こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

締切り済みの質問

神 信仰ならびに宗教についての一般理論

 哲学カテが 劣化して来ていませんか。

 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。
 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。

 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。
 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。


 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。

 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。

  (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~
    経験事象
      可知
        既知
        未知
      不可知(知り得ないと知ったものごと)
    非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)
      非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
  
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。

  (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~
    信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観
    --------------------------
    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教
    感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ 
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。
   

 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。

 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。


 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。
 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。

  (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~
  =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。

 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。
    よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。

 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。
    有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。
    
 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。

 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。

 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。

 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。

 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

投稿日時 - 2015-01-16 11:22:41

QNo.8893227

すぐに回答ほしいです

このQ&Aは役に立ちましたか?

25人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(23)

ANo.23

酔っ払って絡んでるんだがね。
イエスさんが神を自己表現に取り入れたのと同じ事を私は私なりにこなしているよ。
おもちゃ業界の人間として面白可笑しくな。
誰がいかようにその主観の真実を表現してもいいだろう。
そこで矛盾点から何らかの争いが過去にあっただろう。
この文章は、あんたの目標に対する肯定だよ。
私は赦されざる者として、悪の覇道を歩む。
からかっているだけでもいいから、
キャーステキー。
とか言う位に君は酔っぱらったりしないのかい。

投稿日時 - 2015-01-26 22:11:00

お礼

 酔うことはあるさ。ただ もう滅多にそれほどは飲まない。


 イエスの場合は いわゆる旧約聖書の時代から その文書がいつ書かれたかの年代を別として 人物を取り上げると アブラハムのときから 二千年の歴史があるわけです。モーセのときからなら 千年だとかの。

 あるいは イザヤという名の預言者が出た。
 そのイザヤが こう書いた。:

   これは主がわたしに油を注いで 
   貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね 
   わたしを遣わして心の傷める者をいやし 
   捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。
      (イザヤ書 61:1-3)


 福音を伝えるつとめは すでにあった。
 そのあとにやっと 待ち望まれたイエスが出た。

 イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日(休みの日)に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。:
   
   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ
  る箇所が目に留まった。

     主の霊がわたしに臨み
     油をわたしに塗った。
     主がわたしを遣わしたのは
     貧しい人に福音を伝え
     捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。
         (つまり イザヤ書61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと
  は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 

    ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに
      実現した。

  と話し始めた。
        (ルカによる福音4:17-21)



 という物語になっています。二千年のあいだ 待ち望まれたという意味です。





 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-01-26 22:39:27

ANo.22

丁寧な御礼をありがとうございます。内と外、遍在という辺りはわかりやすく頷けるものでしたが、仰るように、神が遍在であると表現した例は昔からあるように思えます。
ブラジュロンヌさんの神論が、過去既出の神論と異なる点は何処なのでしょうか。非知や、謎という表現は確かに耳慣れないもので、それがツボかと思ったのですが。
言語で表現されるところの一切を超えていて、(それは無分別智に似てもいるのかなと思いましたが)それが絶対とか遍在とか表現されるのは、あくまで仮であるというのもわかるのですが。
どこら辺が新しいのかを今一度教えていただけないでしょうか。

投稿日時 - 2015-01-20 00:50:52

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 仰るように、神が遍在であると表現した例は昔からあるように思えます。
 ☆ 《ありきたりのパタン》で説明しています。

 ☆☆(No.21お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 しばしばこの見方が 好かれていて言われるようです。《非在なる神》は この現実世界に遍在しているのだと。 

 この神の遍在という見方が いやな向きには 《無》が好まれるようです。絶対無という捉え方です。
 絶対無は 絶対有とまったく同じことです。有か無かは 人間の好みでそういう捉え方をしただけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 見ても見ない。聞いても聞かない。
 そういう向きもあるようです。

投稿日時 - 2015-01-20 08:40:11

ANo.21

非経験の場が、この世から絶対的に隔たっている故に非知であるというのはわかったのですが、その非知の向こう側が、絶対という属性を帯びている保証はないのですよね。
絶対的に隔たっている故に、その先のことは絶対的に(わかるかわからないかも)分からないわけで、それが無限かどうかもわからない。無限かもしれないが、そうでないかもしれない。非知とは想定不可の領域だと受け取ったのですが、違うでしょうか。それとも、非知の神とは、ただの想定の集合体に過ぎないのでしょうか。謎と言うからには前者だと思うのですが。

投稿日時 - 2015-01-19 03:48:17

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 お答えいたします。


 ★ 非知とは想定不可の領域だと受け取ったのですが、違うでしょうか。
 ☆ 《想定》と言いますか その内容説明ということだと考えますが そのとき《不可》という概念は 《非知》にはなじみません。
 
 まづ《不可知》は 数学の定理か何かにおいて これこれは知り得ないという仮説があってそれが証明されたなら そのことを表わします。つまりそれは《人間には知り得ないと人間が知った》ということを表わします。《知っている》限りでそれは 人間の取り扱いうる経験事象です。

 《不可》というのは 《想定が出来ない。想定してはならない》という意味でしょうか。
 少し見方が 違うとは思います。

 ですから 世界の分け方は ひとつに経験事象か非経験の場かで捉えます。因果関係の――つまりは時空間の――過程にあるかどうかです。 非経験の場は この時空間からまったく自由な場を想定しています。

 世界のもう一つの分け方は 知り得るかどうかです。すでに知っている(既知)かまたはいづれ知り得る(未知)かこれらふたつを合わせて《可知》と捉え得るものごとがあります。そうして 先ほどの《知り得ないと知り得た》ものごとが来ます。つまり これら可知と不可知とをふくむものごとが 経験事象であると捉えます。


 非知は 非経験の場とはどういうふうに説明するのか? の問いに答えるために 《可知・不可知》の切り口から捉えたものです。

 《可知・不可知》には属さない。そして《経験事象》にも属さない。だとすれば 《知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ない》という説明になるはずです。これでも じゅうぶん《ナゾ》だと思います。


 《想定不可》かどうかという切り口とは 別のかたちになっていると思うのですが。





 さらにいま ついでに付け加えますが いま《非知》は 《可知・不可知には属さず 経験事象にも属さない》と言ったのですが この点 それだけでは あいまいです。

 属しはしないのですが 経験世界を超えているという想定にもとづくなら その経験世界を非知は じつは覆い包んでいる。かも分からないわけです。

 あるいは ニュートリノのごとく 経験世界をつねにつらぬいて走っているのかも分かりません。

 さらにあるいは 指先どうしが互いに触れるか触れないかのような状態で 非知なる神は 経験世界に対して漂っているかも分かりません。

 あるいはつまり 非経験の場(なるチカラ)は 経験世界の到るところにじつは 存在している(つまり 遍在)かも知れません。しばしばこの見方が 好かれていて言われるようです。《非在なる神》は この現実世界に遍在しているのだと。

 勘所は 非知は経験事象には属さない(そういう想定です)けれども あらゆる経験事象に 人に知られることなく顔を出しているかも知れないといったその可能性だと考えます。つねに 非知は 開かれているということだと思われます。


 

 つまり
 ★ その非知の向こう側が、絶対という属性を帯びている保証はないのですよね。
 ☆ というふうな《こちら側と向こう側 あるいは 内と外》といった切り口 こういう見方も なじまないと思います。

 経験世界に果てがあるのか・無いのか。といった内と外との問題は 非知には当てはまりません。何しろ超えているのですから。仮りに外や向こう側があるとしても その外や向こう側も 内やこちら側と同じように すべてを超えています。(超えているということは 大きく覆い包んでいるかも分からないし遍在しているかも分からない。となります)。

 《非知》には こちら側もあちら側もありません。あっても すべてをふくみます。
 すなわちそれが 《絶対》ということでもあります。

 絶対は 属性というよりは 非経験の場= 非知= 神 の基本説明になるかと思います。《無限》もそうでしょうね。

 この神の遍在という見方が いやな向きには 《無》が好まれるようです。絶対無という捉え方です。
 絶対無は 絶対有とまったく同じことです。有か無かは 人間の好みでそういう捉え方をしただけです。






 ★ 絶対的に隔たっている故に、その先のことは絶対的に(わかるかわからないかも)分からないわけで、それが無限かどうかもわからない。
 ☆ 以上のように《絶対的に隔たっている》というのは 因果関係からまったく自由でありその時空間としての経験世界を超えているナゾを 非知として想定したことです。

 《その先のこと》という意味がよく分からないのですが。

 《非経験の場》が想定され それは《非知》として説明された。これは じつは 概念説明であることにおいて 《絶対》や《無限》の意味内容と同じことである。と知られる。

 《その先のことが無限かどうかも分からない》のではなく そうではなく そこで《想定》が定まったというふうに捉えてください。






 この世の出来事のすべてを知っている存在は 想像できますか?

 この地球あるいは宇宙のすべての歴史と空間を知っている存在は どうですか?

 あの時あそこでは だれだれがどうしているといったことをすべて分かる存在は いますか?

