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解決済みの質問

神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

 聖書の伝えるヤハヱーなる神は

 みづからによるみづからの揚棄をおこなった。

 つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。


 旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に
 その内容を明らかにして予告し
 それがパウロをつうじて
 かれの著わしたと伝えられるヘブル書で

 けっきょくイエスによって
 〔そのイエスが神の子キリストとして世に
 現われたという想定のもとに〕
 成就した

 と語った。

 すなわち:
 ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

    見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

    それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

    それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである
    ――と、主は言われる。

    すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。
        (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。

 (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。

 ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。
 ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。

 (α‐1)
 ▼ 文字はころし 霊は生かす。
 ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。


 (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。

  すなわち
 (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。
  ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。

 (β‐2) オシエは要らなくなったということ。
  ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。


 (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。

 (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

 (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。

 (γ‐3)
 ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。

 (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。
 ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。



 ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

投稿日時 - 2014-05-21 07:46:59

QNo.8604161

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

bragelonneさん、こんばんは。先回のつづきですね。基本的に、

>>▲ (ルカによる福音書/ 20章 9~18) ~~~~

と同じ内容です。

ごめんなさい。かういふ文章が私は苦手で、初めてbragelonneさんから回答をいただいたときに不適切な表現をして、たいへんご迷惑をおかけしました。「揚棄」といふ用語も先回はじめて知りました。わかる範囲で書きます。

>>律法なるオシエ〔を守ること〕を
>>第一義とするのではないことを示している。
>>石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく
>>そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた
>>思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示している

はい、そのとほりです。万人の認める解釈です。

>>彼らの不義を赦し、
>>もはや彼らの罪を思い出しはしない。

はい、聖書にしるされてゐるとほりです。

>>『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

すみません、ここの意味はわかりません。

>>宗教としてのオシエは不要であり 
>>組織も教会も要らない

私はどの組織にも属してゐません。聖書が好きで、文学として、そして自分への戒めとして活用してゐるだけです。さういふ人間が主張すると、説得力がありませんが、「組織」は必要だと思ひます。(「宗教としてのオシエ」「教会」は不要です。)

「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」
ヘブル人への手紙10章25節 新共同訳

>>キリストにもヤハヱーにも 
>>こだわる必要はなくなっていること。

ここも意味がとれません、すみません。

>>神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置から
>>さらに高いところに揚げて 
>>その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに
>>含まれて〔みづからを〕棄てた。

ユダヤ民族の神 → 世界全体としてひとつなる普遍の神

この図式はそのとほりです。
「〔みづからを〕棄てた。」といふのが理解できません。

>>神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせる
>>ということでありうると考えられる。

私自身はさういふ人間です。でも聖書から導かれる結論なのかは、少し考へさせてください。

*** *** *** *** ***

[先回分]

>>ぜんぶ 承知しましたという受け答えになります。
>>そのようにわたしも受け留めます。

bragelonneさんらしくありません。

>>このいまの質問について こまったことは 
>>クリスチャンからの回答がつかないことです。

聖書を読まない人が多いのではありませんか。残念なことですけれど。

投稿日時 - 2014-05-21 21:44:34

お礼

 こんばんは ぷらぽたさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 聖書を読まない人が多いのではありませんか。残念なことですけれど。
 ☆ 一般には そうですけれど このカテでは 十人を下らない数でいらっしゃると思います。それが ピタッと声が消えてしまいました。
 
 えらそうに言いますが 《降参》ということかも知れないのですが おそらくそれを言わないということは ほかの誰かに反論を期待しているのだと思われます。そして その勉強期間が長すぎます。身近にいる神父や牧師は ひととおり聖書をまなんでいますから。

 このまま沈黙をつづけることは 良心に恥ぢるはずです。クリスチャンでなくても 哲学の徒なら そうだと思います。

 わたしが すってんころりんと転ぶかも知れませんが。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >>ぜんぶ 承知しましたという受け答えになります。
  >>そのようにわたしも受け留めます。

 bragelonneさんらしくありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いまは クリスチャンの出方をめぐって わたしとしては 政治的な駆け引きをさえしようとしているかも知れません。

 《独り子》というのは やはり神の子も 神であると言っているとは思います。意味内容から言っての話です。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
  >>神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせる
  >>ということでありうると考えられる。

 私自身はさういふ人間です。でも聖書から導かれる結論なのかは、少し考へさせてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 《神は何もしない》という表現が舌足らずだったかも知れません。

 すなわちおのおの個人に対しては その心なる《非思考の庭》において ヒラメキをあたえたり 元気づけていたりするかと思われますから。


 言いかえると 

  ○ 神は ひとそれぞれの主観の外には出かけない。外に出かけたかたちでは 何もしない。すべて人間にまかせている。

 とおぎないます。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >>神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置から
  >>さらに高いところに揚げて 
  >>その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに
  >>含まれて〔みづからを〕棄てた。

 「〔みづからを〕棄てた。」といふのが理解できません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも舌足らずだったようです。《ユダヤ民族にかぎった神としては そのみづからを棄てた》。でしょうか。だって 異民族に対して 民族浄化といった大虐殺をさえ命じる神であったわけですから。そういう世界の情況だったと見るかたちだと思います。(民度・人心が 一般にそうであったという見方も出来るかと思いますが)。



 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >>キリストにもヤハヱーにも 
  >>こだわる必要はなくなっていること。

 ここも意味がとれません、すみません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 人類にとって全体としてひとつの神の中に含まれるかたちになれば 個別の神とその名前は こだわる必要がなくなると思います。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
  >>『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。

 すみません、ここの意味はわかりません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここも《信仰は 主観の内にあるのであって もはやその外には出かけない》という意味で いちいち神を知りなさいと言っておしえることはなくなる。ということだと考えます。
 



