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解決済みの質問

ヒラメキとは 天使のことかなぁ。

 この質問は

 【Q:ヒラメキは どこから来るのか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8930391.html

 の余滴です。


 西欧の神学で言う《天使》 これにけっきょくなるのではないかなぁ。

 どうでしょう?

投稿日時 - 2015-03-08 16:56:38

QNo.8931714

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 #17です。ありがとうございます。佐藤公一さんのPDFはダウンロードしました。こういうのはけっこう好物です(^^)。

 次にまず補足というか、お詫びです。前回の私の回答の、

>>渦動理論は《デカルト力学》なんですよ。・・・これらを論証出来たのは、約50年後のニュートンだけです。

は、自分の妄想です。ニュートンはホイヘンスの事も当然知ってましたので、もしニュートンがこう考えていたら筋は通るよなぁ~と思っていた事を、調子に乗って書いちゃいました。従って、

>>・・・しかし間違いなりにもデカルトが、定性的には惑星運動の傾向と、「斥力としての」重力を説明できたのには、後から見ればそんな裏事情があります。

は明らかに言い過ぎです。デカルトの線運動量はベクトルではないので、渦動論でデカルトが行ったのは流量保存則に似た定性的な論証です。流体力学の流量保存則は、質量輸送法則といってもそんなに間違いではありません(質量はベクトルでないスカラーという意味です)。イメージは沸くでしょうか?(^^;)。


 本題です。このまま行ってしまって良いのか?という疑問がわいたので、これをUPします。

 このUPまで色々書きましたが、デカルトを凄いとは言ったかも知れませんが、デカルトが正しいとは一回も言っていないはずです。凄いとは、「良くもまぁ~ここまで考えたものね。ただし内容は別として・・・」という事です。

 自分もあなたと同じように、「デカルトはそんなに大した事言ってないじゃない」という印象が出発点でした。にも関わらず、あんなに影響力を持ったのはどうしてだ?と、デカルトの事を調べ出しました。ただし哲学,人文系成果は自分の埒外です。物理理論への貢献だけに興味がありました。その結果、彼は人気者になれるだけの要素をかなり持っていたのだ、という事がわかりました。それがこのUPに至るまでに書いてきた事です。デカルト理論の正否とは無関係な話をしてきた、と個人的には思っています。


 以上の断り書きは了承されたと仮定し、PDFに関して書きます。書きますが現時点の状況では余り突っ込んでも仕方ないと思えますので、次にとどめます。

 何でもかんでも知っていたというつもりはないですが、PDFの内容くらいの事は過去に調べてお応えしています。デカルトの運動量保存則は確かに間違い(不十分)ですが、その概念はそれでも後世に大きな影響を与えました。

 ライプニッツの批判はもっともですが、ライプニッツのモナド論にだって、デカルトと同じくらいに受け入れ難いところはあります。


 同じ仮定のもとに、前回のお礼に関して書きます。

>私たちが今日、運動量保存則として知っているものは、デカルトのそれではなく、ホイヘンスの運動量保存則のもののようですね。
 大学の物理学の先生なども、結構、間違って覚えているらしい。
 そして、「デカルトが運動量保存則を発見した」と大々的に宣伝している。

 ・・・知ってました。というか、それくらいデカルトは影響力を持っちゃったんですよ・・・(^^;)。

>デカルト大先生の運動量は、「大きさと方向を持ったベクトルでなく、大きさだけを持つスカラーであるというような」というそんな可愛いレベルの間違いではなく、致命的な間違いを犯している。

 ・・・そうなんですが、それでも大先生の運動量は流行ってしまった・・・(^^;)。

>デカルト先生、どうやら、物質の衝突の実験をして、自身の説が正しいかどうかの確認をしていない。
 アリストテレスとあまり変わっていない。
 科学的実証精神が欠如している(笑)。

 だからそう言ったじゃないですか(#16)。「デカルトの渦動理論が現実と合わないのは随所に指摘されていたにも関わらず、ニュートン理論が事実の説明において着々と成功を納めていたにも関わらず」、大先生以外の説明方式を、いっさい認めなかったデカルト派には、大先生の欠陥がそのまま引き継がれています。

>・・・あなたは「デカルトって、そんなに偉い人だったのかなあ」と言いましたが、偉い人だったのです。

 ここまで来ると「偉い」の意味が微妙ですよね。内容の正否を根拠に、それも現在の理論基準に照らしてデカルトを判断するなら、全く偉くないです。

 でも別の評価基準もあります。例えば「言いだしっぺとしての偉さ」です。フランス啓蒙主義の百科全書派の百科全書の中に、次の趣旨のような一文があるそうです。

  ・デカルトは確かに間違っていた。しかし当時としては最良のものを彼は造った。それだけは認めよう.

 上記意見に、自分は賛成なんですよ。

投稿日時 - 2015-03-16 20:22:54

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  でも別の評価基準もあります。例えば「言いだしっぺとしての偉さ」です。フランス啓蒙主義の百科全書派の百科全書の中に、次の趣旨のような一文があるそうです。

  ・デカルトは確かに間違っていた。しかし当時としては最良のものを彼は造った。それだけは認めよう.

 上記意見に、自分は賛成なんですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 詳しくは分からないながら 納得の行く見方ではないかと思いました。 
 《何ごとも最初がむつかしい》という感慨を交えた見方です。この点には 敬意を表さねばならないとは ――デカルトとは別にですが――前々から思って来ましたから。

 すっきりしました。ありがとうございます。




 いまひとつお聞きしておきたいということがあるとしたら それは今回に触れておられないアリストテレス関連です。

 ちょうど直前のNo.18・あめんほてぷさんとのやり取りで はなはだ非自然科学的な考えではありますが アウグスティヌスのアリストテレス批判を載せました。

 大地と天空とのあいだの四層とそしてさらにその上の五番目の天の問題。
 五番目の天なる視点から見れば あとの四つの層はみな一様・無差別として見ることが出来るのではないか。こういう批判点・論点です。

 つまり コギトについて アウグスティヌスからその《あやまつ(欺かれる)なら われあり》なる命題を焼き直してそれを得た(cf. No.8補足欄)のなら このアリストテレス批評についても《活用・応用》すればよかったのにと言えると思うのですが どうでしょうかねぇ。





 つまり全体として言って:
 デカルトについては 果敢にフロンティアを開拓した功績がある。
 ただし デカルトあるゆえに ニュートンがあり得たと言うところまでには行かない。
 塀の向こうに落ちて行くことはなく ニュートンの側・こちら側に戻って来る。


 
 総評・総括をどうぞ。

 なお やはり直前の回答のなかであめんほてぷさんが アリストテレス関連でその《目的論・目的意識ということ》について でーでーてーさんはどうお考えですかと尋ねておられますよ。

投稿日時 - 2015-03-16 21:01:39

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回答(20)

ANo.20

bragelonneさん こんばんは。

私が読んだ本の著者が正しい考え、また現在における定説なのかわかりませんが、私が調べた限りにおけるアリストテレスについての情報提供として回答します。

私はアウグスティヌスの「神の国」は読んだことがなく、読書候補とさせていただきますが、アリストテレスの思想をローマ圏である中世ラテン世界に持ち込んだのは、フランス人の初期スコラ学者のアベラール(A.D.1079~1142)であり、それまでは、ギリシアのアリストテレスの思想は、ササン朝ペルシャのシリア語やイスラム帝国のアラビア語を経て、やっとラテン語圏に持ち込まれたようです。

また、アベラールはアリストテレスの「デ・アニマ(霊魂論)」に基づき持説を展開したそうですが、それはアリストテレスの原書ではなく、新プラトン主義化されたアリストテレスの文献だったそうです。

アウグスティヌスは北アフリカのダガステでA.D.354年に生まれ、元々はマニ教徒であったので、アリストテレスの文献にふれる機会はあった可能性はありますが、アリストテレスの考えが西洋に持ち込まれたのは12世紀の翻訳の時代と呼ばれる時期が定説のようです。

また、アリストテレスはエンペドクレス(B.C.500頃~B.C.430頃)の4元素説(土・水・気・火)の思想を受け継ぎ、これに4大性質(熱・冷・湿・乾)と組み合わせ、元素が他のものに変化すると考えたようですが、なぜ4という数字にこだわったかというと、古代ギリシアにおけるピュタゴラス教団において、完全数が4であるからという説を唱えている本がありました。

ですから、アリストテレスは宇宙観においても4という数字にこだわっているかもしれませんし、中世のキリスト教の世界において、そのような4という数字が意味を持たなくなり、デカルトは自由に宇宙観を考えることが出来たかもしれないと私は考察いたしますがいかがでしょう。

お礼をお待ちいたしますが、疲れ止めの栄養ドリンクが切れたので寝ます。おやすみなさい。

投稿日時 - 2015-03-16 21:59:08

補足

 ▲ (ヰキペ:中世哲学) ~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%93%B2%E5%AD%A6#cite_ref-11


 § 2 歴史
 § 2.1 中世初期のキリスト教哲学

 初期のキリスト教徒は、特に教父時代には、直観的・神秘的で、理性や論理的議論に基づかずに考える傾向があった。また、時に神秘的なプラトンの教義を重視し、体系的なアリストテレスの思想をあまり重視しなかった。

 アリストテレスの著作の多くはこの時期西方では知られていなかった。学者たちはアリストテレスの『範疇論』、論理学関係の作品である『命題論』、そしてアリストテレスの範疇論の注釈書であるポルピュリオスの『エイサゴーゲー』などに基づいて議論していた(いずれもボエティウスによって翻訳された)。

 ▲ (ヰキぺ:アリストテレス~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9

 § 2 思想
 § 2.2 自然学(第二哲学)

 プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実や感覚に根ざしたものとなっている。

 アリストテレスの宇宙論は同心円状の階層構造として論じられている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星等が、それぞれ各層を構成している。

 これらの天体は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール」(エーテル)から構成される。
 そして、「アイテール」から成るがゆえに、これらの天体は天球上を永遠に円運動しているとした。
 さらに、最外層には「不動の動者」である世界全体の「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因であるとした。(続く『形而上学』(自然学の後の書)においては、アリストテレスはこれを「神」とも呼んでいる。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ★ 目的論
 ☆ にかんしては 簡単に捉えるなら 生きることについて目的を殊更に見てそれを言おうとし意識しようとするかどうかだけのことだと考えます。

 ただし殊更に〔一般に存在すること ないし具体的に細かい事柄にもかかわったところの〕生きることの目的に触れるとなると 往々にしてけっきょく極めての極端に振れるおそれがあるのだと見ます。

 そうして社会が 意識を前面に推し出すかどうかで ふたつの類型に分かれるようです。

 一方では 意識に殊更こだわらない場合 世の中は《情感の共同性の存続――その破綻と統合の過程――》を基礎として何らかの起動力がはたらくというかたちではないか。

 他方では すでに社会が《意識の――特には階級としての――対立とその弁証法的な発展の過程》をあゆんでいるという場合です。

 もし対立関係からものごとを出発させることが ナラハシに成っているなら それは《目的論・目的意識》がやはりあたかも先行して用いられていることを意味するのだと思います。




 ただし パスカルは 幾何学の精神と繊細の精神とのふたつをみちびき出しました。両方の社会情況の型を視野におさめていると考えます。

 弁証法的な進展を 情感の共同性の内に包み込んで 社会のすすむ方向を打ち出して行くことができるか。繊細の精神のはたらくところにもとづき。

 あるいは 情感の共同性は 小さなコミュニティーに生きていたとしても社会全体のこととなれば 意識の差し出す目的ないし主義主張のたしかにやはり対立とその結着が 問題とならざるを得ない。というような幾何学的構成を社会のつねとせざるを得ないものなのか。


 韓国社会は どちらの精神についてもそのわるいところだけを極端なまでに摂りこんでいるように思われます。阿呆としか言いようがないと思います。そう言ってやって初めて内に省みることでしょう。

投稿日時 - 2015-03-17 13:03:21

お礼

 ▼ (アウグスティヌス:魂におこる情欲についての逍遥派およびストア派の見解) ~~~~
 ギリシャ人たちが 《パテー(パトス)》と呼ぶこれら魂の動き(激情)について 哲学者たちの間に二通りの見解がある。

 あるラテン作家 例えばキケロのような人は 《ペルトゥルバティオ》と呼び またある人々は《アクティオ》ないし《アフェクトゥス》 あるいはアプレイウスのように ギリシャ語をそのまま移してより明瞭に《パッシオ》と呼んでいる。[・・・]

 彼らが考えているこうした見解は プラトン派の見解であり また アリストテレス派の見解でもある。というのも 逍遥派(ペリパテティクス)を創設したアリストテレスはプラトンの弟子であったからである。しかしながら 他の哲学者たち 例えばストア派にとっては こうした種類の感情(パッシオ)は知者の場合には決しておこることは許されないのである。[・・・]
 
 (アウグスティヌス:神の国 茂泉昭男訳 『アウグスティヌス著作集』12 1982)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 数字のごろ合わせは じつはアウグスティヌスはよくやるのですが そういうところはわたしはパスしています。

