こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

締切り済みの質問

人間には「救済」が必要なのか

無宗教者です。

様々な宗教、特にアブラハムの宗教を学ぶにつれ、
「そもそも救済は必要なのだろうか?」
という疑問を抱きました。

例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。
しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。
人間は惨めなまま死ねばよいのであり、神による救済など不要ではないかと思うのです。

私はニーチェの永遠回帰を信じているので、人間は無意味に生き、無意味に死んでゆく人生を無限に繰り返し続けるだけだと信じています。
私の人生も無意味ですし、今生きているのも無意味であり、死ぬのも無意味、今ここで自殺するのも無意味です。

したがって、宗教がなぜ「救済」を求めるのか分かりません。
仮に神がいたとして(私は神を信じていませんが、実際にはいるかもしれませんし、それは証明できないことです)、私は神から救済されることなど望まないと思います。

質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?

投稿日時 - 2014-01-02 12:23:35

QNo.8410103

暇なときに回答ください

このQ&Aは役に立ちましたか?

12人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(21)

ANo.21

こんにちは。私は救済とは人を「未熟で蒙昧で限界を越えやすい状態」から救い出すことだと考えます。そうしなければ世の中から無意味な争いがなくならない。つまり、みんなが安心して暮らすことができる平和な世の中を実現するためにこそ不可欠なものが救済であると思います。多様でいい範囲内のことをみじめと言ってしまわなければ気が済まないような価値観は未熟で蒙昧だと思います。限界を越えて人に害を及ぼすようなみじめさは改善しなければなりません。平和を乱しますから。

投稿日時 - 2014-01-05 17:05:00

ANo.20

selfless様、こんばんは。


>「私は歴史を学びましたが、分かりませんでした。
kurinalさんは何を学んだのですか?」

「一将、功、成って、万骨、枯る」と言います。
20世紀だけ見たって、ルーズベルトやチャーチルは私でも知って居ますが、
戦勝国である米国・英国の従軍将兵、さらには戦争被害者の名前さえ、到底、知りません。
(その「救済」を宗教に求めるべき、とは言いません。)

「永劫回帰」というのは、この宇宙が生まれた百億年?だか昔から、
同じモノがずっと繰り返されるということであって、
20世紀がそうだったから21世紀もそうでいいのだ、では、ないでしょう。

selfless様が「無意味」と考えられるものは「宗教」に近いものと思います。
(無宗教者でも、他者の信教の自由を侵害してよい、ということではない)


仮に、「惨めであって、良い」という考え方が、多数派であっても、
それに納得しない考え方は、あるでしょう。
それらが宗教にだけ基づいている、とは言えないと思います。
(selfless様が「無宗教で、惨めで良い」とお考えでも、
仰る通り「宗教で救済されたい」という考え方もあれば、
「宗教的発想でなくても、惨めでは、ありたくない」という意見も、
あるでしょう。

・・・「宗教的発想でなくても、惨めでは、ありたくない」
結局のところ、そんなところではないですか。


>「宗教がなぜ「救済」を求めるのか分かりません」

それは、宗教者にお尋ねください。

投稿日時 - 2014-01-04 23:05:24

ANo.19

 ★(No.17お礼欄) そもそも「非経験」とは何か? 「すくい」と何が違うのか?
 ☆ すくいは かんたんな事例としては 心が癒される――落ち込むとそのつどつねに または 永遠に――ということであるかと思いますが それは 概念として持たれます。

 つまり すくい・すくわれるというのは 概念としてあり 経験思考の問題です。認識の対象となる・癒されていない心の状態というのもあるわけですから。つまり 非経験ではありません。

 非経験とは 経験思考や認識の対象となる因果関係からまったく自由な場のことです。あるいは 有る無しから自由。あるいは 善悪の彼岸。あるいは 《義無きをもって義とする》ところのそのナゾの場。です。

 これは 考えるのではなく そのままを受け容れる(または 受け容れない)という意味での信じるの問題です。

 そして 信じるの場合は 考えるという経験行為とは違います。受け容れることは 経験的な意志行為でありつつ 受け容れる対象は 非経験のナゾなる何ものかです。

 非経験の場を信じるというとき これは信じないと言っても 想定上 同じことになります。つまり 対象は 経験思考としては 認識も判断もつかないのですから 信じないと信じると言っていることになります。

 言いかえると 非経験の場を神と言ってみるなら 神が有ると言っても 神は無いと言っても どちらも信じるということになっています。

 有る神を受け容れる および 無い神を受け容れる。神を信じないは 無い神を信じるということです。


 こんな感じです。

投稿日時 - 2014-01-04 22:38:02

ANo.18

補足的サービス回答;
◎質問の補正:なぜ、宗教が生まれ多くの宗教では「救済(幸福になる事)こそ必要(善)」と述べているのか?
(まるで【「救済=幸福感の増大」こそ必須(善)】であり「人間は幸福になるべくして生まれた」と『根拠もなく』述べている、のはオカシイ。惨めな人間の存在を許さない教義に、大いに疑問を感じます)

>>認識(観測)される事で、初めて生じて(動画参照のこと)】おり
>もしかして、「認識されることによって初めて存在が確定する」という不確定性原理を用いるために、量子論を持ち出されたんでしょうか? だとすれば、全くの見当外れだと思いますよ。

いいえ。不確定性原理には詳しくないです。

>我々人間は量子ではありませんし、我々の生きる世界もミクロではありません。ですから、量子の世界に適用される不確定性原理を、我々人間に適用するのは全くのむだです。

(あなたは私を責めたいのでしょうか? 違うならよいのですが・・・)えっ、どのような存在も最終単位は量子(=光子)なので、意味不明なんですが、それに画像に解説してあるように、量子は1ミリより大きな、今や日常のスケールで実験されているのは見てのとおりで「ミクロな世界での量子論の話は古典」ですよ。(ボース・アインシュタイン凝縮により、実験の結果として、日常のスケールまで量子は研究されている。)

