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解決済みの質問

 利他って何ですか?

 1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか?

 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか?

 3. 自己を活かし他人をも活かそうとする共生としての自己表現であり そういう意志行為である。と見ることになるのではないか?

 4. 自己表現としての意志行為は 相手に援助をする場合 相手の意志行為における合意にもとづく。つまり それぞれの自己表現から成る共生行為である。(広い意味での《利己》に共生行為までもが含まれる)。


 5. 母性本能も 共生としての自己表現としての意志行為であるのではないか?

 6. 寄付行為は 自己もしくは相手あるいは両者のつながりが直接には定かでない場合は けっきょく同じく自己表現としての社会的な意志行為でしかない。のではないか? (社会行為は 一般に共生としての行為である)。

 7. 広く助け合いとしての互恵行為があるではないか?
 慈悲――特には無縁慈悲――なる行為は どう捉えるべきか?
 
 8. となりびとに成ることが 自己が活きほかのびとも活きる共生行為である。
 この命題と 前項の助け合いや無縁慈悲は どう同じでどう違うか?



 広く自由なご見解をお寄せください。

投稿日時 - 2013-03-02 09:07:01

QNo.7971957

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

ブラジュロンヌ様。 こんにちは。

ブラジュロンヌさんの許可があるなら、お礼の宿題をここで書いても良いですが、この「利他とは」という投稿サイトが建設的になるように別の視点で述べてみたいと思います。

こまあすさんの社会はホヤのような集合体であると言う考えに触発されました。

私は昔は生物の研究者を目指していましたが、専門的言葉になっていたらすみません。

個人というものが個々のの細胞であると考え、社会と言うものが個体であるとします。

こまあすさんはホヤと投稿しましたが、現在社会では価値観が多様化し、ホヤより進化した生物の個体(わかりやすく人間とします)に社会が進化したとします。

ある価値観を肯定する集団を体の器官(脳、心臓、胃、肝臓などなど・・)

しかしこれらだけでは人間の部分です。

私はキリスト教を信仰してますが、聖書にあるように、教会はキリストを頭とし、各個人は体の一部と表現されてます。

ですから、すべての器官が必要。

生物に戻りますが、細胞は癌化しそうな場合アポトーシス(細胞の自立的死)を起し、周りに影響を与えないような仕組みがあります。細胞の自殺とも表現されています。まさに利他です。

しかし、私は人間の自殺と言うものは否定します。いろいろ困難はありますが、せっかくの一度きりの人生の命ですから。

利他とは何かの回答になっていなかもしれませんが、利他を考える場合、ある価値観の集団(国、会社、ソーシャルネット等)に中で、お前の考えは癌だと言われても、それは体の器官の一部のことですから、自殺などせず、もっと広い視野(グローバルには)で、体全体の中では何か役に立っていると考えると、利他的行為と言うものをもっと肯定できるのではと考えます。

脱線しましたか?

投稿日時 - 2013-03-03 15:21:02

補足

 ★ ブラジュロンヌさんの許可があるなら
 ☆ 《許可》も何も どうぞ まったく自由ですよ。

投稿日時 - 2013-03-05 10:49:43

お礼

 うううーーーん。とまづは うなって ごあいさつを申し上げ ご回答への感謝をお伝えします。


 じつは 何を隠そう このあと聖句――たとえば《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない》(ヨハネ福音15:13) ――についても問うつもりでいます。

 これも《利他》ではないか? と問い返されるものと考えます。

 ★ 生物に戻りますが、細胞は癌化しそうな場合アポトーシス(細胞の自立的死)を起し、周りに影響を与えないような仕組みがあります。細胞の自殺とも表現されています。まさに利他です。
 ☆ まぁ この事実そのものは あくまでも部分あるいは体の部位としての問題だという見方で 直接の反証にはならないと思っています。

 けれども 問題はそのような事実をたとえとして 実際にひとりの人間の存在がそのような行為におよぶ場合 《それ以上に大きな愛はない》と捉えるごとくに 《利他》ではないかという議論が提起されるときにあります。もし
 ★ ~~~~~~
 私はキリスト教を信仰してますが、聖書にあるように、教会はキリストを頭とし、各個人は体の一部と表現されてます。

 ですから、すべての器官が必要。
 ~~~~~~~~
 ☆ というごとくに 《器官》という部分や部位が そのままひとりの人間の存在にあてはまるとき 問題が起きます。


 あるいは――先にご見解のほうを復唱しておきますが――
 ★ ~~~~~
 ・・・利他を考える場合、ある価値観の集団(国、会社、ソーシャルネット等)の中で、お前の考えは癌だと言われても、それは体の器官の一部のことですから、自殺などせず、もっと広い視野(グローバルには)で、体全体の中では何か役に立っていると考えると、利他的行為と言うものをもっと肯定できるのではと考えます。
 ~~~~~~~
 ☆ つまり《アポトーシス(細胞の自立的死)》ということについて 枯れ葉がみづから落ちてゆく場合だけではなく 落ちてでも落ちる前にでも枯れ葉として部分的に全体の生命のために しかるべき行動を起こし 《共生》を担う一環と成っているという場合。

 つまりは《共生》という大きな命題(目的)のもとに その一環としての一部位をになって おのが自己表現を果たしている。そのときそれが担うハタラキは 《利他》ではないか? と。



 そうですね。大前提として《共生》。個々の場合に《利己ないし利他》の互恵的な意志行為。こうなるでしょうね まづは。

 それでももしその一部位の担うハタラキが アポトーシスのごとく《犠牲になる・ないし自死に到る》という場合には どう考えるか?


 ★ しかし、私は人間の自殺と言うものは否定します。いろいろ困難はありますが、せっかくの一度きりの人生の命ですから。
 ☆ わたしも このもうひとつの大前提の内容に拠ります。他殺も自殺(ないし自死)も すべて人殺しです。《カイン》の血を わたしたちは――めぐみとしてでしょうが―― もはや承けていません。《アベル》の血からも自由になっています。(これも 公理です。信仰の側からは またイエス・キリストの歴史的な登場を持ち出しましょうが)。


        *

 

 さらにあらためて考えました。
 アポトーシスの場合には 自己がすでに何らかのかたちで《朽ちて来つつある》という事実があって しかもこれを自己が自覚している状態にありますね?

 《朽ちつつある》ものが 朽ちて行くのは それほど問題になるとも思われません。そのときに《おのれの命を省みず ほかの人びとのために おのれのハタラキを果たす》と言っても それがどうして《利他》なる行為として分類されることになるか? 
 利他なる要素はあるけれども ひとつの《利他》というカテゴリを立ててそこに分類されるほどの内容は 必ずしもまだ成っていない。のではないか?

 なぜなら 《朽ちる》ことは おのれの広い意味での〔負のかたちにせよ〕利己行為であり そこに利他の要素も見られる。ということのようですから。


 ふううーう。どうでしょう?

 

投稿日時 - 2013-03-03 16:18:36

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回答(22)

ANo.22

ブラジュロンヌ様 こんばんは

下記のNo.21における考え方を肯定いたします。

今日は7時30分からNHKの震災復興のための歌番組を観て、考えておりましたが、どれも、心にしみるいい歌詞ですね、楽器という美しいメロディーが付くとさらに心に働きかけられる。

音楽というものの力を改めて感じました。

やはり、愛とか希望とか、ひとりじゃないという言葉が多いですね。でも、そのような言葉に勇気付けられる私です。

キリスト教を信仰しているものとしては、こう考えました。

J-POPもなかなかですが、クラッシックのオーケストラを考えましょう。

神様は、交響曲「愛」というものを作曲された。

この曲は非常に長く、現段階では何楽章まで進んでいるかは、人間には、わかりません。

楽器ですが、ピアノは全音域が出せるようですが、他の楽器は音域は限定されています。

このいろいろな楽器が個々の私たち自身としましょう。

個々の楽器には得意分野(神様は個々の人間に賜物をおあたえになった)がある。

しかし、人類全員が利己心が強すぎ、演奏してしまうと、ハーモニーが崩れてしまう。

得意分野でない(音域が出ない)ところは、他の楽器に任せればよい。

また、出せる音域でも、他の楽器で弾いた方が、美しく聴こえ、譲ったほうが良いかもしれない。

これが利他。共存。

ある人は、シンバルなどのように、バイオリンなどに比べると、出番があまりないかもしれません。

しかし、この交響曲「愛」はすべての人類が人生のうち一度はかき鳴らすことが出来るように作曲されていて、じっと忍耐強く出番を待つと必ず出番はある。

そして、なによりも、全体の調和、ハーモニーを美しくしなければならない。

ちっぽけな人間の短い人生では、この超大曲交響曲「愛」の一部にしか参加できないですが、時代によるこのハーモニーが美しく聴こえるか、不協和音に聴こえるか、を論評し考えるのが、哲学の仕事である。

理想主義ですか?ご検討のほどを宜しくお願い致します

投稿日時 - 2013-03-10 00:44:14

お礼

 あめんほてぷ2000さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ ~~~~
 しかし、人類全員が利己心が強すぎ、演奏してしまうと、ハーモニーが崩れてしまう。

 得意分野でない(音域が出ない)ところは、他の楽器に任せればよい。

 また、出せる音域でも、他の楽器で弾いた方が、美しく聴こえ、譲ったほうが良いかもしれない。

 これが利他。共存。
 ~~~~~~
 ☆ 《ゆづる》または《ゆづりあい》という鍵語として受け取りました。



 たとえばパスカルは例の『パンセ』で こんな話をしていました。

   前に川があって 一本の丸木橋がかかっている。
   都合悪く向こうからも人が来る。
   相手は従者をしたがえている。
   こちらは われ一人なり。
   だとすれば 社会公共の仕事をなす量や質が 相手のほうが上だ。
   ここは先をゆづろう と決めたのだと。





 あるいはちょっと変わったところで《復讐を控えた》という事例が 日本の昔話にあります。

 ○ オホケ・ヲケ兄弟のかたき討ちの物語 ~~~~~

 その昔 やまとの国では 市長(もしくは国王)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。
 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって 暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子たちは 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて いのちを長らえることにしました。

 ところが オシハの血筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ ともに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。

 雄略ワカタケルは もう死んでいました。
 弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で そのみづからに首長の位を譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。
 兄の仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して 戻ると その旨を伝えました。弟も これを了承しました。

 という話です。

 後日談も添えます。
 暗殺された野原の近くに 或る老婆(置き目の媼(おうな))が住んでいて じつは 暗殺の現場と その後 イチノヘノオシハが埋められるところを見ていて その場所を覚えていたそうです。
 じっさい 果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさ。・・・
 ▲(ヰキぺ:顕宗(ヲケ)天皇)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AE%97%E5%A4%A9%E7%9A%87
 ~~~~~~~~~~~~~~




 もうひとつ 《くにゆづり》の昔話です。

 ▲(ヰキぺ:葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A

  天照大御神(アマテラスオホミカミ)ら高天原(たかまのはら)にいた神々(=天津神:あまつかみ)は、

   「葦原中国を統治するべきなのは、
    天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」

  とした。
  そのため、何人かの神を出雲に使わした。
  大國主神(オホクニヌシのカミ)の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降る(降参する)と、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 〔オホケ・ヲケの首長の血筋とは別の《アマテラス》国からの服属要求だと捉えられます。《尖閣諸島》の領土化であったのかどうか。のちには 婚姻でつながったようです〕。




 ゆづる側には おおむね
 ★ この超大曲交響曲「愛」に参加
 ☆ しているという自負とその実存の動態があると思われます。

 ゆづられる側は ややもすると 不当な要求を押しつけている場合があるかも知れません。
 じじつ雄略ワカタケルは 国の正式な史書としての『日本書紀』の中で《大悪天皇》と記されています。

 ▲(ヰキぺ:雄略天皇) § 3.1 大悪天皇の記述
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87



 ゆづりあいの精神は 利他の要素と関係しましょうが 《共存》と書いておられるように 双方のそれぞれの実存の――互いに自由でゆるやかなかたちながら またそれゆえ 現実味のゆたかな――からみあいの中におこなわれるものと考えられます。

 《からみあい ないし 関係性》 これが そこに正負両様のかたちを見せる交響曲『愛』の問題だと思います。
 ★ 時代によるこのハーモニーが美しく聴こえるか、不協和音に聴こえるか、を論評し考えるのが、哲学の仕事である。

投稿日時 - 2013-03-10 06:46:25

ANo.21

この命題を考えるにあたり逆転の発想ができないものかと逆さまから考えておりますが。

1)正当防衛行為は「利己」ですか?