 ピュタゴラスの好きな数字は 10ではなかったですか? テトラチュクスとか言う正三角形の図形がそれで 底辺には 四つのものが並んでいるかたちですよね。どこから見ても 正三角形であり ○の数は合わせて 10になるようです。

      ○
     ○ ○
    ○ ○ ○
   ○ ○ ○ ○

 


 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-16 22:22:04

ANo.18

bragelonneさん おはようございます。

春なので春眠暁を覚えずで眠いです。冬場に溜まった疲れが出ているようで、哲学カテで回答する気力がないので、回答を控えてましたが、議論が過熱しているようなので、回答します。少々、投稿の質問のヒタメキから外れるかもしれません。

科学というものは、西洋で生まれ、明治時代に日本に移植されました。現在、日本において科学は、西洋において科学が確立された過程の背景にある、西洋の宗教観を考えずに、あたりまえのように行われていると思います。

現在、議論されているデカルトもケプラーもニュートンも神という存在を肯定した上で哲学や法則を提示しました。アルストテレスは、神という言葉は使わなかったと思いますが、中世においてトマス・アクィナスによりキリスト教神学としても融合され、絶大な力を持ちました。

何がいいたいかというと「目的論」というものです。

神が世界を創造したなら、創造の目的というものがあって、これは、カントにおいても、物自体は認識できないとしながらも「判断力批判」の中で、徳や幸福といった、最高善を考えると、神の創造目的は否定できないとしてます。

現在の科学においては目的論を排除するのが原則ですが、物理、化学のような無生物を科学する際は、この原則を導入しやすいですが、生物を科学すると、目的論を完全に排除できるかは、難しい問題であり、アリストテレスの目的論の呪縛は2千年をもって、生物分野には、まだ影響しているのではと感じます。

アリストテレスは「動物部分論」で、

脳は心臓内の熱を調節する目的
胃と腸は心臓をはじめとする上半身に栄養を供給する目的
四肢は身体中心部の移動する目的
肺臓は身体の冷却の目的

などとしましたが、現在の生物学の科学において間違っている考察があるにしろ、生物を目的をもったものとして考えることは、特に進化を考える際などは分かりやすい。異論、反論がある本と思いますが、50年位前に書かれた古い本ですが、ノーベル賞受賞者のモノーの「偶然と必然」の中では、生物の「合目的性」を高らかに生物の定義のひとつとして使っています。

しかし目的論を否定する生物科学者による西田幾多郎についての考察において「西田は、眼が出来たので物を見えるようになったと考えている時は科学者であったが、後年、物を見るために眼が出来たと考えるようになり、科学者をやめ哲学者となった。」と論評してます。

卵が先か、鶏が先かの独断論のようですが、bragelonneさんは、非知という言葉で、目的論を曖昧にしているように私は感じます。哲学でありどちらでもいいかもしれませんが、urugadai2013さんのような唯物論の科学的思想を持った人をbragelonne哲学を取り入れようとすると反発されるかもしれません。

bragelonneさんの意見をお礼をお待ちしつつ、ddtddtddtさんも、意識について、目的意識という考えのようですが、考察をいただければ幸いです。

質問に無理やり合わせようとすると、現在、目的論について私はヒラメキがありません(笑)。

投稿日時 - 2015-03-16 08:47:29

補足

 回答No.20での《完全数》の話題について:
 ◇ 4は完全数じゃ~ない。6がそうだ。
 ☆ というお話が 寄せられました。

 ブログ:  http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20150318   のコメント欄です。

投稿日時 - 2015-03-18 17:57:54

お礼

 アリストテレスに楯突けばよいのでしょう?

 あめんほてぷさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 さて 例によって400年前後を生きたアウグスティヌスが その少なくとも表現がふるい神学でその批判をおこなっています。そして少なくとも 近代と呼ばれる時代の夜明けにおいて反駁すべからざるアリストテレスと見なされていたということは 人びとが勝手にそうしていたのであり そうしていなかった人間がすでにひとりいたということを証明すればよいでしょう。


  ○ (アウグスティヌス:アリストテレスの天体論について) ~~~~~~
   〔* 実際には 《地上の身体は天においてはありえないというプラトン派の主張に対して》と要約される箇所です〕。

 〔1〕 あの理屈屋ども――主は彼らの思いの空しきを知りたもう――は 神のこの大いなる賜物に反対して 元素の重さについて論じ立てている。彼らはむろんそれを師のプラトンから学び知ったのであるが 宇宙の両極にある二つの大きな物体(大地と天体)が中間にある空気と水の二つの元素によって結びつけられているという。

 そこで彼らの言うところによれば 下から上へ向かって最初にあるものは土 次にあるものは水 三番目が空気 四番目が天の空気で ここには地上の物体は何ひとつありえない。なぜなら それぞれ元素が自分の重さにふさわしい場所を占めるようにと定められているからである。

 ああ 何という論拠でもって その思いの空しい弱い人間が神の全能に異議を申し立てていることだろう。
 空気は土から数えて三番目にあるが その空気のなかには多くの地上の身体があるではないか。神は地上の身体をもつ鳥どもに軽い羽と翼を与えて飛ぶのを許したのであるから この神が不死のものとなした人間の身体〔* これは《自然の身体に対する霊の身体》と呼ばれるものである〕に天の高きに住む力を与え得ないということがあろうか。

 プラトン派の主張によれば 飛ぶことのできない地上の動物――人間もその一つである――は ちょうど水の動物である魚が水のなかにいるのと同じように地上に生活しなければならないとされる。しかし 地上の動物が二番目の水のなかだけでなく 三番目の空気のなかでも生活するようになったのはどうしてであるか。土に属しているものが土の上にある二番目の元素のなかで生きるよう強制されたならばすぐに窒息してしまい かえって三番目の空気のなかで生きることができるのだが これはどうしたら理解できようか。

 そこでは元素の順序が狂っているのか。それとも 誤謬は自然界にあるのではなくて むしろプラトン派の議論にあるのか。わたしはすでに第十三巻で 重い地上の物体の多く――例えば鉛――が適当な形(* たとえば船)を与えられれば水に浮かぶことができると述べたが これを繰り返すのはやめよう。だがいったい 天に昇ってそこに住む能力を人間の身体に与えることは 全能の創造者に矛盾することなのだろうか。



 〔2〕 わたしのいま述べたことに対して 彼らは自ら確信する諸元素の秩序について思いをめぐらし 議論を組み立てるが 結局 有効な反論は見出せないでいる。なぜなら 下から上へ向かってまづ土が 次に水が 三番目に空気が 四番目に天があるのだとしても 魂の本性はこれらすべての上にあるからである。

 アリストテレスはそれを五番目の物体と呼んだ(*『天体論』四・六.さらにキケロ『アカデミカ』一・七・26 『トゥスクルム論談』一・一〇・22)が プラトンは物体とは呼ばない。五番目のものがあるとすれば それは他のすべてのものの上になければならない。しかしそれは物体ではないのだから 他のすべてをはるかに越えているであろう。

 ではそれは 地上の身体のなかでは何をするだろうか。他のどれよりも精妙なそれは この物体の塊のなかで何を働くだろうか。他のどれよりも軽いそれは この重いもののなかで何を働くだろうか。他のどれよりも速いそれは この動きのにぶいもののなかで何を働くだろうか。これほどすぐれた本性の能力によっても 自ら持つ身体を天にまで上げることはできないであろうか。現在地上の身体の本性が魂をこの地上にとどめ置くことができるのだとすれば 魂はいつかは地上の身体を上にあげることができるのではないだろうか。

 (アウグスティヌス:『神の国』第22巻 第11章 泉治典訳( 1983 ))
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 ◆(本質問【Q:ヒラメキ・・・】回答No.8) ~~~~~~~
 デカルトは[・・・]それまでのアリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていたのを地上の空間も天上の空間も、同じ一様で無差別な空間と考えることでニュートンの絶対空間の考えを先駆けてそれを地ならしした人なんです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言いますが 《五番目の〈物体〉》は《地上の四層にあるそれぞれのもの》をはるかに超えているのであるからには その視点から見れば 《地上の空間も天上の空間も 同じ一様で無差別な空間と考えること》は オチャノコサイサイだったのではないでしょうか。





 ★ 目的論
 ☆ については保留させていただきます。

投稿日時 - 2015-03-16 10:34:24

ANo.17

 #17です。

>☆ つまり すでに《望まれていた》という点です。つまり 誰もが 新しいパラダイムが欲しいと思っていた。つまり それが提唱されてもされなくても 新しい観点へと人びとは進もうとしていた。――のではないでしょうか?

 そこですか!。やっぱりやり取りしないとわからないものですねぇ~。

 そう思いますよ。そこに視点を置くなら、デカルトはほころびかけていたアリストテレス体制を、死に体にするきっかけを作っただけの人であり、ニュートンはそれに止めを刺しただけの人です。しかもあのデカルトとあのニュートンを、どちらかもしくは両方とも別のに変えてもOKです。

>☆ つまりわたしの疑問として引っかかるのは それなら《デカルト力学》が生まれていてもよかった。です。

 渦動理論は《デカルト力学》なんですよ。そこには加速度も運動方程式も明示されませんでしたが、慣性法則と運動量保存則が《デカルト力学》の運動法則になります。運動量の交換を微小時間で考えると運動方程式になり、運動量保存則は合わせて作用・反作用の法則を含意し、慣性法則はそのままです。これらを論証出来たのは、約50年後のニュートンだけです。

 デカルトはもちろんそんな事には気づいていませんでした。しかし間違いなりにもデカルトが、定性的には惑星運動の傾向と、「斥力としての」重力を説明できたのには、後から見ればそんな裏事情があります。そして少なくとも惑星運動と重力作用を説明出来れば、それは間違いなく力学です。

 しかしだからと言って、あのデカルトがいなければあのニュートン力学はならなかった、などとは言いません。

 別のデカルトがアリストテレス体制にある方法で止めを刺したが、渦動理論は提出しなかった。そして別のニュートンが、あのデカルトの渦動理論を試論として提出した後に、あのニュートンのニュートン力学に達したなどという事は、あり得た話だと思えるからです。

 なので自分の意見としては、

>やはりデカルトあってのニュートンである。

ではなく、

  ・アリストテレス体制転覆あってのニュートン力学.

です。天秤はどちらにも傾かないと思います。

投稿日時 - 2015-03-15 21:28:09

補足

 参考サイトが来ました。:


 ○ 佐藤公一:デカルトの運動量保存の法則とライプニッツの批判をめぐって
  file:///C:/Users/aquificaux/Downloads/AN00038157_25_49.pdf

 これは 次の検索ページからダウンロードするかたちです。
 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87%E3%81%A8+%E3%83%A9%E3%82%A4+%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6&rlz=1C1BLWB_enJP526JP586&oq=%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87%E3%81%A8+%E3%83%A9%E3%82%A4+%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6&aqs=chrome..69i57&sourceid=chrome&es_sm=0&ie=UTF-8



 ○ 月刊うちゅう 2003 Vol.20 No.8 デカルト 
   http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~saito/job/writing/utyu/decartes/decartes.htm




 ◇ (ねむねこ) ~~~~~~~~~~~~
 それに、同じ「力」という言葉を使っていますが、

 デカルト   運動量 mv
 ライプニッツ 運動エネルギー mv^2
 ニュートン  質量×加速度= ma

 ということで、
 それぞれ、意味する内容が異なっている、ということを念頭において読まれたほうがいいと思います。
 同じ力という言葉を使っていても、三者三様、それぞれ違う意味で使っている。
 物理学で使う「力」の意味がこの時代には定まっていなかったんですよ。

 で、今日の物理学で採用されているのは、ニュートンの定義のもの。
 ニュートンの「力」は保存しないけれど、デカルトとライプニッツの意味の「力」は保存する。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ねこさんは goo の登録なので 簡単にはこちらに投稿できません。ということもあってです。

投稿日時 - 2015-03-15 22:29:56

お礼

 うまいこと言うなぁ。と思うのですが まづはご回答をありがとうございます。



 ★ 運動量保存則
 ☆ についてちょっと勇み足ですが わたしの責任で ねこさんの簡単なコメントを引っ張って来ました。:
 ◇ (ねむりねこ 2015/03/15 20:41) ~~~~~~~~~~~~~
 デカルトの運動量保存の法則についてちょっと調べてみたんですが、
 デカルトの運動量保存の法則というのは、現代の物理学の運動量保存則とはかなり違っていますね。
 違うだけなら可愛いんですが、ハッキリ言って間違っている(笑)。
 私たちが今日、運動量保存則として知っているものは、デカルトのそれではなく、ホイヘンスの運動量保存則のもののようですね。
 大学の物理学の先生なども、結構、間違って覚えているらしい。
 そして、「デカルトが運動量保存則を発見した」と大々的に宣伝している。

 デカルト大先生の運動量は、「大きさと方向を持ったベクトルでなく、大きさだけを持つスカラーであるというような」というそんな可愛いレベルの間違いではなく、致命的な間違いを犯している。

 デカルト先生、どうやら、物質の衝突の実験をして、自身の説が正しいかどうかの確認をしていない。
 アリストテレスとあまり変わっていない。
 科学的実証精神が欠如している(笑)。