>もっといえば、「我々が認識することによって世界が成立する」というのは、哲学的にいえば独我論であって、量子論なんか持ち出さなくても十分説明のつく話です。

では、その独我論とやらで『この理論が正しいか?』と新たにスレを立ててみてください。当然ちゃんと【根拠を出して説明したうえで】『この理論が正しいか?』質問を希望します。それなら、有意義な回答が可能でしょう。
注意:私は物理をほとんど学んだ経験がなく、哲学も全くありません。しかし、この世界は科目の境界線などなく、正しい思想も1つしかない、これ当然ですよね、リンゴを同じ様に落として、人により結果が異なっていませんよね? この意味での思想であり、個人的趣味として使われる言葉の思想ではありません。「哲学的には~」も「量子論的には~」も全ての科目つながっていて、矛盾があってはなりません。この世界を便宜的に区分けして勉強しない事をお勧めする。頑張ってください。 ^^/

>あと、
>>生きる意味を、神や金や出世といった自分以外のものに託すようになったということでしょうか?
>前回の私のこの解釈は、結局正しいということでよろしいのでしょうか。

もちろんです。正しいです。

参考URL:https://www.youtube.com/watch?v=yH6uOGMMMII

投稿日時 - 2014-01-04 20:35:20

お礼

> どのような存在も最終単位は量子(=光子)なので、意味不明なんですが
> 「ミクロな世界での量子論の話は古典」ですよ
ミクロの世界で成立するからといって、我々人間(マクロ)の世界で成立するとは限らないんですよ。
ボースやアインシュタインだって、ミクロの現象がそのままマクロに適用できるなんてことはいっていません。

> では、その独我論とやらで『この理論が正しいか?』と新たにスレを立ててみてください。
なぜ私が独我論の話をしたかというと、OtamaFJWRさんが、理論武装のためだけに量子論を持ち出したのではないかと思ったからです。

哲学の話だけで充分事足りるのに、不必要に数学や物理学を持ち出す人がいるんですよ(それも誤った知識を!)。
それと同じ類ではないかと思い、独我論で充分だと書いたわけです。
あと、私は別に独我論を信じていませんので、新たなトピックを立てる必要はありません。

> この世界は科目の境界線などなく、正しい思想も1つしかない、これ当然ですよね、
> リンゴを同じ様に落として、人により結果が異なっていませんよね?
> この意味での思想であり、個人的趣味として使われる言葉の思想ではありません。
> 「哲学的には~」も「量子論的には~」も全ての科目つながっていて、矛盾があってはなりません。
ここでいう「思想」とは、どういう意味での思想なんですか?
「リンゴ」の喩えからすると、「科学」という意味で使っているように見えますが。

科学と哲学は別のものですし、正しい科学と正しい哲学がそれぞれ存在していても、何の問題もないですよ。
ですから、「正しい思想も1つしかない」ということもないですね。

投稿日時 - 2014-01-04 22:11:44

ANo.17

 ★(No.15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 確率が「少ない」ことと0であることは全く意味が違いますね。
 確率が少ないといえば、絶対無の中からビッグバンが発生したことや、生物の進化が起きたことさえも、限りなく0に近い確率ですが、現に起きたわけですし。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 限りなくゼロに近い可能性をもって 《生まれ変わりがある》というのは 意味がないと言っています。動物はどうか知りませんが 同じひとりの人間が前世から現世に生まれ変わって来ているというのは 数えあげるほどの事例しかない場合に どうして輪廻転生を一般的な法則とし得ましょうか。

 ★★(趣旨説明欄) 私はニーチェの永遠回帰を信じているので
 ☆ このことの意味がどうであるか知りませんが もしふつうに人間が生まれ変わると言っているのならば それはあり得ません。という回答を寄せた。これだけのことです。

 あなたはほんとうに輪廻転生が起こると思っているのですか? 《信じる》のは勝手ですが そのことの内容には意味がありません。こういう回答です。《生物が生まれ進化したこと》と《生まれ変わり》とは まったく別の事態です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  > 信教と良心の自由という公理

 つまり、救済が必要な人(例えばパウロ)もいれば、必要でない人(例えば私)もいるのであり、それは自由ではないかと?
 私は全くそうは思いません。私は「皆違って皆いい」という立場をとりませんので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういう議論でしたら パウロの側に立って言うなら 《わたしはそう思います。わたしは〈みな違っていていい〉という立ち場をとりますので》と返せば 反論が成り立つことになります。それが 信教の自由という公理の器量です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もちろん、パウロがキリスト教の立場(私とは逆の立場)をとるのは結構ですが、それならそれで「なぜ救済が必要だと考えるのか?」と問う権利が私にあると考えます。
 そう問うたとき、「信仰の自由だから、救済を信じてもよいではないか」と問いを回避する「自由」などありえません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 本意ではありませんが この問いに正面からお答えしましょう。

 つまり わたしはすでに触れたように組織宗教は無意味であるとし個人の信仰のみを扱いますが 問題は《信じる》のは 神と呼ばれるような《非経験の場》のみです。つまり 《救済》は信じるものではありません。

 つまり信じるのは経験世界における経験事象――《すくい》も入ります――ではない。こう捉えるなら 先ほどから何度も言って来ているように 良心および信教の自由という互いに共通の了解事項を持ち出せば それで済む。こういう説明です。

 つまり 
 ★ 「信仰の自由だから、救済を信じてもよいではないか」と問いを回避する「自由」などありえません。
 ☆ という議論は 間違った認識をめぐっての推論でしかなく 意味がありません。


 だけども 前回には その《間違った認識》を活かして こちらも議論をしていました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  > それは (お)で質問者が 《すくいを不要とする》理由を述べているその説明と 同じ程度に有効なのではないでしょうか? 
 > 片や 《みじめなままでは 死にたくない》と言っています。

 これは「有効」ではないのですね。
 なぜなら、「なぜ惨めであってはいけないのか?」→「惨めなまま死にたくないから」という理由説明は、説明になっていないからです。これはただの同語反復にすぎません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにかんしては たしかに細かく説明しておきます。

 《みじめなままでは 死にたくない》という表明には 《みじめであってはいけないか あってもよいか》の問いは関係していません。つまり 《いけなくても よくても》 みじめなままではいたくないと言っています。それとして有効です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  > パウロよ おまえは おれと同じようにすくいを必要とせず みじめなまま人生をおくれと言いたいのでしょうか。
 
