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三位一体なる神は 無宗教である。

 三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。

 しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。

 それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。
 これを問います。

 つまり まづ
 ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
               ↓  ↓        ↓      ↓
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________

              ↓      ↓      ↓     ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。

   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。

 2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。

 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。

 4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:

  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に

 それぞれ当てはまるというタトエです。

 5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。

 6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。

 7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。

 8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。

 9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。


 10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。

 11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。



 添削・批判を俟ちます。

投稿日時 - 2014-02-08 06:40:59

QNo.8466069

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんにちは。
三位一体論が、抽象的に語られた故に、実際的であるユダヤの歴史から乖離し、そのために特定の宗教に属すことがない、というレベルに上がったと見えるのではないでしょうか。哲学や、神学は、その多くの部分が抽象的ですから、どのような宗教、あるいは思想においても援用できるものと思います。
ですから、タイトルにあるような三位一体論は無宗教という提示ですが、それはこの意味では当然といえば当然でしょう。

その理由により、個人の有様や社会の成り立ちに、やや強引で分かりにくいものではありますが、ブラジュロンヌさん的に、三位一体論を援用できたのではないかと思います。
また、わかりにくいのは、スマホで閲覧してるために、図解が崩れてしまっている所為もあると思います。

三位一体である神のシルエットが、人類社会にも映し出されているという見方はおもしろくもありますが、いや、この場合は、人類社会を三位一体論によって読み解こうとしたと言った方が良いでしょうか、何れにせよ、何故そのような見方、読み解き方をしたのかが明らかに述べられていません。何故三位一体論を使用したのか、その意図するところは何なのか、が述べられていなければ、四角の窓から外を見るのか、円い窓から外を見るのか、といった程度の違いにその見分が終始してしまうことになりかねないと思いました。
参考まで。

投稿日時 - 2014-02-10 03:59:58

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 

 ★ 三位一体論が、抽象的に語られた故に、実際的であるユダヤの歴史から乖離し、そのために特定の宗教に属すことがない、というレベルに上がったと見えるのではないでしょうか。
 ☆ なるほど。神そのもについては 《抽象的な内容》として説明されていれば 《無宗教》である。ということですか。

 けれどもですね それを信徒が どう扱うか。これが 問題になるのではありませんか?

 ▼ (モーセの十戒) ~~~~~~~~~~~~~~
 1.私はあなたの神、主であって、
   あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。
   あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに いまもユダヤ人は捉えていますが それは どうなのでしょう?

 三位一体の神は そんなことはいっさいないわけです。神と言っているだけであり その詳しい説明が どういうわけか 三つの位格に分かれ それらは一体であるという。ただそれだけのことです。

 あるいは イスラームの神は:

 ● (神のほかに神は無し・・・) ~~~~~~~~~~~~
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%80

  「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。」
   ラー・イラーフ イッラッラーフ ムハンマド ラスールッラーヒ
   laa ilaah illaa allaah ・・・
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《神》じたいには 色はついていない。のでしょうね。でも このように扱われます。

 ●  laa ilaah illaa (= in laa) allaah(= al-ilaah ).
   : no god but (= if not ) Allaah(= the-God ).
   : もし《その神》でなければ 神は無し。⇒《神》のほかに 神は無し。

 ちなみに アッラーフは アル( the )-イラーフ( god )として成っており ヘブル語では ハー( the ) エローハ( god )と言うようです。
 定冠詞は もともと ハル( hal )だったようで 一方では語頭の子音の h が脱落し 他方では語尾の子音の l (エル)が落ちた。だけだそうです。

  ・ hal ilaah ⇒ アラビア語: al ilaah ⇒ Allaah
  ・ hal elooh ⇒ ヘブライ語: haa elooh (但し普通は複数形: haa eloohiim )

 アラブとイスラエルは 神はまったく同じなのにねえ。(東北弁と関西弁との差ほどもないのにねぇ)。




 そのような差異を超えているのが 三位一体の神ですよ。





 神をめぐって たとえば中国人は 《無宗教》であるかも知れません。無病息災・商売繁盛を願い祈るのがおもなことですから その願いじたいは 宗教を超えて普遍的であるかも知れません。

