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アウグスティヌスと《愉快な乞食》

 ▼ (アウグスティヌスと《愉快な乞食》) ~~~~~~~
 私は 名誉と利得と結婚とを渇望していましたが あなたはそういう私を嘲笑なさいました。
 
 私はこれらの欲望のために さんたんたる苦難をなめていましたが ご自分以外のものに甘さを感ずることをお許しにならなかったあなたは それだけ恵み深かったのです。

 主よ わが心をみそなわしたまえ。あなたは これを心に想い起こして御前(みまえ)に告白することをおのぞみになりました。いまはもう 私の魂はあなたによりすがって そこからはなれることがあってはならない。その魂をあなたは あんなに粘り強い死のとりもちから ひきはなしてくださったのですから。

 私の魂は何とみじめだったことか。しかもあなたは その傷の痛いところをつかれました。それは 私の魂が 万物をこえながらしかも万物がそれなしには無であるあなたを目ざして 万物を投げすててむかい むかうことによって傷をいやされるためでした。

 だから わたしは 勇敢にも悲惨に耐えることをせず あなたが 《わたしの力は 弱さの中でこそ十分に発揮される》(コリント後書2:9)と言われたように 《その傷の痛いところをつかれました》。
もういちど繰り返します。傷の痛いところをつかれて わたしは おろかにもなって その悲惨に勇敢にも耐え ただわたしの好むところに従い 可能なことを為そうとは欲しませんでした。

 じっさい 私は何とみじめであったことか。ある日 そのみじめさを痛感するために あなたはどのようにとりはからいたまうたことか。

 その日 私は皇帝にむかって讃辞を朗読する準備をしていましたが それは 讃辞の中でたくさんのうそをつき うそつきの私が それをうそと百も承知の人びとのお気にめすようになるためでした。私の心は心配であえいでおり 身もほそる熱い思いに燃えていましたが ミラノのある街路をとおりながら 一人のみすぼらしい乞食をみとめました。

 もう満腹していたのでしょう。冗談を言いながらはしゃいでいました。私はためいきをつき 自分たちのばかげた仕事から何という多くの苦痛が生じてくるかということについて つれの友人たちと語りあいました。

 じっさい 当時 骨折っていたそういう努力のかぎりを尽くして 欲望の突き棒につつかれながら おのが不幸の重荷をひきずり ひきずりながら重荷をつみかさねつつ そういう努力によって得たいと願っていたものは ほかでもない 安全確実なよろこびでした。ところが そのよろこびにあの乞食は すでに先に到着しているのに ひょっとすると私たちは けっして達することができないかもしれないのです。

 彼が乞食をして得たごくわづかな金ですでに手に入れてしまったものを 私はこのように辛苦にみちた紆余曲折をへてさがしまわっていますが もとめているのはすなわち 現世の幸福のもたらす快楽にすぎません。

 たしかに乞食とても 真のよろこびを得ていたわけではありません。しかし私とても そのように奔走しながらさがしもとめていたものは かの乞食のそれよりも もっと虚偽のよろこびだったのです。

 たしかなことは 彼はよろこんでいるのに私は苦しんでおり 彼が安心しているのに私は動揺しているということでした。もしだれかが 《君はよろこびたいか それとも心配したいか》とたずねたとしたら 私は《よろこびたい》と答えたことでしょう。さらに あの乞食のようになりたいか それともこのままでいたいかと問われたならば 心配と不安とで疲れはてていたにしても やはりこのままでいるほうをのぞんだことでしょう。

 けれども この判断はまちがっていました。どうして真でありましょうか。
 じっさい私は かの乞食よりも学問があるからとて 自分のほうがすぐれていると思うべきではありませんでした。なぜなら 私はその学問から よろこびを得ていたのではなく ただ人びとの気にいることをもとめていたにすぎないのですから。しかもそれは 彼らを教えるためではなくて ただ彼らの気にいるためにすぎなかった。だからこそ あなたは こらしめの杖でもって 私の骨を打ち砕かれたのです。


