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解決済みの質問

《信じる》を哲学として定義せよ

 たたき台です。

 ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~
 
   一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ

   神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 
  *1 神: 

  次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。

  *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。

  *1-2 たとえば 次のごとく:

   類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人
   __________________________
  ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン
              (梵我一如)
  ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)
              (無無一如)
  ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)
              (仏仏一如)
  ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)
              (霊霊一如)
  ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)
              (霊霊一如)

  ・・・・・・・・・


  *2 
  
  非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。

  *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。

  *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。

  *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。

  *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。

  *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。

  *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。


  *3 

  対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。

  *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。


  *4 

  神の名: 前項の(1-2)などを参照。

  *5

  シルシ: (2-6)などを参照。


  *6 

  心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?

  *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。

  *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。

  *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。

  *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。

  *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。



           *


  --参考--
  ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~
  (――または ロゴスの階層――) 
  (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――) 
  ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )



  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ       

  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に
        もとづこうとする論理



   * ~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば
   ・スピリトゥス:霊。聖霊
   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)
   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば
   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。
    〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕
   ・ラチオ( ratio ):理性
    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~

 ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~
 
   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)
   ____________________
   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
   ____________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。

 【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

投稿日時 - 2013-05-10 14:43:29

QNo.8081389

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

No.5です。

無限・・・・・たしかにこのように人間の言葉で語っているぶんには 経験域の中にありますが 果たしてその無限の正体は 経験世界に属していましょうか?
==>無限は経験域の中と思います。無限の正体ですが定義から理解するしかありません。数学では無限とか虚数とか 非ユークリッド幾何とか 日常では馴染みのない言葉がでますが 定義はされており全て経験域とおもいます。物理現象の無限については 観測不可というだけです。だから非経験とするのは狭義の理解であって言葉と捉えると経験域となると思います。

【信じる】の議論 ありがとうございました。平行線議論と思い ここで休憩とさせて頂きます。また言いたくなったときは投稿しますのでよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2013-05-11 11:17:47

補足

 ここからさらに前へすすみたい。という意味で BAと思いました。

投稿日時 - 2013-05-29 09:37:36

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 言葉と捉えると経験域となると思います。
 ☆ こんなことは尋ねていません。

 ★ 無限の正体ですが
 ☆ を尋ねています。

 けれども
 ★ 定義から理解するしかありません。
 ☆ というような《理解》の問題を尋ねているのでもありません。


 定義した内容としてのそのモノゴトないしコトガラが 経験現象として人間に観察され得ますか? という問いです。

 ★ 物理現象の無限については 観測不可というだけです。
 ☆ だから どうなんでしょう。《観測不可》は 経験現象なのですか? どうしてそう言えますか?

 あるいはつまり 無限についての定義内容に対応する経験現象は 《観測可能》だとも《不可能》だとも どちらとも言えない。言えるか言えないかが分からない。――こういうことではないのですか?




 おつかれさまでした。
 

投稿日時 - 2013-05-11 12:10:04

ANo.7

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回答(27)

ANo.28

文字化けするかもしれませんが
コピペするために違うサイトから。
どうやら番号が違います。

http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/2Sutta-Pitaka/5Khuddaka-Nikaya/05Suttanipata/4-atthaka-vagga-p.html

841. Idaṃ vadāmiti na tassa hoti (māgandiyāti bhagavā)
Dhammesu niccheyya samuggahitaṃ
Passañca diṭṭhisu anuggahāya
Ajjhattasantiṃ pavinaṃ adassaṃ.


スッタニパータ 837

Ajjhattasantiṃ

ajjhatta 内心の

santi 安らぎ

です。

パーリ語のオンラインの辞書です。

http://palidictionary.appspot.com/

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


937. Etañca dhammamaññāya
Vicinaṃ bhikkhu sadā sato sikkhe,
Santiti nibbutiṃ ñatvā
Sāsane gotamassa nappamajjeyya.

http://awake.kiev.ua/dhamma/tipitaka/2Sutta-Pitaka/5Khuddaka-Nikaya/05Suttanipata/4-atthaka-vagga-p.html

上のサイトだと937


933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

なんだ

nibbutiがsanti

だと書いてあったのか。


涅槃が安らぎ。

地道にパーリ語の勉強をしないとなあ。

投稿日時 - 2013-05-25 06:46:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~
 なんだ

 nibbuti が santi

 だと書いてあったのか。


 涅槃が安らぎ。
 ~~~~~~~


 ▲ Nibbuti  ~~~~~~~
  http://dictionary.buddhistdoor.com/en/word/98331/nibbuti

 (f.) [Sk. nirvṛti, abstr. to nibbuta]
  allayment, refreshment, cooling, peace, happiness

 ▲ santi ~~~~~~
 शान्ति zAnti f. peace [ of mind ]
 शान्ति zAnti m. calmness of mind
 शान्ति zAnti m. rest
 शान्ति zAnti m. alleviation
 ~~~~~~~~~~~~


 ★ ajjhatta 内心の
 ▲ adhi ~~~~~~~~~
 अधि adhi ind. as a prefix to verbs and nouns
 अधि adhi ind. concerning
 अधि adhi ind. from above
 अधि adhi ind. instead of
 अधि adhi ind. expresses above
 अधि adhi ind. from

 ▲ ajjhatta < Skt. adhyaatman ~~~~
 अध्यात्मम् adhyAtmam ind[eclinable](不変化詞).
 concerning self or individual personality
 ▲ aatman ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 आत्मन् Atman m. spirit
 आत्मन् Atman m. soul
 आत्मन् Atman m. individual soul
 आत्मन् Atman m. peculiarity
 आत्मन् Atman m. essence
 आत्मन् Atman m. self
 आत्मन् Atman m. nature
 आत्मन् Atman m. breath
 आत्मन् Atman m. character
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ▲ 933 諸々の煩悩の消滅した状態
 ☆ このような発想は 現実を扱う姿勢であるとは思えないと思います。どうかしていると思います。
 (一方的で断定していますが)。

投稿日時 - 2013-05-25 12:58:24

ANo.27

Suttanipata
(Pali Text)
PTS Version (Andersen/Smith)
https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html



9、マーガンディヤ
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

>それはばかばしい教えである

スッタニパータのパーリ語テキストを見つけたので
スッタニパータを読んでいたのですけれども、

仏典の中でも最古と言われるスッタニパータのさらに、第四章と第五章のうち、
第四章に、マーガンディヤの話があって、

そこで、ゴータマの教えを、ばかばかしい教えといっているのは
なんだか凄いなと思いました。

仏教徒もゴータマの神格化をする一方で、どうしてこの箇所をひたすら残してきたのか?

それから、

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

この、

内心の安らぎ

これは、ニルヴァーナではないんですね。

ニルヴァーナはパーリ語だとニッバーナ。
だけど、ニッバーナでもない。

今まで、安らぎ=ニルヴァーナだとずっと考えてきましたが、
837のパーリ語テキストに、ニルヴァーナもニッバーナも出てこない。

内心の安らぎが、やがて、ニルヴァーナに変化していったのも気になりました。

投稿日時 - 2013-05-24 20:50:47

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 《内心のやすらぎ》を意味する語は どういう語でどんな特徴を持ちましょうか。

 

 ★ ~~~~
 そこで、ゴータマの教えを、ばかばかしい教えといっているのは
 なんだか凄いなと思いました。
 ~~~~~
 ☆ 相手に《ばかばかしい教え》だと言わせてあとでひっくり返すという手が用いられたと考えられる余地はないでしょうか。



 というよりも 言っていることが 分かりづらいようです。



 ▼ 837 『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。
 ☆ これは 分かりにくいと思います。
 これから説くぞというわけのものではなく つまりそういう姿勢でいるのではなく そうではなく 自分の普段のあり方や態度をそのまま表現し 相手に伝えていると言っているかに思えますが それにしても分かりにくいようです。

 ▼ 837 諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
 ☆ 《おれは このコトに執着しているなと知ってこれを自覚し そのぶん執着から離れ では何故そのコトに自分はこだわるのかと省察しつつ》までは それとして分かります。
 そのあとすぐ続けて 《内心のやすらぎをわたくしは見た》と言います。
 《見た》だけなのだから 何らかの理念のようなまたイメージのような直感を得たというのであろうか。つまり ただそれだけのことを言おうとしているのであろうか。

 もしくは 直感を得たゆえ そのことの自覚において中身の説明しうる直観としても持ち得たというのであるか。
 
 けれども もしこの後者だとすると その《中身の説明》については まづ 無いということではないでしょうか。外郭のことで説明しようとすることはあっても 中身を明らかにしたことは 一度も ないのではないだろうか。





 いやあ だからこそ 《信仰》なんですよと 言い返して来たなら どうか。
 信仰とは何ぞいや? とさらに問い返すでしょうね。

 これについても一切明らかにしていないはずです。
 神通力が得られるといった要素で指し示されるのかも知れません。
 では 神通力とは何ぞや? という問い返しがなされます。
 ・・・・・
 つまり 外郭についての説明はあっても 中身を明らかにすることは一切なかった。のではないでしょうか。

投稿日時 - 2013-05-24 21:33:04

ANo.26

>なんでこの話になったのかな。

しるか・・



>この事件のあと へたなことは出来なくなった・・

あ~
それは きっと
直観 っていう闇の主(あるじ)が
ゴジラは暴れちゃいけません って
言ってくれたんだろう



ってな感じで
まあ
打ち合って 両者ともにヘトヘト 
ダウン寸前だ
いや 
もうダウンしちゃってるみたいだ

リングの外から

ジョー 立て!
立つんだ ジョー!
打つんだ ジョー!
って聞こえてくる

かすかに・・ (耳が遠いんで )

そろそろ
最後のカウンターパンチを操りだそう
これ一発で 天国に送ってあげよう
安らかに眠れ・・

(おれも そろそろ眠るから・・ )









持つことに感謝できる信心が 本当の信心なんでしょうね・・
一生持ちつづけられる信心 というものは
そんな気がしてならない

神でも仏でも おんなじ じゃないかな

得た というよりも 授かった という思いがなければ続かない
いただいたものは そう簡単には捨てられない から

信心の重み ってそんなところに きっとあるんでしょうね・・






まあ
そんなところで いいかな ・・先生
えっ
まだ やるの・・
もう 勘弁してよ
う うでが上がんないよ・・

えっ
何っ
今度はキック・・だって

よせやい

年寄にキックなんて できるわけないだろ・・


(ヒック )
(あ~ )
(キックじゃなくて シャックリがでちゃった・・ )


お粗末
ごめん・・

もう書かないよ。

投稿日時 - 2013-05-16 20:54:01

お礼

 ★ ~~~~
 持つことに感謝できる信心が 本当の信心なんでしょうね・・
 一生持ちつづけられる信心 というものは
 そんな気がしてならない
 ~~~~~~
 ☆ そんなこと しるかぁ。

 信仰は ナゾの何ものかがあたえたというだけのこと。
 おれさまは しるもんか。

 ただただ いまのおれさまのそのときその場で相手を相手として考えるところを生きるのみ。
 《感謝》だって?

