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締切り済みの質問

イエスは言葉?

三位一体論によると、イエスは神の御言葉、聖霊は愛だそうです。
ここでいう「御言葉」とは、文字通り、神の発する言葉(word)だと考えてよいのでしょうか?

・子は父から生まれる
・父と子の関係でありながらも、本質においては同一である

ここまでは理解できていますが、「イエスが言葉」というのがどうしても理解できないのです。
最初は比喩的な意味かと思っていましたが、神学者の議論を読むと、比喩でなく、文字通り「言葉」を意味しているとしか思えないのです。

・言葉というのは、魂とは違うのでしょうか?
もちろん、神の本質を分有する人間の魂と、神と本質を同じくするイエスの魂とでは大きく異なるでしょうが……。

・イエスはロゴスだといわれることもありますが、ロゴスは言葉よりも理法といった意味が原義ですよね。
私にとっては、イエス=言葉よりもイエス=理法のほうがまだ理解できるのですが、イエスは理法でなくあくまで言葉なのですか?

投稿日時 - 2013-10-09 00:08:20

QNo.8297839

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回答(10)

ANo.10

 No.7です。


 ★(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
  > ナザレの地のヨセフとマリアとのあいだの子

 これは恐るべき説ですね。イエスがヨセフの息子であるとは!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですか。でも 母のマリアにも 《二重性》だと言っているように 父のヨセフについても二重性はあてはまりますよ。

 イエスにとって片や 肉の父としてのこのヨセフがいて そして片や 霊の父としての父なる神――すなわち 母マリアを身ごもらせた聖霊――とがいるという二重のかたちです。




 ★(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
   > 記憶なる行為能力が 父であり 知解が 子であり 意志が 聖霊だとそれぞれ考えられるようです

これは三位一体論でもよく使われる喩えですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですか? わたしは このタトエは アウグスティヌス以外のところでは見たことも聞いたこともありませんが。

  ・アウグスティヌス:『三位一体論』 中澤宣夫訳 1975 

投稿日時 - 2013-10-11 09:29:20

ANo.9

回答No.5
私達ラージャヨーガのdevoteeとしては、創造の開始にはやはり最初に意志がありそれによって観念が発出された。
その観念を内容とする発した意志がvibrationであった。ゆらぎではない。
太初のことばとは概念や伝える言葉ではなく、観念を携える意志であると認識しています。

投稿日時 - 2013-10-10 08:13:23

お礼

回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2013-10-10 19:52:52

ANo.8

教えを広める際に、人は何によって神を感じることができるのでしょう?
人が感じるのは五感。見る、聞く、嗅ぐ、触る、味わうです。
特に見る、聞く、触る、というのは通常のコミュニケーションでも重要です。

偶像崇拝が禁止されているし、実際に神が発するものを聴いたり触るということは難しいのであれば、それを体現するものがないと信仰が広がりません。

イスラム教においてもイエスは預言者の一人です。
神の言葉を預かっている人です。
神は預言者を通じて自分の言葉を広めることになります。

もう一歩進んで、キリスト教では、キリスト自身の言動すべてが神がもたらしたものというとらえ方をしています。キリストが起こす言葉、行為、そして奇跡すべてが神がもたらしたものです。

キリストを通して、神が何を言いたいかをより具体的に知ることができます。
つまりキリスト自体が神の言葉なのです。
そのため彼の行為すべてを福音書に載せることになります。
彼の言葉だけではだめなのです。
行動を含めて神の言葉となります。
そのため福音書は行為すべてを載せることとなります。
何を言ったかだけではなく、何をなしたかも重要なのです。

と解釈できます。

投稿日時 - 2013-10-09 19:56:21

お礼

回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2013-10-10 19:52:02

ANo.7

 あらためまして こんにちは。


 1. イエスというのは ナザレの地のヨセフとマリアとのあいだの子で ふつうの人間です。

 2. このイエスなる人間がキリストと呼ばれたのは そういう物語です。聖書記者たちが――イエスの振る舞いや発言にもとづき――想定したものです。

 3. キリストは もとは――メシアのことであって――王などの人間のことを言っていましたが 救世主といった意味をも帯びるようになり 果ては 神ないし神の子という意味で使われるようになりました。

