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ハバクク書2:4 / 《心のまっすぐな人》も凹む

 日本語訳は 少し違っているように 思いました。

 お考えをお聞かせください。異なるご見解をも自由におしえてください。

   
 ▼ (ハバクク書2:4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Hab&c=2&t=KJV#s=t_conc_905004

 〔ギリシャ語セプトゥアギンタ〕  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   もし神なるわが霊が
   そのひとにおいて縮こまってしまい
   そこにやどりつづけることが無くなったとしても
   こころのまっすぐなひとは
   われを思うまこと(非思考の庭)の中から立ちあがり生きる。


 〔ヘブル語聖書〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ かのひとのたましいは
  みづからの内に這いつくばって まっすぐに立つことができない
  しかも
  そのひとのまこと(非思考の庭)にあってすなおなる者は 生きる。


 ▲ (新共同訳 1987) ~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ、高慢な者を。
  彼の心は正しくありえない。
  しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

 ▲ (口語訳 1955) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ、その魂の正しくない者は 衰える。
  しかし義人はその信仰によって 生きる。

 ▽ (KJV) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 Behold, his soul which is lifted up is not upright in him: but the just shall live by his faith.

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち 和訳はいづれも 人をよいと悪いとのふたつに分けています。そうではなく 同じひとりの人について語っているのではないか? つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではないか? これが 問いです。

 そのほか 重要な事項などがありましたら おしえてください。

投稿日時 - 2013-10-20 09:41:49

QNo.8312969

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんにちは。


NIV(New International Version)ですと、
─────────
“See, the enemy is puffed up;
his desires are not upright—
but the righteous person will live by his faithfulness
─────────
となっているようです。

これを日本語訳すると、
「見よ、敵はのぼせ上がり、
彼の望みは正しからず。
しかし、正しき人は、信仰によって生くべし」
とかになりそうなので、
共同訳に近いようです。

ですが、
《puff》を《吹き消される》などの意味にすれば、口語訳に近くなる。

なお、文語訳
─────────
2:4 視よ彼の心は高ぶりその中にありて直からず 然ど義き者はその信仰によりて活べし
─────────

やっぱ、口語訳、共同訳よりも、格調が高くて、《文語訳》の方が、いいな~(わらい)。



☆☆☆☆☆☆
─────────
2:5 indeed, wine betrays him;
he is arrogant and never at rest.
Because he is as greedy as the grave
and like death is never satisfied,
he gathers to himself all the nations
and takes captive all the peoples.
(NIV)
─────────
格調高く(? 笑い)文語訳すると、
「酒は人を欺く。
彼は尊大にして、休まず。
彼は、墓場?(冥府?、死?)の如く貪欲にして、
死のごとく飽くことを知らず。
彼は万民を集め、
万民を捕ふ」
とかになるんでしょうか。

歴史的に言えば、この一文は《バビロン捕囚》と考えるべきなのでしょうね。
そして、この《彼》はネブガドネザル2世を指しているとなる。

で、これと2:4をあわせて読むならば、
正しくない人(ネブガトネザル2世)と正しき人(ユダヤ教の律法にしたがう人orユダ王国の人)と読み解くこともできるのでしょう。
《ハバクク書》を歴史物語、あるいは、当時のユダヤの民に発せられた警告と考えれば、
口語訳、共同訳とも、その訳の正統性は主張できる、と考えます。
この前に書かれている《物見の塔》がホニャララだという文章とも整合します。

ですが、
信仰の書として《ハバクク書》を現代にひきつけ考えるのであれば、
そう読むべきではないのでしょう。

☆そうではなく 同じひとりの人について語っているのではないか?
◇こうした解釈があってもいいと考えます。
そして、この《彼》は、人間の弱い心や欲望と考えてもいいのでしょうね。


☆つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではないか?
◇わたしは、《善い人》の心の中でも、《邪なココロ》があるのだ、と考えたいです。

