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三位一体論は そんなに不人気なんですか?

 《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。

           *

 三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。

 しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。

 それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。
 これを問います。

 つまり まづ
 ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
               ↓  ↓        ↓      ↓
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________

              ↓      ↓      ↓     ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。

   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。

 2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。

 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。

 4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:

  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に

 それぞれ当てはまるというタトエです。

 5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。

 6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。

 7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。

 8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。

 9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。


 10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。

 11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。



 三位一体論は 役に立ちませんか?

投稿日時 - 2014-05-17 12:49:27

QNo.8598783

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんばんはです。


キリスト教の三位一体説の説明、ペルソナ説は、
どうも、わたしにはしっくりときません。
考えれば考えるほど、奇妙なものに思えてならない。
ペルソナは、仮面であり、性質や性格、役割でしょ。
ペルソナはあくまで属性であって、本質や実体ではないので、
これでは、
父なる神も神の属性ということになってしまう。

~~~~~~~~~~
   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。
~~~~~~~~~~
の説明にある「子の父は光源であり」は、実体や本質ですよね。
ですから、
これはペルソナと言えないのではないか?
となってしまいます。
ずっとここに引っかかりを覚えています。

もっとも、光源が真なる神の見せる《仮面・ペルソナ》や、人間が直覚、直観する神の現われ(?)であって、それは真なる神ではない、というのならば、話は違ってきますけれども。
bragelonneさんのおっしゃる《非思考・非経験の場》でとらえた《???》の影のようなものを、子の父というのならば、話は違ってくるのでしょうが。

ですから、
わたしは、
ペルソナは、神や霊の位格ではなく、《神の現われ》の違いとしてとらえるべきであろう、
と考えています。
《神の現われ》よりも《(神の)ハタラキ》といった方がいいのかもしれませんね。
でないと、
《聖霊》≒《内なる神(のハタラキ)》の図式は成立し得ない、
と思うので。
───たぶん、こうした《聖霊》観は、真っ当なキリスト教(?)の聖霊観とは違うのかも知れませんが・・・。
ですが、
イザヤ書11:2には、
「その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」
とありやす。───


~~~~~~~~~
  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に
~~~~~~~~~
とあり、
bragelonneさんも《ハタラキ》や《機能》、
《機能》はちょっとまずいのかもしれないので、
《ハタラキ》としてとらえているわけですから、
《ハタラキ》としてとらえた方がいいのでは?

で、わたしは、さらに進んで、
《聖霊》だけでいいのであろう、
《聖霊》を真理や神に対する《気づき》や《ヒラメキ》ととらえれば、
《聖霊》と《神》の関係だけで十分であろう、
と考えます。
三位一体説は、不純物が紛れ込む恐れがあり、信仰の純粋な形態を歪める危険性がある、
と考えています。

《記憶》や《知解》ですと、オシエに関わるものになってしまいますし、
bragelonneさんの神論や信仰論とは相容れないものになってしまうじゃないですか?
もっとも、《記憶》や《知解》が、オシエに関わるものではなく、生まれながらに魂や命に刻まれた何か、《???》を意味するのであれば、別な話になるのでしょうが、
それであったとしても、
それは《聖霊》に含めればいいのではないか、と考えます。

罰当たりなわたしには、
三位一体説のイエスという存在は、どうも中途半端な存在に思えてしょうがない。
ロゴス・言葉なる神・イエスとすると、イエスは福音などの神の言葉そのものになってしまう。
宇宙を統べる何かをロゴスとするならば、イエス=神となってしまうので、
父なる神と子なる神という区別が曖昧になってしまう。
イエスを受肉した神と考えれば、イエスは神の愛そのもの、もしくは神の愛の現われになるのでしょう。であるならば、「言葉・ロゴスによって伝えられる愛」や「父なる神と子なる神の永遠の愛」・聖霊との区別が曖昧になってしまう。
「三位一体で、本来、この三者は区別はできないのだ」と言うのであるならば、
そもそも、こんな難しいことを言わなければいいのですよ。
「不条理なるが故に、我、信ず」でいいんですよ。
イエスは永遠の《???》でいい(笑い)。


わたしは、キリスト教のオシエには結構、寛容なのですが、
キリスト教の難解な《三位一体説》には厳しい目を向けています。
《三位一体説》は不要なのでは、と常々考えています。
この際ですから、
神・イエスには、哲学のために、もう一回、死んでもらいましょう(笑い)。
もう一度、《十字架》にかけちゃいましょう!!

投稿日時 - 2014-05-20 19:04:14

お礼

 ねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 (省略)の説明にある「子の父は光源であり」は、実体や本質ですよね。
 ですから、
 これはペルソナと言えないのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええっとですね。

 神は あくまで《非知》です。《その存在ないし非存在について人間がその能力によって知り得るか知り得ないか これが知り得ないというナゾ》です。

 概念的な説明としては 《絶対・無限・非経験》です。ナゾは 《霊》です。

 さらに内容を むしろ人間がのぞむほどに捉えるなら 《真理・愛・慈悲》です。

 擬人化して捉えるなら 一般に《絶対者》であり だいたいは《創造主》を言うものと思います。




  ○ 実体・本質 / ペルソナ

 これらは あくまで哲学上の概念として もともと あると思います。

 《絶対》なら いわゆる《実体》であるとは言えるはずです。でも 《非知》です。

 《本質》は 属性としてと言いますか 修飾語としての概念説明だと思います。うつろいゆく現象ではないでしょうから。

 ただし 《絶対なる霊》は けっきょく経験世界を越えているという想定ですから むしろこの経験世界における現象にさえ かかわっている。かも知れないとなります。いわゆる《遍在》です。


 《ペルソナ:位格》は 《神》が三つの部分に分かれると捉えるとき その部分の名を このペルソナとしたということです。それだけのことです。三つの《貌》でもよいはずです。



 あらためて まとめとしては:

 《非知》を想定する。(必然的に そういう領域が想定されてくる)。

 これが 一般に言葉として使われている《神》のことだと認定する。そうして これについての説明をおぎなう。これは 上に示しました。





 ・ 光のタトエにあっては 《光源;その発耀;その明るさ・あたたかさ》は あくまで比喩です。実際にそう有るという意味ではありません。つまり 三つの位格のたがいの関係を説明するのによいということからです。一体性が 光であることにおいて 分かりやすい。

 たとえば 神は愛なり。というとき 子の父も 父の子も それぞれすでに聖であり霊であり 聖霊であるからには 愛でもあるのですが とりわけ《明るさやあたたかさ》に譬えられる《父と子との両者から発出する聖霊》こそが 神なる愛であると呼ばれるのにふさわしい。



 これは 人間の時間的な差をともなう三一性にあっては 《意志》にあたります。

 ひとがいて 精神があり 精神が精神するといったとき これは 具体的には 記憶が記憶するという意味にとって それが 知解になります。記憶がいわば父です。知解が 子です。

 そうして 記憶と知解とにもとづき人格全体としての心を決めるのは 意志です。その意志行為や結果は あたかも《父と子とから発出する聖霊なる愛》にたとえられる。ただし 人間の意志行為における愛は 愛情と嫌悪との正負ふたつのの向きを持って分かれて現われる時間的な・移ろいゆかざるを得ない愛です。




 ◇ bragelonneさんのおっしゃる《非思考・非経験の場》でとらえた《???》の影のようなものを、子の父というのならば、話は違ってくるのでしょうが。
 ☆ この三位一体なる神という説は 神学の中でも特殊中の特殊です。哲学の問い求めに耐えうるかどうか こころもとないところです。

 なんで神が 三つの位格に分かれるのか? それは ひとえに イエスが――旧約聖書からのそれとしての伝統にのっとってでしょうが―― 《父なる神》という言葉を使ったし 《神の子》と自称もしたし あるいは《聖霊:パラクレート》を送るなどということをも言った。ゆえです。

 この謎解きを人びとは おこなって 三位一体なる神だぞという結論に到りました。根拠は ありません。イエスが 言ったことの内容を 整理し つじつまを合わせたとも言えるでしょうし じつは いわゆる《神の化身》といったような通念をめぐって 哲学ないし神学としてのケリをつけるために虚構を語ったのだとも考えられます。


 ここにおいて 哲学としての基礎は 《非知》です。非知として神を想定するという初めの約束事です。あとは 説明のためのガンバリです。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですから、
 わたしは、
 ペルソナは、神や霊の位格ではなく、《神の現われ》の違いとしてとらえるべきであろう、
 と考えています。
 《神の現われ》よりも《(神の)ハタラキ》といった方がいいのかもしれませんね。
 でないと、
 《聖霊》≒《内なる神(のハタラキ)》の図式は成立し得ない、
 と思うので。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですけれど 趣旨説明欄の(3)に記したように 《父と子と聖霊との三つの位格のそれぞれは互いに そして各個は全体(三位一体)と 全体は各個と それぞれ まったくひとしい》のです。

