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解決済みの質問

川端康成の《お信地蔵》に哲学の主題はありますか?

 次の掌編小説についてです。

 1. 哲学の主題とすべきことはありますか?

 2. それは 何ですか?

 3. それを どう解きますか?



 ▼ 川端康成:《お信地蔵》 ~~~~~~
 山の温泉宿の裏庭に大きい栗の木がある。お信地蔵はその栗の木の蔭にある。

 名勝案内記によると お信は明治五年に六十三で死んだのださうだ。二十四の時 亭主に先立たれてから一生後家を立て通したといふ。つまり 村の若者といふ若者を一人漏らさず近づけたのである。お信は山の若者たちを一切平等に受入れた。若者たちはお互ひの間に秩序を立ててお信を分ち合つた。少年が一定の年齢に達すると村の若者たちからお信の共有者の仲間に入れてもらった。若者が女房を持つとその仲間から退かせられた。かういふお信のお蔭で 山の若者は七里の峠を越えて港の女に通ふことなく 山の乙女は純潔であり 山の妻は貞潔だつた。この谷間のすべての男が谷川の釣橋を渡つて自分の村に入るやうに この村のすべての男はお信を踏んで大人になつたのだつた。

 この伝説を彼は美しいと思つた。お信にあこがれを感じた。しかし お信地蔵はお信の面影を伝へてはゐない。目鼻もあるかないかの坊主頭だ。墓場にでも倒れてゐた古地蔵を誰かが拾つて来たものかもしれない。

 栗の木の向うはあいまい宿(* = brothel )である。そこと温泉宿とを忍び歩く浴客は栗の木蔭を通る時に お信の坊主頭をつるりと撫でて行く。

 夏 或る日三四人の客が集まつて氷水を取つた。彼は一口飲むとぷつと吐き出して眉をひそめた。

 「いけませんですか。」と宿の女中が言つた。

 彼は栗の木の向うを指さした。

 「あの家から取つたんだらう。」

 「はい。」

 「あすこの女がかいたんだらう。きたないぢゃないか。」

 「あんなことを。でも おかみさんがかいてくれましたんです。私が取りに行つて見て居りました。」

 「しかしコップや匙は女が洗ふんだらう。」

 彼はコップを捨てるやうに置いて唾を吐いた。

 滝を見に行つた帰りに彼は乗合馬車を呼び止めた。乗ると同時に彼は堅くなつた。珍しく綺麗な娘が乗つてゐる。この娘を見れば見る程彼は女を感じた。色町のなま温かい欲情が三つ児の時からこの娘の体にしみ込んで肌を濡らしてゐたにちがひない。円円しい全身のどこにも力点といふものがない。足の裏にも厚い皮がない。黒い眼がぽつりと開いた平たい顔は疲れを知らない新鮮な放心を示してゐる。頬の色を見ただけで足の色が分るやうな滑かな皮膚は素足で踏みつぶしたい気持を起させる。彼女は良心のない柔かい寝床である。この女は男の習俗的な良心を忘れさせるために生れたのだらう。

 彼は娘の膝頭で温まりながら眼をそらして谷間に浮かんだ遠い富士を見た。それから娘を見た。富士を見た。娘を見た。そして 久しぶりに色情といふものの美しさを感じた。

 「この女こそは何人の男に会っても疲れも荒みもしないだらう。この生れながらの売笑婦こそは世の多くの売笑婦のやうに眼や肌の色が荒れたり 首や胸や腰の形が変つたりはしないだらう。」

