。



 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びと(​アニミストの)と同じ地平に立っていたところがあります​が このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったよ​うです。
 嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづから上​がって行ったのか それとも人びとが その新型シャーマ​ンに辟易してこれを敬遠し 人びとの合意で これを社会​の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも​推し測られます。(《国譲り》説は 後者です。社会が ​二階建てになりました。アマアガリが完成しました)。
 要するにここに 神の代理が 出現しました。ムラムラにおける見えな​い神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との​共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。 


     *


 西欧近代における社会契約説にあっては

 ○ 人は人に対して狼である( Homo homini lupus. ) / 万人の万人に対する戦い( bellum omni contra omnes )

 という命題がかかげられました。土地を囲っておれのものだと宣言したら その所有が決まる。けれども あとは・そのあとでも 奪い取ればよいというような考え方だと思います。

 これを《主戦論》の思想として規定し それに対してわが国では そもそもの二階建て構造の国家が打ち建てられるときには そうではなく《非戦論》としての《くにゆづり》をとおしてであったと仮説しています。これをめぐって歴史が問い求められています。

 ちなみに主戦論も非戦論も どちらも人びとの自由を社会的に実現するためには 人は弱いものであるというその人間の能力の限界がからんでいるであろうと見ています。どちらも同じ人間の弱さから来る思想であれば 人殺しをしなくて済む非戦論を取ろうという考え方が その昔の日本人にはあったのではないか。この問題です。

 二階建て構造が《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の連関から成るという仮説も 公民・市民の規定は ふつうの経験科学のものだという反面で アマテラス・スサノヲは明らかに神話にのっとっており 歴史事実であるかどうかも分からない事柄ではあります。

 そしてその神話に関する限りで 両者は 実の姉と弟であり それぞれのクニ(市民社会)のあいだに主導権の争いが起こったのも そのとおりであるようです。そこでスサノヲ共同体は 非戦論により国ゆづりをおこなったとも書かれています。

 国ゆづりをするに到るまでの経過は 要するに《アマテラスの国に従え》という服属の要求があったということです。たとえば 次のように全権大使もしくは軍隊が何回かに分けてやって来ました:

    ~~~

 タカマノハラ(=アマテラス国)に神(かむ)留まりまして 事始めたまひし神ろき・神ろみのミコトもちて 天の高市に八百万の神たちを神集(つど)へ集へたまひ 神議(はか)り議りたまひて 

   我が〔* アマテラスの〕皇御孫(すめみま)のミコトは 〔* スサノ
  ヲの〕トヨアシハラのミヅホの国を 安国と平らけく知ろしめせ(統治せ 
  よ)

 と 天の磐座(いはくら)放れて 天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて アマクダシ寄さしまつりし時に 

   誰(いづ)れの神をまづ遣はさば ミヅホの国の荒ぶる神どもを神攘
  (かむはら)へ攘(はら)ひ平(む)けむ

 と 神議り議りたまふ時に もろもろの神たち皆量(はか)り申さく

   〔* 第一の使い:アメノホヒのミコト〕
   アメノホヒのミコトを遣はして平(む)けむ

 と申しき。
 ここをもちてアマクダし遣はす時に この神は返り言申さざりき。

   〔* 第二の使い:タケミクマのミコト〕
 次に遣はししタケミクマのミコトも 父の事に随ひて返り言申さず。

   〔* 第三の使い:アメノワカヒコ〕
 また遣はししアメノワカヒコも返り言申さずて 高つ鳥の殃(わざわひ)によりて 立ちどころに身亡(う)せにき。

   〔* 第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト〕
 ここをもちて天つ神のミコトをもちて また量りたまひて フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト二柱(ふたはしら)の神たちをアマクダしたまひて 荒ぶる神どもを神攘ひ攘ひたまひ 神和(やは)し和したまひて こと問ひし磐ね樹(こ)の立ち・草の片葉も語(こと)止めて 皇御孫のミコトをアマクダし寄さしまつりき。



  かくアマクダし寄さしまつりし四方(よも)の国中(くぬち)と 大倭(おほやまと)日高見の国を安国と定めまつりて 下(しも)つ磐ねに宮柱(みやばしら)太(ふと)敷き立て タカマノハラに千木(ちぎ)高知りて 天の御蔭・日の御蔭を仕へまつりて 安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫のミコトの 天の御舎(みあらか)の内に坐(ま)す皇神(すめがみ)たちは 

  荒(すさ)びたまひ健(たけ)びたまふ事なくして 

 タカマノハラに始めし事を神ながらも知ろしめして 神直び・大直びに直したまひて この地(ところ)よりは 四方を見はるかす山川の清き地に遷(うつ)り出でまして 

  吾が地と領(うしは)き(おさめること)ませ

 と たてまつる・・・
   (《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》――《祝詞(のりと)》)
 
    ~~~

 ☆ 古事記には《第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト》が スサノヲ側と腕相撲をしたとも書いています。
 スサノヲ側は すでにオホクニヌシの代になっていて オホクニヌシは ふたりの息子と相談すると答えたあと ひとりはじつは主戦論をとなえ たたかい諏訪にまで逃げてそこで滅ぼされました。
 もうひとりは 腕相撲をしたとも ゆづったとも書いてあります。

 《侵略によって奪い取られた》と言えないこともないかも知れません。ぎゃくに その場合でも奪い取った側のほうが それはもともと我が領土であったと言いたいし 言っているのだと見られます。 
 ただし《国ゆづり》とは はっきりと書いてあります。


 そうして豊葦原の瑞穂のくに(スサノヲの国)にやってきた《皇御孫(すめみま=天孫)のミコト》は じつは アマテラスとスサノヲとのあいだの子の子どもであったらしい。ホノ二ニギのミコト。

投稿日時 - 2012-08-26 14:07:10

ANo.37

参考になるかも知れない質問を見付けました。
http://okwave.jp/qa/q3543763.html

http://okwave.jp/qa/q7663749.html

投稿日時 - 2012-08-26 04:13:23

お礼

 そうですね。

 ▲(大野晋・古語辞典) ~~~~~
 ○ たまふ(賜ふ・給ふ)

  [語義の解説] 目下の者の求める心と 目上の者の与えよういう心とが合って 目上の者が目下の者へ物を与える意が原義。
  転じて 目上の者の好意に対する目下の者の感謝・敬意を表わす。

  [仮説としての解説] タマ(魂)アフ(合ふ)の約か。
   〔求める〕心と〔与えたいと思う〕心とが合う意で それが行為として具体的に実現する意。
   古語では 《恨み》《憎み》《思ひ》など情意に関する語は 心の内に思う意味が発展して それを外に具体的に行動として現わす意味を持つ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 もしこうだしたら すでに初めに《眼差しをそそぐ者とそそがれる者との目上・目下の関係》が成ったあとの社会における言語表現になるかと思います。
 《まなざし》が互いに自由で対等であるか? の問題だと。

 上から目線や あるいはときには下から目線といったマナザシのそそぎ方であるなら その表敬表現は 起源なる状態からの二次的な派生であると考えられませんか?
 二次的で派生した情況こそが すでに押しても引いてもどうすることも出来ない現実であったとしても 哲学の理論としては 《大道》を思うこともおこなうと思います。


 自由なあいだがらにおいて よこせ――くれてやる といったやり取りが出来ることを目指します。

投稿日時 - 2012-08-26 08:43:01

ANo.36

閑話休題
http://thinkit.co.jp/story/2011/08/18/2233
http://ascii.jp/elem/000/000/465/465458/

表敬は直接的にのみぞ為されむや?

投稿日時 - 2012-08-26 00:56:12

お礼

 《間接的な表敬》 ですか?

 それは たぶん いづれあとで直接に会うときの表敬表現が問題になるのだと思います。

 直前のやり取りを参照していただきたい。

投稿日時 - 2012-08-26 08:26:48

ANo.35

オリンピックでも見られました通りに、
西洋人達は自己の勝利の後に敗者の健闘を讃えたがりますが、
日本の伝統的な美意識では、自己の偶発的な勝利…。
http://twitter.com/XF5/status/201264619719901184
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/16630100/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E
http://ameblo.jp/daisan110/entry-11277878846.html

投稿日時 - 2012-08-25 23:25:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ことは 敬語表現には限られないということですよね。

 まづ 長く引用します。
 ▲ ( ameblo の記事です) ~~~~~~
 テーマ:武士道!

「アメリカにおいては、贈り物をするとき、
 贈る側は受け取る人にその品物を褒めそやす。
 しかし、日本ではこれを軽んじたり、悪く言ったりする。」

 この文章は新渡戸稲造の「武士道」(第六章)に出てくる文章です

 この違いはアメリカ人は「素晴らしい貴方には、
 素晴らしい品物以外を贈るのは無礼です」と考える

 そして日本人は「素晴らしい貴方には、
 どんな品物もふさわしくないこの品物を、物そのものの価値ではなく、
 私の好意のしるしとして受け取ってください」と考えるのです

 アメリカ人は物の面からいい、日本人は気持ちの面から言う

 表現は違えど同じ考え…

 しかし、アメリカ人が好意を「主張」するのに対し

 日本人は好意を「謙譲」するのです

 さらに新渡戸稲造はこの考えが、「謙譲」は仁とともに

 「礼」という徳をつくると言ってます
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《贈り物》ないし《贈与》論は けっこうやっかいな議論があると思います。それは 受けた側における《負い目〔を感じること〕》の問題です。いづれ返さなければならない《債務》とさえ感じる場合もあります。

 それはひとまづ措いておいて 贈り物をするとき贈る側は どういう表現をするか? この主題です。

 1. ここでもわたしは 《贈り物》の起源を問います。

 2. 敬語表現で《ウヤマヒ》起源説を取りましたが 一般に《贈与》の起源は 《ウヤマヒ不在》説を取ります。

 3. 自由で対等なカカワリないしマジワリ そしてそのシルシとしてのウヤマヒ これがまだ築かれていないときに この互いのウヤマヒを求めておこなうのが 贈与であると。お近づきのシルシとするそのかたちであると。

 4. ならば・もしそうならば 贈るモノを持ち上げようとけなそうと その基本の意図としては変わりない。のではないか?