 ひとつのペルソナが 《現われ ないし ハタラキ》であるならば ほかのペルソナも 同じくそうであるとなります。


 ▲ 主の霊
 ☆ とは 父なる神でもあり 子なる神でもあり 聖霊のことでもあり また それら三位一体なる全体のことでもあります。《無限》とは そういうものだと思います。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 で、わたしは、さらに進んで、
 《聖霊》だけでいいのであろう、
 《聖霊》を真理や神に対する《気づき》や《ヒラメキ》ととらえれば、
 《聖霊》と《神》の関係だけで十分であろう、
 と考えます。
 三位一体説は、不純物が紛れ込む恐れがあり、信仰の純粋な形態を歪める危険性がある、
 と考えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これまでのやり取りにおいて すでに《これからは――つまり イエス・キリストが去って行ったあとからは―― 聖霊の時代である》と書きました。

 神について もうおしえたりすることは 無くなる。神が 人びとの罪をおぼえていることも無くなる。というふうに神みづからがみづからを揚棄しましたから。

 《人間の時代である》と言ってもよいのですが その人間なる存在には《非思考の庭》が 感性や理性のほかに あると想定されるので なお神にかかわる言葉として《聖霊》を用います。


 三位一体説は 最小限必要だと思われることには カトリックおよびプロテスタントのクリスチャンらの説く神論が この三位一体説であるならば――あるのだから―― あたかもその説にこちらも合わせて議論し あとは いま触れたエレミヤの預言――あたらしい契約によるあたらしい世界――が成就したという世界認識を 共有することが出来るほうが みのりの多い議論になると考えるからです。




 ◇ もっとも、《記憶》や《知解》が、オシエに関わるものではなく、生まれながらに魂や命に刻まれた何か、《???》を意味するのであれば、別な話になるのでしょうが、 
 ☆ 《記憶・知解・意志》は 《かみの似像》としての人間の存在要素です。自然本性においてそなわると見ます。つまり 経験事象としての行為能力です。

 これが 《非思考の庭――信仰――》をつうじて 神の霊つまり聖霊にあたかも連なるという見立てです。実際には ヒラメキという現象として そのつながりを捉えます。(文学的には その聖霊と非思考の庭との連絡は 天使の役目だというかたちです)。



 ◇ ロゴス・言葉なる神・イエスとすると
 ☆ いえ。《ロゴス》は あくまでタトエです。基礎は 《非知》です。あとは 分かりやすいように概念的な説明として 表現をひねくっています。



 ◇ 「三位一体で、本来、この三者は区別はできないのだ」と言うのであるならば、 / そもそも、こんな難しいことを言わなければいいのですよ。
 ☆ イエスがほのめかしたのですし アタナシウスとかいうおっちゃんが提唱し皆がみとめたからには それとして受け留め エレミヤ預言の実を取ったほうがよいと考えられます。ということは これは クリスチャン内部での議論におさまることなのかも分かりません。でも 哲学としての妥当性を 外部の者も見届ける必要があります。


 ◇ 《三位一体説》は不要なのでは、と常々考えています。
 ☆ エレミヤ預言が 成就したことが 常識になったなら 不要になります。

投稿日時 - 2014-05-20 20:21:28

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回答(15)

ANo.15

おはやうございます。神学に素人の私は、NemurinekoNyaさん復活までのつなぎのつもりでしたが、私の回答へのコメントとみなされる記述がみられましたので、もう一度お邪魔します。

それにしても、No.14。三位一体推進派のbragelonneさんが、それを否定したがり、懐疑派のNemurinekoNyaさんが容認するための根拠を示さうとする。これが、このカテゴリの楽しいところです。

対格支配のprosは、方向性をあらはします。英語でも日本語でも、うまい訳し方がないのですが、私としては、

岩隈直『新約ギリシャ語辞典』山本書店

「の側(所・もと)で(に),近くで(に),共に」
がいちばん適切と考へます。用例として列挙されるマタイ13章56節、26章18節、マルコ14章54節を見ても、「ともに」存在する者は、完全に別人格です。

>>定冠詞の有る無しは、
>>実体と
>>その部分、属性などの区別を明確にするためのもの

そのとほりです。
「実体」とは神そのもの。
「部分、属性」とは、ロゴスが神の属性をそなへてゐる、
あたかもアダムが神のかたちにつくられたかのやうに。

ヨハネ1章2節は、1節と同じ文で、NemurinekoNyaさんのご指摘の意味が理解できませんでした。すみません。

>>キリスト教の三位一体説は、
>>新プラトン哲学の流出説の影響を受けている、

私もそこが源だと考へてゐます。

>>キリスト教は、
>>プラトニズムの影響を受けていると思いますよ。

まちがひありません。

*** *** *** *** ***

>>《とともに》と受け留めると 
>>むしろ《ペルソナは ふたつ》というふうにも受け取られます。

ヨハネ1章1節は二位一体ではないか、と三位一体を否定する根拠として使用する人たちもゐます。

*** *** *** *** ***

たぶんNemurinekoNyaさんは、私の「落書き」投稿には批判的立場だと思ひます。このスタイルのいちばん大きな理由は、サイト内で批判攻撃されて傷ついてゐる人たちが、plapotaのことを笑つてくれたらいいのに、と思つてゐるからです。私は悪口を言ふ人に対しては、どうすれば面白い返答ができるか、楽しんで考へます。でも人は、心の余裕を失つた状態にあるとき、みづからを笑ふことができなくなります。

サイト運営者による私の投稿文削除の件をときどき書きますが、すべてほんとうです。でも不仲といふわけではなく、裏方さんとも会話を楽しんでゐます。今の話題は、「批判的投稿文の削除」についてです。削除を受けると、反感を抱いて、ますます、他の人たちを批判するやうになります。せめて私への単独非難の場合には、削除しないでください、うまくまとめますから、といふものです。

夕鶴のページ、拝見しました。
この主題で、おふたりは、あんなに真面目に、そして深く論じることができるのですね。改めて感心しました。NemurinekoNyaさんが色事に強いこともわかりました。コンピューターがなくても、四色問題が解けさうです。

投稿日時 - 2014-05-21 06:46:46

お礼

 ぷらぽたさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ぜんぶ 承知しましたという受け答えになります。そのようにわたしも受け留めます。

 あっ。そう言えば エレミヤ預言について あらためて 質問してみます。おぎなうことが出来るかと思います。





 夕鶴についてのコメント ありがとうございます。




 

 ★ せめて私への単独非難の場合には、削除しないでください、うまくまとめますから、といふものです。
 ☆ これは そういった意味合いのことをサポート係りとメールで掛け合ったことが わたしも あります。

 ダメでしたが がんばってみてください。

 《質問としては 成立していますが 回答者さんたちとの関係など全体を考慮して 質問じたいを削除することとしました》と言われて そうなったことがあります。

 そしてしかも さらにねばったときには 何と質問が復活したこともあります。
 念のために 証拠をかかげます。

 次のページで その次に挙げた質問が ふたつあるのがそれです。二例とも復活です。

 ・ 質問履歴のページ
  https://okauth.soudan1.biglobe.ne.jp/mypage.php3?page=22#tabs

 【Q:昭和天皇の戦争責任について】

 ・ https://okauth.soudan1.biglobe.ne.jp/mypage.php3?page=14#tabs
 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?】






 このいまの質問について こまったことは クリスチャンからの回答がつかないことです。
 この傾向は もう前々からです。
 さらに過去には きちんと答えてくださった人も 事例も ありますが 問題は ひととおりの確認事項で合意したあと これこれはどうなりますか? といったツッコミについては もう敢えて言えばへっぴり腰になってやり取りが消える場合が多いようです。

 いづれにしましても エレミヤ預言についてなお問うてみます。

投稿日時 - 2014-05-21 07:26:46

ANo.14

1:1 ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος

ですわね~。

πρὸς = with
ならば、神とロゴスは不可分と解釈できるんじゃないですか。
これを「そば」や「ともに」と訳してはいけない。

定冠詞の有る無しは、実体とその部分、属性などの区別を明確にするためのものと考えれば、
三位一体を表わしていると解釈することもできるのではないか。
そんな気がしますけれども・・・。
ロゴスは神そのものではないので、矛盾はしない。

1:2 οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν
とありますしね~。

仮に「そば」や「ともに」であっても、冠詞の有る無しの問題はクリアーできるのではないか。
そんな気がしますけれども。
これでは、
ダメですか?


キリスト教の三位一体説は、
新プラトン哲学の流出説の影響を受けている、
と私は考えていますけれども。
キリスト教は、プラトニズムの影響を受けていると思いますよ。

投稿日時 - 2014-05-20 23:07:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 πρὸς = with

 ならば、神とロゴスは不可分と解釈できるんじゃないですか。
 これを「そば」や「ともに」と訳してはいけない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが よく分からないんですけれど? 《とともに》ではいけないのですか?