 あとは 集団ないし組織のもんだいですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >>宗教としてのオシエは不要であり 
  >>組織も教会も要らない

 私はどの組織にも属してゐません。聖書が好きで、文学として、そして自分への戒めとして活用してゐるだけです。さういふ人間が主張すると、説得力がありませんが、「組織」は必要だと思ひます。(「宗教としてのオシエ」「教会」は不要です。)

  「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」
   ヘブル人への手紙10章25節 新共同訳

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) 《主観の外へ出かけない》と言いましたが たとえば勉強会といったかたちで集まりを持つことは 微妙ですが かまわないと考えます。

 (い) ということは オシエをオシエ(教義)としてそれをめぐる知識や〔どういうわけか測ることが出来るのでしょうか の〕信じる度合いによって 聖職者としての地位が決められるなどといった組織形成 これについては すでに要らなくなっている。

 (う) というだけではなく そもそも 信仰が その度合いを外から測ることが出来るといったあやまちを犯していると考えられます。ヒエラルキアは 無理です。そのような権限関係は あり得ないと考えます。

 (え) それが 聖書の研究会や研究組織といった集まりとしてなら ある程度は その習熟度や読解力などの点で 人それぞれに役割をになわせてもよい。と考えます。

 (お) ですから (う)で信仰の度合いによって聖職者の地位の上下が決められるというのは――そうして 信徒一般に対してその聖職者が 上なる地位から神についておしえるということは―― 《非思考の庭》なるおのおのの心をないがしろにする行為である。と考えます。

 (か) パウロにとっては 《宣教という愚かな手段》を用いて キリスト・イエスの名を世界の人びとに伝えることを使命とした。と思われます。

 (き) 禁教として弾圧を受ける場合には 信徒らが寄り集まって防衛することは考えられたようです。

 (く) ▼ かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
 ☆ パウロの手になると伝えられるへブル書のこの箇所など ほかにも同じような意味合いで《世界の終わりが近づいている》と言っていると思います。これは どういうわけか そのように終末が来ていると思われていたようです。――そういうことがあったのだと思います。


 (け) エクレシアとしての教会は ムラ(市町村)議会において〔信仰は主観の外へは出かけないところの〕人びとが議員となって 生活共同のために共同自治をいとなむ。キュリアコン(チャーチ)としての教会は 霊における目に見えない教会つまり 互いに仲間たる人びとの共存が 建物を建てた組織的教会に取って代わるものと思います。

 (こ) 結社の自由という表現行為の自由がありますが 信仰を旗印にかかげつつオシエに拠る宗教の組織は みとめられないのではないか? 信仰という心のもんだいに 他人が外から手を突っ込むような《ひとの意志の無視》が侵されているのではないかとうたがわれます。

 (さ) 話をするだけなら 意志の無視にはならないでしょうが 組織にあっては その地位や権限が ものを言うという要因を持ちうるからです。



 こんなふうに考えているのですが。・・・

投稿日時 - 2014-05-21 23:16:39

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回答(15)

ANo.15

kurinalさんこそ、「辛口」ではありませんか。(笑,笑,笑)

投稿日時 - 2014-05-25 11:21:11

お礼

 どうも そのようです。わたしが 追い込められてしまったようです。


 ご回答をありがとうございます。




 マチガイをふくむ理論をうったえているかたちになってしまいました。

 修復はできません。でも このまますすめようかと思っています。

投稿日時 - 2014-05-25 11:38:27

ANo.14

>「《目からうろこ》なんて 最初に聞いたら いったい何だよ これって表現だと思うと思います。魚ぢゃあるまいに。

 ですよね。」

・・・「全財産を、投げ出さないなら、「氏」を」
です。

投稿日時 - 2014-05-25 01:11:18

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ・・・「全財産を、投げ出さないなら、「氏」を」 / です。
 ☆ 《死》を でしょうか。

 確かに言葉がきついですね。マチガイだと言ってもよいくらいに思いますが わたしがマチガイであるかも分かりません。

投稿日時 - 2014-05-25 06:24:04

ANo.13

国訳・解説 仏所行讃 (馬鳴菩薩造)
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/ButuShogyouSan/ButuShogyouSan00.htm

阿惟三菩提品第十四
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/ButuShogyouSan/ButuShogyouSan14.htm


無断転載禁止だそうなのでリンクだけ。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

しかたないので英語のほうも。
著作権的に問題の無い日本語訳はないのでしょうか。


The Buddha-Carita or The Life of Buddha
by Aśvaghoṣa

Edited and Translated by E. B. Cowell

http://www.ancient-buddhist-texts.net/Texts-and-Translations/Buddhacarita/index.htm


Book XIV
http://www.ancient-buddhist-texts.net/Texts-and-Translations/Buddhacarita/14-Book-XIV.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

こちらに投稿してみます。

以前、話題になったブッダチャリタですが
Book14は、まさにブッダの覚りが描写されているようです。
どうやらサンスクリット版は輪廻の観察、地獄の途中で終わっているようです。

これがはっきり覚りだとはいえないのでしょうけれど
多くの人々に語り継がれてきたブッダの生涯のひとつとして。

投稿日時 - 2014-05-24 21:35:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ○ 因果応報説
 ☆ は ダメでしょう。

 輪廻転生説は 少なくとも現代人は 論外となりましょう。


 そこで 自然現象やそれともかかわった社会的な行為事実の連鎖や相互影響の関係などなどの世界が もし善悪などの人間の評価にもとづく原因と結果との法則的な関係を持つとしたら どうなるか?