 5. そのモノがすばらしい相手にふさわしいと言いたいゆえその品物はやはりすばらしいのですよと自分もモノをも高めて渡す場合にしろ 相手に対して自分は贈り物をするにはあたいしない者ではありますがどうぞ受け取ってくださいという意味合いで つまらないものですがとわざわざ自分もモノをも低めて渡そうとする場合にしろ 《お近づきのシルシ》であることに変わりはない。

 6. 何かすでに事が起こっていて その結果に対してたとえば感謝の気持ちを表わそうとして贈る場合など すでに因縁がある場合は たぶん別だと見ます。カカワリやマジワリがすでに始まっている場合だからです。

 7. と考えるとすれば 敬語表現は起源としてウヤマヒの既成ゆえにでしょうし 贈与という表現はやはり起源としてウヤマヒの不在ゆえにであるとなります。どちらも ウヤマヒゆえにです。その実態は 自由で対等な人間関係です。

 8. 相手や品物を高めるかあるいは自分や品物を低めるか この違いは それほど大きな要因になりましょうか?

 9. もし《仁》や《徳》を問題にするのならば 《お近づき》に際して そのかたちあるシルシとしては 何も用いない。これが 人格の核であり境地のゆとりなのではないでしょうか? もともと自由で対等なのです われわれ人間は。
 
 10. そうでないとすれば あなたも提起しておられたように 《大道すたれて仁義あり》となろうかと思われて来ます。贈り物をするときの表敬――尊敬であれ謙譲であれ――の表現は まさにその《仁義》のかたちであろうかと思われて来ます。

 11. 新渡戸稲造は 浅い。と言ったわけです。

 12. 《スポーツの試合などにおける自己の勝利》について どう表現するか? どうでしょう? どうなんでしょう? 高橋尚子と福士加代子の場合は それぞれどうか?

 13. ★ ~~~~~~~~~
 西洋人達は自己の勝利の後に敗者の健闘を讃えたがりますが、
 日本の伝統的な美意識では、自己の偶発的な勝利…。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どちらも 《仁義》としてのかたちだとしたら どうか? あなたは 絶対無をかかげておられましょう? そのことと仁義というかたちとは どう調和しましょうか? どうでしょう?

投稿日時 - 2012-08-26 08:24:59

ANo.34

動作主達の行為が及ぶ相手達へと書き手・語り手が届ける表敬の技術が『謙譲』なのでして、
西洋人達が御互いを讃え会う表敬(respect)の為の『サービス』とは全く共通点が御座いません。

つまり、『謙譲』は自虐の美徳だと言えましょう。

投稿日時 - 2012-08-25 08:55:38

お礼

 表現形態論としての敬語論になってまいりました。ご回答をありがとうございます。

 一般的な議論をおさらいしてみます。(一部の説明文や例示を省略しています)。
 ▲ (ヰキぺ:敬語) ~~~~
 1. 尊敬語 : 話題中の動作や状態の主体が話者よりも上位である場合に使われる。

 1-1 語彙自体を変える - 例:いる・行く→いらっしゃる、食べる→召し上がる、見る→ご覧になる、する→なさる
 1-2 お / ご~になる - 例:待つ→お待ちになる、掛ける→お掛けになる
 1-3 れ / られ - 例:待つ→待たれる、掛ける→掛けられる

 2. 謙譲語 : 話題中の動作の客体(間接的である場合もある)が話題中の動作の主体よりも上位である場合に使われる。
    そのため謙譲語は話題中に2人以上の人物が登場しなければならない。
    動作の主体を謙(へりくだ)す言い方であり、主体=話し手の場合には自分が謙ることになる(卑しめるという意味ではない)。

 2-1 語彙自体を変える - 行く→伺う、見る→拝見する、する→致す
 2-2 お / ご~する - 待つ→お待ちする、掛ける→お掛けする、相談する→ご相談する
 2-3 お / ご~頂く・申し上げる - 買ってもらう→お買い頂く、辞退する→ご辞退申し上げる

 3. 丁重語 : 聞き手が、話し手よりも上位であることを表す動詞の語彙をいう。

 3-1 山田と言う。→山田と言います。→山田と申します。

 4. 丁寧語 : 聞き手が話し手よりも上位である場合に使われる語をいう。
          広義として聞き手に対する配慮を表すもろもろの語を含める場合があるが、文法的に語末に使われる現代語の「です」「ます」「ございます」、古語の「はべり」「候ふ」などを指す。

 4-1 です:(名詞+繋辞) - 学生だ→学生です(現在)、学生だった→学生でした(過去)、学生ではない→学生ではありません(否定)、学生だろう→学生でしょう(推測)
 4-2 ます:(動詞) - 見る→見ます(意志)、見た→見ました(過去)、見ない→見ません(否定)、見よう→見ましょう(勧誘)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ (あ) この説明によれば 敬語表現は いづれの場合にも 人と人のあいだに社会的な位置や身分から来る上下の関係があることによって または あると見立てることによって 生じると見ている。

 (い) 果たしてそれは ほんとうか? 自由・対等な立ち場にあっても 相手にウヤマヒを持ってそのことを言語表現にもあらわす場合があるのではないか?

 (う) それは ヰキぺでは尊敬語に入れられている(1-3)の《れ / られ - 例:待つ→待たれる、掛ける→掛けられる》であろうと 見られないか?
 →No.16お礼欄の《敬語の起源》
 また ヰキぺの中での(4)丁寧語の《です・ます》 これも 対等なあいだがらにおけるウヤマヒ表現だと捉えられまいか?
 (3)の丁重語も 上下関係を抜きにして見れば デス・マスと同じような表現形態だと受け取られるように思います。

 (え) というように起源としての《ウヤマヒ》理論を基礎として捉え得たとすれば そのあと《身分関係》から来る敬語表現なる形態が来ると思われます。

 (お) たしかに社会関係は 世襲という要因がからむならば シガラミとまで言うほどの上下関係が出来て来ます。これを よくもわるくも 言葉の上でもあらわそうとする。単純にそういうウゴキだと見られます。

 (か) 言いかえると敬語表現は 単純にふたつの形態に分かれる。
    相手〔の側〕を立てるか(すなわち 上に置くか) 話し手〔の側〕を下げるか(つまり へりくだるか)。 
    《側》と言ったのは その本人ひとりだけではなくその周りの人びとをも含む場合を言います。
    すなわち 尊敬表現か謙譲表現かです。

 (き) もしこのように整理し分類した《謙譲表現》のことを 
 ★ 動作主達の行為が及ぶ相手達へと書き手・語り手が届ける表敬の技術が『謙譲』なのでして、
 ☆ と言うのだとすれば おそらく違うとおっしゃるでしょう。《こちら側から相手側に届ける表敬の表現形》と言えば おそらく(う)のウヤマヒ表現のことを言うのではないでしょうか?
 
 (く) つまりはヘリクダリと言うよりはむしろ互いに対等であるゆえにその対等であることを――いくらかは こちら側が下に立ったような感じで―― 言葉のかたちにもあらわそうとする。そのことではないのでしょうか?

 (け) わたしは このウヤマヒ形が
 ★ 西洋人達が御互いを讃え会う表敬(respect)の為の『サービス』
 ☆ の起源でもあると考えています。同じ発想から来ているのだと。その後の言わば第二次の変化形については それぞれの発展があったのでしょう。
 
 (こ) でもどうでしょう? 現代のイギリス国民が 国王やその家族に対して敬意を表するその言語表現は 市民どうしで対等な関係におけるウヤマヒとして表現するかたちと そして心とも 同じであるということではないでしょうか?

 (さ) もし日本人においても アマテラシテ象徴やアマテラス公民に対する敬意の表明が 市民どうしのあいだで交わされるウヤマヒ表現とその基礎において同じであると言うのならば――言えるのならば―― あなたのおっしゃる『謙譲』は たしかにそれとして活きている。こう考えられます。どうでしょう?

 (し) ★ つまり、『謙譲』は自虐の美徳だと言えましょう。
 ☆ いえ 《自虐》の要素はあり得ないと考えます ウヤマヒ表現にあっては。自由で対等な場に 似つかわしくありません。

 まだ我田引水していましょうか?