2)引きこもりの方々もこのネットを見ているかもしれませんが、他人と関わるにあたり、傷つくのを恐れ、心を開かない、防衛行為は「利己」ですか?

話しがまとまりかけたところを、壊してしまったらすみませんが、このあたりに人間の「利他」なる秘密が隠されているような気がいたします。

うーん。謎が解明できないものか?

解釈をよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2013-03-08 16:02:18

お礼

 あめんほてぷ2000さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いろんな角度から迫ってみましょうか。

 § 1 ブディズムにおける《慈悲》をめぐって 《利他》はどう捉えられるか

 ▲(ヰキぺ:慈悲) ~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 ・2 漢訳仏教圏における慈悲の思想的発展

 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。

 (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。

 (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。

 (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
   
 この三縁の慈悲とは、

 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、
 第三は 仏の哀愍の心であると言える。

 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
 ~~~~~~~~~~~

 § 1-1
 《衆生縁の慈悲》: これは ふつうに思いやりであり 相談に乗ったりちょっとした助言を与えたり手伝ったりすることでよいと思われる。
 《利他》の要素をそこに見てもよいはずだが 特にこの思いやりを利他行為だと言うことは少ない。

 § 1-2 
 《法縁の慈悲》: けっきょくこれも思いやりに同じであろう。相談に乗られる側が 知識や経験が豊富である場合だと見ればよい。
 法律の専門家が ふつうは料金を取って解決策を示すとき 無料でそれをおこなったら 《利他》行為と言うであろうか?

 § 1-3 
 《無縁慈悲》: これは よく分からない。ブッダになってみないと分からない。

 もし人は その思いや行動がすべてにおいて真理によって知られており おのが心づもりや何を考えていたかを分かってもらえていると かなり自信がつく。真理がわが人生の軌跡を精神のたどって来た道として 理解していてくれると思うなら 心は癒される。

 このような事例において 《真理》の代わりに特定の人が同じ役目を果たすことが出来るか?
 ブッダとなった人なら 出来るか? ほんとうにそんな人間がいるか?


 § 2 ギリシャ語の《愛》を表わすことばをめぐって クリスチアニズムの見解を捉えて考えるに そこで《利他》はどう見なされているか

 あなたの提示された視点です。

 ▲(ヰキぺ:愛) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B
 1. 「ストルゲー」 στοργή storgē :キリスト教では家族愛。古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛。

 2. 「エロス」 έρως érōs: キリスト教では性愛。古代ギリシアでは自己を充実させる愛。

 3. 「フィーリア」 φιλία philía :キリスト教では隣人愛。古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。

 4. 「アガペー」 αγάπη agápē : キリスト教では真の愛。古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛。
 ~~~~~~~~~~~~

 § 2-1
 ここでいま一度前項にもどって考えるに
 ▲(ヰキぺ:慈悲) ~~~~~
 慈悲(じひ、サンスクリット: maitrī、パーリ語: mettā)とは、

 仏教用語で、他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つことをいう。

 一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。つまり《気持ち》と《気持ちを表現する》とで説明されています。
 《気持ち》はいくら《他の生命に対して自他怨親のない平等な》ものであっても それだけでは すべてその人の主観の内におさまっています。
 では それを《表現する》とは どういうことか? まさか《わたしは これこれの無差別平等の気持ちを持っています》と宣言することではありますまい。《あなたをあわれみます》と伝えればよいわけではない。

 どういうことか?

 § 2-2
 《アガペー》:《古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛》であるなら あくまで主観の問題におさまります。
 《キリスト教では真の愛》。人は神ではないゆえ 誰も分からないはずです。

 § 2-3 
 《フィーリア》 :《キリスト教では隣人愛。古代ギリシアでは友人の友人に対する愛》。
 これはおそらく 

    § 1-1 《衆生縁の慈悲》
    § 1-2 《法縁の慈悲》

 と人間関係のあり方としてほぼ同じことであろうと見られます。


 § 3 これらの検討から何が言えるか

 (あ) 人の生きるのは 自己の表現である。
 (い) 社会という共同生活における自己表現は 相手のあるコトにおいて おこなわれる。
 (う) 自己表現が たとえ利己であっても 社会的な関係性において ほかの人びとの生活とかかわっている。
 (え) 自己表現は 共生なるいとなみである。
 (お) 共生の中に 利己行動がある。利己の度合いは 程度問題である。
 (か) 共生的自己表現のなかに 利己行動が 見られる。
 (き) この利己行動を 友人や隣人として或る程度――《同感:シンパシー》の原則において(?)―― 容認することがある。
 (く) ときに人びとの中には 利己を極力おさえてほかの人びとの共生のために〔のみ〕自己表現をおこなう場合がある。
 (け) これは 《利他》なる行為であるか?


 § 4 もしこうだと考えると どういう見方ができるか

 § 4-1
 ★ 1)正当防衛行為は「利己」ですか?
 ☆ ふつうの自己表現という範疇に入ると思われます。相手に対して一定のやむを得ない損害を与えますが。

 § 4-2
 ★  2)引きこもりの方々もこのネットを見ているかもしれませんが、他人と関わるにあたり、傷つくのを恐れ、心を開かない、防衛行為は「利己」ですか?
 ☆ 同じく自己表現の一環であると考えられます。相手やほかの人びとに対して極力損害を与えないようにしている場合の自己表現であるようです。むろん そういう主観における考えであろうと思われます。

 § 4-3 
 ですが これら二つの事例もどちらも けっきょく《共生》を目指しています。共生という基礎の上にあります。

 緊急避難は 相手を傷つけることをおこなっても ともに共生を目指そうと言っており そううったえつづけています。

 ヒキコモリは おそらく――ひとつの解釈として――本人はすでに未来社会を見ている。《関係性》の未来における有り方を 感覚的にせよ 捉えている。それゆえその夢としての――理念としての――人間関係における自己表現を つよくねがっている。

 この願いが そのいま現状のままでは実現がかなわないと感じたなら 人びととできるだけ衝突を起こさないようにと 引き籠もるという自己表現のかたちを採るに到った。

 もしヒキコモリの人の描く未来社会が当たっていたとしたら その自己表現は すでに理論家である。論文は その行動としてある。

 § 4-4
 すなわち すべて《共生》の問題としてある。

 《利己・利他》 これは自他にことさら分けるのもダメだと思えますが どうも《利》という言葉もそぐわないように見られます。

 一般的な自己表現なる振る舞いの中に わがままな部分があるということでしょうから。けれども たいてい人間は わがままでしょうね。

 もしこの《わがまま》が 同感の原則を超えてしまっているとしたら 確かにその行動は《利己主義》になるかと思いますが だとしたら ぎゃくに《おのれの利益を省みない自己表現》がその同感の限度を超えているとしたら どうか?  その行動は《利他主義》という目立った思想とその実践であると見られもします。

 なんでそんなことをするのか? 共生としてである。(かな?)
 わがままな利己主義も 社会の共生の問題だと考えられます。

    *


 【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html
 
 【Q:観念の運河を 《空気》なるゴンドラはきょうもゆく】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7136310.html

投稿日時 - 2013-03-08 18:17:33

ANo.20

 #18です。そんなに深読みしないで下さい(^^;)。特に今時分は、前後不覚なるくらいスキーを滑ったりした後なので、もうどうしようもない筋肉頭で、本当に感覚的な事を書きました。


> ★ 「己のためだけに生きてる奴」は、四六時中「痛い、痛い」言ってます。例えば、人のために何かする代償行為は皆無なので、当たり前のような気もします。

 これは、

> ★ 逆説的ではありますが自分のためだけに生きて来たために、感覚的に人の痛みを実感できるから

を強調したかっただけなんです。

 「己のためだけに生きてる事」を自覚し続けるのは、思いのほか辛いところもありますよね?。「あいつのためにやった(例:代償行為は意味が違うかも知れませんが)とか、あいつのせいだ」とは絶対に言えません。常に「自分のため」であり「自分のせい」です。たぶんに大げさですが、ちょっとした針のむしろです。

 そのぶん人生の密度や濃度が上がるので、感覚的に人の痛みを実感できる気がする、というだけです。人の身になって考えろと言うが、痛い事も経験もしてないくせにわかるのか?。お題目だけの綺麗事なんか言うんじゃない。見捨てておけないと、本当に胸が痛くなった事はあるのか?、・・・という捻くれた意見です(^^;)。

 そこを論理的に突き詰め言葉にすれば、良心の呵責なのかも知れませんが、その背景を内省すると、どうも(のんびりとした)教育による刷り込みや、育った環境が大きいなぁ~と思えます。

投稿日時 - 2013-03-07 22:20:24

お礼

 回答No.18には わたしの一票のほかに二票の《回答を評価する》が入っていますね。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 今回うかがうと ふつうのことのようにも思われます。
 前回は 助ける気はなかったのに やむに已まれずお世話のようなことをする。というので 共感を得る説明なのだと思います。


 今回よく考えてみると 《ひとりの道をあゆんでいる》場合も 《ふつうにおつきあいをしている場合》も やはり困っているところを見たなら お手伝いをする。といったかたちで どちらの場合も 思いやりや持ちつ持たれつの関係であるようにも ひびいて来ました。

 ひとりで歩んでいると ひとの痛みが実感できる気がするということですが けっきょくそういう共通感覚というのは ふつうにおつき合いしている道の上にあっても 分かるのではないか?
 身も蓋もないことを言うようでいて むしろどちらの場合にも 共生感覚は起き得るというところに キモがあるように思います。

 言いかえると 《自分のため / 自分のせい》という見方をしている場合でも あるいは《みんなの責任 / みんなのため》という行き方をしている場合でも それほど変わらないのかも知れません。

 そしてそれは殊更《利他》という概念を持たずそういう見方もしないときに 共生感覚として 日常生活の中で起こりうると言っていいのではないか。こう思いました。

投稿日時 - 2013-03-07 23:10:03

ANo.19

こんばんは


>「利他ね・・・・・・ぬかせ。アホども。」

これはね、相当だと思いますね。
「JAPAN AS No.1! in 2013」ですか。


>「むしろほどこしを受ける側に この行為はすなわちあなたに利益をわたしが与える《利他》であると言ったなら そのことのほうが冷酷である。と言うより 成っていない。人間性が成っていない。」

・・・これも一緒でしょ。


「JAPAN AS No.1!」からは、利他は出て来ない。

投稿日時 - 2013-03-07 00:18:40

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「JAPAN AS No.1!」からは、利他は出て来ない。
 ☆ そうですね。

 1. 利他は その概念だけを捉えて 利他なる行為が独立して行なわれるとも 必ずしも思われない。のではないかと問うています。

 2. 自己表現は どうしても人間ないし自己を基準としてものごとを捉え考えおのれの意志行為として表わすことになる。ゆえに 広い意味で利己なる行為である。

 3. ただしこの広義の利己なる行為には 利‐相互といった側面があるはずだ。もともと人は ムラ(町)の人びととのあいだに自然な共生感覚を持ち その共生行為として 自己表現しているはずであるから。