 彼は聖なる者を見出した喜びで涙ぐんだ。お信の面影を見たと思つた。

 秋 狩猟季節が始まるのを待ちかねて 彼は再びこの山へ来た。

 宿の者が裏庭に出てゐた。板場の男が棒切れを栗の梢に投げた。色づいた栗の毬(いが)が落ちた。女たちが拾つて皮を剥いた。

 「よし 腕試しに一発。」

 彼は猟銃をサックから取出して梢に狙ひを定めた。谷の木に先立つて毬栗が降つた。女たちは喊声(かんせい)を上げた。温泉宿の猟犬が銃声を聞いて躍り出した。

 彼はふと栗の木の向うを見た。あの娘が歩いて来る。肌理は細かく美しいが青白く沈んだ肌で歩いて来る。彼は傍の女中を顧みた。

 「あの人病気でずつと寝て居りましたんです。」

 彼は色情といふものに対して痛ましい幻滅を感じた。何物かを憤りながら引金を引いた。山の秋を突破る音。毬栗の雨。

 猟犬は獲物に走り寄ると おどけて一声吠えながら首を落して前足を伸ばした。前足で毬を軽くとんとんと蹴つてもう一吠えおどけた。青白い娘が言つた。

 「あら。犬にだつて毬は痛いんですわ。」

 女たちがどつと笑つた。彼は秋の空の高さを感じた。もう一発。

 褐色の秋の雨の一滴 毬栗がお信地蔵の坊主頭の真上に落ちた。栗の実が飛び散つた。女たちはくづれるやうに笑つた どつと喊声を上げた。
 (完) (『掌の小説』所収)
 ~~~~~~~~~~~~~

 4. 質問者の持った思いは なぜ《地蔵》なのか? なぜお信が地蔵になるのか? です。

投稿日時 - 2013-07-27 21:26:34

QNo.8194656

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

☆ よくは分かりませんが ひょっとしてそれは 要するに人間を道具として扱ったということではないのでしょうか?
◇道具なのでしょうね。
《お信地蔵》と呼んではいますけれど、実際のところは、
村の若者たちは、男たちは、
単に目的達成のための道具としてありがたがっているだけだ、と思います。
お信さんを一個の人格として敬ってはいないのではないでしょうか。
《お信地蔵》と呼ぶことが、男たちの感じる《やましさ》、《背徳感》のなせるワザなのでしょう。
《お地蔵さま》だから、《観音さま》という有り難い存在だから、ということを免罪符にしているのだと思います。
男たちにとっては、お金のかからない《娼婦》のごとき存在なのでしょう。
《娼婦》を《お信地蔵》と呼び変えている。

お信さんの内面については、わかりません。
彼女のこの行為が、
 自己犠牲による一方的な献身よるものなのか、
実は、
 村の若者たちを己れの満足の追求手段として、道具として利用しているだけのものなのか、
そこのところはわかりません。
わたしは、男なので・・・
女性の目線から見た、意見や提言、アドバイスが欲しいところです。
neutralさんが何かを書いてくれると、ありがたいのですが・・・

私が考えるに、
《お信地蔵》は男性目線の、しかもかなり身勝手な、ご都合主義から生まれた伝説であって、
女性の目線からでは、このような伝説は生まれなかったと思います。
そして、
あくまで《菩薩のような》存在であって、菩薩ではない、と考えています。



《お信菩薩》は男の身勝手な愛のシンボル、一つの理想形、と考えることも可能なのかもしれませんね~。
ギリシア神話では、
 結婚の女神、奥さんの女神は《ヘラー》や《ヘスティア》、
 愛の女神は、《アフロディーテ》。
一夜限りの愛も、アフロディーテの愛に含まれます。そして、これは時に家庭を破壊し、世の道徳なども破壊します。トロイア戦争のように、戦争だって引き起こすかもしれない。
ということ、
《お信菩薩》は、《アフロディーテ》と考えることもできるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2013-07-30 02:06:24

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~
 道具なのでしょうね。
 《お信地蔵》と呼んではいますけれど、実際のところは、
 村の若者たちは、男たちは、
 単に目的達成のための道具としてありがたがっているだけだ、と思います。
 ~~~~~~
 ☆ 確認できてよかったです。

 ◇ ~~~~
 お信さんの内面については、わかりません。
 彼女のこの行為が、
  自己犠牲による一方的な献身よるものなのか、
 実は、
  村の若者たちを己れの満足の追求手段として、道具として利用しているだけのものなのか、
 そこのところはわかりません。
 ~~~~~~
 ☆ わたしも分かりませんが 分かっていることはあります。

 つまり かのじょは 《若者たちが 自分(=お信)を手段として道具として あつかっていると知っているということ》です。

 あとは 上っ面の心理のウゴキでしかないと考えますので もう詮索しません。(文学作品やその批評としてなら 別かも知れませんが)。




 ◇ ~~~~
 女性の目線から見た、意見や提言、アドバイスが欲しいところです。
 neutralさんが何かを書いてくれると、ありがたいのですが・・・
 ~~~~~~
 ☆ かかげておきます。


