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解決済みの質問

《光あれ》という命令法は どういう実態か

  ▲ Gen.1:3 וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים יְהִי אֹור וַֽיְהִי־אֹֽור׃
  ▽ Gen 1:3 And(ワ) God(エローヒーム) said(ヨーメル), Let there be(ィエヒー) light(オール): and(ワ) there was(ィエヒー) light(オール).
  △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。

 1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。

 2. つまり 一人称に対する命令法は 単数形が《われをして 語らしめよ⇒ われに語らせたまえ》であり 複数形が《われわれをして語らしめよ⇒ 語り合おう》ということであって けっきょく相手(二人称の相手)に語るかたちを採っていると思われる。

 3. 二人称に対する命令法は 単数形・複数形いづれもやはりその相手に語っている。《語りたまえ》。

 4. ところが 三人称の主体に向けて命令する場合というのは いったい誰れに・どういう何に語っているのだろう?

 5. もし《光》に対して語るのであれば けっきょく二人称の相手になってしまう。つまり 光あれと言って光があったその前に すでにその光なる相手に語っていることになる。

 6. ならば 三人称の主体である《光》に向けて語るとは どういうことか? 三人称だから その命令の以前にはいなかったと言えるのか?

 7. あるいは その三人称の主体というのは 或る種の仕方でそこなる《場》を言っているのだろうか? その場に光があれというかたちなのか? そしてそれは或る意味で 英訳の《 Let there be light 》の 《 there 》という語に突き合わせることが出来るかに見える。

 8. けれども その《 there 》は何もどこかの特定の《場》を言っているわけではない。だからむしろ 三人称の命令法には ふさわしいのだろうか? 《場》とは言わないかたちの何となくの場なのか。

 9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?

 10. だとしても その《光》なる言葉がすでにあったとしてこれに向けて命令するのなら けっきょく二人称の相手に対して命令している。ことになるのではないか?

 11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?

投稿日時 - 2014-11-29 22:38:41

QNo.8841792

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質問者が選んだベストアンサー

お礼ありがとうございます。もうおやすみでしたら、お早うございます。

《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。

まずこれへの応答がはぐらかされました。補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。

>《両論のバランスを取る》という扱い方も あまり意味を成さないわけなのです。何しろ 仮りの理解であるからです。

受け止めました。

>そしてしかも言語表現の問題としてなら ひとつの可能性と言いますかひとつの表現形式をえらび それに徹して仮りの理解を得られるようにと文章をはこんで行く。こういう作業をした結果が いまの聖書です。
言いかえると 表現形式は いろんなやり方がありうる。こうなるはずです。聖書記者は そのひとつをえらんだ。だけのことだと言えると思います。

承知しました。

>つまり そういう別の可能性の線で それぞれが自分の表現物語を著わそうと試みればよいわけです。

聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。

>ちなみに 旧約聖書は いまのかたちに成ったのは ふたつまたは三つの記者グループの著わした《聖書》を合わせてまとめたものだと 聖書学では言われています。

そうなんですか。ご教示ありがとうございます。創作に多くの人の思想が関わっているのでしょうね。

>神をエローヒームという言葉で表わすグループ(エロヒスト派)と 同じくヤハヱーと表わすグループ(ヤハヰスト派)。さらにもうひとグループを加える見方も提出されているようです。

神は言われた。「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。

>グループどうしの間では いくらか・またはかなりの程度で互いにいわゆる文体が違うと見られています。違うから そういう区別を見つけることが出来たというようです。

なるほど。内容の齟齬はないのでしょうか?

>たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。男と女とを造ったと書いている箇所と 男のあばら骨から女を造ったと書いている箇所とです。そういう事例があるようです。

こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、合成したものだから仕方ない。あるいは表現は違うが意味しているものは同じ。一般にはどちらかに受け止められているという傾向はあるのですか?

>☆ ええ。そういう可能性からの描き方・著わし方もあるわけです。いまの聖書は それらをとうぜん排除などはしていません。

ということはそのような表現も見られるということですか?

>☆ あぁ。いいことを言ってくださった。つまり まさにそういう《表現の問題》なのであって であるからには 《書かれたものが 歴史事実である》という説にしがみついていることは出来ない。さりとて まったくの表現の問題であるに過ぎないと言い切ってしまうわけにも行かない。

《表現の問題》が重要なんですね。それにどう切り込んでいけばいいのでしょう。表現そのものについての考察はいくらかして、一仮説として、自己は表現者だと捉えています。それに、自らアマチュア表現者であった経験から、具体的表現がどうこうは芸術表現に多少意見するものがあります。

>ええ。 このことを――実際には うりが・・・さんという人にですが――はっきりと証明したかったことなのです。少なくとも 或る程度の信憑性をもって説明してやりたかった。そういうことなのです。まさに この《いくつかの表現可能性としての聖書》 これが この質問で問い求めていた着地点です。

この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか? つまり、先ほどの
《表現の問題》にも関わりますが、現象(現された)したものについて、受け止め、自分なりの意味を 通して表象(表す)することが多様な可能性をもっているというような。

> またまた あともなどすさんにファイナルタッチを打ち出してもらった恰好です。

ファイナルアンサーではなくタッチ(?)

>★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」
 ☆ ええ。そのように答えるはずです。

聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。

> ★ だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。
 ☆ これはすでに触れて来ました。可能性のひとつとしてそれに徹して試みた表現のまとまり これが 仮りの理解を得させるはずです。ゆえに 《有用》なのです。

神への仮りの理解が《有用》なのですか?どんな風に有用なんでしょう。これがいまいち分かりません。

>《有る神》と《無い神》

理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。それが人間の浅はかさということでしょうか。

> こういうひとつの結論が得られます。これはおおきな収穫です。信仰という信仰は 《非知》なるひとつの神とそれぞれ《わたし》との関係であるとまとめることが出来ます。非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。

そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。

> ☆ これまでのシュウキョウのほうが 勝手に・自分勝手に踊り続けて来たのです。もうそろそろ組織を自己解体して シュウキョウには終止符を打ちましょうと言っています。

自業自得ということですね。シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。つまりせっかくシュウキョウから距離をとって我が身を安全地帯においたのに、またわざわざ危険地帯へと乗り込んでいっているように見えるので。

> シュウキョウの神は 思考と想像の産物であり 観念として言葉だけが踊っているものです。シュウキョウ者は 精神錯乱に落ち入っています。精神錯乱から出発しています。

過激ですね。この対応でよいのでしょうか。個人的平和主義者のぼくとは態度がちがうんですよね。

>このシュウキョウによって わたしたちが嫌な思いをさせられて来たのです。

そんなに嫌な思いがあるのですか。これも独断的ですね。シュウキョウを敵視する態度を表現の上で和らげられないですかね。相手を煽って悪循環に陥っているのではという懸念があります。

そういう面もあるけれど、どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2014-12-02 23:54:04

補足

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 補助線思考で、肯定するわけにも行かないと思考できるのではないですかと問うています。
 ☆ これはもう共通の理解に立てたと思ったのですが。

 つまり《補助線思考》というのは 一面でじっさい《思考しているし思考できています》。ただし 言語表現の次元をなお狭い世界だと見るときには そのような今度は高次の存在(ないし視点)としての神本体については 一向に思考はしていない。つまり とどいていない。つまり神本体に人間の思考が届いているかいないかは 人間には分からない。

 ですよね?



 ★ 聖書の内容と反する物語もよいとおっしゃるのですね。
 ☆ 可能性はあり得るという判断が 妥当だと考えます。

 ★ すると、人の道さんは、物語ではないですが、創造説を否定しているのですが、それも良い訳で、そこのところを厳しく批判される根拠が理解できません。
 ☆ アルケーの神なる神学への批判は まさに多様性を否定していることに集中しています。《アルケーの神以外に神はない》という命題の一点張りです。それ以外には 聞く耳を持たないという点に対してです。

 《創造説を否定している》ことに対してわたしが――おぼえていないのですが――もし批判したとすれば それも《創造説を否定する見解以外には人間の思考はあり得ない》と断定している点に対してだと思います。

 ★ ぶらじゅろんぬさんの「創造説を単純に否定するわけには行かない」という仮りの理解へのこだわりがどうしても感じられます。
 ☆ いえ。進化論のたぐいのモノの自己運動説にも《こだわり》が同じほどあります。でも どちらも《仮りの理解》です。



 ★ 「光あれ。」の神はエローヒームなんですね。多名神なんですね。
 ☆ 《多名神》と言いますか。

 1. セム語で 神は《エル》です。子音だけで示せば √ ’L です。《 √ (ルート)》は語根をあらわします。《 ’ 》はア行の子音です。空白の一拍(ないし半拍)があります。

 2. ふつうは 語は三子音から成りたちます。これを √’LH というふうに H を添えて三子音にして次の《神》を表わす語が出来ています。

  ヘブル語   ’eLoH エローホ / ( pl. ) ’eLoHim エローヒーム
  アラビア語  ’iLaH イラーハ

 3. 定冠詞は 元は ハル( HaL)だったと思われ 次のように変化したと推測されます。

  HaL ⇒ ( Hbr )Ha ハー
    ⇒ ( Arab )aL アル

 4. 定冠詞をつけて神を表わすと 次のようになります。

  Hebrew : Ha ’eLoHim ハー・エローヒーム
  Arabic : aL-’iLaH アル‐イラーハ > aLLaH アッラーハ(フ)

 5. なぜ神を複数形で表わすか? 尊厳の複数だと言われています。(クルアーンでは 神が語るとき自称を《われわれ》と言っています)。

 6. ちなみに ヨーメル( He-said 〔形は実は He-says 〕)という動詞は その主語の単複の数をも示すのですが これが 単数なのです。その主語のエローヒームは 複数形です。また創世記1:1の 《神は天地を創造した》の神はやはり エローヒームで複数形であり しかも《創造した(バーラー He-created. )》は主語が単数に用いる活用形です。

 7. しかもこの《創造した(バーラー)》という動詞は じつは・実に 神の動作にしか用いられていません。神専用の《造る》という動詞です。

 8. このことからも 聖書は表現の問題だという命題が有効ではないかと考えられます。憶測をすれば 神は《モノが自己運動を起こすようにその仕組みを作ってやった》というような意味をこのバーラーが持ち得るとさえ考えられます。

 9. エローヒームのほかには 神の名として次が挙げられます。

 ( a ) yaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー):
   意味は《 He-makes-be. かれは有らしめる》というのが一説。

 ( b ) 《 ’eHYeH  ’aser  ’eHYeH エフィエー アシェル エフィエー》:
   《 I-am that( who ) I-am. 》
   《〈わたしはある〉 それがわたしである》。
   以前には《わたしは 有りて有る者》と訳されていた。

 10. 前項( b )の《エフィエー ’eHYeH ( I-am )》は じつは この質問での《 ィエヒー yeHi ( He-is )》と同じ √HYH (to be)なる動詞の人称別の活用形です。ィエヒー yeHi には √HYH について子音の省略があります。しかもこの be 動詞は ( a )の√HWH (to be)と互いに異種つまり姉妹形みたいなものです。前項( a ) YaHWeH ヤフヱフ(ヤハヱー)は その be 動詞の使役形です。

 11. 旧約の時代から聖書記者らにあっては 神学は 《存在》論であったことになります。

 12. あるいはつまり エワ(イヴ)は ハーワーと言って √HWH なる語から来ています。《ある。生きる⇒いのち》といった意味を帯びたものと考えられます。アダムは 土で造られ死ねば塵になるの《土 または 赤い》とつながっていると言われます。

 13. こう考えるなら 神の名前の多形は それほどその多さには力点は置かれていないと思われます。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。・・・

 こういう齟齬はあるのですね。これはどう解釈するのですか、・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▲ (創世記 1:27) 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
 ▲ (創世記 2:18-22) ~~~~~~~~~~
 18: 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
 ・・・
 21: 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
 22: そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしこの《齟齬》についても護教論よろしく弁明につとめるとすればですが そうすると次のように解釈するのでしょうね。

 ○ 《 1:27 》では 《ヒト》なる生物種が造られた(生成した)。であり 《 2:18-22 》では 性差の問題を加味してヒトを説明した。

 となるでしょうね。でもどちらも《造る》のですから 二度同じものを造っていますが。(造るは 両方で同じ言葉です(アーサー)。(バーラー=創造するとはまた違いますが)。

 ▲ (創世記 2:24) こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 ☆ というふうにも 話が展開されていますから 性差に焦点を当てたと。



 ★ ~~~~~~~~~~~~
  ☆ いまの聖書は それら(いろんな可能性・多様性)をとうぜん排除などはしていません。

 ということはそのような表現も見られるということですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういう意味ではありません。閉じられていず 明けられているという意味で言いました。


 (つづく)

投稿日時 - 2014-12-03 11:27:40

お礼

 (つづき)

 ★ 《表現の問題》が重要なんですね。
 ☆ これは 二つの場合に分かれると考えます。

 ひとつは ふつうに直截にあらわす方法とそして広くタトエを用いてあらわす方法とに分けて多様性を捉える場合です。これはいま扱わないでよいでしょう。

 もうひとつは いまの場合であり 神という言ってみれば次元の違うナゾの何ものかをも それと同じ次元ではない経験世界における人間の言葉で表わそうとする場合の 表現の形式の問題です。

 1. けっきょくこの神を 哲学によって表現し共通の理解を得ようとするかまたは文学として自由に表現するかに分かれると思います。

 2. 経験合理性ないしその論理性を基礎として言葉≒概念を一つひとつ定義した上で理論づける哲学として表現する形式と そして広くそのような基礎ないし定義を決めずに自由に言葉を駆使し想像に〔も〕うったえてむしろイメージなどの喚起をおもな狙いとして表現する文学形式とがあり得ます。

 3. そしていづれにしても 神を人間がその言葉で表わそうとするのは あくまで仮りの代理表現としてであります。補助線を引くだけの作業です。
 
 4. そして補助線は およそ多種多様です。あらゆる可能性が試みられます。分かりやすい例を持ち出すなら 広く文学なる自由形式をさらに伸ばして 言葉を超えた表現形式としての絵画・音楽といった芸術による表現があります。

 5. これらを内容とする《表現の問題――表現形式の多様性の問題――》を漠然と着地点として思い描いていたわけですが そこへとみちびく《ファイナル・タッチ》を打ち出してもらった。こういう意味です。

