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ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論
 
 第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ

 1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。

 2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。

 3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。

 ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ
  
  【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html

 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~

   経験
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと知った)
   非経験
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
 
  ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
  ________________________
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
  ________________________

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。

 A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
   無梵:空・シューナター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如
   仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)



 4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。




 ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

投稿日時 - 2013-12-29 08:57:27

QNo.8404970

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

分かった。
親鸞の前に法然がいた
法然という心の親がいた
それだけは忘れないでくれ。

法然の教えが子供だましなら、なぜ親鸞はそれを受け入れられたのか
無駄かもしれないが、一応書いておく
気に入らなかったら捨ててくれ
その方がBさんのためにいいだろう
以上。








定め無きを無義といい

言葉無きをもって無義の義という

無義の義とは祈りの心

仏の慈悲が人の慈悲になるのでもない、人の慈悲が仏の慈悲になるのでもない

ただその中に居て知る誠

言葉無き誠を知るは信心のはじまり

祈られし事と祈る事のはじまり

投稿日時 - 2014-01-11 09:47:37

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 法然についての親鸞の思いを 直筆ではありませんが 歎異抄から引きます。
 ▼ (歎異抄 2) ~~~~~~~~~~~~~
  http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/tanni/tanni-02.htm 

 (あ) ・・・念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。
 ・・・
 (い) 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(=師匠たる法然)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

 (う) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。

 (え) たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの見方にて解説します。

 (あ)は 聖道門つまり宗教としての信仰を掲げていてもいわゆる自力の思想である行き方を 信仰としては当然ですが 棄てます。(い)で触れているように 浄土門つまり他力だという説明を採ると言っています。

 その(い)の行き方は 法然直伝であり あとの(う)や(え)にもしるしているように 法然の行き方につけ加えるものも そこから削るものもないと言っています。

 (う)――このくだりは のちに親鸞が採り得て示し得た変化(進展)が 顔をのぞかせているかも分かりません。

 そのことを考える前に 先に(え)において法然の行き方をたたえ これを顕揚するのだと語ったことに留意することができます。


 かんたんながら これで
 ★ 法然という心の親がいた / それだけは忘れないで
 ☆ いることを確認しておくことが出来たとします。



 ところが親鸞は 先へもすすみます。その境地にさらになお変化を得て行きます。

 たぶんそのような境地の深化の可能性は すでにたとえば上の歎異抄の説明の中にもそのキッカケが見出されます。

 すなわち (い)で《ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし》という命題をかかげつつも その基本路線のもとにもなお自由度または伸び代があった。それが (え)に明らかだと考えられます。

 ▼ (え) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
 ☆ これについては 消極的に見るなら 念仏としての浄土門・易行道は 信心であるのだから 《考える》問題ではないということを確認しているだけだとも見られます。

 積極的に捉えるなら そのように《思考に非ず》なる道を一筋にあゆむ――つまりは アミターバ・ブッダの誓願にしてもあるいはその義にしても そんな思考における理念や観念は一向にかまうものではない――と言い放ったかにも見られます。



 このような親鸞における自由度ないし伸び代は 例の悪人正機の説をめぐっても発揮されているのではないか。

 つまり その説の中身をうんぬんするというのではなく そうではなくすでに 悪人と善人との比較をつうじて信心のありようを《考える》ことを打っちゃってしまうような道へと 念仏・浄土門・易行道についてさらに問い求めていく姿があると見られるからです。

 つまり 善悪の彼岸です。《非思考の庭》と言うべき動態なる信仰の座です。
 これを 吉本隆明は 《非知》という言い方で表わしています。(ただし この非知が 不可知とどう違うかや 非思考ないし非経験とどう同じであるかについては 触れていない〔と思う〕)。








 わたしは 親鸞の思惟の軌跡を時系列で追うことはしていませんので ただ文章を引用するだけですが 次のような知恵の境地に到ったことはマチガイないわけです。

 ▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~
 (お)(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。

 (か)(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。

 (き)(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。

 (く)(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《不可称・不可説・不可思議》は ナゾの何ものかのことを言うには それでよいでしょうが アミターバ・ブッダを規定(想定)する定義としては むしろ《非知 ないし非経験の場 もしくは非思考の庭》と表現したほうがよいと考えます。

 ★ 法然の教えが子供だましなら、なぜ親鸞はそれを受け入れられたのか
 ☆ 法然の行き方に削りもつけ加えもせずに その一筋をさらに問い求めて行った結果たどりついた地点なのです。つまりあるいは 浮気をせすに内部で深められて行き 人間の心的現象がこまかく腑分けされて行ったのだと思われます。

 たとえば 《はからひなきを自然と言ふ》というとき 《ハカラヒを無くそうとする》のは ハカラヒなわけです。そういった内面の襞を分け入っておのが心を見つけ出したのでしょう。







 ★ ~~~~~~~~~~~~
 (け) 定め無きを無義といい

 言葉無きをもって無義の義という
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから――ここからは 哲学思想のぶつかり合いです―― 
 
 (こ) 《定め無き》は 定めが無いという規定をすでにおこなっています。《無義》は じつは 《義》があるかも知れないのです。(この点 親鸞の表現およびそれを踏襲したわたしの説明に不備があったようですが)。

 (さ) つまり《定め無き》は 《いっさい何も規定しないということ》の《義ないし意味ないし思惟ないし自力ないし不自然》があるのです。

 (し) 《言葉無き》も同じくです。そこに意味ないし思惟を見い出していることになります。ハカラヒをおこなっています。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 (す) 無義の義とは祈りの心

 (せ) 仏の慈悲が人の慈悲になるのでもない、人の慈悲が仏の慈悲になるのでもない

 (そ) ただその中に居て知る誠

 (た) 言葉無き誠を知るは信心のはじまり
 
 (ち) 祈られし事と祈る事のはじまり
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから――哲学思想のぶつかり合いつまり 心の対話にあっては 遠慮せずに自由にどうぞではなく 遠慮をしてはいけないのです(遠慮したぶん 心は退化します)――

 (つ) 《祈り》は わたしはここにいますと言っています。むしろその前後に聖なるアマエにおいてうんと《おねだり》をすればよいのです。

 (て) 聖なるアマエにおいて もし《遠慮》をするなら それは今度は その相手をその遠慮のぶんだけ見くびっていることになります。おまえなんか 神と言ったって あんまし有名ではないし 実績がなく頼りない神なんだよなと語ったことになります。

 (と) つまりは 神を評価しうる存在だと自己を見なしたことになります。そんな《立派な》存在が 見下したところの神にむかって どうして祈ったりするのか?

 (な) 《慈悲》――(せ)――は それとしてひとつの主題をかかげて問い求めなければならないでしょう。

  ○ わたしの側の参考資料:
  【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html

 (に) 《まこと(真‐事 / 真‐言 / 誠)》――(そ)(た)――は 《主観真実》のことです。そして確かに別様に《普遍真理》をも意味し得ます。

  ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~
 
   普遍真理( X )――非経験の場

   世界事実( Y )――経験世界・経験事象

   主観真実( Z ) 対 真理――《 X - Z / 信じる》
    〃       対 事実――《 Y - Z / 考える・感じる》

  
   わたし( i )の世界観: 《 X - Y - Zi 》

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (ぬ) 《非経験の場 X 》をそれがナゾであると知りつつ・だから雲をつかむようなことと知りつつ心( Z )に受け容れる意志行為が 《信じる X - Z 》である。




 こんな感じですかね。

投稿日時 - 2014-01-11 13:40:51

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回答(27)

ANo.27

今回は引用が大変だったので
間違いなどがあるかもしれませんので気をつけてください。

要はテキストがなんだか違うという話。

~~~~~~~~~~~~~~~

ワイド版 岩波文庫 ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経―

232ページ

第三章 

六五 以下1―20節はAN.Aṭṭhaka-Nipāta,LXX(vol1. IV, pp.308-313)に出て来る。また1-10節は
Udāna VI,1; SN. vol. V,p 295 f.に出て来る。Cf. Divyāvadāna, pp.200-208.


~~~~~~~~~~~~~~~~

上記の引用は節の漢数字を算用数字にしました。
確認するのも大変。

ちなみにAṭṭhaka-Nipātaは、Aṅguttara Nikāya (AN)にありました。
http://suttacentral.net/an

Divyāvadānaはわかりません。

それで、

http://suttacentral.net/dn16/pi

そのサイトのDīgha Nikāya 16

Mahāparinibbānasutta

と、岩波文庫のブッダの最後の旅と
訳がなんだかあわなくて、どうなっているんだと調べた。

suttacentral.netのディーガニカーヤとPTS版のディーガニカーヤとなんだかテキストが違うようです。

~~~~~~~~~~~

pdfの数字81 テキストのページの数字72
Pali Texts (PTS)
Mahavagga (Digha Nikaya II)
https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/dighanikaya.html

~~~~~~~~~~~~

面倒なのでウダーナは確認していません。

~~~~~~~~~~~~
一〇 そこで、尊師は、チャーパーラ霊樹のもとにおいて念じて、よく気をつけて寿命の素因(潜勢力)を捨て去られた。
尊師が寿命の素因を捨て去られたときに大地震が起った。人々を驚怖させ、身の毛をよだたせ、神々の天鼓は破裂した(=雷鳴があった)。
そこで尊師は、その意義を知って、そのときこの感興のことばを発せられた。

「量られ、また量られない(身の成立する)もとである<生存の素因>を、聖者(=ブッダ)は捨て去られた。
みずから内心に楽しみ、精神統一をして、殻のような自己の成り立つもとを破壊した」と。

ブッダ最後の旅 72ページ

~~~~~~~~~~~~

“Tulamatulañca sambhavaṃ,
Bhavasaṅkhāramavassaji muni;
Ajjhattarato samāhito,
Abhindi kavacamivattasambhavan”ti.

http://suttacentral.net/ud6.1/pi

~~~~~~~~~~~~

それにしても註釈が長い。

~~~~~~~~~~~~~

寿命の素因――āyu-saṃkhāra「いのちのもと」である。
この語はMN.I,pp.295,296; SN.II,p.266;Jātaka IV,p.215にも出ている。
ブッダはすでにニルヴァーナに達しているので、死後に生まれ変わることはない。
しかし過去の業の余力があるので、それがこの世で生命をたもつ素因となって、ブッダはなお
この世で生きているのである。
インド一般の哲学では潜勢力のことをsaṃskhāra(=Pali: saṃkhāra)というがを
(例えば、Praśastapādabhāṣya, Kashi Sanskrit Series,§ 39 ,p. 136 f.)、それと共通の観念である。
ところがここでは寿命の潜在性(可能性)放棄したのである。ここではブッダを神格化して、やがて
大乗仏教の仏身観に向かう第一歩が認められる。


感興のことば――この詩句は難解であり、おそらく文句がくずれているのであろう、とリス・デヴィッズはいう
かれはWindisch: Māra und Buddha, pp.37 ,72; Udāna VI,1; SN.V,p.263 ;Divyāvadāna,p203に言及している。)
しかしパーリ語としては異様であっても、恐らくマガダを中心とする東部インド語における文句を比較的に忠実に伝えているのであろう。

ブッダ最後の旅 240ページ

~~~~~~~~~~~~~~~

使用するパーリ語のテキストがPTS版である必要はないと思うけど、
中村元の翻訳したものとは違った仏教理解になっていく可能性もありますね。

投稿日時 - 2014-01-13 19:48:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 次のくだりの読みをこころみてみました。


 ▼ (Udāna 6.1 Āyusaṅkhārossajjanasutta 末尾の詩句)~~~~~~~~~
 “Tulamatulañca sambhavaṃ,
 Bhavasaṅkhāramavassaji muni;
 Ajjhattarato samāhito,
 Abhindi kavacamivattasambhavan”ti.

 ▼ (ブッダ最後の旅 72ページ)~~~~~~~~~
 「量られ、また量られない(身の成立する)もと
 である<生存の素因>を、聖者(=ブッダ)は捨て去られた。
 みずから内心に楽しみ、精神統一をして、
 殻のような自己の成り立つもとを破壊した」と。

 ☆ (試訳‐1) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ふつうの( Tulam- )発生を( sambhavaṃ )も(-ca ) 
 特殊な( -atulañ- )発生をも
 存在( Bhava- )を発生させるチカラを( -saṅkhāram- )
 ム二(聖者)は( muni ) 捨てた( -avassaji )。
 定まれるこころの( samāhito )
 高き霊なる我れを( Ajjhatta- )楽しめる人は( -rato )
 鎧の( kavacam- )ごとき( -iva- )霊なる我れの( -atta- )
 生起を( -sambhavan ) 壊した( Abhindi )。と( iti )

 ☆ (試訳‐2)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 凡夫にせよ偉人にせよ
 存在を生成するチカラを ムニは 捨てた。
 すでに定まれる境地にていと高き霊なる我れを楽しめるひとは
 鎧のごとき霊なる我れの生成を壊した。と。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ もし試訳‐2のように訳すなら そこには その《無我 an-aatman / an-attan 》を説くことに呼応するような《低級な霊なる我れ kavacamivattasambhavan / Bhavasaṅkhāram 》とそして その低いアートマンを捨てその生成を壊すことのできる《いと高き霊なる我れ muni / Ajjhattarato samāhito 》とがあるということになるのだろうか?

 それゆえ この高級な霊我を立てたところで
 ▲ ここではブッダを神格化して
 ☆ ということになるのだろうか。


 いえ。わたしには何も分かりません。読んだこともないのですから 知りません。



 もっとも もし高級の霊我を《非経験の場 つまり 神〔を受け容れた非思考の庭〕》だとしても 低級の霊我を捨てたり壊したりすることはないだろうにと考えられます。




 ★ 要はテキストがなんだか違うという話。
 ☆ というお話にお応え出来ていません。すみません。

投稿日時 - 2014-01-13 21:35:49

ANo.26

jIvA
http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=jIvA&direction=SE&script=HK&link=yes&beginning=0


Ayus
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=Ayus&trans=Translate&direction=AU


βίος bios

ζωή zōē

命を意味するものは他にもあるんだろうけれど

lifeで検索しただけでもたくさん。

アミターユスのアーユスと、命を意味するジーヴァは
ギリシャ語のゾーエーとビオスのような違いがあるのだろうか?

浄土門の人たちは、
アーユスが人間の外部にあると考えたのだろう。

アーユスを外に出すことで、内からアーユスを捨て去るのだろうか。