 4. 思いやりや助け合いは 人間の自然である。わざわざ《利他》をそれとして掲げるのは 言わばあたかも第二の自然であるように感じられる。

 5. 《「JAPAN AS No.1!」》は こうした人びとのそしてムラムラのそれぞれのいとなみの結果である。

投稿日時 - 2013-03-07 05:47:17

ANo.18

 某板をほっておいて、こんな処に出てきて申し訳ありません。


 私は利他行為は、「結局は己は、自分のためだけに生きている」と自覚してる人間にしか出来ないものだと思っています。

 そのような人間はまず、そのような行為は出来るだけ避けます。アホらしいからです。しかしそれでも、見捨てておけない場合があります。

 それは教育によって刷り込まれた規範のせいでもあり、逆説的ではありますが自分のためだけに生きて来たために、感覚的に人の痛みを実感できるからです。

 「己のためだけに生きてる奴」は、四六時中「痛い、痛い」言ってます。例えば、人のために何かする代償行為は皆無なので、当たり前のような気もします。

 そんな奴は、「人間として当然だとか」「貴方のためにやった」だとかは、口が裂けても言えません。自分のためにやった事を、自分の気持ちのためにやった事を、痛いほど自覚してるからです。感謝されたら照れ笑いするか、走って逃げだします。


 でもですね、見捨てておけない理由を考えてみると・・・。

 今では非常に希薄になりましたが、村社会における共生の感覚なのかなぁ~、とは時々思います。

 自分も昔は、まわりじゅう水田と茄子畑しかなかった田舎に住んでました。上下水道もなく、あったのは井戸と肥溜だけだした。当然のごとく、井戸と肥溜には、それぞれ一回ほど落ちました(^^;)。

投稿日時 - 2013-03-06 00:32:47

お礼

 ddtddtddt さん お早うございます。たしかにお久しぶりですね。まづはご回答をありがとうございます。

 いいことをおっしゃる。と思って読み終わったときには ただしそこには賛同と反発のふたつの側面があるとも思いました。

 肥溜経験一回におなじく。母の実家が 上下水道もなくの田舎でした。家々の前を流れる小川で洗い物をします。風呂の水にも使います。

 ★ 今では非常に希薄になりましたが、村社会における共生の感覚なのかなぁ~、とは時々思います。
 ☆ まぁ 自然本性と言ってよいと思うのですが・・・。そして そこから 《我れとなんぢ》の一体感が薄れ 双方に分かれ 両極というべき関係にまで成ったのでしょうか?

 あるいはそもそもの初めから 我れとなんぢとのあいだには 埋めるべからざる溝が横たわっているということなのでしょうか?




 いいことをおっしゃると思ったのは 次の一文です。
 ★ 私は利他行為は、「結局は己は、自分のためだけに生きている」と自覚してる人間にしか出来ないものだと思っています。
 ☆ そして
 ★ しかしそれでも、見捨てておけない場合があります。
 ★ でもですね、見捨てておけない理由を考えてみると・・・。 
 ☆ と進めて 最初の肥溜経験 いやちがった ムラビトとしての共生感覚に到ります。


 反発を感じた一面というのは:
 ★ 「己のためだけに生きてる奴」は、四六時中「痛い、痛い」言ってます。例えば、人のために何かする代償行為は皆無なので、当たり前のような気もします。
 ☆ あっ! いま気づいたのですが これは こういう意味でしょうか?

 つまり 《代償行為》というのは 意味が違っていて 《誰かの負い目をその誰かに代わって その債権者に対してつぐなう行為》ではないと。そうしてそのときには 《相手が窮地に落ち入っているのを見て これに助け舟を出さず 見て見ぬ振りをしている》。ゆえに四六時中《痛い 痛い》と言っている。つまり 良心の呵責になやんでいる。

 もしこれだとすると 《反発》ではないですが つまり反発反応は取り消しますが そうしますと
 ★ しかしそれでも、見捨てておけない場合があ
 ☆ って実際に助け舟を出すこともある このことに反する。

 すなわち
 ★ 教育によって刷り込まれた規範のせい
 ☆ で もし《良心の呵責として 痛い 痛いという》場合は――自身の問題として捉えるまでの前段階と見なして―― もう別としますが それでも
 ★ 逆説的ではありますが自分のためだけに生きて来たために、感覚的に人の痛みを実感できるから
 ☆ けっきょく助け舟を出す。ならば 出さない場合の《痛い 痛い》の前にすでに 共生感覚ははたらいている。ということですね?

 言わば良心ないしそれによる呵責より前に 共生感覚はあって はたらく。
 自然本性ですよね? 《良心》も 自然本性なのではありますが。



 ★ ~~~~~~
 そんな奴は、「人間として当然だとか」「貴方のためにやった」だとかは、口が裂けても言えません。自分のためにやった事を、自分の気持ちのためにやった事を、痛いほど自覚してるからです。感謝されたら照れ笑いするか、走って逃げだします。
 ~~~~~~~~
 ☆ わたしもどちらかと言うと この口ですが でもこれまでのやり取りから行けば どうも無償の援助をあたえられる側と与える側とは 無条件に対等である。となるようです。たぶんその《照れ》に耐えなければならないとなりましょうね。

 たぶん《貴方のために こうしたいのですが どうか》という合意を事前にもとめるのが いいのでしょうね。



 なんだか《利他》という行為がありうると認めたかたちになったかも知れませんが たぶん《利‐相互》であると考えます。共生感覚にもとづいてです。

 どうなんですかねぇ。

投稿日時 - 2013-03-06 09:54:24

ANo.17

ブラジュロンヌ様。こんばんは。

膨大な新聞のスクラップを整理していたら、興味ある記事がありました。

情報源は2012.5.12の日経新聞の夕刊

笑いの心理学 「笑いの心理学 苧阪直行さんに聞く」

この中で、苧阪さんは

「自分が損をしても他人の利益のために動く、利他的行動というのがあります。この行動は人間固有のもので笑いにはこの利他的側面があります。自分が笑うことで相手を笑わせ楽しい気分にさせる。それが、自分の報酬になる。利他的行動は心のゆとりがあってできるのですが、笑いも心のゆとりがあって出てくるものです。」

と見解を述べてます。

確かに、良く言われるように笑いは人間特有の行為であって、少なくとも、対象(人間ではないことにもありますが)がなければ生まれない。

しかし下記のアダム・スミスの考えとして述べたように、人間はこの世に生まれると他人を喜ばせたいという自然的欲求がある。

私の見解としては、人間が生まれて始めてみるのは、母親の笑顔である。

人間の笑顔ほど、心理的に利己としては最大の喜びである。

ブラジュロンヌさんの質問の1は肯定します。受け売り要素が強い回答ですが・・・。

追伸

ブラジュロンヌさんからのお礼の宿題が来ると、私はちびまるこちゃんのような青筋が顔に立ち、眉間にしわを寄せ、どう考えても、他人が笑顔になるよな顔でない状態でパソコンに向かっているので、バライティ番組をこれから観ます。

投稿日時 - 2013-03-05 19:36:04

お礼

 そうですね。大いにテレビ番組を見て たのしんでください。
 そういうところについて――と言いますか むしろ全般的に――わたしは ぶっきらぼうです。かなり。あしからずご了承いただければさいわいです。

 こんばんは 四世ならいくなーとんさん。ご回答をありがとうございます。


 ★ ブラジュロンヌさんの質問の1は肯定します。
 ☆ ありがとうございます。そして いまの段階において おそらくそういうことぢゃないかと思っております。まだ持ちこたえております。

 確かに《利他》という要素はありましょうけれど それは 基本的に利己なる行動もしくは自己をそれとして中心としひとつの物差しとして図った自己表現の行動があって その中に《利他》なる要素はおさまる。こうではないかと考えます。

 《利‐相互》といった考えや行動は 同じくそれとして ありうるとは考えます。


 ▲ 笑いにはこの利他的側面があります。自分が笑うことで相手を笑わせ楽しい気分にさせる。それが、自分の報酬になる。
 ★ しかし下記のアダム・スミスの考えとして述べたように、人間はこの世に生まれると他人を喜ばせたいという自然的欲求がある。
 ★ 人間の笑顔ほど、心理的に利己としては最大の喜びである。

 ☆ このようにそれぞれ 大きく《利己》行為の中に 互恵的な要素が含まれる。といったかたちだと思います。

 要するに エゴイズムやアルトルイズムを 《自 / 他》に分け しかもその志向性を《利》という言葉で表わそうとした。ここに 何かどこかそぐわないものがあるように思われます。



 
 この質問は もう少し開いているつもりです。
 どなたかまだ投稿してくださる方がいるかも知れないと思って。

投稿日時 - 2013-03-05 20:59:22

ANo.16

「利己」という場合の『己』が、肉体的な自己である限り、
利己と利他は必ずしも反対概念ではなく、社会性(分業
による組織化)の進展に応じて、自己の生存は社会の
順調な運営に依存し(一人では生きられない)、そうした
社会性の認識において、利己的な意志の発現過程に
利他が介在するようになる。

投稿日時 - 2013-03-04 11:38:35

お礼

 ぷしゅてっくすさん ご回答をありがとうございます。


 Q‐1: ひとの存在をどうして
  ★ 肉体的な自己
  ☆ にかぎるのでしょうか? 

 でもこれに関しては この自己が《身と心との一体となった存在》と見なして次へすすみます。

 Q‐2: ★ ~~~~~
 利己と利他は必ずしも反対概念ではなく、・・・
 利己的な意志の発現過程に 利他が介在するようになる。
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 中ほどを端折って引用していますが このように読むかぎりでは 《利己》と《利他》とは ふたつの別個の概念であり何らかのそれとしての行為であるのですね? (これは確認だけです)。


 Q‐3: ★ 社会性(分業による組織化)の進展に応じて
  ☆ これは 言うまでもなく概念の説明を端折ったかたちだと受け取りますが 問題は: 
  (あ) 《分業》の歴史的な進展にかかわりなく 《利己》とそして得体の知れぬ《利他》とはどういう実態であるのかが問われて行くものと考えるところに この質問の焦点は ありますが そうお考えになりませんか?

  (い) 《利己》は たとえば《いのちのとうとさ》に従属しつつもそれに並ぶような存在の基礎を成していてそれとして保持されて行くと思われます。そのとき その利己とそして《利他》なる概念および行為が どのような関わり方をしているのか? これが問うところであります。

  (う) すなわち《分業》は 単位体となる集団に応じて 一定地域の社会(たとえば国家)としてのそれとその中の会社などの組織におけるそれとがあると考えますが その分業の組織化〔としての社会性〕の進展に応じて 利己と利他とのからみ合いのようなものが 進化する。こういうお考えでしょうか?


  (え) つまり 利己は いのちの問題に次いで存在の基礎として保持されて行くと思われるからには この分業の組織化の進展とは 必ずしも相関関係を持たない。こうも見ているのですが その点にかんしては どうお考えになりましょうか? (つまり 利己は初めから展開されて来ている)。



  (お) すなわち もっと大胆に極論しますが この〔生命存在における〕利己行為の歴史的な進展が それとして主流だと思われるとき 《利他》がどこにどういうふうに かかわってくるのか? これがよく読み取れません。出来ればご説明を。


  (か) 分業の組織化が進展するしないにかかわらず 《人なる存在》の――或る種の仕方で独立性を持ちつつ 同時に持つと思われるところの――《関係性》は 普遍でありまた不変であると考えられます。

  (き) 言いかえると この人間と人間との――存在の基礎的な条件におけるところの――関係性 そしてそれの言わば発動 においてすでに言うとすれば《利他》ないし《利‐相互》という心づもりも振る舞いも――思いやりや助け合いなどとして―― 現われて来ていると考えるのですが その点 いかがお考えになりましょうか?

  (く) 言いかえると 《生活の共同性》〔としての社会関係性〕においてすでに――原始心性の時代から―― それとしての《利他ないし利‐相互》なる考え方もおこないも持たれて来ている。のではないか? と問います。

 Q‐4:★ 自己の生存は社会の順調な運営に依存し(一人では生きられない)、
  ☆ (け) これは ずばり《社会の運営》が《順調であろうとなかろうと》 社会的な関係性をそなえつつ 相対的な経験的な有限の《独立性》をも ヒトなる存在は――けっきょく自由意志の存在において――たもって来た。のではないか?

  (こ) 《一人では生きられない》と《自己の生存》とが 一義的にひとしいと受け取ってはいけないのですよね?  そういう《関係性》のひとつの側面があるという意味ですよね? (それでないとおかしいと思います。人間の存在は《社会の運営のあり方に依存》することになってしまう)。

  (さ) ★ そうした社会性の認識において、
  ☆ ということは 利己なるひとつの基礎的な歴史過程とそこへ《利他》なる概念および行動が どのように絡み合って来るのか。これは この《そうした社会性の認識》いかんにかかわらず 歴史の初めから それとして大きな問題としていとなまれて来たのではないか? と問います。



 Q‐6:★ 利己的な意志の発現過程に 利他が介在するようになる。
  ☆(し) 端的に言って 《どのように》でしょうか?

  (す) そのように介在するようになる《利他》とは どういう内容を持ちましょうか?

  (せ)  つまり《利己》なる欲求とその展開なる過程にも 関係性として捉えられる《利‐相互》――思いやりや助け合い――が現実にいとなまれていると思いますが そのこととそして《利他》は どう同じでどう違いましょうか?



 以上のような疑問が明らかにして解かれないなら まだ質問者は その問いへの答えとして不満足でいつづけますが どうでしょうか。

投稿日時 - 2013-03-04 15:22:26

ANo.15

>その《利他》の思いや心づもりとそしてその内容の実行とのあいだには

 お前にとっては、それにしかんらん。氷を通りこしてドライアイスだなこりゃ。

 地下鉄ホームから落ちてしまった婆さんを助けようと線路に飛び降りて婆さんをホームに抱え上げて救出した直後電車に轢かれて死亡した青年がいたっけ。

 心づもりと実行のあいだに、隔たりがある例というのはむしろこういうことだ。 

投稿日時 - 2013-03-04 09:59:22

お礼

 うきよとんぼさん なかなか今回は 熱心ですね。まづはご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~
 地下鉄ホームから落ちてしまった婆さんを助けようと線路に飛び降りて婆さんをホームに抱え上げて救出した直後電車に轢かれて死亡した青年がいたっけ。

 心づもりと実行のあいだに、隔たりがある例というのはむしろこういうことだ。 
 ~~~~~~~
 ☆ この青年の場合 自分(本人)も助かったならよかったなぁ。