 ▼ (ヨハネ福音1:1-11) ~~~~
 はじめに ことばがあった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。
 1:2 このことばは はじめに かみとともにあった。
 すべてのものは これによってできた。・・・

 〔このことばは〕世に来た。
 かれは世にいた。
 ・・・かれは自分のところにきた・・・。


 ・・・父の独り子・・・。
 
 ▼ (ヨハネ福音14:6-7) ~~~~~~~~
 イエスは言われた。

   「わたしは道であり、真理であり、命である。
   わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くこと
  ができない。
   あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父
  をも知ることになる。
   今から、あなたがたは父を知る。
   いや、既に父を見ている。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ◇ 定冠詞の有る無しは、実体とその部分、属性などの区別を明確にするためのものと考えれば、/ 三位一体を表わしていると解釈することもできるのではないか。
 ☆ これは わたしは 何とも言えないですね。決定的なことは 何とも分からないです。残念ながら。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1:2  οὗτος  ἦν  ἐν  ἀρχῇ πρὸς  τὸν  θεόν

 とありますしね~。

 仮に「そば」や「ともに」であっても、冠詞の有る無しの問題はクリアーできるのではないか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《とともに》と受け留めると むしろ《ペルソナは ふたつ》というふうにも受け取られます。





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 キリスト教の三位一体説は、
 新プラトン哲学の流出説の影響を受けている、
 と私は考えていますけれども。
 キリスト教は、プラトニズムの影響を受けていると思いますよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ プラト二ズムとは 親和性が高いです。アウグスティヌスも それらしきことを言っていたと思います。


 《流出説》は 聖霊についての捉え方に影響をあたえたのかと思われます。





 だいたい 受け留めてもらえたのでしょうか? 前回のわたしの応答を。

投稿日時 - 2014-05-20 23:50:33

ANo.12

キリストは神
キリストの身体は教会

だから教会に所属することで
神と結ばれるのでしょう。

霊的な観点から聖霊の役割かな?


だから所属しないと関係ないということに。


Iコリント12:27

「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

投稿日時 - 2014-05-20 18:10:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 キリストは神
 キリストの身体は教会

 だから教会に所属することで
 神と結ばれるのでしょう。

 霊的な観点から聖霊の役割かな?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから キリストが十字架上に去って行ったあとは その子なる神および父なる神の両者から 聖霊が送られてくる。

 その意味で――あたらしい――聖霊の時代が始まる。

 よって 教会も 聖霊による《民会:エクレシア》または《主の〔家〕:キュリアコン>チャーチ》が・つまり 目に見得ない教会が 始まりました。




 キリストというぶどうの木につながっていれば キリストのからだを構成する器官に成り得ます。

投稿日時 - 2014-05-20 19:12:13

ANo.11

カトリックのカテキズムを読んで考えてもいいけれど、
片付けたらどこにいったのかわからなくなったので

自由に考えるために

イエスの啓示した神は旧約聖書の神なんだろうか?
こんなことを書いてみる。

ところで、イエスの啓示した神に肉体はあるのだろうか?

というのも、肉体から解放されたほうがいいと考える人々にとっては
神に肉体があるなどとは考えられないだろう。


それから

「わたしの仕えているイスラエルの神,主は生きておられる」(王上 17:1)。

神は生きているわけですよ。

民族神で戦争したり、災いをもたらしたり、救済したり、妬んだりする神

ところがそんな神が新約聖書になると、ほとんど話さなくなってしまう。


イエスは私はあるといったのだから
モーセの前に現れて、わたしはあると言った神と同一視しても
いいかもしれませんが

すると、イエスの啓示した神はモーセの神以外の神になるような?

投稿日時 - 2014-05-19 21:46:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 神は生きているわけですよ。
 ☆ 絵に描いた餅でも張子の虎でもなく 観念の神でもないという意味です。

 感性と理性とを超えている。その非思考の庭にあって 生きている。と言おうとしています。
 
 


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 民族神で戦争したり、災いをもたらしたり、救済したり、妬んだりする神

 ところがそんな神が新約聖書になると、ほとんど話さなくなってしまう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 民族の神であるところからそれが全世界のあらゆる民族へと開かれた。
 
 しかも 人びとに対して 戒律をあたえそれにもとづき罪の有る無しを判定するような神ではなくなるということ。また しかも事実そのようなオシエを人びとが持つことすら なくなるということ。このように神がみづからによってみづからを揚棄した。

 これは エレミヤ書で預言され イエス・キリストの登場において成就した。

 神が止揚された。言ってみれば 聖霊の時代に成った。神を言わなくなる。名前を出す必要がなくなる。ほかの世界中の神という神が すべて同じひとつの神であると見なされるようになる。――です。






 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは私はあるといったのだから
 モーセの前に現れて、わたしはあると言った神と同一視しても
 いいかもしれませんが

 すると、イエスの啓示した神はモーセの神以外の神になるような?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《わたしはある》は――神の発言を 人間の次元に降ろして来て言えば―― 存在論です。言いかえると 《わたしはわたしである》という人間としての自覚であり その自覚的存在の実現のことです。


 この神の《本名》のような《わたしはある》は 神がモーセに現われて言った時点では ユダヤ民族の一人ひとりに対して 《わたしであれ!》とも《ヤハヱーの子である人間のわたしたることの自覚あれ!》とも言っていた。

 イエス・キリストによって この民族という枠が――後世に・つまりは初めにパウロに託されつつ――開かれた。そういう意味での《わたしはある》になった。

 人間たる《わたし》が どの民族の誰についても まったく同じだということになった。

 その意味では すでにどの民族のわたしにとっても その神は いかに名前が違っていても みなすでに互いに同じひとつの神であるということが 実質的に成ってしまった。


 これが イエス・キリストのおこなったハタラキです。

 モーセの神が 世界に開かれた。しかも その神というのは もういちいち人びとのあいだでおしえることもない。とまで宣言された。

 
 

投稿日時 - 2014-05-19 22:26:35

ANo.10

bragelonneさん、こんばんは。No.8で退出しようと思つたのですが、外国語カテゴリに投稿してくださつてゐたので、そのお礼を申し上げます。質問者の女の子は素直ないい子で、みんなで大切にしてあげたいと思ひます。kazamidori365さんもどうぞ、お見えになつてください。

>>運営部からの削除の結果 
>>100いくつにしぼんでしまいました。・・・とさ。

大量抹殺ですね。
ちなみに私は本日も2件、回答文の削除をうけました。bragelonneさんのこの数に追ひつくやう、精進します。

>>けんか腰は・つまりその外見は 
>>卒業してもよいかとも思っています。

哲学カテゴリでの仲間内ならよろしいのではありませんか。サイトの一般の人たちは、傷つきやすい人もゐるので、気をつけたほうがいいでせうけれど。

>>三位一体については 
>>哲学では扱いにくいところがあるかに思われます。

続きはまたそのうち。

>>アウグスティヌスは 当初 ..........

教父に関しての見解は、まつたくの私見です。多くの人たちから尊敬を受けてゐますので、bragelonneさんの見方のほうが正しいのかもしれません。

>>ヤハヱーの語としての意味が知りたいですね。

これは大問題ですよね。そもそも発音すら、されなくなつてしまつたのですから。解決される日が訪れるのでせうか。私には無理です。

>>峯先生は ともだちではないの?

ギリシャ語とシュメール語の授業でいつしよでした。もちろん、峯先生のほうが優秀でした。卒業後は会つてゐません。

>>夕鶴つう

やつと見つけました。NemurinekoNyaさんがベストアンサーですね。たくさん回答があるので、これからゆつくりと拝見します。

投稿日時 - 2014-05-19 20:41:19

お礼

 ねこさん こないなア。ごめんなさい。


 ぷらぽたさん――って何ぢゃいな?―― こんばんは。ご回答をありがとうございます。






  ○ 三位一体について

 どう扱うか ひとつの結論を得ました。
 つまり 欧米のと言いますか カトリックおよびプロテスタントのクリスチャンによる神学と同じ土俵に上がる いや リングに上がるでしょうか の場合には 《ロゴス》が 神としての神の子であるかどうかを必ずしもあらそうのではなく――少々政治的な姿勢に片向きますが―― 相手に合わせて 神であると仮説して対処する。こういう態度で行く。
 