~~~~~~~~~~~~~~~

jīva、āyus

~~~~~~~~~~~~~

こんなのを見つけました。

Udāna 6.1

Āyusaṅkhārossajjanasutta
http://suttacentral.net/ud6.1/pi


6.1 寿命を形成する働きを捨棄することの経(51)
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html

~~~~~~~~~~~~~~

15. Āyusaṅkhāraossajjana

Atha kho bhagavā cāpāle cetiye sato sampajāno āyusaṅkhāraṃ ossaji. Ossaṭṭhe ca bhagavatā āyusaṅkhāre mahābhūmicālo ahosi bhiṃsanako salomahaṃso
, devadundubhiyo
ca phaliṃsu. Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi:


“Tulamatulañca sambhavaṃ,
Bhavasaṅkhāramavassaji muni;
Ajjhattarato samāhito,
Abhindi kavacamivattasambhavan”ti.

http://suttacentral.net/dn16/pi

Dīgha Nikāya 16

Mahāparinibbānasutta

にもあるようだ。


観無量寿経は現実的な救いがないような気がするけれど

~~~~~~~~~~~

(5) どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教え
ください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁
りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄
や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。
わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たり
したくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝
し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる
世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub27.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~

ヴァイデーヒーの願いがこうなのだから、
それでいいのかもね。

投稿日時 - 2014-01-12 15:06:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ヴァイデーヒーの願いがこうなのだから、 / それでいいのかもね。
 ☆ いやぁ わたしはそうは思いませんね。

 この発言を読むかぎりで ワイデーヒーは 問題を解決しようとする意志が消えていますね。つまり生きる意志がなくなっているとさえ見られます。

 ゴータマは 石上の布留のやしろの《みたまふり》をほどこしてやらねばいけないでしょうね。



 

 ● 6.1 寿命を形成する働きを捨棄することの経(51)
 ☆ どうも分からないですね。早い話が 《いのちを捨てる》って言ってるんでしょう? 分かりません。いくら ニルワーナの《伝統》があるからと言って。


 ● ( Ayus ) ~~~~~~~~~
 ・存在にかんするもの: man, mankind, life
 ・寿命・健康・・・・: long life, health, age
 ・ちから・・・・・・: vigour, vital power, active power
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こう見ると 直前の《寿命を形成する働きを捨棄すること》というときのそのハタラキのことを言うのでしょうし そう見たとき その《捨棄する》というのは何ともおかしなことを言うものだなぁと思うのですが どうなんでしょうねぇ。



 ● j I vA : life
 ☆ これは 現代のロシア語に同根の語があるので分かりやすいです。ジー‐チ(生きる・暮らす)が ヤー ジヴー( I live. )というように活用しますから サンスクリットが ジーワであることにも違和感はありません。

 どうも ヰタミンのヰタと同じ語源らしい。つまり ギリシャ語の ビオスとも。

 ● ( vital ) ~~~~~~~~~~~~~~
  http://www.etymonline.com/index.php?term=vital&allowed_in_frame=0

 vital (adj.) :late 14c., "of or manifesting life,"

  from Latin  v i t a l i s "of or belonging to life,"
  from  v i t a "life,"
  related to  v i v e r e "to live,"

  from ProtoIndoEuropean root  *g w e i-
  (cf. Old Persian  *j i v a k a- "alive;"
  Greek  b i o s "life,"  / z o o n "animal;"
  Lithuanian  g y v a t a "(eternal) life;"
  Old English  c w i c,  c w i c u "living, alive;"
  Old Irish  b e t h u "life;" cf. also bio-).
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ちなみに 《Old English  c w i c,  c w i c u "living, alive;" 》というのは 現代の 《 quick 》なる語のことです。

 ● ( quick )
  http://www.etymonline.com/index.php?term=quick&allowed_in_frame=0

 ☆ バスクとフランスにおけるガスコン。(つまり v, b ∽ g )。あるいは 《 go ―― went ―― gone 》の w ∽ g 。

 《 j 》は 《 g > g i > j i (イの折れ。 ギ > ヂ)》からです。


 《ゾエー》は どうなんでしょう。そう言えば ビオスとゾエーとが 意味において入れ替わったとかいう話を聞いたことがあったような。




 生きるチカラとしての アーユスについて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 浄土門の人たちは、
 アーユスが人間の外部にあると考えたのだろう。

 アーユスを外に出すことで、内からアーユスを捨て去るのだろうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という見方は どうもよく分かりません。何かの展開がありますか?

投稿日時 - 2014-01-12 15:51:41

ANo.25

しょうがないな
哲学のぶつかり合い、なんて言ったってただの遊びだろ
自分で分からないから、きれいにそう言っているだけじゃないか
落書きのヒントを書いておくよ。

概念規定以前であるという事と、概念規定不可能であるという事と、
概念規定を行わない事が適切である、という解釈

無義というものは、これらのどの状態にも当てはまる
無義の義というからには、これらの状態をさらに一つの規定として扱うという事だ。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


あとは自分で考えろ
できないのなら捨てろ
どうしても分かりたけりゃ仏様の前へ座れ

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

歎異抄の評価は言うに及ばずだ
信仰における親鸞の純粋さを示してあまりある
誰かにすこしくれてやりたいくらいだ
ただ親鸞が到達した世界が絶対かというとそうじゃない
小経義疏をはじめ、人の業を直視して悪人正機と言ったんだろうけど
一闡提と五逆罪の重罪悪業の身は除かれている
そこでもって密教で言うには「一見阿字五逆消滅・・・」という、業果を畏れぬ懺悔の道もあるにはある
また、方便をもって二生、三生を経てでも済度するというスケールの大きな事も言われている
まあ、きりがないんだわ・・
教えの性格上、親鸞はそこまでしか言えなかったという可能性だってある。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・



ブディズム、ブッダ的なるもの、ブッダ的思想、仏教的思想
三角ピラミッドにすれば、底辺はブッダ以前という、かざみどりさんが言ったような事だ
その上が、お釈迦様の直説で、その上が部派仏教で、その上が大乗で
一番てっぺんにあるのが密教という事なんだろう
その密教もピラミッドにすれば格々しかじか・・という
頼富本宏さんに聞いた方がいいだろう

仏教ピラミッドは幾つもある、無数にある
ブディズム全体が曼荼羅の世界だ
ブッダも親鸞も、その中の一尊にはちがいない
みんな個性がある
共通しているのは智慧(理知)と慈悲の顕れという点だ
片手落ちという事はない
それぞれが見事な顕れで、それぞれが一つの頂点を持っている
ブッダだけが、親鸞だけが頂点という事はない
結縁という事においても不平等という事はない

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・




もういいだろう
終わりにしよう
まだいくらか不愉快だ
最後に言いたいのは
自分に非があるときには素直に一言謝ったほうがいいという事だ
当たり前の事だし、それが礼儀というものだ
それができなければ狭量さを晒けだすようなもんだ
阿修羅になってもいいのか


まだ血圧が高いんで、ここいらで止める
ごめん。

投稿日時 - 2014-01-12 10:27:19

補足

 おぎないます。


   ○ 義無きをもって義とす

 これをめぐってですが もし《非経験の場》を想定し規定するとすれば むしろやはり

   ○ 非経験の場 : 非義

 と表現したほうがよいかとも思われます。経験世界における義と不義とを超えているという意味においてです。

 ただし 親鸞のこのいまの命題は まさに非経験の場を――つまり神を もしくは アミターバ・ブッダを――見つけたかに感じて受け容れるときのその過程そのものをよく物語っている。こう捉えられるのではないでしょうか。

 具体的には 世の中で 義なる人たちが不遇で逆境に甘んじていることとか 同じことですがこれ以上の理不尽なことはないといった不条理なことがまかりとおっているとか これらの事態にあまんじなければならないときに その相手を演じている当事者たちをも 義と不義とを超えた非経験の場からの目が イノチある人間存在としては あたたかく見守っているんだなと知る。――つまり 義無きをもって義とすとさとった。

投稿日時 - 2014-01-13 10:15:14

お礼

 ● (とある質問) ~~~~~~~~~~~
 有頂天と増上慢について、知識のある方、ご教示願えますでしょうか。
 また、この二つは密接に関係していたりするものでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった主題が披露されました。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  概念規定以前であるという事と、
  概念規定不可能であるという事と、
  概念規定を行わない事が適切である、

 という解釈
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これらはすべて人間の側から 人間の能力と努力とで出来る事柄だという前提に立った総括的な規定です。

 すなわち 概念規定を超えている場があると こちらは言っています。






 体調は よいときとわるいときとがあって その状態に応じて うつくしいものを見た・感じたというその感覚が違うようです。(そういう主題をあつかった質問をいま挙げています)。

 わたしの文章に接すると そのときの一時的に現われる感情を超えて うつくしさというものに出遭うことでしょう。




 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2014-01-12 11:52:58

ANo.23

Bさん・・

>法然は 信仰論については 低いですよ。
 ★ どうしても法然と親鸞が一つに見えてしょうがない
 ☆ 要するに 《もっぱら念仏による往生》という信仰もどきです。


残念だが、これは言っちゃいけないよ
言っちゃいけない言葉だ
浄土宗門徒への侮辱だ

Bさん自身が問われてしまうよ・・

どの宗派の教えにも、それぞれの意味や価値があるという事を忘れちゃいけない
どの宗祖にも、それぞれの宗教的な輝きがあるという事を忘れちゃいけない

Bさんからこの言葉を引き出してしまった事において
質問文に直接関係のない法然を持ちだした私にも責任はある
できれば撤回を求めたいのだが
たぶんBさんは撤回しないだろう
だから反論はしない



私は阿弥陀様の脇にいらっしゃる仏様の信心を頂いた
無義の義、というものを受けた者の一人として思うのは
信じる者が信じない者に何を言っても無駄だということだ
お互いに無駄でもいいのだが、お世話になった縁ある教えの宗祖を貶すのだけは黙過できない
Bさんにとっては、仏教は終わっているのだろう
そんなふうに見えてしかたがない
私も目が悪くなった。

お元気で。

投稿日時 - 2014-01-10 14:16:16

お礼

 A さん 元気か。ご回答をありがとうございます。


 ★ Bさん自身が問われてしまうよ・・
 ☆ 身内のあいだの愛という基礎に立って 社会的な愛に臨むわけですが これまでは借りて来たネコみたいに何も言えなかった。遠慮のしっぱなしでした。多少は 気が強くなって来ましたか。

 わたし自身を問うてくれと つとに言って来ています。フルボッコで批判をどうぞと。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 どの宗派の教えにも、それぞれの意味や価値があるという事を忘れちゃいけない
 どの宗祖にも、それぞれの宗教的な輝きがあるという事を忘れちゃいけない
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 法然に対しては すでに親鸞が最上級のうやまう心をもってたたえています。親鸞の傘の中で 口のわるいわたしは 言いたい放題。




 ★ 信じる者が信じない者に何を言っても無駄だということだ
 ☆ これは おかしい。あくまで《話し合い》が 地獄の底にまでも通用する手形です。

 ★ お互いに無駄でもいいのだが、お世話になった縁ある教えの宗祖を貶すのだけは黙過できない
 ☆ でも 《念仏をとなえれば 極楽往生する。必ずさとりを得る》というのは 子供だましでしょう。

 せいぜいが 子どものような心になるようにという《オシエ》なのかも知れない。そこに 効用があるのかもしれない。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 Bさんにとっては、仏教は終わっているのだろう
 そんなふうに見えてしかたがない
 私も目が悪くなった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《終わらせてはいけない》という清論を俟ちます。

 どこまでも 《話し合い》です。

投稿日時 - 2014-01-10 14:49:33

ANo.22

観無量寿経に疑問が出てきた。

http://mujintou.lib.net/dharma/shinshu/kangyou.htm

偽経とかそういうのではなくて
珍しいというかなんというか

誰も現実的には救われていない。


ビンビサーラは幽閉
ヴァイデーヒーは幽閉。そしていわば幻を見る。
アジャータシャトルはそのまま。

幽閉された人間の見た幻

ニヒリズム。

投稿日時 - 2014-01-10 14:02:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 観無量寿経に疑問が出てきた。

 ・・・・
 誰も現実的には救われていない。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば《結語》のくだりでは:

 ▼ (【仏説観無量寿経の大意】) ~~~~~~
  http://mujintou.lib.net/dharma/shinshu/kangyou.htm

 [結語]

 (え) 仏(釈尊)は、弟子の阿難(あなん)からの、この経の「かなめ」は何なのですかとの問いに対して、念仏すべきことを強調される。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ のだそうですね。ここから さらには 念仏の効用が説かれて行くのでしょうか。

 もっとも親鸞は 《非行非善》と言って 《念仏すれば極楽往生する》という命題を真っ向から揚棄しましたが。



 ▼ (【仏説観無量寿経の大意】) ~~~~~~~~~

 [序分]

 (あ) 韋提希(ワイデーヒー)は地面に身を投げ、号泣しながら仏に訴える

 (い) そこで釈尊が眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現出されると、韋提希はその中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。


 [本論]

 (う) このように仏が説かれたとき、韋提希とその侍女たちは極楽世界のすがたや、阿弥陀仏および観音菩薩・勢至菩薩を見て、歓喜の心が起こり、からりと迷いがはれて大悟し(廓然大悟)、さとりを得ようとする心(菩提心)を起こして、極楽往生を願った。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 物語に拠るかぎりで 
 ▼ (う) からりと迷いがはれて大悟し(廓然大悟)、
 ☆ と言っていますね。しかも――よく分からないのですが――
 ▼ (う)・・・さとりを得ようとする心(菩提心)を起こして、極楽往生を願った。 
 ☆ とも続けて語られています。

  さとりを得たのか 得ていないのか?

 


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ビンビサーラは幽閉
 ヴァイデーヒーは幽閉。そしていわば幻を見る。
 アジャータシャトルはそのまま。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは この

  まぼろし

 とは何ぞや? になるのでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 幽閉された人間の見た幻

 ニヒリズム。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんですかねぇ。

 とお茶を濁したお応えにてですが。




 No.18のお礼欄でわたしは 《仮城・大仮城》ということを言っています。シンキロウです。

 シンキロウだったなら ただの一時的な気休めであり その場のなぐさめであるとなります。
 もしこのマボロシが 《非経験の場》なるナゾのことだったら・・・。

投稿日時 - 2014-01-10 14:35:37

ANo.21

Bさん ありがとう。
お手柔らかくしてくれたようだ。

自分で言うのもなんだけど・・
この感情魔・・というやつは、心の中のあっちこっちを探るのが好きで止められない
まあ、心の中をいろんな旅をしてきたんだろう
そんな旅の印象から、人を見てしまう癖があるようだ・・。
(もうちょっとだけ、言いたい放題ゆるしてくれ・・ )



親鸞の前に、法然と付けるのには訳がある
自分の家が浄土宗だからだ
それと、どうしても法然と親鸞が一つに見えてしょうがない
切り離せないんだ
或いは、完成の前の未完成の魅力・・というものを法然に感じているのかもしれない

まあ、法然も親鸞もビッグバン・・と言ったけど
法然を取り上げてみれば
彼は幼い頃に、すでに仏に出会っていたという気がする
それは父親との別れの時にだ

父親が敵に討たれて、亡くなる前に・・「恨みなき安らぎの心を得よ」と言ったのが、そうだと思う

この子は一生、私を討った敵を憎むだろう・・それではこの子は救われない・・

そういう思いで言ったのだと思う
その言葉を忘れる事はなかったと思う
その父親の大きな優しさも忘れる事はなかったと思う
父親の優しさは、仏の優しさではなかったか・・と思う

だから・・といってはなんだが
法然は長じてからは、父親の冥福を祈る気持ちが人一倍強かったんではなかろうか・・
或いは、それが浄土の教えにつながったのかもしれない
そんなふうにも思う

比叡で学び尽くして、最後に辿りついたのが極楽往生の教えだったのは、偶然ではなかったと思う。
(仏を信じれば)必ず安らかな世界に行ける・・という教え
まあ、父親が与えてくれた教えだったのかもしれない・・


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・



こういった慈悲の系譜というのだろうか
ブディズムというか、神髄というのか
消えることのない宗教心の輝きみたいなもの・・
聖者に限らずあるような気がする

それは時に身近であり、時に崇高かもしれない
慈悲という心を受けることと、与えることの様々な姿

慈悲とは祈りである・・と言えば分かりやすい

まごころで祈る・・と言えば、もっと分かりやすい


慈悲を信じるという困難さは、慈悲との出会いによって打ち破られる
短い人の一生の中で、それは何度あるのだろう・・
たった一回でもあれば、人はこの世に生れてきた意味があるのかもしれない
親鸞もきっとそういう思いではなかったろうか・・
信心の重さとは、まごころを知る重さ
信心の確かさは、まごころを知る確かさ

そんな気がするんだが・・

すこし、きれいすぎたか・・・。

投稿日時 - 2014-01-09 22:55:57

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 法然は 信仰論については 低いですよ。
 ★ どうしても法然と親鸞が一つに見えてしょうがない
 ☆ 要するに 《もっぱら念仏による往生》という信仰もどきです。

 念仏は 心の中の思いとしてあるにしろ称名念仏として声に出してとなえるにしろ いづれも思考にかかわっています。経験事象です。

 信仰は 経験事象を超えているところのナゾを心に受け容れることです。

 よって 親鸞は 信仰ないし往生については 《非行非善》だと言います。

 往生するのは 《修行を積んで成るのではなく 善行をおこなって到るものでもない》と言い切ります。経験事象ないし経験行為によるものではないと。

  念仏は すでに《即得往生》をしたあと ありがたいと思えば となえればよいわけです。決して手段ではないのだと。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 父親が敵に討たれて、亡くなる前に・・「恨みなき安らぎの心を得よ」と言ったのが、そうだと思う

 この子は一生、私を討った敵を憎むだろう・・それではこの子は救われない・・

 そういう思いで言ったのだと思う
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 哲学であり倫理学の問題です。つまり 経験事象としてあります。

 《やすらぎ》を得ていないと言おうとするのではなく そういうことは 生活の態度としてよくおこなう人は修得することができるでしょう。そしてそれだけのことです。

 ★ その父親の大きな優しさも忘れる事はなかったと思う
 ☆ これもあり得ます。そして それだけのことです。

 ★ 父親の優しさは、仏の優しさではなかったか・・と思う
 ☆ これは 《仏》とは何か? がはっきりしないなら 何とも言えません。


 ★ 法然は長じてからは、父親の冥福を祈る気持ちが人一倍強かったんではなかろうか・・
 ☆ これもあり得ます。よく出来た人間としてあり得ます。ただし 信仰とは別です。

 ★ 或いは、それが浄土の教えにつながったのかもしれない
 ☆ 《浄土のオシエ》とは何であるか? がはっきりしないなら 何とも言えません。いえ この場合は 一般的にも《オシエ》は だめです。信仰についての説明であるオシエであっても それはすでに概念として述べたものですから 信じる問題ではなく考える問題になってしまっているのですから 思想だけの事柄におさまります。

 オシエは いかに信仰について語っていても 信仰とは別です。まして宗教となったオシエであれば せいぜいが道徳です。つまり 倫理学の領域までの話です。

 まさか経験思想としてのオシエを《信じる》などと言っているのではないでしょう。それは 《念仏をとなえれば往生する》というその思惟ないし観念をつよく思い込むというだけの話です。


 ★ (仏を信じれば)必ず安らかな世界に行ける・・という教え
 ☆ ただそういうふうに思惟を成したということを示すだけの命題です。信仰とは何の関係もありません。

 《安らかな世界に行ける》のは 実現するかも知れないのです。つまり 心で分かるやすらかさのことです。つまり 信仰とは何の関係もありません。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 こういった慈悲の系譜というのだろうか
 ブディズムというか、神髄というのか
 消えることのない宗教心の輝きみたいなもの・・
 聖者に限らずあるような気がする

 それは時に身近であり、時に崇高かもしれない
 慈悲という心を受けることと、与えることの様々な姿
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように意味のある世界にあるあいだは・つまり《義》を求めているあいだは ただの倫理や学問あるいは趣味の問題です。高尚な趣味かも知れませんが ただそれだけの話でおしまいです。《義人》であるかも知れませんが 信仰とは何の関係もありません。――と親鸞は 見たのでした。


 ★ ~~~~~~~~~~~
 慈悲とは祈りである・・と言えば分かりやすい

 まごころで祈る・・と言えば、もっと分かりやすい
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ もし神がほんとうであるなら わたしたちが何かを祈るその前にすでにそのことを知っている。だから むしろ信仰を得たならば 思いっきり甘えればよいわけです。底なしに広くおおきい心で受け留めてくれるでしょう。ですから もし祈りを それでもおこなうというのは それは ここにわたしはいますと ひとこと自己表現をおこなっているのだと捉えます。


 ★ 慈悲を信じるという困難さ
 ☆ ですから たぶん 無慈悲を見たと思ったときに(あるいは 不条理なことに出遭ったときに) その義無きをもって義とするのは 信じることにつながっていると思われます。

 慈悲を信じるというのは 慈悲なる概念ないし理念を理解して受け容れることを言うのでしょう じっさいは。それも 倫理学の問題です。自然法爾の信仰は 思惟を超えています。よ。

投稿日時 - 2014-01-09 23:47:30

ANo.20

やはり、ギリシャ語なのにヘブライ人と書いてあることに指摘がいきましたか。
私も投稿したあと、あれっ、と思いました。


まあ、違うなら違うでいいです。


生贄による憐れみは、

ヴェーダの生贄を批判した仏教からすれば
ありえない概念だから

比べればいいというものではなかったですね。

投稿日時 - 2014-01-09 19:03:36

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ まあ、違うなら違うでいいです。
 ☆ わたしの知識では 違うか合っているか 判断がつきません。

 ▼ (ヰキぺ:慈悲) ~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 サンスクリット語の「カルナー (karunā)」は「抜苦」「憐れみ」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。

 大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」(mahā karunā)と称する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは むしろそういった概念としてかたちづくっているというふうにも捉えられるのではないか。と考えるのですが どうでしょう。


 ▲ 「splagchnizomai スプラングニゾマイ」は通常「憐れむ」と訳される。直訳的には「内臓が動く」。
 ☆ これなら 内臓にウゴキを生じるような《呻き》と対応するかも知れません。

 あるいはつまり そういう概念として定義するなら そういった思想が出来るかも知れません。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 生贄による憐れみは、

 ヴェーダの生贄を批判した仏教からすれば
 ありえない概念だから
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう事情があるのなら それはまた 違いが出て来るかも知れないとは思いました。

 

 確かなことは まだ分からないというような煮えない応答ですが。

投稿日時 - 2014-01-09 21:03:53

ANo.19

nirvṛtaḥ は、シャンカラの註釈ですから、もっと後の時代です。