 という批評をのこすだけなのではないだろうか? その青年の心を汲むとするならば。


 どういう心か?



 もし青年の心づもりもその実行も ひとえに《利他》なる――しかも純粋な利他なる――精神にもとづくものであり この上なく気高い行為であったともし言うなら それは そう言う人に その気高き精神がないと告白したことになる。

 言いかえると さらには 自分にはこういう利他なる心はとぼしいが もし自分がその事件における婆さんのような窮地に落ち入った場合には――自分は そういう心は持ち合わせておらず 実行することはなきに等しいのだけれど それでも 人びとよ――そのわたしを助けてくだされ。と言っているにひとしい。

 《冷酷》と言うか 《情けない》と言うか。
 
  ○ 心づもりと実行のあいだに、隔たりがない

 と言う人びとのほうが すでに事前にお手上げであるという敗北主義に落ち入っているのではないか?

  ○ 一般的につねに 心づもりと実行のあいだに、隔たりがある

 のだ。よ。
 

投稿日時 - 2013-03-04 11:24:49

ANo.14

あなたのおっしゃる通り、
完全な利他など幻想でしょう。

ぼくはエゴと利他は共存すると感じます。

だって、自分がメッチャしあわせになりたいなら、
他人をメッチャしあわせにする必要があります。

それこそ、世界中で有名になりたいなら、
世界中の人をしあわせにする必要があります。

要はwinーwinです。
たとえ、思考はエゴイストだとしても、
現実に他人をしあわせにするなら、いいじゃありませんか。
エゴイストを批判して、なにもしない人よりはるかにいいです。

投稿日時 - 2013-03-04 08:26:38

お礼

 ぽえにくすいーう゛るさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 あなたのおっしゃる通り、
 完全な利他など幻想でしょう。
 ~~~~~~
 ☆ そう言われてみると――わたしは天の邪鬼なんでしょうか―― 不完全なものでも その志向性やよしというふうにも応えたくなってしまいます。
 
 《利他》と呼ぶかどうかは別ですけれど。《思いやり》ですかね。


 
 ★ ぼくはエゴと利他は共存すると感じます。
 ☆ これは同感です。まづ自己の〔広義の〕利益をないがしろにしては 何ごともみづからの意志行為にならないであろうし 相手にも風変わりなやつだなぁと思われておしまいではないでしょうか。つまり ひとりで何か趣味のようなことをやっているぶんには構わないのでしょうが。

 あめんほてぷさんが指摘したA.スミスの《同感》の考え方について ここで引用しておきます。われわれ日本人から見ると ところどころ あれぇっと思うくだりもあるかと思いますが。
 
 ▲ (A.スミス:《同感》) ~~~~
 文明社会では 人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに 全生活をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。

 ほかのたいていの動物はどれも ひとたび成熟すると 完全に独立してしまい 他の生き物の助けを必要としなくなる。ところが人間は 仲間の助けをほとんどいつも必要としている。

 だが その助けを仲間の博愛心( benevolence )にのみ期待してみても無駄である。むしろそれよりも もしかれが 自分に有利となるように仲間の自愛心( self-love )を刺激することができ そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが 仲間自身の利益( advantage )にもなるのだということを 仲間に示すことができるなら そのほうがずっと目的を達しやすい。

 他人にある種の取引を申し出るものはだれでも 右(上)のように提案するのである。私の欲しいものを下さい そうすればあなたの望むこれをあげましょう というのが すべてのこういう申し出の意味なのであり こういうふうにしてわれわれは自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取りあうのである。

 われわれが食事をとるのは 肉屋やパン屋の博愛心( benevolence )によるのではなく かれら自身の利害( own interest )にたいするかれらの関心( regard )による。われわれが呼びかけるのは かれらの博愛的な感情( humanity )にたいしてではなく かれらの自愛心( self-love )にたいしてであり われわれがかれらに語るのは われわれ自身の必要( own necessities ) についてではなく かれらの利益( advantages )についてである。

 (国富論 大河内一男 訳 1・2)
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いわゆるギヴアンドテイクの考え方にも見えます。そしておそらくそのような量的なことがらをどのように扱うかについての人びと一般の同感が得られるかどうか。これが 問われているのかと思います。
 《胸中の公平な観察者》と言う場合には 同感は 良心のことだとも考えられますが。


 かくして
 ★ ~~~~
 要はwinーwinです。
 たとえ、思考はエゴイストだとしても、
 現実に他人をしあわせにするなら、いいじゃありませんか。
 エゴイストを批判して、なにもしない人よりはるかにいいです。
 ~~~~~~


 そうして――ひとつの結論になるかどうかの見解として―― 仮りに《利他》を思いそう行動しようとする人は けっきょくいまのスミスの同感にもとづく適宜性( propriety )に合った等価交換なる仕組みのごとくに 相手とのあいだでその《利他》行為についての合意に達するということ。ではないでしょうか?

 そうなると
 ★ ぼくはエゴと利他は共存すると感じます。
 ☆ とわたしも感じます。

投稿日時 - 2013-03-04 09:50:08

ANo.13

>アルトルイズムは 第三者ではなくむしろ 《我れとなんぢ》との関係における《なんぢ》のことを言っておりこれをわざわざひとり取り出して取り立てると言っている。

 んなこた、百も承知の助だ。人間を人間として呼ばないお前らしい言いぐさだな。

 死を経験した者など誰もいない。我もなんぢも死も全部お前の中にある。他利もだ。

 幻想は、他利か我かなんぢか死か。
 わざわざひとり取り出して取り立てておいて、お前の中の他利のみを幻想とする精神性はあいかわらず冷酷だな。
 

投稿日時 - 2013-03-04 01:30:51

お礼

 さすがのわたしも手を焼くなぁ。
 まづは ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 わたし自身が使っておきながら何ですが 《幻想》ということばをムヤミに使っていはしまいか?


 問題は 仮りに利他と言うとすれば その《利他》の思いや心づもりとそしてその内容の実行とのあいだには 遠いへだたりがある。ということではないでしょうか?

 相手に対して・あるいは誰か心に思う人に対して その人の利益になることをしようと思うまでは 簡単なこと。その内容をどう実行するかは まったく別のことです。

 それは 一にも二にも 《相手がいる》という条件が 《立ちはだかる》かたちだと言ってよいからです。
 ひとの意志を無視してよいとはならない。ひとの意志にたずねてその合意を得なければならない。からです。

 そのとき 相手の意志にたずねて同意を得たなら すでにその利他行為は 互いの同意する内容の履行であるしかない。こちらの思いとしての利他がどうであるかは二の次になる。

 むろん相手は 感謝のこころをあらわしてくれましょう。しかもそのこととも その同意内容の履行なる行為は 別である。《合意》は互いが対等であることをあらわし もともと《ひと》として対等である。対等である者どうしが意見が一致したというに過ぎない。

 利他という思いを持っていようが いやじつは罠にはめてやろうという思いを持っているのだがというのであろうと 同じことになる。双方の自由意志による合意の前には――あるいはその背後には―― もう内面における思わくは 第一義には意味を持たない。

 そういう意味では
 ★ お前の中の他利のみを幻想とする精神性はあいかわらず冷酷だな。
 ☆ これは 《他利のみ》を取り出してではなく すべての内面における思わくを取り上げて言うわけだけれど じっさい言うとすればそれらの内面の思わくは《合意という双方の自由意志の一致》に対しては《まぼろし》のようなものだ。

 だからもしそのように捉える精神性が《冷酷だ》と見るなら それはぎゃくである。 
 むしろほどこしを受ける側に この行為はすなわちあなたに利益をわたしが与える《利他》であると言ったなら そのことのほうが冷酷である。と言うより 成っていない。人間性が成っていない。

 ということではあるまいか? 《んなこた、百も承知の助》さんよ。

投稿日時 - 2013-03-04 05:17:13

ANo.12

>無縁慈悲

いい言葉ですね。
しみじみとしたものが感じられる。

と、こんばんわ

慈悲が結ぶ「えにし」を 利他 と呼んでもいいでしょうかね・・
慈悲が 目に見える形となった ということで

縁もゆかりも無い人や生き物への思いやり
それができて慈悲と呼べそうな気もする
慈悲心における平等性を 無縁慈悲というならば
あえて利他という言葉は必要ない
紙一重の偽善を表すものを、上塗りする必要はないから・・

利他という言葉よりも、無縁慈悲という言葉のほうがいい
無縁なるものへの慈悲こそ、利他というに相応しい

利他とは「えにし」
慈悲の「えにし」を受けた者が、慈悲の「まこと」を包んで指す言葉だと思います。

投稿日時 - 2013-03-03 22:25:34

お礼

 あばうと72さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 趣旨説明欄での議論は 極論を内容とした作業仮説として提起したのだと言って来ていますが それは必ずしも仮想というわけではありません。
 そのことに 今回のご回答を読んで気づきました。

 それは 《無縁慈悲》をどう扱うかの問題においてです。

 ★ ~~~~
 慈悲が結ぶ「えにし」を 利他 と呼んでもいいでしょうかね・・
 慈悲が 目に見える形となった ということで
 ~~~~~~
 ☆ じつは――無縁慈悲については それが果たして経験事象なのか? 実践しうるものか? という問いもありますが ここでは先を急ぎますとして―― ここで問題だというのは まだ《目に見える形となった》と言っても 《相手が見えていない。つまり 相手の意向が俎板の上に載っていない》ということです。

 慈悲行為にしても何にしても 《相手がある問題》なのであって それは 相手がその慈悲にしろ利他にしろの提供を受けることに同意したかどうか。これが 問題になります。

 言いかえると もしたとえ慈悲行為が実践可能だとしても それを《利他》と呼ぶことがふさわしいか? という問題が残ります。なぜなら 利他の行為は 一方の側が一方的におこなうのでもなければ その利益を一方的にあたえるものでもない。からです。

 あたえる側と与えられる側との あくまで対等の関係における 合意が成って初めてその助けや救いとなる行為が果たされるということです。そのときすでに《利益》がどうで《自と他》とがどのように分かれているのかといった問題は むしろはっきりするからです。

 《利益供与》なる行為が 互いに対等な双方の側からの同意によって成り あとはそのままその行為が実行に移される。だけである。《自》も《他》ももうないのです。どこが利己でどこが利他なのか? 

 すなわち
 ★ ~~~~
 慈悲心における平等性を 無縁慈悲というならば
 あえて利他という言葉は必要ない
 紙一重の偽善を表すものを、上塗りする必要はないから・・
 ~~~~~~
 ☆ ほんとうに こういう問題であり こういうことなのだと考えました。どうでしょう?