 「救済」を必要とする納得のゆく理由がないのだとすれば、パウロは「みじめなまま人生をおく」るべきであったと思いますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり《みじめなままで死にたくない》という命題を否定し批判する理由も議論もないのならば 《みじめなまま人生を送るべきである》という見解は 自由ですが 効力を持つこともありません。

投稿日時 - 2014-01-04 18:23:24

お礼

ようやく「救済」の必要性に関する回答が頂けて安心しました。

> 問題は《信じる》のは 神と呼ばれるような《非経験の場》のみです。つまり 《救済》は信じるものではありません。
・「信じる」ことがなぜ「非経験」といえるのか(そもそも「非経験」とは何か? 「すくい」と何が違うのか?)
・「非経験」だとして、なぜ「信じる」ものではないといえるのか
・「信じる」ものでないなら、では「救済」とは何なのか
あまりに疑問点が多すぎて、私にはまるで理解できません。

> つまり 《いけなくても よくても》 みじめなままではいたくないと言っています。
意味がよく分かりませんが、
・自分以外の人間は惨めであっても構わない
・しかし自分だけは惨めでありたくない
ということでしょうか。

ついでにいうと、永遠回帰は別に輪廻転生の思想ではないですよ。

投稿日時 - 2014-01-04 22:09:30

ANo.16

参考;
~~~~
>「量子論的」とありますが、量子力学とは全く関係ないように感じるのですが……。

>>それを感じる“目”に過ぎない肉体的個人の有りよう(他人による評価)
>目=他人による評価というのがよく分からないのですが……。目は自分の肉体に属するものなのですから、「宇宙」の一部であって、「あなた自身」の一部ではないでしょうか?

>>第一原因を全知全能の神に押し付けたり、お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって、他律的に生かされる方法を選んだために・・・

>生きる意味を、神や金や出世といった自分以外のものに託すようになったということでしょうか?
~~~~

>質問:<以下の様に質問すべきで、あなたは長過ぎるから、助ける側も苦労する>
>「救済」はなぜ必要なのですか?

◎質問の補正:なぜ、宗教が生まれ多くの宗教では「救済(幸福になる事)こそ必要(善)」と述べているのか?
(まるで【「救済=幸福感の増大」こそ必須(善)】であり「人間は幸福になるべくして生まれた」と『根拠もなく』述べている、のはオカシイ。惨めな人間の存在を許さない教義に、大いに疑問を感じます)

ーーーN0.13 の回答を盗みまして、私なりに回答します。
量子論(全ての物が「粒子」であると同時に「波」でありうる事)的に、有限的な(あなたの五感で感じる全ての)存在性は【認識(観測)される事で、初めて生じて(動画参照のこと)】おり(つまり、絶対無である土台の中で、観測面(点)が移動すれば、

その1点から時間・空間が、相補的に派生する=闇は光の風となって我々認識体=観測者は初めて宇宙を、まるで産まれる前からあったかのように、実感する。ところが元来、闇=絶対無、である事に違いはなく、認識体の数だけ宇宙は存在する。)、(だから観測者たる、あなたは宇宙の所有者であるから、)宇宙はあなた自身であって(あなたに敵対するモノも全て己の姿)、それ(日常的世界=宇宙)を、

もし【仮】に、(喩えるなら、あなたは)宇宙の中の【感じる“目”=五感全て】に過ぎない(喩えるなら宇宙という身体全体のほんの1部の眼球=あなた)→【肉体的個人(ヒト種族の1個体)の有りよう(=自分の貴賎レベル=他人による評価=他律的評価=外的要因による評価=有名無名レベル=優秀劣悪レベル)によって(【依存】して)、あなた自身の自覚が左右(自分の気分上下や優越感・敗北感)される】と【したら】、あなたは「真の自我(自律的評価のみ)」の目覚め((あなたの足裏の細胞個体が、脳細胞へ栄養不平等デモを起こさない=自然の摂理))に至っていない(仮の話)と言える。

短く言えば「仮にあなたが自己の【評価・区別・人気】を自らの判断よりも、他人からの判断(テスト・面接・自己アピール評価・各種試験)の判断を優先して、つまり【他者に依存して】生活しているならば、それは自我の目覚めの浅い幼形成熟といえる(幼いまま成熟してしまう、生物学的に欠点=明確な根拠)」

約4000年前、貨幣制度の発明と、その応用としての「傭兵=サラリーマン」が誕生した根拠(理由)は、「どうして己は存在しているか?」、「何のために生きているか?」が、分からない(もののことわり=物理、が未発達であった)ために、そうした第一原因を、(むりやり)全知全能の神に押し付けたり、お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”(アメ=誰もが【奪い合い欲しがる状態=奪い合い】と【ムチ=特に遊牧系の一神教は戒律が強い=モラル=ルール】を、安易に人類は選択した=4000年前の大失敗)によって、【他律的に生かされる方法を選んだ(人助けでなく、金を得る為に働く)】ので、

【奪い合い馬車馬駆動の社会システム<勝った!負けた!世界>】に対して、それを守るため、建前としての救済的な戒律を持つ思想宗教は、『カウンターバランス』の必要として【依頼心=救済=慈善団体】は登場したのです。「アメにはムチ」が「つきもの」であり、(貴賎評価における高レベルな貴族などの「惨めになりたくない(他人より幸せで裕福でいたい=他人に勝ちたい!)」という「非自覚的(未熟なまま)に生かされる拘束衣(貴賎評価における低レベルな平民・庶民への【負けても救済してあげるからね=歪んだ愛情】)」も伴うのです。

人は勝とうとしなければ既に勝っている=勝とうとするから、負けがあるのだ
ーーー以上。
量子;
https://www.youtube.com/watch?v=yH6uOGMMMII

日本人ルーツの思想:
https://www.youtube.com/watch?v=FzTGEwn0Onw

量子的音楽(粒子・波 うしお);
https://www.youtube.com/watch?v=0g13o3GIipQ

投稿日時 - 2014-01-04 15:32:36

お礼

> 認識(観測)される事で、初めて生じて(動画参照のこと)】おり
もしかして、「認識されることによって初めて存在が確定する」という不確定性原理を用いるために、量子論を持ち出されたんでしょうか?
だとすれば、全くの見当外れだと思いますよ。

