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締切り済みの質問

復活とは? 不死の境地とは?

 あえてこの主題を ふたたびですが 問います。
 かつて 次のような趣旨説明をしました。(少し見直して書き直してもいます)。

     *

 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。

 そこで持ち上がるのが 人生論です。
 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 

 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。

 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。

  1. すべてを 終わり=目的から 始める。まづこう決める。
  2. では 終わりは どこにおくか。
  3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。
  4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。
 (二百年なら 実際問題としては もうじゅうぶん人間にとっては 永遠であるだろう)。

 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。

 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。

 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。

 不死の境地については 自性清浄心(ブッダター)のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ゴータマ・ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。

 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。
 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

      *

 さて 考えるにですが ひとつには この《復活なり不死なり》の主題について 幻想を持つべきではないと言いたがっていたのかとも思います。(つまりは われわれの望む社会の再形成 こちらの主題のほうにむしろ目は行っているのかと)。

 しかも その反面では 経験世界のことがらを超えた(つまり 因果関係から自由な)非経験の場についても それは想定されうるのではないかと見ようとしています。わが心なる《非思考の庭》と言っています。

 前身の質問に寄せてくださった回答を とうぜんのごとく活かしつつ なおすすめることが出来るか。
 あるいは 言ってみればこの主題について余計な議論はこれこれだと規定しておくことが出来るか?
 みなさんの知恵を拝借となります。

投稿日時 - 2013-08-22 09:14:07

QNo.8230457

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回答(22)

ANo.22

終わりませんね・・



たしか去年の5.6月の頃だった
正確な日付は日誌に書いてあるんですが・・

庭に出ると、一羽の小鳥が現れて、私の周りから離れない事が幾日か続きました
野性の鳥でした
それが終わって、少し日にちが経ってからでした
NO.20に書いた通りの事が起きました
それら一連の出来事には、私個人の事情に関する明確なサインがありました
子細はいいでしょう
落書き、でいいんです
それでいい
奇跡の容認など・・結局馬鹿馬鹿しい・・と
みんな作り話だと・・
それでいいんです

結局、私の話した事はBさんにとって無意味な事だったんでしょうね・・
お時間を取らせて申し訳ありませんでした。
さようなら。

投稿日時 - 2013-08-31 23:03:19

お礼

 さようなら。

投稿日時 - 2013-08-31 23:15:34

ANo.21

場外電波



不思議という計らい=人智を超えた計らい=人が推し量ることの出来ない働き

誓願不思議

不思議という計らいの確かさ=人が推し量ることの出来ない働きを、まざまざと見る事、見せつけられる事




命題については、それを説く資格も無ければ、許されてもいない
また、外縁の事象における有益と非有益を断ずる立場さえまだ明らかには得ていない



(電波終了 )

投稿日時 - 2013-08-31 20:49:22

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 不思議という計らいの確かさ=人が推し量ることの出来ない働きを、まざまざと見る事、見せつけられる事
 ☆ いつ《まざまざと見》たのか? 誰が見たのか? いつ《見せつけられ》たのか? 
 それは どのように? 

 それとも ひとりのわたしの主観の内なる予感としての体験を言うのか。
 大きく広く ヒラメキの問題であるのか?



 ★ 命題については、それを説く資格も無ければ、許されてもいない
 ☆ ぢゃあ ただのトイレの落書きぢゃん。

 ★ また、外縁の事象における有益と非有益を断ずる立場さえまだ明らかには得ていない
 ☆ ぢゃあ ただのたわごとぢゃん。


 ひとをばかにしてはいけません。

 もう――心を入れ替えてからでなければ――来るな。

投稿日時 - 2013-08-31 21:12:09

ANo.20

場外通信

信仰の外縁




鳥は知っている
自らのその声が 自らに与えられた言葉だと知っている
それのみが自らの言葉だと知っている

人自らに与えられた言葉は
この言葉ではないものを
自由が選んだといっては受け入れている

自らの言葉で話す小鳥は
私に近ずき話かける
もう言わなくてもいい事も 言っていい事も
私に見せるその振る舞いは何の証なのだろう



閉め切った部屋の机の上に
使い古した辞書の上に
小さな灰色の綿毛を一枚置いていった
私が拾うべき 時と場所に置いていった
舞い戻ってきた 見えない小鳥は
私の絶望と希望の証
小指の先ほどの小さな羽根は 現れてしかるべきと言う

ただ 小鳥が教えてくれただけなのに
私は そうは受け取らない
同じ灰色の綿毛は 私に近ずいてきた小鳥の胸の一枚
まだ ここに来たかったのかと問いかける
ならば 掌の上で休ませてあげよう
ここで いつまでも休むがいい・・と




三礼の先の 見えざる手の導き
形ある小さな知らせを 私は受け取ろう
不思議という計らいの確かさを 私は受け取ろう
何故に とも言わず
それは 私が手離した小鳥が帰ってきたことの証なのだから
見えざる御手が伝え そうしてくれた事を頂こう

何の不思議でもない
それは私が いつかは必要とした事が与えられた事
小さな奇跡が奇跡ではないと
訪れをもたらすものに話かける

安らかなれと 遠く祈った返事が来たのだと
御手の計らいに私は感謝しよう

・ ・ ・ ・ ・






私の現実は 非現実を取り込みつつある
それは普段は語られぬ現実に違いない
奇跡と名付けるには あまりにも小さなそれらの非現実は
私の信仰の外縁の出来事である
許可された非現実が どのようなものであれ
また どれほど数多く起ころうとも
信じることの本質は変わりない

信仰の段階を示すと思われるそれらは 命題をすでに生じつつある
祈りの有効性と共に 信心は他に向けられてゆく
という命題である。





(場外通信終了 )

投稿日時 - 2013-08-31 09:37:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 不思議という計らいの確かさを 私は受け取ろう
 ☆ 《不思議という計らい》は ハカラヒが不思議だというのであれば 《無根拠》のことを言っています。
 じつは ハカラヒ無きさまのことです。

 
 その不思議という計らいの《確かさ》と言うと どういう意味なのでしょう。

 無根拠こそが 人間にとっては確かな根拠となるのだ と言っていましょうか。

 あるいはひょっとして
 ★ 《不思議》という《計らいの確かさ》
 ☆ という意味でしょうか? 《不思議〔として表わす真理〕》は つねにこの人間とその世界に対して 摂理というべき配剤・計らいをおこなっている。目に見えないだけだ。いや ときには 目に見えて現われることもあるのだ。その稀なる不可思議こそが 人間にとっては《確かさ》なのだ。――こう言っていましょうか?

 後者は やや微妙な意味合いをもふくむかも知れません。その場合には あたかもあなたが神(つまり真理)のスポークスマンとして・あるいは官房長官として(同じことか?) 神のチカラとそのハタラキを説明しているわけですが その説明をするという立ち場は おそらく 《信仰という実践としての動態》の内容とは 少し違うでしょうね。





 ★ ~~~~~~~~~~~~
 奇跡と名付けるには あまりにも小さなそれらの非現実は
 私の信仰の外縁の出来事である
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは たぶん 《非現実》が 《非思考の庭〔なるわが心の動態〕》であるからには 《奇蹟》は《経験思考の外縁》となるでしょうね。

 つまり 《信仰》が 経験事象の外縁であると。その非現実をふくむ世界が―― 一般に現実と呼ばれる経験世界に想定として乗っけられた非現実をふくむ世界が―― じつは人間にとって《大いなる現実》だと考えられます。



 ★ 祈りの有効性と共に 信心は他に向けられてゆく / という命題
 ☆ は
 ★ 信心の〔向上して行く〕段階を示すと思われる
 ☆ か?

 《信心》にいくつかの段階があってもよいのでしょうが 一般に基本としては 即身成仏・即得往生です。その究極の段階に初めに一瞬にして到って そのあとあたかも追体験をするかのように一歩一歩ふたたびあらためて段階を上がって行く。というかたちで いくつかの段階があると言ってよいでしょうが 
 ★ 信心は他に向けられてゆく
 ☆ とは どういうことか? その《他》とは何を言うのか?

 リスキーな表現ではあります。

投稿日時 - 2013-08-31 12:13:23

ANo.19

場外通信

10.の動態




私は永遠の終わりを知らない
そして 始まりも知らない
ただ信じるという 永遠があるだけである

私に微笑みかける永遠は
小さな みしるし となって首にかけられた
命ある限り離さぬ しるし である

山のごとく積まれし言葉も
掌を合わす一瞬には およばずと
三度び繰り返す礼にあらはるる
わが偽りを確かめつつ呼びかければ そこにあるもの
鎮まりをもってあらはれ わが拙なき呼びかけを聞くもの
その慈しみに限りなく
その計らいに過ちなきと
心置く安らぎは 灯なり

わが信心は他にあらざりし
わが身ひとつに与えられし信心は
わが身ひとつに来たる 永遠の証なり
みしるしは わが命につけられし 子のしるしなり

投稿日時 - 2013-08-30 22:03:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ただ信じるという 永遠があるだけである
 ☆ 《信じる》ということは その対象が《永遠》であるということであって――つまりそれは 非対象ということであり したがって非思考なのですが―― その信じるという行為は 経験事象です。


 ★ 小さな みしるし 
 ☆ 《永遠》あるいは《無根拠》は 上に触れたとおり 《非対象》です。つまり 象(かたち)はいっさいありません。 
 仮りに《しるし》があるとすれば それは あくまで仮りの代理としてのモノです。


 ★ その計らいに過ちなきと / 心置く安らぎは 灯なり
 ☆ 無根拠に《ハカラヒ》は ありません。(そういう比喩をあてはめて 説明することはあり得ます)。

 《心置くやすらぎ》は 《意志の休息》に似ています。ただ 惜しむらくは 問題は 何か一定の対象をかかげてそれに向けて心を推し進め(心差しをかたむけ) そこに意志のやすらぎを得ようとしているかに見られます。

 
 ★ わが身ひとつに与えられし信心は / わが身ひとつに来たる 永遠の証なり
 ☆ 《明かし》は わが身〔と心と〕の行動そのものです。《信心》は そのためのものです。

 《真理が すべてにおいてすべてである》という復活にあっては すでに・以前には信じていたもの(つまり真理)が目の前にあって それをそのいま見ているのですから もう信じる必要はなくなっています。
 信仰をとおしてはたらく愛は そのまま永続しますが 信仰はすでに要らなくなっています。それが 永遠の現在(生身のからだにとっての実際には その動態)です。

投稿日時 - 2013-08-30 22:36:28

ANo.18

こんばんわ。

緊急動議は主宰者の意向により不受理となった。
よって、動議の提出者は速やかに退場すべし。
提示した二枚のカードは、これにより破棄される。
抽象論に対する客観優位の解釈と、主観優位の展開は未確認のままに終わる。

主宰者の動議否決後の再提示の内容は、動議提出前に示されていた内容と同じである。
その内容の再選択の表明により、この動議は無意味なものとなった。
主宰者側において、無意味なものは受理されず、破棄されてしかるべきである。
また、動議の提出者は主宰者に敬意をもって不服とせず退場すべきである。