 4. イエス・キリストというのは イエスなる人間が キリストと呼ばれる神(神の子でありみづからも神)であるという意味です。

 5. つまり この想定は 物語であり 雲をつかむような話です。したがってまた そこで遣われる言葉はすべて比喩です。

 5-1. イエスがキリストであるという言わば《貌(かお)》においては 母はやはり実際の母であるマリアですが あたかも父は 聖霊なる神だという話にもなっています。

 5-2. マリアは ふつうの人間としての母であるとともに 聖母とよばれるように神の子キリストの――聖霊による身ごもりをとおしての――母であるとも見られるわけです。(イエス・キリストという二重性に応じて マリアにも二重性が付与されます。ふつうのコイトスと処女懐胎との二重性)。







 6. そのような前提に立って 聖書の記事から後世の人びとはさらに 神にかんしてそれは三位一体であるという神学の理論を持ちました。





 7. その説明には 光のたとえがよく用いられます。光源が 父なる神で その発耀が 子なる神で それらの明るさ・あたたかさが 聖霊なる神であると。これらは 光として一体であると。

 8. 人間の生まれつきそなえる自然本性にかんするタトエで捉えるなら 記憶なる行為能力が 父であり 知解が 子であり 意志が 聖霊だとそれぞれ考えられるようです。

 9. 記憶とは 身なる組織の自己秩序作用であり 知識情報について整理し保存する作用だと考えられます。
 知解とは 記憶なる精神が精神するハタラキです。記憶なる精神が言わば自己を自乗するようなかたちでおのれみづからの貯蔵庫から情報を取り出します。
 意志とは 知解がすでに情報を整理しその中から思惟や行動についての選択肢を用意したところでその結論を出すチカラでありそれを実行に移すハタラキです。



 10. 一般に 個人における記憶は 市民政府なる国家における司法府に相当し 知解は 立法府 そして意志は 行政府にそれぞれ比されます。

 11. この三権分立というのは むろん単独で分立ないし独立しているのではなく 互いに分立しつつ協業しています。言わば 社会における三つの権力ないし個人における三つの行為能力は 全体として互いに一体として機能します。

 
 12. ただし人間の記憶と知解と意志との三つの行為能力の一体性は(そして三権分立のそれも) 時間差をともなって成るかたちです。有限で相対性としてある経験世界のことゆえです。

 13. ということは このような経験的で相対的な人間真実とはちがった絶対なる真理の世界が 想定されていることになります。それが 神における三位一体です。そこでは 時間差がなく つねに一体性が成り立っているという想定になります。


 14. 神をいちおうの説明として三つの位格に区別していますが さらに――これは人間が推理し考えることなのですが―― けっきょくは 絶対・無限・不可変性・永遠常住・遍在性などなどがその特性として帰結されてくると思われます。そのように 三つの位格の一体性は 時間差を持つということはあり得ないとなります。



 15. 子の父なる神は 父の子なる神とひとしく また父と子の両者から発出する聖霊なる神ともひとしい。
 父の子なる神は 子の父なる神とひとしく また聖霊なる神ともひとしい。
 聖霊なる神は 父なる神とも子なる神ともそれぞれひとしい。
 このように三つの位格が一体であるというのは さらには 三位一体なる神の全体が 個々の神とそれぞれひとしく 個々の神はそれぞれが 全体なる三位一体なる神とひとしい。となります。

 16. 《無限》は 三つに割っても(三等分しても) それぞれの商が やはり無限であり全体である。というわけです。





 17. 人間の意志行為は 一般によいこともあれば わるいこともあり また良くも悪くもないこと(クルマが右を走るか左をかなど)もあります。思いやりや愛情もあれば いぢわるや憎悪もあります。これらを正負の愛ととらえてみるならば この意志にたとえられる聖霊なる神は まさに《愛》とよぶのがふさわしい。――神の愛と人間の愛とは別だというのみになると思うからです。

 18. 精神が精神する――わたしがわたしするときの意識のその自乗過程――というハタラキである知解は まさに記憶の倉庫から知識や情報を取り出すような能力行為です。つまり 《ことば》と言ってもよいでしょうし 《ロゴス》と呼んでもかまわないでしょう。

