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日本教について

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第五章 多神教は その一まとめとして一神教である

 § 5‐b 日本教について

 この項目では ヰキぺもまだ 書きかけである。短いので まづ ぜんぶをかかげます。
 ▲ (ヰキぺ:日本教) ~~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99

 (あ) 日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。
 
 (い) 奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。

 (う) 山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。

 (え) 山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。

 (お) 奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。

 (か) 奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この質問は 初めに還って 日本教をめぐるいろんな議論や実態をまづはあらためて集めてみたいというところから出発するものです。

 その一端を たたき台にしてもらってもよいかたちで 提出します。

 (き) まづ(あ)にかんして 次のように思われる。
  おそらくオシエのない《宗教として われわれの意識下に潜んでいる》ということですが たぶんそれに対してただし これも同じく山本七平の言葉ですが 《空気》というかたちでなら そのクウキについて人びとはすでに意識するようになっており 自覚をもともなって来ていると考えられる。
 KY はむしろ未来志向であるとすら考えられる。

 (く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。

  【Q:§ 5 多神教は その一まとめとして一神教である】
  【Q:男系による万世一系は 神武天皇以前は別となるのか】

 (け) 奥山実の(い)や(お)に言う議論にくわしい方は おしえてください。

 (こ) 芥川のほかにひとり思い浮かぶとすれば 遠藤周作の次のようなくだりです。

  ▼ (遠藤周作:日本の精神的な土壌について) ~~~~~~~
  ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの
   ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本
   と申す泥沼に敗れたのだ。
  ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。
   ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。
  ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん
   だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申
   したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言
   葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。
  ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。

 司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。

  ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言
   った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが
   ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな
   らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて
   おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは 
   それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではな
   く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる
   とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲
   げてしまったのであろう。

 基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。

  ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支
   丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では
   もう捕える気もない。
  ――なぜでございます――と通辞が聞くと
  ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ
   のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば
   なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。
   根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百
   姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても
   似つかぬものになっておる。

 頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。

  ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知
   れぬものとなっていこう。

 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。

  ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。

 奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。
 菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。
     (遠藤週作:『沈黙』 IX)
  cf. 【Q:日本人は生ぬるいですか】
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (さ) (え)でその《和の思想》は分かるのですが それが《神ではなく人間を中心とする》というのは 具体的にどういうことだと考えられますか?

 (し) (か)の《相対化》は けっきょく《貌がなく・のっぺらぼう》だという意味に受け取りますが さらにはどうお考えになりますか?

 (す) その事例になると思うのですが (お)の《日本は外来のすべてを日本化してしまう》については 宗教ということで けっきょく次のように《多神教のかたちを採った一神教》であると考えられまいか?

   日本教・総本山
    =シントウならびにシントウイズム

    日本教・ブッダ派
    日本教・キリスト派
    日本教・マルクス派
    日本教・新興宗教派(遺憾ながら)
    ・・・・

 (せ) 民衆レベルのシントウであるなら それはむしろ集団としての宗教ではなく 個人にとっての信仰としてあって その神は いづれの党派の個別の人間にとっても同じひとつの普遍的な神であると考えられる。という見方を提出して来ていますが どうか?

 (そ) そのほか 自由にご見解をしめしてください。

投稿日時 - 2013-12-19 13:19:55

QNo.8392624

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回答(7)

>>さらに言えば、パーリ語の経典の中において、お釈迦様が弟子たちを呼ぶときパーリ語では「bhikkhavo(比丘達よ)」とパーリ語の活用で呼びかけているのですが、よく見るとちょいちょい「bhikkhave」というマガダ語系の活用で呼んでいるところもあります。
http://okwave.jp/qa/q8185342.html

~~~~~~~~~~~~~~~

bhikkhave で検索したら
たくさんヒットしましたが・・・

比丘達よ。の呼びかけだけがブッダのことばというのもどうなんですかね。

http://suttacentral.net/search?query=bhikkhave&target=texts&lang=pi&limit=25&offset=0


こちらのpdfにマガダ語のことが少し紹介されています。

~~~~~~~~~~~~~~

Kathāvatthu に見られる上座部内の派閥(グループ). 周知のように Kathāvatthu11 の 中にはマガダ語的な特徴が散見される。 それについて、水野弘元はつぎのように述べる 。

http://nhuir.nhu.edu.tw:8085/ir/bitstream/987654321/5312/1/4082000705.pdf

~~~~~~~~~~~~~~~

あと、検索していたら何語か知りませんが、このようなpdfもありました。
私は読めません。読める方は解読してください。
たぶんマガダ語のことが書いてあるのではないかと思いますが違うかも。

http://enlight.lib.ntu.edu.tw/FULLTEXT/JR-BM054/bm102940.pdf


