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解決済みの質問

イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

 (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。

 (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。

 (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。

 (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。

 (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。

 (7) この虚構のからくりは 次のようである。

  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは医学や科学としての光に終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。

 
 この哲学を問います。よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2012-10-01 00:23:33

QNo.7725897

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質問者が選んだベストアンサー

こんにちはです。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 口幅ったい言い分になりますが ねむりねこさんのご見解は なお前史のにおいがいたします。どでげす?
~~~~~~
わたしの聖書や仏典の読み方は、自由主義神学的な立場なものなので。だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。
性分ですから、これはしょーがない。
前史、プレヒストリーですわな~。キリスト教型グノーシスの域を脱していない。
《蛇》、大好きなんです。ミルトンのサタン、大好きなんです。失楽園のサタンの中に人間を見てしまう。。。。
たぶん、悪鬼・悪霊の頭ベルゼバブのファミリーなんですよ、眠り猫は(笑い)



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 後史に入りかけている。つまり 二千年――ないし 神にとっては千年が一日なら 二日――ののち そろそろ というところではないのでしょうか?
~~~~~~
さぁ~。アガペーとエロスなんて言っている間は、まだまだなんじゃないですか。
でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。
何かの本で読んだ記憶があるのですけれども、違うのかな~。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 できれば経典の原文を添えて説明があることがのぞましいと思います。
~~~~~~
これは、わたし独自の考えです。ブディストは、こんなことを絶対に言っていない、と思います。ただ、復活と再生(再び生まれる、再び生きる)の宗教的意味を抜きにして、現象として復活を再生ととらえれば、こうした考え方もできるということを披露したまでです。ひとつ理屈をコネてみせた。
わたし自身、これがどんなに無茶なものであるか、よく知っています。また、キリスト教の《復活》と仏教などの《再生》を同一視するつもりは毛頭ありません。
しかし《復活》という概念は明らかに《再生》という概念に含まれますよね、包含される。《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。



そこで、一つ質問。
ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか?
ダニエル書では
「また地の下に眠りをる者の中 衆多くの者 目を醒まさん
 その中に永生に生を得るあり
 また恥辱を蒙りて限りなく恥じる者あるべし」 ダニエル書 12ー2
とあります。
「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。
ここのところはどうなっているのでしょうか。
イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった?
そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう?
これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。

投稿日時 - 2012-10-20 15:39:46

お礼

 話はさらにやはり佳境に入ってまいりました。(この時間 ちょっと昼寝をしていました)。

 ご回答をありがとうございます。


 (1)
 ★ だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。
 ☆ まったく同じ文章で同じことを わたくしも言います。そう思っています。

 そしてただしその思いを突き抜ける志向性の起こることをも感じています。
 そのふつうの思いだけで終えるなという心の明けを感じます。

 それだけです。そういうあやういつり橋をわたっています。
 それも 人間の思想の一端をになうことがありうると思ってのことです。


 (2)
 ★ でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。
 ☆ もしアガペーを感じるかと言われれば それは たとえばいまさっき述べたように 何だか知らない心の伸びが どこかに感じられるといったこと それなのかなぁというところです。
 
 たぶんこの志向性は――つまりあるいは 世界との関係におけるそのわが心のヱクトルのようなウゴキは―― エロスと言ってもそれほどマチガイではないように思われます。

 言いたいことは たぶん 概念・イデアは わが《非思考の庭》はそれらを超えている。です。
 知性や感性が 概念やイデアで《非思考の庭》を捉えるというよりは 非思考の庭のほうが 人間のふつうの生活および社会のことがらを捉える。(そのあと ふつうの世界観として 経験合理性にもとづく文章をのべなくてはいけませんが。つまり ヒラメキを解釈して定まった判断として明らかにせねばなりません)。


 (3)
 ★ 《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。
 ☆ えっ? そんなに複雑ですか?
 いえ 分かって言っているのでもなく 《ふるい人を脱ぎ あたらしい人を着る》 これだけだとも思っているのですが。

 ★ その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。
 ☆ いまの身と心 身体と精神 このような自然本性のヒトが すっかり《霊の身体》に成り替わる。霊の身体にも 身と心とがあるのだと思います。あたらしい自然本性としてよみがえるのだと思います。

 そのとき復活・再生と言うのですから 《わたし》はそれぞれにおいて保たれる。こうも思います。
 あたらしい天とあたらしい地とともに あたらしく成るのだと予感されます。


 (4)
 いまは 《予感》を持ったその上で 具体的に社会にあって何が出来るか。これを問い求めて行けばよい。人間観や存在論をさらにあたらしくし深めて行くこと。

 そのように実際 誰もが生きているし 実践していると思います。

 わづかに その《予感》の点でわたしのような風変り人間が出しゃばって 歴史の方向をああぢゃこうぢゃと言うという情況になっているのだと見ます。


 (5)
 ★ ~~~
 そこで、一つ質問。
 ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか?
 ~~~~
 ☆ わたしの答えは わからない です。もっと露骨に《知りません》と言いたいところです。
 黙示というのは 啓示と同じことだという見方もあるようですが 必ずしも経験合理性において意味が通じるというものではない。と言うより ぜんぜん理解が出来ないか 定まらない。と思います。
 ほんとうに《分からない》 これが答えなのですが?

 ですから 復活については パウロに拠るべきだと考えます。
 あるいは その人自身の独自のヒラメキによる解釈が これからは出されて来るのではないでしょうか。

 肉の身体(身と心)があるなら 霊の身体(あたらしい身と心から成るあたらしい自然本性)もある。これだけで――この予感だけで―― いまは進んでもよいと考えます。

 (6)
 いちばん分かり易い考えを披露します。ずばり復活のことではないのですが それでも こうです。
 いまふつう寿命は 百歳だと見るとすれば その点ではずばり再生が成るとするなら 平均寿命が二百歳になるということ。です。これも 復活の内に入るのではないかと思っています。
 ズッコケますか?

 それ以上は延びなくてもよい。二百年は 人間にとってもうすでに永遠です。不死です。



 (7)
 ★ ~~~
 「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。
 ここのところはどうなっているのでしょうか。
 イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった?
 ~~~~
 ☆ エレミヤによるなら そのようにイエスの出現によって変わったとなると思います。


 ★ そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう?
 ☆ ここは 例の予定説にかんする扱い方を応用します。たとえ《永遠に〔恥ぢる〕》のだとしても それは 人間には分からない。誰がそうなるのかは 人間に知らされてはいない。無理である。こう言って 話を打ち切ります。


 ★ これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。
 ☆ そうですね。
 おまえのカオスとノモスとエロスその他その他全部をひっくるめて 心の真実をのべよと言われれば 

  ○ 最後の審判は どうでもよい。

 これです。聖書の記事を無視します。という意味です。
 なぜなら 《永遠の現在》としての《非思考の庭》 これのわが動態を思うのみ。だからです。 
 たぶん最後の審判も このわが《永遠の今》にひっかかっていることでしょう。でも どうでもよい。心底から そう思います。

投稿日時 - 2012-10-20 17:27:00

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回答(31)

ANo.30

こんにちはです。

今回はわたしのカオス部分を前面に出したので、あまり真剣に考えられても困るのですが。。。。
理論的整合性などまったく考えていませんし、思いつくままにただ書き散らしただけなので。

ただ、イエスの死とゴータマの死に対してつづった福音書と仏伝の間に多少の共通の類型が見られること、そして、このことに基づいて、法華経の如来寿量品を手掛かりにイエスの十字架(の意味)に新たなスポットライトを当てることが可能なのではないか、と言いたかっただけです。

イエスの十字架は神イエスの人類への愛アガペーであり、bragelonneさんのいうところの《大嘘》、法華経の《方便》と考えれば、
イエスの十字架 = 方便 + 神への愛・エロス = 神イエスの愛・アガペー + 神への愛・エロス
と置き換えることもできます。
ここでのエロスは、プラトンの饗宴でソクラテスが述べたエロスの意味です。
つまり、イエスの十字架は「神の恵みであるとともに、その恵みの意味を知れ、自身で探れ」という我々へのメッセージ、福音なのではないか。そうした解釈もありえるのではないか、と言いたかったわけです。

ひどくbragelonneさんを混乱させる結果になってしまいました。反省、反省。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 という意味は どのように
 ★ アムリタを飲む
 ☆ のでしょうか? という問いが残るのではないか。
~~~~~~
キリスト者はキリストの教えによってでしょう。違うんですか?
キリスト者に「ブッダの教えによってアムリタを飲め」なんて無茶なことを、わたしは、言いませんよ。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 そのとき ですから
 ★ アムリタを飲み、不死になった。
 ☆ ということが すでに成就していると はっきり言ったか? じっさいに成就していると語り切ったか? そしてその成就が 組織宗教には関係なく 信仰についても どの神をいだこうともそれには関係なく この世界の人びとに成り立っていると明らかに述べたか?――これが 争われると考えます。
~~~~~~
もう嫌だなぁ~、アムリタを飲まなくても、ブディストは、色々な意味で不死なんですって。姿形を変えて、何度でも何度でも復活する。イエスさまに言われる前から、ブディストは、自身を含め、すべての生きものが復活を信じている、確信している。でなければ、その人はブディストと定義できない。そして、
復活の質的転換、それが無余涅槃や菩提、つまり、仏になること。
なので、
輪廻を説いただけで十分。復活を口にする必要はない。それはアプリオリのことである。そして、それはどのような神をいただこうが同じである、というになりはしまいか。
むしろ、イエスのようにゴータマに復活してもらったら困る。そして、ゴータマが復活しなかったということが、復活の(質的変換が可能であるという)真の証。そこに、ブディストはゴータマの、永遠不変の相としての復活の姿を見るのである。
言葉遊びに過ぎますでしょうか。

投稿日時 - 2012-10-20 11:02:25

お礼

 ええ。自由論文ないし随筆でまいりましょう。

 ねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 でも質問者としては 理論中の理論ですから 気を抜くわけには行きません。

 (1)
 ★ ここでのエロスは、プラトンの饗宴でソクラテスが述べたエロスの意味です。
 ☆ 次に確認のために引用します。

 ▼(ヰキぺ:饗宴) ~~~~ 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A5%97%E5%AE%B4

 § 構成

 2.ソクラテスの演説 - ソクラテスは自分の説ではなく、マンネンティア出身の婦人ディオティマに聞いた説として、愛の教説を語る。

 愛(エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち愛は自身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。

 これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。

 このような生産的な性質をもつ愛には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。
 愛は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知者(ピロソポス)である。
 愛がもとめるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデアであり、美のイデアを求めることが最も優れている。
 美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の愛である。(以上、ディオティマの説)
 ~~~~~~~~
 ☆ おおむね よくもわるくもイデアとしての《宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)》との一体をめざすものと思われます。

 (2)
 ★ つまり、イエスの十字架は「神の恵みであるとともに、その恵みの意味を知れ、自身で探れ」という我々へのメッセージ、福音なのではないか。そうした解釈もありえるのではないか、と言いたかったわけです。
 ☆ で この質問としましては もうすでに《この神のめぐみは キリストの神ではない別の名の神のもとであっても 無い神のもとであっても それらが《非経験の場》として想定される内容に合致するかぎりで あたえられており そなわっており すでにハタラキを表わしている》と イエスは語った。

  ○ めぐみの上にめぐみを われわれにあたえた。(ヨハネ福音一章)

 のであると。すでに一つ目のめぐみが エレミヤ書31:31以降のくだりです。《人びとよ きみたちの過去のあやまちについて われ(ヤハヱー)は関知せず。また 人びとに われ(=神)のことを知れと言っておしえることはなくなる。》と。イエスの誕生と死とで これが 成った。

 二つ目のめぐみは?
 《あたらしい天とあたらしい地》の成ること。ふるき人を脱ぎ あたらしきわれを着ること。
 前史を終え 後史をはじめるということ。その意味で われわれの身と心とでのよみがえり。かな(?)

 

 口幅ったい言い分になりますが ねむりねこさんのご見解は なお前史のにおいがいたします。どでげす?


 (3)
 ★ ~~~~
 キリスト者はキリストの教えによって〔* アムリタを飲むということ〕でしょう。違うんですか?
 キリスト者に「ブッダの教えによってアムリタを飲め」なんて無茶なことを、わたしは、言いませんよ。
 ~~~~~
 ☆ ですから イエスは 死を死んだのち復活したとして大嘘をそのまま引き継ぐかぎりでは 人びとよ われわれは それぞれすでに アムリタを飲んでいるのだ。だいじょうぶイ。と語った。

 後史に入りかけている。つまり 二千年――ないし 神にとっては千年が一日なら 二日――ののち そろそろ というところではないのでしょうか?


 (4)
 ★ ~~~~~
 もう嫌だなぁ~、アムリタを飲まなくても、ブディストは、色々な意味で不死なんですって。姿形を変えて、何度でも何度でも復活する。イエスさまに言われる前から、ブディストは、自身を含め、すべての生きものが復活を信じている、確信している。でなければ、その人はブディストと定義できない。そして、
 復活の質的転換、それが無余涅槃や菩提、つまり、仏になること。
 なので、
 輪廻を説いただけで十分。復活を口にする必要はない。それはアプリオリのことである。そして、それはどのような神をいただこうが同じである、というになりはしまいか。
 むしろ、イエスのようにゴータマに復活してもらったら困る。そして、ゴータマが復活しなかったということが、復活の(質的変換が可能であるという)真の証。そこに、ブディストはゴータマの、永遠不変の相としての復活の姿を見るのである。
 言葉遊びに過ぎますでしょうか。
 ~~~~~~~~
 ☆ ということを――わたし自身は これまでまなんだ限りでは ブディズム全般から――読み取れませんでした。と白状しているというのが この質問の姿勢でもあります。
 
 でしたら このあたらしい福音を大々的に何度でもまた地の果てまでも つたえて行くべきです。

 できれば経典の原文を添えて説明があることがのぞましいと思います。
 そして ブディストたちのあいだで 自由な話し合いをもってさらに展開していくということになりましょう。ほかの信仰者たちとの話し合いも とうぜんのごとく 持たれましょうし。



 (5)
 ちなみに その復活のすがたが成就するには――理論上はすでに成っていると思われますが 実地に実現するには―― 《きっかけ》は必要ですか?

 わたしの考えでは キリストの名を受け容れるひとの場合には 要りません。
 それでも ほかの名の神によって《身と心が涸れない泉と成る》ことと《その姿であたらしい人への復活》を目指す人のばあいには――わたしの片寄った見方では―― 十字架上のイエスがそのキッカケになるのではないかと 推し測っています。


 (6)
 そうですね。
 これで だいたいの見取り図が いっしょに描けたのではないでしょうか?
 これを深めて行く作業が 待っていましょうか?