 ◇ ヘスティア:奥さんの女神
 ☆ あぁ 《へっつい》ですね。

   へ(竈=かまど)‐つ(属格)‐ひ(霊) 

 ですから 神格として同じです。

   へ(竈)≒ かまど(釜戸) 
 
   かまど(竈・釜戸)=かま(竈・釜)‐と(処)

   へ(竈)⇒ へ(戸)(かまどのある生活体なる所帯として)

   かま(釜)は 朝鮮語からであるらしい。



 ◇ 《お信菩薩》は、《アフロディーテ》と考えることもできるのではないでしょうか。
 ☆ わるいですけれど これは 心理学や文学の問題だと思います。

 ふつうの連れ合いのその属性として アフロディーテ――あぁ ヰーナスですね――が交じっていればいいですね。




 村の若者たちの中から ひとりも《異分子》が出なかったということが わたしに言わせれば 問題です。
 哲学の軌道へ戻すための転轍機のような異分子です。



 質問者としては 答えにたどりついたようです。
 にゅうとらるさん待ちをふくめて もう少しひらいています。
 ありがとうございました。
 

投稿日時 - 2013-07-30 06:50:34

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回答(9)

ANo.8

>「一対一での交わりは 互いに人格のすべてを相手にゆだねるというところがあります。ゆえに 人格が一体となるとさえ考えられています。」


あー、なんだそりゃ。
つまり、「信教の自由」なのか。

投稿日時 - 2013-07-30 00:44:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 つまり 夫婦は あたかも人格が一体です。

 夫は妻の了解を得て 人生や生活上の大きなことについて決めますし 妻も夫の了解を得て 同じようにします。

 夫婦は むろんそれぞれが自由意志を持って行動するのですが あたかもひとつの人格のように――つまりどこまでも民主的に互いの同意に達するよう話し合いをするというかたちにおいてあたかもひとつの意志であるように――生きているというのが ふつうだと考えます。

投稿日時 - 2013-07-30 06:25:04

ANo.7

>「質問者の持った思いは なぜ《地蔵》なのか? なぜお信が地蔵になるのか? です。」

そっか。
地蔵って、きっと、「道端の石ころ」以上の存在だったんでしょうね。

投稿日時 - 2013-07-30 00:03:53

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そりゃあ そうでしょう。だって 《菩薩》なんですよ。

 ふつうの人間と考えてもよいはずですが とにかくたたえられている存在です。

 つまり人びとがそう考えて その称賛の思いを地蔵というかたちに表わした。ということになっているわけですから。

投稿日時 - 2013-07-30 06:20:49

☆ この《無差別・平等つまりは それとしての自由》 これはあり得ないと考えます。必ずその体制の枠組みからそれぞれ人は その感性やら意志やらが はみ出てしまうと言わなければならない。こう考えます。さもなければ 人造人間かお人形さんかとして生きていることになる。としか考えられません。
◇でしょうね。
お信さんと関係を持つ村の若者にとって、
実は、
お信さんは、万人共用の《セクサロイド・sexaroid》的な存在である、
と考えるべきなのでしょう。
だから、村の若者たちにとっては、ありがたい、有益な存在ということになる、と思います。菩薩のように、ありがたい存在になるのでしょう。
しかし、
若者たちは、
お信さんとの関係性が一夜限りのものであることを知っており、
永続的な1対1の人間的な関係を性を求めなければ、また、築けるとも考えていない、
と思います。
万人共用の《セクサロイド》なのですから、たとえ複数回関係があったとしても、それはその都度新たに結ばれるものということになるのでしょうね。

サクサロイド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

お信さんの内面については、わかりません。
男性の容姿等に対する、人間的な好み、好悪の感情があったならば、たぶん、こうしたことは行えないでしょう。
その行為、その行為に至る一連の過程の中で、
木石のごとく、人間的な感情が停止しているのか、
そもそもそのような感情がないのか・・・
あるいは、
他者に対する自己犠牲的な一方的な献身とその明確な意志がないと行えないでしょう。
いずれにせよ、並の人間の行える行為でないことは確かです。
だから、その存在が有り難い、つまり、菩薩のごとき存在となるのではないでしょうか。
わたしは、自身の《一回性の生》を軽んじているようで好きではありませんが、
お信さんの心の中には、
《捨身飼虎》的な《慈悲》の精神があるのかもしれない、ですね。
であるならば、
そして、それは、ある意味で仏教の慈悲の精神につながる・・・
仏教はこれを讃える傾向がある・・・
だから、厄介なのです。

