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解決済みの質問

真の宗教と真の科学

 
真の宗教は科学に頼らないし、真の科学は宗教に振り回されない。
宗教の正しさを科学によって裏付けようとする宗教は真の宗教ではなく邪教である。
宗教に依存する科学は真の科学ではなくエセ科学である。
宗教と科学はそれぞれ次元の異なる別々の世界だからである。
宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである?
 


 

投稿日時 - 2014-05-20 09:11:02

QNo.8602813

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。

真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。


従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。

投稿日時 - 2014-05-20 11:20:38

お礼

 
>真の宗教は正しさを問われることはない。宗教は世の道、人の道の精神的な面を説くものであり、その教えに共感できない物に対して強制する性質のものではないのだから、証明を必要としない。

完全に正しい!!!


>真の科学は物理法則以外の何ものにも左右されず、普遍のものである。科学はある系に対して実際に観測される事象の因果関係を証明するものであり、科学的手段を用いていない説明は単なる仮説として扱われるだけである。


完全に正しい!!!


>従って、真の宗教と真の科学にはその性質において重なり合う部分はなく、人の「欲」だけが両者を繋ぐ鍵となりうる。


完全に正しい!!!

つまり宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきであると結論できますね。
 

投稿日時 - 2014-05-20 18:43:00

ANo.8

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回答(23)

ANo.23

こんにちは。


そのように並べられてみますと、
科学(の自由)というものにも「限界」があるのかなと。

「後戻り出来るスピードで、ゆっくり「発展」しましょう」
というのを、聞いた事があります。


「理性」というのが、「ある特定の宗教(的価値観)に照らして、どうよ?」という
こととすると、
科学のほうは「合理性」ということに基づくものと考えます。

(例)「理性的には、太陽が地球を回るが、合理的には地球が太陽を回っている」
結果、「理性」のほうが折れる。
「融合」というより、・・・そんなことの繰り返しではないのですか。

投稿日時 - 2014-05-22 15:48:44

ANo.22

No.20gouzigです。
質問の最後に「宗教と科学は融合するものではなく分離し独自の道を歩むべきである?」のことば。
それぞれ独自の道でよいのです。
宗教を邪教などと誹謗する必要はないのです。
utayomi_2011さん、徐々に言葉使いが荒くなっているのは、まだ幼い証拠。
もっと人生経験を積み重ね、多様な価値観を享受するようにならないといけませんよ。
独りで考えているだけでは、多くの賛同は得られません。

投稿日時 - 2014-05-22 10:27:38

ANo.21

どちらに付くつもりもありませんが、回答No.18に対する質問者のお礼の内容に不満があります。
証明しろと言われて抽象論を持ち出して、自明だと言い切るのはいかがなものでしょうか。
そういう時は普通具体化しませんかね。
回答No.16に対するお礼もおかしい。
何を確証に断言してるんですか。
偏見染みた憶測で勝手なこと言ってもネット以外じゃ誰も相手にしてくれませんよ。
それとも具体的に説明できないんですか。

投稿日時 - 2014-05-21 22:54:26

ANo.20

No.18gouzigです。
その証明をしてください。
→「それは簡単である。
この世界に宗教は雨後のタケノコの如く数多くあれど、その殆どは邪教だからである。
そもそもこれらの宗教は自らの教えを信じてはいないのである。
だから科学に接近し、科学が作り上げた成果物を利用し、科学のお墨付きを得ようとするのである。
そこにはもとより信仰など無いのである」
utayomi_2011さん、それは証明になっていませんよ。
ご自分の文章をよく読んでみてください。
ご自分で勝手に邪教と言っているだけで、客観的な証明になっていませんね。

投稿日時 - 2014-05-21 22:32:04

お礼

えーと、質問に書いてあることは正しいと考えるのであればどのように正しいのかは自分で分かっているんではないのかい。
で、どのように正しい?
 