 すなわち
 ★ ファイナルアンサーではなくタッチ(?)
 ☆ というときには そういう説明になると思います。



 ★ 《表現の問題》・・・にどう切り込んでいけばいいのでしょう。
 ☆ 今度の【Q:「これ」に意味があるのか?】には投稿しようと思います。



 ★ この《いくつかの表現可能性としての聖書》というのは、聖書解釈の多様性のことなんですか?
 ☆ うりが・・氏に対するものとしては 単純に《聖書が文字通りの史実を書いたというのは 一面的な受け取りである》と示し得ればよいと思います。

 そのほかに多様性としては すでにある書き物についての解釈の可能性と そしてさらになお聖書が書かれ得るという可能性との両方をふくみます。
 



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
  >★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」
  ☆ ええ。そのように答えるはずです。

 聖書はざっと読んだ程度でよく知らないのですが、そんな内容があるんですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いえ。その可能性がすでに現われているというところまでは意味しませんでした。そのように聞こえたとしたら すみません。言い過ぎだったかも知れません。



 ★ ~~~~~~~~~~~
  >《有る神》と《無い神》

 理解できます。しかし、どちらを選ぶこともかなわない割にどちらかえらんでますよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いえ。選び得ることが 《有用》なのだと考えます。《仮りの理解として》に過ぎないとしてもです。

 なぜなら 《有る神》にしろ《無い神》にしろ そのようにそれぞれ補助線を引いたゆえに人びとは おのれの非思考の庭のあり方を確かなものとすることが出来るからです。

 もっとも広く言わば中立の《神》という言葉だけで・つまりそれだけの補助線で わが信仰が得られたという場合には 有用性が限られてしまいます。

 けれどもたぶん 《非知》なる神からこの有神論と無神論とがいづれも互いに同等に――仮りの理解において――みちびかれるという命題は 哲学におけるその種の袋小路を打開することができると考えます。ゆえに 有用である。つまり これは 後ろ向きの有用性ではありますが。そう認識したら もうその問題は終わったというしろものですが。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ ・・・非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。

 そういう人間の浅はかさを呈しているシュウキョウなどと距離をとるということが、ひとつ《有用》のように思えます。もともと距離をとってるぼくにはさの収穫のおおきさが実感できませんが。かといって信仰厚いわけでもない。そこがネックなんでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《人間の浅はかさ》と認識する場合というのは 或る程度その意志行為が有効性を持つ場合だと思うのです。
 ところが 《考えるべきオシエをそのまま無条件に受け容れ信じよというシュウキョウ》は その出発点において意志行為が 無効なのではないかと弾劾しています。そういう問題だと理解しています。



 ★ シュウキョウに干渉することは、危険ではないですか。
 ☆ 放っておくなら 同じほどの危険性があると考えます。

 《アルケーの神以外に神はない》と繰り返すだけの自己表現をしか為すことのできない意志行為は 人間が死んでおり ほかの人間をもその墓場にみちびこうとしています。危険です。アルケー教以外には 創価学会・エホバの証人・幸福の科学・あるいは 意志行為を蔑ろにする決定論を説くカルヰニズムなどです。イスラームは 生活感覚としてよく分かるまでには到っていません。


 ★ どうでしょう。ひとつ、この世の出来事を、聖書のような表現物と捉えて、《いくつかの表現可能性としての社会》としたら、ちがった見方も現れるのではないでしょうか。
 ☆ 意志行為としての無効に発する人間の思想も行動もみな 死です。可能性ではないわけです。と理解します。

投稿日時 - 2014-12-03 12:20:21

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回答(36)

ANo.36

>>あまりそういう言い方はしないと思います。

あくまでも、三人称命令法の説明のための設定です。

なるべくして、なる。

ユークリッドの幾何学定理が、三人称命令法に出会つた最初の用例でしたので、そのときのイメージがずつと続いてゐます。

言語といふのは、世界の中に、無理やり境界をつくつてしまふ道具ですので、人称といつても、実際にきちんと区別できるものではありません。だからどつちでもかまはない、ユージューフダン教としては、そのやうにまとめたいと考へます。これくらゐで終了します。さうさう、ユークリッドのギリシャ語や、聖書の指示形のいろいろな用例を出せばよかつたのですが、横着をしました。すみません。

投稿日時 - 2014-12-05 22:26:29

お礼

 ★ 人称といつても、実際にきちんと区別できるものではありません。
 ☆ ぢゃあ なんで二人称や一人称の広義の命令法と違うと説明しなければならないのか?


 説明しなくてよいのなら 問い求めの意味はもうありません。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2014-12-05 22:33:08

ANo.35

>>なんで《未来》なの?

《光あれ》と言つた時点を現在とすれば、出現したのが未来です。

投稿日時 - 2014-12-05 21:49:12

お礼

 ぢゃあ 一瞬あとであっても 未来なのですね。

 あまりそういう言い方はしないと思います。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2014-12-05 22:05:53

ANo.34

>>その場で《光あれ》と言って 光があった。はず。

言葉が物をつくる、といふ見解は、ひとつの見方であつて、実際には、言葉があつてもなくても、物の存在とは無関係です。

《光あれ》と言つた時点では、まだ光は存在しませんが、その後(未来)に光が現実に出現しました。

投稿日時 - 2014-12-05 20:00:36

お礼

 ★ その後(未来)に光が現実に出現しました。
 ☆ なんで《未来》なの?



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2014-12-05 20:47:20

ANo.33

>>ご回答をありがとうございます。

お礼をありがたうございます。

>>ん?

ん?

投稿日時 - 2014-12-05 06:52:09

お礼

 ☆☆(No.32お礼欄) ~~~~~~~~~
  ★ 未来の世界があつて、それに名前をつけただけです。

  ん?

  △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。

  ☆ ですよ?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですよ。

 その場で《光あれ》と言って 光があった。はず。

 《未来の世界があって》という意味が分かりません。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2014-12-05 08:44:50

ANo.32

>>そのときにおいて光という《言葉》が生まれ 光というモノが造られた。ですよね?

未来の世界があつて、それに名前をつけただけです。

投稿日時 - 2014-12-04 22:54:30

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ん?

 △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。

 ☆ ですよ?

投稿日時 - 2014-12-04 22:58:55

ANo.31

>>どこから出て来たのか。

創造です。

投稿日時 - 2014-12-04 22:37:49

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 つまり そのときにおいて光という《言葉》が生まれ 光というモノが造られた。ですよね?

 だとすると 命令は 光という言葉に対して言った。のではないかと見られて来る。という意味です。

 つまりは 光よ おまえは有れ(成れ)といったようにです。

 つまり 実質的には 二人称の命令形であると。同時に 形式は 三人称主語である。



 あるいは いまひとつ別の解が出されています。

 光なるやはり三人称として扱うモノ(いまは まだその言葉)が有る(成る)ようにチカラを及ぼせということを 神がみづから〔の霊〕に向けて言った。つまりは 実質的には一人称なるみづからへの命令形であると。かたちは 三人称主語である。


 こういう理屈が得られてはいます。

投稿日時 - 2014-12-04 22:49:59

ANo.30

>>《光》はどうしたのか? です。

光が出てくるのは、未来予想図です。

https://www.youtube.com/watch?v=yQneZOzJhSQ

>>しつこいですか?

おたがひさまです。

投稿日時 - 2014-12-04 22:19:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 光が出てくるのは、未来予想図です。
 ☆ よう分からんわ。


 ☆☆ 《光》はどうしたのか?
 ☆ っていうのは どこから出て来たのか? ですよ。あるいはその言葉が どこから出て来たのか。

投稿日時 - 2014-12-04 22:25:38

ANo.29

>そして《さうなってよ》というとき 誰に向けて言っているのか?

しひて言へば、だれでもない。自然、宇宙といつたら大きすぎますが、時の流れで未来が「さうなつてよ」。

>>《光》という三人称で表わすモノにそのモノがまだ生成していないときに
>>あれと命令する。

二人称として直接対話するのではありませんから、生成してゐなくてもかまはないと思ひます。


あくまでも、私個人のイメージであつて、見当違ひのことを書いたのかもしれません。自分では、ギリシャ語、ラテン語、サンスクリット語、ヘブライ語と学んでいつて、この考へで特に不都合はありませんでした。

投稿日時 - 2014-12-04 19:47:58

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ううーむ。言語というものは けっきょくいかに文法が規則をとなえていても ナラハシと時の流れにしたがって変わって行くのだし それとしてむしろ規則をつくり出して行くのだ。理屈は二の次であり 従属的なものだ。

 ――こうでしょうか。



 それはそうなんですがね。



 ★ しひて言へば、だれでもない。自然、宇宙といつたら大きすぎますが、時の流れで未来が「さうなつてよ」。
 ☆ そうですね。この《光あれ》と言う前にすでに 《天と地》とは造られていることは そうなのです。

 空間が出来ていて それとともに時間も動きだしているのでしょう。だったら《宇宙》になり《時の流れ》なりに向かって命令することもありなように思われます。


 思われますが そうだとすると ぎゃくにそういう理解の仕方のほうが《理屈をこねている》というようにも 半分くらいですが 感じられます。


 言いかえると ことは文法の問題であると捉えられ それなりに理屈づけておくほうが むしろ自然の流れであるように感じられるのです。


 まぁ どっちもどっちなのかも知れません。

 

 同じ問題の繰り返しになるかと思いますが:

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >>《光》という三人称で表わすモノにそのモノがまだ生成していないときに
  >>あれと命令する。

 二人称として直接対話するのではありませんから、生成してゐなくてもかまはないと思ひます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういう一面は言えるのでしょうね。ただしもう一面があります。つまり 《光》という言葉は どこから出て来たのか? です。

 《まだ生成していないとき》という見方はそれとして成り立つかと思いますが そうだとすると 《光》なる言葉は どこから出て来たのか? まだ《天と地》やあるいは 混沌(トフボフ)があっただけだと思いますから 《光》はどうしたのか? です。


 しつこいですか?

投稿日時 - 2014-12-04 21:34:04

ANo.28

Es werde Licht. = Es soll Licht werden.
となって、
「個人の要求や条理の要求を表わす」(私の本には接続法1式とsollenについてこんなことが書いてあった)なんてことを書こうとも思ったんですけれども、
ドイツ語なんて学校を出てから、ずっと、やっていないもんで(ポリポリ)。

注目すべきは、条理、つまり「~するべき」なんでしょうね。

投稿日時 - 2014-12-04 01:52:09

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。


 直前のNo.27お礼欄にて 《表現形式の多様性の問題》を確認しました。

 ◇ 注目すべきは、条理、つまり「~するべき」なんでしょうね。
 ☆ というその・またの名の当為の表現形式 これもひとつの補助線なのでしょうね。

投稿日時 - 2014-12-04 11:39:49

ANo.27

こんばんは。


☆また、英語の be と違って、werden は生じる、生成するという意味がありますので、「光あれ」というよりは、何もないところから生じるという感じで、「光よ生まれよ」となると思います。
(No.21)
◇ですね。
「古事記などの《なる》みたいな感覚ですよ」といったことを書こうとも思ったのですが、これは、さすがに、恐くて書けなかった(ポリポリ)。
(原)因に(結)果が内在していて、結果が自然発生的に現われるといったようなイメージなんでしょう、たぶん。

この何だか分からないけれど、何かを生み出す、生成するものがギリシアの自然(ピュシス)であり、ロゴスはその中にあるんだ、
みたいなことをいう研究者もおるようです。
 ───日本人なんですが、日下部吉信とかいう人───

こうした自然(ピュシス)の考えが印欧語の根底にあるんだ・・・。

そして、このギリシアの自然(ピュシス)観を歪めたのがピタゴラス→ソクラテス→プラトンだ。
アリストテレスは、これをギリシアの自然哲学に戻した。
だが、
ソクラテス・プラトンが、時代が下って誕生した西洋哲学の主流になり、西洋哲学はアートマン・エゴの哲学になってしまった。
そして、このレジュームチェンジをしようとしたのがニーチェであり、ハイデガーによって復権した。

私がこんなことを考えたり、思ったりしているのではなく、
こういうことを言う研究者・専門家がいる。

であるとすれば、
esはピュシスかもしれない(ポリポリ)。

投稿日時 - 2014-12-04 00:22:38

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 (1) まづ中間の結論〔のようなもの〕としては 次の二点を得ていました。

  ( a ) 神がみづからに向けて 三人称なる光を有る(成る)ようにチカラを及ぼせと命じた。と採る。

  ( b ) 光は その光という《言葉》と 光という《モノ(または存在)》とが ここで同時に生成した〔つくられた〕と解釈する。

 

 (2) 一般に命令法としては 広義に話し手なる主観意志の願望・要請・強制などの判断内容をしめす。

  (2‐1) その主観意志は 一般に相い対するその相手つまり二人称に向けて発する。

  (2‐2) ただし一人称すなわち話し手の自己自身をも相手と見なして 命令法を用いることが出来る。

  (2‐3) そこで 三人称のヒト〔→(3)〕・モノ・コト〔→(4)〕を相手と見なし得るか? 

 (3) 《ヒト》なる三人称の場合には おそらくその人とは別の二人称の相手をして三人称の人にその命令内容を告げておこなわしめる。
  つまりこれは 使役法であり 命令法として二人称命令法の内に入ると見るか または 使役法を独立させるかになると思われる。

 (4) モノゴトについてはどうか? むつかしいように思えるが まづその三人称のモノゴトをすでにいきなり(つまり 何か特別の考えもなく)主語に立たせる。そして ともかく主観意志をその文型の中に織り込もうとしてそれなりの(つまり 命令法なりの)かたちをつくった。――というような経緯が推測される。

  (4‐1) その場合は 形式的に三人称主語に対する命令法であり 実質的には 二人称相手に向けて主観意志を示そうとしていると捉える。モノゴトをも話し手自身と向き合うかのような相手と見なすかたち。文型は そうではなく 三人称を採る。

  (4‐2) さもなければ 一人称の話し手が 自分自身に向かって 三人称のモノゴトに主観意志を及ぼせと命令していると取る。

  (4‐3) すなわち 《神がみづからに向かって三人称なる光に有る(成る)ように主観意志を及ぼせ》と言ったというかたち。

 (5) 前項(4‐3)の場合 三人称なる《光》は じつはまだ存在していない。しかもそのモノを光と呼んで それに対する主観意志の発動をおこなおうとしている。

  (5‐1) これは ひとつの解釈として この光なるモノについての《言葉》と そしてそのとき生成して来るはずの光なる《モノそのもの〔の存在〕》とが 言ってみれば同時発生というかたちなのだろうか。と考えられる。


  ☆ (1)の二点( a ・ b )について以上のように考えた。






 (6) その後やがて 《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するかという表現の問題にも入った。そもそも神と光とは 互いに同じ世界において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。

 (7) けっきょくのところ 神と光〔ないしヒトをふくめた経験世界〕との――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性以上のチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(これは 空(シューニャター)観である)。

 (8) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。

 (9) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。





 (10) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。


 (11) 神が《創造する》とは どういうことか? 表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。

 ▲ (創世記1:1)
http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001

 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃
 ( Be-resit   bara’ Elohim    et-ha-samaim   wa-et ha-’arec.)
 ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.)

 ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.

 ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。

 (12) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語ですが 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。

   ○ bara'
http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV

 (13)  だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。

 (14) すなわち 《光なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。

 (15) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどに補助線を引くことが出来る。

 (16) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを選び得るし あるいはそうではなく《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。

 (17) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を たとえば《いやいや 神などとはその名はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。

 (18) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。

 (19) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉がモノ(存在)と同時発生という説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として初めに持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。

 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~
  
 はじめに ことば(ロゴス)があった。
 ことばは かみとともにあった。
 ことばは かみであった。

 このことばは はじめにかみとともにあった。
 すべてのものは ことばによって成った。
 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。

 ことばの内に いのちがあった。
 いのちは 人を照らすひかりであった。

 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。
 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (20) このあたりまで たどり着いたようです。たぶんあらたな出発点とすることが出来るのではないかと みなさんとともによろこびます。

 (21) ドイツ語が werden なる語を用いることは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。

 (22) 神学は人間学だとフォイエルバッハとかが言ったようです。たぶんフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの人間論――人間と社会の理論――はさらにこれからも寄与するものと考えられますまいか?




 ☆ ピュシス説とロゴス説といづれの説をも 創世記の記者たちは難なく無理なくつつみ すでに高い次元でアウフヘーベンしている。と考えられますまいか。

投稿日時 - 2014-12-04 11:36:22

ANo.26

この質問にこれほど回答がつくとは思ひませんでした。もう24件ですか。bragelonneさんのブログに、結局は二人称ではないかとの見解について記載してあつたので、少しだけ追記します。

私が最初に三人称命令法に出会つたのは、ギリシャ語です。入門書の命令法の単元に、ユークリッド(エウクレイデース)『原論』の幾何学定理が練習問題として使用されてゐました。ですから、回答番号6で書いたとほり、三人称命令法は、

なるべくして、なるんだ。
今は、さうぢやないけど、私が宣言したから、未来はかうだ。

そんなイメージがあります。私のちやらんぽらんな頭は古典語に合つてゐます。二人称に置きかへる必要性など、まつたく感じません。ヘブライ語で指示形と呼ばれるのも、

指示書を作成したので、さうなつてよ。

といつた感じでせうか。

学生時代のギリシャ語の授業は、はじめは30人くらゐだつたのですが、英独仏などの現代語の感覚になじんでゐる人はどんどん脱落していつて、最後は峯くん(今は先生)とふたりだけになつてしまひました。このサイトでも、古典語の質問に回答して、ごくあたりまへの文法説明をしただけなのに、ブロック登録をされることがあります。古典語と現代語の感覚の相違については先日も質問したばかりなのですが、どうしてなのか、今もわかりません。三人称命令法は、私はそのまま三人称として、素直に考へることができます。頭が古いのでせう。

投稿日時 - 2014-12-03 23:15:41

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 三人称主語への命令文 これに違和感がない。ということですね。


 ★ 指示書を作成したので、さうなつてよ。
 ☆ 違和感と言ったのは あまり適切ではなかったと さっそく取り下げたい気持ちですが つまり この《指示書を作成した》というとき 誰に渡すのか? そして《さうなってよ》というとき 誰に向けて言っているのか? これをもう少し明らかにして欲しいという思いは起きませんか?


 そして 神が――天地創造のときに―― 《光》という三人称で表わすモノに そのモノがまだ生成していないときに あれと命令する。こういう分かりにくさも この文例にはあると思うのです。


 そんなところでしょうか。

投稿日時 - 2014-12-03 23:37:41

ANo.25

>つまり 文脈によるならば その当事者たちは理解できる――つまり一発で通じる――と採ってよろしいでしょうか?

そうです。ただし、実をいうと、未来完了形は、会話ではほとんど使われないと言われています。No.24の例文のような場合も、単純な未来形で言うのが普通だと思います。

余談ですが、互盛央の「言語起源論の系譜」に、ヴァルター・ベンヤミンが、この Es werde Licht に注目した話が出ています。「それは光になった」、光を与えるのは「神」ではなく「それ」である、「神」は言語を創造の「媒質」として使うことで、言語が創造物を与えるようにさせる、媒質としての言語は、非人称でなければならない、などと書いてあります。消化できないので、御紹介するだけにとどめます。あるいは、もうお読みかもしれませんが。

投稿日時 - 2014-12-03 18:13:16

お礼

 ありがとうございます。
 こんばんは。わたしは肉が好きですが 毎回ほどよく焼けたステーキを食べる思いです。へんなタトエですが。


 ★ そうです。ただし、実をいうと、未来完了形は、会話ではほとんど使われないと言われています。No.24の例文( Sie wird angekommen sein. )のような場合も、単純な未来形で言うのが普通だと思います。
 ☆ いろいろなんですね。


 ★ 互盛央の「言語起源論の系譜」
 ☆ 互盛央は 図書館であの分厚いソシュール本を読んでいました。わたしはずるく振る舞いますので 途中で よっしゃ分かったと勝手に思って いまは中止しています。

 最初の出だしなんかは これからいったいどういうヨーロッパ文明史が繰り広げられるのかと おどろきつつ魅せられつつ読み進んでいたことをおぼえています。

 どこかに勤めている人のようで ほかにはあまり書いていないと思っていたのですが それは 論文でしょうか。そういうものをも著わしているのですね。

 あれっ? ただし その主題は 逮捕ものだったんでは?



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ヴァルター・ベンヤミンが、この Es werde Licht に注目した話が出ています。「それは光になった」、光を与えるのは「神」ではなく「それ」である、「神」は言語を創造の「媒質」として使うことで、言語が創造物を与えるようにさせる、媒質としての言語は、非人称でなければならない、などと書いてあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ。ベンヤミンも 触手が動きかけた(あれっ。食指を伸ばそうとした ですか)のですが ストップしています。

 【Q:W.ベンヤミンは おもしろいですか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7206766.html

 で尋ねて そのときは 中止しています。


 ううーん。この説は あまりかんばしくないと思いますね。

 つまり 言葉を媒質として世界を創造すると見た場合 そうでない場合と同じようにけっきょく《神が創造主であって 万物を創造する》ということには変わりない。からです。

 《非人称》のことが出て来るのは そのあとだと思うからです。派生的な主題であると言いますか。


 第一次の・主要な主題として《ことば》を持ち出したのは 福音書記者のヨハネですね。とにもかくにも ロゴスが神であった。神はロゴスであった。単純に言い切りましたから。

 このロゴスによって成らなかったモノはないと。

 非人称も三人称も どうしたい? 文句あっか? と啖呵を切るくらいに表現し切ったみたいですね。



 どうでしょうか?




 互盛央の言語起源論の本 今年の五月に出たのですか。知りませんでした。さっそく注文しました。



 

投稿日時 - 2014-12-03 19:15:31

ANo.24

>ということは――と調子に乗ってはいけませんが―― 未来完了形にもならない。ということですね。

あ、これはありえます。ただし、

Sie wird angekommen sein.

だけでは、どちらか不明です。もし、

Sie wird morgen früh angekommen sein, wenn sie jetzt gleich abfährt.

なら、「彼女は、今すぐ出発すれば、明日の朝早く到着しているだろう」という意味になります。

投稿日時 - 2014-12-03 00:05:54

お礼

 ありがとうございます。

 少しほっとしました。

 

 ○ Sie wird angekommen sein.

 ☆ 不明つまり両義性つまり 推量と未来完了とのどちらにも受け取れるということですね。それとして文は成り立っていると。

 つまり 文脈によるならば その当事者たちは理解できる――つまり一発で通じる――と採ってよろしいでしょうか?

投稿日時 - 2014-12-03 09:23:45

ANo.22

>Sie wird jetzt schon angekommen sein.
>彼女はまもなく到着するでしょう。→彼女はもう到着しているだろう。
>これが 右辺のように解釈されるのは 《 schon 》があるからでしょうか? schon がなかったら 左辺のごとく《彼女はまもなく到着するでしょう。》となるのでしょうか? 

いいえ、なりません。angekommen sein が現在完了形で「到着している」ことを表し、wird は、この場合、未来を表すのではなく、推量を表します。したがって、jetzt、schon の両方を取ってしまっても、「彼女は到着しているだろう」という意味になります。「彼女は間もなく到着するでしょう」は、Sie wird bald ankommen.となります。

投稿日時 - 2014-12-02 23:34:16

補足

 お礼欄のあとにですが。

 ★ wird は、この場合、未来を表すのではなく、推量を表します。
 ☆ ここが ミソでしたか。

 そしてそれは
 ★ angekommen sein が現在完了形で「到着している」ことを表し
 ☆ ているからなのですね。

 ということは――と調子に乗ってはいけませんが―― 未来完了形にもならない。ということですね。


 あまりにも鮮やかなご説明で 圧倒されてしまっていました。少し思考が戻りました。

投稿日時 - 2014-12-02 23:45:16

お礼

 しかと うけたまわりました。

 スコーンと入って来ます。


 しかし この段階にいるということは 道遠しの感をおぼえます。

 でも前途洋洋と見ることにします。


 ありがとうございました。


 そしてご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2014-12-02 23:38:32

ANo.21

こんばんは。

直接の回答はできませんが、ドイツ語について。

ネコさんのご覧になったドイツ語のサイトはまずいです。Es werde Licht はもちろん聖書の冒頭の言葉、「光あれ」で、「明かりがつく」などという意味にはなりません。「明かりがつく」は、Das Licht geht an. と言います。Es wird Licht. では、単に「光になる」と言うだけの叙述文になります。

接続法第1式について、文法書の解説を引用しますと、

主文において、命令の意味を持つことがある。これは特に、本来命令形のない単数3人称及び複数1・3人称の場合である。敬称2人称単・複数のにおいても、これに準ずる。
Man sage mir, was man will, an meinem Entschluß ist nichts zu ändern.
私に何か言いたい者は言え、私の決心は変わらない。

したがって、Es werde Licht! の場合、werde は、3人称単数の接続法第1式の活用形、esは非人称動詞の主語、つまり、人を主語にできない場合に使います(形式主語の es というのは、正しくは、受動態の文で使われる場合のことをいいます)。まあ、無理に直訳すれば、「それは光になれ」ということですが、es regnet (雨が降る)、es wird kalt (寒くなる)のように、主語としての意味はありませんので、訳出することはありません。ただし、この es と英語の there はもちろん対応しません。それから、英語の let に当たるのは、lassen ですが、「~させる」という意味なので、es werde~ のような命令のニュアンスではないですね。たとえば、

Jesus, lass es Licht werden für Menschen, die einsam, traurig und enttäuscht sind.

また、英語の be と違って、werden は生じる、生成するという意味がありますので、「光あれ」というよりは、何もないところから生じるという感じで、「光よ生まれよ」となると思います。現代ドイツ語の意訳の聖書では、このような訳し方もあります。

Da sprach Gott: »Es soll Licht entstehen!«
Da sprach Gott: »Licht entstehe!«
Da sprach Gott: »Licht soll entstehen! «

つまり、ドイツ語の逐語訳の場合は、es という3人称の架空の主語があることになり、Es werde Licht! という命令は、光に対して発せられたものではないことになります。見かけとしては、es がLicht になったわけで、3人称の主語は Licht ではなく、Licht という言葉が先にあったということにはならないわけです。少なくともドイツ語の逐語訳はこういう仕組みになています(現代ドイツ語の意訳の2番目の例では、Licht を直接主語にしていますが)。原典のことはわかりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ついでですので、間違いだらけのドイツ語のサイトのほかの文の訳も直しておきます。

Ich werde nach Hause gehen.
私は家に帰る。→私は家に帰ろう。
Sie wird jetzt schon angekommen sein.
彼女はまもなく到着するでしょう。→彼女はもう到着しているだろう。
Das Buch wird gerade gelesen.
その本が読まれる。→その本はちょうど今読まれている。

以上、御参考まで。

投稿日時 - 2014-12-02 22:35:23

お礼

 たすてん先生 まことにありがとうございます。


 ねむねこ氏は 独自の応答をされると思います。



 質問者が受け取ったところでは――そのまま受け留めた項目はそのままになりますが――

 けっきょくドイツ語は ドイツ語独自の世界を持つ。ということになりましょうか。

 このことは ちょうど先ほど あともなどすさんとやり取りしたところなのです。つまり 言語によって《光に対する言いつけ》の著わし方が違ってくるということではなかったのですが(言語によってではなかったのですが) 神についての表現の仕方は 幾通りもあり得るということを議論し そういう表現の多様性というひとつの結論を得ました。


 聖書は 神を創造主とし人間たちを被造物として描いているけれども それは あくまで表現の問題であるということ。しかもこの問題は 表現形式の多様性という問題に帰着するはずだというものです。

 ということは あたかもその多様性と同じことが 言語の違いによって難なく無理なく実現している。このように受け取りました。




 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 つまり、ドイツ語の逐語訳の場合は、es という3人称の架空の主語があることになり、Es werde Licht! という命令は、光に対して発せられたものではないことになります。

 見かけとしては、es がLicht になったわけで、3人称の主語は Licht ではなく、Licht という言葉が先にあったということにはならないわけです。少なくともドイツ語の逐語訳はこういう仕組みになっています(現代ドイツ語の意訳の2番目の例では、Licht を直接主語にしていますが)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ★ Licht という言葉が先にあったということにはならないわけです。
 ☆ すなわち もし三人称主語として《光(オール)》を立てた場合には あたかもその光が有ることを命じられて有ったというとき その《光》なる言葉もが 同時に生成しているかに――解釈としてですが――考えられると思われるからです。

 これは 表現形式の多様性なのだと考えられます。それは 神が《非知》ゆえだというのは 質問者〔と あともなどすさんと〕の見解です。


 もっとも 《見かけとしては、es が Licht になったわけで》というとき その《 es 》は――屁理屈をならべますと―― 《やがて Licht に成る何か》でもあると解釈し得ましょうか。し得るとしたら ドイツ語が 独自性を持つと同時に ヘブル語ないし一般的な考え方からいちじるしく離れて行ってしまうわけではない。こう考えられます。

 こういう収穫を得させていただきました。






 
 ○ 有る。成る。生まれる。生じる。

 ☆ これらの用い方に関心を持ちました。つまり 《有る》以外は 現代ドイツ語が用いたようにはあまり使われなかったとしたら それは何故か? もはや今は保留ですが。




 言葉のことで あとひとつおしえてくださいますか?