 ★ ~~~~
 利他という言葉よりも、無縁慈悲という言葉のほうがいい
 無縁なるものへの慈悲こそ、利他というに相応しい
 ~~~~~~
 ☆ すなわち 《利他》という表現は まづい。と思いませんか?
 《無縁》はいいでしょうけれど 《慈悲》もまづいかも知れません。
 もっとも 慈悲は 《ともだちであること。となりびとになること》のような意味でもあると言いますから それならいいのかも知れません。


 ★ ~~~
 利他とは「えにし」
 慈悲の「えにし」を受けた者が、慈悲の「まこと」を包んで指す言葉だと思います。
 ~~~~~ 
 ☆ ここでも《利他》という言葉を温存するということですか?
 何だかどこか きれいごとに映りますが 僻目でしょうか?

 もっと――やはり議論をすすめるための極論を持ち出すなら―― 慈悲にしろ寄付にしろ贈与にしろ あたえる側は けっきょく《もらってください。あたえさせてください》と言うしかないと思われます。
 もし《利他》という言葉を用いるのなら 《利他というわたしにとっては利己行動をあなたに対しておこなわせてくださいませんか?》と願うこと。こうなりませんか?




 

投稿日時 - 2013-03-03 22:58:07

ANo.11

>あはは。・・・「だから、人権を侵害しないでね」

 どうだ。哲学カテで「利他」の回答者の品位も私以上に下品だろう。

 こんな下品な私でも横から質問者のスレで人様を中傷したことはない。
 
 利他ね・・・・・・ぬかせ。アホども。
 

投稿日時 - 2013-03-03 20:30:29

お礼

 うきよとんぼさん 引き続いてのご回答をありがとうございます。

 さて 今回の回答内容は 読み取りにくいですね。

 直前のくりなるさんのご回答No.10の内容をめぐって ご見解を寄せておられる。とは分かるのですが 主旨はどうなりましょう?


 ★ ~~~~
   >(回答No.10) あはは。・・・「だから、人権を侵害しないでね」


 どうだ。哲学カテで「利他」の回答者の品位も私以上に下品だろう。

 こんな下品な私でも横から質問者のスレで人様を中傷したことはない。
 
 利他ね・・・・・・ぬかせ。アホども。
 ~~~~~~
 ☆ 《哲学カテで「利他」の回答者》というのは このわたしの質問とは関係なく ほかのいくつかの質疑応答でのことを言っていましょうか?

 ★ 横から質問者のスレで人様を中傷したことはない
 ☆ 確かにわたしは《横スレ》をおこなっていますが けれども《人様を中傷する》ことは誰もしていない。している場合があるなら それは 論外でしょう。



 《利他》などは どうでもよい。――ということでしょうか?

 質問者は どうでもよいというのではなく 《利他》は まづ表現がおかしい。アルトルイズムは 第三者ではなくむしろ 《我れとなんぢ》との関係における《なんぢ》のことを言っておりこれをわざわざひとり取り出して取り立てると言っている。
 だから エゴイズムという自己の広義の利益を図ることとそれほどかけ離れた意味内容を持つとは思えないが どうだろう? と。

 次に よく考えても この《利他》という言葉があたかも独り立ちするような意味内容を持つ概念であるとは思えない。なぜなら 相手にいわゆる贈与をほどこすというときには 相手の人格を尊重し互いに同意することが いちばん大事です。ゆえに単純に 決して《他者の利益を図る》ということが独り立ちするとは思えない。
 このような物言いを述べています。


 もう少しみなさんからの投稿を得て 問い求めて行こうと考えます。

投稿日時 - 2013-03-03 21:38:15

ANo.10

>「誰かの利の為に死ぬなら、利他なのだ。」


あはは。
・・・「だから、人権を侵害しないでね」

投稿日時 - 2013-03-03 19:35:03

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 またまた くりなるさんへのご返答は ほかの回答者とのやり取りをもって 代えさせていただくこととなると思います。

 直前のNo.9。そしてすでに 直後のNo.11にも うきよとんぼさんからの回答がつづいて来ているようです。


 このくりなるさんのご回答は 《民主制》における《助け合い・利他》のあり方を問うものとして 前回につづいて 受け取りました。

投稿日時 - 2013-03-03 21:22:05

ANo.9

なにをぬかすか。誰かの利の為に死ぬなら、利他なのだ。

身代わりになって死を選ぶってこと。
是非はともかく、戦争に志願し戦死するとか、特攻もそうかもしれん。

死をもって自分を生かす道などとぬかすかもしれんが、父性というのも、母性と同等の利他。

父性と母性が何を守るかと言うと「死」なのだ。その裏は「生きる力」となり、これらの欠落こそ人間にとって最も危険なものなのだ。

父性にしろ母性にしろ、利他の精神性の元はここにある。
単純にそれだけだ。

それを幻想と言いたがり、共生行為としたがるお前の精神性の元とは根が違うだろ。

投稿日時 - 2013-03-03 19:20:17

お礼

 うきよとんぼさん しばらくですね。お元気そうで。まづはご回答をありがとうございます。

 ★ 特攻と利他
 ☆ これは あめんほてぷさんがNo.3で取り上げておられます。そこへのわたしの返答を合わせて読んでもらえればさいわいです。

 と押さえて 次のような言い返しで返答を始めてみます。

       *

 つまり
 わたしのこの質問が何を守るかと言うと 利他などないと言いそれは幻想に過ぎないという問いかけをなすことによって じつは 「死」なのだ。その裏は「生きる力」となり、これらの欠落こそ人間にとって最も危険なものなのだ。

 人間性にしろ社会性にしろ、利他の精神性の元はここにある。
 単純にそれだけだ。

 それを何をぬかすかと言いたがり、共生行為としたがらないあなたの精神性の元とは根が違うだろ。

       *

 まぁ これは じょうーーーだん。じょうだんですよ!!!

 まぁ 鼻息が荒いので ちょっといなしてみたのみ。



       *


 さて 次の命題を取り上げましょう。
 ★ ~~~~
 誰かの利の為に死ぬなら、利他なのだ。

 身代わりになって死を選ぶってこと。
 是非はともかく、戦争に志願し戦死するとか、特攻もそうかもしれん。
 ~~~~~~
 ☆ これではまだ質問者は納得が行きません。なぜなら:

 (あ) 《誰かの利の為》というとき《利》とは どういう内容か? これがはっきりしない。それは《死ぬ》ことでも《死なない》場合でも 同じ疑問が生じそれは取り払われません。

 (い) 言いかえると 《身代わりになる》ということが 明らかではない。代わりに死ぬというとき
  (i) 代わりに死んでくれと誰かに頼まれたのか?
  (ii) みづから志願して身代わりになったという場合にも なんで《身代わり》なのか?
  (iii) 非戦闘員であっても敵は攻撃してくるのだから 単純に《身代わりになる》ということがどうして言えるのか?
  (iv) 《戦死》すれば えらいのか? 残された者・生き残る者にとっては 《ありがた迷惑》ということもありうるのではないか?
  (v) ただただ死ぬことの大義名分を勝手に考えついただけではないと言えるか?
  (vi) 早く負けたほうが どれだけ《利益》が広くもたらされるか。ということをも考え合わせてみたことがあるか?
  (vii) どうして《是非はともかく》というような条件づけで考えることが出来るのか?


 ★ 死をもって自分を生かす道などとぬかすかもしれんが
 ☆ あめんほてぷ氏とのやり取りで 《自殺をみとめることはない》とすでに言っています。(No.8)。誤解なさらないように。


 いづれにしましても 次のようにすでにやり取りをしています。
 
 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~
  § 2 国とその同胞を守るために戦争におもむくのは 《利他》行為ではないか?

  いくつかの主題ないし論点があろうかと思います。
 
  § 3 戦争そして戦争におもむくとは どういう意志行為か。
  § 4 国家としての国を守ることと腹柄(はらから)としての国民を守ることと。
  § 5 《敵》なる人間をころすこと及びみづからの命をもってくにびとを守ることは 利他か?
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 提題を掲げたのみですが 参照されたし。


 あるいはまた
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 1. もしおそらくあやまって母性本能と呼ばれる場合の《本能》による場合でなければ 他者の利益になるような自己の行為というのは 敢えて言えば広く自己を活かす意味における利己にもとづく共生としての行為のほかには ないのではないか?

 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか?
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ というのは 言わば作業仮説であって それは極論を提出することによって 問い求めを推し進めようとしたものです。
 
 まぁ 自慢ぢゃないですが ここまででは案外・意外に・想定外に(?)なのかどうか まだ反駁はされ切っていないように思います。



 
 かんたんにまとめてみるなら:
 (う) 戦死することによって《身代わりになる》というのなら それは 恩を売っているのではないか?

 (え) それは押し売りではないか?

 (お) 遺された者にとっては ありがた迷惑にならないか?

 (か) 利他というのなら その他者とのあいだの話し合いをとおして 互いにその人格どうしの同感・同意のもとに成り立つというものでなければならないのではないか? 

 (き) 直後の回答でくりなるさんが

   ◆ (回答No.10)・・・「だから、人権を侵害しないでね」

 と書いているのは 上のような主題ないし論点のことを言っているのではないか?