 ただし そのような実利志向だけでは 必ずしも共生の思想にはならない。ましてや 共同自治のためにどういう思想(生活態度)が築かれているか? と問うならば お二階さんの国家運営に任せているだけです。任せているのではなくても その暴走を止める思想がない。という意味では 神をめぐる中国人の《無宗教》ぶりは 大したものではないでしょう。


 わが日本人も 一般に 無宗教です。しかも実利を求めることが同じであっても 一般にこれは ひとを押しのけてそうするのではなく 相手にゆづるということをおこないます。あるいはしかも お二階さんたちアマテラス公民に対しては 基本的に言って かれらがどうしても国家の経営をおれたちに任せてくれと言って拝み倒すものだから 根負けして くにゆづりをした。だけです。

 だから すでに主権在民の世の中になっていますが したがってお二階さんはすでにさらに大政奉還をしてもよい頃合いになっている。いまのところ 地域主権とか地方自治とかの掛け声だけですが。

 つまり 《ゆづりあい》は ただの《無宗教》だけではなく――神ははっきりしないとすれば―― 人びと互いの存在や意志のとうとびがある。これが 思想(生活態度)と成っている。二階に上がった人びとが このゆづりあいを実行しているかどうか? たぶん タテマエとしてはおこなっているはずです。それだけでも たいしたもんです。


 このような無宗教ないし《特定の宗教からのまったき自由》は 三位一体の神と親和性を持つ。こう考えます。そうではないでしょうか? (ローマ教会を初めとするクリスチアニズムなる宗教のことは この議論では論外として捉えてみてください。いづれ自己解体しましょうから)。



 ★ ですから、タイトルにあるような三位一体論は無宗教という提示ですが、それはこの意味では当然といえば当然でしょう。
 ☆ ではないのです。《当然》ではないのです。広く世界を見渡せばです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 三位一体である神のシルエットが、人類社会にも映し出されているという見方はおもしろくもありますが、いや、この場合は、人類社会を三位一体論によって読み解こうとしたと言った方が良いでしょうか、何れにせよ、何故そのような見方、読み解き方をしたのかが明らかに述べられていません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 先ほど この三位一体の神は 日本人にとってのユヅリアヒなる思想にとって 親和性があると見ましたが じつは もし敢えて言うとすれば その思想をおぎなってくれる。こう思います。

 なぜかと言えば われわれ日本人は ひとつにお二階さんへのアマアガリ指向としての《お上意識》が その生活共同にとっての自由を妨げていると見られると同時に もうひとつ言わば弱点があります。それは 欧米の思想ないし特にはクリスチアニズムに絡む哲学思想に対して よわい。同じ土俵 いや 同じリングに上がって競うにしてもおそらく日本人は 初めからゴングを鳴らさないのではないでしょうか? ゴングが鳴っても 聞こえないフリをするのが せいぜいではないでしょうか?

 だから クリスチアニズムの核心を問い求めこれを究めて 提出すること。これが いちばんの突破口になるのです。しなければならないのです。
 手足も出ないのでは なんのかんばせあって ユヅリアヒの精神を――和の精神というよりは ユヅリアヒのそれを――かかげ かつ 毎日地道に実行しているのか。

 歯が立たないと いつまで言っているのか。《翻訳・解説》は うんとすでにおこなわれています。けれど どうでしょう 少しでも消化したのでしょうか? 精神の胃袋で消化はしたとしても そのあとは床の間に飾っておくくらいではないか? ただのファッションとして過ぎて行くだけではないのか?

 ★ 何れにせよ、何故そのような見方、読み解き方をしたのかが明らかに述べられていません。
 ☆ この問いに直接は答えていませんが 背景事情の説明をしたはずです。

 なぜ趣旨説明のように読み解いたのか? それが 世界観として妥当であろうと考えたからです。

 ★ 何故三位一体論を使用したのか、その意図するところは何なのか、
 ☆ るる説明しました。

投稿日時 - 2014-02-10 10:10:01

ANo.3

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回答(5)

ANo.5

パソコンからです。図式拝見しました。
三位一体論が特定の宗教に属さないというところまでは理解したと思うのですが、それを喩えとして人と社会の成り立ちに援用する所が理解できませんでした。私には、なにか強引なこじつけのように思えてしまって。雰囲気は少し分かるのですが。
しかしながら、質問者にとっては妥当性があるようですので、また類似の質問など閲覧した時に、おいおい理解を進めたいと思いました。ご説明感謝します。

