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解決済みの質問

仏教で言われる欲を捨てると

半年ほど前から仏教に惹かれ、仏教こそ人の生きる道しるべという思いがつのりました。ところが、いろいろ勉強するうちに、仏教の道を極めるには、あらゆる欲を捨てることが必要なことがわかりました。生きること自体が苦しみであり、その苦しみは欲から発しているのだ。欲があるから執着が生まれ、苦しみとなる。
そこまでは理解したのですが、では欲をなくしたら、仕事も出来ないし、収入も途絶えるし、現実には死ぬしかないのではないのか。結局、仏教を極めるには死を選ぶことなのかと考えるようになりました。しかし、仏教では、自殺は否定されているようです。この矛盾をどのように解決すれば良いのでしょうか。
私としては、仏教の教義に沿った生き方をしながらも、生活の糧を得たいのですが。外国で出家して、托鉢で生活するしかないのでしょうか。 

投稿日時 - 2013-01-11 17:42:09

QNo.7886617

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

NO.2のものです。もしよろしければ、コメントさせていただきます。

心が晴れたようで、ほんとうによかったと思います。
うれしい限りです。

>つらいつらいと浸っていたのが何か別の自分のように思えて来ました。これでいいのかな。なんかもっと可哀想に思ってあげないと、とか思ってしまっています。

もしいつか「可哀想と思ってあげたい」と思えば、遠慮なく、可哀想と思って
やってください。

それは能動的な行為で、可哀想、寂しそうにしている方に、まるでいっしょに
寄り添いたいという優しさという名の愛のエネルギーがからだと思うのです。
それはある意味、ヒーリングや癒しと言われているものかもしれません。

もし十分に十分にご自身を癒してあげて、そしてその癒しが溢れてくる
ぐらいになれば、その溢れるパワーで、周りの方々も癒すことができると
思いますよ。


>ケーキのたとえ。ケーキのことを考えていたときは完全につらい気持ちが、消えていた?、自分がどこかへ行っていたような感じがしました。

そのどこかへ行っていたような感覚が、もしかしたらその仏教で言うところの
欲を捨てる、に近いのかなと思えます。

以前にも少し書きましたが、私たちは”瞬間の存在”だそうです。
それを思い出す、体験する、ということが、その欲を捨てることかなと。
喜怒哀楽も瞬間々に味わい”楽しむ”。ケーキを想像したように。

書籍『ニュー・アース』 エックハルト・トール著も参考になるかもしれません。

下記はユーチューブのエゴの観察についてのわかりやすい動画です。
『ペインボディを小さくする方法』~オオカミとお花畑~ エックハルト・トールより
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=F4nwLEbwArk

ここで言う「オオカミ」は自我(エゴ)で、「お花畑」は本来のあなたですね。

光(観察)によってエゴを癒してあげるようなイメージですね。


>nungさん

参考文献のおすすめということですが、どれもすばらしいものばかりで
特にというのはないのですが、強いて上げると、今の私は宇宙意識的
なものがブームで、例えば、宇宙意識バシャールや宇宙意識SANです。
検索したら何か出てくるかと思います。ご参考まで。

投稿日時 - 2013-01-20 13:36:44

お礼

どうもありがとうございます。
何とお礼を申し上げたらよいかわかりません。
私は救われました。一筋の光を見つけました。

私は、哀しい事情により、ある日を境に幼い愛娘に会えなくなりました。もう一生会えないという現実に直面しました。それからずっと絶望の淵にいました。

過去の日々を思うたび、その思い出が楽しければ楽しいほど寂しく悲しく感じ、過去の悪い出来事には後悔の念でいっぱいになり、どうすることもできない状態から消えてしまいたい気持ちになりました。
そこで1つの救いを求めて仏教にたどり着きました。
愛したり、憎んだりすることが、苦しみを生む。そうした感情を捨てると苦しみがなくなる。そのように理解しました。しかし、そうすると本能をも否定してしまい、生きることさえ困難になるのではないかという疑問にさしあたりました。

そこでこの場で相談したところ、自我(エゴ)というものの存在を知りました。そしてそれは、本当の自分ではない。エゴを客観的に見ているのが本当の自分である。
これを意識してみて、自分の意識に変化が現れました。

ご紹介いただいた動画、たいへん興味深く見させていただきました。自分の中のオオカミ。そういえば、かつて、私はもっとのほほんとした性格で、どちらかといえばお花畑人間だったなと思いました。いつの間にか、醜いオオカミに変貌していました。
その変化は、自分や家族を守るためだったような気がするのですが、却って自分や家族を苦しめる結果になっていました。
しかし、この苦しみがあったからこそ、エゴを意識することができたし、こうして教えていただくことにもつながりました。つらい目になど遭いたくないが、つらい目に遭わないと自覚できないとは、不思議なことです。不思議というより、当初は理不尽に感じていました。
現実は厳しく、失ったものは取り戻すことはできません。ですが、失うという概念そのものを乗り越えてしまうと、何も苦しむ必要がない。そんな気がしています。
参考となる情報をありがとうございます。ニューアースや宇宙意識についても、読ませて頂きます。いただいたご縁に感謝いたします。
どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2013-01-20 17:44:54

ANo.24

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回答(24)

ANo.23

NO.2のものです。たびたび登場させて頂いて恐縮です。
また長文になってしまい、あらかじめご了承くださいませ。

>この場合、我というのは、本当の自分なのでしょうか。それともそれすらエゴの仕掛けた偽の自分かも知れないですね。難しいです。

そうですね、場合によると思います。我に気づく深さによるのかも
しれないですね。


>否定的な感情を味わうこと、これは何か避けたいという感情が沸き上がってくるのですが、それをあえて味わおうとすることで、エゴを打ち負かすということでしょうか。


エゴを打ち負かすというよりも、エゴをただただ観察し、ただただ味い、
表に出す、それが地球に戻す(アースする)という表現になりますかね。

そして「否定的な感情」と、ついつい私も使ってますが、感情にそもそも
肯定や否定という意味はなく、人間が勝手に、そう決めただけですよね。
すなわち、私達の取り決めであり、共通の観念であるわけです。