投稿日時 - 2013-10-20 14:21:29

お礼

 《敵》を登場させるという手ですか。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 NIV(New International Version)ですと、
 ─────────
 “See, the enemy is puffed up;

 「見よ、敵はのぼせ上がり、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううん。この翻訳は たしかに解釈を入れているのでしょうね。

 まづは ねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ 共同訳に近いようです。
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ▲ (新共同訳 1987) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  見よ、高慢な者を。
  彼の心は正しくありえない。
  しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように表現している場合 考えてみるに 《高慢な者》と《神に従う人》とは 言わば同じ共同体ないし社会の中に大きくは共生しているという前提があるように思われるのです。これは 根拠はなく 表現から受けるそういう感触です。

 ▲ (口語訳 1955) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  見よ、その魂の正しくない者は 衰える。
  しかし義人はその信仰によって 生きる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも われらが共同体の中にともに生活しているのだが 中で《その魂の正しくない者》がいるうんぬんというふうな感じであって 部族や民族の異なるところの《敵》ではないようなのですよね。どうでしょうか。


 ◇ 文語訳
 ─────────
 2:4 視よ彼の心は高ぶりその中にありて直からず 然ど義き者はその信仰によりて活べし
 ─────────

 ☆ なるほど。これだったら 後段の《義き者》は 前段の《彼》を《彼ら》(*)としたその人びとの内に入っている者だととれば 同じ人物でありうる。となる。わたしは このほうがすんなりと受け取りやすいんです。(おのれの好みを押し通して どうするんだ? という声をむろん聞いています)。

 * 《彼ら》というふうに複数に解する翻訳例:
 ( NLT : New Living Translation ) ~~~~~~~~~ 
  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Hab&c=2&t=KJV#s=t_bibles_905004

 2:4 “Look at the proud!
  They trust in themselves, and their lives are crooked.
  But the righteous will live by their faithfulness to God.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 歴史的に言えば、この一文(ハバクク書2:5)は《バビロン捕囚》と考えるべきなのでしょうね。
 そして、この《彼》はネブガドネザル2世を指しているとなる。

 で、これと2:4をあわせて読むならば、
 正しくない人(ネブガトネザル2世)と正しき人(ユダヤ教の律法にしたがう人orユダ王国の人)と読み解くこともできるのでしょう。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と同時にですね・それと同等に 《ユダヤ人のあいだのわるい人とよい人と》として読む場合もあるようなのです。すなわち
 ▲ (ハバクク書 2:3 ) ~~~~~~~~~~~~
 この幻はなお定められたときを待ち、
 終りをさして急いでいる。それは偽りではない。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった《まぼろし》またはそれとしての予言(預言にして予報)をそのままでは受け取らない高ぶりの人とそうでない人というふうに読む場合もあるようなのです。そのときは 2:5の征服者ネブカドネザルの読み取りとは 別になると考えられます。
 
 ▽ (Matthew Henry :: Commentary on Habakkuk 2) ~~~~~
  http://www.blueletterbible.org/Comm/mhc/Hab/Hab_002.cfm?a=905004
 
 3. This vision, the accomplishment of which is so long waited for, will be such an exercise of faith and patience as will try and discover men what they are,〔 v. 4. (1.)〕.
 * つまり 2:3のマボロシを受け容れるかどうかで わるい・よいが分けられて行くようなのです。

  There are some who will proudly disdain this vision, whose hearts are so lifted up that they scorn to take notice of it; if God will work for them immediately, they will thank him, but they will not give him credit; their hearts are lifted up towards vanity, and, since God puts them off, they will shift for themselves and not be beholden to him; they think their own hands sufficient for them, and God's promise is to them an insignificant thing. That man's soul that is thus lifted up is not upright in him; it is not right with God, is not as it should be.
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり ユダヤ人のあいだにおけるわるい人びとのことだという解釈もありうるようなのです。文脈の後続にかかわらせるのではなく 先行部分からのつなぎだと見る場合のようです。