 

投稿日時 - 2014-05-21 22:53:49

ANo.19

>一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。
そして科学に依存し科学のお墨付きを得ようとする宗教は決まって邪教である。
科学が宗教に依存することは無いなずである。

言葉に棘を感じますが、同感です。

科学は「実証」が出来なければ意味が無いですからね。

また「実証」に便乗するだけの思想は、詐欺商法の典型と同じですから。


でもそんな瑣末な事より、其処まで「形に拘る理由」を自分の中に見出す事の方が楽しいかもしれませんよ。

投稿日時 - 2014-05-21 20:36:48

ANo.18

No.15gouzigです。
「誤解のないように一つ補足しておきます」
一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である」
→何故、宗教が科学に依存しようとしているといえるのですか?
その証明をしてください。
私は宗教が科学に依存しようとしているとは思いませんし、宗教に科学的証明が必要だとはまったく考えていません。

投稿日時 - 2014-05-21 18:57:05

お礼

>→何故、宗教が科学に依存しようとしているといえるのですか?
その証明をしてください。

それは簡単である。
この世界に宗教は雨後のタケノコの如く数多くあれど、その殆どは邪教だからである。
そもそもこれらの宗教は自らの教えを信じてはいないのである。
だから科学に接近し、科学が作り上げた成果物を利用し、科学のお墨付きを得ようとするのである。
そこにはもとより信仰など無いのである。
 

投稿日時 - 2014-05-21 19:31:53

ANo.17

 真の科学と真の宗教はそれぞれの本質を見失わずにそれぞれなりに先へ進んでいけば、矛盾することなく融合することが可能になるのではないかと思います。

投稿日時 - 2014-05-21 11:57:06

お礼

少しコメントします。
真の科学と真の宗教はそれぞれの本質を見失わずにそれぞれなりに先へ進んでいけば良いのである。
2つが融合することが目的ではありません。
またその結果2つが融合しようがしまいが互いに関知しないことである。
 

投稿日時 - 2014-05-21 14:33:32

ANo.16

宗教の意味を貴方は誤解していると思います。或は科学の意味もです。科学も宗教も同じに『人間の幸福の増進を目指す学問』と言う意味においては同列と思うからです。

今の精神医学を見た時、医学は科学であると表現する事は出来ると思います。ですが行き詰まっています、その理由は『心の癒し、或は人間の魂の救い』、簡単に表現するなら『心の苦しさ』を和らげる効果を求めるものが『精神科医や心療内科の仕事や責務』と思いますが、そう云った指導的な役割をする医学者が『国家権力の元において医療に従事出来る構造を形成しています。』

その頂点に立っている指導的な役割を担う人達が『精神科医』と表現出来ると思います。今現代の世界中でその精神科医が処方した『薬』によって、交通事故以上の死者が高止まりに推移しているようです。

その原因は簡単に憶測出来ます、人間の心が何故苦しくなるのか?或は如何したら心の苦しさが解消出来るのか?と言った基本的な原理でさえ解明出来ていないからと思います。その端的な例が『精神科医の自殺率の高さ』です。人の心の苦しさを和らげる仕事を専門にしている人達の集団の自殺率が、他の医師達の自殺率よりも高い事で証明されています。

早い話が『自分の心のケアーさえ出来ない集団が』本当に心が苦しい人達の治療に従事している事が原因と言う意味です、元を正すなら、原因がわからないのに、治療が先行している事です。

如何したら心が苦しくなくなるのかを、知らないで治療に入っているからと思います。逆な言い方をするなら『何故心が苦しくなるのか?』の研究が不足しているからと思います。

人間は何故苦しまなければならないのか?の研究がなおざりになっている事が『全ての原因を作っていると思います。この研究が進まない限り『精神科医達の自殺率など減らす事が出来ない事は明白』と思いますし、そう云ったノウハウを持たない医師が『他人を救う事など出来る筈など無い』と思う事は、誰の目からみても明白と思います。

此処に宗教の力が必要になると思うからです、仏教の原点は釈迦の『一切皆苦』だと思います、一切皆苦の世界観は『意識地獄』を指すと思うからです。意識地獄はノイローゼの世界観と思います。

同じ時代に、同じ世界を見ながら生きていながら、片や意識地獄に苦しみ、片や平穏無事に暮らす事が出来ている、この違いを読み解く事が『始めの一歩に成ると思います。』

意識地獄がノイローゼと書いていますが、ノイローゼには沢山の症状群が在ります、始めにノイローゼの定義を書いて置きます。

ノイローゼとは『自分が、現実には存在しない悩みや、苦しみや、幻想』に取り付かれてしまって、恰も現実の世界で、その『悩みや、苦しみや、幻想』に現実に対応している場合と思います。

