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締切り済みの質問

イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある。

 (あ) イエスは ナザレの人たるヨセフとマリアとのコイトスによって生まれた子であり ふつうの人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。

 言いかえると
 (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。

 (う) イエスは 神の子でありみづからも神であるゆえに イエス・キリストと呼ばれるわけであるが その《人間であるイエスが キリストなる神である》というのは 大嘘でありひとつの物語である。

 (え) ただし この虚構によって 神は――世界のどんな名の神も 神という神は  《無い神》をもふくめて―― すでに要らないと見なされるかたちで 揚棄された。

 (お) だから もう神を知れ・うやまえとか神を信じなさいとか神などはいないとか いや いるんだとか いちいちあらそうこともなくなった。理論上 そうである。




 どうでしょう?

投稿日時 - 2015-03-06 10:01:03

QNo.8930124

すぐに回答ほしいです

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回答(20)

ANo.20

>「というと くりなるさんは 処女懐胎をそのまま信じていることになりますが そうなのですか?」


・・・聞いただけ、です。

投稿日時 - 2015-03-08 06:02:11

お礼

 聞いたあとのご自身の見解を明らかにしてくださいますか。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-08 06:08:17

ANo.19

B様、こんばんは。乱入いたします。


「ヨセフとマリアは、「そんなはずでは!?(有り得ない)」と、いうことだった」と、聞きました。
・・・どちらかが、ウソをついているのでしょうか。

投稿日時 - 2015-03-08 02:19:30

お礼

 ええ。書いてある文字通りに受け留めれば そうなりますね。

 
 というと くりなるさんは 処女懐胎をそのまま信じていることになりますが そうなのですか?




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-08 05:11:02

ANo.18

嘘かどうかが問題では無いのです・・・

イエスがキリストかどうかも問題では無いし 神が居ようと居まいと それも問題ではありません・・

要は 人間の寿命 約100年・・・その後は死あるのみ・・

次世代が幸せに暮らせる世の中を現代の人が考え実行するか 次世代に任すか・・だけなのです・・

こんなにも醜い世界 そして こんなにもポイ捨てゴミで汚れてる日本に 自分の子孫を残すのか!?  と言う事です・・

つべこべ言う前に ポイ捨て空き缶の一つでも拾って 子孫の手本になりなさい・・

じゃ~バイバイ(^o^)/

投稿日時 - 2015-03-07 15:56:04

お礼

 バイバイ。

 ご投稿をありがとう。

投稿日時 - 2015-03-07 17:04:22

ANo.17

「同じことを ふつうの人がやろうったって 出来っこない」←これなら どうやってイエスはイエス以外の人類を救うの!?・・

他の人が出来ないのならイエスだけが救える訳だから ウルトラマンでも何でも変身して救うしか方法が無いでしょ・・!?

投稿日時 - 2015-03-07 11:46:00

お礼

 イエスは 人間である父母から生まれた人間であると同時に 神の子でありみづからも神である。と言ってるぢゃないですか。


 ご回答をありがとうございます。


 キリストなる神つまりあるいは聖霊によって ハタラキをおこなった。それだけのことです。



 もうちょっと言うと 人間イエス=神キリストという図式は――それにもうひとつのペルソナである聖霊なる神を加えて いわゆる三位一体の神を言うことにつながっていますが―― 問題は そんなこと(人=神)が 人間に信じられようか。ということにあるでしょうね。

 そういう物語なのだという説明が ひとつあります。

 でも大方の人びとは納得行かないでしょう。だから わたしは――これはわたしの専売特許ですが―― イエスは 自分が人間であると同時に 神の子であり父なる神と同等であるからにはみづからも神であるという大嘘を言ったのだと。と言って説明しています。


 まだまだ議論は この件については尽きませんが。

投稿日時 - 2015-03-07 12:24:43

ANo.16

Baragelonneさん おはようございます。

補足、追伸です。

本の紹介ありがとうございます。しかし、現在、図書館の書庫でコピーした資料と古本屋で買った本に埋まった部屋で生活しており、とにかく、つん読(積んどく)にならないよう、現在、これ以上、コピーや本の出費を抑え、あるものを消化吸収中です。

ところで、ここまで回答すると私はキリスト教徒と思われるかもしれませんが、洗礼を受けていません。私の私見でいうと、日本において、bragelonneさんのように、キリスト教、仏教、無神論やその他の宗教にも受けいれられる哲学を考えるのもいいと思いますが、現状ではそのような哲学はまだ早く、この哲学カテで知りましたが、教会にも神社仏閣にも行かないが家の神棚には毎日祈るという日本人の信仰も良いと思っており、そのような人に無理に宣教や布教したら、ますます宗教アレルギーになると思います。

それぞれの宗教に帰依した人は教えを個人として守り信仰し、他の人には無理に干渉しない。宗教的な教義の論争となるのでなく、いかに日本において共存すべきかを考えることが大事という考えです。

さて、お礼に対して補足します

「★ キリスト教を信じない人
☆ この表現はいただけません。一般にはジョウシキになっていますが ひとは《おしえ》を信じるのではありません。それは 《考える》です。信じる(無条件に受け容れる)のは 非知なる神であり ほかにはありません。」

信じるという言葉を信仰という言葉に変えたら、いいのですか?