 19. 神の子キリストは 父なる神の――すでに意志であり聖霊でもあるその――心の内容を 父の自乗の過程を経てのように 取り出して来て知る。そしてその内容は 父の心と子の心とで一致している。こういうかたちだと捉えられ また説明されています。



 
 20. 一般にこの神は 人間には分からない・つまり分かるか分からないかが分からないゆえ ナゾのなにものかであり それゆえ正体が分からないからには《霊》とも呼ばれます。幽霊ではないかというわけです。――もともと想定から出発しているからには 分からないづくしです。

 21. 《たましい》というのは 一般にこの神なる霊を受け容れた人間の心のことを言います。神を《考える》でもなく《感じる》でもなく それらとは次元の違った内容としての《信じる》ことのゆえです。

 22. もっとも 言葉を表現の問題であらそわないとすれば 霊と魂とは ほとんど同じであるようにも使われるものと思われます。たとえば

   ・ プシュケー・トゥー・コスムー(宇宙の霊魂)
   ・ アニマ・ムンディ(世界の霊魂)

 あるいは ルーアハやプネウマまたアートマンなどが当てられ これらの言葉はいづれも《息・風》の意味の語から来ているそうです。

 23. 言いかえると ナゾの何ものかについては ただ仮りに代理として表現しているに過ぎないものです。《補助線》です。つまり《本体》は もともと分からないわけです。本体を指し示している補助線として 霊や魂といった言葉が用いられます。ほとんど単なるシルシだと捉えたほうが 実際に即しているかと思われます。

 
 24. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・言葉というのは、魂とは違うのでしょうか?
 もちろん、神の本質を分有する人間の魂と、神と本質を同じくするイエスの魂とでは大きく異なるでしょうが……。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《本質》というのは 《存在》とも言いかえられ けっきょくは神にかんしては 霊のことです。(何の説明にもなっていませんが)。
 神なる聖霊は すでにひとの自然本性にやどると言われます。この聖霊が或る日或る時わが心の窓をノックする。そのノックにこたえてその霊を受け容れる。(ということは 《受け容れる》という行為だけは 経験行為です。相手は何であるかは分かりません)。そのわが心は たましいであるとも 神の霊がやどる神殿であるとも 物語として説明されます。

 25. このことは 
 ★ 神の本質を分有する人間の魂
 ☆ と呼ばれ それは
 ★ 神と本質を同じくするイエスの魂とでは大きく異なるでしょう
 ☆ と言われます。イエスの場合は 《ことばが そのまま 肉(身と心のこと)となった》。われわれ人間の場合は 《ことば》の一端が軽くわがほほを触れるといったところでしょうか。

 26. なぜイエスはキリストなのか? なぜ《神の子である言葉が そのまま人間の姿となった》のか?
 これは 分かりません。そういうドグマです。三位一体という仮りの理論であるに過ぎません。

 27. 分かることは そうでないと われわれ人間は 神のことをただ単なる霊という言葉で指し示しているだけではないかと がっかりする。
 つまり 神ならその十字架の上から降りて来いと言われて ほんとうに降りて行ったなら それは あぁ神だから出来ることだ 奇蹟などはあってもよいが 阿呆らしいと言って イエスの物語は終わってしまう。
 けれども イエスがキリストではなくただ人間イエスだけであったとしたら あぁ 磔になるまでよくぞ頑張った よくやった・・・と言って もうそれでおしまいとなってしまう。

 神は神で勝手にやってくれと言っておしまいとなったり 人間の限界をむろんもともとわれわれだって知っとるわいと言い失望をふくらましておしまいとなったりする。
 よって イエスは神の子キリストであるという話に成らざるを得ない。神の子キリストは 人間に成ったという話――つまり 虚構――に成らざるを得ない。

 28. こうして イエスに十字架上に去って行かれてしまった弟子たちは 自分たちがイエスによって得たその真実として おおいなる物語を編んだ。

  人間の現実 = 事実 + 真実〔事実の写し + ウソ(想像・虚構)〕

 だというわけです。

投稿日時 - 2013-10-09 10:47:08

お礼

回答ありがとうございます。

> ナザレの地のヨセフとマリアとのあいだの子
これは恐るべき説ですね。イエスがヨセフの息子であるとは!