 感謝することそのことも あたえられるんだから。

 ★ 一生持ちつづけられる信心
 ☆ 何言ってんだい。あるのは いまのみ。いま・ここなるわれのみ。ぢゃわい。

 一生がどうのとのんきなことを言ってらぁ。




 お礼を書かないから つづきはいいよ。

投稿日時 - 2013-05-16 21:21:32

ANo.25

どうやら先生は
直観を ヒラメキ限定版というふうに思っているらしい
あ~ ちがうでっしゃろ ろ ろ ろ

目には目の直観があり
耳には耳の直観があり
指には指の直観があり
鼻には鼻の直観があり あり あり

感覚というやつは直観だらけだ
切り離せない
感性というやつは 感覚器官だけじゃない
感覚と同時にはたらいている直観と それを認める意志も含めた全体だ って

急な暗闇の中でも 意志と直観ははたらいている
明瞭な意志と直観の深まりは 突きぬけてゆく・・・
なんだよね
フルスピードだ
何をやっているのかというと
脳みその隅から隅まで探しまくっている
一二分は長い・・

直観は 感覚に付随しながらも それ自体単独でもはたらいている
フリーな直観が捉えたものがヒラメキだ



あ~
何べん いわせるんだろ・・
やだ
しつこい




(古い冗談をリクエスト・・ )


ゴジラの直観
なんか切ない 
泣ける

ガオーッ!

おおっ
こわ・・

投稿日時 - 2013-05-15 21:54:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~
 急な暗闇の中でも 意志と直観ははたらいている
 明瞭な意志と直観の深まりは 突きぬけてゆく・・・
 なんだよね
 ~~~~~~
 ☆ これだとすると これはなかった。《意志》はまだ ポカンとしていた。
 《直観》は もし《遥か彼方まで突き抜けていたと感じた》その感覚のことだとすれば あった。


 ★ ~~~~
 フルスピードだ
 何をやっているのかというと
 脳みその隅から隅まで探しまくっている
 一二分は長い・・
 ~~~~~~
 ☆ いや。このような動きはなかった。
 《一二分》というのは まぁ 感じとしてですね。測ったわけではなく そしてそれほど短い時間でもなかったから。



 ★ ~~~~~
 直観は 感覚に付随しながらも それ自体単独でもはたらいている
 フリーな直観が捉えたものがヒラメキだ
 ~~~~~~~
 ☆ そのとおりだとしても そのヒラメキが起きたとは思わない。そういう事態ではなかったのではないか。
 ただし では何かと問えば 一般にヒラメキのたぐいだとは思う。ほかに呼び名はないと思う。

 あぁ だから ヒラメキからそのとき得られる何かを除けば それが起きたことです。




 もんだいは この事件のあと へたなことは出来なくなったなと思ったこと。ビフォーとアフターの違いはと言えば さしづめそれが 顕著な出来事だったのではないか。


 なんでこの話になったのかな。

投稿日時 - 2013-05-15 22:57:42

ANo.24

>或る日 (或る夜) 寝る前に・・
>或る日 (或る夜) 寝る前に・・



い~ ですね
なんともいえない
調べというか 
風情というか
唱えたくなる・・

神様が いらっしゃった

つづけたくなる



(まあ 感覚の遮断による直観の解放が起きたんだろう)
(おそらく それまでにも度々あったのかもしれない)
(ただ その時だけはちょっと違っていた んでしょう)
(・という 岡目八目)

(だとすると )
(自分は何を信じているのだろう? という疑いがあったはずだ )
(直観に聞いてみたのかな )
(どこまでも突き抜けていったものとは直観だったはずだ )
(これでいい というものが見つかったのかな・・ )
(無師独悟の了解とは 自らの意志との契りみたいなもんだ )
(と   おれも口が悪くなった な・・ )



(先生が悪いんだ 先生が・・ )
(いつまでも )
(引き止めて )
(しゃべらせて・・ )







さら さら さら

さら さら さら

さら さら さら



風が吹く



Bさん
どこへ行ったんだい
あれほど
理屈屋だった Bさんは どこへ


さら さら さら

さら さら さら

さら さら さら



風が吹く


お~い Bさん
どこへ行ったんだい
ゴジラの ぬいぐるみ を持っていこうか
聞こえるか~


さ -

じゃ -

さ -

ピシャ

ピシャ ッ

雨が降る



なんだ
いたのか~
こんなところで 雨宿り

放っておけよと
一人で 雨宿り

濡れた おいずる 背にかけて
口をつぐんで 雨宿り
杖でたたくは 土の音

ふう~

足止めも ほとけの道
さっさと行くも ほとけの道


じゃ
行くよ・・

投稿日時 - 2013-05-14 22:06:12

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。(さらにあらたな質問へもすすみます)。

 ★ (まあ 感覚の遮断による直観の解放が起きたんだろう)
 ☆ この《感覚の遮断》というのは 分からない。たぶん違うと思う。感覚は 遥か彼方まで突き抜けていたというような感じでしたから。

 ★ (おそらく それまでにも度々あったのかもしれない)
 ☆ いえ。あとにも先にも そのとき一回きりです。

 ★ ~~~~~
 (だとすると )
 (自分は何を信じているのだろう? という疑いがあったはずだ )
 ~~~~~~~
 ☆ いや。意味のある言葉は そのとき――もしくは 感覚的に言ってしばしのあいだ――思い浮かばなかった。
 感覚がするどくなっていながら きょとんとしていたかも知れない。
 そうですね。ふと 《真理》という言葉は浮かんだかも知れない。

 そして この体験を《信じる》の事例だと捉えて行ったのは もっとあとです。(ただし いまおこなっているような理論化はまだしていなかった)。



 ★ (どこまでも突き抜けていったものとは直観だったはずだ )
 ☆ いや。感覚。
 夏の夜で 窓から夜空が見えたのだけど その感じとしては 《宇宙》というようなイメージの広がりも浮かんだかも知れない。でも おぼろ。
 いづれにせよ 《直観》というような何かのヒラメキではなかった。





 風と雨か。

投稿日時 - 2013-05-14 23:21:57

ANo.23

こんばんは、Ano.11です。


>「けれども《信じる》という人間の行為とは どういうことか? 
 この問いは 別です。

 よくお考えくださいな。」

母乳ですね。

投稿日時 - 2013-05-14 00:25:44

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 母乳ですね。
 ☆ 《聖なる甘え》とわたしは呼んでいます。

投稿日時 - 2013-05-14 05:56:26

ANo.22

あんま
か・・
肩はこっていないんだけど・・


あ~~
終わんないじゃないか
先生・・

かっこよく終わそうと思っていたのに
また・・




>その後一二分

このへんの描写は 珍しく感覚的だ
意志の裏側へと駆けていったもの とは何だろう
一二分は長い
気の早いBさんにしては長い印象を受けてしまう
その内面時間の一二分は たぶん 実時間ではいくらもなかったはずだ
意志の集中の一二分感覚ではなかったか
意志の了解に必要な時間だったんじゃないかと
意志の全てに照らして間違ってはいない という了解を求めた時間だったんだろう

はっきりいうと
それは 始めはヒラメキではなかったと思うし
意志がヒラメキを待つ時間だったのかもしれない
それほど集中していたんだと思う
その集中をもたらしたものとは何だったんだろう
指が動くね・・
言葉だけでそこへ行ったんだろうか
仮に言葉だったとしても 書物の言葉のみだったんだろうか
それとも 人の口からでた生きた言葉だったんだろうか
珍しく Bさんにしては 意味深な発言のような気がする
まあ
そんなところで・・いいんだろうけどね


まあ
自分なんかも いい加減なところがあって
ホトケの方なのに 十字架なんて言ったりしてる
でも 信じることにおいての本質は変わらないんじゃないかと思う
自分の場合の確定は 生きた言葉だった
そのへんも まあ やっぱり言いずらい 本音だ

黙という契りの意
分かっているなら何も言うことはない
信心の誕生という契りの体験は語ることではないんだから・・




あまり 疲れさせないでくれ
年なんだから・・
たのむ

投稿日時 - 2013-05-13 23:55:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 いや。或る日(或る夜)寝る前に 電気を消したあと そのことが起きた。


 そのときまでに 《信じるとは何か》を考えて二三週間ほど経っていた。

 夜中消灯してまだ横になる前に 起きた。

 意識がなくなったのではなく しかも感覚としての見通し(?)がどこまでも突き抜けているようだったから ふと思いも考えも立ち止まっていた。

 そしてそのあと―― 一二分してからという感じで―― あぁ いままで《信じる》とは何かを考えていたんだっけと思い直し これについて確認した。

 《ことば》はない。お告げも 何らかの説明も。

投稿日時 - 2013-05-14 05:53:48

ANo.21

追伸



神の愛は いくら言葉を聞いても分からない
手の掌の十字架を握りしめる時 それは与えられる
不完全という形で与えられる



信心は感性の了解なしには成立しない
感性による不完全な了解が 信心の誕生である
意志が自らを託すものを認めた瞬間が 信心の誕生である
信じるとは 意志が感性を信じることである
一つの意志が 一つの感性を信じることである
我が身の感性が それをおいた他には意志の拠り所がないと知ることである