聖書にこのようなイエスの言葉があります。

「命を与えるのは霊である。肉は何も役に立たない。私の言葉は霊であり命である。しかしあなたがたのうちには信じないものがいる。」
ヨハネによる福音書6章63節~64節

アウグスティヌスの「告白録」を読むと、アウグスティヌスはラテン語の「cor」という言葉を多用してますが、これは「心臓」という意味だそうですが、「心の奥底」と訳すこともできるそうです。イエスがサマリア人から井戸の水をもらう場面の教えである、心の奥底に枯れることのない命の泉があるのではないでしょうか。このような心は現代科学が追求している脳にあると考えますか?アウグスティヌスやアリストテレスの言うように心臓にあるかもしれない。科学的にわかってないので何とでも言えます。また、「考える」とのことですが、考えるばかりで行動しなければ、何の意味もない。イエスが言ったように、「もっとも小さい人にしてくれたことは、私にしてくれたことである。」のように、困っている人に愛という行為を示す。哲学カテで討論しているより、世界における難民のためや東日本大震災の復興に尽力する人達のほうが、無神論者であっても、数段、「考える」だけよりレベルの高いと思いますよ。

「★ 体は霊魂の墓場であり
☆ これは 摂りません。天地創造のものがたりにおいて 神は創ったものをみて みな《よし》と言っています。むろん 人間のからだにしても よし なのです。どこが 墓場ぢゃ? 誰が墓場と言うたんぢゃい?」

これは、書いたように、ユダヤ教のフィロンの説でキリスト教の考えではありません。補足するとフィロンは天上の原初の人間は体を持たない霊的存在であり、男女の性差もなく、個別的特性も持たない不滅の人間と考えたようですし、アウグスティヌスは世界は時間と共に創造され魂と体は創造の起源において、それぞれ異なって、神は魂を万物を造るときに同時に創造したが、体は定められた時に現実化して魂と結合すると考えたそうです。

bragelonne哲学には「時間」の概念はあるのですか?ふたりは上述の時間的考えの下に、現世を考えてます。

しかし、私は前に回答したことがありますが、実存主義者であり、生まれる前の世界がどうだったとか、死後どうなるかはあまり追及しません。

現世において、いかにこの哲学カテのpsytexさんが、よく説く「馬車馬の前のニンジン」の富や名誉などのはかないものに目を向けず、よりよく生きることを目指しています。

投稿日時 - 2015-03-07 08:14:35

補足

 あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 小論《シンプリキアヌスへ》は 『アウグスティヌス著作集 第4巻 神学論集』におさめられています。
 モーセの律法をめぐる問題と恩恵のはたらきをめぐる問題をパウロが議論しているところにもとづき説明したものです。

 人によって違いがありますが 後者の恩恵論でわたしは目が開けました。




 ★ 教会にも神社仏閣にも行かないが家の神棚には毎日祈るという日本人の信仰も良いと思っており、
 ☆ こういう人びとにとっての神が 同じ神だとイエスは指し示したものと考えます。

 オシエや倫理規範に頼ることなく 日から日へ共生生活を送るあゆみ。そしてそのいとなみの内に信仰があるというかたち。です。

 もっともそういったムラの人びとは 先祖からの言い伝えを後生大事に守っているという側面もあります。
 ふるいからダメだとは言いませんが(言えませんが) 陋習からは離れて欲しいとは思います。





 ★ それぞれの宗教に帰依した人は教えを個人として守り信仰し、他の人には無理に干渉しない。宗教的な教義の論争となるのでなく、いかに日本において共存すべきかを考えることが大事という考えです。
 ☆ (1) オシエに帰依するというのは 偶像崇拝です。補助線を神本体だと見做し思い込むことです。

 (2) シュウキョウというのは 信仰から逸脱してそのかたち――特にはオシエと集団性――を採ったところから 無効の行為が始まっています。意味のない活動が延々と続いています。全面否定します。

 (3) オシエ(知の対象)を信仰するというのは 言葉じたいの矛盾です。

 (4) オシエを守ることは いわゆる信念の問題としてあり得ますが・そして信念としてでも立派なことを達成したという場合がいくらもありますが 信仰の徒としては 間違った歩み方です。信じるゆえにオシエの内容が守られ得ているといったかたちを思っています。

 (5) もっとくどく言えば そもそもオシエないし律法は すでにその初めから 信仰をとおして神の恩寵を得てこそ そのオキテや決まりを守ることができるというものでした。人間が能力と努力とをむろん傾けますが そのおこないによってオシエを守り切ることは出来ないというふうに分かっていました。