~~~~~~~~~~~~~~~

まいったなあ。

「学識を廃棄して」の学識はpāṇḍityaṃか。

やっぱりサンスクリットはわからんなあ。

bālyaṃ ca pāṇḍityaṃ ca nirvidyātha muniḥ
子供の状態および学識を廃棄して、それから、彼は[沈黙している]隠者になる。

で、
法然、親鸞と出てきましたが

学識を廃棄しては、

浄土門は愚痴に還りて極楽に生ず。

っぽいと思いました。

amaunaṃ ca maunaṃ ca nirvidyātha brāhmaṇaḥ |
隠者でない状態および隠者の状態を廃棄して、それから、彼はバラモンになる。」

これは、非僧非俗の親鸞みたい。

~~~~~~~~~~~~~~


「ヤージュニャヴァルキヤよ! 一切の内部にある自己は、どれか?」

「飢えと乾き、悲しみ、惑わし、老いと死を超えているものである。まことに、この自己を知って、

~~~~~~~~~~~~~~~~

これを阿弥陀仏にするのは無理やりですかねえ。

ついでに、
スッタニパータの マーガンディヤ経の「内心の安らぎ」の

安らぎ santiを 安心と訳せば、「安心」という浄土門で重要な概念も
原始仏教に根拠をおけるでしょう。


慈悲と愛の話ですが

単語の意味だけ調べてもしょうがないとは思いつつも

慈は、maitrIだから、ギリシャ語はphilosと比べたらどうだろう?

悲は、karuNA だけど ギリシャ語だとなんだろうと思ったから

ためしにcompassionで聖書を検索。

splagchnizomaiなんていうのがでてきた。

~~~~~~~~~~~~~~

splagchnizomai

http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Mar&c=1&v=41&t=KJV#s=t_conc_958041

~~~~~~~~~~~~~~~

c.f.「かわいそうだ」と訳される「splagchnizomai スプラングニゾマイ」は通常「憐れむ」と訳される。
直訳的には「内臓が動く」。ヘブライ人にとって内蔵は怒り、愛、痛み、同情、共感などの感性が
宿る場所だった。日本語では「胸、はら」に該当する。これと異なるのが知的な理解の座である
「頭」だ。
http://www.rikkyo.ne.jp/~kayama/2007jan-seigitoheiwa-mejiro.pdf

~~~~~~~~~~~~~~~

頭よりも、はらわたの問題かもね。


それでニルヴァーナの問題ですが、
中村元によると、他の宗教からとりいれたもので、方便だそうです。

では、ほかの宗教とはなんだろう?とは思いますが。

わからないです。

~~~~~~~~~~~~~~~

中村元の「自己の探求」新装版  青土社

239ページから引用です。

以下引用。


ところで、こんなに注意してまで長生きする必要があるのだろうか?
世俗の人々が長寿を欲するのは当たり前である。
しかし出家修行者に長寿は願わしいことなのであろうか?
早くニルヴァーナへ入ってしまった方がよいのではないか?
これは仏教説としては矛盾ではないか?