信心とは 手に小さな十字架を持つことである
小さな みしるし を手離さないことである
飾ることなく 手離さないことである

投稿日時 - 2013-05-13 21:43:46

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ううん。別に間違いっていうのぢゃないであろうけれど
 ★ 手の掌の十字架
 ☆ は あんまし。・・・




 ★ 意志が自らを託すものを認めた瞬間が 信心の誕生である
 ☆ これはですね。どこまで一般的であるか分からないただのわたしの体験ですが:

   ○ ナゾを受け留め受け容れたと思った瞬間 
    そのナゾに意志がみづからをゆだねているのを見届けた。

 そして 感覚としては それこそ遥かかなたにまでその感覚が突き抜けて行っているというようなものだった。

 これが 《信じる》ということかと見止めたのは その後一二分してからだった。

投稿日時 - 2013-05-13 22:17:27

ANo.20

>隣の鐘を撞いていますよと言っているのです。

 ほう、なるほど。鐘が小さくて、よほど狙い澄まさなきゃ、あたりもしないってわけですか。これはつまり、ぶらじゅろんぬ流の定義は狭い範囲にしか適応できないもので、応用性がないし、将来的に応用性を持たなくても良い、と認めたのと同じことですね。明確なお答え、どうもありがとうございました。最初からそう書いてくれれば、わざわざ訪問しないのですが、応用性のある、つまりは普遍的な定義を求めているのではないかと勘違いしたもので、顔を出してしまいました。私はお遊びの邪魔はもうしませんよ。では。

投稿日時 - 2013-05-13 19:48:31

お礼

 ほんとうのことを明らかにするのは ばつがわるいでしょうから このまま

 まけてあげましょう。


 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2013-05-13 19:57:14

ANo.19

>どうしてその手続きをはづして あさってのほうから 前提以前の話をむしかえすのか。趣旨説明をよく読めと言って 追い返されても それが ふつうにていねいな応答になるはずの事例です。

 何か応答態度の問題になっているので、中身はさておき(突っ込みどころはいくらでもあるが)、こっちの方に答えて終えますよ。それは普遍的な真理を求めているからじゃあないかな。出来の悪いものを呈示すれば、そもそも論になって、ひっくり返される。それは当たり前の事でしょう。ひっくり返しにかかる側も、相手がアウフヘーベンできるだろうと信頼しているので、遠慮なくやる。そんなに阿鼻叫喚するほどの問題とは思えない。何をそんなにカリカリしてるんですか。

 まあ、あなたの感受性や考えと私のそれは合わないらしい。それを承知した上で、私の方は合わないなりに面白く話したいと思っていたし、あなたも同じだと思っていたんだが、違ったらしい。大きくつけば大きく鳴る鐘だとかなんとか言っていたが、あなたを買い被っていたらしいな。私が休んでいた数週間で、すっかり、あなたは変わってしまった。まあ、人間、虫の居所の悪い時はあるかもしれないな。私の方も仕事があるから、それに専念せよと神様が言っているのかもしれない。お暇しますよ。

投稿日時 - 2013-05-13 10:19:16

お礼

 ★ 大きくつけば大きく鳴る鐘だとかなんとか言っていたが、あなたを買い被っていたらしいな。
 ☆ どこが? 

  隣の鐘を撞いていますよと言っているのです。

 おととい来てください。

 ご回答をありがとうございます。


 (つまり はじめからわたしは知っていたという意味です)。

投稿日時 - 2013-05-13 11:02:43

ANo.18

 歓迎されるかと思ったのですが、どうも初回から雲行きが怪しいですね。印象批評だから答えたくない。私が批判を行っていて、それをはねのける。いやね、もう少し楽しく話せないものですか。私ならもう少しうまく捌くけれどな。

>一般的な言語習慣に準じた既成の事情がある。と言ってよいでしょう。
> このような言語習慣における具体的な事情 このことが定義の前提となっている。

 私は今重要なことに気がつきましたよ。Bさんの言う神は、言語と密な関わりを持っているということです。これはたまげた。ロゴスと書いていたが、Bさんの神は言語と言っても差し支えないくらいなのかもしれない。これは驚くべきことですよ。
 いや念のために行っておくと、私を含めて一般的には、神は人とかモノと同じような客体だと考えている。だから絵を眺めるのと同じように、皆で信仰できるものだと思っている。その証拠に、宗教団体がある。神は客観的な存在である。
 しかしBさんの場合は言葉である。もともとが主観的なものであって、共有などそもそもできない。 だからこそ、あくまで神と個人のやり取りだ。これは特殊だなあ。うん、Bさんの言うことの謎が解けました。

> 理論からすれば 誰もが《広義の神を信じている》となります。あとは 自覚の問題になりましょう。自覚の以前においても 言語習慣の中に生活している という事情です。それが 現実だと見なして差し支えないという問題です。

 確かにそういう理屈になるけれど、またこれは極端だなあ。言葉を使うとき、神がいるというわけですか。うーん。新しい宗教だ。となると、言葉の使いようによっては、神を貶めているということになるのかな。文法ミスを連打するとか、汚い言葉を使うとかをすると、神に背いていることになるんだろうか。
 
>つまりぎゃくに尋ねるなら どうしてこの《信じる》の定義に際して
 ★ ジャンヌ・ダルク
 ☆ などを例に持ち出すのか。その《事情》が分かりません。(むろん それは 例外なのではなく 定義の内容に含まれる場合ですが)。

 いわゆる天啓が下った有名な事例です。ルルドの水でもいいです。

> (つまり 何か特別のそして周知の信仰形態でなければ 《信じる》の定義にはかかわらないというような特殊な発想をしていませんか?

 さて、何を言っているのかよくわかりませんね。私が特殊な偏見に捉われていると言いたいらしいですけれども。次が説明でしょうか。

> ★ 土台経験が違うから、言っていることが食い違って当然ではある。
 ☆ この発想がどこから来るのか。違うはずです。はっきり言えば 定義にあたって 余分なことをつけ加えようというような発想ではないかと考えます。もしくは 有名な人や信仰形態のばあいでなければ 信仰とは呼べないとでも見なしているような発想がうかがえます。これは ここでの定義には摂らない発想です)。

 ここでの定義には摂らないって、なあ。そう言われたら、議論する意味がないね。定義って、そういうものじゃないですよ。例えば「ぶらじゅろんぬにとって信じるとはどういうことか?」というテーマなら、私の物言いは間違っているでしょう。想定外の意見をぶつけて、あなたの集中をかき乱していることになるのだから。しかし問いを読むと、ここでは一般的に広く、神を信じるとはどういうことかと聞いている。であれば、私がこんな風に答えてもよろしいはずです。定義の出来不出来は、対応できない事例が多いか少ないかで決まります。あまり応用力がない定義みたいですね。

> ★ ~~~~~
   ・教祖のアウラはその弟子に伝わり、現代にまで継続されているか否か、についてお考えを聞かせてください。
 ~~~~~~~~
 ☆ すでに述べましたように このような・《信じる》に到る過程および実際に信じるときの事情内容については 定義の捉えようとする抽象的にして一般的な要素要因からははづれると見做しますので そのような事情があってもよいし別の事情であってもよいという考えです。 ちなみに そのような《アウラ》は わたしの考えでは まったくどうでもよい。こうなります。理由はかんたんです。アウラは 経験事象( Y )であり 神( X )ではない。からです。

 そうね、経験事象ですよ。しかし、それを興味が無いという言い方ではねのけるわけですね。これもこう言われた終わりという感じですね。どうぞ他にご意見が合う方とお話しください。しかし繰り返すと、定義の出来不出来は、例外が少ないことで決まります。自分と違う意見を持つ人が来たら、普通はウェルカムのはずなんですけれどもねえ。ともかくご自分の見解を伝えることにあっぷあっぷで、私のような他者と議論をする余裕はないのかもしれません。

 まあ、私のような凡人はサーヴィス精神が乏しいので、今回のところは去らせてもらいますよ。ともかくBさんの「神」の片鱗が分かったし、謎が解けただけで収穫はありましたから。どうもありがとう。

投稿日時 - 2013-05-13 07:14:58

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ロゴスと書いていたが、Bさんの神は言語と言っても差し支えないくらいなのかもしれない。これは驚くべきことですよ。
 ☆ 神の場合には《ことば》は その神の名のシルシとして介在させるものであり それとしての役割を果たすのみです。

 《言葉》はすべて 経験事象( Y )です。これが 神( X )そのものだという謂われはいっさいありません。


 つまりほとんどすべての説明を 少しずらして 別の意味合いや主題のほうに持って行く。これが しばしば見られます。
 そのことに気づくことを俟っています。


 ★ ~~~~
  いや念のために行っておくと、私を含めて一般的には、神は人とかモノと同じような客体だと考えている。だから絵を眺めるのと同じように、皆で信仰できるものだと思っている。その証拠に、宗教団体がある。神は客観的な存在である。
 ~~~~~~
 ☆ これは《信じる》ではあり得ません。経験事物や経験事象については ひとは考える(感じるをふくむ)のです。


 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~
 *2 
  
  非経験の場 X : 

  *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。

  *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この内容を批判するかたちで述べるのでなければ かみ合いません。

 ★ 一般的には、神は人とかモノと同じような客体だと考えている。
 ☆ これについては ok9608 さんとのやり取りがあります。回答No.1&5&7。

 すなわち《無限》は それ自体は《言葉》ですが その意味内容は 《二で割っても三で割っても その商がやはり無限である》ようなものです。これはナゾです。

 つまりこのナゾは 経験事象にはありません。(精確には 経験事象にあるかどうかが 分かるとも分からないとも人間の能力によっては言えない です)。

 このような《非経験の場 X 》は そのように言語習慣があるかぎり 誰もがカカワリを持っています。そうしてこの無限を内容とする神については 哲学がふつうに定義しておくべき言葉です。したがって そこから出発しているのであって その出発したあとでふたたび《信じる神》には 《経験事物や経験事象 Y 》も入っていますよと言いだされても 応答に困ります。そうではありませんと答えるのみです。



