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解決済みの質問

信じるとはどうゆことですか?

宗教を信じている人との対話で「あなたは自然科学を信仰しているのではないか」と言われたことがあります。つまり、信仰の対象が、宗教か科学かの違いであって信仰しているのは同じではないかと。人間はどうやっても信じることなしに生きることはできないのだと。

「信仰しているのは同じで、ただ信仰の対象が違うだけだ」と言われると、私はなんか違う気がします。
自分のよく知らない分野では、よく確認せずに「専門家が言うことなんだからそうなんだろう」と思っていることもある。
しかし、その内容が間違いであると判明すれば自分の認識を訂正します。
自分では根拠の確かさに応じて信じていると思っています。

その態度を神の存在についてあてはめて「では神様の存在についてどんな根拠がありますか?」と聞くと「根拠があるから信じるというのは信じることではなくて取引だ」と言われます。
>「信じるに値うものを得て、その代償として信じる」と言う取引なんです。(michael-mさんの言葉)


ある時は、対象が違うだけで信仰しているのは同じと言われ、ある時はそれは信じているのではなく取引に過ぎないと言われます。
そこで質問です。

(1)宗教を信じている場合と、自然科学を信じている場合の「信じている」は同じだと思いますか?
(2)内容の真偽を値踏みして信じるか信じないかその程度を決めるという態度は信じるとは言えませんか?

投稿日時 - 2015-02-16 23:32:11

QNo.8919011

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 まず科学の現象論的理論では、最初に経験事実に基づいているとはっきり明記されます。つまり絶対的証明などないと。

 では基礎理論ではどうなのか?。基礎理論では、これこれの原理に基づくとなりますが、この原理にしたって経験事実以外の何物でもありません。ア・プリオリな証明などありはしない。逆にそんなものがあると言ってしまったら、科学ではなくなる。

 科学には実証性があるから宗教とは違うという意見もあるが、実証実験や検証実験で出来る事は、じつは反証されない事の確認に過ぎない。実験で何かを証明する事も、じつは不可能だ。

 そういう訳で、「あなたは自然科学を信仰しているのではないか」と言われたら、究極的には「そうだ」と言うしかない。言うしかないが、そうする理由はある。

 主に17世紀以来の実績から、考え方として科学の方が安全そうだと判断するし、もっと大きくは、少なくとも公立の学校では「科学を信じろ~」と、ズーッと教育されて来たからだ(^^;)。信じるが言いすぎなら、信頼はしている。


 だから、「根拠があるから信じるというのは信じることではなくて取引だ」という言葉は言い当て妙だが、「それはあなたが信じる、「信じる」という行為に過ぎない」となる。

 科学を信じているなら、「信じるに値うものを得て、その代償として信じる」のがすじだ。科学はそのための方法論を提供する。

 同じ言葉「信じる」でも、よって立つところが違えば、言葉に対応する行為は違うと思う。

 もっとも最近は歳のせいか、昔よりも寺社仏閣が好きになりましたが・・・(^^;)。

投稿日時 - 2015-02-17 13:51:13

お礼

回答ありがとうございます。
科学の限界ということを指摘されていてなるほどと思いました。
ただ、学校で教育されてきたから・・・というのはどうかな?と思いますけど。
いやでも、教育として植え込まれていることを中心に考えているのかもしれないですね。
自分ではいろいろ考えて納得したつもりでも、それまでに受けた教育自体を疑うことはなかなかしないですから。

投稿日時 - 2015-02-23 22:25:24

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回答(11)

ANo.11

同じです。
なぜなら、どちらも根拠を突き詰めるし、終わりがないからです。
宗教だって、しあわせとは?善とは?みたいに延々と答えの出ない議論をしながら、人生の真実に迫ろうとする。
科学だって、解けてない問題は無数にあります。
そして、神がかりな数式なども存在する。
本質はどちらも同じな気がします。

そうです。言えません。
信じるというのは丸ごと信じることだからです。
人で言うとわかりやすいですね。
相手が裏切ろうが信じるのがほんとうの信じるです。
それこそ親子みたいによほどの絆がないと信じるなんてできません。