 (6) ハバクク書の初めのほうにあったはずです。義人は信仰によってあるくと。道徳堅固は 基本的にお呼びではないのです。その行き方が違っていると見なければなりません。

 (7) パウロが言うには アブラハムは 律法のオシエを守ったから義とされたのですか? であり いいえ 信じたから義とされました。とあります。(ローマ書かコリント書でしょうね)。

 (8) 律法は おのれが自分の良心にさからい神に対して罪を犯しているということを認識し自覚するためにだけあります。

 (9) ただしそれが得られたのは 信仰をとおしてです。つまり律法も聖であるのですが それを理性や信念としての努力で守ることが われわれの行き方ではない。補助線の向こうに神を得ています。

 (10) シュウキョウについてはそのオシエをめぐって これはそれこそ徹底的に議論しなければいけません。あらそいのためではないことは 分かり切っていることです。

 (11) オシエは 人間が考えるものです。マチガイは正して行くものです。干渉になろうとも 教義にかんしては とことん議論しつくさねばいけません。共存すべきは どんな名の神をその人がいだこうとも それを互いに受け容れ共同自治してあゆむことです。シュウキョウは 百害あって一利なしです。



 ▲ 命を与えるのは霊である。肉は何も役に立たない。(ヨハネによる福音書6章63節~64節)
 ☆ この《肉》は むしろ――拡大解釈になるかも知れませんが―― 《身と心》のことです。肉体と精神とをふくむ広義に用いているとも考えられます。

 つまりは 身と心とから成る自然本性のままでは――つまりその潜在するチカラとしての霊のハタラキを潜在のままにしていては―― 何の役にも立たない。ということだと見ます。



 では その聖霊のやどる神殿は からだのどこにあるか。
 ★ イエスがサマリア人から井戸の水をもらう場面の教えである、心の奥底に枯れることのない命の泉があるのではないでしょうか。
 ☆ 《心の奥底》なのでしょうか。

 これは 一案としてですが パウロは あなたがたの肉(身と心)が 神の神殿であると言っていたとしたら 自然本性の全体でしょうね。人間なる存在の全体が 神殿なのでしょうね。

 心なり心の奥底という表現は たぶんそういう言い慣わしがあって 分かりやすいように使っているのではないか。問題提起しておきます。




 ★ 「馬車馬の前のニンジン」の富や名誉などのはかないものに目を向けず、
 ☆ それが 律法主義です。オシエを信じる偶像崇拝です。

 では どうするか。ニンジンも富も名誉もその他その他はかないものをも すべて 利活用すればよいのです。一人ひとりがそれぞれ我れに還り わたしがわたしである生活を互いに送ることが出来るように 共同自治して行く。その過程で 利活用しましょう。

 さもなければ 視野が狭い。神とその信仰に恃むのではなく おのれの人間としての知性や矜持やあるいはけっきょくプライドのたぐいのものを 神のめぐみよりも後生大事にしている。むろんそれも自由ですが 境地が狭いでしょうね。

投稿日時 - 2015-03-07 12:17:10

お礼

 取り急ぎしたためます。


 《自由意志(または 理性ないし思考)とめぐみ(自由意志ないし人間を超えているもの)》との照らし合わせは ひとつの主題です。



 宗教は オシエです。オシエは 《理性ないし思考》の問題です。《めぐみ》によって――ヒラメキをとおして――得たのでしょうが 言葉にして表現された段階では 《信じる》ものではなく《考える》ものに成り切っています。観念を信じてはなりません。補助線を神本体として信じることになります。

 だからキリスト教の《教》というのは 宗教としては・つまり信仰の成れの果てとしては そう言わざるを得ないとしても 信仰にとってはマチガイです。(アウグスティヌスも 目に見える教会つまり組織にもとづいて 信仰を説明しました。マチガイです。目に見えない教会――ふつうの共生としての共同体――ならいいでしょう)。



 ★ イエスが言ったように、「もっとも小さい人にしてくれたことは、私にしてくれたことである。」のように、困っている人に愛という行為を示す。
 ☆ これが オシエです。わたしたちは オシエを守るのでなく――ましてや信じるのではなく―― 神を心に受け容れ そこに成った信仰の動態として生きる。そこにあたかもオシエとして表わされた内容のことを思惟していたり行動していたりする。と知る。のです。前もってオシエを規範として行動するのではありません。