 だからと言って 次のように振り子を別の極へと振り切らせるのは たたき台の説明内容とは違っています。
 ★ ~~~~
 しかしBさんの場合は言葉である。もともとが主観的なものであって、共有などそもそもできない。 だからこそ、あくまで神と個人のやり取りだ。これは特殊だなあ。うん、Bさんの言うことの謎が解けました。
 ~~~~~~
 ☆ 《神を信じる》主体は 個人としての人間であり それのみだというとき だからと言って この信仰というものが おのおのバラバラになっているかと言えば そうだと断じるのは 早合点というものです。

 たしかにたとえばアミターバ・ブッダという同じ名の神を信じていると言ったとしても その内実は そのふたりの人たちにかんして 同じであるかどうかは分かりません。
 けれども その《信じる》という人間の行為については たとえほかのマハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)という異なる名の神であっても 《類型》としては 同じかたちが見て取れる。このことを問うている理論です。

 再掲はしませんが 《趣旨説明欄》の 《*1-2》です。 

 ですから
 ★ もともとが主観的なものであって、共有などそもそもできない。
 ☆ このように言い放ってしまうというのは 微妙なのです。人間はその存在としてまた自然本性として 共通の要素要因がある。ゆえに 《神ないし信じる》という行為にも 互いに共通の中身が見て取れる。という問題を扱わなければ 定義するということ自体が ほとんど無意味となります。

 ★ だからこそ、あくまで神と個人のやり取りだ。これは特殊だなあ。
 ☆ ここも ずらしていましょう。同じ内容を持って 別の主題の別の視点からながめ捉えるかたちへと移行させているのです。

 《あくまで神と個人とのやり取りだ》のその命題そのものの中に この《神と人とのかかわり》には 人びとに共通の行為類型が見て取れる。こういって理論を提出しているというその視点から どうにかして逸れて行こうという魂胆が垣間見られます。



 ★ 言葉を使うとき、神がいるというわけですか。
 ☆ これも 勝手に自分の視点へと連れ込もうとしている事例です。いつ・どこでこのたたき台が《神がいる》というかたちで 理論内容を述べていますか? 先ほどかかげた《趣旨説明欄 *2-2》を見てください。


 ★ 文法ミスを連打するとか、汚い言葉を使うとかをすると、神に背いていることになるんだろうか。
 ☆ 知って言ってんのか知らないでか知りませんが 
 ☆☆(*2-1) 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。
 ☆ であれば・であるのだから 人が神について何を言おうとどう罵倒しようと それは神にとっては屁とも思えないことがらです。次元がちがいます。



 ★ いわゆる天啓が下った有名な事例です。ルルドの水でもいいです。
 ☆ ぢゃあ おおしえしましょう。《信じる》が成る場合は すべて《天啓》です。人間の意志や知識や知恵を超えているところから起きるしかも人間の主観内面にかかわる出来事だということです。その根拠は――論理のみですが―― 《*2-1 や *2-2》です。天啓というのは ナゾのおとづれという意味です)。

 このジャンヌダルクを取り上げるのは何故かという問いが
 ☆☆ (つまり 何か特別のそして周知の信仰形態でなければ 《信じる》の定義にはかかわらないというような特殊な発想をしていませんか?
 ☆ なる問いと同じ意味内容です。


 神についてそれが
 ★ そうね、経験事象ですよ。しかし、それを興味が無いという言い方ではねのけるわけですね。
 ☆ はねのける以前だという意味です。
 つまり 例によって鰯の頭の信心とひとしいと言って 批判済みとなるしろものです。


 《神とは何か?》――経験事象ではない。しかも人間の《精神》ではあり得ない。こういう前提となる議論を経て来て いままた同じ議論をどうしてつづけなければならないか。 
 ok9608 さんとのやり取りを見ていなかったとしても 趣旨説明欄にはその前提事項が なお重ねてしるされています。
 ですから どうしても《経験事象も 神として 人に信じられる》のだという回答内容であれば その趣旨説明の事項について 具体的にそれに対する批判として述べるのが きわめてふつうの回答です。

 どうしてその手続きをはづして あさってのほうから 前提以前の話をむしかえすのか。趣旨説明をよく読めと言って 追い返されても それが ふつうにていねいな応答になるはずの事例です。
 知ってか知らずか 手間暇をわざとかけさせるための タメにする振る舞いだとうたがわれても仕方ないでしょう。ただし 一度目の投稿にかんしては 注意を喚起するという控え目の態度で臨んだ。こういうことです。この二度目は 常軌を逸脱した回答態度だと言わざるを得ません。

 知らなかったのなら いま知らせます。

投稿日時 - 2013-05-13 09:33:36

ANo.17

 こんにちは。私の好きな定義をやってらっしゃる。ありがたいことです。しかし、感想を言うと、よくわからないですね。叩き台は叩き台として、よく書いてあると思いますよ。細かいところで揚げ足もとれるでしょうが、まあ、それはどうでもよい。しかし、信じるとは何かが主題でしょう。そこから、私だったらどういうプロセスで信じるということをするかなと考えてみたのです。すると、何か違う気がするんですよね。私の印象では、Bさんの意見は、頭でっかちだという気がする。

 イデアと同じ。これはわかりやすかった。しかし見たこともないもののイデアなんて、そうそうわかるものですかね。机や鉛筆のイデアは分かりやすい。使ったことがあり、観察もできるからです。馬だとか動物のイデアは、動物に関連した仕事じゃないから容易には分からない。でも、動物園に行って観察すればいいとか、おそらくは獣医みたいに解剖したりすれば、次第にわかってくるだろうなという気がする。しかし神となると、何をどうすれば良いのかが見当がつかない。こうした神の特殊性について触れていない気がするんですが、どうでしょうか。だから頭でっかちだという気がする。
 
 ちなみに私なら、イエスのイデアを考えようという時は、キリスト教徒の方の雰囲気を考えますね。というのも、次のように考えるからです。
 ・神=教祖が弟子を薫陶する。
 ・その弟子が次世代の弟子を薫陶する。
 ・これが続く。
 ・現代で弟子の末裔が、始祖のアウラを継承している。
 ・私を薫陶する。
 かくして、現代の信徒がもっている薫陶の片鱗を辿っていけば、教祖のアウラというものが伺い知れると私は思うのです。いや、「思う」のであって論証はできませんよ。論証するためには、イエスの雰囲気と、現代のその弟子らの雰囲気を比較しないとならない。それはできない相談です。あくまで私の考えです。ただし、教祖というものを考えるにあたって、具体的なアイディアを出しているとは思います。

 まあ、あまり気に入らないでしょうね。というのも、ここにはスピリトゥスの話はないのだから。それに宗教団体は無用だとか言っていましたっけ。つまり始祖のアウラを集団で継承するという考えには反対なのかもしれない。あくまで神と個人の対話を中心に信仰を構想しているのでしょう。そこで話は平行線になるかもしれませんね。
 まあこれは仕方がない。というのも、私には、神は訪れてきていないようです。いろいろと神に祈ることもあるけれども、ジャンヌ・ダルクみたいなお告げは受けていません。Bさんは確か、千人に一人もいない人のことを語っていると言っていましたね。土台経験が違うから、言っていることが食い違って当然ではある。
 そういうわけで、予め水掛け論にならないように予防線を張ることにしたのだけれど、もしよかったら、
 ・教祖のアウラはその弟子に伝わり、現代にまで継続されているか否か、
についてお考えを聞かせてください。理由も欲しい。これを否定できれば、団体で信仰することの意義を否定する重要な根拠になるように思いますよ。

 私が質問しちゃったけれど、Bさんの欄では、別に悪いことではないでしょう。

投稿日時 - 2013-05-13 03:20:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~
 私だったらどういうプロセスで信じるということをするかなと考えてみたのです。すると、何か違う気がするんですよね
 ・・・
 しかし見たこともないもののイデアなんて、そうそうわかるものですかね。
 ~~~~~~
 ☆ 《頭でっかち》という批評は そのままではまだ印象批評にとどまると考えます。応答しません。
 で まづこの部分ですが それには 次のような事情が――趣旨背説明欄では触れませんでしたが――しっかり・はっきりとあります。


 《神》もしくは《信じる》にかんしては それらの定義の問題を取り上げるにあたっては ひとつの事情として現実の言語習慣があるというところから出発しているという点です。

 すでに生活日常において使われているという事態のことです。
 であれば そのまま人びとはその習慣の中ですでに《どういうプロセスで信じるようになるか》は――人それぞれでしょうが―― なじんでいるということです。

 仮りに《イデア》という語を取り上げてそれを《神》とし《信じる》というような場合であっても――このような場合は 少ないでしょうが 発言したいと思っている人としては多いでしょう―― 一般的な言語習慣に準じた既成の事情がある。と言ってよいでしょう。
 もしそれが《見たこともないもの》にかかわりその点で《どういうプロセスで信じるに到るか》があきらかではないとしても それ相応の現実の事情というものはあるはずです。たとえその事情は《頭でっかち》に発しているとしてもです。


 ですから 言えることは このような言語習慣における具体的な事情 このことが定義の前提となっている。こういうかっこうです。
 それについては いっさい触れませんでしたが そして実際にはその事情は 人それぞれであって必ずしも同じような内容ではないと思われますが それにしても《広義の神》を心にいだくようになるというその過程は 現実と呼応している。こう言えるはずです。

 よって 次のご指摘は 批判としてはあたらない。と考えます。
 ★ しかし神となると、何をどうすれば良いのかが見当がつかない。こうした神の特殊性について触れていない気がするんですが、どうでしょうか。だから頭でっかちだという気がする。
 ☆ すでにその《特殊性》を難なく乗り越えて 人びとは心に抱く(あるいはぎゃくに はねのけるかたちでかかわりを確認する)ことを たとえ頭でっかちな事情においてさえも おこなっている。こう捉えられるからです。