小さな子供さんに、
「あの感情はダメだ、この感情はいいのだ」、という取り決めはない
ですよね。全力でパワフルにただただ表現しているだけですよね。
そして後味がなく、さっぱりしている。

単なる取り決めなので、別に気に入らなければ、その取り決めを自由に
変えたらいいのですよ。

「苦しいという感情は、ダメなんだ!」ではなく、
「苦しいという感情を味わって、魂を磨けるんだ!」などに。

結局は沸き起こる感情は、どのような観念や信念を持っているかに、
影響されているだけなのです。

感情はただのエネルギーで、そのエネルギーに色を付けているのが、
観念や信念で、それによっていろいろな感情が生まれるのです。

感情から無理に逃れよう、感情を抑えようとすると、その反動でさらに
もっと感情が沸き起こりやすくなります。

水が流れるホームの入口を抑えようとすると、水が外に出でようとする
力がさらに増してきますよね。それと同じです。

流れ出る水を地球に返しているように、エネルギーも地球に返すような
イメージで、返すには湧いてくる感情をただ観察し、味わうということ
ですね。瞑想などもその1つと思います。

感情から逃れようとするのでなく、立ち向かって、味わうのです。

そして、「嫌だ!嫌いだ!」と、取り決めている観念や信念を自分の
心の中を探してみるのです。どんな取り決めをしているのかなと。

誰もが、自分の心の中を観るのを嫌がります。
特に閉じ込めたいイヤな感情や、許せないという親への強い気持ち、
自分が気づかずに持っている自分を幸せにしない観念や信念。

心を観ることを避けるので、そのイヤだと感じることが目の前に
そのように映るのです。本当はものすごい人生を変えるチャンスを
映し出しているだけなのかもしれないのに。

イヤだと感じてしまったら、それはシンプルに自分の心の中を、
観ることです。

何度も繰り返しますが、自分の人生をちゃんと向き合って生きている
だろうかと。

どうして、私はここにいるのだろうか。
どうして、私は生きたいと思っているのだろうか。
どうして、私はこの会社に勤めたいと思っているだろうか。
どうして、私はこの名前なのだろうか。
私の幸せとは、何なのか。
私の喜びとは、何なのか。
私が本当にしたいことは、何なのか。
私が本当にほしいものは、何なのか。
・・・・・・。


>たしかに否定的な感情を否定しています。どうすれば良いのでしょうか。


一つ簡単な問題です。一瞬でイメージしてくださいね。

好きなケーキは何ですか。

イメージできましたか。

では、そのイメージが湧いている時に、イヤな感情を思い出しましたか。
好きなケーキのイメージの最中に、イヤな感情を創造できなかったはずです。
それがヒントです。何をイメージするかは、質問者さんが決めてくださいね。

>この状態から、復活出来るでしょうか。これからの生きる姿勢で何とかなるでしょうか。

どれだけ自分の心の中を整えられるか、自分の避けていた過去の
感情に正面から味わうをするのか。どれだけ人生に向き合えるのか。
向き合い続けることができるのか。逃げないで心の奥を観ようと
するのか。

安易に他者にその答えを求めてわかったとしても、
現実は何も変わりません。

その安易に答えを求めよう、聴こうとするそのような姿勢が
現実を変えにくくしていることに気づくでしょう。

心の中を真剣に観続ける度合いによって、現実は簡単に変わります。

現実は心の反映だからです。

何度も話しますが、このような話も一週間で、きれいに忘れます。(笑)

投稿日時 - 2013-01-16 18:33:47

お礼

どうもありがとうございます。
まず、感情を見つめること。それは自分ではなく、エゴであること、と気づいた時点で、大変に楽になることができました。悲しい感情に溺れても、怒りを感じて否定して余計に辛くなっても、それでも時間は過ぎてゆき、やるべきことはどんどんやって来る。
時間が解決する、という感覚を味わっております。
その中で、感情を少し離れたところから見られるようになって来ました。
ケーキのたとえ。ケーキのことを考えていたときは完全につらい気持ちが、消えていた?、自分がどこかへ行っていたような感じがしました。
つらいつらいと浸っていたのが何か別の自分のように思えて来ました。これでいいのかな。なんかもっと可哀想に思ってあげないと、とか思ってしまっています。
でも、現実を受け入れるというか、その方が楽になって来ました。
エゴを意識してから、何か、救われた気がします。
どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2013-01-18 21:52:18

ANo.22

No.19です。

>執着を捨てた状態が、目的ではなくて結果だということは、その状態を目指しても、たどり着けないということなのですね。

それに近づくための方法を、非常に具体的に述べたものが、先にご紹介した「人間やりなおし」という本です。
向き不向きがあるかと思いますが、宜しければどうぞ。


さて、
苦しみを和らげる方法ですが、仏教には、観照という方法があります。
観照とは、自分の心を客観的に見ることです。

私の場合は、タイ仏教の知識です。
まず、自分の心がそこにあるとして、その心から一歩退いた自分をイメージします。
そして、一歩退いた自分から見て、その心が、どんな感情を持っているかを観察し、その感情を言葉で表現するのです。
口で言わなくても、心の中でつぶやくだけで結構です。