我々人間は量子ではありませんし、我々の生きる世界もミクロではありません。
ですから、量子の世界に適用される不確定性原理を、我々人間に適用するのは全くのむだです。

もっといえば、「我々が認識することによって世界が成立する」というのは、哲学的にいえば独我論であって、量子論なんか持ち出さなくても十分説明のつく話です。

あと、
> 生きる意味を、神や金や出世といった自分以外のものに託すようになったということでしょうか?
前回の私のこの解釈は、結局正しいということでよろしいのでしょうか。

投稿日時 - 2014-01-04 17:38:07

ANo.15

 ★ (No.4お礼欄) 〔同じDNA の型の人間は 自分の〕「ほかにいない」と断言できる根拠は何でしょうか。
 ☆ たしかに次のように但し書きがつけられているようです。

 ▲ (ヰキぺ:DNA型鑑定) ~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/DNA%E5%9E%8B%E9%91%91%E5%AE%9A

 § 6 DNA型鑑定の課題

 ・・・
 現在の技術ではヒトゲノムの塩基配列のすべてを調べるわけではなく、「一卵性双生児以外すべて結果が異なる」という認識は誤りである。赤の他人であってもDNA型が一致することはある。
 
 「極めて低い確率(数十兆分の一)ではあるため指紋認識のような識別手段としての信頼性がある」というのも誤りで、どの程度の確率で同じDNA型の人が出現するかはまだ明確ではない。

 「すべての人間のDNAのパターン・データが登録されれば偶然の一致による誤判定は防げる」というのも誤り。

 アメリカのメリーランド州では、2007年1月、データベースに3万人分程度が登録されているDNA型プールにおいて、理論値では1000兆分の1の確率とされるDNA型の「偶然の一致」があったことが裁判で明らかになっており、DNA型の理論上の一致確率に重大な疑念がもたれている。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 途中で引用をはぶいたかたちですが だからと言って 生命ある存在が つねに前世から現世へ・そして来世へと輪廻転生をおこなうというには あまりにもその《 DNA 型の一致》が少ないと言うべきではないでしょうか? ほかの動物としても あまりにも少なさすぎるのではないでしょうか?

 よって 輪廻転生は 文学的な表現のあやとしてなら別としても じっさいのこととしては あり得ない。ということになるのでは?







 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  > 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある

 ええ、それで、《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。
 理由もなく《救済を必要とする》わけではないですよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 質問趣旨が次のように記されているからです。

 ★★(趣旨説明欄) 質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?
 ☆ たしかに字句どおりには 
 ★ 《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。
 ☆ と読めますが その問いが持たれるようになる過程について捉えるならば そうはならない。のではないかという回答です。

 すなわち
 ★★(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。
 (い) しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして確かに(あ)は パウロが自分自身について《救い主が必要であるし じっさい存在する》と言っていて (い)では 或る種の仕方で それに反対の見解を提出している。というふうに読めますが 問題は そうではないと読みましたという回答を 寄せました。

 すなわち 基本的に言って 信教と良心の自由という公理があります。パウロはそれにもとづいて自分の見解ないし立ち場を述べています。

 すなわち そのことに何の問題もありません。

 と同時に その見解や立ち場とは別の見解を発表するのも 自由です。その自由のもとに 質問者は(い)の見解を述べておられます。

 そして それだけのことです。ほかに何の問題も出て来ていません。

 ――こういう回答内容です。
 ☆☆(回答No.4) ~~~~~~~~~~~~~~~
 つまり 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある。という仕分けをおこなったまでです。

 すくいを必要とする理由を述べてそれとしての議論をおこなう段階ではないという意味です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 言いかえると
 ★(う) (No.4お礼欄) 《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。
 ☆ という問いは 上の段階をまづみとめあったそのあとでの話になる。のではないかという・この質問に沿った回答者としての問い求めです。一足飛びには すすむことは出来ません。

 つまりは そういった《信仰をめぐる良心および信教の自由》をみとめる段階を互いにみとめあったなら ただちに上の(う)のような問いに飛ぶことはないと思うからです。

 理由が何であれ すくいを必要とする人がいて そのための――組織宗教ではなく あくまでも個人にとってのですが――信仰があるということ。これについて 質問者は じゅうぶんに認めたことになるはずです。そのことの確認を経て初めて こんどは ではその理由とは何ぞや? という問う段階に入ります。

 そういうことを明らかにする回答だったわけです。





 もう少し説明します。

 ★★(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~
 (え) 例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。

 (お) しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。
 人間は惨めなまま死ねばよいのであり、神による救済など不要ではないかと思うのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このパウロの場合は 《自分がみじめな人間であると自覚している》ということを理由としています。

 それは (お)で質問者が 《すくいを不要とする》理由を述べているその説明と 同じ程度に有効なのではないでしょうか? 
 片や 《みじめなままでは 死にたくない》と言っています。

 互いにひとしく自由な主観とその表明なのではないですか。

 もしパウロも質問者の見解と立ち場に同じく立てというご主張であるのならば それは 《無意味に意味を見い出す》という思想であることがはっきりします。そうなのですか?

 つまり
 ☆☆(回答No.2) ~~~~~~~~~~~~~
  たぶん
  ★ 無意味
  ☆ であることに意味を見い出しておられるのかも知れません。

  つまり 人それぞれであるということになると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 それとも パウロよ おまえは おれと同じようにすくいを必要とせず みじめなまま人生をおくれと言いたいのでしょうか。
  

投稿日時 - 2014-01-03 16:48:04

お礼

> あまりにもその《 DNA 型の一致》が少ない
確率が「少ない」ことと0であることは全く意味が違いますね。
確率が少ないといえば、絶対無の中からビッグバンが発生したことや、生物の進化が起きたことさえも、限りなく0に近い確率ですが、現に起きたわけですし。

> 信教と良心の自由という公理
つまり、救済が必要な人(例えばパウロ)もいれば、必要でない人(例えば私)もいるのであり、それは自由ではないかと?
私は全くそうは思いません。私は「皆違って皆いい」という立場をとりませんので。
もちろん、パウロがキリスト教の立場(私とは逆の立場)をとるのは結構ですが、それならそれで「なぜ救済が必要だと考えるのか?」と問う権利が私にあると考えます。
そう問うたとき、「信仰の自由だから、救済を信じてもよいではないか」と問いを回避する「自由」などありえません。