 すなわち・つまり まさに
 ★ かくして、現代の信徒がもっている薫陶の片鱗を辿っていけば、教祖のアウラというものが伺い知れると私は思うのです。
 ☆ というのも ひとつの具体的な事情の中身を形成しています。というものです。

 これらの事情を土壌とし出発点としつつも ここの定義ではいっさい触れていない。こういう出で立ちです。



 それとこの《信じる》の定義にかんしては
 ★ あくまで神と個人の対話を中心に信仰を構想しているのでしょう。
 ☆ ということになります。

 《集団で〈信じる〉》という事態は ほんとうには あり得ません。
 オシエを共有することはあっても それは考えることです。思いが多少つよかったりする場合に過ぎません。《信じる》ではあり得ません。

 つまり そのことも この定義の問題です。その問題は 【Q:・・・神とは何か】のほうがすでに担当していると言っても 説明責任をのがれようとすることではないと考えます。《信じる》は《神 X 》についてしか用いられません。



 ★ Bさんは確か、千人に一人もいない人のことを語っていると言っていましたね。
 ☆ これは 事情がちがいます。たとえ《千人に一人》であっても一向にかまわないという返答をおこなったというだけの意味です。

 理論からすれば 誰もが《広義の神を信じている》となります。
 あとは 自覚の問題になりましょう。自覚の以前においても 言語習慣の中に生活している という事情です。それが 現実だと見なして差し支えないという問題です。


 つまりぎゃくに尋ねるなら どうしてこの《信じる》の定義に際して
 ★ ジャンヌ・ダルク
 ☆ などを例に持ち出すのか。その《事情》が分かりません。(むろん それは 例外なのではなく 定義の内容に含まれる場合ですが)。
 (つまり 何か特別のそして周知の信仰形態でなければ 《信じる》の定義にはかかわらないというような特殊な発想をしていませんか?
 ★ 土台経験が違うから、言っていることが食い違って当然ではある。
 ☆ この発想がどこから来るのか。違うはずです。はっきり言えば 定義にあたって 余分なことをつけ加えようというような発想ではないかと考えます。もしくは 有名な人や信仰形態のばあいでなければ 信仰とは呼べないとでも見なしているような発想がうかがえます。これは ここでの定義には摂らない発想です)。




 ★ ~~~~~
   ・教祖のアウラはその弟子に伝わり、現代にまで継続されているか否か、

 についてお考えを聞かせてください。
 ~~~~~~~~
 ☆ すでに述べましたように このような・《信じる》に到る過程および実際に信じるときの事情内容については 定義の捉えようとする抽象的にして一般的な要素要因からははづれると見做しますので そのような事情があってもよいし別の事情であってもよいという考えです。

 ちなみに そのような《アウラ》は わたしの考えでは まったくどうでもよい。こうなります。理由はかんたんです。アウラは 経験事象( Y )であり 神( X )ではない。からです。

 したがって
 ★ 団体で信仰すること
 ☆ は――まだ《アウラ》にかんするかぎりという条件がつくかも知れませんが―― 文学上の修辞でなければ 現実と対応することはないと考えます。それにしても 《組織》立っていたとしても《集団》が 《信じる》の行為主体であるというのは いつわりです。

投稿日時 - 2013-05-13 06:17:35

ANo.16

昔は 
職人は
ケガと弁当は自分持ち
だった

今は
労災もあれば
親方がコンビニで弁当を買ってくれることもある
たいしたもんだ
いろんな機械もあるから
苦労がない
まあ
それが普通なんだろうけど
なんというかな
手を使わなくなった
名人といわれた人にいわれたけど
手でさわれ
さわんなくちゃ分からない
といわれた

頭だけじゃダメだ
ということらしい
感性系の仕事は特にそうなんだろう


>神に向き合って 自力という言葉は 無用です。

向こうからやってくるものを大切にしろ
ということなんだろう
感性系の仕事もそうだ
自然と向こうから話かけてくる
そうならないといい仕事はできない
だんだんと
だんだんと
やってくるものが変わってくる
神品という意味が分かってくる

おれは何をやってんだろ
と思うようになる
そう思うようになって いいものが作れるようになってくる
自然といいものが作れるようになってくる
しまいには 自分が作っているという気がしなくなる
そのへんが境目というか
余計な力がいらなくなってくる
外からは 巧みな技のように見えるが
実際は違う
褒め言葉なんかまったくいらない世界だ
向こうからくるものと話ができるかどうかだけだ


おんなじだね
瞬間的に来てしまうもの
直感がするどいといえばするどい
でも 自力じゃない
自力には限りがある
限りないものを受け入れるという深さだ

信心だってそうなんだろう
受け入れる深さが信心の深さなんだろう





無用ノ介
どこかで聞いたことのある言葉だ
そうか
おれもそろそろ・・・
なりそうだ
いつまで
ぺらぺらと
いいかげんにせい
と叱られる前にいなくなろう
老兵はしなず、きえさ・・・
としよう
じゃ
また。

投稿日時 - 2013-05-12 22:38:34

お礼

 
 ご回答をありがとうございます。


 

 かのとき 《受け容れた》のは 神の名をつうじての《ただのナゾ》です。それだけです。

 それによって 世界のものごとを
 ★ 受け容れる深さ
 ☆ が――そのつど 相手の《人》に応じて情況に合わせ必要に応じてわが心に――現われて来ているのを見い出す。

 ★ 神品
 ☆ ってか。よく言ったものだ。



 いつも最後にいいワインを出して来よる。

投稿日時 - 2013-05-12 23:23:42

ANo.15

★ 信心とは 悟りぬきの一足飛び
 ☆ そのとおり。

 天才も秀才も鈍才も 関係なし。




おや~
花丸をもらっちゃった
珍しい・・


神でいえば
直接 神の愛を感受する立場を得るという
気短かな人に向いた方法だ
方法というより
それしかない という人に与えられたやり方 なんだろう
信じる心でさえ 与えられている
ということに気が付くとき 神はそこにいる

仏だって同じで
如来の大悲が 衆生の心水に映ることを言っている
信じるところに大悲ありと

>天才も秀才も鈍才も 関係なし。

その心は・・
いわずも が な
だろう


簡単な定義づけなら

信心とは
超越的存在を感受する立場を得ようとすること (冷たい言い方だが・・)
あるいは
超越的存在の感受を自らに及ぼそうとすること
なんだろう

だいたい 
これぐらいで いいんじゃないか と
いう 
狼藉者の感想だ・・

投稿日時 - 2013-05-12 18:21:15

お礼

 聖道門は 経験領域でのことがらについて勉強する・努力するということに尽きると考えます。

 神に向き合って 自力という言葉は 無用です。

 と考えます。


 どうだろう。

 というのが 返答です。



 ご回答をありがとうございます。

 どうですかねぇ。

投稿日時 - 2013-05-12 20:04:22

ANo.14

行為 カルマ
智慧 プラジュニャー
信愛 バクティ

このうちバクティなんですが
なんだか意味がたくさんありますね。

bhakti
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=bhakti+&trans=Translate&direction=AU

投稿日時 - 2013-05-12 15:23:42

お礼

 ありますねぇ。


 ご回答をありがとうございます。



 で おしまいになるご回答の仕方ですよ。

投稿日時 - 2013-05-12 16:08:02

ANo.13

いや~
いい感じになってきましたね

フルボッコ 大好き
これだから やめられない
止まらない
ノーガードでいきましょうか

仮定と過程

面白い

信心とは 悟りぬきの一足飛び
でも踏ん張らなくちゃいけない
踏ん張らなくても済むようになった時は
もう
「信じる」
という固い言い方はしなくてもいいと思います
信じてしまった という状態には
あえて 「信じる」のだと言い聞かす必要はない

信じてゆく過程とは
「信じる」という言葉から離れてゆく過程なのだと思います

「信じる」というスタートの段階が やはり「信じる」ことなのでしょう

だから
やはり
血の通った仮定
踏ん張りみたいなものを「信じる」と言ってみたい



ん~
このへんで・・
煙に巻けないかな・・煙幕の術

投稿日時 - 2013-05-12 10:31:14

お礼

 ★ 信心とは 悟りぬきの一足飛び
 ☆ そのとおり。

 天才も秀才も鈍才も 関係なし。

 ★ 「信じる」というスタートの段階が やはり「信じる」ことなのでしょう
 ☆ これも――おっと まづは ご回答をありがとうございます―― ほんとうですね。

 つまり 無神論をえらぶとき――もしくは おれは神を信じていないと気づいたそのとき――にも その《スタートの段階》が 重要であろうと思います。そして 無神論者がその《無い神を信じる》ということになるように 《やはり スタートの段階が「信じる」ことなのでしょう》。


 ★ ~~~~~
 だから
 やはり
 血の通った仮定
 踏ん張りみたいなものを「信じる」と言ってみたい
 ~~~~~~~~
 ☆ これは 小説の中の一節なら かまわないでしょう。ひとの関心を惹きつけるかも分かりません。



 もう一点。
 けれども・ですが いろいろ言いますが 《信じる》というのは いづれわたしたちがおのおのそのナゾの神さんに実際にお目通りしたときには もう――目の前に見ているのですから――要らなくなります。
 《信じる》必要はありません。
 ただ 神との・あるいは他人(ひと)との・さらにあるいはおのれとの関係性は なくならない。と言われています。
 これが 《愛》なのだとか。

 もしそうなのなら 命題のかたちでは こう言われるようなのですが:

   ○ 信仰は愛をとおしてはたらく。

 または

   ○ 愛が信仰をとおしてはたらく。

 すなわちそういう動態を予定していると思われます。
 何しろまだ神を顔と顔を合わせて見たことがないもんで。



 小乗は 愛を説かない。

投稿日時 - 2013-05-12 11:10:44

ANo.12

★ あんちゃん
☆ って特定の選手ですか?



