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キリスト史観

(1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。

 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~ 
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。
 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。

 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~
 16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。
  あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
 17:はっきり言っておく。
  多くの預言者や正しい人たちは、
  あなたがたが見ているものを見たかったが、
  見ることができず、
  あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、
  聞けなかったのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。
 これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。
 
 その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。


 (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。

 アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。

 その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき

   《〈わたしはある〉 それが わたしである》
             (出エジプト記3:14)

 という答えを得たと言います。
 さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は 

   《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)

 という言葉を その神から聞いたそうです。
 イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
              (イザヤ書 61:1-3)

 (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。

 その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。
 イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み
     油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは
     貧しい人に福音を伝え
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
         (つまり イザヤ書61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

    ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

  と話し始めた。
        (ルカによる福音4:17-21)


 (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。

 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。
 まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。


 (5) 理論としては 存在論である。

 《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。

 《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。


 (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?

 むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。
 
  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。


 (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。

 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。

 ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~
 21: 更に、主は言われた。

   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。
 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。
 
 
 (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。
 
 この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。

 (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?

 ・ たぶん 辻褄は合っている。か。

 ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。

 (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?

 世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?

 ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

投稿日時 - 2013-11-23 11:45:35

QNo.8358412

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質問者が選んだベストアンサー

こんにちは。

パウロの
「ユダヤ人は《しるし》を求め、ギリシア人は《知恵》をさがす」という言葉に象徴されるのであるまいか、
と考え始めています。
この言葉を切り口に、端緒にして考えることができるのではないでしょうか。

 《しるし》→具象
 《知恵》→抽象

と置き換えて考えた方がわかりやすいのかもしれません。

イエスは、様々な奇跡をユダヤの人々に示すことで、その奇跡・《しるし》をみた人々に神の子やメシアとして認知されたわけですよね。
神の子やメシアが何なのかについては、ここでは問題にしませんけれど。
そして、イエスは十字架にかけられ死にます。
その後、《復活》する。
《復活》するという奇跡・《しるし》を見せることによって、イエスの言葉は正しかった、となる。
《しるし・具象》を重視するユダヤ的発想、セム的考え方では、イエスの十字架はたいして意味をもたないのではあるまいか。
《復活》こそ重要なのではあるまいか。
イエスがどんなに立派なことを言ったとしても、復活という《しるし》を見せなければ、それは信じるに値しないものだったのではあるまいか。

イザヤ書に代表される予言の書もそうですよね。
予言はかならず成就する、《しるし》とセットになって語られています。
「予言はこのように成就したのだから、この書は正しい、信じるに値するのだ」となっているのでは、
と同時に、聖書も神の《しるし》となる・・・。

ユダヤ的思考法においては、歴史とは神の《しるし》なのではあるまいか。
そして、その《しるし》は、聖書(旧約聖書)と深く関係している。
旧約聖書は、歴史の根拠になりうるし、同時に、みずからの現在の行動の根拠になりうる。
聖書を根拠に、「カナンの地は、われわれ、ユダヤ人に神さまが与えたものだ。パレスチナ人は出ていけ」という論理が、彼らユダヤの人々においては、成立する・・・。

なんてことを、考え始めています。

知恵を愛する、ギリシア的遺伝子を色濃く受け継ぐ西洋人は、
 《言葉=ロゴス》
なんでしょう。
真理は、理性によって理解されうるものであり、理性によって語られる、となる。
神を含めてです。
こうした理性重視の姿勢は、《啓蒙思想》に象徴されているじゃないですか。
例によって、思いつきなので、調べていませんけれど、
ヨハネの
「1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
と、《啓蒙》という言葉は、深い関係があるに違いない!!