 ○ Sie wird jetzt schon angekommen sein.
 彼女はまもなく到着するでしょう。→彼女はもう到着しているだろう。

 ☆ これが 右辺のように解釈されるのは 《 schon 》があるからでしょうか? schon がなかったら 左辺のごとく《彼女はまもなく到着するでしょう。》となるのでしょうか? 

 すみません。ありがとうございます。

投稿日時 - 2014-12-02 23:10:15

ANo.20

 ☆☆ (No.14お礼欄)  ~~~~~~~~~~~~~
 ただし この絶対者による世界の創造説については 《無からの創造 creatio ex nihil 》というときの《無》は この経験世界における《有》の成り代わった相対的な無ではないのですから・つまり 絶対無と言っても絶対有と言ってもよい絶対領域のことですから 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かない。とは考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここで、《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。

そして、このように絶対領域の肯定・否定の考えは、

・分かる
・分からない
・分かるか分からないかがわからない

のうち、分かる(考えることができる)のであるから、絶対領域のことを考えることができる。すなわちここでとりあつかう絶対領域とは非思考の庭のことではない。つまり、何の言及もできるものではないのにもかかわらず、少し触れていると言われるのはどういうことでしょうか。

創造説の是否両論を考えることができるが、どちらも支持せず、思考停止する。そういう領域に触れるには、
一方に立場に立って、その説を固持するのではなく、両論バランスよく、Aでもあり非Aでもある事態として取り扱うべきであり、他方を排他的に取り扱うべきではない。

ところが、(両立の事態を念頭に置きながらも)、たとえば、ぼくが否定、ぶらじゅろんぬさんが肯定の立場で、敵対的に論じ合うことになってしまう。両面的に論ぜず、一面的に論じてしまう。どちらも悪者になってしまう。

それは、相対的な世界での言語やなんやらを対象した論だとはいえ、もし非思考の庭に思考が触れるようなことがあるのならそれは、考えられる事態を総じて論ぜねばならない。こう思います。

すると、神が光を何人称で捉えているのかという問題でしたら、一人称・二人称・三人称どの場合の肯定否定も扱うことになる。もう少し単純化すると、神にとって光は自称か他称かという問題になる。もちろんどちらも考えられ、どちらかに固持しないことが正しい触れ方である。

したがって、聖書記者がそれを三人称に限定して書く事は、やっちゃいけないことではないか。やっちゃいけないことをやってしまったのをみて、それに賛同して、さらに強調することは、さらにやっちゃいけないことで、こういう場合は、バランスをとって、それを否定、というより、その否定を主張してあげなくちゃいけない。

ということで、屁理屈になりましたが、聖書記者にむかって、神は光を自称とも他称とも捉えているはずだよ。光は神自身であるという可能性を排除しちゃいけないよ。と主張するのが妥当ということになりませんか。すると、神は自らを光として捉え、自らに命じるということは、意志するということであろうから、自ら光ったというイメージがでてきます。神は語った「光あれ!」というが、神は自ら光った、そういうイメージもありうるよ。命令などないんだよということになる。

聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」
ならば余計なお世話かもしれませんが。

まあ、神に言葉で触れると、なんでもありになってしまうのでしょう。だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。そういう議論は有用なんですかね。結論の形はあらかじめ分かっており、人間の問題として、どちらかに決定しなくちゃならないという問題ではなくどちらでも可能。

したがって、ぶらじゅろんぬさんが、どちらとも判断しないというまともな立場、いいかえると安全地帯にいて、愚かな者たちがああでもないこうでもないと神に抵触する議論をする構造ができてしまっています。そんな風におどらされるのは嫌なものですよ。

投稿日時 - 2014-12-02 21:17:54

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ ここで、《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かないと考えることができるのであれば、《神による世界の創造》説を単純に肯定するわけにも行かないと考えることができるのではないですか。
 ☆ ええっとですね。

 《非知》なる場を 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ》という定義で想定したあとは この定義の概念が 仮りに《非知》を表わすものとして代理することになります。
 
 言わば補助線だけを扱って 解答なる本体を何とか表わそうとし 何とか仮りにでも理解しようとしている。ということになります。

 創造説を単純に否定するわけにも行かないというのは この《補助線=仮りの代理表現=シルシ(言葉)》でそのように思考しています。本体を思考しているわけではありません。

 ★ つまり、何の言及もできるものではないのにもかかわらず、少し触れていると言われるのはどういうことでしょうか。
 ☆ 代理表現〔としての言葉〕によって触れています。仮りに。

 ★ 創造説の是否両論を考えることができるが、どちらも支持せず、思考停止する。
 ☆ これは 取扱いが違います。仮りの議論については 仮りにそのように理解するというだけのことです。仮りの理解ですから 仮りの理解を得たというにとどまります。

 ですから その仮りの理論を《支持するかどうか》は 問うていないわけです。ただしそれでも整合性はつらぬけと要求しているでしょうね。

 あるいは 仮りの理論をかたちづくるということは その途中の段階であろうが 一応最後まで理論づけたという場合であろうが 《思考停止》かどうかは 関係ないことになります。仮りの表現として理解したというだけのことですから どこまで行けば思考停止するとか まださらに思考をつづけよとか そういう問題は 《仮りの理解》にとって どちらでもよいわけです。仮りの理解のほうが問題であり それは ただ仮りのものでしかない。

 ★ そういう領域に触れるには、一方に立場に立って、その説を固持するのではなく、両論バランスよく、Aでもあり非Aでもある事態として取り扱うべきであり、他方を排他的に取り扱うべきではない。
 ☆ これは その通りだと思います。ただし 細かいことを言えば 《両論のバランスを取る》という扱い方も あまり意味を成さないわけなのです。何しろ 仮りの理解であるからです。

 もっとも整合性を この仮りの理論であっても だいたい目指すものとは考えます。

 ★ すると、神が光を何人称で捉えているのかという問題でしたら、一人称・二人称・三人称どの場合の肯定否定も扱うことになる。もう少し単純化すると、神にとって光は自称か他称かという問題になる。もちろんどちらも考えられ、どちらかに固持しないことが正しい触れ方である。
 ☆ 論理的にそうなります。

 ★ したがって、聖書記者がそれを三人称に限定して書く事は、やっちゃいけないことではないか。
 ☆ 論理的にそうなります。

 そしてしかも言語表現の問題としてなら ひとつの可能性と言いますかひとつの表現形式をえらび それに徹して仮りの理解を得られるようにと文章をはこんで行く。こういう作業をした結果が いまの聖書です。

 言いかえると 表現形式は いろんなやり方がありうる。こうなるはずです。聖書記者は そのひとつをえらんだ。だけのことだと言えると思います。


 なぜなら ほかの表現形式をえらんだ場合にも まったく同じくけっきょくどれもこれも《仮りの理解》を得るための《仮りの理論または物語》を描き出したことになるだけだからです。



 ★ 神は光を自称とも他称とも捉えているはずだよ。光は神自身であるという可能性を排除しちゃいけないよ。と主張するのが妥当ということになりませんか。
 ☆ つまり そういう別の可能性の線で それぞれが自分の表現物語を著わそうと試みればよいわけです。

 ちなみに 旧約聖書は いまのかたちに成ったのは ふたつまたは三つの記者グループの著わした《聖書》を合わせてまとめたものだと 聖書学では言われています。

 神をエローヒームという言葉で表わすグループ(エロヒスト派)と 同じくヤハヱーと表わすグループ(ヤハヰスト派)。さらにもうひとグループを加える見方も提出されているようです。

 グループどうしの間では いくらか・またはかなりの程度で互いにいわゆる文体が違うと見られています。違うから そういう区別を見つけることが出来たというようです。

 たとえば 神がヒトを造ったという記事は 創世記に二度出て来ます。男と女とを造ったと書いている箇所と 男のあばら骨から女を造ったと書いている箇所とです。そういう事例があるようです。



 ★ すると、神は自らを光として捉え、自らに命じるということは、意志するということであろうから、自ら光ったというイメージがでてきます。
 ☆ ええ。そういう可能性からの描き方・著わし方もあるわけです。いまの聖書は それらをとうぜん排除などはしていません。

 ★ 神は語った「光あれ!」というが、神は自ら光った、そういうイメージもありうるよ。命令などないんだよということになる。
 ☆ あぁ。いいことを言ってくださった。つまり まさにそういう《表現の問題》なのであって であるからには 《書かれたものが 歴史事実である》という説にしがみついていることは出来ない。さりとて まったくの表現の問題であるに過ぎないと言い切ってしまうわけにも行かない。

 ええ。 このことを――実際には うりが・・・さんという人にですが――はっきりと証明したかったことなのです。少なくとも 或る程度の信憑性をもって説明してやりたかった。そういうことなのです。まさに この《いくつかの表現可能性としての聖書》 これが この質問で問い求めていた着地点です。

 またまた あともなどすさんにファイナルタッチを打ち出してもらった恰好です。

 ★ 聖書記者「いえいえ、それは誤解です。私も神が自ら光るイメージは持っています」
 ☆ ええ。そのように答えるはずです。


 ★ だから、こういう神に触れる問題を立てることに意義があるのかないのか。こっちのほうが疑問です。
 ☆ これはすでに触れて来ました。可能性のひとつとしてそれに徹して試みた表現のまとまり これが 仮りの理解を得させるはずです。ゆえに 《有用》なのです。


 ★ 結論の形はあらかじめ分かっており、人間の問題として、どちらかに決定しなくちゃならないという問題ではなくどちらでも可能。
 ☆ けっきょく確かにそういうことであり そういうことであるのですが そのときには――仮りの理解として―― 《非知》なる神は 人間の言葉で仮りに表わそうとしたら 大きくはふたつの可能性がある。《有る神》と《無い神》とのふたつです。つまり 有神論と無神論とは 《非知》なる神のもとには 互いに同等でありどちらかを優位においてえらぶことは 人間にはかなわない。

 こういうひとつの結論が得られます。これはおおきな収穫です。信仰という信仰は 《非知》なるひとつの神とそれぞれ《わたし》との関係であるとまとめることが出来ます。非思考の庭ではなく 思考の緑野でオシエを扱うシュウキョウは 信仰とそして神にとっては お呼びでないことになります。



 ★ したがって、ぶらじゅろんぬさんが、どちらとも判断しないというまともな立場、いいかえると安全地帯にいて、愚かな者たちがああでもないこうでもないと神に抵触する議論をする構造ができてしまっています。そんな風におどらされるのは嫌なものですよ。
 ☆ これまでのシュウキョウのほうが 勝手に・自分勝手に踊り続けて来たのです。もうそろそろ組織を自己解体して シュウキョウには終止符を打ちましょうと言っています。

 シュウキョウの神は 思考と想像の産物であり 観念として言葉だけが踊っているものです。シュウキョウ者は 精神錯乱に落ち入っています。精神錯乱から出発しています。

 このシュウキョウによって わたしたちが嫌な思いをさせられて来たのです。

投稿日時 - 2014-12-02 22:17:30

ANo.19

お礼ありがとうございます。

疑問があるんですが、いいでしょうか。

神が光を何人称に捉えているかを考えることは、常々語っておられる非思考の庭のこととして考える対象ではないのではないですか?

ご自身のなかではやっていることと言っていることに矛盾はないのだと思われますが、ぼくには、それが理解しかねます。

投稿日時 - 2014-12-02 19:20:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 神が光を何人称に捉えているかを考えることは、常々語っておられる非思考の庭のこととして考える対象ではないのではないですか?
 ☆ これはですね。大問題がなお横たわっているということを意味しております。

 No.14で まさにあともなどすさんからのご回答に応えて 次のように述べています。
 ☆☆(No.14お礼欄)  聖書は 多くの場合に表現の問題であると言い 神を創造主として描くのも 文学的な表現の問題であるとは わたしが言ったことです。そういう視点を持ちます。
 ☆ つまりこの問題――聖書は 多くの場合に表現の問題であるという件――が最終的に行き着くべき場所です。

 ただし この《神による天地の創造》が単なるタトエなのか? と尋ねて来た人に対しては いまこのように言語の問題として扱っている内容でいくらかは そのタトエ説を補強するのに役立っているのではないかとも考えています。

 聖書記者が どのように表現しようとしたか。その跡を追っておくだけでも 何をどのように表わすのがよいか。表わし得ない事柄をどのように想像の世界においてとしても あつかい表わして行けばよいか。を探っておくことにおいてです。


 言いかえると 聖書記者たちは確かに 人間にとってはただただ《非思考の庭》にてあたかも繰り広げられる〔と言っても確かなことは分からないのですが〕信仰論ないし神学の内容 これを 思考の次元で仮りに・タトエとしてどう表現するか? ここにほとんどすべてが集中して行くものと思います。


 こういった大前提の上で いまの問いを問い求め議論を展開して行こうとしています。


 そうして 表現の問題というのは ありがたいことに一たん言語表現という場をもうけたなら その上で――仮象や仮想の事柄であっても――何でも論じることが出来るのだとも思います。

 そういう仮りの場での・いまは言語論ないし文法論議になっているというわけだと考えます。


 つまり そのかぎりで《非思考の庭》なるその中身のことであっても 簡単に単純に議論の舞台に乗せておき 自由に扱いうる。というかたちになっているかと思います。


 つまり 神も絶対領域もそれと人との関係としての信仰のこともみな 言語の世界における一つひとつの項目であるという仮りの姿としてあつかっています。

 その上では まったく単純に平面的に 神が出て来たとしても 一人称か三人称かとまったく経験事象のものごとと同じ扱いになる。こうなのだと思います。




 でも 少しは 神の問題としても触れてはいます。
 たとえば 先ほどのやり取りの中で:
 ☆☆ (No.14お礼欄)  ~~~~~~~~~~~~~
 ただし この絶対者による世界の創造説については 《無からの創造 creatio ex nihil 》というときの《無》は この経験世界における《有》の成り代わった相対的な無ではないのですから・つまり 絶対無と言っても絶対有と言ってもよい絶対領域のことですから 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かない。とは考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように触れてはいます。これは 言語表現の問題をはみ出す問題です。絶対領域と相対世界とのあいだには それこそ絶対的な隔たりがあります。それを無視して 平面的に一人称・二人称うんぬんと言っても かんたんには同じ次元で扱うことはできない相談なわけです。


 そして言語表現の問題だと一たんことわった上では
 ★ 神が光を何人称に捉えているかを考えること
 ☆ は 仮りの世界における議論として成り立つ。こう考えます。

 どうでしょう?