投稿日時 - 2014-02-11 02:57:18

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。《社会》観は おそらく人間論から来ると思いますので この人間観・存在論について いまの三位一体なる神についての理論がどうかかわっているか。これをつづってみます。

 すでに次の質問をしています。その趣旨説明をかかげます。

 【Q:感性は 理性よりもえらい。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7437802.html


 ☆☆ (その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 まづ 定義から入ります。
 
 序

 《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。

 ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。
 
 ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。



 1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性

 2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。

 3. 感性: 身の五感が知覚すること。

 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。

 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。

 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。

 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。
 あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。
 ここまでが 知解という作業である。

 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。

 8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。

 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。

 9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。

 9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。

 9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。

 9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。

 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。

 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。

     *

 さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。


 12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。

 13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。

 14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。

 15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。

 16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。

 17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。

 18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。

 19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち 人間という存在にあっては 記憶・知解・意志の三つの行為能力があって それぞれの能力行為は じつは 存在として変えることのできない人間の条件からして時間的な行為であらざるを得ず つねにその内容やその理解が有限にして時間的なズレをともなっている。

 マの違いを来たし いつもあやまちうる。

 ということは 人間の得ることのできる事実認識は 真実ということであって それは 相対的な主観真実なのだと知り得る。



 もし変わらざる真実として真理があるとしたら それは 神である。記憶・知解・意志にそれぞれ喩えられる《父と子と聖霊》が 一体である。時間的なへだたりがない。その現在において 過去のことも あるいは そうとすれば未来のことも 〔必要におうじてかそれ以上にか〕 分かる。

 これが 真理を知るというさとりの内容である。と言って説明することができる。
 真理を知ると・つまり真理は きみたちを自由にする。とは こういうことだと考えられる。自分についても相手についても その情況についても しっかりと知ることが出来るなら 判断をもあやまつことは少なくなる。また 互いに相手の理解が 容易になりその内容もどんどんすすむ。

 これが 共生の理論になると考えられます。どうでしょう。


 人間は 少し音の調子のはずれた三位一体なる存在である。つまり 神の似像である。
 つねにまだ明け方の薄暗さを残している。でも 似像としての光を持ち得る。

投稿日時 - 2014-02-11 09:18:25

ANo.4

ご主張のところ、部分的に分かったような気がします。
まず、ユダヤの神にこだわるユダヤ人についてどうでしょうか、ということについてですが、彼ら流浪の民にはシオニズムがあるのをご存知と思いますが、そういった背景からユダヤの神はユダヤの神でなければならなければならなかったと思います。遠い将来、もっと民族の融和が進んだ時には、国土の問題とともにユダヤ教は過去のものとなることでしょう。それこそシオンに到達した彼らの子孫と、我々の子孫が同じ国土に暮らしているのかもしれません。そうなるには、幾つもの実際的な問題を解決せねばなりませんが、例えば今あるイスラエルの諸問題を、三位一体の神の思想を唱えることで解決できるだろうか、と考えてみる。どうでしょうか。

次に譲り合いの精神についてですが、正直、三位一体と譲り合いの精神がどう絡むのか、理解ができませんでした。スマホで見ることによって図式が崩壊しているのが第一原因かと思いますが。もうちょっとゆっくり解説頂けると助かります。

投稿日時 - 2014-02-10 21:22:11

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 彼ら流浪の民にはシオニズムがあるのをご存知と思いますが、そういった背景からユダヤの神はユダヤの神でなければならなければならなかったと思います。
 ☆ ん? ユダヤ人が どんな神を――そしてこの場合は 民族に固有の神をということになりますが――いだいていても それは まづは自由です。

 問題は その神が ここでは《無宗教》であるかどうかです。そうでなければ ここでは取り上げない。こういう扱いのもとにあると思うのですが。


 ★ 遠い将来、もっと民族の融和が進んだ時には、国土の問題とともにユダヤ教は過去のものとなることでしょう。
 ☆ ん? ですから いま・このいまここで 《無宗教》であるかどうかを問題としています。将来の見通しでは 取り上げません。せいぜい 候補に挙げておくという程度の扱いになります。