 (1)苦しい
→(2)一歩退く
→(3)そこに苦しんでいる心があるな。

自分が感情の中に浸りきっていると、無意識的にその感情を増幅しています。
その感情から一歩下がって、客観的に見る事で、少なくとも、感情の増幅がストップします。
その感情を消そうとする必要はありません。
そんなことはできないに決まっています。
しかし、自分の心を客観的に見て、感情を言葉にするだけで、以前よりもその感情が減ります。
これは、怒りや悲しみにも効果があります。
タイ仏教では、心を中庸に保つと言うのが大切で、これは、そのための修行方法です。

ayafukuさんの、感情を味わうというのと、似ていますね。
あるいは、全く同じ事かも知れません。


こうした事をもっと徹底的に行うのが、座禅や、瞑想です。
説明すると長くなるので、下記にお奨めの本をご紹介します。

始めよう。瞑想
楽しもう。瞑想
宝彩有菜 著

この本は非常にわかりやすいです。
瞑想の方法も、一種類しか載っていませんので、あれこれ迷う事もありません。
宜しければ、どうぞ。


尚、ayafukuさんのご回答には、大変感服致しました。
私も、参考文献を教えて頂きたいです。
宜しければ、お願い致します。
横から済みません。>ayafukuさん

投稿日時 - 2013-01-15 22:21:36

お礼

どうもありがとうございます。
自分を客観的に見るということが、不完全ながらもできてきたのか、つらい状況から少しずつ脱しているように思えます。
言葉ではうまく表現できない感じですが、同じ状況にあっても、以前はもっと悲しかったはずだけど、何か、そんなことを考えていた自分が昔の自分のこと、他人ごとのようにさえ思います。
自分のことを冷たいなーと思ったりもします。
錯覚だったのかもしれない。そう思います。
不思議です。
宝彩有菜さんのHPを拝見し、興味を持ちました。
瞑想に重点を置かれているのは、皆さん共通している。今はまだ冷静になりきれていないので、瞑想するのが怖くもありますが、やがて、瞑想しても過去に引きずられず、未来を心配せず、心を落ち着かせる日がくることを待ち望んでおります。
具体的に参考となる情報をいただき、ありがとうございました。

投稿日時 - 2013-01-18 21:43:28

ANo.21

NO.2のものです。続きになります。

まずは先に、先程の補足的な内容になりますが、

否定的な感情が湧いてきたら、その感情を味わい尽しながら、
その感情をシンプルに吐き出す、表現する、ことです。
その湧いてきた感情をできれば止めないことです。

止めようとする行為も否定性が含まれます。
※もちろん時と場合によります。自己責任で。

否定的な感情を味わいながら、パワフルにその感情を表現する
ことです。紙に書き出してもいいです。
大事なのは、味わいながら。

闇雲に、感情を表現してしまうと、疲れだけが残ります。
我を忘れて怒ると、疲れがとても残りますし、表現しなかったら
もっと自分に怒りが溜まります。

でも、味わいながら、表現すると、不思議に疲れは残りません。
またよい意味でもっとパワフルな人になってきます。

感情はエネルギーです。エネルギーを無理に押さえ込もうとすると
エネルギーが循環しにくくなり、ウツを招くこともありますので、
湧き上がる感情を味わいながら、シンプルに、表現させてあげてください。


さて、もっとも大事な話になりますが、
質問者さん最初の方のお礼の内容の中で、

>そもそも仏教にすがろうとしている自分自身、苦しみから逃れるためであり、


今の置かれている状況から、もし逃れるためにスピリチュアル
(目に見えない世界)な世界を勉強しようとしても、スピリチュアルな道
を歩むことは非常に難しいと思われます。

これはあくまでも個人的な意見なので、たいへん恐縮ですが、

スピリチュアルな道は、スピリチュアルの世界にはありません。幻想です。
そのようなスピリチュアルの世界の学びは、あくまでも補助的なものとして
活用するのならとても役立つと思います。

私も最近になってようやくそのことに気づきました。
ずいぶん長いことかかりました・・・。

スピリチュアルな道があるのは、今の置かれている状況・世界に、
ございます。

今の人生に、どれだけ逃げないで、真摯に向き合えるか、というその
姿勢に在り続ける中に、その道が見えてくるものだと思います。

質問者さんの今のような姿勢で、仮にいろいろな団体的なものに
入って勉強をされるようでしたら、その団体の道にどっぷり使って、
どれだけその団体の教えを学んでも、それはスピリチュアルな道では
ないのです。単に、スピリチュアルなことを学んでいるフリに終わって
しまうのです。

大切なことは、この実社会において、どれだけのことに貢献ができるか。

両親や家族、仕事関係、お客様などの人生に対して、
どれだけ真摯に向き合ってあげられるのか。

周りの方々の喜びの創造に、どれだけ貢献ができるのか。

そのような姿勢を続ける中で、スピリチュアルの世界で、スピリチュアルを
学ぶことはとても役に立つと思います。実際に使えることが多くなります。

最初にどうような姿勢なのかが、もっとも大事なところです。

苦しみから逃れるために真理を求めるか、
誰かの喜びのために真理を求めるのか。

同じ求めたことでも、質問者さんが与えられる結果に、ずいぶん
大きく差が開いてきます。

もう一度、今のあなたの心をじっくりと観察して、『在り方』をみて、
心を整えること、それを先におすすめさせていただきます。

ただやがて、このような自我(エゴ)が嫌うような話は一週間したら、
きれいに忘れます!

それが普通です。自我がそうさせるのです。

それを乗り越えられるかどうかは、人生に対する真摯な姿勢です。

そして、そのような姿勢を続けていると自然に、相応しい必要な情報が
目に入ってきます。そのような仕組みなのだと、ただ疑わないことです。

投稿日時 - 2013-01-15 19:38:18

お礼

まずは更に続けて教えていただき、ありがとうございます。
感情を味わうことと感情に飲み込まれることをうまくコントロール出来ません。つい、感情から逃れようとします。たしかに否定的な感情を否定しています。どうすれば良いのでしょうか。

さらに大事な話について。
「スピリチュアルな道があるのは、今の置かれている状況・世界に、ございます。」
そうでしょうね、やっとそのように思い始めました。
しかし、つい最近のつらい体験にどうしても耐えきれず、現実から逃げる道を選択してしまいました。どうするのがベストかわからず、逃げ出してしまいました。