私はイエスの生き方をいささかも否定するものではありませんが、彼がヨセフの息子であることを認めてしまうと、イエスは神とは到底いえないのではないかと思います。

> 記憶なる行為能力が 父であり 知解が 子であり 意志が 聖霊だとそれぞれ考えられるようです
これは三位一体論でもよく使われる喩えですね。

投稿日時 - 2013-10-09 13:42:13

こんにちは。


ヨハネ福音書1:1
Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.(ギリシア語)
in principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum(ラテン語)
In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God(英語).

これをギリシア語原文にそって忠実に訳すと、
「初めに言葉(ロゴス)はあったし、今もそうあり続けている。
そして、言葉は神とともにあったし、今もそうあり続けている。
そして、言葉は神であったし、今もそうあり続けている。」
となるらしいです。
ここでは、《ἦν》に《未完了》という時制が使われており、《継続・反復》の意味合いがあるそうです。

注目は、
Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος
エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス

アルケーには対語としてテロス・τελοςという言葉があり、
 アルケー:(第一原因、原理etc.)《初め》
 テロス:(目標、完成etc.)《終わり》
という関係があって、
ヨハネ黙示録の21:6
「わたしはアルパ(初め)でありオメガ(終わり)である。」
と繋がっている、ら・し・い。

わたしがギリシア語を読めたらいいのですけれども、読めないもので、どうしても「らしい」の連発になって恐縮なのですが。。。

ただ、少しうがった見方をしますと、
「言葉は神であった」と言い切っていますので、ここでは、《ロゴス・イエス》と《神さま》の区別は、実質、意味をなしません。
時間という色彩を色濃く出すためには、《ロゴス》という言葉の方がむしろ都合がよい、と考えられます。
ヨハネ黙示録の「わたしはアルパであり、オメガである」とも符合します、一致します。

さらに続けますと、
Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος
は、
In the Principle was the Word
とも訳せます。
ラテン語訳は
in principio erat Verbum
とあります。
「言葉が《理法》〔の中〕にあった。。。」
事実、スコラ哲学ではこのようにとらえられ、研究と試作が重ねられていった。。。

わたしは異教徒ですから、これ以上は申しません。
キリストを愛する皆さん、キリスト者の皆さん、頑張ってください。

投稿日時 - 2013-10-09 10:44:38

お礼

回答ありがとうございます。

> 《ロゴス・イエス》と《神さま》の区別は、実質、意味をなしません。
そうでしょうね。イエスと神の本質は同一だそうなので。
ただ、完全に同一だと認めてしまうと、イエスが受肉して人間となったことをどう解釈するのか、という問題も生まれます。

投稿日時 - 2013-10-09 13:36:55

ANo.5

私が聞いているのは父と子と聖霊です。
イエスがの御言葉、聖霊は愛といったという事は存じませんでした。
三位一体の一つとしての言葉(word)であれば、私達は概念や観念を担う言葉(word)ではないのではないかと存じます。
たぶん、アーメン(ヒンドゥ哲理ではオーム)という神の意志の発したるvibrationではないでしょうか?
そうすると聖霊や愛とは端の方で重なり合いますね。
でも聖霊と愛をどう思うか(観念するか)と関連しますね。
クリスチャンではなく、ラージャヨーガを40年ほど勉強精進しています。ご参考までに。

投稿日時 - 2013-10-09 08:55:32

お礼

回答ありがとうございます。

> イエスがの御言葉、聖霊は愛といったという事は存じませんでした。
これは三位一体論の議論ですね。

> たぶん、アーメン(ヒンドゥ哲理ではオーム)という神の意志の発したるvibrationではないでしょうか?
単なる言葉ではなく、言葉による揺らぎや波や影響をも含んでいるということでしょうか。

投稿日時 - 2013-10-09 13:33:58

ANo.4

聖書には「ことば」と訳されている「ロゴス」は、ヨハネ文書でしか使われていません。ことにヨハネによる福音書では、冒頭にこのロゴスを用い、イエスと神の関係を表現しています。