 と言いますか そういう対処の仕方を用意しておくということ。これで 準備万端になると思われるからです。
 (かなり 自信があります)。




 
  ○ 峯 正志 金沢大学教授
  http://ridb.kanazawa-u.ac.jp/public/detail.php?kaken=10219701

 でいらっしゃるのですね。
 ぷらぽたさんも 非常勤講師からでも始めれば? コネを使うのがいいかどうかは あるにはありますが。





 
 あとは そのまま承知しましたという返答になるのですが。・・・




 質問者の《素直ないい子》は 応答を書かないですね まだ。



 夕鶴つうは なつかしいと言えばなつかしいですが。


 ねこ氏 来ないなア。

投稿日時 - 2014-05-19 21:22:55

時空の外の神は認識も出来ない

受肉することで時空の内に現れた神

このままでは断絶がある。

だから両者を仲介する聖霊

こんな風に考えてみました。
どうでしょうか。

投稿日時 - 2014-05-19 17:09:19

お礼

 だめ。

 この経験世界内と外といった区分が 神にかんしては マチガイです。

 ☆☆ (【Q:《神》は 補助線である。】No.15お礼欄) ~~~~~
  ★ 時間や空間の外の神という発想
  ☆ これは 明らかな認識上のマチガイです。

 《非経験の場――わが心なる非思考の庭》 これは 《非知》だと言っています。かんたんには 経験世界を超えていると言っています。

 《超えている》ということは 一つひとつの経験事象やその範囲にとっての内と外とを超えているという意味になります。

 言いかえると 《超えているナゾ》は その超えられた経験世界に 自在に出没することができる。なぜなら その経験世界における《有る無し》や《ものごとの因果関係》やからまったく影響を受けず 自由であるからです。

 つまり 《非経験の場(つまり 神)》は いちいち・わざわざ人間の住む経験世界に出没することもないのですが 気が向いたら やって来て しかも嫌がっている・のちに預言者となる人間に介入して 立て 立って行け 行っていまから言うことを人びとに伝えよ・・・というようなことをもさせ得る。ということになり得ます。

 《外》から来るのではなく もともと神自身の居場所であったかも知れない。そういうことは じゅうぶんあり得ます。

 

 投稿日時 - 2014-05-18 17:08:25
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






 聖霊がこの世にあって 人の内ではたらくという見方に 不都合はありませんが 《仲介・仲保》という意味では その聖霊に限るという見方は 必ずしもふさわしいとは思えません。


 ☆☆(趣旨説明欄) 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。
 ☆ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神とそれぞれひとしい。つまり 父も子もそれぞれ 聖であり霊であり 聖霊である。



 人と父なる神との《仲介》は 子なる神であるキリストが――ということは イエスがいたときには イエスが―― おこなっています。キリスト・イエスは ひとのために神に《執り成し》をおこなうというふうに表現されています。

 イエスが 去ったあとには 子なる神が父なる神とともに 聖霊をこの世に送ると言いました。
 すでに世の初めから・アブラハムのときから 聖霊は送られていましたが エレミヤ書の《あたらしい契約》をイエスが登場して成就したあとの世界にあっては 舞台があらためられた世界へと聖霊が送られることとなった。

 すなわち 人びとの罪をもう神はおぼえないようになることと 神を知れと言って人びとにおしえることは無くなるということ。そのための聖霊が送られて来ている。

 それが 実現するには 二日――神にとっては 千年が一日であるゆえ――かかっている。おおむねの話として。


 どうでしょう。

投稿日時 - 2014-05-19 18:35:19

bragelonneさん、おはやうございます。他の人たちが投稿しづらくなるので、No.4あたりで終了を考へてゐたのですが、ともだちのゐないplapotaのために、各方面でお気遣ひいただいて、ほんとうにありがたうございます。

*** *** *** *** ***

>>ロゴスの受肉を 受け容れたのなら 
>>神が 父と子と聖霊との一体であるという前提に
>>立ったかなと思いました。
>>子が ロゴスだということですから。

キリストが肉のからだになつたことは、聖書に何度も記されてゐますから、私は当然受け入れます。神学の知識に乏しいものですから、bragelonneさんとは話が通じないところがでてきます。申し訳ございません。

アウグスティヌスとかクレメンスとか、かつては読まうとしたのですが、あまりに飛躍した議論、突飛な比喩、ここに真理はない、と判断して、基本的に聖書以外は信用しないことにしてゐます。このたびの「肉」につきましては、仮面ライダー様のアマテラス神学による「筋肉」といふ用語であれば、誤解がなかつたとおもひます。

*** *** *** *** ***

>>タガログ関係を書き込んだところです。

音韻変化、説得力をもちます。意味のうへからも充分かんがへられるだけに、有力です。ありがたうございました。

>>外国語カテを変えちゃってしまっちゃって。

NemurinekoNyaさんの真似です。翻訳依頼でほとんど埋め尽くされてゐたので、言語についての楽しい質問がほしかつただけです。翻訳依頼が激減してしまひました。ほんとうに困つてゐるなら、遠慮しなくもよいのですけれど。

>>経営学でした。

意外でした。

>>修士でもそうです。

私は学部生でおしまひです。bragelonneさんの時代の大学院でしたら、レベル高いですよね。

投稿日時 - 2014-05-19 06:08:11

補足

 余計なことを思い出しました。


 とにかくわたしの質問に対して アラシが多かったのです。四五人 六七人 寄ってたかって おまえは病気だ 心療内科へ行きなさい 早く死ね・・・といったののしりとともに 批判を繰り返して来ます。

 いちど――この笑い話のような話をしたかったのですが―― とうとう300の大台にまで回答数が増えました。300ですよ。そして 運営部からの削除の結果 100いくつにしぼんでしまいました。・・・とさ。

投稿日時 - 2014-05-19 10:04:31

お礼

 お早うございます。今朝は寝起きが 何となくしっくりしないぶらじゅろんぬです。
 ご回答をありがとうございます。



 わたしは――わたしも?―― けんか好きですよ。
 ここでも どうでしょう 三年・四年前までは いつも挑戦者精神でした。

 いわゆるアラシ回答に対しては べらんめえ口調で片っ端から けんかを受けて言い返していました。(その結果 おしえてgoo! から追放されました。いま noname#80116 となっています。そのときは n のひとつ少ない bragelone で出ていました)。

 まだ ちらっちらっとアラシは来ているようですが――つまり 病院へ行けというたぐいの投稿です―― わたしに対しては お陰さまでほとんど ななにすクン一人になりました。

 チャレンヂャーでなければ お二階さんは一階市民社会に大政奉還せよといったことも言わないでしょう。
 そう言えば アラシがなくなりつつある所為で わたしも この市民スサノヲ・スピリットを薄めかけていたかも知れません。

 まぁ けんか腰は・つまりその外見は 卒業してもよいかとも思っています。

 ちなみに 【Q:けんかをしては なぜ いけないのでしょう】といった質問もしています。








 三位一体については 哲学では扱いにくいところがあるかに思われます。

 社会における三権分立といった形態をめぐって なかなか考えさせられた経験とその思いは まだ あります。

 気長にと言いますか 三位一体説じたいについては 前面に出さなくてもよく けっきょくみづからを揚棄する《キリスト史観》として問うて 民主制に道をゆづるのみ。こういったところでしょうか。ぼちぼちとまいりましょう。




 ★ このたびの「肉」につきましては、仮面ライダー様のアマテラス神学による「筋肉」といふ用語であれば、誤解がなかつたとおもひます。
 ☆ ここには 何だか《本質直観》とでも呼ぶべきさとりが 起きたかに思われる節があります。わたしには 分かるような分からないような。・・・

 たしかに仮面ライダー氏は 神秘をあつかっています。用語の適宜性よりも みづからの確信に立ってすすむという姿と受け取られます。

 《筋肉》は ヒット作品だったでしょうか。ポケモンの原案作成者だそうですよ。きちんと話をし合って来ましたが いつまでも ときわたりですとか ジェラーチでしたかの《理論》とおつき合いすることも どうかと(つまり 哲学カテとして進展があるかどうかと)思い いちど突き放したこともありました。

 これから どういう展開になりましょうか。・・・





 アウグスティヌスは 当初 全面的にわたしの議論はアウグスティヌスの請け売りだったのですが その後ときを経て すでに《水による洗礼は要らない》ですとか《ローマ教会は 自己解体すべし》ですとかと物言いをつけるまでに――つまり 背信をかさねるまでに――なっています。

 でも ヤハヱーの自己揚棄すらがあったということですから わたしもアウグスティヌス越えをせねばならなくっちゃと。・・・思います。






 外国語カテは おっしゃるとおりです。かつて nakano・・・という名前の凄腕を見受けましたが いまは どうでしょうか。ここ近年は 哲学カテのほかはほとんど見ていません。

 あっ。そう言えば ヤハヱーの語としての意味が知りたいですね。これも いちど質問しましたが 回答はつかなかったです。ハワーの使役ヒフイル形だと見ると 分かりやすいのですが これは 退けられているような。要するに 定説がないみたいですね。



 アメリカの大学生は それはそれは よく勉強するみたいですね。課題を出され参考文献を読み 参考資料にあたるという作業をこなして行くのだとか。

 わたしは 留学はおろか 二週間弱のヨーロッパ・パックツアに行っただけですから 外のことは知りません。生活感覚として 知りません。


 でも いづれにしましても これからは 日本人の出番であると見ていますし ここでも言って来ていますので その方向をもかためて行きたいと思っています。





 あさ お早いですね。わたしも 健康のためにそうしようかなとは思っています。



 峯先生は ともだちではないの?