これは明らかに矛盾であるとわたくしは思う。
しかし仏教はもともと最高目的(paramattha,amata etc.)をめざす教えであり、
もしも長寿がそれに接続するものであり、人間にとって願わしいものであるなら、
それを説いて差し支えない。

そしてニルヴァーナの教えを捨て去ってもかまわないのである。
ニルヴァーナの教えそれ自体が、仏教にとっては、当時のほかの宗教から
とり入れたものにほかならず、一種の方便説にすぎなかった。

だからニルヴァーナの教えを捨ててしまってもかまわないのである。
――――後代の密教徒が行ったように。

~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2014-01-09 17:31:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ nirvṛtaḥ は、シャンカラの註釈ですから、もっと後の時代です。
 ☆ まちがったみたいです。

 ○(No.17お礼欄を修正) (ニルワーナ etc. ) ~~~~

 ブディズムやジャイナイズム以前:
  ・ nirodha ・・・これはあるかも知れない。

 以後:
  ・ nirvaana ( nibbaana )
  ・ nirvṛtaḥ ( nibbuta )

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 法然、親鸞と出てきましたが

    学識を廃棄しては、

 浄土門は愚痴に還りて極楽に生ず。

 っぽいと思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。聖道門は 《学識》に頼る・・・でしょうね。
 
 《愚痴に還りて》は まぁ エポケーをおこなうといったことでしょうか。《能天気》と言ってもよいのでしょうか。
 


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 amaunaṃ ca maunaṃ ca nirvidyātha brāhmaṇaḥ |
 隠者でない状態および隠者の状態を廃棄して、それから、彼はバラモンになる。」

 これは、非僧非俗の親鸞みたい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり ブディズム以前のブラフマニズムにあって 《出家と在家との中間》を目指すかたちも描かれていた。ということですかね。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ヤージュニャヴァルキヤよ! 一切の内部にある自己は、どれか?」

 「飢えと乾き、悲しみ、惑わし、老いと死を超えているものである。まことに、この自己を知って、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これを阿弥陀仏にするのは無理やりですかねえ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 《自己》が霊我としてのアートマンであるとわたしは採りますが そうだとすると 《アミターバ・ブッダなる神を受け容れたわが心なる非思考の庭》(その動態)のことだと受け取ってみます。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 スッタニパータの マーガンディヤ経の「内心の安らぎ」の

 安らぎ santi を 安心と訳せば、「安心」という浄土門で重要な概念も
 原始仏教に根拠をおけるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 背景と言いますか 概念の系譜がどうであるかと言いますかが 分からないので いまはまづ留意してみます。



 ★ 慈は、maitrI だから、ギリシャ語は philos と比べたらどうだろう?
 ☆ 《友》という内実で共通なのでしょうか? 生活感覚としての語義については 何とも手が出ません。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 悲は、karuNA だけど ギリシャ語だとなんだろうと思ったから

 ためしに compassion で聖書を検索。

 splagchnizomai なんていうのがでてきた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあたりは もっとむつかしそうです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 「splagchnizomai スプラングニゾマイ」は通常「憐れむ」と訳される。
 直訳的には「内臓が動く」。
 ヘブライ人にとって内蔵は怒り、愛、痛み、同情、共感などの感性が宿る場所だった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは ギリシャ語でも 内臓のいけにえがあったのか。それとも ヘブライイズムのナラワシとその言葉から借用したのか。

 借用だとすれば いわゆるカルク( calque / loan-translation )でしょうか。つまり 《目からうろこが落ちる》という借用のように。あるいは Uebermensch → Superman → 超人 というように原語の意味をそのまま取って訳した外来語。

 ▼ (Liddell & Scott: σπλάγχνον splagchnon ) ~~~~~~
  http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*s111%3Aentry+group%3D60%3Aentry%3Dspla%2Fgxnon

 τό, mostly in pl. σπλάγχνα
 A.“σπλάγχανα” , inward parts, esp. the heart, lungs, liver, kidneys, which in sacrifices were reserved to be eaten by the sacrificers at the beginning of their feast (いけにえの内臓)
 II. metaph. (like heart), the seat of the feelings, affections, esp. of anger (愛情や憎悪など 感情の座)

その動詞化
 ● σπλαγχν-ίζω splagchnizoo ,= σπλαγχνεύω splagchneuoo,
 II. Med. feel pity, compassion, or mercy (あわれむ)


 ● σπλαγχν-εύω splagchneuoo,
 A.eat the inwards (σπλάγχνα) of a victim after a sacrifice, (いけにえとしての内臓を儀式のあと食べる)
 II. prophesy from the inwards (内臓を見て予言する)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ▼ (中村元) ニルヴァーナの教えを捨て去ってもかまわないのである。
 ☆ そのとおりに考えます。《滅》という方向で さとりを捉えようとすることが そもそもマチガイであると単純に思います。

投稿日時 - 2014-01-09 18:25:26

ANo.18

Bさん どうも
お世話さまです。
ご苦労さまです。

気楽に・・といっては失礼なんですが
雑感めいた事を話してみます。
軽く聞き流してください
(もしかして・・聞き捨てならぬ! といった事がありましたら、お手柔らかにお願いします・・手モミモミ・・ )


ねむり猫さんの

>《信》にすべてを凝縮してしまうのならば、
かもしれません。

このへんなんでしょうね・・
結局、信じるか信じないか・・という

信じられるのか、信じられないのか・・ではなく、信じるか信じないか・・という
ストレートな疑問への深まりが、この言葉に込められているような気がします。
「信」あってこその仏教・・という矢印でもありますかね・・?

・ ・ ・ ・ ・


それでもって
まあ
現状報告というか
ありのまま、というか
実況生中継というか
(見るにたえない)悲惨な実態、状況なんですが・・
法然、親鸞の残した浄土門の教えが、今どうなっているのか・・というご報告

なむあみだぶつ、というお念仏は形だけあって、阿弥陀如来への信心は皆無に近い
これが本当のところなんです
遠い昔に、あれほど持てはやされた教えが完全に形骸化してしまった
時代なんでしょうよ・・ね
信じるか信じないかの時代ではなく・・信じられるのか、信じられないのか・・の時代になってしまった
みんな頭が良くなったわけですよ
だから不幸な人が多くなってしまった
簡単に幸せになれる方法があったのに
それはマチガイだという人が多くなってしまった

で、現在、信じている人は
その一線を越えた、ほんの一握りの人達だけです
遠い昔は、その一線を越えるのに時間がかからなかった
多くの人が越えられた
でも今は違うんですね
みんな頭がいいから、なかなか越えられない
見向きもしない人がほとんどで、中には「オレは無宗教だ!」なんて威張っている人もいる

具体的な信じる根拠もないのに信じるなんてアホらしい・・
けれども、死んでからの事は分からない・・
だからまあ、適当に手を合せて念仏を唱えておけばいいか・・っていう人がほとんどです

と、まあ
そんな悲惨な状況なんですが
そこから見て・・
法然、親鸞はマチがっていたのか・・
或いは、さかのぼってお釈迦様もマチがっていたのか・・
何の意味もないじゃないか・・屁の河童だ・・という人もでてくる
宗教史という歴史の一ページに書いておくだけでいいんじゃないか・・
という、きわめて合理的な整理整頓に落ち着いてしまう
だいいち、「慈悲」という言葉が気に入らない
上からの目線でもって見られているようで面白くない
聖書で説く「愛」でいいんじゃないか
スパッと・・愛だけでいい
愛だけで十分だ
そ-ゆう人が多くなってきた

で、まあ現在「愛」という言葉が氾濫しているわけです
「慈悲」というやつがどこへ行ったのかというと・・
姿が見えない
なくなったのか・・というと、そうではない
「愛」という言葉の影に隠れて見えにくくなっただけです
法然、親鸞は失われても「慈悲」は失われない

そんなふうにも思います。



お釈迦様はどうだったんでしょうね・・
初転法輪という華々しいデビューを飾った・・ようですが

気持ちはどうだったのかな~
緊張はなかったんだろうか・・
と、下すの勘ぐりなんですが
心配ご無用というか
まあ、堂々とした立派なデビューだったようです

梵天が、ケチケチしないで教えを説いて下さいよ・・という事で
しょうがないな・・という事だったようです
その、しょうがないな・・という消極性が変わってゆく
消極性が積極性に変わってゆく
そのターニングポイントがあったわけです
ゴータマという一人の人間の、その後の生涯を決定づけた事があった・・んではなかろうかと思うわけです
それは何だったんでしょうね・・

別にどうだっていいじゃないか、人の気持ちなんだから・・という意見もあるかとは思うんですが
まあ、仏典によれば
「衆生への慈悲」と、ごくアッサリと書かれています
アッサリすぎて、よく分からない
意外と、ここが大事なんじゃないかと・・なんて思うわけです
気分転換という程度のことじゃなかった
一人の人間の内面、心の中に大変な事が起きた
大事件が起きたんじゃないかと
いらぬ想像をめぐらしてしまうんですが・・

それが何だったかというと・・
(まあ、ハナシなんですが・・ハナシ・・)
すこし恰好をつけて言ってみると
「慈悲という心のビッグバン」 みたいなものじゃなかったかと・・

「大慈悲心」と言われていますからね
きっと、すごい爆発だったんだと思います
みんなビックリした
頼みに行った梵天も、その衝撃でひっくり返ったかもしれない・・
とまあ、それくらい前代未聞の大爆発が起きた・・んじゃないかと

大慈悲心を発する・・という爆発、ビッグバンはその後の初転法輪という、みずみずしい舞台を生むわけです。

・ ・ ・ ・ ・


ざっと、まあ、こんなふうに見てゆくと
法然、親鸞にもあったんではないか
似たような事があったんではないか・・とも思うわけです
「衆生への慈悲」とアッサリ片付けられている裏側なんだけど
法然、親鸞の場合は・・

法然は
自分にはこれしかない、みんなにもこれしかない・・という教えを選び取って山を下りた
一つだけを信じ、ただその信じる事にひたむきであれ・・という姿勢を崩さなかった
法然という秀才が選び取った教えは、その後、親鸞という純粋愚直な人間に受け継がれてゆく・・

とまあ、そうなんですが・・
どうなんでしょうね
法然が教えを選んだという舞台裏は・・
彼は本当に選んだのか・・?
という疑問があるわけです
これもまあ、お釈迦様と同じでごくアッサリと記されている
経典の一節を読んで感得した・・と書かれているわけですが
ただ単に、それに感動して決めた・・という事だったんだろうか?
どうもインパクトが弱い感じがする
もっとこう、ダダダッ というやつがあったんではなかろうかと・・

まあ、空海が東大寺の大仏に祈願をして、大日経と出会った・・というような
嘘かホントかは分からないんだが
それぐらいの事があったんではなかろうかと・・
彼は選んだのではなく、差し向けられたんではなかったのかと・・
差し向けられた(不二なる)ものを受け取ったんではなかろうかと・
そんなふうにも思えてくるわけです

まあやはり、そこには爆発があったんでしょうね
すごい爆発が・・
差し向けられたものを受け取った時に、すごい爆発が起きた、起きてしまった
それでもって、まあ、その後の彼の人生は大きく変わってしまった
お釈迦様と同じで、それは「慈悲という心のビッグバン」だったかもしれない

・ ・ ・ ・ ・


あ あ

ビッグバン

終わらないビッグバン

お釈迦様も、法然も親鸞もビッグバン

まだ冷めない

自分もその中にいるのだろう、ビッグバン

誰だ・・?

仕掛けたのは・・?