根拠を求める以上、信じる気はなく、理解したいだけです。
仮に根拠を理解して、それを支持したとしても、それは信じたとは言わず、単に「今はその考えが正しいと思っている」というだけです。

信念って言うでしょ?
あれはまさにそうです。
正しい正しくないを通り越している。
主観的な価値観です。
そして、それが正しくなくても、好きで好きで貫きたい価値観。
それが信念です。

要するに理解は客観。
信じるは主観。
あなたが求めているのは客観です。

投稿日時 - 2015-02-18 20:56:50

お礼

回答ありがとうございます。
信じるといってもいろいろありそうですね。
いちいち考えるのを省略して信用するという軽い「信じる」から、信念という意味での「信じる」まで。
ご指摘のとおり、たしかに私の考えていたのは客観でした。

投稿日時 - 2015-02-23 22:44:48

ANo.10

(1)は同じだと思います なぜなら宗教も自然科学も不完全なものを信じて指針にする訳ですから。

(2)はそんなことないと思います。よく吟味しないとオウムやISや詐欺に引っかかる恐れもあります。

   人は信じないと思い切って行動できません。真っ暗な闇の中を歩くには 足元に足場があると

   信じられればこそです。しかし足場がないのに 足場があると信じたら・・・死んでしまうかも

   しれませんね。中途半端な半信半疑にも耐え、よく目を凝らして見ることが必要だと思います。

   足元を照らす明かりがあれば随分違うと思いますがね。

投稿日時 - 2015-02-17 21:13:47

お礼

回答ありがとうございます。自然科学のほうはあまり信じてはいけない、つねに疑うのが前提であるのに対して、宗教は信じるのが前提という違いはあると思います。ですが、確かに信じるという部分があるのは同じですね。
宗教だからといって無批判に信じてはいけないということですね。確かにそれは健全なことだと思います。

投稿日時 - 2015-02-23 22:30:47

ANo.8

神仏を値踏みしてある時に急に信仰を始めるのは良くありません。私の場合は両親に代わって家の仏壇と神様にお水を毎日のようい差し上げることを繰り返えしています。行動することで自然に信仰心が生まれて来ます。
仏像が木材で出来ていることはみんな知っているのです。織田信長はこんな木材が信じれるかと言ったそうですが、毎日手を合わせて水を差し上げていなかったのでしょう。

以前にも同じ主旨の質問をされていましたが、信仰を望みながらも結局は何も行動していないのでしょうね。私の場合は自然に親から受け継ぎましたが、そのようなことが無ければ近所の祠でも良いのです。私はほとんど毎日の散歩の途中の毘沙門天の小さな祠にお参りします。今日もここまで散歩に来れたことへの感謝です。

私は研究開発をしてきた理科系人間ですので自然科学への知識は豊富です。物理学の根底をなす天文学の知識も豊富です。しかし、それと信仰は異なります。信仰心は自分の中にあるのです。お願いもしますが、それは取り引きではありません。お寺にも神社にもあまり行きません。自宅の神仏で十分です。

投稿日時 - 2015-02-17 11:28:52

お礼

回答ありがとうございます。
>信仰を望みながらも結局は何も行動していないのでしょうね。
誤解しておられませんか?私は信仰は望んでいません。ただ、自分の心の中に信仰心が存在することを自覚しているだけです。これは人間の本能なんじゃないかと思っています。

投稿日時 - 2015-02-23 22:12:52

ANo.7

信仰と信じるという言葉の使い方が違うだけで、基本的には同じ事です。
蛇口をひねれば水が出てくるというプロセスにおいて、内部の水道管にまで疑いを持って日常生活を送るものは皆無と言っていい。勿論、異常があればそのプロセスを疑うだろう。
病院の診察しかり、信ずること無しに生活は成り立たない。

投稿日時 - 2015-02-17 09:39:33

お礼

回答ありがとうございます。
するどいご指摘と思いました。たしかにすべてのプロセスをいちいち確認しているわけではないですよね。そこには信じる(信用する)ということが隠れているわけですね。

投稿日時 - 2015-02-23 22:05:56

>信じるとはどうゆことですか?