投稿日時 - 2012-08-25 16:39:46

ANo.33

『無量寿光』の御蔭で、『非経験の庭』には、『ビッグデータ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF )』が収容され続け得るのですね。

http://okwave.jp/profile/u2301503.html

投稿日時 - 2012-08-25 00:45:38

お礼

 つづきます。

 たぶん

 ○ 『無量寿光』の御蔭で、『非経験の場』をおのが心に受け容れて成る『非思考の庭』には、『ビッグデータ』を有効に使う仕組みを開発する知恵が必要に応じて湧いてくるのでしょう。

 と思いましたが。

投稿日時 - 2012-08-25 07:21:02

ANo.32

二重敬語と逆向きの謙譲とのコンビネーションが、日本…。
http://ringonoki.net/tool/browser/srware_iron.php

投稿日時 - 2012-08-24 23:17:20

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 謙譲
 ☆ は 二重敬語との関連では 《謙譲語》を意味すると受け取ります。
 そうしますと

 ○ 言葉としての謙譲表現と一般におこないとしての《ゆづりあい》とは 別である。

 と見ます。慇懃無礼ということばもあります。それとは少し筋が違うかたちでもっと悪い事例としては 言い方でいくらゆづっていても それは自分の意見を通すためにする手段でしかない場合があり得ます。
 つまり物腰や態度でも下手に出ていたとしても 強固に自分の言い分についてはゆづらないという場合があり得ます。

 《くにゆづり》は ぜんぶゆづったのです。スサノヲ市民は 優秀で態度も人間的であってしかも自分の言い分については一歩もあとに引かなくなった公民志向の特殊スサノヲ(のちのアマテラス公民)に対して 中にはぐずった人たちもいましたが それこそ敬して遠ざけたのかも知れないのですが 社会としての神棚(お二階さん)に住んでもらおうと ぜんぶゆづりました。

 だから その後千五百年まだまだ ゆづりっぱなしです。どうぞ思う存分自由にご自分の英知と人格で国を経営してくださいとぜんぶゆづったからには おいそれともう返してくれとは言えない。言いません。(ただし 人間として マチガイをただしアヤマチについて改善をもとめて批判をすることはおこないます)。




 この君臨するアマテラスお二階さんに対して 基本は《ゆづりあい》の精神です。
 その基本からそれる場合があります。すり寄って行く場合と倒そうとする場合です。

 後者は ほとんど無意味です。ただ首のすげ替えになるのみです。《 A - S 逆立ち連関制》という枠組みは そのままです。

 前者は これが二重敬語になる場合でしょうか。あるいは《 A =自敬表現 - S =謙譲表現》という連関制でしょうか。
 そういう意味での謙譲表現は ただのおもねりです。




 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコト(西暦300年頃)のとき 疫病が流行って人びとは悩まされました。
 薬草の研究にもすでに熱心でしたが 神のお告げに従うこともやりました。後者としては ミマキイリヒコは お告げどおりに市民らのあいだから オホモノヌシのカミの子(或る種の仕方で 処女降誕としてのキリスト・イエスにあたる)だとされるオホタタネコを探し求めて これを得て 神をまつらしめ ようやく事なきを得たと言います。
 このミマキイリヒコの社会は まだクニが平屋建てでした。お二階さんはありません。

 やがて この中から アマアガリ(公民志向)・シンドロームに罹った人びとが出て来ました。
 高千穂の峰に降臨したというホノ二ニギのミコトは アマテラスなる神の子孫なるぞと言うのですが アマテラスは スサノヲのじつの姉です。その子孫なるホノ二ニギの父であるマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトは アマテラスとスサノヲとのあいだの子であると見られることがあります。
 すなわち万世一系は スサノヲの血筋でもあります。

 スサノヲは ゆづる人です。
 アマテラス公民の中には あたかも神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った者もいるということのようです。国家という家は わが家なりという思想は いかがなものか?
 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトなるご先祖さんが泣きます。ミマキイリヒコの思想に見倣うべし。
 ゆづりあいの精神によるなら 謙譲表現も互いに対等なるへりくだりであるはずです。

 と思います。

投稿日時 - 2012-08-25 07:17:05

ANo.31

記憶を保ちながら、アンパンマンは輪廻を繰り返しているのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7660782.html

投稿日時 - 2012-08-24 15:58:23

お礼

 アンパンマンに訊いてみますか。

 というのは 冗談だとしても――まづはご回答をありがとうございます―― この場合の
 ★ 輪廻
 ☆ は想像上の生まれ変わりのようなものを言うのでしょうね。
 つまりは
 ★ 記憶を保ちながら
 ☆ その記憶の中の想像を重ねつつ あたかも一ぺん二へんとすでに命を落としたかのような体験を 想像の世界の中で 繰り返しているのかも分かりません。
 
 言いかえると 死を死にもういちど生まれ変わるというのは すべて想像世界での出来事であって――そしてその出来事をいちいち漫画やアニメではあたかもそのように実際に推移したというかのように描いている―― じっさいには最後の幕引きのあたりの出来事だけが起こった。ということかも知れません。

 ひとりの人間の存在は 掛け替えが出来ないのと同じように この人生は 一度っきりであって 輪廻を思い描くなどということは 想像力のたくましさを語ることはあっても 命がふたつあるとか一度死んでもう一度生まれ変わるとかいうことは ない。むしろ そのような想像の世界のほうが そのことをおしえている。のかも知れません。

投稿日時 - 2012-08-24 16:33:20

ANo.30

架空の国境線の様な枠組みを設けますと、『ルサンチマン』の様な排除…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B2%A9%E7%A4%81