この状態から、復活出来るでしょうか。これからの生きる姿勢で何とかなるでしょうか。

投稿日時 - 2013-01-15 20:30:08

ANo.20

NO.2のものです。何度もありがとうございます。

「苦しいと訴えているのは自我の方だった」、と自分自身に
受け入れられてよかったですね。

「苦しむ」という”欲”を手放せた、仏教で言われる欲を捨てる、
ということにもしかしたらなるのかもしれませんね。

”苦しみ続けたい”という欲を、捨てることができた瞬間なのかも
しれないですね。

今苦しんでいらっしゃる方で、NO.15の内容を読んだらおそらく9割の方は、
反発し、イライラされたのではと思われます。でもそのイライラ感も実は
自我(エゴ)が仕掛けているワナだったんですね。

質問者さんは、よくそのワナにひっかからなかった、よく気づけたと
と思います。受け入れることを許せたと思います。そのような時期だった
かもしれません。

さらに一つ、次に、おすすめがございます。
それは、もし一瞬でもその苦しみが消えた思えた瞬間に、
その「苦しむ」という感情を積極的に”味わう”ということです。

「苦しむとはこうような感情のことなのか~、なるほど~。」と

しみじみと味わって、貴重な体験だったと少しでも思えることです。
そんなことができる訳ないよ、という声が聞こえてきたら、
もちろんそれも”その声”からの方です。

同じように、怒りや悲しいなどの否定的な感情が湧いてきたら、

「怒りとはこうような感情のことなのか~、なるほど~。」と

苦しい、怒り、悲しい、寂しい、辛い、不安といった否定的な感情を
『否定しない』で、ただただ味わいつくすことです。

苦しみの本当の正体は、その置かれた状況・状態の方ではなく、
それらの否定的な感情を強く『否定』してしまっていることなのです。
自我(エゴ)も否定しない。単なる自然現象。

強く否定を続けていると、(欲が生まれ)手離さにくくなります。
その欲を捨てるという意味でも、しみじみと感情を味わい尽くすことですね。

そしてもう一つもっとも大事なことがございます。長くなりそうなので
すいません、分けて掲載させていただこうと思います。

投稿日時 - 2013-01-15 11:38:35

お礼

こちらこそ、何度もありがとうございます。知らない世界の秘密を垣間見ているような気がしています。
エゴの罠。引っ掛かっています。悲しみや怒りに、つい、我を忘れてしまいます。
あ、この場合、我というのは、本当の自分なのでしょうか。それともそれすらエゴの仕掛けた偽の自分かも知れないですね。難しいです。

否定的な感情を味わうこと、これは何か避けたいという感情が沸き上がってくるのですが、それをあえて味わおうとすることで、エゴを打ち負かすということでしょうか。
やってみましたが、なんというか、自分が遠くに行ったような気がしました。最近のつらい出来事が昔の出来事のように感じました。ほんの一瞬でしたが。
しかし、すぐに今の気持ちに引き戻されてしまいました。

投稿日時 - 2013-01-15 20:17:21

ANo.19

私も何度もすみません。
私も気になったことが、一つあります。

欲望への執着を捨てた心境というのは、目的では無く、結果だと思います。

禅僧の修行と悟りの話を読むと、悟ろう悟ろうと、長年に亘って修行をしますが、どんなに修行をしても悟れないと、諦めた瞬間に、悟りが訪れるそうです。

お釈迦様の場合でも似ているようです。
長年に亘って、苦行を続け、このままでは悟る前に死んでしまうという極限まで来た際に、苦行をやめようと決意した直後に、悟りが訪れます。

これが、恐らく、自分自身を受け入れると言うことだと思います。
そして、何かを手放すためには、逆に一度、それをとことんまで、追い求める必要があるのかも知れません。

これでは俗人は出家しない限り、悟る事など絶対にできないではないかと思われるかも知れません。
しかし、お釈迦様の直弟子の中で、悟りを開いて阿羅漢となった500人の中には、在家の信者もいたそうです。

大昔は、大切な情報を、秘中の秘として、狭い仲間内で独占しがちでした。
文字を読める人もごくわずかでしたし、世の中が迷信に満ちあふれていました。
ですから、正しい情報を手に入れるのは、非常に困難だったでしょう。
しかし、現代の人間は、ありとあらゆる情報にアクセスできる、恵まれた環境にあると思います。
逆に情報が多すぎて、玉石混交の中から、玉を取り出すのが難しいかも知れません。

玉を取り出すのに必要なのは、自分自身を客観的に「正しく」見ること、自分自身をも欺くような嘘をつかない事、そして柔軟な思考だと思います。
それが「八正道」だと思います。

そして、おかしな宗教団体に取り込まれると、自分を客観的に見ることができなくなるので、気をつけましょう。
宗教団体には近づかない方が得策だと思います。
唯一、禅宗だけは、問題無いような気がします。
尚、私はタイ在住で、タイ仏教、つまり上座部仏教に親しんでいます。
しかし、宗教団体に入信など、一切していません。
タイには、「単なるタイ仏教」しか無いからです。
しかし、これも迷信が多数入り込んでいるため、自分で玉をより分ける必要があると感じています。

タイ仏教も、禅宗も、自分が悟る為の仏教です。
逆に、他人を救うと称する宗教団体は、救われたいと願う人を食いものにする集団ですので、気をつけましょう。

投稿日時 - 2013-01-14 23:22:26

お礼

何度もすみませんなど、とんでもございません。私の方こそ、お付き合いいただき、知らなかったことをいろいろと教えていただき、感謝しています。回答をいただく度に本では学べないことを教えていただけるので、もったいない気持ちでいっぱいです。
執着を捨てた状態が、目的ではなくて結果だということは、その状態を目指しても、たどり着けないということなのですね。
そして、どこかであきらめなくてはならない。なかなか、たどり着けそうにありません。
救いを求めて、つい宗教に答があるかも、と思ってしまいました。しかし、答えはない。少し絶望しかけました。
タイ仏教と禅宗は自分が悟るための仏教。ということは、これらの教えをヒントにすると、いつか答が見つかるかもしれない、ということでしょうか。
何とか、今の状態から一皮脱皮したい気持ちです。