─────────
啓蒙思想(けいもうしそう, 英: The Enlightenment, 仏: Lumières)は、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3
─────────

理性、知恵、知識は、光の象徴ですよね。そして、無知が闇となり、悪となる。
啓蒙思想ではですよ。

わたし、理系人でしょう。
ということで、
ここでニュートンを登場させます。

ニュートンの運動方程式は、西洋人の考え方に陰に陽に計りしれない影響を及ぼしている、と思うんですよ。
 f = ma
 a = dv/dt = d(dx/dt)/dt
この方程式の主張するところは、
「力fと質量m、そして、速度vと位置xの初期条件が与えられれば、運動・未来は正確に予言できる」
ということ。
全知全能である神は、未来を正確に言い表せる、未来を予言できるという根拠になるんですよ。
同時に、人も未来を予想できる・・・。

そして、なぜ、ローマ・カトリックが特殊相対性理論や量子力学に対して強い反論を浴びせかけたかも理解できま~す。
特殊相対性理論の主張するところは、絶対慣性系という神さまの場所、神さま視点を否定したから。
そして、量子力学は、ねぇ~、あれですから。「神さまでさえ、サイコロを振る」ってことになってしまいますんで・・・。
ガリレオの時代ならば、異端審問の上、《火あぶり》に値する、超~危険思想なんですよ、どっちも。
「神さまは絶対ではなく、未来を予言できない」ってことになっちゃいますんで。
《観念の神さま》、《ろごす神さま》を神とするから、こんなことになっちまう・・・。

わたしが思うに、
日本人的な「何だかわからないけれど、神さまは、おはす」くらいの素朴な神さまくらいでちょうどいい。神社に行ったときなどに漠然と神さまを感じる、自然の中で神さまのハタラキを感じるくらいでいいんですわ(笑い)。

歴史は、人間が作るものですよ。歴史という舞台では、人間が主役。神さまは、脇役ですらなく、せいぜい、背景の木くらいの役(わらい)。
そして、何より、神さまは、シナリオ、台本も書いていない!!

まとまりのない、ただ書き散らす内容の回答になってしまいましたが、
こんなことを思ったりしました。

bragelonneさんと質疑応答を重ねてゆくうちに、
わたしの考えもすこしまとまってくるかと思います。

投稿日時 - 2013-11-25 14:34:35

補足

 お礼欄をおぎないます。

 後出しジャンケンみたいで 心苦しいのですが 十字架にかんしては 旧約聖書からの文面での引継ぎがありました。思い出しました。




 聖書記者ヨハネは モーセのことに触れて 次のように イエスの出現について解説しています。

   そして モーセが荒野で蛇を上げたように
  人の子(イエス)も上げられねばならない。
  それは信じる者が一人も滅びないで
  永遠の命を得るためである。
         (ヨハネ福音 3:14,16)

 モーセがさお(棹)の上にへびを上げて掲げた(民数記21:4-9)ように そしてその意味が人びとの死と生とにかかわっていたように あたかもイエスも十字架に上げられたというその二つの事象の類似に注目した一つの見解です。



  
 まづ 民数記の記事のほうを掲げます。
 ▼ (民数記 21:4-9)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 民はホル山から進み 紅海の道をとおってエドムの地を回ろうとしたが 民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい つぶやいて言った。

  ――あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って
   荒野で死なせようとするのですか。
    ここには食物もなく 水もありません。
   わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました。

 そこで主は 火のへびを民のうちに送られた。へびは民を噛んだので イスラエルの民のうち 多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った。

  ――わたしたちは主にむかい またあなたにむかい
   つぶやいて罪を犯しました。
   どうぞへびをわたしたちから取り去られるように
   主に祈ってください。

 モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた。

  ――火のへびを造って それをさおの上に掛けなさい。
   すべてのかまれた者が仰いで それを見るならば生きるであろう。

 モーセは青銅で一つのへびを造り それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ これについて解説したものがあります。《原罪》ないし《悪魔》が そのまま出て来るという嫌いがあります。

 ▲ (アウグスティヌス:モーセの青銅のへびとイエス) ~~~~~~~~~~
 兄弟たち あなたがたは知っていよう。死がこの世に入ったのは悪魔の妬みによったのである。聖書は語る。

   神が死を造られたわけではなく
   命あるものの滅びを喜ばれたわけでもない。
   存在させるためにこそ神は万物をお造りになった。
          (知恵の書1:13-14) 