投稿日時 - 2012-10-20 13:13:26

ANo.29

あっ、もっといいことを思いついちゃった。
《泉》や《水》は、仏教の《甘露》・アムリタですよ、アムリタ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%82%BF
アムリタを飲むと不死になるんですよ。インドの神々はこのアムリタを飲み、不死になった。
涅槃界は、パーリ語仏典で甘露界とも呼ばれている。
そして、アムリタと阿弥陀如来は、深い関係がある。阿弥陀如来根本陀羅尼(別名十甘露呪)では、
「阿弥陀仏の無限(アミタ)の慈悲を甘露(アムリタ)とたとえ。。。。」
(中村元編 大乗仏典 筑摩書房)
ているんですよ。

仏教らしからぬ他力型の阿弥陀信仰とキリスト教。
法然の罪の意識とキリスト教の原罪思想。

な~んてね。

投稿日時 - 2012-10-20 00:41:39

お礼

 ええ。
 図式として たぶんそうなのでしょうね。

 という意味は どのように
 ★ アムリタを飲む
 ☆ のでしょうか? という問いが残るのではないか。


 ★ 不死
 ☆ つまり《復活》とそして《闇を晴らす光とみづからが成る》こととは 同じと言ってもよいかと思います。たぶん 段階があると思うのですが 総じて同じと見てよいとします。
 そのとき ですから
 ★ アムリタを飲み、不死になった。
 ☆ ということが すでに成就していると はっきり言ったか? じっさいに成就していると語り切ったか? そしてその成就が 組織宗教には関係なく 信仰についても どの神をいだこうともそれには関係なく この世界の人びとに成り立っていると明らかに述べたか?――これが 争われると考えます。

投稿日時 - 2012-10-20 00:51:23

ANo.28

こんばんはです。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ★ (α’)ゴータマは自らの寿命を伸ばすことができたが
 ☆ というとき イエスにあっては裁きを受けてはりつけの刑に処せられているその状態が 違うと思われますが この違いにはこだわらないこととします。
~~~~~~
悪魔の「そろそろよろしいのではないですか。ここらで、お隠れになってもよろしいんじゃないですか」という誘いがあったでしょう、ゴータマ・ブッダ。
ゴータマの「俺、寿命を伸ばせるのだけれど。。。」という問い掛けに対して、悪魔に心を支配されたアーナンダは答えなかった。これはユダの裏切り、あるいは、人によるイエスの裁きに相当する。この結果、ゴータマは死ぬことになった。つまり、イエスの十字架による刑死とブッダの自然死は、死の形の相違にすぎない。重要なのは、人の裁き・判断によって、イエスとゴータマが死んだという事実とその死の意味ではなかろうか。
どちらも、人間のために死ななければならなかったのだ。
死の形ではなく、人間のために死ぬということを重視するべきではなかろうか。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 (1) 《泉の水が川と成って わが心に 流れ出す》といったふうに・あるいは《わが心は 涸れない泉となる》というふうに ゴータマ・ブッダは 言いましたか?
~~~~~~
すいません、この言葉の出典がどこなのか思い出せないので、イエスの言葉から

ヨハネによる福音書 第三章
4:13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 4:14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

この水 → 渇愛、物質的欲望
わたしが与える水 → ゴータマ・ブッダの与えた教法
永遠の命 → 涅槃
至る水 → ゴータマの教法 or 如来蔵
なんてどうでしょう。

ちなみに、この個所は、かつて、パーリ語仏典のアーナンダが賤しい娘から水を求めた個所との近親性が確か19世紀にヨーロッパで議論になった箇所です。つまり、仏典からのパクり疑惑がもたれた(笑い)。




☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
  ☆☆ われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らした

 かも分かりませんが 《闇そのものを光に変えた》でしょうか?
 みづからの心の中の闇は 明知へと変えた。でしょうか? では 人びとの心の燈心に火をともしたでしょうか?
~~~~~~
闇 → 無明
光 → 自性清浄心 or 光り輝く心
の図式でクリアーできるのではないか。
心の燈心 → 自灯明
でいかがでしょうか。 もっとも、自灯明の灯明は、本来、《島》を意味するので、少し塩梅が悪いのですが。
ゴータマの教え、ブッダが涅槃したという事実が、人々の心の燈心に火をともしたんじゃないですか。輪廻の軛から解き放たれることを証明した。
でも、涅槃は、ロウソクの火が消えることの意味か、ポリポリ。ゴータマ自身の火を人々に分け与える、布施する、廻向するのが涅槃と考えればいいか。



☆☆☆☆☆☆
こんなことを真面目に考えているわけではないですよ。
ただ、法華経の如来寿量品を手掛かりにして《イエスの十字架》の意味を考えることも可能になるのではと。
イエスという存在の出現によって、神と人間との関係が正常に戻ったことが示された。(実は、前から正常な関係ではあったが、人々は失われたと考えていただけ。)
そして、イエスはその関係・絆が再び失われないようにするため、死ななければならなかった。死んでしまったイエスを思慕し、神を忘れないようにするために。そして、この世にいつまでも存在して、人々が神で人であるイエスを頼りにしないために。

よ~するに、イエスの十字架 = 方便 + 神へのエロス論です。

いかがでしょう?



☆☆☆☆☆☆
復活は、さすがに仏教的にまずい。
ですが、死んでしまったゴータマ、大乗では新たなブッダとして生まれ変わっていますし。それを復活とみなすことも可能なのではなかろうかと。
これはさすがに屁理屈にすぎるか、ポリポリ。

投稿日時 - 2012-10-19 23:34:55

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 (1)
 ★ ~~~
 重要なのは、人の裁き・判断によって、イエスとゴータマが死んだという事実とその死の意味ではなかろうか。
 どちらも、人間のために死ななければならなかったのだ。
 死の形ではなく、人間のために死ぬということを重視するべきではなかろうか。
 ~~~~~
 ☆ あぁ。なるほど。そういう事情がありましたか。
 ただ どうでしょうね。イエスは人間の貌(かお)とキリストという神の貌とを同時に持つと考えます。
 その意味は ゴータマは ブッダでもあるのですが あくまで人間ゴータマ・ブッダという・言ってみれば〔とうぜんなのですが〕ひとえ(一重)の存在だと思うのです。
 十字架のさかづきを飲むイエスは 人間の貌として大声で泣き さかづきを去らせてくれと神にねがいました。最後は みこころのままにと 身も心もゆだねましたが。
 しかも キリストとしての神の貌にあっては のぞんでこの死地に就いたわけです。むろん 人びとからの排除という圧力を受けまた裁きを受けるというように 決して自死ないし自殺行為ではないかたちを取った上でです。そうですが 自分の命を捨てることも〔ふたたび〕得ることも出来ると言ってもいます。
 明らかに――話のかぎりでは――ふたえ(二重)の性格のもとに コトがはこばれています。

 おそらく それでこそ――二重の貌として存在するという仕組みであってこそ―― 《ひとの心の燈心をともすことができる》のであろうと思われます。

 つまりはたぶん 《寿命を延ばせる》ということと微妙に事態がちがうように思います。それだと 延命と言いますか 寿命の自由自在な調整といったことが 人びとよ きみたちも出来るよと言ったかたちではないかと。《心の燈心をともす》のと微妙に違っているような。

 この論点は 次にも継ぐことになります。


 (2) 
 ★ ~~~~
 この水 → 渇愛、物質的欲望
 わたしが与える水 → ゴータマ・ブッダの与えた教法
 永遠の命 → 涅槃
 至る水 → ゴータマの教法 or 如来蔵
 なんてどうでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ 微妙と言いますか 《教法・如来蔵》のその実際のハタラキがどうであるかがよく分からないのですが 何度も――たとえによってですが―― ふたつのコトを分けています。つまり 《オシエが光として闇を照らす》ということと《人の心の燈心そのものを火としてともし 言わば光そのものとなる。ゆえに 闇そのものを光に変える》ということとは別だと見ています。
 後者を ブッダは言っていないのでは? という見方に立ちます。

 たしかに如来蔵ないし清浄心であるなら すでにわが心そのものが――闇ではなく――光となっていると言えるかと思いますが ひとつに はっきりそう言っているかどうかの問題であり もうひとつに そうなる(仏性が現実にハタラキを持つ)には 何らかのきっかけが必要であるのではないか この問題があると思います。
 
 すでに闇はなく光である――ただしこの世界全体としては・その中にあって闇をも見ている――ということが なんらのきっかけもなく(もしくは 十字架上の死とそのあとの〔物語としての〕復活をきっかけとして) 実現している。とイエスは 旧約からの聖書全体とともに 語った。
 そういう意味での《即身成仏》です。
 微妙にブッダないしブディズム全般は これとは違うように思われます。どこかに小さな狭い溝がある。ように思えます。これは 感じです。というのは 直接にはっきりと《心が涸れない泉になる》と言っていないとしたら そうだという意味です。

 次も同じ主題がつづきます。


 (3)
 ★ ~~~
 光 → 自性清浄心 or 光り輝く心
 の図式でクリアーできるのではないか。
 ~~~~~
 ☆ それに プラスきっかけが要るのでは?

 ★ ~~~
 心の燈心 → 自灯明
 でいかがでしょうか。
 ~~~~
 ☆ 《灯明》と捉えて考えるとしても 微妙に違いを感じるところというのは 自灯明の場合は むしろ人間がみづからの意志と知性や感性とで《おのれの燈心をともす》と言っているように聞こえます。(《自分を島とせよ》という場合には よけい自力の問題になっていると考えられます)。
 趣旨説明欄の(ε)の言うように 《闇を照らすこと》と《闇を晴らすこと》との違いが残るように思われます。

 さらに考えるなら
 ★ 輪廻の軛から解き放たれることを証明した。
 ☆ かも知れないけれど
 ★ ゴータマの教え、ブッダが涅槃したという事実が、人々の心の燈心に火をともしたんじゃないですか。
 ☆ と はっきり言えるかどうか? この一点で どうもあいまいなままではないか? という心配です。自分でそれぞれ灯明になれと言ったかも知れないけれど オシエや涅槃の実現が心の燈心をともしたかどうか? そういうのぞみを持たせた。とは言えるのでしょうね。

 

 (4)
 ★ ~~~~
 そして、イエスはその関係・絆が再び失われないようにするため、死ななければならなかった。死んでしまったイエスを思慕し、神を忘れないようにするために。そして、この世にいつまでも存在して、人々が神で人であるイエスを頼りにしないために。