信じるとは疑いを持たないということです。

これは科学的な態度ではありません。
科学的な態度とは常に疑いを持ち続けることです。

投稿日時 - 2015-02-17 09:19:54

お礼

回答ありがとうございます。
なるほど。言われること、よくわかりますし納得いたします。
ただ、ちょっと思ったのは、例えば、宇宙の起源だとか、相対性理論だとか何か科学について素人として解説書を読んでいる場合、それにはその書籍を信じる(信用する)ということがあるのではないかと。つまり、いちいち自分で元のオリジナル論文を読んで内容確認するということはしないですよね。プロの研究者は常に疑うということをしていると思うのですが、一般の人は、研究者が書いた論文をもとにした総説なり、解説書なりを読んで信じているのかなと思いました。もちろん、その解説書の説明に矛盾があれば信用しないということでしょうけど。

投稿日時 - 2015-02-23 22:03:51

ANo.5

確かに、物理といえども無からの展開において現状を導け
なければ、エネルギーやビッグバンなどの“第一原因”を
先入化=信仰していると言えなくはない。
ただ、それは神のように全知全能で意志を持つ、即ち自分
の意志の及ばないものではなく、物理的な法則性に則った
相互作用しかしないものであり、自己の意志の発現のツー
ル以上(他律的な価値や外的な権威)ではあり得ない。

そしてそうした物理的な分析において、階層現象性の果て
(認識体(心)>細胞>分子>原子>素粒子>クォーク>
超弦(量子定常波))に無(4次元ミンコフスキー空間に
射影する無が量子)に還元される=自我仮説(時間軸=
記憶=過去=超光速)と空間仮説(空間軸=予測=未来=光速
下)の相補分化として現状が認識される時、造物主とし
ての第一原因は不要となる。

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投稿日時 - 2015-02-17 08:39:41

お礼

回答ありがとうございます。
ただ、私には意味がよく理解できませんでした。
つまり人格神は存在しないということでしょうか。

投稿日時 - 2015-02-23 21:56:39

stmimさん おはようございます。

お勉強のしすぎで、資料が埋もれてしまったので、本の題名がわかりませんが、とある本に、自然科学と信仰の違いについて下記のような著者の考察がありました。

キーワードは「繰り返し」と「置き換え」

つまり自然科学では実験の再現性といわれるものは欠かせない。出来ないとSTAP細胞の小保方さんです。

再現性という「繰り返しが可能」でなければならない。また、その実験が、その研究室の特別な装置でしか出来ず、他の研究室ではできなかったら、再現性の実験は不可能で、そのため「置き換え可能」でなければならない。

しかし、実際に生物学で科学の立場で研究していた私の経験では、過去に、どうしても再現性が得られないという論文の結果がありましたが、理由が解明したことは、使用した細胞のstrain(系統)が研究室の間で違っていて、そのため再現性が得られないということがありました。置き換え可能という著者の考えは注意が必要です。

一方、信仰の世界では、繰り返しは歴史であり、これは「繰り返し不可能」。現在において旧約聖書に出てくるような神の言葉を直接聞く、預言者である人間はいなでしょう。また、信仰は個人のものですから、「置き換え不可能」。私とstmimさんが信じるものが違っていてあたりまえ。

投稿の質問にどこまで回答したか分かりませんが、語弊があるかもしれませんが、自然科学と信仰の比較は、現在においては、自然科学と人文科学のアプローチの方法論の違いであって、自然科学の視点のみから物事を解釈していては、全体像は見えないかもしれないと私は考えてます。

投稿日時 - 2015-02-17 08:02:13

お礼

回答ありがとうございます。
確かに特定の材料を使った場合にしか実験がうまくいかないというのは結構ありそうですね。だからなるべく研究者間で共通の材料を使って実験をするということなのでしょう。

>また、信仰は個人のものですから、「置き換え不可能」。
もし、目の前の机の上にリンゴが置いてあったら、amenhotep2000さんと私でリンゴがあるかないかで意見がくい違うことはないでしょう。amenhotep2000さんと私は共通の世界に生きていて、事実は一つであり、客観が存在すると思います。ですが、神様が存在するかしないかについては、客観は存在しないということなのでしょうね。

そうですね。私は自然科学的な視点ばかりですね。

投稿日時 - 2015-02-23 21:50:40

ANo.3

(1)宗教を信じている場合と、自然科学を信じている場合の
「信じている」は同じだと思いますか?