投稿日時 - 2014-12-02 20:07:33

ANo.18

こんばんは。

>動詞の活用形としてすでに主語(三人称)を含みます。

矛盾というか、葛藤というか、パラドクスというか、ジレンマというか、疑問というかそれが生じる前提として了解しています。

・三人称主語の命令法
・神が語っている
・光が主語である

これらのどれをも真実とすることが、この落ち着きのない状況をつくっています。これをぼくは言葉に操られている状態とみなします。言葉を操る立場に立たなければなりません。

> (た) すみません。このように一応捉えられる内容を前提として いまいちど説明をお願いできますか?

これらを前提に説明せよとおっしゃっても、無理です。無知ゆえ乱暴に言えばそれらはデタラメです。

> (ち) 間接話法というのは たとえば次のような文例になるのですよね。

 ○ 神は 光が有る(生まれてくる)ことを〔誰に? かは分からないが〕命じた。

そうですが、神が光を3人称として捉えている(と創作している)なら、聖書記者が間接的に語ったたことでの3人称ということは無意味なことです。すなわち、カッコつきで、直接こうです。

   神は語った「そこにあれ! 光」 

創世記のここのところは、「一日」を主題として、概念の獲得の歴史が綴られていく出発点です。生まれた概念を確認しつつ名づけていくところは、教育的でもあります。口承の様子を彷彿させます。

のちにこの光の当たる場所が「昼」と名付けられるところは、昼の意味が意義として確定したことを示しています。またそれは「夜」と対になって、最終的に「一日」の理解となる訳です。

このとき、昼の場所というものも伝承すべき獲得概念として重視しているなら、同じ表現でも

   神は語った「(あの昼の場所としての)そこにあれ! (昼を生じるあの)光」 

というニュアンスがあるという感じです。獲得概念を伝承する教育的配慮というか、そういう気持ちを想像すれば、相手の霊的な心に訴えて、以心伝心ではないですが、分かってくれ、閃いてくれ「あのことを」となるのではないかと思います。

そういう「あの一日の」「あの昼の」「あの光の当たっているところの」とかが伝承者の心の内にニュアンスとしてあるとは思います。そういう人の心の状態が言葉に反映するのであって、見えざる神、聞こえざる神の精神が言葉に反映するというのは、創作であっても受け入れがたいことです。創作者という人間の言葉なんですから。

 しかし、霊感が働いて、神がかった言葉が生じるのかもしれませんね。なんだか分かりませんね。

投稿日時 - 2014-12-02 18:15:20

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ぷらぽたさんにも尋ねてみたいのですが――ブログのほうで声はかけ終えていますが―― ここから結論を出すのは むつかしいですね。


 けっきょく日本文で 《三人称主語の命令文》は出来ないです。

 ぎゃくに言えば

 △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。

 この訳文は 《光》なる主語が 話し手の《神》から見てどういう関係であるか(第何人称か)があいまいであるぶん あれっ これは三人称かなと思わせるところが ちょっとくらいはあるのかも知れません。

 そして次のような分かったような分からないような状態にさせられます。:
 ☆☆(趣旨説明欄)  9. しかし 《光》がまだなかったときにすでにこの言葉をつかって語った。光あれと言っているときには 光はなかったのに。ならば 言葉が先に出来たのか? その言葉が三人称の主語として用いられたのか?

 ☆ すなわち 《光》をめぐって その言葉というものと そのモノとしての事象とに分かれてそれらの関係はどうなんだ? という問いが発せられます。いちおうこれについては 神にとって《言葉》と《モノ》との同時生成説を出してはいますが。


 そしてなお確認しておきたいと思いますが 《ィエヒー(あれ) オール(光が)》というときの《ィエヒー》は 初めに 子音の y が添えられていて これが明らかに《三人称の主語に対するこの動詞(ハーヤー)の活用形》であるということです。これは揺るぎません。


 ですから あとは あともなどすさんの見解としては その文法形式のほかで 意味上の実質的な中身としては 光を二人称の相手としてあつかっているか。または 神の霊を二人称として扱うことで 実質的に一人称主語つまり自分自身への命令となっているか。だと考えられます。

 《一人称主語つまり自分自身への命令》説を ねむねこさんとわたしは いちおう採りました。
 ただし あともなどすさんの見解としての 《二人称主語への命令》説も 捨てたわけではありません。なぜなら 一人称主語説においても その一人称=自分自身を 二人称の相手として捉えていても 何ら同じことになる。実質的な中身として何ら変わりない。と思っているからです。




 光から昼と夜 あるいはそれらで形作る一日などの説明を承けました。それらを含めて考えて いまの問題とそのありかは いま上に述べたところに横たわるのではないか。とは思っています。

 いましばらく開いていようと思います。
 ぷらぽたさんなり 専門家からの見解もが聞かれるとよいとも思います。


 納得できませんか? 最終的に判定するちからは いまのわたしには残念ながら ないのです。

投稿日時 - 2014-12-02 18:48:57

ANo.17

>純粋に一人称への命令としては:

 (き) And God said to himself(the Spirit of God), "Let me make there be light"

 ☆ というようなことは言えませんか?



それは、こうでしょう。

  And God said to himself(the Spirit of God), "(命令文で省略されるyou) Let yourself make there be light"

もう一人の我を認めたからには。meだと、神が自身で働くことになります。


>そしてその文例は けっきょく実質的に言って
 
 (く) 「そして神は自身に語っています『汝、我が霊よ、そこを光のある場所とせよ』と」

 ☆ という文と同じことになるのだと。


そこは、つまり、(き)は「そして神は自身に語っています『(汝、我が霊よ) 我にそこを光のある場所とさせよ』と」ということになり、神の霊に神が使役されるように神が命令するということになります。



>つまりそうではなく 三人称主語の命令形は よほどのことでないと 使い難いというように思ったところから出発しています。

 よほどもなにも、相手のyou二人称のみが命令文の主語になり、それが前提で省略されるのであって、それ以外の人称を主語とする命令文はない。三人称に変わるのは間接話法になるためではないかと言っています。ですから、命令文とは関係がないのですよ。

>(質問文) 1. この《光(オール)あれ(ィエヒー)》の《ィエヒー》なる命令法は 三人称の主体に向けて語っている。らしい。

その言語に、命令法に三人称を主語としたものがあるとは断言されていません。そこから出発しています。すなわち、「三人称の主体」とは、命令文とは関係なく、聖書記者(一人称)、聖書読者(二人称)にとっての、三人称(神の霊)になるということです。それ「に向けて」神は語っているのだよと、聖書記者(一人称)が聖書読者(二人称)に物語っているわけです。

物語の内容の世界と、物語る世界を分けて考えてみてください。物語る世界での三人称なんです。というのがぼくの意見です。こう考えれば、疑問は解消するのではないですか。

投稿日時 - 2014-12-02 01:12:57

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★  よほどもなにも、相手のyou二人称のみが命令文の主語になり、それが前提で省略されるのであって、それ以外の人称を主語とする命令文はない。三人称に変わるのは間接話法になるためではないかと言っています。ですから、命令文とは関係がないのですよ。
 ☆ はあぁ。そういう論理ですか。

 まづ言葉をつらねるときの形式だけに注目すれば
 (け) 英文では 二人称および一人称を主語とする命令文しかない。三人称主語の命令文はない。仮定法などを用いて空想やら願望として表わす。

 (こ) 形式だけとして見ると ヘブル文やアラビア文には はっきりと三人称主語の命令法がある。そしてこれは《間接話法》ではないと思うのですが。

 ☆☆(No.6お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 キリスト聖書塾の『ヘブライ語入門』では

  imperative: 命令形; 二人称に
  cohortative: 願望形; 一人称に
  jussive: 指示形; 三人称に

 と言っています。名称が定番であるかどうかは 分かりません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (さ) あとは 日本文でも 一人称すなわちわれ自身を相手(二人称主語)に見立てて――言葉の上で――あたかも命令する文は作れる。つまり 命令という主観意志を表わすときには確かに 相手(二人称主語)に語る(言いつける)ことになる。

 (し) ★ 三人称に変わるのは間接話法になるためではないかと言っています。ですから、命令文とは関係がないのですよ。
 ☆ ここがわたしには はっきりしないということだと思います。次の点ですね。
 
 (す) まづいまは 話し手としての主観の意志は 相手にコトを言いつけるという内容を表わしたいという場合である。
 つまり早く言って 〔広義の〕命令法であると考えられるが それが三人称主語に代わると《間接話法になる》とは どういうことか?
 そうなると《命令文とは関係がない》というのは 意味上は初めの《言いつけ》が有効であるからには まだ納得が行かない。
 
 (せ) ★ 物語る世界での三人称なんです。
 ☆ ええ。と言いますか いや そうではなく 神が語るその文について出て来る三人称ですよ。

 (そ) 次のように聖書記者は 表わしたわけです。そういう文法であるとは思われます。
 
 ▲ 創世記1:3  ワ(そして) ヨーメル(〔かれは‐〕言った) エローヒーム(神が):

  ィエヒー(〔それは〕有ることを言いつけられよ) オール(光が)。

  ワ(そして) ィエヒー(〔それが〕有る / 有った) オール(光が)。

  △ 創世記 1:3 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。

 ☆ 《ィエヒー》は 明らかに三人称主語のかたちです。動詞の活用形としてすでに主語(三人称)を含みます。そして それ(つまり光)は 神から見て一人称で呼ぶモノではなく 〔かたちとして〕二人称の相手としても捉えていない。ゆえに 三人称となっている。


 (た) すみません。このように一応捉えられる内容を前提として いまいちど説明をお願いできますか?

 (ち) 間接話法というのは たとえば次のような文例になるのですよね。

 ○ 神は 光が有る(生まれてくる)ことを〔誰に? かは分からないが〕命じた。

 ☆ つまり 従属節をしたがえる恰好になる場合だと思うのです。

投稿日時 - 2014-12-02 07:19:42

ANo.16

> そして これらの《相手》である《 霊 / Spirit 》は けっきょく神( God )のみづからの霊のことだと考えられます。つまりは 実質的に言って 《一人称の主語への命令形》なのだと捉えられるのではないでしょうか。


神が語る相手が神自身という意味でも、当然に二人称の命令形ではないですか。

 And God said to himself(the Spirit of God), "(you(霊)) Let there be light"

「そして神は自身に語っています『汝、我が霊よ、そこを光のある場所とせよ』と」

投稿日時 - 2014-12-02 00:02:07

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 (か)  And God said to himself(the Spirit of God), "(you(霊)) Let there be light"

 ☆ ええ。独り言であっても 言葉による表現としては もう一人のわれに語るかたちを採り得ると思います。

 純粋に一人称への命令としては:

 (き) And God said to himself(the Spirit of God), "Let me make there be light"

 ☆ というようなことは言えませんか?

 そしてその文例は けっきょく実質的に言って
 
 (く) 「そして神は自身に語っています『汝、我が霊よ、そこを光のある場所とせよ』と」

 ☆ という文と同じことになるのだと。


 つまりそうではなく 三人称主語の命令形は よほどのことでないと 使い難いというように思ったところから出発しています。

投稿日時 - 2014-12-02 00:10:26

ANo.15

こんばんは。お礼をありがとうございます。

難しい文法論議にはついていけませんが、こういうことではないですか。直接話法で、

 And God said, "(you(霊)) Let there be light" :

あるいは、

 And God said, "(”Spirit(霊)”,(you)) Let there be light" :

と書けば2人称が主体の命令文。それを、間接話法で、

 And God said, (it(霊)) Let there be light :

で書くから、書いた人の視点で3人称が主語の命令文になる。命令文との本質的な関係はない。

投稿日時 - 2014-12-01 21:59:23

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 (あ)  And God said, "(you(霊)) Let there be light" :
 ☆ これですと 一解として 《 you 》と呼んでいるからには 相手は二人称であって ふつうの命令法になります。つまりは

 (い)  And God said, "(you(霊)) Make there be light" :

 ☆ となる。つまり 《霊よ 光をあらしめよ》と二人称で呼ぶ相手に命令している。

 (う) And God said, "(”Spirit(霊)”,(you)) Let there be light" :

 ☆ これも同じくですね。


 そして これらの《相手》である《 霊 / Spirit 》は けっきょく神( God )のみづからの霊のことだと考えられます。つまりは 実質的に言って 《一人称の主語への命令形》なのだと捉えられるのではないでしょうか。


 (え) And God said, (it(霊)) Let there be light :

 ☆ この場合というのは どういう中身になっていましょうか。神( God )は 《 (it(霊)) 》に呼びかけているのでしょうか? それとも これは 頭の中に思い浮かべているけれども 特には呼びかけてもおらず・また近くにいるわけでもない ということでしょうか?

 近くにいてもいいのですが 問題は この《 (it(霊)) 》に言いつけているのかどうかです。

 だれに・何にむかって 命令しているのか? ではないでしょうか。


 そうして 英文にかんするかぎりでは

 (お) Let there be light.