> それは (お)で質問者が 《すくいを不要とする》理由を述べているその説明と 同じ程度に有効なのではないでしょうか? 
> 片や 《みじめなままでは 死にたくない》と言っています。
これは「有効」ではないのですね。
なぜなら、「なぜ惨めであってはいけないのか?」→「惨めなまま死にたくないから」という理由説明は、説明になっていないからです。これはただの同語反復にすぎません。

> パウロよ おまえは おれと同じようにすくいを必要とせず みじめなまま人生をおくれと言いたいのでしょうか。
「救済」を必要とする納得のゆく理由がないのだとすれば、パウロは「みじめなまま人生をおく」るべきであったと思いますね。

投稿日時 - 2014-01-04 17:33:41

ANo.14

宗教が述べる救済は、それを信じる人に対して受け入れやすいように説いているだけであり、
その説にある救済自体を、救済する側が必要ないと考えている事も、可能性として考えましょう。

哲学や宗教も共通してあるのは、
自分の気づきや世界観、人生観、その合理性など、
平安をえて更に上向く喜びを、人に説明したいという衝動でしょう。
逆にそうした喜びを持つ人を否定したいと言うネガティブな衝動もあり、
これらが同一の方法論(つまり、賛同する人を増やす)で争えば、これ自体の争いが醜く、
印象が悪くなります。

これを更に証拠として利用し、自説を誰かに受け入れさせようとする意図も生まれ、
全体として混沌とし、各自が意地になるので、大変疲れてしまうわけです。

ご質問の内容は、「救済」は必要か? と言うテーマですが、これは乱暴すぎます。

まずは、「救済」は誰にとって必要であるか? その「誰」を限定しないと、「必要」と言う概念
自体が言葉として成立しません。

「スマホ」は必要であるか?、なぜ人間は「スマホ」を持ってないといけないのですか?

と文章を作るとわかり易いですね。
当然便利だと言う人と、特に要らないという人に分かれるはずです。

冒頭述べましたが、「救済」を大事にしている人達が、激しく争ったり、アクティブに活動し、
「救済」を必要としている顧客に向けて、営業したりカタログを作っているわけです。

そのカタログや営業トークの中で、「すべての人は今後スマホが必要です」と言う訴えを、
わかりやすくドラマなどを作り、利用シーンとしてアピールしたとします。

例えばスマホの場合は、
これは営業マンが顧客に向けて説明するために作った資料やプレゼンであり、これに驚いて、
「人間すべてに対して、あらゆるシーンでそうなのか?」と質問すれば、

営業マンとしては、そうですと言い切るでしょうが、個人としては「うちはガラケーです」
と言うかもしれませんね。

ほとんどの宗教の聖書は、営業用のカタログであり、これが訴求する層に向けて、
更新されていくものです。

また、各自が思い思いに営業をすれば、短期的には効果が上がっても、商品である自説が曲がり、
さらに素行の悪い営業によって評判が落ちます。

これを回避するために、営業マンにしっかりと商品を理解させる研修を行い、検定を行い、
営業ツールを整備し、顧客への接し方を定型的にするわけです。
こうしたマーケティングに類する活動も、ほかの人から見ると奇異ですから、不可思議な人々に
見えるのだと思います。

哲学とは、宗教にとっては、技術的な開発部門や研究施設にあたり、
ここで作られた真理または真理に近い便利なものを、
日常で役に立つ”教え”に加工し、

対象となる人々を想定して、彼らの言葉で訴求するように派を興すわけです。

もちろん、
数千年先の人が、このカタログを見れば、何を言ってるのかと悩みます。
その人が未来から自分を嘘つきであると、糾弾するなど想像もしていないでしょう。

つまりは、当事者じゃない人が糾弾してもしょうがないのです。

さらに、宗教の場合は、
商品が”心理的なストレスの軽減”であるため、
人のあり方や行いについてある程度制約するコンテンツがポイントとなります。

制約そのものにも健康増進やコミュニケーション上達などの効果があるのですが、
制約されることで安心する、または強制されることで安心する、
などの好みを持つ顧客を対象としているからです。

これは売り方の考案であり、
本当に売っているのは、哲学者(教祖)が気づいた真理であり、
これの端々で語られるキャッチコピーは、顧客として対象とされていない人にとっては、
不愉快に感じさせることもあるでしょう。

そのため、最初に「スマホにご興味ありますか?」と営業マンは聞くものです。
(あなたは神を信じますか?)

キリスト教は、ニーチェで言う”超人”を神として設定することで顧客受けすることを発見し、
(というかそういう時代と地域だったんでしょう)、これらを販売することにしているのだと思います。
(対価は得ませんが、寄付と言う別のビジネスモデルを構築しています。いま風ですね)

また社会的な役割として、
精神的に不健康な人が、他の健全な人と接し、健全な人の精神まで阻害する可能性を危惧し、
ある種の隔離機関をボランティアで運営しています。これは社会にとって必要です。

あまりに重度な人は、社会と隔絶することが必要なのです。
また、定期的に人々の心を検診する必要もあり、これらを担うスタッフを育成する必要もあります。
こうした仕組みを地域の人々と協力して行うと言うのが、息の長い宗教の特徴でしょう。

著作や説と言うのは、その時代その地域で生きる人にとってこそ共感されるものであり、
後の時代について想像していないのが本当のところじゃないでしょうか?

ニーチェの生きた時代は想像するしかありませんが、

もしかすると、
自分が得意とするものこそ、人類の至高であると勝手に述べ、
ほかの人を惨めな気持ちにさせること。

これに対しての反発と怒りの現れかもしれません。
いつの時代でもこうした扇動は起きるでしょうから、ステータス自体を否定するために、
一度既存にある人間の価値や意味を壊し、無意味の中からポジティブな人生観を作るべきと思ったのかもしれません。

永劫回帰は物理学の世界で大分否定されています。また、この否定すら古くなりつつあります。
真偽はともかく、今の時代の人にとっては新しい発想ではなく、ある程度信じられる話だと思います。

しかしこうした議論の中でも
永続性を保つものがあります。これは人間、人類種にとって共通している身体構造や、
これから派生する精神構造に起因するもののはずです。(または、副次的に作られる社会構造)