次元は低いのですが、現象だけを取り出せば、
 イエスの十字架
みたいなものなのかもしれませんね。
他者への愛ゆえに、己れの身体を犠牲にする、
という図式的な構図は似ているかもしれない、と思います。



捨身飼虎
http://homepage3.nifty.com/btocjun/rekisi%20kikou/houryuuji/4-syasinsyako.htm

投稿日時 - 2013-07-29 23:36:14

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 
 ◇ ~~~~
 お信さんと関係を持つ村の若者にとって、
 実は、
 お信さんは、万人共用の《セクサロイド・sexaroid》的な存在である、
 と考えるべきなのでしょう。
 ~~~~~~
 ☆ よくは分かりませんが ひょっとしてそれは 要するに人間を道具として扱ったということではないのでしょうか?

 もしそれなら おカネは受け取っていませんが ただの娼婦だということになります。
 男たちもそれぞれ おのれの部分的な実存行為として お信に対しては臨んだ。つまり部分人格としての行為であった。あそびであった。と。

 哲学は その認識で もう済ませると考えます。


 ◇ だから、村の若者たちにとっては、ありがたい、有益な存在ということになる、と思います。菩薩のように、ありがたい存在になるのでしょう。
 ☆ ということだとしても もうどうでもよいことになります。どうぞご自由にとなります。《菩薩のように》であって 菩薩ではないと見ておくことができると思います。


 つまり 人間以前の状態にある人間である。こう認識します。どうでしょう。

 

投稿日時 - 2013-07-29 23:56:21

真宗さんのWikiDharmaから慈悲についての解説を引用。

─────────
じひ、maitreya karuNaa मैत्रि करुणा(sanskrit) 原語は、どちらか一方であったり、双方組み合わされている場合もある。

 仏教で説くあわれみの心、いつくしみの心。
 「慈」はサンスクリット語maitriiを原語とし、これはmitra(友)から派生した抽象名詞で、あらゆる人に平等に注がれる最高の友情、友愛という意味。「悲」はあわれみ,同情の意でkaruNaaを原語とし、嘆きを原義とする。他人の嘆きと同化し、みずからも嘆きをともにするとき、他人に対する最も深い理解が生じると説く。慈は人びとに楽を与えること、悲は人びとの苦を抜いてあげることをいい、「抜苦与楽」といわれる。生きとし生けるものを苦から救済するという利他行を展開せしめる原動力がこの慈悲である。
 慈悲は、基本的に自己は無我であると悟るところにあらわれる自他不二から起こる。その精神が具体化されたものが、大乗における六波羅蜜の実践行であり、慈悲を本質とする阿弥陀、あるいは慈悲の権化といわれる観音菩薩であり、大乗・小乗に共通な四無量心といわれる修行法である。

http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%98%E3%81%B2
─────────

慈・・・楽を与える
悲・・・苦を抜く
が定義なので、性の苦しみを抜き、快楽を与えているのだから、
まぁ~、《慈悲》と言えないことはないですかね。
仏教では、SEXはタブー中のタブーなので、こうした《慈悲》を《慈悲》とは認めませんが・・・
なのですが、
お腹を空かせた人に食べ物を与えるのと、体を与えるのとどう違うのか、といわれると、困ってしまうのも事実。
食べ物と己れの肉体を差別する分別があるのではないか、と詰め寄られるとすこし困るんですよ。なぜ、体を困っている人にお布施してはいけないのか、と言われると困ってしまう。
まして、
お信さんの場合は、金銭による縛りという強制も働いていなければ、彼女の自由意志に基づいています。
後家さんであるし、村の若者は未婚なので、不倫にもならない。
さらに、
「山の若者は七里の峠を越えて港の女に通ふことなく 山の乙女は純潔であり 山の妻は貞潔だつた」
とあるとおり、結果的に性犯罪などの予防にもつながっている。
その村の人々の福祉に貢献している。
いわゆる性道徳、性観念に反するのかも知れませんが、
これといって責められるところはないのですよ、お信さんは。

さらに、これには《若者組》という村の制度が関係していると思われるのですよ。
─────────
年長者がリーダーとなり、後輩たちに指導を行った。若者宿、若衆宿などといわれる拠点があり、そこに集団で寝泊りする場合も多かった。村内の警備や様々な作業を行ったり、共同で集まり親睦を図った。特に祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。また交際上必要となる飲酒・喫煙の指導、さらに村内の恋愛、性、結婚を管理する側面を持ち、リーダーが各自に夜這いを指示して童貞を捨てさせることも行われた。

若者組
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E8%80%85%E7%B5%84
─────────

「山の妻」と書いてありますから、この村はたぶん貧しくて、誰でも男は結婚できるわけでもなかった、などの特殊な事情を考慮する必要もあるのかもしれません。