 この人は、頭でっかちの人で、自身の理性の力を過大評価していたに違いない。
 自然を見ていない人だったんじゃないですか。

 デカルトは超~有名人ですから、こういう勘違い、誤解が世の中にまかり通っているようです。
 ライプニッツの批判は的を射ていますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうでしょうか。




 そして 何だかやり過ぎだよと言われるかも分かりませんが 念のために この議論の始まりを掲げておきます。
 ◆ (本質問【Q:ヒラメキ・・・】回答No.8) ~~~~~~~
 そしてデカルトは前にも言ったように、哲学者である前に、何よりも数学者・自然学者(自然科学者・物理学者)だったので、17世紀の「科学革命」の立役者でもあったのです。

 解析幾何学の創始者であったばかりでなく、「慣性の法則」の発見者でもあり、それまでのアリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていたのを地上の空間も天上の空間も、同じ一様で無差別な空間と考えることでニュートンの絶対空間の考えを先駆けてそれを地ならしした人なんです。

 デカルトがいなかったら、ニュートンの古典力学もなかったし、私たちの考える、天体観・宇宙観もなかったのです。

 あなたは「デカルトって、そんなに偉い人だったのかなあ」と言いましたが、偉い人だったのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2015-03-15 21:49:48

ANo.16

 #16です。

 ネコさんは現れてくれないようなので、自分なりに返答を試みます。で、良い訳のような返答になるのですが、「《こういう文脈では》、ニュートン力学を開発したのはニュートンでなくても良い」なら、アリストテレス主義の破壊を行ったのは、あのデカルトでなくても良かったとはなりませんか?。破壊するだけなら、明証性など持ち出さない別の誰かでも良かったと。

 ほぼ1000年間支配的だったアリストテレス自然学はその時点で、強固なパラダイムになっていたはずです。うまい言葉が見つからないのですが、パラダイムをいったん信じてしまったら、確証バイアスがかかります。自説に不都合なもの、嫌なものは無視する事が可能になります。人は信じたいものしか、信じない。またアリストテレス自然学は反証可能性に免疫を持つ、始末に終えないものでもありました。

 そういうものを覆すには、何でもいいから、新しいパラダイムになりうるものを示すしかなかったのだと思います。それが当時、必要もしくは望まれていた事だったと考えます。そこにたまたま、彼なりの考え方と方法で宇宙を再構成してみせれるくらいの力量と技術を持っていたデカルトがいて、やってみたら成功した。知識人達が見たがっていたものを、見せたからです。人は信じたいものしか、信じない。そういう事だと思います。

 ケプラーの著作はアリストテレス主義と正面切って対立しなかったし、内容は言ってみれば太陽系に関する現状報告に過ぎず、宇宙論としては物足りなかった。ガリレイはガリレイで近代的感覚を持ちすぎたために禁欲し、大した事を言わなかった。結果、デカルトの影響が最大になった。

 皮肉な事にニュートン力学の受容過程において、今度はデカルト主義者に確証バイアスがかかります。デカルトの渦動理論が現実と合わないのは随所に指摘されていたにも関わらず、ニュートン理論が事実の説明において着々と成功を納めていたにも関わらず、「重力は定量化された隠れた性質である」の一言でそれを一蹴しました。定量化に価値を見出すのは、近代以降の事です。

 そして我々にも我々なりの確証バイアスがかかっています。なので、そう簡単に「デカルトはアホだった」と言いたくない気持ちもあるんですよ(^^;)。

投稿日時 - 2015-03-15 19:41:30

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 
 ねこさん 来ませんね。争議か騒動になるのをおそれてのことかと思われます。第三者になるのは むつかしく またそれがよいとも限らない。場合があるのでしょう。



 

 今回のご回答の中では 次のくだりに注目します。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 アリストテレス自然学は反証可能性に免疫を持つ、始末に終えないものでもありました。

 そういうものを覆すには、何でもいいから、新しいパラダイムになりうるものを示すしかなかったのだと思います。それが当時、必要もしくは望まれていた事だったと考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり すでに《望まれていた》という点です。つまり 誰もが 新しいパラダイムが欲しいと思っていた。つまり それが提唱されてもされなくても 新しい観点へと人びとは進もうとしていた。――のではないでしょうか?



 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そこにたまたま、彼なりの考え方と方法で宇宙を再構成してみせれるくらいの力量と技術を持っていたデカルトがいて、やってみたら成功した。
 [・・・]結果、デカルトの影響が最大になった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりわたしの疑問として引っかかるのは それなら《デカルト力学》が生まれていてもよかった。です。

 そこのところのつり合いと言いますか どちらに片向くかではないでしょうか。

 やはりデカルトあってのニュートンである。となるか。
 いや そこまでのことは言えない。となるか。です。
 どちらに片向くかです。


 ★ そう簡単に「デカルトはアホだった」と言いたくない気持ちもあるんですよ(^^;)。
 ☆ 神学と人文学(つまり 哲学ですが)では 典型的な阿呆だったと思います。

投稿日時 - 2015-03-15 20:06:07

ANo.15

 #14です。

>その心は でーでーてーさんが 多大な影響を受けた――何か核になるようなものの一つをデカルトから得た――というふうに受け留められますが そしてそれは 思考方法であるように見受けられますが・・・

 影響されていません。

>・・・神の存在証明と言い方法的懐疑なりまさに明証性などなどの方法なりと言い わたしは それらがどうしてそれほどの影響力を――現代においてだけではないと思うのですが――持つのか。これが 分かりません。

 現在においては「受験の心得の方がましだ」と言われる程度のものかも知れません。しかしそんな当たり前の事さえ、当時は誰も正面切って言わなかった。だからこそ「世間受けした」のだと思います。

 けっきょく前回の結論は、その内容は別として「世間的に際立った」からみんなデカルトに傾いたのだろう、と書いたつもりでした。ちょっと書き過ぎたかな?(^^;)。

 それと創造的破壊ではなく、ニュートンへの準備として、アリストテレス主義の破壊の方が重要だったと思っています。その意味で、デカルトの成果には歴史的に無視できない意義があると思います。あえて繰り返しますが「歴史的意義」だけです。こういう文脈では、ニュートン力学を開発したのはニュートンでなくても良い訳です。破壊によって、いずれ誰かがニュートン力学を開発したのではないか?、という意見です。

>だって 言ってはわるいですが ヱ―バー論では 当時としてはヱ―バーの理論や学問は 重大な意味を持ったというような議論をされるからです。

 そうです。現在からの視点で見ればウエーバーも、今では当たり前の事をとりわけ大迎に言いたてた事になります。しかしそんな当たり前の事すら、当時は誰も正面切って言わなかったからこそ、「歴史的意義」があると思えます。この扱いはデカルトも同じです。

 でもいつもここら辺りで、あなたと私はいつも議論が噛み合わないんですよね。

 ネムネコさん、整理お願いします(^^;)。

投稿日時 - 2015-03-13 23:54:47

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ でもいつもここら辺りで、あなたと私はいつも議論が噛み合わないんですよね。
 ☆ 今回は これだけていねいな解説をいただいているにもかかわらず 駄々をこねてしまって申し訳ない気持ちはあるのです。

 でもなんでデカルトなのか? にピンと来るものが欲しい。



 ★ こういう文脈では、ニュートン力学を開発したのはニュートンでなくても良い訳です。破壊によって、いずれ誰かがニュートン力学を開発したのではないか?、という意見です。
 ☆ にもかかわらず この《こういう文脈では》というのが けっきょく《ほかの誰でもなくデカルトがアリストテレス主義の破壊をおこなった》という歴史的文脈のことだとすれば その文脈を別としてしまっては 《ほかのニュートン》もが出て来なかったであろうと言っているみたいに聞こえるんです。
 
 ということは デカルトは偉い! という議論になるように思われます。

 それならそれで 受け留めざるを得ないでしょうから受け容れる用意がありますが いまひとつピンと来るセリフが欲しいと言いますか。・・・


 ★ 〔デカルトに〕影響されていません。
 ☆ でも歴史的文脈を考慮するなら 影響はあったし やはり偉い! ということになると響きます。なぜ? という疑問がなお消えません。


 ということなんですけれどねぇ。・・・・

 ねむねこさん 来てくれるかなぁ。

投稿日時 - 2015-03-14 00:14:23

ANo.14

 #11です。

>・・・あとは 要約をようしません。むつかしいですね。

 むつかしい・・・。ではこういうのはどうでしょう。

  ・ケプラー:本職はプロの占星術師。
  ・ガリレイ:理論研究だけでなく、土木工事なども手がけた技術屋。
  ・デカルト:放浪の学究風太郎。根は数理哲学者だが、数学的技術力も高い。
  ・ニュートン:彼の本職(本当の顔)って何なんでしょうね?。まさか国会議員や造幣局長ではありえない。

 こう並べてみるとニュートンを除いて、それぞれの立ち位置とその後の運命が、何となく見えてきませんか?(^^)。

>それでもけっきょく アリストテレスの自然世界観をくつがえしたのは デカルトなのでしょうか? ひとり際立っていたということでしょうか?

 「数学原理論はケプラーが先行していた」のは事実です。「宇宙の神秘」と「宇宙の調和」がそれに当たると思います。しかし史上初めて物理力としての重力を導入したケプラーではありましたが、その重力は遠隔的な神秘力でした。プロの占星術師であった(数学的神秘主義者であった)ケプラーにとって、それを定量化できたなら、そこで終わりです。それ以上の機構を問う必要はない訳です。

 じっさい彼は、重力を逆一乗(二乗でなく)として定量化しますが、重力が遠隔的な神秘力である限り、アリストテレス自然学と正面切って対立する事はありません。

 一方デカルトは正面切って対立しました。そもそも論から出発して対立します(方法序説)。

 この前言ったようにアリストテレス自然学は、おかしいと思っても論破するのは非常に困難でした。それは一つの宇宙論でもありました。だったら方法は一つです。事の最初からアリストテレス自然学を否定する方法序説の方法に従って、宇宙を造って見せる事です。それは上手く行きました。デカルトの宇宙論は、アリストテレス的宇宙と衝突して、それを押しのけました。

 デカルトと同時期に名前は忘れましたが、経験論を標榜した哲学者がいたと思います。この人は次のように言いました。※記憶があやふやなので、違うかも知れません。

  「そこに我々の知るべき僅かばかりの事がある。それは我々の知りうる僅かばかりの事である」

 このような謙虚な態度でいる限り、その思想が大流行する事はありません。デカルトは大いに流行りました。ヨーロッパの一般教養にまでなります。

  「宇宙の材料をよこせ!。しからば宇宙を造ってしんぜよう」

・・・と彼は豪語したそうです。さすがは、放浪の学究風太郎じゃないですか(^^;)。

 結論を言えば、デカルトは世間的に際立っていただけかも知れません。でもこういう文脈では、結果が全てです。それと、

>☆ ことは デカルトがらみであるが その(ニュートンの)思考形式は むしろ違っていた。のではありませんか?

 明らかに違っています。デカルトの渦動理論自体はニュートン力学の先駆けにならなかったという事以上に、違っています。ニュートンにはどこか得体の知れないところがあります。


>★ ニュートンの生きていた当時でさえ、「私は重力を所与として受け入れる。原因も何も問わず観測結果だけがあるだけだ」なんていう近代的感覚を持っていたのは、ガリレイくらいです。
>☆ のガリレオみたいに オモテ向きは振る舞っていた?

 そういう事ですね。ケプラー,ガリレイ,デカルト,ニュートン。この4者の中で一番表裏の顔の違いが大きいのはニュートンです。ニュートンの素顔は私にはわかりません。ケインズの結論、

  「ニュートンは最後の魔術師である」

はふさわしい気もします。本当に彼にとっての自覚的な本職って、なんだったんだろう?。でもガリレイが重力を所与として「現象論として」受け入れた事と、ニュートンが気の抜けた態度で「私は仮説を作らない」と言った態度とには雲泥の差があります。

 ガリレイは解析不可能と思った事については観測結果として受け入れましたが、手の届きそうだと思われる範囲については、想像と作業仮説を縦横無尽に許します。円運動の慣性はそういう思考実験から生まれました。

 一方「私は仮説を作らない」からは、より本質的な機構を問わない事実の定量化だけが行われ、イギリスの物理学はニュートン以後、一時低迷します。


>あと
★ ただ数学的に宇宙を読み解くと言ったって、そもそも読み解きに数学を使って良いのか? という根本問題があります。
☆ これは いまも根本問題なのですよね?