 ★ 例えば今あるイスラエルの諸問題を、三位一体の神の思想を唱えることで解決できるだろうか、と考えてみる。どうでしょうか。
 ☆ やはり ん? それは ユダヤ人が このいまここに提唱している内容としての三位一体なる神を どう捉え えらぶかどうか。という問題に帰着します。それだけのことになります。

 ★ 解決できるだろうか
 ☆ できる。からこそ 提唱しています。ただし この三位一体の神を摂るかどうかは あくまで本人の意志によります。
 

 ★ それこそシオンに到達した彼らの子孫と、我々の子孫が同じ国土に暮らしているのかもしれません。そうなるには、幾つもの実際的な問題を解決せねばなりませんが
 ☆ いえ。三位一体なる神を受け容れるかどうか これは あくまで一人ひとりの人間の意志による決断だけの問題です。いますぐにでも 心に受け容れればよい。だけのことです。政治の問題も国際関係もいっさい関係しません。さまたげません。良心・信教の自由にもとづき 自分自身がえらぶかどうか ただこの一事にかかっていることです。


 さらにですね。この三位一体なる神を受け容れるのは 決して 集団や団体としてでもなければ友だちや仲間内で一緒にということでもないわけです。あくまで個人として ひとりで 決めることだと思います。



 
 そういう意味では 次の
 ★ 譲り合いの精神について
 ☆ も同じことが言えると考えます。

 すなわち 神を持ち出していても その神すなわち三位一体の神は いづれか特定の宗教とはいっさい関係ない。つまり 無宗教であるということ。そして その神のもとに人間論や社会観がみちびかれるという理論仮説を提出したということは その理論の内容と たとえば日本人のあいだに見られる生活態度とその中核を成すとおもわれるユヅリアヒの精神とは ユヅリアヒの精神は本人がすでに持っていると思われるからには けっきょく三位一体の神と どういうつり合いがとれるか。――これを 本人が考え結論づけるという意味です。

 決して不釣り合いではないはずだ。親和性があるのではないか。と提唱者は 言っています。


 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 つまり 《ゆづりあい》は ただの《無宗教》〔として実行される〕だけではなく――神ははっきりしないとすれば―― 人びと互いの存在や意志のとうとびがある。これが 思想(生活態度)と成っている。

 二階に上がった人びとが このゆづりあいを実行しているかどうか? たぶん タテマエとしてはおこなっているはずです。それだけでも たいしたもんです。


 このような無宗教ないし《特定の宗教からのまったき自由》は 三位一体の神と親和性を持つ。こう考えます。そうではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり ピッタリだという答えではなくても 《特に違和感はないみたい》といった反応でじゅうぶんだと思うわけです。


 すなわち
 ★★(回答No.3) ですから、タイトルにあるような三位一体論は無宗教という提示ですが、それはこの意味では当然といえば当然でしょう。
 ☆☆(同・お礼欄) ではないのです。《当然》ではないのです。広く世界を見渡せばです。
 ☆ となります。これが 受け容れられれば この質問の主旨は 達成されたと思います。
 
 繰り返すなら 神が無宗教として提出されることは まれです。ほとんどありません。それが 出来たなら 当面の目指すところは 達成されました。となります。

 ユヅリアヒの精神は この神のもとに溶け込むようにして 活きると思われます。無宗教であるからです。単純にそういう理屈です。(つまり ほかにも無宗教の神が 提出されれば それについてもわれわれは考えてみるということを意味します)。



 しかも このトリニティなる三位一体の神は 欧米の人びとのクリスチアニズムとしての・またはそれに絡むところの思想哲学のひとつの根幹を成しているものです。いまの理論仮説をもってすれば じゅうぶんに議論に耐えることができるはずです。もう鬼に金棒 孫悟空に如意棒です。という意味でも 三位一体の神論を持ち出すことの意味はあり それは大きい。こう考えます。