投稿日時 - 2013-01-15 20:04:16

ANo.18

NO.2のものです。 何度も登場してすいません。
ちょっとだけ誤解されている部分が一部あるかなと思いまして。

>それは根本的には自分の執着のせいだとわかっているのですが、
その執着を捨てるためにここまで苦しい思いをしなくてはならないのかと、
そのこと自体に苦しみ続けてきました。
まだ執着を捨てることができないのです。
非常に、つらいです。


少し種明かし的なお話になしますが、

その苦しんでいるのは、『実の本当のあなた』の方ではありません。

苦しんでいるのは、『自我(エゴ)』の方なんです。

自我(エゴ)自体、存在していることがあなたにばれると、一旦消滅して
しまうため、あなたに、その正体がばれないようにばれないように、
いろいろ日々、罠を仕掛けてきます。『私(自我)が、本当のあなたよ』と
言い続けてくるのです。

この苦しみも、「本当のあなたが苦しんでいるのよ」という具合に。

そして、ただ、その罠にあなたがワザとひっかかって、遊んでいるという
裏話しなんですね。

ただ遊んでいるので、いつ止めるもいいわけです。

それには、その苦しみは、自我が苦しんでいるだけなんだという
気づきを、自分自身に許して受け入れるだけです。

あとは、その苦しみをいつ止めるかはご本人が決めることです。

決めると、その苦しい経験というものも、未来につながる素晴らしい
大切な経験だったと、いつかは気づかれる日が来ると思います。

投稿日時 - 2013-01-14 11:27:46

お礼

たびたびありがとうございます。

完全に誤解していました。
苦しいと訴えているのは自我の方だったとは。眼から鱗が落ちた思いです。そう見た瞬間、一瞬ですが、苦しみが消えました。
あれ? 目が覚めちゃったというか、変な感じです。
全ての苦しみが錯覚なら何も気にすることはない。でも、成り行き任せでいいのかな、という気持ちも残っています。これも自我の罠かな?

ところで、ayafukuさんは、どのようにして、このようなことをお知りになったのですか?
もっと本当のことをいろいろと知りたいのですが。何かの本ですか?それとも特定の教えでしょうか。
よろしければ、教えてください。

投稿日時 - 2013-01-14 18:34:33

ANo.17

No.16です。

>そう思う一方で、なーんにも考えない人になりたいという願望があります。それが生まれつき悟った人なのでしょうね。

生まれつき悟った人など居ないと思います。
それでは、魂の根源の進歩発展などあり得ません。

No.15 の方のおっしゃるように、苦しみは、自ら経験を求めて、地球に遊んだ結果です。
一旦自我を経験し、それを自分なりに味わい尽くし、克服することが、進歩発展であり、地球に遊ぶということだと思います。

投稿日時 - 2013-01-13 23:08:13

お礼

ありがとうございます。
何も考えていないように見えても、やはり生きている以上、魂の発展をするために、自我の経験をする、ということでしょうか。

スピリチュアル世界では常識なのかも知れませんが、地球に遊ぶというのが、あまり知らなかった概念で、さらに考えさせられてしまいました。
自分は何のために生まれて死んでいくのだろうかと、ずっとわからないでいました。生きている間に得られたものは全て失なってしまう、その喪失感を悲観していました。
しかし、生まれている状態が地球に遊んでいるということ、これは何か得るものがあるから生きているのだと生きる意味を感じさせられました。
何を得るのかは、未だわからないのですが。

投稿日時 - 2013-01-14 18:13:31

ANo.16

私は、スピリチュアル系の本をかなり読みましたが、書いてあることは、ほとんど同じであり、そのエッセンスは仏教と同じであると思います。
つまり、真理は一つであり、様々な宗教はそれを違った向きから眺めただけではないでしょうか。

まず、地球全体の生命が、たった一つの「存在」であると言うことです。
我々はその「存在」から枝分かれした先端なので、根元は常にその「存在」につながっています。

以下は、私の気に入っている例え話です。

大きな風船のような、魂の根源があるとします。
風船の膜は非常に柔軟で、自在に伸び縮みし、その形状を保持します。
風船の内部には、空気がつまっており、それがすなわち、生命の元、魂の元です。

内側から指で膜を押し出すと、膜が指の形に伸び、その先端がふくらむと、それが人間や、すべての生命となります。

その膨らみの中の空気(以下A)と、風船本体の空気(以下B)は、通路によってつながっており、元々一つの物であり、今も一つの物です。
AとBは、全く同じ空気であり、その区別はありません。

さて、人間がおぎゃーと生まれた時は、まっさらな状態なので、A(人間)は、B(魂の根源)と自由に行き来できます。
ところが、人間としての経験を積むにつれて、生存本能により、恐怖や怒りを感じるようになります。
この恐怖や怒りがAとBをつなぐ通路を扉のように塞ぎ、自らがAの部屋に閉じこもるうちに、Bの存在を忘れてしまい、ほかの人間と自分を区別するようになります。

これが自我です。

そして、人間が死ぬと、Aを包んでいた膜は収縮して、Aの中の空気はBの元へと帰って行き、混ざり合ってしまいます。
Aは生存中、人間として様々な経験をしていますので、その経験はBの経験となり(元々そうなのですが)その分、Bは、進歩発展したことになります。
人間が生きる目的は、Bの進歩発展なのです。

ここで大切なことは、Bを仏や神とすれば、仏とは私たち自身であり、私は仏であり、仏は私です。
Bは、自らの経験の場として、この世を作り、Aは人間として様々な経験をするために、この世に生まれたのです。
それは、Bの意思であると同時に、Aの意思でもあります。