わたしは、ニーチェが言う超人やキリスト教が言う神、仏教が言う覚醒者など、
どれにも共通していることを見出し、各論をさけるべきだと思います。

これら最終到達点について彼らが共通して語ることは、
全ての人が内在しており、一生の中でも稀にしか到達できない、知性と人格の獲得です。
ほとんどの人が、なぜだか憧れる自己の理想のイメージがあり、共通している願いのような気がします。

本来理想とは、ある目的に対してある条件の中で、語られる方法論と結果のはずです。

ところがイメージだけが先に存在する。

この不思議を追い求め、自分自身で体現したいと望んだとき、この試みや達成に対して、
人は憧れや嫉妬を抱くのだと思います。

これら内在される本質論を究極的に簡単に言うと、

嘘偽りのない、自分自身への大人としての自立と確信、誇りでしょうか。
幼少のころは想像もしなかった、認知の拡大、知力の拡大、これが突然開花するときがあり、
付随して生まれる、「これが本当に大人になると言うことか」と言う悟りでしょう。
これはどんな人にも起こりうる脳仕組みであり、人類種の特徴であり、
少数の人が稀に到達する、本当の成人ではないかとわたしは信じています。

しかし、そうでない状態のときは間違いなく、
社会の中で成人しても、自分の力に不安であり、
一人で生きると言うことが不安であるはずです。

身近な人や、親族、恋人、社会や政府、過去の偉人の言葉、
もしくは自分が信じる科学技術、親の教え、宗教でも同じですが、

これらに頼りたくなり、
うまくいかなかったときは、強い人に責任をとって助けてもらいたい。

こんな願いを払拭できず、それへの期待が消えない。
このため、割り切って動けない。
こうした恥ずかしい自分を嫌になり、苦しい人もいる。
最後はメンタルを害してしまう事もあるでしょう。

「自分は弱いので自分以外の強い人の威光で守ってもらいたい」

多くの言葉で飾っても、ここを脱出することは難しい。

そんな人に、こう考えればいい、こうしてみなさい、これをやってみなさい。
と自分の経験から相談にのることはあると思います。

これを組織的に行えば「救済」なのです。

人間にとって必要であるかどうかわかりませんが、
これまでも今後も、「救済」であると自覚されず、人々の生活の中で続けられるのではないかと思います。

投稿日時 - 2014-01-03 14:13:50

お礼

回答ありがとうございます。

ずいぶんと長い回答ですが、つまりは
「救済が必要かどうかは人によって違うのであり、聖書などは、救済が必要な人向けのカタログに過ぎない」
ということでしょうか。

しかし、キリスト教やイスラム教、あるいは多神教も含め、これほど宗教が普及している現状を見ると、やはり人間の多く(すべてとはいいませんが)は「救済」を求めているのではないでしょうか。
それが他力救済であれ、自力救済であれ。

では、なぜ「救済」を求める人がいるのか? なぜ求めるのか? それが私の疑問です。

投稿日時 - 2014-01-03 16:03:33

ANo.13

量子論的に、有限的な存在性は認識される事で生じており、
宇宙はあなた自身であって、それを感じる“目”に過ぎない
肉体的個人の有りよう(他人による評価)によって、あなた
自身の自覚が左右されるとしたら、あなたは真の自我の
目覚めに至っていないと言える。
どうして存在しているか、何のために生きているか分からな
いために、そうした第一原因を全知全能の神に押し付けたり、
お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって、
他律的に生かされる方法を選んだために、依頼心=救済は
必要になったのです。
アメにはムチがつきものであり、「惨めになりたくない」という
非自覚的に生かされる拘束衣も伴うのです。

投稿日時 - 2014-01-03 10:04:51

お礼

回答ありがとうございます。

「量子論的」とありますが、量子力学とは全く関係ないように感じるのですが……。

> それを感じる“目”に過ぎない肉体的個人の有りよう(他人による評価)
目=他人による評価というのがよく分からないのですが……。
目は自分の肉体に属するものなのですから、「宇宙」の一部であって、「あなた自身」の一部ではないでしょうか。

> 第一原因を全知全能の神に押し付けたり、お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”によって、他律的に生かされる方法を選んだために
生きる意味を、神や金や出世といった自分以外のものに託すようになったということでしょうか。

投稿日時 - 2014-01-03 16:00:08

ANo.12

質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?

○数十年後には回答者である私も質問者であるあなたもこの世にはいないでしょう。その時私が見るあなたの姿は惨めそのものだと思います。生きている時に何を信じようと、いかに誇りを持って成功していようが全く関係なく惨めな姿のあなたを見る私は涙しているでしょう。
パウロはユダヤの成功者の一人でした。しかし、救世主が現れた時に救世主を屠る側にいたのです。それがどれほど彼の魂を卑しくしたかがわかるでしょうか。金持ちが天国に入るのはラクダが針の穴を通るほど難しいという意味を体現したのが実はパウロその人だったということなんですね。地上の巨人が数十年後には惨めなものであるということに気づいてほしいがゆえに救済があるのですね。
生きているうちはわからないかもしれません。この世を去った後、迷っていると思うなら再度、私に同じ質問をしてみるとよいでしょう。その時初めて回答の意味が理解できるかもしれません。

投稿日時 - 2014-01-03 09:26:24

お礼

回答ありがとうございます。

> その時私が見るあなたの姿は惨めそのものだと
二つ質問なのですが

1. ここでいう「惨め」とは、死んでしまうことが「惨め」だということでしょうか?
2. 逆に、私(selfless)からあなた(mmkyさん)を見たときに、あなたが「惨め」だと思うこともありうるでしょうか?