 よ~するに、イエスの十字架 = 方便 + 神へのエロス論です。

 いかがでしょう?
 ~~~~~~
 ☆ たぶんイエスの・歴史における出現の意味は ひとえに《心の燈心がすでにともっている》と知らせること――その根拠は無根拠であるということ・強いて言えば 十字架上のわたしを思えというきっかけを見せた――であると考えます。
 無根拠という意味は 神はひとつだということ。全体という意味で ひとつ。それは 類型としての一般概念と見立てた《梵我一如》の構図が あらゆる神に――そして《無い神》にも――当てはまるということ。
 この理論を語ったこと。ここに歴史的な登場の意味があると思います。
 宗教は要らない。信仰は 類型としてひとつ。そのチカラは 心の燈心の火であり 涸れない泉の水であると。それは すでにともされており 水は流れているよと。

 こういったことを ブッダは言ったかどうか。それが 避けて通れない主題であり論点であろうと考えます。

投稿日時 - 2012-10-20 00:42:57

ANo.27

こんばんはです。


今回はめずらしく、カオティック眠り猫の心の声でございます。

十字架の意味を考えず、これをただ生理的な死とし、神を仏と置き換えれば、ゴータマ・ブッダとその死の問題に早変わりだわな。
これは、法華経の如来寿量品と同じロジック・構図になりはしまいか。そして、《大嘘》は《方便》に早変わり!!


(α’)ゴータマは自らの寿命を伸ばすことができたが、それでは自分が人間とは無縁な存在であるということになってしまう。(だから、死んでみせた)

(β’)だから、ゴータマは仏として去った。もし、ゴータマがただの人間であったならば、それまでの彼の活動を含めて、すべて殊勝な目立ちやがりやのやったこと。

(ζ’) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく ゴータマはみづからが仏なる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

(η’) それは 人間にできることではない。永遠のブッダ・その(分)霊である応身仏ゴータマのみがよく成し得る。と示した。

(θ’) しかもこれらすべては 《方便》である。一編の虚構である。

な~んてね。

でも、ここは、中観的なロジックではなく、岩本裕訳・法華経の如来寿量品偈の美しい日本語訳詩をもとに、詩型にした方が良かったのでは。
その方が哲学を芸術の一つのカタチとしてとらえるbragelonneさんの本意にかなっているのではないかと(笑い)。

それを僕にやれとは言わないでくださいよ。僕には芸術的才能、とくに文学的な才能はまったくないもので。

投稿日時 - 2012-10-19 17:04:18

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ (α’)ゴータマは自らの寿命を伸ばすことができたが
 ☆ というとき イエスにあっては裁きを受けてはりつけの刑に処せられているその状態が 違うと思われますが この違いにはこだわらないこととします。

 そうしますと
 ★ (ζ’) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく ゴータマはみづからが仏なる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。
 ☆ このひとつの項目にのみ こだわりを残すように思います。

 (1) 《泉の水が川と成って わが心に 流れ出す》といったふうに・あるいは《わが心は 涸れない泉となる》というふうに ゴータマ・ブッダは 言いましたか?

 (2) つまり

  ☆☆ われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らした

 かも分かりませんが 《闇そのものを光に変えた》でしょうか?
 みづからの心の中の闇は 明知へと変えた。でしょうか? では 人びとの心の燈心に火をともしたでしょうか?

 (3) ですから このうたがいにマチガイがなければ 

  ☆☆ (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。

 のは イエスのみだと まだ思えるのですが どうでしょう?



 (4) 《さとり ないし すくい》の一般類型としての《梵我一如》 これは 《闇を照らす光》として 世界史上いくつか現われた。
  では 闇そのものを光に変えた。そしてそうすることを 万人に成しうるようにさせた。のは どうもイエスひとりであるように わたしには写ります。
 狭隘さを指摘いただければ さいわいです。


 つまり キリスト・イエスは そのように心の燈心をともしますよとみづからが言っているというそれだけのことなのですが。
 おとぎ話の世界に足を踏み入れている議論ではありますが。

投稿日時 - 2012-10-19 21:46:20

ANo.26

そういう虚偽の目的は何だったのでしょうかねぇ。

投稿日時 - 2012-10-17 22:33:16

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ただし 微妙に誤解があると考えます。

 ★ 虚偽の目的
 ☆ ではなく 《大嘘をつく》ことを手段とする ということです。

 《目的》は 趣旨説明欄に書いているとおりです。《わたし》の心の燈心をともすことです。

投稿日時 - 2012-10-17 23:11:02

ANo.25

なるほど。この点に関してはこれ以上議論しても無意味でしょうか。



この点で私からの結論を繰り返すと、

クリスチャンは自分の罪と格闘してきた。
神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることができる。

となります。


その他の論題についても恐らく平行線でしょうか。しかし、

御子イエスはある時点で「生まれた」。
ゆえに、御子は御父なる神から創造された者。

ということになります。心のどこかに留めておいてください。

投稿日時 - 2012-10-09 12:04:24

補足

 つぎのような聖句があるにはあります。


 ▼ (箴言8:22- ) ~~~~
 8章 22節:  主は、その道の初めにわたし(=知恵)を造られた。

  いにしえの御業になお、先立って。

 23: 永遠の昔、わたしは祝別されていた。

  太初、大地に先立って。

 24: わたしは生み出されていた

  深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

 25: 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが

  わたしは生み出されていた。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ ここは 《ことば(ロゴス)》ではなく 《知恵(ホフマー・ホクマー)》(箴言8:1)です。

投稿日時 - 2012-10-10 01:06:38

お礼

 応えは要らないという意味でしょうか?




 念のために:
 1. 《罪との闘い》をわざわざ置くのは ご自由です。

 2. それを 人間のチカラのみで勝利にみちびくと思うのは たぶんマチガイでしょう。

 3. 《はじめにことばがあった》と言っているのに
 ★ 御子イエスはある時点で「生まれた」。
 ☆ というふうに《ある時点》を持ち出すのは いかがなものでしょう?

 
 

 今回のご回答内容は ぜんぶきれいさっぱり忘れます。

投稿日時 - 2012-10-09 13:18:39

ANo.24

イエスには『ノーベル平和賞』を贈れな…!?

投稿日時 - 2012-10-09 04:03:42

お礼

 どうでしょうねぇ。

投稿日時 - 2012-10-09 04:53:38

ANo.23

No.22です。

ご指摘のとおり、ローマ1:17のように、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。

そして、改めて言うのですが、その信仰は行いによって証明されなければならないのです。これが先回挙げたヤコブ2:17。それは、かのアブラハムでさえもそうでした。

「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」ヤコブ2:22

そして、アブラハムの時と同じように、その行ないが本当に神とキリストの目にかなっているかどうか、つまり是認を得られるかは、私たち人間ではなく、神がお定めになる基準に基づいているのです。それを教えているのが、先回挙げたマタイ7:21です。自称クリスチャンすべてが是認を得られるのではありません。

ですから、イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と勧めました。「神の義」にご注目。神の是認を得るには、この神の義に達する必要があります。

その実例が、ローマ10:1-3にあり、パウロは当時神殿で奉仕していたユダヤ人についてこう言いました。

「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」

ですから、「神の義」という神の定める基準に達するのでなければ、神からの是認は得られません。自分が勝手に定めた「自分の義」をもっては是認を得られません。

しかし、私が捌くのではありません。聖書によって示されている神の義の基準に基づいて人々は裁かれるのです。しかし、そのような不利な裁きに陥らないよう、人々は「狭い門」をくぐるように精力的に励まなければならないことを私は指摘しているだけです。それを怠り、かの審判の日に有罪の裁きを受けることがないようにするためです。聞く耳のある人は聞きなさい。

投稿日時 - 2012-10-08 16:44:53

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 (1)
 ★ そして、改めて言うのですが、その信仰は行いによって証明されなければならないのです。これが先回挙げたヤコブ2:17。それは、かのアブラハムでさえもそうでした。
 ☆ それは 人によります。あるいはつまり 神の気ままによります。決まっていません。あるいはつまり われわれ人間が決めるものではありません。

 (2)
 ★ 「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」ヤコブ2:22
 ☆ つまり
 ▼ (ヤコブ書 2:21-26) ~~~~
 21: 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。

 22: アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。

 23: 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

 24: これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。

 25: 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。

 26: 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 弱ったなぁと言わなければならない聖句ですね。
 二点あります。

 (2-1) 《信仰だけによるのではなく おこないをともなってこそ義とされる》 これは 人びとからそう見なされるという意味に解するのが よいと思われます。
 言いかえると おこないを伴なわない場合には その人の信仰をうたがう人がいるということを意味します。
  そして それだけのことです。言いかえると 信仰によってあゆむ。ゆえに 必要に応じておこないをも伴なわせることが出来る。です。
 だけれども そういうことを 他人(ひと)が言うことではないはずです。裁こうとすることになるからです。

 (2-2) おこないが伴なうというのは やはり人によります。人それぞれです。アブラハムはアブラハムなりにおこないを伴ないました。
 というよりも これは あくまで神による試練であって そうではなく信仰を得てからの 日常生活における実践という意味では 別にもんだいはない。こう言うべきだと考えます。社会生活をまともにいとなんでいること これが 《おこない》だからです。
 なぜなら もうすでに《神を知れと言っておしえることはなくなっている》からです。

 ▼ (ヤコブ2:26)・・・行いを伴わない信仰は死んだものです。
 ☆ これは 抽象的すぎます。《おこない》という言葉の意味するところとしてです。アブラハムの事例としてなら それは ふつうの一般的なおこないではなく わざわざ神がその信仰を練り上げるためにあたえた試練ですから 《おこない》と言っても 特殊だと見るべきでしょう。
 やれやれ ヤコブは人騒がせなり。

 (3) 
 あとは 聖書から聖句を引っ張り出して来て おのれの物知りぶりをひけらかしている。としか映りません。
 その《おこない》こそが 《自分の義を求めている》のではないですか?

 ★ 聞く耳のある人は聞きなさい。
 ☆ ではなく そうではなく 自分がどのように聞いたか それを互いに伝えあって 信仰を深める。という段取りであるはずです。なんでそんなに声高にさけばねばならないのでしょう?
 神のはかりごとに どこか欠陥があるというのでしょうか? それとも 神の世界の進め方が 遅いといった不平不満なのでしょうか? それとも 何でしょう?

投稿日時 - 2012-10-08 17:29:16

ANo.22

No.21です。

最も重要だと思われる点だけ取り上げます。

>☆ 個々の罪が残っていることは 共通の理解に立てました。〔はじめから そう言って来ています。⇒上記(1)〕。
>それと同時に 今度は 違和感をおぼえることは わざわざ《格闘しなければならない》と言っていることです。その必要はありません。


要するに、贖罪後は、神と「無条件で」和解が成立する、という見解でしょうか? あるいは、それにはやはり「条件」がありますか?

その条件には、もちろん、信仰が必要であることは明らかだと思います。さらに、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」とヤコブ2:17で言われています。

それゆえ、イエスはマタイ7:21で、「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」」と言いました。それゆえに、マタイ7:13で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とも言われたのです。

キリストの贖罪によって「神との和解」への道が開けました。しかし、それによって「神からの是認」が自動的に得られるのではありません。では、どうすれば、その是認が得られるのでしょうか? 神が示す義の基準に達するにはどうすればいいのでしょうか? 実際、アダムはその義の基準から逸脱したためにエデンから追放されたのです。

改めて質問します。贖罪後なら、すべての人が、エレミヤ31章のような状態に達することができるとお考えですか? あるいは、それに該当する人には何か条件がありますか?

投稿日時 - 2012-10-08 15:22:47

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 (1)
 ★ 要するに、贖罪後は、神と「無条件で」和解が成立する、という見解でしょうか?
 ☆ わたしという人間の口から言う言葉としては その答えは 《無条件に》です。
 神は この意味合いでは 無根拠のことです。不合理極まりないチカラです。



 (2)
 ★ その条件には、もちろん、信仰が必要であることは明らかだと思います。
 ☆ イエスの生誕のとき真っ先に知らせを受けたのは 羊飼いの少年たちです。無条件にです。
 風は 気ままに吹くのです。

 (3)
 ★ さらに、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」とヤコブ2:17で言われています。
 ☆ 毎日の生活を家族や会社や地域の人びととまじめにいとなんで行くこと これが 《おこない》です。

 (4)
 (2)および(3)において
 ★ それゆえ、イエスはマタイ7:21で、「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」」と言いました。
 ☆ となります。

 (5)
 ★ それゆえに、マタイ7:13で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」とも言われたのです。
 ☆ だいじょうぶ。門は開いています。みちびくのは あなたではなくまた人間ではなく ・・・ですから。
 まさか あなたが 右と左とに人びとを捌こうというのではないでしょうよ。だったら 心配ご無用。

 (6)
 ★ キリストの贖罪によって「神との和解」への道が開けました。
 ☆ これが マチガイ。(1)でも《贖罪後》と言うようにそうでしたが これつまり《贖罪によって》という見方は あさってのほうを向いているという意味でのマチガイではありませんが 神との和解は 天地の創造の初めから出来ています。それが 神のみこころです。あったりまえぢゃん。

 (7)
 ★  しかし、それによって「神からの是認」が自動的に得られるのではありません。
 ☆ ぢゃあ何ですかい あなたが是認の捌きをつかさどっているとでも言うのですか? あわれもうと思う人間をあわれんでくれます。いつくしもうと思う人間をいつくしんでくれます。心配ご無用。

 (8)
 ★ では、どうすれば、その是認が得られるのでしょうか? 神が示す義の基準に達するにはどうすればいいのでしょうか?
 ☆ だから 何で人間であるあなたが それを決めようとするのですか? 

 (9)
 ★ 実際、アダムはその義の基準から逸脱したためにエデンから追放されたのです。
 ☆ そんなことは とっくの昔に神はお見通しであるに決まっているぢゃないですか。
 冒険の旅にでも出かけなさいと言って エデンの園から追い出されたのです。はじめっから 旅をさせようとしていたに決まってるぢゃないですか。何をいまさら ぶつぶつつぶやくのですか。

 (10)
 ★ 改めて質問します。贖罪後なら、すべての人が、エレミヤ31章のような状態に達することができるとお考えですか? あるいは、それに該当する人には何か条件がありますか?
 ☆ エレミヤは その声を聞いたのです。たしかにエレミヤの耳には 聞こえたのです。それが すべてです。要らんことをぶつぶつ言っているときでも場合でもありません。
 
 何なら それよりさらによい言葉をあなたが聞けばいいのです。そういう問題です。ぜひその言葉をわれわれに知らせてください。



 ふたたび。
 ▼ (パウロ:ローマ書1:17) ~~~
 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
 
  「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)

 と書いてあるとおりです。
 ~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2012-10-08 16:13:14

ANo.21

No.20です。

(結論)クリスチャンは自分の罪と格闘してきた。
    神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることができる。


>★ 「罪はない、罪はなくなった」という考えは
>☆ どこにも言っていません。

これは、No.16のお礼の(3)の、「>もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。・・・」という見解を受けての回答でした。聖書には、使徒たちが自分たち自身の内にある罪を自覚し、それと闘っていたこと、また、他のクリスチャンにもそのように奮闘することを激励していたことが記録されています。



> ☆ すなわち
> ▼ (7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
> ☆ と書いてあるではありませんか。

いずれもパウロは罪との苦闘を現在形で書いています。実際に、彼はローマ人への手紙を書いた時点で実際に罪と格闘していました。

元来、罪人となった人間は罪との闘いにおいては無力であり、絶望的な状態にありました。しかし、キリストの贖罪によって、神との和解が可能になり、神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることが可能となったのです。このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。



>・・・つまり いわゆる原罪は――個々の罪とはちがって―― イエスのときにチャラになった。こういう意味です。

なるほど。確かに、アダムに代わって、イエスがアダムの子孫を買い戻した、請け戻したという意味においてはそう言えなくもありません。しかし、依然、「個々の罪」は残っていて、それと格闘しなければなりません。



>現在は どういう位置にあるか? ここまで示すべきでしょう。

大変良い質問だと思います。キリスト以降、現在までは「キリストの花嫁」を選定する期間でした。「キリストの花嫁」とは、前回挙げた啓示20:4-6に示されているキリストと共に支配する者たちのことです。彼らについては、別に啓示14:1-5で「子羊(イエス)と共に立つ14万4000人の者」として示されています。そして、彼ら全員が選ばれ集められ終えた時、「子羊の結婚」が行なわれます。これは、啓示19:6-9に記されています。その後に、前回にも挙げた啓示19:11-21のハルマゲドンに至るのです。ですから、今までの約2000年間は、キリストと共に王また祭司として支配する者たちを選定する期間でした。



◎いずれにしても、大変重要な点は、キリストの贖罪によって、「神は 人びとの罪について もう覚えることはないと言った(No.20のお礼から引用)」という状態が、「自動的に」つまり、「何の訓練もなしに」または、「何の苦労、苦闘もなく」成立するのか?という点だろうと思います。一例を挙げましょう。

「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」ローマ8:17

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブ1:2-4

他に例を挙げればきりがありません。クリスチャンはみな自らの罪と、さらには迫害などの試練と格闘しなければなりませんでした。それは神からの訓練であり、それを忍耐する時に人格は精錬されて、結果、完全な人になって神の栄光を帯びるようになるのです。したがって、贖罪だけで、自動的にエレミヤ31章の状態が成立することはありません。神からの訓練により、罪と格闘して、勝利を収めた者だけが、そのような状態に達することができるのです。

投稿日時 - 2012-10-08 11:11:38

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 (1)
 ★ 聖書には、使徒たちが自分たち自身の内にある罪を自覚し、それと闘っていたこと、また、他のクリスチャンにもそのように奮闘することを激励していたことが記録されています。
 ☆ そのような罪のことをわたしが見ていないというのは 言いがかりです。たとえば 同じその箇所で次のように述べています。
 ☆☆ (No.16お礼欄)  それほど人びとのあいだでは 自由意志の弱さがいやというほど思い知らされていた。その情況を創世記・エデンの園の話に反映させた。これだけのことです。

 (2)
 ★ ~~~~
 元来、罪人となった人間は罪との闘いにおいては無力であり、絶望的な状態にありました。しかし、キリストの贖罪によって、神との和解が可能になり、神による訓練を経て、罪との闘いに勝利を収めることが可能となったのです。このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。
 ~~~~~
 ☆ 二点でマチガイです。

 (2-1)
 ひとつは たとえ旧約の時代であっても 罪をめぐって《絶望的な状態にある》などとする見方は いただけません。
 見なさい。
 ▼ (ローマ書1:17) ~~~
 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
 
  「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)

 と書いてあるとおりです。
 
 ▼ (同書4:3-12) ~~~~
 聖書には何と書いてありますか。

  「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」
       (創世記15:6)

 とあります。
 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。

   「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
    主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
           (詩編31:1-2)

 では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。

 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。

 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。

 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような聖句を あなたはないがしろにしていますか? 高ぶりの心で罪がどうだこうだと言っていますか? どうですか?