~~~~~~~~~~~~~~~

あとはもう、専門家や研究者に質問するくらいですか。

坐禅とかやる人たちは、別にブッダのことばなんかわからなくても
修行していればいいという結論になりそう。

なぜ仏教徒は外道のことばは口調まで残したのに
自分たちの開祖のことばはとことん翻訳してしまったのか。

そもそもマガダ国があった場所の言語調査とかしているのかな。

マガダ国で何語が使用されていたのやら。

投稿日時 - 2013-12-26 12:06:05

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 
 ★ 比丘達よ。の呼びかけだけがブッダのことばというのもどうなんですかね。
 ☆ 呼格として古形が残ったというのは ふたつの可能性があります。

 1. 全体として古形の何々語でしゃべっていた。けれども 呼格の活用形だけが文章に残っているという場合。

 2. 古形の呼格を使ってしゃべっていたが あとは 古形は使わず すでにあたらしい口語で全体としてしゃべっていた。という場合。




 ★ 坐禅とかやる人たちは、別にブッダのことばなんかわからなくても / 修行していればいいという結論になりそう。
 ☆ これにもふたつの場合がありそうです。

 1. ゴータマ・ブッダの思想に出来るだけ従おうとする立ち場。けれども 宗派として不本意にも違った道をあゆんでいるという場合。オシエとしては 原義に従おうとはしている。

 2. すでにブディズムの主流からは自発的に確信犯として離脱したと自覚している場合。

投稿日時 - 2013-12-27 10:18:32

とんでもないことに気がつきました。
私は間違っていました!


『苦と楽と第七の命と』とは、なんだろう。そんなの仏教に出てる来るのか?
と気になっていたのです。

あらためて、水野弘元 パーリ語文法 24ページを見たら

~~~~~~~~~~~~~~~


例えば当時マガダ地方で活躍していた哲人宗教家Makkhali Gosāla 及び
Pakudha Kaccāyanaの主張の文句の中に次のようなマガダ語的なものがある。

~~~~~~~~~~~~~~~

という文章を見落としていました。
そんな・・・。

ブッダのことばではなくて、六師外道のことばでした!

~~~~~~~~~~~~~~~

Pathavīkāyo, āpokāyo, tejokāyo, vāyokāyo, sukhe, dukkhe, jīve sattame.

http://suttacentral.net/sn24.8/pi




~~~~~~~~~~~~~~~~

パクダ・カッチャーヤナの教え

生命は絶対的な七つの元素で構成されている

 パクダ・カッチャーヤナは唯物論を説くのですが、前回登場したケーサカンバラ師の唯物論とは、ほんのちょっと違うのです。彼は絶対的な七つの元素を認めるのです。七つを、パーリ語と日本語で書くと、
 (一)Pathavî=地。(ニ)Âpo=水。(三)Tejo=火。(四)Vâyo=風。
 (五)Sukha=楽、体で感じる楽の感情。(六)Dukkha=苦、苦しみ。(七)Jîva=命、あるいは生命。
 これら地・水・火・風・楽・苦・命、この七つの元素です。
 近代の化学では、元素はいくつかあって、それは絶対的存在だと言っていたでしょう。例えば水素だったら、他の元素と組み合わせても水素の原子のままで何も変化できません。だから、atom という言葉を使っていたのですね。元素は英語で element と言うのですが、atom というのは、もうそれ以上は壊れないという原子です。時代がたつとその考え方はまたどんどん崩れていってしまいましたが。パクダ・カッチャーヤナも近代化学の原子論のような考えを持っていたのです。

http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-5.html


~~~~~~~~~~~~~~~
パクダ・カッチャーヤナ

パクダ・カッチャーヤナ(パーリ語:Pakudha Kaccayana、漢:迦羅鳩駄迦旃延、生没年不詳)またはカクダ・カートゥヤーヤナは、釈迦の在世中に活躍した自由思想家で出家修行者。六師外道のひとりで、唯物論的・原子論的な七要素説を唱えた。釈迦による批判[1]がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%8A

~~~~~~~~~~~~~~~

なんですか。

じゃあ、今までずっと六師外道のことばを探していたわけですか。

ゴータマ・ブッダのことばは、わからないのに
六師外道のことばは、わかってどうするんだろう?

