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解決済みの質問

《まじわり》をめぐる或る対話

 お茶が入りました。

 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~
 【あ】 なぜ、人間はコミュニケーションを求めるのか、というような、そういう問い語りです。

 【い】 ちょっと変な言葉遣いをします。
 「人が言うということ」は、聞かれる者において「言われること」の背後に、忘れられて残っている。この実在的なもの――つまり、人間は決して「言いたいこと」が言えないという、この現実と気持ちとの乖離こそが、人間を言語に駆り立てる原動力になっているのではないか、という事です。これは理屈ですが。では、実践へ。

 【う】 例えば、僕たちは過去に経験したちょっと忘れられないような思い出について、出来事の細部までを生々しく覚えていて、語って再現する事ができる。けれど、その語る「こと」のなかには時として、その記憶の風景に自分自身が映りこんでいるときがある。
 そんな経験はないでしょうか。

 【え】 その場にいた自分の視覚を通じて風景は記憶されているわけだから、自分の手足や衣服の一部が映像に混入することはあっても、自分の全身像や、少なくとも自分の顔、そして目が、その映像に映り込むことはあるはずがない。けれど、記憶のなかには、時として自分のベストショットや、ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。
 そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。

 【お】 もしそこに映っているのが自分だとしたら、その自分を見ているのは、いったい誰の視線であり、その記憶はいったい誰のものだったのか。あるとき自分の記憶を思い返してみて、このような事実に気付いてしまうと、間違いないはずの自分の記憶と、その記憶によって裏付けられた自分の正当性とのあいだに、乖離感、あるいは疎外感を、感じてしまうのではないだろうか。そして、信じていた自分の正当性は、いったいどのような言葉となって語られていたのだろうか。

 【か】 このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。

 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。だからこそ、人は他者に語りかけるのではないか。だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。

 僕には、そんなふうに思われます。
 
 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 【き】 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。

  ☆ そうではなく むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。 


 (2) 【き】 だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。

  ☆ だからこそ ひとは 何も言わずにも 分かり合える他者を持つことが出来るのではないか。たぶん 一人のみであるだろう。一人持てば その余韻として 多くのひとと分かり合えるようになるだろう。


 (3) 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。
 
  ☆ わが孤独は 何かによって埋められることを待っている欠落感を知覚した。それは それが 隣人であるのだろうか。言葉は届かない。どの隣人とかかわるのだろうか。けれども 千の切なさも わたしは 飲み込んで来た。万のうれいも 精神の胃袋に消化して来た。億の悲しみに わたしは 泣いた。けれども それらすべて 埋めてきたのではないか。損ないは すべて 覆われた。


 (4) 【か】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。
 それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ☆ わたしは わたしの孤独の知覚するままに 孤独と孤独との関係において――それが 社会というものだ―― わたしの中で 自己表出が 言葉をさがし 言葉は 自己表現を求めて 文体をかたちづくる。

  打ちにこたえる鐘のひびきにて。



  【Q:すべてのひとを説得することができますか】
  No.12のやり取りから。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4942224.html
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 互いに対立しているようです。
 対立していますか?
 どのようにですか?

 孤独とは 何ですか?
 不安とは どういうことですか?

 対立していないと見たとき どのように止揚されていきますか?

 どうでしょう。
 コーヒーや紅茶もご用意できればいいのですが。・・・

投稿日時 - 2014-05-04 09:23:38

QNo.8580531

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。



昔,来日し、テレビ番組に出演したマザーテレサの意外な言葉が印象に残っています。彼女は、活動の意図を問われ「私は社会を変えようとは思っていない」と淡々と答えました。

彼女の話はだいたいこんな感じでした。

マザーテレサは、路上に餓死者があふれているインドに行ってその人たちを収容し看病する施設をつくりました。インドにいったとき彼女はポケットに小銭があるくらいで寄付によって運営される施設ですから、十分な食料も与えることもかなわず、看病の甲斐なくほとんどの人が亡くなります。無力を感じているとき、今まさに息を引き取ろうとしている人が「ありがとう」という言葉を残し、幸福な表情で亡くなりました。この社会から見放され、孤独を感じ、社会を恨んで路上で死んでいくはずだった人が、死に臨んでこのような言葉を残すことが信じられませんでした。彼女は逆にそれで自分が救われたことを感じたんです。


社会関係を切り結んでいて、孤独を実感していないはずの、マザーテレサのような人でも、人との交わりで、自分の心のうつろな部分を満たされることがある。この瀕死の路上生活者と交わろうとして、その空虚を心身ともに満たしてあげたいという思いがからまわりしているその状況から、助けたのは路上生活者、助けられたのはマザーテレサという話です。

この路上生活者は孤独だったのか。もちろんそうだけど。孤独を知り尽くした強い人だという感じがします。社会関係を切り結ぶことのできない人ではない。むしろ見事に結んだ人である。「ありがとう」と言う言葉。無力ではない。そんなふうに思います。

投稿日時 - 2014-05-09 18:07:47

お礼

 ご文章をいじってコメントを書き込むという作業は行ない得ません。


 なんだか出しゃばり過ぎるとは思うのですが いちおうすでに書いた文章ですので それを使うかたちを取ります。



 ☆☆ (趣旨説明欄)~~~~~~~~~~~~~~~~

 (1)
 ・・・ 
 むしろ言葉が届かない何かがそこにあって
 この何かを わたしが 飲み込むなら 
 それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。

 その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ
 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。

 かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。

 あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか 
 それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 



 文体相互の交響曲がひびく。

 鳴り響くように持って行きましょう。





 あともあなどすさん ありがとう。


 こんにちはでした。ご回答をありがとうございます。


 ときどきお会いしましょう。

投稿日時 - 2014-05-09 18:35:33

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回答(12)

ANo.11

にしなさんに呼ばれたわけではなくて、エクソシスムのご質問が閉じられていたのでこちらに。

昨日書きこむつもりでこちらの質問文を何気なく読んでいたら、途中の文体があまりに、、、こんな文章を書く人は、、、やっぱり、、、とリンク先の明かされるしまいまで読まされてしまいました。
なんといいますか、文学をくぐってきたインテリらしい言葉なのに、THE・文学、のぬかるみにに足を入れない、まして泥を鼻の穴になんか入れない、というあの文体は、今見ても独特な味わいがします。休める魂にお祈り申し上げます。

先日の質問の件、文化に培われた人間の心には(あるいは脳には)、意志から発揮する電気的エネルギーがことさら高くあって、その意志を体裁になるまで取り繕うとか理由付けするような表現が必要なんですね。というよりも、体裁になった表現において意志であるものが浮上するという具合でしょう。
そうすると方違え(かたたがえ)のようなことになって、表現というのはややこしい方向を取っても不思議はないのですけれども、キリスト教の持っている契約の性格は、その取り繕いや理由付けのプロセスと非常に相性がいいと思います。
つまりそういうのは、外の力を借りるということですよね。契約をもって従わせるという枠組みが、意志のコントロールに利用できるならばそれで精神医療の助けになります。条件付けされているオペラント行動を牽引してくれるなら、悪魔祓いは認知療法として成功するわけです。
しかし逆に言えば、強度の契約をもってあらゆる契約を破壊するというような計算高い枠組みに意志がくみすると、薬をいろいろ試しても効かないというまずい事態を引き起こすのです。そして薬でいじりすぎて症状がこじれるうえ、さらなる方違えの表現形式に拍車がかかって、精神医療もお手上げという状況を招きます。
また、ややこしい形式を必要としている場合の意志と行動は強迫性なので、意志する力が余計に高い。そうなると表現も強化されてしまいますね。
精神医療というのは意志がないとはじまらないようなもので、生きるという意志だけでいいのですが、その意志の由来ということからみるとこれは非常に文化的なものなのだと思います。精神医療はさほどグローバルスタンダードに機能するものではないし、ある時点から先で効を奏するものなんでしょうね。