・ ・ ・ ・ ・


小さな小さな慈悲の心がふくれて・・いつかは起きるんだろうか
それとも、不発弾で終わるのか・・?
まあ いいや・・

(こ-ゆう無責任な やからが仏教界にはゴロゴロ )
(いまだもって、他力という甘えが抜けきれない )
(甘えっぱなしという、幸せな馬鹿が結構いる )

・ ・ ・ ・ ・


以上、ダラダラと、長々と、くどくどと、言いたい放題でした。
ごめんなさい。

え~と 肝心の
質問の答えは・・(これを言っておかないと叱られる・・)

「慈悲への帰結」 という事でお許し願いましょう。

あ あ~っ ・ ・

「理知への帰結」 というものもあったか
逆にな・・
あったけどダメだ
オレには向いてない
なぜっ・・て?
感性的堕落を堕落とも思わない愚か者・・といつも言われているから
裏を返せば
感情的なものの見方は、よろしくない・・という事なんだろう

でも まっ・・
感情を抜きにしちゃったら、味気ないし
感情だって、いろいろだと思うし
ピンキリというか・・


そんなこんなで
「慈悲」って、どんな味がするんだろう?
聞いた話だと・・
「まごころ」っていう味がするらしい

なんでも、こいつは世の中で一番手ごわくて、煮ても焼いても食えない
間違って食べちゃった人の話だと・・
こんなまずいものが世の中にあったのか・・といっては涙がでて頭が下がる・・らしい

「世の中で一番まずいやつ・・」
「まごころ」って言いずらいから、照れ隠しにそう呼ぼう・・




※ご清聴ありがとうございました。

(えっ・・ だれも聞いてない・・?)
(そりゃ失礼しました・・ )
(Bさんだけは聞いてくださいね )
(お願いします。 )
(じゃ お元気で・・) 

投稿日時 - 2014-01-09 11:54:55

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~ 
 信じられるのか、信じられないのか・・ではなく、信じるか信じないか・・という
 ストレートな疑問への深まりが、この言葉に込められているような気がします。
 「信」あってこその仏教・・という矢印でもありますかね・・?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この文章で感じられる基本的なことは ふたつです。

 (あ) 《非経験の場》を心に受け容れる――つまり受け容れるというのは人間の意志行為であり その受け容れる対象は 雲をつかむようなナゾです――というのが《信じる》です。そしてこれは 何を受け容れるかが人間には分からないからには 向こうから(つまり ナゾのほうから)やって来るのを俟つしかありません。

 つまり 信じるというのは 信じる対象たる神によって与えられる。のであると考えられます。

 (い) ブディズムは 親鸞よりほかの人びとは この《信じる》についてほとんど分かっていません。まづ無理だと見ます。それらしいことは言っていますが 上の(あ)の定義には 達していない。こう見ます。(あぁ 道元がそれらしいことを書いています)。


 そして (あ)の条件を満たしていないならば それは《信じる》ではなくアタマで《考える》ことの結果得た《信仰もどき》です。《思い入れ》とか《思い込み》とか《精神のこの上なき純粋な状態を想定したそのこと》とかでしかないと考えられます。精神は 考えるの次元のものごとです。



 ★ お釈迦様はどうだったんでしょうね・・
 ☆ まるっきりダメでした。信じるとは何かについて ダメです。趣旨説明欄の

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如

 これは 理念型として有り得ると推測した結果です。No.5のお礼欄を見てみてください。




 ★ ゴータマという一人の人間の、その後の生涯を決定づけた事があった・・んではなかろうかと思うわけです
 ☆ 《この上無き知恵を得たさとりの状態》について ずばり答えは何かと訊かれても 《もの自体》は言葉で表わすことは出来ないという逃げ道をみつけたからか あとは すべてさとりにしてもオシエ一般にしても つねにさとり本体の準備段階としての足場だけを上手に組み立てるという手を考えだし あとはペテンが効くと高をくくっていたのだと見ます。
 それが ターニング・ポイントだったのだと考えられます。



 ★ 「衆生への慈悲」と、ごくアッサリと書かれています
 ☆ このご見解を活かして解説するなら こうです。

 その当時すでにカーストなる身分制がひどくつらく 個人の考えではどうにもならないほどに生活と心の自由をしばっていました。極論すれば 大方の下層階級の人びとにとって世の中は生き地獄です。その身分は一生変わらないというように先が見えているのですから。

 そこで 慈悲の心に厚いゴータマとか言う人間は そのような砂漠を行く人びとにウソでもいいからオアシスを見せてやりたい。こう思ったわけです。大化城と言ったかとも思いますが オアシスのありさまを ウソも方便なのだということで 大々的に人びとにすすんで語って見せてやったのです。

 それが 対機説法であり 何十年ものあいだの《業績》が残る結果ともなりました。
 そのオシエは ほんとうのところは シンキロウです。逃げ水です。

 それだけ ゴータマは 人びとのことがかわいそうでかわいそうでならなかったのでしょう。



 ★ 他力という甘え
 ☆ という勘違い。です。

 《他力》とは 自分の持てるチカラではないということです。自然法爾とも言いますが そんな術語は措いておいて たとえば《他力に頼る》という場合は その言葉の表わす他力というチカラがすでに――そう表現した時点で――概念の意味内容として・またひとつの観念として 自分のものになっています。

 つまり《他力》というのは すでにその観念が――観念にかんするかぎり――自分という人間の知性の中におさめられたモノだということになります。つまり 早い話が この場合の他力は 自力なのです。じつは自力であるところの観念としての他力をもてあそんでいる。だけなのだと見ます。《他力という甘え》という場合はです。





 聖なるアマエは 他力とか自力とかの次元を超えた場に甘えて行くのですから。


 ☆☆(No.15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 ○ 《神》とその仮象(分身) ~~~~~~~~~~~~

 非経験の場:神・・・・ブラフマン【本体】
 ____________________

 非思考の庭:信じる人・・・ヒラメキ【ふるくは天使と呼ばれた】
 --------------------
 思考の緑野:考える人・・・言語・沈黙【仮象】
 感性の原野:・・・(アマエ?)
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《非経験の場:神・・・【本体】》と《経験世界:感じ考える人・・・【仮象】〔におけるアマエ?〕》とをきびしく分けて世界を見ること これが 《聖なるアマエ》だと思います。分けたあとは 思いっきり甘えてもよいわけです。何でも願い事をしてもよいわけです。

投稿日時 - 2014-01-09 17:10:25

ANo.17

チャーンドーギヤ・ウパニシャッドのほうも
ニルヴァーナを調べようと思ったけど


Chandogya-Upanisad (Chandogyopanisad)
with the commentary ascribed to Samkara

http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_sanskr/1_veda/4_upa/chupsb_u.htm


~~~~~~~~~~~~~
文章はここから見つけました。
あってるかどうか?

http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil.htm


トップページはこちらでしょうか?

http://gretil.sub.uni-goettingen.de/

~~~~~~~~~~~~~

それで早速、「nirvāṇa」で検索。無い。


「nirodho」はあった。

atha yatraitad asmāc charīrād utkrāmati |
athaitair eva raśmibhir ūrdhvam ākramate |
sa om iti vā hod vā mīyate |
sa yāvat kṣipyen manas tāvad ādityaṃ gacchati |
etad vai khalu lokadvāraṃ viduṣāṃ prapadanaṃ nirodho 'viduṣām || ChUp_8,6.5 ||

~~~~~~~~~~~~~~~

ChUp_6,14.2のシャンカラの註釈


ChUpBh_6,14.2に

「nirvṛtaḥ」はありました。

yathāyaṃ dṛṣṭānto varṇitaḥ svaviṣayebhyo gandhārebhyaḥ puruṣastaskarairabhinaddhākṣo 'viveko diṅmūḍho 'śanāyāpipāsādimānvyāghrataskarādyanekabhayānatharvrātayutamaraṇyaṃ praveśito duḥkhārto vikrośanbandhanebhyo mumukṣustiṣṭhati sa kathañcideva kāruṇikena kenacinmokṣitaḥ svadeśāngandhārānevā'panno nirvṛtaḥ sukhyabhūt /

~~~~~~~~~~~~~

初期ウパニシャッド全部調べようかと思ったけど

初期[編集]
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期 ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第1期 シャーンディリヤやウッダーラカ・アールニの思想など。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:初期 第2期
アイタレーヤ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
カウシータキ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
ケーナ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第3期

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
~~~~~~~~~~~~~

テキストが見つからなかったので諦めた。

~~~~~~~~~~~~~

ニルヴァーナ (ジャイナ教)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%8A_(%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99)


~~~~~~~~~~~~

ニルヴァーナの概念はジャイナ教にもあるみたいだから
仏教特有というわけではないのでしょうけれど

ウパニシャッドに比べれば

かなり、仏教に特有の概念になるかもしれません。

今までずっとニルヴァーナはインドに昔からある概念だと思っていたので
意外でした。

どうして仏教のテキストに、ニルヴァーナがたくさん出てくるのかは謎になりました。

投稿日時 - 2014-01-09 10:58:55

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ニルワーナは ブディズムやジャイナイズム以後に現われた概念だと思われるということですね。

 ○ (ニルワーナ etc. ) ~~~~~~~~~~~~

 ブディズムやジャイナイズム以前:
  ・ nirodha
  ・ nirvṛtaḥ ( nibbuta )・・・これらはあるかも知れない。

 以後:
  ・ nirvaana ( nibbaana )

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ▼ (ヰキぺ:ニルヴァーナ (ジャイナ教)) ジャイナ教においてはカルマの呪縛からの最終的な開放を意味する。
 ☆ このほうが まだ単純さを残しているように感じます。

 ただし わたしには 《カルマ》というのは 単なる言葉の遊びに過ぎないと思っています。


 なんで
 ○ 滅
 ☆ なんて概念を さとりの中身としようとしたんでしょうね。

投稿日時 - 2014-01-09 15:32:20

ANo.16

それから、カホーラ・カウシータケーヤは彼に尋ねた――

「ヤージュニャヴァルキヤよ!」と彼は言った――

「目に見える、隠されていないブラフマン、一切の内部にある自己を、お前は
わたしに説明せよ!」と。

「これが一切の内部にある、お前の自己である。」

「ヤージュニャヴァルキヤよ! 一切の内部にある自己は、どれか?」

「飢えと乾き、悲しみ、惑わし、老いと死を超えているものである。まことに、この自己を知って、
バラモンは息子に対する欲求、財産に対する欲求および世界に対する欲求を放棄して、乞食の生活を送る。
なぜなら、息子に対する欲求は財産に対する欲求であり、財産に対する欲求は世界に対する欲求であるからである。
なぜなら、それらの二つは、まさに欲求であるからである。それゆえに、バラモンは学識を廃棄して、
子供の状態に止まるべきである。子供の状態および学識を廃棄して、それから、彼は[沈黙している]隠者になる。
隠者でない状態および隠者の状態を廃棄して、それから、彼はバラモンになる。」

「何によって、彼はバラモンになることが出来るのか?」

「それによってバラモンになることの出来るもの、それによって彼はまさにそのようなものになることが出来る。これ以外のものは
[苦しみに]満ちている。」

そこでカホーラ・カウシータケーヤは沈黙した。

ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド第3章 5・1

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

atha hainaṃ kaholaḥ kauṣītakeyaḥ papraccha -- yājñavalkyeti hovāca |
yad eva sākṣād aparokṣād brahma ya ātmā sarvāntaras taṃ me vyācakṣveti |
eṣa ta ātmā sarvāntaraḥ |
katamo yājñavalkya sarvāntaraḥ |
yo 'śanāyāpipāse śokaṃ mohaṃ jarāṃ mṛtyum atyeti |
etaṃ vai tam ātmānaṃ viditvā brāhmaṇāḥ putraiṣaṇāyāś ca vittaiṣaṇāyāś ca lokaiṣaṇāyāś ca vyutthāyātha bhikṣācaryaṃ caranti |
yā hy eva putraiṣaṇā sā vittaiṣaṇā yā vittaiṣaṇā sā lokaiṣaṇā |
ubhe hy ete eṣaṇe eva bhavataḥ |
tasmād brāmaṇaḥ pāṇḍityaṃ nirvidya bālyena tiṣṭhāset |
bālyaṃ ca pāṇḍityaṃ ca nirvidyātha muniḥ |
amaunaṃ ca maunaṃ ca nirvidyātha brāhmaṇaḥ |
sa brāhmaṇaḥ kena syād yena syāt tenedṛśa eva |
ato 'nyad ārtam |
tato ha kaholaḥ kauṣītakeya upararāma || BrhUp_3,5.1 ||

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

nirvidyaというのはありました。

nirvidya — being freed from all attachment


Bhaktivedanta VedaBase: Śrīmad Bhāgavatam 1.4.12
http://vedabase.net/sb/1/4/12/

http://vedabase.net/n/nirvidya