 そうです。そうなんですが、現在はまだ、それを忘れておける状況です。

 1970年代の中頃、物理学はもう終わりだ、これからは本質的な新事実の発見は何もないと、ちょっと言われていた時期がありました。

 とろころが今や数学で読み解いた量子効果として、量子テレポーションをどうやって制御しようか?というところまで来てしまいました。数学で宇宙を読み解く事は、まだまだ有効そうなんですよ(^^;)。

投稿日時 - 2015-03-12 21:25:41

お礼

 でーでーてーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ねむねこさんに登場してもらったほうがよいかと思います。

 正直な話 分かんない。

 その心は でーでーてーさんが 多大な影響を受けた――何か核になるようなものの一つをデカルトから得た――というふうに受け留められますが そしてそれは 思考方法であるように見受けられますが 神の存在証明と言い方法的懐疑なりまさに明証性などなどの方法なりと言い わたしは それらがどうしてそれほどの影響力を――現代においてだけではないと思うのですが――持つのか。これが 分かりません。


 アリストテレスの世界観を破ったと言いますが 見方考え方を逆にしたら 創造的破壊を行なえたとは思えません。



 あらためて言いますが このいまの問いは デカルトとニュートンと どちらが科学史上に貢献を多くしたか では必ずしもありません。

 デカルトは マチガイをも侵したではないかという問題とも違います。ニュートンとは いったいどういう人物だったのかとも違います。

 そうではなく デカルトの貢献がなければ ニュートンは出て来ることが出来なかったか です。それほどの影響力を持ったかです。


 そしてもしチカラがあったとすれば それは 思考方法においてですよね? たぶん。

 その内容について わたしが把握できていないのでしょう。
 もし でーでーてーさんが個人的にデカルトのところで何か重大なことを得たという個人的な問題でないならば。



 だって 言ってはわるいですが ヱ―バー論では 当時としてはヱ―バーの理論や学問は 重大な意味を持ったというような議論をされるからです。


 どうですかね。わたしがかたくなだけかも分かりませんし。・・・わたしにもヤキが回って来たのかも。

投稿日時 - 2015-03-12 22:12:46

ANo.13

すみません、訂正です。
紹介した絵画が焼失したのはドレスデンでではなく、ベルリンにてのようです。

投稿日時 - 2015-03-12 18:19:08

お礼

 あっ そうでしたか。わたしも うっかり《焼失》の確認だけをしてサイトを引用しました。

 いづれにしても カラヴァッジョがドイツにあったんですか。

 ていねいにご説明をありがとうございます。



 議論は いささか尾を引いているようです。わるいことではないと思っています。むしろよいことだと。それでは。

投稿日時 - 2015-03-12 18:58:23

ANo.12

bragelonneさん おはようございます。

投稿が、デカルト、ニュートン論争となり、面白く見守ってますが、bragelonneさんが自身の哲学構築上、考察したいと思われる。

「非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰」

という命題について、少々、私も直感(直観)について、ノーベル賞受賞者の言葉から調べたので回答します。天使はおいておきます

川端康成は芸術的な創造を、心を空とする瞑想の一つの形であると考え、「重点は、理論や議論よりも直感、直接的な感情にある。」としたそうです。そして作家活動として長編小説だけでなく、「掌の小説」のような直感的な短編小説も書きました。名作「雪国」はいかに掌の小説のように書き直すかが、川端康成の最後の文学的試みだったそうです。1968年ノーベル文学賞受賞

さて、川端康成と同じ仏教思想ですが、bragelonne哲学に旗色が悪い考えなのは、チベット仏教のダライ・ラマ14世。ダライ・ラマ14世は現代の科学や技術に関心を寄せ、彼が好んで引用する仏陀の言葉は「信仰だけに頼るのではなく論理と理性で、この世を吟味するのが人間の義務である。」だそうです。仏陀は本当にこのような言葉を言ったのか、仏教徒に尋ねたいです。またダライ・ラマ14世が言っているのは、信仰が確立した上での行動を意味しているのかもしれませんが、信仰がない人が、この言葉をとると、信仰(ヒラメキ)よりも論理・理性が上であるという意味でbragelonne哲学とは矛盾します。1989年ノーベル平和賞受賞

運動中の筋肉組織への酸素供給がどのように調節されるかを明らかにした、アウグスト・クローグは「私は多くの仕事を夜ベットに横たわっているときにこなしてきた。まず、研究の手順と行うべき実験を想像してみた。すると、かなり複雑な装置や、その操作のあらゆる細部が見えてきた、良い結果につながる着想はいきなり浮かんでくるが、頭の中でそれらを実現させる方法を考える過程は、意識的で論理的であった。私は略図を書いて入念に着想を練り上げたことはないし、今でもそうしていない。頭の中で装置を完成させるまでは、予備的図案すら書かない。なぜなら図案を書くことで、発想が自由にわくことがさまたげられ、ある特定の問題解決の方法に縛られてしまうのではないかと感ずるからである。」1920年ノーベル生理・医学賞受賞。

タンパク質の構造(専門的になりますがアルファー・へリックスというDNAの2重螺旋構造のようなもの)を発見した、ライナス・ポーリングは「ひとつの問題を何年も考え続けていると不意にある予感ないしは発想が涌き、突然答えが見つかるということがよくある。それは、私が問題にとっておいて熟考するように潜在意識を訓練しているからだ。」と言い、余談ですが、ライナス・ポーリングは風邪をひいてベットから離れられなかったときに、紙にタンパク質の分子構造を描き、その紙を折っていき、円筒状の丸めたことが発見につながったそうです。1954年ノーベル化学賞受賞

さて、ここでbragelonneさんの考えが聞きたいですが、上述のような科学における発見は「無」からの創造ではなく、すでに存在(有)しているものの新しい組み合わせと思われます。そして、その創造に直感(ヒラメキ)が加わり大発見につながることもあると思います。

しかし、bragelonneさんはこの直感(ヒラメキ)を「信仰」に使っています。信仰とは、科学のように、経験(存在・有)が前提になりヒラメキによって生じるのでしょうか?それとも、神から「無」の状態においても恩恵という形でヒラメキが与えられるのでしょうか?

bragelonne哲学の重要な急所が私にはあいまいです。お礼にてお考えをいただければ幸いです。

投稿日時 - 2015-03-12 08:17:53

お礼

 ぶらげろ理論の急所についてお応えします。

 イクナートンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。



 § 1 神を想定する

 1. 神は 人間が想定するものです。

 2. この経験世界におけるものごとは 時間的空間的にして 時空をたがえれば《有った》ものごとが 《無い》ようになります。モノとしては 別のモノに姿を変えるだけです。

 3. あるいは この経験事象というのは 時空間における互いの因果関係として成り立っています。個別に A から B が生じたという場合も それだけを無理に取り上げるならという前提のもとにある。したがってすべてのモノゴトは互いに関係し合い因果の系列のもとに起きていると考えられます。

 4. この有無の経歴や因果関係から自由な場 これを想定するのです。《非経験の場》と名づけます。

 5. これは 科学ないし哲学として提示するからには 《非知》として概念による説明をします。《可知》でも《不可知》でもなく 《知り得るか知り得ないかが 人間には 分からないナゾの領域――ひょっとしたら チカラとして働く場であるかも知れない――》という説明です。

 6. これらの想定と概念説明が 神についての定義になります。議論は この定義に立つか立たないかから始まります。立たない場合は 批判し論駁してください。





 § 2 神と人間との関係やいかに?

 7. 定義に立つならば じつはすでに《神と人との関係》は 規定されています。

 8. 《非知なる 非経験の場》と一人ひとりワレとの関係が 現われています。例外なく。

 9. 《一人ひとりそれぞれ》だということも 大事です。

 10. ここは 微妙なのできちんと説明します。たとえば人間は 《非知》を経験事象になぞらえて やはり有ると言ったり無いと言ったりするようになります。《有る》説によれば 場でありチカラであると見做すようになります。

 11. あるいは 人間なる存在になぞらえて《非知なる者・そのチカラを持つ者》として擬人化して表現します。《神様》とも言ったりします。

 12. 果ては 全知全能のお方であるとか 慈愛に満ちたとうとい方よと呼んだりもします。

 13. けれども 《神とワレとの関係》は このような想定や説明概念から派生したさらに概念であるものにはありません。なぜなら神は 概念を超えています。概念は思ったり思わなかったりする経験事象であり 有るか無いかや因果関係に服しています。

 14. 言いかえると 神は愛なりだとか真理であるだとかとも概念説明するのは あくまで非知なる神の本体ではなくそれに到るための〔と人間が考えた〕補助線であり依り代です。磐座を神の依り代として見做すのと 神は愛であると規定するのとは まったく同じ行為であり 補助線を引いただけということになります。

 15. だから 補助線となる派生概念で神を 人間の議論や理論に持ち出して来ても・つまりそれによって人びとの間に神があたかも共有されているかに見えたとしても その神は ウソの神です。虚構です。

 16. だからもし想定された神と人間がカカハリを持つとしたら おのれ一人としてのワレの主観内面においてであり そうでしかない。と言わねばなりません。

 17. つまり信仰は――神とワレとの関係を信仰と言うわけですから 信仰は―― あくまで《わたし》だけのしかも内面における現象です。外にでかけたら アウトです。虚構になります。

 18. 主観の内面における神とワレとの関係は 虚構ではないのか? 虚構ではありません。なぜなら 神は無い・神は信じないという場合にも 神とワレとの関係はそのようにして成り立っているからです。人間の相対的な真実に関するかぎりで真実です。もしくはそれが気に入らなければ 初めの神の想定なる装置を論駁するかです。

 19. わたしというひとりの存在の主観内面における《神との関係 すなわち 信仰》は 神が非知なる非経験の場であるからには 概念による把握を超えています。概念認識しているのは 補助線による仮りのことです。したがって この信仰の動態は 《非思考》なのです。

 20. 神とワレとの関係が 有神論としてにせよ無神論としてにせよ己れの内において自覚して成り立ったなら そこに信仰が動態として始まります。無神論の場合には その一瞬において 神にも信仰にも見向きもしなくなります。

 21. ただし無神論の場合にも 信仰がはたらいています。なぜなら 非思考であるからには 信仰を否定することは不可能です。肯定する必要はありませんが 最初からの想定に立つならば 信仰を否定することは出来ない相談だと成ります。

 22. 概念をあつかう精神のハタラキは 知解とよぶのが一般的だと考えますが ここではその概念操作の場を 思考の緑野と呼びます。感性の原野にちなんでのことです。そのツテからは 信仰のありかを 非思考の庭と呼ぶのがよいでしょう。

 



 § 3 ヒラメキはどこから来るか

 23. 人間なる存在 そして個別に《わたし》なる存在 これは 経験事象ですが そこに――想定じょう――《非経験の場》との接点があると見なした。非思考の庭が 身(感性の原野)と心(思考の緑野)とのほかに生きている。

 24. ですから 直感一般としてのヒラメキは特に理論につながる直観としては 思考の緑野での思考のいとなみが――感性の原野をもふくめて――大いにかかわっています。むしろ思考こそが主役である。しかも問題は それが 全面的にこの主役である思考の緑野から来るのかどうかです。

 25. 確認ですが ヒラメキも 直観ともなればすでに概念としてその直感イメージが成り立っています。つまり すでに思考の緑野に入っておりそこに属しています。

 26. したがって問うべきは この直観ヒラメキは 初めから思考の緑野にあって思考という事象として思考の問題として起きているのかです。

 27. 思考の糸がすべての直観内容にわたってつながり行き届いているものなのか?

 28. 少しでも切れていたら それは 《非思考の庭》からやって来たと言うよりほかないではないか。
 
 29. それとも 思考の糸が途中で断たれていたとしても 潜在的にはやはりワレの思考としてつながっている。と抗弁するだろうか? 終始一貫してあくまでワレはおのれの理性をはたらかせてわが思考をつねにみちびいているのだと胸を張るか? アウグスト・クローグくんよ どうなのか。

 30. この非思考の庭なる信仰の動態を 《心の明け》と呼ぶのは こうです。窓があってこれを開けるというように取っても構いませんが ありうる反論に対処するならば まづ窓には――非思考の庭だと言うからには――内も外もないのです。ただし 心(思考の緑野)は閉じられていないのです 非思考の庭が想定されているからには。
 
 31. このように身と心とが ほかの人や社会に対して閉じられていないということを 身と心とを超えた信仰としての庭に《明け》があるという言い方で説明しています。これも 或る種の仕方で ヒラメキであるでしょう。




 これで一応ぜんぶに答え得たと思うのですが。


 こういうのをもやっていますよ。
 【Q:川端康成の掌編小説 《神います》より問います。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8197972.html

投稿日時 - 2015-03-12 10:13:38

ANo.11

 #10です。

>わたしは その神の存在証明の思考形式が ナンボのものぞと思うので まだなおその凄さには敬服いたしかねています。

 わたしもその点に関しては、敬服しかねています。かなり物理史に偏向した物の見方かも知れませんが、やはりそこは、これがアリストテレス自然学との対決姿勢だったのだ割り切らないと、突っ込むだけ虚しい気もします。参考URLにあった方法序説の冒頭を歴史的文脈ぬきで最初に読んだ時には実際、「受験の心得の方がよっぽどましだ」と思ったのは事実です。

>・・・関数がライプニッツとオイラーによって発明されたという見方がくつがえされるのですか? 裏書きされるのですか?