永遠の あんちゃん でいたいですね

信じることのできる あんちゃん でいたい



年をとると 誰にも叱ってもらえない
上手ばかり言われて なまくら返事ばかりしている
半分信じて 半分疑う のが自然になってきてしまう
心が いつも濁っているのが当たり前になってきてしまう

叱られても 怒られても
それでも信じる という純粋さ
失いたくないもんです
信じる という力を体験したことのない者には
信じる ということの強さは分からない
ただの 賭けじゃない
未来を呼びこんでしまう 心の広がり 強さなんでしょうね

光を求めて 木の枝が伸びてゆくように 広がってゆく
後戻りはしない
これでいいという軌跡を描いてゆく
信心の足跡とは そうしたものなんでしょう

血の通った仮定・・それが信じる心 信心じゃないですか

投稿日時 - 2013-05-12 08:46:54

お礼

 せっかくですから――おっと まづは ご回答をありがとうございます。――こんどは〔と言いますか いつものように〕こちらが フルボッコで言いますよ。


 ★ 血の通った仮定・・それが信じる心 信心じゃないですか
 ☆ もし《仮定》だとしたら それはマチガイです。《予断》はありません。

 つまり確かに《賭け事において賭けるように その神の名を心に受け容れる》と言いましたから 《大穴を狙っている》という予断ないし仮定が見え見えであると言われるかも知れませんが それは きっぱりとした違いがあります。

 ひとつに 賭けるときに 一方で損得の問題であって大儲けを狙っているというのは百も承知のことですが 他方でじつはその損失のことも同じく百も承知のことであるとは考えられます。つまりイチかバチかというのは 結果が分からない――そしてこればっかりは インチキが仕込まれているのでないかぎり 分かるか分からないかが分からない――その情況での判断だという意志行為になっています。

 ひとつに 賭けたときの心境は じつは――おそらく あんがい――いわゆる無心の心境であるようなのです。その場面においてその一瞬の出来事としてです。
 
 つまり神がわが心におとづれるのは――夜中に盗人が襲うかのごとく―― 人間の思考や意志を超えたところに起きると思われます。

 すなわち――神のおとづれを事前に俟っているということが 誰にでもと言っていいほどあるのですが それでも―― 人間の予期やあるいは心の準備といったこととも関係なく 《信じる》ことが成る。ゆえに 事前の《仮定》は それがあるかも知れないが 基本的に関係しない。





 この《仮定》が もし《過程》のことだとしますと つまりそうすると 《信じる》がすでに成ったあとの動態のことを言っていることになりますが そうだとしますと
 その場合には 確かに《血の通った道》をあゆむ。こう思われます。おっしゃるとおりです。

 ところが――ところがです ところが――
 ★ 血の通った過程・・それが信じる心 信心じゃないですか
 ☆ と言う場合には その言わば実績を信用して《信じる》をますます強く固めて行くということになります。

 これが 微妙に違う感じをいだかせます。
 そしてじつは そのような言わば好循環といった道のりは あります。あるのです。何を隠そう 信じた―→よかった―→さらに信じる―→よい結果が出た。それは心から喜び合えるものだ―→ますます信じる―→・・・というよき道をあゆむことはあり得ます。

 ですが これは どう受け留めるかは 微妙です。《よい結果が出た。自分だけではなく みなと喜び合いたい》ということであったとしても それは 微妙です。
 《神を信じる人》は そのとき《あまえ》ます。聖なる甘えと言っていますが どこまでも甘えて行きます。つまり よい結果が出たから ますます信心を強めようとするのは――その気があっても―― 微妙に違うのではないかと思います。好循環に入った ゆえにいよいよわが信心もほんものに成って来たなとか ますますいい結果を出して行こうとか そのような希望を持ちこれを追うというのは 違うように思われます。
 
 《よき結果があたえられたというその血の通った過程》をとおって来たし いまあゆんでいる。なら どこまでも甘えて行くのであって 自分がその結果を踏まえてさらによいことをしようというのとは 微妙に違うように思われます。




 つまり・すなわち・結論としてわたしが感じるところは
 ★ ~~~~~
 光を求めて 木の枝が伸びてゆくように 広がってゆく
 後戻りはしない
 これでいいという軌跡を描いてゆく
 信心の足跡とは そうしたものなんでしょう
 ~~~~~~~
 ☆ というふうにバラ色の道のりとして自分のほうから・人間のほうから描いて見せ これを定義の肉づけのような説明とすることは 微妙に違うように感じます。

 《伸びてゆく》のは 結果です。結果として得られたことです。
 《後戻り》をすることも いくらでもあります。もう捨てようかと思うことも 何度もあるはずです。
 《これでいい》と――人間ですから あたかもほくそ笑(え)んで思ったりすることもあるのですが――決めるのは おそらく信心ではないでしょう。

投稿日時 - 2013-05-12 09:39:23

ANo.11

bragelonne様、こんばんは。


「定義」なんて出来ませんね。だって、自由なんですから。


「YBがAクラス入り」なんて、どれくらい(信じて)言っていると思います?
(「熱狂的なファンとしての立場」なら、100%でしょう!)

投稿日時 - 2013-05-12 02:46:44

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 「定義」なんて出来ませんね。だって、自由なんですから。
 ☆ 信教の自由を定義せよ ではありませんよ。

 確かに《自由》という理念また憲法においてそれがうたわれること これは 証明抜きで自明のこととして・つまり公理としてみとめられていると見なして かかげられています。

 けれども《信じる》という人間の行為とは どういうことか? 
 この問いは 別です。

 よくお考えくださいな。





 ブランコ効果かどうか知りませんが そういう経験的なことがらについて《信じる》という言葉を用いる場合というのは 神を信じるという本来の用法から類推して派生した二次的な用法です。

 つよく思う / あたかも神を心に受け容れているその絶対的な様子に似てそのことを思念としていだく思いがことのほか強いという意味内容での派生用法です。

投稿日時 - 2013-05-12 04:14:56

ANo.10

人間には真理は分かりません

でも確信がある と言うところまでは行きます 

自分いはどうしてもそう思える それが妄想でも

証明は出来ないけど信じる 信じないと何を頼りに考えて良いか分からない

だから信じて行動する 生活する

南無阿弥陀仏でもアーメンでもいいのです 私はそう思うでもいい

それが無いと人間は行き難い。哲学が出来るのは暇な人だけです

漁師には漁師の哲学が在り信じるものがある。

教師には教師の哲学があり 信じるところがある。

それが信じることの効用であり 信じることだと思います。

投稿日時 - 2013-05-11 23:21:02

お礼

 ゆにこ99さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 まづ
 ★ ~~~~
 人間には真理は分かりません

 でも確信がある と言うところまでは行きます 
 ~~~~~~
 ☆ まさにこのとおりだとわたしも思います。


 そのことが 次のような姿として 現実に見られるのだと。
 ★ ~~~~~
 漁師には漁師の哲学が在り信じるものがある。

 教師には教師の哲学があり 信じるところがある。

 それが信じることの効用であり 信じることだと思います。
 ~~~~~~~

 すなわち
 ★ ~~~~~
 それが妄想でも

 証明は出来ないけど信じる 信じないと何を頼りに考えて良いか分からない

 だから信じて行動する 生活する
 ~~~~~~~
 ☆ ということだと捉えられます。

