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真理への意志

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解説[編集]

この言葉が公刊された著書に初めて出てくるのは『ツァラトゥストラはこう語った』第2部「自己超克」の章である [2]。 そこでニーチェは、「賢者」たちが全ての物事を思考可能なものにしようとする「真理への意志」の正体が、一切を精神に服従させようとする「力への意志」であると批判している[3]。すなわち、力への意志はルサンチマンと当初密接な関係があり、否定的なものとして記されていた。しかしやがてニーチェは力への意志を肯定的な概念としてとらえ直す。あえて積極的にニヒリズムを肯定し、ニヒリズムを克服することが力への意志となり得るのである。

力への意志
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97


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ニーチェの話題をするとなぜか
わけのわからない人が出てくるので話題にしたくないのですが、

真理への意志というか力への意志について
質問してみます。

力への意志をニーチェはツァラトゥストラを書いていた頃は批判していたのでしょうか?

すると、ツァラトゥストラの思想は力への意志とは異なりますか?

ところが、ニーチェは後で、力への意志を肯定するような考えになるのでしょうか?
それはどうしてですか?

投稿日時 - 2014-11-16 09:08:29

QNo.8826666

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

ニイチェは若いときにショーペンハウワーの主著「意志と表象としての世界」を読んで感激して、そこからショーペンハウワーの「生きんとする意志」という言葉を学び、それを自分は「力への意志」と言ったんです。
ショーペンハウワーは若いときにカント哲学を学び、カントの「物自体」が不可知だと言い、世界はその表れ表象であると言った、その「物自体」を意志に言い換え、カントの「物自体」とは意志なんだと言いました。
カントとドイツ観念論は理性の哲学でしたから、世界を合理的なものと考えましたが、ショーペンハウワーにとって理性は意志によって操られる二次的なものでしかなかったから、世界は合理的なものではなく、非合理なものでした。
というのも、人間は盲目的な意志によって、操られる人形に過ぎなかったからです。
意志とは、動物的な本能であり、そして人間の欲望であり、性欲です。
後にショーペンハウワーの意志の哲学に影響を受けてフロイトはそれを無意識の欲望と言いました。
人間は主体的に行動しているように見えて、実際は無意識の欲望に操られている人形に過ぎない。
男が女の子を追いかけて、性交しようとするのも、人間が理性的であるからではなく、動物であり、本能に操られているからであり、「生きんとする意志」の道具に過ぎないからだ。
もし、欲望のベールをはぎ取って、真実を知りたかったら、「生きんとする意志」を否定するしかない、とショーペンハウワーは主張しました。
ところがニイチェは、「生きんとする意志」を否定するのではなく、むしろ積極的に肯定すべきだと言って、それを「力への意志」と言いました。
だから、ニイチェはまだショーペンハウワーの影響がある初期は、意志を否定していましたが、後に意志を肯定するようになった、むしろ積極的にそれを原理として、ニイチェ以前の哲学を「価値転換」して、新しく「力への意志」という観点から、新しい価値を構築しようとしました。
その分水嶺が、「ツァラトゥストラはかく語りき」という著作です。

では、ニイチェは「力への意志」でもって、どのようにしてニイチェ以前の哲学を否定し、価値転換して、新しい価値を樹立しようとしたのか?
詳細に述べるのは大変なので、ザックリいえば、プラトン以来の西欧の形而上学をひっくり返し、形而上学を葬り去ることでした。
西欧の哲学の歴史は、形而上学の歴史であり、神学の歴史です。
そしてプラトンの「イデア」と質料(ヒューレー)の対立の二元論、アリストテレスの「形相」と質料(ヒューレー)の二元論、さらにデカルトの心と身体の心身二元論、カントの主観と客観の二元論、と基本的に二元論の歴史です。
プラトンは天に「イデア」という永遠の真理があり、私たちの住む地上の世界の物事は「イデア」が真の実在とすれば、個物・個別的な、感覚できるものは仮象に過ぎない、実在性の希薄なニセモノに過ぎない、と言いました。
この、私たちの上に超・感性的な世界があり、それこそ真の実在であり、私たちの住む地上の感性的な世界はニセモノの世界だというのを古来、形而上学と言ってきました。
このプラトンの「イデア」が中世になると、神に言い換えられ、神が人間や自然を創造したと言いました。
だから神こそが、人間や自然の本質であって、人間はその神の被造物、人間的実存は神の属性とか性質という二次的なものに過ぎない、と言いました。
これに対して、ニイチェは言います、「神は死んだ」、だから超・感性的な世界が天にあり、それが本物の世界で、地上の私たちの世界がニセモノだというプラトンの主張も、キリスト教のいう、人間がその神の被造物で、人間的な実存が神の属性なんてウソだ、むしろ神なんて人間が作った幻想に過ぎない、世界とは私たちの住む感性的な世界のことであり、そして感性的な世界が本物の世界なのだ、と。
こうしてニイチエはプラトンの形而上学と、それに基づくキリスト教の神学をひっくり返し、世界の本体は「力への意志」なんだと言い、それまでの「最高価値の価値転換」を遂行します。
キリスト教は神が存在するのだから、人生には意味があるという。
だけどその「神は死んだ」のだから、人生はもともと意味なんてないのであり、無意味が永遠に繰り返す、「永遠回帰」なのだ。
キリスト教は「ニヒリズムの宗教」である。
人生が本来何の意味もないのに、意味があると言って、真実を「隠ぺい」してきた。
「ニヒリズム」とは虚無主義ではなく、むしろ意味があると言って、人生の真実から目をそらす、「隠ぺい」すること、だからキリスト教は弱者の強者に対する「ルサンチマン」の宗教であり、「ニヒリズムの宗教」なのだ。
こうしてニイチェはキリスト教の「消極的ニヒリズム」に対してみずからの「積極的ニヒリズム」を対置しました。
ニイチェに言わせれば、「ニヒリズム」は近世に登場したものではなく、古代ギリシャのプラトンから続く、西欧世界の哲学の根底にずっと流れていた「通奏低音」だった。
だから西欧の哲学は「ニヒリズムの歴史」なんです。

投稿日時 - 2014-11-16 13:31:44

お礼

回答ありがとうございます。
とりあえず、これでニーチェについてはもう十分調べたと思う。
なにかまた疑問が出てきたらお願いします。

投稿日時 - 2014-11-16 21:11:38

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