 《絶対》という概念説明からは 擬人化して《絶対者》という派生的想定をひとは持ちました。

 ラプラスの悪魔とかいうのがあるようですが 神は この絶対者だという見方も出されます。

 神は そういった人間の規定によって制約されることはないはずですが この全知という能力は 神に当てて捉えられているようです。

 神にあっては 内と外 こちら側と向こう側 果て・境界・限界といった見方は あり得ないという想定になっています。むろん 時間や空間によって規定され制約を受けることもあり得ません。


 ★ それとも、非知の神とは、ただの想定の集合体に過ぎないのでしょうか。
 ☆ 《想定》は われわれ人間が 何とかして神とは何かを知ろうとしておこなったものです。神は その人間のしわざによっては何の影響も受けません。
 
 《想定の集合体》というのも 人間が勝手に考える見方です。自由ですが。




 ▲ (アウグスティヌス:時間と永遠) ~~~~~~~~~~
 たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。

 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。
 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。
 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。

 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。
 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2015-01-19 07:42:33

ANo.20

そういえば、キリスト教や仏教もそうですが、
以前に比べるとそもそも話題が減ったような気がします。
ヨシュア記でキリスト教を批判していた人たちや
魔女狩りがどうだとか、
仏教もテーラワーダがどうだとか原始仏教がどうだとか
すっかり、いなくなってしまいました。
哲学カテゴリーなので、
そもそも宗教の話をする必要が無いのでしょうが、
肯定する人も否定する人も減りました。

投稿日時 - 2015-01-18 03:05:03

お礼

 そうでしょうかね。


 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2015-01-18 09:14:56

ANo.19

仏教の心相続とか識相続とか心続生は肉体が滅んでも心が続くのですから
やはり脳とは関係ないと思うのです。
もちろんそれは科学的には正しくないのですが。
意根がなんなのかとか思考器官マナスがなんなのか
具体的に臓器を仏教徒が定めていたのかどうかわかりません。

精神の源泉が脳ならばとか書いたら
「源泉」について嫌みばかりあちこちから書かれました。
原泉と源泉の差異をネチネチ。

ところで、私が気になったのは、
そういえば心でも、魂でも、霊でも、肉体よりは
まともであると考える傾向がありました。

とはいえ仏教では
心相続で続く心に欠陥があるという前提にはなっていないと思います。
今まで考えたことがない観点なのですが。

心脳同一説の問題は、肉体に欠陥があれば精神まで欠陥があるのか?
という差別になってしまう可能性があります。

ある程度は分けたほうがいいだろうと思いました。
もちろんそれは科学的には正しくはないですが。

ついでに、
旧約聖書で神が土から人間を創造した時、命の息を吹き込んだのですから、
土には霊魂がないような気がします。

これは神道的なアニミズムの世界観とはやはり異なっているのではないか。

六道輪廻に植物も土もコンクリートも石も含まれていないように。

投稿日時 - 2015-01-17 23:52:36

お礼

 分かりません。


 それに 《科学的には正しくないのですが》と言うのなら それを出す必要がどこにあるのか。これも分かりません。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 ついでに、
 旧約聖書で神が土から人間を創造した時、命の息を吹き込んだのですから、
 土には霊魂がないような気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《土》には初めには霊魂があったが その霊魂は ヒトに移った。ゆえに 土には霊魂がない。という推理ですか?

 ついでに 触れました。



 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2015-01-18 09:14:02

ANo.18

一つ。
文芸作品だよ~ん。

君を記憶にとどめる者が、君の愛を理解できる事が供養だよ。

君自身が、肉体が滅んでも自らが愛し続けると言う自信を持てればこれはたやすい。
古い言い回しでは死んでも愛し続ける言う言い方だな。
永遠の私には、君達の錯誤がなかなか理解しがたいからな。
弟子が受け継いで一方的に愛しているだけでないだろ。
君自身が自らの記憶を宝石にするんだ。
墓標じゃなくってね。
ここで君は、私の好意をイエスの鏡で確認するかい。
それとも自らの言葉で答えるか。
聖書は書かれていない事だから、君自身で答えなくてはならないだろうね。
粗末だろうと何だろうと、君の答えに期待するよ。

投稿日時 - 2015-01-17 23:42:37

お礼

 ご回答をありがとうございます。




 ★ 君自身が、肉体が滅んでも自らが愛し続けると言う自信を持てればこれはたやすい。
 ☆ 根性が違っている。

 自分ひとりのことだけを どうしてそんなにこだわるのだ?

 直前の回答のやり取りですでに済ませたので それを見てください。




 ★ 永遠 / 死 / 愛 / 墓標
 ☆ といった言葉を安易に使いすぎる。《いま・ここ》にわれが立っていれば そんなに目をあちこちに散らかさないはずだ。

 《弟子》という言葉は わたしの辞書にはない。

投稿日時 - 2015-01-18 09:08:38

ANo.17

今回の勉強会に私なりの流儀で参加るよ。
なに言われても、与えられなければ沸騰するほど君はもう猿じゃないね。
イデアの解説で私が見せた、観念世界でたどたどしい私の手を握る神。
これを神と言うのは人の世では禁じられているがね。
ビジョンと言う、誰にでも理解できる心理学的説明では、私はそこに各自において、認識の強弱がある事を確認している。
アマテラスさんの失敗作、または完成途上のこの未完成な日本では、宗教とは神を確認することで、人と人の調和を確認することであったね。
それぞれ別であっても、神を道しるべにする限りお互いに兄弟であると。
君の批判の仕方は、このような人と人の道しるべを壊す危険な暴言なんだ。
やりたければいくらでも暴れたまえ。
君は私から言わせれば、より未完成な西洋の輸入品の様な哲学お気にしすぎて、アマテラスの輝く光に不成功の疑念でもあるかのようだ。
それから、非知だけ言って満足していると、能天気にブチかましているつもりでも、あんたの嫌いな日蓮のように、聞く者の闇を深めることになるだろう。
観念世界を認識できる強い自己を持った私、そしておそらく君であるが、恐れることなく神を語る猥褻物陳列罪であってこそ、王様は裸だとケラケラと笑う事が勇者の証となる。
私はアマテラスさん専用カスタムの改造人間。
こう言っているが、君はイエスの鏡を通して語るしかないから慎重すぎるんだよ。
それはやめてもいいと思うが、試してみなよ。
君は闇を深める鏡になりかけている。
私は仮面ライダーを名乗っているから、その点では大丈夫だよ。
丹念に説得すると言うのなら、君の論理は君自身の記憶の墓標として、理解し記憶にとどめる弟子も現れるだろう。
私も44歳で結婚していないから、自分を誰かが受け継ぎつつ、自己の肉体が滅んだ後も記憶をとどめる者の、受け止める者の気持ちも、授けるあんたの心も判る。なんといっても、子供相手に商売しているおもちゃ屋だ。
君を記憶にとどめる者が、君の愛を理解できる事が供養だよ。
問答無用で、非知に連れ去るならば、君の強引さは日蓮と同様だ。
ここで沸騰するだけでなく、そろそろ爆発しろ。
君をさらに慎重にさせては、猿回しの意味がない。

投稿日時 - 2015-01-17 23:20:35

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ イデアの世界 / ビジョン
 ☆ これらについて その内容が 具体的にこのふつうに生活している現実のものごととどのように対応しているのか? 果たしてつながっているのか? これを明らかにしないと いつまで経っても おままごとの世界だとかお医者さんごっこの別世界だとかとからかわれます。




 ★ アマテラスさんの失敗作、または完成途上のこの未完成な日本では、宗教とは神を確認することで、人と人の調和を確認することであったね。
 ☆ たとえばこういった表現について ツッコミを入れずに話をそのまま受け留めていたとすれば それは アマテラスさんうんぬんのところは 文学的な――つまりみづからの見解を明らかにしないしまたそこには結論はないとことわっているような――表現の仕方であると〔違ったとしても〕受け留めておいたからである。

 けれども問題にしようと思えば ツッコミは必要。

 ★ アマテラスさんの失敗作、または完成途上のこの未完成な日本
 ☆ そもそも《アマテラスさん》とは どういう神を言うのかから始まって 《未完成な》とは何を言うのか? についてしっかりと説明を聞かなければ 先へとすすめない。と言えば 言えます。そういうツッコミどころが いくつかあります。



 ★ それぞれ別であっても、神を道しるべにする限りお互いに兄弟であると。
 ☆ たとえば こういうひとつの結論をみちびくのであるなら 先ほどのアマテラスさんうんぬんは ほとんど要りません。《神を道しるべにする限り》という条件も この場合要らないと言えば要らない。

 ひとは その生まれつきの身と心としての能力などが互いに自然本性として同じである(似通っている)。ゆえに 《兄弟である》ことが出来るとほかの根拠無しに想定できる。のではないだろうかと。

 ですから イデアの世界は この点では 要らないわけです。

 《ほとんど要らない》と言ったのは この自然本性にしてもそれが 非知なる神につながっていると言えばそうなので 《ほとんど》と言っておかないと矛盾して来るからです。




 ★ 君の批判の仕方は、このような人と人の道しるべを壊す危険な暴言なんだ。
 ☆ いまちょうど言ったように《生まれつきそなわった自然本性》において兄弟どうしである。こういう言い方をするわたしが ほかの人の見解を批判したとしても この兄弟どうしだという《人と人との道しるべ》を壊すことは していない。自然本性が壊れるものとは 見ていないのだから。

 ぎゃくに言えば もしその道しるべが わたしにその見解を批判された人において壊れたとしましょう。だとすれば その道しるべは もともと壊れるべきインチキなものであったということです。ただ それだけのことです。


 もし いや そうぢゃない この道しるべは 確かなものだ ぶらじゅろんぬが間違っているのだ。というふうに思い直したなら 再反論をすればよい。すべて 自由です。それだけのことです。






 ★ それから、非知だけ言って満足していると、能天気にブチかましているつもりでも
 ☆ 問題が違う。目の置き所が違っている。ひとの品性が問われている。

 もし《非知》という説明で神が納得行ったのなら これは世界中の人びとそれぞれに例外なく当てはまる理論なのです。違う神のもとに互いにいがみあっている人間は ただちに恥ぢなければいけない。その問題を ただちに世界の人びとに問うて行かねばならない。

 そのように歴史に立って しっかりと哲学をして生活をすすめなくてはいけない。この人づくりは 社会づくり・くにづくりでもある。しかも 世界史じょうの次の一手になります。一人ひとりにとってです。

 どこが《満足している》んぢゃい? どこが《能天気にブチかましている》んぢゃい? 顔を洗って出直して来なさい。




 それから 理論としては言っていないが この理論が現われ得たのは イエスという人間が出たからです。
 イエスは キリストなる神でもあると物語られるが その人類史におけるシワザの栄光は 神に帰している。
 だから 神に栄光が帰されその光が増して行くならば 誰もがそれぞれまた互いに歴史の共同相続人に成れるし 成っている。という将来の姿をも いま・ここで見てください。

 

投稿日時 - 2015-01-18 09:02:24

ANo.16

2015年1月17日 対馬沖 bragelonne バルチィク艦隊 VS 大日本哲学連合艦隊

秋山参謀「Z旗あげ~。」

秋山参謀「東郷閣下、そろそろ潮時では?」

東郷閣下「まだじゃ。時と言うものがあるごはす。旧約聖書のコヘレトの言葉3章1節にも書いとうごはす。bragelonne の弾などあたらんごはす。」

東郷閣下「そろそろ、ころあいじゃの。」

伝令「取りかーーーじ。いっぱい。」

操舵室「とりかーーーじ いっぱい。」

bragelonne 艦隊の進路全面封鎖。

東郷閣下「全艦一斉射撃の前に、原子力イージス艦「カント号」のトマホークを一発お見舞いするごはす。」

「私はあえて哲学から神を排除した。

1)宇宙の秩序の根拠が至高の叡智(悟姓)によって、宇宙の組織に関する計画が普遍的運動法則としてあらかじめ自然のうちに設定され、それが計画どおり実現されると考えるか?