> それがどれほど彼の魂を卑しくしたかがわかるでしょうか
私はイエスは偉大な人間だと思いますが、救世主だとは思わないので、イエスを迫害したパウロはむしろ普通だと思いますね。
その後、転向してキリスト教なるものを立ち上げたパウロはどうかと思いますが。

投稿日時 - 2014-01-03 15:57:13

ANo.11

惨めであってはいけないわけではありません。

ただ、世間でそういったことを嫌う人が多いのは、単に惨めなのが辛いと感じるからです。

それは長い人間の文化の中で、そうなったとしか言えません。

単純に後ろ向き、惨めな、ネガティブ思考をよしとする人間は子孫を残し辛く、
逆に前向きで、ポジディブをよしとする人間は子孫を残しやすいでしょう。

生きやすい方、気持ちいい方へ向かいことが、生物の本能として備わっているからだと
私は考えています。

投稿日時 - 2014-01-03 02:10:05

お礼

回答ありがとうございます。

> 生物の本能として備わっている
しかし、人間以外の動物は、宗教など持ちませんし、生きる意味や「救済」など必要としないと思います。
これは人間特有の現象であって、本能というのは無理があると思います。

投稿日時 - 2014-01-03 15:54:37

ANo.10

私には、あなたが無意味な人生を全うし死んでゆく自由こそがすばらしいことに見えます。その惨めさを充分に堪能くださいませ。

であるなら、救済がなぜ必要なのか、人間が惨めであってはいけない理由をあなたが知る必要もここで質問する必要もありません。無意味ですよ。

意味の無いあなたの人生にとって、アブラハムだのニーチェだのはゴミです。

投稿日時 - 2014-01-02 22:10:58

お礼

回答ありがとうございます。

> あなたが知る必要もここで質問する必要もありません
質問してもよいのではありませんか?
質問した上で、やはり意味はないと実感する生き方もあるのですから。

投稿日時 - 2014-01-03 15:53:13

ANo.9

死の危険を目前に危惧する者は助けを必要としているという事で助けるのは神に限らないよ。

投稿日時 - 2014-01-02 21:53:37

お礼

回答ありがとうございます。

生きるためには助けが必要というのは私も同意しますが、では「救済」は必要ないということでしょうか。

投稿日時 - 2014-01-03 15:51:59

ANo.8

人が、ある日突然一人で勝手に誕生できるのなら別だと思いますが、
この世に生まれてから、1分、1秒、一度も救われてない人間はいないと思います。

投稿日時 - 2014-01-02 18:27:17

お礼

回答ありがとうございます。

おもしろい回答ですが、
> 救われてない
この「救われてない」とはどういった意味でしょうか。

投稿日時 - 2014-01-03 15:51:56

ANo.7

selfless様、こんにちは。


>「私はニーチェの永遠回帰を信じているので、人間は無意味に生き、無意味に死んでゆく人生を無限に繰り返し続けるだけだと信じています。
私の人生も無意味ですし、今生きているのも無意味であり、死ぬのも無意味、今ここで自殺するのも無意味です。」

と、信じているのですね。そうですか。


>「質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?」

「なぜ、人間が惨めであってはいけいないか」
・・・それは、歴史に学ぶことが出来ると思います。

投稿日時 - 2014-01-02 17:02:59

お礼

回答ありがとうございます。

> ・・・それは、歴史に学ぶことが出来ると思います。
私は歴史を学びましたが、分かりませんでした。
kurinalさんは何を学んだのですか?

投稿日時 - 2014-01-03 15:50:35

ANo.6

無意味と思うことは色のない世界で生きているような感じですね、命は一つでは完結できない満たし満たされるようにできてると思いますそこに喜びを感じ意味を見出すことを強調したいのだと思います。

投稿日時 - 2014-01-02 16:10:59

お礼

回答ありがとうございます。
しかし、分かったような分からないような回答ですね。

> 色のない世界で生きているような感じ
色のない世界とは、貧しい世界ということでしょうか。
しかし、(私は全盲ではありませんが)色のない世界でも、豊かな世界は存在すると思いますね。

> 命は一つでは完結できない満たし満たされるようにできてると思います
その通りだと思いますが、そのことと「救済」の必要性はどう関係するのでしょうか?

投稿日時 - 2014-01-03 15:49:53

第一論文 「善(gut)と悪(böse)」「よい(優良)(gut)とわるい(劣悪)(schlecht)」

・「[〈よい〉という]判断のおこりは、〈よい人〉たち自身にあった。すなわち高貴な人たち、強力な者たち、高位の者たち、高邁な者たち自身にあった。こうした者たちが、あらゆる低級な者・下劣な者・野卑な者・賤民的な者に対比して、自己自身および自己の行為を〈よい〉と感じ〈よい〉と評価する、つまり第一級のものと感じ、そう評価する。この距離のパトスからしてはじめて彼らは、価値を創造し価値の名を刻印する権利を自らに獲得したのである。功利など彼らの眼中にはない!まさにこのように順位を定め、順位を分明ならしめる最高の価値判断が激烈にほとばしりでるところにあっては、功利の観点はおよそまったく無縁であり、ふさわしからぬものである。……高貴と距離のパトス、すなわち低級な種族つまり〈下層者〉にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情、――これこそが〈よい〉(優良)と〈わるい〉(劣悪)との対立の起源なのである。」(377-378)

・これに対して、「利己的」な行為よりも「非利己的」な行為を「良心」に照らして道徳的であるとみなす態度は、貴族的な価値判断の没落とともに、人間の畜群本能が支配的となる場合に生じる。(379)

・【僧侶階級と騎士階級の対立】「騎士的・貴族的な価値判断が前提とするものは、力強い肉体、今を盛りの豊かな溢れたぎるばかりの健康、加えうるにそれを保持するうえに必要なものごと、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、さらにはおよそ強い、自由な快活な行動を含む一切のものごとがそれである。」(387)これに対して「僧侶的民族」であるユダヤ人は、「諸価値の徹底的な価値転換」によって「精神的な復讐」を遂げる。「ユダヤ人[イエス・キリスト]こそは、……貴族的な価値の方程式(善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)にたいする逆転のこころみをあえてし」た。すなわち「『惨めな者のみが善い者である。貧しい者、力のない者、賤しい者のみが善い者である。悩める者、乏しい者、病める者、醜い者のみがひとり敬神な者、神に帰依する者であって、彼らの身にのみ浄福がある。――これに反し、おまえら高貴にして権勢ある者ども、おまえらこそは永遠に悪い者、残酷な者、淫いつな者、貪欲な者、神に背く者である。おまえらこそはまた永遠に救われない者、呪われた者、堕地獄の者であるだろう!』」(388)
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Nietzsche%20Zur%20Genealogie%20der%20Moral.htm


~~~~~~~~~~~~~~~~


なるほど。戦争に負けたなんてのは書いてませんね。