~~~~~~~~~~~~~~~~~

nirvidya

unlearned
uneducated

http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=+nirvidya&trans=Translate&direction=AU

~~~~~~~~~~~~~~~~~

難しい。

バラモンをやめて隠者になって
隠者をやめてバラモンになる

学識を廃棄して
がnirvidyaでしょうか?

サンスクリットがわからないもので

もし、nirvidyaがニルヴァーナと関係のあるような概念であるなら
外見的には、出家して乞食になるのがニルヴァーナということでしょうか。

で、どうやら乞食をやめて、またバラモンに還俗するらしい?

muniḥは、ムニですか?
だとすると日本語訳で隠者となっているのは、

釈迦牟尼とかのムニですか?



amaunaṃ ca maunaṃ ca nirvidyātha brāhmaṇaḥ |
隠者でない状態および隠者の状態を廃棄して、それから、彼はバラモンになる。」

amauna 隠者でない
mauna 隠者

brāhmaṇaḥ バラモン

nirvidyāthaがわかりません。日本語と比べると、廃棄してだと思いますけれど、
学識を廃棄してとは違ってくるのでしょうか?

廃棄は、
なんだか弁証法の止揚みたいな。

違うのかもしれないけど。

ātmā

これアートマンだろうか。

真の自己を知るからこそ、外見的な執着を捨て
無知へと戻り、また戻ってくる。

こうなんだろうか。

普段、自己だと思っている自己は自己ではない。
ここだけとると、無我。もしくは非我。

真の自己は不死であり、悲しみもない。

投稿日時 - 2014-01-08 14:29:57

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ ( muni ) ~~~~~~~~~~~
  http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=muni&script=&direction=SE&link=yes

मुनि muni m. holy man / sage / saint / celestial munis / inspired or ecstatic person / ascetic / devotee / hermit / seer / thinker / eagerness / any one who is moved by inward impulse / enthusiast / Brahman of the highest order / impulse
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いろいろの意味がありますが 高級聖職者としてのバラモンをも 意味するようです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 amaunaṃ ca maunaṃ ca nirvidyātha brāhmaṇaḥ |
 隠者でない状態および隠者の状態を廃棄して、それから、彼はバラモンになる。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ 

 ▲ अथ atha indecl. :now
 ☆ nirvidya-atha : 捨てて―いまは・・・。《なる》という動詞はないみたい。

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~
 मौन mauna n. silence
 मौन mauna n. office or position of a muni or holy sage

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=brAhmaNa&trans=Translate&direction=AU

 ब्राह्मण brAhmaNa adj. :Brahmanical
 ब्राह्मण brAhmaNa adj. :befitting or becoming a Brahman
 ब्राह्मण brAhmaNa adj.: relating to or given by a Brahman
 ब्राह्मण brAhmaNa m.: brahmin man
 ब्राह्मण brAhmaNa m. :man belonging to the 1st of the 3 twice-born classes and of the 4 original divisions of the Hindu body
 ब्राह्मण brAhmaNa m. :one who has divine knowledge
 ब्राह्मण brAhmaNa m.: Brahman
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 聖職者バラモンと神ブラフマンと両方の意味があるみたいですね。


 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=nirvindati&direction=SE&script=HK&link=yes&beginning=0

 निर्विन्दति { निर्विद् } nirvindati { nirvid } verb: find out to get rid of
 निर्विन्दति { निर्विद् } nirvindati { nirvid } verb: do away with
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 △ (辻直四郎:サンスクリット文法) ~~~~~~~
 § 103 IV 絶対(または 遊離)分詞( Absolutives )
  -tvaa, -ya, -am

 ・ふたつの動作のつながり(先行後行 または同時並行)を示す。
 ・ -ya は 動詞複合語に用いる。
 ・ 語根末子音の前の鼻音は一般に脱落する。bandh- (縛る)→ -badh-ya (縛って)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これによると 

nir-vind- (捨てる) → nir-vid-ya (捨てて)

となると見られます。これに従います。







 ★ 廃棄は、 / なんだか弁証法の止揚みたいな。
 ☆ のようにわたしも感じます。つまり 語としては《捨てる(無くて済ませる)》と言っているようですが 《学識》を捨てるのと 揚げて棄てるのとは違うと思われますから。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ātmā

 これアートマンだろうか。

 真の自己を知るからこそ、外見的な執着を捨て
 無知へと戻り、また戻ってくる。

 こうなんだろうか。

 普段、自己だと思っている自己は自己ではない。
 ここだけとると、無我。もしくは非我。

 真の自己は不死であり、悲しみもない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは こうなんでしょうね。人の心としては 《非思考の庭》であり ブラフマンとしては 《非経験の場》。そういう霊(ないし霊我)としてのアートマン。《非思考の庭》では 《わたし》でもある。または 霊ゆえに 非我とも言える。

 ▼ ( rājan ) ~~~~~~~~~
 sg. N. rājā
   Ac. rājānam
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2014-01-08 16:09:42

ANo.15

「母のいる人、父のいる人、師匠のいる人が語るように、そのようにシャイリニは"まことに、ブラフマンは言語である"と語った。
なぜなら、話すことの出来ない人は何の役にたつであろうか、と[彼は考えた]からである。しかし彼は、お前に、それの住居および
基礎について語ったか?」

「彼はわたしに語らなかった」

「まことに、これは一本足である、大王よ!」

~~~~~~~~~~~~~~~

すみません。
文章が抜け落ちていました。
長いから見落としていました。


「彼はわたしに語らなかった。」

投稿日時 - 2014-01-08 10:17:05

お礼

 つづいてです。

 ○ 《神》とその仮象(分身) ~~~~~

 非経験の場:神・・・・ブラフマン【本体】
 ____________________

 非思考の庭:信じる人・・・ヒラメキ【ふるくは天使と呼ばれた】
 --------------------
 思考の緑野:考える人・・・言語・沈黙【仮象】
 感性の原野
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ▲ 「まさに言語がそれの住居であり、虚空がそれの基礎である。人は、これを英知として瞑想すべきである。」
 ☆ この場合の《言語がそれの住居である》は ブラフマン神を言語として仮りに捉えてみると その神であることの普遍性がよく分かるといった意味合いで用いられているのではないか。

 《虚空がその基礎である》は 言語がいかに人間にとって人類にとって普遍性のあるモノであると言っても それは 経験世界における現象であるに過ぎないということを言おうとしているのだと思われます。




 ▲ 「まことに、これは一本足である、大王よ!」
 ☆ よくは分かりませんが たぶんモノゴトを経験世界のことのみに限って捉えたり議論したりするだけでは 世界を見ていないし見えていないと言おうとしているのだと思われます。つまり ブラフマン神は 人間の知性能力を超えているはずだと。

投稿日時 - 2014-01-08 10:57:16

ANo.14

誤字がありました。

誤:まことに、意気がなければ
正:まことに、息がなければ


Brihadaranyaka Upanishad
http://www.universaltheosophy.com/sacred-texts/brihadaranyaka-upanishad/

Chandogya Upanishad
http://www.universaltheosophy.com/sacred-texts/chandogya-upanishad/



~~~~~~~~~~~~~~~

「誰かが、お前に語ったこと、それを、われわれは聞こう。」
「"まことに、ブラフマンは言語である"とジトヴァン・シャイリニは、わたしに語った。」
「母のいる人、父のいる人、師匠のいる人が語るように、そのようにシャイリニは"まことに、ブラフマンは言語である"と語った。
なぜなら、話すことの出来ない人は何の役にたつであろうか、と[彼は考えた]からである。しかし彼は、お前に、それの住居および
基礎について語ったか?」

「まことに、これは一本足である、大王よ!」

「まことに、ヤージュニャヴァルキヤよ!われわれに語れ!」

「まさに言語がそれの住居であり、虚空がそれの基礎である。人は、これを英知として瞑想すべきである。」

「英知であることとは何か、ヤージュニャヴァルキヤよ!」

「まさに言語である、大王よ!」と彼は言った。「まことに、大王よ!言語によって、関係のあるものは認識される。
リグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、アタルヴァ=アンギラス、伝説、古い物語、学問、
ウパニシャッド(Upaniṣad)、詩句、アフォリズム、註釈および説明祭られたものと供物、食物と飲物、この世とあの世、
およびすべての生きもの――まことに、大王よ!まさに言語によって、これらは認識される。まことに、大王よ!
言語は最高のブラフマンである。このように知って、この言語を瞑想する人――この人を言語は見捨てない、すべての生きものは
これに群がる。彼は神になって、神々の中に入っていく」

ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第4章1・2

~~~~~~~~~~~~~~~

なんとかはブラフマンである。
というのが多い気がする。

ちなみに、


~~~~~~~~~~~~~~~

「私は知りたい。何において、ブラフマンの諸世界は来たり行ったり織られているのか?」
ヤージュニャヴァルキヤは言った――「ガールギーよ! お前の頭が砕け散らないように、問いすぎるな! 
まことに、問いすぎるべきではない神格について、お前は問いすぎる。ガールギーよ!問いすぎるな!」
そこでガールギー・ヴァーチャクナヴィーは沈黙した。

ブリハドアーラニヤカウパニシャッド第3章 6・1

~~~~~~~~~~~~~~~

ここでいわば、ブラフマンを超越するものが問われているは興味深いと思った。

仏教ならそれはブッダと答えるかもしれませんが、ではブッダを超越するものは?
となれば、沈黙でしょう。

ウパニシャッドで既に、言語と沈黙はやっているんですね。
ブラフマンが言語なら沈黙はブラフマンの否定かな?

ブラフマンは最高原理らしいですが、ウパニシャッドにはブラフマンを超越するものすら問われている。


あと気になったんですが

~~~~~~~~~~~~

ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期 ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89

~~~~~~~~~~~~

ブリハドアーラニヤカウパニシャッドにニルヴァーナは出てくるのでしょうか?
私がいいかげんに読んでいるから見つけられないんだと思いますけど。


http://fiindolo.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_sanskr/1_veda/4_upa/brup___u.htm

上のサンスクリット文を「nirvāṇa」で検索しても見つからない。

ここがニルヴァーナの箇所だよ、というのがわかりましたら
誰か機会があったら教えてください。

投稿日時 - 2014-01-08 09:59:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ ここでいわば、ブラフマンを超越するものが問われているは興味深いと思った。
 ☆ ブラフマンは 非経験の場〔という想定〕です。非経験の場は 絶対として 相対なる経験事象を覆い包むということが 推定としてみちびかれます。経験世界を超えているからです。
 覆い包むというときには さらに 遍在という見方が成されて行きます。

 かくして非経験の場なる神ブラフマンは その言わば仮象として経験事象において神々となって現われると想像されることが起こります。そういった遍在です。


 ○ (非経験⇒非思考 とそして経験世界) ~~~~~

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ)
  ________________________
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
  ________________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ただし
 ★ ブラフマンは最高原理らしいですが、ウパニシャッドにはブラフマンを超越するものすら問われている。
 ☆ これは どうなんでしょう。人間の思考し得ず理解し得ない《非経験の場》が その中に《最高度の原理と そしてそれをも超える究極の原理と》を持つと言うのは どうなんでしょう。



 ★ 仏教ならそれはブッダと答えるかもしれませんが、ではブッダを超越するものは? / となれば、沈黙でしょう。
 ☆ これは ブッダをアミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)やマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)のこととすれば けっきょく非経験の場として ブラフマンとまったく同じであると捉えられます。〔趣旨説明欄の(4)を参照してみてください〕。

 つまり 直前のくだりと同じように その問いじたいについて疑問が生じると考えます。

 ただし ブッダを経験事象ないし人間ととれば それは 経験世界に属しているのですから 非経験の場たるブラフマンないしそれと同等のアミターバ・ブッダの仮象(ないし分身)のことを言っているという場合はあり得ますが。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ウパニシャッドで既に、言語と沈黙はやっているんですね。
 ブラフマンが言語なら沈黙はブラフマンの否定かな?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《言語》も《沈黙》も ともに経験事象であるととらえてください。

 さもなければ ヨハネ福音書のごとく《はじめに ことばがあった》というふうに神(=非経験の場)を《ことば・言語》というシルシで仮りに表わしてみただけという場合になり それらは分けて捉えておかねばならないと考えます。
 
 ★ ブラフマンが言語
 ☆ だというのは 非経験の場なるブラフマンを 《真理》や《霊》と呼んだりするのと同じように 《言語》というシルシで呼んでみたということを意味しているはずです。代理表現です。

 そして《言語》という場合には 真理や霊と違って まさに経験事象として言語があるのですから その場合の言語は ブラフマンの仮象としての――分身なる神としての――事態だというふうに整理できるはずです。

 《非経験の場(神)⇒非思考の庭(ひと)》とそして《思考・感性などの経験世界》とは どこまでも区別されています。混合することはありません。《仮象》というのは 《空》観と同じような見方だと言ってよいと思います。仮象として現象しているけれど それはやはり空であり仮象であるという見方です。
 
 《言語や沈黙》は 経験現象ですから そのままブラフマンの仮象ではあっても ブラフマン神そのものではあり得ません。

 ブラフマン神を 空つまり 何も無い神だと言っても 非経験の場は それとして表現され得るという事態が 神とわれとの関係として現実なようです。(この世に生まれ置かれた人間の条件として)。







 ★ ブリハドアーラニヤカウパニシャッドにニルヴァーナは出てくるのでしょうか?
 ☆ これは 大きな主題なのでしょうね。一般にブラフマニズムにおいてすでに ニルワーナは説かれていたか? だと思います。

 簡単に乱暴に言ってしまえば ニルワーナは シューナター(空)と同じ概念だと捉えておけば 利用価値があるように考えますが そのほかに修行の結果到る境地としての状態だと言うなら それは永遠にあいまいなままではないかと思います。

投稿日時 - 2014-01-08 10:43:39

ANo.13

私は親鸞はどうでもいいのですが
禅僧がむかつくから、

浄土門を原始仏教と結びつけて持ち上げただけです。

仏教はそのイデオロギーを作った人々が禅僧に偏っています。
よくない。

仏教の本を読めば、輪廻と梵我一如しか解説されないような
ウパニシャッドですが

あの世はわからないだとか、
死んだら虚空だとか
病気は最高の禁欲だとか
ブラフマンは言語だとか

今までの解説はなんだったんだ!