 覆されません。また裏書きされますが、カッシラーはあまり「誰それがやった」という事にはこだわっていません。数学は適切で象徴的な省略記法を導入してきた歴史でもあります。記号一つあなどるなかれ、というところが一面あります。関数f(x)にライプニッツは関数機能を見ていました。オイラーやガウスは、具体的な代数方程式などを見ました。現代の関数解析屋さんなんかはそこに、関数の対応表(Table。ただし無限行)をみます。しかもこれらは、論理的にはみな同値です。

 そういう概念の発展史は、調べればけっこう面白いです(個人的には)。それで、もし興味がおありならという事で、リファレンスマニュアルとしてカッシラーをご紹介しました。自分の意見ではリファレンスマニュアルは、どうしても必要が生じた時に仕方なく読むものです(^^;)。

>渦動説の周辺

 渦動説は間違いでした。あとでデカルト説のマチガイが証明され、地球の赤道周を測る事でそれが実証もされました。デカルトの提出した理論自体は、もちろんニュートンの先駆けではありません。彼の理論傾向:論理至上主義は、当時の教会が聖書に対して行った理論武装の方法論と同じで、その意味では非常に中世的な匂いがします。

 ただ数学的に宇宙を読み解くと言ったって、そもそも読み解きに数学を使って良いのか?という根本問題があります。それは全然明らかな事ではありませんでした。だからこそアリストテレス自然学が、1000年の長きにわたって権威を持っていました。その歴史の一コマで、既にスコラ哲学の数学者達が、落体運動についてはガリレイ先んじて、理論解析を済ませていたにも関わらずです。アリストテレス自然学の矛盾が、かなり明白になって来た時に・・・。


 ケプラーはそれをア・プリオリに認めます。彼は数学的神秘主義者だからです。数学は所与としての宇宙の原理です。
 その考えに従ってケプラーの3法則と、物理力としての重力を導入します。

 ガリレイはそれをア・ポステリオリに認めます。経験事実として。数学は宇宙を読み解く方法です。
 だから近代的な実験思想に思い至りますが、重力は所与として受け入れ、かわりに慣性法則を導きます(円運動の)。
 しかし数学的演繹自体は、ア・プリオリに認めます。その点に関しては、神も例外ではありません。
 だから宗教裁判にかけられます。

 デカルトはそれをア・プリオリに認めますが、ケプラーとは事情が違います。そこで神の存在証明なんだと思いますが、その結果、意志をもって数学を宇宙の原理とします。
 その結果を宇宙論としてまとめたのは重要です。妄想かも知れないが、とにかく宇宙を造ってみせたのだから。1000年の長きにわたって営々と築かれ、自然界のありとあらゆる事を説明できると思われていたアリストテレス自然学を、たった一つの著作でひっくり返してみせたのだから、確かに天才ですよ。ケプラーとガリレイは、その一部にしか論駁できなかったが、デカルトは全面的です。ひっくり返すには、それくらいの誇大妄想が必要だったのでしょう。その結果、世界は数学的なのかも知れない、という雰囲気になります。


 数学的に宇宙を読み解くと言ったって、それをやって良いかどうかも定かではなかったし、やって良いと思ってもその論拠は、ひとそれぞれというありさまでした。ケプラー,ガリレイ,デカルトはニュートン力学のパーツになった個別の重要結果を得ていたにも関わらずです(フェルマーやホイヘンスも同様)。

 ニュートンはデカルトから約半世紀後の人です。その時に「世界は数学的なのかも知れない、という雰囲気」になっていた事は、やっぱり無視できないと思うんですよ。そうでなかったらニュートンは、はたして「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」を目指したのだろうか?。

 デカルトの理論自体はニュートンの先駆けではありません。しかし「その雰囲気」を全面的に醸造したという意味において、デカルトがニュートン力学の下地を作ったと言われれば、否定できません。そして「その雰囲気」を経験事実として確定させたのはニュートンです。ニュートン力学の包括的な成功が、「物理法則は数学的である」事を人々に納得させます。その状況は今も続いています。


 余談です。ニュートンは、ず~っと本質志向をやっておりました。それが明らかになったのは、前回のケインズの調査のおかげです。ニュートンにとってその本分は、神学や錬金術であり、プリンキピアの成果は前者に対する補助もしくは調査手段と考えられます。しかしニュートンはその事を、決して公言しませんでした。

 プリンキピアの発表さえ、友人の天文学者の熱心なすすめがなかったら、どうなっていたかさえわかりません。発表した後、デカルト派からの集中砲火を浴びたので、関わりたくないと思った彼は「私は仮説をつくらない」と受け流しに出たと思われます。デカルトの事を熟知していたからです。

 ニュートンの生きていた当時でさえ、「私は重力を所与として受け入れる。原因も何も問わず観測結果だけがあるだけだ」なんていう近代的感覚を持っていたのは、ガリレイくらいです。


 最後に、

>▽ また20世紀になりアインシュタインによって一般相対性理論が提唱されたが、これはある意味で近接作用論が復興したような面も備えている。

 個人的意見では復興ではないんです。デカルトの近接作用,ファラデーの近接作用,マックスウェルの近接作用,アインシュタインの近接作用、これらは物理的背景と物理思想そのものが違うんですよ。同じ数学的宇宙と言ったって物理的背景と物理思想が違ったのと同じようなものです。

投稿日時 - 2015-03-11 22:19:38

お礼

 こんばんは。連日のご回答をありがとうございます。



 デカルトについて
 ★ わたしもその点(=神の存在証明の思考形式)に関しては、敬服しかねています。
 ☆ 見解が同じくなりました。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   関数がライプニッツとオイラーによって発明されたという見方が

 覆されません。また裏書きされますが、カッシラーはあまり「誰それがやった」という事にはこだわっていません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 了解しました。
 次の内容について分かれば もっと了解できるでしょうが。
 ★ 関数f(x)にライプニッツは関数機能を見ていました。オイラーやガウスは、具体的な代数方程式などを見ました。現代の関数解析屋さんなんかはそこに、関数の対応表(Table。ただし無限行)をみます。しかもこれらは、論理的にはみな同値です。
 ☆ 《みな同値》なんですか。




 ★ 渦動説は間違いでした。
 ☆ 了解しました。




 うわぁ。あとは 要約をようしません。むつかしいですね。



 ★ デカルトの近接作用,ファラデーの近接作用,マックスウェルの近接作用,アインシュタインの近接作用、これらは物理的背景と物理思想そのものが違うんですよ。
 ☆ これは 留意事項ですね。

 


 ★ ニュートンは、ず~っと本質志向をやっておりました。
 ☆ ただしそれを表には出さなかった。あたかも
 ★ ニュートンの生きていた当時でさえ、「私は重力を所与として受け入れる。原因も何も問わず観測結果だけがあるだけだ」なんていう近代的感覚を持っていたのは、ガリレイくらいです。
 ☆ のガリレオみたいに オモテ向きは振る舞っていた?



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  数学的に宇宙を読み解くと言ったって、それをやって良いかどうかも定かではなかったし、やって良いと思ってもその論拠は、ひとそれぞれというありさまでした。ケプラー,ガリレイ,デカルトはニュートン力学のパーツになった個別の重要結果を得ていたにも関わらずです(フェルマーやホイヘンスも同様)。

 ニュートンはデカルトから約半世紀後の人です。その時に「世界は数学的なのかも知れない、という雰囲気」になっていた事は、やっぱり無視できないと思うんですよ。そうでなかったらニュートンは、はたして「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」を目指したのだろうか?。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だけれども その《雰囲気》が醸し出されたのは:
 ★ デカルトはそれをア・プリオリに認めますが、ケプラーとは事情が違います。そこで神の存在証明なんだと思いますが、その結果、意志をもって数学を宇宙の原理とします。
 ☆ ということの結果ですよね。

 つまり 《神の存在証明の思考形式》にもとづいて 醸し出した《宇宙についての数学原理論》ですよね。

 つまり 
 ★ ニュートン〔が〕「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」を目指した
 ☆ ことは デカルトがらみであるが その思考形式は むしろ違っていた。のではありませんか?
 つまり 数学原理論は ケプラーもが先行していた。

 それでもけっきょく アリストテレスの自然世界観をくつがえしたのは デカルトなのでしょうか? ひとり際立っていたということでしょうか?

 これが ひとまづ最後のお尋ねになるかと思うのですが。


 
 あと
 ★ ただ数学的に宇宙を読み解くと言ったって、そもそも読み解きに数学を使って良いのか? という根本問題があります。
 ☆ これは いまも根本問題なのですよね?

投稿日時 - 2015-03-11 22:52:42

ANo.10

 #9です。

>その解析幾何とやらで そんなに偉いんですか?

 自分の本当の本職は工学屋なんですが、工学屋のセンスで言うと数学には、じつは道具造りとしての面白さがありまして。そういう目で解析幾何学を見ると、すごい方法(道具)なんですよ。従来は勘に頼って補助線を引いたりしてた訳ですが、そんな事は一切不要でとにかく計算すりゃ~答えが出る。幾何学的センスいっさい不要の処方箋で、やれば必ず答えに達する。「やれば必ず・・・」は前も言いましたが、数学の一つの究極目標です。ただし「計算地獄」が手ぐすね引いて待っているかも知れませんが・・・(^^;)。

 まぁ、現在の書式と定式化を正式に作ったのはライプニッツかも知れませんが、参考URLの図のインパクトは強いですよ。「そうか、座標原点はもとよりどんな座標系と使ったって良いんだよね!。便利にやれば良いんだっ!」という事が、一目瞭然だからです。そこでは神の存在証明なんぞ無関係です。道具としての凄さだけが注目されます。それに充足自充律がお得意のライプニッツの言説は、素人にはちょっと難しいし・・・。

 と言う訳で、解析幾何学から神の存在証明に至るのはちょっと無理がある、というのが自分の感想です。

>関数記号の歴史

 これに関しては、

  ・実体概念と関数概念,エルンスト・カッシーラー,みすず書房,1979年.

があります。自分も斜め読みしかしてませんが、確かに500ページは骨が折れる・・・(^^;)。

>○ ヰキぺ:渦動説
>☆ 近接作用説と遠隔作用説。デカルトとニュートン。対立していたそうぢゃないですか。

 前回、「デカルトの宇宙論はヨーロッパ大陸の一般教養にまでなった(イギリス除く)」と書きましたが、イギリスが除かれるのは、そこにニュートンがいたからです。逆にデカルトのいたヨーロッパ大陸では、宇宙論の影響でニュートン力学の受容が一世紀ほど遅れます。それくらいデカルトの影響は絶大でした。

 ご存じかも知れませんがアリストテレス自然学では、「隠れた性質」が多用されます。例えば、塩は何故溶けるのか?→可溶性があるから。燐は何故燃えるのか?→可燃性があるから。このように現象を知った後で、その事物には「隠れた○○性」があると言って事が済むなら、何だって説明できます。

 ところがアリストテレス自然学では、それで事が済みました。アリストテレス自然学は生物学的自然観だからです。羊が群れるのは同質だから当然、という議論です。そうなるとそこでは、できるだけ普遍的に該当する性質を抽出すればするほど、本質に迫った事になり、無制限な性質の実体視が許されます。性質=実在です。従って、この自然学に反証可能性はありません。論破するのは、非常に困難でした。

 デカルトはそれに対して、論理的な順序関係で構築された構造でもって、宇宙は説明しうる事を示した、たぶん最初の人です。そのとっかかりが「方法序説」です。結果が宇宙論です。

 では万有引力の遠隔作用とはなんでしょう?。万有引力は星と星が力の伝達機構抜きで、瞬時に引きあう作用です。羊が群れるのとどこが違うのでしょうか?。究極的には違わないんですよ。究極的には「万有引力性」という「隠れた性質」です。「しかも定量化されているだけに、さらに性質が悪い」。これがデカルト派の批判でした。それに対してニュートンはプリンキピアの中で、「私は数学的現象論を述べただけだ」と防戦一方でした。だって、誰もわからないんだもの。

 一方、デカルトの渦動論はどうでしょう。デカルトは論理的な順序関係で構築された宇宙を演繹するために、まず自分の経験を徹底的に疑います。物質の第一性質と第二性質の区別です。そして己の感覚に依存しない客観的な物体の性質として、次の3つを取り出します。

  (a)物体の延長.
  (b)物体の不可透入性.
  (c)慣性の法則(円運動でなく、無限直線運動).

 ここに物体の重量が含まれない事に注意して下さい。デカルトは質量さえ疑いました。結果は間違いだったとしても、この徹底ぶりは凄いです。そういう意味でデカルトは、やはり看過できない人です。

 デカルトにとって (c)慣性の法則 は運動量保存則と同じです(間違ではない)。無限直線であるはずの運動が変化したら、それは外力作用だという訳です。では外力とはどんなものか?。(a)と(b)により、それは物体同士の接触力であり、物体同士の押し合いへしあいモデルという事になります。そして重力は確実に働いています。そうすると天には重力を伝えるために、透明な流体物質が充満している事になります。

 笑ってはいけません。これは当時、アリストテレス自然学はあんまりではないかと感じていた人々にとって、アリストテレス自然学とは逆に、最も日常経験に依拠した最も見込みのありそうな仮説だったのです。ほら、万有引力なんていう隠れた神秘力なんか、いらないじゃないか!と。

 デカルトはもう二つ仮定を追加します。

  (d)宇宙は閉じている(宇宙全体の運動量は不変。ある意味、当然の仮定).
  (e)神の一撃(宇宙の初期条件).