選択とは、批判を受けるもの
客観批判と主観批判とがあるものの、それは意志にとって勇気の必要とされる事である。
勇気とは意志の可能性を表すものでもある。




Bさんの勇気は、Bさん自身の言葉に向けられている
そう思います。
あえて一言いわせていただくならば
一元論に立ち返るのであれば、それなりの明確さをもって対処すべき事のようにも思われます。
・ ・ ・ ・ ・



これでまた私も自己批判を背負うことになったようです
勉強というやつでしょう・・
これにて退場いたします。
失礼の段ご容赦ください。
それでは。

投稿日時 - 2013-08-29 23:56:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 1. 質問者の提出しているたたき台としての仮説は 《抽象論》ではありません。《非思考》のことがらを想定して それを復活の議論に当てはめているものです。

 2. 抽象論というのは あくまで経験事象について 象(かたち)を捨てて重要である要素にしぼりそれについて一般的な形象として示すものです。

 3. 《非思考》のことがらは 経験世界を超えた場のことを わざわざ勝手に想定した上で しかもその想定上の場(ないしチカラ)とわれわれ人間の一人ひとりとの関係 これを――ここからは おのおの主観の内でのみ――実際に生きたときその経験を 何とか経験合理性にもとづき自己表現するというものです。

 4. 言いかえると おそらくこういうかたちでしか 復活の議論は出来ない。こう考えてもいることです。

 5. 言いかえると 復活論がもとづく《〔わが心なる〕非思考の庭》においては・つまりその実践としての動態にあっては 一元論しかあり得ません。経験世界を超えた場が ひとつ・ふたつ・・・と数えられるというのは あり得ません。数が特定できるのなら それは 経験事象にかぎります。《元》というのもおかしなことでしょうが 説明としては 一元論ということになります。

 6. 一元論だとしても 非思考のことがらは ひとそれぞれに言わば今度は経験事象として展開されます。ヒラメキの内容として 十人十色です。しかもその内容のうち 復活という主題を取り出して 何とか人びとに共通の問題が経験合理性のゆるす範囲で語り合われるように成し得ないか? これを問うています。

 7. このようにここでのやり取りの前提を捉えている質問者から見て あばうと72さんのご議論は まだそのご見解が どのような内容であるのかさえ捉えがたいとお応えせざるを得ない。こういう経過とここまでの結果です。(6)までに述べた前提から見て明らかなものでなければ 《明確さをもって対処する》ことは 出来ないという意味です。

 8. 敬意をもって不服としないそうですが あえてその姿勢に相い反する物言いがつけ添えられていました。ので ここまでの説明をつづりました。

 9. 《客観》というのは 経験事象を超えた場についての《非思考のことがら》と違って そうではなくあくまで経験世界における事象をめぐりその事象どおりの認識が得られると仮定した上で その仮定した認識内容のことを言います。――ですから ここでの復活論は それが抽象論〔であるか無いかの次元での話〕ではなかったのと同じように この《客観》という視点も 復活論そのものに当てはめるには 筋が違うと言わねばならないはずです。

 10. 言いかえると 一人ひとりの主観に展開された《非思考の庭》としての動態(つまり 信仰のことですが)をめぐって しかも《経験思考》において人びとに共通の内容があるかどうか。それを互いに自己表現しあって共有することが出来るか出来ないか。これを 問うた質問です。主題は 再生つまりルネサンスです。

 11. もし《動議が無意味なものとなった》というのだとすれば それは ここまで述べたきた《復活論をやり取りするための前提》の問題として 互いに共通の出発点に立てなかった――ということなのだと捉えます。

 12. 《動議そのものを 〈主宰者〉たるわたしが裁定した》ともあるいは《動議を裁定するというそのことを わたしがおこなった》とも われながら 承知していない。このこともお伝えしておきます。

 13. こちらからは すでに初めから復活論を その一二の事例を示しつつ おこなおうとしていました。そちらからは それ以前の段階として 議論の前提を決めあおうということだったのかも知れません。ですから この《議論の前提》とは何か? をめぐって 今回はこちらの考えていることを述べて明らかにしようとしました。


 なぜ質問したか? どういう質問のあり方なのか? これらについて質問者の負った文章責任を これで果たしたと考えています。
 

投稿日時 - 2013-08-30 04:47:11

ANo.17

ところで

anāsavāse

ですけど、複数形ですよね。
アーサヴァは複数あることになるんでしょうか?

あとは、dassanaですけど
これを中村元が、「さとり」と訳した理由がわからない。

投稿日時 - 2013-08-29 11:46:53

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 水野弘元・パーリ語辞典によれば:

 まづ

 ・ aasava (skt. aasrava buddhist-skt. aasaya ) m. 漏れ、流漏、煩悩、酒

 という語があって これから派生する形容詞があります。否定形で:

 ・ anaasava (an-aasava) adj. 漏れなき、無漏の

 そしてその項目にすでに 注意書きのごとく 複数形は挙げられています。

 ・ masc.(男性) pl.(複数) nom.(主格): anaasavaase

 と。つまり男性の場合です。
 そこで 次のように確認します。(パーリ語です)。

 ・ a-語基 masc.(男性) 語例:buddha (仏)、dhammma (法)

  sing. nom. -o: buddho, dhammo

pl. nom. -aa: buddhaa ( buddhaase ), dhammaa ( dhammaase )


 ☆ つまり 複数・主格形は 活用語尾が -aa とそして -aase とのふたつのかたちがあるようです。
 かくして

 ・ anaasavaase (m.pl.nom.): 漏れなき〔人びと〕・(中村元訳)心に汚れのない人々

 のような意味と用法になるのだと思います。(英語で the rich and the poor と形容詞を使って言うと その形容詞の意味の当てはまる《人びと》を言い表わす用法と似ているようです。同じかどうかまでは 分かりません)。

 《漏れ aasaa 》とは おのれの内なる心から漏れ出るへそ曲がりの意志であれ ほかの人びとの・それと同じような意志が自分に外から漏れ入って来るものであれ そのような或る種の汚れを表わすのだと思われます。すでに《煩悩》とも辞書に載っているようです。



*

 ★ dassana ですけど / これを中村元が、「さとり」と訳した理由がわからない。
 ☆ dassana (skt. darsana ) は《見ること》そしてこの場合は 《神々しさだとか 或る聖者に神のひかりやしるしを見た》といったときのそれだと思われます。
 これが どうして
 ★ さとり
 ☆ と訳されるのか?

 同じく水野・パーリ語辞典にしたがえば:
 まづ 動詞およびその名詞形として:

 ・ dassati (skt. drs, dars, dras, draks) 見る
 ・ dassana n. (skt. darsana) 見ること  

 と確認されます。この語から スッタニパータ・208の Addakkhi (彼は見た)が活用されて出て来ます。

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・ 208:Addakkhi so santipadaṃ mahesi.
 ・ かの( so )大仙人( mahesi )は平安の境地( santipadaṃ )を見た( Addakkhi )のである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この addakkhi が dassati 見る の活用形だそうです。

 時制は 直説法で アオリストという時制。これは 時点を過去とか未来とかに限定(‐オリスト)しない(ア‐)用法で 通常は 意味として《過去》を表わします。

 ギリシャ語にもアオリスト時制があって その活用は 動詞の語幹の語頭に e- を そして語尾に -sa をそれぞれつけます。言いかえると 動詞の語幹を e-・・・・-sa で囲むかたちです。

 ・ paideu- : まなぶ
  > aorist: e-paideu-sa (彼はまなんだ)

 サンスクリットないしパーリ語も おおむね同じようです。ただ 水野・パーリ語辞典を見ると このいまの問題の動詞 dassati の活用は 特殊なようです。三つの種類があるようです。そこでは e-・・・-sa の代わりに a-・・・-si で語幹をつつむのですが:

 ・ das (skt. drs) (= dassati 見る の語幹)
  >aorist: a-das-si / da-kkhi-si / ad-da-kkhi (いづれも 《彼は見た》)

 一つ目の a-das-si  は 規則的に活用しています。

 二つ目の da-kkhi-si  は 語頭の接辞 a- が抜けている。そして語尾の接辞 -si はふつうのかたち。
 ただし 語幹では -kkhi- という余分なかたちが現われている。 -k- は サンスクリットのほうで 活用形に現われています。
 ・ dassati (skt. drs, dars, dras, draks) 見る

 三つ目の ad-da-kkhi  では 語頭に 接辞の a- が 語幹のあたまの d- を重複させて ad- と変化している。そして 語尾の接辞 -si がもはや抜け落ちている。

 かくして 
 ▼ (208) かの( so )大仙人( mahesi )は平安の境地( santi-padaṃ または 安寧の道)を見た( Addakkhi )のである。
 ☆ となるようです。《安寧もしくは寂静の道 ないし 平安の境地》を見たというのなら 《さとり》に通じているとは思われますが この場合の《見る》は 心の目で見た・つまり知った ということでしょうから それでいいのかなと思うと同時に いくらか 飛躍があるのではないかとも思われます。

 ダッサナ(見ること)が 神の顕現(エピファニ―?)といった意味合いを持っているとすれば かんたんに言わば《知恵》の領域へと飛躍してしまっているかとも思われるからです。

 そうして 《ブッダ(めざめた)》というような さとり を表わす言葉とも 毛色が違うとすれば そのあたりについて 異同をとらえることは 無益ではないと思われます。わたしにいまその用意は ざんねんながら ありません。 

投稿日時 - 2013-08-29 14:17:13

ANo.16

こんばんわ。

私の希望に沿って、質問の主旨を絞り込んで提示して頂いたのはありがたい。
素直に礼を言います。
ありがとう。

ところで・・
なんですが・・
それは かなり抽象的ですね。
掴みにくい感じがします。

なので
Bさんに 二枚あるカードのうちの一枚を引いて頂けたらと思います。
私が用意できるカードです。
両方は駄目です。
また、両方とも引いて頂けなければ、これで私は終了とさせて頂こうと思います。
狭い選択を突き付けて申し訳ないですが、はっきりとさせて頂いた方がいいように思います。



一枚目

この文における抽象性は、そこに含まれる個々の言葉の解釈を上回るものであり、その事を前提として創られた一種の仮定である
このような抽象的仮定を咀嚼するための条件としては
まず、それら各々の言葉の解釈をもって始まりとし
次に、言葉どうしの関係及び関連性の状態を見て
さらには、それらの事柄を踏まえて、全体の意味の解釈を図ってゆく
といった順序に基ずく方法が適切だと思われます
まず、個々の言葉の解釈から
「意志」
考え選び決心する心の働き
考え選び、とは、広く物事を捉えてその中から選択を行うという、いわば感性的な働きを従えたものである、というように考える事ができます
決心とは・・
(未)




二枚目

まだ見ぬ時間は まだ見ぬ復活
試される時間の 試される復活
私の手足に埃が被っていようとも訪れる 

重い空気を吹き払ってくれるものを待つように
下を向いた瞳が すこしだけ動いている
指の一二本が動けば 物を触り
私の自由の胎内に届くものを確かめている
・ ・ ・
(未)

