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解決済みの質問

他人と感覚が違うって、比較できますか?

社会で生きていくには適応するって大切ですよね。今更ながら「適応」っていうことの意味を思い知らされました。自分の感覚が他人とズレてることを自覚することのようです。これって、自覚できたらタイシタものだと、最近ようやく悟ったわけで、そのおかげで「もう死んでもいい」とさえ思えるのでした。残念ながら、死ぬことを怖がるっていうとこだけは、感覚っていうより本能というものに支配されちゃうらしくて「それではサヨーナラ」と簡単には死ねないものらしくて、こんな文章書いてます。と、前置きが長くなりました。例えて言えば人が見ている色がみんな同じだとは限らないようなささいなことなんかに気付くことです。十分に重大な事実のようだと思われるかもしれませんが、至ってお気楽なんですよ、実は。一人の人間、生まれてからずっと、自分の目に見える色が正しいと思って疑わない。「色の区別がつかない」んなら障害として認識できるんですが、単純に感じるものの違いなんか、脳を入れ替えて見ないと比べられないって、ちょっとしたパラドックスなんですが、わかりますか? このことをぶんしょうでどう記述したら万人に「何となく解る気がする」と感じてもらえるのかな? っと、これも「感じる」ものなわけだから、人間って結局、共通認識なんてありえいのですね。少なくとも近似値はあるから社会が成り立つわけなんでしょうけど…。ひょっとしたら、金運とか出世運なんか、以外とこんな「ささいな」感覚のギャップが作用して存在してるんじゃないの?なんて思います。哲学専攻か精神医学専攻で、この事に関係した内容をご存知の方、どうか教えてください。

投稿日時 - 2013-05-30 21:38:40

QNo.8112414

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

世の中、なんでも曖昧で成り立っているわけで質問者様でいう色で言えば、近似値ですね。
一般の人が「黒」という色をみれば「黒」や「黒っぽい」で相手には理解できます。
でもデザイナーや絵描きになると「黒」と一言でいっても
黒もたくさんあって、どんな黒を出すか、それが表現力ですし重要ですよね。
ただ普通の事務でも営業でもやっている人ならそれは生きていく上では関係ない、
黒っぽければ黒で通用するし、周りもそれに突っ込む人は少ないですね。
なぜなら、仕事なり自分の生活なりに「黒」でも「黒っぽい」でも生活に困らない。
ようは色の「細かい識別」は生きていく上で優先順位が低い。
感じ方もそんなもんで、おおまかな感じ方はだいたい似てると思いますが、
とことん突き詰めたら一人一人そのことに関しての思いは違っててもおかしくはない。
育ってきた環境も風土も違うので。
金運や出世運もそんなもんで、だからメンタルヘルスの考え方や自己啓発の本が
売れるわけです。代表的なところで「ピンチはチャンス」という言葉があるように、
ピンチをチャンスと前向きに捉え、好転を心がけるメンタルを持っている人もいるし、
ピンチになると「おれはもうだめだ・・」と自分からピンチに入っていく人もいます。
この2つをとってみても、その後の行動は違います。
失敗しても、とりあえず落ち込みますが「この経験を生かして前に進もう」と
考える人もいるし「おれはもうダメだ、生きていく資格はない」と考える人では
その後の行動は違いますよね。
同じ出来事でもその人の考え方や感じ方で出た「行動」が人生を左右します。
どうしてもネガティブで後ろ向きの考え方、感じ方をしてしまうなら、
どうしてそのような考え方をするようになったか向き合ってみるといいですね。
これは気付けば変えられます。ただ長年培ってきて、無意識に入っているものなので
なかなか難しいですけどね。あと行動を変えるというのもとても怖いことです。
ただその怖さは例えば「ピアノの発表会で大勢の人の前で演奏する直前の怖さ」に
似たようなもので「失敗するかもしれない」とか「うまく出来るだろうか」という
怖さに似ています。実際、失敗するかどうかは「やってみないとわからない」もので、
失敗したところで「怒られるとは限らない」し「人生が終わる」わけでもありません。
ピアノを失敗したところで実際、死にはしませんから。
ようは「生きてて不都合な考え方や行動を変える」だけで人生って案外好転したりします。
ただそれに「気付く」ことと「行動を変える」ことが難しいんですけどね。

投稿日時 - 2013-05-30 22:40:14

補足

真剣に考えて下さってありがとうございます。参考になりましたが…「死んでもいい」とか書いたのがいけないんでしょうか…文章で伝えるのってむつかしいですね。たとえの中に「黒」がでてきましたがああ、近似値という例でつかわれたのでしょう。私が疑問に思っているのは以下のような事です。
"Aさんにとっての「赤」が、別のBさんにとっては、Aさんの感覚で見た「青」かもしれない"
というかのうせいなのです。
Aさんが一般的な近似値、というか最大公約数的な感覚だと仮定して、Bさんがはたして自分が特殊だと気付けないんじゃないかという疑問です。だって、Bさなんいとっては火だって血だって、生まれてこのかた、アベレージでいうtpころの青に見えているんだから、その意識からすれば青に温かみを感じるでしょう? 手塚治虫先生の大作「火の鳥」の「復活編」で無骨なロボットが美しい女性に、溶鉱炉が小川のせせらぎに見えるという可能性が示唆されていましたが、まさのあれです。コミックだと極端でも普通に
読みすすんでしまいます。特に現実味を深く考えなかった方が大半じゃないかと思います。だって溶鉱炉に手を入れたら瀕死の重症ですし、無機質に見える人間なんかは、触感と連動して考えると、日現実的と判断されちゃいますからね。これが「色」とかの基本概念だったらどうでしょう? また感情の起伏とかだったあ…よく「空気を読めない」なんていうのも、ある行動が他人をどんな感情にさせるのかの近似値がつかめない事ですよね…
いくら突き詰めて考えて見ても、感覚が他人と違う可能性は否定できないことに気づくと、真面目(っていうものの概念も怪しい?)なら真面目なほど、孤独感が募り、鬱傾向に陥るんじゃないかってね。ちょっとした被害妄想とも考えられるのですが…安部公房の「他人の顔」とか、カフカの「変身」とか、類似の文献はあるのですが、学問的にこの考察ってなされているのでしょうか?

投稿日時 - 2013-06-01 08:30:32

お礼

使い方が判らなくて「補足」の返信をしてしまいました。
回答が無いとあきらめていましたが、ご丁寧な助言、ありがとうございます。
とりあえず精神科に掛かってみようかとおもっています。

投稿日時 - 2013-06-14 12:33:58

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