 2:5の世界征服者を はっきり歴史にかかわらせて出して来ているのも 実際でしょうし それとしてわるい人の系列だということも 合致しているのですが。


 


 ですから この場合の問題は――設問にあたって拙速したようでもあるのですが―― むしろギリシャ語翻訳書のセプトゥアギンタのほうにあるかも知れません。

 《もし・・・であれば そうだとしても ・・・生きる》というふうに訳せるなら

  ・ひとつに《ひとりの人間について》言っていると思われること。
  ・もうひとつに 言ってみれば 《もし神が去って行ってしまって 信仰がなくなったとしても 信仰によって生きる》というような矛盾したことをも言っている。らしいこと。

 このような問題のありかです。


 この方向でも
 ☆☆ つまり《よい人》の場合にも 前段の《わるいこと》が起きている。のではないか?
 ◇ わたしは、《善い人》の心の中でも、《邪なココロ》があるのだ、と考えたいです。
 ☆ というように 賛同してもらってはいるのですが。


 わたしのチカラは ここらへんまでのようです。
 事態を見守ります。つまり 《救世主》なる回答者を俟ちます。
 (ここまでで かなりの解釈の可能性を見ることが出来たと考えますし それほどわるくはないでしょう)。
 

投稿日時 - 2013-10-20 15:23:13

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回答(3)

こんにちは。


☆☆ これも われらが共同体の中にともに生活しているのだが 中で《その魂の正しくない者》がいるうんぬんというふうな感じであって 部族や民族の異なるところの《敵》ではないようなのですよね。どうでしょうか。
◇《ネブガドネザル2世》の話を抜きにすれば、
わたしもこのように解釈します。
《ネブガドネザル2世》を含めても、その意味が込められているのだ、と思います。
結局、ユダ王国が滅んだのは、ユダヤの民が神に離反したためなので。



☆☆ なるほど。これだったら 後段の《義き者》は 前段の《彼》を《彼ら》(*)としたその人びとの内に入っている者だととれば 同じ人物でありうる。となる。わたしは このほうがすんなりと受け取りやすいんです。(おのれの好みを押し通して どうするんだ? という声をむろん聞いています)。
◇おそらく最も聖書研究が進んでいる英語圏(アメリカがありますので)ですら、その立ち位置、視点によって解釈、翻訳が分かれているようですから、
キリスト者でないわたしなどは、「好みで選んでもいいのでは」と思っちゃいます。
───わたしが《NIV》をことさら贔屓にするのは、学術的研究の成果がすぐに反映されやすく、宗教的に中立で、自由であるから───
《ハバクク書》は予言書であり、《未完了》的、《反復》の意味で読むことも可能なのではないでしょうか。
どうせ《予言書》、
ただでも謎めいていて、何が書いてあるか、分からない(わらい)。
《筋のいい》方をとっていいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2013-10-20 16:04:12

お礼

 ですね。でしょうね。いくつかの可能性を 柔軟に捉えておくことが まづ大事でしょうね。

 ねこさん ご回答をありがとうございます。


 《好み》の問題ですら――解釈の可能性が成り立っているなら―― 受け容れられうると たしかに思われたりします。
 ◇ 《筋のいい》方をとっていいのではないでしょうか。
 ☆ と。



 

 ひとつ資料として見つかったものがあります。ギリシャ語聖書の翻訳で ギリシャ語原文に忠実だと思われる訳です。
 ▽ ( Brenton's Septuagint (LXX) - Holy Name KJV ) ~~~~~
 http://www.qbible.com/brenton-septuagint/habakkuk/2.html#4

 2:4 If he should draw back, my soul has no pleasure in him: but the just shall live by my faith.