投稿日時 - 2013-08-28 22:47:21

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 提示されて切られるのを俟つカードは わたしに言わせれば いづれも復活論に遠すぎます。
 あるいは 反・復活のご議論かも知れないと思い その筋として考えても それも判断をくだすには意味内容が捉えがたい。――率直に言って こう反応せざるを得ません。

 何とか議論をつなぐにはと思って 思いついたのは 次のくだりです。
 ★★(回答No.13) ~~~~~~~~~~~
  >真理が すべてにおいて すべてである


 きれいな言葉だと思います
 そして、誰も否定できない
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような命題が 復活につながる。という単純な例示を あらためておこないます。

 《誰も否定できない・きれいな言葉》としてその意味内容を持つ一定の判断 これが 復活につながる。
 あるいはまた さらにいまひとつ例示するとすれば

  ○ 無根拠

 です。すなわち じつはむしろ《意味内容を〔ほとんど〕持たない》一定の命題ないし概念 これが 復活につながる。こういう例示です。

 そのような命題例において復活につながるというのは
 ★ まだ見ぬ復活
 ☆ が その命題を捉え返しつつ 自己の存在とその世界における位置関係を思うとき すでに――むろん主観内において――予感されるということを言っています。そのように問うています。

 これは じつは・じつに 生身のからだでいるあいだは 《予感》までなのですが それでも
 ★ 私の手足に埃が被っていようとも訪れる 
 ☆ というふうに捉えた想念の問題なのではなく すでに起こった予感であり 予感としての復活(その状態)なのです。

 それに対して誰かが そんなものは まぼろしだよ 何の証拠も根拠もないぢゃないかと言ったとしますと そこで

 ○ 無根拠

 なる・すでに言ってみれば《神》が お出ましになる。こういう寸法です。これが 主観における――人間という存在にかんするかぎりでの――復活なる状態です。

 ★ 抽象性
 ☆ ――これも 多少なりとも 思考にかかわっているからには――の問題ではなく そうではなく 《非思考》の次元なのです。

投稿日時 - 2013-08-28 23:27:32

ANo.15

こんばんわ。

う~ん・・
「意志の休息」という矢印を
ありがとうと言うべきか否か・・
戸惑います。

>意志はもし休息を取ろうとするなら

ここにおける 「もし」 と 「取ろうとするなら」 が どうしても引っ掛かってしまいます。
これ以降の記述は、この二重の仮定から発した展開のように感じられてならないのです。
そこには主観あり、客観ありという印象を受けるのですが
不思議に思われるのは 
主観を客観視し、それをまた主観に取り入れる、というような
いわば自己完結の形式を取っているように見受けられるのです。
厳しく言わせていただくならば・・
我が主観を客観に尋ねる、或いは、仮定的客観の主観的解釈を求める、というどちらかの選択が見受けられない
そうした印象を持ってしまいます。
(悪いね・・厳しくて・・)

書き替えることが許されるのなら・・ですが

《意志が自由な休息を取ろうとするなら》

と 一仮定の文にさせていただけるのでしたら、楽に答えられると思います。
あまり勝手に・・Bさんの文をいじりたくないので、できましたら「意志の休息」について
絞り込んだ質問の形式をとって頂けたらと思います。



まあ、私は意地悪なんでしょう・・

復活という動態と、休息という無動態というべきもの、対称的なものを持ち出した事は、何となく分かります。
抽象論で終わりたくないのでしたら以上の事をお願いできればと思います。 

投稿日時 - 2013-08-27 22:36:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ○ 意志の休息が――それが 移ろい行かないものであるなら―― 復活という状態につながるのではないか。

 こう問うたまでです。

 《社会への貢献》という《おわり=目的》の例を出しましたが これは 経験行為であるからには その理想とするところを成就したとしても まだそこにおける休息は うつろ行く安寧であろうとも述べました。

 では どういう《おわり=目的》があるか。それは 自分でもとめて 得たならばそれをかかげる。――というふうに述べました。
 それ以上のことは 例示として《無根拠》をちらつかせつつそれ以外は 何も言っていません。
 それは 一人ひとりの問い求めとなる。こう考えるからです。

 たぶん《厳しく言われる》ようなところまでは 何も書いていないと思いますよ。



 ぎゃくにこちらからきびしい言葉を述べるならば これまでに説明してもらった文章は 復活について何がしかのことを述べておられるようながら 心の休息をそこで取るというようには感じませんでしたと言っていると思います。
 だって 分からない。または 分析を繰り広げているのであって 《おわり=目的》をどう生きているかは まだつたわって来ない。のですから。

投稿日時 - 2013-08-27 23:23:36

ANo.14

ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第14回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より

☆釈尊の悟りの内容ははっきりしていない

「さとりの内容に関して経典自體の傳えているところが非常に相違している。いったいどれが本当なのであろうか。経典作者によって誤り傳えられるほどに、ゴータマの得たさとりは、不安定、曖昧模糊たるものであったのであろうか? 佛教の教えは確立していなかったのであろうか。
 まさにそのとおりである。釈尊のさとりの内容、佛教の出発点が種々に異なって傳えられているという点に、われわれは重大な
問題と特性を見出すのである。」(114頁)

http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/archives/11119386.html



ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第15回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より

☆安心立命の境地を得ようとする

「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」
 第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁)

http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/archives/11120400.html


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ちなみに、岩波文庫 ブッダことば スッタニパータ 中村元訳
297ページ

208の註釈に、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

見た―― 「さとる」とは見ることなのである。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


と書いてあるわけです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Yo jātamucchijja na ropayeyya,
Jāyantamassa nānuppavecche;
Tamāhu ekaṃ muninaṃ carantaṃ,
Addakkhi so santipadaṃ mahesi.


Sutta Nipāta 1.12

Munisutta
http://suttacentral.net/snp1.12/pi/


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


マガダ語の話は本当に古いのかどうか疑問だし、
そもそもそんなものないとかいわれたら
そうですか。では、仏教書に書いてあるのはなんなのさ
そして、どこがどうして古いのさ
本当にブッダのことばが書いてあるのかよ
と質問しても反応もなく

自分なりに調べてみてはみたものの、もう知るかよ、と思う。

正直、これ以上は時間の無駄だと思いました。
学習意欲をなくしました。

どうせ縁起とか空とかいっていればいいのです。
思想史なんてものがあるのに。

言葉ではないとか言いながら
正法眼蔵の解説ばかりする人が嫌いです。

投稿日時 - 2013-08-27 10:52:25

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 見た―― 「さとる」とは見ることなのである。
 ☆ この主題ですね。

 まづはスッタニパータの読み解きから。

 ▼ (208) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 Yo jātamucchijja na ropayeyya,
 Jāyantamassa nānuppavecche;
 Tamāhu ekaṃ muninaṃ carantaṃ,
 Addakkhi so santipadaṃ mahesi.

 ▼ (同・中村元訳) ~~~~~~~~~~~~~
 208 すでに生じた(煩悩の芽を)断ち切って、新たに植えることなく、
 現に生ずる(煩悩)を長ぜしめることがないならば、
 この独り歩む人を<聖者>と名づける。
 かの大仙人は平安の境地を見たのである。

 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すでに生じた(jātam-)(煩悩の芽を)断ち切って(-ucchijja)、新たに植える( ropayeyya)ことなく( na )、
 現に生ずる( Jāyantamassa )(煩悩)を長ぜしめる( -anuppavecche)ことがない( na-)ならば( Yo )、
 この( Tam- )独り( ekaṃ )歩む人( carantaṃ )を<聖者>( muninaṃ )と名づける( -āhu )。
 かの( so )大仙人( mahesi )は平安の境地( santipadaṃ )を見た( Addakkhi )のである。

  ・現に生ずる( Jāyantamassa ):これが はっきりしません。 Jāyanto は jāyati 生まれる の現在分詞形。そのあとのつながりが分かりません。
  ・平安の境地( santipadaṃ ):安寧・寂静(Skt. zAnti )の道( pad )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《見る》というのは
 ▼ 平安の境地を見た(寂静の道を見た)
 ☆ のそれですよね。けっきょく《煩悩から自由な世界》ということなのでしょうか。
 中村元は この《煩悩》をおぎなって読み取っている。
 そして 原文では 《煩悩から自由な生き方――すなわち 煩悩に影響を受けても左右されないような・しかもなお煩悩とともにあゆむ生活――》ではなく 煩悩を断ち切るとか消すといった感じになっているようです。それを見たと。





 あと いわゆるミッシング・リンクの問題は 研究者がけっきょく――或る意味で思想家となって――自分で言ってみれば勝手に埋めるということになるのではないかと考えます。

 学者にとどまるなら その失われた鍵の部分が資料として出て来ないなら もうそのままにしておくかも知れません。

 そういう問題だと思います。



 要領を得ない応答でしたが。・・・

投稿日時 - 2013-08-27 23:05:36

ANo.13

こんばんわ Bさん。

どうやら、私は身の上話がヘタなようだ・・
私の中で繋がっているものが、Bさんの中では繋がらない
でも
無理に繋ごうとも思わない

私にとっての復活とは、再出発だったと思う
それは、その時においては、決してきれいなものではなかった
今となっては抽象論に、まとめ上げる事もできるし、美化することもできる
追憶といってもいいかもしれない

でもそれを、上手く話す必要はないような気がする
ただ、こうだった、とあっさり言えばいいだけの事だと思う
ざっくばらんに言えば
男の身の上話なんて、それぐらいでいいのだと思う
勝手だが・・





>復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。

>真理が すべてにおいて すべてである


きれいな言葉だと思います
そして、誰も否定できない



真理は不滅であるがゆえに永遠である
常に永遠は湧きおこる
復活という泉から それは 見る者を求めずして
見た者だけが知る永遠の姿である

私に足りないものを 永遠が指し示すなら
受けとるべき掌に 光が生まれよう
名を付けずに生まれくる光は 永遠の子
再びという命の掌に 与えられしもの

みしるし の無きがままに
今の私が みしるしであると
永遠は語りつぐ
言葉なき愛を受け取る資格は 今ここにあると

呼ぶこともなければ 尋ねることもない
私が知る愛に 偽りがなければ
きっと 私をいざなってくれるに違いない





とまあ
こんな感じで
真理、復活、永遠、愛といったものを詩にしてみましたが
やはり
神や超越的無意識といったところに行きたくなってきます
それでいいといった感じもしますが・・

Bさんが それ以外のものを求めておられるのなら、それは何なんでしょう?
イマイチ分かりません・・
不死の境地・・?