それとも

2)宇宙の構成要素である一般的法則なりは全く調和能力を欠いたものであり、自分以外(神)の手に託さねばないのか?

私は1)を選択した。

ところが、それを選択し困ったことは、「最高善」を「徳」と「幸福」との両立したものと定義したとき、やはり、神の創造目的という概念を持ち出さざるを得なかった。そして「実践理性批判」を書いた。」

私の苦悩のトマホークを受けてみよ!

上記に関する、本日の大学入試センター試験における、東京帝国大学入学希望者の解答欄。

bragelonne さんはいつも長文なので、十字以内でお礼回答すること(注、句読点を含む)(笑)

上記は冗談として、bragelonne さんは、カントに対し、いかがお考えですか?

砲撃は次の回答者に引き継ぎます。

投稿日時 - 2015-01-17 15:38:20

お礼

 天気晴朗なれど波高し。ご回答をありがとうございます。




 《非思考の庭》を カントは言っています。(20字)



 ▲ (木田元:『反哲学史』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・数学と同様に普遍妥当性をもった認識と認められている理論物理学は 直観の形式と悟性のカテゴリーとの組み合わせによって生ずる現象界の形式的構造についての先天的認識の体系にほかなりません。

 こうしてカントは 一方において数学および数学的自然科学(ニュートン物理学)の確実性を基礎づけるとともに もう一方では 独断的形而上学を否認することになります。

 というのも この独断的形而上学は もともと現象界だけにしか客観的妥当性をもっては適用されえない空間的・時間的規定やカテゴリーを 神だとか世界 不滅な霊魂といった元来現象としては現われえないものに適用して 勝手な理論構成を試みているにすぎないからです。

 彼は こうしたものはわれわれの認識の対象にはなりえないのであるから それについて議論してもはじまらないと言うのです。ハイネが カントは神の首を切り落としたというのは このことにほかなりません。



  ☆ (ぶらじゅろんぬ註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   《神・霊魂》は 《われわれの認識の対象にはなりえない》という命題は 表現がマチガイです。厳密に言えば。
   つまり 神や霊は われわれ人間の思考ないし認識の対象である経験世界を超えている。と同時に そのときには 人間の思考の対象に成り得るか成り得ないかが 人間には分からない。これが 分かるか分からないかが 分からない》。こう表現すべきだと考えます。

   つまり 神の首を切り落としたかどうかは 分かっちゃいない。また 分かっちゃいないようなかたちで カントは表現しておくべきだった。と。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ・・・
 神の問題にしてみても たしかに彼は『純粋理性批判』においては神の存在を否定しているかに見えますが それはむしろ 神を理論的認識の対象として扱うことの不都合さを主張しただけなのであって 彼の言葉を借りれば 

   私は信仰に席をあけるために 〔* その信仰をめぐる・つまり
  神をめぐろうとするところの〕知を否定しなければならなかった

 のです。つまり 信仰を純粋に信仰として生かすために 知識(* =思考の緑野および感性の原野)と信仰(* 非思考の庭)とを峻別し 知識のおよぶ領域を限定する必要があった というわけなのでしょう。〔彼は 理論的認識としては否定した形而上学をも《実践の形而上学》として つまり道徳的実践の条件として生かそうと試みています〕。
 (1995版 §8 pp.150&152)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2015-01-17 17:16:31

ANo.15

 人事を尽くした限界の先に、漠然と「神もしくはそれに類する存在」(1)を意識する。
 これは「なぜ」という問いを持つ人間にとって自然なことだと思います。

 そして、「生物学的に寿命のある人間が、活力に満ちた段階から衰えて絶対の存在にゆだねる形で一生を終えて溶け込んでいく」というニュアンスの大筋(梵我一如的方向への流れ)が存在し、この究極の限界に関して(1)を拠り所にするのも自然なことだと思います。

 さらには人為一般の意味づけをする究極の拠り所としての(1)への信仰。
 つまり、直感的に正しいと思われる道徳的価値観の実践のための拠り所を求める気持ち。
 これ自体が、群れを成す動物から進化してきた社会的動物である人間の遺伝子の中に枠組みとして組み込まれていたものが文化遺伝子の発現という形で継承されてきた、根底の部分にある基本的な人間性の一つだと考えてよさそうな気がします。
 
 宗教というのは、そうした拠り所に関する「時代背景や社会環境による違いを含めたそれぞれの思想体系」と言っていいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2015-01-17 15:08:34

お礼

 ええっとですね。質問者の見解と中身が錯綜しているように思います。

 まづは ご回答をありがとうございます。


 そこで その錯綜しつつ違いが出ているところを 勝ってながらこちら側の判断にて 取り上げてまいります。




 ★ 人事を尽くした限界の先に、漠然と「神もしくはそれに類する存在」(1)を意識する。
 ☆ 《天命を俟つ》ときに到れば じつはその前にすでに人事を尽くしているその過程において――わたしの感覚では――その神にたぐいするナゾの何ものかによってみちびかれている(いた)というような感覚は なかったですか?

 つまり 何がしかのそのような感覚がなければ そんなに人事を尽くすというまでの重要な仕事であるとも思えないのです。(大したことない仕事だというのとは ちょっと違いますが 《限界》を感じるまでの重要なことであるなら すでに途中から・あるいは初めから わが存在を賭けてのごとく人事を超えたところを見てみる気持ちになるのではないかと)。

 そして確かに
 ★ 漠然と「神もしくはそれに類する存在」(1)を意識する。
 ☆ というときに到れば 人事を尽くしたという或る種の満たされた感覚をおぼえるかと思います。
 
 つまりは その失敗があったとしてもひとつの達成感を味わうときには すでに神のたぐいのナゾの何ものかによるみちびきは じつは終えている。のではないだろうか。





 ★ 「生物学的に寿命のある人間が、活力に満ちた段階から衰えて絶対の存在にゆだねる形で一生を終えて溶け込んでいく」というニュアンスの大筋(梵我一如的方向への流れ)
 ☆ この場合も 上と同じような反応を持ちます。

 すなわち 《人生における活力に満ちた段階》にあって すでに神のたぐいのナゾの何ものかにみちびかれていて あぁ ここまで来たかという感慨を持ったときには たしかに《絶対の存在に〔身も心も〕ゆだねる形で・・・(中略)・・・溶け込んでいく》と感じることもあるのかなと思います。

 ただし 中略した部分つまり《一生を終えて》というような感覚はほとんどない。こう思います。

 なぜなら もし《一生を終える》といった感じについてなら それはすでに 若いチカラに満ちて活動的であったそのときにおいてであって あとは そのことの充実感があるとしても やぁ これから人生の終わりに向けて歩んで行こうとかのようには 思わない。それは すでに卒業して来ているから。


 ――このような違いをおぼえる感覚があります。






 ★ つまり、直感的に正しいと思われる道徳的価値観の実践のための拠り所を求める気持ち。
 ☆ そうですか。わたしは ご存じかどうか がらっぱちでして 道徳という文字や発音からもっとも遠いところにしか生息していません。規範は 屁の河童であると思っています。まったくの自由。において生きます。

 何が根拠か? 神のたぐいのナゾの何ものかである。

 つまり 無根拠である。思考にあらざる庭にあってである。

 拠り所は その拠り所のほうが われわれの面倒を見てくれます。

 われわれが 道徳規範を守りその義務を満たすのではありません。

 神が その霊なるハタラキにおいてすべて 面倒を見てくれます。またそういう規範の充足でないなら ただ理屈によってかともかくの必死の努力によってか人間のチカラと知恵で《よいことをおこなう》かたちである。どうぞ ご自由にと言うだけです。




 ★ 宗教というのは、そうした拠り所に関する「時代背景や社会環境による違いを含めたそれぞれの思想体系」と言っていいのではないでしょうか。
 ☆ あとで――例のミネルワの梟のように夕方に起きて来て―― それまでに通って来た道をまとめるというわけでしょうか?

 それもあるのかも知れませんが 梟も朝や昼間からすでに活動していて欲しいですね。

 
 となりました。
 

投稿日時 - 2015-01-17 16:58:08

ANo.14

私が神を信じる理由をお答えします。
この宇宙は、物質のみで構成されている訳ではありません。もし、私たち人間が物質のみから出来ているとしたら、ロボットと同じ存在であるはずです。科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。
これに比べて、人間はやかんに触れれば、実際に熱いと言う感じが生じます。そして、その熱いと言う感じは、物質ではありません。幾ら顕微鏡で脳の中を覗いて見ても、熱いと言う感じを見る事は出来ません。確かに、物質が熱いに対応した動きをしていることでしょう。しかし、それは熱いと言う感じそのものではありません。
脳と言う物質の熱いに対応した動きが刺激となり、私が熱いと感じているのです。熱いと言う感じは物質ではありません。従って、それを感じている私は物質ではないのです。私は、無限の感受性である精神です。
心は、物質と精神のコラボレーションです。物質がなければ、何の刺激も受けないので精神は何も感じません。また、物質のみでは何も感じることが出来ません。
では、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神は、今の私である精神でしょうか。その保証は何処にもありません。精神に記憶が蓄えられるのであれば、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神と、今の私の精神とは同じか違うかが分かるでしょう。しかし、記憶は脳と言う物質に構造として蓄えられます。
脳と言う物質が移動する度に、異なる精神に刺激を送っているかも知れません。一秒前に他の精神が感じた記憶を脳と言う物質に蓄え、今の私の精神に記憶と言う刺激を送っているだけでしょう。そうなると、この宇宙には、精神が満ちていることになります。若し、精神のない空間があるのであれば、人がその空間に移った時、何も感じなくなります。しかし、その様なことは起こりません。
精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。他人も私も同じです。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
物質の全体を宇宙と呼びます。精神の全体を何と呼んだら良いでしょうか。私達は皆、至高な精神の一部分なのです。
また、精神は物質を動かすことが出来るのです。物理学では、物質を動かす力は、重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力であるとします。しかし、実際には、私と言う精神は手と言う物質を動かすことが出来ます。 
そして、この社会は、精神の意思により動いています。この様に、社会の動きを物質のみで説明することは出来ないのです。
そして、この宇宙の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果がまた原因となり結果を生じると言う形となります。宇宙の始まりは、原因なくして結果が生じなければなりません。つまり、無から有が生じなければならないのです。
しかし、物質は無からは生じません。これに比べて、感じは生じたり消えたりします。精神は原因から自由です。従って、宇宙の始まりにおいて、最初に動いたのは自由な精神でしかあり得ません。宇宙を創造した精神を何と呼ぶべきでしょうか。
 私は、その至高な精神がどの様にこの宇宙を作ったのかを探求しています。もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。こう言う意味で、物理学と神学とは、排斥し合うものではありません。

詳細は
http://www42.tok2.com/home/catbird/syuukyouhahikagakutekika.html
を参照下さい。

投稿日時 - 2015-01-17 13:51:26

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。
 ☆ これは 《生命》の有無について述べておられましょうか。


 ただしこの《いのち》は
 ★ 心は、物質と精神のコラボレーションです。
 ☆ といったときの《物質だけではなく精神だけでもなく それらのコラボレーションたる心だけでもない》と思われますが いかがでしょう?