 (2-2)
 ★ このように、贖罪により、絶望的な状態から勝利への道が開けたことをパウロは感謝したのです。
 ☆ したがって (2-1)では すでにアブラハムの頃から 信仰が罪とその苦悩を凌駕しているということを忘れてはいけないということを述べました。
 それと同時に これまでにも指摘して来ましたが どうも両極に議論が振れてしまいがちであるということです。
 《罪の意識にくるしむ》か《罪のない状態》かという二極のことしか見ようとしていない。これではいけません。しかも もし神の国の外交官であるなら むしろ罪にくるしんでいる人びとにこそ声をかけるようにしなければなりません。それは あくまで信仰が罪を――現にある・起こっている罪を――覆い包んでやわらがしめられるという道です。そのことを言えないとすれば あなたはまだ和解を得させられていない。こう判断せざるを得ない情況ではあります。
 しかも 自分の述べる理論こそが 聖書の心だと言おうとしています。
 高ぶりのこころを 風の吹くさまに しづめましょう。

 (2-3) 以上のような意味を 
 ▼ (ローマ書7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
 ☆ は持ちます。

 (2-4) 同じ主題ですので 次の段落の次のくだりについても ここで触れます。
 ★ しかし、依然、「個々の罪」は残っていて、それと格闘しなければなりません。
 ☆ 個々の罪が残っていることは 共通の理解に立てました。〔はじめから そう言って来ています。⇒上記(1)〕。
 それと同時に 今度は 違和感をおぼえることは わざわざ《格闘しなければならない》と言っていることです。その必要はありません。人におうじて その罪に応じて 《格闘》がおこるかも知れなくても 問題は 和解のほうです。すでにあたえられているということ このことのほうをきちんと外交活動の中で中心となる主題としてつたえなくてはいけません。そのつとめにあゆんでください。


 (3)
 ★ ・・・ですから、今までの約2000年間は、キリストと共に王また祭司として支配する者たちを選定する期間でした。
 ☆ そうしますと エレミヤ預言(ヘブル書8章)の内容と競合しますね?
 ★ 王また祭司として支配する者たち / 啓示14:1-5で「子羊(イエス)と共に立つ14万4000人の者」
 ☆ というように限定することは どちらかひとつしか真実はない。ことになりますね? エレミヤは すべての人びとについて 罪はおぼえられることはなく また神の名を知れと言っておしえることもない こう言っているのですから。
 あるいは こうでしょうか? つまり 《それら祭司ら指導し支配する者ら》が選定されたその途端に もう《少数者による指導や支配》はなくなる――こういうことでしょうか?
 それなら エレミヤとの整合性がありますが どうもそうではないのでしょう? 王や祭司に任じられた途端にその職を解かれるということは 考えられませんから。

 現代・現在についての説明を受けては このような反応になります。


 (4) エレミヤ預言は 《人びとに対して 「何の訓練もなしに」または、「何の苦労、苦闘もなく」成立するのか?》

 (4-1)
 ▼ キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」ローマ8:17
 ☆ この場合の《苦しみ》とは たとえば次の内容を指しています。
 ▼ (ガラテア書5:24) キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 ☆ つまり 罪に悩むといった筋とは別です。これこそむしろ試練であり 《訓練》です。


 (4-2)
 ▼ 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」ヤコブ1:2-4
 ☆ これは 道徳規範のごとくであって あまり重視しなくてよいと考えます。上の試練に遭っていれば おのづとその境地は出来上がって行きます。

 (5)
 ★ 贖罪だけで、自動的にエレミヤ31章の状態が成立することはありません。
 ☆ これが 根本的なマチガイだとわたしが見るところです。
 《贖罪》は 付け足しです。エデンの園の物語でヘビを出してしまったから そのつじつま合わせだけの問題です。
 問題は キリスト・イエスから――聖霊をつうじて――《めぐみの上にめぐみを受けた》(ヨハネ福音1:16)そのことです。

  ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。当てるべきです。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~
 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》の出典 ~~~~
 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~

 そうして《罪》や《訓練》うんぬんと言うより
 ▼ (ローマ書1:17) 「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)
 ☆ に拠るべきです。

投稿日時 - 2012-10-08 12:24:32

ANo.20

No.18です。

イエスの受難の意義など、その他の論題については、別途回答します。

>☆ もしこれだと エレミヤ預言とは矛盾します。・・・

(結論)「罪はない、罪はなくなった」という考えは聖書の教えではない。
     神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。



ヘブライ人への手紙の文脈を是非追っていってみてください。12:1には結論として、こうあります。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」

使徒たちも依然として「罪」と闘っていました。それは使徒パウロもそうでした。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ローマ7:14-25

ですから、キリストの贖罪によって、罪人が神に近づくことができるようにはなりましたが、その贖罪によって完全な人間、罪のない人間になったのではありません。例えれば、贖罪によってようやく「神の学校」に入学できるようになった、という状態、しかし、まだ卒業は先である、ということです。完全な人間になるには、神からの訓練、再教育が必要なのです。

「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 ・・・およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 」ヘブライ11:4-11

このように、使徒たちもまた、それ以降の多くのクリスチャンも、「罪はない」とか「贖罪によって罪はなくなった」とは考えてきませんでした。そのような見解は聖書の教えに基づくものではありません。

エレミヤ31章で預言されているような、完全で罪のない状態は、贖罪だけで、自動的に得られるものではありません。むしろ、神からの訓練に応じ、忍耐し、その過程を全うした者だけが報いとして得られるものです。

では、エレミヤ31章はいつ成就するのでしょうか? その点は、啓示20章に示されています。その前の19:11-21はハルマゲドンの様子を示しています。そしてその後、20:1-3によると、悪魔が千年のあいだ縛られます。さらに、20:4-6によると、殉教したものの復活させられた選ばれたクリスチャンがキリストと共に千年間支配するとあります。これを「千年王国」とか「千年統治」と言います。その後、20:7-10によると、悪魔が再び解き放たれます。

要するに、今後、人類の世がハルマゲドンで裁かれた後、キリストの千年統治が始まり、その期間中に過去に死んでいった人々は復活させられ、再教育を受けます。そして、千年後、悪魔が解き放たれる時に、人類は最終試験を受けることになり、それを通過した者のみが完全な神の子として、永遠の命を受け継ぐことになるのです。その時、エレミヤ31章は「完全に」成就するでしょう。しかし、その「道筋」は使徒たちの時代に「開かれた」のであり、それに向けて奮闘するべきことを、使徒パウロはヘブライ8章で力説していたのです。

このように、簡単に、概略だけ述べましたが、神の再教育に関するご計画ははっきりと聖書に示されています。

投稿日時 - 2012-10-07 10:41:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 (1) 罪の問題

 ★ ~~~~
  (結論)「罪はない、罪はなくなった」という考えは聖書の教えではない。
     神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。
 ~~~~~
 ☆ 論点をきちんと把握しましょう。
 ★ 「罪はない、罪はなくなった」という考えは
 ☆ どこにも言っていません。神は 人びとの罪について もう覚えることはないと言ったと言っています。罪が無くなったとはひとことも言っていません。

 ただしそのとき
 ★ 神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。
 ☆ というふうにも エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)は 言っていません。


 (2) 引きつづき 罪の有る無し

 ★ 〔* ヘブル書12:1に関連して〕 使徒たちも依然として「罪」と闘っていました。それは使徒パウロもそうでした。
 ☆ 罪が無くなるとは言っていないからには それはあり 現実にそれをどう扱うか このことも起こりうることでしょう。
 ただし そのことと すでにすべての人にとって和解が成りましたよと 神が言っていることとは 矛盾することなく両立します。イエスのあとの歴史においてのことです。


 (3) 罪との葛藤の問題

 ★ ~~~~~
  ▼ (ローマ7:14-25)「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ローマ7:14-25
 ~~~~~~~~
 ☆ ですが このときパウロは さらにどう言っていますか?

 ▼ (ローマ書7:24-25) ~~~~~ 
 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ▼ (7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
 ☆ と書いてあるではありませんか。すでに キリスト・イエスの登場のあととしてパウロは これを書いています。すなわち――分かりやすく言えば 理論じょうは―― エレミヤの預言が成就した。こう言っているわけです。


 (4) 《罪のない人間》
 ☆ これに・つまりこのむしろ概念としてのことばあるいはイデアとしての観念に こだわっているのは そちらのほうです。

 たしかにパウロも 自分と同じように《完全な人間になりなさい》と言っているところもありますが もう一方では《わたしがすでに完全であるという意味ではない》ともことわっています。それは 総じて言って表現の問題です。また 人間が生身のすがたで 完全な存在になるなどとは考えられていない。この前提は 分かり切ったことです。
 それなのに わざわざ
 ★ ですから、キリストの贖罪によって、罪人が神に近づくことができるようにはなりましたが、その贖罪によって完全な人間、罪のない人間になったのではありません。
 ☆ というような発想をすること これが エレミヤ預言に違(たが)うことになりましょう。根本的にマチガイです。預言の内容は受け取らないわ 人間が完全ではないという前提をわざわざ持ち出して来るわで 話をすすめようとしていない。こういう意味で マチガイです。


 (5) 重ねて罪の問題

 ★ エレミヤ31章で預言されているような、完全で罪のない状態は
 ☆ この認識が間違っています。勘違いでしょう。人間を何だと思っているのですか? 何で《完全で罪のない状態》などということを論点とするのですか? アダムとエワの昔から 自由意志はあやまちうると分かっています。あやまつなら われ有りとさえ 居直ります われわれ人間は。それは ゆるされているという意味です。
 
 もともとそうでしたが 創世記にアダムとエワの話としてヘビのことに触れたからには その筋の結末をもイエスのときにはっきりさせた。つまり いわゆる原罪は――個々の罪とはちがって―― イエスのときにチャラになった。こういう意味です。
 (モーセのときに 青銅のヘビの話があります。挙げられるということの類似として 十字架にはりつけにされたイエスが このモーセのエピソードにおけるヘビの退治に相当するようです)。


 (6) エレミヤ預言

 ★ では、エレミヤ31章はいつ成就するのでしょうか? その点は、啓示20章に示されています。
 ☆ 千年王国とそのあと悪魔が解き放たれるとのこと。では 現代・現在は どういう位置にあるか? ここまで示すべきでしょう。
 けれども エレミヤは 《あたらしい契約》と言ってもいます。このことについては どう説明しますか? ヨハネ黙示録に出ていますか?
 そういう問題がなお残ります。

投稿日時 - 2012-10-07 13:34:18

ANo.19

下記のページの通りの技術さえをも備えていないのに、
イエス達は庶民から『尊崇』されていたのですね。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121005-00000013-mai-soci
http://thinkit.co.jp/article/120/4/

投稿日時 - 2012-10-06 16:57:18

お礼

 尊崇は どうでもよいことです。

 もしくは どのようにかが問題です。

 けれども イエスの生前には そのどのようにかをただしく知っていた人間は ひとりもいません。

 そういう問題について問うています。

投稿日時 - 2012-10-06 21:25:49

ANo.18

No.16です。

> それとも 捕縛されるのも 処刑されるのも そのこと自体が 父なる神の意志であって そのユダヤ人にとっての犯罪行為というその中身は どうでもよかったという解釈ですか?

 
イエスならこう言うでしょう。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 ルカ24:25,26

さらに、使徒ペテロならこう言うでしょう。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。」使徒3:17,18

具体的に、メシアが苦しみを受けることになることに関する預言として、例えば、イザヤ53章などがあります。



>そうでなければ それは 神ではありません。

「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。

もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?

 

>もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。

使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10



>エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。

これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。ヨハネ第一の手紙は、キリストの昇天の後、数十年後に書かれたわけですが、キリストの贖罪後も、依然として、人間は罪人のままでした。それは現代も同じです。ただ、キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。

それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。「神と和解してください」。コリント第二5:20

投稿日時 - 2012-10-06 15:25:48

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 (1) イエスの受難

 ということは――ご回答内容の引用を端折りますが―― 受難だけが神の計画にあったという意味でしょうか?
 その受難の原因や理由については 問わない。こういうことでしょうか?
 
 と言っても すでに前回にこの問いは述べています。
 つまり 一向に問いに答えておられない。このことを意味します。
 どうですか?


 (2) 同じくイエスの受難

 理由がどうでもよいというのならば たとえ冤罪であっても死刑にまでされれば――木(十字架)に懸けられる者は呪われているというように―― 失態なのです。
 それでよろしいか? んなわけはないと知るべきです。

 (3) 《神》とは何か? あるいは むしろ何でないか?