う~ん・・
お互いに訳の分からない事を言い合って
それでよしとするのも悪くはないかもしれませんが・・

投稿日時 - 2013-08-26 21:47:06

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ☆☆(趣旨説明欄) 《終わり=最終目的=意志の休息》の議論
 ☆ と述べています。つまり こんどは 《意志の休息》という捉え方に注目してみます。


 たとえば《理想》 つまり理想の生き方 これがなんらかのかたちであるとします。
 そうですね。無難なところで 《社会への貢献》としましょうか。

 そうしますと この貢献は 経験行為であって かたちがあります。文字や音楽や絵画のしごとであっても かたちがあります。とすると 意志はもし休息を取ろうとするなら その目に見えるかたち(あるいは 文章表現による作品について 心の目に見えるかたち) これが そこで休息を取ろうとする場になります。

 つまり 好きな小説だとか絵画や音楽だとかに 意志の休息を見い出すことは 出来ますし およそふつうにあり得ています。


 ところが このように経験事象に意志が休むというのは そのかたち(つまり 概念的思想的な内容をも含み 総じて言った場合の かたち)の上に・またはその中に 心を休めることになる。

 これは かなしいかな うつろいゆかざるを得ない休息なのではないでしょうか? いかんせん 長くはつづきません。

 つまり《復活》というのなら・または《永遠の現在》というのなら うつろい行くことのない《意志の休息》がのぞまれます。

 《最終の目的=おわり》というのは 人間の考えたものですから これもその中身は 相対的な経験的な・うつろい行くものです。

 しかも意志の休息は 移ろい行かない中身をもとめています。そういう休息をです。


 ○ 真理が すべてにおいて すべてである
 ☆ たとえばこれなら そうするかどうかを別として そこに心を休めるとすれば なかなか移ろい行くとも思えません。

 そういう表現をもとめているのではないでしょうか。つまり そういう心の休息の得られる命題のようなもの これが 復活につながるのではないでしょうか。


 けっきょく言いかえるなら 《認識されうるかたちのある対象》は 心の休息を 一時的にしかもたらさない。となるはずです。

 無根拠 ここに――もしたとえばとして一例を出すなら――意志の休息を得ようとしても よい。となるはずです。

投稿日時 - 2013-08-26 23:19:15

ANo.12

ズバリ、これがわたし(NO1)の本音

☆ ええ。一般に《復活》と言えば クリスチアニズムのものと思われます。

質問者さまは、復活を明確に定義されていると思われませんが、復活は死からの復活と考えますと、人類史上、死からの復活の検証はなされたと聞いたことがありません。仮にわたしの知らないところであったとしても、統計的にほぼ100%死からの復活は無いと言えるでしょう。(信仰的は尊重されるべきですし、幻覚として見る場合もありえますが。)

私達は事象の正否を判断する場合、有りうる可能性は認めますが一般化されてない場合は、否とします。これは、私だけでなく多くの日本人や、国際的にも同様の判断に立つと思います。例えば、尖閣諸島や竹島などのように主張が相容れない場合、武力行使が起こったとしても、正しい解決方法としては国際法などの検証を待つべきだろうと考えます。

で、本題に戻りますが、人間を初め動物も含めて復活は有り得ないだろうと見ます。IP細胞も復活とは言えないし、輪廻転生も復活とは違うでしょうから。これが結論です。しかし、個々の精神的事情により、立ちきれない思いや、精神的な葛藤などが起因して復活を切望する場合は、個々の対応として完全否定するものではありません。ここで、事象と精神で区分する必要があると考えられます。

以上です。

投稿日時 - 2013-08-26 17:45:21

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 復活を明確に定義されていると思われませんが
 ☆ はい。一例を挙げておりますが きちんとした定義はかかげておりません。

 これには 事由があります。
  
   復活とは 将来おこるべきこととしていま臨むのがただしい

 と考えるからです。生身の人間でいるかぎりで ほんとうには分からないと考えられます。
 そうして ひとつの実例を提出して問うています。


 ★ 復活は死からの復活と考えますと
 ☆ ええ。おそらく そう捉えることになると思います。

 ★ 人類史上、死からの復活の検証はなされたと聞いたことがありません。
 ☆ おっしゃるとおりです。聖書にたとえばイエスのほかにも ラザロが――死んだようになったあと息を吹き返し生き返ったというのではなく そうではなく すでに死臭をただよわせていたところ――復活したという物語が語られています。
 そもそもこれも 検証をするしないの前に 虚構であります。物語として語られています。強いて言えば ちょうど《神》というものを証明つきでかかげるのではなくただそれを想定するに過ぎないのと同じように この《復活》ということも それとして想定されている。ということであり そうであるに過ぎないことです。


 ★ 仮にわたしの知らないところであったとしても、統計的にほぼ100%死からの復活は無いと言えるでしょう。(信仰的は尊重されるべきですし、幻覚として見る場合もありえますが。)
 ☆ 《物語として想定する》ことであるゆえ その復活については《将来おこるべきこととして いま臨む〔のがただしい〕》となります。

 証明できるとは思っておらず 証明しようともしていません。あるいは 語ったことについて真偽を検証しようとしているのではなく 《経験世界において起こる事象》としてはあり得ないと考えられることを なぜか想定したのです。それを受け容れるひとは 受け容れるということです。ただそれだけのことです。

 そしてこのことは
 ★ 信仰的は尊重されるべきですし
 ☆ というふうに一般になっています。信教・良心の自由という公理です。
 ★ 幻覚
 ☆ は 経験事象です。
 ただし その想定した復活について あたかも時には予感することが――そのひとの主観にあっては――あるかも知れません。予感は 経験事象に属します。となると 世間一般的には この予感も まぼろしである。と言ったほうが 妥当な議論である。こうも考えます。一般に ヒラメキですね。
 

 
 ★ 私達は事象の正否を判断する場合、有りうる可能性は認めますが一般化されてない場合は、否とします。
 ☆ これは 微妙なところです。
 一方で 神だとか復活だとかという《非経験の場》にかかわる《想定》の話である 他方では その《経験しうべからざる非思考のことがら》を予感するという経験事象の話である。

 ですから そのひとが予感したと言うなら そのひとの主観のかぎりで 予感という事象は起こったとなると思います。そして ただしその予感の内容は(予感したという対象は) 非経験の場という雲をつかむことがらです。
 総合して捉えるに その人が主観において 想定されている神のことを――そのもとにあるなら あたかも永遠の時空間を生きると想定の結果考えられる――予感したということまでは その成否を判断するのを別としつつ みとめられるのだと考えます。
 
 つまり 《否とする》のではなく 成否は分からずその判断を棚上げして 予感を持った(ヒラメキが得られた)ということ自体についてはみとめる。こういう取り扱いになると考えます。



 ★ で、本題に戻りますが、人間を初め動物も含めて復活は有り得ないだろうと見ます。IP細胞も復活とは言えないし、輪廻転生も復活とは違うでしょうから。これが結論です。
 ☆ ええ。そしてこの結論は 初めから決まっています。みとめられています。つまりなぜなら 経験事象としては 復活があり得ない。こう言っているからです。

 しかも想定としての神ないし復活というのは そのあとに 主観においてゆるされるかぎりで 物語をおのが胸にいだくとき あぁ 予感があったとなればそのひとは 復活について さらに問い求めることになるでしょう。そしてただ それだけのことなのです。この大前提において この質問は成り立っています。


 すなわち
 ★ しかし、個々の精神的事情により、立ちきれない思いや、精神的な葛藤などが起因して復活を切望する場合は、個々の対応として完全否定するものではありません。ここで、事象と精神で区分する必要があると考えられます。
 ☆ と捉えられることがらは あくまで経験事象のことです。そのかぎりで 誰もに起こりうる事象だとして取り扱われます。そうならば経験事象一般というのは 非経験の場ないし非思考の庭にとっては どうでもよいことなのです。神を想定する以前の段階(あるいは次元)の世界での問題だと捉えられるからです。

 
 むろん経験事象を取り扱うのは 経験科学があります。しかもこの経験科学が扱い得るかぎりで――なぜなら 予感ないしヒラメキということ自体は 経験行為だからなのですが・したがって半分そうではないことがらであっても扱おうとするには―― 《想定しておく》というかたちで議論が起こされる。こう考えてのことです。


 

投稿日時 - 2013-08-26 19:13:25

ANo.11

こんばんわ。

>すなわち わたしの考えでは
 ★ そこには、きれいに物事を捉えようという理想は二の次であっていいと思います
 ☆ とは考えません。つまり その切り口が違っています

理想と理想態は違う
そんな感じがするんですけど・・
少なくとも、私の場合はそうだった と思いますね、振り返って・・
自分自身に立ち止まることを許さなかった
回想としては、きれいだけれども
その時においては、きれいに物事を考えてからというような状態ではなかった
悪く言えば、行き当たりばったりの泥んこ状態・・だった
いまだもって、なぜ自分がそうできたのかは答えが出ていない
でも、振り返ると、若さというか、限りなくきれいに見える

概念解釈と実態のズレみたいなものはあると思いますよ。
どうしても私の場合は、私自身における復活というか、そんな姿が浮かんできてしまう
そこに私がいて、行ったという事実が一枚の記憶になって蘇ってくる
忘れないですよ
忘れられない一瞬があったという事を
きれいには見えるんですけど、わざときれいには見たくない
あまり言葉で言い表してもみたくない
そんなもんです
すこしだけというなら・・
絶望を必死になってこらえて 力をふり絞って
という、きれいな馬鹿状態です
二度と不可能な きれいな馬鹿状態
それが私の復活でした、だったんでしょう・・。

ご参考まで。

投稿日時 - 2013-08-25 20:02:29

お礼

 申し訳ないですが 意味が読み取れません。

 この質問へのご回答のすべてをとおしてだとも言えると思います。

 たしかに何が何でも《おわり=目的》から始める場合にのみ《復活》があるというわけではありません。ですが そうした場合の別様の回答というのは 内容が分かって初めて なるほど そういう見方・行き方もあるのかと受け取ることが出来るというものです。


 もし
 ★ ・・・それが私の復活でした、だったんでしょう・・。
 ☆ ということでしたら その復活の起きた時点のあとと前との違い そしてそれがどういう考え方によるものなのか などを明らかにして示すことは必要ではないかと考えます。

 そういう意味で読み取れないでいます。



 ★ 理想と理想態は違う
 ☆ ですから それは ひとつの地点に立ち止まって来し方行く末や現状の分析をするぶんには そうなのでしょう。
 けれども すでに出発しているときの行き方については 《態》をつけようとつけまいと あまり違いはありません。

 そして つねに必ず《復活》の状態を生きていることは 《理想》のそれだということでもないはずです。なぜなら問題は 或る時これこれが《わが終わり=目的である》とさだめたというところから出発するのであって そのさだめるときに《理想》は 持っていてもよいし 持っていたそれを《目的》としてもよいし そしてそうでなくても何らかまわない。こういう事情だと考えるからです。

 それとも 《理想態》であるなら 《復活》が成るといった見解でしょうか? 
 なるほど復活は 主観の内における状態ですが 《理想ないし理想態》は 一般に《復活》とは関係するともしないとも決まっていないコトだと思います。つまりその《理想》を すでに主観として復活につなげるということは 《おわり=目的》ではない場合が出て来ます。その意味で どうもふるい人からあたらしい人への再生という場合が なるほど主観の問題だとしても成り立っているようですねと見ることが出来るとは なかなか思えないのです。

 質問者なるわたしの提示する行き方にこだわる必要はないと重ねて申し上げますが けれども No.1のやり取りからずっとこれまでそのわたしの復活観などについて述べて来ていますので それとの比較やそれへの批判をするかたちで ご自身の世界観を明らかにしてもらえるなら 分かりやすくなって さいわいに思うのですが。・・・


 ご回答をありがとうございます。 
 そして まだわたしには理解力がおよばないということを率直に申し上げるしかありません。

投稿日時 - 2013-08-25 21:02:45

ANo.10

難しい。わかれば苦労は無いのだけれど。

検索していたら見つけたサイトです。
でも、重いかもしれません。

sutta central
http://suttacentral.net/


Nandamāṇavapucchā
http://suttacentral.net/snp5.8/pi/

サイトの右側の

Pali→English Dictionary ボタンをクリックして、
パーリ語の文章の上に、マウスカーソルをのせると、意味が表示されます。


それで、
「学生ナンダの問い」ですけれども、


samaṇabrāhmaṇāse

anāsavāse


-āseで検索していたときに、2つも単語が出てきたので
気になり、話題にしてみます。

samaṇabrāhmaṇāseは、道の人・バラモンたち、でいいとして、

anāsavāseですが、an+āsavaだとすると、

アーサヴァを否定しているのだと思います。

āsava : [m.] 1. that which flows; 2. spirit; 3. discharge from a sore; 4. ideas which intoxicate the mind.
http://www.budsas.org/ebud/dict-pe/index.htm

とりあえず、アーサヴァを「流れ」と考えてみたのですが、


「アーサヴァの滅」について
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/67390996.html


anāsavāseは、
たぶん中村元の訳だと、「心に汚れの無い人々」の部分だと思います。

Te ve narā oghatiṇṇāti brūmi

この部分は、
「かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、私は説くのである。」
だと思います。

oghatiṇṇātiが『煩悩の激流を乗り越えた』でしょうけど、煩悩の意味は無いと思うんです。
あるんでしょうか?