ごくまれに、生きながらにして、この仕組みに気付くことができた人がいます。
それが悟った人です。

本来AとBが同じ物であれば、自分と他人の魂も、同じ一つの物です。
それならば、他人と争うことも、優劣を競うことも、他人を恐れることも、全く意味がありません。
そして、自分を愛するのと同様に、全ての人を愛することができるようになります。
ということは、親しい人だけでなく、敵さえも愛することができるはずです。
それが、キリストの言う「汝の敵を愛せよ」と言うことです。

そして、「自分の存在」など、単なる錯覚に過ぎないことになります。
これを知識としてではなく、自分の体験として悟った心境、「自分など居ない」という心境が、「無我の境地」です。

他人と自分が一つであることに気付けば、富や権力など、なんの意味もありません。
また、死の恐怖も無くなります。
それが、欲望に執着しないということです。
欲望が無くなるのではなく、自然と執着しなくなるのです。


このように考えると、いろいろな宗教の言っていることは、全て辻褄が合うような気がします。
私は全くの勉強不足ですので、いろいろな宗教の内容を詳しく知っているとは全く言えませんが、いろいろな本を読めば読むほど、語っている内容は、このような概念に行き着く様な気がします。
真理は一つということではないでしょうか。

この風船のたとえは、阿部俊郎&雲 黒斎 著の「降参のススメ」という本に載っています。

それ以外に、この人は本当に悟っているのではないかと思われる著者の方がいますが、それは下記の皆さんです。

中村天風
高橋信次
空不動

私は最近、特に、空不動著「人間やりなおし」という本にはまっています。
内容は、「いかに愛ある人間になるか」、その方法を具体的に述べた物です。
振り返ってみると、それは仏教の「八正道」そのものであると思います。

ご参考になれば幸いです。

投稿日時 - 2013-01-13 11:01:24

お礼

ありがとうございます。
非常に深い話なので、何度も読んでみました。
自我の正体は生存本能。だから苦しみの原因自体が生きることそのものなのですね。無我の境地になれば死ぬことも怖くなくなる、そうかもしれないと思います。そして実際に死んでしまうような気がしています。
具体的に参考になる書籍等をご紹介いただいたので、まだまだ勉強させていただきたいと思います。
そう思う一方で、なーんにも考えない人になりたいという願望があります。それが生まれつき悟った人なのでしょうね。

投稿日時 - 2013-01-13 18:42:37

ANo.15

NO.2のものです。

質問者さまのお考えでだいたいいいと思います。

>自我(エゴ)とは一体何者なのでしょうか。なぜ、自分の中に2つの心?
が存在しているのでしょうか。何か必要があって存在しているのでしょうか。
自我(エゴ)が苦しみの原因であるなら、いっそのこと無くしてしまいたいのですが。


太陽や月が一体何者かという質問によく似ています。
別に意味は、なんでもいいと思います。ただ存在しているだけです。
ただの自然現象なので。

存在理由としてですが、これも何でもいいかと思いますが、
私的に、それらを使って地球で遊ぶためです。

信じる信じないは別にして、苦しむという感情を味わえるのは、
とてもとても貴重な体験だそうです。死後の向こうの世界では。
ありえないぐらいに神秘的で奇跡的な体験だそうです。

特に、苦しい、悲しいなどの体験は、質問者さんが味わいたくて、
味わいたくて、味わいたくて、自分で引き寄せていることなのです。
深い魂の部分では。

今の執着に囚われている感情を開放する一つに、
実は、自分で”味わいたくて”自らが引き寄せたことなんだと、
ちょっと視点を変えてみることなんです。
味わい尽くす、ということです。

その話をすると、もしかしたら、絶対に自らが味わいたくてなんて、
ありえないと思われるでしょう。

ただ、そのような思考も、実はエゴなんですよ。エゴが仕掛けている
思考なんですね。

その仕掛けにひっかかりそうだったのではないでしょうか。(笑)


またまた、話が難しくなりそうなので、思考や感情のあるおかげで、
いい意味で、悪い意味でも、どちらでも、味わえる・体験できる
という遊ぶのため、なのです。

地球で遊ぶということを、日々より一層意識して心がけて過ごされる、
というものおすすめですよ。

せっかくこの地球に生まれてきたので、忘れかけていた遊びだと
いうことを思い出してみる機会なのかもしれないですね。

投稿日時 - 2013-01-12 13:55:45

お礼

ありがとうございます。
自我とは良くも悪くも地球で感情を味わうために、存在している。これは今まで考えもしませんでした。
難しいというか、なかなか得心がいかないのですが、心のどこかでそうではないかと思いながら、どうしても今の苦しみを受け入れることができないでいます。
実は最近、非常につらい体験をしました。それは根本的には自分の執着のせいだとわかっているのですが、その執着を捨てるためにここまで苦しい思いをしなくてはならないのかと、そのこと自体に苦しみ続けてきました。
まだ執着を捨てることができないのです。
非常に、つらいです。
ともかく、ありがとうございます。

投稿日時 - 2013-01-12 19:10:25

ANo.14

NO.2のものです。ご感想ありがとうございます。

>最終的にはあるがままを受け入れる他ないのかもしれません。それが今に生きるということでしょうか。

そうかもしれないですね。瞬間々に沸き起こる思考や感情を
ただただ観察し、悲しみ、怒り、苦しみ、喜びなど、良し悪しという
判断を挟まないで、ただただ客観的になって受け入れるだけ
なのかもしれません。

言ってしまえば、思考や感情もただの自然現象で、自然現象を
人の力で変化させることはもともとできないからです。

海の波が起こるのを止めることができないように、
一休さんも死にたくないという欲望を抑えることができかったように、
それらは、ただの自然現象なので、
思考や感情も自然に沸き起こるものなので、ただただそれらに
良し悪しという判断を入れなければいいのです。

そしてその思考や感情もただただ観察している人が、本当のあなたです。
思考に、感情に、状況に苦しんでいる、悲しんでいるのは、
自我(エゴ)であって、実は、本当のあなたではありません。
観察しているあなたが、本当のあなたなのです。
心が澄み切った平安な気持ちが、本当のあなたなのです。