映画・《楢山節考》に
─────────
来年に楢山参りに出る定めの老女・おりんの家では、家族がそれぞれ問題を抱えていた。長男の辰平は去年妻を事故で失い、侘しく鰥夫暮らしをしていた。そんな辰平は母親思いゆえ、とてもおりんを「楢山参り」に出すことはできない。次男の利助は頭が弱くて口臭がひどく、村人から「くされ」と呼ばれ蔑まれている。村の掟で結婚が許されず、家の奴(ヤッコ・下人)として飼い殺しにされる運命の利助は女を知る機会もなく、近所の雌犬を獣姦しては欲求を満たしていた。辰平の息子・けさ吉はおりんの歯が33本あることをからかいながら、村のふしだらな女・松やんと遊びほうけていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B1%B1%E7%AF%80%E8%80%83_%281983%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB%29
─────────
なんてありますから・・・。
映画では、
利助は、おりんの友達である老女《おかね》とエッチしちゃうのですが・・・
───おりんが、《おかね》に「利助としてくれるよう」に頼みこむんです───
利助にとって、《おかね》は、ある意味で聖女のような存在なのではないですかね~。

投稿日時 - 2013-07-29 02:26:58

お礼

 ねむりねこさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ◇ お腹を空かせた人に食べ物を与えるのと、体を与えるのとどう違うのか、といわれると、困ってしまうのも事実。
 ☆ 律法という律法 戒律という戒律をすべて取っ払って考えて この命題を受け容れたとしましょう。

 つまり 《お腹を空かせた人に食べ物を与えるのと同じように 体を与えた。そしてそれは  苦しみを抜き楽しみをあたえた》 こうしてみましょう。

 ですが もしひとりの相手にそうすることが 無理なく何のとがめもなく――つまり ふたりの心に・ということは お信の心にも 相手の男の心にも何のヤマシサ反応の起きることなく――成り立ったと見做したとしても それが ほかの男とのあいだで成り立つという保障は どこにもない。と考えます。

 その第二の男に対してもお信が《平等に・つまり無差別に》相対したということは つぎの理由から有り得ないと考えます。

 ひとつは もし仮りにその無差別平等が成り立ったとしますと お信と初めの男とのあいだの《自由な関係における一体性》と お信と二人目の男とのあいだの同じく《自由な関係における一体性》とは まったく同じかたちでありまた同じ中身であることになります。つまり お信はつねに同じかたちと中身の実存として振る舞っており 男はいづれもじつにそのお信のつねなる揺るがざる実存のかたちを受け取り 同じ人間類型となると考えられます。

 同じ人間類型となるという意味は その《お信体制》に違和感を感じないという程度に解してみれば よいと思います。

 この《無差別・平等つまりは それとしての自由》 これはあり得ないと考えます。必ずその体制の枠組みからそれぞれ人は その感性やら意志やらが はみ出てしまうと言わなければならない。こう考えます。さもなければ 人造人間かお人形さんかとして生きていることになる。としか考えられません。

 短い期間において少ない人数のあいだでは 仮想人間あるいは仮装人間に成り切っていることは出来るでしょうが そうでなければ出来ない。必ず違和感が出てしまう。――人びとはその違和感をおぼえてそのままを表明する人間は 裏切り人間でありクウキを読めない人間であり反体制人間だとラべリングをしますが こちらの人間こそが 自由で人びとを差別なく互いに交通しあおうという志の持ち主である。と言い得ましょう。

 自由は お互いに必ずしも実際には同じであるとは限らない。その互いに〔部分的にしろ〕食い違う自由観を 自由に大きくつつみ合うかのごとく受け取り相対すること このほうが 自由を少しでも実現していると考えます。

 言いかえると お信は ふたりめの男に向き合ったとき すでに別の自由観を受け容れた。つまりただ相手を理解するという意味で相手の自由観を受け留めたというだけではなく みづからの心に受け容れた・つまり一体となった。ならば はじめの男との自由で平等な一体感は すでにゆらぎます。というよりも はっきり言えば 初めの男との交わりを裏切るところがあった。そのような違和感とそれだけではなく裏切り感は 必ず出て来ます。人が人と同じ性質・同じ実存形式であるのでない限り その食い違いは出て来ます。

 要するにもし仮りに 世にもめづらしき・うるわしきお信じるしの泰平の世が成ったとしても それは 言わば箱庭の中の人間関係としての配置のよさであり あとから見れば悪夢となる――人格がちぢこまっていたと自覚し悔いを残す――経験だと考えられます。



 書き込まれた諸般の歴史的な背景説明は 情況証拠にはならないと考えます。というよりも そういった弁護の問題ではないと考え 説明して来ています。
 そういう問題――情状酌量をもって捉えられるような止むを得ないという事情と問題――は ここでは別枠として考えています。ですから はっきりとした別のおもむきの議論をすすめて来ていると思っています。