投稿日時 - 2012-08-24 15:19:35

補足

 お礼欄をおぎないます。

 ☆☆(その末尾の部分) ~~~
 そのような《アマテラス‐スサノヲ》連関制なるあたまでっかちな逆立ち構造があるからこそ 《国境線》についても もめごとが起きる。のではあるまいか?
 ~~~~~~~~
 ☆ つまり スサノヲ市民どうしは 国境の線引きを忘れるならば 仲がよい。取り立てて敵愾心をむき出しにする謂われはない。はずです。
 国境にいっしょに住めばよいはずです。
 つまり 国家と国家の境ではなくなる。はずです。

投稿日時 - 2012-08-24 15:57:56

お礼

 つづきます。(続きますねぇ)。

 ★ 架空の国境線の様な枠組み
 ☆ もともと 隣りのムラとの境はあったわけですが 或る日或る時 ムラムラを束ねて 一方ではおそらくさらに向こうの敵になりうる人びとに対する安全保障政策のために そして他方では 人びとやムラムラを寄せて束ねるという仕事が根っから好きでその支配欲を満たすために名乗り出たお山の大将が号令をかけて その境は 何々国の国境であると言い渡した。
 戦争がおこなわれたかどうかを別として そのように国境線が天から降って湧いた。

 また お山の大将に対して ムラムラがどう対処したかには ふたつの場合があるようです。
 ひとつには 学力優秀で品行方正なアマテラス大将に対しては あまりにもその人徳ゆえに国なる広域の経営をまかせてくれと拝み倒すものだから これに根負けしてゆづった。社会に神棚をもうけて そのような第二階に住んでもらうことにした。《くにゆづり》の場合。
 あとは 力づくで決めた場合です。

 でもたいていは おなじ同胞(はらから)ですから まんざらよそよそしい間柄でもない。
 かくて 社会の形態は 一階に生活する市民たちスサノヲとそしてやがてお二階さんとなるアマテラス公民とに分かれて 二階建て構造となった。
 この国という家の形態は あんがい居心地がよかったのか わるくても何も抵抗しえなかったほどひどかったのか まだまだ世界史において つづいています。


 さて話を端折ります。
 おそらく
 ★ 『ルサンチマン』の様な排除
 ☆ あるいは排除というよりは不信感やたしかに敵対心を持つのは――持ってもおかしくないと思われるのは―― むしろ頭がいいからと言って ふんぞり返っているアマテラス公民に対してなのではないか?
 そのような《アマテラス‐スサノヲ》連関制なるあたまでっかちな逆立ち構造があるからこそ 《国境線》についても もめごとが起きる。のではあるまいか?

 というひとつの見方を提示します。どうでしょう?

投稿日時 - 2012-08-24 15:53:35

ANo.29

若し特定の宗教団体からの認証が御座いましたら、
寧ろ逆に西洋近代的な誤前提による支配からの解脱が難しくなるのですね。
http://okwave.jp/qa/q7660693.html

投稿日時 - 2012-08-24 13:43:26

お礼

 つづきます。

 わたし自身の立ち場からですが
 ★ 宗教団体
 ☆ は その組織のヒエラルキアによる権限関係から 参加する人びとの信仰上の到達度合い(つまりその深さや高さ)が判定されるという傾向があります。そのことによって 個人の信教良心の自由を――外形的にですが――侵すおそれがあります。

 これは 結社の自由を無効にするほどの不法行為を誘発し得ます。

 信仰の度合いを他人が決めることによって――それでもたしかに《心の内なる〈非思考の庭〉》そのものが傷つくことはないのですが―― 社会的な自由な活動を制限し左右するまでに到ります。


 もしそれでも結社の自由を認めるとするならば それは 宗教組織が《信仰》にもとづいて建てられたものではないと保証することが条件となると考えます。

 聖典なり修行なりについて――信仰には間接的にのみかかわって―― まなび実践するという内容に限定する必要がある。こう考えます。

 そのような条件は あいまいになっていると思われるからには 《信教・良心の自由を――社会活動にかかわる外形において――侵すおそれがある》。ゆえに
 ★ 宗教団体
 ☆ そのものをわたしはみとめません。憲法違反ではないかと考えます。





 ★ 西洋近代的な誤前提
 ☆ これは ちょっとあまりにも大雑把な規定だと思います。

 現象学というのが出て 分かりやすく言えば それまでの文化的学問的ないっさいの知的活動から 一たん判断中止(エポケー)して 白紙(純粋意識)に還れと言ったそうです。合気道みたいなもんです。

 環境の自然やあるいは人間存在としての自然 これらに《あはっ!》と言うまでに・つまりまた感受性を研ぎ澄ましてそう言えるまでに《もののあはれを知れ》というようなかたちで その脳みそ(記憶し整理した情報)を自然本性に戻せと言ったそうです。

 西欧は西欧でがんばっています。
 日本は日本でしっかりと着実に一歩一歩をあゆんで行かねばなりますまい。

 と考えます。

投稿日時 - 2012-08-24 15:34:57

ANo.28

非経験世界の側でも、使途不明の『水』の内部留保( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%83%A8%E7%95%99%E4%BF%9D )が無根拠で繰り越されて来たのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-24 13:24:38

お礼

 つづきます。

 基本的に言えば 

 ○ 非経験の場なる神にあっては 《ひとり満ち足りている》。

 です。
 ★ 内部留保
 ☆ を必要とはしていない。となります。

 水が涸れる・火が消えるというようなことはないわけです。




 前回 預言者が出て来ましたので その預言者にかかわって次のような話を 旧約聖書から引いて来ます。

 ○ 【Q:預言者ホセアの行動をどう捉えますか?】 ~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6827810.html
  
 旧約聖書における預言者ホセアの行動について 問います。

 次に言う《淫行》は 人に対する裏切りと取ります。裏切りに遭っても その相手をホセアは 受け容れました。戻って来た妻を迎え入れました。
 これをどう扱うか? ホセアの行動をどう解釈するのか? 

 ▲ (ホセア書) ~~~~~~~~~~~~~~
 1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。

    「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。
    この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

 1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。
 1:4 主は彼に言われた。

    「その子をイズレエルと名付けよ。
    間もなく、わたしはイエフの王家に イズレエルにおける流血
    の罰を下し イスラエルの家におけるその支配を絶つ。
 1:5 その日が来ると イズレエルの平野で
    わたしはイスラエルの弓を折る。」

 1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。

    「その子を ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。
    わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず
    彼らを決して赦さないからだ。
 1:7 だが、ユダの家には憐れみをかけ 彼らの神なる主として、
    わたしは彼らを救う。
    弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」

 1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。
 1:9 主は言われた。

    「その子を ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。
    あなたたちはわたしの民ではなく
    わたしはあなたたちの神ではないからだ。」

 ・・・・

 2:7 その母は淫行にふけり 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
  彼女は言う。

    「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物
    をくれるのは彼らだ。」
  
 ・・・・



 3:1 主は再び、わたしに言われた。

    「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。
    イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子
    を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

 3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。
 3:3 わたしは彼女に言った。

    「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもと
    で過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

 ・・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 主題は いくつかあると思われます。

 (あ) 神によって与えられたヒラメキをどう受け取るのか?

 (い) ヒラメキ直観によって わが心がやわらぎを見出したそのあと 淫行すなわち人に対する裏切り行為をも ゆるされたと見ることが出来るか?

 (う) ヒラメキ直観に従うことは 裏切り行為をゆるせなくても その当の人(その掛け替えのない存在じたい)については 受け容れることが出来るということか?

 (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?

 (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?

 (か) そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《用途自由の『水』の内部留保》が ホセアにはたくわえられていて その水がはたらいた。のでしょうか? (とてもわたしには まだまだ現実ではありません)。

投稿日時 - 2012-08-24 15:09:15

ANo.27

預言者達を経由させる判断(野蛮な西洋近代的主張)の過ちが、
神の裏技の妨げになり得るのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7648144.html

投稿日時 - 2012-08-24 12:18:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 預言者
 ☆ は 新約聖書の立ち場からは イエスに先行した洗礼者ヨハネを最後として もう出ないとなっています。
  
 ということです。

 神秘思想としての瞑想・観想も 或る種の神学として著わされたようですが 預言者と呼ぶには遠いと思われます。

 ですから
 ★ 預言者達を経由させる判断(野蛮な西洋近代的主張)
 ☆ ということが何を言うのか ただちにはよく読み取れないでいますが どうでしょう?



 エレミヤ書31:31以下のくだりを引きましたし その内容について触れました。
 《もう主を知れと言っておしえることはないし それまでのいわゆる罪は もう神は覚えていない》という事態が キリスト・イエスの十字架上の死のあと 実現した。こう見るかたちです。

 そうしますと
 ★ 神の裏技
 ☆ という主題ももう要らなくなっている。こうも考えます。すべて おまえたち人間どうしで 話し合い決めて行きなさいと。

投稿日時 - 2012-08-24 14:57:43

ANo.26

『前提( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%8F%90 )』の正当性の有無が、
ジューダスプリーストの問題にも関わっているのでしょうね。
http://okwave.jp/qa/q7659980.html

投稿日時 - 2012-08-24 09:34:31

お礼

 つづきまして。

 ★ ジューダスプリーストの問題
 ☆ これが 分かりません。このバンドの曲で 少年が自殺したという事件があったそうですが――無罪判決でしたが―― これなどですか?
 それとも イエスの弟子だったユダの問題ですか?

 日本への核兵器の持ち込みについて まづどういう方向へ向けて話をすすめるのか。これが 決まりません。と いまはまづ 思います。すでに核配備していることの真偽を問うのか。中国や北朝鮮との外交関係を問おうとするのか。世界という視野で これからのじんるい社会についての展望を問おうとするのか。つまりは 国家の問題 国家という社会形態をどう扱って行くかを問題にする観点 これを問おうとするのか。



 ★ 前提の正当性
 ☆ これも 広すぎてどう応答すればよいか 思案します。
 正当性がうたがわれたなら 何であれ 互いに尋ねあい互いにそれに答えるという手続きを経て行けばよいとは思います。

 のですが?

投稿日時 - 2012-08-24 10:26:25

ANo.25

西洋人達の自然観は勧善懲悪の筋書き( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4 )へと依存せざるを得ないのでしょうね。

投稿日時 - 2012-08-24 01:58:57

お礼

 そんなことを言ったら 水戸黄門はどうなるんですか。

 と口を撞いて出ましたが 果たしてどうなんでしょう?

 まづは ご回答をありがとうございます。



 わたしの感触では アメリカ人を――ただし行ったことはなく 文章や映像をとおしてですが――見ていると フェアだとか decency だとか consistency などといった言葉をすでに強固な観念として持っていて(あるいは 社会の側から持たされていて) それに振り回されているかに感じられる場面があります。

 言いかえると そのように言葉をとおして――つまりディベートのごとく――《公正さや 上品で高潔さや 思想の一貫性ないし言行一致》を追い求めているというように見えます。
 言行一致を 言葉の上だけで追い求めている。のです。

 あの五輪サッカーの優勝決定戦で米国チームに見られた《アンフェアネス》は どこへ行ったのでしょう? つまり自分たちが《ファウルを犯した》と自首するのではないかともわたしは少し思っていましたが そうはなりませんでした。
 やはり ホンネとタテマエ あるいはウラとオモテとがあるということでしょうか。

 欧米人は 不自然ないし反自然としての《社会性(社交性でしょうか)や文化的態度》を重んじて来ましたから ホンネとタテマエを 思想(生活態度)の一貫したかたち( ディースンシー)にととのえるのは やっかいになるかと思われます。

 人間どうしの交通(カカワリやマジワリ)を 競争的にしてさらには攻撃的であらざるを得ないと思って来たでしょうから 《自然》にもどすのは――それは 万人の万人に対するたたかいであり野蛮な状態だと規定して来ているのですから――むつかしいのでしょうね。

 スサノヲ人間語・自然語に対して そこから《文化の薫り高い》アマテラス普遍語(科学語および人格語)へとアマアガリ(上昇)しようとして頑張って来たのでしょうから それによる頭でっかちの状態を直すには ときが必要なのでしょうね。
 
 日本人のあいだで 欧米型がいまでは君臨していましょうか。どうでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-24 09:57:30

ANo.24

たとえ契約を根拠に据えませんでしても、相互の謙譲は可能なのでしょうけれども、
海外の方々には理解され難いのでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
http://sec.ipa.go.jp/std/ent03-b.html

投稿日時 - 2012-08-24 01:08:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 すでに投稿したことのある文章ですが 《ゆづりあい》の問題について考えるところをしるしたものです。

       *

  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。

 市民圏=第一階:S 圏;市民 S
 公民圏=第二階:A 圏:公民 A
 これら互いの力学関係:A‐S 連関制

 こういう用語で説明します。

 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特殊な神棚をこしらえてやりそこに特別に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。これが くにゆづりである。

 優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将志向型であったことだ。市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処としてやった。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。

 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。
 このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。

 簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。



 ちなみに西欧の 市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A=S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A=S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。

 (α) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制

 相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。
 言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり Homo homini lupus. / 万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnes. 》という市民( A=S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?

 日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば 欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。
土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。

 日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。非戦論も主戦論も確かに 人間の弱さから来る。
 非戦論をえらびいちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。
 ただしそのアマアガリ症候群の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。アマテラス公民のほうへすり寄って行くスサノヲ市民もいる。




 ちなみに 別様の A-S 連関制がありうる。《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるというようなかたちである。

 (β) アフリカ型:S (=じつは A )∽ A 連関制

 ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~
  http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html

 マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。

 ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王( A )がいる。
 ( b ) しかし、民衆(じつは A なる S )は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。
 ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。
 ( d ) 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 民衆暴君型である。日本は対話型 西欧は競争型であろう。


      *

 この区分が 紋切型でなければよいのですが。

投稿日時 - 2012-08-24 08:36:40

ANo.23

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 《領土》問題について このスレででしたか わたしは触れてしまっていますが じつは 外交問題ないし国際関係論は 明るくありません。
 この質疑応答の場で 少し質問をしたこともあります。勉強していこうと思っております。

 竹島をめぐる韓国との関係。
 そうですね。《観念》に振り回されないようにという趣旨で触れたことから いまただちにさらに展開するのは むつかしいところです。
 話し合いの場に出て来ないというのが いちばんの問題であるように思います。
 つまり こじれてしまっているようです。

 これも どうしましょう? となりますが。

投稿日時 - 2012-08-23 23:13:14

ANo.22

鯨の処理に象徴化される振る舞いと違いまして、
日本人は繊細…。
http://okwave.jp/qa/q7659496.html

投稿日時 - 2012-08-23 21:13:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ (【Q:ドット抜けについて教えてください】回答No.3) ~~~~
 それどころかまずドット抜けの「液晶テレビ」が自宅に届くことはありません
 さすが日本企業といったところですが素人向けですから粗相があってはいけないのもあります
 なので知識のない人はドット抜けは単純に故障としか思っていません

 それに対してパソコン関係の「液晶モニタ」の分野や、それを作っている「海外メーカー」から言わせれば
 極小のドット抜けがいくつかあったところで映像を見るのも仕事をするにも何も問題無いだろ?
 という理屈で多少のドット抜けでは初期不良として扱ってもらえません
 文化の違いなんですかね
 ~~~~~~~~~~