イエスは言葉?三位一体論によると、イエスは神の御言葉、聖霊は愛だそうです。
→この解釈は私はいいとは思いません。愛は神の性質であり、それを表したのがイエスであり、聖霊は愛を与えてくださるので、「聖霊は愛」という表現に抵抗があります。また、ヨハネの手紙第1の4章では「神は愛です」とありますので、「聖霊は愛」という言い方より、こちらの方が聖書的だと思います。

ここでいう「御言葉」とは、文字通り、神の発する言葉(word)だと考えてよいのでしょうか?
→実は、三位一体ということばすら聖書にはありません。これはある意味神学用語です。イエスは神の御言葉というのは、ヨハネによる福音書の表現方法では、的を得ていると思います。もちろん、この場合のことばはロゴスであり、他の福音書では、神のことばは福音を意味していますから、それとは違うことを理解すべきです。
この、一種の哲学用語であるロゴスを用い、ギリシア的には神話的世界における神をも示唆することばですので、この「神はロゴスであった」というのはギリシア人には当然のことながら、受け入れやすい、わかりやすい比喩であります。
また、「ことば」というのは、それを発する者が存在するわけで、そこに人格が現されています。それとともに、ことばには受け手があるわけです。
人格者が、相手に伝えるのが「ことば」であると言えます。その意味で、キリストが神のことばであるというのは、神の存在が言い表され、キリストによって神が表され、伝えられるという意味で、まさに、適切な表現だと思います。誰も神を見たものはいない。ただ、子だけが神を表したのであるーーということが書かれていて、イエスを通して我々は神を「見る」あるいは「知る」というのが、ヨハネによる福音書の考え方です。
他の福音書には、イエスの洗礼や変貌山で「これは私の愛する子。これに聞き従え」という神の「ことば」が記されています。しかし、ヨハネによる福音書ではそうしたことばではなく、キリストがことばだということで、これらのエピソードが書かれていないとも考えられます。従って、神の発する言葉だというのは、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の意味では違いますが、ヨハネによる福音書の意味ではその通りということになります。つまり、キリストを神の「ことば」とすることは、キリストを通して神を「読む」からです。

・子は父から生まれる・父と子の関係でありながらも、本質においては同一である
→「私と父は一つである」とヨハネによる福音書にはありますので、その通りです。

神学者の議論を読むと、比喩でなく、文字通り「言葉」を意味しているとしか思えないのです。
→上記説明したような意味で、「ことば」です。

・言葉というのは、魂とは違うのでしょうか?もちろん、神の本質を分有する人間の魂と、神と本質を同じくするイエスの魂とでは大きく異なるでしょうが……。
→魂とは違います。「ことば」つまり「ロゴス」ということばを用い、キリストの性質、使命、本分を言い表しているのだと思います。

・イエスはロゴスだといわれることもありますが、ロゴスは言葉よりも理法といった意味が原義ですよね。私にとっては、イエス=言葉よりもイエス=理法のほうがまだ理解できるのですが、イエスは理法でなくあくまで言葉なのですか?
→哲学的用語で、しかも、近代哲学とは違い、古典ギリシア哲学の中でロゴスの意味を解する必要があると思います。理法という側面もあるという主張も成り立つかもしれませんが、それは枝葉のことであって、もっと大きくとらえる必要がありそうに思います。むしろ、ことばが肉体となって世に現れたというわけですから、ここでギリシア的発想とはまったくかけ離れた世界が展開している点に注目したいところです。私としては、イエス=理法というのはしっくりいきませんが、イエス=ことば(ロゴス)とすることで、イエスが神の子であり、イエスと神が一体であり、イエスが神を世に表した、イエスが神に遣わされた(この「遣わす」はヨハネによる福音書のキーワードの1つ)ことが見事に言い表されていると思います。

以上、ご参考になればと思います。

投稿日時 - 2013-10-09 08:18:57

お礼

回答ありがとうございます。

> 「聖霊は愛」という表現に抵抗があります
確かに、「聖霊は愛」というのは本当か? とは私も思います。
歴代の神学者も、聖霊が愛であることをきちんと論証できているとも思えないので。

> 三位一体ということばすら聖書にはありません。
ええ、存じています。
しかし、新約聖書の記述を信じる限り、三位一体論を信じなければ、三神論・様態論になるか、あるいはイエスや聖霊が神であることを否定しなくてはなりませんよね。