 つまり お信のあわれみ体制は 必ず食い違いが出るからには 無差別・平等ではない。ゆえに 慈悲ではない。

 一時的な――あまりにも世の中が不条理と見える事柄に満ちそれがきびしく人びとの心に圧(の)し掛かるとき そこにすばらしき世界としての蜃気楼閣を 一時的にしろ見させるような――そのオアシスであったかも知れないとしても 人間性が人間性である限り ほんとうには成り立たないところのマヤカシであり つまり蜃気楼としてのオアシスであった。

投稿日時 - 2013-07-29 08:18:31

慈悲の心に基づいて、無条件(無分別)に男性を受け入れる。
だから、菩薩と形容したのではないですか。
そして、地蔵になったのは、大地が女性に結びついているからではないかと。

─────────
このような「元型の像」は、人物の像に限らない。・・・
他方、「太母(グレートマザー)」の元型のイメージは、地面に開いた、底知れぬ割れ目や谷、あるいは奥深く巨大な洞窟のイメージなどであることがある。

Wikipedia 元型
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B
─────────

かなりオカルトが入っていますが、
ユングによれば、
潜在意識として、人間〔の男〕は、そういった元型、アニマを持っているらしいです。
有名どころの神話では、ギリシア神話のガイアやゲーに限らず、大地の神は女性なのですよ。中国でも天は男(陽)で、地は女(陰)なのですよ。

『老子』には
─────────
谷の神は決して死なない。それは神秘な牝と名づけられる。神秘な牝の入り口、そこが天地の根源である。それはほそぼそと続いて、いつまでも残り、そこから(好きなだけ)汲み出しても、決して尽き果てることがない。

http://www.geocities.jp/sei_taikou/roushi_1.html
─────────
と書いてあります。
この《谷》とはずばり女性器のことです。
女性器をタトエにとり、生成の秘密を解き明かそうとしている章段です。
なお、
「谷の神」の神は神秘な力、ハタラキくらいの意味です。
いわゆる《神さま》のことではありません。


すこしおもしろい記事を偶然見つけましたので、ご紹介します。
─────────
太母原型(Great Mother)
絶対的な優しさと安全感を与えてくれる、「母なるもの」のイメージ。このイメージは実際の母親に投影される場合もあるが、寧ろ、それを越えて、「大地の女神」や「母なる大地」として表現される事が多い。また、「母性社会」という形を取っている事もある。


母性原理
 少し長くなるが、河合隼雄『母性社会日本の病理』を引用する。
   <母性の原理は「包含する」機能によって示される。それは全てのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこでは全てのものが絶対的な平等性をもつ。「我が子である限り」すべて平等に可愛いのであり、それは子供の個性や能力とは関係のないことである。>
 ちなみに同書では、ユングが、「母性の本質として、慈しみ育てること、狂宴的な情動性、暗黒の深さ、をあげている」と述べている。

慈しみ育てる
前項と重複する所もあるが、グレートマザーの肯定的な特徴は、母が子供を産み、保護し育てるように、全てのものを生み出して包み込み、養い育てる、ということである。

呑み込む
又、グレートマザーの否定的な側面としては、母が我が子の独立を阻むように、対象を掴んで離さず、抱きしめ、遂には「暗黒の深さ」をもつ母体へと呑み込んでしまう事である。
尚、飲み込む礼としては、「牛方山姥」が牛を丸ごと飲み込んだことや、インド神話でカーリーが、無数の魔神ラクタビージャを丸ごと呑み込み血を一滴も残らず啜った、ということなどが挙げられよう。

http://www.geocities.jp/izumikawauso/archetype/mother.html
─────────

大地は、混沌・カオスですから、
何でも無差別に飲み込むのですよ、受け入れるのではないかと。
イシュタル、アフロディーテの例をあげるまでもなく、大地母神の系列につながる女神さまは、恋愛に対して奔放です。男をとっかえひっかえします。男を多くとります。
同じ大地母神の系列に連なる、アポロンの双子の女神アルテミスにいたっては、
《処女神》でありながら、
《娼婦の女神さま》でもありました。
こうした知識も、川端の頭の中にはあったのではないでしょうか。

投稿日時 - 2013-07-28 22:36:22

お礼

 つづいてです。

 ◇ 慈悲の心に基づいて、無条件(無分別)に男性を受け入れる。
 ☆ そんな慈悲の心ってあるんですか?

 互いに実存として信頼しあっているという条件のもとに結ばれる場合は 慈悲から遠いということになってしまいます。

 この男はいやだと言わない売笑婦は みな菩薩になってしまいます。

 ◇ こうした知識も、川端の頭の中にはあったのではないでしょうか。
 ☆ だとすれば 川端の主観の中では 《お信は 菩薩であった》ということでしょうか。
 
 何の根拠もなくということですよね。

 一対一での交わりは 互いに人格のすべてを相手にゆだねるというところがあります。ゆえに 人格が一体となるとさえ考えられています。