 つまり イノチにまでなると それはすでに《非知》の領域にあるのではないか? 《霊》とよぶ場のことではないか? とは考えます。





 ★ 精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。
 ☆ この場合の《精神》は 《いのち》のことでしょうね。つまり霊です。


 ★ 人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。
 ☆ いのちの海の中にあると見なせばよいのではないでしょうか。


 ★ ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。
 ☆ たぶん いえ。わたしという掛け替えのない特定の存在が 普遍的なイノチなる霊の海の中にいるのでしょう。

 ★ 他人も私も同じです。
 ☆ 同じなのではなく 互いに違ったワタシでありつつ 同じイノチの海に存在しているということでしょう。


 ★ ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
 ☆ 同じ成り立ちの存在であることをとおして 互いに好きであったり嫌いであったりすることが出来ます。敵をも愛情を持って接したり蔑みを持って扱ったりし得ます。そのようにプラスとマイナスのふたつのサマとしての愛が 現象するでしょう。




 そうですね。後半のご議論についてですが
 ★ もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。
 ☆ これは 微妙なご主張です。

 もし神がその存在を証明されたとしたら その証明された内容は 人間の思考するところであり 《非思考》ではありません。つまり 考えたから その神があるとなったわけです。そういう神って ほんとうの神でしょうか?


 《精神》を――ヘーゲルのごとく―― 神やその霊に使っていますね。これが ふるい。そうでなくても あいまいであり 分かりにくいと思います。

 人間にも思考能力などなどの精神があるからです。人間の精神は 神ではありません。うつろいゆくものです。



 そこらへんを再考なさるとよいと思うのですが。

投稿日時 - 2015-01-17 14:14:30

ANo.13

ちょっと待ってください。
まずは1.2.3.4.についてです。人々が自由勝手に非知の神に属性を付与するというのは、非知であるという定義と矛盾するのでは?それが絶対かどうかも、人間には分からないはずです。まして慈愛とか最高善などという属性があるかどうかなど全く不明なはずです。その点においてはいかがでしょうか。まずは御礼の冒頭部分のみの返信となりますが。

投稿日時 - 2015-01-17 12:39:02

お礼

 ご回答あろがとうございます。


 ★ 人々が自由勝手に非知の神に属性を付与するというのは、非知であるという定義と矛盾するのでは?
 ☆ (あ) 《非経験の場》という想定が まづ第一に来るのでしょうね。:

   ものごとの因果関係からまったく自由な場(チカラ)
   あるいはモノやコトが有ったり無かったりするという経験的な事象の世界 この経験世界を超えている場

 (い) この非経験の場を こんどはそれでは 人間が認識しうるか? の問いが来ます。

 (う) その答えとして 《非知》という概念での説明になります。

 (え) 《非経験の場 これは非知なるナゾである》ということ この想定が決まったら――どこにも人為的なネツゾウのあとは無いと分かったら――  あとは そこにさらに細かい想定やら再定義やらをおこなって行くことは 割り合いかんたんです。最初の想定に矛盾しないならば いちおうそれとして ゆるされている。となるはずです。

 (お) それらの細分規定は 大前提としての想定からの派生事項として扱われるということだと思います。或る程度ひとは好きに その非知をめぐる属性を規定して行くものと思います。

 (か) 初めの想定からのニ番目の想定(としての派生)は 非知を神と捉えたなら その神は有ると神は無いとの選択ではないでしょうか。

 (き) 有神論をえらんだ場合には その有る神についてあとは 好き勝手にというほどよさそうな内容を属性としてつけ添えて行ったのだと見られます。

 (く) けっきょく 《悪神》にまですすみました。これは 悪魔がそれでも 神――全体としてひとつの非知なるナゾの神――に飽くまで従属するものであるという規定があれば まだゆるされるようです。悪魔も 神に到るための依り代になりうるという理解のようです。

 (け) 二元論つまり 善神と悪神とが互いに同等のチカラを持って並び立つという神の物語 これは アウトでしょうね。矛盾します。あい対立するふたつのチカラが 秩序を保てないというのでは 非知の派生説明としても 受け容れられないと思います。

 (こ) 神は えこひいきだ。これは 非知の属性の説明として なじむか? いろんな問題が出て来るでしょうか どうでしょうか。





 ★ それが絶対かどうかも、人間には分からないはずです。
 ☆ 非知は 絶対ということだと言いました。唐突だったでしょうか。

 (さ) これは(つまり 絶対ということは) 非経験の場という想定から来ています。因果関係から自由なものごとというは 人間が考えても分からない。はっきりとは つかめない。

 (し) 経験事象としては 特異点が それだと言われています。(因果関係から影響を受けないコトだと)。
  ただし 特異点は まだ経験世界のものです。

 (す) ですから 非経験の場というのは 経験世界と《絶対的な》隔たりがあるというふうに説明され想定されるものと思います。

 (せ) 要するに 《絶対》を想定したということと同じかたちになるのだと考えます。《無限》と言っても 同じくです。





 ★ まして慈愛とか最高善などという属性があるかどうかなど全く不明なはずです。その点においてはいかがでしょうか。
 ☆ そうですね。
 (そ) 《不明なはずです》よ。非知なんですから。

 (た) ただし 《絶対者》という属性が想定されたなら その内容をさらにしかるべき概念でひとは説明したい。ということのようです。

 (ち) 絶対者なら・絶対なる神なら 《慈愛》にあふれていて欲しい。《最高善》を具現していて欲しい。うんぬん。というふうに 属性付与は つづくものと思います。

 (て) 神は有る。という有る神をえらんだあとでは この神の内容をめぐって 属性付与を人びとはおこないたいのだと思います。

 (と) ほんとうに愛にあふれる神であるのかどうかは 確かに不明です。そうであるかも分からないのですが。

 (な) ですから 最初の想定――《非経験の場としての非知なるナゾ》――およびその非知が有るのか無いのかを決めてからは 人びとは派生的な規定を 好きなようにおこなって行くものと思います。


 △ (クルアーン:第一章) ~~~~~~~~~~~
 http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran001.htm
  開端章(アル・ファーティハ) マッカ啓示 7節

 1-1.慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。

بِسْمِ اللهِ الرَّحْمنِ الرَّحِيمِِ    1

 1-2.万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、

الْحَمْدُ للّهِ رَبِّ الْعَالَمِينَ  2

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ アッラフマン(アル‐ラフマン):慈愛あまねく 
   アッラヒーム(アル‐ラヒーム):慈愛深き

 つまり《慈愛》を意味するのは √RHM なる三つの子音でつくられる語であって 微妙に変化させて その属性付与の熱心さを物語っているものと思います。《万有の主》とも呼ばれています。これも 属性付与だと思います。

投稿日時 - 2015-01-17 13:53:42

ANo.12

↓ 敵は本能寺にあり!

投稿日時 - 2015-01-17 07:36:30

お礼

 ん?

 
 さあ このスレッド どうなりますやら。


 ありがとうございます。

投稿日時 - 2015-01-17 08:13:52

ANo.11

いやいや

神は俺だよ

投稿日時 - 2015-01-17 04:46:32

お礼

 そうかもね。



 ありがとうございました。

投稿日時 - 2015-01-17 08:12:50

ANo.10

こんばんは。


>「人類史上もっとも新しい、もっとも妥当な見解」

え?。



>「あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。」

なるほど。




つまり!