投稿日時 - 2013-03-03 21:18:01

相変わらず定理を無視しているので
回答をスルーして下さっていいのですが

思いついたので書き込もうと思いました。

感性の問題だと、
共感というのが問題になるのではないか、と。
シンパシー。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「共苦Mitleid」あるいは「同情」(ニーチェとロラン・バルト)


われわれが他人の悲しみを本人の感じているがままに感じとれるーーショーペンハウエルが共苦と名づけたもの、より正確には、苦痛における合体、苦痛による結合とよばれているものーーとしたら、他人が、たとえばパスカルのように、自分を憎むべきものと感じているときは、われわれもまた彼を憎むことになるはずであろう。(ニーチェ『曙光』)

http://yokato41.exblog.jp/14513313/

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


それで、ここからはいつものようにトンデモなのですが、

初期の仏教の、苦しみを滅するという感覚的なパラダイムから
大乗仏教の、智慧の完成(般若波羅蜜多)を目指すパラダイムへと
シフトしたのではないか?と。

というのも、仏性というものが出てくるわけがわからなくて。

誰にでも仏性がある。誰でも悟れる。
という大乗仏教の思想は、

誰にでも理性があるから、真理を理解できる。という話ではないか?と

読み替えてみたのですがどうでしょうか。

仏性を理性と同一視して、智慧をいわばヌースと考えるのは
短絡的でしょうか。

あと私は以前は
仏教の慈悲と、キリスト教の愛は同じだと考えていましたが
どうも違うのではないかと思うようになりました。

悟って慈悲深いブッダが共に苦しむというのは
なんだかイメージがわかないのです。
アルカイックスマイルな仏像が苦痛の表情で歪むというのがピンときません。
感情的なものから離れているような気がするのです。

キリスト教の愛は英語だとloveなんでしょう。
もっとこう人情的なものではないか、と。

これを渇愛と批判されてしまうのはしかたないのではないか、と。

やむにやまれぬ心といいますか。

ここら辺の比較はわたしにはまだまだできません。

投稿日時 - 2013-03-03 12:07:05

お礼

 ええっと 主題がまたはその焦点が散らばっているように思えるのですが まづは ご回答をありがとうございます。

 扱いやすいところから行きますが:
 ★ ~~~~~
 キリスト教の愛は英語だとloveなんでしょう。
 もっとこう人情的なものではないか、と。

 これを渇愛と批判されてしまうのはしかたないのではないか、と。

 やむにやまれぬ心といいますか。
 ~~~~~~~
 ☆ 《キリスト教》というのは 漠然としていると思います。いちばんよい取り上げ方は 自分はこのように考え定義するというふうにご自分の見解を打ち出すことだと思います。

 《愛》は ご存じのようにギリシャ語では アガペー・ピリア・ストルゲー・エロースと分けて捉えるようですが 自分はこれだと――問題に応じて適宜に――定義して議論するのがよいと思います。

 《渇愛》がどうのこうのというのは その取り上げている相手の《愛》の概念にあてはまっていないなら 屁の河童です。勝手にほざいてろとなります。

 ★ もっとこう人情的なものではないか
 ☆ これで定義はよいのかも知れません。ですがそうならば いま少し説明をおぎなうならば 議論がかみ合いご回答が引き締まるものと思います。

 ★ やむにやまれぬ心
 ☆ として《思いやり》が生じると言えるかも知れません。たぶんそれを《利他》と呼ぶのは 何ともそぐわない。という方向を結論は向いているかとも思われます。

 先の《人情的なもの》というのも やはり生活日常に根づいた人びとの思いや振る舞いを指し示そうとしており それを利己か利他かという二律背反のごとき――コンピューターもどきの――思考形式や行動様式において捉えるというのは やはりやはりさらにやはり 日本人の社会生活にとっては合っていない。


 エゴイズムとアルトルイズム。
 エゴーは――Greek: egoo; Latin: ego; Sanskrit: aham から変化したように―― 英語のアイ( I )と同じ語です。ドイツ語では Ich と言って元の g / h が残っています。

 アルテルとは 《もうひとつ別の》の意味だそうです。( al- :向こうの・別の。 -ter : 比較級を示す接辞。要するに英語の other です)。
 アルテルは 必ずしも《第三者》ではなく 《両者の内の向こう側・相手》のことを言ったそうです。

 つまりは エゴーとアルテルとは 《我れとなんぢ》のことらしい。
 何も日本人でなくても いま向かい合っている相手のことを思うのは ふつうのことではないでしょうか?

 利己と利他とに分けるということは あちらの世界では《われ》と《なんぢ》とは 渡り合えない溝が初めから横たわるとでも言うのでしょうか? そういうことなのでしょうか?

     *

 ( a )★ シンパシー。(J.-J.ルウソおよびA.スミス)

 ( b )★ ~~~~~~~
  われわれが他人の悲しみを本人の感じているがままに感じとれるーーショーペンハウエルが共苦と名づけたもの、より正確には、苦痛における合体、苦痛による結合とよばれているものーーとしたら、他人が、たとえばパスカルのように、自分を憎むべきものと感じているときは、われわれもまた彼を憎むことになるはずであろう。(ニーチェ『曙光』)
 ~~~~~~~~~~~~~

 ( c )★「共苦Mitleid」あるいは「同情」(ニーチェとロラン・バルト)

 ( d )★ ~~~~~~~~~
 初期の仏教の、苦しみを滅するという感覚的なパラダイムから
 大乗仏教の、智慧の完成(般若波羅蜜多)を目指すパラダイムへと
 シフトしたのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~

 ( e )★ ~~~~~
 誰にでも理性があるから、真理を理解できる。という話ではないか?と

 読み替えてみたのですがどうでしょうか。

 ( f )★ ~~~~~
 仏性を理性と同一視して、智慧をいわばヌースと考えるのは
 短絡的でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~

 ☆ ( a )のシンパシーは 回答No.1及びNo.2でのやり取りに触れることが出来ました。見ていただければさいわいです。《思いやり》として受け留めてもよいのではないでしょうか。

 ( b )の《共‐感・共‐苦》≒ミット・ライト≒シン‐パシー(シュン‐パトス)がもし ( c )のように悪く言えば機械的に解釈されるなら ふさわしからぬ解釈をするのなら呪われてあれ(オニ・ソワ・キ・マリ・パンス)! とでも言いたい気持ちに片向きます。

 ( d )以下のようにそれが 《感性》を離れて・排除して《理性》のほうへ向かうのなら それはどうしてか? どうして理性一辺倒のごとき《わたし》のあり方をしなければ成らないのか?

 それは 《智慧の完成(般若波羅蜜多)》つまりはサトリには そのように理性ないし《ヌース》がどうしても重要なハタラキをするという理論があるということでしょうか?

 《真理》を理解するというのは おそらくその(真理の)代理ないしシルシをとおしてであろうと思われます。
 仮りに《真理を理解しえた》といった場合です。仮象としてです。

 そのとき 最終的に認識して言葉による説明をあたえるのは《理性》でしょうが その前の段階においても たとえば感性が――直感ないし直観として――何ものかを捉えたとひらめくことはあるのではないでしょうか?

 それは 《実存》の全体で感じ認識すると言ってみては どうでしょう?




 こんな感じです。

投稿日時 - 2013-03-03 14:23:16

ブラジュロンヌ様おはようございます。
いつもながら興味ある遊び場を設けられますね。ちょっと失礼して隅でごそごそさせていただきます。

>利他って何ですか?

難しいテーマですね。いきものは自分が生きのこることで継続していく世界ですので、利他行為、ひいてはその極限にある自己犠牲という発想は一見矛盾している、というかあってはならないことなのでしょう。母性本能をいっておられますが、これは親が子供と一体になって生命を維持していくという合目的性があります。これはいいのです(かな?)。

共生というヒントを頂きました。私も生命現象を考える時、人間だってばらばらの個人ではない、ホヤの群生のような、大きな生命体の一部分としての個人という意識がやはりどこかにあるのではないか。本来が生命というのは社会を形成するのが自然なのだ、そうすれば、全体における個人、全体に対する愛のようなものが生命体の初期から遺伝子に書き込まれていても不思議ではない、その発現がのださんを日本の政治へ献身させる力にもなっているのではないか?これは飛躍が過ぎるでしょうか。


見返りを期待しないボランタリーな行動は、いずれ人間社会には必須の大きなムーヴメントになるだろうという考えがあります。あまりに社会にエゴ椅子チックな思想が栄え始めたことに対する反動というより、社会そのものが進化によってその方向へ進まざるを得ないだろうというもののようですが、この方向性が本来の生命体の中にあった性質の発現なのだとすれば、そしてそれが人間達の共通の思いになれば、案外愛の国は身近に実現しそうな気がします。
どんなものでしょうか。

投稿日時 - 2013-03-03 10:50:37

お礼

 こまあすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 同感です。

 志向性もしくは時代の方向性においても 大きく採ったその視座についても。
 ★ あまりに社会にエゴイスチックな思想が栄え始めたことに対する反動というより、社会そのものが進化によってその方向へ進まざるを得ないだろうというもののようですが・・・



 利己を社会としての視点からも捉える。もしくは利己などの個人の行動が 社会という全体のあり方にもすでに――その自然本性において――かかわっている。
 ★ 本来が生命というのは社会を形成するのが自然なのだ、そうすれば、全体における個人、全体に対する愛のようなものが生命体の初期から遺伝子に書き込まれていても不思議ではない


 ★ その発現がのださんを日本の政治へ献身させる力にもなっているのではないか? これは飛躍が過ぎるでしょうか。
 ☆ 野田さんの事例は 分かりやすいかも知れませんし かえって反論してくる向きもあるかも知れないと思いました。