現実には存在していない『悩みや、苦しみや、幻想』の中にどっぷりと漬かっているという錯覚がノイローゼと言う意味と思います。

抜け出す事が出来ないでいる、と言う思い込みの世界が『一切皆苦』の世界観ですので、他の道が全て閉ざされてしまったと錯覚をする世界観です。

今の医学では、こう云った世界から『人間を救い出す手段は”薬”が主流になっているようです。』そうして麻薬で救われる人がいないように、処方する人も処方される方も、救われた感じがする事は『刹那的であって、根治や完治』など無い事を知りながら、一つの対症療法でしかないと思いながら、薬に頼っているようです。

そうして精神薬の副作用には『自殺をする可能性は書かれています。』

科学的に悩みや苦しみの構造は『二つの心の関係性です。』つまり、心の矛盾が関係しています。人間の心が一人の人間の脳内に二つ存在している科学的なデータです。


脳の機能分化に関する化学的なデータです。ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

更にこの記事を補強するために、或る脳科学者が『自分自身の内面から』脳の機能分化の体験を脳卒中の為に『体験せざるを得なくなった』貴重な体験談を語っている動画を載せてみます。


もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

この二つのデータから想像出来る事は、二つ在る心のうち『どちらに重心を置いて生きるのか?』だと思います。

メンタル面が弱いと言う場合では、左脳の意識『自我意識が出てしまって』右脳の機能の働きを減殺している事です。

逆にメンタル面が強いと言う場合では、『自我』と言う意識は忘れ去られていて、右脳の人格がその人を支配している事です。

人間の魂の救いと言う意味は『心の矛盾の解消』を意味しています。動画にある通りです。

右脳の機能は『赤ん坊が何も学ぶ事が無かったとしても』全てを知っている事実があります。

聖書の言葉『失楽園』は、右脳と左脳が別々に機能を始める事を書いています。思春期頃に脳内の人格が二つになって別行動を模索し始めると言う意味です。

見ている自分、に対して見られている自分と言う風にです。この二つの意識の争いを『心の矛盾』として感じていると言う意味です。

その結果、恥ずかしい、劣等感と優越感、悩みや疑問、等数え上げたらきり際限が無いほどの感情が沸き上がり始めています。

その疑問の最たるものが『自分は何者か?』と言う疑問です。或は不安や恐怖心です。

心を病む、神経症になる、難治性の心身症になる、と言う意味は『自分自身を働かせている、『自分自身の識られざる神』二疑いを持つと言う意味になります。

赤ん坊でさえ持っている『心の秘密』を疑う時、心を病むと表現したり。


赤ん坊でさえ持っている『身体の自在性』を疑う時神経症になったり、


赤ん坊でさえ持っている『身体の生命維持機能』に疑いを抱く時、難治性の心身症になっています。

全ては赤ん坊でさえ既に知っている機能の使い方を、疑う事が発端になっています。

投稿日時 - 2014-05-21 07:41:45

お礼

 
>『心の苦しさ』を和らげる効果を求めるものが『精神科医や心療内科の仕事や責務』と思いますが、・・・

一つはっきり言っておきます。
精神科医が心の病を治すことは絶対に出来ません。
精神科医が処方するどのような薬も心の病を治すことは絶対に出来ません。
また宗教が人の心の病を治すことも出来ません。
唯一心の病を治すことが出来るものが有るとするならそれは本人の「思想と哲学」以外ありません。
 

投稿日時 - 2014-05-21 15:09:02

ANo.15

gouzigです。
質問に書いてあることはその通りですが、お礼コメントの「全て邪教」はいただけませんね。
それらの宗教は科学で証明しているわけではありません。
つまり科学と混同してはいません。
もしかして、utayomi_2011さんは科学信奉者?
或いはある宗教の信者かな?