>「あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコで」こそ、
人類史上もっとも新しい、もっとも妥当な見解」

なのだ・・・

投稿日時 - 2015-01-17 02:59:26

お礼

 フルボッコでどうぞ。


 ありがとうございました。

投稿日時 - 2015-01-17 08:12:21

ANo.9

繰り返しブラジュロンヌさんの神論を聴いて思うのですが、ブラジュロンヌさんの語る非知なる神は無属性の神であって、善や正義、愛やら赦しと言った、「人間の欲しがるもの」を備えていない。そのような無印の神がどう言う理由で普及するのか疑問です。
また、ブラジュロンヌさんは、そのような言わば得体の知れぬ神を、なぜ信じようと思ったのか?それが気なるところです。無属性の神は定義不能であるために、自由度は高いとは言える、しかし目的地のない自由に何か意味があるのだろうか。
昔から人は心や魂の安らぎのために神のみもとを訪ねて来たけれども、さて、信仰によって力を得たと言うブラジュロンヌさんの行く先は何処にあり、何という場所なのですか?もしや宛ての無い旅路と言うわけでもないでしょう。
ブラジュロンヌさんの神も、言わば想定の神であり、非在の神を想定し、自ら神を作り上げていると言えるのではないですか?少なくとも想定はしてますよね、恣意的に。
謎の何者かが、存在を超えた領域から、心の窓をノックしてきた、と、物語を膨らませるのは自由ですが、その物語に普遍性は如何に帯び得るのでしょうか。
マクロコスモスとミクロコスモスの話も、そこら辺の精神世界の談義のいろはに終始する気がします。新しいと言えば新しい、しかしそれは流行りと言う意味でです。
天啓では古臭い、ヒラメキでは俗っぽい。ならば聖とはなにか、もう少し考えた方がいいんではないですか?わたしは、善やら正義、愛やら赦し、聖というものは、人間に在って、神にあるのでは無いとも思うのですよ。
人間を信じることができれば、神を信じる必要なんてないのではないですか?
自己にミクロコスモスが内在し、そこにマクロコスモスと同じ永遠が宿っている、そう考えることは心地のいいことで、耽れば心地の良い世界です。それはそれで、私は反対はしませんが、最新の神論と言うよりは、類型で示されているように、ありきたりのアイディアでありませんか。
私はこう思うのです。
一人静かに過ごすのに、神は不要である。それが遍在すると言うのなら、意識の外にも内にもあるだろうし、それは息をするように、大気のように当たり前の存在ということになる。それは必要とか不要とか言うことを超えて、当然のものである。それに与える名としては、神という名称は相応しくない。それに名前は不要である。それは謎ではない。息をする際に空気の組成の化学を知る必要はなく、空気があると感じているだけで十分だ。
神という名にそぐわないそれを、何かに喩えるなら、そんな感じ。
存在の世界を超えて、あるかないかもわからない世界を予兆したからといって、それは別に謎じゃない。
空気よりも透明で、光よりも純粋なそれに名前はいらない。
私は思うのですが、神という言葉を使うこと自体がもう古いのでは?
私は、ブラジュロンヌさんの神論よりも、自然本性の話の方が好きですね。あれは面白い。あちらの方が、
素朴で、説得力と共感がある。それには、人間に元来そなわった志向性が読み取れる。

投稿日時 - 2015-01-17 02:43:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ブラジュロンヌさんの語る非知なる神は無属性の神であって、善や正義、愛やら赦しと言った、「人間の欲しがるもの」を備えていない。そのような無印の神がどう言う理由で普及するのか疑問です。
 ☆ 次の手続きによってです。

 1. 《非経験の場――非知なるナゾ――》 これは 早く言えば《絶対》です。

 2. 次に分かりよいように これを擬人化します。《絶対者》という規定です。

 3. 絶対者であると想定したのなら あとはそこにいろんな属性を人びとは付与します。ただちには 無限・永遠・不可変性。

 4. 色をつけて 曰く:全知全能。慈愛・慈悲・至高の愛。善悪の彼岸としての最高善。正義。永遠の生命。





 ★ さて、信仰によって力を得たと言うブラジュロンヌさんの行く先は何処にあり、何という場所なのですか?
 ☆ ひとが元気になることです。互いに元気に生きることです。こういう場所です。




 ★ ブラジュロンヌさんの神も、言わば想定の神であり、非在の神を想定し、自ら神を作り上げていると言えるのではないですか?少なくとも想定はしてますよね、恣意的に。
 ☆ この想定が恣意的であるということを証明されたら 一巻の終わりです。
 《非知・非在》は 人間がでっち上げたという要素が どこにもない。のです。人間と能力とこの世のすべてを超えています。




 ★ 謎の何者かが、存在を超えた領域から、心の窓をノックしてきた、と、物語を膨らませるのは自由ですが、その物語に普遍性は如何に帯び得るのでしょうか。
 ☆ それはわたしの個人的な体験を一般化して述べたものですが たぶんだいたいそういうかたちで 一般性のもとにあるのではないかと思っています。

 でも それは 分かりません。つまり 《非知》の側からワレにどういうアプローチがあるのか。これは 細かくは人それぞれであるかと思います。

 ただし 向こう側からやって来るというところは 普遍的にそうであろうと見ています。

 知らないでいたら すでにやって来ていた。といったかたちはあり得るのではないでしょうか。





 ★ わたしは、善やら正義、愛やら赦し、聖というものは、人間に在って、神にあるのでは無いとも思うのですよ。
 ☆ 善と悪とは この世の経験的なことがらにまとわる問題です。おまけに悪は 存在しません。そういう名の現象があるのみです。つまり 存在するのは 善――主観的な心に思う善です――のみであり 悪とは この善をみづからが傷つけたその行為および損傷のことを言います。善の損傷 これが 悪です。善とならんで 別のものとしての悪があるわけではないと。

 正義は 人間には分かりません。心でさえ かなしいかな 移ろいゆくものだからです。おのおのの主観がこぞって妥当だと考えるところを 経験合理性に照らしてただしいと言うのみです。そのただしさの普遍性が 神として想定されるのかも分かりません。

 愛は 正負のヱクトルとしての意志行為です。好悪・愛憎です。先ほどの善悪と同じく・つまり善悪の彼岸が 至高の善(スムム・ボヌム)だと見なされたように 人間の相対的な愛を超えたところの愛が 神の属性として捉えられたのでしょう。

 赦しは いまの至高の愛から紡がれて来る物語でしょうね。

 聖というのは いまの《この上無き善・愛・義》と同じく単純に 神に当てる場合もあるでしょうし 人間にあっては 《おのれの心が みづからに逆らう動きを見せても・あるいはその情況からしてそのような逆らいの心にすでに従って行動したとしても つねに我れに還り 振り子をすでにおのが心のもとにおさめている》状態・またその状態が 日から日へ確かなものと成って行くこと。これを《聖》と言います。

 サンキーレ(確定する)という動詞の過去分詞で サンクトゥス(確定した)という言葉を当てています。これが 人間の聖です。




 ★ 人間を信じることができれば、神を信じる必要なんてないのではないですか?
 ☆ わたしは 神を信じよとはひと言も言っていません。哲学として神とは何かについて交通整理しているだけです。

 もっとも 楽屋裏をも話すなら その《無印》の哲学が 信仰の問題であるとは思っています。


 ですから 次のご指摘についても 同じような答えになります。

 ★ 自己にミクロコスモスが内在し、そこにマクロコスモスと同じ永遠が宿っている、そう考えることは心地のいいことで、耽れば心地の良い世界です。それはそれで、私は反対はしませんが、最新の神論と言うよりは、類型で示されているように、ありきたりのアイディアでありませんか。
 ☆ 《ありきたりのパタン》によって説明している。それだけですよ。




 ★ あるかないかもわからない世界
 ☆ ではないのです。《有るか無いかについて分かるか分からないかが 人間には分からないナゾの世界》です。




 ★ 空気よりも透明で、光よりも純粋なそれに名前はいらない。
 ☆ と規定する・もしくは感じ取ることは 自由ですが それが 普遍的であるかどうかは まだ分かりません。



 ★ 私は思うのですが、神という言葉を使うこと自体がもう古いのでは?
 ☆ わたしが神を持ち出すのは 世間にあやしい神の議論が横行しているからです。





 ★ 私は、ブラジュロンヌさんの神論よりも、自然本性の話の方が好きですね。あれは面白い。あちらの方が、
素朴で、説得力と共感がある。それには、人間に元来そなわった志向性が読み取れる。
 ☆ ありがとう。せいぜいそれを伸ばして行きたいと思います。みなさんとともに。

投稿日時 - 2015-01-17 08:11:15

☆ 5. ムスリムの人たちは アッラーフや預言者ムハンマドのことについて疑問が起きたり クルアーンの一節に物言いがあったりしたとき どうするのだろう。と思います。
◇クルアーンは絶対ですから、これに疑問を抱いてはいけないのだ、と思いますよ。

数年前に、
ムスリムの男性に「離婚、離婚、離婚」と言われた奥さんが「夫に離婚という言葉を3度言われましたが、離婚しなくてはいけませんでしょうか」という相談をイスラム法学者のところに行った時の映像をTVで見たことがありますけれども、
イスラームには、夫は離婚という言葉を3度妻に口をすれば、離婚できるというオキテがあるらしく、
この奥さんはかなりこのことを心配していた。
この判決は、
「旦那は本心から言ったのではなく、したがって、神に嘘を言ったことになるので、その罰、償いとして、旦那は貧しい人に施しをしなければならない」
というものでしたが…。
このように現実的解決をはかるものらしい。

聞くところによりますと、
イスラームでは、何か悪いことをしたら、その償いとして何かいいことをしなければいけないらしいですね。
善や悪、善行や悪行を実体視しているようで、この善悪の総和で天国に行けるか行けないかが決定される。
悪や悪行を負債と考えるとわかりやすいらしいですよ。

ですから、我々の善悪観とはかなり異なっている。

イスラームやムスリムについて考えるときには、
こうした違いを考慮に入れないと、視野に入れないて考えないといけないのではなかろうかと。
そして、
この善悪を決めるものがクルアーンであり、ハディースヤスンナと呼ばれるものであることを忘れてはいけないのであろう、と。



ハディース
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B9

スンナ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%83%8A


イスラームやイスラム思想についてあれこれ調べたのは、もう10年も前のことなので、ほとんど忘れてしまいましたけれども。

投稿日時 - 2015-01-17 02:20:32

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ◇ 善や悪、善行や悪行を実体視しているようで、この善悪の総和で天国に行けるか行けないかが決定される。
 ☆ これを聞いて 《人生における精神の充足量の総和の最大化を 生きる目的とする》という思想を思い出しました。



 ◇ クルアーンは絶対ですから、これに疑問を抱いてはいけないのだ、と思いますよ。
 ☆ そうしますと 《オシエ》のあり方の問題だと思うのですが イスラームの場合には特に《オキテ》ですね。

 オキテを守る守らないが 神を心に受け容れているかどうかの目安になる。ユダヤもそう変わらないのでしょうか。

 いえ ユダヤは 生活のさまざまな細かい規則でしょうね。
 イスラームは 善悪観の色濃い規則でありオキテである。こうなるのでしょうか。

投稿日時 - 2015-01-17 07:32:36

ほ~、《聖絶》という恐ろしい言葉や概念があるのですか。
知りませんでした。
こういうことをクリスチャンの方や、神父や牧師さんなどの聖職者は全然話してくれないから、異教徒である私は、そのような言葉や概念、考え方があるということを知りませんでした。