 それゆえ 私の魂にむかってこういう者は 遠ざかってもらいたい。
 何によってよろこぶか そこにちがいがある。あの乞食は 酩酊によってよろこんでいたが 君は栄光によってよろこぼうとしていたのだ。

 主よ それはどのような栄光でしたろう。あなたにおける栄光ではありませんでした。じっさい あの乞食のよろこびが真のよろこびではなかったように 私ののぞんでいた栄光も真の栄光ではなく かえってそれは私の精神をますます逆転させてゆくばかりでした。乞食の酔いはその晩さめたことでしょうが 私は酔いながら眠り 酔いながら起きました。将来も同じように眠っては起きたことでしょう。その状態は まあ 何日つづくことであったか。

 もちろん どこからよろこびを得るか そこにちがいがあることは 知っています。信仰にもとづく希望から生ずるよろこびは あの虚妄とは比較にならぬほどへだたっているのです。しかし当時においても 私と乞食とのあいだにはへだたりがありました。疑いもなく 彼は私より幸福でした。その理由は 一つには 私が心配でふぬけになっていたのに 彼はまったくの上機嫌だったということにありますが それだけではありません。彼は道行く人の祝福を祈って酒に ありついたのに 私のほうは うそをつきながらからいばりの地位を追いもとめていたのですから。

 当時 私はこういった意味のことを 何回となく親しい友人たちに話し そのような場合 自分がどういう状態にあるかをしばしば考えてみました。そして状態がかんばしくないことに気づいてかなしみましたが 悪い状態をいやがうえにも悪くするばかりでした。そして何か幸運じみたものがほほえみかけることがあっても 手を出す気になれませんでした。なぜならそれは とらえようとすると飛びさっていったからです。
 (『告白』 6・6・9-10 山田晶訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この《乞食》の手放しの愉快さ・底抜けの明るさ これが われわれのベースになるのではないか? 飾りの要らない樅の木だけのクリスマスツリーのごとく。ベースは 悩みでも苦(ドゥッカ)でもない。
 ――これが 問いです。あなたの哲学は 何と言いますか?

投稿日時 - 2014-12-10 18:19:15

QNo.8853801

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質問者が選んだベストアンサー

bragelonneさん こんばんは。

しかし、この投稿の文章を書くために、bragelonneさんはどのくらいの時間をかけているのですか?

もう、お読みかもしれませんが、アウグシティヌスの言葉には、アウグスティヌスの言葉で返答。

幸福とは?

1)欲するものを所有しない人は、いかなる人であれ至福でありえない。(至福の生 2 ; 10&14)

2)至福であることは窮乏しないこと、すなわち知者であること以外のなにものでもない。(?)

3)至福の人は、いかなる人であれ、自分自身の規範つまり「知恵」を所有する。(至福の生 4 ; 33)

4)至福の人はいかなる人であれ、「神」を所有するものである。(至福の生 4 ; 34)

5)しかし悪しきものを欲しているならば、たとえ、それを所有していても、その人は悲惨である(至福の生 2 ; 10)

総括すると、真理を求めていても、それを見出していない人は、真に幸福と言えないというアウグスティヌスのお言葉。

私は哲学する時間が至福の時です。

ところで、bragelonne哲学を完成させるときは、bragelonne哲学に、神様や仏様の概念を導入するのですか?

先のbragelonneさんの投稿に、私はカントの対象を創造するという「知的直感」の否定を言及したのは、カントは「知的直感」を否定することにより、「神」という概念をカント哲学に入り込まないようにしたそうです。

しかし「実践理性批判」を読む限りでは、カントは哲学であっても、キリスト教の道徳面を否定しているとは私は思いません。まあ現在のような表現の自由はないという歴史的背景はあったと思いますが・・・。

では、bragelonneさんの見解をお礼にて、お待ちいたしております。


 

投稿日時 - 2014-12-13 19:42:15

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 まづカントからです。
 ▼ (哲学概論) ~~~~~~~~~~~~
 http://www.geocities.jp/studia_patristica/philosophia14.htm

 第11回
 第8章 カント――コペルニクス的転回

 第6節 理性と信仰

 このように見ると、カントは神の存在を否定しているように見える。しかし、彼はプロテスタント教会の敬虔な信者であった。カントが言いたかったことは、経験の裏づけがない事柄は、理性によって正しく認識されないということだけであって、信仰の否定ではなかった。