投稿日時 - 2014-05-20 23:03:59

お礼

 
>「全て邪教」はいただけませんね。


誤解のないように一つ補足しておきます。

一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。
そのような宗教は自らの教えを信じることが出来ないので科学に依存し、科学のお墨付きを得ようとするのである。
だから科学に接近したがる宗教は決まって邪教であり要注意であると申しております。

投稿日時 - 2014-05-21 14:52:29

ANo.14

utayomi_2011さん、はじめまして。わたしも日頃から疑問に感じてをりますので、返答いたします。

>>真の宗教は科学に頼らないし、
>>真の科学は宗教に振り回されない。

おつしやるとほりです。

>>宗教の正しさを科学によって裏付けようとする
>>宗教は真の宗教ではなく邪教である。

そのとほりです。
でも日本ではあまり議論されることがないので、このサイトで提起なさつても具体性が乏しくなります。

いちばん有名なのは聖書の真実性を証明しようとする「創造科学」でせう。ノアの洪水の証拠を見出さうと躍起になつたり、恐竜と人間が同時代に生きてゐたことを示す化石を探したり、生命の起源に関する科学的根拠の不確かさを神による天地創造の信頼性にむすびつけようとしたり、不毛な議論が果てしなくつづきます。

イスラム教の場合でも、豚肉を食べることが禁止される理由として、数多くの「科学的」根拠を示す人たちがゐます。私はやはらかくておいしいから、好きですけれど。

もちろん、宗教とは、そんなことをするものではありません。

>>宗教に依存する科学は真の科学ではなくエセ科学である。

たしかに「依存」するのは、「エセ科学」です。特に有名な人は、よくもわるくも、アイザック・ニュートンでせうか。

>>宗教と科学は融合するものではなく、
>>分離し独自の道を歩むべきである?

そのとほりです。
しかし、すべては人間活動の一部であり、完全に切り離すことはできません。宗教的な事柄が発想のヒントとなつて、新たな科学的発見につながるかもしれません。天才科学者とみなされるか、マッドサイエンティストと呼ばれるかは、紙一重です。

科学では解決できてゐないものに、解答をあたへる、
宗教では満たされないものを、説明する、
それが哲学の役割であり、私がここで、utayomi_2011さんをはじめとする、みなさんに教へていただきたい事柄です。


なほ、私をふくめ哲学カテゴリで宗教を論じてゐますが、それはこのサイトのシステムでそのやうに指定されてゐるからであつて、私はきちんと「宗教カテゴリ」をつくるべきだとおもひます。

投稿日時 - 2014-05-20 21:41:57

ANo.13

ここでいう科学とは自然科学のことだと思うのですが、
宗教と自然科学は、取り扱う対象が異なります。

自然科学で取り扱う対象は、再現性のある形而下的な現象のみ。
超自然の領域や神さま領域の話は、自然科学の対象ではない。
ですから、そもそも、自然科学に神さまの出番はないんですよ。
神さまという超自然的存在を仮定した瞬間、それは、もう科学ではない!!
それは、《似非科学》です!!


☆宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである?
◇でしょうね。
取り扱う対象が違うので。
そして、それ故に宗教と科学は共存できる、と思いますよ。

投稿日時 - 2014-05-20 21:01:02

お礼

 
>☆宗教と科学は融合するものではなく、分離し独自の道を歩むべきである?
>◇でしょうね。


一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。
そのような宗教は自らの教えを信じることが出来ないので科学に依存し、科学のお墨付きを得ようとするのである。
だから科学の接近したがる宗教は決まって邪教であり、要注意である。
一方、科学が宗教に依存することはあまり無いなずである。

投稿日時 - 2014-05-21 14:46:44

ANo.12

宗教は人々を幸せにすればいいのです。 その為に世界観を語り 人生観を語る。

一方科学は形而下の物質やエネルギーの性質を明らかにすればいいのです。

宗教が科学にいちゃもんをつけたり 科学で宗教を潰す必要はないのです。

ただ科学によって生まれた武器が人々を苦しめ殺した時は宗教や哲学はそれが良くないことを知らしめなければならないし

宗教が間違った認識で人々を苦しめ 時に人々を殺した時は科学によって宗教の間違いを正さなければならない。

ただ 人々を苦しめ、殺す前に第三者がそれをやった方がいい。

ひょとすればそれは市民活動や教育や政治や哲学の役割かも知れない。

哲学よ 確りしてくれ。

投稿日時 - 2014-05-20 16:09:33

お礼

 
>ひょとすればそれは市民活動や教育や政治や哲学の役割かも知れない。

>哲学よ 確りしてくれ。

同感である。
はっきり言って現代社会が今最も必要とするものは優れた思想であり、哲学なのである。
残念ながら今の世の中には哲学がないのである。
実は長年に渡り哲学の進歩発展を阻害してきたものがある。
それがキリスト教神学と呼ばれる宗教である。
今でも生き残っていてしつこく哲学の進歩発展を妨害し続けているのである。
この哲学カテにもいてしつこく聖書やキリスト教神学にまとわり付く愚か者が見受けられる。
哲学が宗教から脱皮できない限り哲学は真の哲学には成り得ないのである。
 