 そこで この質問は――哲学カテなのですから――
 ★ ~~~~
 南無阿弥陀仏でもアーメンでもいいのです 私はそう思うでもいい

 それが無いと人間は行き難い。
 ~~~~~~
 ☆ というときの《信じる》――このように呼ばれている人間の行為は 果たしてどういう内容をもったものなのか? これを 一般的な理論として捉えよう――こういう問い求めであると思っています。

 ひとつには もしその内実が分かって 人びとの《信じる》にとって共通のかたちとして互いに了解されうるならば その《信じる》をめぐってあらそうことはなくなると思われます。

 同じそのとき――もうひとつには――おそらく 個人が《信じる》というおこないは 確認できてとうぜん認められると思われたとき けれどもその《信じる》を 集団においてオシエを掲げてその権限関係をともなった階層組織の中で《実践する》などということは ありえない。のではないか。こういう問題が出て来ると思っています。

 ひとは個人一人ひとりとしてそのおのれの主観内面において《信じる》のであって 組織において・組織のオシエとして《信じる》などということは あり得ない。

 オシエは 信じることの蝉の抜け殻であるに過ぎない。
 人が人の《信じる》について出しゃばったことを言えるというのはマチガイである。

 こういったことを 《信じる》の理論は 明らかにするのではないか。
 こういった主題(問題)を視野に入れています。

投稿日時 - 2013-05-11 23:40:16

野球解説コーナー


こ ここでルーキーですよ
信じられませんね
どうなんですか?

いや~
未完の大器に賭けているんじゃないですかね~
それだけ 期待してるってことですよ

で でも上位ですよ
一発出たら決まってしまう場面じゃないですか

いや
こ~ゆう荒れた試合の後半は 選手はあんがい大振りしないもんですよ
ラストバッターは別だけど
球を覚えられる前に 打ち取っていく戦術なんじゃないですか

ルーキーで それができますかね

丁寧に投げさせようとすると失敗しますね
思いきって投げさせた方がいい
まあ
打たれたら打たれたで いい経験になるんじゃないですか

経験ですか
試合の結果より 経験が大切だと・・

そう
無心で精一杯投げるということは
若い時しかできませんからね
ほ ほらっ
今のストレートだって良かったでしょ
あれでいいんですよ
あれで

でも 監督も冷や汗もんでしょうね
どうなるか分かんないという・・

あ~ それはもう
びっしょり でしょうね~
上へあげてやった二軍コーチなんか
いても立ってもいられないでしょうね~


どこまで持ちますかね・・

そりゃ 分かんないですよ
分かっちゃったら面白くないでしょう
野球は分かんないから 面白いんです


(と 言いたい放題・・)




TVでは
あんちゃんが 大きく映っていた
ほぼ そればっかり・・

投稿日時 - 2013-05-11 23:02:55

補足

 お礼欄で お礼を抜かしちゃった。

投稿日時 - 2013-05-11 23:22:52

お礼

 自信のある内容であっても まだ定説や常識になっていない場合は 公開して情報交換する。ということだと思っています。

 それに 公開したことで あらたな視野がひらかれて――またそのことを回答者の文章から得ることが出来る場合があって―― とにかくまじわりは大切だと思われます。

 微調整にしても 重要です。


 こういう思わくにて 設問しています。



 だけど 評論が多いですね。ここは。
 哲学として多少は 理論として対話する・また理論そのものを追究する のが本筋ではないかとは思うんですけれど。

 時論・時評になれば 理論だけではなく 応用問題なのでしょうけれど。



 ★ あんちゃん
 ☆ って特定の選手ですか?

投稿日時 - 2013-05-11 23:22:13

やってますね

まだ やってる・・

(野次馬です・・)


そろそろ リリーフピッチャーを投入
火消し役を入れないと いけない
燃えさかる炎を なんとか消さないと
焼け死んでしまう・・

大魔神か
いや 岩瀬か
西村は打たれたばっかりだし
困った
延長線のゆくえは・・
どうなんだろう




監督・・
そろそろ ご決断を
う~ん・・
難しい
代打の代打が 出てくる可能性がある
こちらもリリーフのリリーフでいこう
監督・・
代打の代打の代打が出てきたらどうします
リリーフのリリーフのリリーフだ
いません
誰でも え~じゃないか
上がってきたばかりのやつを出せ
いいんですか
ルーキーです
やらせてみろ
賭けだ
二三球でもいい

コーチはダッグアウトから駆けだした
(あんちゃん 頑張れ・・)
と 祈りながら


あんちゃんは マウンドに立った
大観衆のマウンド
子供の頃から夢にみたマウンド

心臓が ばっくん ばっくん してる
全身が ビリビリ してる
試しに投げている自分は 自分じゃない
指先のボールの感覚が いつもじゃない
(ダメだ 投げられない・・)


それでもGOサインはでた

おぼつかないまま投げた 1球目
「ボール!」
かっこうだけの投球フォーム 2球目
「ボール!」
3球目
「ボール!!」
 
キャッチャーが駆けてきた

いいか!
おれのミットめがけて投げるんだ!
全力で腕を振れ!
ストレートだ!

こわい顔だった
言い終わると ポンとやられた
まっすぐ顔を見て ニコッ と笑った

(先輩・・)

あんちゃんは 高校の時のことを思い出した
同じ言葉を聞いたことを思い出した

何かが広がっていくような感じがした
それはボールにも伝わった



4球目

サインがでた
ストレート
ど真ん中

ミットが大きく見えた


よしっ
踏みこんで・・
それっ !!

ミットめがけて
体で投げた

肩あたりから出てゆく手の指にボールが分かる
人差し指と中指にボールが乗っている
腕がムチのようにしなってボールを送り出してゆく
(いつもの感覚だ・・)

バシッ!!

「ストライク!」

パチ パチ パチ
ワ~ ワ~ ワ~

大きな拍手だった
大観衆の拍手だった


監督・・
投げ ま し た ね ・

・ ・ ・ ・ ・
二球目は 打たれるぞ
それでも 
ストレートだ
打たれてもいい ストレートだ

監督・・・

最初から逃げることを覚えさせるな
打たれてもいいんだ

試合が終わっちゃいますよ

うるさい!
あいつのために この試合をくれてやる・・
・ ・ ・ ・ ・ ・

・ ・ ・ ・ ・・・・・

投稿日時 - 2013-05-11 17:52:57

お礼

 そういう意味でなら フルボッコで・あるいは このたたき台がサンドバッグになって叩かれてもかまいません。

 微調整は必要だったと分かったとしても 大筋ではまづマチガイはないと思っているからです。

 十年二十年と思惟の跡を残して来ていれば たいていの疑問や批判には応えられます。


 だいじょうぶですよ。


 岩瀬 まだだいじょうぶかなぁ。ほかのピッチャーももうひとつなんだなぁ。



 回答と励ましをありがとうさん。

投稿日時 - 2013-05-11 20:11:03

ANo.6

あなたは神様を見た事がありますか?
あなたは神様の仕業としか説明出来ない現象を体験した事がありますか?

信じる信じないは、まずこの超常現象や出会いから始まります

一点、体験をする方法をお教えします
今ここで私に思いっきり喧嘩をふっかけてみてください
お遊びレベルでは無く、本音として喧嘩を売ってください
その後、あなたが経済的損失(優しいレベルでちょっと高価な物が理由もなく壊れた、悲惨な場合は数億円の損害が出た)を受けたならそれが神の仕業です
信じるか信じないかは自由

真面目に気をつけてください
私の知人のように、私に喧嘩を売った一年後に1000年近く住み続けた土地が放射能まみれになって住めなくなったという事例があります

投稿日時 - 2013-05-11 10:52:02

お礼

 ぺんぺんまっきーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。

 そういうのを哲学では 無限判断と言うんぢゃなかったですか。

 あしき無限ですね。

 つまり そうかそうでないか。
 見たか見ていないか。
 損失が生じたか否か。
 予言されたとおりのことが起こったかそうでないか。

 これらの判断は 永遠に限りなく水掛け論としてつづきます。

 哲学のいろはのいではないでしょうか。



 これは マジですよ。
 ただし けんかを自分からふっかけたことはありません。ので 自分から売ったことにまではならないでしょうね。

 売り言葉に買い言葉なら けんか――口論――をしたことがあります。ここでもやっています。
 ただし 今回は 売り言葉を仕掛けて来いという売り言葉ですから 売り言葉としても買い言葉としても半分の効力しかないものです。

 ですから マジで反批判をおこないましたが 《本音としての喧嘩を売った》ということにはならないのでしょう。先に売るつもりはなく いちどもしたことがないからです。



 ★ 超常現象
 ☆ は 経験事象です。経験事象について《信じる》という言葉を使うのは 意味内容の上から矛盾となっています。


 なお
 ★ 神様を見た
 ☆ とおのれの主観内面において思うことも それをひとに向かって話すことも そこまでは 自由です。
 さらには 文学作品として表現するぶんには だいじょうぶです。

投稿日時 - 2013-05-11 12:03:08

ANo.5

No.1です。 

★ 想定されたものは経験(言葉)の場であり
 ☆ これは 想定という取り決めにもとづくかぎり・言葉を単なるシルシとして用いているというかぎり そうはなりません。
==>『 《考えても分かるか分からないかが人間には分からない》ナゾなる神 Xを想定する』の神・Xはたんなるシルシという意味をもたせようが言葉であることには違いないでしょう。想定は言葉には出来ないものの特別な説明のようにBさんは述べられてますが 私には普通の言葉を使った説明と思われます。なんであれ言葉を使う以上 経験の場になっていると思います。

 ★ 経験事象の中から選択したもの
 ☆ であります。
 そして(あ)の《神を信じる》という事例とは 次元を異にすると思われます。
==>その通り、非経験域からみると次元が異なるということでしょう。しかし、経験域のなかにこそ 信じる があるということを言っているわけです。神を信じる という場合は もちろん神の定義はしておかないといけません。神は非経験域にのみ想定される は理解できないということです。一次用法に異をとなえています。

投稿日時 - 2013-05-11 01:02:42

補足

 

 ○ 無限

 は 経験事象でしょうか?

 二や三で割っても 商がやはり無限だというその無限は 経験世界におけるものごとなのでしょうか?


 たしかにこのように人間の言葉で語っているぶんには 経験域の中にありますが 果たしてその無限の正体は 経験世界に属していましょうか?

投稿日時 - 2013-05-11 08:02:22

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 応酬がつづきます。

 ★ ~~~~~~~
   >『 《考えても分かるか分からないかが人間には分からない》ナゾなる神 Xを想定する』

 の神・Xはたんなるシルシという意味をもたせようが言葉であることには違いないでしょう。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 《単なるシルシという意味をもたせ》るというのは 精確ではありません。

 《とうぜん概念となっていて意味のある言葉を 単なるシルシとして用いる》という取り決めをしておく。というのが 定義の際の約束になっています。

 むろんと言いますか この約束ないし取り決めは やぶっても罰則があるわけぢゃなし かんたんにやぶられるものです。

 やぶられたなら 言葉の《意味》が復活します。しかもこの意味の復活があろうがなかろうが もともと《言葉》でありつづける経験事物(つまり 《言葉》)をわれわれは定義に用いています。つまり
 ★ 言葉であることには違いないでしょう。 
 ☆ そのとおりです。

 しかも 定義に際しての《取り決め》は 学問として活きます。そのことまで消えてなくなるわけではありません。
 信号無視なる約束違反が横行するからと言って 信号にかんする交通法規が消えてなくなるわけのものではありません。


 ★ 想定は言葉には出来ないものの特別な説明のようにBさんは述べられてますが 私には普通の言葉を使った説明と思われます。なんであれ言葉を使う以上 経験の場になっていると思います。
 ☆ 意味が取れません。つまり この文章が どういう反論になっているのかが分かりかねます。

 ★ 特別な説明・・・・・普通の言葉を使った説明
 ☆ この対比が 問題点を明かしていましょうか。
 《想定》は 必ずしも《説明》ではないかも知れません。《説明》をおこなう以前に 《これこれの定義による用語でこれから説明するのですが そのこれこれの定義というものを 〈想定〉によっておこなう》という側面がある。この側面は 《想定》などをせずに定義する場合とくらべれば《特別な》出で立ちであるかも知れません。

 それだけのことだと考えますが どうでしょう。
 つまり 《想定》によるという・ふつうには見られない方法を用いたふつうの定義の仕方です。

 ふつうの定義の仕方であるゆえ
 ★ なんであれ言葉を使う以上 経験の場になっていると思います。
 ☆ と見られてしまうのかも知れません。ですがそれは 《想定による》という取り決めの部分を捨ててしまった見方になります。

 あるいはつまり 想定によって定義した《非経験の場 X ないし神》は それ自体はそのまま《非経験》〔という想定〕のことですが そのように定義している人間は・そして定義するという行為は もちろん《経験の場になっている》というのは あたりまえです。

 想定したものが 非経験だからと言って 想定している人間が その非経験の場のほうへ連れ去られて行ってしまうものではありません。

 きわめて当たり前のことを述べています。よ。





 次のご発言内容も 同じ問題であるようです。
 ★ ~~~~~~
  ★ 経験事象の中から選択したもの
  ☆ であります。
  そして(あ)の《神を信じる》という事例とは 次元を異にすると思われます。

 ==>その通り、非経験域からみると次元が異なるということでしょう。しかし、経験域のなかにこそ 信じる があるということを言っているわけです。
 ~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ 経験域のなかにこそ 信じる がある
 ☆ のではなく 

  ○ 信じる行為またその主体つまり人間が 経験域のなかにある。

 のです。しかしながら 

  ○ 想定にもとづくかぎりで 人が信じる神 X は 非経験の場 X のことである。

 となっています。ちなみに いまこのように言葉で説明している行為やまたその言葉や文章 これらは むろん経験域の中にある となっています。まったくあきらかな事態です。



 ★ ~~~~~~~~
 神を信じる という場合は もちろん神の定義はしておかないといけません。神は非経験域にのみ想定される は理解できないということです。一次用法に異をとなえています。
 ~~~~~~~~~
 ☆ これも 意味が取れません。