 つまり 日本人が この理論をもって話し合いをするなら 欧米人はイチコロです。というところまで考えています。

投稿日時 - 2014-02-10 22:16:14

ANo.2

「三位一体論」って、イエスが人間なのか預言者なのか、それとも神の子だったのか、神そのものなのか、いろいろ議論されて分からなかったから、後世のパウロが苦し紛れに唱えた説で、もともとキリスト教の矛盾に由来します。
イスラム教ではイエスはムハンマド(マホメット)と同じ預言者の一人にすぎないといっています。
いったいイエスは人間なのか神なのか?
人間とも神とも言えなかったから、「神と神の子と精霊」の三位一体と言ったのだ、苦し紛れに。
イスラム教ではムハンマドは預言者にすぎないから、ムハンマドを拝んだりしない。
ところがキリスト教はイエスを神のように拝む。
十字架にかけられたイエスの像を聖堂の真ん中に掲げて拝む。
拝む以上、イエスは神でなければならない。
もし、イエスがイスラム教のいうようにただの預言者だったら、拝む理由がない。
もう一度言えば、イエスをどのように位置づけたらよいか分からなくて、苦し紛れに考え出したのが「三位一体説」だということ。
イエスは十字架にかけられて死ぬ時に「神よ、神よ」と天に呼びかけているから少なくともイエス本人は神でないことは間違いない。
だからあとは、イエスが神の子か預言者かということになる。
イエスは自分を預言者でなく、ユダヤ教の預言者が救世主が現われてユダヤの人々を苦難から救ってくれるといっていて、自分をその救世主と思っていたんだから、神の子でもないことになる。
つまりイエスはユダヤの預言者が預言した「救世主」だ、自分ではそう思っていただろう。
誰もイエスが救世主とは思っていなくて、救世主を「騙る」詐欺師だ、ニセモノだといっても、本人は救世主だと思っていただろう。
だから真実は「神」でもなく、「神の子」でもなく、もちろん「精霊」でもない。
「救世主」だ。
だから「三位一体説」はイエスとは関係のない、後世の人間が作ったフィクション。
イエス本人にとっては迷惑な話。

投稿日時 - 2014-02-08 16:42:26

補足

 どこが 矛盾していますか?

 人間が神であるという命題のほかに どこが矛盾でしょうか?

投稿日時 - 2014-02-09 11:27:31

お礼

 うりがだい2013さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 世界はすすんでいます。あたらしい知見に目を向けてみられてはいかがでしょう。
 と全体としてのごあいさつをもうしあげて 個々に反応してまいります。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いったいイエスは人間なのか神なのか?
 人間とも神とも言えなかったから、「神と神の子と精霊」の三位一体と言ったのだ、苦し紛れに。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 苦し紛れでも大嘘でもよいと思っているのですが 問題は ひとつに《神》は それが何であるかについて人間は《分かるか分からないかが分からないナゾ》であると想定されると考えられること。もうひとつに これは 聖書ないしキリスト信仰に固有のことがらであって けっきょく論証し得ないドグマであると言わなければならないのですが それとして 《イエスは キリストである》という命題をめぐっての解釈です。

 すなわち 神がその定義を想定として規定したのと同じように さらにナゾを深くするかのようではありますが 

  ○ イエスは 父と母としてヨハネ〔の精子〕とマリア〔の卵子〕から生まれた人間であると同時に 神の聖霊によってマリアが身ごもり生んだ神の子でありみづからも神であるキリストである。

 という三位一体論の骨格が表わされました。

 すなわち

  ○ 子なる神キリストは 言わば――人間イエスとなって――地上に来たが 父なる神は 来ていない。

  ○ そして聖霊なる神も 地上に送られて来るが それは 《肉と成った》かたちではない。

 このようにして 神の三つの位格が――想定のあとの推理として――表わされました。

 これは 想定でありドグマですから それとしては そのままを受け留めざるを得ない。こう考えられます。

 ですから しかもそうであっても――キリスト信仰に固有のトンデモ神論であっても――問題は そこから経験思想として何が言えるか? ここにある。と言ってもよいのではないでしょうか。

 仮説からみちびき出した具体的な理論が 経験合理性にもとづき妥当であると捉えられるなら それでよい。こう成るのではありませんか?