投稿日時 - 2014-05-20 16:32:26

ANo.11

似非の宗教と似非の科学を排除すれば、そこには真の宗教と真の科学が残るだけ。

でも、儲かるのは似非の宗教と、似非の科学だからなぁ。

投稿日時 - 2014-05-20 14:42:03

お礼

>でも、儲かるのは似非の宗教と、似非の科学だからなぁ。

で、例によって肉食妻帯坊主が登場するわけである。
 

投稿日時 - 2014-05-20 22:32:57

ANo.10

All religions, arts and sciences are branches of the same tree.
すべての宗教とアートとサイエンスは、同じ一本の木の枝である。

Science without religion is lame, religion without science is blind.
宗教なき科学は跛行者であり、科学なき宗教は盲目者である。

Body and soul are not two different things, but only two different ways of perceiving the same things. Similarly, physics and psychology are only different attempts to link our experiences together by way of systematic thought.
体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない。
同様に、物理学と心理学は私たちの経験を一緒につなぐ系統立った思考による違った試みにすぎない。

If people are good only because they fear punishment, and hope for reward, then we are a lot indeed.
もしも人々が罰を怖れ報酬を求めるというただその意味でだけ良い人間であろうとするのなら、私たちは本当に哀れな集団である。

Few are those who see with their own eyes and feel with their own hearts.
自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。

           アルバート・アインシュタイン

投稿日時 - 2014-05-20 12:46:00

ANo.9

融合しても良いし、分離しても良い。

どちらでも良いし、どちらで無くとも良い。

どちらかでないといけないと言うのは、ただの宗教。

投稿日時 - 2014-05-20 11:43:46

お礼

 
一般に科学に依存しようとするのは宗教の方である。
そして科学に依存し科学のお墨付きを得ようとする宗教は決まって邪教である。
科学が宗教に依存することは無いなずである。
 

投稿日時 - 2014-05-21 14:39:09

無理だと思う。
こうしてインターネットを使ってまで話していることが
宗教の話だから。

投稿日時 - 2014-05-20 11:06:09

ANo.6

かつて、人の環境認識の手段が、日常的感覚であった頃、
宗教が哲学(価値観)や科学(世界観)を兼ねていた時代
があった。
遺伝の法則を発見したメンデルも、地動説を唱えたコペル
ニクス(宗教に反するというので存命中は発表しなかった)
もジョルダノ・ブルーノ(発表して火あぶりになった)も、
皆んな司祭や修道士であった。
上記に表れているように、観察器具や実験手段が発達する
につれ、日常的感覚による宗教と乖離し始め、実験や観察
によって環境認識を深める科学と、それに基づいて思索的
に意味を探る哲学は、宗教から分離して行った。

そこにおいて、科学的手法の行きつく先は、1つには基礎
科学の持つ、還元主義的に原理的要素の相互作用として
現象的な複雑さを解析する方法と、もう1つは応用科学の、
科学的分析手法は用いるが現象的なまま法則性や可能性
の発見を行う方法である。
たとえば、生物学は元々は後者であった(メンデルが現象的
観察によって遺伝の法則を発見したように)が、その後
の遺伝子の発見から、遺伝子解析を経た遺伝子操作に
至る過程で、生物を観察する生物学から、それを構成する
分子や原子にまで遡って理解する過程で、分子生物学や
量子生物学といった分野が独立した。

原理的な要素把握もしていないのに、現象的な法則性を
普遍化するのは、日常的感受の向こうに第一原因として
の神を見て安心していた宗教の影を引いている。
もちろん、上記の過程に見られるように、全ての現象的
多様性は、物質の本質たる量子(エネルギー最小単位に
して物質の根源たる超弦)から導かれる方向に向かうが、
応用化学の実用的側面の実利において、そうした仮説的
信仰を除外できない。
多くの人が“お金”という信仰において、自己チューなまま
社会性に隷属しているように。

