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解決済みの質問

《行け、淫行の女を・・・受け容れよ》(ホセア書)

 預言者ホセアの行動をどう捉えますか?

 旧約聖書における預言者ホセアの行動について 問います。

 ホセアは 神から次のように言われ そのとおりに行動しました。
 ▲(ホセア書1:2) 《行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。》

 この《淫行》は 人に対する裏切りと取ります。裏切りに遭っても その相手をホセアは 受け容れたわけです。戻って来た妻ゴメルを迎え入れました。

 これをどう扱うか? ホセアの行動をどう解釈するのか? 


 というのも 先に【Q:川端康成の《お信地蔵》には 哲学の主題はありますか】で――この《お信》は 後家になってからですが―― ひとりの男からすれば・そしてもし人格の全体としてのマジワリであったとすれば 《裏切り》を確かにおこなったと考えられるからです。つまり これをその質問でのやり取りの中で 質問者はとがめました。哲学から見れば おのれの存在に泥を塗るようなへそ曲がりの実存行為であり それはありえない行為であると。

 あたかもそのような結論としての考えに 少しは再考をうながす命題が このホセア書にはあるかも知れないと考えたからです。


 このホセア書についての質問は いちど問うています。
 【Q:預言者ホセアの行動をどう捉えますか?】 です。

 そこでの結論は こうでした。

   ( a ) ホセアが その神の告げた命題をそのまま鵜呑みに
    してロボットのごとく行動するのではなく そうではなく し
    かもその趣旨にしたがおうというとき
     その元妻のゴメルとあらためて話し合いを持ち 互いの
    意志とその合意にもとづき 行動するのがよい。

   ( b ) また もしこの裏切り行為をもゆるすという神の与えた
    命題に従うことは 認められ受け容れられるものだとすれば
    それは どうもモーセの律法規範による社会秩序を或る意味
    で第一とするという社会情況つまりは 聖書からすれば 旧
    約の時代においてなのである。
     という見方も出来るのではないか。

 でした。自由なご見解をあらためて求めたいと考えます。

       *

 資料です。 
 ▲ (ホセア書) ~~~~~~
 1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。

    「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。
    この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

 1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。
 1:4 主は彼に言われた。

    「その子をイズレエルと名付けよ。
    間もなく、わたしはイエフの王家に イズレエルにおける流血
    の罰を下し イスラエルの家におけるその支配を絶つ。
 1:5 その日が来ると イズレエルの平野で
    わたしはイスラエルの弓を折る。」

 1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。

    「その子を ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。
    わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず
    彼らを決して赦さないからだ。
 1:7 だが、ユダの家には憐れみをかけ 彼らの神なる主として、
    わたしは彼らを救う。
    弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」

 1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。
 1:9 主は言われた。

    「その子を ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。
    あなたたちはわたしの民ではなく
    わたしはあなたたちの神ではないからだ。」

 ・・・・

 2:7 その母は淫行にふけり 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
  彼女は言う。

    「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物
    をくれるのは彼らだ。」
  
 ・・・・



 3:1 主は再び、わたしに言われた。

    「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。
    イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子
    を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

 3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。
 3:3 わたしは彼女に言った。

    「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもと
    で過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

 ・・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 以下は 前身の質問での趣旨説明です。

 主題は いくつかあると思われます。

 (あ) 神によって与えられたヒラメキをどう受け取るのか? つまり神の命題にしたがうというのは 人間におけるヒラメキの問題だと捉えている格好です。

 (い) ヒラメキ直観によって わが心がやわらぎを見出したそのあと 淫行すなわち人に対する裏切り行為をもそれが ゆるされたと見ることが出来るか?

 (う) ヒラメキ直観に従うことは 裏切り《行為》をゆるせなくても それとは別にその当の《人間》については 受け容れることが出来るということか?

 (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?

 (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?

 (か) そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。

投稿日時 - 2013-08-04 08:57:36

QNo.8205063

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんばんはです。


また、よりによって、
何かと問題と疑問、謎の多い《ホセア書》を何で選ばれたのですか(笑)。

なので、
この質問に掲載されている《ホセア書》の本文をどのように解釈したらいいのか、困っております。
疑い深く、ヒネくれもののわたしなどは、
この妻を、当時のイスラエルや、神と離婚状態にあった当時のユダヤ人のことを書いているのか、
とすぐに思ってしまいます。
ホセア書を、
 予言または当時の歴史が記されているテキストとするか、
あるいは、
 今日にも通じる普遍的な示唆に富むテキスト
とするかによって、
評価がわかれるのでしょう。
そして、
《ホセア書》に対する、わたしの基本的なスタンスは、前者であります。
でも、これでは歴史の回答にはなりますけれども、哲学にならないので、
路線変更をして、哲学、宗教的な観点から考えてみます。