それにしても、nivutā 覆われている。これは以前問題にしたnibbutaと関係あるんだろうか?
とか、mahesino 偉大な仙人
とか、

学生ナンダの問いは、古いのかどうかは知りませんが、
思ったより、興味深い箇所でした。

投稿日時 - 2013-08-25 14:45:04

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ oghatiṇṇāti が『煩悩の激流を乗り越えた』でしょうけど、煩悩の意味は無いと思うんです。 / あるんでしょうか?
 ☆ ないです。

 ● (1088) Te ve narā oghatiṇṇāti brūmi
 ○ (1082) かれらは( Te )実に( ve )『煩悩の(* これは語としてない)激流を( ogha- )乗り越えた( tiṇṇā- :pl. < sg. tiṇṇa- )人々( narā ) である(* コピュラはない)』と( -ti = -iti )、わたしは説くのである( brūmi ) 。

 
 ここで
 ★ とりあえず、アーサヴァを「流れ」と考えてみたのですが
 ☆ ということですよね。次の中村訳とは違う解として。
 ● (1088) Anekarūpampi pahāya sabbaṃ, taṇhaṃ pariññāya anāsavāse
 ○ (1082・中村元訳) また種々のしかたをも(Anekarūpampi ) すっかり(sabbaṃ)捨てて(pahāya)、妄執を(taṇhaṃ)よく究め明かして(pariññāya )、心に汚れのない人々(anāsavāse)


 ☆ それは 次のような解釈にもとづいているのだと。
 ▼ (「アーサヴァの滅」について ) 仏教においても古い詩節では、船に漏れ(=アーサヴァ)込んでくる水の意味を留めている。アーサヴァのない人こそ激流を渡った人であるとも言われ
 ☆ すなわち
 ● āsava : [m.] 1. that which flows;  2. spirit;  3. discharge from a sore;  4. ideas which intoxicate the mind.
 ☆ 中村説は (4)の《間違った考え》の語義を採っているが そうではなく (1)の《流れるもの》の語義を採るほうがよいのではないかと。

 肩すかしになるかも知れませんが 《船に漏れ(=アーサヴァ)込んでくる水》という語義で 《謬見なり心のけがれなり》を喩えているとは見られませんか?



 それから Anekarūpena のルーパですが これも《仕方》でよいと思うのですが。なぜなら すでに先行する詩句の中で たしかに《種類の多いやり方》が取り上げられているからです。
 
 ● (1086) Anekarūpena ~~~~~~~~
 ・ aneka: many; various.
 ・ rūpa: form; figure; image; object of the eye; a material composition. (nt.)
 ・ > rūpena :具格( ~によって)
 ○ (1080)(中村元訳) 〔見解によって、また伝承の学問によって・・・戒律や誓いを守ることによってなどのほかにもさらに〕種々のしかたで
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 それから 次のことは 余計ですが 触れます。
 ▼ (「アーサヴァの滅」について )~~~~~~~~~~~~
 さらに、山崎氏は、『スッタ・ニパータ』は、言語学的に難解な箇所があるけれども、『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』などと、多くのパラレル(並行句)を有している、ジャイナ教の古い経典を参考にすれば、それらの解読の大きな手助けとなるだろう、というようなことも言っていた。 
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういうもったいぶった言い方は ものごとを探究する者の姿勢ではないと考えます。

 すなわち 《手助けとなる》資料やその解釈そのものを 一つだけでもこの時点ですでに例示して議論しなければ何にもなりません。
 もし例示をしなければ われは いつかはさとりを得るであろう その手掛かりを じつは 得ているんだ――このようにうそぶく輩と大差ないと考えるからです。



 ★ nivutā 覆われている
 ☆ など保留しますが。

 ふうーう。

投稿日時 - 2013-08-25 15:54:49

またやってしまった・・
なんで自分はこうなんだろう
人に主観を押しつけないと気がすまない
繰り返される 愚かな復活という
自由に名を借りた 一人だけの復活・・



ごめん、Bさん
つい独り言が多くなってしまった・・



あらためて

復活とは今を生きる事じゃないですかね
振り返ることじゃない
新しい時間を なぜ? と問わずに進む事じゃないですかね

向きあう事も大切だが、それ以上に進む事だと思います
そこには、きれいに物事を捉えようという理想は二の次であっていいと思います
自由という源泉から発した力は、まず現実に向けられてゆく
それでいいんじゃないですかね

前にBさんから 「永遠の現在」という言葉を頂きましたが
それはもう、巨視的な自由への讃歌、希望の概念へと連なるものでしたが
それはそれで、井の中の蛙の夢といえなくもない
それでいいと思うんですが・・
「復活」となると、そこには「過去に対しての」という意味付けがなされてくる
「新生」という言葉に対して、どうしても重い感じが否めない
現実を踏まえたというか・・
・・・・・
復活とは、自由を見ることではなく、自由を得ることだとするならば
それは現実において 今という時間を悔いなく生きようとする事じゃないですかね
それだったら、まあ何となく頷ける気がします
復活における その者は 復活を復活とは思わない
それぐらいの強い前向きさを復活と呼んでもいいと思います。

投稿日時 - 2013-08-25 12:09:35

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 人に主観を押しつけないと気がすまない
 ☆ これは 理由や内容の説明について必要かつじゅうぶんなものがあればよいと考えられます。


 ★ 復活とは今を生きる事じゃないですかね
 ☆ これは 一連のやり取りの中で出て来ているとおり・そして趣旨説明欄にも触れたように 《永遠の現在》という捉え方です。
 ただし 永遠の現在が 次から次へ過程して行く動態において
 ★ 振り返ること
 ☆ は むろん自由におこなってよいのですし
 ★ 新しい時間を なぜ? と問わずに進む事じゃないですかね
 ☆ でもなく 《なぜ? と問》いつつすすんでもかまわない。はずです。なぜなら 《おわり=目的= 意志の休息》という――想定上の――状態につねにあるからです。

 すなわち わたしの考えでは
 ★ そこには、きれいに物事を捉えようという理想は二の次であっていいと思います
 ☆ とは考えません。つまり その切り口が違っています。しかも 結果としては 《おわり=目的》の中身が 自分の思う《理想》であるということは あり得ます。あるいはぎゃくに 《きれいに物事を捉えようという理想》とは かけ離れているかも知れません。

 とにかく初めに《おわり》を設定するという見方を提出していますので それとの関連を 批判的ににせよ重なる部分があるにせよ 明らかにしていただくと分かりやすいと考えます。

 

 ★ 自由という源泉から発した力は、まず現実に向けられてゆく / それでいいんじゃないですかね
 ☆ もしこうであったとしても 《おわり=目的》設定の行き方には そういう分析は必要ないと見ています。


 ★ ~~~~~~~~~~~~
 復活とは、自由を見ることではなく、自由を得ることだとするならば
 それは現実において 今という時間を悔いなく生きようとする事じゃないですかね
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういった分析も 要りません。というのが 趣旨説明欄の主旨です。すでに《おわり=目的》のもとに出発しているということになります。もう自由がどうのあるいは復活さえもがこうのという議論の段階ではないという意味です。

 《悔い》があろうがなかろうが という意味です。(軌道を修正することはありますが 悔いからではなく 《おわり=目的》の設定内容についての反省からです。その反省がなければ 悔いや挫折を味わっても 道は変わりません)。




 総じて言って 立ち止まっての分析が多い議論だと感じます。言いかえると その分析の地点ないしその地点に立つ姿勢が そのままじっさいの生活における発進なのだと言おうとしている。そうであるかどうかは ひとそれぞれです。
 言いかえると この《人それぞれ》のすでに出発している行き方について明らかにするのが 《おわり=目的》から始める思想(つまり生活態度)です。

 分析は 遅疑逡巡だと決めつける立ち場になります。

投稿日時 - 2013-08-25 14:48:00

こんばんわ。
お元気でなによりです。

抽象的ですが
自由の内側を見たことはありますか・・
私は 見ない方がいいと思っている
なぜ? と言われれば
自由はきれいだからです

与えられるという言葉は実は甘い
直観という言葉ですら本当ではない
人間が名付けたものは、人間にとってだけの意味がある

人は復活しない
人はそこで終わる
私はそう思う
自由だけが復活するという事はない

何度、雷が落ちるのだろう
私の自由は、その雷をまだ足りないと言っている
暗闇の中で
私が私にうなずく瞬間、新しい自由が生まれる

言葉を後にして生まれる自由はきれいではない
きれいという自由ではない
それでいいと思う
終わりから付けられるきれいさは、いくらでも付けられる
だからそれでいいと思う
きれいと思う時、自由は終わっている