 まづ 主観のもんだいであって けっしてその評価内容が共同化されることは 無理だと言わねばならないでしょう。

 仮りに世間が寄ってたかって 同じ評価をくだしこれを共有しているとしましょう。はたしてその《因果応報》なる見方は ただしいか?――けっきょくその成否について 議論が尽きないでしょう。人びとがそっくり騙されるといったこともあるわけですから 決定的な見方は 成り立たないはずです。


 あるいはつまり もしぎゃくに因果応報が――つまり 善因善果(または 善因楽果)および悪因悪果(または 悪因苦果)が――成り立っているとしましょう。そうすると 拉致被害者の人びとは・そしてその家族のみなさんは これは悪い結果ですから その以前に悪い原因となる行為(業)をおこなったということになります。

 つまり 自業自得ということになります。果たして そう見ることが出来るのでしょうか。そう言い切れる人が その理由説明とともに いるのでしょうか。


 さらにあるいはつまり もし自業自得が 善についても悪についても 成り立つとするのならば そのつどの行為が 過去の原因より受けた自業自得であり いま未来の自業自得のための原因となる。ということだと考えられます。つまり すべての一瞬ごとの行為(カルマ)が 自業自得の連続であるということです。

 その《業》には ひとつの行為にも善の部分と悪の部分とがあるのではないか? そのようにして 自業自得の連続となっている。――はたして そうか?


 つまり もし先ほどの拉致という被害のような大きな自業自得でなければ いまの善と悪とをそれぞれふくむカルマの瞬間ごとの因果応報が連続しているのだと言っても よいのでしょう。つまり どうってことのない生活日常のこまごまであるならば 自業自得だと言っても(言われても) あぁ そうかで済まされます。

 問題は 大きな自業自得のばあいだと考えられます。

 けっきょく そんなことは 決まらない。決められない。また 拉致被害者の人たちに おまえたちは 自業自得であると言えるか? 

 こういった問題が横たわっているはずです。

 それについて 《さとり》は 及んでいないようです。

投稿日時 - 2014-05-24 22:42:48

ANo.12

bragelonneさん、こんばんは。私は今日はずつと、よそで遊んでゐました。外国語カテゴリが良い雰囲気になりつつあります。ぜひまたお越しください。kazamidori365さんも。

だんだん話が主題からそれてきました。もうこのあたりで私は退出すべきかと感じてゐます。未決の問題は宿題といふことにして。ゆつくりやりませう。

イスラム教に関しては、古い契約が終了したにもかかはらず、あひかはらず、豚肉を食べることを禁止したり、メシアの系図がイサクを通さなかつたり、旧約聖書・新約聖書につづくものだとは考へられません。私はbragelonneさんに、賛成です。でもコーランの朗誦は心地よいものです。アラビア文字もきれいですし。

投稿日時 - 2014-05-24 18:58:45

お礼

 こんばんは ぷらぽたさん。ご回答をありがとうございます。


 まぁ アッラーフ( the God )も エローヒームも同じ語であるわけなのにですね。



 おみな と をみな とについてツッコミがありましたね。確認しました。

 ökina (翁)・ ömina ( > ömna > öuna 媼)

 womina (美女・女 < * wo(小)-ömina (媼)(大野晋))

 
 ほかに 男・女を表わす語には きちんとした把握が大事なように感じました。



 あたらしい質問への移行は 考えています。
 

投稿日時 - 2014-05-24 20:11:12

ANo.11

こんばんは。plapotaです。

>>クルアーンの言葉・概念・思いは 
>>思想ないしオシエではあっても 
>>信仰ではないと帰結されます。

イスラム教は、ユダヤ教、キリスト教につづいて、生れたものとされます。しかし、クルアーンの記述は、旧約聖書と新約聖書の場合のやうな整合性がなく、私は、bragelonneさんに同意見です。ただし、イスラム教徒の(過激な部分は別にして)宗教への真摯な姿勢には頭がさがります。

kazamidori365さんの見解は興味深いものですね。いままで気付きませんでした。

投稿日時 - 2014-05-23 19:42:26

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 新約聖書で神の名は 《わたしはある》。そう言えばそうなんですが これを推し出した議論は いままでまづ聞いたことがありませんでした。わたし自身も気がつきませんでした。
 
 ヤハヱーとの兼ね合いで――もしくは 違いを示す意味で――果たして 《エフヱー》というその名を持ち出してくるか? 何とも展望などが 分かりません。




 ★ しかし、クルアーンの記述は、旧約聖書と新約聖書の場合のやうな整合性がなく、私は、bragelonneさんに同意見です。
 ☆ そうなんですか。それは ほとんど初めての同感票です。

 知識人のあいだにけっこうイスラーム派は 多いように思います。なぜかが まだわたしは説得されていません。

 ★ クルアーンの記述は、旧約聖書と新約聖書の場合のやうな整合性がなく、
 ☆ これは じつは 言いえて妙だと思っています。中身でぐっとくるところがとぼしいんですよ わたしにとって。それか 専門家にさらに解説してもらえればよいんですが。


 ありがとうございます。


 

投稿日時 - 2014-05-23 20:54:19

ANo.10

新約聖書に神の名前が登場しないのですか?