 ★ ~~~~
  >そうでなければ それは 神ではありません。

 「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。
 ~~~~~
 ☆ これは 子なる神として《父から生まれた》と説明されることについて明らかにしているところです。
 むろんすでに三位一体説にもとづいて説明しています。
 ただし 《イエスは自分が神であると言った》という命題を直接に証明しようとするのではなく もし神であるならば その中身は――少なくとも想定において――どうであるか? これを互いに共通の了解のもとに置こうというためのものです。

 (4) つづき

 イエスが(またはキリストが)父から生まれたことと 天使が神によって造られたこととは はっきりと別のことである。その意味は 神であることの内容と 神ではないことの内容とが どう違うか。このことを明らかにしたものです。
 天使を造ることに 《ことば》としての子なる神は与かっているのですから そこにおのづから上の区別は明らかであるとしめして――最後には――《イエスが自分を神だと言った》ことの証明にみちびこうとはしています。

 すなわち《生まれた》と《造られた》との表現上の異同にかんしてははっきりしないとしても やはり《ことばがはじめにあった》こととそのあと《万物がつくられた》こととには はっきりした違いがあるということです。それなのにこの《ことば》も あなたは天使だと言っているわけです。明らかな矛盾ですよという意味ですが それは 受け容れられないとの表明を 何の根拠も反論もなく 別の話を持ち出して来てそらそうとすることにおいておこなっている。このことが見て取れます。受け容れられない理由が あきらかではありません。


 (5) では 神の内 子なる神とは何か?

 ★ ~~~~~
 もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?
 ~~~~~~~
 ☆ 今回で意味のある文章は ここくらいです。つまり これ以外は すでに問い終えていることについてただほかのことを持ち出して来て話をそらそうとしている文章だという意味です。

 (6) つづき
 
 さて けれどもこの問いにもすでに答えています。
 ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~
  【Q‐3】 イエスは 父や聖霊と同じく神であるが 父と子と聖霊とは 位格として(ハタラキとして)はっきりと分かれています。
  ★ ~~~~~~~~
  イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。
  ~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ ここらへんは すべて《聖霊》の世界のもんだいです。しかも 三つの位格のそれぞれの違いにもかかわります。
  たとえにおいて 子は 光源としての父から発耀として生まれますが 聖霊は父と子とから明るさや暖かさとして発出されます。むろんこれらは 経験事象としての光とは違って 時空間の無いところで――もしくは時空間があるとも無いとも人間には分からないところで――のことを言っていますから 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこには時間的なへだたりはありません。
  あとは 子は経験世界に《肉(つまり身と心なる人)》となって送られたが 聖霊は そのまま霊として送られるのみという違いがあります。
  だから 父と子と聖霊という――いわば物語として――説明しています。
 ~~~~~~~~~~~~

 (7) さらにつづき

 子なる神は 肉となって送られた。聖霊なる神は 父と子とからその霊のまま送られる。この違いを表わすために わざわざ三位一体の説明を持つようになった。子と聖霊との違いを見るためには 忘れてならないのは 父が存在するということです。それが 三つの位格が一体だという意味になります。

 そうして このことは すでに初めから述べて来たように 《はじめにことばがあった》ことと《そのあと万物が造られた》こととは はっきりと一線を画するということに明確です。あるいは そのようなかたちで明確だと捉えるとよいという意味です。



 (8) へび=悪魔または原罪のこと

 ★ ~~~~
  >もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。

 使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10
 ~~~~~~~
 ☆ だから エレミヤ書31:31(=ヘブル書8章)の記事は どう見たのですか? というひとことを問えば おしまいです。
 罪をおぼえることはないと神が言っています。また もう神の名を知れと言って人びとにおしえることもないと神が言っていると。
 あとは 人間の経験世界における言語慣習として《罪》なら罪ということばが用いられている。ということのみです。それだけのことです。
 ことばに応じたそれとしての(うつろいゆく経験事象としての)内実も人びとの心にあるし起こっているのでしょう。そしてそれだけのことです。

 もしエレミヤと上のヨハネとで 神のことばの内容が違っているとしたら それを考えるのは あなたです。それをないがしろにして どうして議論をまともにおこなっていると言えましょう。
 つまり こちらからの問いに対して そのことをもないがしろにしていることを意味します。
 むろん 敗北宣言と受け取っていますが。

 (9) エレミヤ書について

 ★ ~~~~
  >エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。

 これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。・・・
 ~~~~~
 ☆ これについてもすでに答えています。時間表が 《宣教の時代》と《罪が覚えられず神を知れともおしえられないこと》とは 一時期としては錯綜するのだと。
 イエスの十字架上の死と復活のあと 聖霊が送られたとき すでにエレミヤの預言は成就しました。それが 現実になるには けっきょく宣教の時代を持たなければならなかったことも然ることながら 単純に言って民主制社会の到来を俟ちつつ たとえば二千年かかりました。そういう問題です。


 (10) 同じく

 ★ ~~~~~
 キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。
 ~~~~~~
 ☆ もしこれだと エレミヤ預言とは矛盾します。そうすると エレミヤ預言についての今後の時間表を明らかにすべきであると すでに問うています。これも 無視しましたね。とうぜん答えられないからです。ご自身の仮説が崩壊したとみとめたからでしょう。

 神は すでにすべての人が 和解が出来ていると知りなさいと言っていましょう。

投稿日時 - 2012-10-06 20:10:49

ANo.17

根幹が損なわれますと、修繕の際には、…!?
http://okwave.jp/qa/q7730762.html

投稿日時 - 2012-10-05 23:03:49

お礼

 何だってゆうの?

投稿日時 - 2012-10-05 23:10:34

ANo.16

>だったら 十字架にはりつけになることはなかった。冤罪と言えばそうなのかも知れませんが そんな失態を演じたということにしかならない。話にならないでしょう?

イエスが処刑されたのは、イエスが犯罪者・冒とく者だったからではないことは明らかです。それは、ユダヤ人の指導者たちによる自らの指導権が奪われないための措置だったに過ぎません。さらに、それはイエスにそのような措置を防ぐ力がなかったからでもありません。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」とマタイ26:53でも述べているとおりです。

続く聖句はこうなっています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。・・・このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」マタイ26:54,56。ですから、イエスが捕縛され、処刑されたのは、「失態」などではありませんでした。それは聖書の預言の成就でした。捕縛される際、イエスは「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とヨハネ18:11で言いました。イエスは神からの「杯」、つまりそのご意志に従ったのです。



>§ 2 《造る》と《生まれる》は 語法として同じか?

>推測としては キリストは子なる神として父から《生まれた》とは言えても 父によって《造られた》とはまづ言わないということでしょう。

御子が生まれる以前には、御子は存在していましたか、存在していませんでしたか? もし、存在していなかったとすれば、どのように存在するようになったのでしょうか? それを考えれば、自ずと答えは出るような気がしますが。



>しかも キリスト・イエスが出たあとでは もう神のことを 人びとに 知りなさいと言っておしえることもありません。罪が神によっておぼえられているということもありません。(⇒エレミヤ書31:31以降)。
 神はすでにしりぞいて――言うなれば聖霊の時代にあって―― 人びとは経験思想ないし経験科学によって〔ただし 一人ひとりは信仰のもとにヒラメキを得つつ〕社会をいとなんで行く。
>そういうことになっています。

イエスが世に来ることによって成し遂げたことの一つは「贖罪」です。それは罪を無効にし、神に近づくことができるようにする取り決めです。しかし、その贖罪によって罪人が罪人ではなくなったということではありません。依然として罪人のままなのです。ご指摘のエレミヤ31:31以降の事柄は確かに将来成就するでしょう。しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。

それについて、エフェソス4:11-13にこうあります。「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」

「全き人」、完全な人間になるためには、キリストの弟子となり、神の元で再教育されるのでなければ、人間が独力で達成することはとてもできません。以前にも増して、罪人である私たちは、御子イエスによる救いと教育(手引き)を必要としているのです。



他の点はまた次回以降で・・・。

投稿日時 - 2012-10-05 16:55:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 (1)
 ★ ・・・イエスは神からの「杯」、つまりそのご意志に従ったのです。
 ☆ ですから その神の意志というのは せいぜいが《天使》という意味での神と自称したから ほんとうの神を冒涜したとユダヤ人からその咎を責められたのですか? と訊いています。
 それくらいなら 死刑になることもなかろうし 死刑になったのなら失態の部類に入ると言っています。
 
 父なる神とまったく同じ神であると自称したから 罪を言い渡されたのではないか?
 それとも 捕縛されるのも 処刑されるのも そのこと自体が 父なる神の意志であって そのユダヤ人にとっての犯罪行為というその中身は どうでもよかったという解釈ですか? 


 (2) 神は――父なる神と子なる神と聖霊なる神とは―― 時間の始まる前から存在したのだから 《造られた》とは言われず 《子が父から生まれた》という仮りの説明表現を用いたとしても その経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません。
 
 ★ 御子が生まれる以前には、御子は存在していましたか、存在していませんでしたか? もし、存在していなかったとすれば、どのように存在するようになったのでしょうか?
 ☆ 子なる神は 父なる神とともに はじめにあった。のです。その《はじめ》というのは 《終わり》とのかかわりで言っているのではなく この宇宙つまり世界つまり時空間の始まる前という意味です。とうぜんです。この経験世界を超えているのですから。 

 《父から生まれた》と表現したとしても
 ★ 存在するようになった
 ☆ のではありません。永遠・無限・絶対・非経験は はじめから存在するのです。《存在》そのものです。
 ただ三つの位格を説明するために 父と子と聖霊と言い 子は父から生まれたとし 聖霊は父と子との両者から発出するという表現を用いる。それだけのことです。そこには 時間は流れていません。そうでなければ それは 神ではありません。


 (3) 罪をあがなうとは どういうことか?

 ★ イエスが世に来ることによって成し遂げたことの一つは「贖罪」です。それは罪を無効にし、神に近づくことができるようにする取り決めです。 
 ☆ もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。一たんアダムとエワの話に 罪や悪魔を添えたからには そのあとイエスのときに その十字架上の死と復活によって あがなわれた。というかたちにしただけのことです。それは エレミヤ書31:31以降のくだりが――ヘブル書8章でしたかに取り上げられており――物語っているはずです。

 それほど人びとのあいだでは 自由意志の弱さがいやというほど思い知らされていた。その情況を創世記・エデンの園の話に反映させた。これだけのことです。


 (4) エレミヤ書31:31以降(ヘブル書8章)

 ★ ご指摘のエレミヤ31:31以降の事柄は確かに将来成就するでしょう。しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。
 ☆ 《将来》というだけでは 意味がありません。仮りに《将来 つまり イエスのあともまだ待つ》ということであれば その時間表を聖書の中から見つけ出さねばなりませんし そうして人は説明しなければなりません。聖句を無視するわけには行かないからです。


 ★ しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。
 ☆ これも 《将来》とはいつのことか? その説明を俟たねば・つまりその将来の時間表を明らかにしなければ 言ってはいけない言葉です。すでにイエスが登場し その《とき》は来たという解釈も成り立つわけですから そのことにも触れる必要がありましょう。つまり すでに時が来たとなれば このような《教育》は要りません。エレミヤはそう書いています。


 (5) ★ それについて、エフェソス4:11-13にこうあります。
 ☆ この記事は 時間表が錯綜しているというだけの話です。
 《宣教という愚かな手段》によって イエス・キリストの名を知らせる。このつとめが果たされ広まってから たしかに《神の名を知れ》とは言わなくなるし 《罪ももう覚えられていない》となります。つまりそのように時間過程が錯綜している。だけの話です。
 
 
 (6) ★ ~~~~
 「全き人」、完全な人間になるためには、キリストの弟子となり、神の元で再教育されるのでなければ、人間が独力で達成することはとてもできません。以前にも増して、罪人である私たちは、御子イエスによる救いと教育(手引き)を必要としているのです。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。

投稿日時 - 2012-10-05 17:28:47

ANo.15

メシアなる職種が昔には存在していたのでしょうか。
http://www.vsn.co.jp/recruit/career/lp/brand/index_02.html?utm_source=msn&utm_medium=media&utm_term=network&utm_content=300_250&utm_campaign=1001_1030_msn_banner02

投稿日時 - 2012-10-05 13:23:33

お礼

 メシアは もともと王のことです。

 転用されました。キリストのことです。

投稿日時 - 2012-10-05 15:04:06

ANo.14

No.13です。一つずつ回答します。

> 【Q‐2】・・・☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。

「間接的には」ということは、「直接」、そのように言ったことがないということではないでしょうか? 

しかし、ユダヤ人が「彼は自分を神とした」と解釈し、憤慨していたことは事実でしょう。しかし、自分が主張したこともないことを、「彼はこう主張した」と一方的に曲解され、非難されることが時にあるものです。今回の場合も、「神の子」とは言ったものの、イエスが直接、「私は神だ」とは一言も言っていないことは事実ではないでしょうか? 



>《天と地》は 《うまれた》のですか?
>疑問その一:神は万物を《生んだ》のですか?

「生まれた=造られた」が妥当かどうかは聖書の用法に従うべきでしょう。

創世記などを記したモーセによる詩編90:2にはこうあります。「山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。 」



>疑問その二:一方で 父なる神が《ロゴス》と呼ばれた子なる神によって万物を造ったことと 他方で 《神が天と地を造った》ことと これらがは互いに同じでなくてはおかしいとすれば・・・

前者、つまり御子が万物を造ったというのは、私の個人的な見解ではなく、聖書に書かれていることです。コロサイ1:16では、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」となっていました。

しかし、この聖句と創世記1:1は矛盾してはいません。御子は神の指示のもとで万物を造ったからです。天地創造のための設計、エネルギーなどはすべて神からのものでした。ゆえに、天地創造の誉れは創造者なる神(御父)に帰せられるのは当然です。

同じようなことが、人間の間でも言われることがあります。例えば、古代のエルサレムの神殿を造ったのはソロモン王だと普通言います。しかし、実際に、神殿をとんかちとんかち現場で造ったのはソロモンではないでしょう。同じように、御子が万物を造りましたが、それは神の指示のもとで行われたゆえに、神が天と地を創造したと言い得るのです。



>☆ (疑問その三) 《生まれる》と《造られる》とを 根拠もなく同じことだと決めつけていはしまいか?

これは、上記の詩編91:2から分かりますね。



>(疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?

「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。

しかし、この「言葉」とはどういう役割を意味していますか。彼は神の代弁者、伝令官、スポークスマンであったいうことです。彼は神の言葉、指示、命令、教えを他の大勢の天使たちに伝える「神の言葉」なのです。

ゆえに、イエスは天使たちの頭、長とみなされ、それは大天使ミカエルと同一人物であると考えられます。ユダ9には、「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時・・・」とあります。

さらに、ダニエル12:1,10:21には、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が」とあり、さらに、「わたし(天使)を助けて、彼らと戦う者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはありません。 」ともあります。

ですから、神の民のために戦いの先頭に立つ大天使長ミカエルとは、天使形態のイエスのことにほかなりません。イエスについては、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と使徒4:12で明言されており、前述のダニエルの聖句と考え合わせると、「神の民の苦難の時に立ち上がり、救いをもたらす者は、大天使長ミカエル=救世主イエス・キリスト以外にはない」と結論できるのです。

投稿日時 - 2012-10-05 12:59:37

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 § 1 イエスは《自分が神である》とみづから言ったか?