 倫理規範や道徳律などというものは くそくらえです。

 
 へんなところで切り上げますが 昼ごろまで土曜日の朝は 出かけます。

投稿日時 - 2015-03-07 09:10:59

ANo.15

「イエスの場合と ほかのわれわれの場合とで違うと言っています」←んっ!?・・

何処が違うの!?・・・神は どんな事も差別しませんよ・・

だから 同じ形でイエスを送り込んだのですよ・・・

イエスだけ違うのなら もっと十字架に架からないで済む様に その当時の偶像と同じ格好で現れてたら 誰もがイエスをキリストだと信じた筈です・・・

もっと 勉強しましょう・・脳で無く 心で・・・

投稿日時 - 2015-03-07 07:17:29

お礼

 もしイエスが キリストとして神でもある存在でなかったら 罪もないのにハリツケになり それでもたとえばローマ総督やユダヤの最高法院の議員たちを憎まなかった。それは 人間としてけなげなことだ あぁ 立派な人だったなぁ。でおしまいです。そこまでは たたえられますが それで おしまいです。

 人間のからだが 聖霊のやどる神の神殿であるとは 言われなかった。言っても 人びとは信じなかった。


 あるいは もし神であるだけであって人間でなかったなら 十字架じょうにあるとき ローマ兵士らから おい おまえ チカラのある神の子ならそこから降りて来たらどうだと言われて 仮りにじっさいに降りて行ったらどうなるか?

 奇蹟が何だと言うんだ それは ただ神だから出来たことだ。でおしまいとなります。話が つながらない。人びとが部分的にであれ神の子となる資格を与えられるといった話も 半分眉唾ものとなってしまう。





 以上の全体――人間であり同時に神である――そういうかたち あえて言えば神を指し示すための手段 これが使われている。


 神の霊を分有するだけの人間には これは 出来ないことなのです。
 なぜなら イエスが十字架上に去って行ったからこそ イエス・キリストなる神の背面が 人びとに見られるようになったのだからです。同じことを ふつうの人がやろうったって 出来っこない。




 ★ 何処が違うの!?・・・神は どんな事も差別しませんよ・・
 ☆ 以上の事情は 神と人とが絶対的に隔たっているということを言ったまでです。

 人間については 人間であるイエスについてもほかの人間についても みな同じです。
 神キリストは 同時に存在することであっても 別です。

 別であるにもかかわらず 聖霊は 人びとにそれぞれ普通にかつ平等にやって来ています。



 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-07 07:48:03

ANo.14

マリアはある古代人の末裔であり、彼を誕生させるために選ばれた女性であったといわれています。

投稿日時 - 2015-03-07 03:08:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 《女性》ということは 人間ですね。


 ありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-07 07:30:14

ANo.13

bragelonneさん こんばんは。

私には、現在のbragelonneさんの学説はかなり脱線して、キリスト教からは猛反発を食らうと思います。

私の私見ですが、もしマリアとヨセフが性交して、イエスが生まれたなら、十字架の後に墓場に人間たるイエスの遺体が残っててもいいと思います。

キリスト教を信じない人には、聖書は非科学的な話ばかりで、湖を歩いたり、死者をよみがえらせたり、5つのパンと2匹の魚から5千人もの人に食事をあたえたりという、しるし(奇跡)の羅列です。

しかし、キリスト教の要諦は、イエスがキリストであって死んだ後、復活したという非科学的な奇跡を信じることにあります。十字架の後、復活せず、ただの人間として死んだなら、イエスはただのイエスでキリストである神の子ではなく、宗教となるような信仰は生まれなかったと私は思います。

聖書の中で、哲学的といわれるヨハネの福音書1章ををもう一度読み直してみてください、言葉(ロゴス)が肉となったとあります。み言葉が肉となったのです。

ロゴスはギリシア時代まで遡るとヘラクレイトスによって「比率・言葉・理性・理法」という意味で語られますが、キリストと同じくらいの年代に生きたと思われる、ユダヤ教のアレクサンドリアのフィロン(B.C.20~A.D.45)によるとロゴスを「神の精神・思想」として、神と世界を媒介するロゴスがあってロゴスを原型とする人間の魂は体という牢獄につながれていて、そのため体は霊魂の墓場であり、ロゴスを介して神と一体になるという世界観を打ち立ててます。

bragelonne哲学の思想に大きな影響を与えた、アウグスティヌスの「告白録」の8巻を読み直してみてください。アウグスティヌスは生命体は魂と肉体(骨とまで言ってます)からなるとして、bragelonneさんのよく振りかざす「自由意志」を再考してもらいたいですが、アウグスティヌスに言わせると「神の意志」と「人間の意志」。人間において「掟の意志」と「肉の意志」のふたつの意志が対立していて、そのような状態では「自由」はなく「隷属」しかない。神に従おうとする意志が、あるところに「自由」生まれ「救い」となると説いてます。

ちなみにアウグスティヌスの訳において「魂」と訳されているのはラテン語の「アニマ anima」であり、これを考えるとアリストテレスの「霊魂論 デ・アニマ」を思いつくと思います。

アリストテレスの言わんとする魂はギリシャ語の「プシュケー」として生物に命を与えるものとして、その後長らく動物精気として、追及されました。また、ギリシャ語の「プネウマ」という言葉も霊魂の意味をして、これは風や空気という意味にも訳されますが、キリスト教では聖霊です。

もしかしたら、現在、科学において追求されている、宇宙の中の未発見物質「ダークマター(暗黒物質)」に生命の源となるプシュケーが含まれているかもしれませんよ。科学的に分かってないので仮説を立てることは自由です。

では、お礼にてご見解をお願いします。

投稿日時 - 2015-03-06 22:26:03

お礼

 やあやあやあ。ご回答をありがとうございます。


 ★ 私には、現在のbragelonneさんの学説はかなり脱線して、キリスト教からは猛反発を食らうと思います。
 ☆ そんなことを 今頃言ってんですか? 