 ★ ~~~~~
 見返りを期待しないボランタリーな行動は、いずれ人間社会には必須の大きなムーヴメントになるだろうという考えがあります。あまりに社会にエゴイスチックな思想が栄え始めたことに対する反動というより、社会そのものが進化によってその方向へ進まざるを得ないだろうというもののようですが、この方向性が本来の生命体の中にあった性質の発現なのだとすれば、そしてそれが人間達の共通の思いになれば、案外愛の国は身近に実現しそうな気がします。
 ~~~~~~~~~
 ☆ たぶんまだまだ《科学的証明》が少ないといった反論が出るのでしょう。
 わたしも まだ《芽生え》のようなことしか言っていないようにも思います。

 水かさを増して行きたいと思います。ありがとうございました。

投稿日時 - 2013-03-03 11:52:54

ANo.5

これは簡単な質問ですね。
利己とは、短絡的なものから長期的なものまで連続しているイメージ。
この「長期的な利己こそ、利他と同義であること」を、あなたはイメージできないようで、悲しいことです(言葉では困難でしょうね)。ていうか、質問者さんは、哲学を誤解し、家族団らんの雰囲気で楽しもう、という目的がバレバレな点が悲しい。楽しむなら他の何かがきっとあるはずなので、是非とも、出会って、残りの人生を有意義に過ごしてもらいたいと祈るのみです。

投稿日時 - 2013-03-03 05:26:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 全体としても個々のご見解としても意味が取れないでいます。

 ★ これは簡単な質問ですね。
 ☆ どう《簡単》なのか。つづくご議論で説明なさっていると受け取ったのですが それがわたしには見当たらず残念です。

 ★ 利己とは、短絡的なものから長期的なものまで連続しているイメージ。
 ☆ 何が《短絡的なもの》なのか。《長期的なもの》と言っても 何から何まであるように思います。

 まづは《意志行為》だと見るなら その意志の内容のことでしょうか? 
 つまりあるいは 意図なり欲求なり願望なりそれらの実行のことなりを言っていましょうか?

 もし人の意志行為について〔事後的にみづからの意志だとみとめることになるような〕突発的な衝動的なもしくは不可抗力によるような《短絡的な意志表示およびその実行》を取り上げてみましょう。

 これでよいのかどうか分からずに進めますが おっしゃることはこの《短絡的な意志行為》が 《利己》であっても その《長期的な意志行為》というものまで《イメージとして連続している》。――こういうことでしょうか?
 これが 分かりません。

 あるいは 初めにおのが《長期的な意志》が持たれていて そのつどまたは何かの拍子でそのとき 《短絡的なもの》としてでも 現われた。つまりそれとして――部分的にでも――意志行為として出現した。――このようなかたちで 《利己が 短絡的なものから長期的なものまで連続しているイメージ》だということでしょうか?
 これも分かりません。

 おそらく長期と短絡的とを分ける意味がないでしょう。そのときの現在時点におけるワタシ(任意の或る人)の実存と言いましょうか これはそれとして全体的です。そういう意味なら・つまり《未来と現在とが――その意志内容についても――つながっていて それは現在時における実存におさめられている》という意味なら分かりますが これはしかしながら《イメージ》ではなく ふつうの《意志なる行為能力ないし能力行為》のことです。いちいち《イメージ化》する必要もなく また時空間をいちいち分断することもないはずです。

 むしろ意志内容は 全体として個々の部分的な内容は互いに一体であるはずです。したがって その意志の実現に向けて《当面の短期的な目標》だとか《一年を超えるような中期的な実行過程》だとかあるいはさらに《長期的な総合的な計画》だとかに分かれたとしても それは 意志内容としてすべて同じものです。

 そしてこの意志行為について 質問者は一般に《よろこび・たのしみ・うれしみ・ここちよさ》などまでを含めて《利益》と見て その広い意味で《利己》ではあると言っています。

 ただしその《利己》なる意志行為にしても すでに初めに人はその人間なる存在の条件からして社会における共同生活をいとなんでいる。ゆえに いまの広義の《利益》は 自分だけのではなく何らかのかたちでほかの人びとのものにもなっている。つまり利益は 相互に浸透しておりからみ合っているとも考えられます。

 つまりここで わざわざ《利己》と《利他》とを あたかも対立する二項のごとく 分ける必要はない。またむしろ分けることこそが マチガイを引き起こす元になるとまで考えます。




 ★ この「長期的な利己こそ、利他と同義であること」を、あなたはイメージできないようで、悲しいことです(言葉では困難でしょうね)。
 ☆ 《言葉では困難》ということですから そのままにしておきます。


 ★ ていうか、質問者さんは、哲学を誤解し、家族団らんの雰囲気で楽しもう、という目的がバレバレな点が悲しい。
 ☆ (あ) どう《哲学を誤解し》ていますか? 言葉で説明するのは困難ですか? (説明困難だと言えば 何でも書き込んでよいとお考えでしょうか?)

 (い) 《家族団らんの雰囲気で楽しもう、という目的》という解釈が合っているとして 《利益》という概念にそういう意味内容を当ててはいけませんか? どう間違っていましょう?

 (う) この《目的》が どう《バレバレ》なのでしょう? つまり一方で《利益》を楽しみなどの内容を含めて広義に理解していることは バレバレなのではなくきちんと表明していることですし 他方で ではバレバレだと見なされるような隠し事があったのかな? と考えていますが その点心当たりがありませんので できればおしえてください。

 

 このように――補足欄にこそ書きませんでしたが―― 補足要求いたします。

投稿日時 - 2013-03-03 10:14:04

ANo.4

bragelonneさん、こんばんは。


「他者のために何かしよう」という時、その他者「本人」の意思なり意図なり、が、思いの他、重要と思います。
(もっと言うと、これは民主主義の問題か)


「金持ちの気まぐれな慈善」なんて、19世紀に始まって20世紀で卒業、ね?

投稿日時 - 2013-03-03 00:26:42

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いいことおっしゃる。
 おそらく回答No.1およびNo.2でのやり取りをご覧になってご見解を寄せてもらったのだと思います。

 ★ 「他者のために何かしよう」という時、その他者「本人」の意思なり意図なり、が、思いの他、重要と思います。
 ☆ そして
 ★ (もっと言うと、これは民主主義の問題か)
 ☆ というこの視座について もろ手を挙げて賛成です。
 いくら援助を無条件に受けると言っても そういう情況であっても――むろん受けるほうは感謝するのですが―― あくまで双方は対等なのです。どうしようもなく 人間はいかなる場合であっても対等である。こう思います。(公理だと思いますから あまり説明や論証はないのだと思います)。


 究極の――いわゆる無私なる――《利他》が仮りに成就したとしましょう。けれども 人間であるかぎりは その《究極の利他》をもおのが心づもりにおいておこなった。つまり 《無私》なる精神にわざわざ成って その究極の精神を――いささか減らず口をたたくならば――これ見よがしに発揮した。とも考えられます。
 どこまで行っても 《利己》でありましょう。





 なお最初の二件の回答のほかに回答No.3においても あめんほてぷさんからツッコミが入りましたので けさはガンバってご返答を書きました。

 つまり そのNo.3でのやり取りで このくりなるさんのご回答No.4へのご返答が重なるかなと思います。どうでしょう? ご覧になってください。
 上の《民主制》の問題についても 少しばかりは 伸ばせたかと思いますので。

投稿日時 - 2013-03-03 11:40:36

ブロジェンヌさん。お礼ありがとうございます。

少々哲学書的な視野から外れてしまうかもしれませんが、週間ポストにこのような興味ある記事が載ってました。

特別攻撃隊という「思想」ではなく「感情」が特攻行為に働いた。
特攻という「思想」に共鳴できなくても、宮武大尉には、ついていこうという「感情」が勝っていた。 老兵100人の遺言 門田隆将 

現在、この本を購入し、まだ、読みかけなのでなんともいえませんが、戦争などという負の究極状態において、亡くなっていった方々は、やはり、自分の国の愛する妻子や尊敬する友人のため、命をもなげうつ覚悟で亡くなっていったのではないでしょうか?これは利他行為では?

私は、戦争を知らない世代です。ブロジェンヌさんは、そのような体験を経験された世代と思い、哲学的な解釈の文章に噛み砕いてくださると幸いです。

頭を使いすぎて疲れたので今日は寝ます。

投稿日時 - 2013-03-02 23:25:53

お礼

 あめんほてぷさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 § 1 ほかの人の投稿内容に触れて投稿することについて

 この点を先に取り上げます。
 ★★(回答No.1) ~~~
  追伸

 なにやら投稿が削除されてしまったようですが、この投稿サイトを使い始めたばかりで、不手際があったことをお詫びいたします。
 ~~~~~~~~~~~~

 《お気になさらずに》と言ったこちらがこだわるようで申し訳ないのですが これはわたしが勘違いしていました。自分のこの質問で起こったことかと受け取ってしまったようです。

 【Q:カトリック  「愛」ってなんですか?】でのことですね。そこでの削除ということ自体は やはりわたしは知らなかったのですが けっきょくわたしの記憶の限りではほかの回答者の名前が出てしまっていたこと おそらくこの一点で――内容にかんして何らいわゆるアラシのようなところはないわけですから―― はねられたようです。

 考えてみれば このわたしの質問も何を隠そう あめんほてぷさんとその関心のあり方としては同じことでして 内容は別としても けっきょくわたしも《横レス》をしているわけです。たぶん 主題を独立させて立てているので 規則にのっとった質問になっているのだと思います。

 この点余計なことかも知れませんが ひとこと触れました。


 § 2 国とその同胞を守るために戦争におもむくのは 《利他》行為ではないか?

 いくつかの主題ないし論点があろうかと思います。
  § 3 戦争そして戦争におもむくとは どういう意志行為か。
  § 4 国家としての国を守ることと腹柄(はらから)としての国民を守ることと。
  § 5 《敵》なる人間をころすこと及びみづからの命をもってくにびとを守ることは 利他か?

 § 3 戦争そして戦争におもむくとは どういう意志行為か。

 ★ 戦争などという負の究極状態において、亡くなっていった方々
 ☆ 《負の究極状態》をめぐって考えます。

 (あ) 戦争は たとえ人ごろしを含むとしても 政治ないし国際政治関係の延長であって 政治があくまで《共同自治》であるとするのならば 一般に国民はみなその意志決定や実行について関与している。と考えられるか?

 (い) けれども自治ないし共同自治は ヒトが生きることおよび人びとがともに生きることを目的としている。とするならば 《人ごろし》なる意志行為は 無効である。

 (う) 国家が或る種の仕方で主権を持ち その主権の範囲で 国民に敵なる人を殺せと命令しうるか?

 (え) 《共生》をめざすときにも 自己防衛の意志行為は ゆるされるか? この《自衛》行為の延長(?)として 敵国との戦争は ありうるのか?

 (お) それに参加する人間の意志行為は 有効なのか? おそらく《生きることと共に生きること》を国是ならぬ《人是》とするならば 人殺しはいかなる場合にも 無効である。しかも自己防衛ないし緊急避難の場合は やむを得ざる《無効に対する例外》なのだろうか? (有効になるわけではない)。

 (か) 戦争という手段を取ったとしても それは大きく人間の共同自治における《共生》のための意志行為であると言い得るか?

 (き) だとしたら 戦争に否が応でもおもむいた人びとは 共生のもとに自己が生きることを目指して大きく利己的な行為として・と同時に相互の利己行為として ぞれぞれ自己表現した。か?

 (く) なおわたしは戦後生まれですので ドンパチの体験はないのです。


 § 4 国家としての国を守ることと同胞(腹から)としての国民を守ることと。

 (け) 国家どうしにおいては 互いに主権を主張しますが その国家に先行して市民に主権があります。

 (こ) 家というからには 二階建ての構造になっている。もっぱらの公民が二階に住んでいて 一階の市民たちの思いと考えを代行していると言えるかどうか?

 (さ) たぶんお二階さんのお偉方が決めた戦争であっても 人びと一般は――共同自治であるからには――自分たちが決めたというふうに腹をくくったと思われます。ただし 反対をつらぬくことも 自由だと考えられる。(公理であると見られる)。

 (し) おそらく国家の意志決定を みづからのものと――いやいやながらも――見なした人びとは 論じるなかれ わが愛するはらからを守ると決心したに違いない。
 ★ やはり、自分の国の愛する妻子や尊敬する友人のため、命をもなげうつ覚悟で亡くなっていったのではないでしょうか?

 (せ) けれども 敵なる相手の国にもそういう守るべきいのちは存在する。では なんで――世界の共同自治にとって―― 戦争をせねばならぬか?

 (そ) お二階さんとのあいだにわれわれ市民は きちんとした話し合いが持てていないのではないか? お上が暴走するのか? それとも人びと一般が のんきなのか?

 (た) お二階というからには 初めの平屋建ての市民社会からそこへアマアガリして行ったに違いない。もういっぺんアマクダリしてくるのではないか?

 (ち) もしくは アマクダリして元々の平屋建て市民の心意気において 一階のムラムラとの話し合いをしっかりきちんとつねにおこなうようにするのが よいか? 
 
 (つ) それには わが国一国だけではなく 同時にほかの国々もそのように《二階から一階への大政奉還》が成らなければ実効性に欠ける。か?


 § 5 《敵》なる人間をころすこと及びみづからの命をもってくにびとを守ることは 利他か?

 (て) どうなのでしょう?

 (と) つまり質問者の気持ちは なんで《利他》という言葉を使わなければならないのか? という疑問にあります。せいぜい《相互利益》ではないか?

投稿日時 - 2013-03-03 11:21:52

ブロジェンヌさん こんばんは。

帰宅したら、私の素朴の文章が、このように分解されたことに、哲学の思考方法を教わりました。ありがとうございます。

私的メールでなく、このような場所を借りて投稿することにいささか抵抗がありますが、投稿いたします。

私は、

アダム・スミス 堂目卓生 著 中公新書

を読みまして


アダム・スミスの「道徳感情論」というものにかなり影響を受けております。

 
>○ 思いやりは 利他か?
>(あ) まづ最初から ふたつの問いを持ちます。
>( a ) そもそもわれわれの意志行為は 《利とか利益》を追うものなのか?


アダム・スミスも言ってますが、人は喜びという感情を追い求める。

これが、利といえるのではないでしょうか?

俗くさい表現かもしれませんが、現在の資本主義社会の中で仕事をして、給料日はやはり、うれしいものです。いろいろ方法はあるのかもしれませんが、自分の労働という行為が、お金という目に見えるものになりますから。自分が行為が何かしら社会役に立ち還元されていることも含め喜びを感じます。


>( b ) あるいは自己表現にあらわされようとする主観内容が 《利己》と《利他》との対立する二>項に分けられてしまうものなのか?