 (e)は、神は宇宙開闢時の一瞬に、宇宙を稼働させる一蹴りをくれたという仮定です。以後、神は不要になります(ここら辺りがパスカルの逆鱗に触れたようです)。そうすると(d)から宇宙全体の運動量は不変なので後は(c’)運動量保存則から、天の透明流体を介して、全体としては不変な宇宙の全運動量が押し合いへしあいモデルに従って、集中離散する様を記述するだけです。それによって重力も説明されます。それが渦動理論です。

 個人的に言うと、それがまた見事なんです。渦動理論による重力発生機構の論拠は、今風に言うと、力学系のリウビルの定理の証明と、定性的にはそんなに変わらない気がするんですよ。まさにデカルトは、神秘的な隠れた性質(遠隔力)ではなく、「機構(近接力)」を説明しようとしました。

 学の(物理学の)行動方針(公理)をいったん決めたら、誤謬を避けるためにそこからは、数学に身を任せるべきだという、今では当たり前の事を初めて言った人がデカルトでした。ちょっとやり過ぎでしたが(^^;)。でもデカルトは、その態度でもって時代を画しました。


 ところでニュートンは万有引力を遠隔力などとは、一言もいっていないんです。彼は重力は、空間に充満するエージェント(天使?)が伝えると考えていたようです。この考えの間接的な代弁者がいます。博識で精力的な神学者ベントリー卿です。彼はとうじ巷に蔓延していた唯物論を喝破するために、ニュートン力学を使えないかと思い立ち、ニュートンに直接問い合わせます。ニュートンは、かなりの示唆を与えたようです。

 ベントリー卿は言います。
「何もない真空を越えて、なんの媒介物もなしに物体(惑星)が物体に作用できるはずがない。デカルトの言う通りだ!。しかし現実には、万有引力がその深淵を越えて今現在も作用しているではないか!。これこそが、神の御心の業である。これこそが、科学によって示された神の存在証明に他ならない!」

 神の存在証明にも、色んなパターンがありますよね。けっこうこのパターンは気に入ってます(^^)。


 ニュートンは古典にも通暁していましたが、その古典ってのが問題です。ニュートンの遺稿を集め散逸から防いだ経済学者ケインズは言います。
「ニュートンは最後の魔術師である。彼の興味は異端視されていた彼独自の三位一体仮説とか、錬金術などがほとんどだが、その学問的動機が不健全である事を除けば、その著述はきわめて真面目かつ詳細精緻博識で、学究者としては、きわめて健全である」

 そんなニュートンです。もしデカルトの数学的方法の妥当性と危うさを知らなかったら、そしてガリレイのより近代的な感覚を知らなかったら、ニュートンの研究はあらぬ方向へ行ってしまった、と思えませんか?(^^;)。

投稿日時 - 2015-03-10 22:23:23

お礼

 ご回答をありがとうございます。



 ★ [・・・]そこでは神の存在証明なんぞ無関係です。道具としての凄さだけが注目されます。
 ☆ これなら 分かるような気がします。妥協のようではありますが つまりは デカルトの持ち出した座標を それを見た人たちが自由にうまく使いこなすようになった。というような事実としてです。



 ★ と言う訳で、解析幾何学から神の存在証明に至るのはちょっと無理がある、というのが自分の感想です。
 ☆ ええっと。たしか 永井俊哉は デカルトが神の存在証明をしているその哲学の思考形式を座標に当てはめると 座標じたいはデカルトの考案によるものではないにもかかわらず その座標をデカルトの座標と言ってもおかしくはないのだと。そのように解説していたと思います。

 わたしは その神の存在証明の思考形式が ナンボのものぞと思うので まだなおその凄さには敬服いたしかねています。



 ★  ・実体概念と関数概念,エルンスト・カッシーラー,みすず書房,1979年.
 ☆ によると 関数がライプニッツとオイラーによって発明されたという見方がくつがえされるのですか? 裏書きされるのですか?



 渦動説:
 ★ 逆にデカルトのいたヨーロッパ大陸では、宇宙論の影響でニュートン力学の受容が一世紀ほど遅れます。それくらいデカルトの影響は絶大でした。
 ☆ つまり 影響を持ったわけですが マチガイだったんですよね?
 あるいはつまり デカルトの説が ニュートンに先駆けたのではなく ふたりの説は相対立するものであったし あとでデカルト説のマチガイが証明された。のですよね。




 ★ 究極的には「万有引力性」という「隠れた性質」です。「しかも定量化されているだけに、さらに性質が悪い」。これがデカルト派の批判でした。それに対してニュートンはプリンキピアの中で、「私は数学的現象論を述べただけだ」と防戦一方でした。だって、誰もわからないんだもの。
 ☆ ニュートンは《わたしは仮説を作らない》と言ったそうぢゃないですか。つまり アリストテレス流の《本質論》は やらない。ただただ実証性を重んじたんだと。《防戦一方》でなければ 本質論に向かうはずです。

 万有引力は オカルト・フォースと呼ばれたそうなんですね。しかも 実証性がある。それだけということではないのですか? 《本質論》はやらない。



 ★ ここに物体の重量が含まれない事に注意して下さい。デカルトは質量さえ疑いました。結果は間違いだったとしても、この徹底ぶりは凄いです。そういう意味でデカルトは、やはり看過できない人です。
 ☆ というこですよね。

 マチガイの問題はたとえ別としても デカルトがニュートンの先駆けであったとは言えない。と明らかになれば 当座の目的が果たされます。それほどは偉いわけではない。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 [・・・]そうすると天には重力を伝えるために、透明な流体物質が充満している事になります。

 笑ってはいけません。これは当時、アリストテレス自然学はあんまりではないかと感じていた人々にとって、アリストテレス自然学とは逆に、最も日常経験に依拠した最も見込みのありそうな仮説だったのです。ほら、万有引力なんていう隠れた神秘力なんか、いらないじゃないか!と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《ファラデー「場の理論」という近接作用説が起こり、それがマクスウェルの電磁気理論へと発展してゆく》そうですが その《エーテル説》は むしろアリストテレスにさかのぼるのではないのですか?



 ニュートンの側にも 神のチカラがはたらいているのだとか。
 そういったご説明をもふくめて 要する場合の問題は
 ★ もしデカルトの数学的方法の妥当性と危うさを知らなかったら、そしてガリレイのより近代的な感覚を知らなかったら、ニュートンの研究はあらぬ方向へ行ってしまった、と思えませんか?(^^;)。
 ☆ であって デカルト出でざりしかば ニュートン現われざりしなりであるのかどうかです。

 ここでは 渦動説などの仮説の内容のほうではなく その思考方法のほうに力点がおかれているということですね。すなわち:
 ★ 数学的方法の妥当性と危うさ
 ☆ わたしには 荷が重いのですがそれでも言ってみますが ひとつに そういうしかるべき思考方法というのは 特に誰が見出したというようなものでもないように思われます。

 もうひとつに 本質論を通さずにニュートンは 理論を打ち出した。というより《「私は数学的現象論を述べただけだ」》。実証性を問題にしたのではないのですか? つまり 思考方法も違っているように見えるのですが どうですか?
 


 デカルトは どうしてもダメだというような問題ではなく ニュートンにとって重大な先駆けとなったかです。

投稿日時 - 2015-03-11 00:30:46

 #7です。

>☆ ずばり問題点を挙げますが――おっと お久しぶりですが こういうタイミングで(つまり すでに《おまけ》の段階で)おとづれるんですね。

 ・・・いやその、一昨日まで2週間ほどスノーパラダイスの住人になっておりまして、きのう人間界に復帰した次第です(^^;)。

>1.☆ わたしの見解では まづ《記憶行為》というのは すでに整序立てた収納になっていると思うんです。

 賛成です。意図したしないに関わらず、例えばその時々の気分などに従って、そうなるはずです。

>2. もしそこから出発した上でとすると すでに整理整頓されている知識や情報の中から 《目的意識に従って》 或る種の仕方でいろんな場所のいろんなファイルから《雑多に資料とすべき情報が集められる》という意味でしょうか?

 自分は低レベルな研究者でもありますが(研究職ではない(^^;))、何か問題を見つけたら「関係ありそうだ」という「目的意識」に従って最初は、とにかく手当たり次第に情報を集めます。そういう意味では、いろんな場所のいろんなファイルから《雑多に資料とすべき情報が集めます》。

>3.~11.

 いちいちそうだと思います。初動としては目的に従って、ある程度の方向付けをするかも知れないが(それをやらなかったら、効率が悪すぎる)、しかしその後の内実は3.~11.のようだと思えます。だから、手当たり次第に情報収集です。

 特に、

>3. でもね。この目的関連の情報を《雑多にせよ》集めるのは じつは・じつに おのれの意識や意図によってではないと考えるのです。記憶という行為能力が自由に勝手にはたらくのだと思うのです。

については、一家言あります。

 私はプロのプログラマーでもありました(一年前まで)。プロのプログラマーは自分の専門領域であってもけっこう、物知らないのです。重要なのは、リファレンスマニュアルのどこを読めば必要情報が手に入るかを知っている事です。マニュアルの逆引き索引データベースを頭の中に構築できるかどうかが、かなり致命的に重要なんですよ。

 それを行う最も良い方法は、「内容を覚えなくても良いから」、500ページであろうが5000ページであろうが「とにかくリファレンスマニュアルを読みとおす」事です。そうやって、何が可能かのイメージを貯める事でした。そこに「これが出来なきゃおまんまの食い上げよ」というストレスが加わると、逆引きデータベースが俄然活性化し出し、論理手順の脈絡が浮上します。

 そしてやっぱり3.なのですが、これが「気づきの時」を言葉にしにくい最大の理由だと思います。周辺記憶のネットワーク化がなった時には同時に、既に答えは見えているからです。その直前の「浅き夢見し」状態を漠然とながらも言葉にすると、前回の話になる気がします。

 研究者として何かの問題を見つけた時、そりゃ~普通に、あ~でもないこうでもないと試行錯誤しますよ。でも貧弱な経験ですが、正しい事をやり出した途端、「上手く行く!」という「予感」を感じる事があり、ほとんど正解でした。そういう状況では、時を経つのも忘れています。計算が終わっていなくても結果が見えているんですよ。論理と感覚が一致する、幸福な瞬間です。こう言ってよければ、「気づきの時」は「天使」のように舞い降ります。

 よって閃きの基本は、適切な問題意識をどこまで先鋭化させるかだと思います。同じ問題を寝ても醒めても考えていると、「気づきの時」は覚醒時だけに訪れるのではないみたいです。本で読んだのですが、夢の中で問題が象徴的に解決され、目覚めた時には「出来る事がわかっていた」という話です。

 で、目が覚めたあと論文を書き出すと、まるで自動書記霊動がのり移ったかのように(本人は)ほとんど考える事もなく論文が出来てしまったそうです。そんな境地には達した事はないですが、あり得ない話ではないと思います。

 と言う訳で12.です。どっちかというと(感覚的にいうと)、意図してないのです。もちろんその準備段階は、いいだけ意図してやった訳ですが、上手くいけば結果は望外という訳です(^^;)。


>★ デカルト[・・・]は数学的宇宙論を提出します。
 ☆ そんなもので ニュートンの先駆けとなり得たのですか?

 少なくともケプラー,ガリレイ,デカルトの先行する結果がなかったら、いかにニュートンといえど運動方程式は提出できなかったと思えます。逆にケプラー,ガリレイ,デカルトがいて、ニュートンはいなかったら?。

 運動方程式の提出は、もう一世紀遅れていたのだろうか?。17世紀イギリスという絶妙な時代配置に、ニュートンという特異な個性が絶妙なタイミングで出会った結果だと、自分には思えます。

投稿日時 - 2015-03-09 20:47:13

補足

 ねむねこさんが 次の参考文献をおしえてくれましたよ。


 ○ デカルト座標はなぜデカルト的か
 http://www.systemicsblog.com/ja/2011/cartesian_coordinate_system/

 ☆ 解析幾何学を デカルトが創始したわけではないとのこと。

 すでに縦軸と横軸を用いる座標のような表示の仕方は昔からあった。
 ただし この座標を いま用いている意味において捉えるその視点は デカルトが哲学として考えたことにもとづくのだと。それは 神の存在証明の仕方によると。

 でも デカルトのと言わず 神の存在証明は けっきょくそうかも知れないしそうでないかも知れないといった反応を示す以外にない代物としてしか意味が無いとわたしには思われます。これを いま少し問題として行きたいとは考えます。




 ○ 関数記号の歴史
  https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kosu/mathematics/qanda/03-06.html

 ☆ これによると 開発したのは ライプニッツおよびオイラーであるとのこと。




 ○ ヰキぺ:渦動説
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A6%E5%8B%95%E8%AA%AC

 ☆ 近接作用説と遠隔作用説。デカルトとニュートン。対立していたそうぢゃないですか。

 フランスの調査隊が 地球は 赤道あたりが回転楕円体になるというニュートンの説を証明したというぢゃないですか。それに対して:
 ▽ デカルトの説では、宇宙に渦巻く微小物質に押されて地球の形は極方向に伸びた回転楕円体(長球)になる。

 ☆ ただし 次のように揺り戻しの一面もあるそうですが。
 ▽ ニュートン自身は、後に重力というのはエーテルの流れが引き起こしているのかも知れない、とも考察した。
 ▽ また20世紀になりアインシュタインによって一般相対性理論が提唱されたが、これはある意味で近接作用論が復興したような面も備えている。




 あとは 分からないままに言いますが:

 ○ デカルトには 加速度の概念がないそうですね。

 ○ ニュートン力学の系譜では フェルマーやホイヘンスの名も挙がっていますよ。



 
 けっきょく デカルトについては その・神の存在証明を批判すればよい。と考えるようになりました。
 とりあえず このようなご報告になります。

投稿日時 - 2015-03-09 23:41:50

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 パラダイスですって?
 ま いいとして 沙羅ちゃん 凸凹道ですね 今シーズンは。


 ★ と言う訳で12.です。どっちかというと(感覚的にいうと)、意図してないのです。もちろんその準備段階は、いいだけ意図してやった訳ですが、上手くいけば結果は望外という訳です(^^;)。
 ☆  そう来なくっちゃ。

 と言っても これは 誘導尋問ではありません。

 しかも これは 論理的にも実験的にも あまり合理的な証明はしにくいかとも思います。

 感触のようなものとして 《いやあ これは とてもおれが自分で考え出したこととは思えないし言えないなぁ》といった声が 多くあつまればよい。としていいんぢゃないですかねぇ。

 (批判の声が上がった時には ただちに反応し対応します)。





 
 ★ 少なくともケプラー,ガリレイ,デカルトの先行する結果がなかったら、いかにニュートンといえど運動方程式は提出できなかったと思えます。
 ☆ よっしゃ。分かった。

 ただし デカルトは どのくらいの割り合いで貢献しとるんぢゃいの?
 三分の一ですか? それ以上ですか?
 