それで、意志ということで今回のこちらのご質問を考えると、触れ得ぬものがありそして言葉があるのか、言葉が組まれるから初めて内側に届かない場所ができるのか、言語活動的な意味ではなく情動的な意味でまずそのあたりは気になります。

としたうえで、リロンさんが「言葉が届かない」と言うのはたぶん「言葉を発せず、言葉を持たぬ」自己のうちの領分のことで、内なる自己に言葉が届かないという意味なのではないかなと思うのですが、それをそのまま抱いて他者へ語り、そこから言葉の地平が軽やかに生成するという、フーコーデリダドゥルーズフランス現代思想的な匂いが。

ですから、自分とは何か、自分というのは不確実だしひょっとすると無いのではないか、という絵柄がそこにあって、リロンさんの場合わりと簡素な話ではないかと思います。
それをわたしは孤独とは呼ばないしむしろ気楽なことだと思うのですが、bragelonneさんでもこの段階のことがらを孤独とは呼ばないのではないでしょうか。

まさに他者へ語りかける言葉がない、という事態が人間に訪れるとき、その表層的な行為をこそ奪われている状態が、孤独なのではないでしょうか。

そして話を戻しますと、意志が、文化の言葉の前にあるのかどうかは本当によくわからないことで、それだからこそ比較文化学から共通の前提であるような因子を探りだすユング派の試みもあるわけですが、わたしが思うに、他者へ語るということ、他者に見られるということの要請のうえに、意志は手段を求めることから始まるのではないでしょうか。それはどんな表現に結晶するか知れず、手段であるがために踏み外したり避けたりする言葉にもなるのです。
そういう意味で、

> むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく

というのは、よくわかります。

投稿日時 - 2014-05-07 01:52:59

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ にしなさんに呼ばれたわけではなくて、
 ☆ あぁ あれは にしな氏でしたか。特定できていなかったなぁ。

 ★ エクソシスムのご質問が閉じられていたのでこちらに。
 ☆ 何だか 机が部屋の中を飛ぶ話になっても・・・と思って 切り上げました。そして こちらへと 孤独や不安
なる心について つなぎました。


 ★ 休める魂にお祈り申し上げます。
 ☆ その文体は シガラミが妙にきれいに取り除かれているようにも感じます。





 ★ というよりも、体裁になった表現において意志であるものが浮上するという具合でしょう。
 ☆ これだと アマアガリの――それこそアマアガリ・シンドロームに罹った状態における――ゆがみかけた姿に見えてしまいます。アマテラス科学語も人格語も その普遍性が方言となってしまっています。

 一気に述べてしまうならば あちらでは やはりアマアガリを必ずしも果たしておらず そのシンドロームに罹って宙ぶらりんに成りがちなのではないか。

 こちらでは スサノヲ市民社会の中にあっても お二階さんに寄って行くかたちでのアマテラス予備軍症候群に罹る割り合いが 多いのではないか。
 ――こういった分析であります。診断は ありませんが 処方箋は 話をせよ。話し合いを持て。相手の言うことを聞くまでにはまだならないとしても 自分の言いたいことを とにかくしゃべれ。です。

 (これは エクソシストもやっている(やらせている)ことかも知れません)。





 ★ そうすると方違え(かたたがえ)のようなことになって、表現というのはややこしい方向を取っても不思議はないのですけれども、キリスト教の持っている契約の性格は、その取り繕いや理由付けのプロセスと非常に相性がいいと思います。
 ☆ これについては わたしに持論があります。

 エレミヤ書31:31以降つまりまたへブル書8章を見落としてはならない これです。
 すでにイエス・キリストが登場したと見るからには 罪はすでに問われないと成り 神について知らせることはなくなり オシエは要らないと成った。これです。

 神は神みづからがみづからをそのように揚棄しました。ローマ教会を初めとして クリスチアニティの有り様は アナクロニズムも はなはだしいと言わねばなりません。そうではないでしょうか。
 



 何だかきょうは こういった自由勝手な筆がすらすらと動きます。ひょっとすると 憑いているのでしょうか?




 ★ つまりそういうのは、外の力を借りるということですよね。契約をもって従わせるという枠組みが、意志のコントロールに利用できるならばそれで精神医療の助けになります。条件付けされているオペラント行動を牽引してくれるなら、悪魔祓いは認知療法として成功するわけです。
 ☆ ですから これについても ナラワシ・シキタリなどのコンベンションに従って 反措定に対する反措定としての治療の効果を上げる場合と そしてすでに慣習それ自体を止揚する切り口から挑む場合もあり得ると考えます。

 個人の信仰のオシエ化そして組織集団化といった宗教衝動は これが とことん・根本的にマチガイとしてのアマアガリ現象である。こうはっきりさせたほうがよい。これです。



 つまり 次を読んで 意を得たり。
 ★ しかし逆に言えば、強度の契約をもってあらゆる契約を破壊するというような計算高い枠組みに意志がくみすると、薬をいろいろ試しても効かないというまずい事態を引き起こすのです。そして薬でいじりすぎて症状がこじれるうえ、さらなる方違えの表現形式に拍車がかかって、精神医療もお手上げという状況を招きます。
 ☆ これこそ 現在の土壌の問題です。おそらく宗教組織内部だけのではなく 社会一般の土壌なのでしょう。

 契約の時代は終わったということを理解するようになれば 一発で不安は解消しませんか? 









 ★ としたうえで、リロンさんが「言葉が届かない」と言うのはたぶん「言葉を発せず、言葉を持たぬ」自己のうちの領分のことで、内なる自己に言葉が届かないという意味なのではないかなと思うのですが、それをそのまま抱いて他者へ語り、そこから言葉の地平が軽やかに生成するという、フーコーデリダドゥルーズフランス現代思想的な匂いが。
 ☆ このあいだも デリダはまるで読んでいなかったので ふと図書館でそれに手を伸ばして借りて来てしまいました。『たった一つの、私のものではない言葉――他者の単一言語使用( Le monolinguisme de l'autre ou la prothèse d'origine )』。やはり ちんぷんかんぷんでした。歯が立たない。(と表現しつつ もうそんな表現しか出来ないなんてとバカにしています)。

 ということで 理解が行き届かないのを棚に上げて いまの応答としては 分かりません です。


 というのも おもに自分の過去における意志行為にかかわって傷を受けたというような事例(心の状態)ではなく 出生の秘密といった・自己の意志の及ばないところから自分の心にやって来た傷のようなものが 問題になっているのではないか。それが その言葉が届かない何か なのではないか。――ここは そういうふうに読んだのですが どうでしょう。