 ちなみに あまりにも繊細で細かいところも行き届いている製品なのに 普及品に押されて売れないというような現象が いま新興国などで起きているのぢゃないですか?
 こまったものですね。どうしましょう?

投稿日時 - 2012-08-23 21:21:56

ANo.21

http://okwave.jp/qa/q7655378.html
関係性を見出だせますでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-23 09:20:41

お礼

 つづきます。

 ん?
 ▼ ~~~~~~~
 質問:会ってみたい歴史上の人物は誰?

 例)
 クレオパトラです!ほんとうに、一体どのくらい美人だったのかをこの目で確かめたいです。

 様々な回答、お待ちしております!
 ~~~~~~~~~

 ☆ どういう
 ★ 関係性を見出だせますでしょうか?
 ☆ でしょうか。
 中には イエス・キリストという回答もありましたが。
 広く一般に《今は亡き人に会ってみたい。話を聞いてみたい》ということと 思想やあるいはこの質問のように《信じる》を主題にした場合のその同じこととは 違うようにも感じます。
 会っても会わなくても それほど実践については違って来ないように思います。

 ただしもともと 別の人の思想やその伝えようとしたことを受け留め受け容れたと言っても もとのかたちがそっくり伝わったかどうかは 分からないかも知れません。
 というより その肝が分かればよいのでしょうし しかもその肝の要素も 経験的なかたちとしては 絶えずさらに変わりゆくことがある。こうも考えられるからです。(でも同じ系譜は 同じ系譜であると知ることが出来るはずとも考えています)。

投稿日時 - 2012-08-23 11:04:19

ANo.20

自然観の齟齬が、…。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%A8%E3%81%AE%E7%88%86%E7%99%BA

投稿日時 - 2012-08-23 09:03:21

お礼

 つづきます。

 たしかに
 ★ 自然観の齟齬が、…。
 ☆ 感じられるようです。
 ▲(ヰキぺ:鯨の爆発) ~~~~
 鯨の爆発については、これまで顕著な事例について2件が記録されている。このほか知名度の低いものも何件か存在する。
 最も有名な爆発は、米国オレゴン州フローレンスで1970年に起きた。死んだコククジラの腐敗した死体を廃棄しようとしたオレゴン高速道路局によって発破されたものである。
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もっともこれらの事例は すでに死んでいる場合ではあるようですが。 
 浜に打ち上げられた死んだ鯨は 日本ではどうするんでしたかね。腐っていて食べられないでしょうし。

投稿日時 - 2012-08-23 10:51:23

ANo.19

基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ~ビス?

投稿日時 - 2012-08-23 03:03:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 基督帝への表敬
 ☆ これはですね。つまり要するに 儀式のことを言うのですよね?
 だとすれば けっこう深い意味合いを持った成り立ちも ひとつの側面として 考えられるように分析されてもいます。

 そのひとつの側面に ふたつの場合があると思われます。

 ひとつは キリスト・イエスをはりつけにしたとの思いから これを悔いて そうする場合です。
 ユダヤの高等法院の連中や一般の民衆やあるいはユダヤ駐在のローマの総督らといっしょに〔後世の〕自分も 磔の刑に処したということ 加害者であったということ こう受け留めてこれを悔いる。


 この場合ややもすると その気持ちがどこかで自信を持って来ます。自信を持って来ると そこで キリストを言わばまつりあげる。たたりのないようにと 丁重にあつかう。ようになる。

 

 そこでもうひとつは そのような《悔いるこころ》を通り越えて 開き直った場合です。
 心の中で次のような展開を経て最後に開き直りによって キリストをたたえるまつりをおこなうようになった。
 悔いる心からたしかに葛藤を持ちつつも やがて何でしょうね 自敬というよりは自尊でしょうか その自尊心からの開き直りを経て――いつまでも卑下してばかりもいられないと考えた結果―― キリストをうやまい奉ればよいのだと《さとる》場合です。
 《たたり》をおそれての行動になるのかも知れませんが 言ってみれば性質(たち)の悪いものです。

 自分たちは このように盛大な儀式をおこなって キリストにわびつつキリストをたたえ そのキリストのゆたかな心からのめぐみをあたえてもいただくのだと語って 人びとをその《まつりあげなる儀式》に連ならせ この〔あまり使いたくない言葉ですが〕ザンゲを基礎とした和解を 社会にも築こうとする。
 人間関係ならびに社会の成り立ちや仕組みが つねに後ろ向きになると同時に そのザンゲなる祭りをつかさどる務め人を中心として築かれて行く。
 もし仮りにキリスト・イエスがじんるいの罪をみづからに背負ってみづからの命をもって〔神に〕支払いを済ませたのだとすれば この罪なる債務の返済という行為をあたかも真似てわざわざ重ねて演じている。というのが まつりあげなる儀式である。

 言いかえると このいわゆる教会における《基督帝への表敬サービス》につらなるとすれば その人は まだなおキリストのめぐみを受けていないことを意味します。
 もし世間と和解し得てまたみづからとも和解し得ているのならば わが原罪よさようなら イエスよありがとうと言って キリストなる神に きよらかなおそれをいだいている。そのようにして生活する。これだけでよいはずである。
 わざわざ儀式をおこない これを制度としてつくりあげこれを主宰する。人びとはそこにつらなる。のならば キリストの威を借りて 自分たちの身分を高めその地位を保全しようとしている。と勘繰られてもおかしくない。そうしないほかの人びとを 野蛮だとか彷徨える霊(迷える子羊)だとかと言って見下すのならば すでに精神錯乱である。国家ともなれば 戦争をして人殺しをする。キリストに反する。




 臨月のマリアが夫にともなわれて例の馬小屋でイエスを産むというとき――物語によれば―― 近くの野にいた羊飼いの青年たちにそのことを天使がやって来て知らせた。
 イエスの誕生を祝ったのは そのように名も無い人びとであった。
 はりつけのあと キリストの誕生を祝うのも われわれ一人ひとりその主観のうちで しづかにはげしくしっかりとそうすればよいはずだ。
 いやしくも聖職者を自認するのならば 世界を・人びとをそのような方向にうながそうとしてもよいはずだ。何がクリスマスだ。何がまだなお 人びとよ悔い改めよだ。

 そんなことでは 人びとを イエス・キリスト以前の時代に戻しそこに閉じ込めようとしているに過ぎない。ではないか。
 



 ★ 基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ~ビス?
 ☆ 《短絡的》と言いますか ひとつには もうその必要もないことを自覚しなければならないのに わざわざそれでもなお何故か《悔いる》ことをおこないつづけているという引っ込み思案で恥づかしがり屋のはにかみ屋・・・。

 もうひとつには 《わが身とわが身分の保証》を追い求めこの世での地位の安泰を《短絡的に》図った教会野郎ども。キリスト・イエスをたたえまつりあげておけば その司祭たるおれたちに人びとはついて来るだろうと。誰もが脛に傷を持つのならば・持つのだからと。





 * この文章の内容についての責任は ひとえに このわたし・ぶらじゅろんぬにあります。

投稿日時 - 2012-08-23 06:44:14

ANo.18

有り難う御座います。

身分制への評価を考えますと、『謙譲の使役による自敬』には問題が御座いますが、
『時制の一致』とは違う言語的な技術の解析には価値が御座います。

http://www.youtube.com/watch?v=9-MRUxOgnGo&feature=related

投稿日時 - 2012-08-23 00:46:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 大鏡を読んでみました。
 ▼ (大鏡 道長と伊周の競射) ~~~~~
 ( a ) 帥殿(そちどの=伊周)の、南院(みなみのゐん)にて人々集めて弓あそばししに、
 ( b ) この殿(=道長)わたらせ給(たま)へれば、
 ( c ) 思(おも)ひがけずあやしと、中(なかの)関白(くわんばく)殿思(おぼ)し驚きて、
  いみじう饗応(きやうよう)しまうさせ給(たま)うて、
 ( d ) 〔道長は〕下藤(げらふ)に御座(おは)しませど、前にたて奉(たてまつ)りて、まづ射(い)させ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、
 ( e ) 帥殿、矢数(やかず)いま二つ劣(おと)り給(たま)ひぬ。
   http://www.j-texts.com/chusei/rek/fokgmall.html

  ▲ (現代語訳) ~~~~~~~
  a 藤原伊周公が(父藤原道隆公の二条邸内の)南院で、人々を集めて弓の競射をなさったときに、
  b 藤原道長公がふらりと御出席なさいましたら、
  c 思いもよらず不思議なことだと、関白道隆公はお思いになり驚かれて、たいそうご馳走をなさって、
  d 道長公は伊周公より官位が低くいらっしゃったけれど、順番を(伊周公の)前になさって、まず先に道長公を射させ申し上げなさったところ、
  e 伊周公の命中した矢の数は道長公より二つほど劣られなさった。
   http://classfriend.rakurakuhp.net/i_735871.htm
 ~~~~~~~~~~~~~~