投稿日時 - 2014-05-19 09:50:02

シュメール語のご回答への「お礼」がたいへん失礼な表現になつてゐました。投稿ボタンをクリックしたあとで気付きました。

持つべきものは敵です。
  ↓
持つべきものは論敵です。

午後から疲れてきました。明日からは猫さんがお相手してくださることでせう。

*** *** *** *** ***

>>だったら ほぼ三位一体説をみとめたってことになるかと。

どうしてですか。??

>>私としては、「死の苦しみ」といふのが答です。
>>☆ ウケルお答えですよね。

すみません。ここは、苦しまぎれの答です。

*** *** *** *** ***

>>フランスの自動車・交通事情なんて 知らないもんね。

「仏国フランス」といふ表現を読んで、突つこみを入れてほしいのかと思ひました。違つたのですか。

>>夕鶴おつうの質問をしたことがありました。

さがして拝見いたします。

このたびは、新たな知識と刺激をあたへてくださり、ありがたうございました。今後とも御指導くださいませ。

投稿日時 - 2014-05-18 19:59:00

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 No.6の補足欄に タガログ関係を書き込んだところです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~
  >>だったら ほぼ三位一体説をみとめたってことになるかと。

 どうしてですか。??
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ロゴスの受肉を 受け容れたのなら 神が 父と子と聖霊との一体であるという前提に立ったかなと思いました。子が ロゴスだということですから。

 むつかしいですね。




 夕鶴おつうは お口に合うかどうかは定かではありません。




 外国語カテを変えちゃってしまっちゃって。・・・ですね。


 哲学カテでも 言語類型論――《ぼくハ〔注文ガ〕うなぎだ》のハ格・ガ格の理論――とそして ソシュールの言語記号の恣意性に対する批判と この二点が わたしのおもにあつかっている主題です。





 言語類型論としての観点からは勉強しましたが 個々の言語を 決して読み慣れてはいません。
 辞書と活用表および参考書を脇に置いて 何とか読めるようになる段階まで やっておいたというのが 実情です。

 わたしの専攻は 言語学でも哲学でもなく 経営学でした。(外国語学部での専攻もそうですし(だから 学士は 文学士です) 修士でもそうです)。

投稿日時 - 2014-05-18 20:31:19

回答番号1,3,4,5、plapotaです。

>>どうもこの《死を死ぬ》ということも
>>何だか中途半端であるように感じます。

それは私も感じます。痛いところをついてくるものです。
私としては、「死の苦しみ」といふのが答です。

>>もしロゴスが肉(人たる身と心)に成らなかったなら

もちろん私も「肉」になつたと、理解してゐます。

*** *** *** *** ***

>>イエスは ヘブライ語でしゃべっていた
>>という説を立てている次の本を借りて来ました。

信用に足る説でしたら、また御教授ください。

>>古代なら ワン湖周辺のウラルトゥ語もやりましたよ。
>>《能格言語》として これは 有益でした。

ウラルトゥ語、私はさつぱりわかりません。能格は言語の好きな人なら興味ある話題ですよね。シュメール語以外は手付かずですけれど。あちらへのご回答ありがたうございました。

>>音楽 バイオリンの音色がいいです

私は演奏はできません。ただ聞くだけです。バイオリンは、ナージャのメンデルスゾーンがピカイチです。

>>アリスの質問は「文学」カテゴリなら理解してくれる、
>>と信じてゐたのですが駄目でした。
>>突拍子もない話をよくも書いたもんだとは思っても
>>あまりよくは承知していません。

『不思議の国のアリス』は○○コンにとつては必読書です。モデルになつたアリス・リデルのお父さんは、Henry George Liddellで、ギリシャ語のいちばん有名な辞書を編纂した人です。

>>ねむりねこ氏は あす戻るとのことです。

深い仲なのですか。もしや、○○なのでは。kanto-iさんにつづいての告白ですね。私はくちが軽いので、すぐにサイトぢゆうにひろめてしまひます。

投稿日時 - 2014-05-18 17:41:40

補足

 タガログ関係です。

 まづ南島語族で《ひと》を表わす語を ヰキぺから拾います。

 ▲ (ヰキぺ:Austronesian languages) ~~~~~~~~~~~
http://en.wikipedia.org/wiki/Austronesian_languages

  《 person 》を表わす語

 Tagalog:   tao
 Bikol ほか:   tawo
 Tausug:   tau
 Ibanag:    tolay
 Malay:    orang
 Maori:    tangata

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これを 次のように語形の変化をこうむったと 手品のごとく分析しました。



 ○ 《ひと》: * ta-ga-lo-g ~~~~~~~

 Tagalog:   ta- o-φ-φ
 Bikol :     ta-wo-φ-φ
 Tausug:    ta- u-φ-φ
 Ibanag:    to-φ-la-y
 Malay:    φ- o-ra-ng
 Maori:    ta-nga-ta-φ

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 母音の交替ないし出没は 自由と前提します。

 2. / ga / ∽ / wo / ∽ / nga / > / o, u, φ /

 3. / l / ∽ / r /
 
 4. / l, r / ∽ / s, t /

   cf. やはり>やっぱり>やっぱし
     あまり>あんまり>あんまし

   cf. Kallallit: カラーシュリット(グリンランド・エスキモー)

   cf. Tagalog ∽ Tausug : -l- ∽ -s-

   cf. tagalog ∽ ta-nga-ta-φ: -l- ∽ -t-




 どうでしょう?

投稿日時 - 2014-05-18 20:17:28

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ もちろん私も「肉」になつたと、理解してゐます。
 ☆ ん? だったら ほぼ三位一体説をみとめたってことになるかと。・・・



 ★ バイオリンは、ナージャのメンデルスゾーンがピカイチです。
 ☆ あっ。そういう教養あふれる会話は できません。ただ聞くだけです。


 ★ アリス・リデルのお父さんは、Henry George Liddellで、ギリシャ語のいちばん有名な辞書を編纂した人です。
 ☆ あぁ。たしか Liddell & Scott とか。へえーえ。




 ★ 深い仲なのですか。
 ☆ メールのやり取りをしています。





 ★ 私としては、「死の苦しみ」といふのが答です。
 ☆ ウケルお答えですよね。





 フランスの自動車・交通事情なんて 知らないもんね。




 あぁ。わたしも 夕鶴おつうの質問をしたことがありました。いろいろですね。

投稿日時 - 2014-05-18 19:30:11

回答番号1,3,4、plapotaです。

>>《独り子》って書いてありますよね。
>>だったら ほかにも何人かいる天使では 
>>困るのではないですか

宗教を認めない共産主義の中国でさへ、神からの《独り子》政策を受け入れました。ですから困ることはありません。ケルビムとか、セラピムとかは、独裁共産党に見つからなければ、産んで育てることができます。あくまでも《独り子》は、ミカエルのみです。

*** *** *** *** ***

>>イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。

むごい話です。

>>僕を農夫たちのところへ送った。
>>ほかの僕を送った
>>更に三人目の僕を送った

これが過去の預言者たちですね。

>>わたしの愛する息子を送ってみよう。

これがイエスですね。

>>息子をぶどう園の外にほうり出して、
>>殺してしまった。

ほんとうに、さうなつてしまひました。

>>この農夫たちを殺し

古い契約が終了した、ユダヤ教との決別です。

>>ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

新しい契約によつて、全人類に救ひが向けられた。

*** *** *** *** ***

>>イエスなる預言者のような者は 
>>ふさわしくないと人びとは見なしてこれを捨てた。
>>ところが あとになって分かって 
>>じつは 親石となった。

>>という話だと思うのですが 

はい、万人の納得する説明です。

>>これに《天使長ミカエル》でも つとまりますか?

「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
  マタイ福音書20章27,28節 新共同訳

さういふ気持ちがあればできます。

>>それだと おそらくキリスト・イエスが
>>十字架上に上げられた意味がなくなって来るでしょう。

「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」

*** *** *** *** ***

>>ラーメン屋の宣伝にも
>>天使ミカエルの場合には
>>よわいチカラしか湧かないように思われます。

三位一体論は、3個1パックの枠組みを提供してゐるだけで、最終結論との論理的なつながりがありません。三位一体論などなくても、bragelonneさんの解答は充分成立します。むしろ、ないほうが、私のやうな反対派の人間にも受け入れやすくなります。(賛成派には説得力を持つのかもしれません。)

*** *** *** *** ***

(日曜日の昼の時間は、NHK囲碁番組を見ます。)

>>タガログは 《ひと》ではないでしょうか?
>>推測ですが。

私の質問はしばしば誤解されます。そのうちのひとつを理解してくださつてありがたうございます。(しかも「解決」マークがあるものなのに。)たしかに民族名には《ひと》を示す場合が多くあります。

シュメール語の質問は「ボケ」のつもりですが、だれも突つこんでくれません。(登場する論文著者は同級生です。)アリスの質問は「文学」カテゴリなら理解してくれる、と信じてゐたのですが駄目でした。やはり、ここ「哲学」カテゴリで修行させてください。

私はできるかぎり相手の履歴を見るやうにしてゐます。内容はもちろん、傷つきやすい人かどうか、投稿文に記載してゐない背景はないのか、考へてゐるつもりなのですが、逆に見られるのが嫌な人もゐて、迷惑をかけることもあります。

>>いまの時点で ねむりねこさんの動向は分かりません。

猫さんはたぶん、蝶に変身した荘子を追ひかけてゐます。

  荘周は猫におはれてうなされん
   胡蝶となりし春の日の夢
    (『徳和歌後万載集』岩波文庫 110ページ)

投稿日時 - 2014-05-18 11:33:55

お礼

 ★ 宗教を認めない共産主義の中国でさへ、神からの《独り子》政策を受け入れました。ですから困ることはありません。ケルビムとか、セラピムとかは、独裁共産党に見つからなければ、産んで育てることができます。あくまでも《独り子》は、ミカエルのみです。
 ☆ なんのこっちゃ? 影武者がいるってわけですか? まぁ 天使は 無理でしょうね。

 人間が仕えるのではなく 天使たちが人間に仕えるのですから 《人間イエスであると同時に神の子と呼ばれる天使キリスト・じつはミカエルである》と言っても 迫力がありません。から。(変な理由!)