 あぁ そういうふうな意味合いで 次のくだりを読むと わたしには分かりやすいのですが:
 ★ ですから、自分とは何か、自分というのは不確実だしひょっとすると無いのではないか、という絵柄がそこにあって、リロンさんの場合わりと簡素な話ではないかと思います。




 次は むむ!? ですね。
 ★ それをわたしは孤独とは呼ばないしむしろ気楽なことだと思うのですが、bragelonneさんでもこの段階のことがらを孤独とは呼ばないのではないでしょうか。
 ☆ 《一人ぽっち》の座に置かれているという意味では 孤独と呼んでもいいような気がします。

 傷は軽いというような意味では この場合は 微妙ですね。傷は軽いとも深いとも よそから見ては 分からないですね。

 《気楽なこと》というよりは やはり気になることでしょうね。

 

 ★ まさに他者へ語りかける言葉がない、という事態が人間に訪れるとき、その表層的な行為をこそ奪われている状態が、孤独なのではないでしょうか。
 ☆ んん? あぁ そういう場合というのは 語りかける言葉がないわけですから こちらは 情けない気持ちになりますね。ですから 何とも非力で情けないと思うその心の状態は 自分もその相手も 互いに孤独な状態にあると見るでしょうね。



 ただし・ただし いま俎上に上げている小論文にあっては 《その言葉の届かない何かについて そのような何かがあり得るということを他者が認めてくれたなら その認めの言葉を受けて 自分がその他者に語りかけた――としたなら 癒される》とは言っていると思います。いちおう 孤独も解き放たれたと。そうだと思うのです。


 いやいやいや 次の命題は まさに見解が一致したとわたしには思えるのですが その背景は違っていましょうか?
 ★ わたしが思うに、他者へ語るということ、他者に見られるということの要請のうえに、意志は手段を求めることから〔* ――生きるということについて――〕始まるのではないでしょうか。


 そこから 《文体相互の交響曲がひびく》ようになるか?


 わたしの場合は 《言葉の届かない何かを 他者がその発言において認めたということ そしてそれに呼応して本人がその他者に声をかけるようになるということ》にかんして むしろその《何かを わたしが――つまり 本人が そしてそれを認めた他者ならその他者が――心に飲み込む》といった分かりにくい表現をしています。まぁ 《引き受ける》といった意味であり 行為なのですが。


 つまり要するに きみよ もっとしゃべれ 話し合いの席に坐ろうということに帰着するのですが。
 これは エクソシストも おこなっていることかも分かりません。


 ううーん。噛みあい方が 微妙でしたね。

投稿日時 - 2014-05-07 06:59:09

ANo.10

8149123 でした

投稿日時 - 2014-05-07 00:12:33

お礼

 あぁ すみません。

 ★ 8149123
 ☆ これは プロフィールから見つけることが出来たのですが

 ★ (回答No.9) 8は ヒンドゥーの坊さん て記事へのリンクでしたが。
 ☆ と つながらなくて お聞きしました。



 ありがとうございました。 

投稿日時 - 2014-05-07 00:21:07

意外とペトロスキーさん若くて太いですね
自分はQNo819123で知りました
8は ヒンドゥーの坊さん て記事へのリンクでしたが。
孤独の幸福(胎児世界)→関係性の幸福(幼年自他)→孤独の幸福(青年自己)→関係性の幸福(壮年他者)→孤独の幸福(老年世界)?
何を尊いと見做すかの変遷

芸術言語論は自己表出(自-自)と指示表出(自-他)を区別し自己表出の方を高価という

投稿日時 - 2014-05-06 23:09:28

補足

 余計なひとことです。


 ペトロスキーさんについて わたしはこころよく思っていないということを おことわりします。

 《話し合いが出来ないなら 人間ではない》に相当すると見るゆえです。

投稿日時 - 2014-05-08 08:59:02

お礼

 すみません。
 ★ QNo819123
 ☆ が分かりません。


 ご回答をありがとうございます。

 ★ 芸術言語論は自己表出(自-自)と指示表出(自-他)を区別し自己表出の方を高価という
 ☆ そうなんですか。そういう場合には 《自己表出(自‐自)》には 意思表示があるのかなとは思ったりしますが なにぶん遠くはるかな昔の世界のようで 分からなくなっています。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 孤独の幸福(胎児世界)→関係性の幸福(幼年自他)→孤独の幸福(青年自己)→関係性の幸福(壮年他者)→孤独の幸福(老年世界)?
 何を尊いと見做すかの変遷
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですかねぇ。

 つまり 別仕立ての質問を挙げていますが その視点としては 《孤独》――としてのおのが《固有のとき》――は すでにわれがわれであるという存在であるので それ自体に《関係性》はそなわっている。というふうには 見ようとしています。

 いわば 独立主観=関係性 といったわれなる存在を想定するかたちです。さらに練っていく必要があるかも分かりませんが。

投稿日時 - 2014-05-06 23:57:43

ANo4

http://m.ameba.jp/m/blogArticle.do?unm=texas-no-kumagusu&articleId=11550746862&frm_src=article_articleList&themeFlg=1&guid=ON
生きてた猪突先生

自己表出って吉本隆明の造語ですか

投稿日時 - 2014-05-06 21:40:31

補足

 ○ ヰキぺ:山越富夫

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B6%8A%E5%AF%8C%E5%A4%AB

投稿日時 - 2014-05-06 22:44:14

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 生きてた猪突先生
 ☆ おっとどっこいおぢさんですね。

 ○ 【Q:東海道新幹線 23年ぶり・・・】 ~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8492695.html

  ANo.4 cyototu

  よっ、でえく。覚えているかい。cyototuだ。生きていたぞ。

  その後日本に頻繁に訪れるようになったらどういう訳かわしゃgoo卒業しちゃって、いや、退学しちゃって、gooも昔話になっちゃった。

  もうgooは退学しちまったから、でえくのとこ以外書き込む気がないが、

  投稿日時 - 2014-02-28 16:18:30
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ texas-no-kumagusuのブログ
  http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/





 ★ 自己表出って吉本隆明の造語ですか
 ☆ 《表出》という用語をわたしがおぼえたのは 吉本の著書からでした。

 とにかく心の内から口をとおして何かを出すという行為を言うものと思います。

 ああ とか おお とかいう場合でも 叫び声なら何らかの意味があります。言いかえるとそのように きちんとした文にはなっていなくても――なっているなら 表現と言うらしい―― 言葉と見なされその限りで意味をともなう声を出す行為です。

 表出や表現に 自己という語もついていたかどうかは もう覚えていません。

 そして 初めて出会ったことに違いはありませんが 吉本より前に使った人はいるであろうと推測されますから 特別に吉本つながりであるとは認識していません。

 けれども そういえば これは 言語芸術論の範疇に入りますので 考え方が違っていても これもおそわったものの部類には入ると言わねばならないかも知れません。

 言語芸術論として思い浮かぶのは 『言語にとって美とは何か』です。
 
 名詞や動詞は 話し手の意志表示とはほとんど関係しないけれど 助動詞や終助詞は そうではない。つまり 意志内容に色濃くかかわっている。品詞の分類のうえで そういった区別がある。などといったことも 思い出すひとつの論点です。