 敬語表現を整理すれば:(敬語法の助動詞等を ≫・・・≪でかこむ。)

 ○ 《帥殿(そちどの=藤原伊周)》が主格:
  1. あそば≫し≪し
  2. 劣(おと)り≫給(たま)ひ≪ぬ

 ○ 《この殿(=道長)》が主格:
  3. わたら≫せ≪≫給(たま)へ≪れば:二重敬語
  4. ≫御座(おは)し≪≫ませ≪ど

 ○ 《中(なかの)関白殿(=伊周の父・道隆)》が主格:
  5. ≫思(おぼ)し≪驚きて
  6. 饗応(きやうよう)し≫まうさ≪≫せ≪≫給(たま)う≪て:二重敬語
  7. 立て≫奉(たてまつ)り≪て
  8. 射(い)させ≫奉(たてまつ)ら≪≫せ≪≫給(たま)ひ≪けるに:二重敬語


 この短い段落で見てみるかぎりでですが 若き日の道長とそのとき関白の道隆とについて それぞれ二重敬語が使われていると思います。
 伊周は そうでないので 道長によりも〔作者の〕敬意の表し方が少ない。

 このかぎりで それほど敬語法という技術が 何かを表現するときに決定的な役目を果たすとも思えない部分もあるように感じます。
 つまりたとえば三重敬語は ないのでしょうか? そこまではしないと言うべきなのでしょうか? つまりもしそうだとしたら 敬語法をどこまでも追求しようとしているとも思えません。妥協のある表現方法であるかも知れません。

 一般には 述語動詞の主格に立つ語(つまり 一般に人)が誰であるかをそれだけで分かるようにするのが 動詞に添える敬語表現だということでしょうか? つまりそういう特徴のことを言っておられますか?

投稿日時 - 2012-08-23 10:27:16

ANo.17

特に鏡シリーズには、自敬と謙譲とが巧みに連携させられていますので、
其の御蔭で、たとえ挿入部分から主語を省略しましても、
連文節の意味の読解が可能になっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8F%A1
http://okwave.jp/qa/q4208897.html

投稿日時 - 2012-08-22 11:37:10

お礼

 つづいてですが 直前のやり取りでは わたしは 身分関係にからむ敬語表現にはきわめて懐疑的であることを いくらか説明しようとしました。

 ★ 特に鏡シリーズには、自敬と謙譲とが巧みに連携させられています
 ☆ このような敬語表現が表わされる社会の人間関係について きわめて不自由さを嗅ぎ取っています。
 しかも 日本社会では そういう一時期があったのだということのようです。