 その解析幾何とやらで そんなに偉いんですか?







 

投稿日時 - 2015-03-09 21:02:24

ANo.8

ヒラメキの由来するところが、天使だという、いかにもあなたの言いそうなこと。
私だったら、脳に由来すると言いたいところです。

ところで、あなたはパスカルはデカルトを擁護していると言いましたが、思想史の本によるとデカルトはイエズス会の設立したラ・フレーシュの学院で神学を学んだ人間、パスカルはヤンセン教団の本拠ポール・ロワイアル修道院に近く、ヤンセン教団は親・デカルト派だったから若いときデカルトの勧めで「真空実験」をやったくらいで、デカルトに共感していたが、「パンセ」を書くころにはデカルトには許せないところがあると思い、一転してデカルト批判に回ったとあります。
デカルトは初期の頃にはキリスト教にシンパシーを抱いていたが、「方法叙説」や「省察」を書くころには数学的自然科学と機械論的自然観に向かうことになり、キリスト教から離れて行ったので、その点、逆に自然科学者からキリスト教信仰に入って行ったパスカルとは交差して反対方向に向かったので、それがパスカルをしてデカルトを許せないと考えさせたのであり、パスカルはデカルトを擁護なんかしていないと思います。
パスカルは宇宙の無限を脅威に感じましたが、デカルトは宇宙を無限でなく、無際限と考えていたので、また空間を一様なもの、無差別と考えていたので、脅威なんか感じていませんでした。
そしてパスカルはデカルトの考え方を幾何学的精神といい、自分の考えを繊細な精神といい、対置しました。
そんなに違う両者なのに、どうしてパスカルがデカルトを擁護しなければならないのですか?
その根拠を説明してください。

それと私はデカルトのことなら、その4巻からなる著作集でだいたい理解していますが、それを編纂した野田又夫は「デカルトとパスカル」という論文で、「われ思う、ゆえにわれあり」がすでに聖アウグスティヌスが言っていたことだというのに反論して、以下のように言って区別しています。
「デカルトの哲学の原理であった、<われは考える、ゆえにわれはある>という名高い命題について、人々はすでに昔アウグスティヌスが述べたことである、と評したが、この時パスカルはデカルトを弁護して次のように言った。同じ言葉をただ偶然に述べるのと、それについて長く広く、その言葉の中に数々の帰結のみごとな系列を明らかに認めるのとは違う」(幾何学の精神について)と。
野田又夫は、「そしてパスカルはアウグスティヌスに対してデカルトを弁護する半面、デカルトがその自然学で無益な仮説を多く作っている、という意味のみならず、デカルトの思想体系が無益で不確実といって、無益というのは信仰に役立たない、という意味であり、パスカルの考えでは確実性は神の恩寵によってしか与えられないと考えていたからである」といっています。

そして事実、デカルトは「方法叙説」では、「われ思う、ゆえにわれあり」と言いましたが、次に「省察」を書くときに、その原稿を同時代の神学者・哲学者である、ホッブスやガッサンティーなど5人に原稿を回覧し、意見を聴取し、それを「省察」の後に、「反論と答弁」という形で付録として追加していますが、その中で友人のメルセンヌ神父から「ゆえに」などというと推論と間違えられるという忠告を受け、「省察」では、「ゆえに」を削除し、「われ思う、われあり」と訂正して、それを推論ではなく直観であるといっています。

さらにデカルトは「哲学の原理」で「われ思う、ゆえにわれあり」について解説し、私が存在せずしてどうして私が思うことがあろうか、私が存在するのは自明ではないか、と言っています。
つまり「われ思う、ゆえにわれあり」は私の存在を自明な前提に置き、私の思考と私の存在が同じこと、両者が一致するということを言っています。
そのために、デカルトは「ゆえに」という言葉を削除したのです。
果たして、これが聖アウグスティヌスと同じことを言ったと言えるでしょうか?
デカルトのいうそれは「思考と存在が一致する」という真理観を述べたもので、古代のアリストテレスから、真理というのは「思考と存在の一致」ということが言われてきました。
ただし、アリストテレスの経験的な考えでは、「思考と存在が一致する」ためには観察と経験が必要でしたが、デカルトは経験に照らし合わせることなく、先天的かつア・プリオリに一致すると言ったものでした。

ではなぜデカルトは「思考と存在が一致する」、しかも経験を要せず、先天的・ア・プリオリに一致すると言ったのか?
それはデカルトの教育、カトリックの最高学府ラ・フレーシュの学院で、8年間も在籍して神学を学んだことによります。
デカルトはこの世界を神が創造したということを固く信じていました。
そしてその神が人間に「生得観念」としての理性を付与したのであり、だから人間の理性的認識は文句なく・無条件に明証的であり、そしてその神が人間を欺くことはあってはならないので、明晰かつ判明であると考えていました。
そして人間の思考と存在の一致は神がそれを正しいものとして保証しているのだから、正しいのだと考えました。
デカルトは「方法叙説」で、世界の存在を疑い、世界なんて存在しないかもしれない、もしかしたら悪魔がいて、その悪魔が私をして世界が存在しているように思わせているのかもしれないといい、世界の存在を懐疑し、「われ思う」という私の思考・意志・感情・感覚などの内的体験の存在は絶対疑うことはできないと言い、哲学の出発点として私の思考を取り出し、そこから世界をあたかもユークリッド原論のように公準・公理から定理へと必然的に推論して自然・世界というものを数学的体系として構築する、普遍数学を構想しましたが、私の思考が確実だというだけでは、私の存在が確実であるとは言えず、それは単に私の思考が確実だと言っているだけで、私の存在まで確実だというわけには行かず、外的世界が存在すること、私が存在することを言うためには神の存在を必要としました。
そして「省察」の第3章と第5章で神の存在証明をすることとなりました。
第3章が神の結果からする存在証明、いわゆる神の自然神学的証明で、第5章が神の存在論的証明です。
そして神の存在が証明されたならば、その神が自然や人間を創造したのですから、外的世界の存在も、また私の存在も証明されたことになります。

このような複雑な手続きを経て、デカルトはようやく世界と私の存在に到りついたので、パスカルがアウグスティヌスに対して、デカルトを弁護し、「長く広く、その言葉の中に数々の帰結のみごとな系列を明らかに認めるのとは違う」と言ったのも、分かるのではありませんか?

そしてデカルトは前にも言ったように、哲学者である前に、何よりも数学者・自然学者(自然科学者・物理学者)だったので、17世紀の「科学革命」の立役者でもあったのです。
解析幾何学の創始者であったばかりでなく、「慣性の法則」の発見者でもあり、それまでのアリストテレスの「自然学」の世界観、地上の空間が四層に分かれていて、互いに違った法則で運行されていて、地上の空間と天上の空間が別な空間と考えていたのを地上の空間も天上の空間も、同じ一様で無差別な空間と考えることでニュートンの絶対空間の考えを先駆けてそれを地ならしした人なんです。
デカルトがいなかったら、ニュートンの古典力学もなかったし、私たちの考える、天体観・宇宙観もなかったのです。
あなたは「デカルトって、そんなに偉い人だったのかなあ」と言いましたが、偉い人だったのです。

投稿日時 - 2015-03-09 18:14:58

補足

 ○ デカルト;パスカル;アウグスティヌス

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。

 ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。

 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。

 ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。

 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。
 精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。


  ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考
   する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。


 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・

 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。

 或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。

 それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:

 ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。

 ● (パスカル) ~~~~~~~~~~
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・

 なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。

 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。


 デカルトのコギトに独自性はあるのか?
 アウグスティヌスの命題の一部分を成すとも言えそうであるが その部分的な命題を全面に推しだすならば また別の思想となるはずである。


 * 《ゆえに》を取り除くならば 単なる感想であると思われます。ただし 《わたしは有る》という公理のような命題になると思われるので マチガイだと言ってしりぞけるわけには行かないというワケアリの思想になるとも考えられる。・・・

投稿日時 - 2015-03-09 19:55:35

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。



 順に反応してまいります。

 ★ ヒラメキの由来するところが、天使だという、いかにもあなたの言いそうなこと。 / 私だったら、脳に由来すると言いたいところです。
 ☆ (あ) 少しニュアンスがちがいます。日本人がヒラメキという言葉で表わしている心的(感性的?)現象は 西欧人が神学で《天使》という言葉を使うときの啓示なり黙示なりに相当するのではないか。と言っています。

 (い) 脳細胞は ヒラメキが起きる所です。
 いまその《由来》を問い求めています。


 (う)
 ★ パスカルはデカルトを擁護なんかしていないと思います。
 ☆ これについてはすでにまとめてありますから 補足欄に掲げます。《擁護しています》よ。何時ごろかは分かりません。
 
 (え)
 ★ パスカルはデカルトの考え方を幾何学的精神といい、自分の考えを繊細な精神といい、対置しました。
 ☆ パスカルは 両方の精神が必要だと言っていますよ。


 (お)
 デカルトのとは言わずに 神の存在の証明は 無理です。存在しないことの証明も 無理です。
 証明できたときには その人間の持ち得た論理の中に 神がおさまることになります。
 
 ということは 神はただの観念であることになり 取りも直さず 人間がこしらえた想像の産物だということになります。ばかげていると思われませんか?


 (か)
 アウグスティヌスは 信仰が――非思考の庭なる信仰の動態が――思考や感性に先立つという命題ないし前提を置いています。これは 神の存在を論証しようとするのではなく そうではなく 《非経験の場 つまりその概念内容としては 非知》として想定したことを意味します。

 そのようには言っているのではありませんが 信仰を思考や感性よりも先行させていることにおいて 潜在性としてすでに言っているかたちになるはずです。




 (き)
 デカルトの自然科学における貢献については 誰かにたずねてみます。

投稿日時 - 2015-03-09 20:12:02

 コメントです。

 ヒラメキについては以前述べたように、ある目的意識に関わる周辺記憶のネットワークがもとになっている、というのが自分の意見です。周辺記憶は当初雑多だが、目的意識によりそこに座標軸を入れると、雑多なものが志向性のあるネットワークとなり、自ずと気づいた時が閃いた時だと。

 それは目的意識により雑多な経験の調和点に気づく事だが、これは多分に感覚的なものに依存し、日本人はそういう調和点を感じる事に長けているように見える、というのも同様です。


 閑話休題、

  http://okwave.jp/qa/q8930391.html

の#13さんの解説ですが、概ね賛成です。

 デカルトについて言うと、思想史上はわかりませんが、科学史上ではやはり避けて通れない人です。世界は数学的に出来ているという思想(思い込み?)を、ヨーロッパに根づかせた人だからです。

 当時のフランスはヨーロッパの文化中心であり、そこで一般教養にまでなったデカルトの宇宙論は、なお残っていたアリストテレス的自然観を駆逐するくらいの衝撃を持っていました。けっきょく宇宙論は、ヨーロッパ大陸の知識人の一般教養にまでなります(イギリス除く)。

 その中で彼は、世界は数学的被造物である事を、ア・プリオリに肯定します(つまり私念します)。心身二元論も、エリザベートさんは確かに鋭いのですが、今だってやってる事はそうは変わらないのかも知れません。

 心の病と思われていた鬱病の物理的要因を探ってみたら、じつは神経伝達物質の濃度の薄さだった、なんて結果が今では出てます。また公式には神学色は払底されましたが、物理法則は数学的に読み解く事が有効だという信念も、未だに続いています。

 心身二元論も、「われ思う故に我あり」も(←語弊のある訳だと知ってます)、先の私念と無関係ではないように思えます。じっさい宇宙論の中で彼は、「われ思う故に物あり」と解釈できそうな事を言っています。