 【Q:キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6981757.html
 【Q:イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7023399.html


 キリスト教会から 批判を受けてみたいものです。


 ★ 私の私見ですが、もしマリアとヨセフが性交して、イエスが生まれたなら、十字架の後に墓場に人間たるイエスの遺体が残っててもいいと思います。
 ☆ これは――遺体が墓場から消えたというのは―― 復活に関係するものと思います。
 《復活》については いづれおとづれると見ますが そのことについていま説明せよと言われても 困る部分があります。

 いまは いまの人間が 百歳平均だとすれば その倍の二百歳を平均で生きるようになるとき 復活が実現したのだと言っています。
 《霊のからだ》というようなことも 分かりません。
 死後の天国は関係ないとは見ます。



 ★ キリスト教を信じない人
 ☆ この表現はいただけません。一般にはジョウシキになっていますが ひとは《おしえ》を信じるのではありません。それは 《考える》です。信じる(無条件に受け容れる)のは 非知なる神であり ほかにはありません。

 あるいはつまり オシエは 神本体の依り代です。神という正解を知ろうとするための補助線です。
 依り代や補助線を信じるのではありません。もしそうなら それこそイワシノアタマ教が成立します。




 ★ 聖書の中で、哲学的といわれるヨハネの福音書1章ををもう一度読み直してみてください、言葉(ロゴス)が肉となったとあります。み言葉が肉となったのです。
 ☆☆(趣旨説明欄) (い) マリアは 許婚のヨセフとの性交によってイエスを身ごもり生んだと同時に 神なる聖霊によっても身ごもったと言われる。



 ★ 体は霊魂の墓場であり
 ☆ これは 摂りません。天地創造のものがたりにおいて 神は創ったものをみて みな《よし》と言っています。むろん 人間のからだにしても よし なのです。どこが 墓場ぢゃ? 誰が墓場と言うたんぢゃい?




 ★ 人間において「掟の意志」と「肉の意志」のふたつの意志が対立していて
 ☆ これは 思考の緑野と感性の原野とを言っています。これらを超えることが 問題です。

 『自由意志と恩恵』を読んでください。
 アウグスティヌスは 何とかして人間の意志自由を擁護しようとしたが 神の恩恵には勝てなかったと言っています(これは 『再考録』に書いています)
 《シンプリキアヌスへ》という小論文のほうがよいかも知れません。短く簡潔です。神のめぐみと人間の自由意志との関係について考察しています。




 あとは 経験事象と非経験の場の区別です。

 

投稿日時 - 2015-03-06 22:54:33

ANo.12

面白いね・・・人間は「神の子」・・それなら人間の目的も神の目的も一緒・・・

そんな事も解からないの・・!?

投稿日時 - 2015-03-06 21:13:32

お礼

 《神の子》については No.1のお礼欄で こちらの思っている概念を説明しました。

 イエスの場合と ほかのわれわれの場合とで違うと言っています。


 ★ 神の目的
 ☆ については それにまつわることをわたしは触れるようにして言ったことがあるので 気が引けますが でもこの《神の目的》という主題や概念で語ったことはないですよ。

 神のこころは これこれこうだとか言っていますので ほとんど同じではないかと言われるでしょうが どこか視点などが違うのではないかとは思います。


 とは言いましたが よく読んでみると
 ★ そんな事も解からないの・・!?
 ☆ というその《そんな事》というのは よく読み取れないとも考えられます。つまり それには《神の子》をどう捉えているかにも関係して来るでしょう。


 というお応えになりますが?


 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-06 21:51:19

ANo.11

「どこか別の質問とまちがえているのではありませんか?」←間違ってません・・あなたに言ってるのです・・

それが 神の目的だし 次世代人類の為に こんなゴミ環境の日本を現在生きてる人間が綺麗にして渡す事が必要・・

其処まで考えれない人は 神に近づいて無いだけです・・

投稿日時 - 2015-03-06 20:13:10

お礼

 ですから 
 ★ 神の目的
 ☆ をどうして人間が決めつけるのですか? これこれだと言って。


 そういう問題です。どの神も みな同じひとつだという神論は。


 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-06 20:24:01

ANo.10

論理的に考えれば病人の独り言であり、神について空論を投稿しているに過ぎない。
アルケーとか言っているキチガイと同種なのはよく分かりました。

投稿日時 - 2015-03-06 18:53:30

お礼

 《同種》だと理解する能力はあるのですか。



 ご苦労さまでした。

投稿日時 - 2015-03-06 20:01:20

そうですね(#^.^#)・・

まっ どの道 地球環境が良くなれば良いのだから あなたも地球環境を良くする為に ポイ捨てゴミの一つでも拾って 地球を綺麗にしましょう・・・

次世代に させる事の無い様に・・

じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ

投稿日時 - 2015-03-06 18:31:26

お礼

 どこか別の質問とまちがえているのではありませんか?