 そして同じ書でこう語られる。

   悪魔の妬みによって死がこの世に入った。(同上2:24)

 と。人間は悪魔によって差し出された死の飲物(* もしくは善と悪を知る木の実)へと力づくで赴かされることはない。
 悪魔は強制力ではなく 説得の狡猾さをもつものだからである。
 悪魔は あなたの同意なしには 何をもたらしもしなかった。

 おお人よ。
 あなたの同意が死へとあなたを追いやったのだ。
 われらは 一人の死すべき人から死すべき者として生まれた。
 不死なる者から死すべき者になった。
 アダムによって 人はすべて死すべき者となったのだ。
 だがイエスは 神の子であり 神の御言であり 
 このかたによってすべてのものは造られ
 ただ一人御父に等しいかたであったのに
 死すべき者になられた。

   言は肉となって わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音1:14)

 からである。
  だから イエスは死を引き受け 
 死を十字架に架け 
 死すべき者を死そのものから解放してくださる。
 そこで主は 
 父祖たちのもとで予表として行なわれたことを思い起こさせてこう語られる。

   そして モーセが荒野で蛇を上げたように 
  人の子(イエス)も上げられねばならない。
  それは信じる者が一人も滅びないで 
  永遠の命を得るためである。
           (ヨハネ3:14,16)

 と。ここには この箇所をかつて読んだ者なら知っている偉大な奥義がある。

 そこでわたしは この箇所を読んでいない者にも この箇所をかつて読んだり聞いたりしたが忘れてしまった者にも 次のことを聞いてもらおうと思うのだ。――

  かつてイスラエルの民は
 荒野にあって蛇の噛み傷によって倒れ
 多数の死者をもたらす殺戮が起こっていた(以下 民数記21:4-9に対応)。

  彼らを捕らえ鞭打って教育しようとする神の一撃が加えられたからである。
 そこには 将来の出来事の偉大なる奥義が示されている。

  そして主ご自身が この箇所で証言され 
 何人も 真理ご自身がご自身について語られるこのこと以外の解釈を
 できないような仕方で証言されている。

  すなわち主はモーセに対して 青銅の蛇を作り 
 それを砂漠で木に架けて高く掲げるように命じられた。
  そして 蛇に噛まれたなら木に掲げられた蛇を見上げるよう
 イスラエルの民に命じよ と仰せになった。
 このことは事実となり 人々は噛まれ 見上げ そしていやされたのである。
     (以上 民数記)。

 ・人々を噛む蛇とは何だろうか。
  ――それは 肉の死から来る罪である。

 ・上げられた蛇とは何だろうか。
  ――それは 主の十字架の死である。

 ・死は蛇から来るので 蛇の形によって
  主(イエス・キリスト)の死がかたどられた。

 ・蛇の噛み傷は死に至り
  主の死は命に至る。

 ・蛇が見つめられるとき 蛇の力は消え失せるのだ。


 これはどういうことだろう。

 ・死が見つめられるとき 死の力が失せる。

 ・だが誰の死だろうか。それは命なる方(イエス)の死である。

 ・こんな言い方が可能なら 命なるかたの死である。
  否むしろ この言い方は可能であるにしても 驚くべき言い方であろう。

 だが 主が行なおうとされたことをどうして語ってはならないことがあろう。
  主がわたしに代わって行なおうと定められたことを語るのに
 どうして躊躇する必要があろう。

 ・キリストは命そのものである。
  そのキリストが十字架に架けられたのだ。

 ・キリストは命そのものである。
  そのキリストが死んだのだ。

 しかし

 ・そのキリストの死によって 死は死んだ。

 ・死んだ命が死を葬り 命の充満が死を飲み尽くした。

 ・死はキリストの肉の中に呑み込まれてしまったのだ。

 かくして われらもまた 復活して語るであろう。
 今や勝利を得た者として歌うであろう。

   死よ お前の力はどこにあるか。
   死よ お前の棘はどこにあるのか。
   (コリント前書 15:54 )