こうした《聖絶》という言葉や考え方を聞くと、ヒトラーやナチスのユダヤ人絶滅政策を思い浮かべるのは私だけですかね。


まぁ、旧約聖書に書いてあるような、ユダヤ人による異教徒や異民族に対する大虐殺が実際にあったとは、思っていませんが。

ですが、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどのいわゆる一神教には、こうした極めて排他職の強い考え方が根底にあるのでしょうね。
異教徒や異教に対して比較的寛容とされるイスラームも、兄弟の宗教、ユダヤ・キリスト教以外には極めて非寛容ですし…。

投稿日時 - 2015-01-17 01:26:21

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 聖絶は 民族浄化に通じるかとも見られます。

 ですから くるしい弁明として ヤハヱーなる神を受け容れ保ちつづけるという意味で ほかの神を奉じるその民を根絶やしにしたというようなことらしいです。

 そして この民族という事柄は その昔には大きな役割りを持っていたとも考えます。

 よその民は 魔物であるというような見方が どの民族にもあったかも知れない。すなわち そもそも生活の単位体が 民族であったと。

 もっとも マレビトは神として迎え入れるといったナラハシも かなり広く見られるようなのですが。

 イスラームとユダヤは まだこの民族をひとつの中心として動くかたちが残っているのではないでしょうか。
 これら二つ自体は 互いに兄弟かいとこどうし――アブラハムの子孫――であるようですが 仲がわるい。

 民族を超えたクリスチアニズムも ローマ教会を初めとする宗教は 殺戮から自由であることがきわめて困難な歴史をたどって来たようですが。

投稿日時 - 2015-01-17 07:25:45

ANo.6

神ですか。神は心の中をでませんね。その証拠にどんなに祈っても悲惨なことを救えない。

私は神や宗教を大切に思ってる人の否定はしません。多くの宗教を理解しようとして来ました。

多くの言語があるように 多くの神が有り 様々な信仰があります。

それはその人にとって大切なものです。信教の自由というものがあります

思想信条の自由というものもあります。相手を理解すること 

イスラムや創価学会 カトリックやプロテスタント 統一教会やエホバの証人 天理教に浄土真宗・禅宗

一体世界にいくつの宗教があるのでしょうか?1万は在ると聞いたような気がします。

朝日丸様や薬師如来のおんころころせんだり まとうぎそはかも信仰の対象になります。

お地蔵さんや山や太陽も信仰の対象です。いわしの頭も?


しかし私の家には生まれた時から仏壇も神棚も墓も初詣も一切ありませんでした。のんだくれの父のわがまま教しかありませんでした。

今はもう色んな事が分かってきた時代です。哲学の成果を信じても良いのです。

私は分かり易く書くと存在と愛と永遠を信じています。それが実現することが大切なことです

宗教もまだ必要ですが 石炭やガソリンと一緒で何時かは時代遅れになるでしょう

今ガソリン車を否定する気はありません。ガソリン車がなくなったら社会は立ち行かないでしょう。

宗教なき時代が訪れるためには 哲学が宗教を抜かなければなりません。「神は死んだ」と言っても

じゃあどうするんだとなると 困ります。人々の心にはまだ神が生きていて貰わないと困ります。

ただ言えることは私の中には神も仏もありません。聖書の教えと般若心経が在るばかりです。

性質という言葉をどういう語感で捉えるか 捉えられているかを考えています。

投稿日時 - 2015-01-17 00:07:26

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 創価学会 統一教会やエホバの証人
 ☆ これらは 蛸壺ですよ。お金儲けのためと組織において他人に対する支配欲を満たすためという目的のもとにあります。ほかの神は マチガイであると言い続けるところが 蛸壺です。



 思想や信条とそして信仰とは 別ですよ。ましてや個人の信仰と集団としての宗教とは 似ても似つかないふたつのものです。

 ★ ただ言えることは私の中には神も仏もありません。
 ☆ これは 《無い神》を信じるかたちです。無神論という信仰です。

 ★ 聖書の教えと般若心経が在るばかりです。
 ☆ これは いまの無神論ゆえに持ち得た思想であるかも分かりませんが 一般には思想・信条としてあって 信仰とは別です。オシエは 人間の言葉で書かれていますから 《思考や感性》の世界なのです。《非思考》ではないからです。


 そういった区別が まづ先に大事であると考えます。

投稿日時 - 2015-01-17 07:14:39

ちょいと横レスいたします。


つい最近、偶然見たとある番組で、アメリカの哲学者(?)が
「モーセは、『攻略した都市の住民の男子は年齢に関わらず老いも若きもすべて殺せ。
女も処女以外殺せ!!』と言っている」
と言っているのを聞きまして、
驚きました。
旧約聖書にあるモーセの言葉は、ユダヤ教の律法の元になるものですから、
『モーセ、そんなことを言っていたっけ…』と驚きました。
───誰か、どこに書いてあるか教えてください!!───

ですから、私は、
~~~~~~~
宗教が全ての善悪、価値観を決める。それを一般化、具体例などをあげて、哲学・道徳が作られているということです。
そして、神を感じることができない人、霊感が無い人は、哲学・道徳をガイドラインとして生きていくってことです。
~~~~~~~
と楽観的に考えることが出来ないんですよ。
宗教には、特に一神教ですけれども、
宗教に立脚する価値観や道徳観には、こうした恐ろしい一面があるからです。

中立性を担保するために、「旧約の世界は、一神教のそれではなく、多神教のものである」というようなこと主張する研究者が存在すること、あえて記しますけれど。



で、ローマ法王の話ですけれど、
私はクリスチャンでもムスリムでもないので、こうした宗教の信仰観についてよく知りませんけれど、
キリスト教やイスラームの信仰は、単にその神を信じる、教えを信じるということだけではなく、そのオキテを守り、このオキテにしたがって行動する、
ということも、その
信仰の一部になっていると思うんですよね。
であるからして、
こうしたことを無視したローマ法王の信仰の自由の話は虚しく聞こえてしょうがないんですよね。
「教えを守るために戦う」というのは、ムスリムにとっては自身の信仰の自由を守るための宗教的義務ですから。
「殉教者を聖人と崇め、過去にキリスト教以外の他の宗教を撲滅しようと、信仰の自由を無視しつづけてきたカトリックの親玉がどの面をしてこのようなことを言うのだろうか」なんて思ってしまう。
最近のカトリックは、シスラームや仏教などの他の世界宗教と融和し、平和共存を目指していますが、
「カトリックは、今現在でもキリスト教の異端撲滅のために躍起になっているじゃないか!!」とツッコミを入れたくなってしまう。そもそも、ヨーロッパで信仰の自由などが叫ばれるようになったのは、ローマ・カトリックの抑圧や弾圧、地上や魂の支配に対する解放が機縁であったはずではなかったのか…。
こうした反省を全くすることなく、ローマ法王がよくまぁ「信仰の自由は云々」話をよくできたものだ。

投稿日時 - 2015-01-16 22:50:19

補足

 たとえば こんな意見を見つけました。

 △ (【オピニオン】イスラム主義者のテロにこれ以上融和すべきでない) ~~~~
  http://jp.wsj.com/articles/SB11685468879700404194004580388534057005788

  ・・・
 イスラムにおいて、預言者ムハンマドを視覚的に描いたり、いかなる形であれ中傷することは重大な罪である。ムスリム(イスラム教徒たち)がこれを信じるのは自由だが、なぜこうした禁制を非ムスリムに強制するのだろうか? 

 米国では、モルモン教徒たちは「The Book of Mormon (モルモン書)」(彼らの信仰に対する風刺的なブロードウェイ・ミュージカル)を制作し演出した人々に死刑を科そうとはしなかった。
 
 1400年の歴史を持ち約16億人の信者を擁するイスラムは、フランス人の風刺画にも耐えられるようになるべきだ。しかし言うまでもなく、このジハードの時代、イスラム教徒がムハンマドを描写する漫画に死をもって報いることは決して今に始まったことではない。



 加えて、コーランが何を教えようが、あらゆる罪が平等とみなされているわけではない。西側は、次の2つのいずれのほうが不快かという質問に答えるようムスリムたち、とりわけムスリムのディアスポラ(本来の居住地から離散して暮らすムスリムたち)に要求しなければならない。

 すなわち、より不快なのは、ムハンマドの名において今日実行されている殺人、虐待、奴隷化、戦争行為、そしてテロなのか、あるいは、過激主義者たちを風刺したり、ムハンマドに関する彼ら過激主義者の解釈を風刺したりする映画や風刺画の制作なのかという質問だ。

 * 2015 年 1 月 9 日
 筆者のアヤーン・ヒルシ・アリ( Ayaan Hirsi Ali)氏はハーバード大学ケネディ行政大学院のフェローで、「Infidel(2007年)」(邦訳は「 もう、服従しない-イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した」)の著者。4月に新著「Heretic: The Case for a Muslim Reformation」が出版社ハーパーコリンズから出版される予定。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 対立を呼ぶかも知れませんが かなりいいところを突いていると思います。

投稿日時 - 2015-01-16 23:46:18

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ▼ (ヰキぺ:聖絶) ~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E7%B5%B6

 § 1 概要

 ・・・イスラエルに敵対する異民族に対して聖絶が用いられる時は、「神への奉納物として、異教の神を拝むものとそれに関連する事物をことごとく滅ぼし尽くす」こと、全ての戦利品を滅却することを意味した。

 すなわち、聖絶の対象とされた敵対異民族は全員が剣で殺され、また家畜も含め生けるものは全て殺戮された。また、通常の戦闘では許される女子どもの捕虜も、また家畜などの戦利品も、聖絶においては自分たちの所有物とすることは許されず、全てが神への捧げ物とされなければならなかった。・・・

 ▼ 申命記 7章 16節 ~~~~~~~~~~~~
 あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。彼らの神に仕えてはならない。それはあなたを捕らえる罠となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ヰキぺでは けっこういくつかの解釈が出されているようです。





 ◇ 「教えを守るために戦う」というのは、ムスリムにとっては自身の信仰の自由を守るための宗教的義務ですから。
 ☆ ここが 微妙だと思います。

 1. まづ 内面における信仰は 信教・良心の自由として 例外なく普遍的である。

 2. ですから問題は その内面の信仰と《オシエやオキテ》が 特にイスラームではつながっているようなのです。なぜなら ムハンマドの語り伝えたものは アッラーフの言葉だというのですから。
 