 ご投稿を それでも ありがとう。

投稿日時 - 2015-03-06 20:00:28

言い忘れてた・・・同体化した心は 神の心が読めるので堕落しない様になります・・・

なので 神の思ってる理想の人間歴史 そして 地球 宇宙・・あらゆる物の為に善を中心に生きる事になります・・

これが即ち 天国世界です・・

天国とは 霊界にあるのでは無く 人間が地上で創るものなのです・・

地上に天国が出来 その天国で学んだ事を精神世界(霊界)に持っていけば 霊界も又 天国世界が出来るのです・・

投稿日時 - 2015-03-06 17:50:41

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 神の心が読める
 ☆ こういうことは 主観の問題です。主観の外へは出かけられません。

 出かけたなら 普遍性が問われます。無理です。その主観を共同化することは。

 共有したと思っている場合というのは 《神とか その心とか》を人間の言葉に直して語っているその内容だけでしかありません。つまりはそれは 人間の思惟や想像やの観念の問題になります。それでしかありません。


 主観の内においては 神そのもの――の心における受け容れ――であるかも知れませんが 主観の外に出かけるなら その瞬間にただの観念になってしまいます。

 もしただの観念ではなく 神そのものだったとしたら 神はそこかしこに 人びとのいる数だけ存在していることになります。





 ですから いまのあたらしい世界というのは:
 ★ なので 神の思ってる理想の人間歴史 そして 地球 宇宙・・あらゆる物の為に善を中心に生きる事になります・・
 ☆ というふうにわざわざ神を持ち出して議論をすすめるなら それは その人の哲学の不毛性を語っているだけのこと。になります。そういう時代に入っているのです。

 神を持ち出して語らなければ おのれの思いや考えを表現し得ないとすれば それだけ神依存症であるということになります。

投稿日時 - 2015-03-06 18:10:59

駄目ですか(#^.^#)子供とは 親のDNAを全て受け継ぎます・・

そして肉体から精神に流れる要素(生力要素)に拠り 心も又 DNAに該当するものが送り込まれます・・

それを 神は知ってたので「善悪知る木の実だけは食べるな」と忠告したのです・・

あくまでも忠告です・・これは人間とは間接主管圏の間は自由意思で 神の心に反しても良い様になってるから・・

そして 心が成長し 直接主管圏に達すると 神は人間の心と同体化します・・

まっ とりあえず此処まで・・

投稿日時 - 2015-03-06 17:35:09

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 考え方の違いを浮かび上がらせるように応答します。:
 ★ あくまでも忠告です・・これは人間とは間接主管圏の間は自由意思で 神の心に反しても良い様になってるから・・
 ☆ キリスト・イエスの登場したあとの世界にあっては 《神は――少なくともその旧約時代と言いますかユダヤの民にのみかかわっていた時代と言いますかの世界とは違って―― わたし(=神自身)を知れと言って オシエを説くということからは〈足を洗った〉》のです。(エレミヤ書31:31以降のくだり)。


 ですから――神の自己揚棄という出来事について言っているのですが―― 《自由意思で 神の心に反しても良い様になってる》時代から《そうなっていない》時代へと変わったとかいうことはありません。《良心のハタラキ〔としてのヤマシサ反応〕》のことを いちいち神のことにかこつけて説いたりおしえたりすることは無くなったのです。


 これこれが神の嘉するところであるといった理念や倫理規範などなどは――つまりそれらを 神を持ち出して説きおしえることは――いっさいなくなったのです。

 あらゆる神は イエスの指し示した神と同一であることが分かったからです。
 そして イエスのイもキリストのキも もう言わなくなる時代に入ります。そうイエスが言ったのです。