また、もともと私たちは”瞬間の存在”で、瞬間にしか存在ができない
ので、瞬間々にいかに自分や周りが楽しめるかに、意識がフォーカスで
きればと思います。
それが今に生きる、という一つの意味なのかなと思います。

ちょっと難しいお話になったかもしれませんが、
要は、まずは周りの方々を喜ばせる、心の習慣を持ちましょうね、
ということになりますね。

投稿日時 - 2013-01-12 11:02:24

お礼

再び、ありがとうございました。
少し難しく感じましたが、ご回答を読んで私の理解したところを書いてみます。
思考や感情について苦しんだり喜んだりしないで、ただ観察する。とらわれないで放っておく、という事が大切。そうした思考や感情の主は自我(エゴ)であり、それは本当の自分ではないのだから、とらわれる必要がない。それが執着をなくす方法。
観察している自分が本当の自分だということは理解しましたが、すると、自我(エゴ)とは一体何者なのでしょうか。なぜ、自分の中に2つの心?が存在しているのでしょうか。何か必要があって存在しているのでしょうか。自我(エゴ)が苦しみの原因であるなら、いっそのこと無くしてしまいたいのですが。
私はよく、過去の失敗を後悔したり良かったことに執着したり、未来のことについて心配したり期待したりします。それは今を生きていないので良くないのだと思います。悩みの元凶に感じています。
アドバイスにいただいた「周りの方々を喜ばせる、心の習慣を持つ」ことをまず心がけてみます。

投稿日時 - 2013-01-12 12:23:32

ANo.13

一度は、仏教の発祥地であるインドに行ってみると良いでしょう。

教義も経典も経文も何の意味もなくなるかもしれません。

仏教の教義に沿った生き方をしたいのであれば、日本で出来るでしょう。

真実に触れようと思えば、インドに行ってみるべきです。

そこには無数のアシュラムが存在します。

インド アシュラムで検索すればある程度の知識は得ることが出来るでしょう。

投稿日時 - 2013-01-12 06:01:07

お礼

ありがとうございます。
かつてインドに行ってみたいと思っていましたが、なかなか機会に恵まれませんでした。
まずは日本で仏教の教義に沿った生き方をしてみます。

投稿日時 - 2013-01-12 07:53:02

ANo.12

同じ道の先輩たちはこの問題をどう克服されてきたのか?そこに答えがあるのではないでしょうか?

投稿日時 - 2013-01-11 22:52:46

お礼

ありがとうございます。
皆さんの回答を拝見して、まず解釈に間違いがあったこと、そのうえで欲をほどほどにするということが理解出来ました。やはり人から教わることが大切なことだと感じました。

投稿日時 - 2013-01-12 07:51:03

ANo.11

自分への欲がダメなら人の助けで生かされていくしかないのでは?

そして自分も誰かの為に生きる。

投稿日時 - 2013-01-11 22:28:07

お礼

ありがとうございます。
自分への欲で行動するから失敗しているのかもしれません。とくに仕事の場面では、そう感じます。私の生き方は根本的に間違っていたようです。

投稿日時 - 2013-01-12 07:49:04

ANo.10

何ごとも「ほどほどがよい」のです。
もし欲をブッダそのものが打ち消したのなら 仏道を広める 人を助ける という欲もあるわけ無いので
仏教自体ブッダの脳内で自己完結しかれの死とともになくなったはずです。

まともに欲をなくしたいならロボトミーでも受けて一切の感情をなくし、生体反応だけで生きてるとわかるようなことになりますよ

投稿日時 - 2013-01-11 22:10:38

ANo.9

…一番最初、ブッダが悟りを開いた後に目指したのは「教えの場を作ること」でした。
自らが王子というものに生まれたことでの苦しみ…貧困や、差別や病気…そういったものがなぜ起きるのか、どうすればなくせるか、救われるか?という「純粋な悩み」が募っての出家だったわけですから。
「悟り」を開くことで、自分が知りえたことを広め、また、自らも修行をしながら、自らの教義を高めていこうとしたのがブッダの生涯だったと思います。

ブッダはいくつかの場所で「教義」を説いています。
その中で「我欲に拘泥しないこと」を説いてはいますが、欲を捨てることが道義である、とは言っていません。
実際に、ブッダを慕う人たちによって作られた「教団」内で、結婚生活を送るカップルもありました。

しかし、仏教というのは、長い年月の間に、様々な「解釈」が加えられながら分化して行ったのです。
日本に伝わる仏教の宗派は、総じて「大乗仏教」の流れを汲んでいます。
しかし、その一方で「小乗仏教」…現在では部派仏教…という「原理的な宗派」も存在します。
どちらがどう、というものではないのですが、部派仏教は原理的な色合いが濃いということもあって「解釈」というものが難しかったりし、時に誤解を生むときもあります。
あなたの場合はその「誤解」なのではないでしょうか?。

仏教の教義を生活の芯としていくのは、大変に結構なことだと思います。
ただ「理解」というものを「自己流で為して行く事」は、誤りを学んでしまう恐れがある、という意味で、教義に沿うものではないのではないでしょうか?。

私はまず「経を唱えること」が大事と思います。
般若心経で良いと思います。
「頭で考えること」も大事なのですが、もっと大事なのは「身体に入れていく」ということでしょう。
経を唱えながら、経の意味を解釈されているHPなどもありますから、読んでみてください。

言葉は身体に染み込ませることで、頭で考えるより遥かにたくさんの「意味」を伝えるものです。
読む、ということは、目で見て、口から発し、耳で聞くのですから。
大事なのは「純なる心」です。

投稿日時 - 2013-01-11 20:31:06

お礼

ありがとうございます。
具体的な方法を教えていただき、参考になりました。本を読んで考えても答えが出て来なかったし、また誤解をしていたようにも思います。こうして質問することで、いろいろと指摘してもらい、理解が進みました。
勉強会や先生などがいればと思うことがあります。