 それが 複数の相手との交わりにおいて成り立つとは とうてい考えられません。
 つまりたとえば 若い男の中からひとりでも その《お信体制》に違和感を感じるなら もうそれで複数の相手とのそれぞれにおける人格の一体という事態が ウソだということになります。

 これは そのようにウソが現われるに決まっています。つまり もしウソではないとしたら まわり回って男たちのすべてが互いに人格が一体だということになってしまいます。人造人間のごとくに。

 よって 菩薩であることは あり得ないと考えます。

投稿日時 - 2013-07-28 23:00:23

こんばんはです。


☆菩薩は、男か女か?
◇個人的には、
男と女、どちらでも構わないと思うのですが、
ある一定の段階、菩薩の階梯に達すると、男になるんでしょうね。
女の体のままでは、《成仏》ができないので・・・

《変成男子》
─────────
変成男子(へんじょうなんし)は、転女成仏(てんにょじょうぶつ)・女人変成(にょにんへんじょう)とも称され、古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。法華経提婆達多品で、8歳の竜女が成仏する場面を由来とする。「変成男子」と「転女成仏」は対句として用いられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E6%88%90%E7%94%B7%E5%AD%90
─────────

仏の32相に《馬陰蔵》というものがって、悟り直前の菩薩は男でないと、ちとまずいんですよ。
仏の32相は、転輪聖王の32相のパクリなのですが、
転輪聖王には美しいお妃がいないとまずいので、
転輪聖王と対等視されるブッダも男でないと、ちとまずい・・・

陰蔵(おんぞう)
仏の男根のこと。 馬の男根のように常に腹中に隠れていて見えないので、陰(おん)馬(め)蔵(ぞう)ともいう。 仏の三十二相の一。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%99%B0%E8%94%B5

詳しくは、
http://www.ze.em-net.ne.jp/~rinjyuan3/sub926.htm
をご覧になってください。

仏教の一般向けの啓蒙書などには「菩薩は男女の性別を超えている」と書いてあったりもします。
まっ、おとぎ話です。
菩薩(bodhi-sattva)やブッダ(buddha)が男性名詞なので、そこからの類推であろう、
ということにでもしといてください(ポリポリ)。



☆4. 質問者の持った思いは なぜ《地蔵》なのか? なぜお信が地蔵になるのか? です。
◇個人的には、《地蔵》よりも《観音さま》の方がいい、と思うのですが・・・
お地蔵さまのサンスクリット名がシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])だからかな・・・

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地蔵菩薩 (ぢぞうぼさつ)、サンスクリット語クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。三昧耶形は如意宝珠と幢幡(竿の先に吹き流しを付けた荘厳具)、錫杖。種子(種字)はカ (ha)。

大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる。一般的には「子供の守り神」として信じられており、よく子供が喜ぶお菓子が供えられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9
─────────

川端康成は、お地蔵さまのサンスクリット名を知っていた・・・
お地蔵さまの《蔵》が、《子宮》の意味であることを知っていたとか・・・

お地蔵さまは《地の仏さま》で、
大地は、母なる大地、ガイア。大地母神信仰も関係しているのかもしれませんね。
川端が、潜在意識的に、このようなことを漠然と予想していたのかもしれませんね。

なお、
《地の仏さま》がお地蔵さまであるのに対して、
《空間の仏さま》が虚空蔵菩薩です。

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「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9
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投稿日時 - 2013-07-28 19:39:45

お礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~
 川端康成は、お地蔵さまのサンスクリット名を知っていた・・・
 お地蔵さまの《蔵》が、《子宮》の意味であることを知っていたとか・・・

 お地蔵さまは《地の仏さま》で、
 大地は、母なる大地、ガイア。大地母神信仰も関係しているのかもしれませんね。
 川端が、潜在意識的に、このようなことを漠然と予想していたのかもしれませんね。
 ~~~~~~
 ☆ このご説明によれば けっきょく《お信は 女であったから 地蔵とされた》ということですよね。