 しかしデカルトが、ニュートン力学の下地を作ったのは確かです。というかニュートンは、それ以前のあらゆる結果を統合したふしがあります。代表的なところでは、ケプラー,ガリレイ,デカルトです。

 特にケプラーの3法則は、万有引力の法則の形成に決定的な役割を果たしたと思われますが、じつは当時ほとんど誰も知りませんでした。その頃の科学技術情報センターだったメルセンヌさえ知らなかったくらいです。古典にも通暁していたニュートンは、ケプラーの3法則をどこかで掘り当て、プリンピキアの中で完璧な形で応用します。それらがケプラーのものだとは一言も述べずに。現在では明らかな剽窃ですが、当時はどうでも良かった訳です。

 同様に、ガリレイ,デカルトに優先権があると考えられる記述も多く見られます。

 ニュートンは超弩級の計算職人で数学者でもあります。その力量は、ガウスなみという印象を受けます(方向性は違いますが)。すぐれた数学者は、内面化された論理力とでも言うべき数学的感性を持っていると思えます。ニュートンは周辺記憶から力学法則という調和点を感じ、それ以前の未整理の力学的諸結果をネットワーク化したとも言ってみたくなります。


 ちなみにデカルトの数学的宇宙の根底には、機械論的自然観がありました。それはガリレイも同じだったのですが、ガリレイの数学は宇宙を読み解く方法だったのに対し、デカルトのそれは宇宙の原理でした。それで一方は近代的実験思想を提出したのに対し、他方は数学的宇宙論を提出します。

 調和点の感じ方は、ひとそれぞれの感覚なんだなと思います。

投稿日時 - 2015-03-09 14:22:23

お礼

 ★ [・・・]周辺記憶は当初雑多だが、目的意識によりそこに座標軸を入れると、雑多なものが志向性のあるネットワークとなり、自ずと気づいた時が閃いた時だと。
 ☆ ずばり問題点を挙げますが――おっと お久しぶりですが こういうタイミングで(つまり すでに《おまけ》の段階で)おとづれるんですね。ご回答をありがとうございます―― 


 1. ★ 雑多なものが志向性のあるネットワークとなり
 ☆ わたしの見解では まづ《記憶行為》というのは すでに整序立てた収納になっていると思うんです。

 2. もしそこから出発した上でとすると すでに整理整頓されている知識や情報の中から 《目的意識に従って》 或る種の仕方でいろんな場所のいろんなファイルから《雑多に資料とすべき情報が集められる》という意味でしょうか?

 3. でもね。この目的関連の情報を《雑多にせよ》集めるのは じつは・じつに おのれの意識や意図によってではないと考えるのです。記憶という行為能力が自由に勝手にはたらくのだと思うのです。

 4. なぜなら 《目的》とはほとんど関係のない事柄からも情報を資料として集めるはずだからです。

 5. そのあと《志向性のある情報組織または組織的な情報となる》。そしてこれは おそらくまだ自分は その《ネットワーク》が資料の集合として用意されたということを知らないはずです。

 6. それとは別に 資料が欲しいという思いとそれによって 過去の知識の蓄積からの選び出しを自分は求めているのだという意識と自覚がある。そしてそこまでだと考えられるのではないでしょうか。意志によって知解行為をおこなっている範囲は。

 7. あそこの資料が欲しいとか あのときの経験にちなんだ情報からこれこれの資料が欲しいとか そういった具体的な欲求と問い求めをも持って いろいろ考えてもいるでしょうけれど それは 自分が人間の思考の及ぶ限りで《目的》と関連すると捉えた内容に限ります。
 
 8. つまり言いたいことは およそおそらく最終的にこれこれの資料が役に立ったとか まさにずばり求めていた事柄であったとかいう場合の資料は おのれがけっきょく何ら予期も推測をもしていなかった内容であった。という場合こそが ヒラメキという現象だと考えるからです。

 9. つまりは 過去の知識や情報の集積の中から資料が選ばれて来るにしても その選びや これとそれとを結びつけたというやはり選択 そういった重要な役割りを果たしたことについては おのれのあずかり知らないところで起きていた。となるのではあるまいか。

 10. つまり単純に言っても このアイディアは おのれがかくかくしかじかの形で考え編み出したのだという場合は それは ヒラメキとはあまり言わないのです。思索に属します。

 11. おのれが決して考えても思ってもみなかったことを内容とするのが ヒラメキではないのか?

 12. いわく:
 ★ 自ずと気づいた時が閃いた時だと。
 ☆ この《おのづと気づく》というのは 《意図して意識しておのれの思考と予測の範囲内で》という意味ですか どうですか?






 ★ デカルト[・・・]は数学的宇宙論を提出します。
 ☆ そんなもので ニュートンの先駆けとなり得たのですか?

投稿日時 - 2015-03-09 15:07:47

ANo.6

ここを擁護するわけでは無いが。
博士マークの物知りな回答者が、ヤフー知恵袋はここよりも優れているというので、楽しみにして覗いてみたら、毛色が違うだけで、やさぐれたジョークの飛ぶつまらないQAや、哲学でもなんでもないQAが大半を占めていた件について。
そして、学術的な質問には回答が集まって無かった。
また、自分達がカキコしているカテゴリについて、ゴミ溜めなどと自虐的な評価を下している者がいるのもここと同じだった。

優れた場とは、真摯なひたむきさを持った人が、自分で見つけたこころからの問いを発せられるような場を言うのではないかな。数の多さや質の問題ではなく、信頼の問題だと私は思います。

投稿日時 - 2015-03-09 02:24:54

お礼

 お笑いだったようですね。


 もうわたしが見に行く必要もなさそうです。




 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-09 09:20:11

ANo.5

私はずっとこれまでヤフーの知恵袋で回答してきたので、あっちはカント哲学だとか、デカルトだとか、ヘーゲルだとか、ヴィトゲンシュタインだとか、フッサールだとか、そういう質問が多いけど、たぶん学校で課題が出されて、ヤフーで回答をもらって、それを提出しようという学生が多い感じで、それに比べるとこのOKウエイブはあなたが「牢名主」をやっているせいかスピリチュアルのような質問が多くて、デカルトだとかカント哲学の質問というものをほとんど見ません。
ヤフーはメジャーだけど、OKウェイブはマイナーというかローカルっていう感じ。
私があなたの質問に対して、デカルトのことを話したら、デカルトのことをほとんど知らないのか、「デカルトって、そんなに偉い人かなあ」なんて言うのを聞いて、OKウエイブって、レベルが低いのを感じました。

たとえば、ヤフーだと、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が間違いだってことは、たいていの人が知っている。
なぜなら、私が思うからと言って、確実なのは私が思うという思考だけであって、私の存在まで確実だというわけではない。
私は存在しないかもしれないし、私が思うからと言って私が存在することが証明されるわけでもない。
ヤフーの閲覧者も回答者も、みんなそんなことは知っている。
デカルトの心身二元論が、今では通用しないことも、たいていのヤフーの閲覧者なら知っている。
こんなことを言うと怒るかもしれないけど、ヤフーの方が哲学のレベルが高い。

いのま大学の学生はカント哲学と倫理学の課題が多く出されるのか、それに関連した質問が実に多い。
おかげで、私もカント倫理学をずいぶん学びました。

OKウェイブってのは、学生が学校の課題を質問してくるところではないのか、そういう質問がほとんどない。
ヤフーは質問の数からしても、1日に30~40個あり、実にめまぐるしい。
回答に手間取っていると、アッという間に過ぎて行ってしまう。
とにかく質問の数が圧倒的に多い。

OKウエイブは質問する人の顔ぶれが、ほとんど固定している。
だから多様な回答があまり見られない、バライエティーに乏しい。
その点、ヤフーはいろんな人間が入ってくるから、実に面白い。

あなたの質問も、自分はキリスト教徒ではないと言いながら、キリスト教や聖書の質問が多いし、スピリチュアルの質問が多いし、「非経験の場」だとか、「非経験の庭」だとか、ドゥルーズの聞きかじりみたいな、訳の分からないコケオドシを盛んにふりまいて煙に巻き、精神・精神と連呼しているだけで、何を言っているのかさっぱりわからない。

私はもう嫌気がさしてきました。
まあ、トットと消えた方がいいのかもしれませんね。
もう、ヤフーに戻って、そっちでやらせてもらいますよ。

このOKウエイブはIDをいくつも変えられないんだね?
私はヤフーでは、6通りのIDを駆使して回答しています。
しかも、1か月ごとにIDを一新している。
嫌がらせが多いんですよ。
特にベストアンサーを出したりすると、嫌がらせが殺到する。
それを避けるために、IDを絶えず変更しなければならない。
まあ、そういう点では、OKウェイブの方が紳士的で、脅迫だとか、恫喝がないだけいいと思いますが(笑)。

投稿日時 - 2015-03-09 00:44:35

補足

 ★ 「非経験の場」だとか、「非経験の庭」だとか、ドゥルーズの聞きかじりみたいな、訳の分からないコケオドシ 
 ☆ ドゥルーズは 何と言っているんです?

 『アンチ・オイディプス』のバカらしさに ドゥルーズは二度と読むまいと決めたまま いままで来ています。

投稿日時 - 2015-03-09 20:16:58

お礼

  《 Je pense, donc je suis. ( Cogito ergo sum. )》

 は

  アウグスティヌスの
 
  《 Si fallor, sum. ( If I err, I am. )》

 の《焼き直し》だとパスカルが言っています。(パスカルは デカルトを擁護しているんですが)。

 このことに ひと言も触れない解説にお情けを加えただけ。



 あとは 直後の回答で あ_ほなさんがくわしく応答してくれています。




 ★ 訳の分からないコケオドシを盛んにふりまいて煙に巻き、
 ☆ つつも
 ★ 精神・精神と連呼している
 ☆ などということは さすがにない。


 まづ相手の文章をしっかりと把握することから始めなくてはいけませんね。どこに行っても。





 ご回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-09 09:18:45

水を差すことだけが あなたの胸の内に渦巻いている。
      ↑
そうですかぁ!?

じゃあ 誰に聞けば 明確 正確な答えが出るの!?

誰もが知らないし インスピレーションは電波と同じで見えないのだから・・・

でも 見えないと言う事は 精神(心)に 直接語りかけてるって事だけは解かるかもね(#^.^#)

投稿日時 - 2015-03-08 20:53:06

ANo.3

http://blogs.yahoo.co.jp/haruhisa1212/GALLERY/show_image.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-b5-c9%2Fharuhisa1212%2Ffolder%2F1082210%2F78%2F41213778%2Fimg_0%3F1295894768
焼失した絵の写真。
この絵は天使が馴れ馴れし過ぎるということで、もう一枚同じモチーフの別の絵が現存しています。

投稿日時 - 2015-03-08 18:21:20

お礼

 白黒の写真だけ残っているのですね。

 本のどこかを指さす天使とマタイの手がからまっているのは あんがい面白そうだと思ったのですが マタイの脚が何だか納まりつかないようにも感じました。


 絵は 直前のご回答のほうに URLのリンクを張りました。



 ありがとうございます。

投稿日時 - 2015-03-08 19:52:35

ANo.2

カラヴァッジョの絵に、年老いた預言者の手を取って書記を勧める子供の天使の絵があります。(名画ですが、一枚はたしかドレスデンの空襲時に焼失し写真しか残っていません。)
この絵では、ヒラメキ、此処では啓示となりますが、それは天使によってもたらされるものとして、静謐な
タッチと大胆な構図で描かれています。

投稿日時 - 2015-03-08 18:15:42

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 あらためてサイトを見つけました。


 ○ カラヴァッジョ(カラヴァッジオ)作『聖マタイと天使』 ~~~~~
 http://www.salvastyle.info/menu_baroque/view.cgi?file=caravaggio_angelo00&picture=%90%B9%83%7D%83%5E%83C%82%C6%93V%8Eg&person=%83J%83%89%83%94%83@%83b%83W%83%87%81i%83J%83%89%83%94%83@%83b%83W%83I%81j&back=caravaggio_angelo

 (San Matteo e angelo)
 1602年 | 295×195cm | 油彩・画布 |
 サン・ルイジ・ディ・フランチェージ聖堂(ローマ)

 主題は聖マタイが出現した天使にスコラ哲学を教授される場面を描いた≪聖マタイと天使≫で、出現した天使を目撃し驚愕する、写実的に描かれた聖マタイの表情と渦を巻くような天使の衣服の表現が暗中に浮かび上がり、深い精神性と聖性をみせている。
 

 ○ 消失した『聖マタイと天使』第1ヴァージョン
  http://www.salvastyle.com/images/collect/caravaggio_angelo02b.jpg

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。天使≒啓示≒ヒラメキ というように捉えられる一面はあるのでしょうね。

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2015-03-08 19:48:27

世界中の誰に聞いても明確に答えられる人が居ないのに よく平気で質問出来るね(#^.^#)

そんなの考えてたって 誰の回答も正しいし 誰の回答も間違ってる

それならば あなたが思ってる事を あなた自身で探究すれば良いだけ・・・

投稿日時 - 2015-03-08 17:15:26

お礼

 水を差すことだけが あなたの胸の内に渦巻いている。



 ご投稿をありがとう。

投稿日時 - 2015-03-08 17:19:58

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