 カントが『純粋理性批判』で述べた言葉を引用してみよう。

  「私は、信仰に席を空けるために、(神に関する)知識(すなわち理性的認識)を否定しなければならなかった」(括弧は筆者)

 とある。カントは、信仰と理性とを厳密に区別し、それぞれの働きが及ぶ領域を明確にしたのだった。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この説明はかなりはっきりしていると思いますが。
 わたしの言葉では 非思考の庭と 思考の緑野(および感性の原野)との対比だと思います。



 ★ ところで、bragelonne哲学を完成させるときは、bragelonne哲学に、神様や仏様の概念を導入するのですか?
 ☆ これは 梵我一如なる信仰の類型に入って来ます。


  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)
   無梵:空・シューニャター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8769891.html
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ 総括すると、真理を求めていても、それを見出していない人は、真に幸福と言えないというアウグスティヌスのお言葉。
 ☆ 『至福の生』ですか。渋いところを持って来ましたね。《浄福》という言葉もあるようです。




 ★ しかし、この投稿の文章を書くために、bragelonneさんはどのくらいの時間をかけているのですか?
 ☆ これは 次の質問を挙げたことを念頭にしてあたらしい質問を考えようとしたとき

 【Q:あたまのよい人は なぜこうもヘリクダルのだろう】
 【Q:いぢわる・ふざけ・不良・不純の効用は?】

 そう言えば《愉快な乞食》の話が アウグスティヌスにあったなぁと思い出して 取り出して来たのです。書き置きしたのがあったので それを遣いました。なので ひらめいてからはそれほど時間はかかりませんでした。




 この質問は 回答者が少ないのも然ることながら あまり議論を煮詰めて行く性格のものでもないようです。考えてみれば。
 
 でもいま挙げたふたつの質問につけ添えて 取り上げておくとよいかと思います。


 『至福の生』は 容易には思い出さないので 付け焼刃で応答しても何ですので 控えます。
 よくお読みなんですね。

 日本での著作集刊行がようやく完成しつつあるようですね。
 

投稿日時 - 2014-12-13 20:27:16

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回答(3)

ANo.2

生きる目的が、物質的な豊かさ(お金、物欲)か、
精神的な豊かさかの違いでしょう。
前者において、労働はお金を得るための手段であり、
後者において、労働は助け合う喜び=目的である。
それは、得るためであるか、与えるためであるかの
違いでもある。

投稿日時 - 2014-12-11 08:46:02

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 そもそも論ですが あれかこれかという問いには だいたい あれもこれもだと答えが決まっています。コンピューターの論理ぢゃないのだから。


 《愉快な乞食》であるだけでもダメなのです。

 それから アウグスティヌスが何が何でも世間の思潮や風潮にどっぷり浸かっていたということにもならない。

 あれもこれもの見方に立って 全体の姿をととのえ よいところを取り上げとうとぶようにして行きましょう。


 そのとき 待った無しで・やむを得ず・どうしても世間のナラハシにしたがわねばならない時と場合とがあり得ます。それでも さらにどうするか? どこをどう突き抜けて行けば この混乱は解消するか? 

 そのために 回り道としてでも ひとの存在としての・実存(生活態度)としてのベースを問い求めます。ベースとは 基礎ですが あゆみ( basis )のことです。《歩くこと》です。英語で言えば 行く( to go )の動名詞です。

 机上の空論は 理念でありうる場合もありますが そのことに甘えていてはなりません。だから ダメです。

 犬も歩けば棒に当たるとも言いますが どんな棒であるかは分かりません。あんがいよいきっかけになる棒であるかも分かりません。ですから思想は 街に出て歩かねばいけません。分かりましたか?

投稿日時 - 2014-12-11 09:33:10

ANo.1

他人の幸福から自分の幸福を見つめるのは構わないけど
自分の幸福は自分で決めて
人の幸福はその人が決めれば良い

投稿日時 - 2014-12-10 19:27:00

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2014-12-10 20:35:32

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