 《子宮があって 若い者からは母のように見なされたこと》と《地蔵菩薩とされること》とのあいだには まだ大きなへだたりがあると思われます。
 さもなければ だいたい一定の歳以上の女性は みな地蔵菩薩と見なされることになります。

 お信は どういう修道者だったのでしょう? どういうところで菩薩に値すると見なされたのでしょう?



 お信と若い男たちと そして この人びとを取り巻く村の人たち かれらにとってのその村における平和は あたかも日本という社会のそれに似ていると考えられます。

 すなわちたとえば 若い男のうちのひとりが この《お信体制》に異を唱え出したなら どうなるか? 或る意味でその村における一種の《 KY 》だったら どうなるか?

 つまり そこでの治安や安寧は 平和でも何でもないのではないか? こう考えられて来ます。それが崩れないとしても それに対する見方は 明らかに変わって行くものと思われます。

 何も社会としての一人ひとりの人間的基礎は 築かれていない。まぼろしの内に平和がただよっていた。に過ぎないと思われます。

 こんな物言いです。

投稿日時 - 2013-07-28 21:06:21

ANo.2

>「菩薩が 女性になりますから 何でもありかとは思う」

Bさま、さんくす。

投稿日時 - 2013-07-28 06:04:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 それはいいとして そうぢゃなくて
 ☆☆ 4. 質問者の持った思いは なぜ《地蔵》なのか? なぜお信が地蔵になるのか? です。


 あるいはほかにもありましたら どしどし取り上げてみてください。みなさんにもです。

投稿日時 - 2013-07-28 08:14:35

ANo.1

こんばんは。


「地蔵」と言えば男、と思っておりましたが、「パ待ち」というのもあるんでしたか。

投稿日時 - 2013-07-28 04:22:28

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「パ待ち」というのもあるんでしたか。
 ☆ 分かんないよ くりなるさん。「パ待ち」って?

 ★ 「地蔵」と言えば男、と思っておりましたが
 ☆ 観音菩薩が 女性になりますから 何でもありかとは思うのですが。

 
 ▼ この伝説を彼は美しいと思つた。お信にあこがれを感じた
 ☆ りするもんですかね。

投稿日時 - 2013-07-28 05:26:53

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