見ない方がいい
その方が復活に近い

投稿日時 - 2013-08-24 22:36:54

補足

 内容もさることながら ここでの初めのあいさつとしての
 ★ お元気でなによりです。
 ☆ が 致命傷だったようです。

投稿日時 - 2013-09-03 10:27:42

お礼

 分かりづらいですね。まづは ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~
 人は復活しない
 人はそこで終わる
 ~~~~~~~~
 ☆ ここだけですね。ふつうに分かるのは。

 そしてここは分かる表現で書かれていますが その内容は 必ずしも自明ではありません。

 つまり 趣旨説明欄には

   復活とは 《真理が すべてにおいて すべてである》

 という見方を持っていると書きました。これに対する批判であれば もう少し説明が要るのではないかと思います。


 すなわち

 1. ひとは その生を終える。終えた生から復活はしない。

 2. ということでよいのですが それでも生を終える前に
 
   《真理が すべてにおいて すべてである》

 状態に入ったなら どうなるか?

 3. その状態にあっては 《世界におけるすべてのモノ・コトの因果関係を知る》ことになる。この状態を《復活》と呼ぶ。というかぎりで――想定上だとは言え―― 復活がありうる。かも知れない。

 4. おのれの人生における心なる真実の軌跡 これが すべての人間関係や行為の錯綜してからまる関係の中でほつれた糸をほぐすようにそのいきさつのすべてについて分かる。

 5. そこで おのれ自身と・そして世界と和解することが出来るかも知れない。あるいは ぎゃくにこれこれは 赦されないことだと分かって その責めを当事者に対して明らかにしようとするかも知れない。

   


 あとは 《自由はきれい》だとか まだ意味を読み取れていません。

投稿日時 - 2013-08-24 23:05:53

ANo.7

ふられおんです。
子供たちが夏休みのうちは忙しくて、お勉強しているひまもないのですが、つい始めてしましました。
思索を広げないでとりあえず反応だけしてみます。

 ★ 不幸にして心労から自殺する人がいる事はさておき
 ☆ これは 《さておき》とする行き方は たぶんみなさんから迎え入れがたいという感じを持たれてしまうのではないでしょうか。

この辺りに関する事を私も自分で質問を出していて、個人に帰属する生命の死のほかに、社会的な死とでも言うべき事柄を人は感じるのだと判りました。
私は奇麗事を並べる慈悲心を抑制していますが、この辺りのこねくり回しは、実際に社会的信用を自分の命と重ねる当人が、何か言わなければ私は自分でどうこうしようとは思いません。


コレにもつながります。
★ この例え話に過ぎない死活問題
 ☆ 単なる揚げ足取りとしてですが ここで《例え話に過ぎない》という捉え方をするのは どうかと思います。その人にとっては視野が非常に狭くなってしまっているので まづはしっかりと我れに立ち帰って自分と世界とをみつめて欲しいというところだと思いますから。

助けてください。
代わりに考えて私に知恵を授けてください。
そんなだとしたら、自らの死の幻影は克服できないだろうと考えます。
その姿勢が死そのものですから。

無明の使い方に難がある事は了解しました。
何が何でも仏教にこじつけようとする姿勢が確かに私にはあり気をつけようと思います。

先々の事の成り行きに、死えと追いやられる道筋を考える人もいます。
非仏陀と言ったのはそういう人たちの事です。

★ 私は自らの寿命に頓着せず、常に生きようとします。 / この姿勢が一貫して、死を生きる行いに割り込ませないだけです。
 ☆ 申し訳ないが この姿勢は ふつうの人が かなりであれ多少はであれ悩みに悩みその苦しみを経たあと 寿命は寿命だとあきらかに知ったと見なし そうしてふたたび生きることへと一歩を踏み出すというようなかたちと中身として捉えられるふつうのことだと考えますが これも揚げ足取りになりましょうか。

その通り普通の事です。
ただし実際にコレが出来ると驚かれる。
不死者としてね。
そもそもくだらない事です。

★ 現在を阻む死の予感が幻であるように、現実的には、その幻の先を観る縁起知性も不死者ではありませんが、かなり昔はこの辺が理解も説明もできないで、不死者として尊敬を集め、仏陀なる称号を授かりました。
 ☆ 《死の予感》は 《まぼろし》ではありませんよ。いつ来るかは分からないが やがて来ることに間違いないからには まぼろしだとして打ち克つというものではないと考えます。

 《現在の行動を阻む》なら そのような死の予感はさしさわりがあるので 何とかしようということなのでしょうが 《不死者ではありませんが》という認識に立たなければ話は始まらないとすれば 死の主題は ひとが避けて通れないほどの現実であり得ます。


安易に死活問題と言う言葉を持ち出すことになぞらえて、死の予感を余計なことだと表明しています。
死の主題とは、私の出した結論では観念上で死の儀式を執り行う、死の体験から理解する、死の悟り=無の悟りです。
多分、そんなことしなくても説明すれば理解してもられるところまでもっていけるのですが、誰もかれもが腰が引けてます。


ひとのおこなう意志行為は すべて時間的な行為であって ほかのひとと互いにからみ合って 社会過程としてその因果関係がしかも構造的に推移して行く・そういう世界にひとは生きている。これが 縁起観であり 無我ないし無常という世界観のこと(基礎部分)です。これは その昔ブディズムが説いたものだとしても けっして専売特許でも何でもありません。

 もし専売特許だと言うものなら そのブディズムとやらは その時間観や因果関係論のさらに上に煩悩を あたかも不治の病の元凶と見なすがごとく大前提として説き起こし 人びとよ この無明地獄をさすらいたまえと言って 自分たちはそのさすらう人びとのお情けにすがって生きている――このような人種です。

この辺の寸評と認識はいい線いってますよ。
自由に自己の思索を進めれば、私はジラーチちゃん話になりますが、その前に仏教を補強したいと考えています。
金もうけのために本を書くともよそで表明していますが、本気でして東洋から発祥して哲学と呼べるものを出していきたいと考えます。
私の文章力では学問的な哲学より柔らかい物となりますが、それでもやるつもりです。

投稿日時 - 2013-08-24 01:50:24

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。


 今回は自由に考えを広げてあそぶように あるいは コーヒーを飲みながら話を交わすようなかたちになります。


 ★ ~~~~~~~~~~~~
 先々の事の成り行きに、死えと追いやられる道筋を考える人もいます。
 非仏陀と言ったのはそういう人たちの事です。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここでは しっかりと文章に即して考えたのですが ふたつ反応があります。
 《非仏陀》ということは ブッダが目覚めたという意味ですから 《目覚めていない》ということになります。とすれば 《死の感覚や観念でなやむ》状態は 非仏陀だということですが ――二つ目の反応としましては―― けっきょく仮りに目覚めてさとりを得たという状態 そういう状態にある人も やはり死は悩みの種でありつづけるのではないでしょうか?

 ひとつは 不用意な状態のところを襲う死であり ひとつには 志半ばにてやはり死におそわれること こういったいやな感じは だいたい持つのではないでしょうか。生きているかぎりで。

 
 いやいや ブッダとなったなら 死などは屁でもないと言っていられる人は別ですが
 この問題は けっきょくわたしに思われることには 人間の生は言うにおよばず人間のちからに限界があるということだと考えます。

 ひとを生かすことは言うに及ばず 自分を生かすことさえ けっきょくのところでは おぼつかない。
 そしてこのことは 何も決して 敗北主義なのではなく また だから何も努力しないなどということにはつながらず そうではなく この世界における人間の位置づけという問題にかかわるものと思います。

 どれだけよい成果を出している場合でも つねになお上には上ということがあります。問題は この《務めは かぎりなくつづき わがちからは かぎりがある》という事態なのではないでしょうか。


 ここで わたしの虎の巻は 《きよらかなおそれ》です。
 かぎりある・あやまちうる能力で生きるわたしは いまの務めにふさわしいか? これについては きよらかなおそれをいだく。ということになるのだと思います。


 そうでないと 情報が入って来ません。いい情報が入って来ません。たとえ入って来ても 聞きのがします。
 よい情報が入ってくるなら そのつど自分の料理したあらたな情報として 発信することが出来ます。



 えらそうに言うのも けんかをするのも かまわないと思いますが きよらかなおそれだけは忘れずにと思います。
 あるいは ぎゃくに言えば きよらかなおそれを持つがゆえに 世界に向かって挑戦的になることがあり 相手に向かってけんか腰にさえなることがあり 言わば問い求めというしごとに貪欲にもなり得ます。

 ・・・

投稿日時 - 2013-08-24 14:02:33

ANo.6

No4の補足です。
不死伝承の歴史的成り行きに関しては論理はかなり完成されたものだと自負しています。
ここで出てくる死えの無明が、現在も続いているという論点では考察する余地があります。
コレに関しては、いつ死のうが私の個人的尊厳の範疇で、死を悲しんでほしくはない、私は生きている間の幸せをを携えているのだ。
この信条で生きることで、現代も続く死は打ち払われるでしょう。
生かす事ばかりで自らが生きると、自らの死後の幼子に思いが及び、死にたくないと考えるでしょう。
それは憐れむべき死にざまです。
幼子は、大人の助けを借りながらたくましく生きるでしょう。
苦しんで死ぬことは、一生懸命他者を生かすことにいそしんだ、自らの幸福を知らない悪人でさえ、実は生かされていたのだ、すなわち阻害されず共に生きていたのだ。
こういう人間的な人情話です。

投稿日時 - 2013-08-23 02:06:41

お礼

 つづいてです。

 申し訳ないが ふられおんさんの文章は 舌足らずだと思います。

 ★ 不死伝承の歴史的成り行き
 ☆ 前回では 《不死伝承》の話があるというまでのことと受け取っています。

 ★ 死えの無明
 ☆ 《無明》一般としては むしろ《根本的な生存欲》のことだという解釈が出されています。
 そして論議を呼ぶものと考えます。

 生存しようとしないことを それではニルワーナとしてのさとりとするのか? といった物言いが出るでしょう。(このような主題については さんざ質疑応答を繰り返して来ています。どうか過去のやり取りを参照してもらえらばさいわいです)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 コレに関しては、いつ死のうが私の個人的尊厳の範疇で、死を悲しんでほしくはない、私は生きている間の幸せをを携えているのだ。
 この信条で生きることで、現代も続く死は打ち払われるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ブディズムの立ち場としては 先の《根本的な生存欲》があるかぎり 生についても死についても苦(つまり 思うようにならないこと)から逃れられないと見るのだそうです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 生かす事ばかりで自らが生きると、自らの死後の幼子に思いが及び、死にたくないと考えるでしょう。
 それは憐れむべき死にざまです。
 幼子は、大人の助けを借りながらたくましく生きるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その遺された子もまた おのれの無明になやみ苦しむのだと オシエは言います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 苦しんで死ぬことは、一生懸命他者を生かすことにいそしんだ、自らの幸福を知らない悪人でさえ、実は生かされていたのだ、すなわち阻害されず共に生きていたのだ。
 こういう人間的な人情話です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《悪人》が どういうことをおこなったか。これがはっきりしません。ほかのひとの生きることを阻もうとしたのではないのですか?

 《他者を生かす》とひとくちに言っていますが このことこそが 何よりも先んずる主題なのではないでしょうか。その中身を明らかにして初めて 問い求めになるのではないかと考えます。

 それには では自分を生かすには どうしたのか? という問いが立っています。