 もしその人が縮こまってしまうなら わが霊はその人においてよろこばない(満足しないで 去ってしまう)。けれどもこころのまっすぐな人は まこと(非思考の庭)の中から立ち上がり生きる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 
 そして いづれにせよ このハバクク書のくだりは 旧約聖書の中で 《信仰によって生きる》――モーセ寄りのかたちで律法を守ることによってではなく アブラハム寄りにおいて信仰によって生きる――ことを明らかなかたちで語っているので とうといと思われます。


 もう少し開いています。

投稿日時 - 2013-10-20 17:00:38

ANo.1

こんにちは。
私も同じひとりの人間についてのことだと考えます。「よい人」の心の中に良いことばかり起きているのではその良さを具体的に自覚することはできません。悪いことが起こることによって比較の対象が自覚され、「よい人」にとっての日常である心の状態が良いものとして当人の認識のレベルで自覚されることが可能になる。そういうことが言いたいのだと思います。前段のネガティヴな状態を後段のポジティヴな状態を深く自覚するための必要条件ととらえることが可能だということのたとえなのではないでしょうか。

投稿日時 - 2013-10-20 13:08:22

お礼

 すずめのこくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 

 と わたしも思いました。それが 無難な線であろうと。

 そして疑い深いのを取り柄としているわたしが考えたことが いくつかあります。


 回答を寄せてくださるほかのみなさんに向けても それを書いておきたいと思います。


 1. ★ 「よい人」の心の中に良いことばかり起きているのではその良さを具体的に自覚することはできません。
 ☆ これが ほんとうにそうであるか? をまづ問います。

 1-1. というのも いくら《よい人》と言っても 生まれてこのかたウソを一度も言ったことがない人はいないであろうと考えられるからです。

 1-2. つまり 厳密には《良いことばかり起きている》わけではない。だったら おおむね《良いことばかり起きている》としても じっさいには良い人も わるいことを知っている。

 1-3. つまり その良さを自覚することができるはずだ。――となるかと思われるからです。ペンディングにします。

 2. したがって考えるに
 ★ 前段のネガティヴな状態
 ☆ は もし無いとしても 良さを自覚することは出来る。とすれば どう話は展開するか?

 2-1. それは こうなります。それでは 良き人が どうして――このハバクク書の事例としては ユダヤの国がバビロニアに滅ぼされ 主だった人びとは捕虜としてその都に連れて行かれ幽閉されるというかなしい出来事となったようなのですが―― 一般にわるいことに出くわすか 捕虜となってしまわねばならないほど社会の実力者や有力者に支配されるとしたら それは どうしてか? という問いが持たれることになります。

 2-2. 良き人は 一度や二度はウソをついているので いちいち悪い情況に落とし入れられなくても 良さを自覚することができる。とすれば なぜ 災難に遭うこともあるのか?

 2-3. これについても考えました。

 2-3-1. やはり完全によい人はいないのだから 多少は悪い出来事にも遭う。それは ふつうのことであろうと考えるか。それとも

 2-3-2. いや よい人は 一般に悪いことをおこなっていない。程度問題だけれど おおむね良いことをおこなっている。けれども わるい情況に落ち入り その悲惨さを嘗めることがある。

 2-3-3. それは 言ってみれば 人間の存在が 社会的な動物というかのごとく 関係性において成り立っているから。つまり だから わるい人のこうむる悪い出来事をも 関係性の網の中でいっしょにこうむるのだ。と考えるのは 妥当かどうか?

 2-4. そのように関係性という存在の性格から 悪や災難を 良き人もわろき人も誰もが一緒に経験する。そういう事態に遭う。けれども――すなわちそのとき 神の霊つまりそれとしてのチカラは その人の心から去って行ってしまうことすらあるかも知れないのだけれど―― それでも その人が 心のまっすぐなることをたもち 被害にもめげずにあゆむならば やがて立ち上がり 生きる。ことになる。・・・こう言っていましょうか?

 2-5. 《心のまっすぐな人》も凹む。



 一気に質問者が出しゃばって しゃべってしまいましたが ご批判をあおぎます。



 
 関係性というのは それによって ミラーニューロンがはたらくことになるのだと思います。

投稿日時 - 2013-10-20 13:55:32

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