ヨハネ福音書の
08:58イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」

これの『わたしはある』が神の名前のことだと思っていました。

投稿日時 - 2014-05-23 13:23:53

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 △ (ヨハネによる福音書/ 8章 57-58) ~~~~~~~~~
 57: ユダヤ人たちが、

   「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、
   アブラハムを見たのか」

  と言うと、

 58: イエスは言われた。

   「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、
   『わたしはある。』」

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど この新共同訳では おまけに括弧がつけられています。神がモーセに名乗ったその言葉を引いて言われているということを示すのでしょうね。

 そういう掛け詞になっているのかも知れないですね。その意味で 《なるほど》です。

 ただし これは 直前の 8:57 での《アブラハムを見たことがあるのか?》という問いを承けての答えでもあります。
 ですから 《いついつから わたしはある》というふうな意味で あたかも生まれが遠い昔であり アブラハムより前からいると言っていると読めます。こちらのほうが むしろ筋ですね。

 それでも モーセに名乗ったその名が 掛けられている。と じゅうぶん言えそうです。《神の子キリストとして》なら 何の問題もなくそう言えます。




 この名の《エゴー エイミ。 / エフヱー。 eHWeH. 》は 例によって √HWH (たとえば ハワー:ある)なる語根を同じくして ヤフヱフ( yaHWeH. ヤハヱー)》とも通じていますので 名前として受け取れないわけはないと思われます。




 どうなんでしょう。たぶん そうであるとして ただしあまり聖書記者らも神の名として触れることが少ない。という事情にあるのでしょうか。だから あまり議論としても 取り上げられていない(かな?)のでしょうか。



 ううーん。どうなんでしょう。
 キリストの神は ヤハヱーかまたは エフヱーかである。と言おうと思えば 言えるでしょうか。
 
 いままで聞いたことがなかったので そのままを 受け留めていました。

 どうですかねぇ。

投稿日時 - 2014-05-23 15:07:56

おはやうございます。回答番号3,5,7,8、plapotaです。

>>誤解を生むような表現だったと思ったのですが。
>>これは どうもすみません。
>>失礼しました。以後 気をつけます。

誤解が解けて何よりです。私は、ただ単に、9歳の女の子が好きなだけです。

>>くりなる氏は
>>ゴウインマイヱイの方のようです。

わが道をゆく、ですか。kurinalさんの投稿文の意味が理解できないことが多いのですが、その意図を考へてみるのが好きです。でも、結局つかめません。kurinalさんの質問に、回答できるのは、いつのことなのでせうか。

>>宣教という伝え方そのものについて言っていると
>>読んでいました

もうすこし考へさせてください。昨日初めてうかがつた見解なものですから。聖書の器の大きさを感じます。もちろん、bragelonneさんの大きさも。

>>ちょっと見る角度が違いましたか?

いいえ、おつしやるとほりです。
新約聖書のなかで、神の名前が登場しない、その点を突かれるのではないかと、心配してゐました。私のやうに、書いてあるとほりに受けとる、といふ立場の人間にとつては、すこぶる都合の悪い状況です。

投稿日時 - 2014-05-23 05:36:55

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ 新約聖書のなかで、神の名前が登場しない、
 ☆ そう言えば そうですね。だからわたしも 《キリストの神》などと呼んだようです。



 ○ 宣教
 ☆ これは もっとも 表現の自由として 神のことを語ったりすることまでは まったく自由なのですが。そういう意味で《外に出かける》ことはありですね。そういうことでしたね。

 




 別の質問のねこ氏への応答でしるしましたが わたしはどうもイスラームが分かりません。

 クリスチア二ズムにとっての《中世》の時代が イスラームにとっては いままだつづいていて それで そういう情況になっているのか。

 あるいは そもそも預言者ムハンマドの口を借りて アッラーフが 直接に人間の言葉を語った。オシエ以上の《神との接触性》がある〔かに感じる〕。ゆえに 外部の者の予断をゆるさない《非思考の庭》の在り方があるのか。

 けれども 信仰は 《非思考》であると見るかぎりでは クルアーンの言葉・概念・思いは 思想ないしオシエではあっても 信仰ではないと帰結されます。

 いやぁ なかなかです。分かりにくいです。

投稿日時 - 2014-05-23 09:24:08

回答番号3の「お礼」で教へていただいた説明への回答です。
いつもながら、単純なものですみません。

*** *** *** *** ***

>>神は ひとそれぞれの主観の外には出かけない。
>>外に出かけたかたちでは 何もしない。
>>すべて人間にまかせている。

はい、現実的に、さうなつてゐます。

>>ヒラメキをあたえたり
>>元気づけていたりするかと思われますから。

さいふフォローがあるのでしたら、納得できます。

*** *** *** *** ***

>>《ユダヤ民族にかぎった神としては そのみづからを棄てた》

たしかにさうなりました。

*** *** *** *** ***

>>人類にとって全体としてひとつの神の中に
>>含まれるかたちになれば 
>>個別の神とその名前は 
>>こだわる必要がなくなると思います。

ひとつしかないものに、名前はいらない、といふ意味ですね。
ここだけは、同意しかねます。
普通名詞と固有名詞は、別ではないでせうか。
ただ、おつしやるとほり、過度に「こだわる」必然性は少なくなります。

投稿日時 - 2014-05-22 21:07:25

お礼

 つづいて ご回答をありがとうございます。


 ★ 普通名詞と固有名詞は、別ではないでせうか。
 ☆ それは ごもっともです。

 そうですね。

 あっ。ですから有神論と無神論とが 類型として同じひとつの信仰である。つまり《無い神》という名前でも 《神》や《キリストの神》などとまったく同じく 《人類にとって全体としてひとつの普遍なる神》のことを言う。

 となれば それらは互いに別なのですが それでも《普通名詞の〈かみ〉やゴッドやデーワや》と《ブラフマンやヤハヱーやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)やという固有名詞の神》とは けっきょく信仰形態として 互いに同じこととなる。のでは?

 ひとにとって《非思考の庭》としては みなまったく同じであると捉えます。そこで受け容れられているものは いかに神の名が違っていても すべて《非知》なるものです。


 
 固有の神の名にこだわる必要がなくなると言っても 自分の神は アミターバ・ブッダであると言って それに片寄っても 何ら かまわないとも思います。




 ちょっと見る角度が違いましたか?