 だが今や 兄弟たち 罪のいやしを受けるために
 わたしたちはひたすら
 十字架のキリストを見つめることにしよう。・・・
 (アウグスティヌス:ヨハネによる福音書講解説教 第十二説教 泉治典・水落健治訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2013-11-25 21:17:20

お礼

 ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 § 1  しるしと 知恵と 十字架

 パウロを少し長く引用してみます。 
 ▼ (コリント前書 1:17-25) ~~~~~~
 17: なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、
   洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、
   しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、
   言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

 18: 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
   わたしたち救われる者には神の力です。
 19: それは、こう書いてあるからです。

    「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
     賢い者の賢さを意味のないものにする。」(イザヤ書29:14)

 20: 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。
   この世の論客はどこにいる。
   神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。

 21: 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。
   それは神の知恵にかなっています。
   そこで神は、
   宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、
   お考えになったのです。

 22: ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
 23: わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
   すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、
   異邦人には愚かなものですが、
 24: ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、
   神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

 25: 神の愚かさは人よりも賢く、
   神の弱さは人よりも強いからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ したがって 次のように判断されたところは 微妙なように思います。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《復活》するという奇跡・《しるし》を見せることによって、イエスの言葉は正しかった、となる。
 《しるし・具象》を重視するユダヤ的発想、セム的考え方では、イエスの十字架はたいして意味をもたないのではあるまいか。
 《復活》こそ重要なのではあるまいか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) まづ 《言葉の知恵によらないで》(1:17) ハリツケにされた《神のチカラ 神の知恵であるキリストを宣べ伝えている》(1:24)と言っていますから ヘレニズムの知恵やロゴスには拠らないと言っているようです。

 (い) ヘブライイズムにおける《しるし》は 《十字架ないし復活》を指しているらしい。

 (う) 《ユダヤ人にはつまづかせるもの》(1:23)というのは 磔の刑にかかること・つまり
   
    ▼(ガラテヤ書 3:13)《キリストは、わたしたちのために
    呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくだ
    さいました。
     「木にかけられた者は皆呪われている」(申命記21:23)と
    書いてあるからです。》

  のことだと考えますが  そういう負の意味はあるというかたちで 《イエスの十字架はたいして意味をもたない》ものと考えられます。

 (え) 復活について ユダヤ人が しるしと見たか。いづれにしても どう捉えたか。これを 次に取り上げます。



 § 2 《復活》について

 (お) 結論から言って
 ◇ 《復活》するという奇跡・《しるし》を見せることによって、イエスの言葉は正しかった、となる。
 ☆ は 無理なのではないか。と考えます。

 (か) ユダヤ人のあいだでは 復活にかんして賛否両論があるのだと思いますが そしてイエスは生前からクジラに呑まれたヨナの話や神殿の再建といった比喩で話をしていたのでその復活についての物語が真実味を帯びて来たとは思いますが 《具象》としてのシルシに成るには 弱いのではないか。
 わたしなら こう考えますが 反批判をいただければさいわいです。

 (き) ただし パウロによれば この十字架上の死とそこからの復活 これがすべてだと言っているものと思われます。〔=(あ)〕。


 § 3 なお シルシをめぐって

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ユダヤ的思考法においては、歴史とは神の《しるし》なのではあるまいか。
 そして、その《しるし》は、聖書(旧約聖書)と深く関係している。
 旧約聖書は、歴史の根拠になりうるし、同時に、みずからの現在の行動の根拠になりうる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (く) おそらく旧約聖書の時代は――つまり アブラハムからイエスまでのユダヤ民族にとって―― あらかじめ受けた言葉とそれの実現が シルシとしてほとんどすべてであった。とも考えられます。

 (け) どこまで実際に預言=予言がおこなわれ それの現実化が成ったか。これは 詳細には明言するまでの知識(検証)を持ち合わせていませんが 歴史は その予言の内容にさからっている場合が多かったとしても あたかもその言葉が じっさいのシルシと成ったかに見えます。

 (こ) ちなみに ユダヤ人は イエスをメシアとは認めていませんが そう言えば 洗礼者ヨハネないしイエス・キリストのあとには もう預言者が出ません。イエスだとか《新約聖書》だとかは関係ないとすれば 旧約聖書からの伝統に沿って 預言者が出てもよいかと思われます。つまり 聖書のユダヤ版としての続きが なぜ 出ないのか?