違うと思います。
科学というのは、次のような特徴を持っています。
客観性、再現性、論理性の三つです。
そして、確かさを積み重ね、更なる高みに昇ります。

宗教には、客観性も、再現性も、論理性もありません。
だから、確かさを積み重ねて、更なる高みに昇る
こともありません。


(2)内容の真偽を値踏みして信じるか信じないかその程度を
 決めるという態度は信じるとは言えませんか?
     ↑
そうではありません。
科学と宗教の違いは、内容ではありません。
内容に達するための方法に違いがあるのです。

例えば、怪奇現象が発生したとします。
宗教は、これは悪魔だ、神だ、と説明します。
しかし、科学はあらゆる可能性を検討してから
結論を出します。

宗教はそんなことしません。
何も考えずに、何の努力も思考も経ないで、
根拠もなく、悪魔だ、神だ、となるわけです。

科学と宗教とはこのような違いがあります。






 

投稿日時 - 2015-02-17 06:47:43

お礼

回答ありがとうございます。なるほど。科学の場合はいろいろなプロセスを経て信じることに到達するのに、宗教では一足飛びに、信じることに至るわけですね。

投稿日時 - 2015-02-23 21:40:57

ANo.2

自然科学を信仰しているというのは、言葉として不自然ですね。私は科学には疎いです。一般向けの解説書などを読むと、ヘェ~そうなんだ、程度の感想しか持ちませんし、科学的知識は塗り替えられていくものですから、信じる対象にはなりません。
一方、宗教を信じている方は、根拠もなく信じたいから信じているのであって、信じた内容に合点がいっているのです。それは、まさしく価値をはかっているのであり、信じるに足る教えかどうかを判断し、益を被ると感じられた故に信じることにしたのであり、つまりは値踏みしたのです。

信じるというのは、信じたいと思うゆえに根拠が生じ、信じることが出来るようになるのではないでしょうか。
例えば自分を信じたいと思うゆえに、自分自身気がついていない自身の内的な根拠を生じ得て、信じるということが成立する。
人を信じるという場合にも、信じたいと思うゆえに、人に信じるに足るなにかを生じさせ得て、信じるということが成立する。
普通は価値が先行しそれを取捨するものですが、信じるという場合には、信じたいという欲求が先行し、その対象に価値を生じせしむるのではないかと。

投稿日時 - 2015-02-17 03:25:02

お礼

回答ありがとうございます。
なるほど。信じるからこそ、何かが生じるのですね。うそから出た誠みたいなこともありますし。そういわれてみると、科学でも新しい仮説はその研究者がそれが真実だと強く思って証明しようと努力するところから生まれるようです。

投稿日時 - 2015-02-23 22:38:50

ANo.1

stmim様、こんばんは。


>「人間はどうやっても信じることなしに生きることはできないのだと。」

「信じる」とは、多分、ヤタラメッタラなことでは、ないでしょう。


>「自分では根拠の確かさに応じて信じていると思っています。」

「100%だ」ということもあれば「半々かな」ということもあるでしょう。




(1)宗教を信じている場合と、自然科学を信じている場合の「信じている」は同じだと思いますか?

宗教は「(無理矢理でも)100%」でしょうが、自然科学の場合は「信じている」は、「反証あれば止む無し」でしょうね。


(2)内容の真偽を値踏みして信じるか信じないかその程度を決めるという態度は信じるとは言えませんか?

・・・もともと、内容の真偽には程度がある、ということでしょうか。
「判らない」というのも、一つの回答なんですね。

投稿日時 - 2015-02-17 00:26:03

お礼

回答ありがとうございます。宗教の信じていると、科学に対する信じているは違うということですね。なるほど。信じているということには、その信じ方の強さ、確度みたいなものがあるということですね。

投稿日時 - 2015-02-23 21:38:44

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