 ☆ この命令文は けっきょく相手がいるのかどうかも分からないかたちですが でも二人称の相手に言い渡している恰好なのだと思うのですが 違うでしょうか。




 ちょっと分からなくなってきましたが 言葉の問題としてなら 英文は 二人称の相手に命令している。そして へブル文は それとして=その文法として三人称主語に向けて 命令しているかたちを採っている。


 ということではないかと思うのですが。・・・

投稿日時 - 2014-12-01 22:26:48

ANo.14

自分の関心として、「これ」には意味がないか? を考えていたんですが、thereがあったので、なぜかこちらの回答をつくることになってしまいました。

「一面的に捉えて矛盾する見解は二面的に捉えることで解消する」ので、神の視点と聖書記者の視点に分けて考えます。

・神は、神の霊に向かって命じた。(神にとって2人称)
・私は、神の霊によって、そこが光のある場所であるという意味を知った。(私にとって3人称)

(私は、霊を通して、神が語るのを聞いた)
神は(神の霊に)語っている「そこが光(のあるところ)であるとしなさい」と。
(こうして私は、神の霊力によって、「「そこ」は光のあるところである」という意味を経験したのである)

 聖書は霊性を獲得し言語を持ったヒトの歴史から始まるという解釈になりますね。天地の創造など荒唐無稽でぼくには信じることはできませんが、ヒトが「天」や「地」を概念把握するのは神秘的な力によるということは信じています。この現実があるだけで神秘です。

 言語獲得以前の動物であるヒトはクオリアはもつでしょうが秩序なき混沌だと思われます。赤子の見る世界もそうでしょう。そして彼らは神秘に気づかないと思います。ヒトと神秘との出会いから物語がはじまっても聖書の価値は損ねないとぼくは思います。

投稿日時 - 2014-12-01 05:57:16

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 今回は わたしは別様の視点を持ちます。結果は同じようになるかも知れませんので 異論というまでには行かないでしょうか。


 その前に この質問を考えついたのは 次のような発言を別の質問への回答にもらったからです。

 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「聖書の<創造主なる神>はあくまで物語です」ということは、あんなことはたとえ話であり、フィクション、虚構に過ぎない、というのですか?
 だけどそのフィクションが2000年にもわたって、西欧の人々に信仰されてきた事実の重みというのを、どう考えたらいいのでしょうか?
 単なる絶対と相対との隔たりを確かめるための、たとえ話だと?
 冗談でしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 聖書は 多くの場合に表現の問題であると言い 神を創造主として描くのも 文学的な表現の問題であるとは わたしが言ったことです。そういう視点を持ちます。

 ただし この絶対者による世界の創造説については 《無からの創造 creatio ex nihil 》というときの《無》は この経験世界における《有》の成り代わった相対的な無ではないのですから・つまり 絶対無と言っても絶対有と言ってもよい絶対領域のことですから 《神による世界の創造》説を単純に否定するわけにも行かない。とは考えます。

 単純に言えば 《創造者と被造物との関係として世界は成っている》説と《絶対領域からおのづから――どういうわけか――現われたモノの自己運動として世界はある》説(≒進化論)とは どちらも一方のみをただしいとしては決められない。と思っています。

 この非知なるナゾゆえに――わたしは――
 ★ ヒトが「天」や「地」を概念把握するのは神秘的な力によるということは信じています。この現実があるだけで神秘です。
 ☆ という見方になります。

 そして
 ★ 聖書は霊性を獲得し言語を持ったヒトの歴史から始まるという解釈になりますね。
 ☆ このことは 真実だと思います。
 
 つまり アブラハムおぢさんに《非思考の庭》が成ったという信仰が始まった。(それ以前にも 信仰はあったとすれば それは 必ずしも自覚されていなかった。かまたは ただ自然現象やいわゆる英雄のはたらきに人間わざとも思えず理解も出来ず何とも不思議なチカラを感じた・ゆえにこれを受け容れたといった心の状態であったと考えます。これを 《非知》として捉えるところまでアブラハムは到ったのだと)。

 もう少し継ぐとしますと ですから アブラハムのこの歴史的出来事をとうとぶ人びとは むろんその信仰の保持をねがったし そして過去の歴史にもさかのぼって行った。

 その結果 ひとつに人類の始祖としてアダムとエワとを見出した。(想像をたくましくして 描き出した)。善悪を知るということや 同じことで自由意志の問題を捉え物語にして編んだ。そのあとカインとアベルのところでは すでに《ひとごろし》という主題をも扱った。・・・というようであり さらには

 さらには 天地の初めにまでその観想のごとき想像力を伸ばし切った。伸ばし尽くした。そしてこの経験世界の起源については 自分たちがアブラハム以来いだくようになった信仰つまりその神との関係として 当然のごとく描いた。

 神による天地の創造というかたちで物語ったのは それら聖書記者のそういう自己表現じょうの好き嫌い(クセ・エートス)によるものと考えられます。

 被造物の最後のほうでヒトが造られたというのは いわゆる進化論とそれほど変わらない。《絶対領域ないし絶対者》を話に採り入れるかどうかの違いだけだとさえ考えられます。







 さて:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「一面的に捉えて矛盾する見解は二面的に捉えることで解消する」ので、神の視点と聖書記者の視点に分けて考えます。

 ・神は、神の霊に向かって命じた。(神にとって2人称)
 ・私は、神の霊によって、そこが光のある場所であるという意味を知った。(私にとって3人称)

 (私は、霊を通して、神が語るのを聞いた)
 神は(神の霊に)語っている「そこが光(のあるところ)であるとしなさい」と。
 (こうして私は、神の霊力によって、「「そこ」は光のあるところである」という意味を経験したのである)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは むつかしいですね。よしこれだとも いやそれは違うとも どちらの反応もまだわたしは採れないように思われます。


 ★ ・神は、神の霊に向かって命じた。(神にとって2人称)
 ☆ ということは 部分的にも《二人称による命令法》が混じっているということを意味します。

 それとは別に確かに
 ★ ・私(=聖書記者つまり人間)は、神の霊によって、そこが光のある場所であるという意味を知った。(私にとって3人称)
 ☆ というふうに《三人称〔のモノ・コト・場〕》は現われますが ひとつにこれに命令するわけではないこと。もうひとつに 《そこが光のある場所であるという意味を知った》というとき すでに《光》なる言葉もしくはそのモノとしての事実が出て来ているのではないかと思われるからです。


 ただしです ただし そのあとにどんでん返しのような仕掛けが組まれてもいるようです。
 ★ (私は、霊を通して、神が語るのを聞いた)
 ☆ すなわち いままで取り上げたふたつのコトはすべて《わたし(=聖書記者)の言ってみれば〈非思考の庭〉におけるヒラメキにおいて与えられた霊感》である。と説明したときには 上に触れた《命令なる行為》だとか《光りなる言葉と事実》だとかの問題は その《観想・直観・インスピレーション》の中におさまる。ことになるからです。こういう仕組みなのですね。



 ★ 神は(神の霊に)語っている 「そこが光(のあるところ)であるとしなさい」と。
 ☆ これは ねむねこ氏とともに考え出した《一人称によるみづからへの命令という実質的意味》説ですね。言いかえると ただしその文法形式としては あくまで三人称主語への命令というかたちを採ったしこれを堅持したのだと。


 というような舞台じょうの暗転やらフェイドアウトのごとくの変転を経て 最後には:
 ★ (こうして私は、神の霊力によって、「「そこ」は光のあるところである」という意味を経験したのである)
 ☆ というふうにも再びのごとく わが主観の内におさまる。すべては一場の夢だったのかと言うまでに。

 しかもそれは 《非知》なるナゾとして・またそれを受け容れたわが心なる《非思考の庭》としては じつは――想定じょう――現実である。想定として現実である。(無現を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるという想定)。

 非知を・あるいは絶対なる想定を 削除するわけには行かない。人工物ではなく人間の想像の産物でもないからである。
 


 というわけですが 言葉の問題としては 《実質的な一人称への命令》説とそしてそれに伴ってのように《光なる言葉とそのモノとしての事実とが同時に生成した(造られた)》という同時説は この《直観の物語》とともに成り立つように思われるからには これだけでよし とするわけには行きません。という捉え方になると思います。







 ★  言語獲得以前の動物であるヒトはクオリアはもつでしょうが秩序なき混沌だと思われます。赤子の見る世界もそうでしょう。そして彼らは神秘に気づかないと思います。ヒトと神秘との出会いから物語がはじまっても聖書の価値は損ねないとぼくは思います。
 ☆ じつは これにも別様の視点を持ちます。(結果は 同じようなことになるかも知れません)。

 赤子において すでに――母親の乳を吸うときから始まって――《聖なるあまえ》をおのづから生きていると思われます。無条件に依存していますし 依存して行きます。

 この聖なるあまえは ものごころが着いたあとは きよらかなおそれとして持たれつづけると見ますが ここにはすでに《秩序ある混沌 あるいは 混沌なる秩序》が根づいているし 息づいている。こう見たいのです。

 ★ そして彼らは神秘に気づかないと思います。
 ☆ とつづくと思います。

投稿日時 - 2014-12-01 10:19:38

ANo.13

わたしの意見が訊きたい
  ↑
聞いてどうするの!?




それに 先駆者ヨハネが居た様にオープニングアクトだけで良いのです

投稿日時 - 2014-11-30 21:49:08

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~
  わたしの意見が訊きたい
   ↑
  聞いてどうするの!?
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから タテマエとしてだけでもと言いました。ウワベだけとしてでも 相手と話をするのだという姿勢がないのならば 誰もかまってくれないでしょう。それは 話し合いではないからです。ただの一方的な押しつけでしかないからです。



 ★ それに 先駆者ヨハネが居た様にオープニングアクトだけで良いのです
 ☆ その背景や何を根拠として言っているのかや もろもろの説明をするのが まづ最初の仕事です。そこから対話には入ります。


 要するに蛸壺に入ったまま かろうじてこの質疑応答の場などに出没して投稿をする。相手が応じて来たなら もうけものだ。といった態度では まづ何も大切なふれあいなどは望めないでしょう。とおおしえします。
 


 

投稿日時 - 2014-11-30 23:06:50

ANo.12

教えて貰ったサイトは必須項目多いですね・・

ベストアンサーとかポイントとか要らないので 毎回アドやID変える俺には不向きみたいです

なので・・・

聖書・・旧約聖書 新約聖書は 共に イエスキリスト死後から次のキリスト降臨迄の人達に理解出来る様に書かれました

なので 新しいキリストが全て語った現在 聖書自体無意味・・特に新約聖書に於いては キリストの再臨の時期 再臨する国 そして再臨した時に イエスの時みたいに キリストを信じない人達が どういった行動に出るのか等を書いた書物・・

なので 既に再臨し キリストの役目を果たした今となっては古書なだけ・・

そして 新時代に相応しい「成約聖書」と言うのが これからは広まります

投稿日時 - 2014-11-30 21:08:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 或る程度分かりましたと言えば 分かりました。ネームを代えてのご投稿でしたか。


 おそらく いまの書き込みの仕方だと けっきょくご自分の側の仮説の宣伝であると見られておしまいとなる可能性が高いですね。


 なぜなら すでに歴史は決まっていると言っているだけの内容になっているからです。煮詰めてみれば それだけになっているわけです。

 相手とのやり取りが 成り立たない態度がそちらには決まっているわけです。


 ★ 「成約聖書」
 ☆ を明らかにすること。これを伝えて 相手に受け容れさせること。その内容をさらに詳しく深く自分にも相手にもおしえ込むこと。――こういった仕事しかないと分かっている恰好です。


 そりゃあ 嫌われます。嫌われる前に 話をしたくないと言うでしょうね たいていの人は。



 それでも どうしてもその仮説を人びとに問うてみたいと言うのなら・タテマエとしてだけでもそういう人びとへのうったえがあると言うのなら その仮説の内容を かくかくしかじかであるが どう思いますか? と問えばいいのです。質問をすればいいのです。


 もし質問をするのではなく このわたしの意見が訊きたいというのであれば ここでもよいですから 主題ごとに・項目別にひとまとまりの内容を順に 書き込んで行ってください。取りあえずひとつでもいいわけです。
  
 今回の内容は きわめて大ざっぱな輪郭のみだと思います。


 十四万四千人の話などは それでも聖書の文句を挙げて話をおしすすめている部分がありました。
 こんどは それもなく推測と呼ばれても仕方のない預言のようなものだけを示しているのでしょうか?

 こういったことを考えます。

投稿日時 - 2014-11-30 21:24:16

ANo.11

ドイツ語ですと、この部分はもっとスゴいことになるようです。
 Gen. 1:3 【独】 Und Gott sprach: Es werde Licht! und es ward Licht.