 § 4 ヨーロッパ人と《知恵 ないし ロゴス》

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 知恵を愛する、ギリシア的遺伝子を色濃く受け継ぐ西洋人は、
 《言葉=ロゴス》
 なんでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (さ) わたしは 感触としてですが ヨーロッパでも古代人は もしそうだとすれば《知恵ないしロゴス》を超える《信仰の庭》を持ち得たのではないか。とは思うところがあります。

 (し) その後 デカルトもそうですが もうひとつに

    知は力なり。
    (ヰキぺによれば "scientia potentia est"
     "knowledge is power" )

 という看板がかかったのではないかと思います。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 なぜ、ローマ・カトリックが特殊相対性理論や量子力学に対して強い反論を浴びせかけたかも理解できま~す。
 ・・・・
 「神さまは絶対ではなく、未来を予言できない」ってことになっちゃいますんで。
 《観念の神さま》、《ろごす神さま》を神とするから、こんなことになっちまう・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (す) 《予言》は けっきょく―― § 3 とかかわっていて ここではそれをぎゃくに或る種落としめて見てみますが―― 神の言葉に従うか逆らうかを予言しているわけですから 逆らったなら ワザワイや不幸がおとづれるというのは 予言の的中といったこととは あまり関係ないようにも思われます。(言い捨てになりますが)。

 (せ) 《予言の内容》とは別に 予言できるかどうか これは――イエスまでの時代を別にするなら―― やはり関係ないと考えられます。つまり予言できたとしても それを預かる人間がいないのですし もしいたとしても もはやその予言が神の言葉であるかどうかは 人間には分からないことになっていると考えられます。(知り得ないし 知る必要もない。《あたらしい契約》の時代としてです。 cf. エレミヤ書31:31以降)。


 § 5 ひとと神――または 歴史と神――

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 歴史は、人間が作るものですよ。歴史という舞台では、人間が主役。神さまは、脇役ですらなく、せいぜい、背景の木くらいの役(わらい)。
 そして、何より、神さまは、シナリオ、台本も書いていない!!
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (そ) わたしが思うに 旧約聖書は――そこでこそ 神と人間とのあたかも対話が成っているかのごとく 互いに歴史においてからみ合っていますが それは―― 初めにはひとつの〔言語≒〕民族がそれとして主役であった。だけであると見ます。

 (た) 初めから人類のあらゆる民族に神の言葉が現われたというのではなく――いや 現われているとも言えますが その普遍性が問われます―― ひとつに限られた。そしてやがて 開かれて行く。ただ それだけのことではないか。と見ます。

 (ち) イエス・キリストのあとの時代と世界は キリストのキの字も言う必要のないほど神は――その反面では 目に見えない教会を世界中にかたちづくる聖霊の時代であるとも見られるのですが そのようなかたちにおいて―― 背景にしりぞく。こうは考えます。

 (つ) シナリオもなく すべては 実存である。そのときその場のおのれの自由意志の発揮の問題となる。と。

 (て) これらは イエスが語ったものと堅く思っています。

 (と) キリスト史観は そのようにいちど捉えてそのあとは みづからを止揚する世界観である。と考えます。


 ◇ 日本人的な「何だかわからないけれど、神さまは、おはす」くらいの素朴な神さまくらいでちょうどいい。
 ☆(な) これについてあとは 《つねに元気が出る》かどうかだと思います。

投稿日時 - 2013-11-25 16:29:57

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回答(5)

ANo.5

こんばんは

>世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?
人間は太古の昔に滅びようとした時 人間の自然本性や因果律から導いたのがピラミッド構造による組織だったために 
人間が頂点にいては 権力争いにより滅び易くなるので キリストを神とすることにより自分達はキリストの愛により見守られているとしたのでは?