 ブッダないしブディズムの通念に頼らずに自分の実践と理論とをみなさんに披露することが肝心だと考えます。
 

 
 

投稿日時 - 2013-08-23 08:16:24

こちらに失礼します。
スッタニパータが古いのはマガダ語の箇所があるから、らしいけど
ではどこがマガダ語なのさ

と質問しても反応が無いので
結局、自分で調べてみました。

仏教解釈の参考にでもどうぞ。

あってるかどうかは知りませんが。

Buddhism Downloads
Suttanipata

Suttanipata
(Pali Text)
PTS Version (Andersen/Smith)
https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語転化したものと見られる。

『パーリ語文法』 水野弘元 山喜房佛書林 26ページ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

というわけで、スッタニパータを-āseで検索してみました。

スッタニパータの詩句の番号は

第二 小なる章

376,400,

第三 大いなる章

サビヤの547より後の散文,十二、二種の観察の散文,

第四 八つの詩句の章

774,776,791,803,827,875,876,885,

898,901,

第五 彼岸に至る道の章

1020,1038,1079,1080,1081,1082,1083

誤字や見逃したところがあるかもしれませんが、
とりあえず以上が語尾が-āseのスッタニパータの箇所です。

aseというのもいくつかあったのですが、āとaは区別すると思いますから
今回は除外しました。どうなんでしょうか?私はわかりませんから。

それにマガダ語の箇所はほかにもあるのでしょうけれども。


スッタニパータ
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

投稿日時 - 2013-08-23 01:43:25

お礼

 かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ▼ (水野弘元) ~~~~~~~~~~~~
 パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語転化したものと見られる。

 『パーリ語文法』 水野弘元 山喜房佛書林 26ページ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは サンスクリットでは

   -a 語基・男性・複数・主格語尾 -s (実際には -h となる)

 のことでしょうか。

  ・ asva- 馬: 単数主格 asvah / 複数主格 asvaah

 ちなみに 古典ギリシャ語:

  ・ masculin,sg.nom.: ho hippos 馬 / pl.nom.: hoi hippoi
  ・ 〃  : ho neanias 若者 / 〃  : hoi neaniai
  ・ feminine,sg.nom.: hee oikia 家 / pl.nom.: hai oikiai



 ▼  -āse も ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語転化したものと見られる。
 ☆ そうすると ふるい形は 長たらしかった。ということでしょうか。

 文例にて その語例を検証しうればさらによいのでしょうが 手が出ても足がまだ出ない状態です。ありがとうございました。


 マガダ語(東部マガダ語?)と半マガダ語( Ardhi Magadhii )の区別などもそう言えばありましたね。

投稿日時 - 2013-08-23 07:58:45

ANo.4

質問内容に答える事はさておき主題を「不死者への憧憬」と解釈して見解を述べます。
あなた方の勤める会社が倒産の危機にあるとしましょう。
死活問題として大慌てします。
しかし、事が実際に倒産に及んだとして、だからと言って死にますか?
大借金を抱えた社長さんですらめったに死にません。
不幸にして心労から自殺する人がいる事はさておき、破産しても処刑されません。
簡単な話で、けして死活問題ではないと冷静に対処する事柄です。
この例え話に過ぎない死活問題は生活ののそこかしこに見え、誰もが将来展望に無明を垣間見ると、それを死とします。
わたしは時間認識知性と名乗っていて、コレは事の先々の成り行きが読める、縁起を身に付けた仮面ライダーとして説明しております。
この縁起とは事の成り行きですから現在を起点にした将来に対する無明に対処し死を認識しない事です。
コレが出来るだけで、死の取り払われた不死者として扱われます。
その縁起知性は、仏の知恵と言われまして、死の予感から閉塞した「仏=人間、または自由人」以外の助けを求める崇拝者から、私の死を取り払ってくれるのは、あなたが不死に目覚めた人間の完成した状態であるからだと認識されます。
私は自らの寿命に頓着せず、常に生きようとします。
この姿勢が一貫して、死を生きる行いに割り込ませないだけです。
もちろんいつか死ぬ日が来ますとも。
しかし、それはあなたの死ではなく私の死です。
個人の死の尊厳は、個人の物で私が死ぬからと言って誰からもとやかく言われたくない。
どこぞで、聞いた泣き言に、死は孤独だと言いますが、そんな苦情を言わず、めいいっぱい生きる「無の悟り」イコール「死の悟り」を経ると、死に阻まれず、常に生きるための知恵がこんこんとわき出ます。
人間の場合、、生きる事は一人で生きる事では無くて、生きるために他者を等しく生かす事ですが、崇拝者(非仏陀)は、ここで他者の死に自らの死を重ねるような、成り行きで、自らの死を予感する癖を身に付けたのでしょう。
そんな成り行きで、常に死を念頭に苦しむ非仏陀と、死を理解した超克者たる仏陀、こういう事になっています。
私自身が仏陀ですから言う事に間違いありません。
現在を阻む死の予感が幻であるように、現実的には、その幻の先を観る縁起知性も不死者ではありませんが、かなり昔はこの辺が理解も説明もできないで、不死者として尊敬を集め、仏陀なる称号を授かりました。
それだけの事です。
ここまで明快に、不死伝説を説明すればそれ以上はいtらないと自信満々ですが、感想をお聞かせください。
私の思索の助けともなります。

投稿日時 - 2013-08-23 01:38:47

お礼

 ふられおんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 初めから読み継いで 反応を持ったところでそれをそのままつづって行くかたちで見てまいります。

 ★ 不幸にして心労から自殺する人がいる事はさておき
 ☆ これは 《さておき》とする行き方は たぶんみなさんから迎え入れがたいという感じを持たれてしまうのではないでしょうか。

 つまりこの場合であれどの場合であれ 自殺というひとごろしについてどう考えるかの問題もありますが この場合なら そのような行動にまでひとを追いやる社会生活上の事態 この事態についてもう少し考えておかねばならないという物言いをもらうでしょう。

 社会科学の観点から――つまり要するに 共同自治としての社会政策のかたちで――考えることが大事だとわたしは考えます。

 ★ 簡単な話で、けして死活問題ではないと冷静に対処する事柄です。
 ☆ これは おそらくさっき言った《自死というひとごろし》について しっかりと我れであれというような観点を打ち出そうとしてそう言っておられるものと受け取ります。

 つまりは 道が断たれたとすれば その人にとっては《死活問題》であり その死活問題という事態にあってさらにどう考え対処するかという見方から出発しようと言っているのだと。

 ★ この例え話に過ぎない死活問題
 ☆ 単なる揚げ足取りとしてですが ここで《例え話に過ぎない》という捉え方をするのは どうかと思います。その人にとっては視野が非常に狭くなってしまっているので まづはしっかりと我れに立ち帰って自分と世界とをみつめて欲しいというところだと思いますから。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・誰もが将来展望に無明を垣間見ると、それを死とします。
 わたしは時間認識知性と名乗っていて、コレは事の先々の成り行きが読める、縁起を身に付けた仮面ライダーとして説明しております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 口幅ったい言い方ですが 《無明》の使い方が変わっていると考えます。《無知》または《みづからの煩悩〔についての無知〕》が 生まれながらの《無明》のことだと思います。

 でもここは 将来への絶望から来る真っ暗闇といった意味での無明でしょうか。それの行きつく先は 死であると。

 ★ 時間認識知性
 ☆ これは ごくふつうの人間認識だと思います。つまりひとは《時間的な存在》であるのだということでしょうし それは 生まれて生きてやがて死ぬ・そのように一定のかぎられた時空間を生きる存在であると。

 《縁起》は 直接・間接の原因とそれの結果を認識するというその因果関係のことですよ。

 ★ 事の先々の成り行きが読める
 ☆ これは 或る程度において誰でもみな 何がしかはそう出来るでしょう。空が黒い雲でおおわれたなら こりゃあ雨だという先読みをほとんどの人がするでしょう。

 申し訳ありませんが 《仮面ライダー》でたとえられてもわたしは うんともすんとも反応し得ません。まるっきり知りません。何だか虫が人間の恰好をしてオートバイに乗っているとか。それ以上のことは知りませんので 何とも分かりません。


 ★ コレが出来るだけで、死の取り払われた不死者として扱われます。
 ☆ まわりの人びとの受け留め方として そうなのでしょうが 仮面ライダーのことを別とすることができるのなら あとの《縁起》や《時間認識知性》という説明からは まだよく分かりません。それらは 人間のふつうの存在認識や世界認識〔についての基礎〕を言っていると捉えています。そこまでだと見られますから。


 ★ 私は自らの寿命に頓着せず、常に生きようとします。 / この姿勢が一貫して、死を生きる行いに割り込ませないだけです。
 ☆ 申し訳ないが この姿勢は ふつうの人が かなりであれ多少はであれ悩みに悩みその苦しみを経たあと 寿命は寿命だとあきらかに知ったと見なし そうしてふたたび生きることへと一歩を踏み出すというようなかたちと中身として捉えられるふつうのことだと考えますが これも揚げ足取りになりましょうか。


 ★ 現在を阻む死の予感が幻であるように、現実的には、その幻の先を観る縁起知性も不死者ではありませんが、かなり昔はこの辺が理解も説明もできないで、不死者として尊敬を集め、仏陀なる称号を授かりました。
 ☆ 《死の予感》は 《まぼろし》ではありませんよ。いつ来るかは分からないが やがて来ることに間違いないからには まぼろしだとして打ち克つというものではないと考えます。

 《現在の行動を阻む》なら そのような死の予感はさしさわりがあるので 何とかしようということなのでしょうが 《不死者ではありませんが》という認識に立たなければ話は始まらないとすれば 死の主題は ひとが避けて通れないほどの現実であり得ます。

 あとは 《仏陀》が何を言っているかがまったく分かりません。このくだりだけではなくすでに通り過ぎて来た箇所でも ブッダの意味が明らかにされていないからには 何とも言えないという思いです。

 ブッダとは 人間が成るものだと言ってもその状態についてご自身の説明がありません。世間一般に受け取られているその通念に従うというのであれば それは危険だと見なします。何の確証もなくそのように行きわたっているに過ぎないと考えますから。

 ひとのおこなう意志行為は すべて時間的な行為であって ほかのひとと互いにからみ合って 社会過程としてその因果関係がしかも構造的に推移して行く・そういう世界にひとは生きている。これが 縁起観であり 無我ないし無常という世界観のこと(基礎部分)です。これは その昔ブディズムが説いたものだとしても けっして専売特許でも何でもありません。

 もし専売特許だと言うものなら そのブディズムとやらは その時間観や因果関係論のさらに上に煩悩を あたかも不治の病の元凶と見なすがごとく大前提として説き起こし 人びとよ この無明地獄をさすらいたまえと言って 自分たちはそのさすらう人びとのお情けにすがって生きている――このような人種です。





 ★ しかし、それはあなたの死ではなく私の死です。
 ★ 人間の場合、、生きる事は一人で生きる事では無くて、生きるために他者を等しく生かす事ですが
 ☆ だとすれば 《死は 一人ひとりそれぞれの死である》そのことが 社会生活上のわれわれの主題であり その主題の克服がわれわれの課題であるというかたちになっています。

 この問題は まぼろしではないはずです。それについて