投稿日時 - 2014-05-20 11:05:15

ANo.5

その通りだと思いますよ。
実際に宗教と科学が混在したケースを知りませんが、utayomi_2011さんは具体的な事例をご存知なのですね?
具体的な宗教名は必要ありませんが、ご質問内容あるような事例が書いてあるともっと分かりやすいです。

投稿日時 - 2014-05-20 10:25:30

お礼

 
宗教と科学が混在したケースはそこら辺りにいくらでもあります。
全て邪教です。

まず奇跡を説き、その奇跡が科学的である主張するキリスト教は真の宗教ではありません、邪教です。
ユダヤ教もイスラム教も同類であり、邪教です。
また輪廻転生を現実の現象と教えるヒンズー教や日蓮系宗派は真の宗教ではありません、全て邪教です。
 

投稿日時 - 2014-05-20 18:55:08

ANo.4

 こんにちは。

 哲学は 次のように区別して捉えると考えます。


  信仰: 個人の主観内面にのみ生きる。非思考である。
  宗教: 信仰から出たもの。思考の分野に降りて来た。

     信仰にあって得られた観想(ヒラメキ)について 
    その内容を 経験合理性で思考し得て理解しうるか
    たちに表現したものを オシエとする。

     しばしば このオシエを守るべき教義・規範とし
    て 組織をつくりその内外にも けっきょく《信仰》
    をではなく 倫理規範などのオシエたる思想を広める。

     
  科学: 経験合理性にどこまでももとづき世界を認識する
     作業。

  文学・芸術: 《オシエ》とすることはないが 世界認識
     を 信仰や宗教や思想や科学などなどをすべて自由
     に捉えまた交えて 想像力のかぎりで加工をもした
     りして 提示する。手段は ことばに限らない。


    *    *    *


 エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。
 その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。

   
 言いかえると 言葉は 人が物心のつくにつれて わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らないものだと知る。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができるし 実際に つくことがある。そういう意味でも 表現は自由なのだ。と知った。

 このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。


   *


 ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。

 こうなると ひとは自由であろうと望む。そのときには この自由あるいは人の自由意志を擁護したいと考えるならば  たとえば《われ欺かれるなら われ有り》という考えをいだくようになる。これが 《哲学》である。

 人が思惟をつうじて哲学を生んだ。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。

   


 《われあやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自然本性の能力がある。そこには 自由意志とその自由がある。《われあり》なのだ。

 したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びるものだという自戒を持たせた。と同時にその責任についての自覚が芽生え これが持たれた。自由と責任というもんだいである。

   

 このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)ともプネウマ(神の霊)とも言った。

 《責任をともなう自由》が人には生まれつき自然本性としてそなわるということであれば その自然本性には 人間のチカラを超えた何ものかのハタラキがあるに違いないと見た。これは 思惟を超えて・という意味は あたかも哲学を超えて わが心に《非思考の庭》を捉えることにまで行き着く。思考に非ず なのに そこに何かチカラのハタラキがあるのではないかと。これが 《信仰》と呼ばれる。

 アートマンあるいは仏性があらゆるものに宿るであるとか ひとには 神の霊が宿るといった見方である。



   
 この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。

   神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている
  ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これを
  あやまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは 
  ひとを殺さない。ひとを殺すこともなければ むさぼることも裏切
  ることもなかろう。

 といった命題(判断)を得る。

 この命題を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として抱き おのが心にやどる神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。

 《わが心の内なる非思考の庭》の問題ではなくそこから離れ 戒律や道徳としてその《人間の言葉》に代えた。つまりそのときしかもこれを神のおきて(法)として 説き始めた。これが オシエであり 《宗教》である。



    *


 宗教は 一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この倫理規範と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。

 やがてこれが権威とさらに権力をも持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということであるが(われ欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。

 宗教は 早く言えば 個人の信仰の自殺行為である。そのセミの抜け殻である。自由から出発し 自由を問い求めて来たひとつの結果が このオシエをつうじて 何ものか上に立つチカラによってその自由がおさえつけられるということになった。

 非思考という信仰にある自由が 倫理思想を生んだ。それを 規範としたところで そのオシエ経由による自由でしか無くなった。


    *


 《科学》は 哲学をさらに詳しく問い求めたものである。

 それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。

 あるいは だれの思考や行為であるかにかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとすれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。