> この場合のことばはロゴスであり、他の福音書では、神のことばは福音を意味していますから、それとは違うことを理解すべきです
福音は、確かギリシア語ではエウアンゲリオンですよね。イエスの復活を意味する言葉。

つまり、単なる「よい知らせ」ではない根源的な言葉と理解すべきでしょうか。

> イエスを通して我々は神を「見る」あるいは「知る」というのが、ヨハネによる福音書の考え方です。
おっしゃることは理解できるのですが、それを「言葉」という言葉で表現してよいのか? という疑問がどうしても私には生まれます。
それはもはや「言葉」ではない別の何かではないかと。

> ここでギリシア的発想とはまったくかけ離れた世界が展開している点に注目したいところです
言葉が肉体となる、というのはむしろ古代ギリシア的発想ではないでしょうか?

投稿日時 - 2013-10-09 13:32:04

ANo.3

キリスト教は素人ですが 「始めに言葉ありき」 という部分が記憶にあります。 言葉は別の言い方では 「言霊」 とも言うようで大事な要素ですね。 神の意思を直接聞けない人々にとってはその言葉を語る = 神 ではないでしょうか。
参考URL(色んな考えの方がいらっしゃるようです)
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/176046/m0u/
http://blogs.yahoo.co.jp/spiderman_ube/58248820.html
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060323/1143074425

投稿日時 - 2013-10-09 06:36:45

お礼

回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2013-10-09 13:22:21

ANo.2

まぁ、素人考えなんやけど、キリスト教の神は、創造主でしょ?神が光あれといえば光が生まれるような、そんな神様やから。
キリストもその神と同じように奇跡を起こすんだよね。悪魔よ出ていけといえば悪魔が出て行くわけよ。そんな、創造主的力の顕現がキリストでもあるわけで、キリスト=神の言葉といってもおかしくないんとちゃうかな。

投稿日時 - 2013-10-09 06:02:33

お礼

回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2013-10-09 13:22:00

ANo.1

 こんにちは。


 参考になさってください。
 旧約聖書・箴言からですが そこで《主》は 父なる神であり あたかもその子であると読めるところの《わたし》と言っているのは 《知恵(フクマー)》のことです。この知恵を ギリシャ語では ロゴスと言いかえたのかも知れません。

 ▲ (箴言8:22-36) ~~~~~~~~~~~~~~~
 22: 主は、その道の初めにわたしを造られた。
   いにしえの御業になお、先立って。

 23: 永遠の昔、わたしは祝別されていた。
   太初、大地に先立って。

 24: わたしは生み出されていた
   深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

 25: 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
   わたしは生み出されていた。

 26: 大地も野も、地上の最初の塵も
   まだ造られていなかった。

 27: わたしはそこにいた
   主が天をその位置に備え
   深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

 28: 主が上から雲に力をもたせ
   深淵の源に勢いを与えられたとき

 29: この原始の海に境界を定め
   水が岸を越えないようにし
   大地の基を定められたとき。

 30: 御もとにあって、わたしは巧みな者となり
   日々、主を楽しませる者となって
   絶えず主の御前で楽を奏し

 31: 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
   人の子らと共に楽しむ。

 32: さて、子らよ、わたしに聞き従え。
   わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。

 33: 諭しに聞き従って知恵を得よ。
   なおざりにしてはならない。

 34: わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい
   戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。

 35: わたしを見いだす者は命を見いだし
   主に喜び迎えていただくことができる。

 36: わたしを見失う者は魂をそこなう。
   わたしを憎む者は死を愛する者。」  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《ことばは肉となった》などなどとは言っていないようですけれど。

 あるいは:
 ▲(箴言8:8-9) ~~~~~~~~~~~~~
 8: わたしの口の言葉はすべて正しく
   よこしまなことも曲がったことも含んでいない。

 9: 理解力のある人には それがすべて正しいと分かる。
   知識に到達した人には それがすべてまっすぐであると分かる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2013-10-09 03:45:31

お礼

回答ありがとうございます。

> 《わたし》と言っているのは 《知恵(フクマー)》のことです。
この「フクマー」とは何語でしょうか?
確か新約聖書は原語がギリシア語(コイネー)であったと思いますが。

投稿日時 - 2013-10-09 13:21:37

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