人間は弱い者に対しては 慈悲や慈愛の心があるのは気づいていた これを キリストという神が子羊である人間に行うとした

キリスト教が何故こういう構造に成ったかというと フラクタルという幾何学の概念で説明できると思います
フラクタル(フランス語: fractale)は、フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入した幾何学の概念。図形の部分と全体が自己相似になっているものなどをいう

フラクタル ja.wikipedia.org/wiki/
血管の分岐構造や腸の内壁などはフラクタル構造であるが、それは次のような理由によるものだろうと考えられている。
例えば血管の配置を考えたとき、生物において体積は有限であり貴重なリソースであると言えるので、血管が占有する体積は可能な限り小さいことが望ましい。一方、ガス交換等に使える血管表面積は可能な限り大きく取れる方が良い。
このような目的からすると、有限の体積の中に無限の表面積を包含できるフラクタル構造(例えばメンガーのスポンジを参照)は非常に合理的かつ効率的であることが解る。しかも、このような構造を生成するために必要な設計情報も、比較的単純な手続きの再帰的な適用で済まされるので、遺伝情報に占める割合もごく少量で済むものと考えられる。

お釈迦様は曼荼羅に観られるように △より○を重視した

結論
キリスト教は 地球という大地に生活する人間を含めた生き物は△のフラクタル構造が非常に合理的でかつ効率的なのに気づいて書かれた教えだと思います
宇宙は11次元によるフラクタル構造かもしれませんね(高次元はコンパクトに折りたたまれているそうですが)
例えば 人間には観えないけれど テントウムシは上下、左右を自由に動くことができる

補足 神の数式

「その金字塔ともいえる石碑が、CERN(ヨーロッパ原子核研究機構)の裏庭に立つ。
そこに刻まれた数式こそが、彼らのいう「神の数式」。それに最も近いと考えられる最先端の数式である。」

NHK「神の数式」

「神の数式」を求めて。ヒッグス粒子に至るまで: 英考塾 eikojuku.seesaa.net/article/376166365.html

Coffee Break 「神の数式」 : チョットだけ競馬を。fineteqint.exblog.jp/21143128?

NHK神の数式の解説をお願いします questionbox.jp.msn.com

投稿日時 - 2013-11-28 03:16:53

お礼

 てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。




 ★ キリスト教が何故こういう構造に成ったかというと フラクタルという幾何学の概念で説明できると思います
 ☆ いわゆるオシエとしてのクリスチアニズムあるいはまた 世界においてふつう一般に見られる社会現象――社会力学――にかんがみて そういったピラミッドなどの構造として 分析し理解したというかたちだと思います。

 キリスト信仰は それとはまったく別です。
 ちょうどフラクタルが出たので 次のような構造図式をご紹介します。これをフラクタルだと言ったのは もぐ( MOG777)さんです。

 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ この文章の意を取って表わした内容が 次の図式です。

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 三角でも丸でもなく 《すべて・全体》をそのまま表わすかたちです。三位一体ですから 三という数には関係していますが。

 この場合 《国家》ということも けっきょく社会現象そのままをなぞって図解したに過ぎませんが ピラミッド構造になると もっと現象そのままを認識したものだと考えられます。

 つまりクリスチアニズムの宗教組織は まさに権限やその階層のきびしいヒエラルキアなるピラミッド組織ですよ。



 ★ 人間が頂点にいては 権力争いにより滅び易くなるので キリストを神とすることにより自分達はキリストの愛により見守られているとしたのでは?
 ☆ そうではなく 要するにイエス・キリストが言ったことは 誰もが自分の手と足とでまた考えながら あゆんで行けです。神は見守っているでしょうが 頼りとするなです。してもよいのですが そんな心がまえですすみましょうです。



 ★ NHK「神の数式」
 ☆ 次の質問がありましたが 参考になるのかどうか。ただし わたしには分かりません。ねこさんが助けてくれると思いますが。
 【Q:NHK神の数式の解説をお願いします】
  http://questionbox.jp.msn.com/qa8276749.html

投稿日時 - 2013-11-28 10:35:17

ANo.4

>「むろん落ち込むこともあるのですが つねに汲めども尽きぬ水が泉から湧き出るように 元気が湧いてくる。そういう状態を言います」

いやはや、落ち込んでばかりです。



あ、私が「元気を与えられ、元気になる」ですか。
(笑)そうですか。そうですかも。

いつも、ありがとうございます。

投稿日時 - 2013-11-26 07:50:46

お礼

 みなさん一人ひとりにでもあります。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2013-11-26 09:02:28

ANo.3

おはようございます。


>「世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?
ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。 」

「人びと」って?