 ★ ~~~~~
 しかし、ユダヤ人が「彼は自分を神とした」と解釈し、憤慨していたことは事実でしょう。しかし、自分が主張したこともないことを、「彼はこう主張した」と一方的に曲解され、非難されることが時にあるものです。今回の場合も、「神の子」とは言ったものの、イエスが直接、「私は神だ」とは一言も言っていないことは事実ではないでしょうか? 
 ~~~~~~~
 ☆ これは異なことをおっしゃる。
 だったら 十字架にはりつけになることはなかった。冤罪と言えばそうなのかも知れませんが そんな失態を演じたということにしかならない。話にならないでしょう?

 § 2 《造る》と《生まれる》は 語法として同じか?

 ★ 「生まれた=造られた」が妥当かどうかは聖書の用法に従うべきでしょう。
 ☆ 以下のごとく少ししらべましたが 必ずしも明らかになるようでもありません。

 ▼ (創世記1:1) 初めに、神は天地を創造された(バーラー √BR' / エポイエーセン)。

 ▼ (詩編90:2) 山々が生まれる(ユラドゥー √YLD / ゲネーテーナイ)前から/大地が、人の世が、生み出される(テホーレル √HWL / プラステーナイ)前から/世々とこしえに、あなたは神。

 ▼ (ヨハネ福音1:3) 万物は言によって成った(出来た・造った。エゲネト // ニブラー√BR'・ニフヤー √HYH)。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

 ☆ 考えてみれば イエス・キリストは《神の独り子》と書いてあっても 父なる神から生まれたとは書いてないかも知れません。最後までしらべたわけではありませんが 知るすべはないかも分かりません。
 
 § 2-1 ただ 次のような表現は 参考になるかも知れない。

 ▼ (ヨハネ福音8:58) イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる(ノーラド √YLD・ハヨート √HYH)前から、『わたしは ある(フー√HYH)。』」
 ☆ つまり 《独り子》なら 親から《生まれた》という説明表現になりますが それはあくまで仮りの説明であって もともとは初めから父とともに神であるというわけです。あるいは モーセに語った《わたしはある。それが わたしである》といった表現になってもおかしくありません。
 《天使》については そんな言い方はついぞ出来ません。
 というところまでは はっきりしていましょう。
 ですから 推測としては キリストは子なる神として父から《生まれた》とは言えても 父によって《造られた》とはまづ言わないということでしょう。《天使》は もしそうであるなら 造られたのです。《造られた万物》に天使は入るけれども 子なる神は入らない。なぜなら その万物を造るチカラなのだから。



 § 2-2 さらにですが あまり決め手にはならないようです:
 ★ コロサイ1:16では、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた(エクティステー < クティゾー)からです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました(同上)」となっていました。
 ☆ これは 建築・建設といった意味合いがあるらしいですが。

 § 2-3 細かいことですが 《ことば=ロゴスによって神が万物を造った》(ヨハネ福音)ことと《父なる神が子なる神に指示したとか 力をあたえたとか説明すること》(やんぐますく説)とは 別です。
 
 ★ しかし、この聖句と創世記1:1は矛盾してはいません。御子は神の指示のもとで万物を造ったからです。天地創造のための設計、エネルギーなどはすべて神からのものでした。ゆえに、天地創造の誉れは創造者なる神(御父)に帰せられるのは当然です。
 ☆ いちど ひとこと触れておきます。これは 推測に過ぎないということです。
 (§ 2-1でのわたしの推測は 子なる神と天使とが区別されるという明らかな前提に立った推測です)。
 (たとえば 子なる神は ロゴスとして万物の自然本性にそのそれとしての秩序をあたえるというそのような要因を特には言おうとしているのかも知れないという意味です。父なる神のほかに創造者ないし建築者がいるというような・そしてそれが 子なる神だというような意味に解するいわれは まづないでしょう。ともに一体として創造しているのです)。



 § 3 イエス・キリストは 天使か?

 ★ ~~~~
 >(疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?

 「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。

 しかし、この「言葉」とはどういう役割を意味していますか。彼は神の代弁者、伝令官、スポークスマンであったいうことです。彼は神の言葉、指示、命令、教えを他の大勢の天使たちに伝える「神の言葉」なのです。
 ・・・(引用を省略します)・・・
 ~~~~~~~~~~
 ☆ これは ただの物語です。ただでさえおとぎ話であるのに こんな子供だましの話にととのえることは ありえません。
 すべては 神の恩恵のもとにあります。天使も救世主もありません。ただただ 神なる聖霊のハタラキがあるかどうかです。
 そのことを アブラハムから始まって イエスに来てやっと指し示し知らせることが出来たのです。
 その《知らせ》が成ったなら あとは――天使がどうであろうと何という名前の天使であろうと―― どうでもよいのです。 
 しかも キリスト・イエスが出たあとでは もう神のことを 人びとに 知りなさいと言っておしえることもありません。罪が神によっておぼえられているということもありません。(⇒エレミヤ書31:31以降)。
 神はすでにしりぞいて――言うなれば聖霊の時代にあって―― 人びとは経験思想ないし経験科学によって〔ただし 一人ひとりは信仰のもとにヒラメキを得つつ〕社会をいとなんで行く。そういうことになっています。



 ★ 「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。
 ☆ 《限らない》ということは 《限る》場合もあるということです。天使とは別だという場合です。そこのところを考慮からはづすのは いただけません。




 ★ 「神の民の苦難の時に立ち上がり、救いをもたらす者は、大天使長ミカエル=救世主イエス・キリスト以外にはない」
 ☆ こんな子供だましなことを まだ言っているのですか? これは ただの観念です。持つのも自由ですが それだけの話です。何の意味もありません。もし意味があるのなら いつになったら その意味が人びとに分かるようになるのか? これを説明してからのことです。 

投稿日時 - 2012-10-05 15:02:34

ANo.13

No.10です。

> ☆ どこに
> ★ 「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」
> ☆ と書いてあるのですか?

コロサイ1:15は「御子は、・・・すべての造られたものに先だって生れたかたである」でしたね。「生まれた」という表現はそれ以前には存在していなかったということを示しています。

さて、「すべての造られたもの」、そして、御子さえも生まれていない、それ以前の時、神以外には何も存在していませんでした。ですから、すべてのものに「先立って」つまり、一番最初に造られた御子を造ったのは、神ご自身にほかなりません。

さらに、その後、先回述べたように、神の指示のもとで、御子が他の天使や人間や他の物事を造りました。(神による直接創造ではないということ)。これを上記の点と考え合わせると、神ご自身が直接創造したのは、御子イエスだけであり、それゆえにイエスは天使の一人ではあるが、神の特別な「独り子」であるとも言えるのです。

投稿日時 - 2012-10-05 10:50:54

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ積み残しの荷をふたたび掲げます。
 ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~
 【Q‐2】 イエスはみづから自分は神の子であるだけではなく神であると言ったか?
 ・・・
 ☆ すなわち
 ★★ (回答No.5) ~~~~~~~
 ◎ 次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。

 「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~



 さて今回の論点は 《天使を含めてものごとや存在者を造る》のと《神の子が生まれる》のとでは 同じことか? です。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 さて、「すべての造られたもの」、そして、御子さえも生まれていない、それ以前の時、神以外には何も存在していませんでした。ですから、すべてのものに「先立って」つまり、一番最初に造られた御子を造ったのは、神ご自身にほかなりません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 後半つまり二つ目の文では 《神の子が生まれる》ではなく《造られる》というふうに変わっています。何故か? 同じ意味なのか?
 その意味は そうすると

 ○ すべてのものが 神の独り子たる《ことば》によって――〔父なる神のもとに〕造られたと書かれているところを――《生まれた》と言ってよいのか? 

 という問いにもなります。

 《天と地》は 《うまれた》のですか?

 しかもその創世記の冒頭には 《神が天と地を創造した(造った)》であるとか あるいは《神は〈光あれ〉と言った。こうして 光があった》のごとく書かれています。
 つまり これは ヨハネ福音の冒頭では こう書かれています。神(=つまり特には 父なる神)は 《ことば》として呼ばれた《神の独り子》によって《すべてのものを造った》と。

 疑問その一:神は万物を《生んだ》のですか?

 疑問その二:一方で 父なる神が《ロゴス》と呼ばれた子なる神によって万物を造ったことと 他方で 《神が天と地を造った》ことと これらがは互いに同じでなくてはおかしいとすれば 後者の創世記の記述における《神》は 《父なる神 および 子なる神〔さらにそれらと一体なるものとして 聖霊なる神〕》のことを言っていると受け取らねばおかしい。ではないか?
 つまり
 ★ コロサイ1:15は「御子は、・・・すべての造られたものに先だって生れたかたである」でしたね。
 ☆ ですね?



 すなわちこのふたつの疑問は 次の見解に対するものです。 
 ★ 神ご自身が直接創造したのは、御子イエスだけであり、それゆえにイエスは天使の一人ではあるが、神の特別な「独り子」であるとも言えるのです。
 ☆ (疑問その三) 《生まれる》と《造られる》とを 根拠もなく同じことだと決めつけていはしまいか?
 (疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?

投稿日時 - 2012-10-05 11:21:32

ANo.12

真のキリスト性は経験され得るのでしょうか?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121001-35022449-cnn-int

投稿日時 - 2012-10-05 03:37:26

お礼

 どうお考えですか?

 というよりも
 ★ キリスト性
 ☆ って何だとお思いですか?

投稿日時 - 2012-10-05 06:46:34

ANo.11

お礼

 【Q:イエスが なぜキリストか。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7651567.html

投稿日時 - 2012-10-05 00:44:32

ANo.10

No.9です。連投で行きます!



>つまり 天使ではなく神の子である――しかも独り子である――とは どういうことか? ではないでしょうか。

◎創世記22:2にはこうあります。「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」

「独り子イサク」にご注目。しかし、アブラハムにはすでにイシュマエルというイサクと腹違いの兄がいました。もちろん、この時点でイシュマエルはその母ハガルと共に家を追い出されていました。さらに、その後、アブラハムは後妻を通してたくさんの子をもうけました。

このアブラハム(父)は神ご自身、そしてイサク(独り子)はイエス・キリストを予示していました。

ヨハネ第一4:8,9にはこうあります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。・・・神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。



◎でも、なぜたくさんの天使たちがいるのに、イエスだけが「独り子」なのか? それは、イエスだけが神により最初に直接造られ、天地創造の際に用いられたからです。その後、イエスは神の指示のもとで天使たちも造りました。

コロサイ1:16にはこうあります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。

要するに、天使も人間もすべてはイエスを通して造られた、しかし、「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」ゆえに、このイエスは、神の特別な「(神による唯一直接創造の)独り子」なのです。

また、その関係は、男が女に胤を与え、女が子をはらんで出産するのと似ています。同じように、神はイエスに指示と権威を与え、イエスはそれに基づいて他のあらゆるものを創造したのです。



◎それにしても、コロサイ1:15に「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とあり、明らかにイエスは神により造られた存在であることが確認できます。

御子が「生まれ(る)」以前、神はお独りでした。この方には始めもなく終わりもない「無限の存在者」です。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。啓示22:13。一方、御子イエスが途中から生まれたことは明らかで、全能の神とは違って限界がある「有限の存在者」です。

これらは、父と子が全く別々の存在者であることを裏付けてはいませんか?

投稿日時 - 2012-10-04 15:24:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 要するに、天使も人間もすべてはイエスを通して造られた、しかし、「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」ゆえに、このイエスは、神の特別な「(神による唯一直接創造の)独り子」なのです。
 ~~~~~~
 ☆ どこに
 ★ 「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」
 ☆ と書いてあるのですか?
 子をつくるという表現は用いますが 《生む・生まれる》とは別の意味内容であるようです。つまり 天と地の創造などと同じ意味で《造る》と言っているようですから。どこに書いてありますか?


 アブラハムとイサクとの関係を当てはめると言っても どこにその根拠があるのですか?


 ★ ~~~~
 ◎それにしても、コロサイ1:15に「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とあり、明らかにイエスは神により造られた存在であることが確認できます。
 ~~~~~~
 ☆ どうして《造る》と《生まれる》とを同じ意味だと思うのですか?


 ★ 一方、御子イエスが途中から生まれたことは明らかで、全能の神とは違って限界がある「有限の存在者」です。
 ☆ そう思うということでしょう?
 《途中から生まれた》という問題と《有限の存在者》という問題。
 どこにそう書いてありますか?

 ▼ (ヨハネ福音1:1-2) ~~~~
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみと共にあった。
 ことばは神であった。

 ことばははじめに神とともにあった。

 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~



 ちなみに 《肉となった》のですから その人間の貌としてのイエスなる人物 かれにはむろん限界があります。しかも同じイエスという存在について キリストという神の貌としては 父なる神とまた聖霊なる神とまったく同じ神であり 限界はありません。
 神とは そういうものです。

投稿日時 - 2012-10-04 15:57:32

ANo.9

No.7です。

(結論)イエスは自分が神とは主張したことがない。仲介者イエスは神とは別人。天使たちはそれぞれ別々の人格を持っている。



>つまりこの件では 結論としてこうです。
 イエスは 人間でも《神々の内の神》と呼ばれることはあるではないかと茶化した。むろん そうではなく ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。

なるほど。しかし、結局、イエスが自ら「私(イエス)は神だ」と主張した箇所は聖書のどこにもないということは事実だと思いますが。



>☆ 祭司は 人間です。イエスという人間の貌のことです。ところが イエスは 人間であると同時に《神の子でありみづからも神である》と言ったという意味です。神の貌をも兼ねているという意味です。何ら矛盾しないはずです。

イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。

また、イスラエル人に対して、モーセは預言者、神とイスラエル人との律法契約における仲介者でした。それと同じく、イエス・キリストもまた神と人との間を執り成す大祭司、また仲介者です。もし、神とイエスが同一人物なら、どのようにしてイエスは神に執り成しができるでしょうか。

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」テモテ第一2:5
「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」ヘブライ9:15

それに、本来、罪ある人間は、聖なる神に近づくことが許されていません。近づくには犠牲よる贖罪が必要です。もし、イエスがその神の一つの側面(貌)であれば、イエスは罪ある人間の間で生活してきたのであり、罪人は聖なる神に近づけない、という概念と矛盾が生じます。しかし、やはり、イエスは神の側面(貌)の一つではなく、神から遣わされた預言者、救世主であり、神と人との仲介者、大祭司として執り成しをする方で、この点からも神とは別人だと言うことが証明できると思います。

それに、もし、神とイエスが同一人物であれば、死んだイエスを神が復活させることができたでしょうか。 



>☆ おそらく天使たちも 神なる聖霊のなかにおさまるということですから ・・・

天使たちも人間と同じく、様々な人格を持った存在です。ノアの時代に、一部の天使たちは女目当てに地上に降りてきました。彼らは神に反逆した堕落天使で、悪魔となりました。この例からも分かるように、天使たちの社会も人間の社会と同じく、個々様々な性格を持った別々の人格者たちから成っています。人間のAさん、Bさん、Cさん・・・、それぞれが全く別人であるのと同じく、聖書に出てくる、天使ミカエル、天使ガブリエル、また堕落天使である悪魔たち・・・、これらの霊者たちは、それぞれが全くの別人です。聖霊の一部というわけではありません。