 もしこの発言内容がそのまま妥当だと人びとがみとめたとしますと どういうことが起きるかと言いますと

  ○ 《信じる》という言葉は 《思う・考える》というような・経験事物や経験現象を対象にした心的現象である。

 となると思います。それらの言葉のあいだに差異はない。という意味です。
 言いかえると 

  ○ 《神》とは 経験現象や経験存在のことを 自然や人間やといった言葉とは別に・しかもまったく同じ意味で 指して言う言葉である。

 となります。《いくぶん特別な・または不思議なところがある場合に限って言う》としても 人間存在や自然現象としてはまったく同じ内容を指して言う言葉だとなります。

 つまり 神や信じるという言葉は 経験事象にかんして言うのみだと。
 非経験の場などというのは ありえないし 想定によるにしろ やはりあり得ないのだと。

 


 ここまで来ると いわゆる見解の相違でしょうか。あとは 水掛け論になる地点に来たかと思われます。

 この世界は 《経験事実 Y 》がすべてを占める。それ以外にはないし 想定することもあり得ないということのようですから いや想定しうるのではないかと言っても 平行線をたどるのみであるかと思われます。

 こうなりましょうか。

投稿日時 - 2013-05-11 05:38:05

ANo.4

A2です。
訳が判らんけどすごいからひれ伏しました。
これが神への信仰の全てなら、
ノストラダムスのが悪夢に描いた恐怖の大王を駆逐したのはなにを隠そう私だ。
こんなほらをが吹いたとしても、アホはひれ伏すのではないか。
自称弥勒菩薩の実験で私自身これを猿回し検証していますが、謎は嘘に弱いのではないか。
そしてそこら辺に転がっている、哲学の多数派と変わらない考えで、抜きんでた斬新さがないのではないか。
こういう意見です。

投稿日時 - 2013-05-11 00:16:48

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そのようなウラの意味があるとは思いも寄りませんでした。

 ★ これが神への信仰の全てなら
 ☆ ここには誤解があるようです。

 《信じる》の定義をおこなうということは 《神への信仰の全て》について 最大限にその要素などを抽象してそのエキスを言葉で表わすということになります。



 ★ 謎は嘘に弱いのではないか。
 ☆ 信仰の内容を抽象してしまって 最小限の要素要因のみを表現しているゆえそこには《ナゾ》が出来てしまう。そのようなナゾは 《ウソによわいのではないか》? ――ん? どういう意味だろう。



 ★ ~~~~
 そしてそこら辺に転がっている、哲学の多数派と変わらない考えで、抜きんでた斬新さがないのではないか。
 こういう意見です。
 ~~~~~~~
 ☆ だとしたら
 ★ 哲学の多数派
 ☆ から一二の例を拾って来て ほら おまえの定義と同じことを言ってるよと示すのが 筋でしょうね。

 ★ 斬新さ
 ☆ を狙っていると見ましたか。

 むかしからの持論ですから 斬新である・ないという点にかんしては 感じなくなっていました。

 けれども 《哲学の多数派と変わらない考えで》あるということなら 必然的に《斬新さがない》と帰結されるのは あたりまえです。
 ですから その例示・例証が 最低限必要でしょうね。


 言っておきますが こういう議論の手続きのことを指摘されてから それに答えるようでは その例証ができるとは 思えるわけがありません。テツガクのテの字も見当たりません。
 答えられるわけがありません。とタカをくくっておきます。

 すなわち
 ★ こういう意見です。
 ☆ には 何ら中身が見当たりません。空っぽのポのポです。

投稿日時 - 2013-05-11 00:37:22

ANo.2

後半の定理とかはさっぱり判りませんでした。
訳が判らんけど何かすごそうだからとりあえずひれ伏してみました。
その辺の理解できてないあたりはそこら辺の多数派とどう違うのか判りませんでした。

投稿日時 - 2013-05-10 23:40:37

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 
 ですが これぢゃ 分かんない。応答のしように迷う。

 ワケが分かんないけれど ご投稿はありがたいのでお礼の言葉を述べてみました。とでもなるのですが。・・・

投稿日時 - 2013-05-11 00:00:23

ANo.1

精査したわけではありませんが、私は

信じるとは 経験事象の中から選択したものを最大強調して心に受け容れることである。

と思っています。

Bさんの主張は 非経験の場が対象となっており それは言葉では表現できなく 意味のないシルシ神が想定されとしています。想定されたものは経験(言葉)の場でありそのあとは 経験の場のなかに信じるを考える ことになります。この後半は私も是とします。

投稿日時 - 2013-05-10 18:48:13

お礼

 ok9608 さん こちらであらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 こちらもあんがい ぶつかりますね。お互い。

 ★ 信じるとは 経験事象の中から選択したものを最大強調して心に受け容れることである。
 ☆ これは 確かにそういう表現も用いられています。けれどもそれは 神を信じるという〔本来の〕用法から派生した語法だと考えます。

 一次用法:
  (あ) 《神を信じる》とは: 

    神を――という意味は 絶対なるもの〔これは 経験世界ではついぞ
   見ることあたわざるものであるゆえ その神〕を――そのシルシとして
   の名をつうじて心に受け容れている。

 という内容をしめしている。

 二次的・派生用法:
  (い) われは わが親友の無実を《信じる》。とは:

     われの知るかぎり かれはいまうたがわれているようなことをする
     人間だとは まったく思えない。

  と言っている。つまり 経験思考の問題におさまる。あるいは

  (う) ■ (【Q:・・・神とは何か】への或る回答) ~~~
     私は人間を信じるよ。
     他者を理解することは信じる事だと考えるよ。
     無根拠の衝動がそう駆り立てるんだ。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

    これは じっさいには神(あるいは 無い神)とのかかわりは切っても
    切れないのだけれど それでも・そのことは措いておいて

     私は 人間の知恵や潜在的な能力に賭けてみる。
     人間は将来まだまだ何をやらかすか分からない。秘めたチカラを持ち
    可能性がゆたかにそなわっているはずだ。

  と言っている。すなわち経験思考のおよぶ範囲である。

 つまり 未知( Y )と非知( X )とは別だからです。
 すなわち 事例の(い)と(う)とは 非経験の場 X とはかかわりのない領域での話だと考えられます。
 ★ 経験事象の中から選択したもの
 ☆ であります。
 そして(あ)の《神を信じる》という事例とは 次元を異にすると思われます。




 ★ ~~~~~
 B さんの主張は 非経験の場が対象となっており それは言葉では表現できなく 意味のないシルシ神が想定されとしています。想定されたものは経験(言葉)の場でありそのあとは 経験の場のなかに信じるを考える ことになります。この後半は私も是とします。
 ~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ B さんの主張は 非経験の場が対象となっており
 ☆ はい。それが 《信じる》の本来の用法だと見ます。

 ★ それは言葉では表現できなく
 ☆ はい。ゆえに 言葉をシルシとして用います。

 ★ 意味のないシルシ神が想定されとしています。
 ☆ (え) 言葉をシルシとして用いるわけですが 言葉ですから《意味がない》というわけではありません。
 たとえば ゴッドは 《招(を)かれた・呼び起こされた・祈り呼び出された》といった意味から来ていると言います。
  ▼ OnlineEtymologyDictionary: god
  http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=god&searchmode=none

 日本にも《わざ(業)・をき(招き)》というのがあります。
 神意を寄せるために 神の前でいろんな芸をふるまうことで いまでは《俳優》のことらしいです。
 つまり この《神意をうかがい寄せる》という言葉―― God は その過去分詞形――であり やはり意味があります。

 (お) 意味のある言葉を用いて ただシルシとしてのみ 神の仮りの名とする。

 (か) 《神》は すでに先に《非経験の場 X 》として想定されています。

 

 ★ 想定されたものは経験(言葉)の場であり
 ☆ これは 想定という取り決めにもとづくかぎり・言葉を単なるシルシとして用いているというかぎり そうはなりません。

 すなわち 《想定されたものは――言葉を用いて呼ばれています・したがって言葉が用いられているからには それがシルシにしか過ぎないという前提をとりはづせば 言葉にかんするかぎりそのまま――経験(言葉)の場であり》ます。ですが それは 想定ないし前提を忘れています。

 ★ そのあとは 経験の場のなかに信じるを考える ことになります。この後半は私も是とします。
 ☆ いいえ。それは やはり想定ないし前提を見失えば ぜんぶ言葉の問題となってしまいます。そのことは はっきりしています。すべては経験事象の中にすっぽりおさまってしまうわけです。想定をはづしたのですから それは そうです。

 ですが 神の仮りの名は いかに言葉を用いていたとしても ただのシルシであるに過ぎません。そのように想定することは 科学が定義をおこなうに際してみとめられている方法だと思います。

    

投稿日時 - 2013-05-10 22:05:52

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