 影響を受けていないと言い放っておくのは まづいと思って触れました。


 こんなところでしょうか。

投稿日時 - 2014-05-06 22:31:33

ANo.7

[1]心はどこにあるのか。

 心は脳の中にあるとふつう考えられていると思います。しかし、脳をいくら調べても心は見つからないでしょう。
 心は超物理的空間にあると考えざるをえません。そうなると、物理空間の外にあるのか内にあるのかという判断に決着をつけることは無意味なことになります。
 しかし、そうであっても脳の中の超物理空間に心があるとふつうは考えるでしょう。いや考えていないから中にあるとするのだと思います。これまでなれ親しんだ「心は中にある」という既成概念、偏見を覆すことは誰にも難しいことなんでしょう。
 そこで、断定すべきではないと言った、心の2つのモデルを提示したいと思います。

(1)心は中にある。
 たくさんのゴム風船があります。外側を白く、内側を黒く塗ってあります。個人の心はこの中にあります。根源的な孤独というのは、外部の領域と内部の領域が閉ざされているこの状態を言います。各人の心は個別空間にあるのです。
 内部領域は主観領域、外部領域は客観利用域、物理的世界です。我々は個と個の断絶を直感します。外部領域を媒介として他者に交わろうとするほかありません。他者に届いてくれと震わせます。黒い内面を震わせることで、白い面を震わせ、その振動は外部領域をとおして振動が伝わります。これが自己表現です。
 その振動はすべての風船に届くでしょう。近くの風船には強い振動として、遠くの風船には弱い振動として。しかし強い振動をうけた風船が必ずしもそれに反応するとは限りません。
 これで社会的な孤独ということが生じることがわかります。周りの風船がこぞって、その振動に無反応であれば、発信者は孤独を感じることになるでしょう。

(2)心は外にある。
 すべてのゴム風船を裏返します。黒い面が外になります。白い面は内側で、このとき客観世界(物理的空間)が、個別空間となります。
 このモデルは、物理空間が個別でありながら、客観世界となるのは説明が困難になります。一方、長所は、心がもともと神秘的領域に開かれているとみなされるところです。(1)にあっては、個人の心の内に閉じた無数の神秘領域(擬人的多神論)あるいは物理領域のなかの神秘領域(汎神論)を考えざるをえません。
 個は、風船のまわりをぼんやりと包んでいるものであり、神秘的領域のものです。ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。死(個の消滅)とは、神秘的領域に同一化するということです。このモデルでは、自己も他者も等しく尊重すべき存在であることが理屈としてわかりやすいと思います。

 さらに、(2)のモデルでは、根源的な孤独がやや解消されていると思われます。無理にとざされた個の窓をを開くというイメージをもつ必要はないのです。もちろん、ぶらんじゅろんぬさんが、窓を開けるというような表現をされることを嫌って言っているわけではありません。この両モデルでは、個の窓を開けるということ=有限をたらしめる境界が消失する=個の消失につながるようにイメージされるということです。
 風船表面のある領域で内部の物理領域と相互作用するなり、ぼんやり包む個のある部分領域を窓とみたてて外部の神秘領域と行き交うと言うことは可能です。

 ぼくは孤独ながら平穏でいられるのは、(2)のモデルのようなイメージをもったからかなと思ったりします。ほくにとってはどちらかというと孤独は好ましいものなんです。自分の中の対話を楽しむというか。

 少し触れましたが、いずれにしても社会的孤独は生じるでしょう。根源的か社会的かを問わず、とにかく「孤独というものはあるものだ」→「で、どうするのだ」→「語るのだ」+「語り方が問題なのだ」と思います。内で語るにしても外で語るにしても。

 エクソシストは映画館で見たのでイメージはありますが、あまがっぱさんのリンク先などの現実のこと。とてもぼくの手に終える問題ではありません。現実に苦しんでいる人を救うというのは大変なことだと思います。ぼくができるかなと思うのは、ちょっとちがった視点を提示するくらいかなと。最後はしょってしまいました。では、このへんで。

投稿日時 - 2014-05-05 23:15:29

補足

 おぎないです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 (2) 心は外にある。
 
 ・・・
 (あ) 個は、風船のまわりをぼんやりと包んでいるものであり、神秘的領域のものです。
 
 (い) ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。

 (う) 死(個の消滅)とは、神秘的領域に同一化するということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここの特に(う)ですが 端的に申すなら:

 (え) 《個》が――孤独なる存在として――《神秘的領域に同一化する》のは じつは 個の消滅という死に際してというよりは すでに生まれたときから いま・ここで・つねに あたかも神と同一化している。ことであるかも知れない。

 (お) つまりは もし想定がすでにあたかも常識のようになっているとしたなら 一切衆生 悉有仏性というごとく 神の霊はすでにひとに――どの人にも―― やどっている。

 (か) つまりは (い)です:
 ★ (い) ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。

 (き) 《包まれている》と《同一化している》との違いは おそらく潜在性としてのチカラを自覚するかどうかなのではないでしょうか?

 (く) 自覚するかどうかを別として ひとは すでにその自然本性において 神なるナゾ――神秘――のもとにある小宇宙である。

 (け) その神の霊は アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)とも呼ばれる。プネウマともルーアハとも呼ばれる。無神論の場合には その神の霊じたいが アン‐アートマン(無我)と呼ばれる。

 (こ) 神は神秘でありナゾであるから 雲をつかむような話として《霊》と呼ばれ その名前はいろいろ違っても 同じく神であり霊である。これを《無い神》として捉えることも 自由であり じつはその中身は同じである。

 (さ) ひとが孤独であるというのは この神の霊をやどした存在としてあることを言っている。つまり 霊は人間には分からないのだから 人間の目から見て ひとりぽっちであり この《一人ぽっち》であることにおいてこそ 孤独であり アートマンのチカラが 電磁場のごとくにはたらいている。のかも知れない。

 (し) この孤独からのがれようとするのは 人間の目から見て一人ぼっちな除け者にならないためのウゴキなのである。



 どうでしょうかねぇ。

投稿日時 - 2014-05-08 08:56:41

お礼

 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~
 (2) 心は外にある。

 ・・・個は、風船のまわりをぼんやりと包んでいるものであり、神秘的領域のものです。ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 《関係性 あるいは 共生性》と捉えては だめですか?


 お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 昨夜は けっこう寒い感じで 早く寝てしまいました。


 ううーん。やっちゃってくれちゃってしまった感があります。

 つまりわたしの言葉に直せば

  ○ 孤独からの帰還か 孤独への還帰か?