───ただし、ドイツ語には三人称に対する命令法がない───
ここでは《接続法1式(2式と比較すると実現可能性が高い)》が使われており、命令的要求とか命令的話法という用法なのであろう。
話者の意思や希望・願望などを接続《法》で表わす。


ちなみに、このEsは、Es gibt構文や「雨が降ってる」の「Es regnet.」のesです。
状態を表わすためのお飾り主語esといったところでしょうか。

~~~~~~
 Es werde Licht.
  明かりがつく。

http://ja.wiktionary.org/wiki/werden
~~~~~~
このあたりの感覚は、Nativeやドイツ語圏で長く暮らしたことのある方でないとたぶん分からないのでしょう。
文法的にはwirdが正しいと思うのですが、聖書の影響でwerdeとなっているのであろうか。

投稿日時 - 2014-11-30 16:02:40

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 接続法と《形式主語と呼ばれる Es 》の問題 ふたつあるということですね。


 接続法はその一般的な用法は分かるつもりですが ドイツ語の I式・II式といったことは―― いちおうまなんだはずですが――すっかり忘却のかなたです。いまの感覚として。


 No.8でぷらぽたさんと 接続法の話をしました。わたしは
 ☆☆  接続法は けっきょく想像法なのだと思います。想定することを表現しておきたいというかたちでしょうか。
 ☆ と書きました。

 ▲ Gen. 1:3 【独】 Und Gott sprach: Es werde Licht! und es ward Licht.
 ◇ 文法的には wird が正しいと思うのですが、聖書の影響で werde となっているのであろうか。
 ☆ 《 werde 》なる活用形に いくらか疑義のようなものが持たれるというのですね。




 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ちなみに、このEsは、Es gibt 構文や「雨が降ってる」の「Es regnet.」の es です。
 状態を表わすためのお飾り主語 es といったところでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては たぶん結論の出にくい議論がたたかわれているのではないでしょうか。(もう放っておかれているかも知れませんが)。

 そして これはねむねこさんとすでにやり取りしました。
 【Q:《 It rains. 》は 《天 降る》か?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8144643.html

 まだ――互いに決定打が出せずに――何となくあいまいな感じでいますが。


 二点とも わたしとしては 保留です。

投稿日時 - 2014-11-30 20:24:02

ANo.10

ついでに・・・神を語るには 質問内容から かけ離れるので 質問者が 質問内容と回答の意図が違うと思えば それでオシマイなのです

投稿日時 - 2014-11-30 15:40:44

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。


 いえいえ。質問者たるわたしが そういうことはしません。アラシの場合は べつですが。



 あるいはぎゃくに あなたが質問してください。そういうことでしたら わたしは投稿しますから。

投稿日時 - 2014-11-30 20:09:54

ANo.9

あなたに話したい事は色々あるが 此処で書いても 運営規定で削除されるだけ

なので短文にしかならない

これも 恐らく 削除対象・・

この方式を 変えるのを まずは優先にしないと駄目なのです

投稿日時 - 2014-11-30 15:24:06

お礼

 ご回答ありがとうございます。



 この質問でもだいじょうぶだと――と言っても確固たる保証があるわけでは確かにありませんが――思いますよ。

 たとえば 創世記の記事に触れて そこから広げて行くといったかたちを採るなら 楽勝ではないでしょうか。



 あるいはいまでしたら
 【Q:『聖書』は 日本人には要らないか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8834570.html

 ここがいいです。主題の幅が広いですから。

投稿日時 - 2014-11-30 20:08:07

回答番号6のplapotaです。

指示形、願望形といふのですね。ありがたうございます。さういへば、以前もconstructやabsoluteの訳語を教へていただいた覚えがあります。

さういふことでしたら、指示形は、命令と願望の中間に位置するのでせうか。

>>先ほどの入門書では 存続時制( imperfect )の活用形が
>>ヒフイル態(≒使役法)では 変化すると言っていますよ。

ヒフイル(使役)の件はどうもよくわからないのですが、たちまち、質問文の用例は、パアル(ふつうのやつ)ですね。

>>《現在時における存続が 未来にもおよぶ》といった
>>主観の意志ないし判断だということですよね imperfect というのは。

おつしやるとほり、基本的に継続のアスペクトです。

jussiveの場合は、継続では意味をなさないので、印欧古典語でいふ接続法のやうなものではないかと考へてゐます。サンスクリット語の命令法は、接続法の発展ではないかといふ説をどこかで読んだ気がします。

投稿日時 - 2014-11-30 15:04:43

お礼

 ご回答をありがとうございます。




 ★ ヒフイル(使役)の件はどうもよくわからないのですが、たちまち、質問文の用例は、パアル(ふつうのやつ)ですね。
 ☆ あ そうでしたか。ヨーセフなどは ヒフイル態の文例かと思いましたが。




 ★ jussiveの場合は、継続では意味をなさないので、印欧古典語でいふ接続法のやうなものではないかと考へてゐます。
 ☆ なるほど。そういう細かい点にも注意が必要でしたか。
 
 つまりは 現在時において まだその動作などが存在していないということですね。
 だとすると 継続相というだけでは 説明しえない。

 接続法は けっきょく想像法なのだと思います。想定することを表現しておきたいというかたちでしょうか。


 文法のほうから 決定的なヒントは出ないですかねぇ。

投稿日時 - 2014-11-30 20:04:15

ANo.7

人間が 何か 物を造る時 言葉を発しますか!?

頭の中で考え どうすれば良いかを思考しながら 黙々と造りますよね


神も同じ・・・・宇宙を創造してる時に 言葉なんて発していません

聖書では 神が 心の中で思った言葉だろーと考え それを 読者に伝えるのに 適した言葉が たまたま「光あれ」だっただけ

投稿日時 - 2014-11-30 12:56:05

お礼

 ★ 聖書では 神が 心の中で思った言葉だろーと考え それを 読者に伝えるのに 適した言葉が たまたま「光あれ」だっただけ
 ☆ これはじつは・つまり 聖書記者の表現の問題という主題は つとに問い求めて来ました。

 おっとまづは ご回答をありがとうございます。

 たとえばちょうどいまさっきまでも 次のような質問をしています。:

 【Q:《ねたむ神》は ただの表現の問題である。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8832934.html

 《ねたむ》のは 神のもとに集まる人びとがであるという議論です。
 ★ 聖書では 神が 心の中で思った・・・だろーと考え
 ☆ その心の中の思いがたとえば《ねたみ》であるなら そのように表現したのだと。つまりは 聖書記者の・ということは一般に人びとの思いの問題であり それをどう表わすかという表現の問題であるのではないかと。



 この《光あれ》も じつは・と言いますか もともと確かに表現の問題であると考えます。


 ただしたぶんこのくだりについては そのように内容から攻めて問い求めるよりも 一たん言葉の問題として捉えて ひとまづの結論を出し 出来ればさらに内容について考えて行く。こういう二段構えで臨んでいます。


 

 言いかえると ここでは・こういう出で立ちにするならば
 ★ 神も同じ・・・・宇宙を創造してる時に 言葉なんて発していません
 ☆ と言って説明し切ることはかなわない。のではないでしょうか。特には 信じる信じないとは関係なく聖書について哲学するときにはです。

 あるいはつまり あなたも
 ★ 〔神が〕宇宙を創造してる時に
 ☆ と言うのなら この創造主としての神を――表現の問題に入らずに――そのまま前提として話をなさっています。

 おそらくこの点にも 哲学の疑問は及んで行くかと思います。

 単純に言うとすれば
 ★ 人間が 何か 物を造る時 言葉を発しますか!?
 ☆ に対してなら なかには発する人もいる。となるはずです。独り言なる表現法のもんだいですね。

 なかなかむつかしいですよね。
 話の出発点として何を置いているのか・あるいはそもそもどういう前提ですすめるのか。むつかしいです。


 ですから
 ★ それを 読者に伝えるのに 適した言葉が たまたま「光あれ」だっただけ
 ☆ であったとしても 今度はその表現をすでに前提としたときには どういう議論が成り立つか? になるのではありませんか?

 いえ。前提がどうであるかにさえ関係せずに なぜ《三人称の主語に対して 命令法が用いられているのか》という問いは成り立つと思うのですが どうでしょう。(その場合にも 神にかかわる部分とかかわらなくてよい部分とが出て来ると思います)。
 (光あれと言うのなら すでに《光》は 言葉だけとしてでも あるわけです。すでにあるものを あれと言っています。うんぬん。・・・)

投稿日時 - 2014-11-30 14:03:22

こんにちは。ユージューフダン教のplapotaです。私が口出しするまでもなく、ねこさんの英語での説明や、ぶらげろさんのコメントだけで充分だと思ひます。

三人称命令法は、英独仏を学んだあとに古典語を学習する者が疑問に感じる項目です。サンスクリット語には一人称命令法もありますね。

ヘブライ語の命令法imperativeは伝統文法では、二人称だけです。質問文の事例は、jussiveです。命令の一形態で、おだやかな指示といつたところでせうか。もうひとつcohortativeといふのもあつて、命令の意図がさらにうすれて、希求法に近くなります。(日本語で書かれた文法書を持つてゐないので、「jussive」「cohortative」を正式に何といふのかわかりません。)

ヘブライ語の場合は、imperfectのなかの一形態としてjussiveがありますから、現時点ではさうなつてゐないけれど、未来では、さうなるはずだ、そんなイメージではないでせうか。「俺がルールだ、俺が言つたのだから、さうなるのだ。」言霊思想に近いかもしれません。

投稿日時 - 2014-11-30 12:20:47

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ ねこさんの英語での説明や、ぶらげろさんのコメントだけで充分だと思ひます。
 ☆ あ それは失礼しました。おそかりし由良の助でしたか。まぁ 中間の結論ですけれど。


 ★ ・・・「jussive」「cohortative」を正式に何といふのかわかりません。)
 ☆ キリスト聖書塾の『ヘブライ語入門』では

  imperative: 命令形; 二人称に
  cohortative: 願望形; 一人称に
  jussive: 指示形; 三人称に

 と言っています。名称が定番であるかどうかは 分かりません。



 次は そうは言いながら 持論の展開なのですね。
 ★ ヘブライ語の場合は、imperfectのなかの一形態としてjussiveがありますから、現時点ではさうなつてゐないけれど、未来では、さうなるはずだ、そんなイメージではないでせうか。「俺がルールだ、俺が言つたのだから、さうなるのだ。」 言霊思想に近いかもしれません。
 ☆ ううーん。まづは なあんだ 爪を隠してたのかですが 大きな主題・課題になりましたね。

 ▽ ( OnlineEtymologyDictionary: jussive ) ~~~
   http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=jussive&searchmode=none

 "grammatical mode expressing command," 1846,
  from Latin iuss-, past participle stem of iubere "to bid, command,"
  from PIE *yeudh- "to move violently, fight;" + -ive.

 △ (jubeo) ~~~~~~~~~~~~~~
( jussi, jussum ) 命ずる。命令する・支配する 2. 決定する;裁可する 3. ある事に取り決める; ・・・であると宣言する
  (田中秀央)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ へブル語の外から見た見方ですので あまり参考にならないかも。


 ★ ヘブライ語の場合は、imperfectのなかの一形態としてjussiveがありますから、現時点ではさうなつてゐないけれど、未来では、さうなるはずだ、そんなイメージではないでせうか。
 ☆ あぁ だけど 先ほどの入門書では 存続時制( imperfect )の活用形が ヒフイル態(≒使役法)では 変化すると言っていますよ。

 ▲ ( jussive= 指示形) ~~~~~~~~~
  ヒフイル態が指示形になると 次のような母音変化が起きます。ただしアクセントの位置は変わりません。

   (フォントが無くてすみません)

  yasettir → yasetter : 隠してください。
  yoosif →  yoosef : 加えてください。増えよ。
  yaaqim →  yaaqem : 成就してくださるように。

  (キリスト聖書塾編集部:『ヘブライ語入門』 1985 § 38-6 p.410 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ヨーセフは ラケルがなかなか子が生まれなかったところついに男子がさづかったとき さらにもう一人の子を自分に加えてくださいと言った。その言葉らしい。ヨーセフ=《増えるように》という意味の名前をつけた。



 このように活用形が変化するから 中身が違うのかどうなのか。いまのところわたしには分かりません。
 《現在時における存続が 未来にもおよぶ》といった主観の意志ないし判断だということですよね imperfect というのは。

 言霊思想に行き着くような思想であるのか。
 その可能性と言いますか そういう人間の思考や想像の余地がありうるだけに 結論はまだよう出しません。

投稿日時 - 2014-11-30 13:42:10

ANo.5

言語はコミュニケーション=一人称と二人称の間で
行われるものである(それぞれに主体がある)。
「それ以外」をひっくるめて三人称と言うのである。
だから三人称はあっても四人称はなく、三「人」称
であっても物も含むのである。
命令するのに、自分にするのは変だし、具体的に
誰か相手に命令している訳でもないので、文法的に
三人称にならざるを得なかっただけでしょう。

投稿日時 - 2014-11-30 10:17:43

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ○ 一人称と二人称に入らないモノゴトはぜんぶ三人称なるクラスに押し込んだだけのこと。

 ☆ というご回答でしょうか?



 まづ
 ★ 命令するのに、自分にするのは変だし、
 ☆ という疑問はあまり問題にはならないのではないでしょうか。
 
 すなわち モノゴトも《三人称 3rd person 》に入るごとく――そして モノゴトや動物などに向かっても人は二人称の相手と見なして話をする場合さえあるごとく―― やはり表現の多様性によってのように 一人称すなわち自分自身を相手としてその自分に向けても 《願い》をしてみるわ《怒りを発して叱咤激励》をもするわで広く《命令法》を活用するように思われますから。


 ★ 具体的に誰か相手に命令している訳でもないので、文法的に三人称にならざるを得なかっただけでしょう。
 ☆ この《具体的に誰か相手に》するわけではなく さらにその《相手に命令している》わけでもないという捉え方が 微妙であると思われて来ます。

 つまり上で考えたように《見なす》という場合がじゅうぶん普通にあり得ると考えられるからです。

 モノゴトをあたかも人に譬えるごとく。
 動物を人にたとえて しかも話し相手と見なすごとく。
 《具体的に誰か相手に命令している》と見なすことは じゅうぶん考えられるからなのです。

 《光》なるモノゴトで 初めは・ふつうなら 三人称に入るものを あたかもすでにおのれの目の前にあるかのごとく 二人称で捉えることは――《タトエや見做し》において――あり得るのではないでしょうか?

 そして確かに《文法的に三人称にした》という事実が厳然とあるわけですから これについて考えるに何故か? となります。なるのですが いまは ひとつに《けっきょくは 特に話し手が神である場合には 神がみづからに命令する内容であるのだが 表現形式としては もともとの三人称扱いを保持した》という見方が出ています。

 もうひとつに このようなモノゴトの起源にかかわる場合に 光なら光というモノゴトの《言葉》とそしてそれの《生成=存在》とが同時なる出来事だと捉える。こういう見方です。

 どうでしょうかねぇ。
 


 

投稿日時 - 2014-11-30 11:31:49

「仮定法現在」というのは間違いかもしれないので、
 ───祈願文と命令を同一視している───
「命令法」としておいてください。

いずれにせよ、法(Mood)がらみの話ですよ。
命令するというのは、「現在、そうでないから命令する」ので。

Let there be light!

ですが、
これは、神さまが光に命令した、とは考えにくい。
この言葉を発したと同時に、光は存在するようになったのでしょう。

では、神の頭の中に光のイメージ、概念が存在としての光に先行していたのかどうか?
これをやりだすとスコラになってしまう(ポリポリ)。
スコラ的な考え方をすれば、
神の頭の中に、光のイメージ、光の形相が先にあったとなるのでしょうが、
ここで既に神を擬人的───工作をする者としての神───にとらえていますし、どうかと思うんですよ。
そもそも、存在と形相や本質は切り離せるものなのか、という問題も出てきますし・・・。

ですから、同時に存在した、と考えるべきではないですかね。

投稿日時 - 2014-11-30 02:32:19

お礼

 つづいてのご回答をありがとうございます。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですが、
 これは、神さまが光に命令した、とは考えにくい。
 この言葉を発したと同時に、光は存在するようになったのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのもの(《光》)とそれの《存在・生成》とは同時である。という見方は じつはしたことがあります。また 変わったわけでもありません。

 ただし それをひとつの見方としても ではなぜ 三人称に向けるかたちにしたのか? 