 ★ そして 心が成長し 直接主管圏に達すると 神は人間の心と同体化します・・
 ☆ こういう《神の時代》は ナンセンスになる世界へ入っているのです。

投稿日時 - 2015-03-06 17:47:37

とりあえず一つだけ・・・

アダムの家庭は堕落した家庭に拠り子供達カイン アベルも 親の血縁を受け継ぎ 産まれた時から 既に堕落の心があったのです・・

なので アダムの堕落前の状態まで 戻る事が出来た人間が 其処からアダムの様に堕落せずに家庭を築き 子孫を残せば 神の理想の人間の歴史が刻まれます・・

然し乍ら 世界的に堕落した人類を滅ぼし 堕落前に戻すよりも 全人類が一緒にアダムの堕落前の人間になれば良いだけ・・・

それならばキリスト一人が まずはアダムの堕落前の状態に戻り その戻り方を全人類に伝えれば良いだけになります・・

しかし イエスは自分の結婚相手も取れず 子孫も残す事は出来なかった・・

そうなると キリストとしての役目は他に回さないとアダムの堕落前の家庭なんか作れない・・

それで 再臨のキリストが必要なのです・・・

再臨主が アダム堕落以前に戻り 家庭を築けば その家庭が 本来 神が願ってた家庭・・

後はその家庭の子孫を増やすだけで良いのですが 上記した様に 世界の人類にも同じ様にアダム堕落前に戻れば良いだけ・・・

なので 再臨主が通った道を辿れば 全人類がアダム堕落以前にまで戻れる・・という事・・・


既に それは 伝わっています・・後は 一人一人が 何時 それを知り 実行するかだけ・・

投稿日時 - 2015-03-06 16:29:06

お礼

 アダムとエワの物語についての解釈で根本的に違いがあるようです。


 ご回答をありがとうございます。


 ★ [・・・]なので アダムの堕落前の状態まで 戻る事が出来た人間が 其処からアダムの様に堕落せずに家庭を築き 子孫を残せば 神の理想の人間の歴史が刻まれます・・
 ☆ (1) エワそしてアダムは おのれの良心にさからう思惟を持ちこれを行動に表わしました。

 (2) けれども これは もともとそういう自由意志の持つ自由度として人間の自然本性を表わしているに過ぎません。内容は 例外なく一般性の問題です。

 (3) おのれの心にさからうことをも自由とする意志自由です。これは 泣いても笑っても誰もが受け容れざるを得ない人間の天与の条件です。

 (4) ただし確かに 良心にさからうことは おのづから身と心にヤマシサ反応を起こすことであり そうであるように 一般的に言ってよいことではありません。

 (5) けれども 推論を端折りますが イエス・キリストの歴史への登場によって その《堕落》とも呼ばれ《原罪》とも言って咎められるその自由のむさぼり(乱用)については あたかも《池に落ちて水に濡れても水に濡れずに上がって来る》かのごとく 何でもなかった。ということになっています。(これはたとえばへブル書8章に エレミヤ書31:31以降のくだりを引いて議論されています)。

 (6) ここに到れば 《堕落する・しない》とか《神の理想とする人間のあり方うんぬん》だとかについては どうでもよろしい。というのが この質問についても十分かかわっているところの《神が自己を揚棄しちゃった》という問題なのです。



 ★ 再臨主が アダム堕落以前に戻り 家庭を築けば
 ★ 後はその家庭の子孫を増やすだけで良いのですが
 ☆ このように《うまれ》によって人を判定し規定する考え方は いただけません。ダメです。

 《血筋によって 神の子となる資格を得たのではない》のです。(ヨハネ福音 1章)。






 そちらには 聖書における根拠の提示がないですね。


 

投稿日時 - 2015-03-06 17:11:36

「イエスはヨセフとマリアとの子であり神の子でもある」←これだけの事ならyesキリスト(笑)


他も考えるなら「イエスか ノアか はっきり モーセ」(笑)なーんちって(笑)

投稿日時 - 2015-03-06 14:42:15

お礼

 (あ)と(い)とについて 見解を同じくするというご回答でしょうか。


 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。

 そこから では どういうことが じんるいの歴史にの上で出て来るか? どういうことが言えるか? その行方にも注目したいと思います。

投稿日時 - 2015-03-06 15:21:22

ANo.4

3番の回答者さんの考え方に同意するところがあります。
宗教は世界各地に様々に存在しますが、日本の神道は異質です。

神を敬い崇めなさいとは言いません。神の偶像は皆が作り上げたもの。特に土着の神はそうです。

神は2人います。神社に祀っている共通の神。あと一人は、私たち各々の心(脳)に住む神です。
ですから私の神と貴方の神は異なった神です。

人は心の闇を極端に怖れ、そこから逃れるために、己を救ってくれる神を其々が創ったのです。

日本の神は、宇宙でもあり、各々の個でもあります。

神がいるかどうか、信じるや否やは、其々の私たち個人の問題だと思います。

投稿日時 - 2015-03-06 14:40:03

お礼

 ★ 神がいるかどうか、信じるや否やは、其々の私たち個人の問題だと思います。
 ☆ これは 質問の趣旨としての《イエスが人間であり神である》主題を考えた上で――または 並行して考えたところに照らし合わせて―― 得られて来るひとつの結論であると考えます。