─────────
8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。

8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

 ヨハネによる福音書
─────────

で一件落着かと思うのですが、
神さま、《ロ・ハンミ》だ、《ロ・ハンマ》とか、余計なことを言っています。
なので、
眠り猫は、「はぁ~?」となってしまいます。

この合理的な解釈として、
 人間は罪を犯す生き物なのよ。
 だから、己れの罪に対して寛容であるように、他の人の罪に対しても寛容でありなさい。
 そして、自らも罪を少しでも犯さないようにしなさい、
と読み取るべきなのか、
でも、
「う~ん」となってしまいます。
神さまにも人間の罪に対して寛容になっていただかないと。
あるいは、
神さまにも
人間のなす行動から、一切、手を引いてもらわないと。


なのですが、
問題は、3章の「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」という言葉。
申命記の22・24には「汝らその二人を邑(まち)の門に曳きいだしこれを殺すべし」とあります。
神さまのお言葉だとしても、さすがにこれはどうかと思いますが、
ここで使われている《姦淫》は、夫がいるのに他の男の人と××の意味ですよね。
であるとするならば、
この姦淫する女、そして、「わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、買い取った」女は、
《ディブライムの娘ゴメル》
とは別人ということになりやしませんか?

一章と第三章の記述には食い違いがあるのですよ。辻褄があっていない。
ホセアが、不倫をした奥さん、つまり、ゴメルを娼館にでも売り飛ばした。でも、神さまの言葉を受けて、買い戻した、
というのならば話は別ですが・・・
ホセアは、怒っちゃって、不倫をした奥さんをどこかに売り飛ばしちゃったのでしょうか(笑)。

一章の《ゴメル》と三章の《姦淫する女》を別人とする説がありますよね。
であるとするならば、
「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」という神さまのお言葉は、
神さまが
他の男を夫にもつ浮気妻との不倫のおすすめ、あるいは、略奪愛をすすめていることになってしまいます。

また、夫をホセア、この女をゴメルとして、
「夫に愛されていながら姦淫する」を
神さまのありがたい予言だとしても、
矛盾が生じます。
「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」
というホセアの言葉と齟齬が生じます。
ホセアは、神さまの言葉を信じていない、となってしまう。予言を信じていないということになってしまいます。
神への不信がある。
あるいは、
神の言葉はきかないけれど、俺の言葉ならば、この女には効果がある・・・、みたいな。
であるならば、涜神・・・

もちろん、辻褄が合うように説明しようと思えば、説明できますよ。
たとえば、
ホセアのこの言葉は、実は、将来不倫をするであろう妻にではなく、自分に対して向けられた言葉であり、その決意表明なのだとか、
妻になるゴメルに
「お前は、かならず不倫するけれど、できるだけ、浮気をしないようにしなさい」
と注意、アドバイスを与えたのだとか。

でも、やっぱり、わたしの頭の中には釈然としないものが多く残ります。
なので、
この一連の記述にある《妻》はイスラエルや、その民とするのが一番、矛盾が少ないと考えています。
神さまは、バアルがどうたらこうたら言っていますし、
「イスラエルよ汝淫行をなすともユダにつみを犯さするなかれ・・・」
ですしね。

あるいは、
この姦淫や淫行を偶像崇拝としてとらえるか。

でなければ、
《ホセア書》の話は辻褄があわない、
ということになるのではないでしょうか。
わたし、《ホセア書》苦手です。
猫の貧弱な頭では、この中に何が書いてあるのか、さっぱりわかりません。

投稿日時 - 2013-08-05 17:08:28

お礼

 ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 この合理的な解釈として、
  人間は罪を犯す生き物なのよ。
  だから、己れの罪に対して寛容であるように、他の人の罪に対しても寛容でありなさい。
  そして、自らも罪を少しでも犯さないようにしなさい、
 と読み取るべきなのか、
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては アウグスティヌスが 次のように言っていることを思い出します。

   われらは人の欠陥を憎み その存在を愛すべきであって
   欠陥を愛し 存在を憎むべきではない。 

 つまり 何のことはない。罪を憎んで人を憎まず。ではないかと思います。

 【Q:《なんぢらの中 罪なき者まづ石を擲て》は・・・】
 この質問を ちょうど五月にいたしました。
 ◇ 一件落着かと思うのですが
 ☆ として提示されているヨハネ福音の中の一節です。

 ただし きびしい見方をもイエスはしているようですね。
 ▲ (マタイ5:27-30) ~~~~~~~~~~~
  § 姦淫してはならない

 27:「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
 28: しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 29: もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
 30: もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 存在と行為とを分けたアウグスティヌスの指針が生きるかどうかですが。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 この姦淫する女、そして、「わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、買い取った」女は、
 《ディブライムの娘ゴメル》
 とは別人ということになりやしませんか?