 孤独地獄から生還するというよりは ひとは 孤独に立ち帰っておのが存在たれ! といった命題であるように受け取りました。


 これは 別仕立てで設問したいところですね。



 

 見方を変えた視点に立ったまま 読んでまいりますが 先ほどの
 ★ それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。
 ☆ というところは わたしは 《関係性》として捉えてみるかと思います。

 すなわち:

 ○ 孤独とは ~~~~~~~~~~~~

 1. 孤独とは 他者とのあいだで ひとが孤独であることが切り結びすることである。

 2. 孤独どうしであり 孤独関係である。

 3. 孤独関係なるわれに立つとき――あともなどすさん式に捉えれば―― おのが孤独なる固有の存在に立ち戻り 遍在する神のもとにある。

 4. 神とは 自由のことである。

 5. ★ いずれにしても社会的孤独は生じるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 復唱して確認する手続きがなかなかむつかしくて――そのままを引用することになるかと思われたので―― いきなり反応を述べるかたちになりました。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (2) 心は外にある。

 ・・・このモデルでは、自己も他者も等しく尊重すべき存在であることが理屈としてわかりやすいと思います。

 さらに、(2)のモデルでは、根源的な孤独がやや解消されていると思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この二点が 究極の目指すところであり 問い求めるところだと思います。

 あるいは 目指すことは分かっていて なぜそうなのかを説明する主題だと思われます。



 最近の質問で 次を引用したことがあります。
 ▲ (ヘーゲル講義:有限と無限) ~~~~~~~~~~~
 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》ないし《非思考の庭》)の高さである。
 (『法の哲学』§35 追加(=講義筆記録))
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ つまり こういうことであるかと考えます。
 ★ 根源的な孤独がやや解消されている
 ☆ というのは 《遍在する自由のもとにあるが――おのが孤独なる固有の存在として どうしようもなく自由のもとにあるが―― それでも広く大きい現実では いずれにしても社会的孤独は生じるでしょうという事態をも引き受けている》という意味ではないかと。
 ★ 周りの風船がこぞって、その(* おのれの風船の内なる心の)振動に無反応であれば、発信者は孤独を感じることになるでしょう。
 ☆ 風船の外にある心の場合にも 《無反応・無関心・あるいは不条理》には かなりきつい辛さを味わうかも知れません。



 ここにおいて
 ★☆ 自己も他者も等しく尊重すべき存在であることが理屈としてわかりやすいと思います。
 ☆ それは ひとつの見方として ひとは互いに《孤独関係》としてあると捉えられるからです。
 
 われは 孤独であり かれは 孤独ではないといった見方ではなく われも孤独関係であり なんぢも孤独関係であり かれも同じく孤独関係であると。

 これが 
 ★ 〔人間は〕ただ個という形を持って、それ故有限な存在として異なるのみの、本質は、神とよばれる無限の一者に包まれた神秘です。死(個の消滅)とは、神秘的領域に同一化するということです。
 ☆ というふうに説明を展開されているところです。





 そうしてすなわち 実践編としては
 ★ 根源的か社会的かを問わず、とにかく「孤独というものはあるものだ」→「で、どうするのだ」→「語るのだ」+「語り方が問題なのだ」と思います。内で語るにしても外で語るにしても。
 ☆ となるのではないか。

 悪霊が憑いたというのなら いっぺんすべてを自己から何とか言葉で表出させるとよいのかも分かりません。
 その人が暴れるのを覚悟で 話の聞き役をつとめるひとなら エクソシストでなくてもよいかも分かりません。


 あともなどすさん おつき合いをありがとうございました。ここからスピンアウトする設問はおこなうかも分かりません。




 次のくだりくらいは 再掲しておきたいと思います。
 ★  (1)〔心は中にある なるモデル〕にあっては、個人の心の内に閉じた無数の神秘領域(擬人的多神論)あるいは物理領域のなかの神秘領域(汎神論)を考えざるをえません。
 ☆ この内と外とを裏返す いや 表返す(?)とよい。のかも知れません。

投稿日時 - 2014-05-06 09:50:14

ANo.6

連投で失礼いたします。お久しぶりです。

 ★ 星の王子様「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない。」
 ☆ このように《目に見えない》やあるいは《言葉では言い表わせない》というセリフは ひとつ間違うと 詭弁家の常習手段に成り得ます。

そうなんですか。

 ★ 言葉は届き得ないものとして言い残している方が良いのかも知れないよね?
 ☆ ということは 必要最小限の内容については すでに伝えている。ということのようですね。ジャブにもなんなかったかぁ。

なるほど。孤独や不安について述べてないのは、難しかったからです。降参です。

 ★ たぶん「愛しているよ」は言わなくても良いよね、星の王子様?
 ☆ こう言ってもらったということは:

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 (2)対立していないと見たとき

  望ましいコミュニケーションは、それらが両立する。
  〔すなわち〕
  「愛しているよ」で始まるという主張と、「ありがたい」で終わるという主張。が両立する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ になるんですかねぇ。

「愛しているよ」を、言葉そのものでなく、気持ちと解釈すれば良いと思います。


 ★☆ 「愛しているよ」は〔言っても〕言わなくても良いよね、星の王子様?
 ☆ だと見てよいんでしょうか。《計算する》とよくないんでしょうか。

古風な日本人には、気持ちがあっても、なかなか言える言葉じゃないので、言わなくともよいことにしてくださいという気持ちで。〔言っても〕言わなくても良いことに。〔言っても〕言わなくても、うまくいかないことはありますが。


> 考えてみれば 《「愛しているよ」と語りかけて行く》場合も 《「愛しているよ」は言わずに話しかけて行く》場合も 意外と 相手に こちらは和平の使者であることを分かって欲しいという願いを突きつけているかも分かりませんねぇ。考えてみれば。

我、和平の使者たらんという気持ちが、それをわかって欲しいという願いになり、それを突きつけるとなるのはまずいですね。だから、和平の使者たらんという気持ちは、できる限り隠しておく。ぼくはこれでよく失敗しました。「おまえは正義の味方か」とか、「いってることは正論だ。しかし云々」とか「何様のつもりだ」とか。どうも上から目線になるようなんですね。結局、怪物にみなされてしまう(笑)。(いやいっそ極論の怪物として振舞うほうがよいのか?)


> ということは あ_ほなさん流に考えれば やはり向かい合ったときの感得ということにかなりの割り合いで 話し合いの成否は依存しているのかも分かりません。

 それか あるいは ひとが孤独から窓を開けているか 不安から いつものわれに戻って来ているかに 対話の行方はかかっている。のかも分かりません。


どう返したものかよくわかりませんが、まず互いに尊重し合う気持ちで、話し合いに臨むことが、大切だと思いますね。月並みですが。


孤独について、少し考えてみます。

投稿日時 - 2014-05-05 16:53:29

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
   ☆ ・・・詭弁家の常習手段に成り得ます。

 そうなんですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いま ゴータマ氏に対する批判をつらねて来ていました。そこでは 《さとり》とは何か? とこちらが聞くと きまって《唯仏与仏 つまり ブッダにならなければ一般の人には分からないんだよ。言葉では言い表わせないからね》という答えに行きつきます。ぢゃあ てまえは分かってんのか? という問題になります。がらのわるい言い方ですみません。




 ★ なるほど。孤独や不安について述べてないのは、難しかったからです。降参です。
 ☆ ええっ? そんな。
 ★★ 言葉は届き得ないものとして言い残している方が良いのかも知れないよね?
 ☆ 《言い残している》ということで 納得でした。



 ★ 「愛しているよ」を、言葉そのものでなく、気持ちと解釈すれば良いと思います。
 ☆ なるほど。《感得》ですけれど 先に手が打ってあるんですね。



 ★ 古風な日本人には、気持ちがあっても、なかなか言える言葉じゃないので、言わなくともよいことにしてくださいという気持ちで。〔言っても〕言わなくても良いことに。〔言っても〕言わなくても、うまくいかないことはありますが。
 ☆ 《古風な日本人》というのは 実際問題のもんだいですね。