 ★ ところがキリスト教はイエスを神のように拝む。
 ☆ これは その拝むことが事実だとすれば あきらかなマチガイです。
 イエスは 人間であるに過ぎません。たぶん その人間イエスに成った神の子キリストが そのようにして一体であることから イエスをとうとぶ。ということでしょう。キリストは 神ですから 《心で 思考を超えて そのまま受け容れる》つまり信じるということでよいわけです。



 
 ★ イエスは十字架にかけられて死ぬ時に「神よ、神よ」と天に呼びかけているから少なくともイエス本人は神でないことは間違いない。
 ☆ 繰り返しになりますが イエスは 《大食漢で大酒飲みだ》とうわさされたふつうの人間です。はりつけになる前にそのことを知って この盃を取り去って欲しいと言って 大泣きに泣いた人間です。これが 人間の貌です。

 と同時に 神の貌としては・つまりキリストとしては 初めからの父なる神との言わば計画にもとづき ユダヤ人たちに 〔貧しく弱い人びとの味方となったとしての〕称賛や〔ひょっとしてイスラエルをローマから解放してくれるかも知れないという〕期待をいだかれると共に 神の子であると名乗ったことの罪をとがめられ 十字架の上にのぼるという段取りに沿って行動した。

 カリオテの人ユダは イエスが一向にメシアと呼ばれる政治的軍事的解放者として行動を起こさないことに腹を立てすでに幻滅し その結果イエスを欺き官憲に売ることになる。という芝居をもつけ添えるかたちを ――神の貌なるキリストは―― そのままみづからが演出するかのように 実際のことと成らせた。

 このように 人間の貌と神の貌とのふたつの側面があります。つまり 《人間イエスであると同時に神キリストである》です。
 これは 想定ですから そのままを受け留め 批判は 別様に神学の全体としてやるか あるいは そこから導き出した経験思想という次元でおこなうか すればよいわけです。





 ★ だから「三位一体説」はイエスとは関係のない、後世の人間が作ったフィクション。
 ☆ 三位一体というコトバでは言っていないだけだということを 論証します。と言うより ほとんどそのままを イエスは語っているというくだりの引用です。

 ○ イエスが みづから自分はヤハヱーなる神の子であり 父の子は 子の父と一体であるとも言っているところです: 
  
 ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~~~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 

  * 16:16にペテロの言葉として《生ける神の子》があり イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えている。

 ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~~~~
 〔* サマリアの〕女が言った。
  「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
  その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

 イエスは言われた。
  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~
 イエスは言われた。
   「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、
   だれも父のもとに行くことができない。
    あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに
   なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 フィリポが
   「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」

 と言うと、イエスは言われた。
   「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない
   のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を
   お示しください』と言うのか。

   わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない
   のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな
   い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う
   のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな
   さい。

    はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、
   また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから
   である。

    わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
   父は子によって栄光をお受けになる。

    わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ
   げよう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 ○ 聖霊なる神をめぐって。

 ▼ (ヨハネによる福音書 14:16-17) ~~~~~~~~
 わたし(=イエス)は父にお願いしよう。
 父は別の弁護者(パラクレートス)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。

 この方は、真理の霊である。
 世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。
 しかし、あなたがたはこの霊を知っている。
 この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 ▼ (同 14:26) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 ▼ (同 15:26) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

 ▼ (同 16:14―15) ~~~~~~~~~~~~~~
 その方はわたしに栄光を与える。
 わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。

 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。
 だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ おおよそ これで《父と子と聖霊なる三つのペルソナの一体なる神》であることがすでに語られています。

 イエスの言葉として 自分は父と一体であり 聖霊とも一体であると語っていませんか?
 聖霊を 父とともにわたし(つまりキリスト・イエス)が送ると言っていますよ。

 ただし 神の貌キリストと 人間の貌イエスとのふたつの貌はあると言わねばならないでしょう。



 《苦し紛れ》も 役に立つことがあるようです。

投稿日時 - 2014-02-08 17:40:20

ANo.1

神は人間がいいように利用した偶像崇拝、なので考えるのは馬鹿臭い。もっと現実的な問題に目を向けるべきだ。

投稿日時 - 2014-02-08 08:08:59

お礼

 たとえば
 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
 8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。

 9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようなことは 
 ★ 現実的な問題に目を向ける
 ☆ ことを怠っていますか?



 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2014-02-08 08:24:41

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