投稿日時 - 2013-11-26 04:23:39

お礼

 くりなるさんご自身のことです。どうでしょう?

 むろん落ち込むこともあるのですが つねに汲めども尽きぬ水が泉から湧き出るように 元気が湧いてくる。そういう状態を言います。


 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2013-11-26 04:51:36

~~~~~
 23: わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
   すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、
   異邦人には愚かなものですが、
~~~~~
ですよ。
イエスの十字架は、
《しるし》を求めるユダヤ人にとっては《つまづき》になり、
《知恵》を求める異邦人(ギリシア人)には愚かなものと写る。
こうした立場は否定されている。
にもかかわらず、
ヒトは、
《しるし》という《カタチ》を求めたり、
《知恵》《理性》などによって神をとらえようとする・・・。
《観念としての神》を作り上げてしまったりする。


☆☆ (さ) わたしは 感触としてですが ヨーロッパでも古代人は もしそうだとすれば《知恵ないしロゴス》を超える《信仰の庭》を持ち得たのではないか。とは思うところがあります。
◇ニュートン以前は・・・。
ニュートンはあ~見えて、実は信心深い人ですから、意外に自然の前では謙虚。
「オレは、自然という海の波打ち際で、綺麗な小石や貝殻を見つけて、喜ぶ子供のようなものさ」みたいなことを言っています。
でも、ラプラス以降のヨーロッパは、「物理学万歳!!物理学で宇宙の神秘はすべて解き明かせるのだ」といった理性万能の時代に突入していった。
理性は、神さまの地位にまで昇りつめた。
フランス革命では、理性=真理の女神ですしね(笑い)。



~~~~~~
 (ち) イエス・キリストのあとの時代と世界は キリストのキの字も言う必要のないほど神は――その反面では 目に見えない教会を世界中にかたちづくる聖霊の時代であるとも見られるのですが そのようなかたちにおいて―― 背景にしりぞく。こうは考えます。

 (つ) シナリオもなく すべては 実存である。そのときその場のおのれの自由意志の発揮の問題となる。と。

 (て) これらは イエスが語ったものと堅く思っています。
~~~~~~
イエスやイザヤなどの立場はこれだと思いますよ。
でも、このメッセージを誤って、多くの人々は理解したのではないか?
ということです。

投稿日時 - 2013-11-25 16:57:24

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 にもかかわらず、
 ヒトは、
 《しるし》という《カタチ》を求めたり、
 《知恵》《理性》などによって神をとらえようとする・・・。
 《観念としての神》を作り上げてしまったりする。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちょっとあいまいな表現になってしまったかと思います。
 中身としては

 ・ 十字架は 《木に懸けられた者》であるからには 具象であり シルシである。
 ・ 復活は どうか。かたちがないゆえに シルシと見るのは むつかしい。

 こう言おうとしています。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ニュートンはあ~見えて、実は信心深い人ですから、意外に自然の前では謙虚。
 「オレは、自然という海の波打ち際で、綺麗な小石や貝殻を見つけて、喜ぶ子供のようなものさ」みたいなことを言っています。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《大海の波打ち際で バケツをもって海水を掻い出そうとするに似ている。つまり それは 世界を理性によって知識として知ろうとすることだ》という意味合いのことを アウグスティヌスは言っています。






 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスやイザヤなどの立場はこれだと思いますよ。
 でも、このメッセージを誤って、多くの人々は理解したのではないか?
 ということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そうでしたか。意見が一致しましたね。ローマ教会批判をやらねば・・・。

投稿日時 - 2013-11-25 17:12:42

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