投稿日時 - 2014-05-22 22:20:20

こんばんは。回答番号3,5、plapotaです。外国語カテゴリに、すばらしい人がゐたので、先にそちらをすませました。

今朝の投稿は簡単にそれでおしまひ、のつもりでしたが、明らかに私の不勉強でした。bragelonneさんは、容赦なしですね。

*** *** *** *** ***

まづは、大事なことから。

>>あなたのテーマのひとつにかかわりが無いとも限らない?
>>ですか?

何か誤解があるやうですが、私は○○コンではありません。ただ9歳くらゐのかはいい女の子が好きなだけです。「子供」についての見解は、先週の「遊び」の質問の回答番号1で述べました。(0fool0さんは、質問、回答ともにはりきつてをられるやうで、何よりです。)人間の本質、それが子供です。

http://questionbox.jp.msn.com/qa8587070.html

>>決して一般に納得のいくかたちでは
>>処罰ないし更生へむけての措置が
>>おこなわれていないようです。

以前から大問題として取り上げられながら、いつまでも進展しない状況です。「補足」もありがたうございました。たしかに独身制の廃止もひとつの解決の方法でせう。それ以前に、教会としてのあり方の問題だと思ひますけれど。性的被害者のかたがたにはまことにお気の毒としか言ひやうがありません。信仰の結果がこれでは、痛ましすぎます。

*** *** *** *** ***

>>挑発的でもありますが
>>クリスチャンの方々に元気を出して欲しいと
>>思ってのことでした。

私の書き方が極端すぎました。言ひたいことは同じです。議論に参加しないなら、もつと楽しい話題で会話をする、そんな機会も必要ではないかとおもひます。回答番号6のkurinalさんがくははると、短い言葉で一刀両断にされさうですけれど。

*** *** *** *** ***

>>ペテロにかんしましては
>>いちおうの根拠がないわけではありません。

たしかにこれがカトリックの主張する根拠です。はづかしながら、まだこの解釈は自分のなかでまとまつてゐません。しかし、ペテロがなんらかの権力や組織支配に関与してゐたといふ実際の状況が描かれてゐません。あとは、この解釈次第です。

*** *** *** *** ***

>>そういうウワサの問題であるように思います。

柔軟な発想ですね。いつの時代も「ウワサ」は大きな影響力をもちます。たしかにさうなのかもしれません。ありがたうございます。

*** *** *** *** ***

>>宣教(パウロ:コリント前書 1章 21節)
>>世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。
>>それは神の知恵にかなっています。
>>そこで神は、宣教という愚かな手段によって
>>信じる者を救おうと、お考えになったのです。

これはまさしく私の不勉強です。いままで読みとばしてゐました。ご教示ありがたうございます。今考へてみました。宣教の「行為」そのものが、「愚か」といふのは、納得しかねます。

この場合の「愚か」といふのは、「結果」としての「愚か」ではありませんか。言い換へれば「無駄」もしくは「徒労」です。宣教をされた側の「世」は、「自分の知恵で神を知ることができませんでした。」

せつかくの宣教も、聞く耳もたずの人たちには、無駄だつた、といふ意味に読めます。

*** *** *** *** ***

設問が多すぎて、追ひつきません。たちまちは、ここまでで許してください。
いつも新たな刺激をありがたうございます。

投稿日時 - 2014-05-22 20:22:06

お礼

 ★ 何か誤解があるやうですが、私は○○コンではありません。
 ☆ いやぁ そうなんですか。誤解を生むような表現だったと思ったのですが。
 これは どうもすみません。失礼しました。以後 気をつけます。


 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 カトリック神父による児童虐待:
 ★ 信仰の結果がこれでは、痛ましすぎます。
 ☆ 異議ありません。もっと世界中が弾劾するようになってもいいと思います。




 くりなる氏は ゴウインマイヱイの方のようです。





 ★ しかし、ペテロがなんらかの権力や組織支配に関与してゐたといふ実際の状況が描かれてゐません。あとは、この解釈次第です。
 ☆ なるほど。ペテロの生前に出来た制度ではないのではないか? ということですね。




 ★ 宣教の「行為」そのものが、「愚か」といふのは、納得しかねます。
 ☆ わたしは ここは単純に《神は ひとの主観の外へは出かけない》という基本から言って パウロは イエス・キリストの名前だけは 人びとに伝えたというとき それでもそれは やや《外に出かけようとしている》と思われるゆえ 《おろか》だと言っているのではないか。です。



 ★ せつかくの宣教も、聞く耳もたずの人たちには、無駄だつた、といふ意味に読めます。
 ☆ そういう事態も出て来るのでしょうが 宣教という伝え方そのものについて言っていると 読んでいましたし いまもまだ そう見ています。すなわち もし人であるなら誰にでも 神の霊がそなわっているというのなら わざわざ伝えることもないではないか? といった物言いが予想されますから。


 と言いますか 聞く耳を持たずは それとして大きな問題ですね。
 

投稿日時 - 2014-05-22 22:08:19

ANo.6

B様、こんばんは。


私は日本語訳しか、読んだ事がありませんし、判りませんが、
聖書の文言って、「へえ、これは凄い(そんなこと言ったのか、やったのか)」
ってのは、ありますね。

投稿日時 - 2014-05-22 17:33:26

お礼

 なるほど。短い語句でも 入ってくるものがある場合があります。

 《目からうろこ》なんて 最初に聞いたら いったい何だよ これって表現だと思うと思います。魚ぢゃあるまいに。

 ですよね。


 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2014-05-22 18:57:14

おはやうございます。ショッカー戦闘員番号3、plapotaです。
私の理解力不足のせいで、丁寧な「お礼」をいただくことになり、申し訳ございません。

>>このカテでは 
>>十人を下らない数でいらっしゃると思います。

そんなにたくさん、ですか。私は書き込みを始めて2箇月足らずですので、皆さんの個人的背景がわかりません。自分としては、お互ひに話が通じやすいやうに、履歴公開もふくめて、みづからの素性はなるべくあきらかにしてゐるつもりです。