 一章と第三章の記述には食い違いがあるのですよ。辻褄があっていない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そういうふうには思いつきませんでした。
 言いかえると 何らかのさいわいによって このゴメル自身が 姦淫をしても 石打ちの刑をまぬかれた。命拾いをしたと読んでいました。
 ちょっと読み直してみないとならないかも知れません。
 

 《たとえ》説はありえますよね。
 ◇ この妻を、当時のイスラエルや、神と離婚状態にあった当時のユダヤ人のことを書いているのか、 / とすぐに思ってしまいます。
 ◇ この一連の記述にある《妻》はイスラエルや、その民とするのが一番、矛盾が少ないと考えています。
 ☆ しかも たぶん じっさいに男と女の話でもある。というふうにも考えたい気持ちは残ります。

 《神から離れて言わば離婚状態にあった当時のユダヤ人》に対して 神は 無条件に・一方的に・自分のほうから あらためて愛しめぐみをあたえようとした。つまり神は ほとんどつねにそのえらんだ民からは裏切られていたのに なお愛し続け荒野を四十年 彷徨わせつつも 〔その民を〕守った。

 そのように 姦淫の妻を 夫たる男よ めとり 受け容れよと言っているのでしょうか。
 これも あまりにも単純に過ぎるように思われます。

 男と女とが立ち場を代えたら どうなるかも かんたんには分からないと言わねばならないようですし。


 あるいは いまふと思ったことは 神が言おうとしていることは このホセアとその妻ゴメルという場合にだけ当てはめて 実行しなさいということかも分かりません。一般化する必要はないのだと。


 あまりよくお応えしていないと思いつつですが。

投稿日時 - 2013-08-05 21:33:03

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回答(5)

ANo.5

こんばんは。


>「そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。」

三国志の曹操も、「悪疫」の流行に頭を悩ませた、とか。

投稿日時 - 2013-08-06 01:44:57

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 《あたまを悩ませること》としての例示ですね。

 ホセアの場合としては 個人として 個人である元妻ゴメルの操行のわるさについて頭を悩ませたようです。

 そして広く問題がはびこる場合もあるようです。

 神は イスラエルの民が 決して神というものをモーセの伝えるがごとくには・またアブラハムの示したごとくには信ぜず ほかのバールとかいう異邦人の神などに頼ってうつつを抜かしているのを見て 悩みを濃くしていたようだということのようです。

 《悪疫》のひろがるさま これにたとえられますかね。

投稿日時 - 2013-08-06 06:34:56

ANo.3

>「いえいえ。七日目には やすみましたよ。サバト。

 今の土曜日ですが 休日としては 日曜日です。《主の日》と呼ばれているようにです。」


・・・「やすむ」って、何?

投稿日時 - 2013-08-04 11:30:57

お礼

 つづいてです。

 ▲(創世記1章~2章) ~~~~~~~~~~
 1章 1節 : 初めに、神は天地を創造された。
  
 2節: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

 3: 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、

 5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 ・・・
 8: 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

 ・・・・
 31: 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 2章 2節: 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。

 3: この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

  http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#.E7.AC.AC1.E7.AB.A0
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2013-08-04 11:54:59

ANo.2

>「むしろ問題は 上にかかげたように律法の条文に矛盾するようなことが どうして神の側から言われたかになります。」


「神は、世界を創った。
それから、男(人間???)を作った。





そして、女を作った。

・・・以来、神も男も休んでいない」


(某、巨大サイトより)

投稿日時 - 2013-08-04 10:54:17

お礼

 つづいてです。

 いえいえ。七日目には やすみましたよ。サバト。

 今の土曜日ですが 休日としては 日曜日です。《主の日》と呼ばれているようにです。

投稿日時 - 2013-08-04 11:09:13

ANo.1

おはようございます。


豹変する、についてですか?




ま、この場合、「他の男の子どもを連れて戻ってきた」ということですか?




「覆水、盆に返らず」ってのが、真理なんですかね

投稿日時 - 2013-08-04 09:39:59

お礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 いえ まづ問題の第一は こうです。
 ▲ (出エジプト記20:14。マタイ福音書5:27-30を参照) 姦淫してはならない。

 ▲ (レビ記 / 20章 10節) 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。

 ☆ こうであるのに その《姦淫の女を受け容れよ》と言われ これに従ったと言います ホセアは。ホセアとは 旧約時代の預言者です。

 すなわち
 ★ ま、この場合、「他の男の子どもを連れて戻ってきた」
 ☆ と言いますか そのようにしてくれと言ったわけです ホセアのほうから。




 ★ 「覆水、盆に返らず」ってのが、真理なんですかね
 ☆ これは いろいろだと思います。

 むしろ問題は 上にかかげたように律法の条文に矛盾するようなことが どうして神の側から言われたかになります。

 そして ちなみに《お信地蔵》のお信は すでに夫が死んだあとの行動でした。そこのところを いま一度振り返っておこうというねらいです。
 
 わたしは 原理主義者ではありませんが 原則は原則だという考え方をしています。そうして ひとつの結論としては 趣旨説明欄における( a )および( b )を考えています。これを検討し さらにこまかく主題を掘り下げていければよいと思います。 

投稿日時 - 2013-08-04 10:24:49

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