 ご回答をありがとうございます。

 図書館に行って来ました。
 イエスは ヘブライ語でしゃべっていたという説を立てている次の本を借りて来ました。

 ○ クロード・トレスモンタン;道躰章弘訳:『ヘブライ人キリスト――福音書はいかにして成立したか』2013 水声社
 ( Claude TRESMONTANT: " Le CHRIST HEBREU" 1994)

 
 ねむりねこ氏は あす戻るとのことです。



 


 ★ (ちょっと編集しました)~~~~~~~~~~~~~~~~
 >>それだと おそらくキリスト・イエスが
 >>十字架上に上げられた意味がなくなって来るでしょう。

 「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」

 さういふ気持ちがあればできます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうも天使というのは――哲学としては じっさい 扱いたくないのですが―― それにしてもすっきりしない印象ですね。

 苦しみを減らしてやろうと ローマ兵士が磔のイエスの脚を折ろうとしてやって来たとき イエスはすでに息を引き取っていました。人間ですから とうぜんと言えば当然ですが じつに死を死ぬことができた。

 もう一面で神の子であり神でもあった場合には その人間の側面に別に何も加えたりしないので すっきりしますが もし《キリスト=天使》であったときには どうもこの《死を死ぬ》ということも何だか中途半端であるように感じます。なにしろ天使ですからね。死んだような死んでいないような。・・・どこまで行っても あやふやな状態がつづくような感じです。

 これも 天使ミカエル説をきらう理由です。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 三位一体論は、3個1パックの枠組みを提供してゐるだけで、最終結論との論理的なつながりがありません。三位一体論などなくても、bragelonneさんの解答は充分成立します。むしろ、ないほうが、私のやうな反対派の人間にも受け入れやすくなります。(賛成派には説得力を持つのかもしれません。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ むむ? ええ?

 たぶん 次の一点が なお残るかと考えます。
 もしロゴスが肉(人たる身と心)に成らなかったなら 真理を知れば 自由になるという命題が たぶん人間のあたまの中で観念として ふくらんだり いじくられたり 《おまえは死んだ》と言われたり ただ観念の体操をするだけに終わる。かも知れません。

 虚構は そのつばさを精一杯広げないと 人間は これをおもちゃ〔の神〕としてあそぶことしかしなくなる。
 ★ 3個1パック
 ☆ というよりは 一個3パックのようなおもしろさを持たせないと 返ってなぶりものにされてしまうかも分かりません。



 タガログ:
 ★ (しかも「解決」マークがあるものなのに。)
 ☆ あっ。ちょっと遠ざかってしまっていました。まぁ 推測ですから 仕方ありません。




 ★ シュメール語の質問は「ボケ」のつもりですが、だれも突つこんでくれません。(登場する論文著者は同級生です。)
 ☆ いやぁ 楔形文字 やりましたよ。一つひとつ書いて。しかも いまはすっかり忘却のかなたです。何~~~も覚えていません。きれいさっぱりです。

 古代なら ワン湖周辺のウラルトゥ語もやりましたよ。《能格言語》として これは 有益でした。

 この質問は リンクをまだ見ていません。クラスメートですって? へえ~え。まぁ 気長に見てまいります。


 ★ アリスの質問は「文学」カテゴリなら理解してくれる、と信じてゐたのですが駄目でした。
 ☆ 突拍子もない話をよくも書いたもんだとは思っても あまりよくは承知していません。残念ながら。




 ★ 徳和歌後万載集
 ☆ ??? 《狂歌集》ですって? 引用を引っ張ってくるほど読んでるんですか? まぁ 何と言いましょうか。これはこれは 世界がひろいですね。




 あぁ。
 ★ 私はできるかぎり相手の履歴を見るやうにしてゐます。
 ☆ 百八十度反対側です わたしは。今回 どういう虫の居所であったのか プロフィールを見てみようかと思ったくらいですから。


 ★ 囲碁
 ☆ も たしなみ無く あしからず。(音楽 バイオリンの音色がいいです)。

投稿日時 - 2014-05-18 13:59:02

おはやうございます。回答番号1,3のplapotaです。bragelonneさんの他の投稿文を拝見してゐて理解できないことがらも、かうして1対1でお話をうかがふと、鮮明に見えてきます。貴重な機会をありがたうございます。(ボランティア活動として回答してゐる、といふ人がときどきゐますが、私はこのサイトは、質問者も回答者も共に学ぶ場所だと考へてゐます。)

*** *** *** *** ***

>>という一縷ののぞみがないとも限りません。

私は八方○○ですから、bragelonneさんたちの見解も尊重します。そこから学べるものを、みづからの筋肉にしたいと思つてゐます。
神学を論じる人たちは三位一体を認めるほうが圧倒的に優勢なのではありませんか。Erdbeerkegelsさんや私のやうな言語的アプローチをする者は、認めない立場をとることが多いと思ひます。ただ、あまり聖書になじみのない人たちが、三位一体論を聞かされて、納得できるか、といへば、ほとんど不可能なことだとおもはれます。おもしろい過去Q&Aがありました。
http://questionbox.jp.msn.com/qa7331512.html
昨日kanto-iさんから、最後は収束化して単純に、本質は単純だ、といふお話をうかがひました。私には、その「本質」に到達してゐるやうには見えません。6歳の子供でも神を信じることができますが、三位一体論にはついてゆけないでせう。

ちなみに、ここ哲学カテゴリには笑ひの「本質」があります。意図せずして、笑ひをまきおこす、これこそが単純化された本物です。私には、笑はせようといふ邪念があるので、サイト内ですべりまくつてゐます。しばらくこのカテゴリで修行させてください。

*** *** *** *** ***

>>二重性です。

神の三重性のつぎは、マリアの二重性ですか。ますます複雑になつてきました。

>>定冠詞を置くのを《忘れた》と捉えてみては どうですか?

この部分の異読はないはずです。シナイ写本をはじめとするどの記録もすべて同じです。また、マタイ福音書のやうなセム語の要素が強い(ある意味不慣れな)ギリシャ語ならばともかく、ヨハネ福音書は正統的なコイネー・ギリシャ語であり、誤りとはおもへません。

>>文学的表現のもんだいであると見ます。

私は、書いてあるとほりに素直に読みます。だまされる読み方がいちばん楽しい。

>>ユダイズムからの大河の流れが見られます。

それはおつしやるとほりです。
「子なる神」ではなく、「神の子」(またはミカエル)としての位置づけは、旧約聖書でも新約聖書でもかはらないと考へます。

>>真理にあっては あたかも《記憶と知解と意志とが
>>そのつど同時に決まる》ところ ..........

昨日も書きましたが、三位一体論そのものはおもしろいと感じるのですが、私はそこで思考が終了してしまひます。

>>けっきょくどの神の信仰についても
>>あてはまる普遍性を持つ。

かぎりなく広い普遍性です。
「三位一体論は 役に立ちませんか? 」
の問ひかけに対して、
「ラーメン屋の宣伝に役立ちます。」
といふ回答も充分成り立ちます。
ごめんなさい。悪い意味ではありません。ただ判らないだけです。

はやくNemurinekoNyaさんが復帰してくれないのでせうか。

投稿日時 - 2014-05-18 08:12:12

お礼

 さわやかな朝 お早うございます。ご回答をありがとうございます。



 もしおっしゃるように キリストは《天使ミカエル として神の子》であるとしますと 次の話で《わたしの愛する息子》という場合にも当てはまりますか?