 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する。

 そのような人間の自己表出および自己表現なる行為である。

 ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。

    *

 このようにして 世界のすべて・歴史上の人間のあらゆるいとなみについて考えこれを 認識し整理しておく仕事が 哲学である。つねに より妥当性のある認識をもとめてその仕事はつづきます。

 ちなみに 哲学はこのようにしてあらゆるものごとを視野におさめ 想像上においても論理的に考え得るあらゆる可能性について考え尽くすことをもおこないますが このとき その時代やその社会に視点を絞り込む場合があります。

 それは そのいま・その場(社会)で必要有益な事柄に集中して 認識をおこなうと同時にさらにはそこから問題を取り上げそれについての取り扱いを考えるものでありこれは 《思想》と呼ばれます。

 もっとも思想も 哲学にもとづくものですから それほどの違いはありません。

投稿日時 - 2014-05-20 10:21:51

で、そう言うのであれば、科学と宗教のそれぞれの定義を
理解できていますか? 辞書どおりの意味だけでも把握
しておれば、そんな陳腐な単語は並べられないだろう。

因果を明確にし、一定の価値基準の下に論証を行うと
言う点に関して言えば、宗教と科学には共通する点がある。
融合と分離しか無いのかとツッコミを入れたい。

「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である
(Science without religion is lame, religion without science is blind.)」
かのアインシュタインの言葉です。この意味を考えてみましょう。
但し、ヒキコモリになって考えろというのではなく、他の回答者も
言うように、現実の生活において論証実験をしてみろという事です。

投稿日時 - 2014-05-20 10:05:52

お礼

 
>因果を明確にし、一定の価値基準の下に論証を行うと
言う点に関して言えば、宗教と科学には共通する点がある。

一つ言っておきます。
真の宗教とは実は単純なものである。
念仏を唱えさえすれば極楽浄土へ行けると信じ、ただただ南無阿弥陀仏と唱える。
これが真の信仰である。
そこに何の論証も有ってはならないのである。
ただただ信じる以外ないのである。
それが出来ないものは全て邪教である。
 

投稿日時 - 2014-05-20 18:27:53

ANo.2

まず、現時点での科学は、「論理実証主義」に忠実であることが大前提となっています。つまり、科学者は「論理実証主義」の信奉者であり、「論理実証主義」教徒であることを受け入れているのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9

そのように、実用性と合致していることを信条としていく「科学」という宗教があるのと同様に、各時代・各地域での実用性に合致するように生まれたのが千年の単位で受け継がれている各地の宗教なのです。

ですから、宗教と科学が別々の世界でも困りますし、完璧に融合するというのは「科学」の驕りでもあります。

もしかすると、仏教などで、無限小の世界と無限大の世界はつながっている・共有されている、という概念は、現代科学のブラックホール・ホワイトホールや素粒子の(超)弦理論などへの洞察を経て、禅問答した先人たちがたどり着いた境地なのかもしれませんから。

まあ、邪教は、人から財産を奪うとか改宗を迫るとか、不幸な人間を生まないと実践できない教えのことだと思います。

投稿日時 - 2014-05-20 09:40:59

お礼

 
>もしかすると、仏教などで、無限小の世界と無限大の世界はつながっている・共有されている、という概念は、現代科学のブラックホール・ホワイトホールや素粒子の(超)弦理論などへの洞察を経て、禅問答した先人たちがたどり着いた境地なのかもしれませんから。

仏教は科学的であると考えたり、主張したりするのはやめた方が良いと思う。
仏教とは念仏を唱えれば極楽浄土へ行けると信じ、ただただ南無阿弥陀仏と唱える。
これが仏教の全てです。
だから科学とは無縁なものです。
またそうでなければならない。
仏教がそれ以上のことを説いて、自らを科学的であるなどと主張し始めるとその時点で仏教は仏教ではなく邪教になってしまうのです。
自らを科学的であると主張する仏教は全て例外なく邪教です。
だから仏教は科学との接点を一切持つべきではないと考えます。

投稿日時 - 2014-05-20 18:14:59

ANo.1

宗教も科学も 人間世界にあるものなので 一つに まとまる事が出来ます

宗教的に科学を理解し 科学的に宗教を理解出来る 新しい知識さえ備われば容易な事

しかも その新しい知識は 既に この世に出ています

いずれ あなたにも 届く事でしょう

投稿日時 - 2014-05-20 09:32:21

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