 そして 気持ちも大事ですね。これは かなり伝わりますから。いわゆるクウキが一般に伝わるくらいですから。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 我、和平の使者たらんという気持ちが、それをわかって欲しいという願いになり、それを突きつけるとなるのはまずいですね。だから、和平の使者たらんという気持ちは、できる限り隠しておく。ぼくはこれでよく失敗しました。「おまえは正義の味方か」とか、「いってることは正論だ。しかし云々」とか「何様のつもりだ」とか。どうも上から目線になるようなんですね。結局、怪物にみなされてしまう(笑)。(いやいっそ極論の怪物として振舞うほうがよいのか?)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはこれは。笑ってよいのか分かりませんが ちょっと笑いが漏れます。ほほえましい。

 だとすると 《気持ち》もそれが過剰になると――過剰であると感じられると―― 困る。むつかしいですね。こちらも問題があるのでしょうし 相手の問題もあるのでしょう。

 ううーん。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 どう返したものかよくわかりませんが、まず互いに尊重し合う気持ちで、話し合いに臨むことが、大切だと思いますね。月並みですが。


 孤独について、少し考えてみます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 承知しました。
 
 この《孤独・不安》については カトリック教会のエクソシストにかんする質問をもうけたとき そのような悪魔祓いをももとめている人びとが 若い人たちのあいだにもけっこう増えているという事態を聞いて 持ち上がった問題です。

 精神医学は信用できないと言うことなのか じっさいそういう専任のエクソシストに掛かりたいという《不安なる人びと》なのだそうです。

 【Q:ワチカンや教会に いまもエクソシストがいる?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8576111.html

 現代人は たいへんですね。

 
 

投稿日時 - 2014-05-05 17:52:00

ANo.5

こんにちは。bragelonneさん。

☆ 互いに対立しているようです。
 対立していますか?
 どのようにですか?

 孤独とは 何ですか?
 不安とは どういうことですか?

 対立していないと見たとき どのように止揚されていきますか?


(1)対立していると見たとき
望ましいコミュニケーションの、始まりと終わりという対立。
「愛しているよ」で始まるという主張と、「ありがたい」で終わるという主張。

(2)対立していないと見たとき
望ましいコミュニケーションは、それらが両立する。



星の王子様「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない。」
たぶん「愛しているよ」は言わなくても良いよね、星の王子様?
言葉は届き得ないものとして言い残している方が良いのかも知れないよね?
(第三者話法と問い語りの手法にて)

お二人に感謝の意をこめて。ごちそうさまでした。

投稿日時 - 2014-05-05 13:15:55

お礼

 ふうーむ。強力な怪物(? 失礼)が現われました。

 あともなどすさん おひさしぶりです。このところ ほかの質問へのご投稿を拝見していました。
 ご回答をありがとうございます。




 ★ 星の王子様「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばん大切なことは、目に見えない。」
 ☆ このように《目に見えない》やあるいは《言葉では言い表わせない》というセリフは ひとつ間違うと 詭弁家の常習手段に成り得ます。

 とトッタリでとジャブで応酬して話を始めるとしますと:

 つまり
 ★ 言葉は届き得ないものとして言い残している方が良いのかも知れないよね?
 ☆ ということは 必要最小限の内容については すでに伝えている。ということのようですね。ジャブにもなんなかったかぁ。



 あぁ えぇ。
 ★ お二人に感謝の意をこめて。ごちそうさまでした。
 ☆ どういたしまして。お粗末でした。――こういうおこたえをいただけるのは いちばんうれしいですね。り_ろん氏にも 乾杯! と言っておきましょう。





 ★ たぶん「愛しているよ」は言わなくても良いよね、星の王子様?
 ☆ こう言ってもらったということは:

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 (2)対立していないと見たとき

  望ましいコミュニケーションは、それらが両立する。
  〔すなわち〕
  「愛しているよ」で始まるという主張と、「ありがたい」で終わるという主張。が両立する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ になるんですかねぇ。

 ★☆ 「愛しているよ」は〔言っても〕言わなくても良いよね、星の王子様?
 ☆ だと見てよいんでしょうか。《計算する》とよくないんでしょうか。



 考えてみれば 《「愛しているよ」と語りかけて行く》場合も 《「愛しているよ」は言わずに話しかけて行く》場合も 意外と 相手に こちらは和平の使者であることを分かって欲しいという願いを突きつけているかも分かりませんねぇ。考えてみれば。


 むつかしいなぁ。



 ということは あ_ほなさん流に考えれば やはり向かい合ったときの感得ということにかなりの割り合いで 話し合いの成否は依存しているのかも分かりません。

 それか あるいは ひとが孤独から窓を開けているか 不安から いつものわれに戻って来ているかに 対話の行方はかかっている。のかも分かりません。


 ううーん。この路線でバスをすすめると どこへ行くか分からなくなるようなので ここらへんでわたしは退散です。


 どなたか続けていかれるのは どうぞご自由にです。あるいは いまの路線について書きこんだ内容に不服のある方は やはりどうぞ。ということで。

 あともなどすさん ダンケ・シェーン。




 

投稿日時 - 2014-05-05 14:11:56

対立点は…愛しい生きている人に告白しつづけるべきか否か?の違い

共通点は…・吉本隆明の芸術言語論?と
・老人(吉本)や故人(教父やリロン氏?)の思惟を扱う点

孤独は…親密さへの憧れまたは諦め

不安は…適応力の欠如。自己や状況をコントロールする自信の欠如。和解を傷害しにかかるものに対する非力さからくる感情

質問者の唯一無言の対というのは教父?

自-自、自-他、他-他、自-世界、他-世界、世界-世界の和解レベルが同時に絶えず変化して適応が探られ保たれてる

人のコミュニケーション衝動が強いのは力弱い子供時代や老後が長いせいかも

投稿日時 - 2014-05-05 00:54:21

お礼

 あぁ すでにのなめさんになってしまっていますが どなたかご回答をありがとうございます。

 質問者についてよくご存じの方であるように思います。



 わたしは逝ってしまったひとについて いたむことはしない考えでいますが この質問は そういう意味合いが出て来ていますね。ちょっとあちらへ ご機嫌伺いのメールを打ったような。

 ほかのみなさんに分かるように説明すれば そのひとが りろん氏です。対話の相手方です。

 教父というのは わたしがいつも請け売りをしているアウグスティヌスのことです。


 ちなみに 吉本も故人ですよ。そして その《芸術言語論》は――そして後期の何て言いましたか 大衆マス論とかイメージ論とか(読んでいませんので間違っているかも)などとともに―― 知りませんし 初期のもので読んだ範囲では 賛同してもいません。

 吉本にかんしては かれが親鸞について 《非知》という言葉を使っていたことを知っていて 考えをつづけていたところ 《非経験の場》や《非思考の庭》にわたしがたどりついた。という事情があります。ただし 議論の中身は違っています。

 あるいは 《スサノヲ市民社会(主権) ‐アマテラス公民圏(公僕)》なる二階建て構造が あたまで逆立ちしている逆立連関制だとわたしがいうのは 吉本が 《外から入って来て 為政者の地位に上った者は その土地の神話をむしろ自分のものとして掲げる》と言った議論に触発されているとことわっておきます。

 これらはまだ例示ですので こまかいところは ほかにもあります。けれども
 昔話は このあたりでとめまして。




 




 そうですね。主題を大きく広く取って論じておられます。割りあい短いご文章ですが ふところの深いところ
を垣間見せていて ちょっと気軽に取り扱うと足元をすくわれてしまうように感じます。