  《光》なる言葉をいま得た。
  その光よ
  ――だから やっぱり《光よ おまえよ》となるように思われる――
  現われよ。

 といったように二人称になるのではないかと。




 ◇ では、神の頭の中に光のイメージ、概念が存在としての光に先行していたのかどうか? / これをやりだすとスコラになってしまう(ポリポリ)。
 ☆ ええ。まぁ そうでしょうね。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~
 スコラ的な考え方をすれば、
 神の頭の中に、光のイメージ、光の形相が先にあったとなるのでしょうが、
 ここで既に神を擬人的───工作をする者としての神───にとらえていますし、どうかと思うんですよ。
 そもそも、存在と形相や本質は切り離せるものなのか、という問題も出てきますし・・・。

 ですから、同時に存在した、と考えるべきではないですかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。やっぱり《同時説》ですか。

 ◇ そもそも、存在と形相や本質は切り離せるものなのか、という問題も出てきますし・・・。
 ☆ これには 賛成しています。または 実存は本質に先行すると。


 問題は 表現のかたちですね。三人称を用いたという。
 これだと 秘密のアッコちゃんとか ドラえもんとか(これらについてよくは知りませんが) アラヂンの魔法のランプのような呪術の園(ツァウバーガルテン)にとどまっているかに見られます。


 直後の回答No.5では 一人称と二人称ではないものごとはみな三人称なる部類に入れただけのことだと言っています。

投稿日時 - 2014-11-30 11:12:14

質問文を見て、思わず絶句してしまいました。
ですから、英語の文法書を引っ張り出して、英語の命令文について調べてみました。

命令文は、「(話者の)命令や依頼・願望をあらわす文」と書いておりました。
これでは、まったく答えになっていない(ポリポリ)。

私の文法書(500頁超)には書いておりませんけれども、
命令文には、命令や依頼・願望の他に、「容認や放任・許容」といったような意味もありそうですね。
 Let them talk.(「世間の人が話するのは勝手よ」という意味らしい)。
あと、「勧誘」を表わす場合がある(これは文法書に書いてあった)。
 Let's go.(さあ、行こう)


で、二人称以外の命令文の場合は、「間接命令文」と呼ぶことがあるらしいです。
三人称以外にも、一人称の命令文がおもしろいですね。
Let me sleep.(私を眠らせてくれ)
周囲がうるさくて眠れず、「静にしてくれ」という意味で、この文を発するのならば、うるさくしている人たちに「静にしろ!!」と命令、もしくはお願いしているのでしょうけれど、そうでなければ、誰に向かってこの文を発しているのであろうか?
「特定の誰かではない」ことだけは確かなのでしょうね。


まぁ、英語のLet + O + 動詞の原形の場合は、
《(単複)二人称》 + let + O + 動詞の原形で、二人称の主語を欠落させたものなのでしょうね。
 ───英単語のletはmakeと同じで、主語が強制的にOを○○の状態にさせるという意味を持っている───
英語の場合は二人称の場合、原形動詞がくるので分かり辛いですけれども、二人称で動詞(let)の活用が原形と異なったとしても、原形動詞が来るのでしょう。
仮定法現在、つまり、Mood(法)で原形動詞がくるんじゃないですかね。
祈願文の
 God bless me!
と同じカラクリなのではなかろうかと。
私の持っている英語の文法書にはこんなことは書いていませんけれども、
おそらくそうなのであろう。
と、適当なことを言う。

二人称の相手(John)に
 John, you go out!(ジョン、お前は出ていけ!)
と言ってもいいんですよ。
 John go out!
 ───Johnが目の前にいないと、「神よ、ジョンを去らせ給え!」とかの祈願文になる???───
でも文法的にはOKなんでございます。


と長々と前置きしまして、
 Let there be light!
ですが、仮定法現在───beではなくletがです───ですから、この言葉を発する前は「lightは存在していない」のでしょう。光・lightに命令しているのではない。
神が命令するものは、letの前に省略されている二人称で表わされる誰か。

この言葉を発した神以外の存在が他にあれば、その存在に対して命じたとなるのでしょうが、
唯一神教ですから、これも否定しなければいけない。
 ───三位一体をここで出すか・・・。三位一体説が予感されるとするか・・・───
とすると、
 神は自分自身に命じた
 ───自分の二人称化。自分自身に語りかけるとき、一人称の「オレ」は二人称的性格を有している。そして、自分に向かって「お前は誰だ?」と問いかけることもある───
もしくは
 「さぁ、光を存在たらしめようぜ」
とか
 「これから光を作っちゃおうぜ」
と自分自身に誘いをかけた、自分のやる気、意志(意思?)を表明した、
とかなるのではないですかね。

何しろ神さまですからね~、
意思(意志?)を表明する、言葉を発するだけで何でも存在たらしめられる。

あくまで英語から類推するとですよ。
ヘブライ語をはじめとするセム語の文法的知識をまったく有しておりませんので、ヘブライ語や他のセム語にこうした用法があるのかどうかは知りません。



☆11. 三人称主語に向けての命令法とは どういうコトか?
◇目の前にいる人に向かって、三人称の奴をホニャララにしろ、と命令しているんですよ。
 Let the window down. (窓をおろして)
の意味で、まわりにいる誰かに命令しているのであって、
「窓よ、下りよ!!」
と窓に命令しているわけではないですよ。

投稿日時 - 2014-11-30 01:39:59

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~
 命令文には、命令や依頼・願望の他に、「容認や放任・許容」といったような意味もありそうですね。
  Let them talk.(「世間の人が話するのは勝手よ」という意味らしい)。
 あと、「勧誘」を表わす場合がある(これは文法書に書いてあった)。
  Let's go.(さあ、行こう)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては分かります。

 すなわち 法は ムードであって 話し手の気分なわけです。主観のことでありその意志またその判断です。

 ですから この主観意志ないし判断内容は 相手や動作の中身によって自由度が出て来ると思われます。
 あるいは やはり主観意志の表明の仕方にもよるのでしょうか。のぞむ・願う・欲する・強く欲する・押しつけるなどが いわゆる《命令法》のもとにあり得ると考えられますから。

 

 
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 一人称の命令文がおもしろいですね。
  Let me sleep.(私を眠らせてくれ)
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですよね。つまり これは 相手がいない場合(相手を想定していない場合)と相手に向かってしゃべる場合とで分かれるでしょうか。

 ◇ 周囲がうるさくて眠れず、「静にしてくれ」という意味で、この文を発するのならば、うるさくしている人たちに「静にしろ!!」と命令、もしくはお願いしているのでしょうけれど、そうでなければ、誰に向かってこの文を発しているのであろうか?
 ☆ 《 Let me ・・・》の《 me 》に向かって・つまり独り言を言っていることになるのでしょうね。

 しっかりせよとか落ち着けとか 同じことで気持ちが浮ついているからふだんの我れに還ってみなさいとか。魂振りですかね。


 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 まぁ、英語のLet + O + 動詞の原形の場合は、
 《(単複)二人称》 + let + O + 動詞の原形で、二人称の主語を欠落させたものなのでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あっ。そういう解釈ですか。ううーん。
 
 でも こう考えてみては どうですか? つまり その二人称主語は けっきょく自分自身がその役になっているのだと。
 ぎゃくに言えば いまの自分は いつもの自分ではない。ゆえに いつもの自分が仮りに二人称の相手となって――けっきょくは自分がそうするのですが――その二人称主語がいまの自分に向かって語りかけていると。

 でもこれは 独り言ですよね。と思うのですが。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~
 祈願文の
  God bless me!
 と同じカラクリなのではなかろうかと。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あっ。これも いまさっきの解釈で持ちこたえられます。

 つまり 《いまの不甲斐ない自分》に対して《いつもの自分》が仮りに二人称の相手となって語りかけるといった場合に代えて 今度は 三人称の誰かを持ってくる。《神》ともなれば さすが自分が成り代わるというのではないだろうけれど その神が《いつもの自分》の代わりに《いまのダメな自分》に喝を入れたりなぐさめたりする。というような仕組みを 自分で表現の構造としてつくっている。

 つまりこれも 大きく《独り言 soliloquy 》なる自己表現のひとつの形式であろうと。

 ちなみに 《独白 monologue 》とは違うのでしょうね。演劇における表現形式のひとつですから その場に相手がいなくても 観客という相手が想定されていますから。実質的にダイアローグに近いと思われます。

 ソリロクィは アウグスティヌスの造語だとか。(これは 小耳にはさんで そのままにしており まだ検証していませんが)。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 二人称の相手(John)に
  John, you go out!(ジョン、お前は出ていけ!)
 と言ってもいいんですよ。
  John go out!
 ───Johnが目の前にいないと、「神よ、ジョンを去らせ給え!」とかの祈願文になる???───
 でも文法的にはOKなんでございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 文なる表現は 《自己表現》であって すべてその統括を話し手がおこなっています。文における最終の(最重要な)論述は これもけっきょく話し手の《主観意志》です。そのさまざまな判断内容です。肯定・否定をふくむ平叙文であったり 主観が疑問をいだくなら 述語動詞を疑問法に活用させた疑問文であったり。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  Let there be light!
 ですが、仮定法現在───beではなくletがです───ですから、この言葉を発する前は「lightは存在していない」のでしょう。光・lightに命令しているのではない。
 神が命令するものは、letの前に省略されている二人称で表わされる誰か。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 英文で考えるなら そうなるでしょうね。



 ◇ ───三位一体をここで出すか・・・。三位一体説が予感されるとするか・・・───
 ☆ それは しません。何しろ《一体》なのですから。一人三役で そういう会話形式にしようと思えばできるでしょうけれど 実質的な内容は けっきょく《独り言》の部類に入るかと思われます。



 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 とすると、
 神は自分自身に命じた
 ───自分の二人称化。自分自身に語りかけるとき、一人称の「オレ」は二人称的性格を有している。そして、自分に向かって「お前は誰だ?」と問いかけることもある───
 もしくは
  「さぁ、光を存在たらしめようぜ」
 とか
  「これから光を作っちゃおうぜ」
 と自分自身に誘いをかけた、自分のやる気、意志(意思?)を表明した、
 とかなるのではないですかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そう来ましたか。

 ということは 言葉の表現形式――文法――としては 《三人称主語への命令法》という独自のかたちをつくったが その心は 《一人称主語への命令法》であるのだと。

 どうですかねぇ。いちばんきつい批判は 《心とは違う形式をなんでわざわざ ふざけたように つくったのか?》になるでしょうね。かたちも同じくふつうの命令法で表わしておけばいいぢゃないかと。


 
 ◇ ヘブライ語や他のセム語にこうした用法があるのかどうか

 ◆ (【Q:3人称が主語になった命令文は御座いますか?】回答No.6)~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6721766.html

 古典ギリシア語も三人称の動詞に命令法がありました。
 聖書の「光あれ」は genetheto phos で genetheto が三人称単数命令法「光をして生じせしめよ」です。

 ところがラテン語の fiat lux は「光が作られますように」という接続法で希求を表す文に変わっています。
 命令法は形式的には *fito lux となるはずですがなぜかこの形は用いられなかったため(二人称への命令もまれ)であると思われます。

 ☆☆ (回答No.7)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 3. 〔アラビア語で〕三人称にも命令のような内容を示すのは 《要求法 Jussive 》が別個にある。

  Gen.1:3 أَمَرَ اللهُ : «لِيَكُنْ نُورٌ  
  ・'amara Allah: ≪ Li- ya - kun nur.≫・・・
  ・ said Allah: To-〔that-〕it-be light〕.
  
 直説法なら 《 ya - kunu ( he is )》です。日本語ならニ格(≒与格)に当たるような前置詞(接続詞)の 《 Li- 》がこの要求法をみちびいています。

 ■(回答No.3) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 フィンランド語では1人称単数を除く全人称・数に命令形があります。他のウラル言語でも同様に多数の形があると思います。

 たとえば「言う」の原形 sanoa に対し,

  1人称複数:sanokaamme (言おう)
  2人称単数:sano (言え)
  2人称複数:sanokaa (同上,複数の相手または敬称)
  3人称単数:sanokoon (言わせる,言うべき等)
  3人称複数:sanokoot (同上,複数)

 があり,それぞれ否定形があります。ただ,1人称複数の「言おう」は実際の会話では sanotaan という別な形(受動態)を通常使います。
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 ◇  ~~~~~~~~~~~~~~~
   Let the window down. (窓をおろして)
 の意味で、まわりにいる誰かに命令しているのであって、
   「窓よ、下りよ!!」
 と窓に命令しているわけではないですよ。
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 ☆ たぶん問題は ですから形式としては あたかも《窓に命令している》かたちを採っていることにある。なんでだろうーお なんでだろう。

投稿日時 - 2014-11-30 10:54:54

ANo.2

見当違い・・・・

もっと 聖書を探究しないと あなたには 到底解からないでしょうね

投稿日時 - 2014-11-30 01:28:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 こういう疑問をも持たないあなたには もっと分かり得ないでしょうね。



 ところで どうして《見当違い》だと分かったのですか?
 
 小学生が先生の質問に 答えが分かる前に手を挙げるあれですか?

 ぢゃあ ゆっくりその答えを考えてみてください。

 待ってますよ。

投稿日時 - 2014-11-30 09:32:45

ANo.1

「ここに光よ生まれて!」
という感じではないでしょうか。
天に向かって、お願いをした、というか。

投稿日時 - 2014-11-30 00:20:37

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 ★ 生まれる
 ☆ というのは 何がしかのエネルギーがあって運動があるといった意味で 何となく分かったとして でも
 ★ ここ・光
 ☆ というのは すでにそのモノ・コト・または場が決められているからこそ そう呼んでいるのではないかと思ったわけです。

 あと
 ★ 天に向かって
 ☆ というのは 一方で確かにこの文句の前に《天と地とをつくった》とありますから その《天》だとも見られ得ますが 他方では むしろ天なる神のことを言うとも採れますね。つまり 神がみづからに向かってお願いをしたという恰好にもなりますね。


 天の邪鬼の疑問でした。



 あぁ 《ここ》なる場というのは すでに出て来ているところ(創世記1:2)の《かたちのない地》であり《その上を神の霊が動いている水面》である。と解釈できました。すみません。

投稿日時 - 2014-11-30 09:28:10