ここは難しいです。

アダム・スミスは、自分の感情や行為が他人の目にさらされていることを意識し、他人から是認され、他人から否定されたくないことを願い、心の中に公平で公正な裁判である「胸中の公平な観察者」を提案してます。

本には書いてませんが、私は自身は、利己と利他における中立的なもので、自分を客観視するなどという場合の「客観」がこれに当たるのではないかと考えてます。

どうでしょうか?

投稿日時 - 2013-03-02 20:23:10

お礼

 あめんほてぷさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~
  >( a ) そもそもわれわれの意志行為は 《利とか利益》を追うものなのか?

 アダム・スミスも言ってますが、人は喜びという感情を追い求める。

 これが、利といえるのではないでしょうか?

 俗くさい表現かもしれませんが、現在の資本主義社会の中で仕事をして、給料日はやはり、うれしいものです。いろいろ方法はあるのかもしれませんが、自分の労働という行為が、お金という目に見えるものになりますから。自分が行為が何かしら社会役に立ち還元されていることも含め喜びを感じます。 
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かりました。《よろこび・たのしみ・うれしさ・ここちよさ》をひっくるめて 《利益》ですね。なるほど そういう利己の振る舞いであると。

 ★ ~~~~~
  >( b ) あるいは自己表現にあらわされようとする主観内容が 《利己》と《利他》との対立する二項に分けられてしまうものなのか?


 ここは難しいです。

 アダム・スミスは、自分の感情や行為が他人の目にさらされていることを意識し、他人から是認され、他人から否定されたくないことを願い、心の中に公平で公正な裁判である「胸中の公平な観察者」を提案してます。
 ~~~~~~~~~
 ☆ ええ。 

  ○ 「胸中の公平な観察者( internal impartial spectator )」

 でしたね。《良心》のごとく 主観内面にはたらく判断力などでしょうか。

 それでわたしは このとき――ひとは広い意味での利己をひとつの基礎としつつ―― おそらくその同じ基礎において 〔利己をむやみに否定するというのではなく それをも活かしつつ〕社会における生活としての共生といった要因もはたらくのではないかと考えました。

 ★  本には書いてませんが、私は自身は、利己と利他における中立的なもので、自分を客観視するなどという場合の「客観」がこれに当たるのではないかと考えてます。
 ☆ すなわち
 ★ 利己と利他における中立的なもの
 ☆ として 《同感人》なる出発点を ひとつの人間類型として捉えようとし そのような見方を打ち出したいと思いました。

 ルウソのむしろ純粋な《自然人》では必ずしもなく 《万人が万人に対して狼》だというときの《狼ないし闘争人》でもなく あるいは単純にその《たたかい》の権能をその闘いが起こらないようにどこか社会の高いところの権力に預けるといった社会契約をむすんだという《契約人》でもなくというふうにです。

 

 《利己・利他》に異をとなえたのもそうでしたが 《中立》あるいは《客観》という用語にも 表現のかたちとしては 反論をつけ添えたいと思います。

 人は 広い意味では《利己的な傾き》あるいはそして《自己中心的な物差し》を持っていると考えられます。
 これを《利他》といった他方の極へ振り子を振れ切らせるのではなく あるいは無私なる精神と言ってそれこそがサトリだというまでに抽象的な議論をしたいとは思わず ましてや利己を否定するのでもなくまた《自己中心》をはづしてしまった判断力の中心をどこかに据えるというのでもなく それら利己・自己中心を保ちつつも その利己行動の中身についてけっきょくほかの人の主観によっても一般によきこととして同意が得られるように考える。これだと思います。

 ですから 《主観の共同化》あるいは《利己の共同主観化》あるいは《同感の確認》そしてあるいは《共生なる生活態度の確立》などなどのように言い表わすとよいかと考えます。

 《中立》と言うよりは やはり《利己 / 自己中心》寄りでありましょうし 《客観》と言うよりは《主観の共同化 / 共同主観なる視点》ということではないかと考えます。



 だって 社会生活は 共同生活ではないですか。自分の意志として自分ひとりで そもそもは行動するわけですが その社会行為が互いに関係しあっていないわけはないのですから 自分がよろこぶ行為であるなら ほかの人もその行為に関係しているはずだ。その行為関係ないし人間関係において 互いにじゅうぶんその生活共同の視点を持って 同感を形成しあって行けるものと考えられます。
 《他人の目が見ている》といったことだけでも 同感形成の実際だと考えられます。




 それを 言わば出発点としての《同感人》と呼びました。やはり広い意味では《社会人・社会生活人》のように言っても同じだと思います。


 ○ 同感人とは? ~~~~~~~~~~~

 生活態度における:

 A.出発点(=推進力)  : 同感人
         (互いに同意を形づくり得る関係存在であること)

 B.〔推進の〕踏み出し地点: 同感動態
         (同意成立へ向けての対話交通)

 C.踏み出し(=出発進行=推進):同感された思想の実践
         (同意にもとづく生活の推進)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ A から順番に 思いやり(同感の素)と 思いやりの表明(意志表示)と それをめぐる互いによる同感を経ての実行です。

 この《同感人》なる思考=および行為の形式が 互いに利己を共同主観(≒コモンセンス=常識)において活かして生活しようとする人間だと考えます。
 よって:

 ☆☆(趣旨説明欄) 2. つまり 利他行為は ない。ただの幻想である。のではないか?

 まだちょっと極論すぎましょうか どうでしょうか。

投稿日時 - 2013-03-02 22:13:05

ジャン・ジャク・ルソーやアダム・スミスが言ってますが、人間の本質に憐れみや同情の心があるのではと思ってます。

子どもの頃、描いた夢や理想。

もちろん不屈の精神と努力で手に入れた人もいますが、実際には、現実という困難なものの前で、妥協せざるを得ないことが多い、私です。

しかし、そういう、私であるから、自分の弱さを受け入れ、同じ困難に陥った、境遇の人々に同感を感じ、相手を受け入れ、思いやり(利他)が生まれます。

もし、私が成功していれば、逆に高慢になって、人間の弱さを否定し、人から嫌われても、利己のために突き進む人になってしまったかもしれません。

子どもと思われる方もいらしゃる方も知れませんが、前に進むために、まだ、夢や理想を追いかけ、理想と現実の狭間にゆれる毎日です。

追伸

なにやら投稿が削除されてしまったようですが、この投稿サイトを使い始めたばかりで、不手際があったことをお詫びいたします。

投稿日時 - 2013-03-02 13:42:22

お礼

 あめんほてぷさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 まづ 《追伸》の
 ★ なにやら投稿が削除されてしまったようですが・・・
 ☆ については知らなかったものですから よく分かりませんが 特に問題がないと分かっていても杓子定規で対処される場合があるのかも知れません。お気になさらずに どうぞ。


 さて 全体として・おおむね《思いやり》という主題として捉える観点を打ち出しておられると受け取りました。
 《助け合い》の前段階としてと言いましょうか 重要な要因ですよね。(わたしは 書き落としました)。

 ひとつに この《思いやり》のあとカッコ書きにて《利他》と記されたかたちで 利他に触れておられること。このことについて あとで考えてみたいと思っています。

 もうひとつには 人間の弱さあるいは社会的な弱い立ち場なる視点を導入され 議論を展開されたこと。これは 分かりやすいですし あるいは《シンパシー》なる概念を推し進めるかたちでけっきょく弱い・強いにかかわらず一般的な議論として シンパシーならそこから《あわれみ・同情》を経て基本的には《同感》でしょうか この同感の理論を打ち出されているものと思います。

 スミスに到っては 第三者からの同感を得られるかどうかをコトの良し悪しを判定する基準にするわけですから すでに《感情》から抽象概念をも含む判断を言っているとも思われます。


 こういった理論からながめて
 ★ ~~~~
 子どもの頃、描いた夢や理想。

 もちろん不屈の精神と努力で手に入れた人もいますが、実際には、現実という困難なものの前で、妥協せざるを得ないことが多い、私です。
 ~~~~~~
 ☆ という感慨および理論の行方にかんする思いは 大方の《同感》をさそうものがある。こうわたしも考えます。《手に入れられなくても ゆっくりとした不屈の精神と努力で》一歩一歩日々の生活日常を送る。こういうことに落ち着くのではないかと考えます。



 

 さて あとは 次の問いを取り上げます。

  ○ 思いやりは 利他か?

 そうですね。ここからのわたしの議論は ためにする議論であるかも知れません。極論の提起によって互いの問い求めがよりいっそう進む場合があると思われるからです。

 (あ) まづ最初から ふたつの問いを持ちます。

  ( a ) そもそもわれわれの意志行為は 《利とか利益》を追うものなのか?

  ( b ) あるいは自己表現にあらわされようとする主観内容が 《利己》と《利他》との対立する二項に分けられてしまうものなのか?

 (い) もし利益を追い求めるのが 人間の意志行為であるなら その利益とは 自分のも他人のもあるいは社会の利益をも――そしてあるいは時によっては・人によっては それらにとっての負のものをも――含めた《よきこと(時には あしきこと)》なのではないか?

 (う) 誰かひとりその人だけのために都合のいい主観内容かつその自己表現というものがあるか?

 (え) 何か純粋に自己の利益を省みずほかの人びとのためにのみ自己表現する主観内容はあるのか?

 (お) だから 《利己と利他》という二分思考に何か妥当性や効果があるのか?

 (か) だからワタシ(任意の或る人)のあらわす《思いやり》は 利他のみなのか? 利己という基礎もあってこその他者への心つもりではないのか?

 (き) あるいは 心づもりとしての主観内容とそれを実際にあらわす自己表現とのあいだには まだまだその意志行為が いったいどういう社会的な行為であるのか。これが 定まらないはずだ。

 (く) なぜ定まらないかと言えば 《他者》がいる情況での行為は 自分ひとりの心づもりだけでは成り立たないからである。

 (け) たとえ他愛無い思いやりであっても 相手がいる場合には――相手がいるのだから―― その主観内容は まづ《思いやり》の内容を相手に打ち明けて そのことを相手に向けておこないたいと表明しなければならず しかもそれだけではなく 相手の同意を取りつけなくてはならない。からである。

 (こ) つまり 人の意志行為は 利己であろうと利他であろうと こちらと相手との互いの意思表示によって成り立つ。(合意が出来なければ ご破算になるといった《同感》として 互いの自己表現が互いに受け留められる)。

 (さ) ここであらためて 《思いやり》は 《利他》か?

 (し) 少なくとも分かっていることは こちらの主観内容のみによってその行為は成り立たないということである。

 (す) おそらく相手の同意を取りつけるときに その対等の立ち場の確認において すでに《利己・利他》の区別は消えてしまっているはずである。さもなければ 主人が奴(家つ子)にほどこしをあたえるということのほかではなくなる。

 (せ) 言いかえると 民主制にあっては――たとえアマテラス公民圏の住人としてのお二階さん(公務員)からスサノヲ市民圏の人びとに対する《実際の具体的な思いやり》であったとしても 民主制のもとにおいては―― ただただ人びとが互いに共生していて共生して行くために それぞれがそれぞれの主観内容を持ちつつも その自己表現を互いに提案しつつ《同感》しあうかたちで コトの実施・実行を果たして行く。

 (そ) その共生なる社会に その内容一色の《純粋なる》行為としての利己や利他なる主観表現がありえようか?
 
 (た) 《思いやり》とその対極の《つれなさ・無関心》 これらもみな《社会行為としてのそれぞれ自己表現》であるのではないか? 対極のほうは 負のかたちであるようだけれど。




 このように質問者も 情報交換に参加します。どうでしょう?

投稿日時 - 2013-03-02 15:06:27

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