 ですが いづれにしましても むしろいつものように第一次の反応を持ったところから言葉をつづってまいります。


 ★ 質問者の唯一無言の対というのは教父?
 ☆ これは はっきりしています。いろんな意味で触発され知恵をも――その文体として――無料でもらっているところがありますが ヒラメキのみなもとは ちがうわけです。インスピレーションは そのみなもとは ナゾです。

 つまり やはりはっきりしていることとして アウグスティヌス自身も おそらくわたしと同じくそのナゾなるみなもとから 観想を得てこれを経験思想として表わしている。ということだと思います。

 ★ 唯一無言の対
 ☆ が 話し相手という意味だとしたら それはあると これまた 別様に思います。ほとんどどの著書の文章からもさまざまな着想を得ることが出来ます。

 ただし請け売りと言いっぱなしにしておくのも 卑下しすぎになります。なぜなら アウグスティヌスは なにしろ古代人です。400年前後を生きたアフリカ現地の〔ほんとうは誰もがそうであるところの〕どこの馬の骨だか分からないベルベル人(アマーズィーグ)でローマ市民です。

 国家についてすでにそのマヤカシであることを指摘していますが その社会形態が まだまだつづくという見通しのもとに思想をかたちづくっています。

 あるいは クリスチアニティについては 教会制度がまだなおつづくという前提で話をしています。

 不肖の弟子であるわたしは 水による洗礼は要らないと言っています。ローマ教会は 自己解体せよとも。

 といったふうにあたかも自己紹介をしてみておきます。








 ★ 人のコミュニケーション衝動が強いのは力弱い子供時代や老後が長いせいかも
 ☆ これにつきましては 承諾しがたいものがあります。

 もっとも《衝動》と言っていて 一般なるコミュニケーションについて言っているのではないとすれば これまた早とちりになります。

 でも・でも 《ムショウニ誰かと話がしたい》というとき《衝動》的にふるまいがちになるのは これはむしろ一般的かつ自然本性的な《コミュニケーション人間性》から出ているのではないか? ひとり《よわさ あるいは 不安》から来るものでもない・・・かも知れない。

 子どもも年寄りも 《力弱い》ものですよ。人間一般も 考える葦であるなら 葦ほどに弱い。


 まぁ この部分は 言いがかりのようなものですが。









 ★ 不安は…適応力の欠如。自己や状況をコントロールする自信の欠如。和解を傷害しにかかるものに対する非力さからくる感情
 ☆ 《和解を傷害しにかかるものに対する非力さからくる感情》としての不安 これはありますね。大いにありますね。

 ただし・しかも むしろその不安は 外から来るものであり おのれの心の外にあるものであり おおよそ社会のそれとして作られて来ているひろい意味での身分という人間関係から来るものであると考えます。

 つまり早い話が マナザシを上からそそぐ身分の者から《和解を傷害しにかか》られた場合 マナザシをあたかも下にあってそそがれる身分にある者は 確かにそのとき《みづからの非力》を感じ 情けないと感じ その情けなさからくる感情には 《不安》もが伴ないます。

 しかもこの不安は けっきょく《外からくるものであり おのれの心の外にあるものであり》ます。どういうことか? 《心の外にある》というのは とうぜん相手であった《身分の高い者》の心にあるという意味です。

 《和解をさまたげこれをこばむ上なる身分の者》のその心にある不安を 拒まれた側のあたかも下なる身分の者は 何を思うたのか その不安なる心を 自分の心の内に引き受け引き込んでしまった。これが 《非力さから来る社会構造的な不安という感情》である。こう考えます。これを アース役とも呼びます。


 ★ 不安は…適応力の欠如。自己や状況をコントロールする自信の欠如。
 ☆ この部分にかんしては 単純に言って それは《おのれの内なるチカラ不足》なのですから おのれ自らの非力さも不安も感じると思います。





 ★ 孤独は…親密さへの憧れまたは諦め
 ☆ これも 正直にもうせば やや勇み足によるご議論ではないかと感じるところがあります。

 なぜなら ひとは何も――たといあたかも下なる身分の者であっても―― 他人(ひと)に対して《どうしても親密になりたい》とか《いかにカッコイイ上なる身分の人たちに憧れをいだいたとしても どうしても自分のほうに振り向いて欲しい》とかにまでなるとは限らない。からです。

 つまりは おそらく一部分の心的現象を 全体にまで広げている嫌いがあるように思います。勇み足ではないかと。

 ひとは それほど《ひとりぼっち》に堪え得ないわけでもないでしょう。
 (わびしくて侘びしくて心が錆びついてしまいカビまでが生えるようになったとしても おっとどっこい そこからこそワビ・サビのどんでん返しが起きないとも限らない)。(日本人は これがお得意です)。





 ★ 自-自、自-他、他-他、自-世界、他-世界、世界-世界の和解レベルが同時に絶えず変化して適応が探られ保たれてる
 ☆ 人間およびこの世界は ヤジロベエってところですか。起き上がりこぼしってところなんですね。

 たぶんそうでしょう。そうなんでしょう。

 ただし・ただし おそらくその見方は 《自》の内面には・そしてその襞をめくって心の奥深くには まだ入り込んでいないのではあるまいか? その視点は まだ外に位置しているのではないか。あるいは やや――ややです――上からの目線であるようにも感じます。ちがいますか?


 総論であるということでしょうか。全体として この世はうまくやっているし やって行くのだといったようなご議論。

 人間の意志は しかしながら 個々のあの人この人のものであり その人かの人の心にあります。哲学は 総論と各論と両方をあつかうでしょうね。欲張りでしょうね。





 ★ 対立点は…愛しい生きている人に告白しつづけるべきか否か?の違い
 ☆ この問題提起は 大切にして取っておきます。(保留します。いつのときか 互いに答えを出せるときが来るかも知れません)。

投稿日時 - 2014-05-05 09:17:51

ANo.3

結構なお点前で^_^
本音が綴られていて好感が持てます。
私は、人生とは出逢いだと思っています。故に不完全な我らに生きる意味が生じてくると。一人完全であるならば、その人にはもう生きる意味もないのでしょう。
言葉では決して届かないその欠落した部分、それを埋め合わせるのが他者の存在であると私は思います。言葉は羽のように軽く自由であるが故に、届かない場所もあると思うのですね。限りある人生の中で、その孤独を埋め合わせられた人はしあわせでしょうね。人生の真実とはそういうところにあるのかもしれません。
また、そういう心象を描写するにふさわしいのは、詩だと思っています。

投稿日時 - 2014-05-04 23:01:27

お礼

 ★ 言葉では決して届かないその欠落した部分、それを埋め合わせるのが他者の存在であると私は思います。
 ☆ なるほど。わたしの言葉では 《共生》ですね。《共生性》と言っています。


 こんばんは。お茶 お粗末でした。ご回答をありがとうございます。


 ★ 限りある人生の中で、その孤独を埋め合わせられた人はしあわせでしょうね。人生の真実とはそういうところにあるのかもしれません。
 ☆ これも なるほど。どうも議論するよりは 互いに感得するといった感じでしょうか。対話をしているふたりも 聞いてもらった人たちの感想を得て あらためて感得するようになるかも知れません。り_ろんさんも よろこんでいることと思います。