と思いたくなるような箇所がたくさんあったので
紹介しました。

この、今までなんだったんだよ!
が原動力というかそんなかんじです。

投稿日時 - 2014-01-07 09:43:48

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 よく分かりました。

 ★ あの世はわからないだとか、
 ★ 死んだら虚空だとか
 ★ 病気は最高の禁欲だとか
 ★ ブラフマンは言語だとか
 ☆ 面白いと言えば面白い見方であると思います。理論化が期待されます。

 ★ 禅僧がむかつくから
 ☆ この内容を 主題ごとに・と言いますか その禅僧の言い分を実際に相手として議論をすすめることが これもまた期待されます。

 と思いました。

投稿日時 - 2014-01-07 09:48:14

ANo.12

「ブラフマンは食物である」と、ある人々は言う。しかし、そうではない。
まことに、意気がなければ、食物は腐敗する。「ブラフマンは息である」と、他の人々は言う。
そうではない。まことに食物がなければ、息は乾く。しかし[食物と息という]これら二つの神格は一つになって
最高の状態に到達する。そこでプラートリダは父に言った――「このように知っている人に対して、
わたしは、どんな良いことをなし得るのか、あるいは彼のためにわたしはどんな悪いことをなし得るのか?」と。
手を振って、父は言った――「やめよ、プラートリダよ! これら二つを一つにして、誰が最高の状態に到達するのか?」と。
そして、彼に対して父はこのように言った――「ヴィ(vi)」と。まことにヴィは食物である。なぜなら、これらすべての
生きものは食物の中に入っているからである。「ラム(ram)」と[父は言った]。まことに、ラムは息である。なぜなら、
これらすべての生きものは、息において喜ぶからである。まことに、すべての生きものは、このように知っている人の中に入る、
すべての生きものは彼において喜ぶ。

ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第5章12・1

~~~~~~~~~~~~~~~~~

食物をブラフマンとして瞑想する人――まことに、彼は食事を有し、飲み物を有する諸世界に到達する。
彼は、食物の及ぶ限り、そこにおいて望みどおりに行動するようになる、食物をブラフマンとして瞑想する人は。」
「尊敬すべき人よ!食物よりも偉大なものは存在するのか?」
「確かに食物よりも偉大なものは存在する。」
「尊敬すべき人は、それを語れ!」

チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 第7章 9・2

~~~~~~~~~~~~~~~~




おまけ

~~~~~~~~~~~~~~~~

「あの世の起源は何か?」
「この世である」と彼は言った。
「この世の起源は何か?」
「人は基礎である世界を超えて導きだすべきではない」と彼は言った。

チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 第1章8・7



「この世の起源は何か?」と。「虚空である」と、彼は言った。
「まことに、これらすべての生きものはまさに虚空の中から現れ、虚空の中にふたたび沈む。なぜなら虚空はこれらの生き物
よりも古いからである。虚空は究極の目標である」

チャーンドーギヤ・ウパニシャッド 第1章9・1

~~~~~~~~~~~~~~~
病気を患って苦しめられること――まことに、これは、最高の禁欲生活である。
このように知っている人は、まさに最高の世界を獲得する。人が死んだ時に人々が彼を荒野に運ぶこと――
まことに、これが、最高の禁欲生活である。このように知っている人は、まさに最高の世界を獲得する。
人が死んだときに人々が彼を火の中に置くこと――まことに、これが最高の禁欲生活である。このように
知っている人は、まさに最高の世界を獲得する。

ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド 第5章 11・1

~~~~~~~~~~~~~~~

ウパニシャッド―翻訳および解説― 湯田豊 大東出版社



いくつか引用しましたが
誤字・脱字があるかもしれません。

投稿日時 - 2014-01-07 09:16:10

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ところで 回答者さんのお考えは いかなるものでしょうか?

 それが知りたいと思いました。

投稿日時 - 2014-01-07 09:20:38

ANo.11

B様、どうも。


(Ano.5に頂いたお答えより)
>「ただし 霊我としてのアートマンを否定して 《アン‐アートマン(無我・非我)》というのなら 論理的には 神を(ブラフマン神を)《無い神》として(無梵なる神として) けっきょくは立てたということになると捉えています。

 その心は じっさい問題としてゴータマ自身は そういった《信仰》にかかわることがらを知らなかったであろうとも見ています。だから アン‐アートマンと言ったのなら もうアートマンもブラフマンも何もないのだと見ているし 言っていると 自分もまわりの弟子たちも 受け留めていたことでしょう。――これは 論理に合わないのです。

 非経験の場である神を経験存在たる人間が否定しようが肯定しようが 神には何の影響もありません。せいぜいが 神を有る神としてではなく 無い神として捉えたという違いが生じるのみです。

 こういう理屈に立って ゴータマの信仰類型は 無梵無我一如であると――落ち着くところに焦点をあてて――捉えています。」

半分は、首肯致しました。


でも「これは、論理に合わない」以下は、ちょっと、首肯しかねます。

「ただ1人歩め」というのが、どうして、いつの間にか、2人?になるのか。

投稿日時 - 2014-01-07 01:34:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「ただ1人歩め」というのが、どうして、いつの間にか、2人?になるのか。
 ☆ もし《独り歩め》というところにこの上なき知恵(つまり さとり)が得られるのだとすれば その知恵はとうぜん普遍性を持つものです。

 つまりは 普遍性のある知恵を得た者には 他人との社会的な共生が ふつうのことになると考えます。コミュニケーションにもはや差し障りが出て来ない。たとえ山の中に隠遁生活を送っていて 人に会わないとしてもです。


 つまり 《独り》が 《いつの間にか 二人 三人・・・にな》ります。

投稿日時 - 2014-01-07 06:56:02

ANo.10

スッタニパータ 詩句435の註

長いので引用するのが面倒なのですが、一部を引用。

~~~~~~~~~~~~~

「食物が清浄なる時に本性(心身)の清浄(sattvaśuddhi)がある。本性の清浄なるときに、記憶(念い smṛti)が堅固である。
(堅固な)記憶を得たときに、一切の束縛から解放される」(Chānd.Up.VII,26,2)。

~~~~~~~~~~~~~~

ウパニシャッドの観念ということで、
それで、śuddhiを探したのでした。

~~~~~~~~~~~~~~

1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」

~~~~~~~~~~~~~~

中村元の註1107によると

~~~~~~~~~~~~~~~~

念いの清らかさ――ウパニシャッドの観念である。第四三五詩に対する註記参照。

ワイド版 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 427ページ

~~~~~~~~~~~~~~~


ウパニシャッド、ゴータマ・ブッダ(スッタニパータ、アングッタラニカーヤ)、親鸞(仏説無量寿経)と
直接結びつけるのは珍しいかもしれません。

投稿日時 - 2014-01-06 23:11:26

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▼ Chandogya Upanishad  ~~~~~~~~~~~~
  Translation by Swami Nikhilananda
 http://www.swamij.com/upanishad-chandogya.htm

 Part Seven

 Chapter XXVI — Self—knowledge

 2. "On this there is the following verse: "‘The knower of Truth does not see death or disease or sorrow. The knower of Truth sees everything and obtains everything everywhere.’

  "He (the knower) is one before the creation, becomes three, becomes five, becomes seven, becomes nine; then again he is called eleven, one hundred and ten and one thousand and twenty.

  "Now is described the discipline for inner purification by which Self—Knowledge is attained: When the food is pure, the mind becomes pure. When the mind is pure the memory becomes firm. When the memory is firm all ties are loosened."

 The venerable Sanatkumara showed Narada, after his blemishes had been wiped out, the other side of darkness. They call Sanatkumara Skanda, yea, Skanda they call him.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ▼ 食物が清浄なる時に本性(心身)の清浄(sattvaśuddhi)がある。・・・
 ☆ この論理つまり

    食物の清浄―→ 本性の清浄

 は どうしてでしょうね。食物の清浄―→身の清浄 だけなら分かりますが 心の清浄をも《本性》の中にふくんでいて それについても清浄であることを難なく言っている。少し分かりにくいですね。
 
  健全なる精神は 健全なる身体に宿れかし。
  orandum est, ut sit mens sana in corpore sano

 でしょうか。

 ▼ 真理を知る者は 死を見ない。病をも 悲しみをも。

 ☆ というのは 論理の飛躍がありますよね。単純に。


 それと 《自性清浄心》が ブディズムのほうにもあるのだと思います。

 順序から行くと:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~

 念いの清らかさ――ウパニシャッドの観念である。第四三五詩に対する註記参照。

 ワイド版 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 427ページ

 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なのですね。




 ちなみに善導によると 次のようだと言います。清浄の反対をもまづみづからにみとめるのだとか。

 ▲ (ノート:二種深信) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%BA%8C%E7%A8%AE%E6%B7%B1%E4%BF%A1

 《深心》というはすなわちこれ深信の心なり。

 また二種あり。
 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
  二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 親鸞の私淑した師匠のひとりです。



 むつかしいですね。

投稿日時 - 2014-01-06 23:45:01

やはり、間違いがありました。

(三十一)ですが、
サンスクリットの文章と一致していないようです。

投稿日時 - 2014-01-06 15:49:28

お礼

 了解しました。

投稿日時 - 2014-01-06 21:31:06

今回の投稿はいつにもまして
間違いだらけの可能性があります。

ウパニシャッドはさておき
清浄なら

そこから、浄土へと話をつなげて

浄土教はゴータマ・ブッダ直説かもね?

という回答でもしようかと思って
無量寿経からなんとなく、浄土や清浄にあたる言葉を探そうとしたのですが。

まあ、私はサンスクリットなんかわからないので、もともと無理なんですが、
なんだかサンスクリットの文章と仏説無量寿経が違うようなのです。


~~~~~~~~~~~~~~~
sukhāvatīvyūhaḥ (vistaramātṛkā)
http://www.dsbcproject.org/sukh%C4%81vat%C4%ABvy%C5%ABha%E1%B8%A5-vistaram%C4%81t%E1%B9%9Bk%C4%81/sukh%C4%81vat%C4%ABvy%C5%ABha%E1%B8%A5-vistaram%C4%81t%E1%B9%9Bk%C4%81

仏説 無量寿経 (巻上)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC%E3%80%80%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8A)

zuddha
http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=zuddha&direction=AU

buddhakSetra
http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=buddhakSetra&script=&direction=SE&link=yes



~~~~~~~~~~~~~~~~



(三十一) たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。

31. sacenme bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre na sadābhipravṛṣṭānyeva sugandhinānāratnapuṣpavarṣāṇi sadā pravāditāśca manojñasvarā vādyameghā na syuḥ, mā tāvadahamanuttarāṁ samyaksaṁbodhimabhisaṁbudhyeyam ||

たぶんこれです。違うかも。

なんとか清浄でわかりそうなところ、ということで、
国土清浄の清浄はなんだろうとサンスクリット文を見たら
buddhakṣetre
で、これは仏国土のことで、特に清浄という意味は無いと思います。たぶん。


一応、pariśuddho、pariśuddha、buddhakṣetrapariśuddhiṁ
とかありました。他にもあります。

でもサンスクリット文にはあっても、無量寿経に無い?
あるのかもしれないけど、私では無理だった。

無量寿経の清浄はśuddhaとは違うことばなのでしょうか?



~~~~~~~~~~~~~~~

| tadyathāpi nāma śāradaṁ vanadaṁ pāṇḍupariśuddhaṁ paryavadātaṁ pītanirbhāsam, evameva bhagavato viprasannānīndriyāṇi, pariśuddho mukhavarṇaḥ, paryavadātaśchavivarṇaḥ pītanirbhāsaḥ | tadyathāpi nāma bhagavan jāmbūnadasuvarṇaniṣko dakṣeṇa karmāreṇa karmārāntevāsinā vā ulkāmukhena saṁpraveśya supariniṣṭhitaḥ pāṇḍukambala uparinikṣipto'tīva pariśuddho bhavati paryavadātaḥ pītanirbhāsaḥ, evameva bhagavato ciprasannānīndriyāṇi, pariśuddho mukhavarṇaḥ, paryavadātaśchavivarṇaḥ pītanirbhāsaḥ | na khalu punarahaṁ bhagavan abhijānāmi itaḥ pūrvataramevaṁ viprasannāni tathāgatasyendriyāṇi evaṁ poariśuddhaṁ mukhavarṇaṁ paryavadātaṁ chavivarṇaṁ pītanirbhāsam |


~~~~~~~~~~~~~~~

サンスクリット文の|| 2 ||にśuddhが出てくるところが何箇所かあったので、引用しましたが、無量寿経では
清浄という言葉にはなっていないようです。

~~~~~~~~~~~~~~~

八相化儀

【2】

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC%E3%80%80%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8A)

投稿日時 - 2014-01-06 13:56:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ buddhakṣetrapariśuddhiṁ
 ☆ 清浄なる仏国土でしょうか これが 

  ○ sukhāvatīvyūhaḥ (vistaramātṛkā)

 の中にあるのですね。46個の願の中にはないようなのですね。


 清浄が pure でいいかを別として非常にそれをあらわす語は多いようです。

 ▼ (sanskrit dictionary : pure ) ~~~~~
 http://spokensanskrit.de/index.php?page=1
 
 निर्माल्य nirmAlya adj. pure
 पावन pAvana adj. pure
 पुण्य puNya adj. pure
 विमल vimala adj. pure
 शुचि zuci adj. pure
 शुद्ध zuddha adj. pure [ simple ]
 विशुद्ध vizuddha adj. very pure
 अवदात avadAta adj. pure
 अमल amala adj. pure
 शुक्ल zukla adj. pure
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これで 派生語を除いても 9 個はあります。5 ページの中ほどまでつらなっているようで 1ページに20個の語だから相当多いようです。多すぎます。

投稿日時 - 2014-01-06 21:30:46

考え直して削除した質問の内容です。


パーリ文
http://suttacentral.net/an3.33/pi

まずはパーリ文を見てください。

sāriputtaです。


台湾
http://agama.buddhason.org/SA/SA0982.htm

舍利弗です。


日本
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0099_,02,0256&key=%E6%86%82%E9%99%80%E8%80%B6

T0099_.02.0255c16: 15 (九八三) から参照。

阿難です。



なぜかサーリプッタが大正蔵だと阿難になっています。


これを調べたのは、スッタニパータの内容が、他の経典にあるらしいからでした。

http://suttacentral.net/snp5.14/pi


‘Pahānaṃ kāmasaññānaṃ,
domanassāna cūbhayaṃ;
Thinassa ca panūdanaṃ,
kukkuccānaṃ nivāraṇaṃ.