 3. つまり クルアーンは アッラーフがムハンマドに乗りうつって語ったものだと言います。あたかも幸福の科学のあの人のようにです。あの人は いろんな人びとが乗りうつって語るようですが。


 4. ▲ (パリ食品店で人質救った「ヒーロー」、マリ人男性に仏国籍) ~~~~
   AFP=時事 1月16日(金)
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150116-00000051-jij_afp-int

   バシリーさんは自らの行動について、共通の敵に脅かされている他人に対して、人間ならば誰でもしなければならない行動だと語る。

  「私たちは兄弟だ。ユダヤ教か、キリスト教か、イスラム教かの問題じゃない。私たちはみんなで同じ船に乗っている。危機の時は互いに助け合わなければならない」と、バシリーさんは、仏テレビ局BFMTVに語った。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これだと 《宗教的義務》よりも 人命と人権つまり ふつうの人間存在が とうとばれるという原則であるようです。

 5. ムスリムの人たちは アッラーフや預言者ムハンマドのことについて疑問が起きたり クルアーンの一節に物言いがあったりしたとき どうするのだろう。と思います。

投稿日時 - 2015-01-16 23:30:28

ANo.4

指摘されている哲学カテゴリーの劣化の原因はこのサイトに宗教カテゴリーがないので、しかたがなく宗教を哲学の中で取り扱っているからです。おそらく宗教カテゴリーでは相手を非難する水掛論になるので設定されていないのでしょう。

神仏については、信じれば宗教で、信じなければ哲学なのです。信じるものは信じない者をめくら扱いにする。信じない者は信じるものを馬鹿扱いにする。いくら哲学を深めても宗教には至らないのです。本当は宗教を哲学で論じてほしくはないのです。

信じる気持ちは、持って生まれたものなのか、幼い頃に親から受け継いだものなのか、信じる気持ちになる出来事にでくわしたからなのか、何かの下地がないと現われないのです。

投稿日時 - 2015-01-16 21:05:57

お礼

 そんな問題でしょうか。

 まづは ご回答をありがとうございます。

 カテゴリの区分が どんな効果を表わしますか。

 カテが違えば 急に知恵がまわるのですか?


 宗教と信仰とをごちゃまぜにして お話されています。意味がありません。

 信じるということの定義を わざわざしているのですから それについて考え ご自分の意見を明らかにして欲しい。こういう問いかけです。


 相手の話をよく聞いて ご自分の言い分を述べましょう。

投稿日時 - 2015-01-16 21:19:14

ANo.3

幸福の科学の会員です。

私の理解した範囲からですけど、幸福の科学から哲学について言えば

宗教が全ての善悪、価値観を決める。それを一般化、具体例などをあげて、哲学・道徳が作られているということです。
そして、神を感じることができない人、霊感が無い人は、哲学・道徳をガイドラインとして生きていくってことです。

例えていえば、神を感じたり、声をきいたりできる人は、「太平洋を見てきた蛙」あるいは、「目が見える人」であり、神を感じない人、霊感が無い人は、「井の中の蛙」あるいは「盲目、目が見えない人」ってことです。

太平洋を見てきた蛙が、いくら井の中の蛙に太平洋の説明をしても、信じてもらえません。また、美しい夕焼け、美しい絵画を実際に目で見える人が、いくら説明しても、盲目の人は夕焼けや絵画の美しさを知ることはできません。

そして、神を感じる人、声を聞くことができる人は極めて少数です。それが可能だったソクラテスやモーゼ、イエス、仏陀、ムハンマドなどが新しいルール・価値観を決め、多くの人々がそれに従うってことです。

ですので、民主主義・多数決の原理を適用すれば、神の声を聞く人、感じる人は多数決で必ず敗北し、ソクラテスやイエスのように殺されることになります。
処世術に優れている、あるいは、軍事的才能がある場合は、生き延びることが可能ですけどね。


理想論からすれば、全ての井戸の中の蛙が太平洋に行って海を見たり、盲目の人間が目が見えるようになれば、議論が無くなります。そのとき、神の存在は単なる「事実」となり、「信仰」なんて不要となります。だけど、それは無理なこと。

ですので、神を知ることができない大多数の人は、極めて少数の、場合によっては、神を知る世界でたった一人の言うことを「証明無く」「信じる」しかないのです。
そして「証明」無く信じることが「信仰」というものであり、「宗教」になるのです。

とはいえ、「証明が無く信じることはできない」という人はいるものです。それだから、質問者さんが書かれたように「神とは何か」について十年一日のごとく、おままごとを繰り返す方がいるわけですね。

まあ、「現代哲学」など、記号論理学、あるいは数学っぽくなっているので、同じように劣化しているといえるでしょう。

投稿日時 - 2015-01-16 20:03:10

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ 宗教が全ての善悪、価値観を決める。
 ☆ しっかりと真実を述べることは大事です。

 《宗教が・・・決める》ということは 宗教が決めると決めている人間がそうしているだけのことです。



 ★ 神を感じることができない人、霊感が無い人
 ☆ こういう規定には 一般性がありません。自分たちでそうだと規定しているに過ぎないでしょう。つまり その判定の基準は いっさい普遍的な妥当性は ありません。あったら その判定基準を明らかにするのが 先決です。




 ★ 「太平洋を見てきた蛙」
 ☆ あり得ません。タトエであるから 有り得るのだと言うならば それは ただの程度問題としての経験・体験であるに過ぎないはずです。そうして 程度にかんする物指しは作り得ると言われても だから規定できるとは成りません。

 つまり 仮りに誰もが採用しうる手続きが決まっていたとしましょう。だとしても それが ひとの境地を判定するなどということは ただのお遊びです。おふざけです。

 私的な組織内でなら 通るかも知れませんが そんなことは 一般から見ればどうでもよいことです。


 そもそも霊感が どうして《科学》なのですか?
 科学を超えていると言うなら まだ話に脈があるかも知れません。




 ★ そして、神を感じる人、声を聞くことができる人は極めて少数です。それが可能だったソクラテスやモーゼ、イエス、仏陀、ムハンマドなどが新しいルール・価値観を決め、多くの人々がそれに従うってことです。
 ☆ こんなバカな規定ないしその基にある判定基準はないでしょう。名の通った人間を挙げてみただけの話です。ばかばかしくて へそが茶を沸かします。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 ですので、民主主義・多数決の原理を適用すれば、神の声を聞く人、感じる人は多数決で必ず敗北し、ソクラテスやイエスのように殺されることになります。
 処世術に優れている、あるいは、軍事的才能がある場合は、生き延びることが可能ですけどね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんなデタラメをよくも言えたものです。批判の論拠を述べる気にもなりません。それでは ダメではないかと言われたら そうですと答えます。



 ★ 神を知る世界でたった一人の言うことを「証明無く」「信じる」しかないのです。
 ☆ バカ言え。経験事象に属する人間を《信じる》などという浅はかなことを。精神錯乱でなければ言えないでしょうよ。その人間はすでにわたしは この質疑応答の場で検証しました。ただの口から出まかせ人間です。




 ★ とはいえ、「証明が無く信じることはできない」という人はいるものです。それだから、質問者さんが書かれたように「神とは何か」について十年一日のごとく、おままごとを繰り返す方がいるわけですね。
 ☆ 違います。信じるのは 無根拠です。理屈抜きです。理論で信じたなら それは 認識の問題です。知識を得たというに過ぎません。

 何も神について 知っちゃいないんです あなたは。一顧にさえあたいしません。
 
 

投稿日時 - 2015-01-16 20:57:58

こんにちは。


☆ 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。
◇これは一つに、《信じる〉と《信仰する》の言葉のもつ意味の違いがあると思うんですよ。

日本語だと混乱を起こしやすいので、あえて英語を使いますけれど、
 信じる(こと) ⇔ belief
 信仰(する) ⇔ faith

beliefは、○○が正しい、ということを前提としており、経験や理性・悟性の領域になってしまう。
で、我々・日本人が□□を信仰するというときは、□□の神や教えが正しいかどうか、ということを問題にしてしまう。
日本人は、beliefとfaithを混同して語っているんじゃないか。
faithもまったく無根拠ではないのでしょうが、
いわゆる合理性や経験妥当性がなくても、
その意味で無根拠であっても、《かみ》への信や信仰は成立するわけですよね。
我々が、何だかわからないけれど、神のようなものを感じるとき、合理性や経験妥当性などに基づいているわけではなく、何となく感じる、それを感じ取るわけですし…。

こうした言葉遣いの峻別が必要なのではあるまいか。

一応、beliefとfaithという英単語を使いましたけれども、英単語のfaithにはその言葉の持つ別のニュアンスがあって、それはそれでまた新たな問題を引き起こすのでしょうけれども、
あえて、
合理性や経験妥当性の有無を明確にするために、この言葉を使いました。

キリスト教の誰かが「不合理(不条理?)ゆえに。われ信ず」とか言ったとか。
~~~~~~
2世紀のキリスト教神学者テルトゥリアヌスの言とされる「不条理なるが故に我信ず (credo quia absurdum) 」という言葉は、キリスト教信仰の理性による解釈を拒絶したものといえる。理性によって不可能と判断されるイエスの復活は、まさにそれゆえにこそ確実なのだとテルトゥリアヌスは考えた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86
~~~~~~

まぁ、これはイエスとイエスの復活という経験事象を語っているので、
bragelonneさんのいう非知の領域には至っていないのでしょうけれど…。


☆ 3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。
◇神へ至る道として、仏教で言えば仏になる、近づくためのよすがとしてならば、教義はあってもいいのだろう、と考えます。
教団という組織がこれに絡むと、組織のためのオシエになってしまうので問題でしょうね。
信仰は個人的なものなので、教団という組織は信仰とは馴染まないのでしょうね。



☆ 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。
◇この《信じる》が経験妥当性や合理性というものを含むかどうかなのでしょう。
これを含めば、論理的整合性や、教義としての首尾一貫性が問題になり、宗教は教義学などになってしまう。
教義やオシエなどはあくまで補助線ですから。