 

 ★ また、そういう心象を描写するにふさわしいのは、詩だと思っています。
 ☆ あぁ そこまでは思いもしませんでした。り_ろんさんが 必ずしもこの対話をつづけることがなかったので ひきつり出して来て みなさんからの声を聞きたいと思ったのでした。




 ★ 本音が綴られていて好感が持てます。
 ☆ とおっしゃるということは いつもは必ずしもホンネで語っていな部分があるってことかなぁ。まぁ かっこうをつけていますかね。




 ★ 私は、人生とは出逢いだと思っています。
 ☆ 承知しました。そのようにすすまれるとよいとわたしも思います。






 ○ 孤独とは何か?
 ☆ これについては 議論としての分野もあるにはある。ように思ってはいます。

 

 あぁ ホンネというのは 例の《悪魔憑き》と呼ぶまでに不安がつのる場合のことに もっと触れてみるとよい。そんなところでしょうか。それは そうだと思っています。それでは。

投稿日時 - 2014-05-04 23:17:57

◇「他者への語りこそが」→「自分自身への語りこそが」
は、
他者と和解する前に、ワタシはワタシと和解しなければならない、
と言えばいいんだな、きっと。
これが先行していなければ、他者や世界との和解はありえない。

「ワタシはワタシと和解しなければならない」という、
何だかわかるようでわからない、謎めいた言葉を残し、
煙にまくことにしよう!!

投稿日時 - 2014-05-04 14:20:48

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 むつかしいところですね。

 直前のやり取りで わたしは 《和解》という主題としては触れていませんでした。それなしで 解釈をしていました。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 他者と和解する前に、ワタシはワタシと和解しなければならない、
 と言えばいいんだな、きっと。
 これが先行していなければ、他者や世界との和解はありえない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 大きな問題ですね。


 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 a. われがわが心の明けを獲得するには 《和解》が必要か?

 b. その和解は 自己の内におけるわれとわれとのそれか?

 c. つまり 自己との和解が 他者や世界との和解に先行するものか?

 d. それは 何がきっかけとなるのか?

 e. きっかけは要らないか?

 f. あるいは もとに戻って 和解は 世界とのあいだでおこなえばよいか?

 g. それとも 世界との和解と自己との和解とは 同時に起きるのか?

 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 どうなりましょうか。

 みなさんにも回答をつのります。

投稿日時 - 2014-05-04 15:34:12

こんにちは。


☆ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。
 そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。
◇過去の記憶をもとに、推測、計算された私の姿。
鏡などで自分の顔を見たことがあれば、それを想起すればいい。
自身の背中を見たことがなくても、他者の背中の姿を見たことはあるので、それをもとに推測、計算すればいい。
脳は、これくらいのことは、簡単にできちゃいます。朝飯前です。



☆ 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。
◇情報の欠落は、他の情報で補えばいいだけなので、これは、直接、孤独感や疎外感に結びつかないのでは。
疎外感や孤独感は、他者とのコミュニケーションや意思疎通がうまくいかないときや、「自分が考えるほどに、自分の存在が他者において重要でないのでは?」という疑念などが生じたときに生じるのだと思います。
もっとも、
「なんで、オレは、こんな下らないヤツラと一緒にいるんだ」
というときにも、
ヒトは孤独感や孤立感に襲われたりしますけれど。



☆ (1) 【き】 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。
◇「他者への語りこそが」→「自分自身への語りこそが」
ではないですかね。
そして、
すべてを受け入れ、全部ひっくるめて愛す。
これが大切なのでは。
全部ですよ、全部。
私だけでなく、世界全部を愛さないと・・・。

聖人君子でもないわたしには、とてもできない真似ですが。



ではでは。

投稿日時 - 2014-05-04 14:04:16

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 過去の記憶をもとに、推測、計算された私の姿。
 ・・・ 
 脳は、これくらいのことは、簡単にできちゃいます。朝飯前です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶんそうだと思うのですが わたしの対話の相手が言っていることは 自分がその像をつくろうとしたのではなく いきなり誰かの後ろ姿が見えて よく見るとそれは自分のであった。というような場合を言っているのではないか。

 ただし けっきょく同じような事態ですかね。そういう経験の積み重ねにおいて いきなり知らない姿が映っても 同じようなことですかね。





 ◇ 情報の欠落は、他の情報で補えばいいだけなので、これは、直接、孤独感や疎外感に結びつかないのでは。
 ☆ これはですね。その欠けている情報というのは よそから得られるものではなく そうではなくたとえば 自分の出生の秘密にかかわることであったりするのではないかと思われます。

 親に尋ねるという意味では ほかの人からの情報に俟つ状態ではありますが 
 ◆ 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感
 ☆ という場合に その欠落を埋めた情報が つまりその言葉が 欠落感――疎外感(孤独感)――じたいにとどいたか? と問うているとは思います。

 ましてや 親はすでにこの世にいないという場合も考えられます。

 情報がもたらした・それまで知らなかった事実をあらたに胸にいだいて 孤独なる事情がどう変わったか? といったことではないかと見られます。





 ☆ (1) 【き】 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。
 ◇ 「他者への語りこそが」→「自分自身への語りこそが」 / ではないですかね。
 ☆ いえ。これは 《われ( A )の心の中の孤独感というのは 言葉は届かない何かをそこに住ませてしまっているのだが 他者( B )がその何かを認めてくれたとき初めて その他者なる相手( B )に対してわれ( A )は語りかけることが出来た》と言っていると捉えます。

 すなわち 《われ( A )が 他者( B )に向けて初めていわば人間としての――孤独感を打ち破るほどの――語りかけという行為が われみづからの疎外感を埋め合わせてくれるのだ》と言おうとしているようです。

 すなわち:
 a. 他者が声をかけてくれただけでは疎外感にとどかない。

 b. 疎外感には《言葉の届かない何かがある》というその何かを 声をかけてくれた他者がみとめてくれたとしても それだけでは 疎外感は埋め合わされない。

 c.  みとめてくれたことを受け留めて その相手にこちらから声を返して語りかけた。そうしてやっと――自分の発話行為をつうじてやっと―― 疎外感に住む何かが要請していたものを得ることが出来た。埋め合わせるものを。



 ☆ もしそうだとすれば ほとんど自己の内における自己と自己との対話のようである。ゆえにそれは
 ◇ 「他者への語りこそが」→「自分自身への語りこそが」 / ではないですかね。
 ☆ と推測されうるとは思います。たぶん それでも 実在の他者は はっきりと声をかけてくれる存在として 必要なのだと言っていると思います。



 だから どうなのか?
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 そして、
 すべてを受け入れ、全部ひっくるめて愛す。
 これが大切なのでは。
 全部ですよ、全部。
 私だけでなく、世界全部を愛さないと・・・。

 聖人君子でもないわたしには、とてもできない真似ですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん その《他者》がいて はっきりと接触をもった。これが あたかも心の窓を開けたかのように 
 ◇ すべてを受け入れ、全部ひっくるめて愛す。
 ☆ ということの出来る光の筋道を指し示した。のかも知れないと考えます。



 いえ。まだ いくつかの解釈があるのかも知れません。

 【あ】から【き】までの自己表現に対して みなさんもご自分の言葉でこたえてやってください。

投稿日時 - 2014-05-04 15:25:45

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