>>このまま沈黙をつづけることは 
>>良心に恥ぢるはずです。
>>クリスチャンでなくても 
>>哲学の徒なら そうだと思います。

スルー、
読むだけで、スルー
読んで、投稿する、

どうするかは自分で選ぶ、これがQ&Aサイトのやり方ですので、よろしいのではありませんか。聖書の好きな人がたくさんゐるのでしたら、みんなが参加できる楽しい質問を投稿したい。私は聖書はさういふものだと思つてゐます。そのためには「宗教カテゴリ」が必要です。といふよりも、「聖書カテゴリ」があつてもいい。ついでに「アリスカテゴリ」もほしい。

>>《独り子》というのは やはり神の子も 
>>神であると言っているとは思います。
>>意味内容から言っての話です。

安心しました。

*** *** *** *** ***

簡単に回答できるものをひとつだけ。あとは帰宅してから考へます。

「組織」に関しましては、bragelonneさんに同感です。Erdbeerkegelsさんの三位一体の質問への回答でも書きましたが、聖書の内容を無視して、「教会」の「オシエ」を優先する、この姿勢は許せません。むしろ、イスラム教徒の誠実な態度に好感を覚えます。佛教の場合は、佛典そのものが確定してゐないので、かういふ問題が生じません。どうにでもなる、ある意味便利がよいのかもしれません。

カトリックは、ペテロの存在を、法王の根拠としますが、聖書を読むかぎり、ペテロがそんなことをした記述はありません。

組織が大きくなれば、腐敗もおこりやすい。どこで線をひくか、むづかしいところです。

>>パウロにとっては 《宣教という愚かな手段》を用いて

私は聖書を素直に読む立場ですので、「愚かな手段」とは思ひません。むしろ、こんなことができる人を尊敬します。

>>パウロの手になると伝えられるへブル書のこの箇所など 
>>ほかにも同じような意味合いで
>>《世界の終わりが近づいている》と言っていると思います。

「ヘブル書」の著者には諸説ありますが、わたしもパウロ説有力派です。「世界の終わり」の表現は、何度聖書を読んでも自分なりの解釈ができないものの一つです。

>>エクレシアとしての教会は..........

これも賛成です。

>>信仰を旗印にかかげつつオシエに拠る宗教の組織は
>>みとめられないのではないか?

そのとほり。すべては筋肉だ!

投稿日時 - 2014-05-22 06:28:55

補足

 一般にみなさんにも参考になるかと思い 次の記事をここに引きます。


 ◆ 神父たちの愛人が「独身制廃止」要求 ‐ 長谷川 良 ~~~~~~
  http://blogos.com/article/86820/

 アゴラ 2014年05月21日 10:50


 24人のイタリア女性たちがフランシスコ法王宛てに公開書簡を送り、その中で聖職者の独身制の廃止を請願している。24人の女性は神父や修道僧の愛人であり、密かに同棲生活をしてきた女性たちだ。

 興味深い点は、同記事を最初に報じたのはインターネット・メディアのバチカン・インサイダーだが、バチカン放送が5月18日、一日遅れでそのニュースを掲載したことだ。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2014-05-22 09:12:31

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。



 ★ ペテロ
 ☆ にかんしましては いちおうの根拠がないわけではありません。

 ▼ (マタイによる福音書/ 16章 17-19) ~~~~~~~~~
 17: すると、イエスはお答えになった。

     シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。
     あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、
     わたしの天の父なのだ。
 18:   わたしも言っておく。
     あなたはペトロ。
     わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。
     陰府の力もこれに対抗できない。
 19:   わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。
     あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。
     あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 考えるにこれは イエスの生前ではイエスが高等法院によって捕らえられたとき ペテロを代表としてのように弟子たちがみなイエスを知らないと言って裏切った。そのように 生前では いかに言葉としてはイエスがキリストとして神の子であると言っていたとしても その意味は誰にも分からなかった。

 つまりは イエスが十字架上に去って行ったあとやっとその背面を見るかのごとく 神の子だと分かったというのは 非思考の庭(つまり 信仰)のもんだいであると弟子たちも知った。

 イエスは 人びとにとって 精神の支柱〔だけ〕であるのではなく 人間の精神を超えた霊の領域のもんだいなのだと分かった。ましてや ローマ帝国からのユダヤ民族の政治的また軍事的な解放のためのメシアであるのではないということ。

 このことが腑に落ちた人間として ペテロらに《天の国の鍵がさづけられた》。ということであるかと思われます。





 ★ 「世界の終わり」の表現は、何度聖書を読んでも自分なりの解釈ができないものの一つです。
 ☆ これは 時代と社会との思潮ないし風潮であったということではないのでしょうか。

 イエスにちなんで むしろこのユダヤイズム・イエスキリスト派が 心理的に持つようになって流したのであるかも分かりませんが そういうウワサの問題であるように思います。



 ○ 宣教
 ▼ (パウロ:コリント前書 1章 21節) ~~~~~~~
 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

 ▼ (同上 2章 4節) ~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 ☆☆ 良心に恥ぢるはず
 ☆ まぁ 挑発的でもありますが クリスチャンの方々に元気を出して欲しいと思ってのことでした。


 ★ 聖書の好きな人がたくさんゐるのでしたら、みんなが参加できる楽しい質問を投稿したい。私は聖書はさういふものだと思つてゐます。
 ★ むしろ、イスラム教徒の誠実な態度に好感を覚えます。佛教の場合は、佛典そのものが確定してゐないので、かういふ問題が生じません。どうにでもなる、ある意味便利がよいのかもしれません。
 ☆ となれば 《信仰(非思考の庭)》とはどういうことか? しかもその普遍性について 確認しておくことが 次の一歩でしょうか。これも 問うて来ていますから あらためて質問に挙げてみたいと思います。




 ○ 仮面ライダー
 ☆ は 知りませんで ウルトラマンとの違いもよく分かりません。ちらっとヰキぺを見たら
 ★ ショッカー
 ☆ って 悪の組織ぢゃないですか? どうなってるの?