☆ 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。
◇でしょうね。

投稿日時 - 2015-01-16 14:26:18

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 衝動買いならぬ衝動設問です。


 ◇ いわゆる合理性や経験妥当性がなくても、 / その意味で無根拠であっても、《かみ》への信や信仰は成立するわけですよね。
 ☆ そうですが いえいえです。 

 《信じる・信仰――非思考の庭なる動態――》は 思考に非ずなのですから すべて《無根拠》です。

 理屈があろうがなかろうが・根拠があろうがなかろうが無条件に――多少は 好き嫌いのクセ(エートス)にしたがって――その神の名を心に受け容れます。これが 神についての《信じる》です。〔その余の《信じる》は 文学です〕。


 そのあと――動態なる信仰の過程において――
 ◇ 我々が、何だかわからないけれど、神のようなものを感じるとき、合理性や経験妥当性などに基づいているわけではなく、何となく感じる、それを感じ取るわけですし…。
 ☆ という感性の問題に 神の依り代がかかわって来る場合もあるでしょうし あるいは単純に おれは神学を構築したいと言って理論づけようとする場合もあるでしょう。となると思います。





 ◇ 英単語のfaithにはその言葉の持つ別のニュアンスがあって、それはそれでまた新たな問題を引き起こすのでしょうけれども
 ☆ シャルリ・エブド事件にちなんでおこなったフランシスコ法王の話に 《信仰 faith 》なる表現が出ていました。これも問題としたいと思っています。

 ▲ 表現の自由の名の下に信仰を侮辱することまでは許されない
 (預言者の風刺画 国連でも慎重論 1月16日
  http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150116/k10014724371000.html )

 ☆ 《信仰――非思考の庭――》は そもそも外から《侮辱する》ことなどは出来っこありません。自分自身でさえ それを表象することも認識することも出来ないのですから。

 信仰内容と見るところのものを人間の言葉としていわゆるオシエに表わしたときそのオシエについて ひとは互いに批評し批判し合えます。批判は 表現の自由にあって 無条件に成りたちます。《侮辱されてしまう》ような内容なら わざわざ世間に公表しなければよいわけです。

 宗教についての批判や賛同は まったく自由です。
 信仰については そもそもその中身が確定しないのですから 批判も賛同もありません。
 (その信仰者が りっぱな振る舞いをしたというとき それはたたえられます。けれども――たぶん確かに信仰が関与しているのでしょうが それでも―― 信仰と直接のつながりを捉えることは 議論として明確なものとは言えないはずです)。






 ▼ 「不条理なるが故に我信ず (credo quia absurdum) 」
 ☆ 1. これは すでに触れました《無条件に神の名を心に受け容れる》ことを言うと思います。

 
 ▼ キリスト教信仰の理性による解釈を拒絶したものといえる。
 ☆ これは あいまい過ぎます。
 2. 信仰は 《キリスト教――その《教》――》とは何の関係もありません。

 3. 《信仰の理性による解釈》は おこないます。《信仰とは 理性とはいっさいかかわりなく無条件に神の名を心に受け容れること》だという理性による解釈です。

 4. 解釈を拒絶するうんぬんといったことは あくまで信仰から得られた観想を言葉で表現したオシエについてであるはずです。そしてこのオシエについては 解釈を拒絶することはありません。拒絶してはいけないわけです。思考の領域に降りて来ていますから。

 ▼ 理性によって不可能と判断されるイエスの復活
 ☆ 5. 《復活》は 基本として《将来すべき(これから起こりうべき)こととして臨むのがただしい》と言われます。

 6. そして復活は 理論です。オシエです。しかも この場合は特殊であって 経験合理性では理解しえない内容を持つ。と言わねばなりません。つまりは 聖書の主人公は 《イエスという名の人間であり 同時にキリストと呼ばれる神〔の子でありみづからも神〕である》という最初の想定から来ています。
 
 7. この《人間イエス=神キリスト》なる物語は ほかの神や無神論の神学にはない特徴だと考えます。

 8. 現代において《復活》の解釈は いまの百歳生存からその倍の二百歳平均年齢説が実現したら そのことだといまの段階で理解しています。幼な子が蝮の穴に手を突っ込んでも大丈夫なほど社会的な共生(イザヤ書)が 実現すること これも 《復活》の問題であると見ています。







 ◇ 神へ至る道として、仏教で言えば仏になる、近づくためのよすがとしてならば、教義はあってもいいのだろう、と考えます。
 ☆ 《ブッダ》という言葉ひとつを採っても 教義ではないとしても 《よすが》であり神の補助線であると考えます。




 ◇ この《信じる》が経験妥当性や合理性というものを含むかどうかなのでしょう。
 ☆ 《非思考の庭》と《思考の緑野や感性の原野》とのつながりが知りたいところです 人間としては。

 ヒラメキ直観や直感ヒラメキを言うことにおいて つなげたかたちを採っています。
 神を感じる・神を理論づけるという段階へと降ろして(卸して)行くかたちなのかどうか。

 このとき ひとつ面白いことは もし感性の経験や理論づけた仮説の内容が 共感や同感を生むものであったり・あるいは逆に反対される目に遭ったりしても それはほんとうには《信仰》が讃嘆されたり批判されたことには成っていないことです。

 《非思考の庭》と《思考の緑野や感性の原野》とのあいだには つながりがあると見ますが その見方を人質に使うことは出来ない。やはりそれらのあいだには 隔たりがあると見なければならないと考えます。《非思考》なのですから。

 《理神論》という場合には そのつながりが理性で分かるという立ち場なのかも分かりません。成り立ちがたいと思っています。
 おまけとして 理神論というのは 仮りにつながりがあると見たその範囲内でのことであって 厳密には 区別していますよと アダム・スミスから物言いがつくかも知れません。

投稿日時 - 2015-01-16 15:27:31

bragelonne さん こんにちは。

先に「信仰について」の投稿に回答したように、現在インフルエンザに罹患し、頭のネジが数本ぶっ飛んだ状態での回答なので、ご理解を。

ところで、bragelonne さんの「哲学」というお立場を鮮明にしないとこの投稿には回答できません。

いろいろな哲学者の本を読んでどの説が正しいかは、受け取る人によるものと思いますが、

1)神学と哲学は違うという意見。
西洋哲学の歴史を見ると、たしかにキリスト教とプラトンを融合させたアウグスティヌスから、アリストテレスを融合させた、トマス・アクィナス、その後、スコラ学における形而上学的論理学における普遍論争までを神学としてデカルトに始まる近代哲学と分ける説を取る哲学者もいる。

2)神学も哲学も同じという意見
西洋哲学は、ハイデッガーに至るまで神学の他なにものでもならないと言う意見。

さて、神学(哲学)をする際注意しないといけないのは、聖アンセルムスによると「信仰」を括弧に入れよ。ということ。現代風に言えば、常識を括弧に入れよ。と言えるかもしれない。そこに論理が出来るのかもしれません。

ところで、明治期における西洋哲学思想の発展を「井上哲次郎」という人は「明治哲学の回顧」という本で3期に分けている。そして先にも回答したことがありますが、論理学第二期前期においてヘーゲル論理学が仏教僧侶から宗教哲学的な意味で採用されている。当事の哲学者で言えば、三宅雄二郎、清沢満之らにより日本にヘーゲルが紹介され、日本の思想と融合させる試みが行われている。

2)の神学と哲学は同じという説を取るなら、ヘーゲル神学を日本人は仏教に取り込んだ。

私は、すばらしいと思います。柔軟な日本人のスパゲティー・ナポリタン戦法です。

しばらく安静にしなければならないので、このくらいにしますが、お礼をお待ちしております。

投稿日時 - 2015-01-16 13:57:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 インフルエンザ。たいへんでした(です)ね。
 わたしも 鼻水と咽喉のつまりが出て 熱は測りませんでしたが 寝るときに汗をかきました。おかげでわたしは かるいもので済みそうですが。


 ★ ところで、bragelonne さんの「哲学」というお立場を鮮明にしないとこの投稿には回答できません。
 ☆ 哲学するとは 生きることです。日から日へしっかりと課題と向き合い一つひとつ果たして行く生活です。


 だれがどう言ったかは 自分がその説を採り入れているか 反対しているかにおいて触れるとよいでしょう。反対一色であったり まるっきり入れ上げている説というのも めづらしいはずです。つまり つねに自分の生活に根差した考えとして 何を採り入れ何を捨てるかをきちんと明らかにしてあゆむことが 哲学だと考えます。




 《神学と哲学》の問題は ほとんど成り立ちません。神学も 人間の言葉で神を表現するのなら 思想でありこれを哲学は検証します。――というより 神学をかたちづくるときすでに哲学をはたらかせています。

 多少の違いは 神学は 信仰が入るとその神についてのオシエに対して 甘い考えになってしまうことです。
 信仰は 無条件に神〔の名をということですが〕を受け容れることですから。その場合は・この場合にかぎって 人間は 哲学を超えています。


 ヨーロッパの神学も哲学も 《神とは何であるか?》を知りません。
 アウグスティヌスがわづかに明らかにしていたとわたしは受け取ったのですが その表現はふるくさいものです。よって 現代に合うようにわたしは あらためました。




 ★ さて、神学(哲学)をする際注意しないといけないのは、聖アンセルムスによると「信仰」を括弧に入れよ。ということ。
 ☆ これは もっともなことです。なのですが さらにテツガクテツガクした手口は 《信仰とは何ぞや?》を哲学として明らかにしておけばよろしい。何の片寄った見方にも落ち入りません。


 ヘーゲルを出せと言われれば 次のくだりが よろしいでしょう。《非知》を表わしています。

 ◆ (ヘーゲル:法の哲学の講義録より) ~~~~~~~~

 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は 
 どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない 
 ないしはこれを 我慢できないであろうが 
 この矛盾を持ちこたえることができるのが 
 人格(* ――もしくは《人間存在》――)の高さである。
  (法の哲学 §35追加 藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 あとは 総論と各論との問題があるかと見られます。

 おまえの仮説は もろもろの各論と整合的か? と。

 たぶん ハイデガーならそのハイデガーひとり(ないしそのひとつの仮説)にしぼって 各論談義を始めるのがよいはずです。今回は 総論的各論になっていますね。


 総論として 現在において世界一であると大見栄を切っているわけですから 頭ごなしにでもいいですから 袋叩きに合わせてみてください。むろん反論しますが。

投稿日時 - 2015-01-16 14:33:33

あなたにオススメの質問