 ★ 不死伝説
 ☆ もあるのだと言おうとしたご見解なのであろうと見ました。
 まぼろしをどう捉えたか。幻の先を観るとか書いてありますが どのようにか。
 このあたりが 誰にとってもの主題であり課題であるという原点の確認なのであろうと見ました。

投稿日時 - 2013-08-23 07:17:19

ANo.3

肉体は滅びても、人類がいる限り、名前や思想については残すことができる。
『青史に名を刻む』という言葉がある通り、歴史上に自分の痕跡を残すということが、「生き残る」のみを唯一欲求とする動物ではない、我々人間の大いなる蛇足であると思う。

復活は、もともと教義を広める起爆剤として『奇跡』の演出として発明されたものであると思うが、復活、不死、といった人智を超えたものの存在は、いつの時代も大衆の『思考停止』や『世論形成』のために用いられていたので、我々の望む社会ではなく、一握りの人間の求める社会のための概念であると思われる。

人智を超えた現象は、いくら思考を重ねても、結論を生めないという点で、『ただ信じなさい』という帰結を受け入れさせるには十分な言葉である。

投稿日時 - 2013-08-22 18:55:55

お礼

 こいぷりんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 そう来られましたか。
 ★ 肉体は滅びても、人類がいる限り、名前や思想については残すことができる。
 ☆ むかしは よく言っていたように思います。《名を残す》ってやつです。うたか何かにありましたね。

 ★ 『青史に名を刻む』という言葉がある通り、歴史上に自分の痕跡を残すということが、「生き残る」のみを唯一欲求とする動物ではない、我々人間の大いなる蛇足であると思う。
 ☆ ん? なかなか読み取りにくいご文章ですね。

 《蛇足》なら 要らないのでしょうか。でも《歴史上に自分の痕跡を残す》ことは《生き残る》を超えた人間の生だということなのでしょうか。

 ただ――つまりわたしは 何でもかでも批判するくせがついてしまっていますが―― 名を残すというのは その名の生きるときとおのれがじっさいに生きたときとは へだたっている。という嫌いがあります。リアル・タイムではないわけです。





 ★ 復活は、もともと教義を広める起爆剤として『奇跡』の演出として発明されたものであると思うが、復活、不死、といった人智を超えたものの存在は、いつの時代も大衆の『思考停止』や『世論形成』のために用いられていたので、我々の望む社会ではなく、一握りの人間の求める社会のための概念であると思われる。
 ☆ これは おそらく そうでしょうね。つまり そういう見方ができるというのが 世の中のつねなのでしょうね。義経が大陸に渡ってジンギスカンに成ったとか。

 ただここでは 微妙にその見方を逸れて 《物語の想定》という方法を持っています。

 すなわち イエスというふつうの人間が キリストと呼ばれ神の子だと自称し他称された存在であり・かつみづからも神であるということ これは あくまで虚構としての想定です。
 このイエス・キリストが 十字架上で死を死んだのち 復活したということも 同じく想定されていることです。

 つまりこの《想定》という方法は 《思考停止》なのではなく《非思考》だととなえるところに 《復活》論の骨子があります。





 人間が神であることや 死んだのちに からだごと再生することは 経験しうべからざる事態です。神は 《非経験の場》だと規定し 復活とは 死んだと思ったら息を吹き返したというような《生き返り》のことではなく 文字通り《一度死んで ふたたび生きる》ことだと規定するなら これらは 非経験のことです。

 言いかえると そのようにやはり想定した非経験のことを 人はその心の内なる《非思考の庭》において――あたかもヒラメキをとおしてのごとく――感じる。(錯覚としてでも 予感すると想定する)。

 ここに《復活》が――あくまでひとりの人間の・つまりワタシの主観の内において―― 時として 捉えられる。・・・このように定義しています。


 早い話が 良心・信教の自由におけるそのいわゆる信仰としての自己表現のことです。
 そうして 神はあくまでこのわが心なる《非思考の庭》においてのみ いだかれています。
 (そのことを さらに自己表現して 他人に伝えることも――表現の自由において―― 行なわれ得ますが それ以上の事実が 共同の主観として成るということはありません。つまりふたりの人間の・主観によるものであったとしてもそのいだく神が まったく同じひとつの《場(ないしそのチカラ)》であるというまでには 検証しえない。となると考えます)。
 (検証しえないのであって 複数の人たちが互いにその《非思考の庭》にいだく神は 同じであると表明することは これも自由だと考えられます。証明は成し得ないものと思われます)。


 かくして
 ★ 人智を超えた現象は、いくら思考を重ねても、結論を生めないという点で、『ただ信じなさい』という帰結を受け入れさせるには十分な言葉である。
 ☆ もしこの結論的命題が 途中で指摘されていた《思考停止》によるのではなく 想定としての《非思考の庭》なる主観(その動態)のことだとすれば おそらくそのとおりだと考えます。

投稿日時 - 2013-08-22 22:33:09

ANo.2

行いを改めれば、それ、即、復活であるし、思い込めば、復活であるし、
わからないことは、妄想が沸き起こるし、復活が嫌だと思えば、復活はないし、不死もない。
有っても、無くても、追いかけることができる。
頭で考えたことと現実。

くだらんことに、妄想力を使うのではなく、事物観察をされたらよいかと。
有能な人は、忙しい。くだらんことに、かまける人は、有能ではない。違うでしょうか。

投稿日時 - 2013-08-22 13:39:36

お礼

 どろっぷよーくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 どうでもよいことをお書きになっている。と思いました。

 どうかNo.1の回答へのお礼を読んでくださって いまいちど考えてみてくださいませんか。

 《無能》な人間は 生きて行くことは出来ないというご主張でしょうか?

 生きて行くことは出来るが 《くだらんこと》を質問することは出来ないというご主張でしょうか?

投稿日時 - 2013-08-22 14:36:48

ANo.1

以下はわたしの思考可能なレベルです。

復活はキリスト教を主流としたものと解釈しますが、それで良かったでしょうか?

1、終わりを起点にして、思考することは出来ます。でも、人間の創作や思考でもない限り、それらは時間の流れに従うことを前提に考えます。不可逆である事。
2、思考の停止が主観的な終わりで、絶対的な終わりは思考の枠を超えていると考えます。
3、永遠の現在とはどのような状態なのでしょう?(1)時間の停止 (2)不滅しない時系列の中にある今。時間が永遠に存在する根拠は無いですね。一秒、一時間、一日、365日・・・、太陽の動きによる人間が決めた尺度。ですから時間は人間の尺度です。永遠では無いかもしれません。宇宙の成り立ちを垣間見る時、その存在自体が人間と関わりなく存在しているようにも感じます。変化する宇宙は永遠とは見られてないと思われます。目に見えないミクロの世界にも同じように言えます。
4、復活は無からのもので、それを自覚出来るのは御自身か近しい知人などしか出来ないように思うのです。「ああ、私は一度死んだけれども今再び生きてる。」。逆に「あなたは復活したんです。」と言われても全く自覚が無ければ、再生ではなく本人にすればゼロからの始まりでしょう。肉体と思考で認識できなければ復活ではないと思います。

復活したと自己主張する事は出来でも、それと同時に証明も不可欠と思います。小説などで、前世は○○だったとかありますが、客観性を求めるものではありません。

何かの参考にでもなればと思い、主観的に列記して見ました。

投稿日時 - 2013-08-22 12:06:39

お礼

 ええーっと まづは そうだん‐ありさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 個々のくだりに反応そのままを述べるかたちで見てまいります。


 ★ 復活はキリスト教を主流としたものと解釈しますが、それで良かったでしょうか?
 ☆ ええ。一般に《復活》と言えば クリスチアニズムのものと思われます。

 そしてしかも まったくどの宗教のオシエであるかにまったくこだわらないで ご見解をのべていただけばよいと考えています。

 ★ 1、終わりを起点にして、思考することは出来ます。でも、人間の創作や思考でもない限り、それらは時間の流れに従うことを前提に考えます。不可逆である事。
 ☆ ちょっと意味がとりにくいのですが 
 ☆☆ 1. すべてを 終わり=目的から 始める。
 ☆ というのは たとえば分かりやすく言えば 《わたしは 首相になる》という《終わり=目的》を 初めに置くということです。《国家を事実上になう公民層が 市民たちに大政奉還をすること》からコトを始める。といった場合を言います。

 ★ 2、思考の停止が主観的な終わりで、絶対的な終わりは思考の枠を超えていると考えます。
 ☆ 前項での説明のようにお応えすることになります。
 つまり 《おわり=目的》を初めに大前提として据えてすべてそのために行動するというとき 志半ばにして寿命が尽きたという場合もあり得ます。しかし そんなことは考慮に入れません。《おわり=目的》から始めて 行動していればよいという意味です。中断されてもかまいません。そこで終わったら終わったというだけのことです。


 ★ 3、永遠の現在とはどのような状態なのでしょう? (1)時間の停止 (2)不滅しない時系列の中にある今。時間が永遠に存在する根拠は無いですね。一秒、一時間、一日、365日・・・、太陽の動きによる人間が決めた尺度。ですから時間は人間の尺度です。永遠では無いかもしれません。宇宙の成り立ちを垣間見る時、その存在自体が人間と関わりなく存在しているようにも感じます。変化する宇宙は永遠とは見られてないと思われます。目に見えないミクロの世界にも同じように言えます。
 ☆ ちょうど前項でお応えしたように コトが始められていれば その《終わり=目的――つまり英語( end )や仏語( fin )は 一語でそのような両義を持ち得ます――》に向けて行動がおこなわれていればそうしている限りで その都度の一時点たる現在は その過程をあゆむワレにとって 言わば永遠です。《永遠》の連続する過程です。なぜなら 大前提に《おわり=目的》をかかげているからです。

 一瞬一瞬がつねに《終わり=目的》を見ているからには そのつど永遠です。永遠の現在が そういうかたちと中身として過程して行きます。

 こういった単純なことを言って 《永遠の現在》と呼んでいます。


 ★ 4、復活は無からのもので、それを自覚出来るのは御自身か近しい知人などしか出来ないように思うのです。「ああ、私は一度死んだけれども今再び生きてる。」。逆に「あなたは復活したんです。」と言われても全く自覚が無ければ、再生ではなく本人にすればゼロからの始まりでしょう。肉体と思考で認識できなければ復活ではないと思います。
 ☆ 前項で説明したごとく まづ 主観的なものです。
 そしてその主観において 《おわり= わが人生の基本的な目的》のもとに永遠の現在をつねに経るかたちで 行動しつづけているなら もうそれよりほかに《おわり》がないということであるからには すでに《死から自由である》――途中で挫折しても その挫折の時点までは 死を寄せつけない――。死を前方に見てさまようことがなくなったなら 死んだ状態から生き返って 言わば復活している。

 むろん重ねてのべれば すべてはあくまで 主観の内に起こっている出来事です。
 そして 主観にかんするかぎりで《永遠の現在》を生きているという実感はあるでしょうし 人間の主観が採りうるあらゆる形態のなかで 《因果関係〔としての最終の死〕から自由》な状態であるのではないか? そういう意味です。

 ほかの人たちがどう見てどう判断しようと おそらくこの《復活劇》は それとして 活きた人生だと考えられます。
 途中の挫折も ものかは となると考えます。


 ★ 復活したと自己主張する事は出来でも、それと同時に証明も不可欠と思います。小説などで、前世は○○だったとかありますが、客観性を求めるものではありません。
 ☆ 《自己主張》は ことさら おこないません。すべての人が それぞれの思想でその主観を生きるというように その中のひとつの事例であるということでしかありません。
 《証明》もしようと思わない。なぜなら しなくてもこの復活劇は生きて行くことが出来るからです。

 前世も来世も関係ありません。《客観性》も関係ありません。

投稿日時 - 2013-08-22 14:32:11

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