 ご回答をありがとうございます。


 というより こうです。

 1. 神がいてもいなくても 《神》という言葉はどこでも持たれて使われている。

 2. その神に対して いると言おうがいないと言おうが どちらにしても 神〔という言葉〕とカカハリを持っている。

 3. これを言いかえると 神を信じているのも信じていないのも 神とのカカハリは つねにある。

 4. そのあとで 個人が どの神を自分の神としてえらぼうと 無い神を選ぼうと すべて自由である。こうなるはずです。

 5. つまり こういう一つの結論(命題)を人びとが得たのは イエスの登場がかかわっている。――こういう趣旨であり 問い求めです。

 6. もし
 ★ 人は心の闇を極端に怖れ、そこから逃れるために、己を救ってくれる神を其々が創ったのです。
 ☆ であるならば 光の国に出て来るならば その作り物の神は要りません。そういう要ったり要らなかったする神は 問題にしていません。それこそ自由勝手ですから 他人がああだこうだと言っても話が始まりません。

 7. 神社に祀っていようといなかろうと 人びとに共通の神 この神のことを問うています。

投稿日時 - 2015-03-06 15:18:18

頭で考えてては 神は絶対に判らない・・・

心で考えて下さいね・・

そうすれば 全て解かるので・・・

投稿日時 - 2015-03-06 13:19:39

お礼

 ええっとですね。まづは ご回答をありがとうございます。


 この問いはですね すでにたたき台を提出しています。それについて どう考えるか。これを回答としてのぞんでいます。

 どうでしょう。

投稿日時 - 2015-03-06 14:11:34

ANo.2

宗教的なことはよく分かりませんが、マリアとヨセフの性交なしに、神の光を浴びてマリアはイエスを身籠った、となっています。

昔、ある男性がきゅうにお腹が痛くなって、病院で調べたら男のお腹の中に赤ちゃんが。本来双生児として生まれるはずだったとか?
外国のことで信憑性に問題がありますが、可能性がゼロとは言えません。解明できていない事が山ほどありますから。

または、時の王にレイプされて身籠った可能性も。

投稿日時 - 2015-03-06 10:35:16

お礼

 ゆき0421さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ★ マリアとヨセフの性交なしに、神の光を浴びてマリアはイエスを身籠った、となっています。
 ☆ ええ。そうですね。そして そのほかのことは書いてありません。たぶん マリアとヨセフとが結ばれたということを言ってはいけないと見られるような文章の調子だと思います。

 それで 解釈として 趣旨説明欄に書いたようなことを質問しています。



 ★ または、時の王にレイプされて身籠った可能性も。
 ☆ これは 両性の人間から生まれたということでは ヨセフの場合と同じことになりますね。という見方をします。



 ★ 解明できていない事が山ほどありますから。
 ☆ という問題ですが おそらくこれは 処女懐胎が現実かどうか問うことを言っているものと思います。

 ということは すでにこの質問の趣旨(たたき台)としては 人間による精子と卵子との結合という一面とそしてもう一面としての 処女懐胎=すなわち聖霊による身ごもり が同時に起きた〔という物語である〕ということを問うています。

 もしさらに一歩踏み込めるようでしたら つづいてのご回答をお寄せください。
 

投稿日時 - 2015-03-06 11:24:25

「神の子」とは 全人類の事を指すのです・・

万物と人間の決定的な違いが たった一つだけあるのです・・・

投稿日時 - 2015-03-06 10:13:07

お礼

 ぴんぐずさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 趣旨説明で叩いた大口について 情報の持てるかぎり説明してまいります。


 ★ 「神の子」とは 全人類の事を指すのです・・
 ☆ ええっとですね。この《神の子》というときには ふたつの意味に分かれると思います。

 ひとつは イエスが人間であると同時に みづからも神であるという意味において神の子であると言う場合です。
 これは 言いかえると 父なる神と子なる神とは 同等であり一体であるという意味になるはずです。

 もうひとつは このイエスが指し示した神は ほかの名前の神とひとしいと言っているわけですから 神という神を心に受け容れている人にとっては――と言っても受け容れていないという形で受け容れた《無神論》の場合をもふくむことになるのですが したがってすべての人にとって―― 〔イエスが指し示した神は〕すべての人類の親であることになります。

 すなわち おおせの通りに 全人類の一人ひとりが 神の子です。


 では 同じ言葉で言っているが どう違うのか?

 イエスはキリストとして 完全な普通の人間であると同時に 完全に神である。
 われわれ人間が 生まれついた自然本性のもとに人間であると同時に――物語の上で・理論じょう――それぞれが神の子であるというのは おそらく神の聖霊をやどしていることだと見ます。それも おそらく完全にではなく 部分的にではないかと考えられます。

 人間はそれぞれ神の霊を分有している。




 ★ 万物と人間の決定的な違いが たった一つだけあるのです・・・
 ☆ 人間よりほかのものごとについては この人間が そのような万物は神の霊を受けていると見なすかたちになりますから 少し違いがあると考えます。

投稿日時 - 2015-03-06 11:14:42

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