 カトリックでは 神父による児童への性的虐待なる不法行為が跡を絶ちません。
 犯罪が起こることについては 百歩ゆづって ひとりカトリックのみをとがめることをしないとすれば 問題は その事件についての処理についてです。

 決して一般に納得のいくかたちでは 処罰ないし更生へむけての措置がおこなわれていないようです。

 ◆ (ヰキぺ:カトリック教会の性的虐待事件)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%80%A7%E7%9A%84%E8%99%90%E5%BE%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ☆ 隠蔽が問題であるようです。


 あなたのテーマのひとつにかかわりが無いとも限らない? ですか?

投稿日時 - 2014-05-22 07:42:28

ANo.4

いやー、あんたの解釈は十分面白いよ。
それでも、東洋の曙にこだわる私からすれば十分西洋タコ何だがね、あんたが挑戦するのは西洋に対してだから外国のSNSなんかで勝負しない限りむなしいんでないかい。
私には、あんた論理は理想に燃えた、美しくもある論理だと解釈できるが、面白がられるだけだとつまんないんでないかい。

投稿日時 - 2014-05-21 22:32:09

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。

 《土俵》と《リング》との違いがあって それがいくらかは影を落としているかも知れません。


 わたしの方針は 理論として基礎が固まっているなら あとは 対話において実効性のあるほうの道をゆきます。

 その結果 いまのような恰好を採るに到っています。

 わりと必然性はあるわけです。


 それでも ただし 欧米に向けての対話であるとしても ここでは日本人が いわゆるクリスチア二ズムにかんして 基本的な態度を決めて持つということを目指しています。

 また いくつか基本となる主題について 言うべき視点や内容を論じ合っておくということ。こういうことを固めて行こうとしています。





 ところが まだ特典や効用があります。
 このように聖書なら聖書をまなび 日本人としてまた人間としての見方を問い求めて行く過程で じつは 日本の思想や内外の伝統的となった思想についてのおのが態度を決めるという作業をしている。おそらく こういうことだと言ってよいと考えています。

 なかなか SNS――じっさいには知りませんが――どころの話ではない。のです。

投稿日時 - 2014-05-21 23:27:53

修道院からさっさと出て来い
ということではないでしょうか。

それにしても、修道院に行った人と面会というのは
できないものなのでしょうか?

投稿日時 - 2014-05-21 10:37:53

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 修道院
 ☆ は そもそも制度が 特殊であって 檀家制度の寺や僧侶とは違うと考えられます。

 ★ 修道院からさっさと出て来い / ということではないでしょうか。
 ☆ これを
 
   ○ 聖職者なる特別の生活形式を採る教会に立て籠もることなく その制度そのものをみづから解体せよ。

 という意味に採れば 賛成です。

 修道院生活は そもそも外界とは関係を持たないようにして自給自足するかたちにおいて おのれの生涯のすべてを すでに生まれて来たことを初めとするめぐみを人間として受けたことを感謝しつつ ささげるというものです。すでにそれほど幸福なひとが入るところです。


 けっして修行のためではないとわたしは 考えます。神に近づくためではなく そうではなく すでに神のふところにいだかれている人間が そういう人生をおくるところです。

 そのような感謝のいのりを日々ささげている人がいるということに 外部にあるわたしたちが思いをいたすなら 少しは 勇気がもらえるのではないかと考えます。





 ★ それにしても、修道院に行った人と面会というのは / できないものなのでしょうか?
 ☆ これは 実際を知らないのですが できるのではないでしょうか?

 つまり もっともきびしい修道院でも 身内つまり家族なら 年に一回面会できるとか 月に一通の手紙をとどけることが出来るとか 聞いています。

 その外部との交流は その修道院を運営する会によって 開かれているかどうかの程度に差があるとか聞いています。

 でも詳しくは知りませんので その点 ご承知おきください。

投稿日時 - 2014-05-21 11:35:54

おはようございます。


エレミア書では、
~~~~~~~~~
31:36主は言われる、
「もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、
イスラエルの子孫もすたって、
永久にわたしの前で民であることはできない」。
31:37主はこう言われる、
「もし上の天を量ることができ、
下の地の基を探ることができるなら、
そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫を
そのもろもろの行いのために捨て去ると
主は言われる」。

http://bible.salterrae.net/kougo/html/jeremiah.htm
~~~~~~~~~
と続きますよね。

この神さまのお言葉を額面どおりに受けとれば、
《新たな律法》も廃れることがある。
これは永遠の律法ではない、
となる。
そして、
この新たな律法に背けば、
神から見捨てられる。
人は再び(?)神と別居状態に至るのだ。
その結果、
夫に捨てられた妻は嘆き悲しむ・・・。


神さまは引っ込んでいない、
神は要らなくなっていない、
依然として人間に干渉し続ける、
となりませんか?