投稿日時 - 2013-01-12 07:45:21

ANo.8

仏教で説いているのは、中道です。

お釈迦様は最初、王子としての贅沢な暮らしの中で、苦しみを感じました。
しかし出家後、何年も苦行をしても悟れませんでした。
苦行の末に、このままでは体が持たず、死んでしまっては元も子もない、と言うことから、体力維持のために牛乳を口にした結果、それが悟りのきっかけとなりました。
従来、苦行中は、牛乳など以ての外でした。

極端な苦行や、極端な快楽主義に走らず、目的にかなった適正な修行方法をとることで初めて悟りを得ることができる、と言うことから、仏教では両極端を戒め、中道を奨めています。

そして、仏教では、欲を捨てなさいとは言っていません。
欲に執着するなと言っています。

私も最近まで勘違いしていました。

投稿日時 - 2013-01-11 19:48:10

お礼

ありがとうございます。
やはり欲への執着をなくすことが必要なのですね。執着をなくす方法というか、修行などがあれば知りたいのですが。

投稿日時 - 2013-01-12 07:41:40

ANo.7

克服すべきは「貪瞋痴」です

今のあなたは「苦しみたくない」という欲にとらわれていますね
これは「貪」にあたります

そのような状態を自覚できておられませんので「痴」でもあります

そして、この事態にあなたがイラついているのであれば、「瞋」であるともいえます

修行の道のりは長いです
どうぞ精進なさってください

投稿日時 - 2013-01-11 19:42:32

お礼

ありがとうございます。
たしかに「苦しみたくない」という欲が一番の苦しみを生んでいるような気がします。
修行をすることでその欲からも開放されるのであれば、少しずつでも進みたいと思います。まずは何をするのが良いのでしょうか。

投稿日時 - 2013-01-12 07:40:05

ANo.6

宗教にはだいたい矛盾がありますよ。
欲を捨てるというのは人間を超えることでしょうから、まずは人間らしく欲を抑えることから目指せばいいんじゃないですか?

投稿日時 - 2013-01-11 19:28:16

お礼

ありがとうございます。
やはり他のかたも言われるように、欲を抑えることが必要なのですね。どうすればうまく抑えられるでしょうか。

投稿日時 - 2013-01-12 07:37:07

ANo.5

お釈迦さまでも腹が減ったら食事をし
眠くなれば寝たはずです。
食欲や睡眠欲を持っていたんです。
一切の欲がなくなればすぐ死にます。

欲をなくすのではなく、欲に執着することを
やめるのです。

投稿日時 - 2013-01-11 18:45:30

お礼

ありがとうございます。
やはり生きるために最低限の活動というのは必要なのですね。それは欲ではない。執着をなくすにはどうすれば良いのでしょうか。なにか良い方法というか考え方はありますか。

投稿日時 - 2013-01-12 07:29:40

ANo.4

総ての欲を捨てたら、たしかに苦痛は無くなるで
しょうが、その代わり、喜びも無くなりますよ。
それに総ての欲を捨てる、なんてのはおよそ不可能です。
そんなことが出来た人間など、私は知りません。


”では欲をなくしたら、仕事も出来ないし、収入も途絶えるし、
 現実には死ぬしかないのではないのか。”
   ↑
その通りです。
生きようという欲さえなくなるのですから
仕事のモチベーションが出る訳がありません。


”仏教の教義に沿った生き方をしながらも、生活の糧を得たいのですが”
     ↑
欲望を少なくしろ、物欲におぼれるな、という
程度で良いと思います。
質素な生活をすれば良いでしょう。
それ以上は無理です。
世界征服の方が簡単です。

投稿日時 - 2013-01-11 18:43:23

お礼

ありがとうございます。
欲にも程度があるということ、わかりました。
程度を見極めるのが難しいところです。
私は、いつか収入が減って餓死するのではないかという恐怖に駆られてしまいます。働いているうちはまだいいのですが、老齢になって、あるいは病気になって収入がなくなることを考えると少しでも蓄えておきたい、という気持ちがあります。

投稿日時 - 2013-01-12 07:13:32

ANo.3

我欲、強欲を捨てよということです。
あなたのような身勝手な解釈も欲がなせることです。

投稿日時 - 2013-01-11 18:23:00

お礼

ありがとうございます。
我欲、強欲と言われてみると、たしかにそうした欲に駆られた結果、かえって苦しみが増えた気がします。まだ勉強不足ですが、仏教に触れてみると今までの自分の生き方が間違っていたという感じがしています。

投稿日時 - 2013-01-12 07:00:10

ANo.2

あまり仏教のことを詳しく知らない人間で、たいへん恐縮ですが、
その”欲を捨てる”ということも、ものすごい欲のように感じます。

執着が生まれない欲ならば、苦しむことがないので、
問題がないように思うのですが。
すなわち過去と未来を断絶することでしょうか。
今に生きる、ということでしょうか。

あくまで噂ですが、あの一休さんでさえ、晩年若い女子と遊んでいて、
死ぬ間際に、まだ死にたくないと言っていたようです。

あなたしく、輝いて今に生きる、というのも一つの生き方かもしれませんね。

投稿日時 - 2013-01-11 18:16:45

お礼

ありがとうございます。
欲を捨てようとすること自体が欲。そう考えたこともあります。そもそも仏教にすがろうとしている自分自身、苦しみから逃れるためであり、その行為も欲だとすれば、最終的にはあるがままを受け入れる他ないのかもしれません。それが今に生きるということでしょうか。

投稿日時 - 2013-01-12 06:56:08

どうして欲を捨てたら仕事ができないという考えに至ったのか説明をおねがいします。

投稿日時 - 2013-01-11 18:10:12

補足

人のために何かをすることまで欲と考えると仕事をする気力もなくなるような気がしたのです。しかし、それは仏教で言われる欲とは異なるようですので、もう少し考えてみます。

投稿日時 - 2013-01-12 06:52:30

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