 〔あっ。いま 思い浮かびました。だって 《独り子》って書いてありますよね。だったら ほかにも何人かいる天使では 困るのではないですか?〕

 ▲ (ルカによる福音書/ 20章 9~18) ~~~~~~~~
 9:イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。

   「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
 10: 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
 11: そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
 12: 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
 13: そこで、ぶどう園の主人は言った。

    『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。
    この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

 14: 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。

    『これは跡取りだ。殺してしまおう。
    そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

 15: そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
 16: 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」


 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

 17: イエスは彼らを見つめて言われた。

   「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。

    『家を建てる者の捨てた石、
     これが隅の親石となった。』(詩編/ 118編 22節 )

 18: その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《隅の親石》と呼ばれる家の土台を成す石として――すなわちユダヤにとっての王ないし救世主たるメシアとして―― イエスなる預言者のような者は ふさわしくないと人びとは見なしてこれを捨てた。ところが あとになって分かって じつは 親石となった。

 という話だと思うのですが それは 父なる神の《愛する息子》である。つまり イエス・キリストが自分のことを言おうとしているはずですが これに《天使長ミカエル》でも つとまりますか? 《しもべ と呼ばれた人間としての預言者》ではないのでしょうが いかにそれらの長官だと言っても ひとりの天使なのですが?・・・





 あとは そうですね。

 ☆☆ (趣旨説明欄) 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。
 ☆ ということでなければ・つまり言いかえると《子なる神》が 天使であったとしたら 《一体性》が どこか不十分なかたちになるかと考えられます。

 天使は いかに霊であると言っても 父なる神からそのまま・時を置かずして生まれたという子なる神が 天使であっては 父と同じひとつであるとは言えないでしょうね。


 だから 三位一体説は 成り立たないという見方になるのかも知れません。知れませんが それだと おそらくキリスト・イエスが 十字架上に上げられた意味がなくなって来るでしょう。

 大いなるウソは 最大限の虚構として描いたほうがよいのではないでしょうか? これ以上の大嘘はないというからこそ 去って行ったイエスが 復活したとさえ 虚構をつづけることが出来ます。



 ★ ラーメン屋の宣伝
 ☆ にも 天使ミカエルの場合には よわいチカラしか湧かないように思われます。






 いまの時点で ねむりねこさんの動向は分かりません。もう日曜日ですから 早まることはなくなりましたが 多少おそくなることはあるかと思います。(どんな仕事かも知らないのですが)。





 タガログは 《ひと》ではないでしょうか? 推測ですが。

投稿日時 - 2014-05-18 09:07:37

>>2ちゃん流は やめたとおっしゃっていたのでは?

また削除対象になるかもしれません。それから、マッチの件はしつこかつたやうです。お許しください。

>>ん? どなたですか?

仮面ライダー様です。

*** *** *** *** ***

>>三位一体の説は 
>>神論または人間にとっての信仰としても 
>>きわめて特殊な内容を持ちます。

だからこそ、タイトルのとほり「不人気」といふことでせうか。

>>マリアは ヨセフとの間の性交によってイエスを孕み 
>>同時に聖霊によってキリストを人間イエスの内に懐胎した

私はこのあたりの超自然の解釈をする勇気がありません。処女懐胎といふわけではないのですか。

>>唯一の神について 
>>定冠詞をはぶいている例もあったかと思いますが 
>>その程度ではダメということでしょうかね。

ho logos en pros ton theon, kai theos en ho logos.
(ヨハネ1:1 ギリシャ文字は表示がブサイクになるので、ローマ字にしました。enは長母音です。)

この文の中では、定冠詞のあるなしが、区別されてゐると、私は見ます。そして、冠詞のある前半部分、つまり、ほんとうの「神」と「ロゴス」の間には、en だけでなく、前置詞prosが使用されてゐます。ロゴスは神のそばにゐた、そばにゐただけなら、別別の存在と解するのが自然です。わざわざ「特殊中の特殊」な読み方をする必要はないと思ひます。後半は、ロゴスは「神のかたち」(アダムがさうであつたやうに?うまく訳せません)をしてゐた、と私は解釈します。

>>イエスは キリストとして 
>>モーセやアブラハムよりも先に・前にいた
>>といった内容を示す文章としてです。

いはゆる「天使長」(ミカエル、マイケル、ミッシェル)としての存在です。

>>イエスは ユダイズムから出たはずですよ。

はい。おつしやることはよく判ります。
だからこそ、ユダヤ教にはない、三位一体がでてくるのが不可解です。

>>《結びつけ》は 人間の――
>>つまりわたしメの――勝手なしわざです。

すみません、質問文を普通に読めばさうですね。私の早とちりです。

>>その中身で勝負のぎろんです。

仮に三位一体を認めたとしても、その先の展開の必然性、論理的な筋道を追ふことができません。3個で1パックなら何でも通用するやうに思へます。卑俗な例で申し訳ございませんが、

ラーメン(麺、タレ、具)
行列をつくるラーメン屋はうまい。

哲学者はなぜそんなことを考へようとするのか、これが本日の私の投稿質問でした。私には無理であることはよくご存じでせう。NemurinekoNyaさんたちと議論してくださいませ。


聖書と向きあふのは、自分への戒めとして、そして文学的楽しみとしてです。書いてあることを、「特殊」にではなく、素直に読む、それが基本方針です。
私は今まで、bragelonneさんのやうな読み方をしたことがありませんでしたので、新鮮な驚きがあります。さらなる御教授をたまはりたく存じます。

投稿日時 - 2014-05-17 23:59:35

お礼

 ★ 仮面ライダー様です。
 ☆ なにしろ 《筋肉》りゅうりゅうですからね。――おっと あらためましてこんばんは。ご回答をありがとうございます。―― あの方ともわたしは もう古いふるい仲間です。何を言っても自由な仲です。いまも言って来ていますが。・・・



 ★ だからこそ、タイトルのとほり「不人気」といふことでせうか。
 ☆ なのでしょうが それでももし《現実》と切り結びしているとしたら?・・・という一縷ののぞみがないとも限りません。


 ★ 私はこのあたりの超自然の解釈をする勇気がありません。処女懐胎といふわけではないのですか。
 ☆ いえ。これが――つまり 人と神(霊)との二重性が―― 《処女懐胎》の〔想定としての〕現実性を保証すると考えます。

 キリストの母として聖母マリアであり イエスの母として ふつうの母親です。つねに二重性です。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ho logos en pros ton theon, kai theos en ho logos.
 ・・・

 この文の中では、定冠詞のあるなしが、区別されてゐると、私は見ます。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《定冠詞の無いこと》にもとづく場合には おっしゃるとおりだと認めざるを得ません。つまり ロゴスは 《父なる神》と一体だというふうな存在ではなかった。としか読めなくなります。

 定冠詞を置くのを《忘れた》と捉えてみては どうですか? 内容からは そのほうが ほかのところとの兼ね合いで かなっていると見られます。と思うのですがねぇ。



 ★ いはゆる「天使長」(ミカエル、マイケル、ミッシェル)としての存在です。
 ☆ わたし〔だけでしょうか?〕は 《天使・へび・悪魔あるいは 天の国・地獄》のたぐいは すべて文学的表現のもんだいであると見ます。

 神と人間とのあいだに 事実認識から自由になったという前提に立つ文学の物語として 《使い》が登場する。
 
 人間の心にあたかも巣食う――自由意志のなせるわざとしての――或る思いとそれへの志向があると考えられますから その《心にさからう究極のウゴキ》を へび・サタンとして登場させた。これのみだという見方です。

 天の国は 自由の別名です。《真理は きみたちを自由にする》というときの《自由》を言いかえた言葉です。
 それに反する志向性やその状態 これを《地獄》と呼ぶと。



 ★ だからこそ、ユダヤ教にはない、三位一体がでてくるのが不可解です。
 ☆ これは イエスがエレミヤ書からの直系であるということのほかに イエス・キリストがはりつけの木から去って行ったというときの去り方においても ユダイズムからの大河の流れが見られます。



 (1) モーセがさお(棹)の上にへびを上げて掲げた(民数記21:4-9)ように そしてその意味が人びとの死と生とにかかわっていたように あたかもイエスも十字架に上げられたというその二つの事象の類似に注目した一つの見解があります。(《へび》をしりぞけたばかりなのに 出しますが)。

 ▲ (ヨハネ福音 3:14,16) ~~~~~~
  そして モーセが荒野で蛇を上げたように
  人の子(イエス)も上げられねばならない。
  それは信じる者が一人も滅びないで
  永遠の命を得るためである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 (2) むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。
 
  (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。

  (β) けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。

  (γ) つまりそのあたかも暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。人間の思惟および行動のもんだいにとどまる。

  (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。

  (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。

  (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として 人びとのわが心の燈心に火をともすことを成した。

  (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。

  (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。

  (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。


 (3) すなわち 前項の事態は それとしてすでに《なぜイエス・キリストは 十字架上に去って行ったか》についての説明であるが 同じくそのことは ペテロや弟子たちが イエスについてはイエスが去って行ったあと初めて 神の子キリストなる人間イエスだと分かった。ことを物語っている。