 ★ ~~~~~
 其の御蔭で、たとえ挿入部分から主語を省略しましても、
 連文節の意味の読解が可能になっています。
 ~~~~~~~
 ☆ そうなんですか。そうなんでしょうね。
 でもこの大鏡にしても 翁の語る視点というのは あんがい権力者のその飽くなき権力欲に対しては皮肉もうかがわれるということだそうですね。(ヰキぺ)。

 そのような《自敬‐謙譲》の固くむすばれた連関制は やはり特殊な閉じた――人間どうしがヨコにではなくタテに連なった――ムラ世界だと思われます。お気に召されないかも知れませんが そう考えます。

投稿日時 - 2012-08-22 15:10:47

ANo.16

謙譲と自敬との関わりが日本語の特殊な文法を…。
http://okwave.jp/qa/q7656624.html

投稿日時 - 2012-08-22 10:48:18

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 謙譲と自敬との関わりが日本語の特殊な文法を…。
 ☆ そうかも知れません。そして ぎゃくに 《特殊な文法》としての敬語表現は ただただいわゆる身分関係の社会的なそして歴史的な定着につれて〔ただただ〕複雑にそして不必要なまでにソフィスティケートしたかたちとなった。

 身分関係と言っても 特には 社会が二階建て構造になったところでの一階の平民より見たお二階さんとのカカワリから来るその自己表現のむつかしさ・わづらわしさ このような要因がはたらいているように思っています。
 敬語にかんしては ていねい語以外には わたしはきわめて懐疑的であります。

 【Q:敬語は ほんとうに 尊敬を表わす語法でしょうか】
  http://okwave.jp/qa/q4977918.html

 ○ 敬語の起源  ~~~~~~
  1. 《うやまひ》説:相手を互いに同等・対等な人間と見ることによる。

    ・ その自由対等を確認する意味で たとえば《言う》を《言われる》とわざわざする。
    ・ レル・ラレルは 自然生成の相。それゆえ 親愛称をつくる相。
    ・ それゆえ 言わレルのウヤマヒ表現は 互いの自由の確認を親しみを込めておこなおうとしている。

  2. 《敬遠》説:相手は どこの馬の骨だか分からないといううたがいを持つところから出る。

    ・ ただし (1)のウヤマヒを欠かさない。ゆえに 敬してとおざける。
    ・ あまりひとのふところ深くへは 踏み込まないでいようとする心つもりを表わそうとした。
    ・ 付かず離れずの関係を保つためにウヤマヒつつ(自然な人間関係をよそおいつつ)それ以上は深入りしないでおこうという。

  3. 《身分関係》説:上下関係をことばによる表現にも表わそうとする何かのきっかけがあったとする。言いかえると 身分の世襲を前提としていると思われる。

    ・ 《まなざしを 上からそそぐ側と下にいてそそがれる側との関係》を表わそうとした。
    ・ そそがれる側つまり一般に命令を受ける側は そのささやかな地位を守るためにだけとしても その身分関係を損なうことは出来なくなる。これを 言葉による表現に表わす。
    ・ エライ人がものを《言う》場合は 《のり(告り=掟・法)たまふ→ のたまふ》となる。
    ・ あるいは 《おほせ(負ほせ=負はせ=背負わせる。課し命じる)‐ある→ おっしゃる》。
    ・ 韓語の《マルスム(おことば)》を借用してこれを動詞にした。すなわち《まをす=まうす=もうす》。
    ・ 申すは 必ずしも謙譲語ではなかった。荘重語と言われもする。

  4. 《身分関係語》からの特殊な複雑な進展:尊敬語から二重尊敬語が現われたごとく。

    ・ 身分の高いひとは 自己尊敬の表現を用いるようになった。自敬表現。
    ・ それに合わせて 下の者は 自己を低める謙譲表現で答えた。
    ・ これは 身分制社会の華であるか? あだ花であるか?

  5. その後の展開やいかに?

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~
 起源についての一考。

 ○ めし(召し・飯 ← 見し)
 ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》
 ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》
 ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~~~~
 めし:《見る》の尊敬語
 1.ご覧になる
 2.お治めになる
 3.お呼び寄せになる
 4.結婚の相手となさる
 5.お取り寄せになる
 6.お取りあげになる
 7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語
 8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ シは スルという動詞。見ナサルというように 能動性をつけ加えている。メは ミの母音交替形。

 見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》。(2)から(6)までについて 不都合無し。(7)は 《寄せた》あとの動作について 直接に触れず 遠回しに言う。

 ここで 別の解釈をします。
 シを 使役の意に採る。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。
 すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できる。

 ただし モノを取り寄せるという用例では 合わない。
 おそらく この使役の語法は 第二次的であろう。
 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。ゆえに 《めし(召し・飯)・召しあがる・お召し物》という意味。


 メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞・シをとおして 第一次と第二次の用法が見られる。
 第二次の用法は 《上下関係》にもとづく尊敬語法。表面的でもある。

 第一次の用法は では 人びとの生活から 自生的に 起こったか。
 レル・ラレルという敬語法を見てみるとよい。古語で ル・ラル。
 これは 自然生成の相。
 《出来る》という可能の相も 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとする。

 能力があるという相を その表現に使えば 敬うかたちになる。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいまいか。身分関係にかかわらず 発生したのではないか?
 《敬遠》の語法は どうあつかうべきか。
 ~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-08-22 14:59:25

ANo.15

別の方からの質問( http://okwave.jp/qa/q7656410.html?rel=innerHtml&p=complete&l=1 )へも、福音の呼び水を導いてあげて下さいませ。
http://okwave.jp/qa/q1473771.html

投稿日時 - 2012-08-22 00:54:38

お礼

 ただいま回答を寄せて来ました。

 ○ 自敬語
 ☆ はわたしの高校までの学校では習わなかったと思います。

 ○ 尊大語
 ☆ これについても あやふやなままでした。今回わかりました。古代と現代とのあいだは 歴史も言語も 隙間だらけです。

投稿日時 - 2012-08-22 08:44:45

ANo.14

点数化され得る記録の競い合いは一定の評価基準によって支援されていますが、
武道等の対決の場合には、お互いの体調不良を成績に反映させ得ず、…。

投稿日時 - 2012-08-21 19:02:55

お礼

 そういう場合は くやしいーーーっと思えばよいのだと思います。
 
 今に見ていろと。

投稿日時 - 2012-08-21 19:26:03

ANo.12

深刻な慢性疲労等から我々を救済してくれ得る気力の引き当ては、
其の水に依存しているのでしょうか?
http://www.findai.com/yogo/0246.htm

投稿日時 - 2012-08-21 11:24:46

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうです。そうだと思います。

 人力の及ばないところで湧き出て来ましょう。

 ちょっと休めということも指示するでしょうね。

投稿日時 - 2012-08-21 11:37:46

ANo.11

『メンガーのスポンジ( http://www3.ocn.ne.jp/~fukiyo/math-osy/menger.htm )』の中の世界には、
何らかの意外なエネルギーが隠されているのでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-21 01:37:55

お礼

 つづきまして。

 これは どうなんでしょう。
 エネルギーがある・隠されているということでしたら このメンガーのスポンジに限らず どこでも・何であっても そうなのではないでしょうか?
 それとも メンガーのスポンジの場合には《意外な》エネルギーがということなのでしょうか?
 
 いえ 分かりません。そこに電磁波や光を閉じ込めるということも分かりません。

投稿日時 - 2012-08-21 06:10:20

ANo.10

水の流れを感じ取れれば象徴的な他者の存在証明の必要性が無くなるのですね。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060822/246123/

因みに、情けない事に、作者は自覚なさっていない様ですが、
アンパンマンの自己犠牲は、ジャムおじさんによる修復の可能性への甘えに起因しています。

投稿日時 - 2012-08-21 01:27:53

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 水の流れを感じ取れれば象徴的な他者の存在証明の必要性が無くなるのですね。
 ☆ そうですね。ここは げんみつに表現しようとしてみます。

 ★ 水の流れを感じ取れれば
 ☆ 《わたし》そのものが《水の涸れない泉となれば》でしょうか。そうしてその実際のチカラが発揮されたと思ったとき その泉のことに気がつくのでしょうし 水の湧き出ること・水の流れることを感じ取っている。のだと思います。揚げ足取りでごめんなさい。

 ★ 象徴的な他者
 ☆ この表現で分かるひともいるかと思いますが 一般的ではないように思います。
 《神》のことですよね?
 《絶対としての他者 / 大文字の他者 L'Autrui 》ということですよね?

 ★ 象徴的な他者の存在証明
 ☆ 《神の存在証明》のことだとしますと じつはこれは どうでもよいことです。つまり もともと《必要性が無い》はずです。

 なぜならば 非経験の場として想定される神は 無根拠のナゾです。根拠なしに想定されます。(つまりあるいは 神ということばがすでに持たれていて使われているそのことを取り上げることから出発したものです)。
 《神とは何であるか・存在するかしないか これについて人間は 分かるか分からないかが分からない》として想定されるかたちです。
 よって 存在証明にはもともとなじみません。

 仮りに存在証明をしたとします。出来たとします。けれども そうだとしたら その証明された神は 《思考の中におさめられた存在》ということになります。そういう概念なのでしょう。
 したがって 《非経験の場》として想定される神は その思考によっておさめられた神の概念を ひとつの説明とすることはあっても その概念ないし観念に取って代わられることはない。あり得ない。となると思います。

 ○ みづからの存在(身と心)が 水の涸れない泉となる

 ならば 鬼に金棒 孫悟空に如意棒です。そうなるほうが先決であるかも知れません。存在証明よりもです。




 ★ ~~~~
 因みに、情けない事に、作者は自覚なさっていない様ですが、
 アンパンマンの自己犠牲は、ジャムおじさんによる修復の可能性への甘えに起因しています。
 ~~~~~~
 ☆ ようつべで《アンパンマンとバイキン花火》という作品を見ました。
 アンパンマンがジャムおじさんに頼っているという問題よりも どうしてこれほど単純なのかとおどろきました。
 能天気の上にバカ丸出しのわたしが言うのですから その単純さは ひどすぎます。
 あるいは バイキンマンによるワルサやイジメを もっともっとして欲しいというドMではないかとも思われます。
 一つの作品のみを見て象を捉えたと思っている単純マンよりでした。

投稿日時 - 2012-08-21 05:56:09

基督公の自己犠牲は予定調和を思考していなかったのですね。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/prembk/NCC/NETPOINT/20050117/154824/zu1.html?ST=network

投稿日時 - 2012-08-20 15:09:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 基督公の自己犠牲
 ☆ これは ありません。
 むろん たとえば磔の刑を受けることによって じんるいの始祖のいわゆる原罪をあがなったと 正式に言われます。

   これについては もともと《原罪》――ないし人間の自由意志が
  善(生きること・ともに生きること)に反して発揮されるクセが 
  人の心にこびりついているそのありさま――を《へび ないし 悪
  魔》にかかわらせて物語られたこと自体が 理論的な内容にもと
  づくのではなく 世間のナラワシに合わせて取り上げられている
  だけだという事情があります。
   ですから この見方にもとづくなら イエスがこの原罪をその
  いのちに代えてあがなったという話は 付け足しでしかない。こ
  うわたしは 考えています。

 この贖罪という主題が 正式のもので理論(神学)としても欠かせないことだとしますと もしそうだとしますと そうだとしても 次のようになると見ます。
 すなわち 

  ○ キリスト・イエスは 自分でいのちを捨てることも出来ると言っていますが いまの主題である《十字架上におけるいのちと引き換えによる原罪のあがない》つまりは要するに《自己犠牲》を 自分で勝手に好き好んでえらんだだけだ。

 こうなると見ます。ですから
 ★ 基督公の自己犠牲
 ☆ これは ありません。人びとに対して わざわざ恩着せがましいようなことはしません。そういう姿勢ではありません。


 

 ★ 予定調和
 ☆ という考え方は あつかうのに厄介です。
 それこそ《人間万事塞翁が馬》でありまして 何が調和で何が不調和か これなどは 決めがたいところがあります。あるいは 決めてもいいのですが 同時に別の違った見方も出来るはずなのです。

 自分の馬が 野生の馬を引き連れて来たなら いいのでしょうけれど どこかの誰かの馬を誘って来たとなれば 結構なことではありません。

 ちょっと例示がはづれたかも知れませんが 一定の時間や期間を区切って ひとつの固定した見方に立って 調和である・調和でないと判断するしかありません。

 つまり早い話が 予定調和というその調和の状態は それが然りか否かが決まっているというのは 神から見ての話になる。こうではないでしょうか?
 そして その神の視点は 人間には分かりません。

 ですから
 ★ 基督公の自己犠牲は予定調和を思考していなかったのですね。
 ☆ という命題については
 (1) 《自己犠牲》は 基本的に ない。そう見えるだけ。見えるだけのところで 聖書記者も キリスト・イエスを誇りとしてのように 堂々とその《贖罪》論をぶっている。〔のみ〕。

 (2) 《予定調和》は それが一体全体 じっさいにどうであるかを判定するのは 人間には無理。
 仮りに キリストつまり神が 《予定調和を思考していなかった》かどうかを問うとすれば これも――神の視点においては ありうるコトかも知れませんが―― 人間には 答えるすべがない。となります。

 といった難題がついてまわっている。こう考えます。答えは出ない。となります。

投稿日時 - 2012-08-20 20:54:36

アンパンマンは『僕を食べなよ。』と頻繁に言っていますが、
此の質問文の水とは関わっていなかったのですね。

投稿日時 - 2012-08-20 13:51:50

お礼

 つづいてですね。

 ★ アンパンマンは『僕を食べなよ。』と頻繁に言っていますが
 ☆ これは 失礼しました。何も知りません。
 自己犠牲なのでしょうか?

 それはありません。自己の自由を追究するときに 結果としてほかの人のために犠牲になったということは起こるかも知れませんが そういう精神ではありません。

 ★ 此の質問文の水とは関わっていなかったのですね。
 ☆ ええ。重ねておわびします。

投稿日時 - 2012-08-20 13:58:06

自分の体から湧き出る水を他者達へと分け与える、
という態度は、『自分の頭を食べさせる餡パンman』と同じで、
酷く馬鹿げていませんでしょうか?