もうがっかり。疲れました。

投稿日時 - 2013-12-25 04:37:46

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ちょっと歯が立ちません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 ゴータマ・ブッダのことばは、わからないのに
 六師外道のことばは、わかってどうするんだろう?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ゴータマの語りは なかなかつき止められないのですね。

 言行録であっても はっきりしないのですね。

 そして じっさいの言葉――パーリ語なりマガダ語なり――も分からないということですか。

 なかなか進めませんか。

 専門の研究者の登場が望まれます。

投稿日時 - 2013-12-26 09:47:56

探していた経典の箇所をやっと見つけました。
しかし、見つからない経典もありました。
http://okwave.jp/qa/q8185342.html

念のため、興味のある人は

水野弘元 パーリ語文法24ページ
を確認してください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

Majjhima Nikāya 76

Sandakasutta
Pathavīkāyo āpokāyo tejokāyo vāyokāyo sukhe dukkhe jīve sattame–

http://suttacentral.net/mn76/pi


~~~~~~~~~~~~~~~~


Dīgha Nikāya 2

Sāmaññaphalasutta
3.4. Pakudhakaccāyanavāda
Pathavikāyo, āpokāyo, tejokāyo, vāyokāyo, sukhe, dukkhe, jīve sattame–

http://suttacentral.net/dn2/pi

~~~~~~~~~~~~~~~~~

Saṃyutta Nikāya 24

1. Sotāpattivagga
8. Mahādiṭṭhisutta
Pathavīkāyo, āpokāyo, tejokāyo, vāyokāyo, sukhe, dukkhe, jīve sattame.

http://suttacentral.net/sn24.8/pi

~~~~~~~~~~~~~~~~~
Dīgha Nikāya 2

Sāmaññaphalasutta

3.2. Makkhaligosālavāda
Natthi attakāre, natthi parakāre, natthi purisakāre, natthi balaṃ, natthi vīriyaṃ, natthi purisathāmo, natthi purisaparakkamo.

http://suttacentral.net/dn2/pi

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(D.i, 53; M. i., 516; S. iii, 210)

のうち、 M. i., 516; S. iii, 210が見つからなかった。
探し方に問題があって、きちんと調べればあるのか?


ところで、
水野弘元という方は何を参照して
マガダ語の話をしているんでしょうね。

そしてどの程度あっているんでしょうか。

大体、ここまで示してあるのに
ブッダのことばとして紹介されないということは

やっぱり何か問題があるということですかね。

水野弘元のマガダ語
宇井伯寿の縁起説

知らないけど、どちらも曹洞宗かな?

~~~~~~~~~~~~~~~~

サーリプッタについてこういうブログもありました。
やはり、イシバーシヤーイムがポイントみたいですけどいつになったら翻訳されるんだろう?

http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1838140.html



~~~~~~~~~~~~~~~~

「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」
 第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁)

http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/archives/11120400.html

~~~~~~~~~~~~~~~

中村元はこんなことを書いているようだし・・・
この人はこの人で、人間ゴータマ・ブッダにこだわりすぎているような気もする。

人間としてのゴータマ・ブッダを追求した結果がこのような結論に終わるのであれば
それはそれで問題のような気もしますが、どうでもいいです。

~~~~~~~~~~~~~~~~

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

~~~~~~~~~~~~~~~

スッタニパータのその詩句が非常に古いものなら、ブッダのことばは、ブッダですらなく、バラモンじゃないの?

まあ、あれこれ調べてきたけど、こんなところかな。
時間の無駄といえば無駄でした。

投稿日時 - 2013-12-24 03:46:56

お礼

 かざみどり365さん こんにちは。ご回答ありがとうございます。


 中村元についてですが:
 ★ それはそれで問題のような気もしますが、どうでもいいです。
 ☆ とすでに書いておられますが あらためて問題点を書き込みます。

 ▲ (中村元) ~~~~~~~~~~~~~~
 第二に、
 (あ) 特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。
 (い) このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。
 (う) 既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (い)で《帰するところは 同一である》というのなら それはすでに《特定の教義 / さとりの内容》が決まっている もしくは中村元にとっては分かっている ことを意味するはずです。

 後者つまり中村元における《さとりの内容》は 次の一文で表わされているのでしょうか。

 (う) 既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。

 ☆ けっきょく《安心立命の境地》という説明であるようです。もしくは 厳密に言えば 《安心立命の境地を得ようとすること》であるようです。

 後者であるならば その境地に達しなくてもまだよいと言っているのかも知れません。

 ですが いづれにしても けっきょくさとりという家を建てたのではなく(また そのものの説明をしたのではなく) まだ ただ家のための足場をこしらえたというところだと思います。




 ★ スッタニパータのその詩句(803)が非常に古いものなら、ブッダのことばは、ブッダですらなく、バラモンじゃないの?
 ☆ もしずるがしこく振る舞う場合には ブッダやバラモンといったコトバをいくつか使っていたが 基本的には その内容はひとつであって ブッダならブッダのことだという後づけの説明になるかも知れません。




 パーリ語・マガダ語の古層については 留意しつつ 何かのきっかけを求めてすすんで行きたいと思います。

投稿日時 - 2013-12-24 13:42:41

ANo.4

・・・信教の自由(人権)の視点からしか、考えられないのです。

投稿日時 - 2013-12-19 20:41:21

ANo.3

はっはっは。


それでは、私も判りませんよ。

(人権侵害は、しないでね・・・)