Upekkhāsatisaṃsuddhaṃ,
dhammatakkapurejavaṃ;
Aññāvimokkhaṃ pabrūmi,
avijjāya pabhedanan’”ti.


スッタニパータの「学生ウダヤの質問」の一部のようです。

~~~~~~~~~~~~~~


1106 師(ブッダ)は答えた、
「ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、

1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」

~~~~~~~~~~~~~~

中村元の註1107によると

~~~~~~~~~~~~~~~~

念いの清らかさ――ウパニシャッドの観念である。第四三五詩に対する註記参照。

ワイド版 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 427ページ

~~~~~~~~~~~~~~~

それで問題は


Aṅguttara Nikāya 3
4. Devadūtavagga
33. Sāriputtasutta

http://suttacentral.net/an3.33/pi

その経においてブッダがサーリプッタに、スッタニパータの「学生ウダヤの質問」をもとに
教えを説いているらしい?こと。

つまり、ブッダはウダヤとサーリプッタに同じ内容の教えを説いている?
でもそれは、ウパニシャッドの観念に基づいている?

あとパーリ文と漢文で名前が違ったら、今回は大正蔵だけど
それをどう考えればいいのか。

わからないことばかりです。

投稿日時 - 2014-01-04 09:59:05

お礼

 ご投稿をうけとりました。


 ▲ (パーリ文) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 Aṅguttara Nikāya 3
 4. Devadūtavagga

 33. Sāriputtasutta

  Atha kho āyasmā  s ā r i p u t t o  yena bhagavā tenupasaṅkami;・・・

 ▼ (台湾) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 雜阿含982經[正聞本13323經/佛光本974經](雜相應/道品誦/如來記說)(莊春江標點)

  如是我聞:
  一時,佛住娑枳國安闍那林中。
  爾時,世尊告尊者 舍 利 弗:・・・
 
 ▽ (日本) ~~~~~~~~~~~~~~~
  (九八三)
            如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給
 T0099_.02.0255c17: 孤獨園。爾時尊者 阿 難

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 Q-1: ブッダはウダヤとサーリプッタに同じ内容の教えを説いている?


 Q-2: でもそれは、ウパニシャッドの観念に基づいている?

  △ (中村元) 念いの清らかさ――ウパニシャッドの観念である。



 Q-3: パーリ文と漢文で名前が違ったら、今回は大正蔵だけど / それをどう考えればいいのか。
 





 ☆ Q-1 は 違う人たちに同じことを説いていても それはあり得るし おかしくないのでは?

 あとは ? です。

投稿日時 - 2014-01-04 12:35:06

ANo.6

こんばんは。


ニルワーナ。

投稿日時 - 2013-12-31 18:02:17

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。




 うん。

投稿日時 - 2013-12-31 18:54:10

ANo.5

B様、どうも。


いやいや「ブディズムの効用」は、「自力」というところに、あると思います。


BC5世紀くらいに、ゴータマ以外にも、西洋でエピクロスが出ていると思います。
「欲望」のマイナス面を説いた人たちが、その時代に現れているのは、興味深いと思っています。
「あるがまま」ということでは、老荘思想にも最近興味を持ちました。

・・・私は、「満足すると、欲しくなくなる」と考えたのですが。

投稿日時 - 2013-12-30 18:25:41

お礼

 ★ いやいや「ブディズムの効用」は、「自力」というところに、あると思います。
 ☆ たとえば《自灯明》と言ったりしますから 一理も二理もあります。

 ただし 霊我としてのアートマンを否定して 《アン‐アートマン(無我・非我)》というのなら 論理的には 神を(ブラフマン神を)《無い神》として(無梵なる神として) けっきょくは立てたということになると捉えています。

 その心は じっさい問題としてゴータマ自身は そういった《信仰》にかかわることがらを知らなかったであろうとも見ています。だから アン‐アートマンと言ったのなら もうアートマンもブラフマンも何もないのだと見ているし 言っていると 自分もまわりの弟子たちも 受け留めていたことでしょう。――これは 論理に合わないのです。

 非経験の場である神を経験存在たる人間が否定しようが肯定しようが 神には何の影響もありません。せいぜいが 神を有る神としてではなく 無い神として捉えたという違いが生じるのみです。

 こういう理屈に立って ゴータマの信仰類型は 無梵無我一如であると――落ち着くところに焦点をあてて――捉えています。



 ★ ・・・私は、「満足すると、欲しくなくなる」と考えたのですが。
 ☆ それは 一般に一時的な事態です。

投稿日時 - 2013-12-30 20:13:02

ANo.4

そうさのー
私がお釈迦様の無の悟りに感じるのは、「信じてこそ我である」こういう信仰心だ。
親鸞が何者か知らぬが、彼が信を明かし、それでこそ我であるという文脈ならその通りだろうて。
神に向かって「無」お言い放ったお釈迦様だが、そのような暴言が人の身で出来たのも「信」ゆえじゃ。

投稿日時 - 2013-12-29 22:55:32

お礼

 趣旨説明をちゃんと読んでね。


 ★ 無の悟り / 「信じてこそ我である」
 ☆ 自分の中では その内実が活きてあるということかも知れないが ほかの人には一向に何も伝わらない。説明し得ないものなら ただ神と言っているのと同じである。それは それとして――哲学の以前の段階として――ある。


 ★ 神に向かって「無」お言い放ったお釈迦様だが
 ☆ もし次の説明と同じことを言っているということなら それは 違うと答えます。

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
   無梵:空・シューナター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 なぜなら そのときの《無梵》は 次の類型における《梵=ブラフマン》や《仏=アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイロ―チャナ(大日如来)》と同じ神だという理解だからです。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我

  C. ブディズム:仏仏一如
   仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)


 ぜんぜん違うよ。分かったフリをしているというよりは まったく分かろうとしない。だけ。こちらの見解がただしいと言うその前の段階で 互いに相手の見解の中身を知らなければ話は始まらない。


 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2013-12-30 05:44:49

こんにちは。

《信》にすべてを凝縮してしまうのならば、
かもしれません。

ですが、ヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』には、
「《信》とは、心の清らかさである」
とありますので、この言葉に尽きるのかも知れませんね。

そして、空海ならば、
《秘密》というキーワードで説明したりします。
《衆生秘密》(まぁ、《バカの壁》みたいなもの。《バカの壁》があるから、秘密に見える!!)と《如来秘密》(概念知や分別的な認識・《バカの壁》では決して解き明かせない、非思考・非経験の世界)で説明します。
あるいは、
「夫(そ)れ仏法遥かなるにあらず。心中にしてすなわち近し。真如、外(ほか)にあらず。身を棄てて何(いづく)んか求めん。迷悟、我にあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、即(すなわち)到(いた)る。明暗他にあらざれば、すなわち、信修すればたちまちに證(しょうす)。」
 迷→《衆生秘密》
 悟り→《如来秘密》
に、おそらく、対応しているのでしょうね。

http://www.bukkyo.net/tisiki/kengyo-mikkyo.htm

投稿日時 - 2013-12-29 12:56:31

お礼

 しばらくぶりですね。こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~~~~~~~~
 《信》にすべてを凝縮してしまうのならば、
 かもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言いかえるなら  論理学等の寄与は 言わば公共財として遺すものだという見方を持つからです。誰がおこなってもよいのですし そういう性質の学問的な営為であるかと思うからです。

 つまり 信仰は・そしてあるいは神学は 普遍的な内容を目指すということになると いささかその人ないしその弟子や同志たちの努力に負うところが大きいと思うからです。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ですが、ヴァスバンドゥ(世親)の『倶舎論』には、
 「《信》とは、心の清らかさである」
 とありますので、この言葉に尽きるのかも知れませんね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《自性清浄心》は それでも《ブッダター》の問題だと考えられます。清いこと・清らかさというのは どの民俗的な信仰においても言うことだと思われ それを《信》の定義に用いることは その信ということが 経験存在である人間にとってどういう仕組みになっているかが明らかにされてやっと腑に落ちるのではないか。こうも考えるからです。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 そして、空海ならば、
 《秘密》というキーワードで説明したりします。
 《衆生秘密》(まぁ、《バカの壁》みたいなもの。《バカの壁》があるから、秘密に見える!!)と《如来秘密》(概念知や分別的な認識・《バカの壁》では決して解き明かせない、非思考・非経験の世界)で説明します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ えっとですね。即身成仏は 《さとり》が何であるかの規定・確認のあとにその効力を発揮します。即得往生と 親鸞は 言いかえています。つまり 往生や成仏とは何かが先に来なければならないと。

 あるいは 親鸞にしても たとえば《悪人正機》なるヒラメキを得てそれについて思索を展開している段階は まだまだ中途半端な状態であった――つまり《信》をめぐってです――と考えられます。善悪の彼岸に やがて到ります。

 とうよりは 先ほどの即得往生のほうが 優先されるべき命題です。そのような彼岸を取り上げているのは まだ善悪についてどうにかして結着をつけようというように弄っている段階です。

 つまりそうではなく・その段階をとおり越えて すでに《義無きをもって義とす》という境地に到ります。
 これが 非経験の場であり 非知なる知(自覚)であり 非思考の庭としての《信》であるとさとります。

 こういった信学ないし信仰論が明らかになって――乱暴を省みずに述べるならば―― 《秘密》といった鍵語がその威力を持つのだと思うからです。

 それに 余計なことを添えるならば 《如来と衆生》という区別があるとするなら それは 先ほどの善悪論とあたかも同じような趣きにおいて 途中半端な問い求めの段階にある。こうも思われて来るからです。
 区別を超えているかも分かりませんが それはおそらく知性においてなのだろうと見られます。《信》を 言おうとしていても まだみづからの内においてその確立としての普請は済んでいないように見られます。

 《主(神)は 人びとの罪をもう覚えていない。人びとも主を知れと言って おしえることはなくなる》という《義無き状態としての義》。


 

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 あるいは、

 「夫(そ)れ仏法遥かなるにあらず。心中にしてすなわち近し。真如、外(ほか)にあらず。身を棄てて何(いづく)んか求めん。迷悟、我にあれば、すなわち、発心(ほっしん)すれば、即(すなわち)到(いた)る。明暗他にあらざれば、すなわち、信修すればたちまちに證(しょうす)。」

  迷→《衆生秘密》
  悟り→《如来秘密》
 に、おそらく、対応しているのでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 設計図としては 書けていましょうか どうでしょうか。というように 親鸞目線で見ることは いやな感じをあたえましょうが 学問として妥当であるように考えます。すでにこのように《決めつけ》ています。むろん 果たしてどうでしょうかというのが この問いです。

投稿日時 - 2013-12-29 13:38:06

ANo.2

>「もはや無用の長物になって行きます。」


「歴史の審判」ということなんでしょうか。

投稿日時 - 2013-12-29 10:36:47

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 わたしの見るところ 個人の信仰が集団として機能する宗教になったというのは ふたつのきっかけがあると思います。

 カザリないし肩書きと そして群れたがり症候群です。

 群れたがる欲望は 宗教でなくても アイドルを追っかけるだけでも満たされます。

 肩書きは 社会のそこここで仕事をするという立ち場を担うことで用を足しますから 宗教組織は要らなくなります。

 カザリは オシエを知っているといったことより むしろ組織宗教のよわさやそれが腐敗するという必然性を明らかにする知性が 取って代わります。

 このような
 ★ 「歴史の審判」ということなんでしょうか。

 ☆ ですけれど けっきょくもともと 信仰という蝉の抜け殻として オシエが持たれこれがあたかも絶対的なものだと思い込んだところから来たのですから 早晩消えてなくなります。

 要するにシューキョーは 気持ち悪いものだと感じるようになるのだと思いますが どうでしょうか。

投稿日時 - 2013-12-29 11:24:59

ANo.1

bragelonne様、おはようございます。


宗教とは、絵本のような気がしてきました。

投稿日時 - 2013-12-29 09:17:10

お礼

 そうですか。

 絵柄は 要素に分析してみれば 同じようだということでしょうか。

 その中核にある《神 と われ との関係》については 個人にとっての信仰の問題ですが そこにさらにつけ加えられて行くオシエについては――これが 集団に広がる宗教ですが―― もはや無用の長物になって行きます。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2013-12-29 09:47:54

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