投稿日時 - 2012-10-04 10:56:48

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。


 【Q‐1】 いちばんの決め手は 次の《父の独り子》だという指摘でしょうか?
 ▼ (ヨハネによる福音書 1:14 ) わたしたちはその栄光を見た。それは ≫父の独り子≪ としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 ☆ これだけでは イエスが《神の子》であるだけではなく 父や聖霊と同じ《神》であるとまでは言えませんが 《天使》ではないとははっきりしています。この点について確認を願います。
 つまり 天使ではなく神の子である――しかも独り子である――とは どういうことか? ではないでしょうか。

 補足として:
 ★ 天使たちも人間と同じく、様々な人格を持った存在です。
 ☆ その側面としての事情は いま関係ありません。イエスが神の子であり神であると書かれている(ヨハネ福音1:1)とき その《神》というのは 天使とのことだという反論があったからその筋でのみ天使のことを扱っているからです。天使がその数が複数であっていろんな天使がいるという話は 別としておくことが出来ます。




 【Q‐2】 イエスはみづから自分は神の子であるだけではなく神であると言ったか?
 ★ しかし、結局、イエスが自ら「私(イエス)は神だ」と主張した箇所は聖書のどこにもないということは事実だと思いますが。
 ☆ けれども
 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~
 ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★★ (回答No.5) ~~~~~
 ◎ 次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。

 「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。



 【Q‐3】 イエスは 父や聖霊と同じく神であるが 父と子と聖霊とは 位格として(ハタラキとして)はっきりと分かれています。
 ★ ~~~~
 イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。
 ~~~~~~~
 ☆ ここらへんは すべて《聖霊》の世界のもんだいです。しかも 三つの位格のそれぞれの違いにもかかわります。
 たとえにおいて 子は 光源としての父から発耀として生まれますが 聖霊は父と子とから明るさや暖かさとして発出されます。むろんこれらは 経験事象としての光とは違って 時空間の無いところで――もしくは時空間があるとも無いとも人間には分からないところで――のことを言っていますから 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこには時間的なへだたりはありません。
 あとは 子は経験世界に《肉(つまり身と心なる人)》となって送られたが 聖霊は そのまま霊として送られるのみという違いがあります。
 だから 父と子と聖霊という――いわば物語として――説明しています。


 補足‐1:
 次の疑問も同じ事情にあります。
 ★ イエス・キリストもまた神と人との間を執り成す大祭司、また仲介者です。もし、神とイエスが同一人物なら、どのようにしてイエスは神に執り成しができるでしょうか。
 ☆ イエス・キリストは 神の独り子であり父なる神とひとしい。ただし 位格の違いがあってハタラキが違う。人間とのあいだの仲保者であるのは むろん 子なる神です。


 補足‐2:
 次も同じくです。
 ★ それに、もし、神とイエスが同一人物であれば、死んだイエスを神が復活させることができたでしょうか。 


 補足‐3:
 次のふたつのくだりは 《人間の貌》としてのイエスと《神の貌》としてのキリストとを述べています。同時にふたつの貌があります。
 ▼ 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」テモテ第一2:5
 ▼ 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」ヘブライ9:15



 【Q‐4】 人間イエスは 罪のない存在であるか?
 ★ ~~~~~
 それに、本来、罪ある人間は、聖なる神に近づくことが許されていません。近づくには犠牲よる贖罪が必要です。もし、イエスがその神の一つの側面(貌)であれば、イエスは罪ある人間の間で生活してきたのであり、罪人は聖なる神に近づけない、という概念と矛盾が生じます。しかし、やはり、イエスは神の側面(貌)の一つではなく、神から遣わされた預言者、救世主であり、神と人との仲介者、大祭司として執り成しをする方で、この点からも神とは別人だと言うことが証明できると思います。
 ~~~~~~
 ☆ 《神と人とのあいだで執り成しをする》には 《罪》がある人間であってもよいということでしょうか?
 あったけれど 復活のあとに罪が消えたというようなことなのでしょうか?

 これは それほど問題になるとは思わないのですが もしお望みなら 罪を犯さなかったその前のアダムとエワと同じく穢れなき自然本性としての存在であったとお考えください イエスについてです。

 イエスの人間の貌としての人生は 言うなればどうでもよいと考えます。肉となるというそのコトじたいは はづせませんが そのあとどういう人生を送ったかは 二の次です。
 神の貌として(つまりは 人間の貌とともに同時に神の貌として存在する者として) 何を言い何をおこなったか。これが 大事です。


 こんなところでしょうか。

投稿日時 - 2012-10-04 14:01:25

イエスの成り済ましの有無は…!!!?
http://www.atmarkit.co.jp/news/201210/01/ipa.html

投稿日時 - 2012-10-03 23:54:15

お礼

 ・

投稿日時 - 2012-10-03 23:56:30

ANo.7

No.5です。聖書に関して深く考える機会となり、うれしく思っています。

(結論)子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者、神から造られた天使たちの長兄であり、神の初子というのが正確な理解です。



>☆ ヨハネ福音の冒頭は イエスの発言ではありませんが その聖書記者ヨハネによれば イエスを《神の子》として しかもみづからも《神》である存在として受け留めており そのとおりにしるしていることが知られます。

先回示した、ヨハネ10:34の「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。」。これはイエスが詩編を引用したものでした。その詩編82:6はこう書いてあります。「わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。 」」(口語訳聖書)

尚、新共同訳聖書の場合は、「神」ではなく、「神々」となっていましたが。この詩編82:6で「神」と言われている者たちは、明らかに全能の神とは異なる者たちでした。もちろん、イエスでもあり得ません。ですから、聖書中で、「神」と言われているものがすべて、全能の神と同じであるとするのは早計です。

実際、例のヨハネ10:33では、ユダヤ人が「イエスが自分を神とした」と、まさしく今回のテーマと同じ主旨の非難をしているわけです。これに対して、イエスは、「(私は自分を神と主張したことはなく、)神の子であると主張したに過ぎず、それは冒涜でない」という主旨の答えをしているわけです。

ですから、ヨハネ1:3については、言葉は神(のような者[人間から見れば]、つまり天使のこと)であった、と見る方がより自然でしょう。


> さて 次のくだりについて 《神の子》であるだけかあるいは同時に《神》であるか判定するのは 微妙でしょうか?・・・

◎「わたしは道であり、真理であり、命である。」について。

古代イスラエルの神殿では、祭司が奉仕していました。アダムの子孫は罪人ゆえに、贖罪なしで神に近づくことはできません。それを執り成すために犠牲を捧げるのが祭司の役目でした。同じように、イエスは大祭司として奉仕しており、そのことがヘブライ9:11,12にこうあります。

「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」

したがって、「罪人であるアダムの子孫である我々は、大祭司イエス・キリストの犠牲の血に基づく贖いによらなければ、正当に神に近づくことはできない」という意味において、「わたし(イエス)を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言い得たのです。

むしろ、古代の神殿において、神と大祭司とは別人であることは明らかです。ですから、全能の神と神の子イエス(大祭司)も全く別の人格者であると言えます。



◎フィリポに答えた「わたしを見た者は、父を見たのだ」について。

ヘブライ1:3にはこうあります。「御子(イエス)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであ(る)」。つまり、神は父の素晴らしい特質を体得し、反映していたので、「私(イエス)を見た者は、父(神)を見たも同然である」ということを述べていたのです。イエス=神、つまり両者は同一人物という意味ではありません。



>みっつの位格(ペルソナ)について 個は各個とそれぞれひとしく 各個は全体と そして全体は各個とひとしい。これが イエス・キリストの指し示した神です。

三位一体の教理ですね。父と子と聖霊は各位が同格であり一体であるというものだと思います。要するに、神には時と場面に応じて別々の顔(側面)を示すということでしょうか? 

しかし、子は父が生み出した者。結論から述べると、イエスは神の子ら、つまり天使たちの長兄であり、初めて神によって造られた天使でした。それゆえに、イエスは「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とコロサイ1:15で言われています。

そして、イエスは神の初子として、天地創造の業に携わりました。ですから、この宇宙は、神が設計し、そのための力を与え、イエスがその設計に基づいてすべてのものを造ったということができます。続くコロサイ1:16にはこうあります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 」



〇ですから、子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者、神から造られた天使たちの長兄であり、神の初子というのが正確な理解です。

投稿日時 - 2012-10-03 11:46:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ですから、聖書中で、「神」と言われているものがすべて、全能の神と同じであるとするのは早計です。
 ☆ そのとおりです。ヨハネ10:31-39 では 神(エローハ)ないし神々(エローヒーム)という言葉は同じなので イエスはわざと神の貌としての神ではなく――ほんとうはそうなのに そうではなく―― 人間の貌としての・タトエとしての《神》という言葉を持ち出して来て その言葉を自分に当てはめて使ってもいいではないかと ユダヤの人びとを煙に巻いただけのことです。 

 ▲ (詩編 82編 1節) ~~~~
 【賛歌。アサフの詩。】
 神(=エローヒーム:これは 神の貌そのもの)は神聖な会議の中に立ち
 神々(=エローヒーム:人間の中で裁判をおこなう者たちのことを神々とたとえて言っている)の間で裁きを行われる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この表現形式を持ち出して 無用な議論をしりぞけた。だけのことでしょう。

 表現のかたちとしては 神の貌そのものとしての――つまりヤハヱーとしての――神は これも エローヒームという複数形で言われています。ただし その動詞の活用形が単数形(ニッツァブ he-standeth )であるので ヤハヱーのことだと分かります。

ちなみに 詩編82:6では 同じエローヒームという複数形が用いられていても 裁きをおこなう者が 《あなたたち アテム》と表わされていて それは人間たちだと分かり また《子どもたち ベニー》とやはり複数形で表わされています。
 ▼ 「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。 」(口語訳聖書)
 ☆ という翻訳が《子》のごとく 単数形であるにもかかわらずです。


 つまりこの件では 結論としてこうです。
 イエスは 人間でも《神々の内の神》と呼ばれることはあるではないかと茶化した。むろん そうではなく ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。

   *

 ★(あらまし) イエスは自分を神と言ったのではなく 神の子だと言ったのみ。それは 天使であることを意味する。

 ☆ これについては かんたんです。 
 ★ むしろ、古代の神殿において、神と大祭司とは別人であることは明らかです。ですから、全能の神と神の子イエス(大祭司)も全く別の人格者であると言えます。
 ☆ 祭司は 人間です。イエスという人間の貌のことです。ところが イエスは 人間であると同時に《神の子でありみづからも神である》と言ったという意味です。神の貌をも兼ねているという意味です。何ら矛盾しないはずです。

 
    *

 ★ ~~~~~
 ◎フィリポに答えた「わたしを見た者は、父を見たのだ」について。

 ヘブライ1:3にはこうあります。

 「御子(イエス)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであ(る)」。

 つまり、神は父の素晴らしい特質を体得し、反映していたので、「私(イエス)を見た者は、父(神)を見たも同然である」ということを述べていたのです。イエス=神、つまり両者は同一人物という意味ではありません。
  ~~~~~~~
 ☆ 《栄光の反映 / 本質の完全な現われ》は もし神の貌のことであるなら――あるのですから―― それは聖霊としてあり 一般に人間に分かるものではありません。十字架上の死とその後の復活のあと イエスは父のもとから父とともに人びとに聖霊を送った。そこでやっと人びとは 生前にイエスが《自分は神の子であり 父と同じ神である》と言っていたことに気づいたのです。人間の貌だけではなく神の貌をも現わしていたのだと。
 《父の素晴らしい特質を体得し 反映していた》としても 生前には一向に弟子たちにさえ イエスがキリストであるということは分からなかった。そうはペテロも口にしていたのですが 分からなかった。その証拠に ペテロを筆頭にして 弟子たちすべては最後の土壇場でイエスを裏切った。ということであるはずです。
 イエスは 人間の貌と神の貌とを現わしていた。けれども そう言葉で言われても誰ひとりとしてイエスの生前には 分からなかった。こういうことです。

 ▲ 「わたしを見た者は、父を見たのだ」 
 ☆ そのとおりであると同時に その《父》であることは 誰にも分からなかった。聖霊が何であるかなど 誰にも分かりません。風は気ままに吹きます。


    *

 ★  結論から述べると、イエスは神の子ら、つまり天使たちの長兄であり、初めて神によって造られた天使でした。
 ▲ (ヨハネによる福音書 1章) ~~~~
 1: 1 初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。
 
 1:14 ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは≫父の独り子≪としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように《独り子》となります。
 《長子・長兄》とあるのは アブラハムを初めとする人間としての《神の子たち》(ヨハネ福音1:12)にとっての長兄となります。

 ★ ですから、子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者
 ☆ むろん《子》というのですから 親から生まれたというかたちです。ところが 《神の貌》としては そのような《生まれる》という表現を用いたとしても そこに時間的な懸隔などはありえません。ただ人間の経験世界の言葉で仮りに表わしたものです。神は はじめから聖霊です。



 天使の問題としては
 ▼ (ヘブル書1:14) 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。
 ☆ おそらく天使たちも 神なる聖霊のなかにおさまるということですから そして神から《生まれた》という表現が似かよっているので 《神の独り子キリスト》との類似性が捉えられたのでしょう。アブラハムら人間としての《神の子たち》と同じように 天使たちにとっても キリスト・イエスは 長兄であると呼ばれることは それほどおかしなことではない。そういう事情にある。ということだと思われます。

 どうでしょう?

投稿日時 - 2012-10-03 15:00:30

こんにちは
私より質問者さんや他の回答者さんのほうが詳しいように思いますが

まず聖書そのものが正しいかどうかという点があります
1-聖書はイエス・キリストが書いたものではない

2-あとから付け加えられた文がある可能性がある
聖書学者によれば姦淫の女の話は、あとから付け加えられた可能性が高いと言う意見もあるようです。

3-削除された文がある可能性がある
ニカイア公会議によって時の権力者によって都合の悪い部分が削除された可能性がある。




☆また長い時間の中で文が変わったものもあるかもしれません


たとえば
心の貧しい人は幸いですは、神の前において自らを低くする人は幸いですという方が正しいと書いてある本がありました。

日本語に正確に訳されてない物も多いようです


またダライ・ラマとキリスト教(名前を忘れました)の人の対談では、極初期のキリスト教徒は輪廻転生を信じていたようですと言っていました。

「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」

この会話から本人が罪をおかして盲人として生まれてくるとは、前世などを信じていなければおかしな内容になります。



なるべく正確なのは岩波書店の聖書だと書いてありました。

こういったことからどこまで正確に書いてあるかわからない聖書について論じても、その答え自体があまり意味のないもののような気がします。




▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。
  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

このことについては、他の箇所でイエスは自分は一人では何一つ出来ないと言っています。
神であるーまたは神と同等であるとするならば、自分では何一つ出来ないというのはおかしい気がします。

私を見たものは父を見たのだとは、何もイエスが自分は神だと言っているのではなく、今まで私がしてきた事を見てごらんーそこに父(神)は表されていると言いたかったのでは無いでしょうか?


盲人の目を開け、足の萎えた人を歩けるようにし、思い皮膚病の人を直し・・・
つまり神とは慈悲そして愛の心を持っているー神の子である自分の行動を通して、父(神)を知りなさいという事ではないでしょうか?

イエスの行動の中に神を見なさいということだと思います。



>>(θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。
何故こういった理論になるのか理解できません。

全ては聖書で予言されていたとおりに進んだのではないでしょうか?

死んだあとに復活して多くに人の前に現れました。

大嘘であるならば、イエスが死んだあとに復活したイエスを見た人はすべてウソつきということでしょうか?

また多くの人が目撃した奇跡もその当時の人がすべて共謀してウソをついてまわったのでしょうか?

投稿日時 - 2012-10-02 20:39:33

お礼

 ねこさん0000さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ まず聖書そのものが正しいかどうかという点があります
 ☆ この問題を取り上げるとするなら 同じ程度に問題となるのは 翻訳のそれです。
 翻訳によって意味は変わってしまっているのではないかという問題です。


 ここで質問の前提を述べますと それは単純でかんたんな内容になっています。
 現状のもので考える。これです。
 その現状のものが間違っていたら それはそのとき新たなただしいテクストで考える。です。
 と言っても そうなると何が《ただしい》かは 分かったものではありません。
 つまり 現状において所与のもので考える。こうなります。


 もちろん 議論が分かれ争われている主題などについては その議論じたいを取り上げてもらってもかまわないことになります。それが 現状なのですから。


 ★ なるべく正確なのは岩波書店の聖書だと書いてありました。
 ☆ であれば その翻訳によって考え聖書記事を解釈した見解を明らかにするというのが この質問への回答になると考えます。ほかの翻訳の欠点をあばくというかたちでも それはそれとして 成り立つものと思います。





 ★ ~~~~
 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」

 この会話から本人が罪をおかして盲人として生まれてくるとは、前世などを信じていなければおかしな内容になります。
 ~~~~~~
 ☆ いや これは 前世とはかかわりなく 《神の栄光が表わされるため》という答えが 出され得るとは思いますが? 《生まれつき目が見えない》という時点からのことを問うわけです。