 すなわち生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。

 ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~
 21: 更に、主は言われた。

   「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。
   あなたはその岩のそばに立ちなさい。
 22: わが栄光が通り過ぎるとき、
   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、
   わたしが通り過ぎるまで、
   わたしの手であなたを覆う。
 23: わたしが手を離すとき、
   あなたはわたしの後ろを見るが、
   わたしの顔は見えない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。
 
 


 ★ 仮に三位一体を認めたとしても、その先の展開の必然性、論理的な筋道を追ふことができません。
 ☆ 真理にあっては あたかも《記憶と知解と意志とが そのつど同時に決まる》ところ 人間の相対的な主観真実にあっては みっつの能力行為のあいだに時間差が生じる。中身のマの違いも生じる。わざとマを違えることさえ起きる。

 《自由》とは この時間差やマの違いが限りなくゼロに近づいた場合を言い そのときには 有限なる自由意志が その自由を思う存分享受するようになりましょう。

 といった哲学の命題を指し示すことができます。

 そしてこのようなキリスト信仰は けっきょくどの神の信仰についてもあてはまる普遍性を持つ。こう言い切ってよいでしょう。無神論という信仰についても 同じくです。

 そのときには キリストのキの字も言う必要がなくなります。〔文学に片向くならば〕 あたらしい天とあたらしい地の時代です。

 これらすべては イエス・キリストが――後世に託しつつ――語った。と思っています。神の揚棄として・その成就のために みづからは神の子であるという大嘘をついた。この虚構が じんるいの生き共生することの鍵でありましょう。
 

投稿日時 - 2014-05-18 01:10:21

ANo.2

悟りを開くにあたり、三位一体論は、隣で吠えている犬と同じ程度に、十分役に立ちます。

ただ、このように分析的に物事を細分化して理解しようとしても、貴方はその行き着く末を見通すことなくこの世を去ることでしょう。
もっと「直観」に目を向けてみましょう。
「アンパン」は、幼稚園に入る前の幼児ですらひと目で「アンパン」と判断します。その成分を分析するための大掛かりな計測器を揃えるまでもないのです。

投稿日時 - 2014-05-17 23:32:36

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 悟りを開くにあたり、三位一体論は、隣で吠えている犬と同じ程度に、十分役に立ちます。
 ☆ ん?

 つまり
 ★ 隣で吠えている犬と同じ程度に
 ☆ ですか? いまひとつ分かりづらいようには思いますが ともかく《十分役に立つ》 ですね。




 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただ、このように分析的に物事を細分化して理解しようとしても、貴方はその行き着く末を見通すことなくこの世を去ることでしょう。
 もっと「直観」に目を向けてみましょう。
 「アンパン」は、幼稚園に入る前の幼児ですらひと目で「アンパン」と判断します。その成分を分析するための大掛かりな計測器を揃えるまでもないのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ アンパンが食べるものだと分かる(直観する)ように 神つまりここでは 三位一体なる神 については おそらく心のパン 精神の糧であると やはりひとは直覚しうるのではないでしょうか?


 《天からのパン》だとも言われていますが。・・・



 けれども 哲学としては――三位一体は じっさい哲学が扱う範囲に入るかどうか あやしいと言えばあやしいのですが―― ともかく経験事象に例をとって理解できるように説明する。このことも 必要であり 大事であるとは思います。

 神秘なるものについては できるだけ実際のものごとに即して理解できるように むしろ哲学の出番である。こうも考えます。


 ありがとうございました。

投稿日時 - 2014-05-18 00:07:58

bragelonneさん、こんばんは。私の質問にお越しくださつて、ありがたうございました。ベストアンサーは、○○コンを告白してくださつたkanto-i さんにせざるを得ませんでした。申し訳ございません。画像は、しばしば変更なさるのですね。

>>三位一体論は 役に立ちませんか?

はい。
私は、ユダヤ教、イスラム教に見られる、本来の一神教こそがあるべき姿と考へます。


先日、Erdbeerkegelsさんの三位一体の質問に回答しましたので、顔だけは出しておきます。そのうち、NemurinekoNyaさんが、お相手してくださるでせう。私の師も登場してくださるとよいのですけれど。

私は、聖書以外は信用してゐません。(正典問題は別にして)
もちろん、アウグスティヌスも。
したがつて、神学についての議論はいたしません。

さて、その聖書ですが、創世記1章27節のことばが、どうして三位一体と結びつくのか、理解できません。

>>三位一体なる神については 
>>ヨハネ福音を主なものとして
>>聖書記事からみちびき出した神論です。

どの聖書のことばですか。
ヨハネ1章1節ですか。定冠詞に関する、グランビル・シャープの法則を私は、認めません。定冠詞がないものは、ない。私は素直に読みます。

投稿日時 - 2014-05-17 19:51:29

お礼

 ★ 画像は、しばしば変更なさるのですね。
 ☆ ええ。このアイコンについては ウワキショウです。何だか しっくり来なかったり 飽きて来たり。・・・


 こんばんは ぷらぽたさん。ご回答をありがとうございます。


 ★ ○○コンを告白
 ☆ 少々触れ過ぎぢゃありませんか? 2ちゃん流は やめたとおっしゃっていたのでは? (例によって 何でも言いたいことを言います)。



 ★ 私の師も登場してくださるとよいのですけれど。
 ☆ ん? どなたですか?



 ★ ・・・したがつて、神学についての議論はいたしません。
 ☆ 分かりました。

 三位一体の説は 神論または人間にとっての信仰としても きわめて特殊な内容を持ちます。
 すなわち 《人間イエスが 神の子でありみづからも神であるところのキリストである》という特殊中の特殊です。
 《マリアは ヨセフとの間の性交によってイエスを孕み 同時に聖霊によってキリストを人間イエスの内に懐胎した》というのが わたしの解釈です。(これは 誰のパクリでもありません)。

 たぶん 《役に立つ》かどうかとしてみれば むしろ《アラヒトガミ》の理論を批判的に捉えることに寄与するかも分かりません。




 ★ 〔三位一体なる神という見方をみちびくくだりは〕 どの聖書のことばですか。
 ☆ ヨハネによる福音では いくつかの箇所が挙げられるはずです。

 ★ 定冠詞に関する、グランビル・シャープの法則
 ☆ この議論は知りませんでした。このヨハネ冒頭の文章には 定冠詞がないことは知っていました。これは ほかの箇所でも 唯一の神について 定冠詞をはぶいている例もあったかと思いますが その程度ではダメということでしょうかね。

 ほかの福音書から ひとつ挙げます。イエスの発言として:

 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~
 16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。
  あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
 17:はっきり言っておく。
  多くの預言者や正しい人たちは、
  あなたがたが見ているものを見たかったが、
  見ることができず、
  あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、
  聞けなかったのである。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち イエスは キリストとして モーセやアブラハムよりも先に・前にいたといった内容を示す文章としてです。



 ★ 私は、ユダヤ教、イスラム教に見られる、本来の一神教こそがあるべき姿と考へます。
 ☆ イエスは ユダイズムから出たはずですよ。聖書と言えば ヘブライ語聖書だったはずです。
 けっきょくユダヤ以外の人びとにも 福音を告げました(カナンの女)が もともとはユダヤにだけ遣わされているのだと言っています。

 ただし すでに旧約において エレミヤ書31:31以降において――そしてこのくだりは へブル書8章に取り上げられています―― 《神は 人びとの罪をもう覚えることはない と 人びとはもう神を知れと言っておしえることはない》と書いてあります。

 つまり あたらしい契約のことですが これが イエスの登場によって成就したという見方になります。言ってみれば 神が神みづからによってみづからを揚棄した という預言とその成就です。




 イエスが 旧約聖書から出たということを かんたんに述べます(ご存じでしょうが 一般的に示すことが出来ると考えて):
 
 ○ 歴史にあって俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。~~~~

 アブラハムは 七十歳をすぎているのに 神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ 行き先も分からずに そのようにしました。

 その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき

   《〈わたしはある〉 それが わたしである》
             (出エジプト記3:14)

 という答えを得たと言います。
 さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は 

   《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)

 という言葉を その神から聞いたそうです。
 イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史にまで到りました。

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
              (イザヤ書 61:1-3)




 その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。
 イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み
     油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは
     貧しい人に福音を伝え
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
         (つまり イザヤ書61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

    ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

  と話し始めた。
        (ルカによる福音4:17-21)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 ★ さて、その聖書ですが、創世記1章27節のことばが、どうして三位一体と結びつくのか、理解できません。
 ☆ 《結びつけ》は 人間の――つまりわたしメの――勝手なしわざです。

 その中身で勝負のぎろんです。



 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
               ↓  ↓        ↓      ↓
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________

              ↓      ↓      ↓     ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)


 この《記憶‐知解‐意志(愛)》なる――時間差を伴なった――三一性は アウグスティヌスのもたらしたものです。

 あとは 勝手な推理です。




 ちょっと長くなりすぎましたね。こんなところです。

投稿日時 - 2014-05-17 22:05:26

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