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締切り済みの質問

日本人の復讐心

日本人は他人から酷い仕打ちを受けても報復しない印象がありますが、そのような行為に及んだ歴史があれば教えてください。

投稿日時 - 2014-07-10 20:11:41

QNo.8672856

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回答(9)

ANo.9

こちら。
http://www.shigyoblog.com/wakabayashi/index.php?itemid=14530&catid=182

ちなみに、先の戦争で原爆を落とされても「コノヤロウ」と思わない国民性がそうさせたのかもしれませんが、日本には報復核を二回撃つ権利が存在するとの言説もあります。

あるいは鬼畜の所業である東京大空襲とは、記憶に薄れながらもしかし看過すべき問題ではないと、私もおおいに疑問に思っております。

投稿日時 - 2014-07-13 01:50:42

・源頼朝 
父の敗北により、平氏に捕縛、父、兄2人は死亡・処刑、本来なら死罪も伊豆流刑の処分
その後の鎌倉幕府誕生の歴史は有名です、平氏一門ことごとく死亡。

投稿日時 - 2014-07-12 10:04:49

ANo.7

中世の人々は自尊心が高く、ちょっとしたことで傷つけられただけで報復に出ています。たとえば笑われただけで殺害など。また、その場で行動に出ずに、何でもないふりして付き合いながら、報復の機会をうかがっていた場合もまま見受けられます。
戦国時代の分国法で有名な喧嘩両成敗法は、報復の連鎖で争いが絶えなかった状態を防ぐ目的もありました。

投稿日時 - 2014-07-11 22:12:53

松平定信はいかがでしょう。

本当は将軍になるかもしれなかったのを田沼に止められた。そこで復讐心をいだいたとか。

投稿日時 - 2014-07-11 12:56:26

ANo.5

秀吉の朝鮮出兵がそうだ、という説があります。

元寇に対する報復及び、第三の元寇を阻止するために
朝鮮に出兵したのだ、という説です。


また、倭寇も報復だ、とする説があります。
モンゴルや朝鮮ににひどい目に遭わされた対馬人を
中心に報復の為に倭寇を始めたのだ、という説です。

投稿日時 - 2014-07-11 07:01:46

ANo.4

代表的なのは明智光秀でしょ?

本能寺の変は信長への復讐ですし

投稿日時 - 2014-07-10 21:30:46

ANo.3

とんでもない。
昔は「仇討ち」といって復讐殺人が国に許可されていました。

「赤穂浪士」は代表的な復習譚ですよね。
「かちかち山」も「猿蟹合戦」も同じです。

単に今は直接的な報復が流行りでないだけです。

投稿日時 - 2014-07-10 20:52:17

ANo.2

能登畠山家重臣長氏に長連龍という者があった。
はじめは僧籍にあり、30歳くらいの時に戦の人手として還俗し、武将として働くようになる。

さて1577年に上杉軍は能登へ攻め入り、七尾城を陥落させた。
その際、畠山方死守派の長氏は連龍を使者に織田へ送ったが、内応派の温井氏や遊佐氏らにより、
連龍を除いて長氏一族はみな殺されるか叩き出されることになった。
連龍にしてみれば、応援の約束をこぎつけて戻ってみると、城すでに落ち一族ちりぢりのありさまである。

連龍は生き残った一族や旧臣、浪人らを集めて、一度はかつての居城を取り戻すも、再び追われた。
その後織田に属した神保氏を頼って体勢を整えるも、
謙信の死によって情勢がゆらいだことで温井氏・遊佐氏らは織田に降伏、信長は連龍に彼らを許すように命じた。
しかし連龍はこれに従わなかった。
信長は苛烈で知られ、そもそも恩のある相手だが、それでも服せぬほど復讐の念は強かった。

この後も何度か温井氏・遊佐氏らから信長へ降伏の申し出があり、
その度信長は許すよう命令したが連龍は常に不服の態度を示した。
そのうち一度は、信長は連龍から贈られた脇差を返している。「いい加減にしておけ」ということだろう。
しかしなお連龍は服さず、攻撃を続け、土地を切り取り、主導権をかけた決戦で勝ち続けた。

やがて、とうとう温井氏・遊佐氏は信長に、七尾城を明け渡して降伏したいと申し出た。
温井氏・遊佐氏らは一旦上杉方へ寝返ったものの、上杉家臣で七尾城へ派遣された鯵坂なる者を追い出して
七尾城を奪回し、かつての合議制を取り戻していたが、それを手放し預けるので助けて欲しいというわけである。
これに対し信長は、申し出を受け容れ、すぐさま城代を送り、さらに連龍に対しては
「これまでの戦功は認めて鹿島半群をあげよう。城は福水がよいだろう」
と知行を出しアドバイスまでするという具体的な行動を初めて起こした。
これまでの「自重しる」「だが断る」では済まない。
さすがに連龍もこの時ばかりは従い、その通りにした。
七尾城代が派遣されると、温井氏は退去、遊佐氏は逐電した。

しかしやはりそれで終わることはなく、連龍はその年のうちに遊佐氏一族を見つけ出し皆殺しにした。
温井氏はこれに危機感をおぼえ越後へ亡命するも、本能寺後の時分に背く動きを見せたとして、
連龍および佐久間盛政を先陣とした前田利家軍に攻められ、敗死した。
この間に、連龍は他にも、同じく父の仇である三宅氏や八代氏も討っている。
温井氏反乱討伐事件は1582年のことで、実に5年間に渡る徹底した仇討ちはようやく終結した。

連龍はこの後からは、前田利家の部下として大小の戦を果敢に戦い、
ついには前田家老八家のうち一家として三万三千石を拝するようになるが、それはまた別の話。

投稿日時 - 2014-07-10 20:30:59

ANo.1

とんでもありません。
この国は昔から報復天国なのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E

投稿日時 - 2014-07-10 20:28:18

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