 ★ ~~~~
 このことについては、他の箇所でイエスは自分は一人では何一つ出来ないと言っています。
 神であるーまたは神と同等であるとするならば、自分では何一つ出来ないというのはおかしい気がします。
 ~~~~~~
 ☆ この存在は 《イエスというふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神である》という存在です。
 つねに 人間(または しもべ)の貌(かお)と神の貌とが 同時にあります。
 つまりは 《自分では何ひとつ出来ない》というのは 人間の貌として言っています。一面を言っています。それだけだと見ますが どうでしょう?




 
 ★ ~~~~
 私を見たものは父を見たのだとは、何もイエスが自分は神だと言っているのではなく、今まで私がしてきた事を見てごらんーそこに父(神)は表されていると言いたかったのでは無いでしょうか?
 ~~~~~~
 ☆ 一方で確かに《わざを見てみなさい。それとして確かなわざを》ということも言っていましょうが いまは別の問題です。
 すなわち いま上に触れた《神の貌》 これは じつは 無根拠です。ですからそれが何であるかワケの分からない《霊》という言葉で表わします。つまり 神の貌は 聖霊です。つねに聖霊のことを言っています。父も子も そして聖霊も 神として聖霊です。

 つまり 人間イエスが おのれの内なる神の貌 すなわち 神の独り子としての存在をあなたがたが見たなら それは父を見たことになると言う。これは あくまでむろん 無根拠であり 聖霊の問題です。

 (もっとも 十字架の死とその後の復活のあと 聖霊が送られて来て 人びとは そのこと――つまり神は 父も子も聖霊も 聖霊であるということ――がやっと分かった。ということだと見ます)。


 次のご見解についても 上の《人間の貌 と 神の貌》という仕分けにおいて捉えるという問題があると見ます。
 ★ イエスの行動の中に神を見なさいということだと思います。





 ★ ~~~~
 >>(θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。
 何故こういった理論になるのか理解できません。
 ~~~~~~
 ☆ 《神の貌》は 無根拠であるからです。誰も聖霊を見た人はいません。それを 見たと言いますか その聖霊そのものであると言ったなら 経験合理性から見てそれは 大嘘だと認識されます。
 合理的に考えれば 少なくとも《虚構》です。
 死を死んだことは――息を引き取ったことは―― 事実という捉え方になりましょう。
 ただし 復活したということは 大嘘です。つまり 神の貌のことを言おうとしているわけです。

 どうでしょう?

投稿日時 - 2012-10-02 22:16:41

ANo.5

>(1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。



◎これは、マタイ4章でイエスが悪魔に誘惑される場面。

「すると、誘惑する者(悪魔)が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 」

このように、敵対者の悪魔でさえも、イエスを神とは言わず、「神の子」と言いました。



◎次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。

「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」

要約すると、ユダヤ人は、イエスが「自分を神とした」と非難。イエスは旧約聖書を引用し、「わたしは神の子である」と言ったことは冒涜か?と反論しています。つまり、ここでもイエスは「神」ではなく、「神の子」だと言っています。



◎以上、他に箇所でも「イエスは神」ではなく、「イエスは神の子」とされており、イエスご自身は神のことを繰り返し、「父」と呼んでいます。これは、聖書を読めば分かることです。

ですから、イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。

投稿日時 - 2012-10-02 14:04:36

お礼

 やんぐますくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~
 ◎以上、他に箇所でも「イエスは神」ではなく、「イエスは神の子」とされており、イエスご自身は神のことを繰り返し、「父」と呼んでいます。これは、聖書を読めば分かることです。
 ~~~~~~~~
 ☆ というご見解だと受け取りました。



 ★ イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。
 ☆ ヨハネ福音の冒頭は イエスの発言ではありませんが その聖書記者ヨハネによれば イエスを《神の子》として しかもみづからも《神》である存在として受け留めており そのとおりにしるしていることが知られます。
 
 ▲ (ヨハネによる福音書 1章) ~~~~
 1: 1 初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。
 
 1:14 ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
 ~~~~~~~~~




 ★ このように、敵対者の悪魔でさえも、イエスを神とは言わず、「神の子」と言いました。
 ☆ つまり《神の独り子》であると同時に みづからも《神》である。ということにはなりませんか?

 つまり さらに論証されているところは 
 ★ ですから、イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。
 ☆ ということのようです。


 さて 次のくだりについて 《神の子》であるだけかあるいは同時に《神》であるか判定するのは 微妙でしょうか? たぶん《子の父》と《父の子》とは けっきょくともに同時に《神》であると言っていると読めると見るのですが どうでしょうか?

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。
  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 フィリポが
  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」
 と言うと、イエスは言われた。
  「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
  のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
  お示しください』と言うのか。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
  のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
  い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
  のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
  さい。
   はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
  また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
  である。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
  父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
  げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 次の場合のイエスは すでに復活したすがたで現われて発言しています。
 ▲ (ヨハネによる福音書 20:22 ) そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 ・・・
 ☆ つまり この《聖霊》が神です。言いかえると 子の父も父の子も 神として 聖霊です。

 イエスという人間であると同時に キリストと呼ばれるようになった神であるという存在。このとき神であるという貌(かお)は つねに聖霊です。つまり 人間には分かりません。おのおのその主観において霊感を得ることによってしか分かりません。

 つまり 神も 聖霊も 無根拠ということです。
 神の子も 無根拠であり聖霊であり 神です。

 みっつの位格(ペルソナ)について 個は各個とそれぞれひとしく 各個は全体と そして全体は各個とひとしい。これが イエス・キリストの指し示した神です。
 すでに――イエスの死と復活のあとでは―― 人びとは知る必要のない神であり(エレミヤ書31:31以降を参照) 言わば無根拠のことです。

 でもそこに 核反応の炉があると言ったのだと思います。

 読み込み過ぎですか? マチガイですか?

投稿日時 - 2012-10-02 17:00:37

ANo.4

現代の偽神は?
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%C07
http://akb48.in/kami7.html

投稿日時 - 2012-10-01 23:47:20

お礼

 わたしにとっては どうでもよいお話です。あしからず。

投稿日時 - 2012-10-01 23:58:37

ANo.3

もともと、キリスト教というものは生前のイエスの振舞いと死後の彼の崇拝者による思想感によるものではないでしょうか。

その時代の背景には、根本に『ユダヤ教』があり、ローマ帝国という権力が存在していたのではないでしょうか。

イエス自身は、『キリスト教』を創設する事が目的ではなかったと思います。イエス自身もヨハネに影響され、権力に支配され、思想すらその影響を受け形骸化していく現実に我慢ならなかったのではないでしょうか。
そして、現状を良しとするパリサイ人の策略の前に、倒れていくのです。

ですから、イエス自身は「自分が預言者である」等とは思いもしないでしょうし、まして、『神』だなどとは考えていないでしょう。
イエス自身を神格化させたのは、崇拝者により「ヤハウェが救世主を送って、自分たちを救ってくれる」といった希望が作り出したのではないでしょうか。イエス自身は何もユダヤ教を否定したのではなく、本来の純粋なユダヤ教を取り戻す事を信念としていたのではないでしょうか。


※西洋哲学に造詣のある質問者様は、既に回答をつかんでいらっしゃるとは思います。その上で、キリスト教だけではなく、ユダヤ教・あるいは当時のエルサレムの置かれている状況を照らし合わせて研鑽されると、キリスト教が何であるかより鮮明になるのではないでしょうか。
ご存知のように、私は法華経以外での知識はあまりありません。西洋哲学となると、詳細を回答する知識は持ち合わせておりません。是非、質問者様の研鑽により、西洋哲学からの“真理”を開示していただきたいと考えます。

投稿日時 - 2012-10-01 18:07:38

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 歴史事実やその展開については どう言いますか 残念ながら ここではあまり関心がありません。これが 正直なところです。
 
 ○ けっきょくイエスは 何を言ったのか?

 ここに集中しています。どうでしょう?
 むろん 触れていただいた事柄についてどうでもよいということではありませんが それによりますと けっきょく
 ★ イエス自身は何もユダヤ教を否定したのではなく、本来の純粋なユダヤ教を取り戻す事を信念としていたのではないでしょうか。
 ☆ と結論づけておられましょうか?
 
 もしそれだと どうでしょう 《本来の純粋な》かどうかを少し別とするでしょうが だとしたら けっきょく
 ★ パリサイ人の策略の前に、倒れていくのです。
 ☆ というごとく パリサイ派がその時から主流となるようですから イエスはむしろ大きくはこのパリサイ派と同じ流れの中にあったということなのでしょうか? 





 中で次のご指摘には 異をとなえざるを得ないと思うのですが どうでしょう?
 イエスは みづから自分はヤハヱーなる神の子であり 父の子は 子の父と一体であるとも言っているのではありませんか?
  ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 
  * 16:16 ペトロの言葉として《生ける神の子》があり イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えている。

 ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~
 〔* サマリアの〕女が言った。
  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
  その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
 イエスは言われた。
  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。
  「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
  だれも父のもとに行くことができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
  なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 フィリポが
  「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」
 と言うと、イエスは言われた。
  「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
  のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
  お示しください』と言うのか。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
  のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
  い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
  のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
  さい。
   はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
  また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
  である。
   わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
  父は子によって栄光をお受けになる。
   わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
  げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ これらも
 ★ イエス自身を神格化させたのは、崇拝者により「ヤハウェが救世主を送って、自分たちを救ってくれる」といった希望が作り出したのではないでしょうか。
 ☆ というごとくみな 聖書記者のでっち上げだというご見解でしょうか? それはそれでひとつの立ち場を形作るかと思いますが そうしますと すべては聖書やイエスを解釈する人の主観によるという情況が 文字通り 通用するというかたちになります。 
 すなわち言いかえるなら いまイエスはそのように何もしなかった。ただユダヤの正統派を唱え続けただけであり それはパリサイ派のウゴキにすでにかき消されたという解釈も通用するし あるいはいま趣旨説明に述べたような《イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。そしてそれによってでも 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた》という解釈も それとして成り立つと言ったことになると思われます。
 みんなそれぞれ勝手にやってくれと言ったことになると思われます。



 と取り敢えず こんなお応えが成り立つように考えます。さて どうでしょう?

投稿日時 - 2012-10-01 20:46:54

教祖達の自敬の典型…!?
http://www.falcom.co.jp/ysc_psvita/

投稿日時 - 2012-10-01 01:54:42

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 何が
 ★ 教祖達の自敬の典型
 ☆ なのですか?

 それと 《自敬》の要素がもしあるとすれば それでもそのことは あくまで大きな《虚構》の中におさめられていることでしょうから その《物語》のほうに着目して問いに答えていただくとさいわいです。

投稿日時 - 2012-10-01 07:04:56

ANo.1

後世の信者達が勝手に追加した内容であって、
日本の帝とは違います。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93

投稿日時 - 2012-10-01 00:44:43

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ただしその内容は あいまいだと感じます。

 ★ 後世の信者達が勝手に追加した内容
 ☆ というのは 何を指していましょうか?

 1. 《イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた》ということか?

 2. ぎゃくに《けっして大嘘をついたのではなく 聖書の表現するとおりのこと》が なのか?

 3. 参照サイトに言う《神は 三位一体である》という説が なのか?

 けれども
 ★ 勝手に追加する
 ☆ も何も それぞれそのように解釈しているというのみなのですが そうするとその解釈することはよいとしても その内容が
 ★ 日本の帝とは違います。
 ☆ ということに問題がある。こういう回答内容でしょうか?

 そんなことは もとより自明ではありませんか?
 それとも 《日本の帝とは違う》なら それはすべてマチガイであり捨て去るべきものだとでも言うのでしょうか?
 仮りにそうだとして なぜ?



 きわめてあいまいな ただの落書きであると見て 補足要求します。

投稿日時 - 2012-10-01 07:01:59

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