あ、つまり、「裁判ションの確定半ケツがあっても、判らんチン」
そういうことね。

投稿日時 - 2013-12-19 16:40:42

お礼

 そうですか。

 

投稿日時 - 2013-12-19 20:24:20

ANo.2

B先生、ありがとうございます。


>「つまりは 理性教のうちにおさまる無神論のことです。《理神論》というのも ありました。」

「理神論」・・・「根源としての神を認めるが、・・・奇跡や啓示は否定する」
おやおや、これは、私のほうが具体例を挙げられなかったことが、申し訳ありませんでした。



★ ~~~~~~~~~~~~~~
 (仮に仰る「日本キョウ」というのがあるとしても、
 でも、それは信教の自由を逸脱可能というものではない)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 山本七平は 意識下においてその日本教の中身であることがはたらくと言っていますから そのような――たとえばクウキとして影響を受けるといった事態にかかわると思われるのですが の――問題をもう少し突き詰めて行くとよいと思いますが どうでしょう。

これについては、勿論、私1個の問題ではありません。
したがって、「私一人さえ、誤魔化せば、」ということでは、ありません。
(で、問題は、「山本七平」1個の問題ではないのでしょうか???)


たとえば、「クウキとして影響を受けるといった事態にかかわると思われる」
これを突き詰めると、良いのですね。
(でも、それは信教の自由を逸脱可能、では、あり得ませんが。)

投稿日時 - 2013-12-19 16:11:15

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ たとえば、「クウキとして影響を受けるといった事態にかかわると思われる」 / これを突き詰めると、良いのですね。
 ☆ 山本七平の理論を継いで 小室直樹が 解説しています。

 ○ 小室直樹 - 宗教 「日本教」
 http://www.youtube.com/watch?v=xEyEUAvbUbo

 ☆ 日本教には 特定の行動様式といったことが何もないと言っています。何もないところに 日本人としてのある一定の行動パタンが――おそらく クウキとして――出来上がっているし そのようにコトは進められて行く。こういった事態に対応しているのであって 観念論ではないということのようです。

投稿日時 - 2013-12-19 16:31:53

ANo.1

B様、こんにちは。


・・・ご質問が一人5つまで、とされてから、
不肖の「ありがとうポイント」も増えてる気が致します。


「欧米における「無神論」というのは、日本において考えられているソレよりも、
よほど徹底されていて、・・・覚悟が違う」とか。


「合理性はともかく、理性については、宗教によって信教によって違うんだよ」、
というのは、なるほどショッキングかもしれません。
(しかし、仰る「民衆レベルのシントウ」では、理性も何もありはしないでしょう。)

ま、そこで、一つの「方策」(方便ではない)として、
「信教の自由」というのが、ありうるではないでしょうか?


(仮に仰る「日本キョウ」というのがあるとしても、
でも、それは信教の自由を逸脱可能というものではない)

投稿日時 - 2013-12-19 15:12:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 仰る「民衆レベルのシントウ」では、理性も何もありはしないでしょう。
 ☆ これは とうぜんです。信仰は 《わが心に非思考の庭が成る》という事態でありその持続としての状態です。つまり 《理性も何もありはしない》コトです。

 ☆☆(く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。
 ☆ というふうに趣旨説明しましたが くわしくは《市民レべルのシントウ》は 個人にとっての信仰としてであるからには 《宗教として》というのは マチガイでした。その宗教となる前の前身としては 信仰があったというふうな意味で言おうとしていました。げんみつには マチガった表現でした。




 ★ ~~~~~~~~~~~~
 「欧米における「無神論」というのは、日本において考えられているソレよりも、
 よほど徹底されていて、・・・覚悟が違う」とか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは そう驚くにはあたりません。というのは その《覚悟が違う》ような《無神論》は じっさいには 思考として捉えたものであって つねに理性が鋭敏にはたらくような内容のものだと考えられるからです。

 つまりは 理性教のうちにおさまる無神論のことです。《理神論》というのも ありました。

 そうではなく もし信仰としての無神論であるなら あくまで《非思考の庭》にあって ヒラメキによってその《非思考》を捉え保とうとする動態ですから。

 つまり 《無い神》を 思考において理性によって保持するというような信念や思想は たしかにけっきょく科学万能主義に近いような中身だと考えられます。

 信仰として《無い神》をいだく場合には その《無神》が思考とはかかわりません。そういう違いがあります。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 (仮に仰る「日本キョウ」というのがあるとしても、
 でも、それは信教の自由を逸脱可能というものではない)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 山本七平は 意識下においてその日本教の中身であることがはたらくと言っていますから そのような――たとえばクウキとして影響を受けるといった事態にかかわると思われるのですが の――問題をもう少し突き詰めて行くとよいと思いますが どうでしょう。

投稿日時 - 2013-12-19 15:41:23

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