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解決済みの質問

原罪は 悪魔とともに 方便。無い。屁の河童。

 1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。

 2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である。

 3. スサノヲ市民たる人間の《自治》が なかなか思うようにならない(=《苦》)ことの説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。

 4. 悪魔は 一般に想像されていたもので そのような人びとのあいだの通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。

 5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。

 6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経てシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。

 7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。
 
 8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり なかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。

 9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。

 10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。


 批判を歓迎します。

投稿日時 - 2013-11-11 09:20:04

QNo.8342800

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

bragelonne様、こんにちは。


>「時代と社会とによって 何を《合理的》かと言うかというと 違いがあるということでしょうか。

 あるかも知れません。
 
 ですが いまの時点でそれらのことをぜんぶ捉えてみて いちおう合理性の上では だいたい同じ答えが出て来るはずです。」


・・・「いちおう合理性の上では だいたい同じ答えが出て来るはずです」

そりゃ、そうですか。
いちおう了解です。

投稿日時 - 2013-11-14 15:55:26

お礼

 分かりました。

 ご回答をありがとうございました。

 

 この質問は いちど消えて復活したものです。回答が来なくて さびしかったようでした。

投稿日時 - 2013-11-14 19:02:15

ANo.5

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回答(7)

森田療法についてどう思いますか
自然を肯定する点、評価しますか
批判などありますか

投稿日時 - 2013-11-18 04:53:14

お礼

 79えむさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 残念ながら――むろん 森田療法のことは知っていますが―― 何かコメントをするまで勉強したことはありません。

 それでも 口出しするとすれば
 ★ 自然を肯定する点、評価しますか
 ☆ そうですか。それなら 《ハカラヒ無きこと》を方針にかかげているからには 評価したいと考えます。


 ★ 批判などありますか
 ☆ わたしの場合 ハカラヒ無き状態にあれば 即得往生(あるいは 即身成仏)だと見ています。

 もっと過激に言えば 《義無きをもって義とす》あるいはつまり《無根拠》をやはり掲げていますので もし《療法》が そのこと・すなわち一瞬にしてやわらげられることを否定しているなら 批判するはずです。


 言いかえると 心に刺さった棘は一瞬にして抜くことが出来ます。
 患部が癒えて行くのは 時間がかかるとしてもです。

 この方程式を大事にしたいと考えています。



 具体的なことなどをおしえていただけば それについて 考えてまいりたい。こう思っています。
 (こういう要請を承けずに 気ままにまなぶのも それはそれでよいとは思いますが わたしの場合 世の中の必然性や関係性から要請されると 勉強していくクセがついています)。

投稿日時 - 2013-11-18 06:57:00

ANo.6

私は答えしか言いません。

原罪は貴方です。

無明は貴方です。

投稿日時 - 2013-11-16 21:07:00

お礼

 ぢゃあ 方便だということで。

 0ふーる0さん ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2013-11-16 21:15:57

ANo.4

ちは。


「理性」は、いいんですけど、

「合理性」については、1000年前・100年前、そして現在では、「等しく有効」とは、言えない気がします。

投稿日時 - 2013-11-14 15:25:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 時代と社会とによって 何を《合理的》かと言うかというと 違いがあるということでしょうか。

 あるかも知れません。
 
 ですが いまの時点でそれらのことをぜんぶ捉えてみて いちおう合理性の上では だいたい同じ答えが出て来るはずです。

 もし違っていたとしても それぞれの答えについてそれぞれの合理性としての根拠があると考えられます。つまり 合理的であることが一義的に決まらないとしても 合理性の内容については やはり合理的な推論ないし論理というものがあると考えられています。

 つまり 時代による違いは マチガイを含んでいるか それともそれぞれが部分的に合理的であるので 全体として見て やはり合理性の内容にかんしては それほど違いはないのだと捉えられるようになると考えます。

投稿日時 - 2013-11-14 15:33:32

ANo.3

B様、どうも。


>「理性は 語るはずです。「合理性に反するとも反しないとも それは分からないことがらである」と語るはずです。」

ん、だから、ですね。
それでは、少なくとも100年前、ことによると1000年前、ということ、ではありませんか。

投稿日時 - 2013-11-14 14:54:37

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 いえ。いまでも 同じです。有効なことがらです。

投稿日時 - 2013-11-14 15:12:28

ANo.2

こんちは。


>「理性は 合理性にもとづき世界認識を整理するハタラキですよ。」

違うと思うなあ。


仮に、そうだとして、
「神学が、「「合理性」に基づいた世界認識」を「整理」した」

つまり、理性って「神がそう言ったから、そうだ」でしょ。

投稿日時 - 2013-11-14 14:00:45

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 「神学が、「「合理性」に基づいた世界認識」を「整理」した」
 ☆ 《神学》は 経験思想ないし経験科学ではありません。

 出来るだけ経験合理性にもとづきその認識する世界――もしくは 経験世界を超えた場――を説明しようとしますが 基本的には その《非経験の場》を初めに――勝手に想定して――前提している議論です。

 非合理なことをも語ります。

 
 ★ つまり、理性って「神がそう言ったから、そうだ」でしょ。
 ☆ いいえ。そうではありません。

 たとえばこの原罪の問題にしても エワとアダムとが神の言いつけに背いて 善と悪とを知る木から採って食べたというとき そもそも神が人間に言いつけるということが 想定じょうの問題です。そんなことは 経験的なものごとでは そうだともそうではないとも判断できないことがらです。――と理性は 語るはずです。合理性に反するとも反しないとも それは分からないことがらであると語るはずです。

投稿日時 - 2013-11-14 14:42:23

ANo.1

こんにちは。


>「内から出る理性のワル知恵」

理性とは「善悪を知る能力」で、いわゆる「合理性」orzとは、違うと思います。


(追伸)
「合理的」と「功利的」も違うし、「理性は功利ではない」のでしょう?

投稿日時 - 2013-11-14 12:33:24

お礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 理性とは「善悪を知る能力」で、いわゆる「合理性」orzとは、違うと思います。
 ☆ 判断力は どちらかと言えば 意志なる行為能力によっているでしょうね。理性は 合理性にもとづき世界認識を整理するハタラキですよ。あるいはつまり 意志による判断のための選択肢をも用意すると言えると思います。いわゆる《思考》をつかさどると考えます。

 悟性をも理性のなかにふくむなら ものごとの一次的な認識をも理性が担当しています。


 【Q:感性は 理性よりもえらい。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7437802.html

 ☆☆ (感性は 理性よりもえらい。) ~~~~~~~~~~~
 まづ 定義から入ります。

 序
 《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。

 ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には塵性は 或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。
 
 ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。



 1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性

 2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。

 3. 感性: 身の五感が知覚すること。

 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。

 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。

 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。または いづれでもない無記。

 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。
 あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。
 ここまでが 知解という作業である。

 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。

 8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。

 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり自然本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。

 9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。

 9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。

 9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。

 9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。

 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。

 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。

     *

 さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。


 12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。

 13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。

 14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。

 15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。

 16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。

 17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。

 18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。

 19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ 「理性は功利ではない」のでしょう?
 ☆ 功利で動く――という判断を意志がおこなっているのでもあるが そのような――ことも 理性には あるようです。

投稿日時 - 2013-11-14 13:47:01

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