~~~~~~~~~~~~~~~


・【虚無を意欲する人間】「が、それにもかかわらず──人間はそれによって救われた。人間は一つの意味をもつに至った。……今や人間は何かを意欲することができるようになった、──何処へむかって、何のために、何をもって意欲したかは、さし当たりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。……人間的なものに対するこの憎悪、それにもまして動物的なものに対する、さらにはまた物質的なものにたいするこの憎悪、官能に対する、また理性そのものに対するこの嫌悪、幸福と美とに対するこの恐怖、あらゆる仮象から、変転から、生成から、死から、願望から、欲望そのものからさえも逃れようとするこの欲望──これらすべては、あえてこれをはっきり規定するなら、虚無への意志であり、生に対する嫌厭(けんえん)であり、生の最も基本的な諸前提に対する反逆である。……人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する。」(583-584)


http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Nietzsche%20Zur%20Genealogie%20der%20Moral.htm

~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2014-01-02 15:50:55

お礼

ニーチェの文章を引用されていますが、それで何がおっしゃりたいのですか?

投稿日時 - 2014-01-03 15:48:15

ANo.4

 ★ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  > おなじDNA を持った人間は自分よりほかにいないので 輪廻転生することはあり得ませんが

 なぜ「ほかにいない」「ありえない」と断言できるのか不思議です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《ほかにいない》のなら 過去に何野何兵衛であった人間が いまのわたしの前身であるといったことは《あり得ない》と断言できるのではありませんか?


 ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 
  > 組織宗教と 個人の信仰とは これまた違うという意味です

 では、「個人の信仰」において、「救済」が必要とされる理由は何ですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは そういう意味ではなくて 組織宗教は 《他人に対する支配欲に支配されてこの欲望を満たすためにこそ 金儲けを兼ねて 互いに群れたがる》という個人の心的現象でありまたそれが集まった社会現象であると言っています。

 個人の信仰は そのような――それでも《信仰》という看板をしばしばかかげているところの――組織宗教とは根本的に違うと言ったまでです。

 つまり 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある。という仕分けをおこなったまでです。

 すくいを必要とする理由を述べてそれとしての議論をおこなう段階ではないという意味です。

投稿日時 - 2014-01-02 15:07:24

お礼

> ほかにいない
「ほかにいない」と断言できる根拠は何でしょうか。

> 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある
ええ、それで、《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。
理由もなく《救済を必要とする》わけではないですよね。

投稿日時 - 2014-01-03 15:48:05

ニーチェはバラモン教、仏教、キリスト教を「三大宗教」(『道徳の系譜』III・17)といい、後の二つを「二つの世界宗教」(『悦ばしき知恵』347)あるいは「二大宗教」(『善悪の彼岸』62)と呼んでいる。

http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html#12
~~~~~~~~~~~~~~~~

わざわいなるかな!人間がもはやその憧憬の矢を人間を超えてかなたへ投射することなく、そしてその弓の弦がうなることを忘れてしまう時が来るのだ!       (『ツァラトゥストラ』序説5)


 この「憧憬の矢」は、「別の岸へ向かう憧憬の矢」 (序説4)であり、「超人へ向かう一本の矢、一個の憧憬」(第1部「友人」)でもある。

ニーチェは「インドの仏陀とは反対のもの」を称し、その「憧憬の矢」は、仏陀の”darts of sorrow”にことごとく反逆しているようである。

http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html#12

~~~~~~~~~~~~~~

正直、ニーチェは嫌い。
でも、勉強しないといけないなあ、と思ったり。

キリスト教の結果がニヒリズムだとすると
ニヒリズムをどう考えるかというのはやっぱり重要。

ニヒリズムを問題視すればそれは、キリスト教批判になるから。

それに、ニーチェの思想を一言で言うと
負けたのが悪い。

ということだと思います。

なんでこんなのが日本で流行るのかわからない。

結局、戦争で負けたのが悪い。
負けた連中が、善悪を捏造して、勝者を貶めた。
そんなことはやめろ、強くなれ。

これは、
戦後の日本を完全に批判しているような気がする。

もっとも、こんな話は生々しいから

戦争に負けたユダヤ人が、神を捏造して、
キリスト教は大衆のプラトン主義という話でいいですけど。

投稿日時 - 2014-01-02 13:38:20

お礼

回答ありがとうございます。

> 負けたのが悪い。
ニーチェはそんなことを一言も書いていませんが……。
なぜニーチェを読んでもいないのに、ニーチェについて要約できるのか不思議です。

あと、日本の敗戦については今回のトピックと全く関係ないですね。

投稿日時 - 2014-01-02 14:54:16

ANo.2

 こんにちは。

 ★ 私はニーチェの永遠回帰を信じているので
 ☆ おなじDNA を持った人間は自分よりほかにいないので 輪廻転生することはあり得ませんが もしそれでも《これこれを信じている》というのであれば パウロにしても 《あれそれを信じている》と言っていいのではないでしょうか?

 という回答です。


 
 あと たぶん
 ★ 無意味
 ☆ であることに意味を見い出しておられるのかも知れません。

 つまり 人それぞれであるということになると思います。


 あと
 ★ 宗教がなぜ「救済」を求めるのか
 ☆ は 金儲けのためと支配欲を満たすためです。
 つまりは 組織宗教と 個人の信仰とは これまた違うという意味です。

投稿日時 - 2014-01-02 13:12:44

お礼

回答ありがとうございます。

> おなじDNA を持った人間は自分よりほかにいないので 輪廻転生することはあり得ませんが
なぜ「ほかにいない」「ありえない」と断言できるのか不思議です。

> 組織宗教と 個人の信仰とは これまた違うという意味です
では、「個人の信仰」において、「救済」が必要とされる理由は何ですか?

投稿日時 - 2014-01-02 14:52:30

ANo.1

貴方は絶望を感じたことはありますか?

私も戦時中に生まれた人間ではありません、ですから本当の意味ではわかりませんが、無慈悲や絶望たという言葉が相応しいと感じられる著者は沢山ありました。

実感のない机上の空論だけで、論ずる事が可能な問題ではないのでしょうか。

投稿日時 - 2014-01-02 12:50:00

お礼

回答ありがとうございます。

「絶望」を感じたまま死んでゆくのではいけないのでしょうか。

投稿日時 - 2014-01-02 14:52:12

あなたにオススメの質問