投稿日時 - 2012-08-20 12:40:45

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 微妙に読み違いを――わたしの舌足らずを棚に上げて言いますが―― なさっていましょうね。

 ★ 自分の体から湧き出る水
 ☆ これは 一人ひとりその内面において起こる出来事です。主観の専管事項です。

 それでは 
 ★ 他者達
 ☆ はどうするのか?
 それは それぞれの自分のやはり専管事項ですが 強いて言えば 《無根拠のナゾ》との関係が その人において問われています。

 人が人に対して カカワリまたはマジワリを持つのは 最大限に見積もって言えば その主観内の《うれしい洪水事件》の起きることに きっかけとなることはある。こういうことだと思います。



 そして 要らぬことをつけ添えればですが

   先の者は後に成り 後の者は先になる。

 という方程式も世の中ではざらに見られる。こう思いますが いかがでしょう?




 ですから
 ★ 『自分の頭を食べさせる餡パンman』
 ☆ という事態にはなりません。成ったら アンパンマンが泣きます。

投稿日時 - 2012-08-20 12:53:50

ANo.6

No.3のお礼への返答です。
モーセはアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神が全能の神であり、同じ神がモーセにYHWH(エホバ)(救い主)(キリスト)である事を明らかにしました。
ですから、イエスがキリストであると言う事は、多くのキリスト教が説いている旧約のアブラハムの神がキリスト・イエスであったり同じく天の父でもあったりするのではなく、人間の造り主の全能の神(エル・シャダイ)が人間の救出者キリストであると言う事です。イエス(全能の神)の造り主は至高の神(エル・エルヨン)で、アブラハムとは別系統のメルキゼデクの系統の神です。
そして、至高の神は我が子、人間の神であるイエスを死から救ったのです。
更に言うと、全能の神イエスは、生命として最初に生まれ、万物を生み出す者となったように、死からの復活と永遠の生命を初めて獲得した者として、他の披造物に対する復活と永遠の生命を与える権威を持つ者となったのです。

投稿日時 - 2012-08-20 08:22:52

お礼

 ぱんとまなさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 えっとですね。前提として 旧約時代において《キリスト=マッシーアハ(メシア)》がどう受け取られていたか? これが わたしにはっきりしません。

 エレミヤ書31:31以下に示された《あたらしい契約》に呼応すると見られるイエスの登場からは この《キリスト=メシア》は 《神の子でありみづからも神である》(ヨハネ福音冒頭)イエスにあてはめられた。けれども それ以前では むしろサウル ダヰデ・・・とつづく王が士師サムエルによって《膏をそそがれ》たというその人物を《メシア=キリスト》と呼んでいたのではないでしょうか?

 すなわち
 ★ モーセはアブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神が全能の神であり、同じ神がモーセにYHWH(エホバ)(救い主)(キリスト)である事を明らかにしました。
 ☆ このようにおっしゃるとき モーセにとってアブラハム以来の神が むろん同じ神でありつつ《キリスト》とも同じだと見なされるのは 新約での位置づけからさかのぼってあてはめている。という事情ではないか。こういま 思っているという意味です。



 ★ ~~~~~~~~
 更に言うと、全能の神イエスは、生命として最初に生まれ、万物を生み出す者となったように、死からの復活と永遠の生命を初めて獲得した者として、他の披造物に対する復活と永遠の生命を与える権威を持つ者となったのです。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ このご見解については 次のように受け取っているというのが わたしのホンネです。

 ○ ~~~~~~
 更に言うと、イエスという男はふつうの人間であるが同時に神の子でありみづからも神であるという――つまりキリストであるという――その存在 この存在としての神は、モーセよりもアブラハムよりも前から存在していた。

 しかもアブラハムの信仰ないしモーセの律法の時代から時を経て 《とき》が満ちたとき イザヤやエレミヤが語っていた人として イエスが出た。

 このイエスが 神でありつつ同時に人間であり 人間として死を死につつ しかも死からの復活と永遠の生命を〔初めて〕獲得した者として、他の披造物に対する復活と永遠の生命を与える権威を持つ〔神すなわち 子なる神と一体である父なる神を指し示す〕者となったのです。
 ~~~~~~~~~




 ★ ~~~~~
 ですから、イエスがキリストであると言う事は、多くのキリスト教が説いている旧約のアブラハムの神がキリスト・イエスであったり同じく天の父でもあったりするのではなく、人間の造り主の全能の神(エル・シャダイ)が人間の救出者キリストであると言う事です。イエス(全能の神)の造り主は至高の神(エル・エルヨン)で、アブラハムとは別系統のメルキゼデクの系統の神です。
 ~~~~~~~
 ☆ この系統論議は たとえばエデンの園でのヘビが揚棄されたように・そしていわゆる原罪がちゃらにされたように もうイエス・キリストのあとでは どうでもよいとされた。と認識します。
 永遠の生命だけが 主題であり課題である。(つまり趣旨説明欄の(α)です)。こういう認識であり そのことを問うています。


 ですから いわゆる宗教は いっさい要らないとイエスが言った。(つまり(β)です)。こうなると考えます。
 なぜなら エレミヤ書31:31以降では 《もう主は 人びとの罪を覚えず 人びとに主を知れと言う必要は無くなる》(趣旨を要約)と言っているからです。これが イエスによって成就された。
 どうでしょう?

投稿日時 - 2012-08-20 09:22:27

当時の為政者達が支配の為に定めたProtocolの1種なのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/ECHONET

投稿日時 - 2012-08-20 01:37:46

相対的なレピュテ~ションが機能しているのでしょうか?
http://mskot.xsrv.jp/mt/mt-search.cgi?search=%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD&__mode=tag&IncludeBlogs=14&limit=20&page=2

投稿日時 - 2012-08-19 23:41:53

お礼

 回答No.2から この投稿へ移るのに 何もなかったことにするその考え方には 同調し得ません。

投稿日時 - 2012-08-20 05:39:03

ANo.3

イエスがキリスト(旧約の全能の神のYHWH)でないと言う者は反キリスト以外何者でもありません。
とは言っても、三位一体でもエホバ教のエホバ天の父説ではありません。
>イエスが何故キリストか?。
モーセがモーセに現れた神、全能の神でモーセに初めて知らせたYHWHと言う呼び名の神について、モーセはこの神がキリストである事を認識して、「キリストゆえの侮辱をエジプトの宝よりも大いなる富だと考えたのです」。ヘブライ11:24.~26.。

投稿日時 - 2012-08-19 20:26:32

お礼

 ぱんとまなさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ご回答内容について何となく分かる。ということは よくは分かっていない。のだとまづ思います。

 そのまえに参照箇所をかかげます。
 ▼ (ヘブライ人への手紙11:23-27) ~~~~~
 23:  信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。

 24: 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、

 25: はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、

 26: キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。

 27: 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは おこないによってではなく信仰によって神に受け容れられるというような主題を歴史的な事例に即して述べているところだと思います。

 《信仰によって》であるなら 言ってみれば神もしくはキリストの問題であり なにごとも《キリストのゆえに》となると考えられます。

 子の父と 父の子とですから――と新約からさかのぼって捉えるなら―― 
 ★ モーセはこの神がキリストである事を認識して、「キリストゆえの侮辱をエジプトの宝よりも大いなる富だと考えたのです」。ヘブライ11:24.~26.。
 ☆ ということになるとたしかに思われます。

 思われるのですが そこから ではなぜ
 ○ イエスが何故キリストか?
 ☆ の答えになるのか。このつながりを 分かりかねています。
 どうしたもんでしょう?

投稿日時 - 2012-08-19 21:36:22

胡散臭い餡パンManの様ですね。

因みに、英国人達は幽霊屋敷でも恐怖を覚え難いそうです。

投稿日時 - 2012-08-19 10:20:48

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 理由説明が欠けていると申し上げねばなりません。


 ひとつの部分的な事例を持ち出し言いっ放しにするだけでは 回答を構成しがたいでしょう。

投稿日時 - 2012-08-19 10:45:44

ANo.1

イエスキリストは人間のご都合主義で作った人物。よって神様なんていません。そう思いませんか。

投稿日時 - 2012-08-19 08:08:34

お礼

 どんどこ4さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ イエスキリストは人間のご都合主義で作った人物。よって神様なんていません。そう思いませんか。
 ☆ というような人間たちの内側のまた裏側の事情について イエスはきちんと 理論じょう掃除をしたのではないでしょうか? 

 《掃除》と言うと 何でも掃いて捨ててしまうイメージになりますが 世のシガラミというシガラミを揚げて棄てた と言い直します。
 
 すなわち ただ声の大きさで右か左かが決められるような社会力学としてのみ成り立つような宗教 これを 元の核となっていた《個人の信仰》は残し あとは解体するという歴史を生み出した。

 たとえば こうです。
 ○ (世の《宗教》を弾劾する) ~~~~~
 1. 三度の飯よりもオシエ(倫理規範)が好きでオシエによって人を従えさせたいという根っからの策士が その支配欲に支配されてしまったご都合主義でつくった《宗教》。

 2. よって 想像でつくりあげた神様なんていません。あたまの中に想い描かれた観念の神は その初めから 死んでいます。

 3. そう思いませんか?

 4. という趣旨のことを イエスは言ったのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-08-19 09:31:18

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