投稿日時 - 2014-05-21 09:14:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづユダヤ民族にかんする言葉について見てみます。
 ▼ (エレミヤ書 31:37) ~~~~~~~~~
 主はこう言われる、
 「もし上の天を量ることができ、
 下の地の基を探ることができるなら、
 そのとき、わたしはイスラエルのすべての子孫を
 そのもろもろの行いのために捨て去ると
 主は言われる」。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なぜかこちらのくだりのみを取り上げますが ここは 《アブラハムの子孫》という言葉が ユダヤ民族以外の人びと〔のあいだの信仰の人たち〕にも及ぶと見られるのと違って どちらかと言うと 血によるユダヤ人について言っていると捉えます。

 〔いえ。もっと複雑で 《イスラエルのすべての子孫》と言うことによって ユダヤ以外のじんるいに及んでいるとさえ受け取りますが 《神がその民を捨て去るかどうか》にかんしては むしろユダヤのことを言っているように感じます〕。

 すなわち このエレミヤ預言ののち 例によってイエス・キリストが現われたところ ユダヤ人はイエスを無き者とすることによって神から《捨てられる》。けれども・それでも ユダヤ人は――そのほかの諸民族の人たちが いわば信仰ということにかんしては《接ぎ木》によってつながったものであるのとは違って―― 初めから《神の民》であるということ。このことを保証している文章だと捉えます。

 たとえばパウロが言うには:
  ▼ (パウロ:ローマ書 11章 25-29) ~~~~~~~
 25: 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。

   すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
 26: こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。

    「救う方がシオンから来て、
     ヤコブから不信心を遠ざける。
 27:  これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、
     彼らと結ぶわたしの契約である。」
      (イザヤ書 59:20-21)

 28: 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
 29: 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~







 つづいて少し偏向して 前半のくだりを 全人類に向けての言葉と受け取ってみます。

 ▼ (エレミヤ書 31:36) ~~~~~~~~
 主は言われる、
 「もしこの定めがわたしの前ですたれてしまうなら、
 イスラエルの子孫もすたって、
 永久にわたしの前で民であることはできない」。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この神さまのお言葉を額面どおりに受けとれば、
 《新たな律法》も廃れることがある。
 これは永遠の律法ではない、
 となる。
 そして、
 この新たな律法に背けば、
 神から見捨てられる。
 ・・・

 神さまは引っ込んでいない、
 神は要らなくなっていない、
 依然として人間に干渉し続ける、
 となりませんか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ならないと考えます。

 (あ) 《胸板に書き記される律法》は すでに《霊》であって《文字〔によるオシエや戒め〕》ではありません。《ルーアハ(息・風・霊・たましい) / アートマン(息・霊我) / ブッダター(仏性) / プネウマ(息・風・霊) / ・・・》と同じだと見ます。


 (い) つまり 《非知》であり《非経験の場》であり 神の霊です。これは 石に文字を刻んだ律法がすたれても その想定なる定義から行って 《永遠不滅》です。

 (う) 《永遠不滅》だと人びとが分かったなら わたしは引っ込みましょうと神は言っている。

 (え) つまり このエレミヤ預言を成就するイエス・キリストのあとでは 《理論上》 そのような神のことが――世界のすべての神という神をすべて 同一視することになって――分かったことになる。

 (お) この理論が じっさいに実現するのは いつか? これは 分からない。すべて人間に任された。



 

 (か) ◇ この新たな律法に背けば、神から見捨てられる。// 依然として人間に干渉し続ける、
 ☆ というのは いかにすべてが人間にまかされたと言っても 人間の存在としての条件において 《かみ(非知・非経験の場)‐ひと(経験存在)》という関係は 変わらない。へだたりはある。と言っている。しかも 任せたからには 《干渉》しない。

 (き) ▼ (ヨハネによる福音書/ 14章 11-12;15) ~~~~~
 11: わたし(=イエス)が父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業(わざ)そのものによって信じなさい。
 12: はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
 ・・・
  15: あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟(霊としての律法)を守る。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように すでに一面としてはすべてを人間にまかせるかたちを取っており もう一面としては やはり《わたし(=イエス・キリスト)を信じる者は / わたしを愛しているならば》や《わたしが父のもとへ行くから(つまり 十字架上に去って行くゆえ)》という条件をつけてもいます。

 (く) すなわち 《イエスよりも もっと大きな業を行うようになる》というのは ひとえに《神のチカラによる》ということ。神から送られる聖霊のハタラキとして成るということ。そのもとで 人間の能力が発揮されていくのだと。

 (け) すなわちこれをまとめるに:

  ・ すでにいちいち神を恃むかたちを採ることはなくなる。=〔オシエや教会としての〕神は要らない。
  ・ と同時に 《聖霊の時代》であると言うごとく 見えない霊のチカラは 依然としてはたらいている。=でも 干渉はしない。任せられている。(《主を知れ》と言っておしえることはない)。


 (こ) ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 人は再び(?)神と別居状態に至るのだ。
 その結果、
 夫に捨てられた妻は嘆き悲しむ・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ すなわち 《神(非知・非経験の場)‐ひと(経験的・時間的存在)》という関係は 経験事象としての《同居か別居か》という判断基準によって規定されるものではない。ひとが同居しているのだと思っていたとしても・あるいは逆に別居を余儀なくされたと思っていたとしても 神は変わらざる神であるしかないと。

 (さ)  《捨てる・捨てない》といった言葉で表現されているわけですが あくまでこれは仮りの表現であり つねに代理表現なる役目を持つ補助線です。

 (し) もともと 神が人間によって規定されることはない。神との関係は あくまでひとのわが心なる《非思考の庭》における動態に限る。外へ出かけないということ。

 (す) かたちとして外に出かけていた代理表現が――つまり 聖書やそのオシエが代理表現であったわけであり―― もう基本において要らなくなるということ。

 (せ) 一人ひとりの主観内面に・その自由に すべてがまかされる。ことになる。これは 或る意味で《無神論》ののぞんだところであるかに思われる。

 (そ) つまり 無神論は それもひとつの信仰であるという捉え方をすれば 有神論と互いに手を結ぶことができるようになる。《無い神》を非思考の庭にいだく信仰形態こそが イエス・キリスト以降の世界におけるふつうの心的構造となると考えられる。
 

 どうでしょう。

投稿日時 - 2014-05-21 11:16:00

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